<2010年・城主のたわごと1月>



2009年9月「岩手南部編」の第二弾は、奥州市水沢から(^^)。

胆沢(西部)から「蝦夷征伐戦」、江刺(東部)から「前九年の役」を。




     
  新年明けまして、おめでとうございますm(__)m。

今年も早速、2009年9月に行った、「岩手南部編」の第2弾に入ろう(^^)。
今回は旅の2日目、水沢駅の東側、「胆沢城」の跡地と、「巣伏の戦い」の古戦場跡を巡り、アテルイゆかりの神社「神明社」のお参りなど、蝦夷征伐戦(700年代末〜800年代初頭)の跡を巡る。

午後には、さらに東の江刺(北上川の東側)へ渡り、「えさし藤原の郷」を舞台に、「前九年の役」(1000年代半ば)をご案内しようかと〜♪



<「胆沢城(鎮守府)跡」と「鎮守府八幡宮」>

前回、「鎮守府」を「国府」と書いちゃった(^_^;)。。今直しておいたでつ、スイマセン。

で、まずは前回、最後に出した……、

「奥州市埋蔵文化財調査センター」から(パノラマ3枚・ほぼ180度)

┌−−−┐
|     |
|     |
|     |
└−−−┘
   □
←こんな感じに、下の小さい敷地が「奥州市埋蔵文化財調査センター」で、上の大きい敷地が、これより行く「胆沢城跡」ね。

つまり、この門構えを南門(正面)として、奥に控えるのが古代の鎮守府「胆沢城」跡という事になる(^^)。今度は胆沢城跡に行ってみよう♪

地図A←中心点が「奥州市埋蔵文化財調査センター」。胆沢城跡の真ん中に道路が入ってるのがわかる。この道路の向こうに行ってみると……、

道路の方を見る(パノラマ4枚・180度以上)

↑と反対側「胆沢城跡」の表示が立ってる(パノラマ4枚・180度以上)

実際の胆沢城跡は、こんな風に広〜い田園風景に包まれている(#^.^#)。

←田んぼの中にあった案内板。
平安時代のこういう建物は、だいたいみんな同じ設計で(^^ゞ、南に大きな道路と門があり、北に向かって正面に真四角な敷地があり、敷地を囲んで東西南北に改めて門、間を繋ぐ塀、敷地の中には、正面に「正殿」、手前左右に「脇殿」という並び。

ここの遺構で「ふむふむ(゚.゚)」と改めて思ったのは、南道路の途中に「厨」(くりや)と呼ばれる地区がある事。
これは現代の「厨房」と同じく、昔の給食センターで、井戸の跡から、ニホンジカやイノシシの骨、まな板、桃・胡桃の種が発掘された。案内板には、平安期の中級役人のお食事の再現写真が見られた♪

当時の雰囲気は、この後、今回は「えさし藤原の郷」に行くので、そこの「政庁」ってのを見て貰えると、だいたいどんな建物だったか……とか推測できると思う!(^o^)

ここは大きな敷地なんだけど、何しろ平安期の建物跡だから、山城みたいに「遺構」(堀跡とか土塁とか)があるワケじゃなく、行けども行けども田んぼなの(^^ゞ。こういう場所で遺構っぽく整備されてるのは、やはり多賀城かな(2008年2月<「多賀城」政庁跡と城前地区>

というわけで、端っこの神社だけ取り上げてみよう。城の北東(鬼門)に祀られたそうだ。

鎮守府八幡宮(パノラマ2枚)

本題に入る前に、以下、神社の「略記」として、当地で頂いた案内を(さらに略して)書いておく。

ご祭神は誉田別尊(応神天皇)・息長帯姫命(神功皇后)・市杵島姫命(大市姫命)、ご神体は霊石(最霊石)。
由緒としては、坂上田村麻呂が801年に宇佐八幡より勧請、神宮寺の安国寺とともに「鎮守府八幡宮」と号した事を発端とする。

801年、嵯峨天皇の宸筆印、850年、慈覚大師の諸祭、941年、藤原秀郷の戦勝祈願(将門討伐)として神剣奉納、1063年の源頼義・義家、1077年の奥州平泉・藤原秀衡の十六羅漢像および社殿の造営と神宝奉納、1189年には源頼朝に「第二殿」と号され、神事諸祭が執行、奥州総奉行の葛西氏・柏山氏の崇敬……と続く(^^ゞ。

1336年の北畠顕家の祈願を受けつつ、南北朝の戦火によって悉く焼失。1348年に北朝・吉良貞家の再建、1390年に天台宗「安国寺」を修験道に改める。

1591年、豊臣秀吉が浅野長政に造営と修築させ、江戸時代は仙台伊達氏の保護を受け、幕府巡見使・藩主などの往来する奥州街道沿いに鎮座する事もあって、1629年、1637年、1662年、1694年、1709年、1717年、1811年、造営修復。

1876年(明治)には明治天皇の東北行幸に際し、岩倉具視、徳大寺實則、木戸孝允の代拝、1922年(大正)に県社。

……と由緒に従って、たくさん書いたけど(^_^A)、福島県の「霊山」に行った時も、南北朝時代の「国府跡」として神社が建てられていたから、これも今ある建築物の建立は、あれと同じ明治以後かもしれないね(^^ゞ。

というわけで、緑の濃く茂る境内に、入ってみよう(^O^)→

本殿までの道には橋の架かった小川も(^^)(パノラマ2枚)

で、そろそろ、本題。歴史の話に移る。
この「胆沢」が歴史に登場する辺りから始めたいが、その前に、ちょっと地理的な説明をしておきたい(^^)。

東北は日本海側に出羽国、太平洋側に陸奥国があるが、あまり多くの地名を出すと混乱するので(^^ゞ、大雑把ながら、古代の東北地名から、わかりやすいポイントのみ出して説明させて貰う。

まずは以下、太平洋側の陸奥国のタテ4点(岩手県と宮城県)を把握したい(^^)。

 ・ 紫波

  ・ 胆沢

 ・ 伊治

  ・ 多賀
  北から南に、紫波(志和)・胆沢(ここまで岩手県)・伊治多賀(ここまで宮城県)。何はともあれ、この4ポイントを把握しておく事がコツだと思う。

←4点が南北の殆ど一直線上にあるが、僅かにジグザグしているようにも思えるので、少し歪ませておいた(^^ゞ。
↓一応、地図も出しとくが、他の地名は眺めるだけでいいからね(笑)
<「多賀城」政庁跡と城前地区>内

中央(大和朝廷)から進出する領土拡大の勢力は、600年代半ばまでは平和的な植民が行われ、600年代半ば以降、既に植民された土壌に、律令的な再編(国郡制)を行なって行った。

700年代半ばからは農耕移民のため、蝦夷からの防衛として柵戸(屯田兵)の設置が始まり、上の図の内、一番南に多賀城が作られ、陸奥の国府とされた。

そして700年代末〜800年代初頭にかけて、軍事力行使の段階に入る。蝦夷征伐軍が送り込まれ、胆沢紫波にも拠点が北上していくのである。(これも詳しくは<「多賀城」政庁跡と城前地区>内を(^^ゞ)

この最終段階、直接対決した蝦夷との抗争は、中央側からは「征伐」とされているが、この「征伐」を「三次」と見なす説、「五次」と数える説などある中、全体を捉えて「38年戦争」とも呼ばれている。
鎮守府八幡宮の拝殿→

綺麗に整備された拝殿だった(^^)(パノラマ2枚)

桓武天皇は、その後も予定されていた蝦夷征伐の中止を発表したので、この大掛かりにして犠牲の多い戦争を行った理由が、「行き掛かり上」だったのか、「元から政策」だったのか、実はよくわからない(爆)。

ただ最初から到達点だったにせよ、戦争してる内にそう定まったにせよ(笑)、最終的には、陸奥と出羽を繋げる要所で、秋田城と連絡・交通を図れる場所にある紫波(志波)の築城をもって、征伐の目標の一部は達成された、と見なしていいように思う(^^ゞ。

   ((北(
胆沢 )上)) 江刺
   ((川(
  今いる場所は、上4点の内の「胆沢」(岩手県南部)である。
←胆沢を拡大すると、間に「北上川」を挟んで、西は「胆沢」でいいが、北上川の東は「江刺」と呼ぶ。

蝦夷征討戦においては、真ん中に北上川を挟んで、胆沢がわに征討軍、江刺がわに蝦夷軍が対峙し、戦闘が行われた後、胆沢に鎮守府が置かれた。それが胆沢城である。

〜|  ┌−┬−┐  |〜
〜|秋|仙||岩|〜
日|田|北||手|太
本|県|三||県|平
海├−┤郡|  |  |洋
〜|山└−+−┴−┤〜
〜|形県  |宮城県|〜
  そして戦後、この「胆沢」と「江刺」が、いわゆる「奥六郡」の内、南端の二郡に当たった。
←「奥六郡」というのは、蝦夷平定後の行政区分で、この通り、秋田県の東部に「仙北三郡」、岩手県の西部に「奥六郡」として統括されていったのである。

奥州藤原氏の「平泉」も「奥六郡」の中で、胆沢のすぐ南に位置するので、何はともあれ「胆沢」を覚えて貰いたい。

神社の前も広々と黄金の稲田(^^)(パノラマ4枚・180度以上)

↑端の道をズーッと行くと……↓(パノラマ2枚)

↑城跡の端まで来た。脇の森林を覗く↓(パノラマ3枚・ほぼ180度)

←城跡の敷地は殆どが農地で、所々から姿を現す干稲が、古代の兵士のように思えた(^^ゞ。

さて、胆沢が歴史に顕れ、鎮守府が置かれる経過に、そろそろ話を移そう。

まずは700年代の後半、坂東や北陸の浮浪人を陸奥雄勝の柵戸(屯田兵)とし(758年)、多賀城より北の伊治城が出来た頃(767年)より後、陸奥や出羽の「蝦夷叛乱」というのがちょくちょく現れる。

774年には、大伴駿河麻呂(鎮守将軍)が征伐を行なって鎮めているが、777年には、出羽国の軍が「志波村の夷」に敗戦してしまう。

こうした中、780年に「伊治公呰麻呂(これはりのあざまろ)の乱」が勃発する。

長い名前だが、伊治呰麻呂 ←このように「」の前後で分ける。
例)伊治呰麻呂 大墓阿弖利爲 胆沢阿奴志己 爾散南阿破蘇
全て蝦夷人の名である。だいたい、前が地名で、後ろが呼び名なんじゃないかな(^^ゞ。

直接的には、この乱が蝦夷征伐の発端になる。次は、この乱から話を起こそう(^^)。



<巣伏村の古戦場跡(胆沢側)「田んぼアート」>

↑胆沢城跡と同じ水沢の町なかにある。
川沿いを南に移動しながら、もう少し北上川に近づいてみよう(^^)。↓

少し高台から遠くの山々が見渡せる(パノラマ3枚)

戦場は中央政府側から見て、北上川の胆沢の側(西)に、北から南に「前陣」「中陣」「後陣」が敷かれた。
その「前陣」と「中陣」の間あたりに「巣伏の戦い跡」の碑と、櫓が組まれた展望台があり、「田んぼアート」という一風変わったモニュメントが見られる(^^ゞ。

地図B←「田んぼアート」や展望台のある公園にポイントを置いてある。地名は「跡呂井」で、蝦夷の勇将として名を残す「阿弖流爲アテルイ)」に由来すると伝わる。

蝦夷は元は狩猟民だったとされるため、アテルイは狩猟民の印象を持たれているそうだが、実際には農耕開拓民だった事が推測されている。
「田んぼアート」というのも、そうしたアテルイへの新たな視点を反映している、地元の取り組みなのではないかと思う(^^)。

4号線から入ってくる道路
目印は↓この櫓

写真で見ると縮小されて小さいが、4号線は高い所を走ってるし、周囲は見渡す限り田園地帯だから、北上川の方を注意深く見ていれば、一瞬だけど目に入って来ると思う(^^ゞ。

川近くまで達すると、細い道が通じている
櫓(展望台)に到着

田んぼアート会場・展望台・「巣伏の戦い跡」の碑(パノラマ5枚・180度以上)

「巣伏の戦い跡」の碑
風変わりな欄干を渡した橋

「巣伏の戦い」や、アテルイの登場はもうちょっと待ってね(^^ゞ。
まずは、「伊治公呰麻呂の乱」から続きを話そう。
概ね「蝦夷征討戦」は、この乱を発端と見るように思える。ちょうど翌年(781年)桓武天皇が即位するので、発端は「光仁天皇在位の最後の年」という事になる。

「伊治公呰麻呂の乱」は陸奥国府で起きた事件である。登場人物は、
守=紀広純/介=大伴真綱/掾=石川浄足(国司は「守・介・掾・目(さかん)」の順に構成される)
牡鹿郡の大領=道嶋大楯/伊治郡の大領=伊治呰麻呂……以上5人。

陸奥「守」の「紀広純」は、同時に「鎮守将軍」と「按察使」を兼ねていたようだ(東北には、この兼任ケースがわりと多い(^^ゞ)。

牡鹿郡の大領・「道嶋大楯」と、伊治郡の大領・「伊治呰麻呂」は、「覚ベツ城」の造営のため、陸奥守・紀広純に連れられて、多賀城を出て、伊治城に向かった。

前後の文脈から想像すると、↑の内、「介=大伴真綱」のみ先に伊治城に行ってて、他は多賀城に居た、って事のように思う。
そしてこれも前後の文脈から、三人が伊治城に行った時、たぶん、「掾」の「石川浄足」のみ、多賀城で留守番してたんじゃないかと(^^ゞ。

この「覚ベツ(上が「敝」、下が「魚」という字)城」築城は、一関あたりに予定されてたようだ(^^ゞ。地図C←だいぶ広域になるけど、今いるのが「水沢」あたりで、「一関」はその南ね。
この780年、陸奥国司が以前から提案していた「覚ベツ城」を造るよう、勅命が下されたからだった。

三人が伊治城に着くや、伊治呰麻呂は俘囚(帰属を誓った蝦夷人)の軍に伊治城を取り囲ませ、道嶋大楯紀広純を殺害すると、伊治城から「介」の「大伴真綱」を救い出し、護衛して多賀城まで送り届けた。

こうして呰麻呂や大伴真綱が多賀城に近付くと、異常事態を知った付近の農民たちは、多賀城内に逃げ込んだが、大伴真綱は城に入ると、「掾」の「石川浄足」を伴って城の後門から脱走し、農民たちはこれを知るや、全員が城を出て散り散りに逃げた。

伊治呰麻呂は、部下を連れて再び多賀城に来たが、誰も居なくなってる城から武器や食糧を奪うと、多賀城に放火して逃げ去った。


これが事件の全容である。
……と言っても、何だかワカランよね(笑)。以後、少し解釈を加えよう(^^)。

エゾ社会の農村や治水をイメージした橋なんだろうね(^^)、独特のデザインがカーブ具合や影にも影響を与えて面白い↓
櫓(展望台)にも登ってみよう。→

伊治呰麻呂がこんな事件を起こした動機らしきが伝わっていて、道嶋大楯が、ことごとに呰麻呂を侮辱していたからだという。
また、紀広純も最初は呰麻呂に不信感を持っていたらしいが、呰麻呂は反発心を隠して、表面は忠実に仕えたので、広純の方は次第に態度を改めたという。

ここで「奥州市埋蔵文化財調査センター」の映画では、大楯が呰麻呂に、「お前ら蝦夷は獣だから!」とか蔑むんだけど(^_^;)、確かに呰麻呂は蝦夷の出身ではあったけど、大楯の侮蔑行為は、中将(正四位)だった「道嶋嶋足」の権威を嵩に着て、という事だろう。紀広純も、道嶋大楯を重んじないわけに行かなかったのかもしれない。

だからむしろ、都あたりでは当たり前の役人文化が、蝦夷では通用しなかった、という点を独特の問題として考えるべきなのかもしれない。

例えば、この事件で、「介」の大伴真綱のみ殺されてないばかりか、伊治城から救出され、多賀城に送り届けられたってトコにミョーな感じを受けなくもないが、この後、征討戦となった折、大伴真綱は征討側に加わっているので、「蝦夷と共謀」とかではなさそうだ(^_^;)。

「大伴真綱」という名は、大伴氏の系譜(馬来田・弟麻呂・家持・伴善男など)でも見掛けないのだが(^_^;)、各々に分かれた大伴氏のどの系譜からも、陸奥とゆかりの深い人物が輩出しているから、蝦夷の言葉とか民情などによく通じた人物なのかもしれない。
呰麻呂なりに、「なぜこんな事件を起こしたか」を、細かいニュアンスまで含めて中央に伝えてくれる人物が、必要に思えたのかもしれないね(^^ゞ。

櫓(展望台)から早速見える「田んぼアート」!(パノラマ3枚)

↑これは南側(^^ゞ。他の各方角も見てみよう!

西側、水沢駅のある方面(パノラマ3枚)

北側、胆沢城のある方面(パノラマ3枚)

そして東側、森の向こうに北上川、その奥が「江刺」だ(パノラマ3枚)

「巣伏村の戦い」の時は、北上川を挟んで、↑この方面に向かって蝦夷軍と戦った、という事になる。

コトの発端は怨恨とは言え、国守が殺害された上、国府が略奪&放火までされたのだ。これは「私怨」レベルで済ませられる話じゃない(^_^;)。。

これをきっかけに、大掛かりな「征討戦」が始まるわけだが、ここから「行き掛かり」という経過が伺える一方、この事件を「征伐」の名目とするからには、伊治呰麻呂を捕まえるか、せめて生死を確認すべきに思えるが、この後、彼の名は全く出て来ない(^_^;)。。

しかし、伊治城で紀広純と道嶋大楯が殺された時、伊治呰麻呂の組織した「蝦夷の俘軍」というのも、後で多賀城に来て、略奪や放火をした時、連れて来た「部下」ってのも、要するに叛乱軍であるのだから、呰麻呂の背後勢力をどうにかしないと……という事だろう。

特に胆沢については、覚ベツ城を作るに当たって、その肥沃な領地を得る目的と同時に、「賊奴の奥区」と呼ばれて、根強く抵抗する蝦夷人のいる地域と目されていたから、ここを叩かぬ事には、いつまでもこうした騒動の根が絶てない、という発想になったのだろう。

こうして、光仁朝に1回、桓武朝に代わってからも3回は征伐軍が組まれるのだが、全てに共通する事は、送り込んだ征討軍の現場への到着・進行が非常に遅く、次々と催促する政府に対し、音信不通となっていく事である。反応の鈍い征討軍に政府が苛立つ遣り取りが多い。

全体として、中央政府の拙速な期待と、現場への無理解に対し、寄せ集めの兵士らを動員させられ、不案内な地で大自然の驚異に晒され、神出鬼没な蝦夷に対処せねばならない現地の困難とは、その温度の差が激しかったと思う。

また、蝦夷社会がそれまでとは少し違う傾向を持っていた。前は個々のムラや族ごとに、叛乱・抵抗していた蝦夷が、横の連合を思わせる社会を形成しつつあった様子も伺える。

こうした現実に気づき、事態に対処しだすようになると、後にいくほど、征討の全体を任される者の指揮権限が、ドンドン大きくなっていく傾向が顕著になる。
最後の征討軍には、坂上田村麻呂が日本初の「征夷大将軍」となるが、この地位にある時の彼の臨時発動権の大きさは、瞬間的には都の朝廷を上回ってるかもしれない(笑)。

←これが「田んぼアート」だよ!(^O^)
櫓から平均的に見えるように、実際は↑こんな風に縦長にデザインされてるんだって(^^ゞ。
上の絵はドラエモンだけど、下の絵は、この時は「鹿踊(ししおどり)」の絵柄が造られていた。

←右下に光が入っちゃったけど、これが「鹿踊」の格好(^^ゞ。
ちょっと干稲に似てたり(笑)。
時期でデザインが変わるみたい

個人的には、アテルイの「田んぼアート」も見たかったな〜♪
又、この「鹿踊」は、NHK大河ドラマ(1993〜94年)「炎立つ」のオープニングにも出て来た(^^)。
「鹿」と書いて「しし」と読むんだよね(^^ゞ。

去年行った、立石寺(山寺、山形県)でも、山での殺生を禁じた慈覚大師に、猪が感謝したら、「先に磐司に感謝しなさい」と諭され、磐司・慈覚の順に踊りを披露した、という話があった。
あれも「猪」なのに、「しし踊り」なんだよね(笑)。

さて、蝦夷征伐に話を戻そう(^^ゞ。
780年には、藤原継縄(南家)・大伴益立紀古佐美大伴真綱安倍家麻呂などを、征討軍として下したが、知らせて来た多賀城への到着予定が異常に遅く、その後の連絡が途絶え、音信不通を問い合わせる政府に、武器や食糧を催促して来るばかりだった。

政府はさらに兵士を坂東から集め、藤原小黒麻呂(北家)を追加投入したが、これも現地から「夏には草が多く、冬には衣服が少ない」と言って来るばかり。
政府は「未だに城に兵糧も貯えてない」と怒り、「敵地進入が無理なら、多賀城・玉造城に籠もって戦術を練ること」なんか勧めたが、敵地に進入した百済王俊哲は敗退。

多賀城への到着が遅いとか、兵糧も貯えてないとか叱るけど……どう言うのか、その……(^^;;)。。。
確か多賀城は伊治呰麻呂に焼かれちゃったし、兵糧もその時に略奪されて、空っぽになってるんじゃなかったっけ?

結局、戦況は「敵4000人の内、70余人の首級」をあげ得たのみで、帰還を願い出る。
大伴益立は位階を剥奪され、藤原小黒麻呂(北家)は昇進した。

翌781年に桓武天皇が即位。財政難を押して、征伐は計画続行され、各地から兵糧を集めて、789年、紀古佐美・多治比浜成紀真人佐伯葛城入間広成が、征討軍として下った。

この頃には財政難から、古代の軍団制度は早くも崩壊し、豪族らの子弟、鹿島の神饌、東国の浮浪人などを掻き集めて、軍団が構成されてたと思う。
こうした雑多な寄せ集めでは、統率権の強化無しには立ち行かない、と結論されたのだろうか、征東大使に任命された紀古佐美は、部下への軍事裁判権を与えられている。

今度の軍は、多賀城より北の仙台あたりも超え、衣川(岩手県平泉)に到着(^_^A)。
ところが、ここから又しても遅々モードとなり、やはり前と同じく、やがて音信不通となった。。。
政府は「時を逸してる内に夏になって、暑さに悩まされるよ!」と遅滞の理由を問い合わせている。

紀古佐美は敵地への進行を決意し、胆沢方面から、江刺に向かって、北上川に陣形を整えた。
こうして始まったのが「巣伏村の戦い」である。



<巣伏古戦場「中陣・後陣」跡地>

↑と言っても、そういう史跡があるわけでもなく、だいたいこの辺りではなかったか、と思える場所に行ってみただけね(^^ゞ。

まずは「中陣」のあった辺り。地図D(パノラマ5枚・180度以上)

ちょうど道路を隔てて「売地」と看板立ってる土地があって、「買って、『中陣の跡』って店でもやろうか」なんて冗談を言ったり(笑)。

さてさて(^^ゞ、輜重隊あわせて4万からなる大軍が来たのを見てだろう、蝦夷軍は広い平野部での決戦を避け、北上川の東、江刺がわに陣取った。

この戦いで蝦夷軍を率いたのが、阿弖流爲アテルイ)である。
が、伊治呰麻呂とは、どういう関係があるのかは全くわからない(笑)。
朝廷軍が大軍でやって来たので、長く叛乱してた胆沢の蝦夷の族長として、自分らを討伐しに来たと判った、という事だろう、迎え撃つ態勢を取ったわけだ(^^ゞ。

@ 前軍→|〜〜〜|
     |〜北〜| 江
中軍→|〜上〜| 刺
後軍→|〜川〜|
A 前軍→|〜〜〜|(四丑
     |〜北〜| ↑    土花の陣
     |〜上〜|中軍┐
     |〜川〜|   |×蝦夷300
     |〜〜〜|後軍┘
  @朝廷軍は北上川の西沿いを、北から南に、前軍・中軍・後軍を形成して、それぞれ陣を敷き、渡河を開始した。

Aアテルイが300人ほどの兵で迎え撃ったが、敵を圧倒する大軍の朝廷軍は川を渡りきると、すぐにこの蝦夷軍を退け、14村で800件余りの住居を焼き払いながら、さっきの巣伏村で、もうちょっと北の「四丑」という地点まで進んだ。

地図E←拡大すると「四丑橋」が出て来る。今回は行く時間が無かったが、川を渡り、江刺がわに入ってスグ、やはり巣伏の戦い跡の碑がここにもあるようだ。「土花の陣」というのに相当すると思う。

「後陣」と思わしき辺りにも行ってみた。地図F(パノラマ4枚・180度以上)

「後陣」があったこの辺り、今はゴルフ場になっている(爆)。
川はこの森のもっと奥にあるから、ここから水流は全く見えない(^^ゞ。

←ただグリーン上の、菊池規の歌碑「北上夜曲」の詩から、昔は河があった事が伺える。

朝廷軍で北上川を江刺方面に渡って、蝦夷軍を蹴散らしたのは、「中軍」と、この「後軍」だったのだが、「四丑」あたりの「前軍」は渡河が遅れていた。

B 前軍→|〜×〜|←蝦夷・本隊800
     |〜〜〜|   ↑
     |〜北〜|中軍・後軍 羽黒山
     |〜上〜|           
     |〜川〜■←蝦夷・別働隊−┘
C 前軍→|〜×〜|←蝦夷・本隊800
     |〜〜〜|   
     |〜北←中軍・後軍
     |〜上〜|   
     |〜川〜|蝦夷・別働隊
  B蝦夷軍は本隊と思わしき部隊800程を当てて、この遅れた「前軍」に矢を射掛けるなど集中攻撃を加え、岸に上げさせまいと粘った。

一方、蝦夷軍300を蹴散らした中軍と後軍は、前軍と合流しようと、南を背に進んでいたと思われる。
その背中から、アテルイのさらに繰り出した別働隊に撤退路を塞がれ、まんまと挟み込まれてしまうのである。

C中軍と後軍の兵たちは、逃げ道が川にしかなかったため、大勢が川に飛び込み、1357人は丸裸で泳ぎ帰れたが、1036人もが溺死した。
他に討死25人(隊長級5人)、矢傷245人、戦死者の合計は2700人にも上った。

朝廷軍の成果は蝦夷の首級を89首を上げたのみ、要するに大惨敗である。
蝦夷の住居など焼きはしたようだが、あまりにも酷い結果だったので、せめて住居を焼いた軒数を誇張して報告したのではないか、という見方さえある。

が、蝦夷軍のアテルイが、朝廷軍をおびき寄せるべく、むしろ狭い地形を利用した、というようにも思えるので、もしかしたら朝廷軍は、自らの焼いた炎にも行く手を阻まれ次々に川に飛び込んだ、って事もあるかもしれない。。

「巣伏の戦い跡」の碑に描かれる、渡河軍と蝦夷(騎馬)軍の合戦

アテルイの巧みな戦術と、蝦夷の勇猛な武技は大いに賞賛すべきだが、敗因は、政府軍の著しい士気低下にあると思う。

前・中・後の三陣に分けて、渡河・敵地突入についての軍議では、どの部隊も先陣を嫌がり、やむなく「同時進行」と妥協策に落ち着いたあげく、約束の当日にになっても、どの陣も動こうとしなかった。

長時間の行軍、長時間の滞陣、敵に様子をすっかり悟られて当然だったが、すでに戦う前から戦意が喪失していたようにも思われる。

現地の軍からの報告は、子波(紫波)・和我(和賀)を平定する他、余党の伏する奥地に踏み込む危険の排除方法がないと、ここで胆沢より、さらに北方征服への言及が出る。

問題は、兵糧運搬の困難と軍兵の疲弊にあった。
紀古佐美は、政府への連絡に時間を費やせば、兵糧が消耗するばかりとして、征討軍を独断で解散すると言ったが、桓武天皇は激怒し、政府からは強く責める言葉ばかり出た。

窮した古佐美は、「敵は全く居なくなった」などと偽って帰参を望んだが、政府から「何が慶快だ。恥を知れ!」と応戦されるばかり。

もはや古佐美は、これらを全て無視して都に戻ったのである。



<神明社(伝アテルイ居住跡)>

「巣伏村の戦い」の大惨敗の後、討伐軍が2回送り込まれ、最終的に討伐は成功している。

が、失敗した、この「巣伏村の戦い」の記録のみ残り、その後の成功した討伐戦の記録は無くなってしまったので、概略と結果以外は殆ど伝わってない(^_^;)。。
こうした記録の逸亡も、敵である蝦夷の勇将・アテルイの名を、さらに後世に輝かしく残す結果となっている(笑)。

ただ、アテルイ自身の記録は皆無と言って良く、「現地に行ったら、何かに出会えないかしら(;_;)」と期待して来た結果、「奥州市埋蔵文化財調査センター」で、伝承地の地図案内に出会えた。(o^-^)o<来て良かった〜♪

地図G←道が入り組んでるので、詳しくは拡大して貰えれば(^^ゞ。その上で、比較的広い道路側から来る方がわかりやすいと思うが、神社の正面はたぶんココ↓

五叉路ぐらいになってる路地の一つ(パノラマ4枚・180度以上)

←路地をズンズン進むと、正面に鳥居と拝殿が立ち塞がる。

神社名は「神明社」だが、ここは「跡呂井(アトロイ)」という地名で、境内には「古代東北の英雄・アテルイ王・千二百年祭記念碑」が、平成元年(1989年)の日付で建っている。

言い伝えでは、「アテルイの住居があった地」との事で、アテルイ伝説はこれより、だいぶ南にもあるから、「巣伏の戦い」では、平野部の本拠地・胆沢に、敢えて敵軍を迎え入れた上で決戦に及んだ、という事になろう。

大敗した政府軍の指導者たちの刑罰は、意外と軽く済んだ。
紀古佐美は咎め無し、池田真板(中陣)は失職、猿島墨縄(前陣)は平民に落とされるのみで、斬刑を免れた。

実は光仁天皇の母(桓武天皇の祖母)は紀氏の出身で、紀古佐美は外戚勢力とも言えた。
系脈の関連は知らないが、当初、伊治公呰麻呂に殺された、陸奥国守・紀広純も、もしかすると類縁だったのだろうか……。

前陣を指揮した猿島墨縄は、出陣せず配下に兵を預けて、出撃の遅れを生んだ罪は大きかったが、彼は坂東出身で、今後も坂東兵を頼る事への配慮もあったかもしれない。

次の征討には、坂上田村麻呂の名が初登場する。征討の準備は、翌790年には開始されている。
大伴弟麻呂を大使に、百済王俊哲・多治比浜成・坂上田村麻呂・巨勢野足が副使となった。
多治比氏、坂上氏も又、ともに桓武天皇の後宮に身内の女を入れて、皇子を得た氏族である。

この時は、兵士への指揮権のみならず、按察使・国府・鎮守府を征東大使の下に置くなど、さらに統率権の一本化が図られている。
兵動員や兵糧確保の遅れが、現地での動きの遅さに繋がり、敵のみ利する欠点を補うためではなかろうか。
敵の動きを知ってから、国境を越えた伝達によって許可を求めても、何も出来ない。

兵糧確保は東国を超えた広い範囲にも供給させ、兵力も4万から10万と、2.5倍に達した。

神社に入ると、左にも通路が続き……

車道に面して鳥居と狛犬、「村社・神明社」の石碑

政府の次なる討伐準備の間、大勝した蝦夷軍のアテルイは、恐らく本拠地に戻って、前と同様に住んでいただろうし、南の伊治の蝦夷までが同調していたようだ(笑)。

と言うのも、792年、志波村の首長・胆沢阿奴志己(いさわのきみあぬしこ)が、「常日頃、国家に帰属したいと思っているが、伊治村の蝦夷に妨げられて遂げられない。伊治を征討して、陸路を安全にして欲しい」と陸奥の国司に願い出ている。

私は、他の首長のこの帰属劇は、他の蝦夷人の名も出て来る点でも、この地域の地勢的な歴史背景を考える上でも重要と思うのだが、「奥州市埋蔵文化財調査センター」の映画で扱っておらず、ちょっと残念に思っている。。

国司は阿奴志己に物資を与えたが、政府は「蝦夷は信用できない」とこれを戒める。
かと思えば、その後、爾散南阿破蘇(にさんなんのきみあわそ)と宇漢米隠賀(うかんめのきみおんが)に入京を許し、酒食でもてなしたばかりか、爵位まで与えている。

実はこの年、遷都したばかりの長岡京を放棄し、次の遷都(平安京)を計画する空気が出て来ている。
つまり蝦夷も政府も、内部にブレが生じはじめている、とも見れるわけだが(^_^;)、いずれにせよ「交戦派」より、「和平派」の考えが通っていったと考えられる。

794年、健児制が正式に敷かれた。征討軍は、多賀城→胆沢とやって来て、今度は蝦夷の首級457、捕虜150、馬85を奪うなど、前よりは少し改善が見られるようだ。そして戦勝報告は、二度目の遷都先、平安京にもたらされたようだ。

←道路に面した鳥居からは社の側面が見え、正面は路地から、という特徴的な作り

次の征討に、やっと坂上田村麻呂が、征討の筆頭格として起用される。田村麻呂が主張したのだろう、この征討戦は持久戦に持ち込まれた。
つまり築城である。胆沢と紫波(志波)に拠点を置く事が決まり、ようやく胆沢城の築城となるのである。

796年、田村麻呂は、陸奥国守(行政権)・鎮守府将軍(軍事権)・按察使(陸奥と出羽の監察)を兼任する。
坂東や北陸から集めた屯田兵を伊治城に移植して養蚕をさせ、帰伏した蝦夷は内地に移して連絡を遮断する一方、各拠点の中間には駅を置いて味方の連絡は密にし、蝦夷の団結を切り崩していった。

そして翌797年、田村麻呂は、日本初の「征夷大将軍」に任命される。
これで要職四官の独占という、史上に例を見ない巨大な地域統率権、および軍事発動権を得たのである。

兵の士気は上がり、田村麻呂を慕う者、従う者も多く、帰伏する蝦夷は増えて、その食糧確保のため、蝦夷の食糧専用の田を与えるよう、陸奥国司からは上申が出ている。

801年、4万の兵で奥地に踏み込み、ついに802年、胆沢城が完成すると、アテルイ(大墓阿弖利爲)は、腹心の盤具母礼と500人の同族を連れて降参し、田村麻呂に連れられて、平安京に入った。

敵の首長が降参したぐらいだから、「巣伏の戦い」と同じような、「ナントカの戦い」みたいな記録が元はあったのかもしれないが(^^ゞ、何らかの攻撃が功を奏したと言うより、やはり胆沢築城の効果が大きかったと見られている。

寛容の方針で蝦夷の帰伏に成功してきた田村麻呂は、「アテルイにも、さらに奥地の蝦夷に帰属を呼び掛けて貰おう」と、アテルイらの助命に奔走し、アテルイの始末を巡って、一ヶ月も論議されたが、政府は「野生獣心、反覆定まりなし」「奥地に返せば、虎を養うようなもの」と回答。
こうしてアテルイは、河内国の杜山で処刑された(;_;)。。

扉が閉まっていたので、格子戸の隙間から拝ませて頂いた(;∧;)→

アテルイに関しては、「巣伏の戦い」の時に別働隊を繰り出した、羽黒山神社(奥州市江刺区田原・地図H)に本陣があった、という説もあるらしい。

アテルイの事と思われる「阿弖利爲」の前につく「大墓公」は、「だいぼのきみ」と振り仮名され、他の蝦夷名として記録された字面から推測するに、「大墓」までが地名ではないかと思われるが、これも江刺の側、「田茂山(水沢区羽田・地図I←だいたいこの辺かな(^^ゞ)」ではないか、と考えられるそうだ。
「大墓="タモ"(の当て字)」という事になるだろうか。

この後、アテルイらが陣を張った、この江刺方面に行ってみるものの、羽黒山神社や田茂山といった場所より、もっと北側に行くので、今回のアテルイ関係はこれまで!
ただ翌々回あたり、もう1回、アテルイ&坂上田村麻呂伝説を出す予定だけどね(^^ゞ。

櫓(展望台)から見た、北上川の奥(江刺)側の山々

蝦夷と言うと、一般的にはただ北へ北へ追いやられ、居なくなったかのような誤解がある。
確かに北方蝦夷が、国家への帰属を望んだ理由は、「これ以上、北に追いやられると困る」という逼迫した事情からであって、国家に心から従属したかったわけでもなかろう(^_^;)。
だから圧迫に耐えかねて、さらに北方へ移転していった者も多かったと思う。

が、アテルイらが示した武力が中央政府にとって、実に目覚しかったのも事実である。

元より財政が逼迫した上に、二度にわたる遷都・造営と蝦夷征伐によって、古代の軍団制度は見直しを迫られ、郡司など有力氏族の子弟を中心に徴兵された、いわゆる「健児制」が、平安朝の主流な軍事組織へと変わった。

そうした軍事・警察の補完に、朝廷に帰属した「俘囚」が用いられた。
特に彼らの「射弓」と「馬術」における能力の高さは、「俘囚一人は軍団兵士の千人分に相当する」という、高い評価を得ていた。

平安期は後の「武士」の原型を作り上げる期間となったが、それは、対外戦争を想定した重装備の歩兵組織から、どちらかと言えば内戦および警察力として、身軽で機動的な軽装備の騎馬組織へ……すなわち「鉄」(西国)から「革」(東国)へと変貌する期間でもあった。

ゲリラ戦法によって、古代の国家軍団を翻弄しぬいた蝦夷の武技は、日本刀を編み出し、武芸と言えば「弓と馬」という、武士の古典的なスタイルを形成する上で、欠かせぬ要素を(特に東国に)植えつけた。
彼らこそが「武士の原型」とさえ言えるのである。



<江刺「豊田館跡」>

この日はお昼も時間とっくに過ぎて、お腹ペコペコだった!(>_<)
ちょっと町なかに近付いて、ラーメン屋さんを見付けた(^O^)。

←亭主注文、ラーメン&炒飯定食
↑こたつ注文、辛ねぎ味噌麺(^^)

さてさて、お腹いっぱいにはなったが、午後もだいぶ廻ってしまった(^_^;)。
これより頑張って、江刺にも出てみる予定!! 行け行けドンドン〜>( ^O^)ノ

目的地は「えさし藤原の郷」なのだが、道の途中、「豊田館」と伝わる一郭に出会った。↓

何やら造作中だけど(^^ゞ、「豊田館」跡地(パノラマ2枚)

「豊田館」とは、奥州藤原氏の初代・藤原清衡の居館と伝えられる場所だ。地図J←この辺だったかと(^^ゞ。
どうも書籍・ネットなどで見る限り、ここからチラと見える、木陰の小さいお堂↑があるだけの場所のようだ(^^ゞ。

さて、「えさし藤原の郷」はテーマパークとして、「豊田館」より、さらに少し北に出来ている。
初代・清衡は江刺に領地を得ており、今見た「豊田館」の跡地と伝わる場所もあるので、それにちなんで作られた、という事だろうと思う。

エンエン山奥に分け入ったり
おおっ(゚.゚)と拓けた農村に出たり

フツーこれぐらい山に分け入ると、そこに平たい農地がある、とは予想しにくいんだが、標高の高い所にも広々と田園風景が展開されてるのが、今回の旅行先の特徴という感じがしたな〜(^^ゞ。

平泉には子供の頃にも来た事があるが、その頃は、「東北の仏教王国」「謎の黄金文化」といった雰囲気に包まれ、古代史ミステリーと信仰の世界が一緒になってて、正直、「何だかよくわからない場所」だった覚えがある(爆)。

原因として言えるのは、それまで、「奥州藤原氏と言えば平泉、平泉と言えば初代清衡」から話が始められたからではないか、と思う。

が、「えさし藤原の郷」では、初代・清衡より一代前、つまり清衡の父・藤原経清の関わる「前九年の役」から歴史を紐解く試みがされていて、そこまで遡ると「そういう事なんだ(^^ゞ」と、少し納得いく感じがするのよ(笑)。

今回は↓から始まる「えさし藤原の郷」の豪勢なセットを背景に、藤原経清が登場する「前九年の役」までお届けしたい(^^)♪



<えさし藤原の郷・@「政庁」>

↑一言でいえば、テーマパークだと思う。映画やテレビドラマの撮影によく使われる。

場所は地図K
←いきなり見取り図から行くネ(^^ゞ。

下が入口付近。左から「えさし郷土文化館」、中央に駐車場(デカイよ:笑)、右がお休み処(レストラン&お土産屋さん)

そして駐車場の上の屋根が横にズラーッと続いてる所が、正面ゲート。ここから入場(^^)。

何しろデカすぎて(笑)、駐車場あたりから、どこがどうなってるかわからず、「えさし郷土文化館」と「えさし藤原の郷」のどっちを見るべきか迷い、郷土文化館に行って聞いたりして(笑)、「藤原の郷」に向かおうとしたら、ハンカチを忘れちゃって、受付の方がわざわざ追い掛けて来て下さった!(ありがとうございました!m(__)m)

で、園内に入ると、まず「政庁」を巡るコースが中央にあり、その奥には「伽羅御所」が控えている。
左の方は、少し坂を上がるようになってて、はじめに「経清館(旧豊田館)」、奥に「清衡館(豊田館)」。
そこから園内の奥の、緑地の多い一帯には、各「」と「蓮池」が設置されている。

他にも各建物があるが、だいたい以上、5コーナーぐらいで構成されてる、と言っていいかと(^^ゞ。

というわけで、駐車場より上部分、正面ゲートを入ってみよう(^^)/。

まず出会うのが「政庁」の「北門(パノラマ3枚・ほぼ180度)

「政庁」というから平安京かと思うけど、建物の並びは、国府「多賀城」あたりに近いかな?(^^ゞ
NHK大河「炎立つ」では、確か多賀城を舞台とするシーンに、ここを使ってたと思う。

ちょっと細か目の見取り図も出そう↓

入場ゲートを入って、今まさに「現在地」で、「政庁北門」を目前にしている。左を見ると、手前に「望楼櫓」、奥に「舞楽殿」(左)と「延命千年杉」(右)→

前を向き直し、これより「政庁」の「北側」と「南側」を廻って、「南門」から出るまでのコースを辿る。 「政庁北門」を潜ると……↓

政庁北側)」(パノラマ3枚)

北に門があり、入ると左右に倉が置かれるスタイルで、多賀城の時代区分で言うと、第4期(869年〜)の建造配置に近い。
御用とお急ぎでない方は、多賀城についてはコチラを(^^ゞ→(2008年2月<「多賀城」政庁跡と城前地区>内

当時はどこもそうだろうが、多賀城も全体的に南を正門とし、さらに南に向けて大道路が施された。
北は政庁の正殿背後に倉を置いた程度だったから、この方面から見るこの配置は、どちらかと言うと「背」に当たると思う。

ここでの「順路」は、正面の建物の前を、←こう抜ける通路がある(^^ゞ。行ってみよう。

逆行だが(笑)、ここから↓出て来られる(パノラマ4枚・180度以上)

建物の外側も見せてくれる順路って事だね(^^)(パノラマ3枚・ほぼ180度)

ここは、数多くの映画やテレビドラマの撮影が行なわれているので、こうした建物の外側を宮仕えの人々が歩くシーンなどに、色んな角度を提供しているんだね(^^)。

ここの駐車場がデカかったのも、きっと機材を運ぶトラックや、多くの出演者を運ぶバスが停まるからなんだろうね〜♪

↑で、この建物を←こう横切れば、目の前が南向きの正殿となってるんだが、せっかくだから、左端にちょっと見えてる「南門」から入って見てみよう(^O^)。

外に廻って、「南門」から入ると、こんな感じ!→

門を入って見渡すと↓

ズ〜ン! 平安朝の再現だぁぁ!(パノラマ3枚・ほぼ180度)

う〜ん(^^)、平安の昔にタイムスリップしながら、今回行く旅行は、殆どが奥州藤原氏に関する史跡なので、今度は少し時代を先に行って、 1000年代の中頃、八幡太郎義家や奥州藤原四代の少し前から語ってみたい。

この胆沢・江刺の地域が、再び歴史に顕れるのは、「前九年・後三年の役」の時である。
〜|  ┌−┬−┐  |〜
〜|秋|仙||岩|〜
日|田|北||手|太
本|県|三||県|平
海├−┤郡|  |  |洋
〜|山└−+−┴−┤〜
〜|形県  |宮城県|〜
  ←その時は既に、先に話した通り、この地域は「奥六郡」として編成されている。

「奥六郡」は、この岩手県のタテ半分を丸ごと飲み込んだ広大な地域である。
それを全て統括していた俘囚(帰属した蝦夷)の首長として「安倍氏」が出て来る。奥州藤原氏との関係は……、

安倍頼時┬貞任
      └女
        ├@清衡−A基衡−B秀衡−C泰衡(奥州藤原氏)
      藤原経清

┌−−−−−┐
|岩┌−−┐|
|手|紫波||
├−+−−┴┤
|和|稗 貫 |
|賀└−−−┤
├−−┬−−┤
|胆沢|江刺|
└−−┴−−┘
  ↑こんな感じね(^^ゞ。経清の藤原氏は、藤原秀郷の嫡流五代目に当たる。藤原氏系図(北家・魚名流のトコを(^^ゞ)

←あと、「奥六郡」内部の仕切りはこんな感じ。坂上田村麻呂の征伐によって、「紫波」までは城がスグに作られ、遅れて、900年代後半に「岩手」も加わった。
実はこの中でも「岩手」はすんごく広大なんだけど、この北方地域は、「厨川の戦い」ぐらいしか出て来ないかな(^^ゞ。話の殆どは、六郡の内、南部の二郡「胆沢」「江刺」あたりで展開される。

<鬼切部の戦い>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「前九年の役」は、1051年の「鬼切部(おにきりべ)の戦い」を発端と見る。
この戦いは、奥六郡よりグッと南の「鬼切部」で起こっている点が、この後の戦いと比べて特徴的だと思う。

実は安倍氏は、奥六郡より南の「磐井郡」にも進出して、複数の「柵」を築いていた。
どうも、このような南下(領域拡大)が争いの元であった(他に、安倍氏が貢を拒否した事も原因とされてる)らしい。
「政庁(南側)」の内部にも入れる。う〜ん貴族の気分♪

安倍氏が侵入し始めていた磐井郡より、さらに南に国府・多賀城があり、当時の陸奥守・藤原登任は、秋田城介・平重成(繁成)とともに、安倍氏の勢いを止めるべく、鬼切部で安倍氏と戦ったという。

今話してる「鬼切部」あたりって、鬼首温泉があって、この辺り旅行しようと宿を探すと必ず出て来るので、実は「そのうち泊まってみたいな〜(^。^)」といつも思うのである(爆)。

ところで、この鬼切部の戦いだが……う〜ん。気のせいかもしれないが、この背景にも、坂東平氏の陰が見え隠れする。
「気のせい」でないのは、藤原登任と平重成が常陸平氏(繁盛流)と関係が深い、という点だ。
「気のせい」の部分は、
少し違う色にしとく(笑)。

         藤原登任
┌国香┬貞盛  ├長宗
|   └繁盛┬女
|        └維茂−重成

├良将−将門
└良文−忠頼┬常将−(以後、秩父氏・畠山氏など)
         └忠常−(以後、上総氏・千葉氏など)


次に安倍氏だけど、経清の舅・安倍頼良は、「祖父は東夷の酋長」となってて、つまりは俘囚の首長という事だろうが、この「祖父」というのが……、

安倍忠頼−忠良−頼良(後に「頼時」と改名)

という事になってるようだ。ただ「忠頼」については、存在を疑う向きもあるそうだけど(笑)。

で、たぶん「気のせい」だろうけど(笑)、安倍頼良の祖父「忠頼」と、「平忠常の乱(1028〜)」の忠常の父「
忠頼」は、世代的には、まぁ同じぐらいかな〜とは思う(^^ゞ。前に話した事があるけど、繁盛と仲が悪かった人だ(笑)。

回廊を巡ると、南門が↓見えて来る。こちらは正殿→(パノラマ3枚・ほぼ180度)

で、国府にとって脅威だったのは、安倍頼良が、多賀城より南の亘理郡藤原経清や、同じく伊具郡平永衡を、娘婿としていた点かもしれない。
安倍氏がこれ以上、南下を続ければ、多賀城は北から安倍氏に、南からは安倍氏の婿2人に、ゴッソリと挟み込まれてしまうわけだな(^_^;)。。

この「藤原経清」が、NHK大河ドラマ「炎立つ」、三部構成のうちの第1部「北の埋み火」の主人公で、渡辺謙が演じていたんだけど、歴史的には、奥州藤原氏の初代・清衡の実父とだけ思ってて貰えればよい(^^ゞ。
この段階においては、主体はあくまでも「安倍氏」にあるからだ。

で、戦の結果は、数千で安倍氏に攻撃した国司軍がボロ負け。死者も夥しい数に登り、国府の権威は丸潰れとなった(^_^;)。


正殿の正面には立派な椅子が(パノラマ4枚・180度以上)

↑蝋人形がやたらとリアル(^_^;)。。今話してる内容とダブらせると、多賀城で、「う〜む、負けてしまった、安倍めぇ〜!」と言ってるトコかな(笑)。

以後、藤原登任平重成はもう出て来ないけど、安倍頼良藤原経清平永衡の「舅婿三人組」と、背後にいる常陸平氏繁盛流)の存在は今後も出て来る。

「政庁」コーナーは、ここまで(^^)。これより、「経清館(旧豊田館)」のコーナーに向かう。



<えさし藤原の郷・A「見返り坂」周辺>

←これより先のコース。

右下がこれまで居た「政庁」。
「南門」から出て、左の「見返り坂」を上って行くまでの途中、山のほうには「義経持仏堂」が見える。これは「政庁」の敷地からもよく見えるけどね(^^ゞ。

この界隈は、義経ワールドであるらしく、「義経館」や「弁慶館」では、人形の展示などやってるようだ(^^ゞ。

「政庁」から見える「義経持仏堂」↓
「政庁」から出て、「見返り坂」に向かう大通りからも見上げる。こたつ城主がヨチヨチ近付いている(笑)→

「見返り坂」から、まさに「見返る」平安の街並(パノラマ3枚・ほぼ180度)

雅な平安の街並と、青々とした東北の山並を背景に、「前九年の役」の続きを行こう(笑)。

<阿久利川の戦い>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
鬼切部の戦いの後、陸奥の国守には、源頼義が代わって就任した。

清和天皇−貞純親王−(源)経基−満仲┬頼光(摂津)
                         ├頼親(大和)
                         └頼信(河内)−頼義−(八幡太郎)義家
┌−−−−−−−−−−−−−−−−−-−−−−−−−−−−−−−−−−┘
└義親−為義−義朝−頼朝 (八幡太郎義家より先は、詳しくは源氏系図を(^^ゞ)

頼義の父・頼信は、1028年の「平忠常の乱」を平定した功により甲斐守に任じられ、源氏として見ても、やはりこの「平忠常の乱」を契機に、坂東武士の多くを従えた。

頼義が陸奥に着任したのは、1052年で、同年に藤原道長の長女で、一条天皇の中宮となった彰子の平癒祈願するため、大赦が出された。
……あ、そうそう、つまり源氏物語の頃ね(^^ゞ。

この大赦によって、安倍氏も「お咎め無し」と決まったので、安倍頼良は、新しく来た国守の源頼義には、慇懃に尽くした。
「頼義サマの御名と同じ音とは、恐れ多いm(__)m」と、安倍頼良はへりくだり、自分の名前を一文字変えて、「頼時」と名乗り改める事さえ申し出た。

その翌1053年には、源頼義は、さらに鎮守府将軍にも就いている。
陸奥守を別の人に代わった話は聞かないので、1053〜56年は、陸奥守と鎮守府将軍を兼任していた、と見ていいように思う。

……と、話の途中で恐縮だけど、この「見返り坂」、ちょっと急な斜面に各ベンチが設けられ、登って来た人にだけ見える、面白い構図のキャラ郡がお出迎えしてくれるの(^o^)。

一番上↓の二人掛けベンチからは……
大猫が何やら探索中

3個並ぶ一人用ベンチの陰に、各々隠れているのは
ネズミの公達?(笑)

アニメとかのキャラ?(^^ゞ
ネズミたちを探す「猫大将」というのが出て来る、宮沢賢治(岩手県出身)の童話があるらしいけど、それかな?(笑)
ネズミの衣装が、烏帽子とかつけて、お公卿風なのが面白いネ♪

話には全く関係無さそうに出したけど、実はこの「猫大将」の雰囲気が、これから登場する「安倍貞任」に、何となく似てる感じがしたのもあったり……(笑)。

さて、大赦が出て以来、国府や鎮守府とも、円滑な関係を保っていた安倍氏だったが、1056年(※)、事態は急転する。

安倍頼時の配下、藤原光貞らが、胆沢の鎮守府・胆沢城から国府・多賀城に戻る途上、何者かに襲撃され、人馬の傷害を蒙る。安倍頼時の息子・貞任に容疑がかけられる。
これを「阿久利(あくと)川の戦い」という。

安倍貞任が藤原光貞を襲った理由として、「貞任と藤原光貞および、その父・説貞との間に、婚姻をめぐるトラブルがあった」とされ、一見
「頼時の配下(藤原説貞・光貞)と頼時の息子(安倍貞任)の間の喧嘩」にも見える事件であるが、源頼義は、藤原光貞の言い分を聞いて、安倍貞任に激怒し、安倍頼時は息子の貞任を庇う。

安倍氏は衣川関を閉じて、国司軍との間に対抗色を強めたが、安倍氏の婿・平永衡藤原経清は源頼義に従う。
が、平永衡が裏切り者として源頼義に誅殺されたのを機に、同じ安倍氏の婿として危険を感じた藤原経清は、源頼義の軍から離反する。

1056年には安倍氏追討宣旨が出されて、その年末までに源頼義が陸奥守再任し、安倍氏追討戦へと乗り出すのである。

※手持ちの本の年表に、「1054年」とあったので、はじめそう記していたが、本文に「1056年」とあり、他の書物やネット上の記述でもそうあるので、書き変えた(2012/03/22)


公達も姫も「見返」る秋の坂〜♪

安倍氏や藤原経清の離反行動と、源頼義による安倍氏追討への道のりから、

@平永衡・藤原経清・藤原説貞・光貞は、国府(源氏)と在地の俘囚勢力(安倍氏)の間を取り持つ、仲介役としての機能を望まれており、平永衡と藤原経清は安倍頼時の娘(貞任の姉妹)を娶って、安倍氏と縁を深めたが、藤原説貞・光貞は貞任との婚姻にトラブルを起こして、安倍氏との関係構築に失敗し(たあたりが原因で)、安倍貞任に討たれた。
A藤原光貞を討つよう、国府側(守の源頼義もモチロン)が安倍貞任を挑発し、貞任がそれにハメられた。

というような事が言われていて、大河「炎立つ」では、特にAを軸に話が進められていたので、必然的に「炎立つ」では、
B平永衡は藤原説貞・光貞とは逆に、安倍側に近すぎたので、国府側に殺された。

↑こういう線で描かれ、藤原経清の「源氏からの離反」も、「臆病風に吹かれて」とは描かず、むしろ「汚い手を使う国府および源頼義に怒って」の行動とされていた。


エイエイ!と坂を上るうちに、いよいよ、「経清館(旧豊田館)」の建物類が見えて来たよ〜(^o^)→
いずれにしても、「陸奥話記」(前九年の役の軍記)に関係事項として書かれる以上、「阿久利川の戦い」がキッカケとなって、一度は大赦で取り消された安倍追討への道が再発した、と受け取っていいように思う。

そういや、「承久・天慶の乱」における平将門も、大赦で坂東に帰って来たのに、後で蒸し返されて追討されている。
つまり「大赦」とは、「執行猶予」の期間みたいなモンだろうか(^_^;)?




<えさし藤原の郷・B「経清館」「清衡館」>

やっと到着〜(^O^)、「経清館(旧豊田館)」である。

ズイズイ坂を登って来て、ジンワリと門に入る(パノラマ4枚・180度以上)

この「経清」は、安倍氏の婿で、奥州藤原氏初代・清衡の実父、「藤原経清」の事ね。↑までの経過で行くと、国府&源頼義の傘下を離れて、妻の実家・安倍氏に加担してる最中☆ミ

コース図→
下に右から左へ伸びてるのが、今いた「見返り坂」、これを登りつめると、Bとあって「経清館(旧豊田館)」に着く。これを見終わって、裏手からCとある「清衡館(豊田館)」に到着する(^^)。

←入ると↓右に厩、前を少し塞ぐように館の壁

繋げるとこんな感じ(^^ゞ(パノラマ3枚・ほぼ180度)

↑左の一軒は、内部が展示室になっている。中央の少し立派めの館では蝋人形、右の厩にはおウマさんの人形がいた(#^.^#)。そして、この裏を←こう進むと、次の「清衡館」へと通じる。

大河「炎立つ」では、安倍頼時の娘たちにも名前があって、藤原経清の妻「結有(ゆう)」には古手川裕子が、平永衡の妻「菜香(なか)」には鈴木京香が扮していた。結有が姉で菜香が妹だった。

これは「吾妻鏡」に「頼時の娘」とある、「有・中・一」から取ったんじゃないかな(^^ゞ。
ただ、ドラマでは、「いち」という女性は覚えてない(出てたっけ(^^ゞ)。

何しろ藤原経清も平永衡も、「嫁の実家」を中心に人生を築いてる点が、他の大河ドラマが扱う「一族」の構成とは大きく違うのだが、実はこの構図、実際の歴史にはとても多い。

東北のような広大な開拓地だと、特に必然性が生まれやすいのかもしれない。
大勢の娘や息子を各勢力の妻や養子に出して、一気に勢力を拡大、という遣り方は、戦国期の伊達氏にも特徴的に見られる。
あるいは底辺に、東北独特の統治の仕方や考え方とかも関係あるかもしれないけど(^^ゞ。

中心の館には、経清と結有らしき人形が
拡大。リアルじゃ〜(^_^;)

ここが「旧・豊田館」となってるのは、経清と安倍氏の女(ドラマの「結有」)の子、清衡(奥州藤原氏初代)が「豊田館」に住まいした、と伝わる所から、遡って言われるのだろう。
「経清の墓」と伝わる所も近くにあるようだし、ドラマでも清衡が「江刺は父に由来する地」と、江刺の支配を任された事を喜ぶシーンがあって、清衡の築いた豊田館とピッタリ同じではないかもしれないが、ほぼ同じ場所にあった旧館、という意味だと思う。

って、何をゴチャゴチャこだわってるかと言うと、経清の元いた場所は「亘理郡」だからである(笑)。

江刺に豊田館なるを作って住んでたとしたら、それは「安倍氏の領地に、婿として館を作って貰った」という事になろう(^^ゞ。
特に源頼義から離反の後は、確かに奥六郡(のどこか)に住んでた可能性は高いよね。

端の厩にもちゃんとおウマが
……こ、これもリアルだわ〜(^^;)。。

さて、「前九年の役」の次の展開に行こう(^^ゞ。

<黄海(きのみ)の戦い>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
1057年、源頼義は、安倍氏の領する奥六郡を挟み撃ちしようと、さらに北部の蝦夷や、逆に南の気仙郡(宮城県)にも手配りを開始した。
奥北部の三郡(津軽や糠部=青森県、爾散体=岩手県で「岩手郡」より北部)には、安倍頼時が二千で向かおうとするが、矢を受けて戻り、胆沢郡の鳥海柵に入った所で頼時は絶命した。

頼時死後の安倍氏は、頼時の息子・貞任が主体的に活躍しはじめる。

が、奥北部の三郡には、安倍頼時と同族と思わしき安倍氏が蝦夷を率いて、追討宣旨に従っている。
青森県に近い岩手県がわ「爾散体」は、アテルイ討伐の時に朝廷への帰属を願い出た、「爾散南阿破蘇」のいた地域ではなかろうか。
また安倍貞任の舅で、気仙郡の金為時も、北方への追討呼びかけの使者となるなど、安倍氏の隆盛に暗雲が見え始めていた。

陸奥守や鎮守府将軍の権限も、坂東兵を携えて陸奥に入った源氏の発動力も物を言ったと言えようし、広大な奥六郡を独占する安倍頼時・貞任に対する、他の俘囚からの風当たり、という側面もあったかもしれない。

しかし源頼義の権威も武力も、冬将軍の前に挫折する。
対アテルイ戦の時と同じく、兵糧運搬、つまり輜重の不味さが祟ったようだ。風雪と飢えに人馬倒れて、源頼義らの率いる軍の死者は、実に数百人にのぼったという。

つまり安倍氏は、自らの立つ陸奥の自然に助けられ、余命を伸ばしたとも言える。


「経清館」から「清衡館」への通路

ここには流鏑馬のセットが組まれていた。と言っても、真っ直ぐの道の脇(右側)に的(マト)がぶら下がってるだけだが(^^ゞ。
「炎立つ」では、確か八幡太郎義家(子役)の登場シーンで、流鏑馬を行なっていた覚えがある。

↑で、道を進むと厩に突き当たり、自然と左に折れて……↓

←こういう通路に入る。左の建物を過ぎて左が「清衡館」。

ここで、ちょっとお断りしておきたいのは、藤原経清の時代が「前九年の役」、経清の子・清衡の時代になると、「後三年の役」が起こる。

が、まだ話が終わってないのと、「清衡館」も、「炎立つ」では経清時代の安倍氏の館として登場してたので、このまま「前九年の役」の話を続けさせて貰う(^^ゞ。

→こう来た。正面が「清衡館豊田館)」(パノラマ3枚・ほぼ180度)

門を入ると、ド〜ン!と広く館が展開している(パノラマ4枚・180度以上)

丸柱を使用し、栩葺の屋根が特徴。
豪華な色調こそ無いものの、さっきの「経清館」が農家風の素朴な住まいなのに対し、堂々たる有力豪族の居住空間になっている。

倉庫や厩はモチロン備えた上、手前には主人が住まう寝殿(格を示すため、ここだけ床を高くしている)を中心に、東西に「対屋」が並び、その奥(北)にも、重層的に各部屋が設けられ、各々と寝殿を「渡殿」(渡り廊下)で連結する構造。

「えさし藤原の郷」では、「経清館」と「清衡館」のあるこの一帯が、坂を登って来なくてはならないので、「主要見学コース」から外してしまっているが、ここまで来たからには、この「清衡館」は見て損はないように思うよ(笑)?

まずは正面「寝殿」の蝋人形サン達(パノラマ2枚)

「経清館」が質素で、「清衡館」の部屋数が多い事を、「父・経清と息子・清衡」と対比してしまうと、あたかも「子が父より上?」と誤解されそうだが、ドラマ設定的にも史実的にも、特にそうした事実は無い(^_^;)。

経清は元々は亘理に居たわけで、江刺に移って以降は、話の展開上、安倍氏の館でドラマが進行する事が多かったので、経清の館を多く出す必要がなかったのかなと(^^ゞ。

あと「前九年の役」の段階では、ドラマは「安倍氏の館」として登場させていたように記憶する。

貞任、結有、菜香が、それぞれ妻や夫も連れて登場する都合上、大きいセット、多い部屋数が必要な一方、婿の経清より、妻・結有の実家・安倍氏の豊富な財力を見せ付ける上でも、これぐらいの規模は必要だったろう(^^ゞ。

というわけで、ここでは一つ、「安倍氏の館」という視点で付き合って貰いたい(^^)。

奥(北)の建物にも入ってみよう(^^ゞ(パノラマ3枚・ほぼ180度)

↑断層面と言うか(笑)、横からみた構図ね(^^ゞ。
中央にあるのが正面「寝殿」で、渡り廊下で左右と奥の建物に繋がってるのが見える。↑端にそれらの建物と離れた建物がチラと見えてる。そこに行ってみよう。

←納屋か倉庫の手前に井戸がある。
↓右には↑の渡り廊下。

「炎立つ」で、この井戸から水汲みするシーンがあったのを思い出して、「ここだったんだねー(゚.゚)」なんて言い合った。
と言うか、今振り返ると、ほぼ全編に渡って「えさし藤原の郷」で撮影が行なわれてた気がする(笑)。

さて、感慨にばかり浸ってないで、「前九年の役」の続きいこう(^_^;)。

<小松柵の戦い>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
敗戦後も、源頼義は陸奥守・鎮守府将軍として現地に留まっていたようだが、彼の治めるべき陸奥国は、安倍貞任のいいようにされていた(^_^;)。。

元々、奥六郡は安倍氏の支配する所だったので、逆賊って部分をどかせば、奥六郡に関しては従前って感じもするが、「(貞任たちは)衣川関を出て、使を諸郡に放ち」とある所を見ると、やっぱ六郡の範囲に留まってたとは思えない(笑)。

寝殿の裏に廊下で繋がる北の対屋(パノラマ2枚)

もっとも、逆賊に付き物の「人民を私的に酷使」とか「貢を拒否」とかの表現は、叛乱者への決まり文句って感じだが、「スゴイですね(^_^;)」と思っちゃうのは、徴税したってトコかな。
細かい部分を言うと、国家への納税を赤符とし、貞任らが徴収してたのは白符と呼ばれてたと。具体的(笑)。

つまり陸奥は、日本とは別の国として独立したわけだ。。。さすがに平将門でも、そこまでやる前に死んだと思うわ(笑)。

陸奥守&鎮守府将軍の頼義が、「そんなのダメじゃない?」と言っても止められなかったようだ(笑)。だいたい戦争で負けた相手に、そんな事言えたかどうかも疑問だけど(^_^;)。。

逆に離れから本館に戻る角度(パノラマ2枚)

頼義は、安倍追討の援軍探しに月日を費やしたようだ。同族に良さそうな人も居たんだけど、今イチ上手く運ばぬうちに、それでも赴任も長くなると支持者も増えたようで、新任の国守・高階経重がやって来ると、陸奥の人々は、高階経重より源頼義に従ったともいう。

それが認められたという事か、1061年、任期の終わったハズの頼義だが、そのまま在任を延長して、しぶとく現地に残ったようだ(笑)。

確か「西の対屋」だったと思う→
屏風の絵なんか、すんごい繊細な細かさで描かれてて、人物のカメラアップの背景にも、充分耐えられる造りだと思った(当たり前なんだろうけど(^_^;))。

結局、源頼義は、安倍氏討伐には、現地の有力者、清原氏に助けて貰う事になった。
清原氏というのは、陸奥国・奥六郡の西隣、出羽国・仙北三郡をおさえる大勢力の持ち主で、出は安倍氏と大きな違いがなければ、やはり俘囚(の首長)という事になる。

1062年、奥六郡領を避けて、という事だろう。清原氏とは、宮城県の北、栗原郡の栗駒で合流し、岩手県に入った磐井郡(一関市)の「小松柵」を、まず落としにかかった。

清原氏は大勢力だったのみならず、源頼義が連れて来た坂東の兵士らとも、スムーズに連携したようだ。小松柵はサクッと落ちた(ダジャレ!)。



<えさし藤原の郷・C「河崎柵」「伊治城」「厨川柵」、1>

↑今回は、この途中までしか行けない(^_^;)。

←コース図。
下が今までいた「清衡館」である。これより「炎坂」を降りて、「河崎柵」「伊治城」「厨川柵」の並ぶ沼地周辺に向かう。

「炎(ほむら)坂」を降りていく。この命名は「炎立つ」にちなんでだろう(笑)。

続きを行こう。

<衣(ころも)川の戦い・厨(くりや)川の戦い>−−
奥六郡の南・磐井郡には、小松柵・石坂柵・河崎柵など、陸奥国府を脅かした、安倍氏の城柵があった。

小松柵の陥落で、初の黒星にまみれた安倍氏は、総帥・貞任が8千で急襲をかけたりもしたが、どうにも苦戦で、一関ラインまでの柵を放棄し、一気に衣川関(平泉)まで撤退した。

前述の通り、衣川関より北が、安倍氏の本来の地となる。
┌−−−−−┐
|岩┌−−┐|
|手|紫波||
├−+−−┴┤
|和|稗 貫 |
|賀└−−−┤
├−−┬−−┤
|胆沢|江刺|
└−−┴−−┘
  ところが、ここも清原氏の攻撃に崩されてしまう。この戦場は、平泉に行った時に見たので、次回にでもやろうか(^^ゞ。

奥六郡には、南から胆沢郡・和賀郡・稗貫郡・紫波郡、そして最北の岩手郡へと到るまで、どの郡内にも安倍氏の城柵があった。
しかし攻防があったと記録されるのは、最北の岩手郡の「嫗戸(うばこ)柵」と「厨川柵」のみである。
つまり衣川の関より先は、一気に岩手郡の「厨川柵」まで逃げてしまうのだ。

小松柵を破られた後の防衛の脆さ、北の奥地まで一気に敵に入られてしまう過程については、平安末の奥州藤原氏が源頼朝の軍にヤラレた時も、同じような不思議さを感じるけど、清原氏を敵にした今回のケースは、無理もないと思う(^_^;)。。

〜|  ┌−┬−┐  |〜
〜|秋|仙||岩|〜
日|田|北||手|太
本|県|三||県|平
海├−┤郡|  |  |洋
〜|山└−+−┴−┤〜
〜|形県  |宮城県|〜
  仙北三郡と奥六郡は、縦長の領域を、同じように横にペタッと張り付いてるから、清原氏の参戦となった以上、敵にはどこからでも入って来られてしまう(だから、これと同じような構図が、平安末の戦いにおいてもあったのでは……という気がするんだけどね)。。
ただ、立て篭もった「嫗戸柵」と「厨川柵」の二柵は近かったようだ。

だから、あるいは最初から、清原氏の参戦があった場合は、連絡の取りやすい二柵に立て篭もる作戦だったのかもしれない。

このあたり大河「炎立つ」では、作戦という積極面と、脆さという弱点の両面が描かれていたと思う。
まず作戦としては、あえて自分らの本拠地である衣川に敵(源+清原連合軍)を引き込み、挟み撃ちにするというものだった。

そしてマイナス要因としては、この作戦を敵に知られてしまったため、戦況が大きく不利に働いて、厨川の敗戦に到る道筋を背負い込んでしまう、という話だった。

これは内通者がいたためで、それが「安倍貞任の妻」という設定になっていた(^^ゞ。
貞任の妻は金為時(気仙郡の豪族)の娘であり、その金為時の預かるのが河崎柵だった。

河崎柵

←側面も撮影。

ドラマの「貞任の妻」は、敵の大将の息子・源(八幡太郎)義家と河崎柵で不倫・逢引してた(笑)。

義家については、次回以降に廻すとして……女性の方の設定は、どの辺りにソースがあるのかな〜と思ってたけど、もしかして「地元の伝承」かしら?

どうもこういう筋があるようだ。
安倍貞任の娘(姉妹という伝えもある)、白糸姫は、源頼義の嫡男・(八幡太郎)義家に恋し、安倍氏の強さの秘密を教えてしまったため、怒った貞任に生き埋めにされ、これを哀れんだ義家が観音堂を建てた、と伝えられてるそうだ。
白糸姫の住んだ、白糸城(金ヶ崎城の別名)というのもあるらしい。

気付いた人もいるかと思うが、この伝承、平将門の愛妾・「桔梗の前」の話(では将門の秘密を聞いた相手は、藤原秀郷)にすごく似てるよね(^_^;)。。
元々、この戦役を綴った「陸奥話記」のスタイルが、かなり「将門記」を意識して書かれてる感じがするのよ(笑)。だから伝承などにも、両戦役に共通する味わいがあるのかも?

 ・ 紫波

  ・ 胆沢

 ・ 伊治

  ・ 多賀
  ちなみ河崎柵(地図L)については、「金為行が預かっていた柵」という他に特筆すべきは、「北上川を挟んで伊治城と対峙する位置にあった」という事のようだ。

政府が胆沢城を作って蝦夷の弱体化を図った事を考えると、後世の安倍氏にとっては、政府側と対峙する事は予め予想されていただろう。
その場合の最前線として、重要な柵の一つだっただろう事がまず言える。

伊治城もあった(順路もあって次回へ廻すけど(^^ゞ)(パノラマ2枚)

史実にあらわれた出来事としては、「阿久利川の戦い」の後、源頼義の軍に居ながら、安倍軍との合流を図った藤原経清が、この河崎柵に一度入ってから、安倍陣営へと駆け込んでいる。
続く「黄海の戦い」でも、この河崎柵の前に結集してるようだ(゚.゚)。

さて、いよいよ最後の戦線、「厨川柵の戦い」に入るが、ここでの攻防は、かなりスゴイ。
戦国期の城と同じか、もしかしてそれ以上の要塞だった気がする。

西北には大きな川が要害となり、柵は急峻な壁の立ちふさがる山頂にあって、空掘には逆さ刃が植え込まれ、敵には石・熱湯・弩を浴びせたため、源+清原連合軍は数百人が戦死した。


厨川柵のみ奥まった場所にある→
この厨川柵のセットは、奥行きの長さが生かせるからだろう、近年の大河ドラマでもよくロケ地に使われている(^^ゞ。

作戦を変えて源頼義は、近くの民家の建築材を壊して空掘に埋め、積み上げた藁に点火して、柵内の安倍軍をいぶり出す事を考えた。


すると、これに清原氏がさらに策を追加した。
燻られる者どもに、あえて開いた道を見せ(つまり下が丸見え程度に高所にある柵だった事がわかる)、そこに兵を集結させておいて、逃げて来た者らを徹底的に討ち取り、あるいは捕らえるという作戦だ。

こうして安倍貞任、藤原経清が捕らえられたが、貞任は重傷のため即死。経清は裏切りへの制裁として、鈍刀による斬首という残酷な処刑を受けた。

貞任、重任、経清の首は都に運ばれた。
嫗戸柵には、なおも貞任の弟・宗任が籠もっていたが、貞任らの最期を聞いてだろう、戦傷→逃亡→投降という経過を辿った。

貞任の他の弟や叔父らも、出羽などに逃亡した者、病気だった者、出家した者らがいたが、残らず投降し、温情を与えられて、皇民として衣糧を支給されるなど保護を受けたようだ。

他の柵は扉が閉まって入れないか、開いてても扉の奥が壁(急峻な坂)だったりで(笑)、入る隙間に乏しいんだが、この厨川柵のみ、開門された先にも空間が続いている。→

が、ちょうど「前九年の役」が終わった所なので、この先は次回に廻そう(^^ゞ。

何しろ、「平将門の乱」をホップ、「平忠常の乱」をステップとするなら、清和(河内流)源氏にとってのジャンプは「前九年の役」となる。

「前九年の役」をスタートと見れば、「後三年の役」がステップで、鎌倉幕府の創建をジャンプと見れる。

どこをどう切り取っても、源氏政権の母体として欠かせない節点が、この「前九年の役」とは言えるだろう。 *うん辛うじて何とかマトメた(^_^A)*

以上、関連事項は(だいたい、ね(^^ゞ)、
2005年11月<鹿島神宮>内
2007年4月<米沢へ向かう>内
2007年12月<白石城>内
2008年2月<「多賀城」政庁跡と城前地区>
2008年9月<宗道〜下妻>内、または<良兼出陣「子飼の渡し合戦場」>内
2008年10月<取手市「桔梗塚(墓所)」>
2008年11月<茨城県常総市「豊田城」(石下町地域交流センター)>内
2009年3月<羽黒山・山頂>内
2009年4月<霊山神社>
2009年5月<妙見社・国王社(妙見曲輪)>内〜<相馬神社(本丸跡)>
2009年8月<東光院>内以降
2009年10月<「千葉寺」、2>内
2009年12月<奥州市埋蔵文化財調査センター>


というわけで、次回は第3弾、2日目の夕刻、「えさし藤原の郷」の続きから、「岩谷堂城址」、岩櫃温泉で2泊目を迎え、3日目の午後、「中尊寺」まで入りたい!

<つづく>

2010年01月04日
 
     





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