<2007年・城主のたわごと2月>




2006年9月、会津(福島)〜米沢(山形)ツアー・第一弾(^^)。

1〜2日目は会津「東山温泉」「松平廟所」「鶴ヶ城」。




     
  今回から9月の東北旅行レポを開始(^^)。3回ぐらいに渡ってお届けの予定〜♪
今月はその第一弾。1日目の会津入りと、2日目は「鶴ヶ城」の途中までお届けっ!



<旅の前に、我が家に来た動物達を>

苦手な方にはご無礼を(^_^;)。。
この夏は温暖化の影響か、よく妙な動物達が我が家を徘徊した。

ヤスデに……
ヤモリ?(笑)
そしてこの夏も我が家にお越し頂いた、親戚のカタチちゃん♪→
見付けたのは遅く、8月頃だったか……。
カタチちゃん

↑ヤスデやヤモリには出てって貰ったが(笑)、カタチちゃんは親戚だから、長く逗留して頂いている(^^)。
大きいのから順に、大カタチちゃん、中カタチちゃん、小カタチちゃんと命名。中カタチちゃんは秋にお亡くなりになられたが、大カタチちゃんと小カタチちゃんは今でも我が家でスクスクと成長している。
苦手な方には申し訳ないけど、カタツムリが物を食べてる所を見た事ない、という話もあるので(笑)。

二匹で日向ぼっこ
飼ってて面白いのは、物を食べるシーン。プチュ〜とクチを吸い寄せて次々スーッと体内に入れて行く。
好物は葉っぱ類
口に入れてるトコ

一番面白いのは茄子(^^ゞ。
一点からグイグイ食い込む
食後(笑)。

食後は体にも殻(貝)にも、食べた物の色が透けて見え、それをそのまま排泄するから、葉ッパを食べた後は緑のウンコ。茄子を食べた後は白いウンコ(^^ゞ。

飼ってるのはタッパ。中に土を敷き詰め、小さな容器に常に水を入れ、土には適度に水をかける。タッパの蓋の代わりにネットを張り、輪ゴムで閉じて通気を良くする。

秋〜冬が近づくと、殻に閉じこもったまま土に潜る。10月頃からだったか、外はだいぶ寒いので室内に入れ、生きてるか死んでるか確かめるには、土中から探し出し、チャポンと水中に入れてみるといい。時間はかかるが、必ず水から上がって来る。

12月からは暖房してる部屋に置いてる。水中に入れる時も、ちょっとだけお湯を混ぜて温かい水に入れる。
冬は食べ物を殆ど食べないが、時々野菜を入れ替えておく。水中に入れて出て来た時、「野菜があるなら食べようかな」と、土に潜る前にちょっと寄り道して食べて行く(^^)。



<東北道〜磐越道・会津若松へ>


さて、ちゃんと旅を始めよう(^^ゞ。いつもながら遅い夏休みとなり9月も後半。
今回の亭主は「森林浴と庭園か寺社めぐりと博物館みたいなトコと温泉」を希望(笑)。

まず千葉県からだと、南に出て行くには、首都圏に入るまで(特に川を越えるの)に渋滞があり、入ってからも首都圏は渋滞が多く道も狭い(^_^;)。東名高速や中央道に乗るまでに既に遠回りの感があり、静岡あたりまで行けば、「あ〜もぉ充分遠くに来たぁ帰ろか〜」という気分になる(笑)。

そこでだいぶ以前から、我々は東北道に熱い注目を寄せていた。
地図で見ると、「東北」という地域は気が遠くなるほど縦に長い。
だから、ただ「東北に行く」と考えると何となく気が滅入るのだが、「東北」ではなく「東北道」になると話は違う。

東北道はすぐに乗れ、後はスイスイ一本道を行くだけで、ドンドン北に行ける(^^ゞ。
ここを通ったのは、日光や鬼怒川方面への行き帰りぐらいだったが、亭主が言うには、日光に行くために降りる宇都宮とか矢板といったインターチェンジより、もうちょっと行きたいような感じがあったという。 思えば日光までの道のりのちょっと先から「東北」は始まっているのである。(あくまでも「始まり」は)

山陰出身の亭主は、「東北」という土地を殆ど知らない。私と一緒に……あるいは社用で宮城県まで何度か行ってるが、新幹線で行くために何となく距離感が掴めない、といつも言う。

私は用心深く地図の上を指で距離を推し量り、「だいたいこの辺りまで」と割り出した。
それが福島県か、せいぜい山形県までである。それ以上はかなりの距離に思えた。
また山形はともかく、一度間を飛ばすと福島あたりは二度と来ない気もした。げんに車を持つまでは「新幹線に乗って、わざわざ福島で降りるかい?」という思いがあった(爆)。

そこでまず宿を探してみる。行く気になるかどうか、全てはここで決まる(安易:笑)。
亭主はちょっと料金はかかっても、二泊とも温泉つきの旅館がいいと言うので、だいたいその方向で探した所、結構いい温泉宿が見付かった(゚.゚)。
何と言っても一番なのは、格安コースがある事だっ(爆)。←結局それかよ(笑)

さて、東北道。関越に比べると埼玉を越えるのが早く感じる。埼玉の後は群馬を一瞬通って栃木に入る。↓

群馬か栃木に入った辺り。山が見えて来る。
諏訪岳か絹ヶ岳(栃木県)あたり?

宇都宮や矢板を越えた時は、「超える、超える、超えたぁ〜!」と私は手を叩き、亭主はハンドルを叩いて、2人とも大騒ぎ(事故るなよ:笑)。↓

左「日光宇都宮道」右「東北道」分岐!
ついに突破。白河の前後あたりかな(^^ゞ

ちなみにいわゆる「白河の関」を越えると、いよいよみちのく福島県(^^)。
亭主はご機嫌で鼻歌を歌う。そういや昔、やはり福島に来た時、父がいきなり「会〜津〜磐梯山は〜♪」と歌い出した事を思い出す(笑)。

この父、箱根に行った時も「箱っ根〜のや〜まは〜♪」という歌を教えてくれた。
運転手がそろそろ眠気と戦い出す時間帯という事もある(歌わないと眠る(^_^;))だろうが、やっぱり関所を越えた時というのは、いつも何となく首都圏に閉じ込められている者には、「日常を出た!」という実感があるんだと思うな。 *お疲れ様ですm(__)m*

さて、いよいよ郡山ジャンクションから磐越道に入った後を特にお届け。
磐越道は東北道から西に向かう道で、これより磐梯山と猪苗代湖の間を通って会津若松に到る。

磐越道に入る。小雨がパラつく。
わりとすぐ正面に山脈が見えて来る

けっこう霧が出て来て、雲が盛り上がってスゴイ感じがした(^^)。

磐梯山付近を通るのはわりとスグ(^^ゞ。ちょっとこの辺りから地図を出そうか。
「郡山JCT」(地図)から左(西)に進んでいる。

で、「そろそろ磐梯山が見えてるハズ(゚.゚)」とワクワクしながら周囲を見た。この辺り、かなりの山岳地帯に分け入った感じがある。

パノラマ2枚

左窓に見える山々
そして磐梯山は……(笑)

↑見事に雲の中(^_^;)。いかにも綿菓子がそこでつかえてる、という感じに雲がせき止まってて、「わ〜雨かな〜」と言いながら通った。

実はこの日、我々は雨雲を追い掛けて行動していた。9月は夏休みも終わり、でもまだスキーシーズンにもなってないから、宿の格安サービスに預かる機会には恵まれてるが、唯一の危うさはこの「天候」である(^_^;)。雨や台風が多い。

とは言え、亭主は夜中3時に帰宅し、寝て起きてすぐ出発したものの、午後は廻っていたから、移動だけで終わる1日目が雨でも痛くも痒くもないんだけどね(笑)。

さて、地図を移動しよう。磐越道は会津若松の手前で降り、南下して一路「東山温泉」(地図)を目指す。

まず、猪苗代湖を越える頃だったかな、綺麗な稲穂田が見えた(^^)。↓


そして……いよいよ会津若松が近づいて来ると、おお〜っ!と驚きっ、これまでドンヨリと曇っていた(暗いんで画像は明度上げてあるが)空の向こうが、テカーーーーッ!!!と、怖いぐらい照り輝いていたのだっ!↓

何々っ? 何があるの向こうに?!
おおおおっ、会津には何があるんだ?!(笑)



<東山温泉・夕〜夜>

そして磐越道を降り、会津市街を抜けて……。

ここ「東山温泉」入口の丘陵……
……ホテル「東鳳」に到着っ(^^)。

入口看板(翌朝撮影)
ロビーにはド〜ン!と会津戦線の錦絵が!

うぉ〜会津に来たぁ〜!って感じが濃厚で、これには結構喜んだ(^^ゞ。


通されたお部屋も、幾つもコーナーつきで立派(゚.゚)。(パノラマ2枚)

また部屋が広い! 十二畳ぐらい(^^ゞ?

実はここが安かったのは、この時たまたま工事中で、あと数日で新装オープンの予定だったからで、数日前なだけで同じでは不公平だから、思い切った値段に打って出た、と説明されていた。
値段はモチロンだけど(笑)、誠実な感じが気に入ったの(^^)。帰って来てから思うに「会津気質」という事もあったのかも。

工事で窓の外が見られない部屋は、さらに安い料金サービスをしてたんだが、子供の頃以外で会津に来るのは初めてだから、「ちょっと高くても外の見られる方で(^^ゞ」と軽い気分で頼んでおいたら……。

ド〜〜ン! なんと会津若松が一望!(爆)

以後、夕暮れから夜景までお届け(^^)。↓



左の山の斜面の向こうには鶴ヶ城も見える(^^)。デジカメの不具合でズームが今イチだけど……。↓

夕暮れと夜にライトアップされる「鶴ヶ城」。翌日に行った(^^)。

毎度おなじみ、夕ご飯〜(^O^)。

旅館でよく味わう天ぷらや刺身、付け出しや煮物、胡麻豆腐の他に、ちょっと変わってた味は……、
キノコと肉のバター鍋
蕎麦の実入りこづけ
山菜のいろいろ珍味小皿

特に汁物(こづけ)と山菜珍味は、地域の素材を生かした独特の味という事で、仲居さんが「お口に合うかどうか」と運んで来たが、どれも一口食うごとに亭主、「ウマイ(゚.゚)!」と声を上げた。

これは翌日いく鶴ヶ城でも知らされたが、会津は米どころなので、何しろご飯をたくさん食べればお腹が満たされるという事で、お惣菜を漬物風にするなど、食べ物にそれぞれ独特の工夫を凝らして、貧しい時代も乗り切ったという。

お酒も美味しかった(^^)。
左は普通のビールだが、猪苗代出身の「野口英世」の顔入りラベル。地元限定。
中央は「名倉山」の「月弓・かほり」。ワインのようなフルーティな香りと味わい。米どころなだけあって地酒の種類はすごく豊富。
下は部屋に置かれた菓子類。ワサビや胡麻味噌など、やはり地元特産の味。

実はこの後も、あちこちで色んな物を食べたが、亭主は「どれもこれも美味い」と言った。
「味付けで食わせてるのではなく、どれも素材が元々ウマイのだろう」と、東北の味が気に入ったようだ(^^)。



<東山温泉の朝>


おはよー(^O^)。わ〜い、よく晴れたっ♪(パノラマ3枚・ほぼ180度)

改めて説明すると、この「東鳳」(地図)からは、こうして左右に塞がる山の端の向こうに会津若松の町が見られるが、東山温泉から会津若松が見られるのはここが唯一の場所。
つまりここは東山温泉の入口に位置し、東山温泉の町並み自体は、ここより背後に奥まって行くからである。

逆に会津若松方面から来て見ると、こう建つ。↓

御宿「東鳳」と背景の羽黒山

↑東山温泉は山の脇を通って奥に入るわけだ(^^ゞ。後でちょっと行ってみよう。

エスカレーターを降り、大広間会場に行き、朝食バイキングに出会う!(≧▽≦)
例によって、和食と洋食を取り混ぜて食ったの図(爆)↑

そして何と言っても温泉(^^)
露天からの眺めと山の空気は絶品よーー!!

広い室内浴場(パンラマ3枚)。お客が一人も居ないタイミングを狙って(^^ゞ

お湯は透明だった。なかなかイイ湯で(^^)、そんなに熱くないのによく温まった気がする。
では、いよいよ出発〜(^O^)/。

まずは東山温泉街をちょっと散策してみる。
まず東山温泉(地図)に行って、「東鳳」(地図)あたりまで戻ってウネウネ道を通りながら「会津藩主松平家墓所」(地図)に到達。最後はグッと左「鶴ヶ城」(地図)まで行く。こんなコース(^^ゞ。鶴ヶ城のある町側が会津若松市街である。

わりと細い一本道を上がった横合い
まぁ何とも言えずイイ風情(^^)。

東山温泉は古代〜奈良時代のスーパー僧侶、行基が発見したと伝わる温泉(^^)。天平年間(729〜748年)と伝わるから、かなり古く、羽黒山湯上神社がある。

また羽黒山湯上神社に伝う「神秘の小径」、東山ダムに繋がる二本の道の一つは「黒川の小径」と「からり妓の小径」、もう一本の道は「岩山の小径」と、温泉情緒豊かな懐かしい4本の道が見所。

会津若松は鎌倉時代以来、長く芦名氏の領地であったが、室町期の1384年、芦名盛直が東黒川館を作り、これから行く鶴ヶ城の基礎が定まった。
この東山温泉は「からり妓の小径」まで行くと、芦名直盛に見初められ、許婚との狭間に苦しんだ芦名家重臣の娘、千穂姫が身を投げ、救出されて尼になった「尼渕」という伝承が残る所もあるらしい。

「黒川の小径」を降りて行く
「東山温泉」の歓迎門(^^)

この会津の地は、戦国期の1543年、芦名盛氏により戦乱に終止符が打たれたが、1589年に伊達政宗が磐梯山付近で芦名氏を倒し(摺上原合戦)、鎌倉時代以来の芦名氏は事実上滅亡。

私が今回行った感触としては、この会津若松では、芦名や伊達より、その後に来た「蒲生」を慕う雰囲気を濃厚に感じたな(^^ゞ。
と言うのも芦名はともかく、伊達氏は一瞬ここを領土化しただけで、豊臣秀吉がそれを認めず伊達政宗は秀吉に屈したため、秀吉によって送り込まれた蒲生氏郷が統治したのだ。

蒲生氏郷は4年しか居なかったが、1593年に七層の天守閣を築き「鶴ヶ城」とし、地名を「黒川」→「若松」と改め、本格的な、ここ会津若松の基礎を固めた。
会津若松にとって、この蒲生氏の治世は、その後の文化の発展に大いに役立ったと見える。

蒲生氏郷は、千家茶道の流れをくむ茶室「麟閣」を作り、これから行く鶴ヶ城に今でもあって、次回になるがこの茶室もお届けしよう〜♪
会津の茶道はこの頃から焼き物としても伝統が定着し、他に、昨日も美味しく頂いた地酒(^^)に発展する酒造なども、この時代から大いに振るったと言う。

さらに降りて行くと、道は会津若松に向かう

これから行く「会津松平家墓所」と次回のお届けの「天寧寺」(近藤勇の墓所)の間あたりに、蒲生氏郷の頃の名残を思わせる「関白の道」があり(地図←多分この辺り)、加藤嘉明が入って来た江戸時代初期までは、江戸と会津を繋ぐメインルートであったと言う。

で、途中からウネウネ道を登り↓(振り返って撮影)
会津藩主松平家墓所」(裏手)に到着→
羽黒山とは道を挟んで逆側にあり、こっち側は道を登れば「背あぶり山公園」に達する。



<会津藩主松平家墓所>

地図。本当は鶴ヶ城に続く道路沿いに、正式な入口がある(^^ゞ。
でもここはわりと急斜面で、ここまで登って来る事がわかってたので、「降りて行く方がラクだよね(^^ゞ」とか、歴代藩主さまの墓参りにあるまじき怠惰な事を言い、こっちから来てしまった。。

亀石「亀趺(きふ)座」
この亀の上に乗ってるのは「碑石(いしぶみいし)」で、墓誌を刻んである。内容は姓名・生い立ち・人柄・終生経歴・業績などで、藩主としての功徳を称えるもの。

また、この台座の亀は、古代中国の故事にある、死者の霊を守る想像上の動物。

この「碑石」と「亀石」のセットは、藩主の墓ごとに必ず一つ建っていた。
亀石の奥に8代「容敬」の墓

始まる遊歩道がキレイ!
次は4代「容貞」の墓
←を拡大↓

不謹慎かもしれないが、実はこの墓所に来た一番の理由は、観光ガイドの本やネットの写真を見て「朝のお散歩に気持ち良さそう〜(#^.^#)」という所にあった(爆)。

会津若松は観光の名所(それも旧跡)が沢山ありすぎて、「まずは気に入る事が肝心」みたいな、いかにも四十がらみの姑息な選定で旅程をセット(笑)。
見よこの美しさ!→
3代「正容」墓前の石段
ところが、この先から微妙に事情が変わる。

と言うのも、この3代正容の時代、それまで「保科」姓を名乗っていた会津藩は、ようやく「松平」に名を改める。そしてここから「会津葵」紋を制定し、在位も51年と、歴代藩主の中でも2位の長さを誇る藩主だった。この3代と4代「容貞」の「碑石」は5mもある立派な石柱だった。

それがこの先の5代「容頌」、6代「容住」、7代「容衆」のお墓は、それまでと打って変わって「碑石」が細くなってしまうのだ。。

「これには藩の財政が影響しているのでしょうか」とホテルで貰ったパンフレットに書いてあったが、この事情、松代(長野県)の真田藩でも見掛けたよね〜と言いながら、しんみりと歩いた。
松代では藩主の廟がモロに粗末になって行くのだが、「碑石」は功績を文字で書き綴るものだから、尚更かも。。

ここで、ちょっとこの会津松平氏の始祖、保科正之の事を(^^ゞ。

会津松平家の初代、保科正之(1611〜1673)は、二代将軍徳川秀忠の子で、長兄に3代家光と次兄に忠長を持つ。母は側室で、秀忠にとって唯一の側室だったとも言われる。
正之は武田信玄の長女、見性院に預けられて育ち、7歳で信濃高遠の保科氏に養子に出され、保科姓を名乗る。

これには父秀忠が正室(お江与の方)の嫉妬を恐れたからとよく言われ、実は正之が保科に出された同じ年、家光と正之の間に位置する次男、徳川忠長は、12歳にして甲府藩20万石をいきなり与えられたみたいね(^_^;)。

正之は18歳でようやく実父秀忠に対面が適い、20歳で高遠に三万石を与えられ、この頃に忠長のいわゆる「不行状」が始まって、21歳の時に父秀忠は死去。同年に忠長は甲斐と駿河55万石を没収される。

……と、大抵この人の話になると、必ずこの幸薄い誕生譚と、次男忠長に比べて不当な処遇話で始まるが、それは正之の人生のほんの初期の話であって、その直後に次男忠直は自害。正之は兄家光によって25歳で出羽山形藩20万石、32歳でここ会津藩23万石とバンバン出世を遂げ、62歳で人生を閉じるまでの生涯の方が圧倒的に長い(^^ゞ。

兄家光は母お江与や同母弟忠長との対立感情があったため、むしろ異母弟の正之を愛した、という見方をよく見掛ける。
徳川忠長が55万石も領有したのに対して、同じ弟でも正之は、忠長が当初貰った20万石付近の石高に終生とどまったわけだが、どうもその事より、確かに、父からは三万石しか貰えなかった人が、兄からはイキナリ20万石以上の待遇を得た事には目が行くよね(^^ゞ。

しかしその一方で、家康の子は御三家として遇され、後に8代将軍吉宗、15代将軍慶喜が出ているし、家光の子からも、4代・5代・6代・7代と将軍が続いて出たというのに、同じ将軍秀忠の子である正之の系譜については、名前すら取り沙汰されない感じがする(会津松平3代正容は、確か8代将軍吉宗と同じ家康の曾孫なんだけどね(^_^;))。

正之は終生、将軍家親藩としての身分や格式、特に「松平」姓や「葵」紋の使用を固辞し続けたとも聞く。
家光の死の間際、正之は枕元に呼ばれ、徳川幕府の今後を頼まれたという。
それが幕末〜維新にいたる会津の運命を決したのだとはよく言われる所だ。

この正之に、実は影の将軍時代があったと聞けばビックリされるかもしれないが、兄家光が亡くなった後の20年以上もの人生、正之は、もはや匹敵する実力者はこの世に居ないと言えるほど、幕府の大長老の座に君臨した。
この事は、ちょうど4代家綱の時代が時代劇とかであまり描かれないため、あまり認識されてない気がする(私もそうだったし(^^ゞ)。

今回の旅では、このあと米沢に訪れるが、この保科正之が米沢藩上杉家にとって、いかに頼りになる後ろ盾であったかを知った。(米沢に入ったら詳しく書こう(^^ゞ)
そしてその恩を忘れなかったが故に、維新における薩長との戦でも、孤立無援に近かった会津とともに上杉が最後まで戦ったのだと言う。

上杉にせよ会津松平にせよ、最後の将軍徳川慶喜がとっくに投げ出し幕府の世が終わった後でも、藩祖の頃の影響によって戦った事を思うと、東北南部における保科正之の存在は、「薄幸の好青年」どころか「とてつもなく大きい」と言える。

会津における影響は勿論で、「家訓15ヶ条」は、後に「日新館」をはじめ会津若松で教育の基本ともなった、「ならぬことはならぬ」(什の掟)の基ともなって、幕末に到るまで精神的主柱となった。
4代将軍家綱の後見職であった熟年時代の正之は、渋川春海に天測を用いた暦の研究を指示し、全国的に暦が改められ、会津は天文・暦の先鞭となった。

墓が貧しくなった5代容頌も、藩政改革を成し遂げ、後に白虎隊で有名になった「日新館」を自ら創設した中興の祖と謳われる人である。在位56年と歴代一位。
前夜に美味しく頂いたお酒(^。^)も、この時代に灘から杜氏が招かれ、本格的に地酒が隆盛した。

また正之の暦研究の跡を受けた「日新館」には、当時は珍しい天文台を備え、生徒にも講義が行なわれ、冬至の日に諏訪神社の神官(会津暦を発行)や天文師範が集まり、翌年の天候を先読みしたという。

会津松平氏の直系はここで途絶え、3代正容の血筋を辿って引いて来た6代容住は養子入りの上、藩主の座を継いだ。

6代容住の墓
5〜7代「碑石」の建ち並ぶ石畳の歩道→

あと、亭主がパンフレット見て「みんな幼君だね〜」と言った。
言われて覗き込むと、なるほど、3代正容は10歳から、4代容貞は5歳から、5代容頌は4歳から、6代容住は26歳だったけど在位わずか5ヵ月、7代容衆は1歳から、8代容敬(この人も養子)は14歳から。
それでも皆さん在位はそれなり長く、充分な大人になってから他界したから「幼君」のまま終わった人は居ないけど。

こうして江戸時代の最後に登場したのが、比較的大人になってからの殿様、9代藩主、あの松平容保(かたもり)である。藩主の座に就いたのは実際年齢で16歳。もっとも大政奉還の憂き目に遭うのが31歳だから、若い内に終わりはしたんだけど……。

容保も前代に続いて養子入りの上で藩主の座に就いた人で、8代容敬の父は松平義和、9代容保の父は、この松平義和の子、義建であるから、叔父から甥に継承されたわけである。

元を辿れば、この松平義和が水戸徳川家の出身であるから、同じ水戸出身の15代将軍徳川慶喜とは縁が薄くもなかったためか、水戸光圀いらいの尊皇思想の背景ゆえか、京都守護職の容保と最後の将軍職慶喜、見ようによっては損な籤を引いた感もある二人は、公武合体路線で最後まで手を携えたが、孝明天皇の崩御後は急転直下、あれよの間に薩長にお株を取られ、ともに賊軍にされたあげく、最後はここ会津も討伐される憂き目に遭う。。

いよいよ松平容保の墓所へ!階段の前に標識があった(^^ゞ。

「スゴイね〜(゚.゚)、一番高い所にあるんだね〜」
と、これはパンフレット内の地図にもそのように示されてるが、辿り着くと改めて「スゴイ!」と思った。

スゴイと言えば、これほどの規模の藩主歴代墓所というのは全国でも珍しいらしく、そもそも墓所に選ばれたこの場所が昔の文献でも「松が鬱蒼と生い茂り、他の山とは違う」と驚きをもって書かれ、墓所になる前から、自然のある様が、いかにも聖域に相応しい風格を備えていたようだ。

←容保墓所の横奥には「(会津)松平家」の墓所がひっそりとたたずむ。ここには明治以後の容保の家族と容保の後の累代(15代まで)の名が碑に記さていた。
地元の方がここまで立ち止まらず真っ直ぐにやって来られ、容保と松平家墓所に辿り着くと、とても丁寧に礼儀正しく参拝されていた様子が印象に残った。
鬱蒼とした新緑の松の杜に、早い紅葉がリンと光って落ちた。

ここまでの山の上にある墓所は「入峰墓所」と呼ばれ、すべて神式で祀られている。
そもそもこの墓所を定めたのは初代、保科正之だが、ここには正之自身の墓は無い(^^ゞ。正之の墓は猪苗代の土津神社という所に祀られているらしく、今回の旅行では行けなかった。

そして本来、正之がここを墓所に定めたのは、長男正頼が先に亡くなったためで、二代正経からここに葬られるようになったそうだが、残念ながら、二代のお墓には行けなかった(>_<)。。

というのも、二代と歴代藩主の側室や子女の墓は、この「入峰墓所」よりずっと下った場所にあり、これまでの神式と違い、仏式の墓所で「中之御庭」・「西之御庭」という所にある。
ただ、そこまで行くと車を停めた所に戻るのに、かなりの距離があった(^_^;)。
そういうわけで、二代正経さんについては、次回「御薬園」でちょっと触れる(^^ゞ。

そこでちょっと降りれば行ける「拝殿」まで行くだけにしたのだが、こういう建物だった(^_^;)。↓
あとは元来た通り、綺麗な新緑の杜をまた気持ち良く散策しながら、車に戻った。本当に素敵なお散歩だった(^^)。



<鶴ヶ城、1>

そして鶴ヶ城(地図)に到着〜(^^)。
子供の頃に来た事があって、お城にはそれまでも行った覚えはあるが、自分としては歴史や建物にようやく興味を持つ年齢と重なったからか、「とてもちゃんとした城だっ(゚.゚)」と驚いた最初の城だった気がする。

子供の時は「何と言っても白虎隊」で1日がタップリ過ぎた覚えがある。
が今回は、まず鶴ヶ城を見るだけでもだいぶ時間を食う気がして、白虎隊関連は一切カットした(^^ゞ。

車でも城内に入ってから奥に着くまでかなり行く(゚.゚)。子供の頃と同じく広く感じた(あまり成長してないのかも:汗)。
で、入ると絵図面がある(^^)→

右下お濠の外から入って来ていて、今「現在地」の赤い所。駐車場ね(^^ゞ。これより城内に入って天守閣に行く。

次回、天守閣の右上の茶室にも行く。
他、上部の島は広場、左の島には「武徳殿」という今も使われてる武道館があるが、そこには行ってない(^^ゞ。

パノラマ3枚。「西出丸」。左の塀と右の桜並木の間の通路から入る。

入ったトコ(パノラマ2枚)。

お城が見えた(^O^)
脇の道に「鐘撞堂
売店前では人力車も

「鐘撞堂(かねつきどう)」
時守を置いて昼夜時刻を城下に報じていた堂で、その鐘は1747年若松の鋳工早山掃部介安次などの作として知られ、鐘の突き方は江戸流。
1868年、西軍の砲火が集中し、時守が相次いで倒れたにもかかわらず、開城の最後まで正確に時を報じ、大いに味方の士気を鼓舞した。

鶴ヶ城稲荷神社」→
約600年前、城が出来た頃からの守護神を祀っている。最初は東手の三の丸にあった。
伝説では芦名直盛が、勧進先の田中稲荷神社に祈った所、霊夢を見て目覚め、積雪の上に残った狐の足跡を追う内に縄張りが決まり、名城を築けた。
蚕養国神社(会津若松市蚕養町)の管理で、学業・商売・交通・家内安全など広く人々の信仰を集めている。

さてさてお城(^^)。端に来たので右折
グル〜ッと周囲を廻り込んで……

←裏に廻るとこっちが正面。
城内の入場券売り場があり、城への入口との間には大きな「赤ベコ」がっ♪
↑会津「赤ベコ」と、こたつ城主のツーショット(#^.^#)

子供の頃この「赤ベコ」をお土産に貰った事がある(^^ゞ。東北の方だとは思ってたけど、会津のオモチャだと初めて知った(笑)。
平安期ごろ、福満虚空蔵尊圓蔵寺の建立で、木材を運んだ牛たちの中で、特に丈夫で最後まで働いた赤い牛にちなみ、古来から子供の誕生に供えられた疫病除けのお守り。頭をペコペコと上下に動かす仕組みで、玩具としても愛されて来た。

じゃ入る〜。
←入口

ここに入る前に「撮影禁止」を門番の人に言われたんだけど、入ってから「撮影可」と「禁」にコーナーが分かれてる事を知り、大感激(≧▽≦)。

そうそう、この辺り曖昧な資料館が多いので、こういう区分けをしてくれてると助かるのよね〜。
もう一つ私が感心したのは、旅の前に会津若松市のHPに史跡の紹介などが判りやすくされてた事(^^)。

と言うのも、久々に遠出の旅行なので、今回は旅行ガイドの本を何冊か買ったのだが、散財しただけって感じが(-_-;)。。
確かにそうとなればネットで調べるわけだけど、何千円というお金をウッカリにせよ払うのだから、せめて「危険! 絶対に買わない事!」と背表紙に注意書きしてくれるぐらいの親切心は欲しいなぁ(^_^;)。。

そういうわけで、キョービ常識だったのかもしれないが(^^ゞ、観光案内を丁寧にしてくれるHPはとても助かる。
そういう行き届いた姿勢が、こうした観光スポットにもよく生かされていると感じた♪

喜んで入ったらすごく暗かったけどね(爆)。

最初に石垣と兵糧倉(塩倉)の説明。ここは地下なんで、殆ど通路(^^ゞ。
後は上にドンドン上がって行くのだが、鶴ヶ城の構えは五層の天守閣。
一階には、戦国時代〜江戸時代の転々と変わった城主と城の変遷が詳しく紹介されていた。もう一度書くと……。

1384〜1589年、芦名氏
1589年、伊達政宗
1590年、蒲生氏郷
1598年、上杉景勝(出羽と佐渡をあわせて120万石)
1601年、再び蒲生時代。蒲生氏郷の子、秀行。
1627年、加藤嘉明(1639年に、天守閣が五層に改められ、西出丸(駐車場のあったトコ)、北出丸が作られた)
1643〜1868年、保科正之(最上領から)。以後、会津松平氏に改姓後、開城に到るまで。
1874年、取り壊し
1965年、再建

二階は江戸時代の会津藩の、三階は会津戊辰戦争を、四階は季節ごとの城下の風物詩を紹介。

会津戊辰戦争については、白虎隊もよく紹介されていたが、これは城から北東方面にある飯盛山地図)付近に「白虎隊伝承史学館(地図)」「白虎隊記念館(地図)」「白虎隊士の墓(地図)」があり、多分こっちに行く方がより詳しいのかな(^^ゞと思う。

鶴ヶ城では全体的な流れを把握できる構成で解説されていたように思う。

白虎隊と言うと「死ぬのが武士だぁ〜!」みたいな話で知られがちだけど、記憶に残ったのは、会津藩校「日新館」には、日本で初めての「学校給食」が行なわれていた事(゚.゚)。1800年代の事みたい。
財政難の時代、藩士への手当てが給料制になり、貧しい藩士を助けるためと、教育が疎かにならないようにと始められ、15歳以上の生徒と教師600人が、豆腐の汁と漬物だけといった「一汁一菜」ながらも給食を食べさせて貰ったって話だった(たまに魚が出るとあったな)。給料制はその後無くなったので、給食も廃止されたそうだ。

あと馬も泳げるプールがあって、みんなで泳ぎの練習をしたとか、日本初の給食制に最古のプールと、財政が苦しい中でも、他にはない先進的な教育が率先して行なわれていた事がよくわかる(^^ゞ。

この「日新館」、今はもう無いが、鶴ヶ城のすぐ西にはさっきも書いた天文台跡があり、あとここよりずーーーっと北の方だが、当時のままに再現した施設があるという。
地図←右に猪苗代湖が出て来ちゃうぐらい縮小地図だが、一番上の真ん中辺り、「東長原」ってトコね(^^ゞ。

松平容保は最後まで薩長に抵抗したため、会津はコテンパンに傷ついたけど、自分の命を惜しんで降伏しなかった悪い殿様という評価なんかじゃ全然無くて(^^ゞ、会津藩には保科正之の頃から、幕府に逆らう藩主を藩として出してはならない、という強い戒めがあったという。

また最後にヤラれる伏線になってしまった京都守護職なども(^_^;)、保科正之は関ヶ原の時はまだ生まれてもいないし、大坂の陣の時もほんの子供だったので、会津松平家には「戦功」が無かった(^_^;)。
松平氏として徳川親藩に連なる藩が、戦功もへったくれも要らない気がするが、あくまでその意識で見るなら、新選組と事情が似ていたかもしれないな〜と思った。

幕末になる前も、蝦夷地にロシアの脅威が近づくと、その警備のためせっせと松前まで兵力を出し、遭難したり多くの病死者を出すなど多難を極め、その大きな苦労や功績を認めるべき幕府が解体したのだから、本当にやるせなかっただろう。。

会津戦線では、戦の中で土方歳三が会津を出て、さらに北を目指していった事、白虎隊が焼け落ちたと誤解した鶴ヶ城は、その後も長く1日に2000弾もの砲撃を浴び続け、次々と命や身体を損傷しながら、城とともにボコボコにされた記録が残されていた。

戊辰戦争後の旧会津藩士達は、新政府によって下北半島に移住させられ、名目上は「斗南藩三万石」と称されたものの、実質的には米も無く、栄養失調や病死に陥るなど窮乏し、開拓団として北海道に入植するなど、困難の限りを尽くした。

その一方で、会津人が粗食によく耐え、食べ物の工夫をよくした事も紹介されていた。
会津やその城下の産業が解説されてるコーナーだったかな。「会津のオイシイ料理(^。^)」がズラッと並んでる所もあったのだっ。

正月料理(こづゆ)
棒たら煮
ニシンの山椒漬
会津の田楽

オイシソーーーー(≧▽≦)!
この「こづゆ」は干した貝柱を旨みに使ったお汁で、正月にはお雑煮風に御膳に出すんでしょうね♪
旅館でもこの「こづゆ」は「会津の特産ですよ」と言って出された。美味しかったよ〜。

会津特有の産物・伝統品の製造や販売過程も詳しく紹介され、酒造の「長尾」家が藩の御用達を仰せつかった230石の大商人として、酒造だけでなく、五穀・味噌・醤油・塩・油・麹など、その他、幅広い商品を担い、若松城下の賑わいを支えた事が説明されていた(^^)。

この五層の天守閣から続く廊下から売店にも行け、そこでキャラクターグッズやTシャツ等とともに扱われていたのが会津の工芸品の数々で、漆器仕立ての食器や小物などは大変に美しかった。

中でも会津の伝統品と言えば「絵蝋燭」がそうかな(^^ゞ。
蝋燭は早く室町期の芦名氏の頃から始まったと言う。会津藩になってからも特に漆の栽培を保護し、木の樹液から漆を、実からは蝋を採取して、専売制を敷いて年貢として上納させ、明治は農村でも製造されたため、市内には多くの蝋燭屋があった(現在は伝統民芸として三軒で行なわれている)。

これがその「絵蝋燭」(^^)。↓
四季折々の絵(主に花など植物)を描き込んでるの〜キレイでしょ(^^)。この絵蝋燭は先だって正月すぎに放送された、テレビ朝日「白虎隊」にも、孝明天皇の崩御シーンで出て来た。
こちらは雅な張子のお人形→

人形作りは、城に入る前にもあった「赤ベコ」や「起き上がり小法師」でも、その表情の可愛らしさ、動きを取り入れたアイディアの独創性で、今でも手作り工芸品として人気を集めている。

四階と五階では、城下と周囲の山々の風景を見下ろせる、天守閣ならではのトップコーナーも勿論あって、次回その辺りから続けたい(^^)。

<つづく>

2007年02月05日(2016/03/04:地図(ヤフー→MapFan)張替)
 
     






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