<2016年・城主のたわごと1月>



2015年7月「足利編」第3弾は、戦国期に突入!

勧農城に両崖山を制した長尾氏本家の軌跡を辿る




     
  12月号はお休みになって……m(__)m。
さらに(ご挨拶にも述べた通り)今年は多忙になって、更新に影響が出るやも(^_^;)ゞ。

さて、前々回(9月号)から足利ツアー・レポを始めている(^^)。
行ったのは去年(2015)7月初旬。一泊二日。

前々回(9月号)は、足利ツアーは最後の方にちょっと始まっただけ(それまでは日常編)だった。
1日目は所用で東京に過ごし、夕方から夜までに足利に移動・到着。翌朝を迎えた所まで。
(2015年9月<虎ノ門「光明寺・明和大火の供養墓」>以降)

前回(11月号)は丸々、足利編となった。2日目の朝、ホテルを出発したのに始まり、足利学校と鑁阿寺を巡っただけで満了(^_^A)

「足利」という地名から、普通そこに何があると思うだろう?
足利に旅行……それも史跡をメインに旅行するとしたら、どんな所を見て、どんな旅になると想像しますか?(笑)


↑今回もこのテーマを引き継いで綴ろうと思う。ヨロシク(^o^)ノ

今回は鑁阿寺の続きから始まり、「太平記館」「勧農城跡」「長林寺」「法楽寺」、途中に両崖山(足利城)を目指したが、道が無くて行きあぐね(^_^;)、再び麓の市街に戻って来て、「心通院」、そして足利市街からは、ちょっと北東方面に一つだけ離れた「樺崎寺跡」に到達した所で、次回に譲る。

次回……と言っても、残す所あと僅かなので、殆ど今回が最終回に近い感じ(^^ゞ。



<鑁阿寺、2(つづき)>

鑁阿寺はここ→地図。鉄道は、JR両毛線だと「足利」駅、東武伊勢崎線だと「足利市」駅

←前回も出したこの見取り図(黒い字は私が書きいれてます(^^ゞ)。

図の下半分は中央が順路。
なので、左のステージや右の庭(鐘楼・心字池)は、参拝の後で廻る。

前回は太鼓橋・山門→多宝塔・大銀杏→本堂(大御堂)→不動堂→経堂→蛭子堂→大黒堂と見て来た。

残るは図の左上部分「大酉堂」「御霊屋」のみ。

まず「大酉堂」だが、これは最初からそう呼ばれていたわけじゃない感じ(^_^;)。
これは現地の案内板をそのまま↓

此のお堂は元来、足利尊氏公を祀るお堂として、室町時代に建立された。
当山に残る寛政二年、及び明治五年伽藍配置図には、足利尊氏公霊屋現在地に記載されている。
明治中期より、足利尊氏逆賊皇国史観抬頭し、41世忍禅上人は、甲冑姿の尊氏公木像本坊に移し、当山伝来の大酉大権現本尊とした。
大正六年42世忍空上人は、信徒の浄財を仰いで、堂宇の大修繕を実施す。
大酉大権現は俗におとり様といい、古来武神として武門の信仰篤く、殊に東国では近世より、商売繁昌、福の神として信仰されている。
昭和61年、解体修理を実施した。
金剛山 鑁阿寺
※寛政2年は1790年(江戸時代)、明治5年は1872年。大正6年は1917年。昭和61年は1986年。

上記に示す通り、足利尊氏を祀る目的で作られた。
建立は室町時代。すなわち室町幕府の治世下であるから、当時なら幕府の祖霊を祀る霊堂として、江戸期の日光東照宮に匹敵したはずだよね。。
しかも江戸期も「足利尊氏公霊屋」と、キチンと記載され、明治初期まで至っていた。

ところが…… 「明治中期より、足利尊氏逆賊皇国史観が抬頭」「尊氏像を本坊に移し、大酉大権現を本尊とした」。

ハッキリ「何を憚った」「隠した」「挿げ替えた」とは書いてないが、まぁそういう事だよね(^^;)。。

でも、尊氏が朝敵とか逆賊とかヤラレた件は、足利に来たら、さぞ爪痕が……と思ってた割には、この「大酉堂」に触れてあるのしか見なかった。

←こちらが、その「大酉堂」(旧足利尊氏霊屋)
↑そしてこれが一番奥の「御霊屋

右の「御霊屋」は「足利大権現」と称し、俗に「赤御堂」ともいう。↑
創建は鎌倉時代といわれ、正和年間(1312年〜)の伽藍配置図にもほぼ現在地(境内の西北)に描かれている。
(が、昭和32年(1957)境内整備のため、以前の位置より北へ十二間後退させている)

現在の建物は、徳川11代将軍家斉の寄進による再建で、本殿源氏の祖を祀り、拝殿(県指定文化財)に、足利十五代将軍像を祀っている。

昭和57〜8年度、栃木県及び足利市の助成を得て、(株)安田工務店に依頼して半解体修理を実施している。

この本殿の裏には、前回、太鼓橋を渡った時、「赤御堂」の名称でちょっと触れた通り(2015年11月<鑁阿寺>内・B足利氏初代義康と、その父・義国の墓と伝えられる墓石がある。

私は覗かなかったんだが(^^ゞ、塀の隙間から見えるらしい。写真を出しているサイトやブログをネット上に見れる。(ご覧になりたい方は検索してみてネ(^^))

が、前回も述べた通り、義国は新田で亡くなったと見られ、新田庄で祀られていて(「義国神社」・地図)、この赤御堂にある墓は厳密には誰のものかわからないらしい(^_^;)。。
義国・義康については→2015年11月<鑁阿寺>内・A

ちなみに義国の長男で義康の兄・新田義重の墓というのも、隣の太田市(群馬県・新田氏の領域)「大光寺」にあるが、これも後の江戸幕府(徳川将軍家)が先祖供養のため作った寺なので、墓は現物ではなさそうで、「大光寺」でも、墓所へ導く案内を控えているように思えた。

(2013年3月<大光院>内、他に「新田氏塁代の墓所」というのもある→2013年2月<「円福寺・茶臼山古墳」(伝・新田氏累代の墓)、1>

参拝終わって、見てない所を廻る。

←見取り図だと「児童公園」とある辺り。車がいっぱい停まってて、「ここに駐車すれば良かった(゚.゚)?」とか言いながら通ったが、本当にここに停めていいのかはわからない(笑)。

この後は見取り図の下部分、まずは参道の左脇「ステージ」とある辺りに出ると、確かに奥に小さいステージがあって……↓

廻りにバザー会場が広がっていた(パノラマ3枚ほぼ180度)

さて前回は、新田氏と足利氏の祖・義国と、その子で足利氏初代義康の頃に、この鑁阿寺の前身・足利氏邸が建設されたと述べた。
そして義康が頼朝の父・義朝相婿となったため(つまり妻同志が姉妹)、頼朝と二代義兼従兄弟である事を書いた。

さらに頼朝と義兼は、北条時政の娘姉妹政子時子)を各々娶ったため、またしても相婿となり、さらに三代義氏は、北条泰時の娘を娶った、という所まで書いたよネ(^^)。

←この図は、関係をわかりやすくする目的で書いたので、長幼は正確でないです(^_^;)。(※例えば北条政子義時にとっても時子にとってもと思われる)

この鑁阿寺は、二代・義兼が開基して、邸から寺になったのであるが、義兼の時代には持仏堂だったようだ。

義兼は、鑁阿寺を建てた後もしばらく余生を送っており、晩年に法界寺(現・樺崎寺跡のある辺り)を建てて、そちらで入寂している。(樺崎寺跡には、今回の最後に行くよ(^O^))
義兼の晩年は、鑁阿寺の創建に開山となった理真上人や妻の時子が相次いで他界したため、道心を深めていったという。

広場の端を抜ける所に
映画撮影に使われたセットが展示

映画というのは「バンクーバーの朝日」であるらしく、足利から一駅東の「富田駅」(地図)とか粟田美術館とかある辺りで、撮影が行われたらしい(^^ゞ。

この頃は、映画の舞台が観光産業になるようで(^_^;)、中国の観光客が見に訪れる……とかいう話を聞いた事ある。

そういや秩父神社に行った時も、近くの和菓子屋さんが秩父神社がアニメの舞台になったと教えてくれたっけ。。

義兼の正室・北条時子は、前回も書いた通り、義兼の生前中に自害を遂げた、と地元では伝承されている。(2015年11月<鑁阿寺>内・C

三代義氏は、この時子を母として生まれた。三男として生まれ「足利三郎」と称した。(たぶん兄達とは母が違うんだろうが、母が北条氏なので家督を継いだという事かと(^^ゞ)

やはり北条泰時の娘を娶って、蔵人検非違使に任ぜられ、正四位下左馬頭に至っている。
父同様に鎌倉幕府の枢機に参画し、数次の合戦にも大功を立てた。

義兼の頃は持仏堂だった鑁阿寺も、義氏の代に至って、父・義兼の菩提を弔うため、天福2年(1234)現在の大御堂を建てた事が、現存する棟札によって判っている。

この義氏の代、足利と鑁阿寺の歴史にとって、記念すべき遺産が二つ芽生えている。

今度は参道の右脇の庭園に入ってみる(パノラマ3枚ほぼ180度)
池を大きな石橋で渡る↑。見取り図には「鐘楼」と「心字池」が描かれていた。

遺産の一つは、「徒然草」に、足利の名産品として、「染物」の記述があり、それが義氏の頃なのである。
(生地は、足利の代表的な職工である絹織物だろうと思われれる)

徒然草」 第216段

<原文>
最明寺入道鶴岡の社参の次に足利左馬入道の許へ先づ使を遣して立ち入られたりけるに、あるじまうけられたりける様一献にうちあはひ二献にえび三献にかいもちひにてやみぬ。その座には亭主夫婦・隆辨僧正・あるじ方の人にて座せられけり
さて年毎に給はる足利の染物心もとなく候、と申されければ、用意し候、とて色々の染物三十、前にて女房ともに小袖に調ぜさせて後につかはされけり。
その時見たる人のちかくまで侍りしが語り侍りしなり


<現代語訳>
北条時頼が鶴岡八幡宮を参詣した次に、足利義氏の許へ、訪問前の使いを出して立ち寄ったところ、館の主人(足利義氏)の用意したおもてなしメニューは、
@酒と打ち鮑(のし鮑)、A酒と海老、B酒と掻き餅(蕎麦・餅、または蕎麦がき、又はぼた餅?)で締めた。
その座には、義氏夫婦と、隆辨僧正(鶴岡八幡宮別当、四條大納言隆房の子)と、あるじ方の人がともにもてなした。
(時頼が)「毎年頂いている足利の染物が、(今年はまだ頂いてないので)待ち遠しいことです」と言うと、「用意してあります」と、さまざまな染物を三十品も出して、目の前で女達に小袖に仕立てさせて、後で屋敷にも使いの者に届けさせたという。
その場に居合わせた人が最近まで生きていて、私(兼好)に話してくれた。

↑の正確な年時は不明だが、義氏の母北条時政北条時頼の父は北条時政の曾孫だから、二人は祖父と孫ほど世代が離れており、生年を比較しても38歳の差がある。
義氏は66歳まで生きたから、最晩年の遣り取りだったとしても、北条時頼のほうは28歳と、かなり年若い。(と言っても時頼は、36歳と、若くして亡くなっているが)

また、義氏夫妻の「」のほうは、北条泰時の娘だろう。時頼の叔母にあたる。
足利氏顕彰会によると、この時の義氏の接待メニューは、権勢の人を迎えるにしては、そう特別なご馳走ではないらしく、両者の間には飾り気なく、気さくで気取らない付き合いが伺えるという。

←鐘楼は、義兼が建立し、後に再建。
入母屋造、本瓦葺、鎌倉時代、国重文。

鶴岡八幡宮へ参詣後という事は、時頼が足利まで来たのではなく、鎌倉の足利氏館へ立ち寄ったんだろう。
そこで、「毎年貰う足利の染物」とか言い出すのだから、足利氏は本拠地の産物を、常に鎌倉にいっぱい運ばせ、蔵にでも詰め込んで、客が来るたびに土産に持たせたんだろう。
(ちなみに足利は、「足利織物」といって、絹織物の名産地)

前に相馬に行った時、千葉氏の名馬を、頼朝の御家人らが貰って誇らしげに自慢する、という話をした事がある。2009年5月<相馬「中村神社」(西館跡)>内
この時代の鎌倉武士というのは、どの家と婚姻して親戚になったから、このような名産物がいつでも貰える、というのを人前で見せるのが一種のステータスだった、と思う(笑)。

例えば、新田義貞千葉氏と婚姻していたから、新田で飼育されていた馬(新田も馬の名産地)と千葉氏の名馬をかけあわせたりしてたと思う(笑)。
馬は今でいえば自動車と同じ(^_^;)。性能の良さもさることながら、見た目が物をいう(笑)。

染物とか絹織物なんてのも、人目に見えやすい物(今でいえばブランド品)であるから、得宗家筆頭の執権とは言え、「俺は足利にいつでもこんな物を貰ってるんだからな」といった気持ちは当然あっただろうね(^_^;)。

池辺に囲まれた中央に入って鐘楼を見る(パノラマ3枚ほぼ180度)

もう一つ、義氏の時代に残された重要な痕跡は、鑁阿寺そのものに施された、「塔中十二ヶ院」の建立である。
これは今ある鑁阿寺の境内を囲むように外側に建てられた、12の寺を指す。

すなわち、東に、六字院、不動院、普賢院、東光院、
北に浄土院、宝珠院、威徳院、延明院、
西に金剛乗院、千手院、竜福院、安養院

であり、千手院塔頭(首座)とした。

ここまでは、境内の案内板にも記載されているのだが、この十二院に絡んで、義氏の時代以降、この鑁阿寺に関する重要な事を言うと、「鑁阿寺文書」の事がある。

鑁阿寺文書は膨大な量の中世史料を蔵し、何かと言うと名を見かける(^^ゞ。
ところが年号が記されてない物が多い(御内書など書状形式の文書には、通常年号が記されない)ため、書かれる記述の年代特定が困難で、文書の活用が、歴史を解読するのに対して高いハードルとなっていた。

ただ史料が多くない中世東国史にとっては貴重な文書群である。
そこで、この十二院の存在が改めて注目される。

再び仁王門に戻る。かつてはこの土塁の境外に十二院が取り巻いていた
(パノラマ3枚ほぼ180度)

それは十二院の年行事が、干支に沿って役割分担されているのではないか、という推測によるもので、その干支がわかれば、12年ごとの歴史事象に照らして、ある程度の年代特定が可能となるからだ。

先ほど出した見取り図は、境内の内部を示すが、かつては今の境内の外側に十二寺院が広がっていた
案内板によると、

「義兼の子・義氏(尊氏より六代前)の代に七堂伽藍は完成し、堀の外に塔中十二坊が堀をかこむ様に建てられましたが、明治維新と共に塔頭・千手院(現、足利幼稚園敷地)を除いて、(明治4年(1871)の廃仏毀釈により十二ヶ院が廃せられ)明治政府に上地させられ、

今は家富町という民家になっております。(広さ約5万坪)」とある。
つまり今は寺の敷地ではないが、かつては「塔中十二ヶ院」(または「供僧十二院」)と呼ばれ、中心「大御堂」を取り囲むように、12方向に院坊が建っていた。

案内板には、ただ十二の院名が羅列してあるが、その配列と干支の関係としては、右図の検証が例示されている。(佐藤博信『中世東国の支配構造』)

たとえば、以前、古河総合公園鴻巣館跡)において、古河公方初代・成氏の出した文書には、御判御教書(年号のついた発給文書)が少なく、御内書(年号の記されない書状)が多かったという話を書いた。(2015年5月<古河総合公園C「筑波見の丘」から「桃林」まで北上>内

当時こうした事が、その前の関東公方との差として、何らか強く関東諸氏に対する効果を上げた可能性がある一方で、年代特定が困難な当時史料という点で、文書に現れる特定の個人名や事象などが、歴史の検証としては全く役に立たない事になってしまう(^_^;)。。

それがこの十二院の存在と、その年行事との関連づけによって、大まかな時代特定が可能となる希望が与えられたのである。

この十二院は、一般民家に開放される迄、六百余年この山地は続き、今の家富町全域が当たるそうだ。

義氏は、仁治二年(1241)53歳で出家し、足利左馬入道と号し、建長六年(1254)11月22日66歳で卒した。法楽字殿正義大禅門とされる。
あとに義氏の墓地がある「法楽寺」にも行く。

義氏の五代の孫、足利尊氏に至って、天下を平定し、京都に幕府を開き、室町文化の華を咲かせた事は前回も述べた通りである。(2015年11月<門前通り>内



<「太平記館」を見てから、お昼ご飯(^O^)>

↑まんま(笑)。前回あらかじめ述べた通り、足利は駐車場が難点で、今見て来た通り、鑁阿寺の敷地内にも、車がいっぱい停まってる場所があったものの、正式な駐車場なのかちょっとわからない(^_^;)。

我々はあらかじめ宿泊したホテルの駐車場に停めさせて貰って、足利学校と鑁阿寺を見学したが、市街を走っていると、だいたいはこの「太平記館」に案内してる感じがするので、我々もホテルから車を移動させ、まずはここでお土産を物色(((つ^o^)つ

太平記館」(地図パノラマ3枚

建物の名称から察するに、NHK大河ドラマ「太平記」をやった時にでも作られたのじゃないかと思う。

わりと大きめの建物だが、意外な事に、中には食事処が無い(^^ゞ。
前回も「門前通り」の所で書いた通り、足利学校鑁阿寺には、専用の駐車場が無いので、ここに改めて「太平記」をメインにした観光商品(土産)を置く目的で作るけど、お食事は、足利学校や鑁阿寺ふきんの飲食店でして貰おう、という趣旨じゃないかな〜と(笑)。

店内に入る所には……

たかうじ君」がお出迎えしてくれる(≧▽≦)
↓兜はよく見ると足利学校学校門である(笑)
土産はいっぱい置いてあり(主に郷土物産)、人形の展示や、大河「太平記」で使われた足利尊氏の鎧、尊氏に関する新聞記事なども展示されていた。

尊氏の鎧→

他に尊氏の和歌の小冊子や歌詞チラシ、足利学校で見た(祭祀に使われる酒杯。足利学校では孔子を祀る「釈奠」で用いられる)のレプリカも売られていた。

駐車場には係のオジサンたちが立ち働いて案内して下さり、「食事をしてくる間、停めてもいいですか」と聞くと、「長すぎない時間なら無料なんです」とニコニコ応じて下さり、「こんな小さい所でスイマセンね。今度もっと大きな施設を作りますから」と何やら嬉しそうに仰ってた。

何か出来る予定があるのかな(^^ゞ。日本遺産に指定されたので、勢いが出ているのかもしれにないねっ♪ *おじさん達がんばって(^O^)/~*

中をのぞいて、ちょっとお買い物した後、また歩いて鑁阿寺の門前通りまで行って、今度はお昼ご飯を食べた。↓

門前通り中ほどの和食屋
ゆずかろ亭」(地図

「和食」と書いたが、メニューを見ると、蕎麦を中心にした定食がメインっぽいので、「蕎麦屋」と言うべきかも(^^ゞ。
足利は蕎麦が名産なのだとか……。

他に、ポテト入り焼きそばなんかも地域の味だとか、キリンビールに用いる麦の産地でもあるそうで、焼きそばに麦……やはり近いだけあって、お隣の新田と、採れる食材や作る料理が似通ってるな〜と(笑)。(2013年3月<大光院門前・大河「太平記」と焼そば(爆)>

しかし、蕎麦屋と呼ぶには、ちょっと雰囲気が異国情緒してて……↓

欧風のような中東風のような
7月だったので窓から風も取り入れ

街で見かけた足利市内のマップなどには、アートギャラリー・画廊・美術館・工芸館など、芸術系のお店や施設が凄く多いと思った。

あとちょっと歩いてはコーヒーを飲みに店に入る、という感じに、コーヒーが飲める店も多いらしく、何だかお洒落な町なんだなーと思った(^^ゞ。

だから蕎麦中心の和食店でも、店内のインテリアがこういう感じなのも、あまり違和感が無い。

窓からゆったり外を眺めながら
蕎麦と天ぷらの和食セットを頂く

お蕎麦も天ぷらも小出しも、素材の味をよく活かした仕立てで、特に天ぷらの素材が風変わりで美味しかった。

美味しくお蕎麦を食べた( ^,3^)ф´後は、コース再開。



<勧農城跡(岩井山赤城神社)>

市内の中心地「足利学校」「鑁阿寺」を見学した後は、南から北方向に攻めてゆく。
まずは、今回訪れた中では最南端にあたる「勧農岩井山城跡」(現・赤城神社)に行く。

←市街で見つけた付近絵地図。字がとても小さいので私が(例によって)上から、今回行った所、その他メイン観光地、駅、山、橋などの名を書き入れてある。

今回行った所は、訪れた順に、「足利学校」「鑁阿寺」「岩井山」「長林寺」(二箇所あるが左上の方)「法楽寺」「両崖山」「心通院」「樺崎八幡宮」。

午後はまず渡良瀬川に向かう。

↑の絵地図だと、渡良瀬川にかかる「田中橋」と「福猿橋」の間に「岩井山」の表記があって、どちらかと言うと「福猿橋」に近く見える。
が、岩井山は渡良瀬川に取り巻かれながらも、辛うじて川の北岸にくっついているので、「福猿橋」で渡良瀬川を渡り切ってしまうと、通り過ぎてしまう(^_^;)ゞ

だから「岩井山」に行くには、「田中橋」と「福猿橋」の間にある細い「岩井橋」(地図)を渡らないと入っていけない。これは橋ではあるが、周りに現在は川は無い(爆)。

前の車から犬が!(笑)
「岩井橋」を渡る。右手に見える男女浅間山

前回、「足利学校」で述べたように、足利の中心部にある二大観光史跡「鑁阿寺」と「足利学校」は、前者が足利氏、後者は関東足利氏の管領上杉氏の史跡と言えるが、その周囲に散らばるのは、上杉氏の家宰氏族・長尾氏の痕跡が多くなる。

これは、1500年代半ば、享徳の大乱による、古河公方・足利成氏との戦いの折、長尾氏が足利に入部して、上杉勢力の確保を計った事に始まる同氏支配が原因で、その最初の本拠地が、ここ岩井山なのだ。2015年5月<古河総合公園@「古河公方館(鴻巣館)跡」まで>内以降)

橋の渡る先に見えるのが「勧農城」のあった岩井山

森の合間にチョロと見える瓦屋根の建物が「赤城神社」(地図)で、本来の城跡は神社より高台にも続く。

が、我々は神社までしか行かないので、ここで全景を出しておく(^^ゞ。

初めてこの「勧農城」という名を聞いた時、何となく異様な感じがした(^_^;)。
前もって、「勧農とは農業の振興を意味し、中世における領主の責務」と書かれているのを読んで、「それはそうかもしれないけど、あまり聞いた事無い地名のような(^_^;)」と思っちゃったんだな(笑)。
何か観念的で、「地名」といった自然につく物に当てはまりにくいような……。

それともう一つは、この立地条件。
地名の由来では、「勧農城一体は古くから足利荘の中心的な位置を占め、足利荘の政所があった」と云うんだが、地図で見ると、「ここに(^_^;)?」という気分になる……。

見ての通り、小高い丘ではあるのだが、その麓部は、半島と言うよりは、という感じ(^_^;)。川は岩井山を南周りに大きく蛇行しているが、昔なら廻りを渡良瀬川の激流に取り囲まれていたんじゃなかろうかと思ったからだ。

左手に今は水泳プール場が!(笑)
渡り切って右折、土手道をゆく

今は緑地の占める河川敷になっていて、一つ東の「福猿橋」の左右は、渡良瀬川をイメージするかのように、遊泳用プールだとか、公園広場の池だったりするようだが、ここ岩井山の麓の「岩井橋」の下は、地元の高校の第二グラウンドになっていて、野球やテニスの練習に勤しんでる高校生がいっぱいいた。

そこに広〜い駐車場があって、親御さんの車かな?いっぱい停まってたけど、余裕がありそうだったので一緒に停めさせて貰った(神社専用の駐車場というのは無かった(^_^;))。

土手の上り下りの時に、素振りの練習をしていた球児クンが、すこぶる礼儀正しいお辞儀をして下さった。
きっと父兄の方と間違われたんだろうけど(紛らわしくてスイマセン(^_^;))、何とも爽やかな感じで、「こんな風景の良い所で練習を積んでると、こういうすがすがしい若者に育つのかなー」なんて、羨ましく思った☆

橋向こう土手の上には山の稜線がよく見えて雄大(^^)(パノラマ3枚ほぼ180度)

では、勧農城(岩井山城)跡に行ってみよう(^^)。まずは現地の案内板から↓

岩井山城跡勧農城跡)
足利旧市街の南東、勧農山(いま岩井山)なる独立小丘の丘頂から麓部までを占め、東西約160、南北約200mに及ぶ。
丘頂は平坦で本丸跡、廻りを土塁で囲み、南から東の緩斜面に階段状に二の丸、三の丸を設け、その北東の本丸直下に大手口をつけ、帯郭が連なる。本丸跡北東隅の最高所は物見台跡である。北の尾根は一段下って郭となり、それより西は段階状の帯郭となっている。
西から南には南流する渡良瀬川がめぐり崖上に築かれたこの城は見晴も絶好で天険の城塞である。文正元年(1466)足利長尾氏の初代景人足利庄代官としてここに居城を構えた歴史的城跡である。
(昭和45年7月25日、足利市指定)
昭和63年12月
財団法人 足利市民文化財団
足利市教育委員会

入口は鬱蒼たる森に覆われている(パノラマ3枚ほぼ180度)

前回の足利学校のレポ(2015年11月<「足利学校」B、「南庭・方丈(外観)・裏門」>内で、足利学校の元あった場所について、足利学校の「入徳門」近くの案内板に、

現在地の南東方1キロ弱の国府野にあり、奈良・平安時代に諸国に置かれた国学の遺制であるといわれる……

……ウンヌンと書かれていると述べた。

この文面だと、「奈良・平安時代の国学所の名残」と読めて、国府の管轄でもあったかのごとくだが、これも前回同項で、「下野国府は別の場所にあったので、恐らく古くから足利氏の政所があったとされる場所だろう」的な事を述べた。

そして南東1キロぐらいの位置を、地図上を指で推し量ると、だいたいここ岩井山勧農城地図)あたりに指が当たる事も前回述べた。
『上杉憲実』(田辺久子)にも、この勧農城を、足利学校の前身とする地元の説(伝説?)が紹介されている。

それが今、上に見た通り、この城跡の看板には、そうした古い痕跡が一切書かれておらず、いきなり「1466年、足利長尾氏、初代・景人」の入部から書かれている。

←登り階段は上が真っ暗で恐る恐る登る(^_^;)。。
↑でも到達した先は、意外と広々とした境内で、日もよく当たって明るかった(^_^A)

この勧農城の後に、「長林寺」「心通院」など、この戦国期の足利長尾氏の史跡も巡るので、今回は時代を下って、関東長尾氏について書いてみようと思う。

長尾氏がこの足利を支配するきっかけとなったのは、長尾氏が仕える上杉氏が、古河公方足利成氏と対立し、享徳の大乱を戦い合うようになったから、というのが一般的な解釈と思われる。

室町幕府は、享徳の大乱が勃発するや、殆ど自動的に「上杉支持」を打ち出した。
よって足利成氏は、その後30年近くにもわたって、朝敵認定をされ続ける事となる。

だから「一般的には」、謀叛を起こしているのは古河公方・成氏と、その与党の者達で、京から見れば、東国に古河公方を追討してるつもり……という事になるわけだが、これこそ、いわゆる中央史観という奴である。


境内の先にある拝殿に掲げられた扁額は「赤城神社」↓

「赤城山」(地図)の方向は、拝殿の左手やや背中側あたりかなぁ……。

幕府の上杉支持路線は、成氏の父・持氏永享の乱の時も、成氏の兄・春王丸安王丸結城合戦の時も、鎌倉府と対立するたびに出してきた、いわば「既定の路線」に過ぎない。

折々に「一般的」などと廻りくどい言い方が出るのも、上記の言い回しだと、主因は主人の上杉氏にあって、家来(家宰)の長尾氏は、付き合わされて古河公方と戦うハメになってしまったような印象になりがちだからである。

ところが東国府の視点で見れば、享徳の大乱に至る初期主因は、「上杉氏より、むしろ長尾氏にある」と言う主張であったと思われる。


拝殿から見下ろす方面は、赤城山と言うより筑波山かも(^_^;)(パノラマ3枚ほぼ180度)

永享の乱によって、鎌倉公方は鎌倉にいなくなり、続く結城合戦によって、その後継者すら東国にいなくなった。
その後を圧倒的な支配力によって、各地に押し入り、利益を脅かした関東管領・山内上杉氏の主導勢力に対し、東国各地から不満が強まり、不協和音の頂点に成氏は立った。
(2015年5月<古河総合公園@「古河公方館(鴻巣館)跡」まで>内、および、<古河総合公園B「公方様の森〜天神橋」>内以降)

それでも成氏は、当初から上杉を敵対相手とみなしたのではなく、その配下にいて威を奮う、家宰・長尾氏こそ事態の根本と見抜いて、その排除を試みたが、上杉氏は全く協力的ではなかった。

そこで関東管領・上杉憲忠を討ち、その後の混戦につれて、鎌倉から古河に拠点を移した。
が、所が変わっても、長尾氏こそが、関東の大乱の当事者であり、いわば張本人と見られていた点に変わりは無い。


渡良瀬川と橋と向うに聳える山々の眺めが爽快(^^)(パノラマ3枚ほぼ180度)

成氏は時に敗色が強ければ沈黙し、時に優勢に転じると和睦の誘いを投げかける、なかなかの軍略上手で、冴えた外交手腕の持ち主でもあった(笑)。

が、その主張は、事の発端(1450年、江ノ島合戦)から32年間、終始一貫して、「朝廷・幕府・上杉とは和睦」を望み続けた。
つまり、「長尾討つべし」から始まった大乱の根幹姿勢を曲げなかった、と見る事ができる。

だから中央史観に偏らず、東国府の視点に立つと、東国府も追討戦を展開していたのである。

上杉はそれを判っていたし、京幕府でも認識されていた。江ノ島合戦の(畠山氏が管領だった)頃までは、成氏の主張も配慮されていたフシがあった。


「岩井橋」(地図)を戻る。北に連なる山容が雄大(^^)(パノラマ2枚)

しかし幕府からも上杉からも、長尾を罰するとか、家宰の立場から退かせるとか、様々な権益を長尾氏から取り上げたり、永享の乱の前に東国を戻す、といった成果は得られなかった。

その原因として、関東管領上杉氏の力の大きさもさることながら、上杉氏の家宰・長尾氏の実力の程がそれだけ強かったことがあげられる。

それほど大きな権力を、いかにして持つに至ったのか、そしてこの足利にその後、戦国末期に至るまで、土地支配を施した足利長尾氏というのは、長尾一族の中でどういう位置づけなのかを、これより話していきたい。



<長林寺>

勧農城跡が渡良瀬川を越えて南にあるのに対し、次にいく「長林寺」は、「足利学校」「鑁阿寺」を超えて、北西方面に位置する。

まずは渡良瀬川沿いを中央まで戻ってくる。

三連アーチの中橋と浅間山
その先では渡良瀬川の水面が見れた

長尾氏の話を続けよう。

長尾氏も自称する所は、千葉氏や畠山氏と同じ、桓武平氏の良文流という。
平安末、頼朝にとって敵の平家方・大庭景親に与したため、三浦氏に預けられ、遇された。
それゆえ、その三浦氏の滅びた宝治合戦(1247)で、三浦氏とともに没落。

こうした経過もあって、その系図は様々ありながらも、正しい所が判明せず、南北朝期の「景忠」あたり(1341年頃)から、やっと具体的になるという。

長尾氏の説明の中には、上杉氏との縁は南北朝より古いというものもあって、相模系とは別に、京にいた長尾氏が、鎌倉幕府の六代将軍となった宗尊親王に伴って、鎌倉下向して来た上杉重房の介添えとして京から来て、相模系から養子をとって後継とした、というものも一部あるらしい。

が、これよりゆく「長林寺」に所蔵される系図には、こうした記述は見られないという。


右折して市街に向かう「織姫橋
渡り切ると「織姫神社」が聳え立つ

中橋(地図)、浅間山(地図)、織姫橋(地図)、織姫神社(地図)←詳細は各々拡大を

引き比べ、「景忠」の頃すなわち南北朝期というのは、上杉氏が、足利尊氏・直義の母系の親族であったがゆえに、絶大な権限を持って北陸や関東に割拠しはじめた時期にあたる。
上杉氏は、その活動を補完すべく、その頃から多くの配下を抱えたから、長尾氏の活動が具体化するのも頷ける。
(2013年6月<雲谷寺(新田義宗の墓)>内

さて、肝心の足利長尾氏であるが、そもそもこの系譜を、長尾氏の中で筆頭宗家(惣領)と見るべきなのかもしれない。

しかし「長尾氏」と言えば、謙信の出た越後長尾氏と、「長尾景春の乱」を起こした長尾景春の長尾氏がよく知られていると思う(私もそうでした(^^ゞ)。


↑デカくなったが(笑)、養子モードではなく、血縁モードすなわち生家(実家)の所に各人を書き繋いでいる。
長尾氏は各系統の間で養子の遣り取りが多く、一族の結束を始終はかっていた事がわかると思う。

折々にこの系図をクリックして出せるよう、リンクを貼りながら進めますね(^^ゞ
(こんな感じにね→長尾氏系図) 出たウィンドは×ボタンで片づけながら先に進んでね
 

織姫神社(拡大・地図
やがて長林寺の参道入り口に到達

織姫神社は、この足利の地が織物の名産地である事を象徴するように、中心地の目立つ山腹に配置されている。

そして長林寺は、織姫神社の後方、両崖山の山頂にやや近づく途中にある。(地図

長尾氏系図
先に述べた通り、先頭の「景忠」以後が上杉氏の下で行動した長尾氏となる。
既にそこから、後に謙信を生む越後長尾氏とは、枝が別れてしまっている。

一方、長尾景春に続く系譜は、景春の祖父・景仲赤い矢印)に注目して貰いたい。
生家に続きの系譜を書きこんである。「景仲→景信→景春」で、景春に続き、景信の弟に「忠景」がいて、叔父の忠景と甥の景春の間で、家督相続の対立が発生。「長尾景春の乱」へと発展した事が知られている。

この景仲は、先祖「景忠」の嫡流「鎌倉長尾氏」に養子に入っている

同じく、足利長尾氏の祖・実景
青い矢印)も、「鎌倉長尾氏」に養子入りしている。
この実景の祖父「満景」には「@」と振ってあり、これは「上杉氏家宰」となった順番を示している。


長い参道の最後、門前の蓮池↓
長林寺」(地図)正面→

長尾氏系図
「満景」には兄(嫡流)「景英」がいたが、早死にしたか何かで、初の家宰の地位に満景が就任している。満景の流れを「犬懸長尾氏」と呼ぶ。
嫡流は「鎌倉長尾氏」の「A房景」であるから、二代目の家宰にこれが就任しているが、男子がなかったか、早世したかで、ここで跡継ぎが絶えてしまう。

そこで、一番血縁に近い、従兄弟の「景仲」が「鎌倉長尾氏」の後を継いだが、景仲の母の実家も同族・「白井長尾氏」であり、そこも跡継ぎが絶えたのだろう。景仲は「鎌倉長尾氏」を離れ、「白井長尾氏」の女と結婚して、これを継いでいる。(
赤い矢印

景仲に代わって、惣領「鎌倉長尾氏」を継ぎに養子に入ったのが、先に言った「実景」である。
実家の「犬懸長尾氏」は、恐らく弟の「某」が継いだが、子孫無くこの世を去ったか何かで、「実景」の子、「景住」が「犬懸長尾氏」を継いだ。

が、「景住」も子孫無く死に(これは後述する)、「景住」の弟(実景の末子)「房清」が、兄「景住」の養子となって、「犬懸長尾氏」を継承した。(
青い矢印

豪壮な山門・周囲の六地蔵
新緑の下に伸びる苔むす参道

この長林寺は、今話している足利長尾氏の初代・景人の創建。

山門は瓦葺き・四脚門、けやき材の丸柱、控柱 上に大斗、三斗組、虹梁大瓶束の妻飾り。虹梁と本柱頭貫との間に大斗、組物を設け、中備は板蟇股、内部上部は化粧屋根。
小屋裏の二枚の棟札から、元禄15年(1702)の創建時の山門と確認され、江戸中期の年代を特定できた。
平成8年に足利市重要文化財(建造物)。

地蔵は石造で六躯(六地蔵)。各総高160センチ前後。
左から二体目の石塔部北面に「正徳元年」(1711)の年記銘と女人講によって造立された旨が記されていた。
平成9年、足利市重要文化財(民俗文化財)

やがて本堂に向けて階段を上る
左右に見事な大輪アジサイの群生

長尾氏系図
以上は、「白井長尾氏」、および「犬懸長尾氏」の継承経過である。
では当初、養子を継いで後継を繋いでいた、惣領格「鎌倉長尾氏」はどうなったのか……。

先に結果のみ言うと、犬懸長尾氏の後継に人選されてない「景人」が、実父「実景」の継いだ「鎌倉長尾氏」の後継者格となったのだろうと思われる。
この景人が「足利長尾氏」の祖となり、足利に入部して、戦国末期まで続く礎を築いた。

そう。つまり勧農城に入り、この足利の地を戦国期まで領した足利長尾氏が本家なのである。

この長林寺も、はじめは勧農城の隣接地に建立され、三代・景長現在地に移設したと寺の案内板に書かれていた。


この日、お寺の本堂から、クラシック楽器の素晴らしい生演奏が聞こえて来た。
境内の掲示板ポスターに、演奏会の日程が見えたから、打ち合わせ練習が行われていたのかも。

プロの生演奏をタダで聞けるなんて、何だかすごく得した気分(#^.^#)。
そのとんでもなく名演奏が、この後に行く鬱蒼とした緑の奥、長尾家の墓所にまで綺麗に響いて、このお寺の印象が、今でも強く残っている。

現在の本堂・開山堂は、昭和4年(1929)、小林福太郎(1882〜1938)の設計。鉄筋コンクリート造平屋建て。
屋根の曲線や外柱の真ん中をふくらませるなど、奈良の寺院を思わせる一方、煉瓦を敷きつめ、黄色の壁、花頭窓、折れ戸の正面扉など中国禅宗寺院の様式も取り入れている。
国登録有形文化財(建造物)

城塞だったという話は見ないが
(拡大)傾斜の所々に石垣

長尾氏系図
嫡流「鎌倉長尾氏」は、既に書いて来た通り、実は「景英−房景」までで絶えている。
そこに、先に養子に入って後、白井長尾氏の養子となった「景仲」の次に血脈の近さを辿って、初代家宰の満景の孫・実景が養子入りにより後継、「鎌倉長尾氏」の家名を保った。

これは実質、満景の「犬懸長尾氏」こそが、殆ど筆頭嫡流家(惣領)格になったと言える。
系図に有る通り「@満景−C憲景−E実景」と、三代に渡って山内上杉氏の家宰職に就いているのを見ても明白である。

ところが、惣領(宗家)という責任ある地位にあったため、この「犬懸長尾氏」の系譜には毎代に悲運が訪れる。

本堂に到達。左は大日如来像の祠、さらに左に墓地(パノラマ4枚180度以上)

長尾氏系図
@満景。
上杉禅秀の乱(1417)によって戦死。主人・山内上杉憲基に従って、禅秀追討の側にいたためと思われる。

C憲景−E実景
(CとEを父子、または兄弟と見なす両説あるようだ)
憲景は不案内だが、もしかすると……。。
江ノ島合戦の時(1450)、長尾景仲太田資清が公方・成氏を急襲した際、上杉憲忠は恐らく長尾・太田からも何も知らされておらず、成氏の側にも、「長尾」と名乗る者がついていたようだ。
これが憲景かな、という気がするが、どうだろう(^_^;)?

つまり、江ノ島合戦に至る成氏急襲未遂事件というのは、長尾氏の一族においても、長尾景仲だけが突出・暴発したクーデターであって、上杉は勿論、惣領格の鎌倉長尾氏(犬懸長尾氏)も寝耳に水だった可能性があるかと、個人的には思っている(^^ゞ。

E実景−景住(犬懸長尾氏へ養子)
1454年、鎌倉公方・足利成氏(後の古河公方)が享徳の大乱を起こした時、その手始めに、管領・山内上杉憲忠を粛清した。
犬懸長尾(実景・景住)父子は、この際、成氏側に討ち果たされている。上杉側と見なされて、ともに殺害されたのだと思う。

(2015年5月<古河総合公園@「古河公方館(鴻巣館)跡」まで>内、および、<古河総合公園B「公方様の森〜天神橋」>内以降)

銅造大日如来坐像
田崎草雲の墓

↑左の写真、大日如来坐像は、江戸時代の1737年、佐野天明町の大工・長谷川弥市・藤原秀勝の作。足利市重要文化財(彫刻)

右の写真は、墓地に進んで最初に出会う「田崎草雲の墓」。
草雲は文化12年(1815)に江戸の足利藩邸内(神保町)で生まれた。恒太郎といった。
武士でありながら、父が絵心あった影響で、親戚・金井烏洲に習い、20歳で藩士を辞め、谷文晁・渡辺崋山らの画風を学んで、39歳で足利藩の絵師になる。

尊王の志も持ち、志士との交流もあったため、幕末・維新の動乱には、誠心隊によって治安を守り足利を救った。
また、足利学校の古書の散逸を防ぐため尽力。義を重んじる人徳を多くに慕われた。

明治時代は建築・山水・花鳥・人物など広範囲の作品を手掛け、西洋画風を取り入れつつ日本の個性も活かした南画は、国外でも高く評価され、1890年、帝室技芸員に選ばれた。
1898年、没。

墓地全景←こう進んで来た。中央の階段をゆく(パノラマ4枚180度以上)

長尾氏系図
何しろ、このようなわけで、鎌倉および犬懸長尾氏は、次々と当代を失うに至り、辛うじて鎌倉長尾氏は景人が残って足利長尾氏となり、犬懸長尾氏は景住の弟・房清が後を保った。

以上で、足利長尾氏の長尾氏一族における位置が、だいたいお伝え出来たかと(^^ゞ。
繰り返して言うと、「足利長尾氏こそ、長尾氏の惣領(宗家)格に位置する」と言えよう。

それなら、なぜこの足利長尾氏が、それほど有名でないのか(^_^;)。
だって「関東の長尾」と言えば、長尾景春でしょ?!(笑)

そこは後から始まる説明を聞いてほしい。次は「法楽寺」に行くので、その後から始めよう(^^ゞ。
(「千葉県の動乱」<長尾景春の乱、江古田沼袋・境根原・臼井攻城戦(1476〜1480)>

宗家・鎌倉長尾氏の跡を継いだ「足利長尾氏」の墓所(パノラマ4枚180度以上)

現地の案内板↓

足利市重要文化財(史跡)
長尾氏歴代墓所
長林寺は足利城主初代長尾景人が創建で長尾氏歴代の菩提寺であり、もとは勧農城(岩井山)の隣接地にあったが三代景長現在地へ移設した。
長尾氏の祖、景人は文正元年(1466)足利庄の代官として入城し、以降、定景、景長、憲長、政長、顕長の六代にわたり140年余の間、戦国時代の両毛に武威を振った。
墓塔は上段に石造五輪塔五基、石造宝篋印塔三基、下段に石造宝篋印塔十一基が並んでいる。
昭和46年11月19日 指定 足利市教育委員会

定景、景長、憲長、政長、顕長の六代」は→長尾氏系図の通り、定景と景長が兄弟、あとは父子相伝で、最後の「顕長」だけは、お隣、新田金山城の由良氏からの養子である。

ズラリ並びに並んだ宝篋印塔達(拡大)(パノラマ4枚)

足利長尾景人が足利庄に来た時については、どこの案内板でも「文正元年(1466)」とするのに対し、「長林寺」との関わり(つまり景人による寺の創建)については、この寺の案内板に「文安5年(1448)」と、時代が早まる記述を見る。
その創建時、景人は足利に大見禅竜禅師を招き、同禅師の開山で「長雲寺」と称したという。

長尾景人が勧農城に居城してた頃は、その隣接地にあったと↑にもあるから、景人が足利庄に入る前は、もしかしたら足利以外(鎌倉とか?)にあった寺という事もあるかもしれないが、いずれにせよ「文安5年(1448)」というのは気になる(笑)。

何が気になるのかは後に書くとして、ここでは長林寺についても書いておこう(^^ゞ。

創建時は「竜沢寺」とも言われたそうで、享徳2年(1453)、二世傑伝禅長禅師の時代に「竜沢山長林寺」と現在の名に改めたという。

ここまで本堂のピアノ合奏が響き渡って、何とも上品な雰囲気(#^.^#)(パノラマ4枚)

長林寺は元和元年(1615)頃、現在の堂宇が整備された。
長尾氏代々の菩提寺となって寺門興隆が伝えられたため、特に「長尾氏系図」など長尾氏関係の文書類が数多く保存されているが、他にも貴重な文化財が数多く残されている。

<国指定 重要文化財>
 絹本墨画淡彩 観瀑図(狩野正信筆)  一幅
<重要美術品>
 紙本著色 長尾景長・憲長・政長像  三幅
 笈 木製鎌倉彫牡丹桃実文        一個
 銅鐘                      一口
 木印印文「禅」                一顆
<県指定 文化財>
 絹本著色 釈迦三尊・十六善神図    一幅
<市指定 重要文化財>
 紺糸威餓鬼銅具足(三つ巴の九曜紋散)一領
 絹本著色 柳堤聞鶯之図(呉彬筆)    一幅
 紙本著色 達磨像              一幅
 長尾氏歴代墓所
 銅造 大日如来坐像            一躯
 山門                      一棟
 石造 地蔵菩薩立像            六躯

これら物的文化のみならず、人材養成の別格道場としての伝統を現在に継承し、参禅会等が行われている。(洗心講座 毎月第二日曜日)
さらに「足利七福神」では「福禄寿尊」が配当。併わせて子供観音も祀られている。



<法楽寺>

時代が行き来して恐縮だが、南から北へと巡っている。今度は鎌倉期の寺。

前回に述べた通り、私は足利氏の初代・義康、2代・義兼、3代・義氏における足利の各寺院(鑁阿寺・樺崎寺・法楽寺)の関係は、奥州藤原氏の初代・清衡中尊寺)、2代・基衡毛越寺)、3代・秀衡無量光院)に匹敵すると勝手に思っている。(そうすれば覚えやすいし:笑)。

実際には、義兼の代に寺院づくりが始まったし、鑁阿寺は義氏の代にようやく完成形を見たのだが、義兼がちょうど奥州秀衡の世代であり、奥州征伐後は、鎌倉でも奥州平泉を模倣したと見られる寺院建立があるので、その手のブームが鎌倉武士の間であったと見ている(笑)。

2010年2月<中尊寺・参道、1(八幡堂)>
2010年3月<中尊寺・参道、2(総門〜本堂〜讃衡蔵)>以降
2010年5月<「毛越寺」@、表門〜南大門跡>以降
   〃   <えさし藤原の郷・E「伽羅御所」、1>内<無量光院跡>


そのうち、この法楽寺は、3代・義氏の墓所がある。

義氏は義兼の三男で足利三郎と称し、義兼が頼朝に従って奥州討伐中の1189年に生れた。
鑁阿寺の「大御堂」は(持仏堂)は、建久7年(1196)に父・義兼が建立したから、義氏は幼少時から、寺院建立事業に精通していたと思われる。

また義氏の世代にとって、大きな武勇伝となりうる事件は事欠かず、畠山重忠討伐(1205)に17歳で初陣、和田合戦(和田氏を滅亡させた事件)では、朝比奈三郎と一騎打ちして勇名をはせた。

法楽寺地図)門前参道
山門

周囲を間近に近隣住宅が建ち並んでるので、一見、見付けにくいように思えるかもしれないが、寺の前には大きな駐車場(空き地というべきか)があって、寺の前通りは、ちょうど寺の所で緩やかにカーブしてるから、見付けにくいというような事は無い。

ただ、山門に入る階段に衝立があって、「他から入る所がある(^_^;)?」と、周囲をグルグル歩きまわった(笑)。
結局ここしか無いようだったので、衝立を跨いで入らせて頂いた。(いけなかったかな(^_^;)。でも他に手段がなかったんデスけど。。。)

三代実朝が鶴岡八幡宮で横死し(1219)、頼朝の弟・阿野全成・時元父子が滅ぼされ、頼朝の血統が絶えると、京から名ばかりの将軍を迎えた北条氏が政治の実権を握った。

源氏嫡流として将軍に近い後継者でありつつ、義氏は隠忍自重……と、足利氏側の視点に立つ書き方は言うが、義氏の妻北条泰時の娘である。
承久の乱後、死の直前の尼将軍・政子の後押しが無ければ、泰時の北条氏家督も危うかった頃だから、鎌倉武士社会において、姻戚関係にある足利義氏が泰時の応援に徹するのは当然かも(^_^;)。

義氏の墓所は本堂の左手裏にある(パノラマ4枚180度以上)

承久の乱(1221)では、義氏は北条泰時の副将となり、左馬頭・正四位下。

義氏は鑁阿寺の周囲に末院十二院を創建、一大山地(鑁阿寺一山十二坊を)を造営・整備した。
これは明治4年(1871)、廃仏毀釈で民家に払い下げられるまで今の家富町全域で続いたものであり、600年以上という極めて長い年月を、足利の地では、この山坊を見るたびに、創建者・義氏の功績を振り返ったに違いない。

義兼の頃は持仏堂だった鑁阿寺も、義氏の代に至ってこれを改築、父・義兼の菩提を弔うため、天福2年(1234)現在の大御堂を建てた事が、現存する棟札によって判っている。

晩年は政治から離れ、仁治二年(1241)53歳で出家。正義、または足利左馬入道と号す。

本堂(正面)
左脇「足利義氏の墓

義氏は質実剛健を宗とした典型的な鎌倉武士で、鑁阿寺で既述の通り、徒然草216段から、ゆかしい人柄と足利織物を執権・北条時頼に献上して喜ばれた事が偲ばれる。

そして1249年、法楽寺を建て隠棲して余生を送った。

「浮世をば渡良瀬川にみそぎして、弥蛇の生地に住むぞうれしき
霰ふる雲の通路風さえて、おとめのかざし玉ぞみだるる」と詠んでいる。

その当時、法楽寺の門前には広大な阿弥陀池があって、が植えられてあったという。
足利の伝説「片葉の葦」は、法楽寺山門外にあった「阿弥陀ヶ池」にまつわるものである。
片葉の葦(@「西郊民俗談話会」より)

建長六年(1254)11月22日66歳で卒した。
諡を法楽寺殿正義大禅門とされ、法楽寺の山号と寺号(正義山法楽寺)はこの法名に因る。

風変わりな義氏の墓
法楽寺を含む「あしかがの遊歩道」→

右の地図は、柳腹用水沿いの歩道整備を目指した「あしかがの遊歩道」で、この法楽寺も入っている。(字は例によって、私が上から書き入れてます(^^ゞ)
これは、足利固有の自然や歴史・文化の特色をいかし、環境保存と新たな魅力創出のため、足利公園から樹覚寺付近までの「由緒ある七寺」を含めるものである。

「七寺」とは「樹覚寺・法楽寺・徳正寺・法玄寺・高徳寺・三宝院・福厳寺」だが、法楽寺以外は今回行ってないので(^_^;)、今回行った「心通院・長林寺・鑁阿寺・足利学校」なども書き入れた。

法楽寺本堂の南側には、鎌倉から室町時代にかけての五輪塔や宝篋印塔の部分が数多く並ぶが、その中でひときわ大きい五輪塔が義氏の墓所と伝えられる。
高さ1.06m、塔の組み合わせは不揃いで、台石の上に地輪と水輪を重ね、その上には宝篋印塔の笠と相輪をのせている。
水輪に梵字一字が彫り込んであり、これは鎌倉期のものと思われる。

また、金沢文庫に残る「諸要事集」「悟性論」等が鎌倉時代中頃、僧朗海によりここ法楽寺で書写された記録がある。

←さっき出した足利地図
今回行った所は「足利学校」「鑁阿寺」「岩井山」「長林寺」(二箇所あるが左上の方)「法楽寺」「両崖山」「心通院」「樺崎八幡宮」。

正安元年(1299)、鑁阿寺・大御堂が再建。
足利尊氏が京都に幕府を開いた後、法楽寺は天文年間(1532〜54)の火災に遭った記録がある。

が、これは開山太岫玄修和尚によって、弘治三年(1557)曹洞宗として再興されている。

江戸時代は、正徳二年(1712)二代足利藩主・戸田忠囿が、法楽寺を戸田家藩主達の菩提寺(歴代墓所)としたが、万延元年(1806)再度の火災を被ってしまう。

しかしその後も、ここに埋葬された藩士数十名の中に、足利学校保存運動の中心人物、相場朋厚、砲術家の佐藤久太郎などがある。
明治末期、俳句結社「古池連」をおこした皆川真龍は、第二十世住職。

昭和51年(1976)、足利義氏墓所は足利市重要文化財(史跡)に指定された。



<両崖山>

↑その地図でもわかる通り、心通院は、両崖山に近い所にある。
法楽寺を巡った後、両崖山に一度向かった。

何しに行ったかと言うと、「足利城跡」(地図)を探しに行った。
城跡付近で、唯一目印になる神社らしき(御嶽山神社・地図)を地図上に発見したので、勧農城跡の「赤城神社」のような場所を期待して行ってみたのである(^^ゞ。

が、途中から山道を行きあぐねて行くのを諦め、心通院に向かい直した。

足利城跡」は平安期の城跡で、源姓足利氏の前に、この地域で大勢力を誇った藤姓足利氏足利成行により、天喜年間(1053〜58)に築城された、とする説があるらしい。

藤原秀郷−千常−文脩┬文行(佐藤・伊賀・近藤・大友・戸次・立花・武藤・少弐・筑紫)
               └兼光−頼光┬兼行−(足利)成行┬家綱┬俊綱−忠綱
┌−−−−−−−−−−−−−−−┘┌−−−−−−−┘   ├高綱(山上)
└行尊−行政(小山・長沼・結城・他)   └(園田・大胡)       └有綱(佐野・阿曽沼)

街中を通って両崖山を目指し
だんだん登るルートに入る

藤姓足利氏は平家についたため衰亡・消滅し、源姓足利氏の存在にかき消されて、殆ど史跡や伝承は残されてない。

源姓足利氏によって消された、と言うより、下野における藤原秀郷の子孫と言えば、鎌倉期以降、小山氏に大きく軸が移った事や、藤姓足利に血縁の近い佐野氏大胡氏も、それぞれ別の土地で存続・繁栄した事もあって、比較して藤姓足利氏の存在感が薄まったと言える。
(2013年1月<東北道〜北関東道>内

そして何より、他の多くの古い城跡が辿る運命と同じく、やはり戦国期に大きく改変が加えられている事が、平安築城説を小さいものにしている。

それは、先ほどから取り上げている足利長尾氏の入部にともなうもので、1466年に勧農城に来た初代・景人の子で、二代・景長による、永正年間(1504〜21)の大規模改修である。

先に道が無い所まで来てしまった。。(パノラマ6枚180度以上)

というわけで、長尾氏の話を再開(^^)。

長尾氏系図
次は、長尾氏の持った力の出どころについて話してみたい。
一言でいえば、関東管領上杉氏の「家宰」という立場によるところが大きいが、家宰がそれほど強大な力を持つ初端は、「B忠政」以降と見られている。

忠政の家は、かなり古くから枝分かれしており、これを「惣社長尾氏」と呼ぶ。

上に述べてきた通り、嫡流(宗家)「鎌倉長尾氏」の後継が絶えると、それに近い血脈から、次々と養子が送り込まれたものの、養子に入った「景仲」や「実景」に求められたのは、この時点ではまだ宗家との血縁の近さ(^^ゞ。

引き比べ、家宰というのは、家政機関すなわち上杉家の私的な役職ながら、主人が関東管領の上杉氏であるのだから、実質はかなり政治的な立場がともなった事は想像できる。

だから一族の中に年配者がいれば、当然そこから家宰が出た、という事だろう。
忠政が家宰となった頃は、忠政が長尾氏の中で長老みたいな存在だったと思われる。
そして、この忠政の頃から、上杉氏の家宰は存在感と権限を増していった。


←さらば両崖山(;_;)/~(のどっかの足利城跡も)
↑町なかに戻る。織姫神社地図)前通りの織姫歩道橋を彩る赤い欄干が鮮やか(^^)

元々、上杉氏の体制において、長尾氏だけが先頭に立っているという事は特に無かった
上杉氏は越後・伊豆・武蔵・上野に領国基盤を有しているが、各国の守護代などには、寺尾氏大石氏などの名が多く見られ、むしろ長尾氏は遅れを取っている時すらあった。

それが後に長尾氏による一党独裁に変化したのは、ちょうど忠政の前後から、たまたま時代の趨勢に深く関わったという、単なる偶然による所が大きい。

家宰は、ハッキリ「誰が何年から何年まで」と明確に判るようなもんじゃなく、ざっとした期間が推量できる程度みたい(^_^;)ゞ

それでも忠政は前の二人の家宰に比べ、就任時期(1420年前後〜1443年以後)が圧倒して長いため、周囲への影響力が前の二人とは比べ物にならないぐらい大きく、根も深く張っただろう。→長尾氏系図

長く務めた理由は、A房景、B忠政の時代というのは、鎌倉公方は持氏であり、上杉禅秀の乱が起き、その後、何かと京との関係は軋轢が多くなった。


足利織姫神社」の看板
(拡大)

「織姫神社」は足利の中心部にある。江戸時代、足利藩主の戸田氏が「(織物の名産地である)足利に機織の神社がないのは変だ」と思って作った神社らしい。

特に忠政が家宰を引き受けて以降は、永享の乱結城合戦など、京との連絡なども多くなり、この時期の関東は、どの時節をとっても難しい判断を迫られた。

さらに忠政の時代は、山内上杉氏の当主・憲実が幼少であったり、長じて後も管領職の辞任を望んだり、鎌倉公方・持氏との接戦を避けたり、晩期(成氏の時代)には隠遁するなど、事実上、管領不在がしばしば起こる時期で、関東管領の役割を家宰が肩代わりする局面もあったと想像される。
だから忠政の専横とか言うより、忠政の手腕に頼らざるを得なかったと言う他ない。

特に忠政の登場で印象的なのは、永享の乱で上杉打倒に出たものの、多くの配下に見限られた鎌倉公方・持氏が、鎌倉に戻ってくる途中に行き会うシーンだ。
(2014年1月<行田→熊谷ドライブ(復元・忍城)>内

この時、その場に上杉憲実は居らず、持氏がおとなしく降参したのは、行きがかり上とは言え、長尾忠政に対してだったわけで、この顛末は持氏の自害となってしまう。

こうした行きがかりの果てに、永享の乱後、公方不在の鎌倉において、上杉氏が全権を握るなど権力機構が極端に強大化し、水面下でそれを事実上束ねたのは長尾氏であった。



<心通院>

地図。両崖山の東麓で、これまで巡った中では最北端にある。

何がある寺かと言うと、「足利長尾憲長夫妻の墓」の他、「藤姓足利氏墓所」「横田千之助氏墓所」などがある。

足利長尾氏は、入部した初代・景人の後、最後は由良氏からの養子(顕長)で繋ぎながらも、秀吉の小田原征伐までこの地に続いている。

すなわち、「景人・定景・景長・憲長・政長・顕長」の六代(→長尾氏系図)で、このうち五代・政長が、両親(四代・憲長夫妻)の菩提のため、永禄9年(1566)に、さきほどの長林寺の七世・学英益を開山に請じて創建した寺である。

心通院山門。左は高台に続く墓地(パノラマ3枚)

上杉憲実の反対にも関わらず、憲実のまだ幼い長男・憲忠が関東管領に就任したのも、長尾氏と太田氏(扇谷上杉氏家宰)の擁立によるもので、その時期は1447年頃。

この管領上杉の新旧交代があった頃、長尾氏においても、長く家宰の地位にあった忠政が退き、ここに初めて、D景仲が登場する。
長尾景春の乱まで続く、白井長尾氏による一党独走時代の始まりだった。→長尾氏系図


(さっき「ちょっと気になる」と言った、「文安5年(1448)」の、景人による長林寺の創立はこの辺に入る。足利は憲実の頃から山内上杉氏の管轄にあったと思うので、その根本家臣・長尾氏が居て不思議はないが、惣社系でも白井系でもなく、その頃から既に犬懸系(足利長尾氏)だったのかーと思ったから(^^ゞ。
やはり惣領格だからか、文明(1469〜86)の間違いなんて事は無いよねーなんて:笑)

それから3年後の1450年、成氏急襲未遂事件から江ノ島合戦が起こる。
これを主導した景仲は、罪を問われて家宰から退いている。
成氏を襲うという大それた妄動に出たわけだから、この引責辞任は当然と言えるのだが、管領・上杉憲忠は、「没収された領地を(長尾に)返してほしい」と成氏に言い出す。

(2015年5月<古河総合公園@「古河公方館(鴻巣館)跡」まで>内

成氏がこれを許可しないでいると、長尾景仲は、部下の者たちに与えるべきものを得るために、許しを得ずに旧領から押領行為を働き、これに対する訴えが多かったという。
(ここのポイントは、景仲が恩賞を与えなければならなかった対象という感じもするが)

階段のぼって山門を入り
正面は八角形本堂

この風変わりな八角形の本堂は、昭和38年(1963)に再建された鉄筋建て。
本尊は釈迦牟尼仏
所蔵・所有は、「長尾政長自画像」(国指定、重要美術品)、これよりいく「長尾氏墓所」(市史跡)。
大祭日は3月21日、他3月初旬に「おもちゃ祭り」。

この本堂の左脇には、「足利七福神」の「寿老人」の祠があり、「安産子育延命地蔵菩薩」「ぼけ除け観音菩薩」とともに信仰を集めているそうだ。

この「足利七福神」は、弁財天に「名草」「明石」「長尾」の各神社、毘沙門天に「最勝寺」「常念寺」と、複数の寺社が充てられ、合せて十福神ちっとも「七福神」じゃない(笑)。
他の五福神も書いておくと、寿老人にここ「心通院」、大黒天に「鑁阿寺」、恵比寿に「西宮神社」、福禄寿に先ほどの「長林寺」、布袋尊に「福厳寺」が配当。

↓なかなか立派な「寿老人」の祠。瓦屋根付だ。
こちらが、その七福神めぐりの案内図→
弁天と毘沙門が複数いるため、十福神になってて賑やか(笑)。

上杉+長尾と、関東公方成氏+反上杉は、ついに妥協点を見いだせないまま、溝は深まる一方だったが、成氏に否定された家宰職は景仲に戻ることは無く、変わって家宰となったのは、犬懸長尾氏のE実景足利長尾景人の父)だった。→長尾氏系図

そして、そのさらに4年後の1454年の暮れ、E実景は、主君・上杉憲忠と、我が子・景住景人の兄)ともども、公方成氏の勢力に討たれて死去するのである(享徳の大乱)。
(2008年7月「千葉県の動乱」vol2<享徳の大乱(1454)>以降・2015年5月<古河総合公園B「公方様の森〜天神橋」>内

ここで景仲が返り咲き、もう一度、家宰に再任。
つまり、これ以降の家宰は、古河公方と敵対関係の中での就任となる。
だから東国府の視点から見れば、その後の長い享徳の大乱を、上杉陣営に身を置いた景仲と、これを庇う上杉を、古河公方・成氏らが追討し続けた、と見て良いと思う。

1455年、正月に成氏は軍勢催促を関東諸将に発し、軍を起こした直後、京に使いを送って、謀叛の意志が無いことを述べたてた。その中で「特に足利の庄は御名字の地ですから、御代官をお下しになって御成敗ください」と、自ら願い出ている。


山門から本堂までの空間。休憩室・鐘楼堂などがある(パノラマ3枚ほぼ180度)

↑この休憩室が無人駅の待合室みたいに、お手洗いを借りたり、雨の日も手荷物の出し入れなどにちょっと屋根下の場所を借りたい人にはとても便利(^^)。親切なお寺だな〜と感心した。

挙兵後の成氏と、この足利の地の関係はどうなっていたのか……。
上杉と和睦後(1476年以降)については、鑁阿寺などと遣り取りがあったのが伺えるが、その前はどっちの勢力が抑えていたのか、時々刻々の詳細をよく知りません(^_^;)。。

でも、成氏も足利氏の一門であるのに、「御名字の地」「御代官」と、まるで家来のようにへりくだった言い方をするのは、足利の地を、かつて成氏の父・持氏が押領していたからかな〜と(^_^;)。。(2015年11月<「足利学校」C、「方丈・庫裡・中庭・北庭」>内

持氏は生前、正月に用いる水を足利から取り寄せたり、足利から年男を召しだすなど、将軍職を意識(誇示)するような行動(示威)を取っていたらしい(笑)。

だからむしろ成氏は、京を刺激する行動を積極的には取らなかっただろうと思う。
しかしその事と、足利が無風だったかは別、という感じもする。


さっき左方向に見えた高台の墓所に向かう(パノラマ3枚ほぼ180度)

このあと墓所に向かうが、かなりエンエンと坂を上って行く(^_^;)。。
登る前方は、どこまで行っても階段が続くのみで、見るべきものはないが、登っては振り返ると、かなりの景観が後方に広がってゆく。

京との和睦に心を砕く一方で、享徳の乱が始まるや、何しろ成氏は景仲を追いかけ廻し、常陸国の小栗城でこれを下した。 ε==ヽ(メ`Д´)ノ<フガー!

景仲は下野国の天命・只木山に敗走。 ε==(/;;;;*o*)/<キャー!

この只木山という場所を探してみたんだが、足利にそれっぽい地名がある(^_^;)。。いやもぉ、すぐ近くですよ(笑)。こんな所だもん→地図

また、天命というのも、この東隣の佐野の地名らしいから、やはり景仲らは、憲実以来、幕府から預かった事を根拠に、この足利周辺に逃げ込んだんじゃないかと思う。

成氏はこれをも取り巻いてさんざん攻撃を加えるが、これに小山・一色・武田・岩松・筑波といった、関東じゅうの鎌倉府御家人の勢力が総動員で参加している。

当時の戦乱の坩堝を思いつつ、八角堂や鐘楼が見える所まで登って来た(パノラマ2枚)

今川範忠が6月に鎌倉を焼き落とし、成氏は古河に根を張って古河公方となり、千葉氏は武蔵千葉氏と房総千葉氏(馬加)に内部分裂。
上総国には武田信長、安房には里見義実など、ついに成氏の与党が房総全域を抑える。
(2008年7月「千葉県の動乱」vol2<享徳の大乱(1454)>以降・2015年5月<古河総合公園B「公方様の森〜天神橋」>内以降)

12月に成氏は騎西城(埼玉県)を下し、この勢いで、すぐ目と鼻の先の古河を中心に、栗橋(野田)・関宿(梁田)・騎西(佐々木)の勢力圏を形成。古河の体制は、これより急速に整備されていった。

だから先に下野に逃げ込んだ長尾景仲らは、この足利も放棄せざるを得なかったのじゃないかと思うが(^_^;)、 こうした古河勢力の猛攻にだんだん対応していったのが、扇谷上杉氏の家宰・太田道灌で、武蔵に進出し、江戸などに築城を果たしてゆく。

その一方で、古河公方の関東における正当性を少しでも減じようと、幕府は8代将軍・義政の兄・足利政知を関東に下すが、政知は鎌倉に入れず、とどまった堀越で御所を設立。堀越公方となる。


↑の右側(東)の風景↓(パノラマ3枚)

長尾景仲の後は、景仲の長男・景信が、家宰職とともに引き継いだと見え、その初見は1461年には顕れる。→長尾氏系図
そして景仲は1463年に没する。
将軍・義政は景仲の死を悼み、関東管領・上杉房顕(憲実の次男・憲忠の弟)に御内書を出している。

が、その一方で、房顕はこの頃からしきりに管領職の辞任を願い出ては、幕府に却下されている。
上杉房顕が管領を辞任したがる一方で、あくまで京の意志を達成すべく古河公方と敵対した長尾景仲の功績を、京の将軍がたたえる構図である(^_^;)。

その間、鎌倉系景人が家宰職を負った形跡を確認した話を聞かない……。。
ここに見る家宰継承は、景仲・景信の父子二代、すなわち白井長尾氏にすっかり移ってしまった感じが……(^_^;)。

その後も、古河公方と上杉氏の戦いは行われ……。

そして、いよいよ長尾景人が、足利本家たる京の将軍家から、この足利庄の守りを委託され、1466年に、足利荘代官としてこの勧農城に入り、以後、足利長尾氏を称した。


↑上の2枚を左右に繋げるとこんなパノラマ(^^)(パノラマ4枚180度以上)

この景人の入部時期、何があったかを見てみたい。

同年の2月、関東管領・房顕が五十子の陣で没している。
房顕は上杉憲実の次男(たぶん)で、兄・憲忠が成氏らに殺害され、享徳の大乱に突入した時、急きょ関東に呼び出され、長尾景仲らに擁立された。
つまり、殆ど古河公方との戦のために費やした管領人生だった。

さらに、ちょうどこの直後の3月、房顕の父・上杉憲実も、仮寓先の長門国で死去している。

そこで堀越公方・扇谷上杉氏・長尾氏らは、房顕の後の関東管領職に、越後の房定次男・顕定を擁立するのだが、これに父・房定(憲実の甥↓)と越後上杉氏の家中が反対し、後継決定は難航する。

<関東管領上杉氏>(超・略系図(^_^;))

┌重顕(扇谷)−朝定−顕定−氏定
├憲房┬憲藤(犬懸)−朝宗−氏憲(禅秀)      ┌憲忠
└清子└憲顕(山内)−憲方┬房方(越後)−┬憲実房顕
  ├−−┬尊氏       └憲定−憲基  └清方−房定顕定
足利貞氏 └直義                           └房能


到着。エッサエッサとやっと登って来ました(^_^A)(パノラマ6枚180度以上)

反対理由はよく知らないが、この時、管領に望まれた顕定は、まだ13歳(^_^;)。。
しかし擁立は、景仲の子・長尾景信が「父・景仲の遺言」をタテに強行したようだ。(汗)

上杉房定という人は、古河公方成氏が幼少期、鎌倉に入る前から、成氏を鎌倉公方につけようと、京への贈り物なども欠かさず努力した人だった。
勿論だから成氏党というわけではなく、上杉軍にあって、対古河公方との戦場では最前線で指揮を執る場面も多かっただろう。

ただ、この先の上杉(房定−顕定)の姿勢は、景仲−景信−景春と続いた白井長尾氏による膨張した権力を減じる方向に舵を切ってゆく。→長尾氏系図
それが、景春の家宰就任を認めず、景信の弟・忠景惣社長尾氏に養子)に家宰職を執らせる事だった。

その行く先、長尾景春の不満が爆発、やがて1476年の長尾景春の乱を迎える事となるわけだが、関東における長尾氏・太田氏といった家宰による巨大な力は、ここにようやく抑制される。
太田道灌もまた、顕定の差し金によって、扇谷上杉定正に粛清されるのである。

関東上杉の下にあった長尾・太田という家宰勢力にかわって、越後上杉氏の影響力が関東に強く作用する戦国期の(謙信に至る)方向性は、まさにこの顕定の登場に始まるのである。


右脇はもしかして藤姓足利氏の墓?↓
そして正面「足利長尾憲長夫妻の墓」→

太田道灌や長尾景春といった、極めて強い権限を有した関東管領の家宰が消えた関東に、足利長尾氏は残った。

長尾景春の子孫も、景春と敵対したその叔父・忠景の継いだ惣社長尾氏も、それぞれ子孫を残したが、分散され互いに対立し合って、かつての強大な家宰の影響力は発揮しなかった。

それでも一時期までは、忠景の家系(顕忠・顕方・顕景長尾氏系図)がしばらく山内上杉家の家宰の座におさまった。
その支流からは、あの「のぼうの城」に取り上げられた成田氏も出た。(成田氏に養子に行ったとされるようで、以後の成田氏はこの系譜が引き継いでいる)

が、古河公方・3代高基の管領・上杉憲房の家宰に、この墓に眠る足利長尾氏・4代憲長が就いてからは、この心通院・開基となった5代・当長(政長)も、続けて上杉憲政の家宰となった。
家宰の座は、本来の正嫡・足利長尾氏に帰したのである。

この上杉憲政が河越合戦で北条氏に敗れ、越後の長尾景虎(謙信)の元に落ち延びると、当長(政長)は謙信の関東出陣に従い、永禄5年(1562)、上野国の館林城を制した謙信から、同城を預かり、翌年(1563)に入城を果たしている。


長い年月を墓が見降ろした足利の街なみ(パノラマ4枚180度)

が、そこで後継者が絶え、6代目には隣国・新田岩松氏の有力家臣からのしあがった由良氏から、当長の叔母(景長の娘)の婿として、顕長(由良成繁の子)を養子に迎えた。
この顕長は謙信を裏切って後北条氏政に通じ、以後、後北条勢力として存続。秀吉の小田原征伐(1590)まで永らえた。→長尾氏系図

その間、関東管領・上杉氏は実質的に関東を去ったが、古河公方(5代義氏・氏姫)は後北条氏の手中に残った(^_^;)。
古河公方も戦国大名化したし、足利長尾氏も同様だった。内実は変遷があっただろう。

足利における為政者としての痕跡(移り替わり)は、鑁阿寺文書などに垣間見ることが出来るようだ。
古河公方が君臨した初期の時代、定尊尊 伸攵(2文字で1文字)といった、初代・成氏の弟の僧侶たちが「雪之下殿」「鶴岡八幡宮若宮別当」として、鑁阿寺との交渉にあたる位置を有していた。

尊 伸攵の後を、成氏の孫・小弓公方義明(幼い頃は僧侶だった)が引き継いだが、これが第一次国府台合戦で敗死した後、同職が実質的に引き継がれた形跡は無いらしい。

古河公方4代晴氏の時代になると、同権限(文書・禁制類の発行の主体)は足利長尾氏に取って変わられたようだ。

(長尾氏の話、もうちょっと続きます〜)




<北東へ向かう>

これまで足利市内の中心地を、南は渡良瀬川から北は両崖山にかけて、チョコチョコ移動してたが、ここでちょっと長距離移動。これにて足利の中心地を離れ、さらに北へ(正確には北東方面に)出る。

心通院(地図)→樺崎寺跡(現・樺崎八幡宮・地図

享徳の大乱を起こした鎌倉公方・成氏が、京に「足利の庄は御名字の地ですから、御代官をお下しになって御成敗ください」と言ったのは、恐らく1455年の初頭あたりだろう。
別に成氏から言われなくても、代官発向は幕府のカードだろうが、成氏に言われてた事が、11年後の1466年、それも長尾景仲の死後に実行された事は興味深い。

景仲は1463年に没し、1466年に、関東管領・房顕とその父・上杉憲実が死去。
ここで足利長尾景人の足利入部が行われ、翌1467年5月、京に応仁の乱
同年9月、扇谷上杉持朝が河越で逝去。又しても上杉陣営を支えて来た大物の死である。

こうした間に、房顕の後釜として、越後の上杉房定の子・顕定が、景仲の子・景信に強く推され、難航の果てに関東管領になった事は既に述べたが、それは新旧の交代劇でもあった。



この頃より関東の戦況は、太田庄など武蔵北部から、上野国に主戦場が北上(拡大と言うべきか)してゆく(上野は越後と国境を交えている)

1471年〜72年、古河公方、成氏が古河から脱落する事態が発生する。

成氏側から小山・結城などが、堀越公方政知を討つべく箱根を越えた所、負けかかった政知を、上杉側の援軍で防戦。成氏軍が負けて引き上げる所を、山内上杉顕定が仕掛け、成氏軍は残り少なくなるほど痛手を負う。
古河も危うくなり、持ちこたえられなくなった成氏は古河を脱出。佐倉の千葉孝胤を頼って房総に落ちた。

この上杉側の勝利は、越後(房定)から関東管領に顕定を迎えた事による成果と見れるらしい。
白井長尾景信・景春、惣社長尾忠景(景信の弟で、惣社に養子)、扇谷上杉氏の家宰・太田道灌による、大規模な軍事展開の結果であった。→長尾氏系図

応仁の乱の前後、次々と大物の逝去に見舞われた上杉陣営にとって、世代交代を順調に果たしている事を内外に示す効果も大きかっただろう。

しかし翌1472年には、成氏は古河に復帰。こちらはこちらで健在ぶりを見せつけてくる。
そしてこの辺りが、上杉陣営で巨大化・強大化を極めた、山内上杉家宰・長尾氏の曲がり角だった。



翌1473年、白井長尾景信が死去。
景信の弟・忠景と、景信の子・景春、すなわち叔父と甥の間で家督を巡る対立となり、1476年、長尾景春の乱へと発展。

五十子の陣は崩壊、上杉陣営は古河公方成氏との和睦を受け入れざるを得なくなり、1478年に和睦。1482年には、朝廷および京幕府とも、ようやく成氏は和睦を果たす(都鄙合体)。

長尾景春は、上杉に反旗を翻すと、それまで敵であった古河公方とも手を組んだが、山内上杉顕定を敵に廻し続けたため、成氏が上杉と和を取り戻すとなると、やがて山野奥深く身を転じてまで、反山内の立場を貫いた。
山内と扇谷の、いわゆる両上杉の間で長享の乱が起こった時も、景春の敵は山内のほうだった。

景春がこのように山内上杉に敵対し続けた事を、「関東管領・山内上杉顕定は、一方的に忠景の肩を持ち、景春を廃嫡した」とか、「太田道灌が景春の叛乱を予め忠告したにも関わらず、顕定が耳を貸さず、景春謀叛を未然に防げなかった」という論調をよく聞く。→長尾氏系図

しかし、景春が叛乱云々を取りざたされた当時、顕定はまだ20歳ぐらい。

太田道灌の忠勤まで無視され、最後には排除(暗殺)されるに至った。
これらの流れに、顕定という若い権力者の浅慮だけでは片づけられない、家宰権力体制に対する抑制作用を見る向きがある。



上杉憲実も、その子の憲忠も、その弟の房顕も、その次となった越後の顕定も、家宰が一度言いだすと、父親が反対しても、管領とされる路線が覆る事はない。
そして右も左もわからぬ幼少時に、家宰によって管領とされてしまう。

越後の房定の目には、長尾氏や太田氏による家宰政治は、「専横」の色合い強く見えた。
上杉体制は、三代目となる景春の元に、さらに絶大な権力が膨張されるのを嫌った。
そこで、B忠政の惣社長尾氏に養子に行っていた、長尾忠景に白羽の矢を宛てて以降、長尾氏による専制は、その強度を減じた。
長尾氏系図

この越後上杉氏に対して、 景春の叛乱には、国人・一揆など、広い範囲の根深い地域力が支えになっていた。
太田道灌も江古田沼袋の乱の折、京の応仁の乱に横行した足軽を活用したといい、そもそも景春の祖父で道灌の舅・長尾景仲が、用兵に百姓を起用したと伝えられている。

景春の乱の勃発によって、長尾氏に、いかに地下深く権力の根が及んでいたかが、改めてわかるともいう。
景春一人の意志によらず、既に彼にまとわりついている利権の全てが、彼に叛乱を促さずにはおかなかった。

その景春が上杉陣営を離れ、古河公方成氏と結合した時、古河公方は鎌倉に坐す旧来の貴種を脱し、地下に根を通じる関東の土と同化して、新たな時代を生き始めたとも言える。




<樺崎寺跡(樺崎八幡宮)>

今回の旅行で最北端にあるのが、この「樺崎寺跡」(地図)である。
↓地図によると「樺崎田沼通り」と銘する道路らしい。並行して「樺崎川」が流れている。

車で→こう入って来た(パノラマ4枚180度)

この道路の右(史跡を正面に見ると道路を跨いで手前)に大鳥居があり、その足下に樺崎川の流れが見れる。↓

道路脇の水流、良い音の流れ(^^)
道路隔てた手前に大鳥居(^人^)<パンパン

人家の乏しい山間にありながら、小川が届き、地面は平坦で、「中世初期に寺が建てられた土地」という説明が、スンナリ納得できる。

←道路超えると、人口の水溜りが何やら造作中
傍らに建つ完成予定図↑

今は整備中で、今後、かつての寺の庭園や、もしかしたら堂宇(寺の各建物)なども復原する予定なのかもしれない。

草ボウボウの荒れ地でも、人工物で見通しが悪かったりするのでもなく、と言って、完全に復原が出来あがってしまった後でもない時に来れるなんて、何て運がイイんだろう!(≧▽≦)

この、ド〜ンと広い平地にある寺跡に大きな池を造作……という光景は、平泉(岩手県)に旅行した時、「長者ヶ原廃寺跡」「毛越寺」「柳之御所跡」「無量光院跡」などで見た(^^ゞ。

2010年3月<長者ヶ原廃寺跡、1>
2010年4月<長者ヶ原廃寺跡、2>
2010年5月<「毛越寺」@、表門〜南大門跡>以降
   〃   <柳之御所跡>
2010年6月<無量光院跡>


鳥居を間にして左側が、池の造作をしている庭園風の敷地で、右側は小山を背景にした平地が広がり、この夕刻、我々の到着とほぼ同時に、次々と地元の車が訪れ、人々が小山の麓にある公民館に入って行く光景が見られた。

館内には灯りが見られたから↓、どうやら地元の会合が開催されていたようだ(^^ゞ。

樺崎寺の小山の麓に灯りをともす公民館(パノラマ4枚180度以上)

↑の真後ろ↓中央に今潜った大鳥居↓が見える(パノラマ4枚180度以上)

この敷地に入った途端、下野の山々に囲まれた、この広々とした大地に、降るようなヒグラシの声が辺り一面いっせいに響き渡った。

「うわぁ〜(≧▽≦)」
「いいねっスバラシイ\(^O^)/」

この樺崎寺跡は、足利氏2代・義兼が建立したのが始まりで、当時は「法界寺」といった。

私が奥州藤原氏の三寺と対応して、鑁阿寺を二代・義兼の父・義康に充てる理由は、まず「義康の墓」と伝わる墓石が赤御堂にあるのと、ここ樺崎寺の開山理由が、「義兼の生母菩提のため」と伝わっているからである。

母の菩提寺だけ作って、父のは無いという事はなかろうし(^^ゞ、鑁阿寺は足利氏の菩提寺・祈願寺であるので、父系の祖先慰霊は鑁阿寺で行ったものと考えて良いと思う。

カナカナカナカナ……とヒグラシの声が響き渡る浄土庭園跡(#^.^#)(パノラマ2枚)

初代・義康の名をハッキリ見ない理由はわからないが、「足利系図」だと、義兼の父は「新田義重」になっている(^_^;)。。同じ系図に義重の弟として、「足利義康」と書かれてるのに……(汗)。

ま、いっか(笑)。

何しろ義兼は義康の三男で、生母は熱田大神宮・秀範の女。前回、鑁阿寺で触れた通り、頼朝の母の妹だった。

前に、日光鬼怒川から宇都宮神社や宇都宮城跡に行く道々、「日光山縁起」の話のついでに、日光の歴史を語った事がある。

その折、この熱田大神宮・宮司の、頼朝にとって外戚にあたる系譜から、日光山別当を立てた話をした。(2012年6月<宇都宮二荒山神社>内)
観纏」という人で、頼朝と足利義兼には従兄弟にあたる。

熱田大神宮・秀範┬範忠−観纏(日光山19代別当)
            ├−女
            |  ├頼朝 ┌頼家
            |源義朝 ├┴実朝
            |   ┌北条政子
            |時政+北条義時−泰時−女
            |   └北条時子      ├泰氏
            └−女  ├−−−−−−義氏
                ├義兼
            足利義康
(2016/01/18、↑系図、一部誤記訂正)

この樺崎寺跡でようやく暮色が濃くなって来た(パノラマ2枚)

また、「日光山縁起」における「女体権現」が、熱田大神宮家から義朝に嫁いだ、頼朝の生母を神格化したのではないか、という世迷言も以前書いた(笑)。(2012年6月<23号線を東進、川治ダムまで>内、および、<宇都宮二荒山神社>内以降)

勿論これは「世迷言」と思って貰ってていいんだが(笑)、この熱田大神宮家の女性達からは、鎌倉幕府の歴代将軍のみならず、室町幕府の歴代将軍という、実に華々しい子孫達が生まれたわけだから、後世、神格化の条件が整ったとは言えると思う。

また、日光山別当となった観纏には、鎌倉と足利の両方に従兄弟がいたことになり、中でも同じ下野国にいた足利義兼と無交流だったとは思えないが、残念ながら、日光山との遣り取りについては、ここでは触れられていなかった。

母同志も姉妹(熱田大神宮家)なら、妻同志も姉妹(北条氏)と、頼朝の信任ことのほか厚く、比較して、頼朝の挙兵から鎌倉政権樹立までの過程で、すぐに靡いて来なかった新田氏に、大きな差をつける所縁となったのが、この義兼であった。


周囲の景色や朝夕の日差しも加味して作られたんだろうね〜(#^.^#)(パノラマ3枚)

義兼は身長八尺あったという。2m42p……大きすぎる(^_^;)。。
ネット検索してみたら、あの現代語訳サイトの「芝欄堂」さんが、「義兼はアシカだった(^。^)」と力説されておられた。 ヽ(^^;)<シ、シラ様。。

1184年の平家追討には、頼朝の弟・範頼の軍に属し、1185年、平家が滅亡すると、従四位下・上総守に任じられ、1189年、奥州征伐の後、伊豆の走湯山・般若寺の理真上人を開山として、鑁阿寺の前身・持仏堂を建立。

以後、鎌倉幕府においては中枢を担い、1195年、頼朝二度目の上洛にも従ったが、1196年、妻の北条時子と理真上人が相次いで他界すると、日頃よりの道心も極まり、高野山に上った。

丘陵の麓に改めて石鳥居
すぐ右に皆さんが集う公民館(^^)

足利に戻ってくると、生母の菩提のために建久年間(1190〜98)、ここに「法界寺・下御堂」を創建。鑁阿寺を壇上とし、鑁阿寺と相対させて、こちらの下御堂を「奥ノ院」としたのである。

既に書いて来た取り、鑁阿寺にこんにちの大御堂が作られたのは、その子の三代・義氏の時で、義兼の頃は持仏堂のみであった。
この樺崎寺も、やはり現在の「樺崎八幡宮」(神社)となるには、義兼の死後、義氏がここに八幡神合祀した事が始まりである。

だから鑁阿寺も樺崎寺も、正確には義兼・義氏の二代かけて作られたと言うべきだろう。

義兼の頃、ここは晩年の居住空間とされ、義兼は念仏三昧の暮しの内に、正治元年(1199)に、この法界寺で入寂した。

←鳥居をくぐると、山に向かって階段が続き、上った正面に拝殿がある。

次回、この神社(八幡宮)をお参りするが、建物は江戸期の天和年間(1681〜1684)の再建だそうで、明治以後も残されたようだが、法界寺のほうは、明治以降に廃寺となった。

傍に建つ案内板には、「足利源氏関係の遺跡として極めて貴重」とあり、八幡宮を含め、寺跡全体を整備しようとしてる感じに思えた。

この夕方に公民館にお集まりの方々も、もしかしたら、ここの造営に関係した話し合いをされていたのかもしれない。
我々がこの鳥居をくぐって境内に入りかけた時、館内に出入りされてた方が、とても丁寧にお辞儀して下さって、ここに関心を寄せて訪れる者に対して、とても好意的な感じを受けた。
だから住民の会合と言うより、この史跡に関する集まりなのかなーと思った(^^)。

続きは次回だが、冒頭に述べた通り、余すところは殆どなく、今回が最終回と言っていい(^_^;)。
次回も感想を述べるとは思うが、又間を空けてマトメを言うのもシラケるので、先んじて述べておこう。

以上の通り、足利という所は、平安末〜鎌倉初期の足利氏の痕跡を、間の時代がポーーンと飛んで、室町後期〜戦国期の長尾氏の痕跡が取り巻いて、二度に渡って瞬間凍結されたような土地だった。

当初おぼろに想像した「足利尊氏と太平記」は全く無視され(笑)、その過去と未来の両極端に分かれた二つの歴史群像が、とつぜん浮き立って迫って来た感じがした。

室町幕府の将軍たちの墓所は、京の寺々にあるから、間が飛ぶのは仕方ない。どうも相国寺に多いようだが、これも応仁の乱でずいぶん焼けたようだね……(^_^;)。。



次回は、この樺崎八幡宮の続きから始まり、後は帰りのコースで(^_^;)ゞ、佐野の日帰り風呂、そして帰りの高速で寄ったSA……あ、これは歴史ネタと全然関係ないんだけど(笑)、何しろ、あとちょっとでおしまいです。

今回の関連リンクも、例によって、また後日貼ります(^^ゞ。
今回は遅れに遅れてしまったけど、前号11月号の関連リンクは、あの後一週間後に貼って追い付いたんだよーーー\(^O^)/<ちょっと得意♪

そして、今月のご挨拶でも述べた通り、今年は(今年以降は、と言うべきかもしれないけど、まだそこまでは先が読めないので(^_^;))、多忙が予想されるため、今後先々の更新についてはかなり不透明になると思う!


リンク出来ました(^_^A)。

以上、関連事項は(2016/03/04後追リンク)
2008年7月「千葉県の動乱」vol2<上杉禅秀の乱(1416〜1417)>以降
2009年5月<相馬「中村神社」(西館跡)>内
2010年2月<中尊寺・参道、1(八幡堂)>
2010年3月<中尊寺・参道、2(総門〜本堂〜讃衡蔵)>以降
2010年4月<長者ヶ原廃寺跡、2>
2010年5月<「毛越寺」@、表門〜南大門跡>以降
2010年6月<無量光院跡>
2012年6月<23号線を東進、川治ダムまで>内以降
2013年1月<東北道〜北関東道>内
2013年2月<「円福寺・茶臼山古墳」(伝・新田氏累代の墓)、1>
2013年3月<大光院門前・大河「太平記」と焼そば(爆)>以降
2013年5月<「総社神社」と「宮鍋神社(蒼海城跡)」>内
2013年6月<雲谷寺(新田義宗の墓)>内
2014年1月<加須市「龍興寺」(持氏・春王丸・安王丸の墓)>内以降
2014年3月<皆野に向かう(鉢形城・寄居・長瀞を抜けて)>内
2015年2月<酒井根合戦場(境根原古戦場跡)><境根原合戦について>
2015年4月<古河城跡(諏訪曲輪址「古河歴史博物館」)>内以降
2015年5月<古河総合公園@「古河公方館(鴻巣館)跡」まで>内以降
2015年9月<虎ノ門「光明寺・明和大火の供養墓」>以降
2015年11月・全文

<つづく>

2016年01月12日(関連リンク03月04日追加)
 
     





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