<2007年・城主のたわごと11月>




2007年8月の房総旅行編・第二弾は「久留里城」〜亀山(^^)。

そして9月、宮城ツアー第一弾(^O^)。宮城入り〜鎌先温泉♪




     
  上記の通り(^^ゞ。
今回から始まる「宮城ツアー編」は、「たわごと」始まって以来の三泊旅行っ(^^)v。沢山あるので、5回ぐらいに渡ってお届けになると思う〜♪ ヨロシク!



■8月・千葉県
<久留里城>


真里谷城跡地図)から馬来田駅地図)のある道に戻り、あとは久留里城跡地図)を目指す(^^)。

真里谷周辺の……牧場かな?
山羊(笑)
この後は久留里に向かう(^^ゞ。→
久留里では、線路と平行する道路が、お城に行くまでのメイン通り↓

ド〜ン! 街のシンボル「久留里城」のアーケード!(^O^)(地図

これを行き過ぎて「久留里城」の案内があるカドを左折(看板がわりと突然見える(^^ゞ)。
後はドンドン登っていくと駐車場に到着(^O^)! この久留里城(地図)なら、「久留里駅」からも歩いて来れそう。

←お城の駐車場に咲いてた薄紫のタチアオイ(と思う、たみい様トコで前に学習した:笑)
↑売店&食堂の「雨城蕎麦」!(^O^)

ここに前に来たのは……どうも2001年のようm(。。)m。「たわごと」には11月だと書いてある。
6年も経った気あんまりしない(^^ゞ。同じ千葉県だと思うせいかな(笑)。当時のレポは、2002年8月<久留里城>を(^^ゞ。

戦国商品メニューとか掲示板で話してた頃、何でもいいから城や武将・合戦場などの名のついてるメニューは嬉しい♪みたいなノリで、この「雨城蕎麦」の話もした覚えがある(笑)。

あと、売店の書籍コーナーがなかなか優秀で、前もここで里見氏や戦国前期に関する本を買って、今でも学習本になっているが、この時も買った本の中に、なぜか東葛飾方面(つまりウチの方)の城跡を網羅されてる本があった。
レジでその事を話したら、「この出版社、松戸なんですよ」と教えられた(爆)。

……なぜ松戸の本屋に無いっ!ヽ(`Д´)ノ

何しろ、ここで買った本が、この9月に書いた「たわごと」(松ヶ崎城・根戸城)の記載に大変役に立った事だけ書いておきたい。

お昼ごはんも食べたし(^^)、さぁお城に行くべぇ。駐車場を出ると……、

イキナリ始まる心臓破りの急勾配!( ̄∇ ̄;)

しかし心臓破りなのは、距離じゃなくて勾配なので、そんなにエンエン登る道ではない。

亭主は「そんなに急かな?」と言うんだけど(前もそうだった)、それは目が誤魔化されてるんだと思う。
登る時には「これしきの坂が登れないか?」と思っちゃうんだわ。写真で見てもそう感じるかも?(自分は実際に登ったから、これを見ても急に感じるけど:笑)
その亭主も帰り、下り坂になったら、いきなり「この坂やっぱ急だわ!」と驚いてた(^_^;)。

最初ここに来た時、たまたま運動不足が続いてた時期だったので、「この程度の坂も登れなくなっちゃったんだ(゚.゚)」と偉いショックだったのと、まだ旅行記を始めたばかりの頃で、「こんな奥地ってだけで人が来ないだろうに、体力に自信の無い人だと嫌がるかも……」と律儀に心配して、あまり強調しなかったが、やっぱり今登ってもこの坂は急!\(>o<)/

ってわけで何とか到着(^_^A)↓
この入口の右側も、なかなかの眺め→

ここまで来る前に「腰曲輪跡」と「お玉が池」の看板があった。

「腰曲輪」は、主要な曲輪の外側にある物。主要部はこれから入る(^^ゞ。

次はこの「お玉が池」だが、この久留里城、さっきの「雨城蕎麦」でもお察しの通り(笑)、別名を「雨城」と言い、今はこれを「うじょう」と呼ぶが、久留里南部「甘木」と同じ発音の「安万支」があり、元は「あまき」を語源としていると推測される。

それが、一般的には疎ましいハズの「雨」を城の名にしてる事については、幾つか思い当たる事がある。

まず、この「お玉が池」がそうだ。
二の丸に水源が無かったため、当時の城主だった「里見義堯」が、「兵馬」という家臣に池を掘るように命じて、兵馬は池を掘ったが、兵糧庫が火事になって失われ、兵馬は火の不始末を疑われる。
城将・小川秀政の娘「お玉」が、これを哀れんで、かわりに池を掘り始めたが、捕らわれた兵馬は打ち首となった。
が、兵馬の死後、彼の疑いが晴れた。お玉は髪を下ろして兵馬を弔った。

この水源不足の伝説を信じてみると、つまりは雨水に頼っていた事になる。天から降って来た水を大事に使っていたとしたら、次の築城伝説も重要なカギになる。

ここが「雨城」と呼ばれる事について、土地の伝承「久留里記」には、東少輔(久留里)頼胤が妙見のお告げを夢で聞き、ここに城を築いた時、3日に1度づつ雨が降り、それが21度に及んだから、とある。
(この久留里頼胤が、将門三男という伝承については→2002年9月「たわごと」内 を(^^ゞ)

江戸時代の1742年、八代徳川吉宗が行なった国替えで、黒田藩の初代、黒田直純が久留里に入った日も雨。ここに城を作って1745年に着任した時も雨が降ったのを、「名君を迎えた喜びの涙」と称えられた。

運悪く雨だったのを、それでは縁起が悪いから、無理にそう言ったという事もあろうが(笑)、この城山に水源不足の伝承がある事も原因するのかもしれない。
この黒田藩の時代、旱魃で難儀し、雨乞いを城の神に祈ったら雨が降った、という伝えも城の内部にはあった。

この事は久留里城の最後に記載するが、それゆえ、実は全て江戸期の旱魃から起こされた伝承ではないか、という感じもしなくはない一方、戦国期の里見氏には、風雨・豪雨によって北条氏を打ち負かした伝えもあり、この里見時代の伝承についても、城内の井戸に際して中ごろにまた記載しよう。

←さて、入口からほどなく資料館に到着。
左が本丸・天守閣、右が資料館の案内版↓
資料館には前回入ったので、今回は周囲を撮影するのみで、真っ直ぐ天守閣に行く。

←新井白石の像。 古水車が裏手にあった↓
儒学者、新井白石は、黒田藩が入る前にここを治めていた土屋藩・二代目土屋利直に仕えていた。利直の母に可愛がられたとも言う。

生まれたのは江戸の土屋邸で、18〜21歳までの青年期をこの久留里で過ごしてた。
成長すると江戸に出て苦学し、木下順庵に朱子学を学び、その推挙で甲州藩主、徳川綱豊の儒臣となる。
綱豊が6代将軍家宣となりその側用人に登用されると、従来の武断政治を文治政治に改め、「正徳の改革」を推進。合理性と実証を重んじ、史学・地学・語学の研究が隆盛、先駆的な事績をあげた。
さらに文学に秀れ、その著「折焚く柴の記」は江戸時代散文の名著。今日なお世界的学者として名を知られる。

この資料館をちょっと行き過ぎた所に、見晴らしのいい「薬師曲輪跡」がある。

薬師曲輪跡(パノラマ3枚・ほぼ180度)

ここは二の丸の西側で、眼下に三の丸が見られた。
今は公園風の敷地だが、江戸時代の図面では、ここには「長屋塀」があり、これは細長い長屋風の建物。本来は多門櫓の性格を持つ物で、道具を置く倉庫だったようだ。


↑平野部の中心、右寄りに、平野を左右にわけるような森が見える。
この右の平地が、里見氏と北条氏の「古戦場跡」。その手前のコンモリとした森が「久留里妙見」。

左は、横にズラッと並ぶ住宅の前に左が「三の丸御殿跡」、右が「内堀跡」。
住宅の後ろには、左に「外曲輪跡」、右に「大手門跡」と展望図にはあった。

この久留里城は、前述の通り、平将門や妙見菩薩にちなんだ伝承(2002年9月「たわごと」内 )と、その血縁とされる久留里氏の築城伝説があるものの、歴史に登場するのは、1540年、勝真勝(すぐろ・しんしょう)が創建した「真勝寺」の寺伝が初のようだ。
そこに「寺域の東南に、勝真勝の居城がある」と読み取れる一文が出てくる。

1500年代中頃、西上総地方は真里谷武田氏の勢力下にあり、久留里城もその一族の居城だった事は間違いないが、1540年の寺伝より前から久留里城はあったはずなのに、その正確な築城・居城時期はわからない。

一説に、上総武田氏初代、武田信長が房総に侵出を開始した1456年から、後の武田二派の主城となる真里谷城(木更津市)と、長南城(庁南(ちょうなん)・長生郡長南町)と、ほぼ同じ時期にこの久留里城も作られた、と言われる。
武田氏については、前回<真里谷城跡>内を(文末まで)。

武田氏は信長の孫の代に、真里谷と庁南に分かれるが、信長の子、信高にも、信武(峯上)、信房という兄弟がいて、この「信房」が久留里を領地とした記録もあるようだ。
が、房総武田氏に関する記録は極めて少なく、系図はずさんで、信用に足る物は殆ど無いとも言われる。

勝真勝(すぐろ・しんしょう)も、武田氏の一族ではあるようだ。
が、その系譜もまた多岐に渡ってしまって謎が多く、主に、武田信長の系譜と、武田信長の兄、信重の曾孫という説に分かれる。信長の系譜の場合も、その嫡男・信高の曾孫という系図、信長の三男・信房の孫という系図がある。

武田氏の次にここを城としたのは、安房の里見氏である。
1497年、里見成実が久留里に進駐し、他の多くの諸城を占領したとも言われ、勝真勝(すぐろ・しんしょう)は、この時に久留里城で防戦した人物で、平和交渉を行い、円満に里見氏に無血開城したので、里見氏から食録を得て、西原の小沢という所に隠棲したとも言う。

ただ、この時期の里見氏の勢力範囲については、誇大記載が多く、「久留里・万木・勝浦・池和田・真里谷・久保田・佐貫・椎津などを攻め取り、上総一国ほぼ手中にした」とあるそうだが、中にはまだ出来てない城や、千葉氏や原氏の範囲の物まであるという(笑)。

←薬師曲輪跡に鎮座された神社

ただ久留里は、それらの中でも早くに里見氏の範囲に入ったと見られ、これは、1479〜80年、千葉自胤と太田道灌が、臼井城を攻めた時、結局成功せずに、庁南城と真里谷城を攻略した事との関連も言われ、この時、里見氏(義実)は武田氏を救援できず、しかし久留里が千葉勢ひいては管領上杉氏の範囲に入るとコトなので、千葉氏の南下を防ぐため、久留里に進駐したとも言われる。

1503年には、勝真勝(すぐろ・しんしょう)が宝泉院という寺を開基。これは一度里見氏の物となった土地(小櫃の一部)を、勝真勝(すぐろ・しんしょう)が里見氏から貰い受けた、と見るのが適当であるらしい。

里見義実の次は二代成義(実在に疑いあり)、三代義通と続くが、この義通の弟、四代実堯(家督継承に疑いあり)が、1508年に久留里城代となった。

以後、里見氏には、三代義通の子、義豊と、四代実堯の子、義堯の間に内紛が起こるが、義堯が、あらかじめ父、実堯からこの久留里城主の座を引き継いでいた事から、この内紛でも義堯派の拠点となり、さらに義堯が最終的に勝利した事によって、その後の里見氏にとっても重要な城となっていくのだ。
これについても詳細は、前回<真里谷城跡>内を(文末まで)。

が、1540年の勝真勝(すぐろ・しんしょう)の久留里居城は、そうした里見の傘下として認められた結果と言うよりは、1538年の第一次国府台合戦の折、北条に負けた里見氏がいったん安房に撤退した折、返り咲いた可能性が高いようだ。

とは言え、衰退の一途を辿る真里谷武田氏に対し、国府台合戦で負けたとは言え、勢力を温存して挽回した里見氏と敵対する事もなかった、という事か、久留里城は、その後の1554年、北条氏康が久留里城を包囲した時、これに対して奮戦するのが、里見義堯・義弘親子であり、少なくてもこの年には、完全に里見氏の本拠となっている。

この時の北条×里見の攻防城戦は「久留里軍記」に詳細に書き記され、大規模かつ長期の戦いだった事がわかる。

ここの石碑「里見北条古戦史」には、
1554年の晩秋、北条綱成は2万余騎の軍兵を従えて、向郷に陣屋を構え、里見義堯、義弘の守る久留里城を攻撃して来た。久留里城は知将・義堯の戦略によって湯名城主・山本左馬允、一宮城主・須田将監・鳴門城主忍足美作守、大多喜城主・正木時茂、周西城主茂木与茂九郎などの武将が馳せ参じ、小櫃川を挟んで数十日間余の攻防戦を展開し、北条軍を撃退した。
とくに茂木与茂九郎は16歳の少年武将であったが、敵将、葛西左(右?)京介と小櫃川の中で組み討ちとなり討ち果たした。
弘治元年、再度、北条軍の攻撃を受け激戦となったが、城は堕ちることなく難攻不落の名を坂東に高めた。

といった事が書かれていた(概要)。

先ほどの「お玉が池」伝説にも、「里見義堯」の名が出てくる通り、少なくても里見義堯から後は、久留里城が里見氏の城だった事は明らかで、その後に引き継ぐ久留里城を本格的に築城したのも彼である。

じゃ、資料館からまた元に戻り、さらに登って、天守閣に行ってみよう〜♪ 天守閣に続く道は森林の中にあって、すこぶる綺麗。橋の左の風景↓

橋の右の風景↓
森林道はさらに続く。→

1564年、下総の第二次国府台合戦で、里見氏は北条氏にまた敗北。
この時、久留里城も一時、北条方の手に落ち、2年後に里見氏が奪還。上総の大半と下総の一部を制圧する。

これが1567年の「三船山合戦」で、正木氏の北条氏への寝返りで、里見氏は苦難を強いられたが、里見義弘は北条勢を泥沼におびき出して沈め、北条勢は死体の山を築いた。

が、その後は北条氏の勢力に押され、1577年、里見義弘は北条氏と和睦。義弘の死後、家督を継いだ弟、里見義頼は安房の岡本城を本拠とし、久留里城には城番が置かれている。
天神曲輪
緩やかな石段の歩道が続く

1588年、里見氏は豊臣秀吉と誼を通じ、館山城着工。1590年に完成。この年、豊臣秀吉は小田原を攻め、北条氏は滅亡したが、久留里城を攻めていた北条勢は本国に帰ろうと慌て、義頼の子、里見義康は城から討って出て、北条勢の過半数を討ち取った。
同時に里見氏も、勝手な行動を取った(関東公方のために鎌倉を奪回しようとして、参陣に遅れた)という理由から、上総の所領を没収された。

以後、関東は徳川氏の支配となる。千葉県には本多忠勝・平岩親吉・鳥居元忠が入り、佐倉・東金・土気・相馬・鹿島・八幡・千葉・生実(おゆみ)・国府台・根小屋・万木・小浜・勝浦・矢竹・高野・庁南・庁北・伊南・伊北・鶴舞・亀城・一宮・久留里、以下48城を空けて、城主・兵士は遁走(房総治乱記)。

千葉県じゅうの領地が、徳川家の譜代家臣および息のかかった者に塗り潰され、里見氏のみ安房一国に封印された。

久留里城には大須賀忠政が三万石で入った。
大須賀氏の名は、元は千葉常胤の子・胤信から始まり、一見ここだけ千葉氏の流れに見えるが、忠政は、家康の重臣、榊原康政の子である。大須賀氏の後裔が家康に仕えていた事から、その名跡を継がせたのだ。12年後に転封。

1602年には、土屋忠直が二万石で入城。忠直は武田24将の土屋昌次の甥で、家康側室・阿茶局に養育され、二代秀忠に仕えながら、関ヶ原合戦では上田城攻略に加わらなかったため、大功を上げた。
その妻が新井白石を可愛がった。

忠直−利直−頼直と直系で続いたが、三代目・頼直の性情が芳しくなく、利直の弟、数直との間でお家騒動が起こり、数直は文知(久留里新田・下総布施)の後、常陸土浦城主となり、この土屋家は幕末まで存続したが、頼直の乱行は苛烈過激を極め、新井白石の父もこの時に失墜。1679年、ついに家禄没収。久留里城はこの時に廃城・廃棄。

幕府蔵入地となり、翌年より、下馬将軍・酒井忠清の加増地とされ、62年を過ごした。

1742年、黒田直純が三万石の藩主となり、幕府から5千両を拝領し、三年の歳月をかけ城を再興。黒田氏の治世は、初代直純から約130年間続き、9代直養の時、明治維新を迎え、1872年、城の建物は解体された。

男井戸・女井戸(おいど・めいど)
←二つ並んでいる。伝説によると、この二つの溜め井戸は、奈良時代の僧、良弁によって掘られ、「金剛水」「胎蔵水」と呼ばれた。

↑戦国期、この場所に里見義堯が城を築くと、敵対する北条氏がいくたびか来襲したが、この井戸により籠城にも耐えることができた。
江戸時代、藩主の黒田直享(なおゆき)の頃から、藩士の結婚式の際に、新郎・新婦がこの水を飲み、夫婦の誓いをかわしたと言われている。

いよいよ天守閣に到達。その左脇に→
波多野曲輪

この「波多野曲輪」の一郭もちょっとした広場になっている。入ると眼下に眺めがイイ(^^)。

「波多野曲輪」からの眺め(パノラマ3枚)

じゃ、いよいよ天守閣に行ってみよう〜(^O^)/

←「波多野曲輪」から見える天守閣・↓正面

本丸・天守台跡
この土壇は、1743年から1746年にかけて、黒田直純が再築した際、築いたと思われる天守の跡で、礎石郡は昭和52年に実施した発掘調査によって検出され、きわめて貴重な遺構であることが確認された。

礎石の配列は内側と外側の二重に配され、内側3.6m×9.9mの長方形を呈し、絵図とほぼ一致。
これらの礎石の配列状況から、建物は二層二階であったと推定され、近世初期の天守の様式である望楼風天守に類似。
礎石は、二の丸から切り出した砂岩を使用しており、いずれも赤褐色で鋸引の跡が残り、砂岩の中に一部白色のシルト岩(砂と粘土との中間の細かさを有する岩)がみられ、土台石として用いられたと考えらる。

天守台の構造は、上面に厚さ10センチ程度の粘土を敷き詰め、その下に径2〜4センチの石を10センチ程度並べ、次に若干大きめの石を地山まで詰めているものと推定。また上部の周囲に回らされている瓦は、土圧から台を守るための措置であると推定。

この天守閣は1978年に再建。もちろん2001年に来た時もあったよ(^^)。夜もライトアップされて、紅葉が綺麗だったけど、2006年、夜に来た時は真っ暗だった。

右の写真、天守閣からちょっと横に奥行きがあって、小さな丘があるのだが、そこに登ってみる。

丹生廟遺跡の碑
丘からは森の合間から天守がこう見える

「丹生廟遺跡」
これは最後に一番長くこの地の藩主だった黒田家の守り神を祀った跡。

黒田氏は、28代・宣化天皇の曾孫・多冶比古王の子孫。
多冶比古王の後、歴代、大化の改新・遣唐使・蝦夷征伐に功績があった大臣にもついた家だが、藤原全盛時代には、藤原氏でない多冶比氏は二流・三流扱いになり、800年代後半、先祖ゆかりの武蔵加治郷に下って、丹党(秩父丹党)と称され、「丹生明神」という祖神を祀った。

ちなみに、この黒田氏が高麗と名乗った経緯から帰化系だとかいうのは、まるっきり誤伝(笑)。

将門の乱では将門側に与し、頼朝が東国に旗を上げると、新田氏に従って鎌倉幕府に仕えた。
幕府が倒れると、新田氏が足利氏と戦ったので、丹党も新田敗戦とともに苦難を迎え、一族は山中に潜んだ。
戦国前期、古河公方と管領上杉氏との攻防では、上杉側に味方したが、やがて北条氏が現れるとこれに属し、その時には「中山」と名称して、北条氏輝に仕え、八王子城の守将となり、豊臣方との戦いでも猛戦したが落城。
が、その武勇を知られ、家康に惜しまれて遺族が旗本となった。

中山から黒田となったのは、初代藩主、黒田直純の養父、黒田直邦が中山家の三男で、母方の黒田氏を継いだ事からだが、この黒田氏も中山氏と同族の丹党である事から、同じ祖神「丹生明神」を祀っていたのだろう。
初代藩主、黒田直純は本多正矩の次男であったが、黒田直邦の五女を室とし、黒田家を引き継いだ。

丹生狼は岡象女神で、丹治姓の家の氏神。
黒田氏は、この久留里に来る前は上州沼田にいた(2004年12月<沼田城跡(城址公園)、1>内)が、黒田家が、下館や沼田に転封するたびに祀られて来て、寛保2年(1742)、直純が久留里に来た時、ここに祀った。
延享2年(1745)の8月に城を作ったが、翌年(1746)の6月、大旱魃となり、これに祈ると雨が降った。

廃城になってから、荒れ果て、狼藉者が集まるようになった(のか、建物に跡に狼藉する人が出たか)ので、大正2年(1913)に村社に遷した。
その後、城跡には遊園地が作られたらしい。

こっちは天守閣からの一望(^^)(パノラマ3枚・ほぼ180度)

天守閣の中は、全国の天守閣の写真パネル展になってて、ドンドン上に登ってこの景観が拝めるのだが、その階段が又々急で(^^;)! 最上階に登るまでヘバッたぁ〜(笑)。

何か全体的に「自分が急に重くなった」感じのする久留里城だが(笑)、それでも何度来てもウキウキする凄く素敵な場所で(売店書籍は充実してるしっ:爆)、資料館や売店・天守閣の人も感じが良くて、ここに一発旅館でもあったら、一泊して色々見て回りたいんだけどな〜といつも思う!



<久留里〜養老渓谷〜七里〜亀山温泉>

以上で歴史の旅は終わりで(^^ゞ、この後はエンエンとドライブコース。(よって字が減り画像が増える:爆)

久留里(久留里城=地図)からは大まかに、東西南北4方面に道路が伸び、亀山温泉地図)に向かうには南に行くコースが近いのだが、この日は東に出てみた。

久留里から南に伸びるのが410号線・465号線。東に伸びてるのが32号線。32号線を行く。

2001年はこのコースで養老渓谷に出た。夜だったので「日のある内に行ってみよう(^^)」と♪

なかなかいいコースだった(^^)
上総大久保あたりかな橋を渡った

養老渓谷地図)に到着〜♪ 岩風呂に川魚料理のある渓谷

前来た時(2001年11月)のレポはこの辺→2002年8月内9月内

←これが、養老渓谷のシンボルと言ってもいい「観音橋」。紅葉の頃は素晴らしく綺麗(^^)。

源頼朝が最初の旗上げに失敗して、房総に逃れ、篭ってた頃にちなんだ「出世観音」があり「頭痛守」が好評♪

久留里から32号線・81号線で養老渓谷に出たのだが、81号線をそのまま行き、右折して465号線を行って、亀山温泉地図)に行く予定だったのが、465号線の途中、七里川温泉地図)あたりから、どうも清澄養老ラインというコースに入っちゃった気がする(^_^;)。
間違ったルートなのだが、かなりスゴイ景観だったので、交えてお届けする。

鬱蒼とした森林
遠くの田に照り返る夕陽が黄金色!

七里川温泉はこの辺りだった確か。

以後「清澄養老ライン」
切り立った断崖と狭い道

本コースに戻って続きを行く
霧と夕陽のかかる雄大な山景色

うお〜凄すぎるっ。お前ホントに千葉県かっ?!(って何が言いたいのよ:笑)

里に降りて来た。この日は夕陽の照り返しが綺麗だった〜

温泉の案内がそろそろ
亀山温泉(地図)に到着

亀山温泉ホテルの真っ黒な温泉(^^)。(パノラマ2枚)

亀山温泉は2006年11月ごろにも来た。→2007年5月<亀山温泉>内

庭園。お風呂入ってたらだいぶ暗くなった(パノラマ2枚)

←向かいのレストラン

この後は木更津にバックして夕飯(^^)。これも前回(2007年5月<亀山温泉>内)行った同じ所っ。お店の名前は「ゆめ一茶」地図←この辺り

「ゆめ一茶」(蕎麦屋)のマグロ丼♪
土産の「枇杷キャラメル」☆ミ

行きにアクアラインのSA「海ほたる」でマグロ丼の定食を食べたけど、やっぱ地元の店は美味いわ〜(^_^;)。
「枇杷キャラメル」は久留里城の売店で買った(#^.^#)。

以後は一路帰宅〜。

以上、関連事項は、
2002年8月<久留里城>
2002年9月「城主のたわごと」
2004年12月<沼田城跡(城址公園)、1>内
2007年5月<木更津市・馬来田〜真里谷>以降
2007年10月<真里谷城跡>
「城主のたわごと・千葉の動乱」<上杉禅秀の乱(1416〜1417)>以降




■9月・宮城県
<東北道・磐梯方面〜村田>


さてこれより5回シリーズ程で、第二回東北旅行シリーズをお届け(^^)。 *パチパチ*

8月は今イチ夏休み満喫じゃなかったので、亭主が9月にもう一度休みを取った。有給だと思ったら代休だった(汗)。。働き過ぎだろ。。

当日まで休み廻りがおぼつかないスケジュールだったので、行くだけ行っちゃってから、後は野となれ山となれ〜という感じで、取りあえず最初の二泊だけ押さえて行った(^_^;)。

結果は途中から追加して、3泊4日(^^)v。
この時の旅行は、途中に所用もあったし、やはり東北は遠いので、3泊は無いと無理だったかも。。

てわけで、まずは例によって東北道に乗る

東北道がわりと好きなのは、都内など建物の鬱蒼と生い茂る(←!)一帯をあまり通らずにグイグイ行ける所(#^.^#)。
あと携帯を買ったので、早速ポイントごとにキャラが変わる写真とか撮ってみたりで、わりと最初からご満悦(笑)。

9月だったがもう途中の田んぼも色づいていた(^^)

埼玉・群馬・栃木はダダッと飛ばして(笑)、今回はイキナリこっから地図←郡山ジャンクション(福島県)

去年はこの郡山ジャンクションで東北道から磐越道に乗り換え、西に向かって会津若松まで行った。
今年は乗り換えず、東北道を直進する。なので今回は、郡山ジャンクションより先の東北道からスタート(^O^)。

←安達太良山かな。郡山を越えた先にも今年はグングン行く↓

続いて、吾妻小富士か

さらに続けて行く
もう蔵王?(ちょっと早いかな)

県境を越えて宮城県に入ると、本来「白石IC」(地図)で降りるべき所を、村田まで行って降りた。



<村田〜白石>

矢継ぎ早に地図交換(笑)。村田(地図)から白石に戻る道は正面に蔵王が見える(と思う)。

←村田。城があるらしく(゚.゚)、町じゅう城下町っぽく観光地モードだった。地図には「船岡城址公園」が見える。
↑白石に向かう途中。遠くに聳えるのは蔵王かな〜と。

正面が夕焼けしてて綺麗だったので、ちょっと暗めだけど、明るくすると色が飛ぶので(^_^;)。↓


この辺りまで来ると蔵王が正面に見える。だいぶ(地図で見ると)白石に近いと思う〜。↓


この辺りは、そろそろもう白石じゃないかと!↓


駅の方向に向かう道沿い、左手に奇妙な岩陰の丘。海岸とかに突き出てる岩みたいで目立ってた(笑)。↓


で、白石の駅に行くより前に「鎌先温泉」と矢印された案内版があったので、そこで右折。西に向かう。地図



<白石〜鎌先温泉>


おおお〜!と声が出るぐらい、拓けた一帯にまず出た。白石に近付いて来ると、わりと建物も多く道路も車が多く行き交ってるのだが、この道からいきなりガラ〜ンとした長閑な風情で、「旅行だ旅行だ(^O^)」と喜んだ(笑)。

左側の田園風景
正面・飛行機雲

鎌先の入口あたり(かな?)に差し掛かる

途中で地図やらナビやらで道を確認してたら、近くのお店の人がわざわざ出てきて、窓をノックして教えて下さった(゚.゚)!
これまで停まって地図確認してたら、怒鳴りつけられた事はあったけど、教えに来てくれた人は初めてなので(てっきり怒られると思って謝る用意をしてたけど:笑)驚いた、嬉しかった〜(#^.^#)。

ほのぼのとした田園風景と山間の道で、こういう所に夕暮れ時間、時々車で通るけど、このまま宿泊って事は珍しいので、それも凄く嬉しかった!!

繋がり具合が悪くてゴメン(^_^;)(パノラマ3枚・ほぼ180度)

鎌先温泉にした理由は、去年と同じく「まずは温泉(^^)」の線を狙ったから。
が、宮城県は海沿いだからか、去年ほどボンボコ件数が上がる地域が多くなく、また温泉のある所は、今回所用のある仙台からは遠いし、高い所は困るし……。

それで何とか探し当てたのが、鎌先温泉と小原温泉。今回は鎌先温泉に決めてみた♪

↑宮城県だからササニシキか(稲穂を見ただけでわかる人を尊敬する)。

最後の峠。か〜なり高所だった(パノラマ2枚)

↑ここがまた何とも気持ちいい風情で、ず〜っと居たかったけど、夕ご飯の時間なので先を急ぐ。

いんや、まんず、はぁ〜、いがったなぇぇ〜(出来上がんの早すぎっ ヽ(^^;))。

宿みっけ、到着〜♪
山沿いに点々と
おおおお、これも風情な

鎌先温泉「最上屋旅館」(地図・パノラマ3枚)

わ〜江戸時代の旅籠みたい〜(#^.^#)。昭和初期だっけ、こういう温泉旅館が流行ったとかいうのは。この裏山の尾根じゅうビシーッとこうした建物が見えて、素敵な風情だった♪
そして……晩ごは〜ん(^O^)。スゴイ。ニ膳だったよっ(゚.゚)。

私らが泊まるんだから超特価なのは言うまでもナシ!!(核爆)

というわけで、次回はこの最上屋から始まり、鎌先・白石をお届け予定〜♪

<続く>

2007年11月07日(2016/11/22:地図(ヤフー →MapFan)張替)
 
     





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