<2010年・城主のたわごと5月>




2009年9月「岩手南部編」第6弾。4日目(最終日)は平泉南部(^^)。

「毛越寺」「柳之御所跡」「伽羅御所(再現)」と、午後の庭園三昧♪ 




     
  第6弾突入(=^m^=)。
最終日の4日目は、前回に引き続き、午前に行った「達谷窟」から平泉に向かう。

平泉には、3日目に北部(「中尊寺」と衣川地区の「長者ヶ原廃寺跡」など)を見て廻った。
この4日目は南部の「毛越寺」「柳之御所跡」、ここまで今回。
その後、「無量光院跡」を前回の予告に含めたが、これと「高館義経堂」は、次回に廻させて貰う(^^ゞ。



<「毛越寺」@、表門〜南大門跡>

前回は、宿泊した厳美渓から平泉に行く途中、「達谷(たっこく)窟」に寄った。
地図A←中心点の「達谷窟」から、さらに平泉に向かう。 31号線を一直線だ(^^ゞ。

前日は、さらに外回りでやって来たから、平泉には北から入って来た。
4日目のこの「達谷窟」のあるルートは、直接平泉に、南から入って来る道。

まだ午前中(^^)。
遠くに微かに見えるのは束稲山かな?(^^ゞ

平泉に入ったら、最初に向かうのは「毛越寺」(^^)。
ちょくちょく述べている通り、初代・清衡=中尊寺、二代・基衡=毛越寺、三代・秀衡=無量光院と、代を重ねるたびに大きな寺作りに着手した、と見られて来た。

今回は、いよいよ二代〜三代の時代についても語っていきたい。

まず二代・基衡は、ただでさえ謎の多い奥州藤原氏の中でも、最も史料の少ない人だ(^_^;)。

奥州藤原氏は全代「生年不詳」だが、基衡以外は没年からおおよそ推定できるものが、基衡になるとその点から曖昧で、大河ドラマ「炎立つ」でも、生きた時代ごとカットされ、配役もつかなかったから、イメージしうる役者名すら上げられない(^^ゞ。

ちなみに、基衡以外の各代の配役(役者名)は……、
藤原経清=渡辺謙/初代・清衡=村上弘明/三代・秀衡=渡瀬恒彦/四代・泰衡=渡辺謙(二役)

基衡に俳優を当てるとしたら……ん〜西田敏行とか、北大路欣也あたりかな〜(>_<)。。

基衡に関して言えるのは、体型・時代・生母・兄弟・妻・家来・摂関家との関係などだが、どれも確証に乏しい(^_^;)。

<1、基衡の体型>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
スリムで華奢な清衡(AB型)に対し、基衡(A型)・秀衡(AB型)は肥満で、特に基衡は巨人で恰幅が良かったようだが、三人の中では、清衡が一番長生きしたようだ。


31号線の拓けた平野に
黄金色の稲(^^)

<2、基衡の生没年(1105〜)>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
生年がわからない場合、没年と享年で推測するが、没年については、かなり後世の記録なので、非常に
不確かながら、「平泉雑記」をはじめとして、1157〜58頃と言われてはいる。

享年について、基衡の場合は、その遺体から、50歳〜60歳ごろまで生きたんじゃないか、と推測できるそうだ。

成人の死亡年齢って、歯の磨耗度から推測するんだって(゚.゚)。
三代までは、だいたい全身の遺体(ミイラ)がある(白骨化や鼠害が多いけど(^_^;))。
四代・泰衡だけ首のみであるが、その保存状態は良好だそうだ。
四代ともに、信用を疑問視(か保留)されてた文献記録に、だいたい沿った死亡年齢と推定されたようだから、首しかない泰衡のも「歯」から推測したんだろうね〜。

生まれたのは恐らく清衡の最初の子が、母(清衡の妻)とともに死んだ「1086年」(2010年2月<館山史跡公園(岩谷堂城跡)、「二清院」>内より後だろうと推測されている。

というわけで、基衡の生没年は、だいたい、1105年頃(推定)〜1157年(推定)あたりと受け取られている。
ちなみに、その父・清衡の生没年は、「中右記」の「大治3年(1128)、73歳(享年だろう)で没」から推定して、1056〜1128年と受け取っておく。

清衡の妻子が、後三年の役に死んだ「1086年」からは、20年前後も経った、清衡49歳の頃の誕生になるが、基衡の上には兄がいたようだから、前の妻子を失ってから、「長い間独身だった」かまではわからない(^^ゞ。


←到着(^^ゞ。「毛越寺

地図B←さっきの「達谷窟」の入ってる大きさで、中心点を移してある。

大きくすると、地図C←31号線を4号線に出る直前にある。二つの跡地が並んでおり、左が「毛越寺」、右は「観自在王院跡」。

鉄道では東北本線の「平泉」。歩いて10分ぐらいかな(^^)?

毛越寺・境内と庭園見取り図←を作ったので、折々出しながら案内しようかと(^^ゞ。
↑で行くと、今、右下「表門」に居て、進路は地図の左に向かう。大庭園は上部全体を占めている。

毛越寺はさすがに有名な気もするが、CMとか旅番組で、庭と池ばっかり出て来るので、「何があるトコ?」と思われてるかもしれない。念のために述べると(^^ゞ、この庭園(庭園跡)がメインの史跡だと思う。

建物は無くなったが、基壇や礎石は良好で、特別史跡に指定。
特に庭園は、国を代表する平安時代の「浄土庭園」として名高く、特別名勝に指定されている。

だから門を入ると、この通り↓、早速庭園の方に行けるルートがあって、よく来る人は真っすぐ庭に行っちゃうんだろうね(笑)。

入口(表門)を潜ると右に……
庭園に直行できる小路が♪(拡大)

ここも中尊寺と同じく、「慈覚大師の開祖」と伝わっている。
中尊寺は、近世に東叡山の末寺となったので、慈覚大師のいた嘉祥年間(848〜850)に、大長寿院が建立されたことに付会したようだ。

この毛越寺にも、その「嘉祥年間」に創建伝説をもつ「嘉祥寺」(跡地のみ)があるので、恐らく中尊寺と同じ「後世付会」の線だろう(笑)。ただ前身らしきについては、先々に書く。

たびたび述べている如く、東北における天台宗の布教は、慈覚・円仁までは遡れないまでも、それなり古くから活動があるから、白山・山王神社なども、元は古い事もありうる。

寺を建てたのは二代・基衡の時代。
昔は清衡〜基衡の時代、と思われていたようだが、近年は、基衡〜秀衡の時代、と思われてるようだ(^^ゞ。

「昔」というのは、近世〜明治初期、仙台藩や南部藩の御用学者が、「1105年の造営」と判断したため、「初代・清衡の建立」とされて来たが、相原友直(1703〜1782)の「平泉雑記」によって、基衡の造営と発表されて以来、今では基衡の晩年の1150〜56年の7年間に造営された、と見られている。

1189年、奥州藤原氏を亡ぼした源頼朝は、平泉への感嘆と憧憬の思いが強く、御家人の力を結集して鎌倉に建てた永福寺には、平泉の寺院様式を取り入れたと言われる。

「堂塔40余宇、禅坊500余宇」と「吾妻鏡」に伝えられ、頼朝の死後、1213年に、頼朝の未亡人・北条政子の夢枕に甲冑姿の法師が現れ、平泉の寺塔荒廃を嘆いた。
これが泰衡の命日だったので、政子は泰衡が夢に現れたと思い、その甲冑姿に不穏な予知を心配して、平泉の寺への修復を命じている。

が、その後、1226年に火災で大半が焼失した。
鎌倉では事前に、「円隆寺(毛越寺の中心寺院)に火が廻る!」と、時刻まで当てて告げ廻る者がおり、本当に燃えてしまった後、「我国無双の寺で、特に頼朝が信仰したのに……」と「吾妻鏡」は惜しんだ。

それでも辛うじて燃え残った物があったようなのに、1573年には「大崎×葛西」による兵火で、1597年には野火によって、残りも完全に燃えて無くなった(^_^;)。。
だから、ここには庭園の跡地だけが残され、程よく手を入れて緑も綺麗で、大きな自然公園という感じである。

参道の左・「宝物館
右・お手水の奥は庭園の続き(^^)

↑「宝物館」は、昭和52年(1977)建造。毛越寺に伝わる仏像・書籍・工芸品・発掘品、この毛越寺ゆかりの「延年の舞」に使用する舞具など陳列。

↓「松尾芭蕉句碑」、江戸時代に訪れた芭蕉が詠んだ「夏草や兵どもが夢の跡」を、新渡戸稲造(1862〜1933)が英訳した碑。昭和24年(1949)建碑。
「夏草」英訳
The summer grass 'Tis all that's left. Of ancient warriors' dreams.
新渡戸稲造は、岩手県生まれの教育学・農学者で、国際連盟に活躍。「武士道」を著した。

進んで左に「松尾芭蕉句碑
そして参道正面に「本堂

基衡の話、続き。

<3、基衡の生母@>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
↑「平氏」の可能性が言われており、候補は以下。
@城氏(越後)、A岩城氏(陸奥)、B平国妙の娘

@とAは(特に2010年「3月のたわごと」で)既に書いたから、今回は省略するが(^^ゞ、@城氏に関しては、<6、生母A・兄弟(1128〜1130)>の所でも出すし、この先、奥州藤原氏の動向とともに現れて来る。
A岩城氏は、奥州藤原氏から嫁した女性(清衡の娘とも秀衡の妹とも言われる)が、白水阿弥陀堂(石城郡、福島県)を建立した記録がある。

で、Bの平国妙だが、前九年の役の全容を伝える「陸奥話記」に、「経清の外戚」とあるそうだ。
どうも元は源頼義の軍にいて、安部氏との戦いで捕虜となった絡みで名を顕すようだが、経清の「外戚」と言うからには、経清の妻は安部氏なので、妾か母の一族という事になろう。

平国妙については、前九年の役の後どうなったのかわからないものの、前々回(2010年3月<中尊寺・白山神社〜帰りの参道>内にも書いた通り、後三年の役の後、1093年に平師妙・師季というのが、出羽で叛乱を起こし、源(賀茂二郎)義綱(義家の次弟)の郎党に平定され、翌1094年には、義綱自身が師妙・師季の首を持って、京に凱旋している。

この平師妙・師季は、名前の感じと言い、出羽で現れた乱である事と言い、清衡と呼応した動きに見える経緯と言い、前世代に名の現れる「平国妙」と関係がある感じがしなくもない。

「呼応した動きに見える経緯」というのは、叛乱の直前、清衡にも挙兵の動きが見咎められていたが、清衡は「平師妙・師季の乱」の起こる前……すなわち義綱が陸奥守に就任した時点で、挙兵を中止したと言う。

が、これだけでは、平師妙・師季と清衡の間が、敵対関係だったのか、逆に手を組んで謀反を企んでいた、って事かは判らない(^_^;)。
両者が「実は揉めてた」としても、中央から見れば「戦闘状態」に他無く、陸奥の国府など脅かす張本人と見なされれば、すなわち「謀反人」「賊」ではあろうから、討伐隊を出すキッカケにはなりうる。

しかし平師妙・師季は平定されて首も取られている。敵対であっても逆に同盟関係だったとしても、基衡が生まれたとされる、1105年ごろになれば、清衡と平師妙・師季の一族が姻戚関係にあったとしても、そう不思議ではないだろう。

もしこの国賊の一族と血縁だったとしたら、基衡についてあまり史料がないのも、逆に頷けるような気はする。
が、国賊として征伐された氏族を、外戚としているかどうかは、この後の展開から推し量る「楽しみ」にしかしようがない(笑)。

さらに進んで右「芭蕉句碑
そして正面、突き当り「本堂

↑「芭蕉句碑」も、背景には庭園の風景が(^^)。

芭蕉が奥州を訪れたのは、元禄2年(1689)。訪れたのは高館と言われている。高館は次回やろう(^^ゞ。
さっきの「芭蕉句碑」は昭和の物だったが、これは江戸時代からの物で、芭蕉の甥・「碓花坊也寥」禅師による建碑という。
左の小さい碑「夏草〜」が芭蕉の真筆といわれ、右の碑は、文化3年(1806)に地元俳人「素鳥」たちによって建てられた副碑。

その右の写真は、突き当たった「本堂」だが、建ったのは平成元年(1989)と、わりと最近で(^^ゞ、前に来た時は確かに無かったような……。前この敷地はどんなだったかな。。これがなかなか立派な本堂で↓

「本堂」の朱塗りの扉が開かれ
燦然と輝くご本尊がっ!

「本堂」の再建には平安様式を用いた。このご本尊も平安期の作と伝わる薬師如来で、両脇は日光・月光菩薩を配置、さらに脇には四天王が安置されている。
なお、この「本堂」こそ、毛越寺一山18坊の「本坊」にあたる。

毛越寺・境内と庭園見取り図←そして参道っぽい敷地もここで終わりで、この突き当たり「本堂」から右折して、「南大門跡」から、浄土庭園に入る(^^)。

→こう進んで来た。左と中央が庫裡、右が本堂(パノラマ3枚・ほぼ180度)

↑そして、この位置から後ろを見ると↓

ド〜ン! 広い広い庭園と大泉池の始まり(パノラマ4枚・180度以上)

↑これより、この大きい池の周りをグル〜ッと一周する。広いよっ(^^)。



<「毛越寺」A、南大門跡〜開山堂>

←手前の緑部分に今まで居り、大泉池の奥に、このような伽藍が配置されていた。
かつての風景を、白石隆一さんの油絵で復元し、境内の案内としていた。

右にある小さめの池は、毛越寺の隣の「観自在王院跡」。

毛越寺・境内と庭園見取り図←の通り、今ちょうど「南大門」跡にいる。
庭園見学コースの起点である。→

この「南大門」には、かつて「二階総(惣)門」があり、両脇に仁王像が安置、「金堂円隆寺」と書いた勅額が掲げられていたが、天正元年(1573)合戦による兵火のため焼失した。

この「金堂円隆寺の勅額」には逸話があるので、<10、基衡と毛越寺>で述べよう(^^ゞ。
今は門も像も額もないが、当時の礎石はそのままに残っており、12個あるという。桁行11.51m梁間7.27m。

以後、庭は左回りに周遊するので、常に右手に大泉池が出て来る。
ではでは、大きな池のお庭を見ながら、話の続きを(^^)。

<4、基衡の妻@、その実家>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
この毛越寺の隣、「観自在王院跡」は、「基衡の妻」が建立したと伝わっている。
「基衡の妻」も沢山いたかもしれないが、三代・秀衡の生母についてまず書く。
安部宗任の娘」と伝わっている。

「宗任の娘」については、2010年3月<衣関跡・「接待館跡」>内に土地伝承に触れた通り、仏法に篤く、往来する旅人を接待したり施しをしたとされ、優しい人だったように思える(^^)。

その一方で、同一女性とは限らないが、「基衡の妻女」が家来の延命に奔走する話が、数少ない基衡にまつわる話の中で目立っているので、後で書いてみよう(^^ゞ。

庭に入ると左手に「本堂」の側面
右は池の向こう岸「経楼跡」辺りか……。

毛越寺・境内と庭園見取り図←「経楼跡」は、「金堂・円隆寺」の左右・足元の一つ。

さて、安部宗任は前九年の役で降参を申し出て、命は許され、流刑された人物である(2010年1月<えさし藤原の郷・C「河崎柵」「伊治城」「厨川柵」、1>内
許された理由を、「奥州後三年記」は、源義家の言葉として、出処進退が明確だった(敵に捕まったのではなく、過去の罪状を悔いて、自ら降参を申し出た)からだ、と記す(2010年2月<平泉到着(^O^)! まずは「わんこそば」!(爆)>内〜<中尊寺・参道、1(八幡堂)>

その後、陸奥に帰ったという話は聞かないので、前九年の役までに生まれた女子が、長じて基衡に嫁いだ事になりそうだが、そうなると、前九年の役が終了した1062年より、せいぜい一年後の1063年に生まれた?

先ほどの推定だと、基衡が生まれたのは、1105年だから……妻が42歳も年上っ(・・;)。。

この無理を解消するためか、「宗任の孫娘とも言われる」と補助する文面も、チラホラ見られる。

宗任の娘という事になると、彼が罪を許されて奥州に戻って来たか、流刑先に連れてった妻あるいは現地で得た妻にでも生ませた娘、という事になる。

このように「宗任の娘」とするのに無理がある事と関係するのか、安部宗任は、鎌倉初期には、「義家の従者」として説話に登場する(笑)。

←左手に「築山」。断崖の景観を、大小各種の石を組み合わせる事によって、約4mほどの高さに作られており、「作庭記」の「枯山水」の実例と考えられている。
これほど大きな池跡が、800年も殆ど完全に残ってる例は珍しく、池は東西に約180m、南北に約90m。焼亡前は渡されてた橋の杭は、橋の遺構として日本最古。

湖面に浮かぶ二船の龍頭鷁首を拡大。
これは雌と雄?阿と吽?(笑)

前回、八幡太郎義家が弓の上手であった逸話をいくつか書いた(^^ゞ(2010年4月<達谷窟、「毘沙門堂」「岩面大佛」「蝦蟇ヶ池・辨天堂」>内
そのうち、「狐を傷付けず、気絶させるだけで、逃してやった」という話を書いた。

これに、義家の従者として安部宗任が登場する。
まず、気絶してる狐を見付けて、「矢が当たってないのに死んでいる!」と驚くのだ(笑)。

そして、宗任が拾った矢を入れやすいように、義家が矢入れのある背を向けると、他の従者が、「(敵意や恨みを持ってる)降参した者に背を向けるなど!」と言い合ったが、義家は宗任をそのような害をなす者ではない、と見抜いていた。

義家が女の家に通う時に、宗任が供をした話もある。

外で警護をしてる宗任の近くに、強盗たちが集まって来たので、宗任は吼える犬に矢を放って、矢継ぎ早に後を継ぎ、犬はワンワン鳴いた。
この騒ぎに、義家が室内から「誰だ」と声をかけ、宗任が答えると、義家が宗任をたしなめる声が響く。
強盗たちはこれを聞いて、義家がいる事を知って驚き、慌てて逃げた。

このように宗任は、「流刑者」で終わらず、義家に気に入られ、取り立てられた事になっている(笑)。
宗任が戦後も健在な話があるのは、女系をたどって奥州藤原氏の血筋に入り込んでいる事が、何らか知られていたからかな(^^ゞ。

↓「築山」も通り過ぎる(^^)。
そろそろ大泉池の西端に近付いて来た。→
この辺は影が濃く、水面が鏡のように周囲の緑を映して、日本庭園と言うよりは、北欧の湖でも見てるようでもあり(笑)。
「築山」は、進行方向から見てもそれなり凄いが、通り過ぎて振り返った水寄せに、小舟を置く木陰が美しかった♪↓

(パノラマ2枚)

また宗任に関しては、他にもこんな痕跡も残っている。

このGW(明けて2010年5月)に、茨城県下妻の「宗任神社」に行った。
同地域にある「宗道神社」とともに、宗任を祀る数社があるうちの一社だ(2008年9月<宗道〜下妻>内
この神社自体は、1109年(宗任の死の一年後)、(宗任の)神告によって、陸奥から家人の「松本七郎」が下妻に来て伝えた、という事だった。

その時期が、ちょうど今話している清衡〜基衡の時代に当たるので、気になっていた所、道端でバッタリ、陸奥から神社を伝えた子孫の方にお会いできて(^^ゞ、「陸奥から下妻に来た折、起こっていた乱を鎮めた」という伝承をお聞かせ頂いた。

「将門の乱(〜940年)の100年後」との事だったから、「1040年」ごろとして、前九年の役の前後に、宗任自身が下妻に来て、騒動を治めた事になる。
が、「松本七郎が下妻で起こった乱に関わった」と解釈すれば、「200年後」の「1140年」かもしれない(^^ゞ。

いずれにせよ、宗任は死後、人々に特別な意識を持って振り返られた。
これも、基衡の妻であり秀衡の生母が、宗任の娘だったからだろうか(^^ゞ。

……と片付ける一方、その死亡時期に少し思う事もあるので、この後に続けて書こう。


西端は境内の外側が見える(^^ゞ(パノラマ3枚・ほぼ180度)

敷地は寺の物なんだろうね(笑)。庭園の中にあるアヤメ園の続きようにも思えたけど……。

西端には池泉は無く、広々した緑地にアヤメ園が↓

このアヤメは、明治神宮からの分譲献進なんだって(゚.゚)。

<5、源義親騒動@(1117〜1118)>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
↑の事を、このあたりで挿入しておくが、前々回までは、「初代・清衡のいた時代」という事で、その同盟者・源(八幡太郎)義家の「その後」風に書いたが、今回は意識を源氏よりも、摂関藤原氏に少し移して読んで頂くと助かる(^^ゞ。

まず、「源義親」というのは、源(八幡太郎)義家の嫡男である。
前々回(3月)の中尊寺の最後あたりに、「1117年〜1130年になると、死んだハズの“義親”が次々と現れる」という話を書いた(2010年3月<中尊寺・白山神社〜帰りの参道>内および<衣関跡・「七日市場跡」>内。この話だけでも面白いので、どっかに書きたいとは思っていたが(笑)。

源義家が死んだのは、1106年ごろと見られている。
そう。基衡が生まれたと推定される1105年と、同じ時期(^_^;)。

さらに1108年には、今話した安部宗任の死没、同年に義家の嫡男「源義親」が、国賊として平正盛(清盛の祖父)の追討を受け、討ち果たされている。

そして、翌1109年の宗任の一周忌に、茨城県で宗任神社の建立……義親も宗任も九州に行っていた、という点は、気にならないでもない(^_^;)。。
実相としては繋がりが無くても、もしかしたら、こうした接点を後世の人が説話の糸口にしたのかな?

で、「義親事件」というのは、まず1117年、最初の「自称・義親」が出現する!(笑)
自称する「法師」が、越後国(新潟県)の平永基という豪族の元を出入りしている風聞だったので、国司に捕らえさせようとしたが、永基は最初は応じず、やがて殺害に及んだと言って、法師の首を差し出した。
こうして最初の「自称・義親」は死んだが、検分の結果、誰の首だか判明しなかった(^_^;)。

1118年、「自称・義親2」出現。今度は常陸国(茨城県)に出た(笑)。下総守だった源仲正が捕らえて都に送った。
白河上皇と鳥羽上皇(白河上皇の孫)は、見物しながらも「義親はすでに討伐されたから」という理由で、「偽者」と断定されたが……。

清和天皇−貞純親王−(源)経基−満仲┬頼光(摂津)−頼国−頼綱−仲正−頼政
                         ├頼親(大和)
                         └頼信(河内)−頼義┬(八幡太郎)義家┐
                                      ├(賀茂二郎)義綱|
                                      └(新羅三郎)義光 |
┌−−−−−−−−−−−−−−−−−-−−−−−−−−−−−−−−−−┘
義親−為義−義朝−頼朝  (八幡太郎義家より先は、詳しくは源氏系図を(^^ゞ)

どうかな(^_^;)。。
仲正義親では、上に書いた通り、「また従兄弟」の関係になる。このぐらい離れてると、顔なんか見間違ったりするって事かな(^_^;)?

義親自称事件は、この後も続くが、そろそろ毛越寺や奥州藤原二代・基衡の話に戻ろう(笑)。


西の端には、「開山堂」がある。ここも開祖は慈覚大師(850年の創建)と伝わっているから、慈覚大師を祀っている。↓大師像

毛越寺における、慈覚大師以来とされる伝承には、「常行三昧供」と「白鹿伝説」がある。

「常行三昧供」は、「常行堂」に達したら書こう(^^ゞ。

「白鹿伝説」は、慈覚大師が霧に難儀し、足元に点々と落ちる白鹿の毛を辿って、白鹿に出会い、鹿が消えて現れた白髪の老人(薬師如来)の薦めにより、ここに霊場と堂宇の建設となった。
これが、嘉祥3年(850)だったので、嘉祥寺と号した、というのが、これより向かう「嘉祥寺跡」の由来である(^^)。



<「毛越寺」B、「嘉祥寺」跡〜金堂円隆寺「鐘楼」跡>

毛越寺・境内と庭園見取り図←だいぶ進んで来た(^^ゞ。今、左(西)端の「開山堂」を過ぎて、これより、上部(北)に移るところだ。

←大泉池から、伽藍跡の敷地に入って来る(^^)。最初に見るのが、今も話した「嘉祥寺跡」である。3つに並ぶ堂の右(向かって左)の堂舎だ。

「吾妻鏡」によると、二代・基衡が着工し、三代・秀衡が完成させた。
本尊は丈六の薬師如来で、堂内の壁や扉には、法華経の教えが画かれていたという。

寺名は「白鹿伝説」で話した通り、開山時の年号に由来し、前身を慈覚大師の開山に求めるが、慈覚云々はともかく、「基衡より前から霊場があった」とされる根拠は、以下の規模・形式にある。

規模は、正面7間(約27.9m)、側面6間(約22.5m)と大きく、左右に廟廓を備える形式も、「金堂円隆寺」と同じである。

つまり、毛越寺の主堂として、中央に「金堂・円隆寺」があり、その補助として背後に「講堂」があるのはわかるが、円隆寺と同じ規模の「嘉祥寺」があるのは、何らか土地に前代まであった霊場を重んじて、再建あるいは改めて新造したから、という解釈になる。

前身と言われると、そして中尊寺の「関」を越えて南に勢力が及んでいた、となると、やはり想像するのは安部氏である。
前回行った「達谷窟」にも、発掘調査で平安時代の池や遺物が見つかっており、ここ毛越寺との近さも気になる。

安部氏は南下が原因で、前九年の役の前哨戦「鬼切部の戦い」を挑まれていた。
その後を受けた清原氏には、特にそうした動きは確認されていない。

ただし「安部氏追悼」という事なら、この毛越寺の隣「観自在王院跡」は基衡の妻の建立であり、この「妻」は、墓碑から「安部宗任の娘」である事がわかるから、ここに二つも寺を建てる必要はない気がする。

すると、やはり前身の霊場らしきが既にあったか、基衡の祖父(経清)か父(清衡)か、あるいは兄の慰霊だろうか。

嘉祥寺跡(パノラマ 3枚・ほぼ180度)

ちょっと乗っかって、礎石も映してみる(^^ゞ(パノラマ3枚・ほぼ180度)

基衡の「兄」の話もしておこう。

<6、生母A・兄弟(1128〜1130)>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「中尊寺経大品経・奥書」によると、清衡には男子が7人、女子が3人いたという。

が、清衡の死(1128年)から一年後(1129年)までに、二人の男子の間で合戦沙汰が起き、弟が兄を制して奥州藤原氏の嫡宗(二代)の座に就いた(1130年)。
1105生まれと仮定すると、基衡23〜25歳ぐらいの出来事となる。
又この事から、二代の座についた基衡を、「」と見なす。

一方、追い落とされた「」は越後に逃げ、そこで「父子共に首を切られた」という。
と言っても、清衡の首と胴はちゃんとあるので、この「父子」は、「基衡の兄とその子(基衡の甥)」だろう。

これは「長秋記」という、院政期の貴族の日記に書かれている事だが、事前に小野寺さまが原文を読ませて下さった(感謝m(__)m)ので、ここだけ詳しいノダ( ̄^ ̄)!

描写すると、館に攻め込まれた兄は、弟からの攻撃に耐えかね、わずか20人余りの従者だけ率いて、小舟に浮かび越後を目指した(あげく首を取られた)という事のようだ(;_;)。
越後に行ったという点から、この「兄」は、城氏と関係があったのかもしれない。

ただ、この日記文、「清衡の妻」と称する女が語った内容という事だが、あまり信憑性の評価を得ていない気がする。

一部、読み方次第で、(本当に清衡の妻かどうかはともかく(^_^;))、そう節操のない振る舞いをしてる女性でもない、という指摘もあるが、あまり本気に取り上げられない原因は、遠い京で興味本位に語られている「噂話」の範囲を出ていない事にあるだろう。

そもそも、同じ「長秋記」に、「清平二子合戦間(清衡の子二人が合戦してる間)、公事欠怠多(公事を頻繁に怠った)。兄弟基衡・惟常云々」と、兄弟の順は、基衡が兄のようにも受け取れ、チャランポランな感じが……(^_^;)。

また同日記において、この「清衡妻」が、「検非違使の義成に嫁いだ」という文面から、佐竹義業に嫁いだ常陸平氏の「吉田清幹の娘」と同一視する向きもあるが、「吉田清幹の娘」だったとして、また「清衡の寡婦が再婚」という仮説も、それはそれでいいとして、「義業の子・昌義の生母」とまで言うのは、私的にはちょっとついてけない(^_^;)。。

清衡72歳没で行くと、その「清衡妻=吉田清幹の娘」は、16歳で51歳の清衡に嫁いで、37歳(1128年)で夫と死に別れ、喪のあけた38歳に京で佐竹義業と会い、電撃的に結婚し、即効で子を孕んでも、生むのは39歳……スゲェ厳しい気が(汗)。

だから日記に書かれたのも、「清衡の妻」と自称する女が喋る事が真実かどうかより、「公事欠怠」(つまり納税・納貢を怠った)の理由に関心があったのではないだろうか。

つまり、六位の「押領使」程度では、未だ中央(都)からは、その系譜に真剣な関心を持たれる事はなく、それより奥州と言えば、豊富な貢物に関心が持たれた、という事である。

こうした事からか、「炎立つ」では、いわゆる「金売り吉次」が、「橘次」という女性の商人(紺野美沙子が演じてた)になってて、奥州藤原氏と京との繋ぎ役として登場していた(^^)。
時には、「根も葉もない噂話」を振りまくなどの活躍も含めて(笑)。


次は「講堂跡(パノラマ3枚・ほぼ180度)

毛越寺・境内と庭園見取り図←「嘉祥寺」と「金堂・円隆寺跡」の間、背後にある。

「講堂」も「吾妻鏡」に、頼朝が奥州征伐をした直後の「平泉寺塔以下注文」に記されている事から、1189年の後も立派に建ってた事がわかる。

が、その後、嘉禄2年(1226)の火災の後を受けて再建された(って事は焼けたのだろう)物が、天正元年(1573)の戦による火災で焼亡している。

そういうわけで、建物の立地については、「金堂・円隆寺」との位置関係から、金堂とあわせて建立が計画され、ほぼ同時に作られたのではないか、と見られている。

本尊は胎金両部大日如来。仏法を説き仏法を聴く堂舎であると同時に、「灌頂」という密教儀式を行う奥羽の灌室であったという。
建物は、正面5間19.1m、側面4間15.1m、礎石34個が完存。

そして「金堂・円隆寺」跡(パノラマ4枚・180度以上)

この「円隆寺」は号名。、基衡の勅願寺として建てられた。
この金堂が毛越寺の中心寺院で、「吾妻鏡」に「「吾朝無双」と唄われ、「金銀をちりばめ、紫壇赤木等を継ぎ、万宝を尽し家色を文う」と大層まばゆい内装の中に、「本佛は、丈六の薬師、十二の神将を安んじ……」とある。

この本尊についても逸話があるので、最後に<10、基衡と毛越寺>で、まとめて述べたい(^^ゞ。

金堂・円隆寺を遠ざかって振り返る→

「金堂・円隆寺」から左右対称に、東西の廓が南の大泉池に向かって折れ、泉に近い先端に、東に「鐘楼」、西に「経楼」が造られたが、やはり嘉禄二年(1226)火災で焼失した。

なので、やはり建物は無いが、そのうちの「鐘楼」跡も、小さい公園のようになってて、水辺も近いので行ってみよう(^^ゞ。

←昔は金堂から伸びた翼廊があった辺り。今はこのように砂地の広い通路になっている。

<7、源義親騒動A(1129〜1130)>−−−−−−
奥州藤原氏が二代目を巡って騒擾していた1129年、またぞろ「自称・義親3」が出た(^_^;)。

それも、白河上皇崩御の2ヶ月後(爆)。どう考えても、義親追討に平正盛を起用し、叙位任官した上皇に文句のある奴がいた、という気がしてならない(^_^;)。

今度の「義親」は「坂東から入洛」とあるから、それまで越後や常陸での出来事が、「風聞」という形で京に伝わったに過ぎないのが、いよいよ舞台は京になってきた(笑)。

当時、院政の主導権を握っていたのは鳥羽上皇だった。

72白河−73堀河−74鳥羽┬75崇徳
                ├77後白河−78二条
                └76近衛

鳥羽院が崇徳天皇を、「祖父・白河上皇の胤だから」と嫌った事は有名だが、崇徳の出生事情に限らず、鳥羽院は白河院の長い治世に批判の思いが強かったように思う。

院政の主催者は、「天皇の父」が条件だから、どうしても我が子や孫を利用する事になりがちで、父子や兄弟の間に軋轢が生まれやすい(^_^;)。

だから白河院崩御となるや、反発するように、白河時代を否定する院政を開始した。
この事が、微妙ながら平家と源氏の関係に響くのだが、奥州藤原氏との関わりはどうだろう……。

「鐘楼」跡の松
礎石。泉にせり出した所にベンチも(^^)
土壇の礎石は16個のうち13個が完存する↑

鳥羽院が実権を握ると、白河院の勢力は一掃され、白河院に疎まれ遠ざけられていた摂関藤原氏忠実(16代)を、再び政界に復帰させ、白河法皇の遺言を無効にして、忠実の娘を皇后にした。

(摂関藤原氏)
道長−頼通−師実−師通−忠実┬忠通┬(近衛)基実
                     └頼長└(九条)兼実

この調子で、この「義親騒動」にも積極的に介入を行い、「義親(自称3)」を摂関藤原忠実の屋敷に匿わせたのである(^_^;)。
もっともこれには、上皇の意思だけに限らず、「世間の気色」つまり「世論」のなせる所でもあったようだ。

さっきも出した「長秋記」には、
「結局この義親も顔実験となり、妻をはじめ5人は「義親じゃない」と答えたが、二人ほどが「本物」と答えた。
これが義親本人でないとしても、義家の家人が、熊野の湯峰で生存してる義親に会った、と話しているから、追討の時に死ななかったのは確実」と書かれているそうだ(^_^;)。。

鐘楼跡は湖面に近く、再び龍頭鷁首の二船を、今度は正面から見る事が出来た(^^)。→
さらに1130年になると、近江国の大津にも「自称・義親4」が出た!(≧▽≦)
そして忠実邸にいる義親と、偽者(本物?)対決をするのである!!!!(笑)

大津の義親が京の四条堀河を通った所、源光信の邸前で、忠実邸の義親(自称3)と遭遇。二人()は夜中に闘争に及び、大津の方()が死んだ。数十人が見物したという。

ところが、勝ち残った「義親」()も、忠実邸の鴨院にいた所を、50〜60人もの兵に乱入され、暗殺されてしまうのである(^^;)。。。

屋敷を荒らされた忠実が、憤って宮中への出仕を中断した、ってあたりは、「それで欠勤なんてアリか(^^;)?」と思うのだが、ナントこれを受けて、鳥羽上皇が早速会議とか開いちゃって、この犯人を捜索させる事に……。

そして、ナント、検非違使が追跡した義親暗殺の刺客は、白河上皇の建てた寺房に逃げ込んだ所を逮捕された(・・;)。。。
うわうわ、マジで黒幕が居たのかー(≧▽≦)!!スゴイねっ刑事ドラマから、政界黒幕ドラマになってるけど(汗)。。

さらに、暗殺の黒幕として、正盛の子・忠盛(清盛の父)に嫌疑が及ぶのである(爆)。

これも、「正盛を贔屓していた白河院への反抗」の範囲に取れなくはないが、世論まで操作するとなると、上皇でも難しい。
やはり、「義親の生存を快く思わない(証拠隠滅しそうな)のは、平忠盛」と、少なくても「世間が疑ってた」からだろう。

忠盛は「疑念を晴らすため犯人を捕らえる」と自信満々に豪語。
そうして囚われたのは、源光信であり、土佐に流罪され、その弟の光保は解官の憂き目にあった。。

清和天皇−貞純親王−(源)経基−満仲┬頼光(摂津)−頼国┬頼綱−仲正頼政
                         |            └国房−満国┬光信
                         ├頼親(大和)             └光保
                         └頼信(河内)−頼義┬(八幡太郎)義家┐
                                      ├(賀茂二郎)義綱|
                                      └(新羅三郎)義光 |
┌−−−−−−−−−−−−−−−−−-−−−−−−−−−−−−−−−−┘
義親−為義−義朝−頼朝  (八幡太郎義家より先は、詳しくは源氏系図を(^^ゞ)

こうして、分家の河内流のみならず、本家までズタズタになった源氏は、さらに当分立ち直れなくなった。
こうした度重なる不遇、策謀めいた源氏下ろしが、伊豆の頼朝に先駆け、源三位・頼政(↑系図)が畿内で平家打倒の兵を挙げた理由の一つではないか、とも見られている。




<「毛越寺」C、遣り水〜東大門跡>

東から「鐘楼跡」とその回廊跡を振り返る(パノラマ4枚・180度以上)

↑このうねった水路は「遣り水」と呼ばれ、毛越寺・境内と庭園見取り図←「金堂・円隆寺跡」のスグ隣の敷地を流れて、この大泉池に注ぎ込んでいる。

その上流を辿ってみよう(^^)。
大泉池は南にあり、上流の北側には、大泉池ほどの規模はないが、それなり大きい弁天池が当初はあって、そこから引いて来た水だったのかもしれないが、特にそうした説明はなかった。

←上流に来た(^^ゞ。
↑こっちは中流。さっきの池泉に流れ込む前。

「遣水(やりみず)」は池に水を取り入れる水路で、庭園の発掘調査に往時の姿のまま発見された。遣水の遺構は、奈良の宮跡庭園以外には例が無いから、平安時代の遺構としては唯一のもの。

水底に玉石を敷きつめ、流れには水越し、水切りの石、その他、水の曲がり角や池への注ぎ口に石組を配するなど、平安時代の指導書「作庭記」の様式を余さず伝えている。

これは、昭和61年(1986)に、藤原秀衡800年遠忌の特別大祭記念行事として、「曲水の宴」を再現した様子→

「曲水の宴」とは、「浄土庭園」に風雅な趣を添える「遣水」のせせらぎに耳を傾け、その美しい流れに盃を浮かべて、流れ来る間に和歌を詠み、終って盃を戴くという、中国から伝わった催しで、平安時代に盛んに行われた。

この時、講師をつとめた坊城俊民氏(披講会会長)はその様子を、「桃の枝に羽觴みちびく童さび小袿狩衣おのおの歌詠む」と詠じられた。

秀衡800年遠忌のみの一度きりかと思ったら、5月の第4日曜に毎年やるようだ(^^ゞ。
男性は衣冠・狩衣、女性は袿・十二単などの装束で、行なわれる前には催馬楽が舞われるのだとか。

<8、妻A・家来>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ところで奥州藤原氏は、さっきの白河×鳥羽の構図の、どちらに適合してたのだろうか。
結論から言うと、そこまでハッキリとした色分けはわからないが、院政時代の特徴を思わせる逸話はある。

これも、鎌倉時代の説話に現れる話だから、明確な史実とまでは言えないが、こういう話である。
白河法皇の近臣・師綱という者が、陸奥守となって現地入りし、国司として検注しようとした。(院政時代、「院の近臣」が国司となっての、検注・検断てのがやたら多い:笑)

ところが奥州は基衡の支配下にあり、信夫郡(福島県北部)も私領としていたので、基衡は、「国使を入れた先例がない」として、郡地頭の季春(=佐藤季春、義経に従った佐藤兄弟の祖筋にあたる、とも見られている)に命じて、師綱らの入部を拒否させた。

よって合戦が起きたのだが、軍事的な圧力に出れば、手を引くというのが基衡の読みだったのに、院の威光を背に負ってる師綱は、本気で応戦した。

←「遣水」の隣の「常行堂」が、初秋の紅葉の合間から覗き見える。行ってみよう(^^)。

こうなると国賊だから、征伐軍を繰り出されかねない。苦衷の基衡に、季春は「自分の首を師綱に渡せばいい」と答え、基衡は泣く泣く送り出した。

ここに「基衡の妻女」が出て来るのだ。
夫・基衡に内緒で、勝手にやっているという設定の内に、妻女は膨大な身請け料と万を超える砂金を持って、師綱の居館に行き、季春の助命を願ったが、師綱は財宝などに目を眩ませず、季春を切り殺して、世に高名を轟かせた……と説話は描く。

地方に勢を張る武力張った奥州藤原氏、仕えた家のために、自らの命も投げ出す武者(従者)、そして譲らぬ院の近臣という、それぞれ院政時代(平安末期)を代表する、三者(基衡・季春・師綱)の中で、紅一点の活躍を見せるのが、「基衡妻女」なのだ。

ところで、自己犠牲を申し出る季春が「自分は代々の後見で乳母人」と言うので、基衡の母を、佐藤氏の出身ではないか、という説もあるようだ。

清衡の妻が複数いてもおかしくないから、平氏以外が基衡の母というのも「アリ」とは思う。
しかし後見という事だと、「舅」もありうるので、「基衡の母」もアリだが、この事件における「基衡の妻が(安部氏ではなく)佐藤氏」という事もありえよう。
清衡と同様、基衡に妻が複数いたって、別におかしくないもんね(^_^;)。

「常行堂」の敷地に入った(^^ゞ。
「常行堂」の前に座す、お地蔵さん→

あと、佐藤氏は奥州藤原氏と同じ、秀郷流を謳っているから、それで「代々」という事じゃなかろうか(^^ゞ。
それこそ「相伝」と受け取ると、重代の一族の中から、養い親(乳母人)が出るのは自然なので、そうした半ば私的な情愛もあって、自己犠牲的な進言もスンナリと出た、とも受け取れる。

なのでこの時点で大事なのは、基衡の妻(秀衡の母?)に、財産を投げ打っても人命を救おうとする慈悲の心があった、と伝承される点かな〜と思うんだけど、どうかな(^^ゞ。

それにしても、この逸話、白河院の在世中のように書かれているが、白河院の崩御は1129年。基衡がまだ兄と家督争奪をしてた真っ最中なので、白河院の時代(〜1129)ではなく、鳥羽院の頃(1129〜)って事はないかな(^^ゞ。

←「常行堂」は、享保17年(1732)に再建。
内部にはご本尊と、秘法「常行三昧供」に用いる切り紙絵↑

これまで書いた通り、華麗な寺院建築も早々と1226年、1573年に焼失し、唯一残っていた「常行堂」までもが、慶長2年(1597)、野火によって失われてしまった。。。

しかしそんな中、毛越寺には長く、人から人へ伝えた伝統が残っていた。

そのため、戦国時代も終焉し、世の中が落ち着いた江戸時代の1728年に、「これだけは」と再建が持ち出されて、仙台藩主・伊達吉村によって、1732年に建てられたのが、この「常行堂」だった。

伝統の一つが「常行三昧供」、もう一つが「延年舞」で、中でも「常行三昧供」が最古。その修法を行なう場として再建されたのだ。
←本尊の「宝冠・阿弥陀如来」。「奥殿」には、秘仏「摩多羅神」を祀る。
↑頭上に吊り下げられるのが、紙を切り抜いて作られた「雑華」。

「雑華」は「飾り花」とも呼ばれ、左から、「抱茗荷」「鳥居」、最後のは「菊」かな(^^ゞ?
他に「蕪青」「大根」「桐」「扇」などがあるようで、これらを「常行三昧供」を行なう折には、道場の四囲に張り巡らされた注連縄に吊り下げる。

「常行三昧供」というのは、慈覚大師から伝わった秘法の修法(密教の祈祷で、護摩壇を設けて行なう)で、冊子にある写真を見る限り、堂内に飾り付けをして、お坊さん方が祈祷をしているようだ。

1月20日に行なわれる。
平泉駅に集合して、松明の灯を先頭に雪の中を行進して来て、ここで大根や白菜などの野菜を捧げて、この祈祷を行なうのである。

元「常行堂」の奥殿「法華堂」跡
拡大(^^ゞ。標識の足元に礎石が見える

「常行三昧供」の修法を行なう折には、他にも、四方の柱の竿の先に、桜や白玉椿の造花がつけられた花笠や、日月模様の烏帽子を結びつけるが、これは「田楽用」のだそうだ。

この「田楽」というのが、「延年の舞」と言われるものの一部で、「常行三昧供」の修法が終わってから、竿につけた傘や烏帽子をとって被り、舞を奉納するのだ。

エントリーは、「呼立」「田楽踊」「路舞」「唐拍子歌」「祝詞」「老女」「若女」「児舞」「花折」「玉母ヶ昔」「勅使舞」。

このうち、「路舞」が、慈覚大師が入唐した時、現れて舞を見せた童子が、慈覚大師が毛越寺を作った折にも現れた、とするもの。
「勅使舞」は、慈覚大師の後、長年のうちに廃れた堂宇を、奥州藤原清衡・基衡(今では「基衡・秀衡」と言われている)が復興したので、鳥羽天皇の時代に勅使の左少辨・富任が来て、国家鎮護の勅願文を賜った事にちなんだ舞。

そして嘗ては前面にあった「常行堂」の跡地。今は庭園の一部として残っている。

今ある江戸時代に再建された「常行堂」と、その前に在った「常行堂」跡(5間15.4m方形)と、その奥の「法華堂」跡(5間11.8m方形)の位置関係は、毛越寺・境内と庭園見取り図を(^^ゞ。

「常行堂」(跡)の礎石は、現「常行堂」(建物)の礎石に使われたのか残っていないが、根石の存在が確認されて、跡地である事が証明された。

「常行堂」では「常行三昧」、「法華堂」では「法華三昧」を修法する堂宇で、渡廊で結ばれていたと思われる。

尚、「延年の舞」は、国指定の重要無形民俗文化財となっている。
奈良の東大寺・興福寺・多武峯、京都近辺の延暦寺・園城寺、周防の仁平寺で盛大だったが、次々と絶えて、今は、地方の隅々に僅かにその痕跡を留めるのみにまでなってしまった。

毛越寺にも、これらの他に、数十番あった「能」が今は廃れて「留鳥」「卒塔婆小町」「女郎花」「姥捨山」のみ謡が伝わり、舞になると「留鳥」しか踊り方がわからなくなっている。
「留鳥」も復興によるもので、明治維新の後、舞は途絶えてしまったため、建物を失っても、人から人へと脈々と伝えて来た伝統までもが絶えようとしている(;_;)。。

↑「常行堂」跡の端にチラッと見えてるのが、←昭和50年(1975)に作られた「鐘楼堂」。
これも「鐘楼」跡から少し離れて(^^ゞ、売店と一緒にある。

鐘は、香取正彦氏(人間国宝)の作、銘は山田恵諦(大僧正・天台座主)、形は平等院の風だそうだ。

さてさて、又々基衡の時代に戻って来よう(^^)。

<9、摂関家との関係(1148〜1152)>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「炎立つ」は、三部構成の最後・第三部「黄金楽土」に入ると、最初から摂関家に縁深い「藤原基成(林隆三)」が、三代・秀衡(渡瀬恒彦)と仲睦まじそうに登場する。

確かに基成は、摂関家と遠距離ながら関係がある。しかも三代・秀衡には舅、四代・泰衡には祖父にあたる(^^)。奥州藤原氏に強い影響を与えたに違いない。

┌信頼
基成−女
|     ├−泰衡(四代)
|奥州藤原秀衡(三代)
└−−−−−−女
           ├基通
忠実┬忠通┬近衛基実
   └頼長└九条兼実

この基成が奥州にやってきた最初の時が、1143年。鎮守府将軍を拝命して、である。
その後は重任で居続けたようだが、決定的に根を下ろしたのは、平治の乱で異母弟の信頼が首謀者として処刑された後の、連座・縁刑だったかもしれない(^_^;)。

だから基成については、三代・秀衡の時代、すなわち「保元・平治の乱」の後に話を譲ろう。

と言うのも、大河ドラマを見ると、この基成との関係から摂関家にも重んじられ、だんだん力を蓄えて、三代秀衡の代にはいよいよ隆盛……という具合に見えるんだが、思うに奥州藤原氏の隆盛は、基衡の時代にはもう来ていた。
むしろ強大になりすぎた世代……それが基衡の時代に思える。

大泉池の移動風景もお届け(^^)(パノラマ3枚・ほぼ180度)

さっきの「遣水」が合流してるのが、右の芝生に割り込んだ線。この辺り↑。
今度は←をグル〜ッと廻って、庭園の最東端に行ってみると……(^^)、

←「東門(東大門)」に到着する。

毛越寺の敷地は、隣の「観自在王院」と、道路を隔てて接していた。

だから、ここにあった東門から外に出ると、街路に出られ、「観自在王院」や車宿(牛車の駐車場)に行けた。

街路との隔ては、今は生垣になっている(↓に写真を出す)が、当時は「築地塀」が囲んでいた。

また毛越寺の敷地内では↑こんな風に、「敷石道」が出ていたようで、これも毛越寺・境内と庭園見取り図に書き込んである通り、「遣水」を渡り、「金堂・円隆寺」の「鐘楼」(跡)に伸びる途中の「東翼廊」に行ける通路だった。

拡大。この位置から対岸に「本堂」が見える(^^ゞ。
さらに拡大(笑)。

↑庭園に入る前にお参りした所ね(^^ゞ。やっと園内180度以上廻った、という事になる(笑)。

基衡は「果福父に軼ぎ、両国(奥羽)を管領す」と記される通り、父・清衡を上回って力を蓄えたものと見られる。
既に書いたとおり、国司(陸奥守)としてやってきた院の近臣とも合戦沙汰をするぐらいだから、父・清衡の頃は馬を貢いでご機嫌を取っていた摂関藤原氏とも、実はやはり揉め事があったのだ(^_^;)。

(摂関藤原氏)
道長−頼通−師実−師通−忠実忠通┬(近衛)基実
                     └頼長└(九条)兼実

2010年3月の「城主のたわごと」では、中尊寺において、師実−師通−忠実の時代を話した。
今回はその先の、忠実(父)・忠通(長男)・頼長(次男)の時代に行く。

この世代は、後の「保元の乱」まで生き、忠実(父)と頼長(次男)が崇徳院側(負け組)についたのに対し、忠通(長男)は後白河側(勝ち組)に与したので、父子あるいは兄弟の不仲が発生した時期と見られている。

しかしまぁ不仲っつーか、単に忠通に嫡子が居なかったので、弟の頼長を跡継ぎに決めておいたら、忠通の子・基実が誕生し……というパターンのようよ(^^ゞ?
だから「保元の乱」で、この父子・兄弟が戦い合うハメになった原因も、摂関藤原氏の内部よりは、皇室における(院政の主導)継承権問題の決着に主要因があると言えるだろう。

それでも忠実は、次男の頼長にあらゆる権利など譲ろうと、あれこれ努力・画策していた事は間違いない。
そのうちの一つが奥羽の「五箇庄」と呼ばれる、これから書く騒動の場所で、陸奥の高鞍・本良、出羽の大曾禰・屋代・遊佐が、その土地に相当する。

生垣の向こうに「観自在王院跡」の池辺が見える

池のトコ拡大してみるね(^^)

残念ながら「観自在王院」には行かなかった(^^ゞ。毛越寺からこうして撮影しただけ。

観自在王院」には、基衡の妻が建立した、大小二つの「阿弥陀堂」があった。今も現「阿弥陀堂」の東に「基衡公夫人の墓碑」がある。

庭は、四隅が丸い苑池(舞鶴が池)を中心とする浄土庭園(特別史跡・名勝に指定)で、毛越寺との境にある玉石の敷地は車宿(現在の駐車場)であったという。

ここにおける「基衡の妻」は、「安部宗任の娘」という墓碑があり、それには「仁平二年」(1152)と日付もあるそうだが、これは江戸時代(1730年)に、村上(治兵衛)照信が建てた物だともいう。

「五箇庄」問題の方に戻る(^^ゞ。既に忠実の時代から、年貢の徴収を増やそうとして問題がおきている土地だった。
もちろん豪胆な基衡は、そんな要求に応じなかったが、「悪佐府」という異名を持つ頼長は、「トロイ遣り方じゃダメ!」とばかり、1148年に譲られるや、翌1149年には現地に人を送った(^_^;)。

前に千葉氏の相馬御厨問題でも書いた通り(時期的にもアレと同じぐらいの頃だし)、大抵この手の紛争って、まずは互いに自己の権利を拡大しあうものなのよね(^_^;)。

なので忠実の頃には、高鞍だけだった増徴要求が、頼長の代になると、他の4庄、本良・大曾禰・屋代・遊佐にまで、増徴ハバが広がった( ̄▽ ̄;)。。

さすがに基衡も、元より縮小しようとまでは思ってないけど、増徴はできる限りちょっとに留めて、提示し返したりしてるようよ(^^;)?
その結果、どっちかと言うと、基衡の「言い値」が通ったわけ(爆)。

それでも頼長は、「わかった、他はオッケーだけど、陸奥の高鞍、出羽の大曾禰は広いし田んぼも多いじゃない!\(>o<)/」と粘って、この2庄については最初の要求を半額に落として、交渉を続けた。
「そうかい払ってやるよ( ̄▽ ̄)」と基衡も折れて、1153年に、1150〜52年の分も一括払いした。

ここ重要。「3年分を一括払い」だ(-_-;)。。災害や飢饉で懐ぐあいが苦しく、取立てに難渋していた……とかじゃないわけ。払おうと思えば、いつでも払えたわけ(笑)。

辺境の身分の低い者と、ここまで競り合うことを、頼長の家司が諌める一方、五箇荘の預職などは増徴を支持したと言うから、「摂関藤原氏も大変な時代を迎えていた」という見方も出来るけどね(^_^;)。



<「毛越寺」D、洲浜〜南大門跡〜売店>

東門を過ぎると、庭も東〜東南と辿って、最初に庭に入って来た「南大門跡」に戻っていく。
ここからが大泉池を鑑賞するコースで、「洲浜」「出島石組」「池中立石」という絶景ポイントが迫って来て、わりと目が離せない(笑)。

まず「洲浜」に差し掛かる。初めは細長く
歩くほどに浜辺が広がりを見せ……

湾に深く入り込んで、「出島石組と池中立石」が近付いて来る(^^)。

洲浜(すはま)は、他より地底を浅く作り、広い範囲に玉石を敷き詰めて、水位に応じて姿を変化させる。

先ほどの築山(枯山水)と違って、柔らかい曲線を描いて、砂洲の美しい海岸線を表している。
また、先に見えて来る出島とも対照的に、ゆったりとした景趣(^^)。

最後の最後になったが、基衡とこの毛越寺の事を書こう(^^)。

<10、基衡と毛越寺(1150〜56年)>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
何といっても基衡を示す大きな痕跡は、この毛越寺だろう(^^ゞ。
敷地面積が、清衡の中尊寺より一回り大きい事が、その象徴のようにも感じられる。

後世の記述ではあるが、毛越寺の建立に当たっては、寺の額におさめる字を、先ほどの摂関家・藤原氏の忠通(兄の方ね(^^ゞ)に書いて貰った。

忠実忠通┬(近衛)基実
   └頼長└(九条)兼実

忠通はこれを仁和寺を通じて依頼されたと思い、願いに応じて書いて渡してしまったが、後でこれが基衡が建てた寺(「奥の夷(えびす)基衡とかいうが寺」)だと聞いて、憤慨して額を取り返させようとした、という(笑)。

その結果が二通りあって(ロールプレイングゲームですかっ!)、「吾妻鏡」には、額は「九条関白忠通の自筆」とあり、「古事談」には、「基衡は秘計をめぐらせたが、遂に責めとって、三つに破って持ち帰ったから、菊方(取り返しに遣わされた厩舎人の名)の高名が残った」と、忠通が取り返した事になっている(^_^;)。

頼朝は奥州征伐の翌年には、京で九条兼実(忠通の子)に会っている。
「三つに破って」などと云うからには、忠通は自書が後から惜しくなったのではなく、「基衡になど書いてあげるつもりなかったモン!\(>o<)/」という後悔からだろう(笑)。

だから、京で頼朝が兼実に「毛越寺の額はお父さんが書いたんですか(^^ゞ?」なんて聞いた所で、「ちっ、違います(^^;)!」と答えられたかもしれないが(笑)、同時代の人の筆跡を誤って伝えない気もするし、鎌倉幕府が奥州藤原氏の寺を持ち上げる必要もあるまいから、忠通の書いた額は、毛越寺に架けられてあったんじゃないかと思うんだけど(^_^;)。

また、額の懸けられた場所も、「金堂・円隆寺」とも、「二階惣門」とも書かれてるのを見るから、後者なら入口の「南大門」を指すのだと思う(^^ゞ。

あるいは、金堂にかけるのは取り返して、かわりに南大門にかける奴をくれたのだろうか(^_^;)。。

毛越寺が最初に火災に遭ったのは、1226年だ。
……細かい事を言って恐縮だが、頼朝が来たのは最初の火災の前だが、「吾妻鏡」が編纂されたのは、火災の後だろうと思う(^_^;)。

その時に焼けたのは、伽藍のある一帯……つまり寺の殆どではあるが(^_^;)、「金堂」に懸けられたのではなければ、「南大門」の焼失については、1573年だから、「吾妻鏡」の頃はあったんじゃないかと思うんだけど……(^_^;)。。。

やがて「洲浜」の先端部分が
目の前に来たぁ〜(≧▽≦)!

飛行機に初めて乗った子供みたいに喜ぶ(爆)。

そして行き過ぎると、見事にカーブの向きが変わる。
「不思議だねぇ(゚.゚)」
「うん不思議だぁ(゚.゚)」
上手く言えないけど、遠くに見てた時は、そんなに大きな浜辺とは感じないのに、近付くと大きいんだよねぇ〜☆ミ

最後はこんなに伸びちゃって(笑)↓(パノラマ2枚)

↑代わって注目スポットは「出島石組と池中立石」に移ろって行く♪

陸から繋がってる岬の部分が「出島」、その先にある孤島は「飛島」と呼ぶみたい(^^)。
その間の水底には玉石を敷き詰め、荒々しく散らされ、点在する石は大きさも様々。

この巨大な池には風が吹く度にさざ波が起きて、この石のある辺りは特に波紋が綺麗☆ミ

ここは、荒磯の動的な表情が、さっきの「洲浜」の静的な趣とは対照的だが、こうして池の周囲を行き過ぎると、やはり洲浜と同じく「出島」のカーブが変化していく。

その変化につれて、今度はそれぞれの石によって、洲浜とは全く違う風景に見える(^^)。

最後の「飛島」と石群の間は、こんなに離れてたんだね(゚.゚)→

「飛島」に立つ石を「景石」と呼び、高さ約2.5m。「毛越寺」と言えば、必ず画像に出される石だよね(^^ゞ。

そして、そろそろ「南大門」跡の近くまでやって来ると、対岸には「鐘楼」跡の松林が見える(^^)。

その左、湖面に浮かぶのは、「中島」と銘される玉石の島。

さて、毛越寺の建立と基衡については、関白・忠通の額筆と同じような話が、「金堂・円隆寺」の本尊にもあって、その場合、「取り戻し」に動くのが鳥羽法皇と、話は大袈裟になる(^_^;)。。

まずこれを彫った「雲慶」が、「南都の仏師」と言うから、あの鎌倉初期の仏像で超有名な「運慶(〜1224年)」かとも思えるが、年代的に厳しい気もする(運慶が90歳ぐらいまで生きてた人でないと難しい(^_^;))。

何しろその運慶らしき仏師が、発注を受ける時「上・中・下がございます(^^ゞ」と伺いを立てると、基衡は「中」と答え、手付金に金で100両、奥州馬・水豹(あざらし)皮・鷲羽・安達絹・布や信夫(しのぶ)毛地摺(もじずり)など、都の人が喜ぶ高価な品物を送った。

運慶が冗談で、他の品物の方が良かった、などと言うと、早速調達して送り付ける。
それも車や船にタップリ乗せて、陸水ともに運送の人馬や船が絶える暇が無かったという(#^.^#)。

そうして出来上がった仏像(丈六の薬師)のあまりの見事さに、鳥羽法皇は、見るなり奥州行きを禁じたので、基衡は度を失い、寝食も忘れて七日も持仏堂に籠って、藤原忠通に訴えたため、ようやく仏像を呼び寄せ、安置させるに漕ぎ着けた、という逸話が残っている。

結局、良くも悪くも、これらの逸話の示す全てが、奥州平泉の基衡が毛越寺を建てるにあたり、都の最高権力者たちさえ羨ましがり、驚く余り、取り戻そうと躍起になる程、潤沢な財力をかけ、贅を尽くして作った事を物語っている。

こうした古代の痕跡が、後々までこの地域に「長者」伝説を残す所以だったのかな?(笑)


さてさて、優雅な庭園・池泉見学も終え、南大門跡から戻り、さらに表門付近まで戻って来た(^^)。

この日はもう帰るだけなので、チェックインやら夕食やら時間を気にせずに済むので、少し遅めの昼食ながら、毛越寺の売店で頂く事とした♪

「宝物館」の前に出されてる「お休み処」で
藤原三代お餅膳!(1000円)

このネーミングが抜群なので、中身も問わずに注文してしまったが、出て来たら内容も良かったな〜(^O^)。

んとね( ^,_^)ф。左上から、「ずんだ餅」「あんこ餅」「じゅうね(くるみ?)餅」、真ん中左が「ごま餅」、右が「しょうが餅」、下の右が「ぞうに餅」に、漬物と汁寒天と酢の物だったかしら……。

お餅は小さめだから、おやつで食べるのにGOOD(^^)v。
ご飯としては、甘味だし軽食だけど、4日の長旅でお腹も膨れ気味なので(笑)、私らはちょうど良かった。

一関と同じく平泉もお餅料理がご馳走と見えて(^^)、この他にも「くるみ餅」「納豆餅」など、メニューが豊富で、特に「ずんだ餅」は、大きな看板が出ていた♪



<柳之御所跡>

↑のあるのは、地図D←中尊寺や毛越寺とも距離がわかる、程良い縮尺率を取った(^^ゞ。

さらに言うと、地図E←少し拡大。中心点に「伽羅御所跡」、上(北)に行って、右の4号線の内側、206号線より北側に「柳之御所跡」、左の4号線と真ん中110号線の間、バス停のある辺り内側が「無量光院跡」である。

この三ヵ所は「正三角形」を結ぶ位置にあり、互いに近いので歩いて廻れるし、その少し南にある「平泉駅」の隣にレンタサイクルがあるから、自転車借りればラクそうだね(^^)。

「柳之御所跡」に行く前に、「柳之御所資料館」に行った。「柳之御所跡」と「伽羅御所跡」の中間ぐらいの位置にある(^^ゞ。

柳之御所資料館」入口
こちらが資料館の建物(^^)

資料館は、09:00〜16:30、無料、月曜休み。
発掘された遺物など展示しており、柳之御所についても説明パンフを貰えたよっ(^^)。
ただそれだけ見てもアレなので、ちょっと補足しながら行くね(^^ゞ。

前に阿津賀志山防塁に行った時、藤原氏の終焉につれて、この平泉が事実上の国府と地域で認識され機能していたように書いた。

それは、平泉から落ちて行く泰衡が燃やすまでは、国府にあるべき書類が「平泉館」にあったらしく、頼朝が「奥羽二国に関しては、秀衡(三代)泰衡(四代)の決め行なっていた通りに」といった意味の張り紙を、(本来の国府の)多賀城に貼って命じたのも、そうした奥州藤原氏の存在を認めて……という事になろう。(2009年4月<阿津賀志山防塁>内

文献で確認できる、この「政庁」らしきが平泉のどこの建物に相当したかが、発掘調査によって、「柳之御所」であった可能性が強まった、という事じゃないかと思う(^^ゞ。
現地の案内板には、「『吾妻鏡』に記載される『平泉館』に比定」と書かれていた。

証拠となる物は「銅印」(ハンコ)で、「磐前村印」と村の名前が彫ってあるそうだ。
もちろん他にも沢山の発掘物が見つかっている(^^ゞ。現地に行ってから、おいおい話そう。

御所跡は、ここを出て左に行き、通り(206号線)を渡った敷地(^^ゞ。広いし、まだ造作中なので、「空き地?」という感じがするが(笑)……。

ド〜ン! 土手の向こうは北上川、その向こうに山々(パノラマ2枚)

この右から、206号線を横断して入って来た。

↑に見える山々は、地図を見ると、左手前が経塚山で、右奥が束稲山かな〜と思うが、資料館で貰ったパンフには「観音山や束稲山が見える」とあるので、右の小高い山が観音山かな(^^ゞ?

綺麗な山が見れたので、今度は少し後ろに退がってみよう。パワーショベルが見えるかな!(笑)↓

北東側(パノラマ5枚・180度以上)
206号線↑
同位置から逆の、南西側(パノラマ5枚・180度以上)
↑206号線

こんな具合に、見渡す限り「空き地」!(笑)
東側には、あのパワーショベルが活躍したのだろうか、砂利道が出来上がっている。

西側にも何やら区画された黒い砂利地の四角形が見えるが、その奥にウッスラと白っぽい下地があるのが見えるだろうか。行ってみよう(^_^;)。

来てみた(^_^;)。白というより薄ピンクの床地が出来ている(パノラマ3枚・ほぼ180度)

ここからさらに先、右手の方に、又またウッスラと横に黒っぽい下地があるのが見えるかな。また行ってみる。

←行くとこんな感じ(^^ゞ。さらに先にまたピンク地の区画が見えて来る。

こんな具合にエンエン御所跡の区画が広がっていて、ずいぶん広大な跡地だな〜(゚.゚)と思った。

資料館の説明では、東西に横長の敷地で、東部と西部の間に濠があって二区画に区切られたそうだ。

↑の左に行ってみると→

広大なので西部には行ってないが、西部を「堀外部」と呼び、主に宗教的な施設があったようだ。
「堀外部」の中でも、西にはお堂のような建物跡や、供物を乗せる独特のかわらけが出ており、東部には建物・井戸・ごみ捨て場などの跡などが見つかっている。
あわせて、宗教行事の道具を収納したのではないかと見られている。

堀より東部(たぶん今いるトコ)は「堀内部」と呼ばれ、池があったり、建物がギッチリ建てられて、廻りを堀で囲んで外から見えない施設になっていて、儀式や宴会をしたと見られている。
この「堀内部」の池地ではないかと思うが、庭園風の池が作り掛けられてるので、最後に行ってみよう(^^ゞ。

山々が見える位置からだいぶ後退(笑)。(パノラマ3枚・ほぼ180度)

風景としては、北西部も似たような感じで(^^ゞ、

こんな芝刈りの土地があったり
その先にはまた砂利地があったり(笑)

思うに、このさらに向こう側に西部の跡地があるのだと思う(^^ゞ。
二区画ともに、南部に「猫間が淵跡」と呼ばれる低地があり、北と東には北上川が流れるから、この辺では小高い丘の上にあって、北上川の向こうに山が見られる、見晴らしも良好の場所だったようだ。

やはり重要なのは、北上川に面している点で、ちょうど川が北から来て蛇行している、物資の運搬上、重要な地点で、積み荷や荷揚げなどに使われたのではなかろうか。

もう一つ注目するのは、出土した国産・中国産の土器や陶磁器などから、京都や海外との交流が推し量れる点で、これらを得る財力は産出金として、そのつては、やはり三代・秀衡の舅であり、四代・泰衡の外祖父・藤原基成の人脈によって、愛知県の常滑・渥美といった陶磁の名器が手に入ったのだろうと見られている。

じゃ、さっき言った「池」が作られてる所に行ってみよう(^^ゞ。
←206号線沿いから見えそうなぐらい、道路の近くにある。

ちなみにこの「206号線」は、御所跡の端をブチ抜くように通ってるから(^_^;)、この道路が跡地のハズレというわけではないが、だいたい端と見ていい。

藤原基成が出て来たので、この人の事を書きたいが、これも奥州藤原氏同様、殆ど史料がない(^_^;)。。
そこで、この先の事や、基成の出て来る時代背景も含め、保元平治の乱の事を書いておく。

と言うのも、二代・基衡の没年を1157年(あたり)と見ると、ちょうど「保元の乱」(1156年)「平治の乱」(1159年)の時期とぶつかってしまう(^_^;)。
すると、三代・秀衡は乱世のさなか代を引き継いだ、という事になるからだ。

<11、ちょっと保元・平治の乱(^^ゞ>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
1156年に鳥羽院が崩御すると、待ってたように、兄の崇徳院と弟の後白河天皇の間で、「保元の乱」が勃発。
後白河側が(平清盛源義朝も)勝利し、崇徳院は配流。

さっき基衡とやりあってた摂関家の藤原頼長(弟)は崇徳院側について戦死
やはりさっき毛越寺の「額」の話で出た忠通(兄)は後白河側で勝利し、忠通の系譜がハッキリと氏長者(摂関家嫡流)と定まった。

道路近くの池。植木とかまだ若くて(゚.゚)!(パノラマ2枚)

ちなみに源氏は、さっきの義親の嫡子・為義が、頼長と主従の誓約を交わした家人だったから、崇徳側について戦い、捕まって、嫡子・義朝(は後白河側)に処刑されている。

頼義┬(八幡太郎)義家−義親−為義義朝┬頼朝
   ├(賀茂二郎)義綱              └義経
   └(新羅三郎)義光

この為義は「保元物語」によると、生前、陸奥守への任官を願い出て、「頼義の前九年の役、義家の後三年の役の例もあり、また先祖の意趣も残っている陸奥への任官を欲するなど、基衡を亡ぼす心を持っての事かもしれない。不吉だ」と許されなかった(^_^;)。

為義はこれに怒り、「他の国になど就任するものか!」と、保元の乱まで受領はしなかったという。
以後、為義は近江(佐々木氏)、その嫡子・義朝は相模(大庭氏)や下総(千葉氏)で、紛争とかしながら家臣を抱えたりして、陸奥との関わりはない(^^ゞ。

作り立てか作ってる最中って感じ(゚.゚)(パノラマ3枚・ほぼ180度)

こうして後白河天皇の世が来たが、わりとすぐ譲位となり、息子サンの二条天皇が即位。後白河院政と二条親政の、二頭政治が始まった。
(そして奥州藤原二代・基衡も、この戦いの後に死んだと見る事にしよう(^^ゞ)

後白河天皇は、「息子(二条天皇)の七光り」で即位した帝で、当初は殆ど無視され皇位継承から外されてたから、側近なんか乏しく、即位後は、乳母の夫・信西(南家藤原氏)が指導権を発揮して切り盛りしていた。

信西は摂関家の所領没収のあげく、忠通に上から「藤原氏の氏長者と認めたる」とか、カンに障る事を言う奴だった(笑)。
この調子でズンジャカ敵を作り、同じ立場の後白河上皇の寵臣・
信頼(道長流に対し、中関白家の流れ)とも鋭く対立しちゃうの。。

この信頼という人が、藤原基成の兄弟だったの(^^ゞ。

信頼
基成−女
|     ├−泰衡(四代)
|奥州藤原秀衡(三代)
└−−−−−−女
           ├基通
忠実┬忠通┬近衛基実
   └頼長└九条兼実


↑こういう事ね(^^)。
基成の姉妹からは、近衛基実の奥さんも出ていて、近衛基実の夫人というと、清盛の娘・盛子が知られているけど、盛子は継母だろうと思う。

摂関家の忠通は勝ち組だから、その子・近衛基実が嫡流の座はゲットできたが、負け組の頼長に伝領された権益は、後白河院(この時はまだ天皇だが)の物になっちゃったの(^_^;)。。
だから、せっかく摂関家に嫁いだ妹(姉か?)も、ウルウル(;_;)だったわけよ。。。

毛越寺の大泉池みたく、中島や玉石の浅瀬が出来ている(^^)(パノラマ2枚)

↑この松の密集してる辺りをグルッと廻ってみよう(^^)。

中島と池の廻りを廻る(パノラマ3枚・ほぼ180度)

こうして始まったのが「平治の乱」(1159年)である。
@信西派A親政(二条天皇)派B信頼(院政)派C源氏(義朝)D平家(清盛)
と五分裂したあげく、ABCが結託して、D清盛の留守を狙って、@信西を攻撃し、信西は捕まって死んだ。

D清盛が驚いて兵を連れ帰ると、今度A親政派D清盛とくっついたから、B信頼C源氏(義朝)が孤立してしまい、源氏は大敗、信頼は捕らえられ斬られた。

信西信頼といった、後白河上皇の近臣のみが始末され、後白河に代わって、二条の時代が来たかのようだったが、保元の乱と違う点は、負け組の院政派、すなわち後白河上皇が息を吹き返す事にある(^_^;)。
その原動力となったのが、あの平清盛である。

信頼が逆賊なら、その逆賊に加担した
A親政派って何」みたいな事になって(笑)、A親政派(藤原経宗・惟方)は、後白河上皇に協力的な平清盛によって流された。

この連中はすぐに復帰できたが、信頼と結託ってだけで流刑だから、兄弟の基成も奥州に流されて来たのだろうと見られている。何らか自分の意思で留まったのだとしても、その方が遥かにマシだったとも言えるが(^_^;)。

大河ドラマで基成は、秀衡に義経を斡旋して呼び寄せておきながら、後になって頼朝に義経を売り渡そうとする「勝手な人(^_^;)」という印象があったが(まぁこの辺はフィクションだけど:笑)、そうじゃなくて、そもそも源氏と一緒に蹴落とされ、葬り去られた過去があったわけ(^^ゞ。
だから源氏に対しては、親近感を持ってた可能性はあると思う。

池の大きさや周囲の山景の変化が楽しめる(パノラマ2枚)

所々せっせと造作して、この池の周囲なんか植木とかまだ若々しくて、作り掛けっぽい雰囲気だったから、ここも毛越寺みたいに史跡庭園としてオープンする予定なんじゃないかな?
確かに小高い丘にあると見えて、周囲の山が綺麗に見渡せて、清々しい雰囲気だった(^^)。



<えさし藤原の郷・E「伽羅御所」、1>

先ほども述べた通り、「柳之御所」と「伽羅御所」と「無量光院」は各々、正三角形の距離にある。
地図E←中心点に「伽羅御所跡」、上(北)の右で4号線の内側、206号線より北側に「柳之御所跡」、左の4号線と真ん中110号線の間、バス停のある辺り内側が「無量光院跡」。

が、残念ながら現在、その中で「伽羅御所」のある場所は、オール住宅地になってて、跡碑のみポツと建ってるようなのだ(^_^;)。

なので、場所はてんで離れてるが、2日目に行った「えさし藤原の郷」(地図F)で再現された「伽羅御所」の写真を、ここに持って来よう(笑)。

<えさし藤原の郷・@「政庁」> 2010年
「1月のたわごと」(岩手南部編2)
<えさし藤原の郷・A「見返り坂」周辺>
<えさし藤原の郷・B「経清館」「清衡館」>
<えさし藤原の郷・C「河崎柵」「伊治城」「厨川柵」、1>
<えさし藤原の郷・C「河崎柵」「伊治城」「厨川柵」、2> 2010年
2月のたわごと(岩手南部編3)
<えさし藤原の郷・D「大路」「街並み」→出口>

↑でやり残した分ね(^^ゞ。
正しい順路は、Dの「大路」(政庁南門)と「街並み」の間に、「伽羅御所」が入るんだけど、時代的にすんごく後だしな〜(^_^;)と思ったので、後廻しにして、今回出すわけ(^。^)v

途中に「無量光院」の「遠景」というのが出て来て、これも今は無い建物だから、当時の情景に浸って貰うのにもちょうどいいんじゃないかな〜と(^^ゞ。

↓「えさし藤原の郷」全体図
↑の右上部分を拡大→
厨川柵から「大路」に来て、「政庁南門」にぶつかったら左折(図は右)して入口。

ってわけで、イキナリ開門じゃー!(爆)(パノラマ2枚)

↑築地塀に囲まれた「伽羅(きゃら)御所」の門に入ると……↓

こんな空間(中門)が先ずあり、さらに……(パノラマ2枚)

↑控える門を潜ると、潜る前から向こうに見える緑あふれる空間へ↓

こう誘われていく(^^)(パノラマ4枚・180度以上)

←こう上がり込んで室内にも行けるし、このまま庭にも出られたと思う(^^ゞ。

「炎立つ」では、よくこの庭と言い、池泉に架かった橋と言い、義経と秀衡の娘(という設定の架空の姫)が、二人で歩きながら話すシーンがあった(^^ゞ。

でもここに来た2日目は、既にあちこち見て来て、閉館までの余裕も少なく、それでもこの「伽羅御所」が一番良いと聞いたので、何とか見る時間は残したつもりだったが、庭をゆっくり散策するまでのゆとりは無かった〜(>。<)。。

お邪魔します〜(^^ゞと上がり、廊下を曲がった所(パノラマ2枚)

庭の山にミニチュアで作られた↑「無量光院」があって、「伽羅御所からだと、こう見えた(^^)」と、距離感もよくわかって、実にGOOD!
ちなみに、さっきの「柳之御所」は、この方角からだと、→こっちだね(^^ゞ。(地図E

この「伽羅御所」は、「えさし藤原の郷」における奥州藤原氏の居館の中でも、「最盛期」として、「三代・秀衡の居館」と位置付け、特に大きく華麗な作りで再現されている。

平安時代の寝殿造を用いており、この「寝殿」とは、館の主人の住居としても、公的な行事の場としても使われた、建物全体の中心にあたる部屋。

「寝殿」からは、「東」「北」「西」の各室(対屋)を廊下(渡殿)で結んでいる他、家臣のいる「侍廊」「蔵人所」なども控え、「料理所」「玄関(中門)」などにも廊を繋いでいる。

さらに奥(左)に進んで廊下を渡る(パノラマ3枚・ほぼ180度)

<12、三代・秀衡と義経>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
三代・秀衡は没年がハッキリしていて、1187年だが、死亡年齢がわからない。
遺体の歯の摩耗は、73歳で死んだという清衡ほどは進んでないので、「結城系図」の66歳を妥当と見れば、1121年生まれとなる。

基衡を1105年生まれとみると、基衡が16歳の時の子で、この時代、おかしい事じゃないが、父子にもう少し年齢差があったかもね(^_^;)。

秀衡は、鎮守府将軍や陸奥守に任じられた人物だから、その任官の時期など、基衡よりは史実に即した正確な履歴がわかっているが、基衡のように逸話は多くない気がする(^^ゞ。
それだけ、当時の噂や、そこから醸される周囲とのバランスなどから、性格や考えを推し量るしかない。

また義経についても、幼少期から成人するまでの事は、「吾妻鏡」に、ほんの数行書かれているに過ぎない。

さらに(左)奥に進んでみよう(^^)。
史実における義経の登場は、1180年、伊豆に挙兵した頼朝が、一度は敗れながらも立て直して、「富士川の合戦」で平家を打ち破った時だ。
その戦勝の陣(黄瀬川)に、義経は初登場し、兄・頼朝への面会を願い出た。

やがて涙の対面が敵い、頼朝が「まるで(後三年の役の)兄・義家の元に駆け付けた、弟・義光の例のようで目出度い」とか喜んだ後、人物紹介として前歴が書かれる。

「平治二年(1160年)、乳飲み子で父(義朝)が死に、継父・一条長成の扶持で、出家のため鞍馬山に上り、成人すると復讐心を起こし、自分で元服し、秀衡の猛勢をたのんで奥州に下り、多年を経た。
頼朝の挙兵を聞いて、進発したがったが、秀衡に強く抑え留められていたので、密かに逃れ出て出発したら、秀衡は惜しむ方法を失い、追って来て、勇士・佐藤継信・忠信の兄弟を付けてくれた」

だいぶ奥まで来た(^^)。風通しよく窓が開いて、庭がどの部屋からもよく見えた。
蔀戸(しとみど)を開けると、御簾越しに外界と接し、自然を肌で感じる平安独自の空間となっている。


義経自身は、没年から享年を逆算し、1159年、まさに平治の乱の折に生まれたようだ。「吾妻鏡」は他の箇所で、母について触れており、「九条院の雑仕、常盤」という。

文中の「継父・一条長成」は、母(常盤)の再婚者だが、さっきの藤原基成の従兄弟とも言われるので、義経の奥州行きは、奥州側から基成、京側は一条長成の手引とも見られている。

また同じく「吾妻鏡」は、後に義経が追放処分を受け、鎌倉に充てて書いた、いわゆる「腰越状」を載せ、そこに幼少期からの自分を振り返る義経の言葉として、「母が自分を懐に抱いて、大和国に赴いた」とある。

だから、大和で育った後、一条長成の扶持で鞍馬、成人して奥州……という経過のようだ。
また腰越状には、「諸国を放浪」として、「土民・百姓にコキ使われた」とあるので、他にも行った場所があるかもしれない。

一番奥の対屋では、貸衣装をやっていた(゚.゚)(パノラマ3枚・ほぼ180度)

平安朝調度に囲まれた雅な一室(^^)
双六に貝合せ♪

奥州藤原氏や安部氏の歴史を紹介するのみならず、平安時代の装束・料理・部屋の使い方・音楽(楽器)・蹴鞠・風俗習慣なども懇切丁寧に説明してくれる(^^)。

この部屋では貸衣装の他に、平安時代の「遊び(道具)」も紹介されていた。双六や貝合わせ、面子(メンコ)やお手玉、囲碁など、現在でもよくやる遊びが、平安期からあったようだ(^^ゞ。(貝合わせは、現在のカルタやトランプ遊びに近い)

黄瀬川にあらわれた義経は既に21歳で、成人(元服)するまで鞍馬にいた、という点から、だいたい16歳ぐらいで奥州に行ったのではないか、と推定されている。

三代・秀衡は、1170年には従五位・鎮守府将軍を拝命。義経11歳の時だ。
奥州藤原氏としては初だし、義経が奥州に来た翌年ぐらいの、1176年に、別の人物が拝命されて、秀衡は鎮守府将軍ではなくなった。

が、少なからぬ期間、奥州の王座に就いた事は確かだし、父のいない多感な11〜16歳の義経の目に、秀衡が「頼み甲斐」のある「猛勢」の持ち主、という具合に映ったのは当然だろう。

その反面、そうした義経の目を離れて見る時、特に何らの戦果もないのに、地方の押領使に過ぎぬ奥州藤原氏から鎮守府将軍が出るのは、実は少し異様な感じもしないではない(^_^;)。。

実はこれも、平清盛日宋貿易を本格化するため、豊富な「」を必要としたから、と見られている。

従来なら、陸奥守と鎮守府将軍は兼任が多く、陸奥の産物を折半して収入化していたためだった。
なので二府を切り離し、優遇的に貿易に金を流入させるべく、在地の秀衡への異例の抜擢を行った、というのである。


義経が頼朝軍への参陣を「秀衡に止められていた」というのは、頼朝の挙兵に間に合わない言い訳のようにも聞こえるが(笑)、秀衡が義経を強く贔屓していた事は、その遺言で、「義経を大将」として、その下に付くよう二人の息子に命じている点から、疑いないと思う。

この点は、「吾妻鏡」にもそうあるが、九条兼実の「玉葉」にさらに詳しいようだ。

しかし、上に書いて来た推定で見て、義経がおよそ5年ほどの歳月を、奥州で秀衡や泰衡らと過ごしたとして、それがどういう風景だったかを示す史料は皆無である。

義経が白馬を葬ったとか、前回の大武丸退治に秀衡が乗り出し、義経が討伐に出掛けたとか(笑)、変な伝承はいっぱいあって(^_^;)、いっぺん全部揃えたい気もするが(笑)。

以上、関連事項は、
2007年9月<松ヶ崎城跡(柏市)>内
2008年9月<宗道〜下妻>内
2008年12月<布瀬城跡・香取鳥見神社(天慶の乱・伝承地)>内
2009年4月<阿津賀志山防塁>内
2010年1月<えさし藤原の郷・C「河崎柵」「伊治城」「厨川柵」、1>内
2010年2月<館山史跡公園(岩谷堂城跡)、「二清院」>内
   〃   <平泉到着(^O^)! まずは「わんこそば」!(爆)>内〜<中尊寺・参道、1(八幡堂)>
2010年3月<中尊寺・白山神社〜帰りの参道>内
   〃   <中尊寺・白山神社〜帰りの参道>内および<衣関跡・「七日市場跡」>内
   〃   <衣関跡・「接待館跡」>内
2010年4月<達谷窟、「毘沙門堂」「岩面大佛」「蝦蟇ヶ池・辨天堂」>内



次回は第7弾(≧▽≦)!<至福の時間は出来るだけ長く、が「たわごと」の鉄則!(笑)

この「伽羅御所@えさし藤原の郷」の続きから、「無量光院」「高館義経堂」「白鳥館跡」でいよいよ完結!(笑)
その後の事は、(力尽きちゃって:笑)まだ何も考えてない!!!(爆)

<つづく>

2010年05月22日
 
     






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