<2011年・城主のたわごと4月>




2010年9月「北栃木〜南福島編」スタートだよっ(^O^)/

1日目は、栃木県北部の塩原「妙雲寺」や「源三窟」から!




     
  ↑の前に、前回の山陰行きの後、「塩の道」跡はじめ、8〜9月の地元(千葉県)の風景を数点(^^ゞ。

そして、いよいよ去年(2010年)の9月に行った、北関東(栃木北部)〜東北南部(南福島)の旅行レポをスタート。4回は確実に行くかな〜と!

前回の「たわごと」は早め着手(年度末が入るんで(^_^;))してて、この「北栃木〜南福島」レポに「次は取り掛からないと」と思ってた矢先、あの「東日本大震災」が起きた。

今回のレポ範囲には、大津波の被災地こそ無かったものの、東北と北関東が甚大な被害に遭ったのに、正直言えば「旅行とかレポなんて気分には……到底」と、どうしても思えてしまう。。。

が、多くの観光地でGWのキャンセルが相次いで、地元が大打撃を受けてると聞いた。中でも特に日光や湯西川がニュースに出たり、会津も煽りをくらって困窮してると知り、急きょ「やはり頑張らないと!」と一念発起!

去年のレポなので、被災後の今とは、交通機関や宿泊など、事情が違う点も多々あるかもしれない。事前に充分調べてから出掛けられる事をお勧めするが、概ね今年も観光業してる所だとは思うので、読んで下さった方に、「行ってみたいな」と思って貰える事を祈る!!



■2010年8〜9月・千葉県柏市
<「塩の道」>


↑まだ千葉県ね(^^ゞ。
東武野田線の「逆井」駅と「高柳」駅のちょうど中間。280号線の森に、「塩の道」の道しるべがある。地図A←詳しい場所は拡大を。

「塩の道」道標のある森↓(パノラマ4枚・180度以上)

森(拡大)
交差点の対岸は「ローソン・柏藤心店」

道しるべ
拡大
案内板によると
庚申塔と、東西南北の道しるべを兼ねた石碑だったようだ。

江戸期の安政5年(1858)、藤心(ふじごころ)村の村人たちが、庚申の日に集まったことを記念して建てた。
中央の石像は「青面金剛立像」で、この辺りの庚申塔によく見られるスタイルだ。

案内板に図示された「道しるべ」の文字は、
・南=「やはた・ぎょうとく・みち」
・東=「たかやなぎ・ふじがや・道」
・北=「かしわ・ふじごころ・ふせ・みち」
・西=「さかさい・こがね・まつど・道」
と各々の面に刻まれていて、ちょうどこの地点が、庚申を行う村々の境であった事、交差点として機能していた場所だった事がわかる。

さらに、南の「ぎょうとく」は、現在の市川市の行徳地区を示し、付近の村人たちが、薪や農産物を持っていって、行徳で塩や海産物と交換したので(これを“塩どっけ”と呼んだ)、「塩の道」とも呼ばれた。

「塩の道」から北上した「大島田」あたりの鰻屋さん、蒲焼お重(^^ゞ→
「塩の道」に関係する店ってわけじゃないが、何となく取り合わせがいいので(笑)。

←8号線に面した「うなぎ喜多川」
↑店内のお座敷。地図B(詳しくは拡大してね)

このままさらに北上すると、手賀沼に達するんだけど、湖はいつも出すんで今回はこの辺で(^^ゞ。



<晩夏〜初秋・手賀沼までの空と雲>

↑だいたい柏市(沼南)から手賀沼にかけて。
この夏〜秋は、印象的な空(特に雲)をよく見掛けた。また写真にも、比較的よく撮れた気がする。

北の方を向いて撮った(パノラマ4枚・180度以上)

もしかして、こういうのが「地震雲」? 実は未だにどういうのかよく知らなかったり……。
画像検索だと、「地震雲」でいう「筋状」と言うのがこんな感じに見える物もある一方、全く別の形の物を指してる写真も見るし……。

また方角というのもよく判らないが、この時の筋の窄まっていく方角は北だった。と言っても、去年(2010年)の8〜9月ごろのだから、半年後の震災とは関係ないと思うけど……。

後はただ印象的な雲の写真を数点。


↑この左のは手賀大橋(地図C)を渡った時の
他はハッキリ覚えてないが、全部だいたい柏市あたり(^^ゞ。



手賀沼に向かう道は、夜雲と月光が神秘的なんだが、この秋は国体に向けて、道路の幅が広がったり、街灯が新設されてる所もあった(^_^;)。
余談ながら千葉国体は、森田健作(千葉県知事)が「ちーばくん」のヌイグルミを抱いて応援するポスターが、アチコチで見られた(笑)。

国体は9〜10月。私らは、よく利用する施設が使えず「今やってるんだ(゚.゚)」と知った程度で終わったが(^^ゞ。



■9月後半・栃木県〜福島県
<まずは東北道で「西那須野塩原」まで>


旅行編スタート(^^)。エリアは茨城県の北部と福島県の南部。

栃木県には、この「こたつ城」が始まってからは……、
・2003年9月(「城主のたわごと」2004年12月〜2005年2月)
・2004年4月(2005年4月)
・2005年5月(2006年1〜3月)

に行っているが、主に日光・鬼怒川あたりが多く、北部には何度か食指を動かされながら、その後の数年は、一気に東北旅行に行ってしまった(^_^;)。

なので東北には、引き続いて……、
・2006年の福島(会津)〜山形(白布・米沢)(「城主のたわごと」2007年2〜4月)、
・2007年の宮城(白石・松島・多賀城・蔵王)〜山形(上山)(2007年11月〜2008年4月)
・2008年の福島(慧日寺)〜山形(山寺・羽黒山)(2009年1〜5月)
・2009年の岩手南部(水沢・平泉)(2009年12月〜2010年6月)、

という具合に、年を追うごとにジワジワ北緯を上げていった。
亭主は、そのまま、岩手北部や、秋田や青森にも行くつもりになっていたが(笑)、私は「運転大変じゃない(^_^;)?」とか、「だんだん金も時間もかかるようになってきたよね(^_^;)」と、やや牽制ぎみになってきた。

と言うのも、後ろの2年ほどは不況で、経済的にも苦しい中を押して敢行したから、気分が引き気味になってたのだ。最後の岩手旅行なんかは、「いっぺん高速1000円乗り放題をやってみなきゃ」というのと、「給付金を使わないと(^_^;)」というのが無かったら、今年の路線を1年早めていたかもしれない(笑)。

さらに去年は、春〜夏がエライ出費の連続……。まずテレビを地デジ対応のに換えたのはじめに、パソコン、エアコンが故障して買い替えとなり、夏には不幸が続いて、夥しい出費……。。

そこで、北緯・滞在日程ともに後退したわけだが、自分的には「後退」と言うより、東北の様子がちょっとわかって来た所で、関東にバックして来るのが、むしろ「前進」という感じがしている(^^ゞ。

さて、そろそろレポをスタートしよう。
毎度、栃木県に入る辺り、佐野付近の風景から。地図D←宇都宮まで(高速期間はちょい縮小サイズで)。

佐野に近付くあたり
手前に見えるのが唐沢山かなぁ?

都心とその近郊の、ビルと平地が多い辺りを抜け、最初に山の雰囲気に満たされるのが、この佐野〜岩舟あたり。

パノラマ状に視界が開ける山岳地帯

↑岩舟ジャンクション(左=関東自動車道・右=東北自動車道)の標識が見えている。
岩舟を超えると、宇都宮に向かう。地図E

ちなみに宇都宮で高速を降り、左に向かうと日光に到るんだが、ちょうど左方面に見えて来た山には、厚い雲がかかってた→

地図F←ちょうど宇都宮と、その次の矢板あたりの北緯の西側が日光で、奥には男体山など標高のある山が多い一帯。

宇都宮を超えた
左(西)に続く山脈には未だ厚い雲

西にこうした山岳を見ながら、「矢板」のさらに1個先が「西那須野塩原」。これを降りる。
地図G←北隣が福島県に接し、地図に現われる「白河」は、有名な「白河の関」ね(^^ゞ。

東北旅行の初めの頃、「西那須野塩原」と「白河」の中間にある「那須高原SA」で昼食を食べてた。
その後の東北旅行では、さらに北上するようになって、昼食ポイントも北上していった。
そう思うと、今回はすご〜く手前で降りるわけ(笑)。



<「塩原温泉郷」を目指す>

↓「西那須野塩原」降りた所を右折→
地図H←(高速降りたんで通常サイズ)地図では左(西)に行く。「塩原温泉郷」(400号線)を行く。さっきの日光・男体山の北に連なる山々の地域。

森林道をしばらく抜けると……
高原ムードの観光地が(゚.゚)

この辺りまでは、西洋風のカントリームードの看板や建物など多く、雰囲気と言い景色と言い、すこぶる日光あたりの街道によく似ていた(^^ゞ。

これより向かう塩原温泉郷に到ると、庭園まで備えた和風建築の料亭や宿泊施設が多く、古めかしい伝承も納得できる風情が感じられる。

塩原はともかく、日本の温泉郷というのも、実際は自動車道が開通して拓かれた処も多かろう(^^ゞ。
そこに、名のある修験者や僧侶、都から来た貴人や落ち武者による、「温泉発見譚」などが絡まるのが、よく見掛けるスタイルだ。

これより向かう「妙雲寺」にも、塩原における最古の歴史に属する根拠がある。それは源平合戦に敗れた平家の一族が落ち伸びて来た、という典型的な「平家の落人伝説」である。

この「平家伝説」については、現地に着いてからやろう(^^ゞ。

が、「塩原」には、本当に相当古くから、土地の歴史が刻まれていた形跡が伺えるので、個人的には、平家物語から始めると、返って「勿体無い」という印象も持たなくない。
平家伝説を最も確実な土地の古跡に定めると、他の温泉地にもよくある、「歴史の有名どころテンコ盛り」の粋を出なくなり、返って土地の歴史的な価値を減じないか心配になる。

また森林道に分け入り……
高山を目指す高原道に出る

平家伝説に遡る「妙雲寺」の由来なども、ある程度、継続的に根付かせる事に貢献したのは、「大同妙禅師」ではなかろうか……。

地図I←拡大サイズ。「湯守・田中屋」のあたりから、最初の温泉郷「大網温泉」の地域に入るが、付近に「竜化の滝」「潜竜峡」といった地名が見え、その合間あたりに(地図にはないが)「稚児ヶ淵」という名所がある。
こういう地名も、「妙雲寺」の開山「大同妙」が関係してるかもしれない(^^ゞ。

大同妙」は、1314年(正和3年)に塩原の草庵(妙雲寺の前身)を訪れ、宇都宮氏の庇護のもと、禅寺として七堂伽藍を建立した人で、「高峰顕日(仏国国師)」の弟子であり、「高峰顕日」は、「兀庵普寧(ごったんふねい)」や「無学祖元」の弟子である。
この二師は、鎌倉幕府執権の北条時頼時宗の学師にあたり、鎌倉仏教(禅宗)史では、それなり有名である(^^ゞ。

その後、妙雲寺は、1593年(文禄2年)に戦乱に巻き込まれたため、焼失した(^_^;)。。
寺の復興は、江戸初期の1661年(寛文元年)、藩主(奥平氏)によって、妙雲寺と関係の深い「興禅寺」から住職が招かれ、本堂の再建から始まり、土地の古老の口伝によって由来記も再現した。

由緒は、宇都宮城主に差し出されたという巻物にも在ったようで、これも江戸期の復興にあたって、住職が招かれた「興禅寺」の関林和尚によって、書き記された物が今でもある。

「興禅寺」は、「大同妙普vと兄弟弟子(同門)にあたる「真空妙應」の開山した寺で、「妙雲寺」とともに、宇都宮氏の厚い庇護を受けており、戦国期には妙心寺派に連なっている。

つまり、戦乱や火災など、盛衰を交えながらも、「大同妙普vが出現し、妙楽寺が整った後は、継続が伺え、その裏付けも取れなくないように思われるのだ(^^ゞ。

に対して、開山・「大同妙普vが塩原を訪れた折の事は、「塩原に『悪龍』が暴れ回って天災・人災を起こし、村人が困窮する」という、典型的な霊異譚と、「悪龍を降伏させた大同妙浮ェ、村人に請われて塩原に逗留し、寺を創建」という、やはり典型的な創建根拠に基づいており、それより前は、混沌・漠然とした神話の中にある(^^ゞ。

つまり平家伝説も、寺を創建した「大同妙普vより後は確実に伝えられたと見れるが、それまでは、どういう具合に土地に伝わってたのか詳しくわからなかった(^_^;)。

そして、この後、いよいよ山奥の道に入って行く!
車窓からは霧に包まれる山が……トンネルやカーブのたびに、頭上には切り立った岩場も見えた。

この辺りは、群馬県の日本ロマンチック街道とか似てたかなぁ(^^ゞ。
亭主はこういう道が大好きだから、ハンドル切るたびに、「うぉー!」と感動したあげく、「これから毎年来よう!」と叫んでいた(笑)。

地図J←途中を拡大。左のカーブ上に「天狗岩」が見える。右のカーブ下には、「稚児ヶ淵」という名所があって、「旅の僧侶を慕った稚児が身を投げて死んだ」と伝わる場所だ。

これは、福島の泰慶寺に伝わる「稚児塚」とも通じるそうだが、稚児が身を投げた理由は、「稚児ヶ淵」と「稚児塚」で違うような……。

稚児ヶ淵」では、稚児の慕う僧侶が、後から来た他の稚児を可愛がったのを悲しんで……となっており、稚児は死後、僧侶を恨み続けるあまり、になって多くの人に祟ろうとした。
が、福渡の農家「内蔵助」に伝わる宝刀に妨げられるので、竜は美女に化けて農家を騙し、宝刀を奪った。
農家の主人も姿を消したが、竜も宝刀に傷つけられ、その後は姿を消した。

一方、福島の「稚児塚」では、稚児は泰慶寺に住む「白菊丸」と言い、彼の慕う僧侶は、鎌倉建長寺、夢想国師の弟子で、「自休蔵司」といって、修法によって稚児を救った。
白菊丸は自休蔵司を慕って建長寺に訪ねたが、自休は亡くなったという虚言を真に受けて、「稚児ヶ淵」に身を投げた。

……というのだが、この場合の「稚児ヶ淵」は、江ノ島(神奈川県)の「稚児ヶ淵」だろう(^_^;)。
この話、吉川英治が「江の島物語」に書いてるらしいんだが、読んだ事ある人いるかな(^^ゞ。

←途中、こうした温泉宿(ここは「湯守・田中屋」)を通りつつ、山はなおも深まる。濃霧のため薄暗いが、まだ午前中(^^ゞ↓

さて、「江ノ島」というと、「悪竜」と「弁天」の伝説を思い出す。
「大同妙普vが来た折の話や、「稚児ヶ淵」の話にあるように、塩原にも龍伝説が多い。「竜化の滝」や「潜竜峡」も、「稚児ヶ淵」に近い。

あいにく江ノ島はレポした事がないが、あの地域の竜伝承って、人に災いする暴れ竜が、善神(弁財天)や僧(萬巻上人)に降伏し、龍神として祀られる……といった筋が多い。
これまでのレポ範囲だと、「箱根(芦ノ湖)」の伝説を紹介している。(2004年11月<芦ノ湖>内・2006年10月<4日目、駒ケ岳「箱根神社元宮」>

江ノ島の話では、竜は弁天に恋をして降伏するらしい。箱根の芦ノ湖では、萬巻上人が箱根の山に登って湖を見下ろして調伏し、竜が降参する。

箱根と江ノ島は、同じ神奈川県だから、似た話があっても不思議はないが、この塩原の地に、箱根と似た悪竜退治をする僧の話があったり、僧を慕う稚児が身を投げる話があったりするのは、鎌倉にゆかりの深い「大同妙」(「妙雲寺」開山)や、その同門「真空妙應」(「興禅寺」開祖)の存在があるのかも(^^ゞ。「大同妙普vは、鎌倉の浄智寺の作庭なども行なっている。

そして、これらの寺を強力に庇護している、やはり鎌倉の御家人、宇都宮氏の存在も何気にデカイのかも。

「大同妙普vは宇都宮氏の他、足利尊氏の弟、直義とも懇意で、上杉氏畠山氏高師直を追討する謀議をした折、これに加わったカドで、高師直に捕らえられそうになった所を、直義に助けられて逃亡した。
が、そのまま行方不明になったという。。

←この辺りだったか「天狗岩」という断崖を頭上に見上げ、カメラを構えたが間に合わなかった(^_^;)。他にも名所の吊り橋・滝・渓谷などたくさん!

「竜化の滝」「潜竜峡」「稚児ヶ淵」を超えた辺りから、「塩原温泉郷」の街中に入る。最初の「福渡温泉」より川筋を少し南下すると、「小太郎ヶ淵」に行けるらしい→地図K。時間があれば行ってみたかったのだが、今回は無理だった(^_^;)。

「小太郎ヶ淵」は有名らしく、ガイドブックにも、「紅葉の美しい渓谷」と、「130年の伝統を持つ」という「小太郎茶屋」なる団子屋さんが書かれていた(笑)。

ここの「小太郎」は、「小太郎ヶ淵」で投身自殺した武士だが、その姓は一般的に「小山」となっているのをよく見掛ける。
一方で、ここ塩原では、「塩原氏」となっている。どちらかは決めかねる(^_^;)。

小山氏」は、古代、平将門を倒して武功を立てた藤原秀郷の子孫である。
塩原氏は、北家・藤原伊周(中宮・定子の弟)を祖とするとも言うが、それは、「宇都宮氏」を、「藤原宋円」を祖とするに類する説だろうか……(個人的には宇都宮氏を、「藤原氏」より、「毛野氏」とする説に傾きつつあるけど:(^_^;))

「大網温泉」の後は、「塩原温泉郷」(福渡・塩釜・畑下・門前・古町・中塩原)が次々と出て来る。

「妙雲寺」は、今あげた内の「門前温泉」の地域にあたるが、これら「塩原温泉郷」↑を抜けた後も、そのさらに奥に、「上塩原」「奥塩原」「元湯」など、各温泉郷が点在して控えている。

さて、「小太郎」という名だが、「塩原小太郎・貞国」という人物名を見付けられるようだ。
小太郎の“父”は「塩原越中守」と名乗り、「塩原城主」で、「小太郎」のいた時代は、その前に長々と続いた「小山氏」「長沼氏」「宇都宮氏」が、イキナリ斜陽しまくった戦国末期の1580年代の中にあった。

いわゆる後北条氏の勢力拡大の波に翻弄され、秀吉の「小田原征伐」&「奥州仕置」の波に煽られた、東北&関東の戦国武将の一蓮托生の悲劇にある事に変わりはない。。

後北条氏勢力の覇権拡大による動揺の中、宇都宮氏も、北部で領土拡張の動きを見せる那須一族を牽制すべく陣触し、宇都宮氏に属していたと思われる「塩原小太郎・貞国」も勇戦し、塩原城に帰城したようだ。

しかしその後、後北条氏を下した豊臣秀吉は、嫁婿の浅野長政を遣わして「太閤検地」を実施。文禄の朝鮮出兵では、宇都宮氏はじめ、塩原の武士も出兵させられ、戻って来ると、検知で年貢を増大されたため、「塩原越中守」と、「その家老」との間に、1596年、内乱が勃発。花見を装って城主がおびき寄せられ暗殺された。

同じような事が、主筋・宇都宮氏でも起きていた。浅野長政の三男を養子に迎える事に、家老は賛成し、一門(親類)は反対。家老が一門に攻め殺されたあげく、養子が成立しなかった事を恨んだ浅野長政は、宇都宮氏を偽訴。先史以来から続いた宇都宮氏は改易・断絶した。

だいぶ街中に入って来た
そろそろ「妙雲寺」の近く

「小太郎ヶ淵」にも、以下2通りの伝説があるらしい。

@非業の死を遂げた父「塩原越中守」の仇を討つため、小太郎は少ない家臣とともに、父が討たれたと同じ宴に、今度は紅葉に事寄せて家老一派をおびきよせた。
が、大激戦の末、小太郎ら旧臣派は敗れ、矢傷を負った小太郎は、無念のあまり淵に身を投げ、その地は「小太郎ヶ淵」と名付けられた。

A敵となった家老の娘は美貌で、小太郎と恋仲となった。恋と政敵への対立との狭間に苦しんだ小太郎は、紅葉の淵に身を投げて命を絶ち、添い遂げられない男女の悲恋として、哀憐を呼びつつ、長く土地に語り継がれた。

「稚児ヶ淵」と「小太郎ヶ淵」が、どちらも自殺事件である事と同時に、男女であったり、僧と稚児であったり、竜や美女や弁天など、愛憎に絡んだ筋立てになってる点も興味深い。



<妙雲寺「剱不動尊」>

地図L←通常サイズ。「妙雲寺」は、18ぐらいまで拡大しないと出て来ないよ(^^ゞ。

まずは駐車場に到着(^_^A)。本参道には、境内に入ってから合流する。

駐車場から400号線がわを見る(パノラマ5枚・180度以上)

逆側。左方向が「妙雲寺」(パノラマ5枚・180度以上)

↑下の写真の左方向・奥に、人の通れる道がある。行ってみよう。

こんな坂道。「妙雲寺・東参道」とある
登った先に黒い鳥居のような門、手前に招き猫

招き猫・拡大(笑)
黒門を潜らず、右に続く坂道をさらに登ってみる

←まず「不動坂・不動明王」とあり、「十三石仏巡り」の旗が立ててある。
↑続いて神社の脇に「剱不動尊」と案内され、左の石組には「長栄講」と文字が刻まれている。

さらに登ると↓「剱不動尊」と書かれた神社に到達。高い木立の下、剱を祀る境内に入る。

台座「長栄講」
一番奥に祀られている剱像

上に見る通り、「剱を持った神仏」ではなく、巨大な剱そのものを祀る神社。

その並びにも、多くの剱が、仏像のようにズラーッと列をなしている→

さて、塩原についてだが、平家の時代より前にも、歴史的に有名な人物が訪れた事になっている。
まず800年代初頭、徳一が訪れて、温泉の効能を褒め称えたという。

徳一伝説は、茨城県の筑波山や、福島県の会津地方周辺に見るので、その類だろうとは思うが、塩原は、だいぶ古くから南福島との境に特有の歴史があるので、個人的には、「徳一が来てる」と言われても違和感を感じない(^^ゞ。

以後、1018年に「塩の湯温泉神社」、1046年に「塩原八幡宮」の創建、1058年に、前九年の役に赴く、源頼義義家八幡太郎)の父子が戦勝祈願をしたと伝わる。

その際、食事をした頼義・義家が、地面に刺した箸が杉の大木となり、その内部に竜が潜んで、木に登る人間を食うようになったという伝説や、土地で父子をもてなしたのが、「塩原八郎家忠」で、旅立った後の頼義・義家が、奥州で勝利をおさめたので、塩原家忠も村人から慕われたという。

この時の「塩原(八郎)家忠」は、「塩ノ谷(塩谷・塩屋)家遠の弟」といい、塩ノ谷家遠が藤原伊周(中宮・定子の弟)から六代だという。

ただ、「塩原家忠」なる人物は、それより後の時代の人として伝わり、1156年には、「八郎が原館」を築いた。
1175年に「元湯温泉神社」が作られ、1178年に、塩原氏の居城となる、「要害山城(塩原城)」が築かれている。

そして、有名な「源平合戦」など行われた、いわゆる「治承の乱」の1180年代にも、塩原家忠の名は登場する。

続きの坂をさらに登って行くと、「妙雲寺」の墓地に出る↓
途中の道に建てられていた、十三仏の石壁画。塩原では十三仏巡りがとても盛んなようで、各地域で一体づつ仏像を祀っている→

この後に行った、「塩原もの語り館」に書かれていた、十三仏の各配置によると……、

1、文殊菩薩(修道坂)/2、観世音菩薩(塩原街道)/3、虚空蔵菩薩(湧泉田通り)
4、薬師如来(須巻坂)/5、阿弥陀如来(桜坂)/6、阿閃如来(幸運坂)
7、大日如来(七紘坂)/8、勢至菩薩(翁坂)/9、弥勒菩薩(柿ノ木坂)
10、釈迦如来(甘露坂)/11、普賢菩薩(けやき道)/12、不動明王(不道坂)/
13、地蔵菩薩(銀座横道)

ここでは「不動坂」とあるが、「十三仏巡り」によると「不道坂」になっている。さらに登ると、墓苑と散策コースが案内図には見える。

←ってなわけで坂を下り戻って、改めて山門に向かう(^^ゞ。

ちなみに坂向こうに見えるのは「ホテルニュー塩原」(拡大)→

関東圏だと、ローカルCMで見た事ある人もいるかな(笑)?



<妙雲寺>

地図L←もういっぺん出しておくね。
坂を降り、さっきの黒い鳥居のような山門を潜ると、「妙雲寺」の境内に入る。最初は横長の駐車場を前にした、「花園会館」に出会う。

←庫裡・お寺の入口・「花園会館」↓(パノラマ2枚)

↑左はたぶん「郷土資料館」。左方向←樹木と庫裡の間の通路を抜けて本堂に向かう。

さて、「塩原氏」に関しては、頼朝の決起の前段階である、以仁王源頼政の決起の時(1180年)にも登場するが、それは次に行く「源三窟」に話を譲るとして(^^ゞ、いよいよ平家の都落ち(1183年)に進ませて貰う。

7月、北陸の源義仲が平家軍を撥ね退けながら、京に向けて進軍。新宮行家安田義定も機を一に、各方面から京に近づき、義仲は比叡山の味方も得た。

後にこの「妙雲寺」の伝承に繋がる「平貞能」(清盛・重盛の執事で、代々の家来)は、主家の急場に際して、鎮西(九州)から凱旋したものの、一万に足りず数千騎だったので平家が落胆した、と「玉葉」(@九条兼実)に書かれている。

「花園会館」の壁に貼られた「揚羽蝶」紋→
代表的な平家の家紋とされている(^^ゞ

そうする内に、義仲は比叡山に入り、後白河法皇は密かに義仲に会いに京を出てしまう(^_^;)。。

平家は慌てて都落ちしたが、実はこの時、平家に同行した公卿は極めて少なかったのだ(^_^;)。
反平氏の松殿基房九条兼実の兄弟は勿論、その甥・近衛基通や、源(土御門・久我)通親など、親平氏の貴族までが京に留まった。
後白河法皇も、平家の都落ちが完了するや、2日後には京にもどって来るのだ(笑)。

実は、九州から駆け付けた「平貞能」も、時の平家の総大将・宗盛に「都に残って決戦すべき」と主張していた。
が、宗盛は都を去り、平貞能は、源氏軍を目の前に、敵中ただ一人取り残されてしまった(^_^;)。。。

ここまでは、だいたい史実と思って貰っていい。ここから先、だんだん塩原の伝承に切り替わる(^^ゞ。史実と合致しない事も多いかもしれないが、ご了承を。

こう←歩いて来て「本堂」到着(^∧^)(パノラマ2枚)

ちょっとロングに引いて見てみる(パノラマ4枚・180度以上)

↑の逆側には、正面の参道から入って来る門↓(パノラマ4枚・180度以上)
本堂のさらに先には緑地、散策路が通じている↑

散策路の方は殆ど廻ってないが、本堂の裏手と、そこから続く通路の周辺のみ行ったので、後で見てみよう(^^ゞ。

↓こちらは、本堂を前に開く門
この門から石段が降り、杉木立の参道の先に、「妙雲寺」の山門(正門)が見える→
さっきも言った、表参道がこちらなわけ。歩いて来る場合は、こちらから来るんだね(^^)。

さてさて、敵前に置いてけぼりを食らった「平貞能」、塩原に来るまでの“伝承”を続けよう。

貞能は、今は亡き重盛(清盛の長男で、宗盛の異母兄)の骨を、他の地に移すべく掘り起こし、同じく路頭に迷っていた重盛夫人待子や、重盛の妹あるいは姨(“おば”=母か妻の姉妹)である「妙雲禅尼」を奉じ、重盛の信仰した釈迦如来像を自ら背負って、北陸を廻りつつ、途中に畠山氏を頼り、最終的には身内の関係にあったといわれる、宇都宮朝綱を頼って下野に来た。

貞能に相談された宇都宮朝綱は、頼朝に許しを求めたが、頼朝は貞能の力を恐れていたので、朝綱は源氏に探索される事を危惧し、宇都宮城内に貞能らを留めず、藤原山中に送り、逃がした。

この「藤原山中」ってのは、前、東武ワールドスクウェアに行った後、「栃木県民の森」に行くのに曲がったカドの「藤原」あたりかなぁ……(^^ゞ。(2006年3月<鬼怒川〜「栃木県民の森」〜矢板>
だとしたら、地図M←1番下ギリギリに「藤原」(それより下に東武ワールドスクウェア)、一番上に「塩原温泉」、左の「湯西川」「五十里」「川治温泉」あたりは、この後で行く場所。

何しろ貞能ら一行は、「藤原山中」に2年ほど身を潜めたそうだ。

本堂の前の厄祓絵馬
本堂の脇から、庭園と滝を見に行けるんだよ(^O^)

正面の滝に到着。前の仏像は「吉祥観世音菩薩」とあり、左の標石には「塩原妙雲寺百観音」とある↓
滝には「常楽滝」と表札が置かれている→

滝を見に進む途中、左に「温泉薬師堂」、右には「尾崎紅葉の句碑」と並んで、「貝石(奥塩ノ湯産、約2千万年前、当町「小太郎ヶ淵」、坂内仁三郎採集)があった。「小太郎ヶ淵」はさっき説明した所ね(^^ゞ→地図K

左=緑に包まれた「温泉薬師堂
右=「貝石」ホントに貝の跡がビッシリ

ところで、この「平家の都落ち」(1183年)の時、義仲軍が入京して来る混乱の前夜、宗盛らとともに西国に落ちて行かなかった(か、同じく置き去りにされた)平家の人だと、私の知る限りでは、平頼盛(清盛の異母弟)を思い出す(^_^;)。

この頼盛の母が、平治の乱の後に捕らえられた頼朝の命乞いをしてやった「池の禅尼」(清盛の継母)だったので、頼朝は子供の頃のことを恩に感じて、頼盛が鎌倉にやって来ると、これを手厚く庇護している。

宇都宮朝綱が頼朝に助命を願い出たり、それが危ないと察すると逃がしたりする話を見てると、何となく頼盛の存在を意識(前例に)してるのかな〜と思った(^^ゞ。

常楽滝」の並び(本堂の裏)には、落ち着いた小庭園が、歩いて来た人に安らぎを与える(^^)。
今は「立入禁止」になっているが、門を潜ると登り石段が始まっていた。→

この石段を登って行くと、お寺の案内図によれば、「ぼたん園」が広がり、さっきの「剱不動」の坂をさらにいく道と合流するような感じ。
全部は廻れてないが、これら散策コースの名所もまとめて書いておこう(^^ゞ。

位置は、妙楽寺(本堂・庫裡・花園会館)の北部と西部。森に散策路が張り巡らせてある。

北部は、さっきの「剱不動」を起点として、「河瀬久良子・歌碑」「わらべ地蔵」「やすらぎの池」「静心亭」、そして墓苑がエンエン続いている。

その南部、妙楽寺までの中間に、今言った「ぼたん園」「拈華釈迦(像)」「外池美都子・歌碑」「歴代塔所」←この辺りまでが、↑の石段を登って行ける場所のようだ。

これより入る西部。今見た「常楽の滝」「尾崎紅葉・句碑」「開山碑」、他に「田代枕石・句碑」「夏目漱石・詩碑」「会津八一・歌碑」、今左に見た「薬師堂」の他、「宝蔵」「塩渓文庫」「念仏庵」「高崎正風・歌碑」。
北西部の高所に「妙雲禅尼の墓(塔)」「石川暮人・歌碑」「智園・句碑」「小山小太郎の墓」(小太郎ヶ淵の小太郎だね)「納経塔」。

以後、さらに西部「延命坂」に従い、「茶筅塚」「小松北溟・歌碑」「泉漾太郎・民謡碑」「斎藤茂吉・句碑」「塩原三恩人の碑」「谷崎潤一郎・歌碑」「礒春帆・詩碑」「山岡荘八・句碑」「八木沢高原・歌碑」「二代目・高尾太夫の墓」「泉漾太郎・民謡碑」「清水比庵・歌碑」「夏目漱石・句碑」「天神さま

遠方の北西部、「半田良平・歌碑」「高瀬五十子・歌碑」「百観音道標」「あたご山」「温泉神社
「河瀬久良子・歌碑」「平家塚」「生物供養塔」「渓谷遊歩道」「大町桂月・歌碑」「野天風呂・もみじの湯

これが散策コース、緑豊かな広い森林だ(パノラマ4枚・180度以上)

↑見える範囲で、左から「薬師堂」「妙雲禅尼の墓所」への道、右スレスレに「常楽滝」。
案内図には無かったが、真ん中やや左の灯籠の傍には、「昭和天皇の歌碑」もあった。

「夏たけて堀のはちすの花みつつ ほとけのをしへ おもふ朝かな」(昭和天皇)

那須の御用邸が近いよね(^^ゞ。

この辺りは会津に近い事もあって、「戊辰戦争」の頃は佐幕派側についた者も、俗に言う官軍側についた者もいたが、維新後は多くの文人に愛され、皇室保養所に選ばれた事もあって、早い内から発電など整って、多くの有名人や観光者が訪れる歴史が長い。

戊辰戦争の際の塩原は宇都宮藩領であるが、土方歳三が宇都宮城を占領した後、官軍が取り返し、塩原も官軍と会津軍が来たが、会津軍が占領した。

と言っても、当時の会津軍には脱藩者や脱走者も多く寄せられ、美濃の凌霜隊草風隊、さらに友野藩結城藩関宿藩などが駐屯していたようだ。

戦況が日に日に悪化し、会津軍は撤退にあたって、敵の進軍を阻むためだろう。全村焼き払う事となった。
妙雲寺には、格天井菊の御紋があるのが、火をかけるに恐れ多いと、御紋90枚の内、88枚まで墨で塗り潰された。

ところが、この天井、焼かれずに今も残っているんだとか……。
長い間、会津軍が火を放つ暇も無く逃げたから、と思われていたようだが、近年、拝殿に奉納された額の裏に、後世に伝えるための遺文が潜まれているのが発見された。

遺文によると、官軍の偵察を務めた「渡辺新五右衛門」が、「先祖の菩提を救いたい」と直訴した所、危険も顧みず働いた功績により、寺ごと焼かれなかった事が記されていたという。

他にも、村人と盆踊りなど楽しんだ隊士たちが、ここを焼き払わなければならなくなったから、大切な物は片付けておくよう伝言したり、長期に世話になった旅館が後で再建できるよう焼かずに取り壊したなど、当時の話が生々しく伝わっている。

帰りにまた、「本堂」→「庫裡」→「花園会館」→黒門と戻って行く→

←庫裡の前を再び。赤ポストがレトロ(^^)↓

平家の落人たちの話がまだ終わってないよね(^_^;)。お蕎麦でも食べながら続きを話そう♪



<お蕎麦と箒川と「塩原もの語り館」>

妙雲寺の前通り(400号線)を渡り、向かいのお蕎麦屋さんに入った。

←400号線に戻ると、妙雲寺の門前にはお土産屋さんや食事処のお店が並ぶ(#^.^#)。
↑その中の一軒、「三條屋」さんで亭主が注文した「おろし蕎麦」(^∧^)。

こたつは「梅おろし蕎麦」を( ^,3^)ф´<ツルツル
地図N←かなり拡大。一番奥の「三條屋」さん(^^)。お店の奥側面、すぐ下に渓流がよく見える。清涼感バツグン(#^.^#)。

地図O←ちょっと縮小。地図L←元のサイズをまた出す。
「妙雲寺」の所で一度交差しながらも、400号線(塩原バレーライン)とともにズ〜ッと流れている川は、地図上には名前が出てないけど、現地の案内では「箒川」と呼ばれていた。

さてさて、平家落人たちが藤原山中に身を隠していた「2年」、史実を辿ると……。

続いて1184年は、1月に義仲が討たれ、2月に一ノ谷合戦で源平両軍が衝突。源氏軍が勝利し、9月に、再び平家追討の軍が鎌倉を出たが、11月までに兵糧に窮する。

翌1185年は、1月に義経が京から平家追討に出て、2月には九州・豊後に源氏軍が到達・制圧し、義経が屋島襲撃。3月に壇ノ浦で平家が滅亡。

4月には宗盛ら、平家の首脳陣が捕虜となって、鎌倉に送られる事となったが、義経が鎌倉から追放となり、6月に宗盛は鎌倉の頼朝と対面した後、義経に処刑される。
その後は、「義経追討」に場面が移り、11月に西海に行こうとした義経は、大物浦で難破して行方不明となる。

箒川。涼しく、渓谷の野趣タップリ(パノラマ3枚)

貞能ら一行は、この2年ほど藤原山中で身をひそめた後、樹木や断崖を登り、行く手を阻む植物を払いながら、少し人里である上塩原小滝仏沢にたどりついたという。

ここに、さっきの塩原(八郎)家忠が登場するのだが、その前に、中世の塩原の事をちょっと説明(^^ゞ。

この地域は、小山氏(秀郷流)の支流「長沼氏」と、「宇都宮氏」の二大勢力の狭間に位置した。
塩原氏」は主に長沼氏に従い、宇都宮氏やそれに近い勢力とは抗争する事が多かったように思う。

が、貞能妙雲禅尼が来たこの時は、まだそういう状態ではなかったという事かもしれない。
宇都宮氏からの伝言を受けた、塩原家忠は、平家の一行を受け入れ、もてなしたという(^^)。

少し歩いた先にある「塩原もの語り館(パノラマ2枚)

地図P←だいぶ大きめ。「妙楽寺」が地図に出るサイズ

ここ、入ってみたけど、塩原を訪れた文学者たちの展示だった(^^ゞ。ただ2階には喫茶店があって、そこからも川が見られて、気持ちの良い空間だった。 軽食もメニューにあるし、食後のコーヒーだけ飲むのにも良さそう(^^)。

1階部分も素通しで……
川と山の天然の空気に触れられる

一階部分は入場無料。季節によっては野外が得(パノラマ4枚・180度以上)

では、平家の話も、いよいよエンディング(^^)。

塩原の地に受け入れられた貞能妙雲禅尼たちは、妙雲寺の前身である「下塩原門前の草庵」に釈迦如来像を安置し、塩原家忠の整備した寺で仏道三昧の生活に入ったのである。(^∧^)<ナムナム

故に、平重盛いらいの釈迦如来像は、戦国期の戦乱や焼失の難も免れ、時には村人たちの守護を得て、今もなお妙雲寺の本尊となっている。

その後、平家一行は兵たちの供養をしつつ、樵をして薪をつくり、月夜川のワラビをとり、岩の割れ目から出る温泉を楽しみながら過ごした(^^)。

1194年に、妙雲禅尼が卒した。
さっきの「妙雲寺」は、モチロンこの「妙雲禅尼」の名にちなんでいる。

貞能は妙雲禅尼の墓として、老杉の中に九重塔を建て、宇都宮氏を頼って益子町に行って「安善寺」を建て、茨城県城里町の「小松寺」に重盛の骨を葬り、やがて92歳で亡くなった。
貞能の子孫は山田氏と称し、塩谷氏(宇都宮氏の支流)の家来として存続したという。

塩原もの語り館」玄関(^^)
2階ラウンジ風レストランからの眺め

郷土物産品なども売られて、町の人も買い物に来る場のようだ。

2階ラウンジからの眺め(パノラマ縦5枚・180度以上)

屋外の寒暑・風雨など避けたい時は、2階も落ち着けるね(^^)。



<源三窟>

↑名を聞いて「何それ(^_^;)」と思い、ガイドに乗る写真を見て「不思議な場所だ」と思った。

地図←ナビの指示に従って、400号線と平行した旧街道っぽい道路を行く→

やがて右手に専用駐車場が見えて来た↓

「源三窟」駐車場(パノラマ4枚・180度以上)

地図で見ると、隣接地が「妙法寺」とある。「妙楽寺」や「塩原もの語り館」から……徒歩10分ぐらいだろうか。塩原は鉄道こそないが、車で来て塩原温泉に泊まれば、朝夕の内に来れると思うよ(^^ゞ。

↑来た道を振り返る。う〜ん何とも高山の合間にいる風情っぽくて素敵〜(#^.^#)。

駐車場の奥。森に向かう階段を下りて、入場(^^)→

すると、こんな空間に到る(パノラマ3枚・ほぼ180度)

↑左端の階段を降りて来た。まず祠が並び、入場料を払う建物、その先は休憩所。

さらに右(殆ど背中側)には、天然水が→
(なぜ水が関係するかは後で語ろう(^^ゞ)

まずは左の祠から順々に行きながら、この「源三窟」の伝承を語ろうと思うが、その前に、ちょっと断っておきたい事がある(^^ゞ。

この地域の歴史については、この「源三窟」の土産屋で買った「塩原の里物語」という本に詳しかった。
が、冒頭部は先史における遺跡や、古代の塩原らしき地名の痕跡など書かれるのに対し、歴史的な流れに入るや、イキナリ「源頼政実は生きていて……」という主張になるので、その後に続く地域史の全てを「コレ本当にあった事かな(^_^;)」と、つい疑いの眼を向けてしまいがちである(笑)。

しかし、読みこんでいく内、「そんなにいい加減な内容というワケでもなさそう(^^ゞ」と思える(受け取る人の個性にもよるが)。

つまり、この地域の歴史は、「塩原氏」の歴史が半分以上にも及ぶため、塩原と塩原氏のアイデンティティでもある、「源三窟伝説」(とでも言うか)が、とても重要な基底をなすのだと思う。

そこを「神話」「伝説」としてしまうと、その後に続く郷土の歴史観に支障が出るので、本来なら「歴史」と見なすべきではない事も、「歴史」として語るのかな〜という気がした。

源有綱の墓所(墓碑)
神として祀られている

この「源有綱」、わかりやすいから結論(そして史実)から言うと、義経が頼朝の追捕から逃避行した時、随行者の一人として発見され、義経に先んじて死に至った人物である。

発見された場は大和国だから、逃避行して下野国に辿り着いた……というのは、この地域に独特の伝承という気もする(^^ゞ。

この「源有綱」が、ここ「源三窟」の主人公である。始まり始まり〜( ^O^)//<ヤンヤヤンヤ

入場券売り場で記念撮影してくれた! カシャッ
芝居小屋のような入口

実は入る前、チケットを買うと、係の方がおもむろに屋外に出て来られて、「今を遡ること」みたいな節回しで、朗々と「源有綱」の話を語って下さる。
その方、ナント、鎧の模様をプリントした服を着て、つまりは「鎧武者風」なのだ!(^O^)

入ると早速ゴツゴツの岩場と鍾乳洞が始まる。現われた人形(ほぼ等身大)は、どちらも「源有綱」。
米を研ぐ「源有綱」→

源有綱」は、私の知る限り、義経が都落ちした1185年(平家が滅んだ同年)、「伊豆有綱」の名で、義経と行動をともにした数人とともに名を顕す。一条能保(頼朝の妹婿)の書状に、「(祖父)頼政−(父)仲綱−有綱」とあるようだ。

前歴について、「塩原の里物語」には、「(祖父らによる1180年の)平家打倒の挙兵に従い、寿永元年(1182)、土佐で平家打倒に功績があった後、義経に従い……」とある。

1182年、土佐に流刑されていた頼朝の異母弟・希義が殺されているので、これに絡んだ行動だろう。
そして1184年、義経ら、鎌倉から来た義仲打倒軍が京に入って以後、義経の都落ち(1185年)までの間に合流したのだろう。

この「源三窟」でも、「有綱」の前歴は、「平家打倒に多大の功績」とあるのみで、「頼朝と対立した義経とともに大和をのがれ……」から物語が始まっている。

もちろん、ここ塩原では、大和では死なず、 「文治三年(1189)祖父・頼政の一族を頼り、この地、塩原にたどりつき(再起をはかる)」と、後日譚が続いている。
しかしそれも、こもった洞内の滝水で、米を研いだ白い汁が流れ出したことにより、発見されてしまう。

(これで、湧水(「長生きの水」)が入口付近にあった事が理解できるかと(^^ゞ)


その後、有綱の最期が、「源三窟」と「塩原の里物語」ではちょっと違う。

ここ「源三窟」では、「発見され、この地で最期を遂げた」……ここで死んでしまう。

「塩原の里物語」では、上記の研ぎ汁によって「塩原(八郎)家忠」に発見され、戦いとなるが、有綱が身元を名乗り、許しを請うと、命だけは助けられた。

が、時節柄、塩原城要害山城の事と思われる)に迎え入れることはできず、3年経つうちに有綱が病を得て、塩原家忠の厚い看護の甲斐もなく、小田ヶ市(御他界地)で死亡……という。

死亡時期が「3年後」なのに、「1189年」になっている(^_^;)。
思うに、史実の有綱の死亡時期は、「1186年」……すなわち、義経が都落ちした1185年の翌年であるから、それから3年で、「1189年」と読むべきなのだろう(^^ゞ。

つまり、大和あたりで死んだと見せかけつつ、速効で塩原に逃れて来たが、すぐ発見され、3年ここに篭って死んだ。
(塩原に来たのが、「1187年」と書かれた説明文も見た事がある)

そこを「源三窟」では、史実の有綱が死んだ「1186年」から3年は、大和なりに潜んでおり、「1189年」に、「義経が無事、奥州平泉に着いたことを知り」と、塩原に来る目的が、「義経との再会・合流」にある。

←上から
下から→

各々、入口付近を撮影してみた。

鍾乳洞は深くのめりこみ、急斜面に設置された階段を降りると、まず有綱を祀った祠(神社)がある→

ちなみに「塩原八幡宮」でも、“側神”として「有綱」が祀られているそうだ。

ガイドで見た写真では、何となくキテレツな印象があったんだが、内部に展示される人形には、山間部のやせ地だった塩原では、農民が稗や粟を食べていたとか、洞窟には昔は蝙蝠がいたとか、昔は農家の女性が兵士の傷の手当てをした、といったすこぶるマトモな事が説明されて、印象は悪くなかった(^^ゞ。

……ちなみに、「稗や粟」が「農民の食べ物」と言うのは、「武士は白米を食べてた」という意味だが、それで「ここに潜んでるとバレた」……という意味だったのかな(^^ゞ? (今気付いた:笑)

有綱主従の人形たち
負傷兵士の手当て

「源三窟」は、地下に潜る横穴式の洞窟で、写真では暗いが、通路(横穴)の距離はさほど長くない。
狭すぎるとか危険な断崖を歩くというコースでもなく、通路は歩きやすいよ(^^ゞ。

ただ、昔は今より、300mほど奥に伸びて、八幡神社方面まで届いていたという。
(←通路の途中、「この穴より先に洞穴が延びていた」事を示す看板が置かれ、途中まで穴が覗けた)

それが江戸期、万治2年(1659年)の大地震によって、塩原は大きな被害を受け、「源三窟」の鍾乳洞も崩壊。今は全長50m程となってしまったそうだ。

江戸期の会津・塩原を襲った地震は、ヒドイ被害をもたらしたのみならず、苦労して復興した所を、また地震が襲うという、まことに悲惨な歴史を繰り返した。

詳しくは次回に廻すが、大地震の記録は、慶長16年(1611)、承応元年(1652)、同3年(1654)、万治2年(1659)、天和3年(1683)、正徳3年(1713)と、都度復興のたび、その上から幾度も襲いかかった。

震災の影響もあろう。山崩れや洪水も多発した。この地に多い悪龍伝説が長く残ったのも、地脈・水脈を竜に見立てられ、畏怖されたのかとすら思えて来る。

ところで、肝心の「源三窟」の語源だが、これは「源有綱」の祖父、「源頼政」が、「源三位(げんさんみ)」と呼ばれてた(実際「従三位」だったわけだが)事に引っ掛けてるようだ。

ただ……どうも、ここまでの伝承の背景を窺ってみるに、私には、これは源有綱の話と言うよりは、やはり奥州における義経伝説の類ではないか、という気がする(^^ゞ。

この下野北部は、奥州との国境にある。
ここを誰かが逃げて来て、境を越え、北の独立国・奥州藤原氏の懐に逃げこむといった事は、実際には無くても、土地の人々にとっては、簡単に想像しやすい程、リアルな感覚をともなって当然だと思う。

だから、ここに義経の家来の誰かの墓があっても、それが史実に合致していようといまいと、大きな違和感は無かったのではないだろうか。

……に対して、わざわざ時代を遡って「源頼政」が出て来るのはどういう事だろう(^_^;)。
実はこの後、福島県に入ると、今度は、頼政が挙兵の根拠とした「以仁王」を祭神とした神社だとかが出て来るんだわ(汗)。。

有綱と家来の篭る洞窟の……
ふと、天井を見上げると……穴!

↑暗くて写真が撮れたか今イチ確認できず、変な角度で申し訳ない(^^ゞ。
何しろ、この頭上の穴には格子戸のような柵のような物で塞がれつつ、ここを通った後、この天井側に行けるのよ!

天井に到着。上からも覗ける
今見てる所(笑)

後は、この階段を登って行くと、洞窟探検は終わり(^_^A)。

さて、今度は「源頼政」の方だけど、さっきも言った通り、「有綱」の祖父(頼政−仲綱−有綱)である。……鵺退治をした、という逸話でも有名だ(笑)。

また、「頼政」「有綱」は、そもそも「源頼光」の子孫である。……頼光も大江山の酒呑童子を退治した事になってるね(^^ゞ。

満仲┬頼光−頼国−頼綱−仲正−頼政−仲綱−有綱
   └頼信−頼義−義家−義親−為義┬義朝┬頼朝
                         └行家└義経

源頼政という人は「上手く自分の一生を使い切った武将」と言える。
平治の乱で頼朝の父・義朝の挙兵に際しては、その最期まで運命をともにはせず、清和源氏の本家として、その血筋・本分を全うして、清盛に協力的だった。

故に生涯かけて、従三位まで出世し、抜群に名を上げる事で、まずは源氏一門の長老としての責任を果たした。

そして、平家いよいよ横暴と見たか(平家が後白河法皇を幽閉したり、東大寺や興福寺を焼いちゃった頃(^_^;))、余命と相談した面もあるかもしれない。頼政は高齢だったから、この機会に立つ他ないと見たかもしれない。1180年、頼朝の挙兵に先立つこと、僅か半年以内に、以仁王を旗印に立てて、平家を相手に挙兵に踏み切った。

しかし頼政は宇治で敗れ、史実では戦死しているが、ここがまた塩原の伝承では……。

「二男と四男、孫4人を連れ、奥州へ逃げるため、宇都宮氏を頼って下野を通過しようとした」という。

しかし、彼らに忠告を与えた者がいた。この土地の農民である。
平家方那須資隆(与一の父(^^ゞ)が探索しています。ここはひとつ、塩原の殿(八郎・家忠)を頼った方がいいですよ」

というわけで、頼政らは塩原氏の本城・要害山城で休息をとった(^_^A)。

それを那須資隆が、奥州藤原氏の三代秀衡の郎党で、秋田到文(ゆきふみ)という武将に通報した。
果たして秋田会津から軍を押し寄せて来たので、これを防ぐため、塩原氏と衝突した。

これを「御頭峠の合戦」という。

さらに、那須氏自身も大軍を率いて出陣して来た。
そこで塩原氏からは、「山県国政」という源氏側の大将を用いて、山の上に陣取り、石を降らせ、那須勢力を後退させた。

これを「左靫の戦い」という。

このように、那須氏と塩原氏は敵味方となったが、そのすぐ後、頼朝が伊豆に挙兵した後、那須氏はいきなり変心して平家とは敵対行動を取り、やがて世に有名な、あの那須与一の活躍となるのである。  *チャン・チャン♪*

「源三窟」から出て来た所。資料館&売店になっている→

以上が、「源頼政@塩原で実は生きてた編」だが(笑)、義経と有綱の結び付き……ひいては、義経の奥州行きに、源頼政の影が亡霊のように絡んで来るについては、この場合は伝承だから、説明のつけようがない(^_^;)。

ただ、少し史実を振り返っておくと、義経も頼政も京に住んでた事や、有綱が義経の「聟」と伝わる事なども、要素として浮かばなくはない。

しかし頼政のいた時代と義経が畿内(京)にいた時代が重なるのは、義経の幼少期であるし、有綱と別れる頃の義経は27歳……婚期の娘を持つには、少し早い気がする(^_^;)。

両者を結びつけるのは、やはり鎌倉政権を担うようになって以降の頼朝か、頼朝と義経にとっての叔父・新宮行家あたりかな、という気がする。

新宮行家は、以仁王の令旨を、伊豆の頼朝の元にもたらした張本人である。
その後も、頼朝の配下に収まろうとするようには全く見えない。
全国の源氏に決起を促したのも、以仁王の令旨を伝え歩いたのも、「元はと言えば、自分の功績」という思いがあったからではなかろうか。

同じように、頼朝より先に平家に対して挙兵したのは、「祖父・頼政である」という思いは、有綱にも無くは無かっただろう。

こう考えると、義経自身の過去に、深い絡みも誼もない「以仁王」と「源頼政」の名を、始終耳に入れる存在が、義経の近辺に二人はいた事になるのかもしれない(^^ゞ。

以上、関連事項は(だいたい(^^ゞ)、
2004年6月<檜原(ひのはら)城跡「十三仏巡り」と吉祥寺>内
2004年11月<芦ノ湖>内
2005年4月<戦場ヶ原>内・および<中禅寺湖>内
2006年1月<宇都宮〜鬼怒川>
2006年3月<鬼怒川〜「栃木県民の森」〜矢板>
2006年10月<4日目、駒ケ岳「箱根神社元宮」>

2009年1月<恵日寺><如蔵尼と乗丹坊の墓・龍宝寺「不動堂」>
2010年1月<えさし藤原の郷・@「政庁」>内以降

2010年5月<えさし藤原の郷・E「伽羅御所」、1>内以降
2010年6月<無量光院跡>内以降



次回は、「北栃木〜南福島編」の第二弾(^O^)!
湯西川温泉の「平家落人民俗資料館」「平家の里」など(一泊目は川治温泉(^^))。
2日目は、いよいよ南福島にも向かいたいと〜〜!

<つづく>

2011年04月30日
 
     






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