<2013年・城主のたわごと4月>




2012年11月、「上下毛編」の第四弾、2〜3日目。

大胡を巡って赤城温泉泊。「神道集」赤城大明神の話(^O^)!




     
  第四弾(^。^)。
話が遡るが、前年の旅行は、帰りがラクなように、福島から帰って来て、栃木で一泊、だんだん帰路に近付くように設定してたら、最後が大都会の宇都宮エンドとなった。

「運転はラクかもしれんが、最後が都会というのは、ちょっとね〜(^^ゞ」
なんて亭主が言うので、今回は、最初はわりと街中で、ドンドン山奥を極めるスタイルを目指してみた(笑)。(全部が山と森林と湖でもいいんだが、史跡旅行したい以上、人類が及ばぬ場所ばかり、というわけにもね(^_^;))

というわけで、前回までに太田市の史跡を巡り、渡良瀬川に沿って北上してからは、一路、西に出た。
今回は、大胡城跡の続きから、大胡神社、長善寺の大胡太郎の墓、そして赤城山に向かって北上。赤城温泉で二泊目。
3日目は、さらに山頂を目指して北上。荒山、地蔵岳、小沼などを通って、赤城山の大沼へ向かう。

実は赤城山には、子供の頃、家族旅行で一度行ったきり。
その時の旅程は、なぜか熊の湯とか軽井沢とか、他の所ばかり印象に残ってて、赤城山は全く覚えが無いんだなぁ(^_^;)。
なので、正直それほど自信も無かったが、前回、大胡に入る前から、亭主が絶好調。特に赤城山がたいそう気に入ったと見える(笑)。

話としては、「神道集」から「赤城大明神の事」「覚満大菩薩の事」を取り上げる。
普通レポが【】、神道集についてが【】、「赤城大明神の事」のストーリーが【、そして途中に挿入の「覚満大菩薩の事」を【橙】の字で綴っていく。

「神道集」は、南北朝時代に成立した全国の寺社縁起もので、唱導者が口伝えで各地に広めた神仏習合縁起の「ネタ本」と見られている。(2012年6月<宇都宮に向かう・「栃木県立博物館」>内
しかし、明らかに上州がメインなので(笑)、今回は全面で取り上げたい!



<大胡城跡、2(続き)>

大胡城跡(地図A)は、前橋市河原浜町にある。
もよりの駅は、上毛電鉄の上毛線「大胡」駅。徒歩10〜15分ほど。

前回は到着した所で「つづく」とした(2013年3月<大胡城跡>。すなわち……↓

駐車場に到着。右が本丸方面への道(パノラマ5枚180度以上)

↑の180度反対側↓左=本丸、右=二の丸(パノラマ5枚180度以上)

↑この360度パノラマ(180度×2)までお届けした。
これを現地の案内板にあった復元想像図で見るとこうなる→

現在、↑上の写真に見る城跡の敷地は、→右の図では本丸(上段)と二の丸(中段)の丘陵部分にあたり、今いるのは二の丸。これより左に回り込みながら本丸へと通じる通路に向かう。

行きは左回りで馬出門跡っぽい所から本丸へ行くが、帰りは右方向に出て階段を下り、この二の丸へと戻って来て、最後に二の丸の遺構を見る……と、こんな順路ね(^^ゞ。

説明は現地の案内板の文を↓に、そのまま出すけど、その英語訳に「OGO CASTLE」とあったから、「大胡」は「おおご」と読むんだね(長年「おおこ」と思ってた(^^ゞ)。

 城跡は、南北に走る丘陵上にある平山城で、本丸を中心に二の丸を囲部的に配し、北に北城(越中屋敷)、近戸曲輪、南に三、四ノ曲輪があり、東は荒砥川が流れ、その間に根小屋、西には西曲輪の平坦部が附加され、南北670m、東西最大幅310mの規模を持つ。枡形門水ノ手門虎口空濠土塁等の跡が良く残っている。中世上野の名族である「大胡氏」が拠ったと言われている。

本丸」と「二の丸」の間を区切る深い濠(パノラマ3枚)

「スゴイ濠だね〜(゚.゚)」と言いながら、前述通り、まずは左回りに二の丸を進む↓

二の丸。よく草も刈られて、とても歩きやすい(^^)(パノラマ2枚)

 天正18年(1590)徳川家康の関東入部により牧野氏が大胡領二万石に封ぜられ、康成忠成二代の居城となった。
 牧野氏は元和2年(1616)に越後(新潟県)長嶺へ、そして長岡へと転封された。以後、大胡城は前橋藩領となり、酒井氏時代には城代が置かれたが、2年(1749)酒井氏が姫路へ転封に際し、廃城となった。

↑ナント、お城の説明はこれでおしまい。
だいたい城跡の説明版って、どこもこれぐらいだし、むしろ簡潔に歴史を伝えてる方だと思うけど、しみじみと「大胡氏の事が何も書かれてないなぁ(゚.゚)」とは思った。

しかし歴史の事はさておき、この城跡の遺構のカッコ良さ、居心地の良さは抜群だった!
草がちゃんと刈られてる事や、周囲の樹木が美しく、西洋の整備された馬場か公園のような風情すらあって、夫婦とも大胡城跡が凄く気に入った!

端まで行くと、本丸への通路が右に(パノラマ5枚180度以上)

通路の周囲は濠。つまり土橋跡だ。案内板には「水ノ手門虎口」とあるが、ここの事だろうか。

ちなみに、左端よりさらに左の先には、「大胡幼稚園」がある(^^ゞ。
城郭の跡が凄くカッコ良いし、居心地もいいし、何よりあの幼稚園の建物が遠目にも見えるため、ここまでは気軽にスイスイ歩いて来たが、ふと幼稚園の方を見ると、人の気配は全く無く(夕方だから当たり前だけど)、車から遠く離れ切ってしまうと、ちょっと上の奥まった所に行って大丈夫かな、という感じがした。

というのも、この秋は、前代未聞なほど、「熊の被害」が全国で聞かれたからだ。
熊の住む山々が餌不足に陥り、日本各地で熊の出現が多く、注意が呼び掛けられていた。

凄い山奥でも鄙びた農村でもない、殆ど都会と言えそうな大きな駅近くの住宅街やら大型店舗の駐車場やらに、人を怖がらなくなった熊が堂々と悠々と歩く姿が、防犯カメラに写ってニュース番組で放映され、世間の驚嘆を誘った。

←馬出型の土橋を渡った先は、虎口が狭まっているので、ますます土塁の壁に隔てられた向こう側に熊がいても、周囲(一応街中ではある)に、助けを求める声とか全く聞こえないのでは……という気分になる。

一応、この旅行の最初「生品神社」から、我々は大袈裟に鈴などジャラジャラ鳴らして歩いてた。

この「鈴」が、ウチ辺りでは全く売ってない(^_^;)。。
「旅行先で買えばいいんじゃない?」と亭主は言ったが、そういう物を売ってる土産屋さんなど、どこで出会えるのかわからない(^_^;)。。

なので、取り合えず100円ショップに行き、早々と出ていたクリスマス飾りと、まだ辛うじて残ってた風鈴(素晴らしく季節が違う取り合わせ)を買って、リュックに括りつけて来た。

生品神社や円福寺では、人家はすぐ近くにあったが、上述の通り、この秋の熊は人目を気にせず徘徊するようなので、念のため、シャワンシャワン、リンゴンと音の鳴る鈴やら風鈴やらつけて歩いていた。

が、太田市でも、世良田東照宮や大光院などでは、車通りや人通り、学校・工場・人家など建物類も多かったので、「さすがに熊は居ないだろう(^^ゞ」と、途中でつけるのをやめてしまった(笑)。

この大胡の街もスゴイ山奥という事も無く、熊の事などスッカリ忘れていたのだが、本丸に入る辺りで、この通り自然の中にあるし、時間的に夕方に近くなってたから、ふと「ここなら居てもおかしくないかも(・・;)」と、ちょっとドッキリした。。。

変な話、攻め入る兵士にもこんな恐怖感を植え付ける事に成功してる城、とは言えよう(笑)。

どう?いる?居ないよね、居ないよね(^^;)(パノラマ5枚180度以上)

「よ、良かった(^m^;)、熊は居ない」。
それと入ってしまうと、意外や物凄く広いんで、熊の事など気にかけたのがバカバカしくなった(笑)。

さらに前に進むと、奥は一段高く広い敷地(パノラマ4枚180度以上)

大胡氏は、藤原秀郷の子孫、足利成行(藤姓足利氏)の子・成家が名乗ったが、藤姓足利氏・嫡流らとともに滅びはせず、源頼朝の御家人の列に、“大胡太郎”が見える。
大番役で大胡隆義実秀父子が法然に帰依。法然の書状が残り(「法然上人行状絵図」)、金沢文庫『念仏往生伝』に、大胡(小四郎)秀村の往生記が納められている。
(2013年1月<東北道〜北関東道>内

戦国期の剣豪、上泉秀綱信綱)が大胡地域の出身。
戦国時代は後北条氏に従い、武蔵国の牛込に所領し、牛込氏と名乗り、東京の赤坂元町に赤城神社を移した。

ちょっと後ろを振り返ってみよう(^_^;)↓

入って来た虎口と土塁がクッキリ↓(パノラマ4枚180度以上)

大胡氏については、上記ぐらいしか知らないので、ネットを見回したが……、

大胡氏@wikipedia:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%83%A1%E6%B0%8F
大胡氏@武家家伝:http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ohgo_k.html
上泉(大胡)氏@武家家伝:http://www2.harimaya.com/sengoku/html/izumi_og.html

↑詳しく書かれているように思う一方、やはり大胡氏ってあまり確定的な事がわからない氏族なのかな〜という感じがする。

それと上泉氏の出自は大胡氏ではなく、どうも「一色氏(源氏)」らしい。
藤原氏を名乗ったのは、将軍の命令で大胡氏再興のため関東に下向し、上泉城主となった1400年代半ばからのようだ(^_^;)ゞ。

上泉秀綱(信綱)の史跡は、この翌日に行ったので、次回やるね(^^)。

さらに奥の高台を進むと、向こうに町の風景が広がる(^^)(パノラマ5枚180度以上)

↑左端の碑は、「大胡城址」とあるのかと思ったら、「慰霊之塔」だった。
城に住んだ人々への慰霊もあるかもしれないが、その傍らの大きな石碑には、昭和22年(1947)のカスリン台風の折、洪水による甚大な被害を受けた事が記されているので、そちらが相当するのではなかろうか。

「慰霊之塔」(拡大)→
洪水は荒砥川より起こり、9月15日午後三時すぎ、突如、不気味な音響とともに人家を流出させ、日没に水勢が衰えるまで長時間、広い範囲を踏みにじって、生きながらの地獄を現出した。

その後も、特に荒砥川を挟んだ東西の交通が遮断、孤立。
殉職者6名を出しながらも、消防団員や有志の努力で、被害を最小に食い止めたが、死者71名、600世帯2500名の家屋が損失、田畑冠水330町歩となった。

涙ぐましい隣人愛の奉仕と、国庫や各種の一致協力によって、一歩一歩復興。
被災者も町営住宅58戸の建設に収容され、耕地も徐々に復旧され、高松宮殿下のお見舞いも得たという。

さらに前に行くと、大胡の町が眼下に(パノラマ4枚180度以上)

大胡氏について多くは知らないが、大胡氏が法然と浄土宗に深く帰依し、赤城神社に傾倒してた様子は、私の知る範囲でも色濃く感じる点だ。

←左端に臨む赤城山(拡大)
これより夜までには赤城山に向かう。史実的にはボンヤリとした存在の大胡氏を含め、赤城山の南麓地域に根差した、浄土教唱導の世界を後ほど紹介したい。

そもそも上野国は、関東の中でも畿内へ通じる東山道の入口にあたり、畿内文化の影響を受けやすかった。
蝦夷への前進基地として中央からも重視され、上毛野氏の活躍も早くから中央で目覚ましかった。

よって上野国と仏教の関わりもかなり古く、また700年代から民間への浸透力が深かった事が、上野国の国分寺や各廃寺などの痕跡からわかるという。


振り返る。さっきの一段低い部分(パノラマ5枚180度以上)↓虎口

桓武天皇の蝦夷征伐後、天台宗の東国布教に道筋をつけた最澄が、全国に六宝塔を置いた内、関東に充てたのは、上野国下野国だった。
すなわち、上野国緑野郡「浄法寺」、下野国都賀郡「大慈寺(小野寺)」の二所である。

が、939年の平将門の侵略や、1108年の浅間山噴火によって、上野国における律令支配制は動揺・荒廃し、かわって荘園開発者が入植・支配した。

先ほどの虎口を右に見ながら→

←右には行かず、左回りで二の丸に下りる。この下は階段になっている。

新田氏初代・新田義重真言宗を重んじ、その子・得川義季が世良田に臨済宗長楽寺を建立するなど、古代の国分寺に替わる仏教の庇護者が現れる。
長楽寺は、前々回も述べた通り、禅の専門道場だけではなく、顕教密教をも兼修した「三宗兼学(天台・真言・禅)」の寺だった。

よって、赤城山南麓における浄土教、唱導(法然の影響も一時的にはあろうが、遊行僧の影響がさらに色濃い)の背景に、長楽寺の果たした役割(唱導者への給金など)を推測する学者もいる。

これには、中央における比叡山のパトロン(古代貴族)らが、その政権を衰退・没落させていくのに対し、天台教団が新たな庇護者に提供すべく、唱導という大衆的な布教方法を確立していった、と考えると因果関係がスムーズに感じるからだろう。

かくして、赤城山南麓では浄土信仰が広まり、山上多重塔の近くに庵を結ぶ行仙なる僧侶が、『念仏往生伝』に、波志江・赤堀・大胡・細井などの念仏信者の往生の様子を書く事となった。

唱導(唱導文学)については、このあと『神道集』にある赤城山にまつわる話を、追い追いしていこう(^^)。

階段を下りた所(^^ゞ。凄い急な感じ(パノラマ縦5枚ほぼ180度)

じ、実は、この階段を下りるちょっと前ぐらいから、何か吠え声のような唸り声のような音が聞こえて、「もっ、もしや熊\(>o<)/!」と慌てて、大袈裟に風鈴とクリスマス飾りを鳴らしながら歩いた(笑)。

……今思うと、近くの工場か農家の機械の音か、鳥の声(怪鳥?)だったような感じもする(汗&笑)。
(だいぶ昔のトラウマ(笑)→2000年10月本文より/2000年11月本文より

で、右に行くとトンネル超えて道路に戻っちゃうので、もう一度←左にちょっと上って、左折。二の丸に戻ると……

このような遺構が残っている場所に出る(パノラマ3枚ほぼ180度)

凄くクッキリと残ってる土塁……と言うより、殆ど石垣なんだが(^_^;)、石がわりと新しい感じに思えた。
何となく、古くても江戸時代あたり(江戸期にも城があったから)の物って感じがした。

今見てる方向は、二の丸の駐車場を向いてるが、この後方には……↓

ドーン!と大胡の街が広がる(パノラマ4枚180度以上)

さっき本丸の高台から見たほど高所ではないけど、ここの眺めもいいよね(^^)。
赤城山の方向は、やはり左の方だ。このパノラマには写ってないが(^^ゞ。



<大胡神社>

↑はすぐ近く。この「大胡神社」にも、特に祭神を示す標など無かったが、手持ちのガイドには、「大己貴命」「豊城入彦命」とあり、「三夜沢赤城神社と二宮赤城神社の御神幸の中継地」と書かれている。

「豊城入彦命」は毛野一族の祖神だから、群馬や栃木の県一帯どこでも多かろうが、赤城神社(および赤城神を祭神)となると、特にこの一帯には凄く多く、しかもそれが、この辺りだけの特徴という感じがする。

(2007年5月<筑波山神社>内/2009年1月<対面石と対面堂>内/2010年9月<筑波山神社・随神門〜拝殿〜御神水滝>内/2012年6月<宇都宮二荒山神社>B

この辺りは赤城山がよく見えるエリア(^^)

この大胡を含むかなり広い領域には、「赤城神社」とか、「赤城神を祀る」とする社や祠がいっぱい、いっぱいある。殆どの神社が「赤城山を祀っている」と言って差し支えない気がする(笑)。

今←こちらから出て来た。右のフェンス下は荒砥川。これよりちょっとだけ北上して、又スグに左に入る。
元は城と同じ場所にあったんじゃないかってぐらい近い場所(^^ゞ。地図B
ただし、さっきの幼稚園があった所よりは、もうちょっと先。(幼稚園こそ元々、城跡にあった感じが:笑)

大胡神社」に到着(^^)。(パノラマ5枚180度以上)

こうして通りに面してると都会的な風景に見えるが、我々は車を置かないとならんので、だいぶ遠回りして神社の裏手の駐車場に着いたが、そこがまた鬱蒼とした森と言うか山道って感じだった。
駐車場も森林の奥深くを割いてあって、こちらも城跡っぽい雰囲気が濃厚だった(^^ゞ。
そんな森の奥深くながら、駐車場もスペースがあって、参拝客が多いような感じもした。

斜面に高く聳える「大胡神社」正面
階段を上がる

階段を上がると、少し山奥のような雰囲気で、高さは先ほどの大胡城跡に匹敵するかもしれない。
大胡城も赤城山が真正面に見れる凄く良い位置にあって、この地域における、かつての大胡氏の存在感のようなものを思わされる。

この赤城山の南麓地域は、殆どの領域が「大胡」と呼ばれ、「大胡氏」に支配されていた事を思えば、その存在感も当然に思える所だが、残念ながら、その手掛かりとなる文献に乏しい感じがする。
その代わりに名が出るのが、先ほども話した「神道集」という事になろうか……(^^ゞ。

案内板には、境内の「ムクロジ(無患子)」が樹齢300年を越える事、目通り周3.7m、樹高25m、高さ地上3.8mと巨木で、石鹸や羽子板の追羽根や数珠に使う実である事、東日本には自生しないので、移植されたと推測される事などが書かれていた。市の天然記念物。

又、大正4年に船津伝次平を師とする、和算家・大原福太郎(茂木町)が奉納した算額が奉納されていた。市指定文化財。
和算は江戸期には盛んだったが、明治以後は衰えたので珍しいそうだ。

そして最後に、「太々神楽の舞」の事が書かれていた。往古から徳川時代まで、足軽町に伝えられた「神慰の行事」とあった。
明治42年の神社合祀により、足軽町神明宮の神楽殿は大正元年に大胡神社へ移転され、以後、河原浜と足軽町で、毎年交互に舞ってきたが、現在は、5月3日の春の例大祭に、足軽町太々神楽保存会が奉納する。

この「神楽殿」で舞われた舞が、どういう内容かはわからなかったが、「神慰」と聞くと、「これも『神道集』にある、赤城明神にまつわる物だったんかな〜(^^ゞ」なんて思う。

拝殿」(に向かって)右が、その「神楽殿」だね(^^)(パノラマ2枚)

これより「神道集」の話をするが、これに「大胡城」や「大胡神社」「大胡氏」の事が書いてあるわけではない(^_^;)。

前の年は、山形・福島・栃木ツアーで、南福島から日光にかけて、「日光山縁起」を2回に渡って書き綴った。
2012年5月<南会津方面に向かう>内以降/6月<23号線を東進、川治ダムまで>内以降)

このほどは、「日光山縁起」で言うなら敵役の神「赤城山神社」に行ったので、「赤城山側からの伝説というのは無いかな〜」と探すと、「日光山縁起」の注釈に、「日光山縁起は室町時代の成立だが、出て来る神戦について、早くは南北朝時代ごろに成立した「神道集」にも題材が云々」といった事が書かれていた。
(2012年6月<宇都宮に向かう・「栃木県立博物館」>内

「日光山縁起よりも古いソースって、どんなだろう(゚.゚)」と、「神道集」を見てみた所、ナント「神戦」のみならず、ズバリ「赤城山の神」について書かれた話が幾つも見付かった(笑)。


拝殿と神楽殿の間に入って写す(パノラマ4枚180度以上)

「神道集」の成立期は、南北朝時代と見られる(この翌日に行った三夜沢赤城神社にも、「吉野時代」とあった)。
内容は神仏習合の縁起物。先ほども言った通り「唱導」と言って、伝導・布教の手法で、神仏の加護を与える効果が信じられた。
「何々の話を聞くだけで、何々詣でを何回行なったのと同じ功徳を積んだ」とか、「ご利益を得た」という感じ(^^ゞ。

基本的に口伝えに思えるが、各巻の表紙には「安居院作」とあるらしい。
安居院」は比叡山の東の一坊の名ながら、「神道集」の内容から見ると、「安居院」なる触れ込み自体が、「唱導者らの自称」という線がまず疑える。

関係あるとしても、東国(特に上州)の地名や神仏話が多いので、天台系の名を冠した東国関係者の作で、語られた場も東国(特に上州)だろう、と見る向きが強い。

平治の乱で源義朝らに斃された信西が、「安居院法印」と号し、信西の子、澄賢やその子、聖覚が安居院に住み、平治の乱によって下野(信濃ともいう)に流刑されたとも言うようだが、「神道集」との関係は謎。




<長善寺(大胡太郎の墓)>

↑に向かう。これも近い距離。

「神道集」における地名と言えば、インド中国を舞台に始まる話も多く、やがて日本に来て神になる……というスタイル。つまり本地垂迹(先に仏であったが、日本に来て日本の神に姿を変える)という構成を取る。

箱根三所権現や、伊豆二所権現なども、そのスタイルで書かれている。
坂上田村麻呂なんかはハナから「中国人」とされている(^_^;)。「日本に来て、坂上家の養子になった」という感じ(笑)。
(2004年11月<芦ノ湖>内/2006年10月<4日目、駒ケ岳「箱根神社元宮」>内/2010年4月<厳美渓温泉で最終泊、3日目夜〜4日目朝♪>内以降)

時系列も時間設定もムチャクチャで、江戸期には「荒唐無稽」のレッテルを貼られた(^_^;)。


←そろそろ日暮れだね〜。1年で一番日の短い頃だから(^_^;)。

本地垂迹は仏教側が仕掛けた神道の取りこみだから、つまり「神道集」は、神仏習合の決定版であり、その後の時代に多く使い回されたネタの源泉のようにも思える。

話の内容も、いかにもその土地に相応しいものかと言うと、複数の土地や神仏に対し、同モチーフの「使い回し」が多い(笑)。

どういう事かと言うと、全く同じ筋立てや設定を、他の土地や、他の神々の話とされている事が多いのだ(^_^;)。
だから、「土地伝承が先にある」と言うより、「話が先にあって、そこに地名や人名・神仏名を当てはめている」という感じがする。

特に多いな〜と思うパターンを、これよりちょっと書き並べながら、この日最後に行った「長善寺」に入る(^^ゞ。


←「長善寺」(地図C)に到着。
↑入ると右、鐘楼前に三地蔵♪

この右の三地蔵、いかにも最近のデザインっぽいけど、とてもカワイイ(#^.^#)。
同じような僧侶姿の三稚児像(地蔵?)が駐車場にもあり、また、六地蔵っぽいのもある。

山門入って左の普通の六地蔵と……
奥の墓地には新(?)六地蔵

◆「神道集」使い回しモチーフ・その@「継母編」◆
後妻が嫁いで来る時、家の主人は家に入れる前に、亡き前妻の子供達を紹介し、「我が子同然に愛しんでくれるか」と問う。後妻はしおらしく同意して継母となる。
しかし継子に縁談が来ると、後妻は約束を破って縁談の邪魔をしたり、継子を殺したり、大蛇と化して追い掛け廻す話がある一方で、良い継母として全うする話もある。

本堂に進む(パノラマ3枚ほぼ180度)

◆「神道集」使い回しモチーフ・そのA「神仏編」◆
主人公が心もとない放浪の旅路に出ると、神紋入りの着物を着た侍が助けてくれたり、美しい女が急に現れて甘い果実をくれたりするが、それは仮の姿(化身)で、神仏(あるいは神仏と成った縁者(亡き母など))の援助である。
そして彼らが最後、「(自分のように)お前も神になってはどうか」と主役らを促して神にさせる。

本堂に近付くと、植え込みの間から羅漢像(゚.゚)(パノラマ2枚)

◆「神道集」使い回しモチーフ・そのB「往生(自殺)編」◆
人生に成功した晩年に、寿命を全うして神になる話もあるが、途方に暮れたり、死んだ人の後を追ったり、人生に絶望したり、やっと再会を果たした感極まったりで、誰も彼も往生……つまり自殺することが多い。
死んだ途端、「すると、にわかに紫色の雲がたなびき」……とか展開して「神」となる。

この羅漢像達は、細工も庭の造作も凄く凝っていた

◆「神道集」使い回しモチーフ・そのC「記紀編」◆
天の岩戸に隠れてしまうとか、山の神に話し掛けると不遜とか、神同志で殖産道具の貸し借りを行なうなど、「古事記」や「日本書紀」に似た筋立ても見掛ける(^_^;)。

数多い逸話を散りばめたようでいながら、実はこうした同じモチーフや展開を繰り返し出して、日本じゅうの神仏習合の寺社縁起を、次々と語っていく。
使い回しが多いので、生真面目に「実は、古代から続く、上野国(とか陸奥とか)の隠れた歴史では」みたいな受け取り方をするのには、慎重を要するのが無難と思われる(^_^;)。。


本堂の左のお堂
右は正面・本堂

お寺の造作が神話かお伽話のようなので、「神道集」について書かせて貰ったが、この他にも、岩の上で赤ちゃん蛙を背に載せた親蛙が、岩を這い上って来る大勢の子蛙を引き上げている像があって、とても説話的なムード満載のお寺だった。

「神道集」の特に赤城山にまつわる話は、また後ほど話させて頂くとして、そろそろお寺の話に専念しよう(^^ゞ。

ここ「長善寺」は、「大胡太郎の墓」がある。「大胡城跡」でも書いた通り、源頼朝の御家人として名の出る人物である。
本堂に到達すると、↑左にちょっと新しめのお堂があり、本堂との間の……↓

連結式の渡り廊下の下を潜り
裏手の墓地に入る

長善寺は開基を大胡太郎とか大胡左馬助と伝え、「何時の頃からかわからないが大胡氏によって創建されたのであろう」と、創建時期も創建者もハッキリしない事が、墓所の案内板に書かれている。

 大胡太郎の墓といわれる石塔は、上から宝珠に請花があり、次に屋蓋、塔身と続き、これらをしっかりとした基台で支えている。このうち屋蓋が小さいことから異型多宝塔というべき形式と見られる。

わりと奥まった所にある「大胡太郎の墓
(拡大)

 塔身の中央に梵字が二つ刻まれている。向かって右に阿弥陀如来、左に地蔵菩薩の種子(梵字一字で仏を表すもの)があり、その左側から下部に「貞和三年三月廿二日」と銘文が刻まれている。これを開基の墓とすれば西暦1347年には当寺が創建されていたと考えられる。
 傍らに奥方の墓と言われる石塔があり墓地入口には輪廻塔がある。
 これらは、白草の寺沢窪(現在の滝窪町内)にあって寺の移転に伴って現地に移したと伝えている貴重な文化財である。
  前橋市教育委員会

「入口の輪廻塔」は、手持ガイドによれば、「延徳4年(1492)銘の石幢」のようだφ(。。)m。

←同様にこの寺に移されたのか、先ほど新旧一揃いづつあった六地蔵の辺り(本堂の前広場)にも、大きな地蔵の座す足元に、たくさんの古そうな墓石のような石塔が集められていた。

この寺は、戦国時代の住職・道根和尚が、常に大坂城に出入りし、豊臣秀頼から自筆の「豊国山」という書と、朝鮮皿10枚を下賜されたのを期に、それまでの「赤城山」の山号を、「豊国山」と改めたそうだ。


他に、大正初期の地方史誌『上毛及上毛人』(1913〜42年、300号発行)を主宰した、この寺の住職・豊国義孝の墓もある。

これまで、「墓がある」という触れ込みで行った寺に、目当ての墓が見付からなかったし、ここの「大胡太郎の墓」も、なかなかわかりにくい奥まった場所にあった(^_^;)。
執念で見付けた時には、亭主が「よく見付けたね!」と驚いていたが、これぐらい探さないと、群馬で「墓所」を見付けるのは難しいのかもしれない(笑)。



<二泊目・赤城温泉に到着、赤城山の夜>

今宵は、当初より群馬旅行を企てたキッカケでもあった赤城山に宿泊(^^)。楽しみ楽しみ♪

赤城山中腹の赤城温泉の宿めざしてひた走る↓
宿に向かう途中、「三夜沢赤城神社」(地図D)の前に寄った→

この「三夜沢赤城神社」は、もうちょっと早く着いたら、この日に見学&参拝のつもりだったのが、かように暗くなったので、翌日の見学コースに廻す事として、神社の駐車場で方向転換したら……。

駐車場を囲む森林から、ピュピュピューッ!と何か白っぽい、尾のある小動物が下りて来て、あっと言う間に闇に消えた。
……猿のような、リスのような(^_^;)。。

赤城温泉は、三夜沢赤城神社よりさらに山の高所にある。
いよいよ山道深くに差し掛かり、何度目かのピンカーブを越えた頃……。
今度は、目の前をドーン!と塞ぐ大きな動物が、道のど真ん中にいた(・・;)。。

「カモ……シ・カ・だね」と亭主。
「一瞬バッファローかと思った(^_^;)」と私。

プッと警笛を鳴らすと、カモシカはこっちを向いて、水晶のような眼に車のライトを反射させながら、ガードレールの合間を越えて、ノッソリと闇の下に姿を消した(^_^A)。

やがて不思議な行き止まり地帯に車が着いた。
夜は真っ暗なので、外の様子は、翌朝の写真にて改めてお見せするが、何しろ車を降り、細い崖上&建物壁の一本道を歩いて宿に到着した。まず玄関から↓

ガラガラガラ……お邪魔します(パノラマ2枚)
右の妙な人はマネキン。なぜ金髪・グラサンかは不明(笑)↑

地図Eヤフー←今こんな所にいる。宿の名は「赤城温泉・御宿・総本家
詳しく言うと、いわゆる赤城温泉には、山裾から「忠治温泉」「滝沢温泉」「赤城温泉」の三つがあって、一番高所の「赤城温泉」に今いる。

その「赤城温泉」の中でも、手前には立派なホテルがあるんだが、奥に行くに従って、秘境というか、落人村っぽい雰囲気になって、一番奥のこの旅館になると、何かが極まり切ってこんなムード(笑)。

この写真も翌朝に撮ったんだが、朝でも夜でもこういうムード(笑)。
この先も実は朝撮った写真があるが、雰囲気的に夜の物を先に出す。

←ロビーの左側は事務所。入ると天井にハリボテ風の龍神がうねるように飾られてる。入る手前は「Cafe」。メニューも置かれてた。

右側の廊下に出ると、金の仏像(゚.゚)→

建物の内部には、どこも謎めいた小物がひしめくように飾られている。和洋折衷はもとより、オリエンタル風でもアフリカ風でもある。

事務所には、竜神の他に、南国の果実の木像やビードロ細工の食器がいっぱいあって、翌朝はこの「Cafe」で、出発前の朝コーヒーを飲ませて下さった(^^)。
メニューには外国ビールや濁り酒も書かれていたから、夜もやってるのかも。

仏像類も凄く多い。よく見ると、アカンベをしてる仏像や、印を結ぶ指が親指を突き出して「グー(GOOD)」サインを示しているなど、ユーモア商品もいっぱいあった(笑)。
後で亭主がここのブログを見付けて教えてくれたが、ここの御主人が骨董屋などに行っては、次々と買いこんで始終リサイクルしてるような話だったとか(笑)。

置物ばかりでなく、建物も、外側からは和風建築に見えたが、内部は三階の露天風呂までいく階段が螺旋状になってたり、光の取り入れ方を工夫した窓などもあった。
この日は「さざえ堂」にも行った後だったから、凄くワクワクしなが中を歩いた(^^)。

部屋までに通る階段や廊下の壁や本棚には、古書・専門書・図鑑の類がビッシリ埋まってて圧巻(゚.゚)!
図書館や博物館で、よく「一晩明かしたい」と思うタチなので、同じ趣味の人には溜まらない魅力の宿♪

色んな種類の本がいっぱいあったが、外国語の物も多い。宿のお手伝いさんが欧州の人だったし、ブログを見ても、留学生など来る様子が伝えられて、国際交流の場でもあるのだろう。

宗教学や民俗学、旅行関係の本、怪談がかった本や刑法など恐い本も多かった。しかもどれも並々ならぬ専門的な物ばかり。
南洋や南国の彫刻や人形・置物をいっぱい揃えて、怪談にも詳しい……水木しげると趣味が似てるような感じもした(笑)。

「講談社の読本」という、少年少女向けの絵本が凄く年代物っぽかった。
「かちかち山」「桃太郎」「一寸法師」「一休さん」「金太郎」「孫悟空」と、いわゆるおとぎ話と並んで、「八幡太郎義家」「楠木正成」「新田義貞」「山中鹿介」「加藤清正」がズラリと並ぶというこのラインナップは、いかにも戦前(か戦後直後)の味のような(笑)。

←離れに向かう渡り廊下にも、壁じゅうに本棚が取りつけられ、蔵書がズラーッと並ぶ。

廊下の突き当たり、行き止まりの壁に、仄かな灯りに照らし出されたワヤンゴレ→

ちなみに、ワヤン人形には、影絵芝居に使う2Dのワヤン・クリット(水牛の透かし彫り)と、3Dのワヤン・ゴレ(木彫り人形)がある一方、人間が役に扮する芝居を「ワヤン・オラン」(オランは「人」の意味)と言うので、「ワヤン」=「人形」という意味ではないよ(^^ゞ。
(ワヤン・クリット→「マハーバーラタ」05〜0813〜1621〜2429〜3237〜40後書き

↓別の廊下には影絵用ワヤン・クリットもあった
そして、ワヤン・ゴレがいる着き辺り壁の右に、イキナリあるのがこの牢屋の入口のような格子戸。今夜の我等の部屋→
なぜか外から錠で閉められるようになってて、まるで囚人部屋か座敷牢の風情(((( ;゚Д゚)))

格子戸を入ると、さらにL字廊下が続き、カド曲って左がお部屋。
廊下の着き辺りは、ナントこの部屋専用のおトイレがついてる(゚.゚)!↓

←カドの神像(拡大↓)

↑こちらはアフリカの木彫りかな。アフリカっぽい彫刻類もあちこちに飾られてあった。

こうして、遠い異国の神話や宗教にまつわる像に次々と出会いながら、シンシンと進んで来ると、インドや中国から来た仏が、日本に上陸して日本の神になった……とする「神道集」の世界が、間違いなくこの赤城山にはある気がして来る(^^ゞ。

……というわけで、そろそろまた「神道集」の話に戻ろう(笑)。

お部屋に到着(^^)(パノラマ4枚180度以上)

お部屋は横長に、布団敷きと茶の間の2部屋分はあり、その左右にも、広めの床の間のようなスペースがさらにあって、贅沢な仕切り。

先ほども話した通り、「神道集」に載る全国の寺や神社の縁起には、使い回しネタが見られ、次に語る「赤城大明神の事」も、そういう雑多な彩りの中にある物語ではある。

なので、「古代から続く、上野国の隠れた歴史」と言うよりは、「大胡城跡」でも述べた通り、中央における比叡山の天台教団が、新たな時代に即して、「唱導」という大衆的な布教方法を展開した、という見方があるのを底辺に置くのが無難だろう(^_^;)ゞ。

左の床の間は、その奥にも小部屋が(゚.゚)(パノラマ縦5枚ほぼ180度)

ただし、文中に名の出る「ロ奄 佐羅摩女(オンサラマニョ)」や、「羊の大夫」、他の話に名のある「吠尺羅摩女(ベイシラマニョ)」などは、少なくてもこの時代のこの地域周辺で存在を語られた、何らか不思議の存在だった事が伺える。

前年に紹介した「日光山縁起」においては、「「ロ奄 佐羅麼(オンサラマ)」が、「小野猿丸大夫」と変化していると述べた通り、畿内の事情とは別に発展している中世神話と見れる。

成立期が南北朝時代だから、室町時代に多いお伽話や仏教説話、縁起物の中では、比較的早い時代に出たのは確かだが、例えば「赤城明神」に関しても、「履中天皇の時(400〜405年)」としながら、「赤城山の龍神の後継」と明記しており、話の時代より古くから、赤城山に神霊(信仰)があった事を前提にしてる点なども、見落としてはならないだろう。
(2005年4月<戦場ヶ原>内以降/2012年6月<23号線を東進、川治ダムまで>内以降/<宇都宮に向かう・「栃木県立博物館」>内<宇都宮二荒山神社>A

←夕飯は、旬の食材を使ったご馳走(^O^)!

川魚にエビが焼きものと刺身の2種類。
特筆メニューは、右下のリンゴ。リンゴの蓋を取ると、焼きリンゴをくりぬいた中に、季節の野菜グラタンが入っていて、熱々の焼きリンゴがふんだんに混ざって、半ば温デザート。

これだけ後から運ばれたので、顔を見てから最後の調理をしてたのだろう。

手のかかった御膳だけあって、ホカホカで風味が良く美味しかった!

さてさて、夕飯の後は、楽しみにしていた温泉タイムー!〜(つ^O^)つ



<赤城温泉(^_^A)>

今回は、まず「赤城大明神の事」をやるが、次回にわたって数点紹介しよう(^^ゞ。
話してる内に赤城温泉にて、明け方を迎える段取り(笑)。
字は、普通レポが【】、神道集についてが【】、「赤城大明神の事」のストーリーが【、そして途中に挿入の「覚満大菩薩の事」を【橙】で綴っていく。

では、はじまり、はじまり(^o^)//<チョンチョン


〜「神道集」〜赤城大明神の事上野国勢多郡鎮守赤城大明神事
時は履中天皇の時(400〜405年)、高野辺の大将(家成)は、麗景殿の女御の事(誹謗事件のような?)で無実の罪を着せられ、上野国勢多郡深栖郷なる山村に流された。

美貌の奥方をつれており、男子一人、女子三人(後に、上から「淵名」「赤城」「伊香保」と呼ばれる)の順に生まれた。
男子が13歳で成人したので、都に上らせると、祖父も喜び、帝に拝謁を得ると、帝は「子に罪はない」と許され、仕官がかなった。後に左大将となる。

◆家族関係図◆(←途中リンクつけながら進みますので(^^ゞ)

                 ┌−−−−−−−−−−−−−−−−−−−高光(少将・中将
                 └妻                            |
                  |                             |
前妻             ┌長男(左大将・左少将・中納言・国司)         |
 ├−−−−−−−−−+淵名姫(長女)=淵名次郎(家兼)・淵名の乳母   ├更衣・国母
高野辺の大将(家成)   ├赤城姫(次女)=大室太郎(兼保)・大室の乳母   |
            |  └伊香保姫(三女)=伊香保大夫・乳母・九人の子息・三人の婿・石童御前・有御前
            ├継娘
更科大夫(宗行)┬更科の後妻(継母) ┌男子
          ├更科次郎(兼光)−−┴男子
          └??−−−更科十郎(家秀)


← 雑多な置物がいっぱいある廊下を進むと、浴場(室内)に着くが、そこは今度はディズニーランドのようなムード(笑)→

赤い傘の辺りまで着くと、天狗かナマハゲのような鬼の面が迎える(^_^;)。

やがて高野辺の大将の奥方は38歳で亡くなり、11歳・9歳・7歳の三人娘は死出のお供を願うほど悲しんだ。
弔いの後、墓に納めた他に分骨し、都にいる長男の左大将にも送った。
左大将も遺骨に取りすがって泣き、大和国に墓を作った。

この浴場が、また鉄格子の窓が天井にまでついて、南国の監獄っぽい雰囲気(笑)。
天井から壁には巌が重なり、この巌が作り物か天然か(^_^;)。

温泉は緑がかった赤湯で、沈殿物が溜まっていく点などは、長野の松代温泉みたいだった。
(2005年9月<国民宿舎・松代荘>内

高野辺の大将は、世間の慣習もあり、人々の世話で、信濃国更科郡の地頭・更科大夫(宗行)の娘(更科の後妻)を後添えにした。容姿は前妻ほどではなかったが、十人並みに綺麗な人だった。
後妻にもやがて女子一人が生まれる。それが三歳の頃、都から勅使があり、高野辺の大将は帰京を許された。
◆家族関係図◆

大きな窓ガラスから、秋山の紅葉が(^^)(パノラマ2枚)

高野辺の大将は昼夜を問わず忠勤に励んだので、帝は感心して、上野国の国司とした。
任国に下る前(京にいる間)に……と、前妻の三人の娘に、公家や大臣との縁組を決めたが、帝が秋の間だけ都に留まるよう命じたので、高野辺の大将は三人の娘のそれぞれ乳母に、「秋には姫たちも都に上るように」と、装束の準備なども命じる手紙を出した。

窓ガラスから見えた紅葉は、昨日までより一気に赤みを増した感じがした(゚.゚)!↓
ちょっと露天風呂の方にも行ってみよう(^^)。

通り廊下は、縄文文化風のインテリア→

こうした動きに対し、更科の後妻は、「先妻の娘の方が格が上になる」と思いこみ、継母と継子の仲が悪くなった。
(仲が悪くなったからか、婚儀の支度の都合か、既に高野辺の大将が都に行った時からか、この後、3人の娘たちは各々養母(乳母)の家に住まいして出て来る)
◆家族関係図◆

風変わりなインテリアと本とビードロと朝の赤城山

こちらは三階、露天への通路にも、変わった土器類や像がいっぱい(笑)→

室内インテリアでは、アフリカ関係の物が多かった気がする。
豹の毛皮を体から剥いだその通りに四肢を 広げて飾ってあったり、あちらの部族が、狩の舞なんかで身につけるような牛皮の大きなお面、手槍、弓矢、牛の顔と牛の角のお面、木像のゾウやキリン、真っ 黒な木に彫られた細長い顔のお面など。

風呂場では和風&東南アジア系が多かったかな。一階には国定忠治っぽい三度傘と裾の長い合羽なんかが、更衣室に置いてあったり(笑)。

……で、露天には、右の写真の通路を抜けて左に入ると……↓

おおおお! 朝の赤城の山々を頭上に(パノラマ2枚)

露天は風呂に入ってれば温かいが、外に出ると途端に寒い(*o*)。ジックリ長湯をすれば温まるのかも。
夏は気持良さそう〜♪
あと周りの風景が抜群(^^)

後妻は、「三人の娘を殺し、自分の娘を都に上らせ、太政大臣か関白の妻とすれば、自分の一門が繁昌する」と考えた。
そこで、弟の更科次郎(兼光)に、「三人の娘は大層な美人なので、一人はあなたと結婚させようと思ってたのに、娘らに『田舎のきこり男で、姿も山猿。見るのも聞くのも嫌』と言われて悔しい」と言った。


更科次郎は前後を顧みない命知らずの荒武者で、何でもすぐ腹を立てる。姉の言葉に地団太し歯がみして、復讐を口にした所に、姉(更科の後妻)が入れ知恵してそそのかす。

更科次郎は、「国司からの使い」と称して、赤城山で巻狩りをすると触れ回り、川より東の男を集めた。
その中から射手を選ぶふりをして、長女・淵名姫の乳母の家の淵名次郎(家兼)と、次女・赤城姫を預かる乳母の家の大室太郎(兼保)を捕らえて縛り上げ、黒檜嶽の東、大滝の横枕、藤井の谷で切り殺した。
◆家族関係図◆

「赤城明神の事」には、不明な地名もあるが、赤城山についてはずいぶん明瞭で、この「黒檜嶽」は、この後に行く赤城山頂の大沼に近付くと、かなり間近に見える山に同じ名がついてるので、その辺に行ったら写真を出すね(^^ゞ。



<3日目・赤城山の朝>

前夜は、部屋の窓から肉眼では近くに大きな山がある事がわかったが、真っ暗で殆ど写らなかったので(^_^;)、改めて朝の風景をお届け♪

お部屋に戻って、赤城の山々を窓から
朝の光のよく映えるビードロ達

地図Eヤフー←今いるのが旅館街で一番奥の「赤城温泉・総本家」。
地図で確認する限り、前に並ぶ屋根は「花の宿・湯之沢館」、すぐ左が「湯元・新嶋館」、そして山の左の高層ビルが「赤城温泉ホテル」という配置に思える(^^ゞ。↓

窓から身を乗り出して、パノラマ撮影(パノラマ縦4枚ほぼ180度)

淵名次郎と大室太郎を殺害した更科次郎は、まず淵名の館を襲い、淵名姫淵名の乳母を捕らえて、大きな籠に押し込め、利根川の倍屋(ますや)ヶ淵に沈め殺した。

次に、大室の館も三方から火攻めし、空いてる南の一方から逃げる女たちを切り殺したので、大勢が切死か焼死したが、大室の乳母は急いで赤城姫を肩に担いで、赤城山へと逃げ込んでいた。

部屋の右の床の間の窓からも撮影(パノラマ縦4枚ほぼ180度)

三女の伊香保姫は、群馬郡の地頭・有馬の伊香保大夫(伊保これやす)に預けられ、角田川(利根川下流の旧名)より西にいたが、やがて遭難の噂が聞こえて来た。◆家族関係図◆

伊香保大夫は、9人の息子と3人の婿に、利根川と吾妻川の合流地点から、児屋・椙の渡し場まで、13ヶ所の城郭で待ち受けさせたので、敵も容易に近づけず、難を逃れた。

←左の床の間の奥の部屋からも、朝の赤城山の風景がステンドグラスによく映える(^^)。

一方、逃れた次女の赤城姫と大室の乳母は、深い山間で難儀した。
出会ったきこりは道を譲り、手をあわせて同情しながら、淵名次郎と大室太郎が切られて亡くなった事を教えた。

大室の乳母は内心の不安を押し殺して、気丈にも二人が切られた黒檜嶽の藤井の谷に向かう。

黒檜嶽の頂上に着くと、乳母と赤城姫は大室太郎に呼び掛けたが、答は返って来ない。
赤城姫は乳母がこんな不幸に遭ったのも、自分の不運が原因と思い、山の神と護法神と木魂の神々に、自分の命を早く奪うよう願い、岩を枕に、苔を寝具と悪条件の時を過ごした。

オイシイ朝ごはん(^^)→
難儀している赤城姫には申し訳ないが、頂きま〜す( ^,_^)ф<モグモグ

大滝の上の横枕、藤井では、谷から一人の美女が訪ねてくれ、懐中から名もわからぬ珍しい果物を出してくれた。
この果実が、天の甘露のように美味で、疲労がいくらか回復した。

が、七日七夜すると、大室の乳母は亡くなった。41歳だった。

赤城姫が乳母に取りすがって、「一緒に連れていって下さい」と悲しむ声が、谷から峰にこだました(;_;)。。
◆家族関係図◆
そこへ、赤城の沼の竜神「ロ奄←二文字で一文字・オン)佐羅摩(サラマ)」が美女の姿で出て来て、姫の手を取って慰め、人の世の短さ、はかなさ、もろさ、思い通りにならない不慮や災難を説いた。

(※「日光山縁起」の注釈には、「」が「」で書かれてた。「神道集」でも「日光山権現の事」には「」で書かれているそうだ)長生きが出来、快楽の尽きない竜宮城へと誘い、赤城姫を守りながら赤城の沼へ連れて行く。

こうして、赤城姫は赤城沼の竜神跡を継いで、その後長く、「赤城明神」として現れ、大室太郎も姫の守護を得て、夫婦で竜宮に来て、従神の王子の宮となった。

←そろそろ出発しよう

この段に「ロ奄 佐羅摩(オンサラマ)女」が赤城山の龍神として出て来て、赤城姫を後継者とし、赤城大明神にするという、重要な役割を果たす点が、赤城山ひいては、両毛地域における信仰(龍神信仰だね(^^ゞ)に特徴する所だろう。
後世に成立した「日光山縁起」の「小野猿丸大夫」の原型と言われる神名とも思える。
(2005年4月<戦場ヶ原>内以降/2012年6月<23号線を東進、川治ダムまで>内以降/<宇都宮に向かう・「栃木県立博物館」>内<宇都宮二荒山神社>A

玄関を出ると……
左には何やら祀ってある

鳥居があるから神様のような、しかし真ん中の像は仏像だし、左右を囲むのは狛獅子のようなシーサーのような(^_^;)。。
こうした「習合ぶり」が、ますます「神道集」の世界だ、と今は思っている(宿泊当時は、ひたすら「変わった宿」と思ってただけ:笑)

改めて「赤城温泉・総本家」朝の玄関(パノラマ3枚ほぼ180度)

↑到着の夜は真っ暗で写せなかったので、改めて(^^ゞ。

龍神についてもっと言うと、「神道集」には、箱根伊豆権現信仰万巻上人の龍神物語)についても触れられている事はさっき述べた。前に塩原における龍神伝説でも触れた通り、鎌倉時代、幕府が招いた仏僧の影響を感じる(^^)。
(2011年4月<「塩原温泉郷」を目指す>内以降

先ほど少し触れた通り、平治の乱で殺された信西の孫・聖覚が、1227年、北条政子の追善供養の導師として鎌倉に来ており、安居院の唱導者らも、その頃から鎌倉に下向したという。
前年に特集した「日光山縁起」でも、主人公の「有宇中将」は、平安末の騒動に関わった、俊寛の子「有王」の連想ではないか、という話があったよね(^^ゞ。
(2012年5月<宇都宮に向かう・「栃木県立博物館」>内


旅館を出て門を潜り
もう一度振り返る。風変わりな宿(^^)

昨夜は駐車場で車を降りると、この崖上っぽい、細い一本路地を建物壁の脇に沿って歩いた。
「フェンスの向こうは山なんだろうな」と思い、「明日の朝、スゴイ所に居そうだよね(^^)」とワクワク話しながら、 真っ暗な中を宿に到着した。

←ズーッと歩いて駐車場に向かう(パノラマ5枚180度以上)

三人の姫の父・高野辺の大将は、ようやく上野国司への着任に向かっていた。
都を出ると、昼は馬上に朗々と歌を詠じ、夜は夜通し宿に賑やかな演奏会を催して、国じゅう数千騎で下向の旅を重ね、上野国からも、大勢で大騒ぎしてお迎えに繰り出した。


やっと駐車場まで来た(^_^A)(パノラマ3枚ほぼ180度)

駿河国の興津で行きあい、高野辺の大将は国元の出来事を聞いて、びっくりした。
一言聞き返すや後は何も言わず、ふさぎこみ、夜が明けると、自分もここで死のうと思ったが、姫たちの死に場所を一目見ようと、道々馬上も危なげに進んだ。
迎えも送りも、人々みな涙がちで、裾は露に、袖は涙に濡れた。
◆家族関係図◆

ヒョコヒョコッとドアに
ワンちゃん(亭主に撫でられ)
「行っちゃうの?」(汗)

すんごく人懐こい、超可愛いワンちゃんだった(≧▽≦)!
車に乗ってドアを閉めてからも、「ガラス戸から顔を出してくれる」とわかってる感じに、ず〜っと見送ってくれた(^^ゞ。

昨夜の白い小動物と言い、カモシカと言い、このワンちゃんと言い、赤城明神の話に出て来る、何らかの化身なんじゃないかって感じがしたなぁ(^^)。



<赤城山頂に向かう>

では、いよいよ山頂の「大沼」に向けて出発(^O^)!
そこが、今まで話して来た「淵名姫」と「赤城姫」の祀られてる湖だ。

赤城温泉の入口(地図F)から
紅葉の木々の中を登山

深栖の御殿に着くや、高野辺の大将は広縁に泣き伏して姫達の名を呼ばわり、旅装束も脱がずに、まずは淵名姫の死んだ倍屋ヶ淵に行き、淵名姫に叫び掛けた。
すると、不思議や波の中から淵名の乳母と手を取り合った淵名姫があらわれた。



「日に一度、小刀(←二文字で一文字)利天から母上(生母)が下り、赤城山とこの倍屋ヶ淵に通って来られ、天の甘露を下さり、空を飛べる甘露上乗の説教をして下さったので、前世の罪は洗われ、赤城御前(赤城姫)とともに神の姿となり、現世の衆生の道案内となりました」

と淵名姫が、弥勒の出現の時には、父も導くことを約束すると、赤城山頂から紫色の雲が来た。
◆家族関係図◆

一夜にして紅葉が鮮やかに色付いた

きれいな音楽が聞こえて来て、淵名姫は、多くの仏たちとともに雲の中に入ろうとしたので、高野辺の大将は「連れていっておくれ」と倍屋ヶ淵に身を投げ、これ以後、倍屋ヶ淵を簣(あじか)淵と呼ぶようになった。


この「倍屋ヶ淵」とか「簣淵」というのは、どこの沼かわからないが(^^ゞ、その後の文面から、高野辺の大将は、これより向かう赤城山の「小沼」の神になったようだ。

途中に下界を臨む(パノラマ4枚180度以上)

三女の伊香保姫が身を寄せる、群馬郡の地頭・伊香保大夫は、二人の姫と大将の自殺の事を手紙に書き、利根川より西の七郡の中で、もっとも足早の「羊の大夫」を呼んで、都に報告に出した。

「羊の大夫」は、午刻(12:00)に上野国を出発すると、未刻(14:00)に都で指令を受け、申刻(16:00)には上野国に帰着するので、「羊の大夫」と呼ばれている。
この時は、申刻半(17:00)に上野国を出たから、京の三条室町に着いたのは日の暮れだった。


(拡大)
(さらに拡大)

この「羊の大夫」が、「上毛国風土記」に現れる俊足の超人で、「牛に乗って大内裏に毎日参観した」「緑野郡の七輿松に、房中の女身を投じた」と注釈に書かれているが、詳しい事は知らない(^^ゞ。

多胡碑という奈良時代の石碑文に、「羊」を人名のように書かれてる点などから、中世に形作られた伝説上の人物という事らしい。
「緑野」が、最澄が上野国においた「緑野寺」なら、天台系の唱導とも関係あるのかな?


高所に至ると白樺が出て来る
最初に見える荒山(たぶん)地図G

(羊の大夫からの)報せを受けた左少将は、この時は中納言になっていた。
びっくり仰天して、わずか七人の主従で夜中に出発し、東国へ向かった。


この「左少将→中納言」は、高野辺の大将の長男で、三人の姫の長兄だろう。前は「左大将」と書かれていたんだけどね(^_^;)。。◆家族関係図◆



<地蔵峠・小沼・黒檜岳の神仏譚>

次に見える地蔵岳(たぶん)地図H
白樺がドンドン増えて来る

天皇はこれを聞き、「言ってくれれば」と、都でも一番足早の男に、先廻りして、中納言の身辺警固を触れ廻させるよう命じた。
なので道中の人数は、美濃の青墓で千余騎、三河の八橋で五千余騎、駿河の神原(蒲原)で一万余騎、武蔵国府で五万余騎となった。


この辺り、やや手前に「三途の川」と表示され、「大胡・赤城線の下をひっそりと流れる川。粕川までおよそ1kmの間が三途の川と呼ばれています。県道下は小川ですが、粕川付近になると渓谷となっています」と書かれていた。

左に地蔵岳。白樺林のトンネルを潜る、凄く印象的な道→

この「地蔵岳」については、歴史的に非常に興味深い考察がある。

現在はこのように車道があって、山頂の大沼まで楽に行けるが、昔は、前夜も宿に行く前に通った、遥か麓の「三夜沢赤城神社」が、県内70社近くある「赤城神社」の大元であった、と見られている。

それより高所については、「二所」すなわち、これより向かう「大沼」と「小沼」を、「赤城大明神」として祀っていた事が、古文献および、今話している「赤城大明神の事」からわかる。
これが赤城山における自然崇拝の原型に近いスタイルとも見られている。

対して、鎌倉後期の弘長4年(1261)から、南北朝時代の貞治5年(1366)までの間に、この「地蔵岳」を加えて、「三所」とされている事が、同じく「神道集」に修められる「覚満大菩薩の事」によってわかるそうだ。

この追加によって、鎌倉中期ごろから盛んとなった地蔵信仰を取り入れた事が推測でき、縁起や説話に現れる信仰スタイルの推移が窺い知れる例と言えよう。

この「覚満大菩薩の事」も長い話だが、今言った通り、 赤城山にとっては後付で作られた感がぬぐえないので(^_^;)、ごく手短に話させて貰い、その後に「赤城大明神の事」の続きをやろう。


白樺がドンドン増えて、辺りはスッカリ明るい(^^)

亭主は高原のカラッとした感じと白樺が大好きだから、ここは喜んだよー!(笑)
私も周りじゅう真っ白で感動した。空も晴れて青かったから、周囲が眩しいほど明るいんだよねぇ(^^)。

〜「神道集」〜覚満大菩薩の事上野国赤城山三所明神内覚満大菩薩事
允恭天皇の頃(412〜453年)、上皇と天皇の間に戦争が起き、三条(藤左衛門)国満の息子二人が、比叡山の西坂本に千部の法華経を読んで暮らしていた。
兄を近江の賢者「覚円」、弟を美濃の法印「覚満」という。

父・国満は負け側として160人とともに処刑され、院は監禁され、兄弟も牢獄に入れられた。
殿上人らも「法師を斬るなど前代未聞」と協議したが、天皇の怒りは強く、残された母の願いも空しく、兄弟も処刑されようとした。


一目で、保元の乱の事だな〜とわかるよね(^_^;)。。あと、僧侶を斬るのが云々というのは、法然の門下を後鳥羽上皇が死刑に処した事を思い出すデス。。
こうした所が、唱導の語りが天台系の出身で、しかも浄土系でもある点と考え合わせると、興味深い。
(2012年11月<「光明寺」(伝・親鸞お手植えの菩提樹)>内<「砂沼」遊歩道と「砂沼大橋」>内以降)


やや下り坂にさしかかる。道の右は……↓(パノラマ4枚180度以上)

ド〜ン! これが「小沼」なんだねぇ(^^)(パノラマ4枚180度以上)

地図I←小沼

その時、比叡山から二群の紫雲が来て僧侶を庇い、結び文を地上に落とした。
その誡めの言葉に天皇も改心し、寄進に換えたので、兄弟は西坂本に法華堂を建立。千部経を読誦し「読誦院」と名付けた。

安泰の内に老母も天寿を全うしたので、兄弟は諸国修行の旅に出た。
伊予の三島郡で、兄の覚円は最後の時を迎え、仏の来迎を説いたので、多くの人が詰め掛けた。紫雲と花の雨の満ちる中で、覚円は大往生。

弟の覚満は、近江の兵主大明神に七日の参籠をし、弥勒菩薩に祈る。
明神が現れ、「上野国の勢多郡、赤城沼で法華経を読むと弥勒に会える」と神託。

言われる通り、黒檜嶽の西で行なうと、小鳥島から侍女を連れた美女が来て、素晴らしい味の果物を差し出して、覚満の読経に感動したから、説教もして欲しいと頼んだ。

覚満が承知し、整えられた儀式の場で説教すると、上野国の内外から多くの山の神が聴聞に訪れた。
その中に、更科の後妻もいた。夫の高野辺の大将が、この「小沼」の神となっているから、結縁に来たのだ。
◆家族関係図◆

これを大沼赤城御前が不愉快に思い、小沼と大沼の間に「屏風山(隔て山)」と名付ける山を置き、高野辺の大将も怒って、更科の後妻を追い返した。かくして……、

大沼=赤城御前(赤城姫・赤城明神)=千手観音
小沼=高野辺の大将(小沼の明神)=虚空蔵菩薩
山頂=美濃の法印・覚満(覚満大菩薩)=地蔵菩薩

と成り、覚満大菩薩は、衆生を苦しみから救い、人々の願いを叶える誓願を立てた。

以上が「覚満大菩薩の事」のほんのあらすじだが、小沼と大沼の間の「屏風山」が、先ほどの「地蔵岳」(地図H)かと(^^ゞ。

付近にはもう一つ山があって、それが駒ケ岳
大型駐車場と公衆便所がある一帯にやって来た。

地図J←駒ケ岳の位置。一方、今おる駐車場は、地図I←小沼のすぐ傍。
あともう一箇所、この時は見れなかったが、「覚満淵」という湖(地図K)もある。「覚満大菩薩」からついた名だね(^^ゞ。

何となく記憶から、「まず小沼を見て、後で覚満淵を見た」と思っていたが、写真で確認すると、さっき見たのも、その後に改めてここで見るのも、どちらも「小沼」だったようだ(^^ゞ。

駐車場に到着。前方は黒檜岳駒ケ岳(パノラマ4枚180度以上)

駒ケ岳の左脇に遠く見える山、たぶん黒檜岳(地図L)が濃い雲の下に見えるが、よく見ると……

真っ白(・・;)。。(超拡大)→
「わ〜雪が積もってるね」とこの時は言ってたが、この後、大沼の食堂で「霧氷ですよ」と教えて貰った!

この「黒檜岳」(黒檜山)こそ、淵名次郎と大室太郎が殺害され、赤城姫と乳母が後を追った「藤井の谷」に出て来る山。

んな寒そうな山の周辺にいたら、殺害されなくても死んじゃいそう〜((((*o*))))。。◆家族関係図◆

……そうそう、この駐車場についてる公衆トイレに、いよいよ「熊の出没情報」なる貼り紙を発見(^^;)!

この付近で、熊が目撃されました。キャンプ・登山等で入山される方はご注意ください。
@鈴やラジオなど音の出るものを身につける。
A必ず複数で行動し、単独行動はしない。
Bキャンプ場等で、残飯等は、各自で処分する。
C登山道などで、熊のフンや足跡を目撃したらすぐに引き返す。
前橋市富士見支所

駐車場に面した道路の向こう(南東)は「小沼」入口(パノラマ4枚180度以上)

左が駒ケ岳、右中央が「小沼」の奥「長七郎山」、右が「地蔵岳」
道路を渡って、「小沼」入口に行ってみる。↓

今度は北・駒ケ岳を中央に見る。右が「小沼(パノラマ5枚180度以上)

こう見ると、左に黒檜山の荘厳な霧氷、右に小沼豊かなエメラルドグリーンと、凄く対比的な光景が一望に入って来る(゚.゚)!

←小沼(拡大)。周遊コースが始まり、長七郎山の登山口にもなっている。

「覚満大菩薩の事」では、三人の姫の父・高野辺の大将が、この「小沼」で神となっているが、これは、この後の「赤城大明神の事」でも、神となった瞬間の描写がないだけで、ほぼ同様の扱いである。

注目されるのは、「更科の後妻」が、赤城姫にも高野辺の大将にも嫌われるシーン(^_^;)。

今回はこの「更科の後妻」が、その後どうなって「覚満大菩薩の事」に繋がるのかまではお届けしよう!

(中納言(長男)と天皇のつけた護衛部隊が来つつある事)を知って、更科の後妻と更科次郎の姉弟は信州へ逃げようとしたが、伊香保大夫が、碓井峠と毛無の峰に関所を置いて、包囲を固めた。

国司は深栖の御殿に入ると、兵士らに更科次郎父子三人を逮捕させ、庭に引き出して訊問の末、次郎の子二人は、例の黒檜嶽の藤井の谷で斬り殺し、古木の枝に曝し首とし、淵名次郎と大室太郎の修羅道の苦しみの身代わりとして送った。
◆家族関係図◆

↑「国司」というのは、長男の中納言の事だね。いつの間にか上野国司に(^_^;)。。(古典文学の主語不在はこれに限らないけどさぁ:笑)

北を塞ぐように立つ駒ケ岳
裾野むこうに見える遠い山々

そして更科次郎を存分に懲らしめるため、倍屋ヶ淵で船から下ろしたり引き上げたりを75回も繰り返して責めた。
さすがの荒武者も「首を切ってくれ」と泣きだす。
国司は、淵名姫と乳母の苦しみを教え諭し、首に重石を結んで淵の底に投げ込んだ。

更科の後妻も、同じく淵に投げ込もうと思ったが、父の奥方で、血の繋がる妹もいるので、信濃追放とした。


この先のコースは曲線の連続で、180度の展開もアリなので、地蔵峠の方向に向かっちゃう道もあった(笑)。

過ぎたハズの地蔵峠が正面(笑)
一方、先の黒檜岳の方向

更科の後妻が実家に身を寄せると、父(更科大夫)は憎みながらも面倒をみる。

すると、信濃の国司・高階(大納言)高季は、上野国司(長男だろう)と元服の兄(一緒に元服の儀式を行なったという事かと)なので、「あんな女の面倒を見る親もけしからん」と、更科の後妻の両親を殺してしまった。
◆家族関係図◆

←殺害された淵名次郎と大室太郎の修羅道の苦しみの身代わりとして、更科次郎の二人の子も、黒檜嶽の藤井の谷で斬り殺され、首を古木の枝に曝された。

更科の後妻は、甥の更科十郎(家秀)を頼ったが、十郎は会うなり「祖父母はこの叔母のために死んだ」と思ったので、網駄(あんだ)という駕籠に乗せて、母子二人を更科山の奥の宇津尾山に捨てた。

その晩、激しい夕立となり、母も子も雷のために死んだ。
宇津尾山は、姨母を捨てたので、「伯母捨山」というようになった。

これは……長野の姨捨山の事かな(^^ゞ? あそこの伝説としては聞いた事がないけど……。

以上、「悪は滅びた」という展開まで来た。後は大団円だけ。続きは次回(^O^)。
その後は、一人残された三女・伊香保姫の話もやりたい(^^)。

以上、関連事項は(だいたいね(^^ゞ)、
2000年10月本文より
2000年11月本文より
2004年11月<芦ノ湖>内
2005年4月<戦場ヶ原>内以降
2005年9月<国民宿舎・松代荘>内
2006年8月「マハーバーラタ」05〜08(@「作品の広場」)
2006年10月<4日目、駒ケ岳「箱根神社元宮」>内
   〃   「マハーバーラタ」13〜16(@「作品の広場」)
2007年1月「マハーバーラタ」21〜24(@「作品の広場」)
2007年5月<筑波山神社>内
   〃   「マハーバーラタ」29〜32(@「作品の広場」)
2007年7月「マハーバーラタ」37〜40(@「作品の広場」)
2008年2月「マハーバーラタ」後書き(@「作品の広場」)
2009年1月<対面石と対面堂>内
2010年4月<厳美渓温泉で最終泊、3日目夜〜4日目朝♪>内以降
2011年4月<「塩原温泉郷」を目指す>内以降
2012年5月<南会津方面に向かう>内以降
2012年6月<23号線を東進、川治ダムまで>内以降/<宇都宮に向かう・「栃木県立博物館」>内<宇都宮二荒山神社>AB
2012年11月<「光明寺」(伝・親鸞お手植えの菩提樹)>内<「砂沼」遊歩道と「砂沼大橋」>内以降
2013年1月<東北道〜北関東道>内
2013年2月<「長楽寺」「三仏堂」と蓮池竜宮伝説>内
2013年3月<大胡城跡>




次回は赤城山の山頂、大沼の湖畔にある「大洞赤城神社」にいよいよ到着! お昼を食べて、午後は、「三夜沢赤城神社」。
その後は、今回の大胡に近い、「上泉郷蔵(上泉城跡)」「西林寺(上泉秀(信)綱の墓)」。
前橋に出て「総社二子山古墳」「総社神社」「宮鍋神社(蒼海城跡)」など巡って、3日目の宿は老神温泉(^^)。

<つづく>

2013年04月28日
 
     






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