<2008年・城主のたわごと1月>



2007年9月「宮城〜山形ツアー」第三弾(^^)。

2日目・白石城下〜3日目・松島までをお届け♪




     
  去年11月からスタートの「宮城〜山形ツアー」、5回シリーズ(の予定)の3回目。
時は2007年9月。今回は4日間の内、2日目お昼〜3日目午前まで(^^)。

今回は、まず前半が白石の続き、「武家屋敷」「当信寺」「片倉家歴代藩主廟」「喜多の墓」。
後半は、仙台を通って松島まで北上して、一泊。3日目午前は、松島の「観瀾亭」まで(^^)。


<白石「武家屋敷」(旧・小関家)>

お昼ご飯(うーめん(^^))を食べ終わると、城下の「武家屋敷」に行ってみた。
この辺り→地図A←ちなみに「益岡町」とある辺りが白石城。

旧・小関家は白石城の北、三の丸外堀にあたる沢端川に面している。
堀沿いの道路に「武家屋敷通」と道しるべが建っていた。かつては付近に中級武士の屋敷があり、小関家の案内版にはこの一帯を「後小路」と書いてあった。

沢端川の堀に面した「武家屋敷通り」(パノラマ3枚・ほぼ180度)

↑この左が旧・小関家。通りの右側には入場券売り場と駐車場がある。

城下町は白石6町と言われ、町屋敷の半数近くが足軽住居。「要害地だから間数は記さない」と「安永風土記」に明記される(1772〜1780)。
つまりは軍事機密であったからで、元々、城下の傑山寺・常林寺・専念寺・武縁寺・善福寺など、そして、文殊院・千手院・不動院・安楽院などの修験寺は、特に北への備えとして建てられた時代の名残を示すそうで、兵営・砦の役割を担った。

いかに城塞都市であったかが窺われる一方で、こうした機密事項が、後に謎めいた事柄を多くしたのかもしれない。

では、武家屋敷として残る「旧・小関家」に入ってみよう(^^)。

堀を渡り「旧・小関家」の門
門を潜ると農家風の武家屋敷

ご覧の通り、武家屋敷と言うよりは、農家のようなたたずまいである。
この造りは、農民住居を基本に武士の住宅としての体裁を整えていく過渡的な形態を示しているという。

白石藩初代・片倉小十郎(景綱)は、家来には土地で知行を支給。場所はくじ引きで決めた。百姓は元通りの権利を保証し、武士が百姓に不法を働けば知行を取り上げる法を示した。

理想的な名君主の取る法と言える一方、白石城とその城下に関し特筆すべきは、街の半数近くが足軽住居という、過剰とも言える軍事費についてである。

思えば、上杉鷹山が出るまでの上杉氏の米沢藩も、四分の一に減らされた領地で、武士を解雇せずに借金に借金を重ねて、ドン詰まりになった(^_^;)。
こうした事は全国的に多少なりあったとは言え、比べても、一介の家来の身に過ぎぬ片倉家の苦痛は大きかっただろう。

←大仰な玄関も無く、フラッと入れる土間。入って右を向くと、囲炉裏端のやや大きめの居間がすぐ。↓
↑そして、その奥にもう一室ある、というだけの簡素な造り。

私が最初に白石に訪れた20年以上前には、まだ城の再建はなってなかったが、それでも「城? 城があった?……幕末まで?」とは正直疑った(^_^;)。
白石城がオープンしたと聞き、その写真をネットなどで見るたびに、「城が無かった(あっても館ていどの)所に、あたかも在ったように建ててしまう事もあるからな〜」なんちゅう気持ちが、実は少々あった(笑)。

その思いは、今回「事実あった」という事に落ち着いた(^_^A)。

しかし、そもそも白石を預かる片倉家は一万3千石で、これが幕末までに5千石追加されて1万8千石となったものの、前回レポした白石城の規模は、10〜20倍に匹敵する大名の城と同じである(^_^;)。
軍備の過剰負担は他とは比率が桁違いで、黒船来航の時も、7万石クラスの軍事演習動員数だった。

「片倉だけがなぜ特別なのか」という疑問は、この事に集約されていると言ってもいい。
ただそれが、軍事機密ゆえに文書などに書かれなかった事なのであれば、それで納得するしかない。

それでも、そういう事の裏側(現実面)が、今回はわりとよく判った事が収穫だった。

つまり、その財政たるや、やはり領民にしてみれば塗炭の苦しみだった。
「刈田で百姓になるか、鉈で頭を剃るか、裸で茨を背負うか」と言われるほど生活は厳しく、うーめん、白石和紙で窮状を補った。
城下町に相当する区域における武士の住居が、ほぼ町の半分を占めていたと言うのだから当然だろう(^_^;)。

前回も参考にさせて貰った「白石城物語」には、白石城が解体された時、手弁当を持って見に来た人もいたという。圧政からの解放を喜ぶ気持ちが、当時としては当然の部分もあったのだろう。

←囲炉裏には炭火が灯っていた(゚.゚)。
↑広間の奥の部屋

広間の囲炉裏端の炭火が何ともいい薫りでリラックスでき、いつまでも居たい風情だった(#^.^#)。

この小関家の屋敷は1730年に建築されたそうだが、21年前(1987年)頃ここに来た時は、まだ公開されてなく(^^ゞ、この屋敷の周囲を車で巡った覚えのみがある。
小関家から白石市に寄贈されたのが、1992年。その後、全面的に修復されて、今では誰でも中に入って閲覧できるようになっている。

通り側に面した庭の木々
庭に直接入る入口

小関家は片倉家の奥方用人で、初代太右衛門元成が、松前家より片倉家の4代村長君に嫁した少林院市子の方の添人として1680年に白石に来て初めて片倉家中となった。料理人、定御供を経て1703年、一貫550文(15.5石)、1716年、番士に編入、その後に奥用人となった。以後幕末期の小関家7代の佐幸の時代まで一貫500文前後の知行で、その間に大きな変動はない。

庭から見る小関家の佇まい
巨木
庭から見えた行灯

解体時、「うしもち柱」への繋ぎ梁のほぞに1730年2月12日の墨書があり、今から263年前の建築であることが明らかとなった。初代からここに住んでいたとすれば、主屋の創建時期は初代元成の晩年か次の二代元友の時代に相当しよう。

今度は堀とは逆側の方の庭(パノラマ5枚・180度以上)

↑左にちょっと見えるのが、沢端川から引いている水路。後でまたお見せする。

木造平家、石場建、寄棟造、茅葺、広間型三間取。
住宅は軸部根廻り、屋根などの腐朽が進むとともに、数度の修理によって旧姿が損なわれていたので、1991年、白石市への主屋、露地塀、表門の寄贈を機に全面解体調査を行い、腐朽部を補修するとともに、出来る限り、創建期に近い形に復旧することにした。

今度は↑の庭側から屋敷を写す(パノラマ2枚)

解体などが成された主屋は、その平面形状、架構ともに素朴かつ古式で、仙台藩における古民家のそれに極めて近いものがある。農民住宅を素地として発展、次第に武士住宅としての体裁を整えてくる、中・下級の武士住宅の原初的形態を示す、という点で貴重。

←沢端川の堀から引いた水路。石段から降りて洗濯など行った、まさに生活臭の残る貴重な光景。これは建物内にあったスクラップ↓

スクラップには、片倉氏の大馬験(おおうまじるし)や家臣たちの旗指物が描かれていた。
「白石城物語」には、維新より後に描かれた白石城の絵図に、やはり馬印を並べてる城が描かれた物があった。
「正確な図というより、あくまで城の再興を図り、思い出して書いた図では」という話もあった。「城を退去する間際に、吉日を選んで書いたのでは」という話もあった。

この建物の張り紙には、家臣たちが片倉氏からいただいた給料(俸禄)も書かれていて、「一貫文は米に直せば10石(1.5トン)今のお金にすれば50万円(年額)ぐらい」などと丁寧な説明書きが施されていた(^^)。

領民も大変だったろうが、と言って、武士があぐらをかいていたわけではない。
みんなが低所得者で、米つき、粉引き、うーめんつくり、紙子、紙布織の内職をしなければ生活できなかった。
「家屋が小さいわけもこの辺にありそうです」と建物内部の張り紙には書いてあった。



<白石「当信寺」>

↑正式には「功徳山当信寺(浄土宗)」。地図B
1597年、良益上人開山と伝えられる。本尊は室町時代頃の作で、阿弥陀如来立像(木造)で黒本尊とも呼ばれ大坂夏の陣に従軍した片倉家中・遊佐勘四郎によって、大坂天王寺よりもたらされたと伝えられている。(風土記書出)

白石城で貰った市内の絵マップを頼りに、ここにも久し振りに来てみる(^^)。

この門が白石城の元の二の丸大手門で、現在の白石高校の裏門付近に建っていた「東口門」という物。

明治7年(1874)、白石城解体の際、白石駅前通りの「専念寺」に売却されたが、明治20年(1887)東北本線の開通に伴い、 駅前通りを整備した時、白石市本町にある、ここ「当信寺」に山門として移築された。

専念寺からは三円で転売。解体して部材を運び、さらに組み立てるのに25円かかった。三間一戸、二階建瓦葺。

「延命寺」やこの「当信寺」に残る門は、最古の形に手が加わってるという。
「片倉家屏風絵」による東口門は、「二階に横幅のある格子窓がつき、その両側に狭間」が穿たれ、「階下両側にも狭間」が設けられ、白石城東側の防衛拠点だった様子がうかがえる。

現在の山門は、延命寺の門と同じ二階櫓門で、二階中央間の表と裏に大きな「眼象窓(げんじょうまど)」が各一つ、二階側面には「丸窓」がついている。幕末、この門の二階に太鼓を置いて、時を知らせるため、音の響きをよくするため開けた穴と伝えられ、往時の面影をとどめている。

「当信寺」からは少し離れるが、この「当信寺」の山門と同じく、白石城の面影を伝えると言われる物が市や県の内外にある。
門・太鼓・鐘については前回述べたが、他に庭園と鯱瓦の伝えがある。

白石城の本丸東南隅に園池のある庭園があり、池際に「御茶室」があった。
市内の古山家には城内の茶室庭園が残り、この家には「奥方御門」や火薬を保管した土蔵も残る。
小原温泉「いづみや旅館」に鯱瓦があり、その一対が同じく「かつらや旅館」にあったが、こちらは昭和37年火災で焼失。

しかし「かつらや旅館」の経営者の祖母の実家には、やはり白石城から移した庭が残っているという。これも城内に作られた茶室の庭園で、藩主来訪の時も接待した。買い手がつかないのを見かねて買い取ったという。この家にも「奥方御門」薬医門が残っていて、これが明治5年と門柱に墨書されてるという。

じゃ境内へ入ろう(^^)。 街なかのお寺で、そんなにドド〜ン!と広いわけでもなく、この通り山門を超えると本堂があり、その前にはカワイイ仏像サンが♪

←そして驚いた事に、本堂脇の庫裏宅からフラフラッと猫ちゃんがお出迎えっ(笑)。さんざん地べたに寝そべってくれるのを眺めていたら、後ろから「年取っちゃってね〜その猫も」と気さくにお声を掛けて下さったのが、今お戻りの住職サン!

本当だったら「このお寺で何か質問を!」とか力んで来た私、そこでイキナリ猫話に花が咲き〜〜!(笑)

そして裏手に廻り「白石老人の墓」にお参り(^^)。→

「白石老人の墓」
江戸時代の始め頃、白石老人と呼ばれた名前も生国も年齢も一切不明で仙人のような不思議な老人が白石の阿子島彦惣家に宿泊していた。
老人は文武百芸、何ごとにも精進し人々に尊敬されていた。また人々を呼ぶのに皆「せがれ」と自分の子供のように呼び、107歳で亡くなった。

角田の長泉寺の長老天鑑和尚をさえ「せがれ」と呼んでいたという。こうしたことから、この老人は滅亡した甲州武田家の名のある武将ではなかったかと言われていた(白石翁伝)。
墓石には「無名実徳大徳」「天禄六癸酉2月18日」「道心老翁墓年数不知」「卒千阿古箇嶋氏彦惣所」と刻まれている。

……。
で、そうそう、「このお寺に来たら何か質問しなきゃっ」と思ってたのは何か、と言うと、これです(^^ゞ。2代・片倉重長の妻、真田幸村の娘、阿梅の墓。↓

左「真田阿梅」右「真田大八」の両墓
阿梅の墓(拡大)

「真田阿梅・真田大八の墓」
白石老人の墓と並んである。大坂方の名将真田幸村の遺児たちの墓。

1615年、大坂夏の陣のとき大坂方の名将・真田幸村は落城と自分の最後を覚悟し、智勇兼備を見込んだ敵将・片倉重長に遺児などを託した。真田家と伊達家は伏見で隣同志だったという。

それは幸村の娘、阿梅と、幸村家臣・穴山小助の娘二人で、片倉重長はさらに戦後、阿梅の妹弟にあたる、お(阿)菖蒲・おかね・二男大八など4人を白石に引き取り、白石城二の丸で密かに養育した。

後に、阿梅は重長の後妻に(前妻は針生氏)、阿菖蒲は田村定広の妻になり、おかねは早世、大八は片倉四郎兵衛守信と名乗り伊達家に召抱えられた。

前回(12月)も、白石城の冒頭で述べた通り、この阿梅を主役に書いたのが「作品の広場」の「嵐待つ」である(^^ゞ。
なので、ここに来たら、何かゆかりのお話の一つでも……と少し緊張して来たハズだったが、猫チャンと住職サンの思わぬ気さくなご対応に、すっかり打ち解け切ってしまい、逆に阿梅の話を思わず言い出しかねてしまった(笑)。

ちなみに阿梅の妹、阿菖蒲の夫となった田村定弘は、三春城主、田村定顕の子。
父の定顕は、1590年の小田原北条征伐に参陣せず、田村氏は5万石を没収されていた。

田村氏出身の伊達政宗正室の愛姫は、実家の再興を願い、片倉重長に定顕・定広父子を預けていた。
よって片倉重長は、姉・喜多の采地80石を定広に相続させた。喜多の墓にはこの後に行く。

阿梅と大八守信の墓はこの当信寺に、阿菖蒲の墓は蔵本勝坂の田村家墓地にある。
さらに片倉重長は、真田幸村夫妻の菩提を弔うため大平森合に月心院を建立した。

阿梅の墓石がどことなくボコボコに見えるのは、お墓の古さにも関係あろうが、この墓石に伝わる独特の信仰にも原因があるのかも。
というのも、元は如意輪観音像を象っていたのを、その形が歯痛のため頬を抑えているように見える所から、虫歯に苦しむ人達が墓石を削って効能を祈った、という話があるからだ(^_^;)。



<白石「片倉家・歴代藩主廟所」>

↑は、この辺→地図C
ちなみに白石城や白石駅のある市街は、この地図の右の方で、市街からだとかなり距離がある(^_^;)。
けれど、この一帯には「歴代藩主の墓所」のみならず、「喜多の墓」、「田村清顕の墓所」もあって、来れさえすれば、それなりお得なスポットなので、徒歩の方は駅前でチャチャッとタクシーを拾うといいと思う。

←駐車場にあった絵地図。

地図より逸れて左に白石市街。

藩主墓所は左(現在地)。

右側の左に「喜多の墓」、右に「田村清顕の墓」。

白石市指定史跡「片倉小十郎歴代廟所」。
仙台藩伊達家の重臣、白石城主、片倉小十郎景綱を中央に宗景まで10代の墓である。

初代、片倉(小十郎)景綱は、1557年に、山形県の置賜、長井、神主の子として生まれた。
父は米沢八幡の神主、政宗祖父晴宗に仕えた片倉景重、母は本沢真直の女。
「小十郎」は母方叔父の名で、以後、代々この名を伝えた。

景綱は輝宗(政宗の父)の小姓だったが、舞曲に優れ、その舞姿が輝宗の目に止まって家臣となる。同じく家臣、遠藤基信が少年の頃より「大器」と評した。

駐車場からの階段道
一般墓苑の脇道を行く

1576年、景綱19歳、伊達政宗9歳の時から仕え、「水入れの竹を取って来て貰いたい」と幼少の政宗が景綱にねだった手紙が残っている。

また、疱瘡で盛り上がった肉塊を「醜いから切って欲しい」と政宗が言うと、誰もが尻込みする中、小十郎が一人で進み出て小刀で突き潰した、という伝承が残っている。

この伝承を後世付会とする説もあるが、であったとしても、それなりに深遠な意味があると思う。

白石城は軍事の機密上か、城下町とともに、あまり内部を知られて来なかった。
それが前回もお届けした通り、その再建に当たって絵図や遺構を調査・検討した結果、戦国時代の後期に、蒲生・上杉氏など、伊達氏を牽制すべく伊達氏へ固く防備を施して築城されたまま、江戸期も使用されていた事が判明した。

長い江戸時代、主たる伊達氏に対し軍事的に防備した……つまりは伊達氏に弓引く姿のまま、白石城を預かった片倉氏である。
それも城を持つには不遜なほどの領土と石高しか持たず、それゆえ武士も領民も疲弊しきった事は「武家屋敷」に記した通りである。

つまり伊達氏にとって、片倉氏は「たとえ刃を向けても、主君に仇なすのではなく、むしろ主が安心して刃を受けられる唯一の家臣」という事象があり、その事が「誰も彼もが恐れる中、一人片倉小十郎のみ政宗の肉を切り取り、政宗も、小十郎ならば、と切り取らせた」という逸話に現されるではなかろうか。

途中、左手に見る白石市街
前方にはコンモリとした杜が出現

以後、片倉景綱は摺上原合戦に参戦し、二本松城、大森城(以上福島県)、亘理城(宮城県)と移動。

1585年、政宗は、芦名の支城、檜原城を攻略。単騎で交渉し服属させるのが、小十郎景綱の初活躍である。
以後、大内定綱の小手森城、小浜城攻略。

芦名・畠山・佐竹連合軍との戦い「人取橋」(1585年)。畠山氏の二本松攻略(1586年)。同年に小十郎、大森城主。最上、庄内との和睦工作(1587年)。本宮表の芦名氏との郡山合戦(1588年)と続く。

相馬氏の駒嶺城、新地城を攻略し、芦名氏との摺上原で戦う事となり、1589年、摺上原合戦で、猪苗代盛国(道案内)に続いて、小十郎は二番隊となる。旗印を奪われ、法螺貝を奪う。
伊達成実・白石宗実も繰り出し、政宗も突入して勝利し、米沢から本拠を会津・黒川に移す。
これが政宗の黒川城(会津若松城)の入城時である。

この時、政宗は24歳で、宮城全域・福島全域・岩手・山形南部・新潟(蒲原)・栃木(塩谷)などの一部を領有したが、同年、秀吉小田原征伐決定。津軽為信、南部信直はすぐ参陣を決定したが、伊達は伊達成実が主戦論者の急先鋒となり混迷した。

これに対し、後に「片倉家の三大功績」と言われる一つ目が、片倉景綱が小田原参陣を促したことである。
連日揉める中、小十郎が政宗に夜中の訪問を受けて参陣を促し、この事によって事なきを得た伊達家から、宝刀「真守」を拝領した。

←墓所到着。

森林を登るのかと思いきや、そこにスグ墓所は並んでいた(^^ゞ。

片倉景綱の墓→

1590年、小田原征伐。これに参陣しなかった葛西・大崎を討伐した秀吉は、みずから黒川城に入り、これより二度の「奥州仕置」が発せられる。

結局は遅参した伊達氏だが、小田原参陣遅参の理由は、近隣との対立で遅れたことをあげた所、芦名氏など四隣を滅ぼした理由を問われ、輝宗の仇討ちで二本松を攻めた行き掛かりと述べ、芦名を滅ぼした罪のみで済んだ。
尋問が終わると、政宗は千利休に茶の道を聞きたいと言って、これを秀吉が誉めた。

結局伊達氏は、会津・岩瀬・安積郡(以上福島)を没収され、米沢へ。2度目の仕置きで岩出山へ所替えで済んだ。

秀吉は片倉景綱に田村領5万石に取り立てる朱印状を出したが、小十郎が断った。(「代々記」では紹介するのみで、この話じたいを否定している)

秀吉は浅野長政らを通し、小十郎に頻繁に書簡を送っていたという。景綱には上方とのルートがあった、という見方もある。
景綱は、茶・能・詩に優れ、教養と上品な趣味を持った。その茶会の様子が「代々記」にもあり、能を舞い、太鼓を打ち、小十郎が最後に獅子踊りを見せたと伝えられる。横笛もよくした。

朝鮮出兵の頃、小十郎は秀吉から「小鷹丸」早船を貰い、亘理の浜に置いた。白石に行ってからは、飛び地の桃生郡大須に置いた。

初代景綱を中心に左右に並ぶ歴代の墓

墓の並びは以下の通り。(中央が初代・景綱)↓


 八代 村典(むらのり)
 7代 伊達吉村公 息女
 7代 村廉(むらかど)
 6代 村定(むらさだ)
┌3代 景長(かげなが)
├初代 景綱(かげつな)
└2代 重長(しげなが)
 4代 村長(むらなが)
 5代 村休(むらやす)
 9代 景貞(かげさだ)
 10代 宗景(むねかげ)


1600年、関ヶ原合戦。伊達氏が東軍陣営にて勝利しながら、難癖つけられた話は前回の通り(笑)。

1601年、家康から政宗は江戸の桜田・愛宕下など4ヵ所に屋敷を拝領。小十郎も増上寺門内に屋敷を賜る。陪臣で江戸屋敷を貰った例は極めて稀である。
「政宗に劣らぬものはなけれども、小十郎を持たぬが劣るなり」と家康が言ったと伝説される。

1602年、白石城には片倉景綱(1557〜)が配置される。1万3千石。以後明治維新まで260余年間片倉氏の領地・居城となった。

この時、景綱は病床で白石城にはすぐ入れず、しばらく神宮寺村に滞在したという。
世話をした家に拝領の碁盤が残る。また同家には、年縄(門松のかわりに稲わらを縒り、短冊と昆布を下げる)に半紙だけつけて、昆布はつけない習慣が残っている。病気の景綱に遠慮した名残だそうだ。
その後も方角が悪いから、刈田郡宮村に滞在の後、白石城に入った。

墓所から振り返る
墓所前の殉死者の墓

↑右の写真は、景綱に仕え、殉死した家臣6名の墓碑と、1871年、片倉家の家臣たちが、北海道へ開拓移住(登別市・札幌市白石区・手稲区)した際に建てた片倉小十郎惣家中先祖代々の供養碑(書は二宮尊徳高弟・片倉家家臣・倉田耕之進聖純)。
碑銘には「後年白石に墓参りの為にきた者は上西・米竹・菊池その他の家を訪ねれば宿泊させる」とある。

二つ目の「片倉家の三大功績」が、片倉2代重長で、1614〜15年の大坂冬・夏の陣で、後藤又兵衛、蒲田隼人など武将を討ち取り「鬼小十郎」の異名をとったことが上げられる。
この時の縁で後妻とした真田幸村の娘「阿梅」については、上記「当信寺」の通り。

三つ目の「片倉家の三大功績」が、3代景長が伊達騒動の時、藩制を仕切ったことである。

3代・小十郎景長は、景綱の娘(母は前妻の針生氏)が松前氏に嫁いで生んだ子である。
1680年、景長は病身の身を押し、駕篭にゆられて巡視した結果、愛宕山から白石城を真東に見られるこの地を墓所に選び(↓写真)、仙台の石工を呼び寄せ阿弥陀如来座像を彫らせて墓標とし、初代景綱の命日である10月14日、初代景綱と二代重長の墓を傑山寺からこの地に移した。

景綱は、翌年に病死したが、前二代にならって石像を作らせ、墓標とし以後9代まで、ここが片倉家代々の墓所となった。
なお、菩提寺・傑山寺には杉木を標とした、初代景綱の墓がある。

7代・片倉村廉は、6代伊達宗村から加増されたが、これを断り、かわりに折掛堂の建設を願った。
大名でも許されない事だったが、宗村が将軍吉宗に願い出たら許可が出て、1746年に完成した。
また宗村は牧場建設も願い出て、片倉領内に「7日原」を作ったという。
こうした所にも片倉氏の独特性が継続され、またそれを幕府および将軍家が公認していた空気が匂う。

なお7代・村廉の夫人は、仙台藩主伊達吉村公の息女お郷様(昌子夫人)だったので、特別に城主同様ここに葬られ、あわせて10体の阿弥陀仏像が、石畳を敷いた床面の上に並んで葬られてある。

ほかに明治初年に没した10代宗景の碑があり、これらが苔むした花崗岩の玉垣に囲まれて整備されているのが片倉家廟所である。藩主の陪臣の墓所としては、他に例を見ないめずらしいものである。

昭和49年、「瑞鳳殿」に眠る政宗の墓を発掘調査し、遺体の納められた石室が開けられる時、15代、片倉信光氏は家族が止めるのも聞かず、「俺が行かなくて誰が行くか」と病床から起き上がり、立会いに駆け付けたという。

秀吉や家康に殆ど独立した大名として認められながら、伊達家に大事ある時は真っ先に駆けつけるという代々の生き様のまま、あくまで伊達家と運命をともにし、維新以後、ともに北海道での苦難に耐え抜いた片倉家。

一方、小十郎が言えば、切腹覚悟の小田原にも馳せ参じた政宗。
長い眠りを、病にえぐられた片目とともに晒される瞬間の政宗の遺体の傍らには、やはり片倉氏が見守っていたのだと思う。そして「小十郎が居るならば」と、その霊も安らかに人目に晒されるを受け入れたのではなかろうか。

16代、片倉重信氏より、仙台青葉城の「青葉神社」宮司となって、その忠誠と見守る心は今日にも続いているのだろう。白石城で案内してくれた人に「昔も今も仲良しなんですね」と言ったら、「はいっ! そうなんです!」と満面の笑みで両家の円満ぶりを語ってくれた。



<喜多の墓>

伊達政宗の教育係として有名な喜多の墓は、片倉家御廟の北方100mの所にある。
また上に記した真田幸村の娘(阿梅の妹)阿菖蒲の嫁いだ田村家の墓と真田幸村の供養碑が、この喜多方の墓より、さらに西南約70mの所にあるが、こっちは時間の都合で、今回は行けなかった(^^ゞ。

「片倉代々記」によると、喜多は片倉初代・景綱の異父姉である。
母・本沢真直の女(本澤直子の一女とも)は、鬼庭(周防)良直に嫁いで喜多を生み、離別して片倉(式部)景重と再婚、小十郎を生んだ。

ちなみに鬼庭良直は、大河ドラマ「独眼竜政宗」で、いかりや長介が演じた(^^ゞ。
この鬼庭良直は、輝宗・政宗に仕え、芦名・畠山・佐竹連合軍との戦い「人取橋」73歳で戦死している(1585年)。

国道113号線沿いから階段を
登って左に曲がり
さらに右に急な階段

喜多は景綱より18歳年長だった。
伊達輝宗(政宗の父)に政宗の乳母に任じられているが、未婚の女性であったため、乳母というより保育・教育の係であったと考えられている。

政宗の名君としての素地、人格形成に強い影響を与えるとともに、後年政宗の最も信頼を得た武将としての弟小十郎の母代わりとして、その育成に大きく貢献したと伝えられている。

喜多は景綱が諸国遍歴を考えた時、二君にまみえる不義を言い、思いとどまらせた。
また「伊達に知将片倉小十郎あり」と嘆せしめた片倉家の馬印で、白地黒鐘の「黒釣鐘」は「片倉の武名を天下に轟かせよ」と喜多が考案し、弟への励ましの作であったと伝えられ、現在この黒鐘は白石市の市章となっている。
さらに、白石城の大手一ノ門「菱門」も喜多が考案したという。これは吹き抜け門で扉がない。

階段を上がり、観音堂に到着
扉の上の観音彫刻

秀吉にもしばしば拝謁。「少納言」の位を賜り「少納言喜多」と称せられるが、秀吉が政宗の愛妾に横恋慕した時、留守の政宗に無断で差し出し、激怒した政宗に「晴天一万日の蟄居」を命じられる。

これは終身刑にも近い命令だが、既に彼女は60歳前後で、隠居させて休ませようとしたとも考えられ、国許に蟄居後の日常の動向は明らかではないが、晩年は蔵本村愛宕山の山中に観音堂、ここ「滝の観音」に庵を結んだ。

観音堂の脇からさらに山に登る階段を登ると、頂上に「少納言喜多」の墓↓

1610年7月、72歳で亡くなっている。
弟、小十郎は円同寺を菩提寺にし、これが後に片倉家菩提寺となる傑山寺の前身となった。
政宗も米沢・妙心寺を仙台に再興、喜多の位牌寺とした。

喜多のすぐれた人柄や事跡については、伝承として数多く語られているが、その生涯を伝える資料は、実像を明らかにする物としては少なく、しかも少しずつ異なっている。
少納言の称号も朝廷から任じられた記録はなく残された資料からみると理由は明らかではないが、早くから少納言と呼ばれていた。名前も「喜多子」とする資料もあるが、「喜多」が正称であったと考えられる。

いずれにしても仙台藩祖、名君政宗を保育し、白石城主、片倉氏160年の繁栄の基を築いた賢婦人であったが、その生涯については謎の多い女傑であったといえよう。



<白石〜仙台〜松島>

↑と移動。地図D←南・白石〜北・松島

2泊目は松島にしたんだが、これは途中に仙台に寄る用があったから。
塩竈や仙台にも温泉表示の宿はあるにはあったが、やはり海寄りなので、凄く豊富という訳にも行かず、結局温泉は諦めて松島へ……。

山寺に行くルート上にいい温泉地が前はあったんだが、今は通行止めになっちゃってるらしく、予約してからその宿に人に教わって、慌てて路線変更となった。
キャンセル客なのに、スゴイ親切に教えて下さって、とてもありがたかったです〜(^∧^)。二口温泉の旅館だった。

で、この日はその仙台所用のため、少し早めに移動となった。
早めに出て良かった。。仙台で大渋滞に巻き込まれ(^_^;)、上手く行けば夕方には松島について、早めに夕飯とか思ってたが、わりととんでもなかったんだわ〜。。

高速から見える豊作田
前方は東北道を仙台に向かう

あのポコッと突き出た山は……
地図で見るとm(。。)m、愛宕山かな?

「愛宕山」は仙台南インターに近付いて来た所に(地図では)見える山。

ちなみに仙台付近は、「仙台」と名のついたインターがいっぱいある(^_^;)。
まず「東北道」が南から北へ「仙台南」「仙台宮城」、その東を平行して走る「三陸道」も南から北へ「仙台若林(ジャンクション)」「仙台東」「仙台港北」。

で、渋滞もだったんだけど、仙台は道路が複雑すぎて(^_^;)、これはね〜ある意味、東京並みかそれ以上かもっ。。
いつの間にか曲がらされたりして、わりとウロウロしながら何とか所用地まで行き、終わってから松島に向かうと、もう夜だったり(汗)。。

わ〜ビルだ車だ、東京だぁぁっ(爆)。
で、夜になっちゃったり(笑)
↑子供の頃から仙台の目印(^^)。お城っぽい交番♪



<松島泊〜翌朝♪>

↑松〜島ぁ〜あ〜の〜は〜よ〜瑞〜巌寺の♪
って民謡で知られる「松島」だが、久々に泊まったら、何だかスゴイお洒落になってて驚いた(笑)。

地図E←松島海岸インター(三陸道)から「松島海岸」までの途中で2泊目。到着は夜8時ギリギリ(までに入らないと夕飯がヤバイ)ぐらいだったが、一応翌日に写した写真から(^^ゞ。

こんなコテージ調のホテルがある
ウチらが泊まった所はココ

建物全景(パノラマ3枚)

元国鉄の経営するホテルだった(゚.゚)。安かったしお部屋もサービスも凄く良かった。
ただ、夕飯だけ別場所で、ここより少し海岸側に降りた割烹料理屋まで車で搬送してくれた♪

刺身・小作り
煮物・焼き魚

海産物の揚げ物、炊き込みご飯、海産物の汁物と、精進フルコースにビールがサービスだったかな。美味しかった(^^)。

さすが海が近いので、海産物はやはり美味しく、他にもサザエが出たりで堪能〜♪ 送迎だと酒が飲めていいねっ(爆)。

お店の人の運転でパパパーと戻って、部屋付きの風呂に入って寝るだけなんだが、やはり亭主、ここで「温泉は?(;_;)」とか言い出すっ(笑)。

てわけで、取りあえず部屋に戻る。夜は暗いから翌朝撮影→

松島に着いた頃には、翌日以降の予定が判ってきたので、もう一泊追加。急いで宿を探して予約した(^_^A)。

寝て起きて、ここから3日目に突入〜♪ まずは、その窓から風景を写す。

こんな風景(^^)。左に宿泊ホテル、中央遠くに海(パノラマ3枚・ほぼ180度)

↑芝生コテージで朝食(^^)。
従業員サンが撮ってくれた♪

わ〜い朝ごは〜ん(^O^)
二階ロビーから朝食風景と海を撮影〜☆ミ

美味しく食べ終わった所で、そろそろチェックアウト。
まずは松島市街をちょいと散策(^^ゞ。



<松島海岸と「観瀾亭」>

これより先は、地図F←だいたい「五大堂」と「雄島」の間ぐらい(^^ゞ。

松島の海を一望しながら坂を下り
左折、海岸通りに入る(右が海)

通りの右に見えて来る「観瀾亭」
近付くと特徴のある古木が

このお寺の向こうはもう海である(^^ゞ。とても眺めがイイので、せっかく来たからここにだけ後で寄る。

海岸通りのメインに差し掛かる。↓
←左を見ると瑞巌寺への参道が始まっている。瑞巌寺には今回は行かず、↑海岸(右)に出てみる。

歩行者信号を渡って海岸前の広場に(パノラマ3枚・ほぼ180度)

←広場に入って左側には、海の上を渡りながら孤島に浮かぶ五大堂に続く沿道(橋)が見える(^^)。
↑五大堂を拡大。

後は、ご覧の通り、海岸に面した波止場だが、あちこち点在する島々が、松島独特の風景(^^)。

正面・左側
正面・右側

←広場右側、遊覧船の切符売り場。

仙台に親戚がいるので、仙台と松島にはよく来た(^^ゞ。今回も仙台から道路渋滞には悩まされたが(笑)、花火の時などは電車でもスゴイ混雑する。

↓海岸沿いの建物も古めかしい情緒タップリ。

道路沿いに並ぶ観光店(パノラマ3枚・180度)

で、道を元に戻り、さっきの「観瀾亭」に行ってみる。↓

観瀾亭に続く道(パノラマ2枚)

観瀾亭の入口
何のためにここに来るかと言うと、「座って海と島を見るため」である(笑)。

さっきの「五大堂」まで行くと、その周辺を「歩いて見る」コースがあり、天気の良い日は散策が堪能できるが、時間はかかる(^^ゞ。

一方、有名な「瑞巌寺」や「円通院」は、建築物を見ながら歴史を学ぶ所(^^ゞ。この海沿いからは少し離れ、見学時間も要するので、松島の景観をアテにすると予想が外れる。

なので、「仙台に行ったので足を延ばして松島に来たけど、そんなに見て歩く時間がない」という人や、「松島に行ったけど、そういや有名な絶景を見てない」とならないためには、まずはここに来るのが有利(笑)。

「観瀾亭と御仮屋復元図」

海に面した左側、下から上がって行く。

これは復元図なので、この通りに建物が今あるわけではない(と思う(^_^;))。

海に面した部分には入れる建物があり、これより入る。その右奥あたりに小さな博物館があり、見学にはそんなに時間がかからない。

内部周囲も軽く散策しながら出て行く事にしよう。

←じゃ入る〜(^^)。階段の途中から、行きにも道路から見えた巨木の足元に、 洞穴が見える。
↓通路があり右に格子窓が見える。

海沿いの通路をこう→行く(パノラマ3枚・ほぼ180度)

右手に登る
拝観料を払う。抹茶と茶菓子を頼むのもココ(^^)

ちなみに、右の写真にある奥の出口からも行き来できる。↑

←廻って奥側から見てみる。この通路の先はこんな感じに続いてる↓。左の建物が小博物館。

じゃ「観瀾亭」に入る(^^)。

その前に……ここに来ると海ばっか見て、菓子ばっか美味しく食べて、建物を見忘れがちなんだが(笑)、一応書いておくと、そもそもこの場所には、伊達政宗の御仮屋(休息所)が設けられ、「月見崎」と呼ばれていた。
一方、今ある建物は、文禄年間(1592〜95)、伊達政宗が豊臣秀吉から拝領した「伏見桃山城」の一棟で、江戸品川の藩邸に移築したものであった。

そのうちにここ「月見崎」にあった政宗以来の御仮屋が、1645年の火事で焼失してしまう。
そこで二代藩主・忠宗(母は正室・田村氏の愛姫)が、江戸品川藩邸にあった「伏見桃山城」の一棟を、この地に移した。東北唯一の純・桃山建造物である。

以来、納涼や観月の亭として「月見御殿」とも呼ばれ、藩主・姫君・側室などの松島遊覧、幕府巡見使等の諸国巡回の際の宿泊や接待用の施設「御仮屋」として利用されていた。

柱には栂材を用い、建物は東西に向いて一間6尺5寸の京間で18畳2室からなり、四方に縁を巡らせ、柿葺きの軽快な起り屋根が特徴。
御座の間の絵画は仙台藩お抱え絵師、狩野左京(佐久間修理)の作で、床の間・張付絵・襖絵は壮麗な極彩色で描かれ、原本は国重要文化財に指定されている。

以上。じゃ、海とお菓子の時間〜〜(^O^)

広間からの風景。絶景じゃっ(^O^)/(パノラマ3枚・ほぼ180度)

これが観瀾亭のメニュー豊富なお茶菓子セット(^^)。ずんだ餅・レアチーズケーキ・紫芋の和菓子と、なかなか嬉しい取り合わせ♪
←左遠くに五大堂も見える( ^,_^)<モグモグ

こっちは三色大福(^^)。草餅が美味しかった〜♪ 一応海も見ながら(笑)→

亭主はここに来ると、菓子を食べて茶を喫し、「でかした!」調に膝を叩くのが得意技(笑)。

ここの売店に、政宗五訓というのがあって、
「仁に過ぐれば弱くなる
 義に過ぐれば固くなる
 礼に過ぐればへつらいとなる
 智に過ぐればうそをつく
 信に過ぐれば損をする」

と、揚げ足取りみたいな内容なんだが(笑)、昔から結構これが気に入ってて、意外とあまり他で見ないので、今回はこれを買った(売ってんのよ!)。
政宗はこの言葉につけて、「この世に客に来たと思えば、マズイ飯でも美味いと言うもんだし、倹約も苦にならない」ってな事を言っている(笑)。

これと並んで、なぜか家康や水戸光圀の訓もあり、「日本三大遺訓」となっているんだわ(^_^;)。

ところで、さっきの復元図だが、御仮屋がもっとも整備された18世紀末の図面をもとに作成したもので、江戸時代末までに数多くの建物が付属している様子を知る事ができる(そうだが、今イチよく判らなかったり(^_^;))。

その後、園内を廻ってみた。↓は、さっきの巨木&洞穴の続きの園路。

降りて行く階段がある
さらにもっと奥の庭園

併設の「松島博物館」には、伊達家の大名道具や生活用品等を陳列している。これは今回見た。
松島を領した……青木氏だっけな。政宗に仕えて戦に出た記録とか興味深かった。その内にまた来たら、この辺りも詳しく調べてみたい(^^)。

今回は宿に窮して松島に泊まっただけなので、松島はこれで上がり!(笑)
このあと塩竈に出た。そこまで行けるかな〜と思ってたけど、次回に廻そう(^^ゞ。

というわけで、次回は3日目の続きから(^^)。
塩竈神社と多賀城、行けたら遠刈田に出て一泊、4日目に入る所ぐらいまでかな?

以上、関連事項は、
2007年12月<白石城>(文末まで)


<つづく>

2008年01月15日
 
     





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