<2010年・城主のたわごと3月>



2009年9月「岩手南部編」第4弾は平泉から、奥州藤原氏に迫る(^^)。

主に初代・清衡を訪ねて、「中尊寺」(続き)〜「長者ヶ原廃寺跡」を♪





     
  前回は3日目の平泉に入って、「中尊寺」の途中で、「つづくぅ〜ε==(/^o^)/」だった(笑)。
この平泉は、この3日目が「北部編」、4日目は「南部編」みたいな感じになるかと(^^ゞ。

お話的には、先々月に「前九年の役」(1051〜62年)を、先月はその後の「後三年の役」(1083〜87年)をお届けして、ようやく、奥州藤原氏の時代に到達(^_^A)。

肝腎のこの先の奥州藤原氏は、史料も少ないため、取りとめのない内容になりそうだが……(笑)、

初代・清衡=中尊寺
二代・基衡=毛越寺
三代・秀衡=無量光院

↑という順で寺が作られた。今回は取り合えず、初代・清衡から取り掛かりたい☆ミ
話の内容としては、後に関わるその後の源氏の話をしておこうかな、と(^^ゞ。

そして、その後は、「接待館跡」「長者ヶ原廃寺跡」といった、奥州藤原氏より前ではないか(つまり安部氏の遺構)と推測されている、衣川の地区を訪れてみよう!

前回は最後に、もっと先まで予告しといたんだが、だいぶ見積もりが甘かったみたい(^_^;)。。その後の分は、次回に譲らせて貰うでちゅ(^∧^)。。



<中尊寺・参道、2(総門〜本堂〜讃衡蔵)>

中尊寺に入って参道を歩き、「八幡堂」まで歩いた。地図A←そのへん。

中尊寺は前回も書いた通り、地図やガイドブックに、「中尊寺」「金堂」「白山神社」と、三つぐらいに分けて書かれてるから、ヨソから来ると「それぞれ離れてる(゚.゚)?」と思うかもしれないが、参道から入れば、全部をいっぺんに廻れるので、ご安心を(笑)。

全体図はコチラ(^^ゞ→中尊寺「境内マップ」ちょっと下の方(「関山・中尊寺」HPより)
前回は駐車場から参道に入って来て、「月見坂」の所で、「八幡堂」と「わんこそば・義家」まで紹介したo(^^)o。

今回は、その先で、「弁慶堂」のちょっと手前「総門」から先をお届けしよう。

←前回の最後の写真(^^ゞ。
坂の上に「総門跡」という石碑と入口と社務所が見えて来る。

↓社務所、入口↓、「総門跡」の石碑↓
↑この参道の左(社務所の左奥)にあるのが、この「弁慶堂」だが、堂内は撮影禁止なので、ちょっと遠くから(^^ゞ→

お堂は、江戸期の文政9年(1826)の再建。伊達氏の時代だね(^^ゞ。

奥州藤原氏の時代には、火伏の神として、五方を鎮守のため、本尊を勝軍地蔵菩薩とした、と伝承されてるようだ。

愛宕宮と称していたが、義経と、その従者・弁慶の木像がお堂に入っているのにちなんでだろう、「辨慶堂」と通称されているようだ。
これは奥州征伐に前して、ここから程近い「高館」(が義経が最後にいた地と伝わっている)が1189年に落城し、主君・義経のため奮戦し、衣川中の瀬に「立往生」した、と伝説される弁慶の悲憤の姿を写したものだ。

義経と弁慶の木像は撮影禁止だが、お堂の扉が開いてるので、誰でも拝観できる(^∧^)。
他にも宝物が陳列される中、あの勧進帳で有名な安宅の関で、義経主従が背負った(修験者が背に負う箱)があるそうだ(^^ゞ。
まぁ史実の程はともかく、代表的な鎌倉彫との事なので、古い物ではないだろうか。

一方「撮影OK」な弁慶(笑)
本物の弁慶像はお堂の中(^^ゞ。この位置から↓

参道を越えて向こうに広がる風景(パノラマ2枚)

この展望台には、「東物見台」という石碑が立ち、「前九年・後三年の役・衣川古戦場跡」と銘されていた。

合戦が、ここから見える場所で行われたかは知らないが(^^ゞ、「衣川の戦い」と言えば、源義家安部貞任が和歌を読みあった、とされる逸話が有名なのではなかろうか。

これも「古今著聞集」に書かれた説話である。

その内容は、敗走する安部貞任に、追う(八幡太郎)義家が「衣のたては綻びにけり」と詠んだ所、貞任が馬を停めて振り返り、「年を経し糸のみだれのくるしさに」と、義家の省いた上句を咄嗟に営んで詠み返した。
義家は、その奥ゆかしさに感心し、矢を射掛けるのをやめ、引き返した……というストーリーになっている。

が、前九年の役については、先々月に済ませた話が全容である。
すなわち、攻め入る清原・源氏連合軍に対し、貞任らは早くに撤退と防衛戦に転じていたから、野暮を言うようだが、義家と貞任に接触の機会はあったかどうか……(^_^;)。

でも大河「炎立つ」では、そこを無理して、説話的な場面も盛り入れていた(^^)。
と言っても、歌の遣り取り、そのものではなく、貞任が衣川館との別れを惜しみ、義家が貞任の妻を迎えに来たものの……と、オリジナルの創作も交えて構成されていた。


ところで、古戦場としてはともかく、この地域を「衣関」と呼び、この中尊寺を「関山」と号するのも、「衣川の関」に所以する、という事なら言えそうだ。

参道の途中、塁のような土盛が見えるのも、関の防衛機能としての名残だろうか。↑

「前九年の役」の初め、「鬼切部の戦い」が起きたキッカケも、安部氏が衣川を越えて南下した事を原因としているし、やはり「前九年の役」の最終段階、安部氏が「厨川柵の戦い」に追い込まれた原因も、この衣川の関を、清原+源氏連合軍に突破された事にあったのだ。

ところが奥州藤原氏が本拠とした、この平泉は、「奥六郡」の南端二郡「胆沢郡」「江刺郡」を南に超えた、「磐井郡」に属した。
古代の蝦夷社会から見れば、本拠地から異粋に飛び出した、出城のような場所にある。


左・僧房かな。竹林が涼しげ(^^)
その対面には「地蔵堂」とあった

安部氏は、その南下策が原因で滅亡に追い込まれたが、奥州藤原氏の初代・清衡は、本拠地・江刺から、この平泉に南下して居を移し、中尊寺も建立、二代・基衡・三代・秀衡に到っては、僅かながらも、さらに南に寺を建立して、「平泉」の領域を押し広げている。

1100年代も終盤になると、鎌倉幕府および源頼朝の認識では、「白河(関)以北(福島県より北)」が奥州藤原氏の伝領地であったようだから、奥州藤原氏は、安部氏のように、目を付けられたり攻め込まれる隙を出さず、上手く領していた事になる。

すると、滅ぼされてしまった安部氏と、4代100年もの間の支配を継続できた奥州藤原氏の違いって、何だろう……(゚.゚)。

一つは、結構マジメに平和な国作りに励んだからかな(^^ゞ。
前九年・後三年の役で傷付いた奥羽の地に、寺院を作って仏教を信仰する文化的な雰囲気は、初代・清衡から始まったように思う。

と言っても、タテマエは国司・郡司らと上手く渡り合いながら、という事ではあったろう。
ちょっと、その点を考えながら、初代・清衡の事を道々、書いてみよう(^^)。


さらに進むと、←左には「薬師堂」、↓右には茶屋に続く庭園風の敷地が広がっている(^^)。
亭主はわんこそばで腹いっぱいだし(笑)、時間が惜しいから先を急いだが、甘酒とか甘味・抹茶など出してくれるお店だったよ(^^)。

参道から見える茶屋の藁葺屋根
一方、参道の先に見えて来る「薬師堂

この「薬師堂」は、江戸時代の明暦3年(1657)の建立。
案内板には、「この薬師堂は、清衡が中尊寺の境内に、40余の堂や塔を建立した中の一宇」と書かれる一方、「現在の所ではなく、他に建立された(のを、1657年に現在地に建立)」ともある。

文意する所は、江戸時代、どこか他の地にあった「薬師堂」を作り直すにあたって、「清衡が薬師堂を作った時には、中尊寺の境内に建立したはずだ」と、改めて中尊寺の境内に建立し直した、という事かな(^^ゞ。

前に鹽竈神社(宮城県)に行った時、仙台に伊達氏が入って来て以降、地元の歴史や古跡の謂れを調べたりした結果、元の由緒に従った造営をした事が書かれており、この中尊寺も、いたる所で伊達氏の造営記録を見掛けるので、同じ魚名流・藤原氏の流れを汲む家系として、歴史の調査や遺物保存にも頑張ったんじゃないかな〜と(^^ゞ。

この「薬師堂」では、堂内に「子安地蔵が安置されている」とあり、出産・育児に関する病気を祈るようで、昔、神仏習合だった頃には、神道で「木花咲耶媛」を祭神とし、子安観音を祀ったそうだ。

こちらは「観音堂」。子安観音という事かな(^^ゞ?
入口の築地、竹の節穴に蛙が!(笑)

奥羽の寺社創生に、古くより由緒を歌われる場合、多くは慈覚大師(円仁)が開山・創建・中興などとなってる事が多い(^_^;)。
もちろん、円仁の時代まで遡れる物ばかりとは思わないが(笑)、幾分なりとも古いなら、奥州藤原氏や、その前氏族(清原氏・安部氏)が関わってた可能性は考慮する必要があると思われる。

そこで、いよいよ奥州藤原氏の100年繁栄の秘密に迫ろう!(・o・)/
とか言っても、奥州藤原氏に関しては総じて、古文献は殆ど無いと言って良い(爆)。

初代・清衡は、「後三年の役」にその前半生が登場するのみで、あとは寺の建立とか納経といった、現地の寺に残る仏事の記録に混ざって、時折、都の貴族が日記に噂話を書く程度の事しかわかってない(^^ゞ。

あとは他地域・別氏族の系譜に、外戚名として登場するようだが、この手合は後世の創作や誤伝もありうるから、信憑性を疑われる向きも少なくない(^_^;)。

確実な痕跡としては、近年、関係史跡を発掘したとか、四代のミイラを鑑定するといった、考古学的・科学な調査によって浮き彫りになる新事実が多い気がする。

同時代の他地域(特に中央)の歴史から照らし出す試みもあって、奥州藤原氏の安泰を促したのは、公私両面における「裏づけ」があったのだろう、という見方が登場する。
公的に肩書きとしていたのは「押領使」で、私的にバックボーンとなったのが摂関藤原氏と見られている。


断片的な記録を繋ぎ合わせて、奥州藤原氏の年表が書かれる中、清衡が摂関藤原氏に馬を貢いでいる記録などは、確かにちょっと目立って感じられる(^^ゞ。

なので、当時の摂関家や、それとの関わりとか、時代についてちょっと書いてみよう。


参道をさらに進んで、中尊寺の中核、「本堂」に到着している(^^)σ→

←上の山門を潜った目前が「本堂
↑内部。壇の両脇に「不滅の法灯」。

ちょうどご開帳の上、法要が行われていた所だった(^^ゞ。↑の「不滅の法灯」は、総本山・比叡山延暦寺より分灯されたそうだ。(山形県の「山寺立石寺)」と同じだね(^^))

この「本堂」は、明治42年(1909)の再建。本尊は中尊寺の本尊・阿弥陀如来。
中尊寺の山内17ヶ院を包括する中心道場であり、奥州藤原氏の追善、天台宗・各祖師の御影供、正月修正会など、一山の法要はほとんどがここで勤修され、写経・坐禅の修業道場でもある。

特に写経は、円仁(慈覚大師)がよく行なったと言われ、立石寺(山寺)でも受け継がれている。

さて、清衡と摂関家の関係に話を戻す。

まず清衡の方から見ていくと、清衡の生年を1056年と見た場合、後三年の役が終了したのが1087年、清衡は31歳になっていた。
それから死んだと見られる1128年の78歳までの間、45年の年月がある。

一方の摂関家について見ると、その嫡宗(氏長者)の流れが、道長流(御堂関白家)に移って以降……、

道長−頼通−師実師通忠実−忠通┬(近衛)基実
                          └(九条)兼実

と伝わっていくが、清衡との繋がりが初見されるのは、1091年、「師実」の頃で、その時には、単にお手紙と一緒に、馬を二頭ほどプレゼントしたという記録があるようだ(^^ゞ。

その後も馬のプレゼントはちょくちょく続いたようで、1120年、「師通」から「忠実」に代が移った頃、奥州の小泉庄を横領した容疑がかけられた清衡は、忠実の検問使を伝って釈明しているのみならず、忠実に近い公卿が、日記で清衡に同情を寄せたり、清衡の訴訟相手方(容疑をかけた側)の事を口汚く罵っている。

これのみでは、京⇔奥州の両藤原の裏連動の証拠とまで言うわけにはいかないが、両藤原に手を組む時代的な要素があった、と思える点を次は考えてみよう(^^)。


参道の行く手に沿って、←左方向に進む(パノラマ4枚・180度以上)

隣にも寺院建築(修業道場?)があり、裏門に通じる(パノラマ3枚・ほぼ180度)

左手・鐘楼の隣に池辺が広がり、奥には参道が透かし見える(パノラマ2枚)

後三年の役が終わる前年(1086)に白河天皇が退位し、院政期に入ると「院の近臣(上皇のお気に入り(^_^;))」が、各国で権力を奮う。摂関家の栄華も盛りを去りつつあった。
この時期の摂関藤原氏は、よく出羽で国衙の役人らと悶着を起こしていた。

地方所領に官人らしきが乱入したとか、土地に関する文書を出せと要求されたのを摂関家が拒否した(1092年)とか、荘園整理の嵐の中で、摂関家もあくせくと国衙の役人らとしのぎを削りあっていた様子が窺える。

一方で清衡は、国司を数代も重ねるほどの長い間、700町もの国領を横領したとか、荘園と見なして取り立てようとすれば紛争を起こすなど、その評判は、「近いうちに謀反を起こすのでは」と危惧されるほど、問題行為を指摘されている。

さらに関係書類から、清衡の私領・私権は、宮城県にまで順調に拡大してた事が伺える(^_^;)。蔵王の刈田峯社の年貢を進納していた記録なんかあるようだ。

もちろんそのために、馬とか砂金をふんだんに用立てさせられたのだろうが、そうした高価品も、使いようを誤まれば永続性のない無駄遣いになってしまう。
一時的に役人に賄賂を握らせた所で、朝議で「謀叛者」の烙印を押されれば、前九年の役の二の舞である。

要するに清衡は、「叛逆者」にされずに済むよう、摂関家に庇って貰い(揉み消しという言い方もある:爆)、摂関家は奥羽の摂関所領を、役人どもの収公から逃れる現地の防衛網(ってか率直に言えば、財力兵力:笑)として、清衡の奥州藤原氏を活用していたと(^^ゞ。
どうも、こんな推理が成り立つようである(笑)。


本堂」を出ると、次は「峯薬師堂(パノラマ3枚・ほぼ180度)

中尊寺は境内のどこも緑に溢れ、エンエン続く参道も道幅は広く、概ね杉並木で清々しいが、団体客の多さは日光東照宮や箱根にも負けない数(^_^;)。。
そんな中、この一郭の緑は濃く、静寂で、森の中にでもいるよう(^^)。

ここは「峯薬師堂」と呼ばれ、元は、これより向かう金色堂の南方「経塚山」の下にあったが、戦国期の天正年間(1573〜1591)に荒廃し、江戸期に入って、元禄2年(1689)、現在の地に再建された。

その折の堂の面積は32.5坪、型式は桁行三間、梁行三間の瓦葺の単層宝形造りであった。
本尊は「丈六(約2.7m)の薬師如来座像」で、カツラ材の寄せ木造り、金色に漆を塗り金箔したもので、藤原末期の作とされ、重要文化財として現在は、これもこれから向かう「讃衡蔵」に安置されている。

参道側から正面
斜め前(大きい池がある(^^))

現在のお堂は昭和57年の改築で、本尊も、薬師如来を中心に日光菩薩、月光菩薩の三尊とし、堂の改築を契機に昭和63年、前立本尊として仏師・松尾秀麿師の謹刻になるものが安置されているという。

東北で薬師信仰について触れられる際、「阿弥陀が西方(極楽浄土)にいるのに対し、薬師如来は東方の瑠璃光世界で人々を助ける」という点が強調されているのを、よく見掛ける。

病気から守ってくれる如来として信仰され、ありとあらゆる病苦を廃してくれるが、「瑠璃光」からだろう、中でも、特に眼病患者に広く信仰され(奈良でもそうだよね)、ここでは「薬師如来は大医王仏とも言われる」として、独特の札・旗・石像が見られた(^^)。

まずは絵馬
全部に「め」と書いてある
幟の下にも

↓こんな目だらけの模様がっ!
ギョロ目のガマ蛙像↑
さっきの蛙は、薬師様の化身?(笑)

逆に「峯薬師堂」側からも、さっき出た「本堂」の裏門が見える(^^)。→

天台宗の祖・最澄は、薬師如来の信仰者で、比叡山の根本中堂に、自身の彫刻による本尊を安置している。
この天台宗が、蝦夷征伐後の東北を席捲したこともあって、薬師信仰は東北じゅうで見られる。

……天台宗が東北を飲み込んで行く過程で、会津の徳一に法論をぶっ掛けられたりして(笑)、最澄の時代は愚か、円仁の時代に入っても、東北じゅうに行き渡るまでには届くまい(^^ゞ。それでも東北では、「最澄」ではなく、「円仁」(慈覚大師)の「創建」もしくは「中興」と書かれている場合が圧倒的に多い(笑)。
「薬師堂」内にも、慈覚大師の作と伝えられる薬師如来を本尊、日光菩薩・月光菩薩を脇仏として安置されているそうだ。

蝦夷征伐にも、その直後にも、奥羽には東国(主に今の関東地方)から多くの兵を募り、移民を住まわせた。
特に出羽には、下野から多くの移民が住したようだから、同じ下野出身の円仁を慕う心境が、東北では濃厚なんだろうね(^^)。
山形県の立石寺の「入定窟」(円仁の納骨場と伝わる)などに、そんな空気を感じる。

「峯薬師堂」と参道を挟んで向かいに「不動堂」↓
参道をさらに進んで右に「大日堂」→

「大日」というのは密教だね(^^ゞ。お不動と言い、ジワジワ修業の雰囲気が濃厚になってきて、山寺や羽黒山でもそうだったけど、今でも修業が盛んなんだな〜と感じた。

さて清衡が、1091年に摂関藤原氏の師実に馬を貢いだ折、奥州のどっかを寄進したとも見られており、これに付随して、「奥州藤原氏の藤原姓は、寄進の際における、京の摂関藤原氏からの賜姓」という見方が近年まであったそうだ。

つまり清衡が、「藤原秀郷の後裔」という点は、意外にもかなり最近まで疑問視されてたらしいんだね(゚.゚)。

今では、奥州藤原氏が、嫡流とまでは行かなくても、秀郷流である事を疑う向きは、もぉ殆どないと思われる(^^ゞ。
むしろ疑うべきは藤原秀郷より前であって、つまり「魚名→藤原秀郷って、ホントに繋がってるのか」という点なら、「疑問」としていいと思う(爆)。

ただ疑問視の理由は、中尊寺の供養願文の中で、清衡が自分の事を「東夷の遠酋」「俘囚の上頭」と称してる事が、「藤原氏の出なら有り得ないから」らしい。

確かに戦国武将とかの詐称ケースを見ると、自分らを精一杯「高い出( ̄^ ̄)」と虚勢を張るのが普通で、その逆ってあまり見ないよね(^_^;)。

だから清衡のこの主張は、血統・系譜の問題を離れても興味深く、注目に値するに変わりないと思う。


←さらに進んで「梵鐘」(岩手県指定文化財)
↑そのさらに一個先、「弥陀堂」。
幟には「金剛蔵王大権現」とある。

↑「梵鐘」は、康永2年(1343)に(これより行く)「金色堂」の別当・頼栄の発願により鋳造された盤渉調のもので、径86cm 。
撞座は長い歳月にわたる打鐘で窪み、現在この鐘が撞かれることはない。
鐘身の銘文には建武4年(1337)山上の堂塔が火災により焼失したと記し、奥州藤原氏以後の歴史を伝える資料としても貴重である。

さらに参道を行き、左に「讃衡蔵
博物館で撮影禁止なので、裏庭のみ(^^ゞ

讃衡蔵」は奥州藤原氏の遺宝、国宝・重要文化財3000点以上を収蔵。800円と、わりと立派な拝観料だけど、この先の金色堂など、奥の見学コース兼用(^^ゞ。

ムロン撮影禁止なのと、中に入ったら超満員だったので、「おおー( ノ゚.゚)」と通り過ぎてしまい(笑)、あまり長居しなかったが、展示会場に入ってスグ、巨大な三つの大仏(丈六仏)は、「デカッ(・・;)」と思った。(子供の頃も思ったけど)

他に、この隣の「金色堂」内部を飾る、豪華な螺鈿細工の修復とか、細かく解説されていたように記憶する。
あと金色堂の仏具・副葬品・中尊寺経(国宝・紺紙に金字と銀字の行を交互に書いた一切経)などを公開。

そして、いよいよこれの隣が、「金色堂」である。 ↓o(^^)o↓



<中尊寺・奥のロータリー、金色堂〜弁財天堂>

↑一番奥が、本当にロータリーになってるので(^^ゞ。

こんな感じ(パノラマ4枚・180度以上)

ここに写ってるのは、左から「金色堂」、奥まってて見えないけど「経蔵」、同じく奥まってる「旧覆堂」ぐらいまでの空間かな(^^ゞ。その右にも「釈迦堂」「弁財天堂」があり、←2堂の合間から、白山神社への通路が延びている。
境内マップ拡大版(「関山・中尊寺HP」より)

これが「金色堂」の外側建物(新覆堂
↓庭園の隅に宮沢賢治の碑

中尊寺は、頼朝の侵攻より後も、幕府の厚い保護を受けたが、南北朝時代の建武4年(1337)に全て焼失してしまい、奥州藤原氏の頃より残る建物は、この「金色堂」と「経蔵」の一階だけとなってしまった(;_;)。。

それだけに、残った貴重な文化財の老朽化を防ぎ、保存を良くするため、金色堂のさらに外側にお堂っぽいコンクリートの建物で覆ってある(^^ゞ。この建物を、「新覆堂」と呼ぶ。昭和38年(1963)に建てられた。

「金色堂」は、この中にあるが、中は撮影禁止だから、映像はコチラを→「金色堂」(「関山・中尊寺HP」より)

でも元は室内じゃなく、風雨に晒されても屋外にあったわけで、その点、前日に行った「えさし藤原の郷」には、覆堂に隠されてない「金色堂」が再現されて、屋外に光を放ってるので、私らは時間切れで行けなかったものの、パンフの風景から(^^ゞ。↓

←「金色堂@えさし藤原の郷」再現
↑開いた扉の中に、三尊仏が安置されてる。(2010年2月<えさし藤原の郷・D「大路」「街並み」→出口>

「金色堂」が作られたのは、1124年、清衡が死ぬ4年前である。

三尊は、向かって左から、勢至菩薩・(本尊)阿弥陀如来・観音菩薩。

壇の中には、奥州藤原氏・4代の遺体(清衡・基衡・秀衡の全身と、泰衡の首級)が埋葬され、1950年に、ミイラへの科学的な調査が行われ、血液型や骨格など詳細が報告された。
血液型だけ書くと(笑)、清衡=AB、基衡=A、秀衡=AB、泰衡=B。

国宝「金色堂」を前にして、清衡が自身を「東夷の遠酋」「俘囚の上頭」と称した真相とか迫ってみたいが、そんな能力はないので(笑)、そこは又ゾロ時代背景でジワジワ迫ってみるとして、とりあえず、奥州藤原氏の出自について、もうちょっと書いてみよう(^o^)。

「尊卑分脈」には、奥州藤原氏を「秀郷流」と認めるのと同時に、清衡には祖父、経清には父にあたる頼遠を「下総住人」とあって、これにも疑問視の声があるようなんだね(^^ゞ。


緩やかな石段と、大木や緑の絨毯で作られる庭園もステキ(^^)

前九年の役の終了時、源頼義は、捕らわれ引き出された藤原経清(清衡の父)の苦しみを増すために、鈍刀で首を斬るという、残酷な処刑を施した。

この時、処刑に到る罪状を、「白符」による徴税に求め、「お前は先祖代々から、ワシの家の家僕であるのに」と責めているのだ。
言いたい事は、「国家の代行たる国司に逆らうなど、ただでさえ、もって他。さらに国司をしてるワシは、お前の主家でもあるのに」って事かしら(^^ゞ。

つまりどっかで彼らの先祖同志が、主従の間柄になってたと。
源氏との主従関係は「疑問」としても、頼義がこう言えば、廻りが不思議に思わない家だったと見れば、他の多くの坂東武者がそうであったように、やはり「平忠常の乱」(1028〜31年)が機縁ではないかと(^^ゞ。

さらに、北関東に地盤した小山氏や結城氏、後に西行を出した佐藤氏や、奥州藤原氏より義経に遣わされた佐藤兄弟の佐藤氏なども、秀郷流を称している。

鎌倉時代に入ってからだが、秀郷流の小山氏は、関東における代々の相伝根拠として、「将門の乱の勲功以来」と強調している。
将門は下総の人だし、合戦も下総で起きた。近江のムカデ退治は後世の作り話だ(笑)。

てわけで、経清の父が「下総住人」という点の、何が疑問なのかよく知らないってのもあるが(^^ゞ、まぁ上記の点から、経清か経清の父が関東に住んでて、東北に移り住んだ可能性はアリだと思う。
となると、頼遠の妻であり、経清にとって母となる女性も、関東あたりの人だった可能性があるとも思う。


隣は「経蔵」、開いた扉から……
文殊菩薩?
金キラ☆ミ

この「経蔵」は、1337年の火災でも一階部分だけが、「金色堂」とともに辛うじて燃え残ったというが、「平安期の貴重な建物が、こんなトコにポツッと建ってるワキャない(^^ゞ」と思ってしまって、これがその建物だと気付かないのだ。

これまで長い参道を休みなく歩いて来るから、「金色堂」に到着する辺りで集中力が切れてる、というのもあるかもしれないが(笑)、そうやって入った「金色堂」は、今では「寺」と言うより、「博物館」の赴きが強いから、そこから出た辺りで、ドッとお喋りを開始したりして、左側にポッと見えるこの建物は、何となく通り過ぎそうになる(笑)。

そして案内板を読むと……、ナント、これこそ「経蔵」で、「創建時の古材を用いて再建された」とある(・・;)。。
堂内には、平安時代の彩色文様が確認でき、国内最古の保安3年(1122)棟札が残っている。

ただし、↑仏像はレプリカかな、と(^^ゞ。
案内板には、「本尊の騎師文殊菩薩と四眷属像(重文)、堂内具(国宝)、紺紙金字一切経(国宝)等の経典類は、讃衡蔵に安置・収蔵」とあった。

讃衡蔵」は、さっき行った博物館ね(常時展示品かは判らないけど)。
そこにある(本物の)本尊が「文殊菩薩」との事なので、きっとこれも文殊だろうな〜と(^^ゞ。(そういや乗り物も、獅子のような)

←天満宮
松尾芭蕉碑→
どちらも中尊寺の境内マップ(を駐車場でくれる(^^ゞ)にも、中尊寺のパンフにも書かれてない。

芭蕉が「奥の細道」で、「五月雨の降残してや光堂」と詠んだように、中尊寺「金色堂」は「光堂」とも呼ばれてたようだ(^^)。
後で行く高館にも句碑があって、そっちの方が有名かな?

「天満宮」の方は、案内板の字が所々消えて読めなかったが(^^ゞ、だいたい、菅原道真の14世の子孫、菅原為視が勅命により平泉に下向し、逗留の時に生まれた、「乙王丸」という子が「行栄和尚」になって、京都の北野天満宮から勧進した、という事が書かれていた。
「また、この霊地は昔、陸奥守・頼清が衣の関を守護し、世の平安を祈願するために鎮守府の弓矢を納めて天神地祇を祀り、関の神社を造営した地でもある」とある。

この菅原氏はよく知らないが(^^ゞ、平泉より北東の山地「大森山」のちょっと北に、「菅原道真(菅公)夫人の墓」と伝説される所があるようだ。道真が大宰府に流された時、その妻は蝦夷地に流刑……という伝承のようだ。勿論そんな史実はナイけどね(^_^;)。。

そして、今の「金色堂」を覆ってる建物を「新覆堂」と称するのに対し、こちらが 元々「金色堂」を覆っていた「旧覆堂」↓
中心に立つ巨大な卒塔婆。「800年遠忌」として、秀衡・義経・弁慶の菩提を弔う事が書かれている→

正応元年(1288)の棟札というのがあるらしく、そこにある年代からだろう、最初は鎌倉幕府が金色堂の修復を行ない、覆堂を建てたと考えられて来た。

しかし近年の調査の結果、金色堂が建立されて50年ほど後(金色堂の造立が1124年だから、1174年ごろ)に、覆堂ではなく、「覆屋根」がかけられていた事がわかった。

1174年と言うと、まだ鎌倉幕府は出来ておらず、奥州藤原氏も健在であったが、15年ズレると、幕府は出来てて奥州藤原氏は滅んでる(笑)。
ビミョーな狭間なので、「何々時代」とは特定できないものの、正応元年(1288)より100年近くも前に、既に保存の手が施されていた、という事だよね(^^ゞ。

その後も増改築を経る中で、鎌倉幕府が覆堂を建てたのが、正応元年(1288)という事だろう。現在の形になったのは、室町時代の中期(16世紀)という事が判明したようだ。

つまり「覆堂」そのものが、歴史と伝統のある保存法、という事だね(^^ゞ。

そういや、確かに1966年の「源義経」(昔の大河ドラマがCS時代劇専門chで再放送されてた)では、頼朝主従が到着した平泉は、前面が焼け野原だった。泰衡が焼き払って行ったからだよね。

それが、1979年の「草燃える」では、そういうシーンは無く、1993〜94年の「炎立つ」になると、泰衡の焼いたのはほんの一部にとどまり、到着した頼朝主従が建物に脚を踏み入れ、その美しさに感嘆する場面に変わっていた。
……つまり年々、平泉の焼炎範囲が狭まっていくわけね!(笑)

ここは「金色堂」から「弁財天」に到る円形広場の一番奥に当たるが、ここに旧覆堂が移築されたのは、昭和38年(1963)に「新覆堂」を作ったのに伴って、である。

西谷坊」。「祈祷申受」とあった。
元三大師」が安置した「大日如来」を本尊とする、とあるので、この先にある「弁財天堂」のお守り「角大師」の祈祷を受け付けているのかもしれない。「元三大師」も「角大師」も、平安中期の比叡山・延暦寺18代座主・「良源」の異名。大師号「慈恵大師」としても知られる。

良源の異名、「元三大師」「角大師」については、「弁財天堂」に着いたら話そう(^^ゞ。ここでは良源について軽く記す。
良源は延喜12年(912)、滋賀県の虎姫町(琵琶湖の北岸)に生まれ、12歳で比叡山の延暦寺に入って修業し、17歳で出家得度、19歳で「良源」と名乗った。

比叡山の奥地・横川の御仏堂にこもって、骨と皮だけになるほど一心不乱に不動護摩を修め、形相も凄まじく、悪魔も寄せ付けなくなった、と伝承される。
その後、火災や古びて荒れた寺の復興に力を与え、修業のための規律・制度を定めて、3000人もの門弟を養成、天台宗の中興の祖となった。

←「西谷坊」正面。

これより先、「金色堂(新覆堂)」で始まったロータリーは、「白山神社(能舞台)」に通じる通路が右に伸びて行くのを最後に円を閉じるが、その通路の入口を、左側には「釈迦堂」、右側には「弁財天堂」が囲んでいる。↓

まずは左に「釈迦堂」。今は建物が見れるだけみたい(^^ゞ。↓
そして、その右。人の背丈の2〜3倍ある「野外能楽殿」の標識を前に、「白山神社」へと続く杉並木の通路が伸びている。→
この通路から先、「白山神社」は最後に参拝してみよう(^^)

そしてこの通路の、さらに右に「弁財天堂」↓

弁財天堂」の周囲を巡る池地(パノラマ2枚)

この「弁財天堂」も、藤原清衡が建立した堂塔の一つで、長治2年(1105)に作られ、「最勝院」と名付けられたが、やはり建武4年(1337)の野火で焼失。

現在の物は、伊達氏の領した江戸時代の初期、寛永2年(1625)に再建されたもの。本尊は「辨財天尊15童子兵安阿の作」という。

清衡の書いた経文、秀衡の書いた絵の事が書かれており、絵の具に珊瑚珠や孔雀石の粉末を使っていること、徳川家へのご祝儀に使用された宝物を、伊達綱村によって寄進された事などが書かれていた。

←「弁財天堂」の前の売店に、さっき「西谷坊」でも話した「角大師」の御守が置かれていた(^^)。↓

「角大師」の謂れは、ある雨の音する夜半、禅を行なっている「良源」の元に一陣の風と影が吹き込み、疫病神が「身体を侵しに来た」と告げたので、良源が左手の小指を触れさせた所、全身が熱く苦しくなった。
良源が真言を唱えると、疫病神が退散し、苦しみが消えた。良源は自分の姿を鏡に写すと、骨だけの恐ろしい鬼の姿となった。

そこで人々を苦しみから救うべく、その姿を書き取らせ、版画として多くの家の戸口に張ると、一年の厄・病気・災難除として悪魔を除けることが出来たので、正月に張る事になった。
これは良源の異名「元三大師」が、命日の1月3日から来るのに引っ掛けて、「正月に張る札」となったのかもしれない(^^ゞ。

「角大師」になると、もぉ全国版で、ウチあたりでも、東京に居た時も、商店の壁や裏口の柱に貼ってあるのをよく見掛けた。札絵も検索して貰えば見れると思う(^^)。
ただ良源になると、さらに東北に関係ないからか、丸きり同じ話が、山形の山寺(立石寺)では、「慈覚大師」の出来事とお札となっている(笑)。

でも東北では、厄除や魔除を言う時、「悪魔」という言葉をよく聞く。
「なまはげ」とか「鹿踊」とかも、わざわざ怖い格好して悪魔を祓うし、出羽三山の能除大師(蜂子皇子)など、とんでもなく異形として伝わるので、慈覚大師の札より、怖い姿の「角大師」の方が好まれたかもしれないね(^^ゞ。



<中尊寺・白山神社〜帰りの参道>

じゃ後は、さっき後回しにした、「白山神社」への通路に入ってみよう(^O^)/
外観と大鳥居は、↑の方で出したので、鳥居を潜った後の風景から(^^)。

←こう入る(パノラマ4枚・180度以上)    さっき見えた鳥居はこの辺かな↓

このあたりの森林は樹木がどれも凄く大きく、またやや広範囲でもあって、中には相当に古い時代からの樹もあるんじゃないかな〜て気がするほど(゚.゚)。だから城跡っぽい風情も濃厚だったわ☆ミ

「白山神社」は加賀国(石川県)の古社として有名だよね(^^)。
白山神社は全国に多いが、比叡山・延暦寺の末寺だったので、天台宗の修験寺に祀られている事が多いらしい。
ここでは(例によって)慈覚大師が嘉祥3年(850)に勧請し、十一面観音を作って「白山権現」と号した、という事を由緒としていた(^^ゞ。

注目するのは、その後で、「樋爪(五郎)季衡」の持佛で「運慶作の正観音」と、源義経の持佛で毘沙門天を、配佛する案があったのだが、嘉永2年(1849)、火災で焼失してしまった。。

現在ある能舞台(能楽堂)は、江戸時代後期の嘉永6年(1853)の物だが、今も引き継がれている能舞は、戦国末期の天正19年(1591)、伊達政宗が、秀吉の甥で関白だった豊臣秀次と参拝の節、観覧に供して以来、続行して今日にまで到っているそうだ(^^)。

現在ある能舞台(能楽堂)は、嘉永6年(1853)、伊達藩主・伊達慶那によって再建・奉納されたもので、明治9年(1876)、明治天皇が御東巡の折に、ここでの能舞を天覧された。
平成15年(2003)に、国の重要文化財指定を受けている(^^)。

突き当たりの「能楽堂」(能舞台)
左の舞台からは「白山神社」が見える(^^)

廻り込むとこんな配置(^^ゞ(パノラマ2枚)

神社の由来で注目したのは、太字にしといた通り(笑)、「樋爪(五郎)季衡」だ(^^ゞ。

1189年、奥州に攻めて来た頼朝が、阿津賀志山(宮城県と福島県の県境)の合戦で奥州藤原勢を破り、北に逃げた4代・泰衡を追って、志和郡(岩手県紫波郡)に着き、攻めようとしていたのが、「泰衡の一族」という「比爪(ひづめ)俊衡」の「比爪館」だったからだ。

泰衡は死に、その首は頼朝に届けられるが、比爪俊衡は投降を許され、比爪の本所領も安堵された。
泰衡の首は、この俊衡が貰い受けており、中尊寺も寺領の安堵を取り付けている。

泰衡の首は恐らく、こうして比爪俊衡と中尊寺によって供養され、金色堂の壇に収められたのだろう。遺骨調査では、首の保存状態は極めて良好だったと報告されている。


季衡と俊衡の関係はちょっと解らないが(^^ゞ、樋爪氏と奥州藤原氏との関係は、清衡の血筋から分かれた一族とも言う。
が、阿津賀志山合戦の後、落ちぶれた感の強い当時の4代・泰衡を援け、頼朝と戦いに到るほどの相手となると、単に枝分かれた氏族に限らず、さらに繋がりの強い……例えば泰衡の外戚(妻の実家とか?)か何かだったのだろうか。

「能楽堂」の前は↑こんな観客席がついてるのよっ(^O^)→

いきなり話が滅亡の時……4代・泰衡の時代に行っちゃったが(^_^;)、清衡には二代・基衡の他にも子供がいて、そこから起きた氏族もあったという事で、まだ清衡時代の話をさせて貰う(笑)。

清衡が摂関藤原師実に貢馬を果たした1091年は、清衡の「謀叛」が囁かれたり、摂関藤原氏も出羽で揉め事を抱える一方で、ちょうど源義家にも、波乱の様相が巻き起こっていた。
それが微妙に東北地方の騒乱にも絡むので、少し素描してみよう。

そもそも、摂関藤原氏が苦境に立つ院政期、満仲以来、摂関藤原氏に仕える清和源氏の源義家も(支流ではあるが)、運命の転換期を迎えた事になる。

清和天皇−貞純親王−(源)経基−満仲┬頼光(摂津)
                         ├頼親(大和)
                         └頼信(河内)−頼義┬(八幡太郎)義家
                                      ├(賀茂二郎)義綱
                                      └(新羅三郎)義光 |
┌−−−−−−−−−−−−−−−−−-−−−−−−−−−−−−−−−−┘
義親−為義−義朝−頼朝  (八幡太郎義家より先は、詳しくは源氏系図を(^^ゞ)
└義国┬義重(新田)
     └義康(足利)

◆経基(平将門の乱)−満仲(安和の変)−頼信(平忠常の乱)−頼義(前九年の役)−義家(後三年の役)

この1091年は、源義家と、その次弟・義綱(賀茂二郎)の兄弟間で合戦沙汰が起こっている。
原因は兄弟にではなく、両者の郎党同志の所領争い(河内)にあり、関白・師実の調停に対し、義家も義綱も「兵を集めてるだけで、自分から攻め込む気はない」と弁解している。

しかし急場に駆けつけようと、大勢の兵が入京する動きがあったので、武力抑制のためとして、諸国からの兵の入京と、義家に土地を寄進する事が禁止され、翌1092年には、義家に既に寄進された新立荘園も停止となった。

前回も書いた通り、後三年の役における義家への貴族のウケは、勃発当初からあんまり良くなかった(^_^;)。
その一方で、義家が後三年の役で京に居ない間も、弟の義綱は京で摂関家に仕え、後三年の役の後も、「陸奥守」を途中で解任され、失業状態だった兄・義家に代わり、都の警護など引き受けて、貴族に持てはやされていた。

「能楽堂」のには「白山神社」拝殿(^^)(パノラマ3枚・ほぼ180度)

この1092年は、摂関家・藤原師実も、出羽国の小但嶋庄をめぐって国司に土地の公式文書を要求されている(が、「前の荘園整理令の時にも、記録提出を求められはしなかった」と提出を拒否している)。

同年、陸奥国司から清衡に挙兵の企てがあることが報告されたため、関白・師実が対処として、貴族に人気の高い義綱を陸奥守に就任させるに到り、清衡は挙兵を中止した。

義綱は任官は受けながら、陸奥には行かなかったが、1093年、出羽国の平師妙・師季という父子が出羽国府を焼き払い、財宝を悉く盗んだため、出羽守は山に逃げて行方が知れなくなった。そこで隣の陸奥国守・義綱に追討令が来たのである。

義綱が郎党を下見に出した所、郎党らが師妙とその配下を平定した。翌1094年、義綱が師妙・師季の首を持って、煌びやかに凱旋するのを、京じゅうの人が見物した。
義綱は昇進し、美濃守となったため、奥羽とはこれで縁が切れた。

そして、嘉保年間(1094〜95)、清衡は江刺郡の豊田館から、衣川を南に超えて、磐井郡の平泉に移ったのである。


←「白山神社」拝殿と「茅の輪くぐり」
↑「白山神社・十二支一代守護神社」

「十二支一代守護神社」は、↑拝殿に向かって右奥に並んでおり、子年・丑年〜戌年・亥年と、十二支の全部が祀られて、ちょっと壮観(^^)。
この十二支神社の背景が、さっきの「衣川古戦場跡」と銘する展望台、「東物見台」からの眺めと、ほぼ同じ方角じゃないかな(^^ゞ。↓

白山神社の裏手から臨む衣川関

清衡が平泉に移った時期については、康和年間(1099〜1104)という説もある(^^ゞ。
なので、もうちょっと引き伸ばして、さらに後の事も書いておくね(笑)。

後三年の役の成果は全く認められなかった義家だが、役が終わって11年も経った、1098年になって、正四位下に叙され、院への昇殿を許された。

貴族に人気の高い義綱も、犯人逮捕の命に従わないなど、次第に白河院やその近臣の意に染まぬ面も出て来た頃だった。
また当時、僧兵の乱行・暴力が頻発しており、武力的な対処が愁眉の急だった。

今さら後三年の役の功績だと遅すぎなので、「叙位(功績評価)が遅れたのは、義家からの納金が遅れてたから」みたく装ったりのあげく、結局、「○○追討への功績」といった明確な評価でなく、「義家は天下第一の武勇の士だから」とかいうのになったようだ(^_^;)。。

つまり院や貴族には不評の義家も、荘園寄進の増加現象に見るように、後三年の役で功績を認められなかった事への同情もあったのか、諸国の地下・農民層には人気が高く、一声で続々と馳せ参じる武者が多く、動員武力が抜群だったのも、そうした人気ゆえだろう。

元は都の警備なども義家の役割で、多くの人の目には義家の姿が焼きついていたかもしれない。
これも前九年の役(1051〜1062)の後で、後三年の役(1083〜1087)が勃発するまでの間、京での天皇の護衛や、祭事における行列警備などで、源氏やその郎党たちの姿が、人々の前に露出された事が発端だろう。

永保元年(1081)、比叡山の山門派・延暦寺と、寺門派・園城寺派の間で報復合戦が続き、たまたま朝廷の神事を妨害してしまった園城寺派が朝敵とされた経緯により、武力発動を命じられた義家が、園城寺派の報復から白河天皇を厳重警護する事態となった。

身分の高い人の警護において、甲冑のような武装をまとう事は許されなかったのだが、義家は予断を許さぬ状況を見て、軽装ながら武装を断行した。

こうして出陣や凱旋に限られていた軍事パレードが、警備や祝いの行列、祭りでも見れるようになった(^^)v。
武者を見るのに都合の良い場所にみんなが車を置いた、という記録もある(笑)。

「行列見物」と言えば、「武者行列」が認知されたのも、現代、ミサイル引き出したり迷彩服を着なくても、武運長久を鼓舞する「甲冑パレード」が出来るのも、元を辿れば全て「義家のお陰」なのかもしれない(笑)。


そうした時代における、清衡の「東夷の遠酋」「俘囚の上頭」なる表現は、単なる証言か、または謙遜とか自己蔑視に過ぎないのか、或いは……例えば、何らか強みを感じる要素は全く無いのか(笑)、よく味わってみる必要があるように思われる(^_^;)。




以上をもって、中尊寺を終了。
白山神社あたりからも外には出られるかもしれないが、ウチらは駐車場に戻らなければならないので、元来た道をまんま戻る(^^ゞ。

←行きには通らなかった「月見坂」(^^)。「月見坂」は、建武元年(1334)「衣関山・月見坂」と「経蔵文書」に見える。
↑再び行き会う蕎麦処「義家」!(爆)

1100年代に入ってからも、源氏内部には、さらに不穏な様相が続いた。

1101年には、藤原師実が死去する。
その同年、義家の嫡男で、対馬守だった義親が、前回も話した大江匡房に告発され、「大宰府に逆らい、九州の民を私用・乱暴している」という罪に問われた。
以後「義親追討事件」と呼ばれる騒動は、義家・義親父子の死後まで続く(^^;)。。

召喚命令を受けた義家は、義親を連れ戻すべく郎党を遣したが、この郎党が逆に、同行していた追討使を殺してしまう(^_^;)。

翌1102年、義親は帰京せず乱暴も続けたので、隠岐に流罪となるが、義親は隠岐ではなく、山陰の出雲国で再び乱暴沙汰を起こし、出雲の目代を殺害の上、官物を押し取った。

こうなると明確な叛逆なんだが、朝廷は相変わらず、父親の義家に追討とか命じていた(^_^;)。。他に武力のアテが無かったのだろう(笑)。

「月見坂」を下って、入口付近の駐車場に戻る(パノラマ2枚)

1106年、義家は人知れずヒッソリと死んだと見られる。61歳。
この同年、義家の次男・義国(新田・足利の祖)と、義家の弟・義光(新羅三郎)の間に合戦が起きている(常陸合戦)。

……源氏の話は、この後も続けるが(^^ゞ、この頃になると、清衡も完全に平泉に移っていただろうと思われる。

平泉に入った清衡は、ここ「関山」の山頂に塔を一基建て、以後、 南は白河の関(福島県の南、関東との境目)から、北は外ヶ濱(青森県)、およそ現在の「東北」と言われる南北の全域にかけ、109mごとに笠卒塔婆を建てたとも言われる。

その南北のちょうど中間に位置する平泉を選んで、1105年には、最勝院と中尊寺の建立に手をつけたと思われる。
清衡49歳。そろそろ、二代・基衡も誕生した頃だろうか……。




<衣関跡・「接待館跡」>

さてさて! 冒頭にご案内した通り、3日目は平泉の北編!
この後は、「中尊寺」より北部の地域を訪れてみた(^^)。地図B←だいたいこの辺だけど、この地域って、まだ正確な地図が無いんだね(^^ゞ。(拡大して貰うと解るかと)

今地図を見ると、「ここに道があったと思うケド(^^ゞ」、「この道ってこう伸びてたっけ(^^;)」、「この地名、もちょっと違うトコじゃ……(・・;)」みたく思う(爆)。
それでも「だいたいにおいて」当たってるトコに中心点を置くね(^_^;)。行ってみれば、まぁだいたい探せると思うよ?(笑)

地図を見てもわかる通り、衣川は「グニグニグニ〜ッッ!!!」と蛇行しまくっているので、あまり近くで、この川の東西南北の話をしても、どこの話だかよぉワカランと思う(^_^;)。。

なので一言でいうと、「少なくても中尊寺より北」である(笑)。
この衣川地区(ちょい広いけど)には、平安期の遺構、遺跡が多いが、行ってみて「多いね(゚.゚)」と知った(爆)。
わりと道標とかあって、行きさえすれば、次々と出会える具合にはなってるが……。

ちょうど地図にポイント置いた辺りかと→
今、左を河川が通っているけど、右にある遊水地(長方形)の方にバイパスを付け替える工事をしてるんだね(^^ゞ。

こんな風に河川の付け替えにつれて、道路も変わるんだろうね(^^ゞ。
ここの工事してる方が、ちょうど付近のおウチに出入りしてて、地元の方だと思ったので道を聞いたら、(後で思えば)すんごく判りにくい場所だったのに、とっても丁寧に教えて下さったの!(ありがとうございました!m(__)m)

まず衣川(工事中)に近づいてみた(パノラマ5枚・180度以上)

で、道順に沿って、「よく左を見ながら歩いてると、チラッと標識みたいのが見える」と教わった通り、ホント田んぼのど真ん中に案内板を発見した。↓ 地図C←だいたいね(^^ゞ。拡大すると少し西に来てる。

こんな田んぼの中をテクテク来た!(笑)(パノラマ5枚・180度以上)

↑この位置から、前を向くと↓「接待館跡」の案内板(パノラマ5枚・180度以上)

上のが北向き、下のが南向き。いずれ殆ど人ンチだけど(^_^;)。。↑下の写真には、間近に土手が見える。あの辺りが衣川と思っていい(^^ゞ。

この田畑の周囲、東西110m、南北60m余もの広大な地域が、奥州藤原氏の持つ館の一つで、ここには、二代・基衡の妻(三代・秀衡の生母)の居館があった、という。

基衡夫人(秀衡の母)は、前九年の役で、安部貞任・藤原経清(清衡の父)が捕らえられた後、投降して、伊予に流刑となった貞任の弟、安部宗任の娘であった、と伝えられる。

彼女は仏法への帰依が深く、慈善事業として、関道を往来する旅人を接待したり、施しを与えたので、「接待館」と呼ばれたと伝承されて来た。……宗任については、次回あたり書ければ……(^^ゞ。

伝承の一方で、ここには平泉を国府として、迎賓館があったのではないか……という説もある。
大河ドラマ「炎立つ」では、この説に近く、前九年の役が起こる前、国司・藤原登任を迎えて接待した館があった(第1話)が、恐らくこの館跡を舞台にした設定だろう(^^ゞ。

ドラマでは(たぶん原作でも)、安部氏の館と受け取られており、ストーリーとしては、国府に南下を咎められたくないので、接待用の館を作って歓待した……と描かれていた。

これより行く「長者ヶ原廃寺跡」との近さや、伝承の誤差傾向を見る限り、私も奥州藤原時代より、少し古い安部氏などの館だったのが、「安部宗任の娘」として伝承されたのではないか、とも思うし、逆にこれより行く「七日市場」など見ると、奥州藤原氏とも関連ありそうに思える。

北には土塁があるようで、高い所では1.4mもあると言い、距離は約60mに渡って残っているそうだが、他は宅地造成や耕作地のため失われた。また館跡からは、土師器片が表採されたが、発掘調査は行なわれていない。



<衣関跡・「七日市場跡」>

地図D←拡大して貰うとわかるけど、さらに少し西に来ている。ただこの辺も地図では道が明確ではないので、これも「だいたい」ね(^^ゞ。
でもこの辺りは、そう遠くない範囲に遺跡や伝承地が密集してるから、だいたい歩いて探し回れると思う!

ここには「関道」跡がある。
「衣川の関」とか「衣関山」とかで、盛んに出て来る「関」は、この衣川から中尊寺のあった山までの範囲を呼んだ。

↓摩滅してて上二文字が読みづらいが、石碑には「○○大神碑」とある。恐らく「伊勢大神」だろう(^^ゞ

その傍に立つ「衣の関道」の道標↓
←を目印に小さい路だが↓

中央が「七日市場跡」↓(パノラマ3枚・ほぼ180度)

「七日市場」と聞いて、「江戸時代の市場かぁ(^^ゞ」と思ったんだが、これにも奥州藤原氏の事が書いてあった。
すなわち、清衡がいた時代から、衣川を超えた先に北上する道があって、これが主要道だったので、中尊寺を作った時に、清衡はこの道を寺の境内に通したため、中尊寺からも、衣川より北のルートに出られたという。

この道の通称を「関道」と呼び、清衡は道の脇に「伊勢大神宮」を勧請し、「神明神社」として地区民の信仰を集めたため、「関の神明」と称されていたという。

関道の周辺には、7日、17日、27日と「七」のつく日に市が立ち、平泉市街地区で最も繁昌した市場になったと伝わり、現在でも字名となっている。

振り返ると、また何とも言えずメルヘンな風景(#^.^#)→

清衡が中尊寺の着工を手掛けたのが1105年、その落慶供養を見るのが1126年、およそ21年の歳月がかかったが、清衡はその完成を見る事が出来、1128年に眠るように大往生したと伝わっている。

それまでの間、源氏がどうなったか(ちょっと長いけど)書いておくね(^^ゞ。

1106年に義家が死ぬと、その子・義親を追討する役は、平正盛が任命された。

(平)高望王−国香−貞盛−維衡−正度−正衡−正盛−忠盛−清盛(平氏系図

正盛は、翌1107年に任を受けて京を出発し、翌1108年正月には義親の追討を終え、従類5人の首を持ち帰ると報告したが、堀河天皇が崩御した喪のため、父院・白河法皇は首の検分は後に回し、正盛の帰京も待たずに正盛を栄進させ、その子息二人も昇格させた。

この後、僧兵の強訴・乱暴に対し出動する兵力は、源氏に限られず、「源氏、平氏」と並んで書かれるようになった。
つまりこの「義親征伐」が、源氏と並び立つ、いわゆる「平家」が起こった発端、と見られている。

正盛が選ばれたのは、彼が因幡守で義親のいる出雲に近かったからだろうが、世間の反応は厳しく、特に首の検分もせず論功行賞された事、武勲もない平正盛が追討使に選ばれた事は、白河法皇の北面の武士だから、と批判の論調で受け止められた。

それで正盛も、義親以下の首を鉾で刺して、パレードしながら入京し、京の人々も街道に満ち溢れて、熱狂的に出迎えたりした。

ところが、その9年後(1117年)〜22年後(1130年)になると、死んだハズの「義親」が次々と現れるんだな(≧▽≦)。。

これが鞍馬天狗か月光仮面みたくて、凄く面白いんだけど、詳しくは又の機会に譲るとして(^^ゞ、この義親が本物だった場合は、この時の首が偽物だったわけだし、偽者だった場合も、「ホントにあんな短期間で、武功を立てた事もない正盛に、勇猛な義親を討てたのかねぇ(^。^)?」という疑惑が人々に残り続けた、という事にはなるんだろう(笑)。

熱狂パレードも、見に来た人が多かっただけで、平家を認めた人が多かったわけではなかったのかもしれない(^_^;)。。視聴率や興行収益の高さが、必ずしも評価と一致しない現象に似てるようにも思える(笑)。

「七日市場跡」には大木が一本立っているのみ↓だが、その傍らに、一風変わった祠があった。→

すごく急斜面の屋根にアイヌ文様っぽいデザインが(゚.゚)。他に多くの石塔が合祀されてるようだった。
アイヌと言えば(こことは関係ないだろうが(^^ゞ)、江刺・胆沢あたりを境に、その北は北海道と同じ文化圏の出土物とか見られるそうだ。

話は源氏に行っちゃったままなので(^_^;)、いい加減この辺りでマトメておこう(笑)。

義家の死んだ1106年、義家の次男・義国(新田・足利の祖)と、義家の弟・義光(新羅三郎)の間に「常陸合戦」が起き、1108年にも、義親が討伐されるなど、トラブル続きの河内源氏は、義親や義国の弟・義忠が後を継いで、義親の長子(義家の嫡孫)・為義を養子とし、その成長を待つ事で決着した。

が、1109年、義忠は何者かに殺害された。容疑者として、満仲の弟・満政の三代の孫・重実と、義綱の三男・義明に疑いがかけられた。
重実は捕らえられて調べを受け、釈放されると、残った義明への疑いが増して、その父の義綱自身にも疑いが及んだ。

義綱は多くの子息を連れて、近江の甲賀山に篭居し、義明は病のためついて行けず、乳人の滝口季方の宿所に隠れた。
実はこの滝口季方が義明の命令で義忠を襲った、といわれている。

朝廷は義綱らの討伐を、14歳の為義にやらせた。為義は家人らを率いて甲賀山に攻め込み、義綱は坂東に向かって謀叛を策したが、為義の攻撃は早く、義綱は出家して降参、為義に連れられて京に戻った。
義綱の男子は降参に反対し、長男・次男・四男・五男・六男が全て自殺。三男・義明も、疑いの晴れた源重実の弟・重時の追討を受けて自殺した。

義綱は佐渡に流罪となった後に殺害され、その後に、義綱らの容疑は冤罪と知れた。
一説には、義光が源氏の棟梁の座を狙い、弟や家人と共謀して刺客を送り込み、計画通り義忠が死ぬと、口封じのために刺客(鹿島冠者)を殺してしまったとも言われている。


以上で、今回の「源氏話(笑)」も終わり( ̄∧ ̄) お疲れさま>( ^^) _旦~~

摂関時代に代わって院政時代が深まる傍らで、武力の独裁を誇った源氏は、こうして壊滅的に勢力を衰えさせ、代わりに登場した平家は、未だ経験不足を危ぶまれていた。

その隙間に体力を温存し、順調に芽を伸ばして来たのが、奥州藤原氏だったのである。



<長者ヶ原廃寺跡、1>

地図E←詳しくは拡大。ただこれまで同様、地図は詳細じゃない。行く場合は、地図に書かれた道路をアテにせず、ナビ(とか携帯)にポイントを仕込んで行く方がアタリかも(^_^;)。。

でもこの「長者ヶ原廃寺跡」は敷地がとても広く、周囲に遮る物も無く、また私らが行った時は、道路を隔てた向かい、歩いてスグの場所に駐車場が配備され(常時あるかは自信ないけど)、そこには案内所(仮設っぽかったけど)まであった。(地図F←詳しくは拡大)

中央に「廃寺跡」、道路を隔てて「案内所」→
↑「長者ヶ原廃寺跡・史跡案内所」(駐車場

「廃寺跡」のみ拡大(北が上)
史跡・整備後イメージ図(南が上)
←↑敷地内には、北西と北に1基づつ、合計2基の建物跡が確認された。南北の門は一直線上にあるのに対し、東西の門は、位置にズレが生じる独特の作りになっている。

これは西門から入って来た時に見える風景が、まず北西部の小さな建物が最前に見え、北部の大きな建物を中間層に挟んで、東門から見える「束稲山」を、二基の建物郡の背景となるべく、重層的配置を計算してデザインされたからだろう、と推測されている。

北部の大きな建物跡「本堂跡」(タテ・ヨコ5間)には礎石があり、この遺跡が「寺院跡」と推測する理由となっている。

「屋根葺」がつくと、重量が増すので「礎石」が必要になる。地面に穴を掘って柱を立てる「掘立柱建築物」だと、屋根に瓦を葺くと柱が沈み、建物が歪んでしまうので、築地塀と同じく、版築工法で基礎を造って石を据え、その上に柱を立てる「礎石建物」とするのだが、瓦葺きの屋根に出来るのは、役所か寺院に限られているからだ。

だから「本堂」には、同時期にあった多くの寺院建物の中でも、「金堂」のような物が推定されてると思う。
(ただし「長者ヶ原廃寺跡」からは、瓦は発見されておらず、他の葺材を使用していたと思われる)

すると、北部の建物には荘厳な葺屋根が流れており、その手前に建つ北西部の小さな建物跡「西建物跡」(タテ・ヨコ3間)に、スリムなシルエットが建っていれば、背景にある「束稲山」の前にしてバランスがいい(^^)。
そこで「西建物跡」には、「塔」(例えば三重塔とか(^^ゞ)が建ってたのではないか、と想像されている。

あとは東西南北の門の内、「南門跡」(タテ2間・ヨコ3間)にも礎石跡があり、以上、三箇所に建物があったと思われる。

東西の門の位置にズレがあるのに対し、「北門」と「本堂」と「南門」は一直線上にあり、南に中尊寺の関山の一番高い所を中心に見れる配置になっている。

長者ヶ原廃寺跡(パノラマ4枚・180度以上)

↑たぶんね、真ん中に浮かび上がる遠く高い山が「束稲山」ではないかと(^^ゞ。真東に当たるから、山から朝日が昇って来るのも見えたかしら? 縮小サイズだが→地図G

↑この案内板と石碑は低い土塁(築地跡)に乗ってて、そのすぐ裏手には通路が敷かれているので、とりあえず北辺に向かってみる(^^ゞ→

通路の左側、西辺の築地跡(パノラマ4枚・180度以上)

↑稲田の丈で隠れてるが、このすぐ向こうに平行して道路ね(^^ゞ。
築地塀跡は、地表から15cmほど掘り下げると、もぉ現れるんだって(#^.^#)。ここまで保存状態の良い築地塀跡は、全国的にも珍しいらしいよ♪

この長者ヶ原廃寺跡は、平安時代後期、1000年ごろに建てられた寺院の跡で、正方形に近い敷地は、南北100m強、東西90m弱の土塁に仕切られ、周囲には築地塀が巡っていた跡がある。
その四辺のうち、大きな「南門跡」が正面だったと思われる。

礎石の配列や遺物の配置、出土した土師器などから、「奥州藤原氏の時代」か、「それ以前の寺院」だった事が推定されており、「それ以前(1000年ごろ)」の可能性が高く見られているようだ。

この遺跡の存在は、享保4年(1719)に完成した仙台藩の地誌「奥羽観蹟聞老志」にも見える。

もっと遡れば、文治5年(1189)9月27日、奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝が鎌倉に帰る前、時間を割いて衣河の安部氏ゆかりの地を見学した様子が、「吾妻鏡」に記録されていて、「土塀の中には何も残っていない。秋草が生い茂っているばかりで、どこに礎石があるのかも分からない」とあり、頼朝の探し求めていたのが、この長者ヶ原廃寺跡だった事がわかる。

通路の先には、木陰に石仏群→

敷地の中央に入って振り返る(パノラマ3枚・ほぼ180度) 木陰と石仏群↓

さらに→こう歩いて、北辺の築地跡まで到達(パノラマ2枚)

ここは昔(たぶん江戸時代とか(^^ゞ)から長く、「金売り吉次の屋敷跡」と伝えられて来た。
「金売り吉次」は、奥州藤原三代・秀衡の御用商人「三条吉次季春」で、義経の物語に出て来る。
承安4年(1174)、16歳の源義経藤原秀衡を頼って平泉に下向した時に、その手引きをして、京から連れてきたという伝説上の商人だ。

大河ドラマ「炎立つ」では、義経の時代の「金売り吉次」は、紺野美沙子が演じる「橘次」になっていて、前九年の頃の吉次(西村晃)の子孫であるようだった(笑)。

やはり先の「接待館跡」が、「炎立つ」で「藤原登任の接待に使われた」と設定されたのと同様、この「長者ヶ原館跡」も、古くから移り住んだ「物部氏の一族」なる、「吉次の一族の館」として登場したように思う(^_^;)。

地元の人々が長い間伝えてきた伝承として、「金売り吉次の屋敷跡」とされた理由についても、引き続き研究を続けていく必要があるが、現在は、奥州藤原氏の前時代の「安部氏の建立した寺院」と推測されている。

これが北西部の「西建物跡(パノラマ3枚・ほぼ180度)

↑この左の枠ね(^^ゞ。一方、→こっち(東)に行くと……↓

北部の「本堂跡」の礎石群(パノラマ2枚)

↑こういう溝は、かなり深くて草ボウボウよ(^_^;)。おまけに湿地なので気をつけてね(笑)。

現存する最古の中世仏堂は、永暦2年(1161)に立て替えられた、奈良県葛城市の当麻寺曼荼羅堂(国宝)なので、この「本堂跡」にあった建物が中世仏堂だった場合、さらに100年以上も遡る事になるそうだ。

土塁(っぽい)跡と溝部分(パノラマ4枚・180度以上)

こんな土塁が外側の築地塀跡にもあって、北門は簡易に作られた物らしく、築地塀が途切れているそうだ。

一方、正門として立派な礎石跡が確認された南門跡は、今は農道の下になっているそうだが、調査によって、本柱や軸穴受けが無いことがわかり、正門によく用いられる「八脚門」ではない、と思われるそうだ。
と言っても、同様の門跡は他の遺跡でも見つかるらしい。ただ絵画としての資料が無いため、復元図など書けないそうだ(^_^;)。

南門跡」から北の方を見る(パノラマ5枚・180度以上)

廃寺跡の四辺を囲む「築地塀」は、宮殿や役所、貴族の邸宅、寺院などを囲う塀であって、貴族の邸宅の場合も、「日本紀略」に、「六位以下の、築垣ならびに桧皮葺の宅は停止すべし」とあり、五位以上でなければ、築地で囲うことは許されなかったようだ。寺院も同様に、ある程度格のある場合に限られていただろう。

そのような事から、ここが「安部氏の建立した寺院の跡」と推測されているのだ(^^ゞ。

また、「吾妻鏡」にも、「安部頼時衣川に屋敷を構えた。子弟の家も軒を連ね、家来の家は屋敷の門を囲むように建てられた」とあり、衣川が安部氏の政治的本拠地だった事が伺える。

安部氏の滅亡後も、源義経が身を寄せ、最期を遂げた「衣河館」はこの周辺に存在したようだし、先ほど見た「接待館跡」に大規模な土塁と堀、大量のかわらけが発見された事からも、奥州藤原氏の時代も、重要な施設は衣川におかれていた事が推測できる。

中央で、北〜東(束稲山)〜南を写す(パノラマ5枚・180度以上)

同じくその逆、南〜西〜北(パノラマ5枚・180度以上)

昭和32年(1957)と47年(1972)の二回にわたる発掘調査によって西門土塁跡、南門跡、本堂跡、西方塔跡が確認され、南門跡については、平成18年度(2006〜)にも発掘調査が行なわれているようだ。

以上、関連事項は(だいたいね(^^ゞ)、
2007年12月<白石城>内

2008年2月<鹽竈(しおがま)神社>内
2009年1月<恵日寺>内
2009年2月<立石寺(山寺)、対面石〜根本中堂〜山門>内以降
  〃    <立石寺(山寺)、仁王門〜三院〜三堂>内
2009年3月<羽黒山・山頂>内以降
2009年4月<阿津賀志山防塁>内
2009年5月<相馬・中村城跡(東〜南側)>内以降
2009年11月<千騎ヶ岩・犬岩>
2010年1月<えさし藤原の郷・@「政庁」>内
  〃    <えさし藤原の郷・C「河崎柵」「伊治城」「厨川柵」、1>内以降
2010年2月<えさし藤原の郷・D「大路」「街並み」→出口>
  〃    <館山史跡公園(岩谷堂城跡)、「二清院」>内
  〃    <矢びつ温泉「瑞泉閣」にて、3日目朝!>内
  〃    <中尊寺・参道、1(八幡堂)>以降


次回は第5弾。この「長者ヶ原廃寺跡」の続きから、「衣川柵」「小松柵」など巡り、3泊目〜4日目朝の「厳美渓」、再び平泉に向かう途中の「達谷窟」、そして平泉「毛越寺」まで入って、次々回の第6弾(たぶん最終回)に繋げたい(^^)。

<つづく>

2010年03月11日
 
     






ホーム