今月すなわち「6月」号は2回ある(^_^;)。 前回分は、遅れて6月にズレ込んだだけで、 実質的には「5月」分なので、改めてそのように題名させて貰い、今回のを「6月A」と題する事にした(^^ゞ。 「北栃木〜南福島」三回目は、いよいよ福島県に入る(^^)! 湯西川には1日目の写真も出したが、行程的には2日目の朝、宿泊場の川治温泉を出て、湯西川の平家落人村の数箇所を巡るレポをお届けした! 今回は、2日目の湯西川に行った後……午前中から夕方まで(^^)。 ルートは、栃木から県境を越えて福島県に入り、南方から順々に、まずは「奥会津博物館」で民家の展示村を紹介。 そして会津を目指す北上の途上、「塔のへつり」の天然の風景、「大内宿」の古い宿屋街道を巡りたい♪ 全体的に江戸時代の建物が多いので(笑)、話だけになるが中世については、福島南部(南会津)の長沼氏を中心に語りたい! <湯西川〜五十里湖〜県境〜南会津(糸沢)>
ではまず、五十里湖に向かおう(#^.^#)。
これより向かうのは、五十里湖から北上し、栃木県の県境を越え、「南会津」とか「南福島」と言われる地域で、次の目的地は「奥会津博物館」。糸沢という所にある。 到着はまだずいぶん先だが、湯西川や五十里湖や塩原の話は前回までに随分したので、南会津の話に進んでおきたい(^^)。 前々回に塩原を紹介した時、「塩原(温泉郷一帯)」は、「宇都宮氏」の支配下にあった事が多いと書いたが、「塩原氏」自身は「長沼氏」寄りの勢力だった。(2011年4月<お蕎麦と箒川と「塩原もの語り館」>) つまり、栃木(下野)と福島(陸奥)の境は、「宇都宮氏」と「長沼氏」の二大勢力に挟まれていた。 宇都宮氏は、宇都宮がある辺り……つまり塩原より南の勢力と言っていい。一方の長沼氏は、元は下野にも勢力があったようだが、これより北に向かうと歴史に多く登場して来る。
地図C←五十里湖の交差点で、249号線から左折。これより、121号線を北上(^O^)/ 長沼氏は、小山氏の三兄弟、「小山」「長沼」「結城」の内の「長沼氏」で、小山三兄弟は小山政光を父、その妻で、頼朝にとって乳母「寒河尼」を母とする。(少なくても結城朝光は、寒河尼の生んだ子に間違いない) それゆえ頼朝に取り立てられ、長男の朝政は「小山」を継ぎ、次男の宗政は「長沼」、三男の朝光は「結城」をそれぞれ名乗り出世した。 小山政光 ┌朝政(小山) ├−+宗政(長沼) 寒河尼 └朝光(結城) 中でも特に結城朝光は、頼朝の子供の一人と言われるほど頼朝に愛された。 朝光の方でも頼朝の死後、「忠臣は二君に仕えず」と故事を引いて豪語したもんだから、これを梶原景時が二代・頼家(頼朝の長男)に讒言したという。 これに対して、御家人66名が「チクリ魔!ヽ(`Д´)ノ」といっせいブーイングを鳴らし、梶原景時を滅亡に至らしめる事件に発展している(^_^;)。(2009年10月<千葉山>)
小山氏は元々、藤原秀郷の末裔である。(もちろん長沼・結城も(^^ゞ) 幕府の二代執権・北条義時が、御家人たちの土地を取り上げようとした時(1209年)、小山・千葉・三浦ら大身の御家人は、各々の家の由緒を三代・実朝に訴えて、取り下げさせた事がある。(2009年11月<等覚寺、1>内) この時、小山氏は、「平将門を討伐して賜った」と、御家人たちの中でも一番古い由緒を持ち出している。 秀郷は平将門を倒して、鎮守府将軍や下野守を経るので、この主張も正しいが、「将門記」における秀郷の登場や、その背景事情を鑑み、又、下野に小山氏を含めた秀郷流の子孫がかなり古くから多かった事を考え合わせると、秀郷以前から下野の住人だったと、今日では考えられている。
地図D←ちょっと縮小。上三依にポイントを置いてる。上三依を右折すれば塩原に行く。今回はこのまま北上し、県境を越えて、道の駅「たじま(田島)」のある位置→地図E
平安末の動乱においては、1180年の頼朝の挙兵によって鎌倉幕府が芽生えてから、1184年に平家が滅ぶまでの間、平家側で名の上がる「城氏」の与力として、会津・慧日寺の「乗(城)丹坊」らが会津地域で躍動していた事が知られている。 この乗丹坊は1181年、信州の合戦(横田河原の戦い)で戦死。慧日寺も城氏も、木曽義仲の勝利行動および、平家勢力の衰退とともに、奥州藤原秀衡に空白地帯を狙われ、衰退の一途を辿った。 (2009年1月<如蔵尼と乗丹坊の墓・龍宝寺「不動堂」>内) そして今回は、この後に続く長沼氏の話を、ちょくちょく交えながら進めたいと思う。 そろそろ目的地が近付いて来たから、続きは後で(^^ゞ。
右の写真は、見終わって戻って来たトコだから、←121号線はこう走ってて、↓こう曲がるわけ(^^ゞ。 「奥会津博物館」と、かなり大きな看板なんだけど、これ以外に特に目印もなく、一本道を前後とも車がバンバン飛ばしてるのに合わせて走る内、おお〜っと通り過ぎて引き返すような感じ(^^ゞ。 旧名は「奥会津地方歴史民俗資料館」と言うようだ。地図によっては、こっちで載ってる(^^ゞ。 鉄道でも来れる。会津鉄道「会津山村道場」駅が近い。徒歩15分くらいかな。 まだ着いてないけど、位置を出しておくね(^^)。地図F
住所には南会津とあるが、周囲の主要な地名に「糸沢」ともあるm(。。)m。 「糸沢」は、今の地図だと、121号線が栃木県より真っすぐに来ていて、これよりやや北の「田島」に達しているように見えるが、昔の主要道は「田島」の東西を巡っていて、「糸沢」などは、「田島」からまさに糸をたぐるように南に奥まった位置にあった。(下野との国境には繋がってたかもしれないが) この南会津の中心地「田島」こそ、長沼氏の本拠地と推定されている。 <奥会津博物館(旧・奥会津地方歴史民俗資料館)> ↑到着(^_^A)。敷地が広いので、その前に当地の絵図面にて説明〜♪ もう一度→地図F
そして道路を隔てて下部に、博物館、および、さらに下部分に民家園が広がっている。我々はこちらを見学する。 それがこっち。左端が区分道路。建物は博物館(パノラマ2枚)
博物館と民家園の見取り図はこちら↓
↑この左端の道路が、今言った広大な公園敷地との区分道。道の右側を見学する。 今いる建物が敷地内の左「展示室」および「収蔵庫」が並ぶ黄色い敷地。 展示室では、昔の山の暮らしの道具や風景など、2万3千点の民具の中には、5058点もの国重要有形民俗文化財が含まれている。 順路は、これら室内展示を閲覧した後、右方向に出て行き、「バッタリ小屋」「馬宿」「水車小屋」と進み、中央を残して先に右上「炭焼小屋」「木地小屋」、右端「旧猪股家住宅」。 そして中央の道を戻りながら、右に「染屋」、左に「古民家レストラン・山王茶屋」、最後に「あずまや」を経て、また展示室のある黄色い敷地に戻って来る。
彫像を並べたり、緑豊かな散策路など、ちょっと博物館風で落ち着いた佇まい(^^)。 さて、長沼氏の話に戻りたいが、最初に断っておくと、長沼氏とここに展示される各民家に関係があるわけじゃない(^^ゞ。 ただ、時代は異なるものの、同じ地域の歴史と言えるのと、武家としての長沼氏は米沢に行ったようだが、多く(支流と言うべきか)は、江戸時代を前に、この地で帰農したそうだから、こんな建物に住んだり利用した子孫もいたかも……とは思う(^^ゞ。 この地域における長沼氏の登場(長沼氏の根拠地となったキッカケ)は、1183年「野木宮合戦」を起源と見る。 これは、頼朝の叔父・志田(三郎先生)義広が討伐される事件で、この関東では、この志田義広が暴れ回っていた時期がある(^_^;)。。 頼朝は初め叔父でもある事から見過ごしていたが、義広が常陸の鹿島神社領を横領するに及んで、看過できず咎めた。 これに反発した義広が、鎌倉に攻め込もうとし、下野国の小山が、ちょうどその道筋にあたるので、小山朝政は義広軍を防ごうと戦ったのが、「野木宮合戦」だった。 が、折しも主力を関西方面に裂かれていた(木曽義仲や平家への戦備だろう)小山朝政は、苦戦を強いられた。 そこに弟の長沼宗政が手勢をつれて参戦、見事に敵勢を撃退し、怪我をした兄・小山朝政に代わって、鎌倉の頼朝に報告にあがり、長沼庄を得たのを機として、「長沼氏」と名乗った。 その時に、ここ「田島」(長江庄)も長沼宗政の物となったと見られている。 展示室から坂を降りると、「バッタリ小屋」と「馬宿」(パノラマ3枚ほぼ180度)
初代・長沼宗政には、こんなエピソードがある。 頼朝の始めた鎌倉幕府の世となったが、頼朝の死後は、その内部で苛烈な抗争劇が繰り広げられ、次々と有力御家人たちが粛清・淘汰された。 そのうちの一人が、先ほども言った梶原景時だが、丸きり謀反の濡れ衣を着せられたのが、畠山重忠である(^_^;)。(2009年11月<等覚寺、1>内) 畠山重忠が討伐されるに当って、三代将軍・実朝は、畠山重忠の子・重慶を生け捕りにするよう命じていた。 なのに、討伐に出た長沼宗政は重慶を討ち取ってしまう。 ゆえに実朝の怒りを招くが、宗政は「将軍が和歌や蹴鞠に明けくれ、取り巻きの女の助命嘆願を聞き入れて、罪人の沙汰を左右すると、将軍のために命を捨てる忠臣が居なくなってしまうから、不興を覚悟の上で殺した」と述べた。 こんな剛毅な宗政が初代だったが、2代・時宗の頃は、下野と陸奥を結ぶ街道を整備したり、時宗が和歌を詠んだ話もあれば、三依熊野宮の祭礼を催した話もあって、文化的な雰囲気が漂う。 また時宗は塩原温泉がお気に入りで、この頃は塩原も、長沼氏によって手を入れられてた様子が伝わって来る(^^)。
この「馬宿」は、糸沢の「今泉平」の「大竹家」の住宅を、移築・復元したもの。江戸期の享和元年(1801)の建築だそうだ。国指定重要有形民俗文化財。 寛永20年(1643)、(今までの話からはかなり飛ぶが(^_^;))、保科正之が会津に国を与えられると、会津の南部(南山)は幕府の直轄領(御蔵入領)となった。 これは日光に東照宮があるため、その北を防備する必要がある事や、会津−日光−江戸の流通経路が、年貢の運搬路として重視された事、将軍が日光詣でをする時、人足挑発をしやすくするため等、理由は色々。 会津から江戸に向かうには、白河を通る道筋と、この南会津を通るルートがあって、後者は江戸〜会津を結ぶ特に重要なルートだった。 近年は「会津西街道」と言うが、昔は「日光街道」と言って、会津藩の記録には、古くは「南通り」「南山通り」とも見える。後に「下野街道」とも呼ばれた。 江戸時代は公式に交通制度が整い、宿駅が設けられている街道では、旅人の荷物も商の荷駄も、駅ごとに荷を積み替えてリレーしつつ輸送した。
正面にはズラーッと民家が並んで、村みたい(^^)(パノラマ2枚)
↑こんな感じに、ウワ〜ッといっせいに古風な民家が並んでる一帯に出るんだが、さっきも述べた通り、中央部には最後に入って来るとして、まずは周囲から見て廻ろう(^o^)!
簡単な掘立小屋だが、雪や雨に耐えられるよう、屋根は板や木の皮を使用したそうだ。 ちなみに「炭焼き小屋」というのは、この地域では、木地師が刃物を作るのに付随して伝来したそうだ。 木地師は江戸以前からいたが、元々は「山神」を信仰していた。 それが江戸時代の天明年間(1781〜88)、それまで信仰されていた「山神夫婦像」が、イキナリ「惟喬(これたかし)親王の夫婦像にとって代わるそうだ(^_^;)。。 チェンジの理由はよく知らないが、木地師の独特の信仰として、皇族の末裔(主に皇子)を神と崇める(祀る)スタイルがあるので、それと関係するのではないか、といった感じだった(^^ゞ。 これに似た傾向と言えるか、この後、「大内宿」に行っても、やはり皇子を祀る神社に出会う。 これより北に「田島」、そこからさらに北西に「畑小屋」という地域(昭和村大芦)があり、そこに従来からの信仰とのチェンジ期(過渡期)にある「山神像」が残されていたため、信仰チェンジの時期が知れるという(この畑小屋も、大内宿とほぼ同北緯(^^ゞ)。 で、この「炭焼き」だが(^^ゞ、木炭じたいがそもそも、タタラ製鉄や鍛冶の必要性に応じて製造されるようになったといわれるから、木地師との関係は深いと言える。 が、暖房として用いられたのは江戸中期からで、明治からは白炭を焼く技術が開発された。火力が強いのに煙も燃えカスも出さない優れた燃料と言え、昭和前期までは、木炭の品評会が盛大に行われ、一大産業だった。
こうして他の民家の中に混ぜると、それほど特異な印象ではないが、私らはこの小屋を見た時、何となくスゴイ物を見た感じがした(^^ゞ。実物は、だいぶ他の民家と作りが違うように感じる。 「木地小屋」は、屋根は笹の葉で葺き、木の皮で周囲をかこった粗末な物で、中では仕事も行った。 良い木を探し、伐採してマガリヨキでアラガタを起こし、小屋に運んでカタブチ(外側整形)、ナカギリし(内側をえぐる)、乾燥させて手挽ロクロを用いる。 木地師は木材を得るため、古くは中世より、ブナ林の豊富な奥会津の山に何度も入り込んでおり、林の中に小屋も建てた。須恵器(古代の器物)を駆使したのも、木地挽といわれるそうだ。 畑小屋は、400年にわたって多くの木地師グループが去来した場所で、江戸時代より前は、秀吉の奥州仕置の後、蒲生氏郷が会津に配置されてきた時に連れて来た木地師たちが知られる。 蒲生氏郷は近江日野村の出身だから、「近江の木地師」という事になろう。 やがて蒲生家は会津から居なくなるが、木地師たちは会津若松城の城下から、南会津や耶麻郡などの山へ移動して根付いたようで、1613年には磐梯町より、大芦村の畑小屋にある木地小屋に移った事などが古文書に見られる。 というわけで、いよいよ中央にやってくる(パノラマ2枚)
↑左から「旧猪股家住宅」「旧山王茶屋」「あずまや」。まずは一番左「旧猪股家住宅」に行ってみよう。やはり田島町の民家で、1720〜30年頃の建築と推定される。
そして、この「山王茶屋」が最初に出来たのは、1617年で、南山通り(下野街道)の下野との国境に近い山中と思われる。 そこは「山王峠」と呼ばれ、、荊(いばら)の棘で袖を破るような、ボウボウとした原野だったが、路の便を計るためこうした家屋が建てられたという。
また座敷も、武士専用には書院造で庭の景観を眺められ、部屋も市民階級とは区画を別としていた。 戊辰戦争(1868年)で、西軍に焼討ちされ焼失したが、翌年に依然と全く同じ間取りに再建されたという。 現在地への移築と復元は、2006年。町指定重要文化財。
左の写真は、本来お薦めの郷土メニュー。「蕎麦」「岩魚の塩焼」、「つゆじ」はおすまし風の会津料理。前に会津旅行した時、旅館で頂いた。「にしんの山椒漬」。あと「しんごろう」というのは田島の郷土料理で、お餅のようだけど、まだ食べた事がない〜! そして右のが、注文したお昼ご飯〜(^O^)ф めっちゃボリュームあったど!(笑)私は食べ切れなかったけど、亭主は頑張って食いつくしていた! 天ぷらはつけ塩で頂く。食材がどれも大きく、カリィッ!としてて美味しかった(≧▽≦)! 天ぷらの具と言い、漬物と言い、新鮮で濃い野菜の風味がして、いかにも、たった今畑で採れた〜って感じの味と食感だった! ただ、食べ物が美味しかっただけでなく、今でも思い出すのは、座敷に入ってくる涼しい風……お茶やご飯を頂き、あるいは食後の休憩をしながら、あの風に吹かれる爽やかさ……あれが何とも最高だったなぁ(^^)。 さて食後( ^m^)<ゴッツォー 「奥会津博物館」の民家展示場も、いよいよ最後の一軒となる。今いた「山王茶屋」と同じ中央の通りの対岸にあるのが、ここ「染屋」↓ 「染屋」(旧杉原家住宅)は、これもやはり田島にあった。 1760〜80年ごろに創業した染屋(紺屋)で、昭和40年代(1965〜75)まで染織をしていた。 昭和62年(1987)に建物・藍甕・すくも小屋(染料を作る)・染道具などが文化財として譲られた。
が、儀式用に紋付・袴の「型染め」や、五月節句や神社祭礼の幟旗も染め(旗染め)、祇園祭に着る裃をサメ小紋に染める仕事を請け負う専門職でもあり、商圏は町内はもとゆおり、伊南・伊北・金山谷地方全域に及んでいた。 今も残る藍甕も、石英岩をくりぬいた全国でも珍しい物だった。 内部。大きな布を広げられる空間(パノラマ3枚・ほぼ180度)
民家のあった時代(江戸期以降)の話ばかりになったが、長沼氏の話も続けておこう(^^ゞ。まだ鎌倉時代だったよね(笑)。 北条泰時(3代執権)の時代は、北条・安達・そして三浦が、それぞれ勢力を持って生き残り、無難に過ごしていたが、北条時頼(5代執権)の時代になると、幕府御家人の抗争劇は、最終的に三浦氏への討伐、「宝治合戦(1247年)」をもって締めくくられた。 この南福島の地域にも、これより北の「会津」あたりに、三浦氏一族の地盤があったようだ。 この「宝治合戦」では、安達氏が執権側(北条得宗家)、対して三浦泰村が滅ぼされる側となった。 同じ三浦一族では、葦名(後の芦名氏)が執権側につき、佐原氏は三浦側についてともに滅んだ。 佐原氏の名はこうして消えるが、かわって戦国期にかけて芦名氏が勢力を誇って行くのである。
長沼氏の3代・宗泰、4代・宗秀の頃に元寇(1274・1281年)。 この4代までは父から嫡男へと惣領が移行するが、惣領制もこの辺りで全国的に崩れ、また、鎌倉幕末〜南北朝の動乱にも突入していく。 その前後、塩原では宇都宮氏と長沼氏の抗争も激化。 元々、評定衆に選ばれている宇都宮氏は隆盛にあり、まさに黄金期を迎えていたが、一方の長沼氏は一介の御家人に過ぎなかった。 それでも長沼氏は塩原温泉を手放すのを嫌い、1319年に宇都宮氏と激突。「大原の戦い」が行なわれた。 又、こうした間隙をぬって、大須賀氏や君島氏(千葉氏庶流ともいわれる)など、宇都宮氏を頼る勢力も現われ、徐々に長沼氏の勢力は、下野国境から水を空けるようになる。 <塔のへつり> ↑さらに会津めざして北上するルート上にある。 地図F←もう一度「奥会津博物館」。次の目的地「塔のへつり」は→地図G 「塔のへつり」は、歴史的にどうとかいう場所じゃなく、天然の巨岩・絶壁に囲まれた絶景地(^^ゞ。場所も、田島をも越えて北にある。
さて、鎌倉幕府(北条政権)が倒され、後醍醐天皇とその側近により始まった「建武の新政」で長沼氏は、所領は安堵されたものの、父祖伝来の「淡路国の守護」に認められなかったので、他の多くの武家同様、不満だったようだ。 倒幕に功績あった足利尊氏も、関東(鎌倉)に起きた「中先代の乱」を独断で鎮めた後は、後醍醐天皇の上洛要請にも応じず、討伐令を受けた新田義貞とも戦いあい、義貞を追い上げて京に迫ったので、後醍醐天皇が奥州にいた北畠顕家に命じ、尊氏を挟み撃ちさせ、尊氏は負けて九州に落ちた。 この時(上京戦の時)、尊氏から約束された淡路国の守護職は、この敗戦の(九州に落ちた)ため空手形となってしまうが、ここまで一連の公家×武家戦争において長沼氏は、終始、足利尊氏に与したと思われる。 その後、1336年に楠木正成、名和長年、千草忠顕、1338年には北畠顕家、新田義貞と、尊氏に対抗する後醍醐天皇側の者は次々と戦死。(2009年4月<霊山神社>内) そして北畠親房(顕家の父)・顕信(弟)は、顕家なきあとの東北に拠点を作り、巻き返しを図ろうと船出し、暴風に遭いながらも、常陸に上陸。親房は小田城に入ってしばし頑張る。(2009年7月<南部「今城」>内 ) この時、この南朝方・北畠親房に協力する武家で、一番に名を顕すのが、小山一族の結城宗広である(^^ゞ。 結城宗広は、親房の参謀として重要な役を果たし、嫡子・結城親朝(白河結城氏)は、親房に下野守に任じられる。
この辺りの風景が、何だか予想を越えて凄くて、亭主もハンドル切るたびに歓声を上げた。 右の写真なんか、海に面した絶壁でも辿るような風景が続く道で(もちろん丸きり内陸です(^_^;))、こうした風景の果てに行き着く、という点も含めて「塔のへつり」という名所なのかもしれない(^^ゞ。 結城氏が北畠親房の根付いた南朝方についたのに対し、長沼氏はどうだったか……。 「南朝側」とされる記述をよく見掛ける。結果を見ても可能性(比率と言うべきか)が大きい一方で、どんな行動をもって北畠側に協力したのか、ハッキリした点がわからない(^_^;)。 まず以下は、北畠親房自身の文面。結城親朝(宗広の嫡男)に、南朝への加勢を頼んだ書状↓ 「小山は一度も南朝に協力せず、長沼はウロウロして頗るみっともなく、結城だけが、遠い先祖を鎮守府将軍であった藤原秀郷にもつ美名に相応しい(終始一貫、南朝にいた事を褒めている)」 と、小山三氏への評価を下している。 こうした文面は、味方を鼓舞するために書かれるわけだし、めくるめく変化する状況の合間だと、明日には違う事を言う可能性もあって、事実とは限らない。 特に北畠親房の書状は、気をつけて読む必要がある。 普通の武士のように、好んで孤立・奮戦できる立場じゃなく、味方の口も敵の口も通じて、南朝方に加担する気になってくれそうな武家の心象とか、それは色々工夫(ってか苦労)があったと思う(^_^;)。
長沼氏が南朝寄りでなかった面を探ると、まず、先祖代々の「淡路守護職」が、建武の新政によっては継続されず、不満であった事は既に書いた。 他には、北畠親房の長男・顕家が生前、長沼秀行(5代)の所領を取り上げ、宮城郡の大河戸隆行なる武士に与える約束をしている。 逆に南朝寄りと思われる面を探ると、北朝が成立し、尊氏が改めて安堵状を発給したものの、1339年、淡路守護職は、細川師氏が任じられてしまう。 これは、長沼氏自身が南朝に協力した事が原因と言われる一方、一族の結城親朝が下野国の守護に任じられている事が原因とも言われ、また、淡路国には南朝勢力が強かったため、四国に勢力を持つ細川師氏の方が実質的に適任であったからとも見られている。 さらに、北畠親房の記述に、「長沼すでに異変」と、ガッカリした様子がある一方で、親房がずいぶん長い間、長沼氏を頼みに思っていたようでもあり、長沼氏内部で南北に分裂していた事も窺える。
地図G←もう一度。あと、この「切り絵」で描く絵地図が↑、何だか気に入って、しばらく見入ってから入場(^^) 絵図の左端に渡る橋は、「藤見橋」。 逆に右で、水辺の手前に見える岩が「鰐口岩」で、こっち側には「藤見公園」がある。 そして水辺の向こうの岩の塔が、左から、「屏風岩」「烏帽子岩」「虚空蔵尊」「舞台岩(下部)」「土俵岩(下部)」「護摩塔岩」「象塔(ぞうがた)岩」「尾形塔岩」「九輪塔岩」「櫓塔岩」「尾形塔岩」「獅子塔岩」「鷹塔岩」「鷲塔岩」。 ではでは、入口の階段から(パノラマ縦3枚)
「塔のへつり」の「へつり」は、上を「山」下に「弗」と書く。 現地の方言で「断崖」「絶壁」「急斜面」「縁」(へり・ふち)、あるいは「川に沿った路」を言う言葉。 階段を降りると、次々と塔が出て来る(パノラマ3枚ほぼ180度)
この独特の景観を作り出すまでに、百万年もの浸食と風化を繰り返し、奇岩怪石による塔が並びそそり立つ。 昭和18年(1943)に国の天然記念物に指定されている。
渡るぉ!(パノラマ縦6枚180度以上)
これが……何となくコワイんだわぁ(^O^;)。途中で写真も撮ったけど、橋は長いし、ユサユサ揺れるし、ちょっと突風が来ると落ちそうな感じがして、あまりちゃんと撮れなかった(笑)。
廻った所は、ド〜ン!と天井から地上から岩が寄せて塞がれ、合間に無数の積み石(賽ノ河原)がある。↓ ズーッと続く賽ノ河原(パノラマ5枚180度以上)
ここから階段が、橋よりさらに高い位置に上がってて、お社がある。 この階段、勾配も急だが、足を入れる場所が狭くて、みんなカニ歩きっぽくなっちゃって、一人一人が長く階段に張り着いてるから、何かカメラ構えるの悪い気がして、写真は撮れなかった(^_^;)。 階段を登り切った先も洞窟。格子の奥に社(パノラマ3枚ほぼ180度)
手書きで由緒が書かれていた。坂上田村麻呂が東征の折に祀った事を起源としている。 福島県では、田村氏が末裔を名乗るのもあって、特に坂上田村麻呂伝承が根強いが、この洞窟内部の社を見ると、やはり岩手県の「達谷窟」(平泉の近く(^^ゞ)を連想する。 破損したたため、現在の社が宝暦3年(1753)に建立されたと伝わっていたが、鑑定の結果、本当に約300年前のものと判明したそうだ(゚.゚)。 つまり、それより前から祀られてた事になるし、こういう形で剥き出しの岩肌なんて、昔は丈六仏とか崇められたようにも思えるね……。
菊の御紋に引っ掛けるワケじゃないが(^^ゞ、その後の南朝勢力の動向から、話を再開。 関東の情勢は、下妻・東條・小田らも北朝に転じ、1343年に高師冬が関城を攻撃すると、さしもの結城親朝も、尊氏がわの工作を受けて北朝側に転じた。 関東は北朝の優勢が決定し、奥州における南朝勢力は、多賀城から霊山城(地図H←霊山神社に中央点をおいておく(^^ゞ)に南朝の拠点を移した北畠顕信(親房の子、顕家の弟)がいたが、1347年に吉良貞家に攻め落とされ、宇津峰城(地図I)に移ってこれを守る事になった。 (霊山と宇津峰の位置を比べると、南下して、長沼氏のいた田島あたりに近くなっているのがわかる) 一方、すでに1336年には開かれていた室町幕府だが、内部では尊氏(兄)+高師直と、直義(弟)+上杉重能に別れて対立し、長沼氏が尊氏派から外れる形跡を見るのは、この対立の結果おこる「観応の擾乱」(1350〜52)においてのようだφ(。。)m。 長沼宗政を初代として、5代目の代は、系図にも五兄弟が見られる。
観応の擾乱は、中央的には直義が死に追い込まれ、尊氏が勝利したが、奥州では尊氏側の畠山氏と、直義側の吉良氏が、ともに「奥州管領」に指名されている事から、双方に別れて「奥州合戦」を戦った。 中央の趨勢とは逆に、吉良貞家が優勢となり、畠山国氏を仙台岩切城に滅ぼしている。 南朝の砦で、北畠顕信の守る宇津峰城も、観応の擾乱の最後の1352年、吉良貞家の攻撃を受け、落城。 長沼秀行の弟、朝実(三男か)は、甥で惣領の秀直(秀行の子)とともにこの攻撃に参加しており、戦功によって、本領の安堵を求める軍中状を願い出ている。 長沼氏は下野にも領地を持っていたが、この南北朝以後の動乱で、一族の結束はすっかり散じた上に、下野は上杉や小栗に浸食され、東北に移らざるを得なかった。 そのため、栃木県のどこに住んでいたか……などの史料も無くなってしまったようだ。 塩原で買った本にも、長沼氏はだんだん衰え、塩原には、かわって宇都宮氏が支配に乗り出した様子が書かれる一方、長沼氏に仕えた塩原氏の動向も、時を追うごとに不明になってく感じがしたかな(^_^;)。 <大内宿に向かう> 次に向かうのはここ→地図J 「奥会津博物館」から「塔のへつり」までの距離の半分もないが、なぜか写真はいっぱい撮った(笑)。 ただ、大内宿まで北上すると、そろそろエリアは会津が近くなる。長沼氏の話は、そろそろ終わらせとかんとね(^^ゞ。
奥州における長沼氏は、おそらく田島の鴫山城あたりにいたと推測されるが、上杉氏に土地の横領を受けていたため、「上杉禅秀の乱」(1416〜17年)では、関東公方・足利持氏側についた。 その後も持氏に臣従していたが、持氏は「永享の乱」(1435〜38年)で滅んでしまう。(「千葉県の動乱」vol2<上杉禅秀の乱(1416〜1417)>以降) 長沼氏は居場所を失い、何とか残った皆川城に入り、「長沼」を改め、「皆川」と改姓したため、こんにち残る多くの長沼氏関連の史料は、「皆川」と名のつく古文書に記されているという。 名を変えねばならぬほど一気に没落……俄かには信じがたいが(^_^;)、色々な説があるようだ。
例えば、持氏の遺児・春王丸・安王丸を奉じて挙兵された「結城合戦」(1440年)において、長沼氏は途中まで参加であったが、途中から退転したという。 また、持氏の叔父の内、満貞(稲村御所)は持氏派だったが、満直(篠川御所)は幕府と結んで持氏に対抗した。 どちらも奥州に打ちこまれた楔ではあったが、長沼氏は満貞につき、満直に嫌われた事が原因で……とする説も見た。 いずれにせよ、宗家の長沼氏は皆川氏と名を変え、古河公方以降も関東公方に付き従ったから、奥州には帰って来なかった、と見られている。 一方、宗政より五代目に出る、「宗実」という長男の系譜が奥州では続いている。 「長男」と書いたが、惣領家の秀行(次男)の他、朝実(三男)、高秀(五男)など、これまで見て来た系譜と同じ兄弟の代から出ている、という意味ね(^^ゞ。 この系譜は、1376年まで譲り状が存在するものの、途中を145年飛んで、1521年に突然、復帰するそうだ。 一度宗家を降り、譲り状の権限が無くなった(家臣格に降りた)からではないか、という推理も読んだ。 この系譜を「南山殿」と呼び、この系譜かと思われる長沼氏が、1495年に、いきなり塩原を攻めた事もあるそうだ(^_^;)。 長沼氏にとって塩原は、やはり執着の地という事になるだろう……。
1521年には、この芦名氏に鴫山城が包囲され、1532年にも南山長沼氏と芦名氏は戦火を交え、1561年には芦名盛氏とも戦ったようだが、南山長沼氏に勝ち目はなく、それでも芦名氏の客分として生き延びたらしい。 伊達政宗(17代)の出て来る頃、南山長沼氏は、「会津四家」と呼ばれる内の一家の位置を占めている。 芦名氏自体が跡継ぎを得ず、養子を伊達政宗の弟にするか、佐竹氏から取るかで揉めたあげく、佐竹氏から義広が入ったが、義広は芦名を支配すべく強権発動したため、家中には叛乱分子が増えた。 長沼氏もその一人で、伊達政宗の懐柔策に呼応。「磨上原の合戦」で伊達氏を勝利に導き、その後の秀吉の奥州仕置においても、米沢に移動した政宗に着き従うを許されたという。 こうして、田島における、実に長い間の長沼氏の支配は終わり、家中殆どの者たちは帰農したという。 江戸時代が始まると、田島は街道として整備され、「奥会津博物館」でも見た通り、宿場町として長く繁栄の歴史を辿ったのである。 以上をもって、奥州長沼氏のお話は、おしまい。お疲れ>( ^^) _旦~~ <大内宿> ↑ここも江戸以降の宿場街で、他にも「前沢曲家集落」など、福島南部には、宿場や民家など古い家屋が集落ごと残されてる所がある。地図J 単なる駐車場(笑)。周囲の山々が見渡せたので(^^ゞ(パノラマ4枚180度以上)
↑と逆方面↓合わせて360度(笑)(パノラマ4枚180度以上)
時間的には、そろそろ夕方近くだったが、まだ日が長かったので、全部を明るい内に見られた。 ……が、残念ながら、資料館などは閉館しており、各宿で開いてるお店なども終了間際だった。 駐車場から道路を←こう渡って来る(パノラマ2枚)
この辺りからスタート!(パノラマ3枚ほぼ180度)
左の並びには、奥に向かって、「吉美屋」「若松屋」「扇屋分家」「新富士屋」「和泉屋」「糸屋」「そば処こめや」「金太郎そば山本屋」「田辺商店」「脇本陣富屋」「富士屋」、大鳥居(高倉神社・参道)、「本家えびすや」、大内宿町並み展示館、「松葉屋」「民宿大和屋」「石原屋(脇本陣)」「民宿玉屋」「美濃屋」「叶屋分家」 中央奥には、正法寺、子安観音、「浅沼食堂(扇屋分家)」 右の並びには、奥に向かって、「南仙院分家」(二軒)「分家玉や」「大内宿・三澤屋Ф」「松美屋」「扇屋分家」「南仙院(本家)」「萬屋Ф」「民宿伊勢屋」「大内宿・味処みなとや」「会津もめんかねろく」「民宿本家扇屋」「民宿松本屋」「松川屋」、火の見やぐら、「えびす屋分家」「民宿大黒屋」「みなとかわ屋」「民宿山形屋」「たまき屋」「美濃屋分家Ф」「民宿民芸店・山田屋」「吉田屋」「叶屋」「ます屋」「加登屋」 「民宿」は今でも宿泊でき、昼食など食べれる所もあるようだ。 「そば」「食堂」「味処」も食事処。他に食事のできる店には、Фを入れておいた(笑)。
「三澤屋」は蕎麦を、箸ではなく長ネギ一本で食べる店(^^ゞ。大内宿の習慣で、有名みたい♪ ガイドブックにも載ってたが、店内の広いお座敷(明け通してあるから外から見える)にも、蕎麦と長ネギのポスターが貼ってあった。
江戸期には、宿場の用水路として、道路の中央に広い溝があったが、明治19年(1886)に埋め立てられ、かわって道路の両脇に溝が掘られて、改めて洗い場が設けられた(上の写真がそうだね(^^ゞ)という。 大内宿も、田島と同じく南山通りの宿場街で、南山通りは先に述べた通り、江戸〜日光〜会津を繋ぐ、重要な街道だった。 やはり1600年代には整備され、、廻米などの物資の輸送、街道の往来で賑わった。 又、「本陣」「脇本陣」が設けられて、会津松平藩、初代・保科正之、2代・正経の参勤交代で、宿泊に利用される重要な場所であり、参勤の折、この大内宿では昼食を取った。 行列の総人数は約600人。宿場内はたいへんな賑わいとなった。 宿内の建物は間取りがほぼ同じで、寄棟造の建物が道路と直角に整然と並べられる。 主屋の多くは、江戸時代後期から明治にかけて建築されたもので、道路側に半間幅の縁をつけ、その奥の二室を座敷とし、倉や納屋は主屋の奥に建てた。
思うに、ここから参道が出発して、あの山の繁みの奥に「高倉神社」の本殿がある、という事かな?と(^^ゞ。 この「高倉神社」の「高倉」、どうも第80代「高倉天皇」と由来を共にするような……。。 と言うのも、この神社のご祭神は、あの「以仁王」(父=後白河法皇)だと言うのだねぇ(^_^;)。
もうちょっと先に行った所に、「佐藤家(玉屋)」という民宿があって、立派な看板が建てられ、この伝承を説明してあった。曰く……
読みたいっっ(≧▽≦)!!!>御伝記 何しろ、これがかの(局部的に)有名な、「以仁王(が東北に)生存(した)伝説」という奴かと……。 すんごくビックリしつつ、実は以仁王生存伝説については、日光より北で、少なくても平泉(岩手県)よりは南に、そのような伝承がある空気を前から掴んでいた。 最近では、どうもそれも北緯的に福島南部あたり?とまで予想しつつ、それでも大内宿で出会えるとは、あまり期待してなかった(^^ゞ。後でよく見たら、ガイドブックにも書いてあったので驚いた(笑)。 理由や背景はよく判らないが(笑)、スグ思いだすのは、やはり前々回も取り上げた「源三窟」伝説だなぁ(^^ゞ。家来の源頼政が生きてるんだから、主君(?)の以仁王も……というような……。(2011年4月<源三窟>内) そして今回、ちょうど「奥会津博物館」で、木地師の「皇子信仰」の話が出たので、地理的にはそっちが該当するかな〜(^^ゞ? あと宿場という場所自体が、おエライさんが来る事によって、施設や街や道が整備されるなど、地域で長く活性材料となるといった事情もあるかな(^^ゞ。 あとは、陸奥には千葉氏の各氏族が多く伝播してるので、千葉常胤の息子たちに、千葉六党には入らないもう一人、僧侶の「日胤」というのが、以仁王とともに立て篭もって戦死した、という話があるので、或いはその辺りも関係してる? 鳥居の対岸、手前より1個奥が「大黒屋」(パノラマ2枚)
左「展示館」は復元建物だが、何を復元したかと言うと、「本陣」なんだね(^^ゞ。 「本陣」は大名など格式高い武家の宿泊施設を言い、さっきの「奥会津博物館」でも話した「のっこみ」……つまり「乗り込み」という、殿さまが駕籠に乗ったまま内部に入れる、特別な形式の玄関を用いている。 大内宿は、戊辰戦争で舞台となったため、本陣に関わる資料などが散逸してしまい、この再現にあたって、同じ南山街道の「糸沢宿」「川島宿」の本陣を参考に、設計された。 「乗り込み玄関」の他には、「上段の間」「風呂」「雪隠」なども備えている。
「叶屋」では、ホウズキと唐辛子が、いっぱい括りつけて売られていた。 どのお店も民芸品や郷土土産、駄菓子など店頭に並べて、良い風情を醸している中、ここは赤や黄色が一段と華やかだった(笑)。 そろそろと暮れ始める大内宿
ここ数年、映画やテレビドラマなどを作る場所を提供できる、こうした時代劇村っぽい復元ゾーンが多くなり、画面で見たり、訪れて雰囲気に浸れる機会が増えたが、元は、このような古い形を残してくれた地域のお蔭もあると思う。 この「大内宿」は、南北約500m、東西約200mの範囲が、「重要伝統的建造物群」として、国選定の「保存地区」とされている。「群」というのが重要だよね(^^)。
宿の並びはこの「浅沼食堂」が蓋をするように閉じて終わりだが、実はこの宿を上から見下ろせるポイントが、まだあるので、この続きは次回に! 次回は、大内宿の続きから始め、さらに北上して、新鶴温泉で2泊目を迎え、最終日の3日目は、法用寺、神指城跡、亀ヶ城跡などレポしたい(^^)。 以上、関連事項は(だいたいね(^^ゞ)、 2007年2月<会津藩主松平家墓所>内 2008年6月「千葉県の動乱」vol2<上杉禅秀の乱(1416〜1417)>以降 2009年1月<如蔵尼と乗丹坊の墓・龍宝寺「不動堂」>内 2009年4月<霊山神社>内 2009年5月<妙見社・国王社(妙見曲輪)>内<相馬神社(本丸跡)> 2009年7月<南部「今城」>内 2009年10月<千葉山> 2009年11月<等覚寺、1>内aおよびb 2010年1月<巣伏村の古戦場跡(胆沢側)「田んぼアート」>以降 2010年4月<達谷窟(西光寺)・三つの鳥居まで>内 2011年4月<お蕎麦と箒川と「塩原もの語り館」>以降/<源三窟>内 <つづく> 2011年06月30日 |
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