前回は「追いついたゾ」宣言をしたので、今後は溜まってる時はちょっと長め、そうでもない時は短いレポって感じになると思う(^^ゞ。今回はかなり長め(これまでと殆ど変わらないかな)で行く。 まず2007年4月(^^)。まずは前回の「常盤平さくらまつり」の続きから。 その後も付近の桜並木の風景をお届けしつつ、最後にはやはり桜の時期に行った、今年も「神田明神」を次回と二度に渡ってお届け〜♪ <常盤平さくらまつり、2> 今いる所は、新京成電鉄「常盤平」駅前。地図
この鳥取の物産店はここ数年、毎年出ていて、「打吹公園だんご」の周辺に並んでいるのは、「梨あめ」「20世紀梨ドリンク」「20世紀梨スパークリングワイン」と、梨だらけ(^^)。 鳥取は確かに梨の産地として有名だが、だからって梨関連の食品だけ売る必要はないのに、ここにズラ〜ッと梨製品ばかり並ぶのはなぜか。 それは「20世紀梨」の縁ゆえじゃないかと(^^ゞ。 実は一時期、亭主と私の間で「20世紀梨は松戸だっ」「いや山陰だっ」と言い合う時期があった(笑)。 ちょうどネットで歴史好きの人々と話をしだした時期で、「あれは松戸ですよ」と教えて下さる方がいて、検索して「ホントだー(゚.゚)」なんて事があったのを思い出す(笑)。 つまり「20世紀」という梨は、そもそもこの松戸で開発された(^。^)。一番最初は明治時代、その名も「松戸覚之助」という少年がゴミ捨て場に生えてるのを発見、その後育成したのが始まりなのだとか。 梨は今のように身が多くなく、また、やはり今みたいに、タップリの水分がジュワ〜と口じゅうに広がる美味しい果物じゃなかったんだって(^^ゞ。 しかしこの「20世紀梨」が出てから、美味しい梨が出るようになった。 それから15〜6年後、やはり明治時代、苗木を購入した鳥取で急斜面で栽培。昭和初期に急速に栽培が増えて、今や鳥取こそ、この「20世紀梨」の代表的な産地となった。 島根出身の亭主は、この「20世紀梨」が大好きで、他の種類の梨だと、梨が食べたくても買わないほど(^_^;)。 島根と言っても鳥取に近い所で育ったから、梨の作られる所をよく見たらしく、「あれは山の斜面で作られる、松戸は平野が多いから、それで鳥取で作るようになったのでは」とよく言う。 当たってるかも(^^ゞ。てのは、現に松戸も梨の産地としては昔から有名で、あちこちに「梨直売」って旗や看板の出てる家を見かけるが、この「20世紀梨」が並んでるのは、子供の頃の記憶にウッスラとある限りで、8年前にここに来てからは、あんまし見た事がないんだよねぇ(^_^;)。 思うに、松戸も梨を作るには相応しい土地ではあった。で、「20世紀梨」を発見&育成はしたものの、そのように偶然出来た産物が実際に生産するに相応しい土地は松戸ではなく(^_^;)、むしろ鳥取のような地場に相応しかった。 だから全国一の産地を鳥取県に譲ることにはなった。 現に今、松戸でこの「20世紀」を作られる事はあまりないらしく、ウチの周囲でもよく見かける梨は「幸水」「豊水」あたり(^^ゞ。 念のため「松戸市観光協会」のHPを覗いて見たが、やはりこの二種の名があった。 あと「新高(にいたか)」が載っていた。「新高」は出廻る時期がちょっと遅いため、私が見落としてるのかも(^_^;)。。 つまり「20世紀梨」は松戸で生まれ、その後鳥取で生産されるようになった。 たくさん生まれて来た子供達が、親の地元を慕って、「僕達、今も丈夫に活躍してるよっ」と伝えに来てくれる事は、発祥の土地としても喜ばしい限りだよねっ(^^)。 さて、この「さくら祭り」の中でも、もっとも賑わっているのが、この「常盤平」駅前だろう。多くの出店があり、樽酒なんかも出回っていて( ̄∇ ̄)、歩いて来る(自動車でなく)時は、ここでちょっと「酔っ払いタイム」になる(笑)。
不二家はこの先、常盤平〜五香の間にケーキ屋がある(^^ゞ。例の事件でグッズも値割れしたのか、100円ショップみたいな屋台に置いてあった。 ああいう事件はあったが、この界隈では、この「桜祭り」にも出店とか出して一緒にお祭りを盛り上げてる「通りの顔」なんだよね(^^ゞ。 一方の「ケバブ・ピタ」は、でかいシシカバブを吊り下げ、ナイフでヒョイヒョイと肉を切り取ってナンのような生地に挟んで出してくれる。一時期このシシカバブが増えた気もする。吊り下げた肉の上にはスライス・レモンがふんだんに乗せてある。 ただしこのシシカバブ、わりと胃の丈夫な人にだけお薦め(^_^;)。 あと私は基本的に羊肉は匂いが苦手なんで、あまり食べられない。他に外国専門店のカレーの出店が出てるが、こっちは香辛料効果か美味しいと思う。 ここまでずっと徒歩を続けて来て、だいたいこの常盤平の「西友」でちょっと小休止(^_^A)。 トイレに入ったり、手を洗ったり、雨がパラついてる時など、ここでビニール傘を調達する事もある。だから、いつもだいたいこの辺りから先、写真もドッと「夕暮れタイム」になってしまう(^_^;)。。 今回は昼から天気がグズついてるので、あまり暗さに差は無いが、実際にはこの後は、その前から1時間以上の遅い時間に入っている。 では、常盤平から五香に向かう道に入る。↓
コースは「西友」の交差点から「サンマルク」(レストラン)のさらに奥まで。地図 左側には淀みなく続く屋台の連続!
肝心の桜もズラーッと。(パノラマ4枚・180度以上)
「屋台」と言うと、私らは自然と「酒のツマミ」という味を連想するため、滅多にこういう甘味を買わない(^^ゞ。 なので、あまり紹介した事がなかったが、他にも「大判焼き」「ホットケーキ」「クレープ」「かき氷」「パフェ風ドリンク」など、甘味類は全体的に色が華やか(^^ゞ。 曇り空で今イチ天井桜が黒くなりがち。もうちょっとピンクだったんだが。。
↓さらに五香方面に進む。そろそろ中間地点かな。地図
↑上三つは、祭りの数日後に撮った写真(^^ゞ。だいぶ花吹雪の絨毯が出来てるけど、桜もまだ残ってる。 この「らーめん寺子屋」、よくテレビ番組などで見掛ける(笑)。お店のHPを見ると「空店舗対策の一環として、松戸市や千葉県のサポートを受けて、さくら通り商店街が始めた」といった事が書かれている。 テレビで見るのは、名の通り「ラーメン屋の塾」みたいのをやってて、研修生が新メニューを作って披露し、食べた客が値段をつける、て感じだった覚えが……。 披露の日には市長さんも来て、あとで市長さんから表彰される場面もあったような……(^^ゞ。
↑道路の左右は、手前に祭りの屋台、奥に商店街の店がともに営業してて、賑わいも一層。 「さくら通り」は地図の通り、五香駅そのものに到達するのでなく、駅前の通りに到達する。なので駅に行くには突き当たりを左折する事になる。 今回は、「さくら通り」終点の直前でちょっと横道に逸れてみる。↓
特筆は……「南部そば」かなぁ(^^ゞ。かなり美味しいと思う。私は味や食感だけで「蕎麦が食べたい」と思う事はあまり無かったんだが、ここのはわりとそれだけが目当てで来る。 注文してから目の前でササッと蕎麦をこねてタタッと刻む事があるので、あまり作り置きしないのかも。お薦めは「冷やしとろろ蕎麦」♪ で、終点に来たが、これより八柱まで折り返して「夜桜」を見る。 特に「夜桜」にこだわるつもりは無かったんだが、この日は喫茶店に入って長々と時間を過ごした(^^ゞ。戻ってきたら……、 ド〜ンと夜桜に! 屋台や通りの提灯も煌々たる灯りに。
この日は終始、濃い曇り空だったようで、こうして写真で見ると日中とあまり変わりないように見えるが、実感的には日中はそう暗く感じなかったので、喫茶店から出て来て見たら「うわ〜夜桜!」と思った(^^ゞ。
「常盤平」に近付くと周囲の街灯りも手伝って、華やかにライトアップ!
「ここで歩行者天国おしまい」の合図に標識と交通整理の人が立っている(ご苦労様です(^^ゞ)。地図 この交差点、さくら通りとクロスする通りは「ゆりのき通り」と言って、この後若葉が出て、こっちも綺麗な並木道。 以上、関連記事は、2004年分が2005年5月 2005年分が2005年12月<常盤平・桜まつり> 2006年分が2006年9月<1日目・花と嵐の(笑)「常盤平さくら祭り」@松戸> <六高台の桜と五香の野馬土手>
こちらはピンクと白が交互にハナモモ並木(^^)。
地図。今度は「オウル」の左、「ベルクス」に向かう道沿いにある「野馬土手」を見てみる。季節はさらに遅く、初夏と言っていいかな(^^ゞ。 「野馬土手」跡。パノラ3枚(ほぼ180度)
←こっちに「オウル」がある。前は確か「ダイエー」だった(地図にはそう書いてある)。 正式には「野馬除(のまよけ)土手」と言われる。 外側に堀を掘り、掘った土を盛り上げて土手としたもので、放牧馬の逃亡を防ぎ、野犬などから馬を護る傍ら、農民にとっては放牧馬から農作物を守る役割もした。 先々月(6月)にも少し書いたが、この地域は北条氏の支配時代にも「伝馬宿」とされており、さらに昔は平将門の放牧経営領に属していたとも言われ、さらに古代、最初に「松戸」の名が現れた時、「馬津郷」と書かれた事などもあわせると、放牧じたいの起源はどれぐらい前まで遡れるのか判らない(^^ゞ。 しかし明確には、徳川時代、幕府の直接経営によって、「下総牧」が下総台地の内陸部一帯に展開し、近世を通じて荷役用の駄馬の供給源、軍役馬を養成するための野馬の放牧場であった事がわかっている。 「下総牧」は、「小金牧」と「佐倉牧」の二つに大別され、ここ(松戸市)のは「小金牧」に入る。 「小金牧」はさらに、「庄内牧」「高田台牧」「上野牧」「中野牧」「下野牧」「印西牧」の六つに分かれ、幕末には、総延長150kmに達した事が記録に残っているそうだ。 「オウル」とは逆方向「ベルクス」(これもスーパー)の方に進むと……。
↑こんな具合に土手が続き、道路が低地に到る所では、土手の高さも高くなり……、
こんな風に、宅地で無くなったり、その先にまたチョコチョコと出て来たりしながら、昔ながらの野馬土手が今は保存されていく方向になっているようだ。 この辺りは昔はエンエン梨畑だったかが続いてた覚えがウッスラと……。 しかし「これが史跡」みたいな意識は全く無く(^^ゞ、ただ言われてみれば、「そういや、そもそも農地って見えた?」とは思う。 というのも、通常の農園より高く厚い土手が多かったからか、だいたい土手にはデカイ大樹がド〜ンと伸びて、農地が見えない所がたくさんあった覚えがあるにはある(^^ゞ。 この先にも土手のある所は、ドッシリとした大樹が並び、枝葉が鬱蒼と垂れ込めて、夏でも道路に涼しげな木陰を作っている。 「日暮」という地名が昔はかなりの広い地域についていたが、これも名の通り、高い樹木の上でヒグラシが鳴くと、遠〜くの樹木からも呼応するように鳴く仲間がいて、そのくせ山もなく天井にはエンエンと空があるのみなので、空じゅうに無数のヒグラシの声が鳴り響いたものだ。 今でもヒグラシが鳴くのは、こうした土手の大樹に巣食うヒグラシで、すっかり都市化した街に「カナカナカナ」と大きな声が響く時がある(^^ゞ。 ここの他でもよく「野馬除土手」の標識を見るので、今後もカメラを持ってれば写してみたいと思う(^^)。 <八柱霊園> ↑これもこれまで何度か(^^ゞ。今度は「五香」より左(西)に来る。地図
園内は整然と道路が敷かれ、車でも花見がしやすいが、整然と碁盤目すぎて「何列目の通りの桜が綺麗(^^)」とか覚えてても、どこだったか忘れてしまう(笑)。
墓地ではあるが、お弁当など持ち寄って芝生で花見をする人も多い(笑)。
ウグイスの鳴いてた橋付近。パノラマ3枚(ほぼ180度)
以上、関連記事は、 2005年12月<桜めぐり(六実・常盤平さくら通り・八柱霊園など>内 2006年7月<雪の八柱霊園> 2006年9月<2日目・松戸・常盤平〜八柱霊園の桜めぐり>内 <神田明神「天野屋」> ↑なんだけど、出発時はまたこれまでのと別の「さくら通り」を通って行った(笑)。
実は神社の方は一応先に本殿だけお参りする。神社の方にも今は売店が完成してて、ここは閉まるのが早いので、ささっと本を買った。 その後、摂社参りをノンビリしてると、今度はこっちのお店が閉まってしまうんで(^^ゞ、お参り途中でこっちに来ているわけ(笑)。
ご覧の通り、正面から向かって左の奥にちょっと灯りが見える、ここが喫茶室。右はお土産屋さん。
先に茶屋の方に入ってみよう(^^)。 この入口のタヌキには、「私は昭和13年生まれの信楽焼の古狸です。戦火を逃れ、神田明神の参道で毎日皆様を見守っています。狸は(他を抜く)と言われ、旅館、料亭、商家などに縁起が良いので沢山の仲間がいます。天野屋と供に末永く私を可愛がって下さい」とご挨拶が書かれている。
窓の向こうには、灯篭やカエルの相撲といった、江戸情緒タップリの小っちゃな石庭がある。 小さい空間に広がる江戸メルヘン(^^)。パノラマ3枚
店内には古時計や古風なガラス食器や陶器、古めかしいガラス製照明、ガラス棚には古い電車やバスの模型など。
この「たわごと」で何度もここの蜜豆がオイシイと書いたが、写真を出すのは初めてだよね〜(≧▽≦)。 蜜豆に満足してお店を出てから、お土産に納豆を買ったら、「ベンチでも甘酒飲めますよ」と聞いて、思わず「じゃ一杯」(笑)。飴はオマケに頂いた(^O^)。
この「芝崎道場」は、たびたびこの神田明神を取り上げながら、これまであまり書いた事が無かったので、今回買った「史蹟、将門塚の記」を参考にして、将門の首塚に絡んだ神社の歴史を書いてみよう〜(^O^)。 <神田明神と将門の首塚(芝崎道場)> この本、伝承としてバラバラに霧散しがちの将門に関する話を、上手に取りまとめていて、個人的には文章が優れて感じられた(^^)。 まず神社の創建じたいは天平2年(730)、聖武天皇の頃と言われ、祭神は大己貴命、少彦名命であるが、一説に、当時は海岸であった現在の大手町付近に 安房国の漁民の一団が安房神社の分霊を奉ったのが発端とも言う。 ゆえに「水の渦」を示す「流れ巴」を神紋としてるとも言い、その真偽については不明。何しろ海路の安全や豊漁を祈願した前身があった事は想像していいようだ(^^)。 将門との繋がりについては、923年、将門自身が太刀、神馬を奉納したことが「州宮神社家、小野氏」の文書に見え、932年には社殿の再建と祭田の寄付の記録もあるという。 将門の死した「天慶の乱」の直後、将門の遺体は一応その地元たる茨城県の猿島郡岩井町付近の「神田山」菩提寺に葬られた。ゆえに天慶3年(940)2月14日を命日とする。 この茨城の「神田山」が、後にここ「神田明神」の語源となった事は言うまでもないが、「将門の(首以外の)体を埋めた」事から元は「からだやま」と呼んだ。だからその読みは「かんだやま」ではなく「かだやま」である。 茨城県の小野寺維道さんの話では、現地では「かどやま」とも言ったそうだ。これは「将門山」じゃないかな、と個人的には思える(^^ゞ。もちろんいつから呼ばれたのかはわからないが興味が残る。 そして後年、信仰の対象となった「首」。これが今回の主旨である。 が、明治時代、1867年に大蔵省が出来て以降の有名な祟り話は、本当に大手町の「首塚跡」にお参りした時にでも(^^ゞ。また、首が笑った飛んだ体だけ歩いた、といった数多くの怪談も省略。 今回は神田明神の発足に絡んだ「芝崎道場」についてのみ(^^ゞ。 将門の死後は、首だけが京都より持ち去られ、武蔵国豊島郡柴(芝)崎……現在の東京都千代田区大手町に埋められ、塚が立てられて「首塚(将門塚)」となり、やがて遺体の方も一族によって柴崎に埋葬(合祀)された。 この首塚のある「神田山」は、1306〜1310年(徳治〜延慶年間)の絵図によると、ほぼ単体の島だったが、将門の死から10年後の950年9月、将門塚が鳴動、放光、異形の武将の出現。恐怖した人々が荒魂を祀って祟りがおさまった。この時に祀られたのが「築土明神」(九段中坂、世継稲荷神社境内)という社伝がある。 この「築土明神」だが、これも1306〜1310年(徳治〜延慶年間)の絵図によると、「神田山」のある島から平川とその周囲の湿池を隔てて西の陸に連なる一帯にあり、その地域に「柴崎」「上平川」の地名がともに見える。 この時「首」は柴崎の井戸で洗い清め、上平川の観音堂に供えられたのち埋葬、と「築土明神」の社伝にはあるそうで、 同時にここには「将門の首桶」が、銅製で六角形の「灯合竜」という入れ物に入り、錦の布で包み、さらに木の桶に入れられ神宝となっていたと伝えられるが、戦災で消失したという。 また同社には、いつからかは判らないが、衣冠束帯に身を包まれた将門の像がご神体とされていたそうだ。 このあたり、死の直後に早々と首と遺体を一緒に埋葬していて、それでもなお祟ったから、改めて首を洗い清め慰霊しなおしたのか、それとも、それまで10年間別々で「だから祟った」という事になったのかは不明(^_^;)。。 そこから……時代はポ〜ン!と350年も飛ぶ(^_^;)。正確には将門の死から363年、その慰霊とされる時から353年経った「1303年」が初見らしい。 それまでの間、この首塚がどういう状態だったのかを知る手掛かりを知らないが、江戸期を通じて「古代より明治初期までの形態」として絵や見取り図、記述などがあり、そこからいにしえの祭祀を想像する事は出来る。 本にあった挿絵によると、「首塚」には築山風の小山に登り階段が設けられ、その傍らを池と樹木が囲み、庭園風の一帯に見える。傍に古井戸があったらしく、これを首を洗った井戸と称していたらしい。 で、350年後どうなってたかだが、まず「祟りを鎮める」役割を担っていた「築土明神」は柴崎を離れ、現在の武道館などがある「九段下」に移っていた(^^ゞ。 津波や洪水の難を除けるためであろうと推察されているようで、個人的には「もっともな理由」に思える。 また誰が祀って来たのか、についてだが、「将門の子孫筋」として「江戸氏」の名が出ては来る。 ちなみに、この「子孫筋」として、ここでは「その流れをくむもの」として、「千葉、秩父、相馬、豊島、葛西、畠山、河越、江戸」をあげている。 で、この辺りの勢力は、前述の「江戸氏」であり、この一族は1180年に威勢あり、しかし後は徐々に勢力が衰えていって、この1303年の頃には、辺り一帯が荒廃していたという。 で、「350年後」というのは、1303年、時宗の「真教上人」という人の登場があり、さっきから言ってる「1306〜1310年(徳治〜延慶年間)の絵図」というのも、この「真教上人」の時代の物である。 この時代は、既に鎌倉幕府も末期の頃で、執権北条氏の時代、北条師時の治世となっている。 ちなみに真教上人は、時宗を最初に興した一遍上人の後を継いだ人で、時宗は寺社に頼らず布教をしたこともあって「遊行」と言われていたのとあわせて、真教上人を「遊行二世」と称する。 真教上人は、柴崎が荒廃して疫病が蔓延し、住民が「将門の祟り」をあまりに恐れるので、塚を修復し将門を「蓮阿弥陀仏」として供養した。 すると疫病がおさまり、住民は喜んで、真教に日輪寺に留まってもらった。 この「日輪寺」というのは、実は「天台宗」のようだ(^^ゞ。 だが真教は住民の要請でここに留まって「時宗」の「念仏道場」を開いたので、この先ここは「柴崎道場」となった。 さらに真教は1307年、また将門の法号を板石塔婆(秩父石)に刻んで塚の前に立て、1309年、神田明神の最初と言われる安房神社の分霊社も荒廃してたので、社殿を修復、ここの正式に「将門の霊を祀って神田明神と改称」した。 ……。 長年、この「350年の空白の謎」を知りたかったので、こうした事がキチンと書かれている本を手に入れて、大変に満足である(^^)。 それでも尚「……」を途中に入れてしまうのは、やはり尚「首の埋葬位置」にこれだけこだわられた事について、まだ少し思う所が残るからだ。 最初「体が埋められた場所」である茨城県の猿島の「神田山」に首も添えてやるのではダメで、あくまで「首を埋葬した柴崎」に体の方を持って来る……。勿論この事自体に不自然さは感じないが、それでもここでまず「首の吸引力」にやや強い印象を持つ。 次に、九段と神田って、そんなにメチャクチャ離れてるわけじゃない(^_^;)。。 ちょっと場所が離れてるからって、将門の霊を「築土明神」で祀ったんだから、そんなに「祟り」を恐れなくていい気もするし、疫病の蔓延を四世紀近く前の「死者の祟り」に所以するのも、不思議といえば不思議だ(^^ゞ。 もちろん柴崎の首塚跡がそれほど荒れ果てていたと言うのだから、「築土明神」も同じように荒れ果てていたと想像する事は難しくない。 でも、それなら九段の神社を建て直せばいい(^_^;)。。 それを何か「寸分たりとも首の埋葬された場所がズレてはならない」といった神経質さを感じ、ここがそもそも「将門の祟り」……それも「首」に関わる強烈な恐れを彷彿とさせる。 また今年(2007年)を当てはめれば、1644年が相当するが、例えばいま飢饉や疫病が蔓延したとして、江戸初期の人物を慰霊するだろうか(^_^;)。 てわけで、私は時宗とその時代背景にちょっとした関心を寄せている。 と言ってもチャッカリ自宗のよって立つ「道場」にしてのけた言い訳、という線じゃない(^^ゞ。将門の首に関しては、「将門記」をソースに、保元・平治・平家物語といった軍記などで既に、1300年代に到るまでにだいぶ書かれていたという事なので、「人心の恐怖」については真実味を感じている。 しかし360年以上も経っているのだから、全国に散らばる将門に類する伝承・史跡の類が、真教の慰霊の前なのか後なのか、この辺りは時宗の伝播系統がわからないと、何とも言えない感じが少ししている(^_^;)。 真教より後の時代になると、神田明神とその付近に関しては、想像を繋げる過程に各々納得のいく線が出揃って来る。 まず「築土明神」だが、太田道灌が社殿を再建している。 次にこの「神田明神」だが、徳川家康が来て以降、江戸幕府に篤く崇拝と保護を受け、正式に「将門後裔」が選ばれて「芝崎氏」が神主となり、代々祭祀を続けた。 これは伝承ではあるが、家康の先祖、世良田親氏が鎌倉の北条氏(いわゆる「前北条氏」)に背き、信州で浪々の身であった頃、さっきも「350年後にいきなり出現した」といった、あの真教上人の得度で剃髪し「徳阿弥」と号した事に由来するという。 で、「徳阿弥」は芝崎道場と神田明神に参詣し、「徳川」の家名を神命によってこの時に授かった。その後、諸国を巡るうちに三河の松平郷で「在原信重」の婿となる……と続く。 もしここに「後付け」がどんなにあったとしても、将門=神田明神の発足母体である「真教」と、江戸幕府の創設者たる「徳川家康」の「先祖」とあれば、合体の経過にさほどの「不自然さ」は感じなかったり(笑)。 以上、関連記事は、2005年3月<神田明神> 2005年10月<将門神社> 2005年12月<初詣2「神田明神」> 2006年3月<神田祭> 2006年9月<東京・神田明神> 次回は4月「神田明神」と、イキナリ飛んで7〜8月、手賀沼「根戸城跡・松ヶ崎城跡」をお届けっ。 2007年08月14日(2016/09/16:地図(ヤフー →MapFan)張替) |
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