<2011年・城主のたわごと12月>




2011年4〜7月。節電の夏。余震頻発。異常気象。。

小田原ミニレポも交えつつ(^^ゞ、日常&近隣レポ続行!





     
  日常&近隣レポ編も4回目になった(^^ゞ。

前回は震災後、桜の季節を通り、4月の下旬ごろで終わった。
今回も引き続き、殆ど同じ調子で日常編、4〜7月を行く。

最後に8月の写真がちょっと混ざるが、今回がだいたい7月までで、次回は8月からという区切りにするつもり(^。^)。



■4月・千葉県松戸市
<殿内「ダガシヤ・ダイチャン」(駄菓子屋)>


まず一発目が4月。松戸市の小金原殿内の「ダガシヤ・ダイチャン」(笑)。地図A←店名が出て来ないけど、「15」以上で見て貰うと、ココスが出て来る。その向かい。

まず、隣の区画に見える緑地は「小金原公園」(「17」以上で公園名が出て来る)。
小金原公園

殿内」という交差点がこの道のスグ背にあり、この「殿内」は、戦国大名「高城氏」が最初に置いた本拠「栗ヶ沢城」があった辺り。遺構は失われて全く無いが、その痕跡を残す地名と伝えられている。

高城氏は、この「栗ヶ沢城」から「根木内城」、そしてさらに北の「大谷口城(小金城)」と、広い城地を求めて居城を移転させたと見られている。

で、この道をさらに西に進むと、道路の右にはココスが見え……、

道路の左側には……おおっ?!
何か、電車のような、駅のような

店名として掲げられてるのが、レトロなロゴの「ダガシヤダイチャン」(^^)。

駅標には、「こがねはら(小金原)」とあり、左に「かしわまち」、右に「まばしむら」とされている。柏も馬橋もこの辺りの地名。
一見、廃駅や廃線となった鉄道や駅から貰い受けたような感じにも見えるけど、実際にあった駅名としては把握していないので、思うに、お店のオリジナル駅標かな、と思うんだけど……(^^ゞ。

前には、ちゃんと車輛の先頭部が顔を出している
どういう設定なのか、車掌さんは、どう見ても「マスオさん」(漫画「サザエさん」の夫)のような……?(笑)
コレクションか頂き物か、そういった物を組み合わせて、お店のインテリアにしてるんだろうね(^^ゞ。

←その隣の入口は古〜い駅舎風(^^)。
↑入ると、天井扇風機に網棚、吊革に腰かけ、電車の内部をそのまま活用している(^^)。

営業が土曜日の午後数時間ほどらしく、この時は夜の営業時間も書いてあった。ただ、夜はお酒も出すので、子供の出入りは禁止となっていた。

今はどうかな……ネット上、9月に営業を終了したような記述も見掛けたけど、今年のかな……?
何しろ営業そのものをやってる時間が少ないから、たま〜に来るだけでは現状はわからないけど(^^ゞ。

ちなみに、前の遊歩道には店舗街が続く(パノラマ4枚180度以上)
この一番右端が「ダガシヤ・ダイチャン」↑(^^ゞ

←逆にこっち方面は、アーケードっぽい造りの商店街になってて、今は大手ドラッグストアがド〜ン!と2軒場を占めてるけど、小金原団地の市民が集う場って感じ(^^)。

←入った事ないけど、「R,s (アールズ)」というハンバーガー・カフェ。

震災直後の計画停電が回避されてからも、公民館や体育館、運動公園など、これまで遅い時間も営業されてた市民の場は、節電のため早めに終了したり、避難民の方々を受け入れるため休業する所など出たので、運動する場をアチコチに探して彷徨う週末が続いた。

探した内の1箇所がこの地域で、近くには運動施設もある。

まぁ、「地震のお陰で」とは口が裂けても言いたくないけど、行く先に窮したために、選択や行動の範囲が広がった事は認めざるを得ないよね。。

今度は後方も見てみよう(^o^)ρ
踏切&プラットフォーム風の裏手

こういう貼り看板も「よく集めたね〜(゚.゚)」と、見ていて楽しいし懐かしい(笑)。

裏の扉も開いていて、そこからもお邪魔(=^m^=)

まず「駅員室」があって、従業員さんのお部屋っぽいから(^^ゞ、写すのは遠慮して、その次に出会うのが↓

←洗面所。そういや、むか〜し駅や電車ってこんな空間があったような……(^^ゞ。山口百恵のポスターなんかも貼ってあって、10〜20年ほどの時間が重なってる(笑)。
←そのさらに奥が、さっき入った車輛。狭いながらも、テーブルや販売機、ゲーム機、ガラガラ機なんかあった。

この車輛を→こっちに出ると、狭い雑貨店内になってて、各種の駄菓子がタップリあった。
子供達も商品もいっぱいで、何となくカメラ構えるのは気がひけたんで、買った物だけ撮影↓

←「小雪ちゃん」「蒲焼さん太郎」「サイダー飴」10円か20円。
↑「小雪ちゃん」中身(笑)。ジャム入りのマシュマロにチョコで顔が書いてある。

駄菓子屋は、全国的には減少傾向にあると聞く。
テレビなんかでは、今や駄菓子屋は「昔を懐かしむ大人向けの店」にリニューアル&新規オープンしてる所も多いらしく、会社帰りのオジサンが、夜な夜な一杯引っ掛けに来る店もあるらしい(^^ゞ。

でも、ウチあたりでは、まだまだアチコチで何軒も見掛ける(^^ゞ。小さい子のいる家庭はいっぱいあるし、葛飾など屋台文化の残る土地に近い事もあるのかな?

ここ「ダガシヤ・ダイチャン」は、もしかして今は休業中なのかもしれないけど(じゃなかったらスイマセン(^^ゞ)、また営業してる時に出くわしたら、駄菓子を買いに行ってみたいo(^^)o



■4〜6月・千葉県柏市・松戸市・鎌ヶ谷市
<晩春から初夏にかけて>


各地を主に花めぐり(#^.^#)。まずは松戸市「21世紀の森と広場」(地図B

橋の下に咲いてた、シャガの花
(拡大)

次は、さっきの栗ヶ沢(北)と常盤平(南)の間あたり、金ヶ作あたり。

熊野神社の裏手(地図C)あたり
雨の日の八重桜

一転して、今度は柏市の藤心(地図D)から、田んぼの菜の花

そろそろ田に水を引き始めている頃(^^)(パノラマ3枚ほぼ180度)

実はこの菜の花と田んぼの風景は、この所ちょくちょく紹介する、藤心の「アンチーブ」(喫茶店)から撮影したんだが、店内にも春の植物が息づいていた。

ドウダンツツジ(?)に……
ミッキーマウスの木?

左の白いスズランっぽい小花は、ネット上であれこれ調べた所、NHK出版「みんなの趣味の園芸」で出て来た、「ドウダンツツジ」にとても似ていると思った。

右のグリーンの実と赤いガクのついた植物も、「ミッキーマウスの木」と紹介してるサイトを多数見た。正式には、「オクナ・セルラタ」という種らしく、私は初めて見たので(^^ゞ、何枚も撮ってしまった。

空飛ぶ円盤のようでも?(笑)
豆部分が真っ黒のもあるんだね(゚.゚)

出来るだけ大きく撮ろうと近寄ったら、返ってちょっとピンボケ気味になった。ゴメン(^∧^)。
右の真っ黒いのが、ミッキーマウスの耳みたいなんで、「ミッキーマウスの木」なんだろうね(笑)。私はUFOに近いと思うけど(^^ゞ。

これは急に凄い霧が発生した日
場所は鎌ヶ谷市、粟野あたり(地図E

「すき家」で昼飯を食べてたら、イキナリ滝のような豪雨が来た。
あまりの凄さに客が全員アゼンとして、誰一人店を出られず、私らもコーヒー頼んで飲んでる内に、これまた突然カラリと晴れたんだな(^_^;)。。

「あの雨、何だったの(゚.゚)?」と首を傾げながら、この辺りを通ったら、ご覧の通り、盛んに水煙が地面から立ち上っていた。

最初は「清掃車が水しぶきを上げてるのかな?」と思ったが、近寄ると、ナント霧の発生現場に遭遇していた!

←道から立ち上る水煙。この後も発生し続け、周囲にドンドン広がった。

結局このあと、空は晴れてるのに広い範囲で霧が濃くなって、視界を遮った。
家に帰ってから、千葉県で竜巻が起きて、駐車場の車がビルにぶつかって大破した、というニュースを聞いた。

今でも残ってるネット上のニュース記事によると、竜巻は千葉県北西部と茨城県取手市に起きたそうで、千葉県では柏市・鎌ヶ谷市・白井市といった、よくいく場所で約40棟、車7台が破損する被害が出たという。

この頃はまだ大きな余震も多かったし、県内の友達と「今度は竜巻!怖いねっ(TOT)」とメール飛ばし合った(笑)。

ところで、松戸市から見ると、鎌ヶ谷市は東および東南に隣している。
この辺は鎌ヶ谷市の北部。ちょっと周囲を見て行こう。

入道台」の交差点(地図F
もう5月ごろだったかな(^^ゞ。

この辺りは、もう1個「入道溜」という交差点もあって、なぜ入道なのか……「入道池」という池があったからという記述も見掛けるが、調べた事はない(^_^;)。

お次は春も半ばを越えて咲くツツジ(^^)(パノラマ2枚)

(拡大)
こちらは三色混合(笑)

左は松戸市五香あたり(地図G)、右は殿平賀あたり(地図H)。下↓は柏市の手賀沼(地図I)。

湖岸の道路は舗装されているが、サイクリング・マラソン・ウォーキングのための遊歩道で、自動車は規制されて入れない。
ここのツツジも、今年は特に綺麗だった(^^)。


この東方、手賀川には、白鳥の水浴風景が今年も長閑に展開されていた(^^)。
↑白鳥達が集まる発作橋の下(地図J

岸辺に上がって優雅に羽根づくろい☆ミ

以前この「たわごと」で、こたつ亭主が白鳥と一緒に写ってる写真に、私が「亭主と人生を語らうの図」と書いたのが、なぜか気に入ったようで、亭主は白鳥に会うたびに「ちょっと人生を語らって来る」「人生相談して来る」とイソイソ近寄って行くようになった(^_^;)。。
(2007年7月<逆井〜手賀沼・栗ヶ沢>内←これね。確かに何か凄く絶妙なショットではある(笑)。

父が周囲を見張り、母と子は陸へ
「お母さんお母さん」「はいはい見てますよ」

今年も大挙群生する月見草。風にプンプンと揺れてカワイイ(^^)。こたつはこのピンクの月見草が大好きで、毎年これが咲くのが待ち遠しい↓
前も取り上げた事がある、手賀沼の南にある鰻屋「鳥善」→
ここも正直、地震でどうなったかちょっと案じていたが……。

前と変わらず営業していた(パノラマ縦4枚ほぼ180度)

この店については、だいぶ前だけど、(2008年12月<鳥善(うなぎ(^。^))>を見てネ♪ 地図K

父を連れついで入ってみたら、以前よりよほど客入りもあり、活気があった。
ここは前回の最初に出した、沼南の「将門神社」のすぐ近くで、「龍光院」(将門神社の敷地のある寺)の法被などかけられてるので、お寺の法事などに使われる料理屋さんになってるのだろう。

お店の方に震災の事を聞いたら、大きく壊れたりはしなかったそうだ(^_^A)。
この凄い組み立ては、力学とか駆使して、耐震性も考慮して造られてるのかな(゚.゚)。

←また「21世紀の森と広場」駐車場にて
↑こちらは六高台あたりだったか……。

この鳥さんは……何(^_^;)? 鷺の一種?
駐車場だから、当然車も人も入って来るわけだけど、お構いなく飄々と竹藪に近付いていた(笑)。

さっきシャガの花を見た「21世紀の森と広場」である。
実はここも、この時期、運動場を求めてアチコチ流浪した一つなんだけど(これも「震災のお蔭」とは言いたくないけど)、こんな季節にあまり見た事ない物に出会った気はする(^_^;)。

こんな感じに5月も過ぎ(そろそろ6月に入ってる写真もあったかも)、ジワジワと梅雨の季節が近づいた。



■6月・神奈川県小田原市
<小田急線で小田原に向かう>


↑に行ったんだけど、史跡巡りではなく、たみいさんに会うために遠出。
これも、「春、暖かくなったらね……(^^ゞ」という話だったが、あの地震が来て、心づもりしてたよりだいぶ遅れて実行となった。。

小田原城には、会食&ダベリングの後、一緒に散歩しただけで(^^ゞ、ちゃんとしたレポもしてみたいけど、何しろこの日は喋りが優先だったんで、あまり期待しないで(^_^;)。。

小田急線の車窓から写した数枚を繋げた(パノラマ5枚)

どの辺りからこういう景色になったかなぁ……。もうだいぶ小田原に近付いてた辺りだと思うけど(^^ゞ。



小田急線は地図で見ると、途中に、相模川や酒匂川などを越えるが、これはどの川だったのかなぁ……。

この日の待ち合わせに絡んで記憶に新しいのは、「この時点でも、まだ電車の運行が完全に平常化してなかった」事だ。

当初、熱海あたりにしようと言っていたのだが、余震がまだまだ続いていて、いつ電車が止まるかワカラン状態だったと思う(^_^;)。。
そうなると、ウチからほぼ直通に近い状態で行ける小田急が無難なんで、それで小田原にして貰った。

あと、この時期ぐらいからちょっと体調を崩して、薬代が高くつくんで、特急料金とかが痛くて(^_^;)。小田急は安くていいよね(爆)。

あと一息で小田原ってトコで見た山景色
到着。小田原〜小田原〜(^O^)

駅構内にズラーッと並ぶ土産屋さん。観光地だねぇ(^^)。やっぱ小田原は蒲鉾が多かった〜↓
こちらは駅の外に出て、商店街の天井に並ぶ家紋入り電灯。最初のが三つ鱗。北条だねぇ(^^)→

駅前通りを少し歩いて、小田原駅を振り返る↓(地図L
右方向に近寄り、電灯柱を拡大すると(笑)→

←(さらに拡大)北条早雲の座絵(^^)

ビルの林立する中に、古そうな和風建築の店舗があったり、流石は小田原〜って感じ(^^ゞ→

でも二人とも貧乏だから、待ち合わせも昼食も、全国どこにでもある安いチェーン店にしたけどね(汗)。

これよりたみい様とは無事に再会を果たし、「いつ余震来てもいいように」とか、二人とも水とか懐中電灯とか持って来たのを見せあって(笑)、店を変えて昼飯を食った。



<小田原城にお散歩♪>

ズンジャカお喋り弾んで(笑)、「雨降って来たけど」とか言いながら、「やっぱ小田原といえば、小田原城よね〜」とかいう事になって、傘差しながら城に向かった(笑)。

途中、地元の会社の建物で、会社員の女性に道が合ってるか聞いたりして、スゴイ親切に行き方教えて頂いて行った(^^ゞ。地図で見るとスグなのに、何となく歩いてると不安になるんだな。ビルが多くて視界が効かないからだね。

見えて来た〜お堀の水とお城の緑
地図(字を打ち入れてみた)

上右の地図には字を打ち入れておいたが、方位は右(→)が北になる(^^ゞ。

地図M←通常サイズだと殆ど位置に変わりが出ないが、16〜18ぐらいまで拡大して貰うと、水堀に渡る東端の「学橋」にいる。これを渡って城内に入るのだけど、その前にお堀前の風景をパノラマ撮影(^^)v

カシャーカシャーカシャー!抹茶羊羹のような水堀(パノラマ3枚ほぼ180度)

現存する小田原城は、本丸と二の丸の敷地がよく残っているらしい。
この堀は「二の丸・東掘」で、幅は最大で約40m、かつては現在よりさらに北に約60m先まで続いてたそうで、今見える位置からは、←こう行った東南にある「馬出門・銅門」から「二の丸」に入る仕組だが、これらは全て、江戸期の造作ね(^^ゞ。

私の知る限り、「小田原」は、北条早雲が堀越公方家の足利氏を滅ぼした後に、野心をもって臨んだ地名として登場する。
領主名として、大森氏頼が出て来る。

やがて早雲によって小田原を責め取られてしまうのも、氏頼の跡を継いだ子・藤頼であるから、大森氏の領地下であった事は間違いない。
(一応出しとくね(^^ゞ→北条早雲」@「戦国武将一覧」@「更新終了

ただし、早雲が伝説の「火牛の計」を用いて奪ったとされる「小田原城」が、ここかどうかはよく知らない(^_^;)。
城の中も全部は廻ってないが、廻った限りで見た記述でも、時代の最初にあたるのは北条氏が滅んだ折……つまり早雲より五代・氏直の時代の「小田原合戦」(1590年)の記録からだった(笑)。

馬出門」「銅門」を左手に見ながら
学橋」から城内に!(`・ω・´)

左の「馬出門」「銅門」は、絵地図で見ると、二段構えの枡形っぽい配置になってて、本来はこっちから入るんだろうね(^^ゞ。「歴史見聞館」という……資料館かな?メインの建物を通って行く配置のようだ。

何しろ小田原城の歴史は、後北条氏の滅亡から語られ、それでもその「小田原征伐(小田原合戦・1590年)」については、大型パネルに城を取り囲む秀吉方諸将の陣図が示され、刻々と推移の説明がされていた。↓

北条氏直(五代)は秀吉との交渉を続ける一方、総動員態勢で諸城を強化し、小田原城下も9kmの長大な外郭を形成。交渉が決裂すると、国境を固め、小田原城に主力を投入。領内100ヶ所以上の支城の防備も固めた。城内に籠った人数は6万と伝える。

秀吉側は水陸約22万。北(上野国から前田・上杉)・西南(東海道を徳川の先鋒)・水軍(長宗我部・九鬼などが兵と物資の搬送と海上封鎖)の三方から威圧・侵攻。
蒲生・宇喜多・池田・堀なども包囲に加わり、三ヶ月余りの攻防戦を展開。

←これも字を打ち入れてみた。もっと先に進んだ所にあったんだけど、話の都合ここで出すね(^^ゞ。

秀吉は兵糧・資金を調達して長期戦に備え、石垣山築城。
本営は箱根湯本の早雲寺に移し、側室・淀殿や茶人・千利休、芸能者も引き入れて、長陣の労を慰めた。

北条方は反撃に転じる作戦だったが、小田原城の主力が封鎖されたまま、各地の諸支城が撃破され、孤立。
包囲を受けた4月から3ヶ月後の7月、氏直が城から出て降伏。自分の命と引き換えに、一族・家臣・領民の助命を願い出たが、秀吉は却下。氏直の父・氏政(4代)、氏政の弟・氏照らは切腹。氏直は高野山追放。後北条氏は滅亡した。

関東の勢力図塗り換えは、そのままさらに北にも影響し、伊達政宗ら東北の諸将は秀吉に臣従。天下統一が果たされた。

関東や東北の史跡巡りをしていると、この「小田原征伐」の存在感は極めて大きい。
ありとあらゆる城跡は、殆どがこの「小田原征伐」によって戦国の歴史に終止符が打たれるからだ。
日本史における明治維新(戊辰戦争)や、二次大戦の終戦と殆ど変わりがないか、むしろそれよりさらに大きいとさえ言える出来事だ。

千葉県の戦国史だけでも、こうだからね(^_^;)→<北条氏の終焉(〜1590)>@「千葉県の動乱」)

やがて、城郭を上に頂く土塁と、土塁を覆う花壇に到達(パノラマ2枚)

お城の中に入ると、だだっ広い空間があって、その奥に続く空間が↑こんなお花の咲く壁(土塁)に続いている。
絵図で見ると、「東掘花菖蒲園」とあるが、最初に出会うこの花群生は、全部アジサイだった。スゴイ(#^.^#)!

手前にあるのは……梅林かな。冬〜初春は手前が見どころになるのかもね(^^ゞ。
もうちょっと近付くと……↓

本丸東掘跡・花菖蒲園と呼ばれる一帯(パノラマ2枚)

北条氏が滅んだ後、城主となったのは家康配下の大久保忠隣だったが、政争に敗れて慶長19年(1614)に改易され、寛永9年(1632)には、稲葉正勝春日局の子)が城主となった。

小田原城に来る道々、駅の近くで「日向屋敷」という石碑を見た(^^ゞ。大久保忠隣の夫人日向御前」が閉居した屋敷跡らしく、そこが江戸末期には約14軒の藩士の住まいになった、と言うから、まぁ広い敷地だったんだね。

同じような感じで、来る途中、駅前あたり「弁財天」という石碑を見た。
これは、江戸初期には「弁財天曲輪」と呼ばれていたのが、元禄10年(1697)に、別の場所(蓮池の南)にあった「評定所曲輪」と呼ばれてた物が、「弁財天曲輪」と改名したため、元の「弁財天曲輪」が、ただの「弁財天」と呼ばれる場所になった、と書かれていた(^_^;)。。
こっちは幕末には、6〜7軒ほどの中堅藩士屋敷が出来てたそうだ(笑)。

元々あった「弁財天曲輪」というのが、大久保氏稲葉氏の城地の一部だったのか、それとも北条氏の頃から残った地名だったのか知らないが、幕末までには全て、細々と藩士の住宅地に配分された、という事だね(^_^;)。

←この辺りに「本丸・東掘跡」と書かれた説明版があり、左に見える「常盤木橋」を渡って階段を登ると「常盤木門」に到達する。その一流れの風景が一望に出来るショット(^^)v

←たみい様。
「写真OK!」と言って下さったんで、お言葉に甘えて(^^ゞ。

稲葉正勝が城主になった頃から、小田原城は大規模な工事が行われ、石垣を備えた。
最初に見た「二の丸東掘」も、当時は西はこの「常盤木橋」、南は「南曲輪」という所まで繋げて作られたそうだ。

これより向かう本丸も、かつては堀(↑今は水は無く、「本丸東掘跡」と呼ぶ)が囲み、絵図では二の丸の堀と繋がる水堀だった。発掘調査によって位置が確認され、幅は最大で20m以上あった事がわかった。
今はこのように植木と盛り土で、堀の形を表現・整備。かつてこの堀を渡ったのが「常盤木橋」で、水鳥の池のみ残っているそうだ。

土塁を表現するアジサイ群
堀水を表現する花菖蒲の園

そして階上の「常盤木門(パノラマ縦4枚ほぼ180度)

常盤木門」は、古絵図などから江戸初期から在った事がわかる。
名は「常緑樹」を意味し、永久・不変・生長・繁栄を願って、往時から松が植えられていた。

本丸の正面に位置し、小田原城でも最も大きく堅固に造られていたが、元禄16年(1703)の大地震で崩壊。宝永3年(1706)、多門櫓と渡り櫓から構成される枡形門形式で再建。明治3年(1870)の小田原城廃城まで在った。
現在の物は、市制30周年事業として、明治時代の写真を参考に、昭和48年(1971)に再建された建築。

江戸初期の絵図
常盤木門を潜って本丸から振り返る

「常盤木門」(再建)を潜ると、本丸跡が広がっている。
東西83問(約150m)、南北63問(114m)。奥(西端)には、昭和35年(1960)に再建された天守閣が聳えている。

門を潜った途端、ド〜ン!と目に入って来たように記憶する「猿の檻」(笑)
だだっ広いので違和感は無かったけどね(^^ゞ

城郭や寺院の再建が増えたここ20年ほどと違って、私が子供の頃にあった城(もちろん再建)と言えば、この小田原城と会津若松城と千葉城ぐらいかな〜(^^ゞ。

それぐらいの時代の再建城って、動物園とか遊園地とか、千葉城なんてプラネタリウムがあったり(笑)、今では城郭ファンからの、悪口の対象になっちゃってるけど(笑)、「権力の象徴」みたいな強権的なイメージから、「庶民的」「国民に開放」という平和ムードに置き換える事に役立った時期もあったのかもね(^^ゞ。

←1770年頃の本丸の絵図。「常盤木門」から「天守閣」に至る途中に、「七本松」「本丸御殿」「鉄門」が書き込まれている。
これが「(くろがね)門跡」↑

本丸に設置されたのは、東南にさっきの「常盤木門」が正門として、北にはこの「鉄門」が裏門として在り、出入りは制限されていた。

七本松」は、繁栄を祈る常緑樹として植えられてた、という松だね(^^ゞ。ちょうど今見た「お猿の檻」がある辺りかな? 七本あった内の最後の一本(樹齢400年以上)が残る、という。檻の上に見える枝かしら。

そして中央にあった「本丸御殿」は、稲葉正勝が入って来た翌年の寛永11年(1633)、三代将軍・徳川家光が上洛に際して宿泊するために建設されたそうだ。(たぶん「1634年」が正しいと思うが、案内板“ママ”(^^ゞ)

稲葉はさっきも言った通り、春日局の息子だから、家光にとっては生まれた時からの乳母子&学友&家臣なので、将軍が旅中にくつろげる場をしつらえたって事かな(笑)。
しかし、元禄16年(1703)の地震により焼失して以来、再建される事はなかったという。

この地震では天守閣も、他の建物とともに倒壊・焼失したが、天守閣の方は、三年後の宝永3年(1706)に再建された。この時に、「引き図(設計図)」とされた図案と模型を参考に、明治3年(1870)の廃城によって取り壊された後、さっきも言った通り、昭和35年(1960)に再建。

それが……ドーン!これだね(^^)。

廃城後も、本丸の周囲には石垣と土塀がめぐらされていたが、石垣は、大正12年(1923)の関東大震災で崩れてしまい、昭和初期に復旧した物は、江戸期の石垣より低くなってしまったようだ(^_^;)。。。

この関東大震災の直後、堀も埋め立てる計画があったらしい。
が、小田原保勝会が中心となって保存運動を起した結果、さっきの二の丸東掘は、元の姿を残すことができた(^_^A)。

昭和34年(1959)、小田原城の本丸一帯が国史跡に指定され、現在は良好に保護・保存が続けられ、翌年(1960)の、この天守閣の再建にも至った。
閉館時間に入ってて、中は見れなかったが、今回の東日本大震災の影響は外からは感じなかった。再建天守閣は鉄筋コンクリートで作られているそうだから、とても頑丈だろうと思うけど(^^ゞ。

小田原駅」から見える「小田原城
(中央拡大)

お城を見た後も、再び安スイート系チェーン店に籠って、オヤツ時間もタップリ経過〜〜〜(≧▽≦)!!6月は暮れるのも遅いから、ダベリングばんばん(笑)。
店出て駅までベチャベチャよぉ喋る!土産一切買わず(爆)、駅では「城だ!」とか騒ぐ(笑)。地図N

←駅構内に入ると、お出迎えしてくれたのが……二宮尊徳! *ド〜ン!*

城内の土産屋(天守閣の前隣)にも、関連グッズがあった(^^ゞ。後で気づいたけど、城の本丸の隣接地は「報徳二宮神社」だったんだね(゚.゚)。

二宮尊徳(金次郎)(1787〜1856)
郷土の偉人、二宮尊徳(金次郎)は、今の小田原市栢山(かやま)に生まれ、少年時代に両親を亡くして苦労しましたが、それを乗り越えて立派に成人し、後に栃木・茨城・福島・神奈川など各地で多くの村の復興に尽力しました。
また、「どんなものにも徳がある」「譲って損なく奪って益なし」など、たくさんの教訓を残して、今でも多くの人から尊敬されています。
小田原報徳実践会

さすがに都合のイイ(一番早い)快速は無くなってたが( ̄▽ ̄;)、まぁ小田原は始発だけん、ユッタリ座れて、代々木上原からまた始発でユッタリ座って帰着ーーー!
いやいや、たみい様も、お疲れでした〜( ^^) _旦~~

関連事項
2004年3月<底倉、「太閤の滝」「太閤の石風呂」>
2004年5月<早雲寺>
2004年7月<八王子城跡>
2005年6月<沼田〜名胡桃へ>内〜<名胡桃城跡>
2006年9月<箱根神社>内
2008年7月「千葉県の動乱」<武田氏と里見氏と小弓公方(1503〜1537>以降

(小田原城および小田原合戦の関連のみここで列挙するが、文中に記した通り、東北・関東で小田原合戦に関係しなかった地域なんか無いので、極々抜粋よ(^_^;))




■6〜8月・千葉県柏市・松戸市
<夏の夕空・夜空>


柏市と松戸市の合間あたり、メルヘン調の通りが多い。各々おウチがそういう佇まいなんだよね(^^ゞ。歩道とおウチの庭の区別が無かったり(笑)。

松戸、しいの木台の歩道(庭?)
こっちは歩道だね間違いなく(^^ゞ

ディズニーランドが近いからかな(^^ゞ。白雪姫の小人や木の子、リスなどが、花壇や茂みの合間から顔を覗かせていたり。今って、どこでもこういう楽しい通り(おウチ)が多いのかな(笑)。地図O(だいたい(^^ゞ)

これは……!(笑)
次は前も書いた事ある「あめりかふう通り」(地図P

松戸市の街路樹「主な並木通り一覧表」@松戸市HP
長い間「アメリカ風」だと思ってて「どこがアメリカっぽいよ(^_^;)」とか言ってたストリート名だが、正確には「アメリカ楓」ね(笑)(2010年7月<街路樹の紅葉(#^.^#)>。どういう植物かと言いますと……↓

ちょっと洒落た風情のカエデ♪
背の高さも立派!

え? さっきの茶色と白のヌイグルミは何かって? あれは……亭主のオモチャ!(爆)
本当は犬がジャレつくオモチャらしいんだけど、買って与えたら……本当に喜んだ(^_^;)。。 o▼・ェ・o▼〜〃<ワン?

さて、以後は、例によって、今回もちょっと不気味な夜の空の写真(地図Q←だいたい)。時期は6月末〜8月ごろ。4回に分けて撮っている。

←どう考えてもこの明るさは異常でしょぉ(^_^;)。かなりの夜中。ただ夏なので、雲の中で稲光りしてる雷もよく見られた。雷の場合は、チラッチラッ、フワフワと光が揺らめくような感じもあり、常に一定方向が光るわけじゃないが、こちらも移動してるので、その辺の差異をちゃんと確認してるわけじゃないけどね(^^ゞ。


今年は6月から物凄い猛暑が起きた(*o*)。。
ただでさえ今年は節電が呼び掛けられ、冷房が憚られるのに、「今からこんなじゃ……」と早くも降参の姿勢でいたら、7月後半にすんごい長居しまくる台風が来て、驚きの涼しさが来たり……先の読めない夏だった。

また別の日の夜。今度は横に長くやや黄色い雲


こんな感じに、去年ほどではなかったけど、今年も変わった雲や、光る夜雲を何度か見た。
余震の回数はさすがにおさまって来たものの、夏でもまだまだ「震度5」が10日毎ぐらいで来てたなぁ……。

そして今年は地震に加えて、台風&大雨が……(-_-;)。。。
そうそう、空に見える不思議の様子は、大型台風とかゲリラ豪雨とか落雷とか、取り合えずは天候に起こる現象の前触れ……という見方なら、わりと一般的にも言われて来たように思う。

こうした時に病人死人が多く起こるのは、洪水・旱魃・冷夏といった、つまりは「異常気象」による「不作」が原因だから、「異常気象→不作→飢饉→栄養不足→体力低下→疫病→感染増大」と繋がった構図になるわけで、全ては異常気象(天候不順)が原因だろう。

に対して、地殻変動(地震・津波・火山噴火)と異常気象(天候不順)は、科学的に連動性(因果関係)があるハズ無いんだけどなぁ……。。
でも古い文献などでは、大地震と天候災害が同じ年に起こるのをよく見る気が……(^_^;)。。

昔の人の意識が非科学的だった、という結論で終わりかもしれないけど、去年や今年の夜空を見てると、逆に科学に囚われてないから事実をありのままに言う、という気もしてきた。

これは何の事は無い月影(^^ゞ。ちょっと怪しげな雰囲気ではあるけど。

こちらは六高台の野馬除土手(地図R)、見る見る内に……

この通り、物凄いスピードで強烈な夕焼けが起きた。。

ただ夕焼けに関しては、前からスゴイのをよく見たけどね(笑)。これもやはり去年の方が異様感の強い夕空が多かったね。今年はあれほどではなかった(^^ゞ。

↓下2枚は8月に入ってたかも(^^ゞ。(地図F

←さっきも出した鎌ヶ谷市北部の「入道台」。入道が出そうな、妖怪漫画みたいな風景(笑)

次回は、8月以降……出来れば、9月後半の福島&栃木旅行にも入りたいし、イケルんじゃないかと思うんだけど〜(≧▽≦)。。

以上、関連事項は(だいたいね(^^ゞ)
■栗ヶ沢・あめりかふう通り
2007年7月<逆井〜手賀沼・栗ヶ沢>内
2010年7月<街路樹の紅葉(#^.^#)>
2010年8月<八重桜の頃(#^.^#)>
■21世紀の森と広場
2005年3月<松戸21世紀の森と広場>
■藤心「アンチーブ」
2007年7月<逆井〜手賀沼・栗ヶ沢>

2007年10月■2007年8月ごろ

2010年12月<藤心「アンチーブ」(喫茶店)>
2011年10月<夕雲・枯木立・雪>内
■手賀沼・手賀川の白鳥
2006年8月<まずは逆井の梅から(^^ゞ>
2007年7月<逆井〜手賀沼・栗ヶ沢>
2008年5月<年末(^^)>
2009年5月<古利根川・手賀沼・清遊湖>
2009年6月<手賀沼と発作橋(冬の白鳥)>
2009年9月<初夏の布瀬と手賀川(^^)>
2009年12月<柏市「手賀沼」「下手賀沼」>
2010年7月<手賀沼と下手賀沼から、富士山・筑波山を>
2010年8月<今井の桜>以降
2011年1月<手賀沼の晩春〜初夏>
■沼南・鳥善
2008年12月<鳥善(うなぎ(^。^))>
■小田原城・小田原合戦
2004年3月<底倉、「太閤の滝」「太閤の石風呂」>
2004年5月<早雲寺>
2004年7月<八王子城跡>
2005年6月<沼田〜名胡桃へ>内〜<名胡桃城跡>
2006年9月<箱根神社>内
2008年7月「千葉県の動乱」<武田氏と里見氏と小弓公方(1503〜1537>以降
■しいの木台
2011年9月<「白馬公園」「野馬公園」「しいの木公園」>
■不思議な夕空・夜空
2011年1月<夏の花・森・夕焼・月・花火>
2011年4月<晩夏〜初秋・手賀沼までの空と雲>
2011年9月<松戸市「祖光院」「カフェ・リビエラ」「庄や」>内以降
2011年10月<クリスマス本番〜年末>以降

<つづく>

2011年12月27日
 
     





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