上記の通り(^^)。 最初は季節リレーレポで、主に「6月」と「7月」にお届けした松戸の「根木内城」の追加。さらに9月の、これも「7月」にお届けした「野馬除土手」の追加版。 そして今回から8月の房総旅行編スタート! アクアライン〜木更津〜真里谷〜久留里〜亀山温泉という道のりで、次回と2回に渡ってお届け予定。 そのうち初回の今回は、アクアライン〜木更津〜真里谷まで行ってみよ〜〜〜うっ! ■2007年5月・近辺の風景から(松戸市・柏市) <金ヶ作公園> 前回は4月の桜真っ盛りからイキナリ7月に飛んだが、途中の写真もちょっと残ってる。と言っても、だいたい風景シリーズだが、まずはその辺から(^^)。 まず5月。松戸市。地図。
松戸と言うと、多くの人に「ああ、あの大きな団地街」と言われる(^^ゞ。 今は隅々まで住宅の建ち並ぶ市になったが、最初の頃は、松戸駅のある地域を除けば、だいたいこの八柱・常盤平・五香までの、新京成線の線路がカーブを描く内部をズラッと埋め尽くした団地がそれを指した。 団地による威圧感を周囲に与えぬように、どれもせいぜい5階建てで、敷地には巨木も多く、またそれらを囲む道路も、背が高く大きな枝を広げて「緑あふれる空間」を出現させた。 それゆえ、わりと良いイメージで受け取られているが、その合間ごとに公園を置いてる点も、「緑あふれる」感じを強めている。 この「金ヶ作公園」は、その中でもわりと大きめの物で、中心にはよく野球やテニスの練習に使われる平たい敷地も備え、集会の場としても住民の交流に役立ってると思う。 NHKの「小さな旅」でこの地域が取り上げられた時も、この公園で様々な交流活動をしてる人達の様子が伝えられた。 私も日曜日とか、広い地域の子供同士で集まりなんかあった後、この公園に来て遊んで帰ったことがある。 大人になった今でも気に入っている点は、広い運動場を囲む周囲の丘陵っぽい作り。 と言うのも、「ここって、ちょっと城跡っぽいよね〜(^。^)」という妙味にある(笑)。 と言っても、この辺りにあった城跡と言えば、もう少し北の「栗ヶ沢」にかつては高城氏の最初の城郭(つーか館)があったそうだが、この金ヶ作になると、残念ながらちょっとその範囲からは外れているが(^^ゞ。
この先、全体的に「進んで振り返る」視点が多い(^^ゞ。じゃあ周囲を巡ろう。
以後は遊歩道の続き。
■2007年5〜7月 <根木内城跡> ↑については、「たわごと」2007-06<根木内歴史公園(根木内城跡)、1左廻り>と2007-07<根木内歴史公園(根木内城跡)、2右廻り>でやったので、ここでは夏の風景をば(^^)。
そして入口からスグ広がるジャングルっぽい通路(^^)(パノラマ5枚180度以上)
じゃ、中央広場に行ってみよう(^O^)。ここは広場を取り囲むアジサイが見どころなのっ♪
そう広い敷地ってわけでもないが、あれだけ車がブンブン通る道路の脇に、これだけ豊富な自然が残されているのは嬉しい(^^)。 ■2007年8月ごろ 続けて、夏の風景を幾つか(^^ゞ。まずド〜ンと西に出る。 同じく(パノラマ3枚)
「アンチーブ」からの眺め(パノラマ2枚)。これは梅の季節だけどね(^_^;)。
さらに東に戻って来る。
次は、五香と六実(松戸市)の間あたり。地図。
↑鎌ヶ谷市に行く時わりとよく通る道で、いつも「建設会社の敷地っぽいのに、あの井戸だけ残ってるよねぇ(゚.゚)」と不思議がるので、ちょっと写してみた(笑)。 周囲はちょっと前までは畑の広がる長閑な風景が残ってて、今でも春には「いちご」の、夏になると「ぶどう」の直売店が旗を起てているが、この頃この辺りも色んな(お洒落な)店が建ちはじめて、そのうち壊されて無くなっちゃうかもしれないと思ったので(^_^;)。 今はまだ周囲の畑が道路からも少しは見えて、農作物の直売店などもあるから、「野菜とか洗うのに使う(使った)んだな」とわかるけど、それでもさすがに「井戸」になると、特に道路から直接見えるような所になると、この辺りでは、今はもうかなり珍しい(^^ゞ。 ■2007年9月 <野馬除土手> さらに東に。松戸市内部に近付く。地図。←こんな所。
道は右から来て左に進む(パノラマ4枚180度以上)
さらに進むと茂みに案内版があった(パノラマ3枚・ほぼ180度)
案内版の内容は、さっきの六高台近くのと同じだった。ちなみに向かいには「松戸市五香駅東口、第二自転車駐車場」が設置されている。 今度は道を元に戻って、途中の駐輪場に入り、裏手から写す。 土手の裏は農家の庭になっていた(パノラマ2枚)
以上で、5〜9月の近隣の風景シリーズはおしまい(^^)。 以上、関連事項は 2007年6月<根木内歴史公園(根木内城跡)、1左廻り> 2007年7月<根木内歴史公園(根木内城跡)、2右廻り> 2007年8月<六高台の桜と五香の野馬土手>内 ■8月・千葉県・木更津〜亀山温泉 <アクアライン〜海ほたる> さてさて、8月には亭主が(例によって)いきなり夏休みを取った(取れた:笑)。 実家のパソコンを買い換えたりで、結局亭主はそれに借り出され(笑)、殆ど休みは満喫できなかったが(^_^;)、それでも最後は所用ついでに東京に行き、そこから川崎(神奈川県)に出て、アクアラインを渡り千葉県に入って、翌日は前から行きたかった真里谷城に行く事にした。 一日目は、東京での所用が夕方以降だったのもあって、川崎に出た時にはすでに夜(^_^;)。 しかし「アクアライン」って、渡ってみて初めて知ったんだが、殆どトンネルだけで昼でも夜でも変わりないかも?(笑)地図。
「地上に出た所」というのは、要するにPA(パーキングエリア)の「海ほたる」から見た光景(^^ゞ。
こういう彫像(?)、確か関宿城でも見た覚えがあるが、癖になる怖さである(爆)。 さて「海ほたる」の正面に行ってみよう。これより後ろにさらに退くと……、 ド〜ン! ヨット(?)に見立てたネオン満載の屋上フロア(パノラマ2枚)
↑この正面から階段があり、降りて行くと正面は……、 こんな感じ。「海ほたる」特有の青いランプ(パノラマ5枚180度以上)
さらにこの中央の階段を降りて行くと……、↓ 真っ黒な海面が近付いて来る(パノラマ5枚180度以上)
↑遠く地平線に浮かぶのは、さっきの道路が見えたのと反対の川崎(神奈川県)方面。つまりトンネルがこの海原の下にある、という事になる。 今度はヨットの側面に来てみよう(パノラマ4枚180度以上)
↑煌々と明るい建物は、これから入るレストラン(^^)。この夜はここで夕食を取った。 このレストランの脇からは……↓ この通りエンエン続く海と、地平線に並ぶ灯り(パノラマ4〜5枚180度以上)
↑この方面だと、左側が千葉県の南端、ちょっと間を置いて、右が神奈川県という感じかなぁ? 殆ど一直線に見えるんだよねぇ。晴れたお昼だと、もっとハッキリ陸地の離れてる様子がわかるのかも。 で、このレストランで食事したんだけど、ここにも亀のモニュメントが。。
「海ほたる」は5階建てのPAで、1階が大型車の、2階が木更津方面からの、3階が川崎方面からのそれぞれ駐車場。 4階がショッピング会場(ショップ&アミューズメント)、5階が各レストラン(グルメタウン)と展望デッキ、という作り。 というわけで、この後はアクアラインの続きを渡りきって木更津に着き、宿をエンエン探して何とか到着(^_^A)。 この日は終戦記念日の前日だった。こんな日に旅行って実は殆どした事ないので(^_^;)、あまりよく知らなかったけど、やっぱお盆だからだろう、どこも超満員で直前の宿探しがちょっと大変だった〜。 <木更津港の朝♪> というわけで、朝〜。 ホテルの部屋から木更津の海が一望(^^)(パノラマ3枚)
<證誠寺> 目的は「真里谷城」だったんだが、「せっかくだから木更津も1個ぐらい、どっか寄ろうよ(^^)」という事で、向かったのがココ。場所は→地図。
そう、ここはあの「しょ、しょ、しょうじょうじ♪」の「證誠寺」(^^ゞ。
すると、萩の花が盛りの月の下、大小の狸が数十匹で輪になって踊っていた。 踊りの拍子は、狸が自分の腹を打って音頭を取っていた。和尚は楽しくなって一緒に踊り、やがて毎晩こうして踊って遊んでいたが、ある夜、狸達がピタリと来なくなってしまった。 和尚は藪の中で、狸の遺体を発見した。それは毎夜お腹を叩きすぎたので、お腹が破れて死んでしまったのだった。 和尚は哀れに思い、ねんごろに弔ってやった。それがここの「狸塚」なのだ。 千葉県の各所で思うことだが、こういう動物を弔う話って、わりと千葉県に多い感じがする(^^ゞ。 そしてこの伝説を基に、野口雨情が作詞、中山晋平が作曲して、「證誠寺の狸ばやし」という童謡が生まれ、広く多くの人に知られる歌となった。 元は結末の悲しい伝説だが、軽やかなメロディーと楽しげな歌詞に仕上がり、和尚と過ごした月夜の楽しさが全面にあふれ、きっと狸も満足だろう(笑)。
この「童謡碑」は、1956年、「狸ばやし」の野口雨情(作詞)と中山晋平(作曲)の直筆が発見されたの機に、「狸ばやし顕彰会」によって建立された。 狸像の方は、この寺の境内はもちろん、この木更津のあちこちで見掛ける(^^ゞ。やはり町のシンボルなんだね〜。信楽焼きが多い感じがするけど、素焼きっぽいのも見かけたり(笑)。
他に「松本斗吟」の句碑。 證誠寺の6代住職了因(律師白公)の墓「筆子塚」(文政年間)がある。「筆子」とは寺子屋の学生のことで、ここの和尚さんを寺子屋の師として、その弟子達が建立したもの。
あと、色鮮やかな透かし彫りが立派で豪華だった〜♪
木更津と言うと、最初に高速教習をして来て以来(2001-07「たわごと」だわ、古いね〜:笑)、素通りする事が多かったので、今回こうしてちょっと寄れたのは良かった(^^)。 <木更津〜真里谷> さてこれから向かう真里谷。これは今年(2007年)「5月のたわごと」<木更津市・馬来田〜真里谷>と<真如寺>で既に行った場所。この時、菩提寺には行けたが、城には日没に間に合わなかったのでリベンジを期していた。
えっと。この木更津から久留里や真里谷に向かう道だが……どうも初めて来る人にはわかりづらい気がする(^_^;)。 この410号線の入り方も微妙だったが、それより途中から付け変わってたりして、真っ直ぐ行ってると違う道に行きそうになったり……。私らはそろそろ何度か来たので順調に進路を取れたが……。 何しろそこはクリアするとして、その後、真っ直ぐ東に向かう久留里線と平行する道路に入る。 ドーン!と拓けた一帯に出る。走って気持ちいい道路(^^)。
ここね〜ここで右に行かないとダメなの〜久留里にも行けないの〜(TOT)。
そう、ここは久留里に行くにも通るカドだから、わりと重要。 曲がった瞬間に信号機の「真里谷」って字が見えるんだけど、それだけに迷って真っ直ぐ行きそうにもなる。 と言っても不思議な事に、私らは最初に来た時から、ここで何となく右に曲がったんだわ(^_^;)。なのに毎度「右だっけ、真っ直ぐだっけ」と迷うの(笑)。何で〜? 次のポイントは「馬来田(まくた)駅」。ここも駅が右の奥に隠れた所にあるの(^_^;)。
真里谷城は駅とは逆、つまり左折が正解なんだけど、「あ、馬来田だっ」と気付いて、咄嗟に駅に行っちゃっても、そこで転回できるからいいけど、何も気付かず真っ直ぐ行っちゃう可能性が高いかも〜。 ま、ここはナビでもあれば、「あ、行き過ぎた」って気が付きそう(だけど、その前のカドはそれでもキワドイ:笑)。
さ〜て、後は勝手知ったる真里谷コース(^。^)v。←たった一度行っただけでこの態度(^^;) でもマジでこの後はひたすら真っ直ぐだから、ここまで来れば安心(^_^A)。
どれぐらいあるかと言うと、これぐらい。地図←どの路線からも遠いです。この地図の倍率を辿ると「木更津市、少年自然の家」が出て来ますが、そこが真里谷城跡。
というわけで、真里谷城跡に到着〜♪ <真里谷城跡> ↑地図上の正式名称は、さっきも言ったけど「木更津市、少年自然の家」(地図)。キャンプ場なので、ちょっと遅くなると締め出される(^^ゞ。 駐車場に到着。スグ山林が始まってて涼しげな感じ(パノラマ2枚)。 反対側(パノラマ2枚)。こっちもキャンプ場じゃないかと。
↑管理棟。キャンプ場の管理をするための施設。その奥、山との合間には……↓
これを城跡図に当てはめると……↓ ちなみに北が←になる。
↑右上の「城山神社」「主郭(千畳敷)」とそのちょっと先の部分のみ、キャンプ場となって保存されてる事になる。 その下の2〜4の郭部分については、ここに来るまでの山林地帯が相当するのだろう。 その内どれぐらい遺構として残ってるのかはちょっとわからなかったが、来た道のりとしては丸きり山道の連続で、人家がバカスカ建ってるような所じゃ全然ない(^^ゞ。 ごく一般的な方程式で慮ると「広大な遺構が眠っている」と考えて良さそうに思えるが……どうだろう(笑)。 そこを楽しく発掘し整備した所で、広大な敷地をどう管理するのか、という問題は残るが(爆)。 では、いよいよ敷地に入ってみよう〜(^O^)。
この左の高台に上ると、「北物見台」というのがあって周囲が展望できる(^^)。 パノラマ3枚(ほぼ180度)。方角は……誤差が無ければ東か。
下にちょっと緑の平地が見えるが、地図では確かに、東部に「ブリック&ウッドクラブ」というゴルフ場がある。 さらに行くと高崎ダムとか高滝湖がある地域だが……本当に誤差がないかは不安(^_^;)。。
遊歩道とキャンプ小屋(パノラマ3枚・ほぼ180度)
涼しげに見えるが、小屋の内部はかなり暑そうだった(^_^;)。千葉県は緯度から言って涼しい地域ではないし、真夏しか営業してないっぽいから、熱中体験が出来そうだ(笑)。 さて、いきなり神社に来たので、城の説明が遅れたが(^^ゞ、この真里谷城の「真里谷」は、「まりやつ」「まりがやつ」「まりかやつ」とも言われるらしい。 城は「まりか谷城」とも呼ばれ、甲斐(山梨県)の武田信長が上総地方を支配する目的で築いた。
この時、成氏のもっとも信頼厚い側近が、後に上総支配に乗り出す武田氏と、同じく安房を支配する事になる里見氏だった。 武田信長を「右馬助」、里見義実を「左馬助」、官名の当て方からして、成氏の気に入りようが目に浮かぶ(笑)。 1455年、千葉の宗家、千葉胤直、弟の胤賢、子の胤宣が、馬加氏・原氏に千葉城を追われて自刃(市川合戦)。 胤賢の子、実胤・自胤兄弟が上杉氏を頼って市川城に逃げ延びた。 翌1456年、古河成氏がこれを攻め、千葉氏の兄弟が武蔵に落ちると、里見義実と武田信長は、まさにこのタイミングに乗って房総に乗り込んで来た人達(^_^;)。 里見義実は安房を、武田信長は上総を、それぞれ上杉氏の勢力を駆逐するべく、足利成氏にその勢力拡大を任じられたのである。 また武田信長の甲斐武田氏は、元は千葉県市原市の柿崎神社領を所有した事があって、これが後に信濃守護の小笠原氏の手に移ったらしい。遡る1344年に、小笠原氏内部で譲状が発生した記録があるという。 里見氏についての詳細は明瞭でないが、これと似たような事情があったと考えられ、両者とも房総こそ「憧れの本領復帰!」の土地だった。 武田氏はこの辺り一帯に山城を作り、それらはかなり険しい中にあるとも聞くが、一説に、上総武田氏が上総に根を張った頃、周囲は千葉氏やその支族に支配されていたため、後から来た武田氏は山奥に根を張るしかなかったとも聞く。 そうした上総武田氏が、その本拠地として地域の中心としたのが、この真里谷城である。 登った先は「千畳敷」(パノラマ2枚)
城は「千畳敷」と呼ぶ主郭を中心に東西400m、南北700mにわたって山全体を人工的に作り変えている。 城は主な出入口となる大手道を守るように、大きく4つの部分からなり、敵の侵入を防ぐため、各所に堀切や土塁、曲輪が造られている。 主郭の前面(西側・南側?)は、自然の谷を利用して大きな堀切を設け、ニノ郭と分断されている。 城の入口となる大手は、三ノ郭北西の矩形を呈した掘割道に続く箇所と思われ、一方非常時の逃げ道となる搦手道は、主郭南方(北方?)の尾根筋などが想定される。ここには土橋などが設けられて、万田野を通って市原方面へ退くように造られている。
武田信長は、西上総のこの真里谷城(木更津市)と、東上総の長南城(庁南(ちょうなん)・長生郡長南町)を拠点に、里見義実も安房の稲村城(館山市)を拠点に、それぞれ勢力拡大に乗り出した。 同じ成氏の「お気に入り(笑)」として両者は結び付き、武田信長の娘が里見義実の妻となった。 武田信長−信高┬道信(長南) └信興(真里谷)−信勝−信保(恕鑑) ↑信長の孫の代から、長南武田氏と真里谷武田氏に別れる。 1479〜80年、千葉自胤と太田道灌が、臼井城を攻めた時、結局成功せずに、庁南城と、この真里谷城を攻略したという文献もあるが、その後も両城には武田氏が続いている。(←後日追加) 勢いに乗じて、永正年間(1504〜1520)には、武田氏の勢力・支配は市原郡・菅生・飯・富両庄など養老川・小櫃川下流域から総央の畔蒜庄がある上流域を支配。さらに西上総の天羽郡佐貫・峯上・造海(百首)、東上総の小田喜(大多喜)・一宮・勝浦・興津・天津への進出にも乗り出した。 そのため、同じように宗家千葉氏の後、勢力を持った原氏の南端が、ついに武田氏の北端と境を接しあうまでになり、これがため、1510年代以降は、たびたび武田氏と原氏の間に合戦が起こったようで、1517年、武田氏は原氏の岩富城を攻めて、原氏の一族が戦死。さらに同年、武田氏は三上氏の真名城と、原氏の小弓城を攻略した。 このとき武田氏は、北条氏が支援して三上氏の真名城を攻略したのだが、武田氏は武田信長の4代後、真里谷信保(恕鑑)が、古河成氏の孫、足利義明を助け擁立して「小弓公方」につけた。 この小弓義明が、実兄の古河公方高基(同じく古河成氏の孫)と対立していく事となる。 古河高基が北条氏の支援を受けていた事から、対する小弓義明の形成勢力は反北条の旗印となっていく(^_^;)。 展望台からの眺め(^^)。こっちは……南かなぁ?(パノラマ3枚・ほぼ180度)
@里見義実−A(成義)−B義通 真ん中の「A(成義)」がカッコつきなのは、「後里見が後で挿入(つまり捏造(^_^;))した」からだとか。実在も怪しい、って話もあったり……。と言うのも、その後は、 ┌B義通−−D義豊 └C(実堯)−E義堯−F義弘−G義頼−H義康−I忠義 こう続くんだけど、主に嫡流最後の「D義豊」の年齢を若く偽るために、「E義堯」より後の人達が、どう言うのか、その……つまり「改竄( ̄∇ ̄;)」したらしい。 そしてやはりカッコつきの「C(実堯)」は、実在はしたが里見家「当主」の座に就いた事はないらしい。 どうもこれらは「C(実堯)」を無理やり「当主」に潜り込ませるために、その前の人達の年齢を少しづついじる事になった、というのが原因みたい(^^ゞ。 一応「当主の子が当主になる(甥とか従兄弟じゃダメ)」という「時代の掟」に沿うための手段だった、という感じ。 なので今では、「前里見」が「D義豊」までを指し、「後里見」は「E義堯」から後を指す。そこから傍流に移り、嫡流の記録をことごとく抹殺したからだという。 そういうわけで、特に「前里見」時代については「わからない事がいっぱい」なのだっ!
呆れたのが「D義豊」の子「民部大輔」(前里見氏の官位名を彼までが継いだらしい)で、「オヤジってジイチャンとも張り合ってたから、いつか俺もヤラレちゃうかも?」とばかり、オヤジの従兄弟「E義堯」に「味方しちゃう! 頑張れ〜」とか擦り寄って旗振っちゃう(^_^;)。 「E義堯」にとってはいかに主家とは言え、自分の親父の仇。やらなきゃ消されるかもしれないし、カッコ良く立ち上がろうとしたが、急なことで準備が間に合わない(^_^;)。 仕方なく、先祖代々ラブラブだった真里谷武田氏に「ヘルプミー!」して、百首城ってトコに匿って貰った。 助けてくれた真里谷武田氏は、さっき小弓義明を擁立してた信保(恕鑑)の子。 信保(恕鑑)┬信隆 └信応 ↑この内、兄の信隆が「E義堯」を助けたのだが、「E義堯」にしてみれば、親の憎い仇であるにも関わらず、もし「D義豊」に殺されたら、単なる上意討ちで片付けられてしまうもんだから、北条氏にも加勢を頼んで、派手な大水上戦も交え、何とかかんとか「D義豊」を退けた。 途端に劣勢になってしまった「D義豊」、あちこちの拠点を叩き潰され、「自分だってヘルプミー!」と、今度は真里谷信隆の親父、信保(恕鑑)の真里谷城に駆け込んだ(^_^;)。 が、安房は捨てざるを得ず、他国の上総に留まって力を蓄え、上総から反撃した。が、「犬掛合戦」で大敗。ついに討ち取られた。 事が終われば、「E義堯」が勝利者。世の中結果が全てだったのね。。。 南端に到着(^O^)。ちょっと狭い上段と、ちょっと広い下段(パノラマ3枚・ほぼ180度)
小弓公方義明はこの事件から、急に真里谷信保(恕鑑)への態度を変えた。 「里見家の当主(義豊)をどうして死なせちゃったのかい!」←まず責任追及。 「公方とか難しい立場にしたのはお前だろっ」←スポンサーに逆恨み(笑) 「勝っちゃった奴にはトコトンへつらう、それが公方なんだよ!」←イキナリ開き直り。 小弓義明にしてみれば、立場上「大人の器量」で裁かなきゃならないから、何とか筋を通す方法を考えたんだろうが、何しろこの戦に関わった信保(恕鑑)も、その子の信隆もスッパリ遠ざけてしまった(^_^;)。。 青ざめたのは、うっかり板挟みを背負った真里谷信保(恕鑑)(^_^;)。 「自分は小弓義明さまへの忠節に一点の染みも無かったのに、義明さまは告げ口ヤローの言う事ばかり聞いて! 恨んでやる! 死んでやるぅ〜!」 と遺言っぽい事言って出家したあげく、ホントに死んだ(^_^;)。。 その後の真里谷武田氏、信隆はサラリと受け流されて、弟の信応が擁立された。モチロン小弓公方の支持で(^_^;)。 これは信隆が側室の子(だけど兄)で、信応が正室の子(だけど弟)だったから、という理屈らしいが、タイミングから見ると、こういう前段階のマズさもあったのかも(^_^;)。 いきなり秋風身に染みる孤立無援。仕方なく真里谷信隆は北条氏を頼り続けた。 あんなに助けて貰った癖に、里見を継いだ「E義堯」は早速「北条離れ」を催し、1537年には小弓公方の命令を聞いて、この真里谷信隆を百首城に攻めちゃったりするんだな(^_^;)。 上段の方に登って来た(パノラマ4枚・180度以上)
反対側。さっきの千畳敷の奥の物見台に続く(パノラマ4枚・180度以上)
こうして真里谷信隆は北条の、弟の真里谷信応は対する小弓公方の支援をそれぞれ受けて、1538年の第一次国府台合戦へともつれこみ、武田と里見の連合勢が北条勢に敗れた。 負けた里見氏だが、どうやら「テキトーに様子見してた」ようで、痛手は薄かったという(^^;)。。 一方、勝った北条についてた真里谷信隆は、「椎津城(市原市)」に入る事は出来たが、この後の真里谷武田氏は疑心暗鬼の内輪もめが絶えず、内紛を繰り返す上に、原氏との抗争にも始終晒され、さらに北条と里見という二大勢力の「共同草刈場」にされてしまい、かつての勢力も版図も激減していく一方だった。。 真里谷城は、1517年から1534年までの約20年間が全盛期であったようで、国府台合戦(1538年)以後、武田氏一族の勢力が衰えるとともに力を失い、次第にその役割を終えたとも言われ、豊臣秀吉が関東を平定した1590年、真里谷信高の代には完全に廃城された。 以上、関連事項は 2007年5月<木更津市・馬来田〜真里谷>と<真如寺> 「城主のたわごと・千葉の動乱」<上杉禅秀の乱(1416〜1417)>以降 次回は木更津〜亀山編の第二弾、久留里城〜亀山温泉までをお届け! そして9月に行った、東北「宮城〜山形旅行編」の第一弾を、その後に続けてお届けの予定〜♪ 2007年10月08日(2016/11/21:地図(ヤフー →MapFan)張替) |
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