今年(2006)は年末年始の休みが少なかった上に、その後も休みナシが続き、亭主の代休は溜まる一方で消化できずに無くなる。2月から毎週「来週は休む!」と言い続けて、休みが取れたのは……4月(^_^;)。。 お休みの1日目は地元、松戸の「常盤平さくら祭り」に(^^)。そして2日目〜4日目は箱根に行った。 都合4日分のレポを3回に渡ってお届けっ♪ 初回の今月は、1日目〜3日目の途中まで。始まり始まりぃ〜(^O^)! <1日目・花と嵐の(笑)「常盤平さくら祭り」@松戸> 地図A←五香の起点。真ん中でグイーンと北に蛇行する新京成電鉄の「八柱(やばしら)」駅から「五香(ごこう)」駅までの南側に、線路と平行して「さくら通り」はある。
今年は早すぎもせず遅すぎもせず、咲き具合はちょうど見頃で(これがそもそも珍しい)、桜だけ見る限りは綺麗だったんだけど、あいにく天気が悪く、このあと途中から雷雨になってしまった(汗)。 祭りだワンワン。ワンちゃん達も見守る中、神輿隊の準備も進む!
まず入って食い物を確保し、しばらく腹ごなしに歩き、最後に食いっぱぐれた食い物をまた買う……という段取り上、屋台の多い五香から入って八柱に向かい、また五香に戻って来る……という具合になる(^_^;)。 そういうわけで順路は、まず五香から常盤平(ときわだいら)に向かう。地図A←五香の起点 今年の人気グッズはコレ! ペットボトルを象った風船ランドセル(^O^)。
↑凄くたくさんの子供達がみんな背負っていた。子供が背負ってるとグッズが大きく見えてGOOD! しばらく「見付けた!」とばかりに撮りに行ってたが、やがて警備員とかが大勢繰り出している辺りに来て、「子供ばかり追い掛けて撮ってる怪しい人」に見られないか不安になり(笑)、この辺りでやめた(^_^;)。 でも、もっと沢山の種類が(日本茶とかも)あったんだよ〜〜♪ 常盤平に近い屋台を集めた広場。パノラマ2枚
ここは毎年、国際色豊かな屋台が多く、これまでもしばしばインドなどの屋台の写真を披露して来たが、国内の物産品もたくさん扱われている(^^ゞ。今年はその中から鹿児島の屋台をご紹介。
籠のオモチャ。買って改めて家で撮影(^^ゞ。指でつまみあげるとビローンと開く。
↑屋台のオジサンの話では、これは元々中国から来たオモチャだったらしく、中国では竹細工だったそうだ。 この辺りから、曇りから徐々に大雨となり、傘を買いにスーパーに入る。 次の日から旅行だったのもあって、わりと長々と買い物して出て来たら、さすがに日もトップリと暮れ、すでに夜桜ムード(^^ゞ。この後は屋台を求めて(笑)五香にバックする。
ちなみにこの「桜祭り」は、2004年分を2005年5月「城主のたわごと」、2005年分を2005年12月<常盤平・桜まつり>でもレポしたので、見たい人はクリックしてね(^^)。
ってなわけで、「明日から旅行〜♪」とルンルン気分で(天候とは裏腹に:笑)この晩は家で寝る。 <2日目・松戸・常盤平〜八柱霊園の桜めぐり>
線路からもよく見える常盤平の「さくら通り」。パノラマ2枚
前日は夜になってもかなりの風が吹き続けて、「花びらみんな散っちゃうよね〜(^_^;)」と心配してたんだが、この通り、意外と綺麗に残っていた。 桜がよく見られる4つのカドを、グルッと一周してみる。しょうぶ公園(地図B)→第一小学校→常盤平支所(地図B-2)→常盤平駅前
この「ゆりのき通り」、まだ桜が咲いたばかりの季節で葉が出てないが、夏までに大〜〜きな葉が出て、秋には子供達が枯葉を追い掛け、踏み心地を楽しみながら歩く光景を見る(笑)。
あと、今年の桜は威勢がいいので、箱根から帰って来るともう散ってるかも、と思い、 前月は雪景色でお届けした「八柱霊園」にも行ってみる(^^ゞ。 ちなみに雪の八柱霊園は2006年「7月のたわごと」<雪の八柱霊園>をば(^^)。 雪にせよ桜にせよ、運転してる亭主はあまりゆっくり上を見られないので、ここみたいにノロノロ運転可(制限速度20キロ)の所は助かるんだよね(笑)。 <東京・神田明神> このごろ金がナイため、出来るだけ高速に乗るのを避けてる話は、5月あたりからジワジワと書いて来た(笑)。 この時も同じていたらくで、都内までダラダラと下を通って、ここ神田までやって来る(^_^;)。地図C
↑「天野屋」と書く事を、検索してネットで知った(爆)。こたつ亭主が前にテレビで見て「あそこって地下で糀を作ってる貴重な店なんだって(゚.゚)」と教えてくれた事もある。 しかし私らにとって、この店での必食メニューは「みつまめ」なのだ(爆)。 いや〜〜ここの蜜豆は、ホント美味しいですわ〜(^^)。
ってわけで、いよいよ正面にブチあたる(^^)。
公園にいる人々は早くも花見の場所取りに余念がナイ(爆)。 話が先取りするが、神社の境内にも寿司の出前パックがたくさん積み上げられて、どっかでやる宴会用なんだな〜と思った(笑)。 さて、この神田明神、これまでもちょくちょく取り上げて来たが、いっぺんどこかでマトメをやらないと……と思い、今回ちょっと本格的にレポしてみる♪ 門を入って振り返ると、こういう感じ。(かなり日陰が濃くてゴメン(^^ゞ)
いつもかなり賑やかな風情の神社だが、こうして桜が咲くと尚一層派手である(爆)。
死して369年後の奉祀。将門については多くのサイトで扱われているが、この1309年という時期について説明(あるいは考察)されてるのを、あまり見た覚えがない(^_^;)。 話は近代に飛ぶが、実は明治天皇が参拝されるに及び、「朝敵」として祭神の将門が隠された時期がある(^_^;)。。 と言っても丸きり消えたワケではなく、境内の奥にひっそり末社として祀ったようだ。 それでも、それまでは徳川の将軍でさえ崇敬して来た神田明神だから、将門びいきの江戸の庶民にはカチンと来たらしく、「ここに来るからには、将門を拝んで何が悪い」とばかり、末社にばかり賽銭を投げ入れ、本社にはてんで賽銭が集まらなかったそうだ(笑)。 そして例祭に台風が起きて中止されると「将門様が怒ったから」、奇怪な事件が続いては「首塚をどけようとしたから」などと、以後の帝都(東京)は戦後になっても「将門の祟り」で持ち切りとなる(^_^;)。 ……話は奉祀の1309年に戻るが、何しろこの例で行くと「朝敵である事を憚り、正式に祀るまでに長い時間がかかった」という見方がまず上がるだろう。 その上で当時の世相や歴史背景をさらに見ると、1200年代後半に、元寇という脅威がまず日本を襲った。これを予言した日蓮は、千葉県の出身なんだよね(^^ゞ。 国防に追われ、武士への充分な恩賞もままならない鎌倉幕府は、1300年代前半には倒され、さらに足利幕府が成立する。 その間、鎌倉には絶えず大地震や洪水、大火、飢饉、疫病がおびただしい頻度で起こり、治安は著しく悪化している。 鎌倉時代の初期、災害などで首塚が廃れ、そのせいで災いや不幸が頻発していると村人が嘆き怯えるので、最初はお坊さん(つまり仏教ね(^^ゞ)が慰霊をして、そのあと神田明神の前身の社が正式に合祀したという。 以上、祀った事情と時代との関わり、中でも相馬氏(あるいは千葉氏)などとの関連は判らなかったが、神田明神における将門は「悪政に苦しむ東国の庶民たちを自らの命を投げ打って守った、江戸っ子の守り神で、除災厄除の神」とされ、大黒さまと合わせ祭神とされ、戦国期にも太田道灌、北条氏綱の崇敬を受けている。 相馬氏と言えば、つい一昨日めでたく男の子をお生みになられた秋篠宮妃・紀子さまの弟さんが、この4月に相馬中村妙見神社・宮司のご長女と結婚されたばかり。それも出会いは、将門以来の伝統にのっとった「相馬野馬追い祭り」で三年前に……との事(^^)。
正式名「少彦名命」。1874(明治7)年に奉祀された。 えっ? 最初の大黒サマは奈良時代なのに、ペアの恵比寿サマが明治? と驚くのも無理はない(笑)。 江戸時代には七福神が流行り、中でも大黒と恵比寿はペアで祀られる事が多いようだが、ここ神田明神ではずっと大黒サマだけだったんだね(^^ゞ。 それが、さっき話した明治天皇の参拝に際し、将門を引っ込めた代わりに急遽このエビスさんを祀ったそうだ。 ちなみにこのサーフィン恵比寿の像は、2005年……そう、つい去年、立像された(^^ゞ。斬新なデザインなのも頷ける(笑)。境内の説明版にも「波間より魚たちとともにいらっしゃる姿をしためずらしい像」と書かれ、立像の喜びが伝わってくる。 商売繁盛・医薬健康・開運招福の神様として、合祀以来「二の宮」に鎮座し、「大黒サマとともに力を合わせ、日本の国づくりをし、農耕漁業を進め、日本人の生活の基礎を築き、医薬の道を伝えて、多くの人々を病苦から救う慈愛の心の持ち主」と書かれていた。 エビスさんは鯛を抱くオジサンのイメージがあるが、元は……捨て子だったんだよね(^_^;)。父母はイザナギ・イザナミだが、恵比寿を福神として祀るまでの間に、他の神様が混ざっている事が多い。 一人は山幸彦、もう一人は大国主の息子の事代主、もう一人は大国主が国造りをした時に協力した少彦名。 大黒(大国主)とツーショットで祀られる場合は、「少彦名」とされるケースが多いらしい。 少彦名は小さな神様で、父神は神産巣日(かみむすび)。 イザナギ・イザナミが出る前に二代の独神と四代の男女神を経るが、そのさらに前に五神が登場する。この五神の一人が神産巣日(かみむすび)。この父神の手のひらから落ちて地上に来て、大国主と国造りに励んだ。 この「小さな神」を重んじてか、元の捨て子のイメージからか、ここでは稚児のお姿となっている。 将門の場所を一時のっとった形になったエビスさんだが、すぐ近くに秋葉原電気街、隣は大手町と、まさに日本有数の企業が「商売繁盛」を祈りに来る社に相応しい、波乗り上手なお姿が、新たな福を招いてくれる(^^)。 ちなみに私も神田付近で働いてて、氏子さん達と一緒に祭りのお手伝いをやらせて貰った事がある(^^ゞ。
ジャジャーン! 完成おめでとう!(^O^)
↑「神札授与所」「参拝者控え間」「休憩所」を兼ねている建物。これのスグ→が本殿。 ↓本殿。前のレポ写真を使いまわし(爆)。
このうち二番目の「たわごと」で、既に摂社の一部のレポが済んでるので、今回はその続きに進む(^^ゞ。 1月:初詣/仕事始め参拝/歳旦祭/神楽始め(太々神楽)/だいこく祭・寒中禊・四條流包丁祭・祈願串成就祭 2月:節分祭豆まき式/紀元祭 3月:末廣稲荷神社例祭/浦安稲荷神社例祭 4月:崇敬会桜まつり・新入学児童健育祭・祖霊社例祭/春大祭(祈念祭) 5月:神田祭/魚河岸水神社例祭 6月:富士神社例祭/大伝馬町八雲神社例祭/小舟町八雲神社例祭/夏超大祓式 7月:大祓形式流却神事/七夕祭/ 8月:八幡神社例祭 9月:将門塚例祭 10月:金毘羅神社例祭/三宿稲荷神社例祭 11月:籠祖神社例祭/七五三詣祝祭/秋大祭(新嘗祭) 12月:煤納奉告祭/天長祭/師走大祓祭/除夜祭/初宮詣/甲子だいこく祭/月次祭/祖霊祭 以上が神田明神で執われる祭り等の月例スケジュールだが、太字になってるのが摂社の祭り。茶色い太字はレポ済み、黒い太字を今回は載せる。
1797年、大工の平蔵が社殿の造営に尽力。 1843年、町割改めに際し、神田明神境内に遷座。 明治惟新および空襲など重なって復興できず、神田の稲荷社を五社合祀した。
将門を納めている所は、このちょっと奥にあるようだ。 さて、その神田祭りだが、日本三大祭と江戸三大祭の一つ。天下祭、御用祭とも言い、神田・日本橋から36の山車を繰り出し将軍も観覧した。現在は二年に一度開催される。前に2006年「3月のたわごと」<神田祭>でちょっと見た。 こないだ「八代将軍吉宗」を見てたら、質素倹約のために回数を減らした話が出て来た(^^ゞ。毎年じゃなくて二年に一度になったのは吉宗の頃かな?
花びらが末廣稲荷の階段に降り注いでた(^^)。階段の上にあるのは↓オアゲ(笑)
三宿稲荷神社 ご祭神は宇迦之御魂(うかのみたまの)神。 創建年は不詳。江戸時代、神田三河町二丁目と皆川町、蝋燭町、旭町の一部が合併。昭和になって、1935年、司町一丁目に、1966年に内神田1〜2丁目の一部になり、12代神主・柴崎氏の邸宅に祀られていた内山稲荷と合祀して再建。 金毘羅神社 ご祭神は大物主命・金山彦命・天御中主命。 古くから隅田川の船人達の守護神とされ、町が発展すると商家、飲食業、遊芸職の人々の信仰を集めた。江戸期の1783年、武蔵国豊島郡薬研掘(東日本橋二丁目、旧両国町会)に創建、神祇伯白川家の配下となり祭祀されていたが、1873年(明治)に村社に定められ、1966年(昭和)、宗教法人を解散してここに鎮座された。 末廣稲荷神社 ご祭神は宇迦之御魂神・級長戸辺之命・級長津彦之命。社自体が、1616年頃の物と極めて古く、昔から庶民信仰が強かった。現社殿は1966年(昭和)に再建。 籠祖神社
1795年(江戸時代)5月、亀井組の籠職人がつづら職の人々の祖神として神田明神境内に祀った。商売繁盛、招福開運の祖神講を設け、今も毎年11月5日に祭祀を行なう(籠工商祖神講)。
京都伏見稲荷社家に生まれた東丸は、1700年、三代家光の50年祭に勅使として大炊御門経光が日光や江戸に来たのに随行して訪れ、養子の在満、弟の岡部三四真渕もここを借り、1702年には、門弟の茶人、中島五郎作宗吾と計り、赤穂浪士の義挙を助けた。
中央に「鳳凰殿」と「本殿」。パノラマ4枚(180度)
他にも、ここ神田明神は名所旧跡の溜まり所で(^_^;)、紹介するとキリが無いが、あと「水野年方・顕彰碑」の案内板もあった。 水野年方(1866〜1908)は神田生まれの浮世絵系の日本画家で、左官の棟梁・野中氏の子。水野家に養子に入り、14歳で歌川派の月岡芳年の門下に、芝田芳洲、三島薫窓、渡辺省亭らの画風を学び、人物画、草木風景に独自の描写様式を樹立。美人画、歴史風刺画で知られ、明治以後は戦争画や「やまと新聞」など新聞や雑誌の挿絵を書き、1898年、岡倉天心が「日本美術院」を創立した時に招かれる。
ところが意外とコレがクセになる美味しさで(笑)、特に酒のツマミにはかなりイケル(^。^)。 食い切って捨ててしまうと、何せ屋台なので次はいつ出会えるか判らないため、写真に撮っておいた(爆)。「元祖・福満堂」と書いてあった(^^ゞ。 以後は所用を済ませて、あとは一気に東京を脱出。一路、箱根に向かう。
あとは御殿場インターで降りて、神奈川にもう一度入り、箱根を目指す。 だいぶ夜更けになったが無事に宿に到着(^^)。ゆっくり温泉に浸かって寝る〜♪ <3日目・箱根の朝!>
駐車場から宿に向かって。パノラマ4枚(180度)
今度はその反対側。パノラマ4枚(180度)
↑この奥の森林の方に行ってみる。緩い坂を下っていく感じ。↓ こんな坂道。ホテル街がちょっと遠のく。パノラマ4枚(180度)
反対側。さっきの森林の合間から朝の山並が覗く(^^)。パノラマ4枚(180度)
さらに近づいて見る(^^)。パノラマ2枚
今いる場所はニノ平のこの辺→地図D。 二ノ平から1号線を南(下)に行く。地図E
地図F←1号線をさらに行き、「箱根神社」のある芦ノ湖の北岸側に近付く。
<箱根神社>
前は工事したりチョコチョコ場所が移ってた覚えがあるが、この辺りに案内板も出ていて、七福神について、特に恵比寿と弁財天について書いてあった。 今回はちょうど「神田明神」で恵比寿について書いたが、こちらの恵比寿さんは事代主のようだ(^^ゞ。商売繁盛、大漁満足、愛敬富財の神としてある。 弁天さん(弁財天)は、市杵嶋姫命で福徳円満、商売繁盛の神とされ、後で書くが、これは「第六天」も同様とある。 箱根における信仰母体である駒ケ岳は、縁起によれば紀元前4〜5世紀まで遡るが、その駒ケ岳から霊威を借り、芦ノ湖畔に箱根神社を始めた萬巻上人は仏教の人だから、上人の出た奈良時代より先は、神仏習合を元祖とする「箱根三所権現」として成り立ってきた、というのは前も書いた。 詳しくは、2004年「10月のたわごと」<箱根神社>を。又、さらにその興りである「龍神伝承」と「湖水祭」については、2004年「11月のたわごと」<芦ノ湖>内を(^^ゞ。 神仏習合は神も仏も一体化し、主に山伏など山岳宗教(修験道)の者に信仰され、神宮山の離宮権現、八丁坂の山神社、吾妻山の吾妻社、一之社護王神、ニ之社日枝、神明宮、八幡宮、春日社、稲荷社、天神社などは全て仏名を冠し、豊玉姫、玉依比売、白和瀧王、九頭龍王などの神は東西南北に配祀されていた。 が、明治時代(1868年)に「神道が国家宗教なのだから、寺と神社はハッキリ分けなさい(神仏分離・修験道の廃止)」という指示が出て、「箱根神社」として全て統合。 ゆえに摂社における祭神は夥しい数に上る(次回に譲る)一方、九頭龍明神はもちろん、蓑笠明神、弁財天、第六天など篤く信仰された仏教系の神仏は密かに祀るハメになった(^^;)。 はからずも今回、神田明神でも似たような事情を書いたよね(笑)。将門も元は仏教で慰霊をしたのが始まりで、こういうのは「日本書紀」なんぞには載ってないわけ(^_^;)。しかし当時は廃仏毀釈(運動)とも言われ、仏だと排斥・破壊されてしまうので、みんな大事な神様は隠して祀ったり、隠れて拝んだのよね(^_^A)。 というわけで、箱根にも七福神がいる事を、2006年「3月のたわごと」<箱根・ユネッサン足湯温泉と散策道>内にも書いたが、そのうち恵比寿(蓑笠明神社)と弁財天(かつては堂ヶ島)の社殿が、つい最近ここに造られたそうだ(^^)。前に来た時は無かったもんね。
平安・鎌倉時代の国守が代理として送り込んだ役人を「目代」と言うのにちなんで「目代木」とも名付けられ、また「こころ木(湖の心の木)」とも言われ、鎌倉幕府三代将軍、源実朝は箱根神社に初詣(恒例の二所詣)の際、次のように詠んだ。 「たまくしげ 箱根のみうみ けけれあれや ふた国かけて なかにたゆたふ」 木に龍神を繋いだ(゚.゚)。 繋がれると龍は「リュウリュウ」と鳴くのかな(想像力貧困(-_-;))。。 左の駐車場から中央の鳥居に来る。パノラマ2枚
箱根神社宝物館。パノラマ2枚
展示コーナーは時代別に「曽我兄弟展(鎌倉時代)」「箱根用水展(徳川時代)」「神道資料室(近代現代)」があり、展示物は2004年「10月のたわごと」<箱根神社>の通り。
1190年、出家を嫌い、無断で寺を飛び出した弟は自ら時致と名乗り、兄とともに敵討ちのため、1193年、箱根権現に詣で、行実僧正に神刀微塵丸と薄緑丸(ともに宝物館所蔵)を授けられた。 そして富士山の麓に、頼朝の大巻狩りに同道していた工藤祐経を襲い、授かった赤木柄の短刀で見事に刺し殺した後、兄は討死、弟は捕縛され処刑と、壮烈な最期を遂げた。 曽我兄弟とその仇討ちは有名だけど、私なんかは実はあまりストーリーに詳しくなかった(^^ゞ。 ただ特に弟の五郎、母が再婚した事と言い、寺を飛び出してまで敵討ちにこだわった事と言い、義経にかなり似てるよね(^_^;)。 と思ったので書くと、壇ノ浦に平家が滅んだのは1185年(^^ゞ。つまり義経が平家追討(親の仇討ち)を果たした翌年、弟の五郎(時到)が最初の仇討ちをして失敗している。 そして奥州藤原氏が滅亡したのは1189年。つまり義経が兄頼朝に追撃されて奥州に死んだ翌年、曽我兄弟の方は力を合わせて父の仇討ちを果たす誓いを立て、やがて実行に移すわけ。 義経ほど華々しい戦歴を勝ち得なかったが、頼朝・義経とは違って兄弟の結束を貫いた所に、な〜んか心理的な連鎖・影響を穿っちゃうんだよなぁ(^^ゞ。 少なくてもドラマにすればウケそうだよね〜(爆)。義経と別れ、鎌倉に連れてかれたあげく、生んだ子を殺された静御前が、頼朝への抗議の気持ちを込めて、たくましく白拍子で稼いで兄弟のスポンサーになった、な〜んて筋立て(^。^)。 あ、そうそう宝物館には「静御前の笛(義経の形見)」というのもあるし、静が頼朝の前で「義経が恋しい」とアテツケに歌舞を披露した時、その鼓を打ったのが曽我兄弟の仇、工藤祐経だというから、裏付けも充分よ〜(^^)。 さて「曽我神社」は、そもそも弟の五郎が箱根権現の稚児であったので、「勝名荒神」として祀ったのが始まりだが、江戸時代は赤穂浪士など、敵討ちが武士の美学とされ、敵討ちが箱根権現に祈って成就した事から、1647年、小田原城主、稲葉正則が箱根神社に社殿を作った。 稲葉正則って、春日局の孫だよね(^^ゞ。春日局が乳母として、春日局の長男・稲葉正勝は小姓としてともに家光に仕えた。後に小田原城主となり、この正則が跡を継いだのを、こないだ「春日局」(NHK大河)の再放送で見たけど、この稲葉氏以来、傘焼きの儀という祭祀が行われている。 曽我兄弟の仇討ちは鑑と謳われて、文学や講談にもてはやされ、宝物館には「曽我兄弟縁起」などが伝わっている。 この箱根神社は曽我兄弟の謡曲(曽我物)で舞台となり、その一つが、弟が先に敵討ちに失敗した時、人形(ひとがた)を作った話の「調伏曽我」。もう一つが、兄が弟の元服を望み、許可されてともに敵討ちを誓う「元服曽我」。 箱根神社にある、この曽我神社は、特に心願と武道の成就を祈りに来る場で、杉の大きい方を「十郎杉(兄)」小さい方を「五郎杉(弟)」といって、特に弟が武道を磨いた事で「剣難除けの杉守」として知られていたが、今は根株のみである。 ちなみに曽我兄弟の墓は、ここに来る途中、国道一号線の途中にあった(^^ゞ。 さて、いよいよ本殿に到着(^^)。パノラマ4枚(180度)
こっから先は次回っ(^^)。 この辺りに「箱根元宮」への案内があって、これは「箱根神社」が萬巻上人が駒ケ岳から霊威を導いた神社であるから、駒ケ岳にある「元宮」にその本拠があると見なすため。 4日目(この翌日)、その「元宮」にも行ってみたので、次回はそれもレポするね〜(^^)。 2006年09月08日 <つづく> |
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