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以下、これまで書いて来た事をコピー&ペーストするだけで何とか作成(^_^;)。
千葉の動乱については、ワケわからない人の方が多いと思うので、「だいたいの所」を「一読でわかる」物を作ってみたのが始まり(^^ゞ。
それから1年。少し内容も豊富になったが、基本的には千葉県北部が中心。さらに、これまで行ったトコについて書いた文章を繋げるだけなので、抜けも余計も間違いもあると思うが、以下の文章のアチコチをワード検索でもして、もっと正確でいい内容を書いてるサイトを見つけるなりして、ここに書いた変な部分については「各読者の自己責任」で補って貰うだよ(笑)。
また材料が揃ってきたら、その時にまた、新たな整理統合を図りたいと思う。(2008年7月23日・公開)
<戦国時代の頭痛の種、「古河×上杉」の構図>
関東の大乱は、京を中心に展開された、いわゆる「戦国時代」(応仁の乱・1467年〜大坂の陣・1515年)よりも早く訪れ、早く終息したため、大抵の人が関東の戦国時代に入った途端ワケがわからない(笑)。
ちなみに「関東」と言ってはいるが、この時代この地域を指す範囲には、甲州や越後も含まれる。甲州と越後が含まれて、その間にある信州を無視するわけにもいかないから、「関東甲信越問題」と呼ぶのもいいかもしれない(笑)。
まず頭に入れておかないとならないのは、「古河×上杉」の構図。
古河は「古河公方・足利」氏、上杉は「関東管領・上杉」氏で、どちらも内部では分裂する事が多いが、大まかな流れとしては、だいたい「古河×上杉」の構図を貫いている。
に対して、宗家である京の足利将軍家が絡み、しばしば討伐軍などを送り込む事態になるが、三つ巴と言っても、将軍家と上杉家が戦い合う事は、最初の「上杉禅秀の乱」の他には、あまりないかも(^^ゞ。反乱を起こすのは古河公方家であって、上杉はそれを鎮圧する立場にある(と思う)からだ。
とは言っても「関東を足利氏の支流が治める」というのは元々足利幕府が出来た頃から決まってる事なのか、反乱がデカくなって幕府が討伐軍を出したりしても、和睦したり子供を擁立するなどで、結局は関東の地位が大きく脅かされることもなかった(^^ゞ。
この曖昧な構図が、日本のど真ん中で繰り広げられている以上、「いつも日本のどこかに騒乱がある」という常態を払拭できない、と言っても過言ではないかもしれない(^_^;)。。
家康が江戸に幕府を開き、完全に戦国時代を終息させた。大袈裟に言えば、その事を理解しなければ、戦国時代を理解できたとは言えないのかもしれない(^_^;)。
中でもよく消火に務めたのは北条氏である(笑)。しかしその北条氏も最後には「関東の火種」になってしまった(^_^;)。
このように関東という地は、「ミイラ盗りがミイラに(火消し役が火付け役に)なってしまう土地」であるから(苦笑)、最終的に消火した家康が幕府を開き(つまり半ば首都を関東にしてしまって)、やっと治まったのである(^_^;)。
徳川家康こそ、まさに「最大のミイラ」となった男かも(爆)。
<上杉禅秀の乱(1416〜1417)>
そもそも関東においては、足利持氏までは「古河公方」ではなく、「鎌倉公方」と言われていた。
これは足利尊氏の子、基氏が鎌倉に派遣されて御所をしつらえ関東を治めるようになって以来、脈々と受け継がれた京の将軍に継ぐ地位である。
持氏−−成氏−−政氏−−高基−−晴氏−−義氏−−氏姫
これに対して、上杉禅秀は鎌倉公方の補佐役である関東管領の家柄にあった。
関東管領上杉氏はこのころ、犬懸上杉氏が取り仕切っていた。
┌−重顕(扇谷)
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└−憲房−┬−憲藤(犬懸)−−朝宗−−氏憲(禅秀)
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└−憲顕(山内)−−憲方−−憲定−−憲基
上司の持氏と部下の禅秀はソリが悪く、持氏は禅秀の家人から所領を没収したり、それに抗議して禅秀が関東管領職を辞職すると、これ見よがしに山内上杉氏から、憲基という禅秀のライバルを後釜に据えたりの嫌がらせを濫発。しまいには禅秀もブチ切れ、1416年持氏に謀反を起こす。これが禅秀の乱である。
この禅秀の妻は、甲州武田氏の出身で、これの兄弟に甲州の武田信重がいる。
武田信重は、武田信玄の5代前の武田家当主である。
信満−┬−信重−−信守−−信昌−−信綱−−信虎−−信玄
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└−信長
当時の武田家は信重の父、信満が当主にして守護だったが、娘婿が挙兵したので、武田家も当然禅秀の味方となった。
が、やがて関東を巻き込んでの大叛乱となったので、幕府もやっと鎮圧にかかる。
相手が幕府の組織する討伐軍だから、名目も立たず局面は不利。
禅秀は鎌倉で自刃。その妻(武田氏)も後を追って死に、武田信満も帰国した所を、持氏の意を受けた山内上杉憲基に追撃され、逃げ込んだ木賊山で自刃。
信重は高野山まで逃げ延びるが、甲斐は逸見氏に横領され、信重の弟、信長はこの逸見氏と戦うが、敗れて庇護を求めた相手が、このころに将軍に就任した京の6代将軍、足利義教である。
義教主導の足利幕府も武田氏を甲斐の守護と認め、1418年、信重の伯父(信満の弟)信元を守護として甲斐に任じ、信元に子がいないので、信長の子、伊豆千代丸を信元の養子に立てて信元に守護を任命し、信元が死ぬと、信重を守護として帰国させるが、逸見氏の力は、鎌倉公方・持氏と結託して大きくなりすぎ、信重は自分の国に入れなかった。
武田信重の弟、武田信長が上総に進出をはかっていくのも、きっかけは、この武田家の不幸な出来事が始まりだったと考えられる。
この武田信長の子孫の内、特に真里谷武田氏が後に下総・国府台合戦に関わって来る。
<永亨の乱〜結城合戦(1435〜1440)>
その後の持氏は京の将軍義教(6代)ともソリがあわず、やれ年号を使わないの、頂戴した諱を息子に名乗らせないのあげく、幕府にも逆らい(「永享の乱」1435年)、管領殺害の風聞からついに幕府に討伐軍を起こされ。最後は自害に追い詰められる(1438年)。
これを機に流浪の甲斐守護、武田信重はやっと帰国がかなった。
苦労の果てに甲斐の国に戻れた信重だったが、戻ってから僅か12年後の1450年、黒坂太郎信光と交戦中、穴山満春に背後を衝かれ、館はその兵火で全焼。信重もまた、ここで自刃。
(一方、信重の子信守は病弱で国主の座について僅か5年後の1455年に亡くなった)
(以上、だいたい2005年・石和川中島合戦絵巻レポート1<流浪の甲斐守護、武田信重>より)
一方持氏の子には、次男の安王丸と三男の春王丸(長男の義久は持氏自害の同年死去)が、持氏の残党に守られて結城氏を頼り挙兵。が、二人は捕らえられて殺された。この事件が「結城合戦」(1440年)。
<享徳の大乱(1454)>
というわけで、鎌倉公方・持氏の後は、1447年に、持氏の四男、成氏が鎌倉公方となった。
持氏−−成氏−−政氏−−高基−−晴氏−−義氏−−氏姫
成氏が鎌倉公方に就任すると、管領上杉の勢力に服さぬ関東武士からは大人気。
成氏は、禅秀の乱で父、持氏と対立して旧領を失った武田氏、二人の兄である安王丸・春王丸を庇って脱落した結城氏、他に里見氏などの地位と本領を回復しようとして、やっぱり関東管領の上杉氏と対立した(^_^;)。
この頃、上杉氏には太田道灌の父、道真が家宰をしていて、道真は鎌倉御所と呼ばれる成氏の居館を襲撃した。
いちど江ノ島に逃げた成氏は「江ノ島合戦」で反撃し、1454年には管領上杉憲忠を殺害すると、さらに人気はアップ。以後、関東は「享徳の大乱」に突入。
成氏は1455年に古河に御座を移し、「古河公方」と呼ばれるようになり、スターの座に就いた。
以後の系譜はみなこの呼称で通用するようになる(ってトコが不思議よ(^_^;))。
この時、成氏のもっとも信頼厚い側近が、後に上総支配に乗り出す武田信長(武田信重の弟)と、同じく安房を支配する事になる里見義実だった。
武田信長を「右馬助」、里見義実を「左馬助」、官名の当て方からして、成氏の気に入りようが目に浮かぶ(笑)。
利根川は成氏にとって敵、上杉氏との境界線であり、何度も激しい戦いが行われた。
京の幕府も、別の鎌倉公方を立てる事を考え、将軍義教の子、政知を鎌倉に下向したが、政知は鎌倉に入れず堀越にとどまって「堀越公方」を名乗ったため、名実ともに関東は「古河公方」と「堀越公方」の二大公方が乱立する事態となった。
(以上、だいたい「城主のたわごと」2006年1月<宗英寺>より
または「城主のたわごと」2007年10月<真里谷城跡>内より)
<武蔵千葉氏×馬加氏「市川合戦」(1455〜1456)>
1455年、千葉の宗家、当主の千葉介(胤直)、当主の弟(胤賢)、当主の子(胤宣)が千葉城を追われて自刃。(ちなみに千葉胤直の妻は、先に触れた上杉禅秀の娘であった)
下手人は当主の叔父・馬加氏(康胤)と重臣で小弓城主の原氏(胤房)だが、これらは古河公方、足利成氏の与党である(^^ゞ。
古河成氏には、里見、武田(上総)、結城などの与党がいたが、これに馬加が加わったわけだ。
一方、当主の弟(胤賢)の子、千葉自胤ら二人が生き延び、逃げて「市川城」に上杉氏の支援を受けて落ちた。
しかし翌1456年、馬加や原らと宜しくやってた古河成氏に攻められ、結局兄弟は市川城を落ち武蔵(東京都)に逃げて行く。(市川合戦)
(以上、だいたい「城主のたわごと」2006年8月<里見公園(国府台城跡)>Aより)
千葉氏の兄弟が武蔵に落ちると、里見義実と武田信長は、まさにこのタイミングに乗って房総に乗り込んで来た(^_^;)。
里見義実は安房を、武田信長は上総を、それぞれ上杉氏の勢力を駆逐するべく、足利成氏にその勢力拡大を任じられたのである。
また武田信長の甲斐武田氏は、元は千葉県市原市の柿崎神社領を所有した事があって、これが後に信濃守護の小笠原氏の手に移ったらしい。遡る1344年に、小笠原氏内部で譲状が発生した記録があるという。
里見氏についての詳細は明瞭でないが、これと似たような事情があったと考えられる。
武田氏は辺り一帯に山城を作り、それらはかなり険しい中にあるとも聞くが、一説に、上総武田氏が上総に根を張った頃、周囲は千葉氏やその支族に支配されていたため、後から来た武田氏は山奥に根を張るしかなかったとも聞く。
そうした上総武田氏が、その本拠地として地域の中心としたのが真里谷城である。
武田信長は、西上総の真里谷城(木更津市)と、東上総の長南城(庁南(ちょうなん)・長生郡長南町)を拠点に、里見義実も安房の稲村城(館山市)を拠点に、それぞれ勢力拡大に乗り出した。
同じ成氏の「お気に入り(笑)」として両者は結び付き、武田信長の娘が里見義実の妻となった。
武田信長−−信高−┬−道信(長南)
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└−信興(真里谷)−−信勝−−信保(恕鑑)
↑信長の孫の代から、長南武田氏と真里谷武田氏に別れる。
(以上、だいたい「城主のたわごと」2007年10月<真里谷城跡>内より)
一説に、武田信長が房総に侵出を開始した1456年から、真里谷城や長南城とほぼ同じ時期に久留里城も作られた、と言われる。
信長の子、信高にも、信武(峯上)、信房という兄弟がいて、この「信房」が久留里を領地とした記録もあるようだが、房総武田氏に関する記録は極めて少なく、系図はずさんで、信用に足る物は殆ど無いとも言われる。
久留里城主として初めて名を現す勝真勝(すぐろ・しんしょう)も、武田氏の一族ではあるようだが、その系譜も多岐に渡ってしまって謎が多く、主に、武田信長の系譜と、武田信長の兄、信重の曾孫という説に分かれる。信長の系譜の場合も、その嫡男・信高の曾孫という系図、信長の三男・信房の孫という系図がある。
いずれにせよ、平将門や妙見菩薩にちなんだ伝承や、その血縁とされる久留里氏の築城伝説と同じく、この時期の久留里は史料的にはハッキリしない。
(以上、だいたい「城主のたわごと」2007年11月<久留里城>内)
千葉県の最西北端で、茨城県や埼玉県と県境を接する関宿城は、このころ(1457年)に簗田氏が築城したと言われる。
恐らく、この「市川合戦」に生じた房総の動乱に際し、必要が生じて作られたのだろう。
(以上、だいたい「城主のたわごと」2006年1月<宗英寺>より)
後に下総国有数の領主となった高城氏の出現も、この「市川合戦」の後とする見方があり、松戸市域での活動は、1400年代中頃に栗ヶ沢に館を築き、勢力を増すごとに根木内城、大谷口(小金)城と本拠地を移してきたといわれている。
が、高城氏の出自については「原氏と同じく千葉氏から出た」という記述が後世に自発的に書かれた物なので、簡単には鵜呑みに出来ず、1400年代前半に「清高」という名が確かに登場するものの、千葉一族特有の「胤」の一字が無い事から、その後に国人領主となる高城氏の前身の痕跡としては薄く、もし千葉氏に繋がる者であったとしても、諱を貰えない程度に遠い距離にいた存在と見る可能性も指摘されている。
高城氏が、この地域への影響力を示す初めての登場とされる、1470年に本土寺に制札を出したという時期についても、本土寺は当時も地元で有力な寺なので、高城氏に制札を出されるのはおかしい、とも言われ、どうも「後世の捏造」を疑われている感じを受ける(笑)。
高城氏が大谷口に居城し、その領地を我が物とした時期についても、まだ特定する事ができないのが現状である。
(以上、だいたい「城主のたわごと」2007年6月<高城氏について>より)
ところで「市川合戦」において、古河成氏と馬加氏に追い出された千葉氏の遺児兄弟のうち、弟を千葉自胤(よりたね)といい、武蔵国の赤塚に落ちた後、豊島氏が基盤とした石神井川流域を南に見て、東京の北部に根を張って活動開始した。
これを助けたのが、扇谷上杉定正の執事、あの太田道灌である。
<長尾景春の乱、江古田沼袋・境根原・臼井攻城戦(1476〜1480)>
千葉・東京で傑出した戦国武将を選ぶと、この道灌の名が必ず上がるのは、1476〜79年にかけて、道灌を絡めた夥しい合戦の坩堝があるからである。
道灌の活躍はもちろん千葉と東京に限らない。それは道灌が戦った相手、長尾景春が関東じゅうを暴れ回ったからである(^_^;)。
長尾景春は管領上杉氏の家宰、長尾氏の子だから、当然この古河×上杉の構図においては上杉側だったが、父の死後(1473年)、家宰の地位を叔父に奪われ、その裁定をしたのが上司の上杉氏だったので、上杉を相手に謀反を起こし、1476年、本拠・鉢形(埼玉)で挙兵。
敵の敵は味方の論理で(笑)、景春は古河公方の与党に(^。^)。<ミイラ盗りがミイラに
景春は翌1477年、五十子(埼玉)の陣を囲んで攻め落とし、山内・扇谷のいわゆる両上杉ともに利根川を超え、上野国まで落ちる騒ぎとなる。
道灌は同じ上杉でも分家筋の扇谷上杉氏の家宰であったが、この五十子の合戦の時、ちょうど今川氏に起きた内紛(お家騒動)の調停に呼び出され、のちの早雲(が当時の今川家後見人)と会いに行っていた(^_^;)。
戻って来た道灌は、上杉本家に起きた騒動を鎮めるべく、景春が暴れるたびにこれを食い止め、あるいは退治し、景春の反乱に便乗した豊島氏などの勢力とも抗争に明け暮れる。
中でも有名なのは「江古田・沼袋の乱(1477・東京都)」だろう(^^ゞ。
(以上、だいたい「城主のたわごと」2006年8月<里見公園(国府台城跡)>Aより)
豊島氏は平安末期から室町中期まで、東京を東西に流れる石神井川に沿って勢力を誇った。葛西氏、江戸氏とともに秩父流平氏で、豊島清光が鎌倉幕府創立の功臣だったため、頼朝の信頼もあつく、鎌倉末期には石神井を領有、本城の石神井城築城もその頃と推定される。
勢力範囲は現在の台東区、文京区、豊島区、北区、荒川区、板橋区、足立区、練馬区とその周辺に及んだ。
石神井城はその中でも、これらの勢力の最西の本拠と見られる。
豊島清光から五代下り、豊島氏は泰経を当主としていた。
1477年、長尾景春が武蔵・相模の同志と謀って、管領上杉顕定に謀反すると、その誘いに泰経は平塚城の弟、泰明とともに応じ、江戸河越の通路を断った。
これを知った江戸城の太田道灌は(泰経の弟、泰明のいる)平塚城を攻めようとした。
これを知った泰経は、石神井を出撃。道灌の留守をついて一気に江戸城に攻め入ろうとした。
泰経の弟、泰明も、平塚城の救援のため練馬城(これも豊島氏の城)から兵を連れて行く。
道灌は豊島兄弟の動きを知り、攻めかけていた平塚城に火をかけるだけにして引き返し、両軍は江古田沼袋で遭遇。両軍激突。
また、「道灌の平塚城攻めは、最初から泰経を石神井から引き出すための囮作戦だった」といった記述もあるようだ。
これが「江古田沼袋の乱」と言われる合戦で、道灌は得意の足軽を使った戦法によって、あるいは豊島氏の住する石神井川流域より北にいた、千葉自胤・信胤兄弟と豊島氏を挟み撃ちにして圧勝した。
自胤は道灌を応援することで旧領復帰を望んだんだろうね。
豊島氏は泰経の弟・泰明、板橋・赤塚といった一族150人以上という、この当時としては甚大な戦死者を出した。
道灌は即座に練馬城と石神井城も攻め、4月18日には豊島氏の本拠、石神井城も落城した。
泰経は平塚城(北区西ヶ原)に敗走。翌1478年1月25日、また道灌に攻められて小机城(横浜市)に敗走。その後の消息がわからない。
(以上、だいたい「城主のたわごと」2005年10月<石神井城>より)
1478年になると、古河成氏と上杉氏の間に和睦が成立。
この和睦、古河与党(と言うか反乱同盟と言うか)となった馬加氏や長尾景春にとってはかなりイタイ(^_^;)。長尾景春なんかはその後も懲りずに暴れまくってる。
というのも、馬加氏は孫の代(孝胤)に至っていたが、和睦によって大義名分を失った所を「待ってました」とばかりに道灌が攻めてくるのだ(^_^;)。
この「馬加」だが、このとき既に「千葉介」を名乗って本家を乗っ取ってるから、文献には「千葉」で書かれてる物が多く、この辺りがややこしい(^_^;)。混乱を避けて元の「馬加」で書くね(^^ゞ。
この時に道灌は馬加(千葉)孝胤を討伐するため「国府台城」を築城したらしく、1478年12月、道灌は国府台城を本拠に出撃し、千葉(馬加)孝胤あるいは原氏を境根原(松戸市小金)の戦いで撃退。
敗退した孝胤勢は、一族の臼井持胤、俊胤の守る臼井城へ逃げ帰ったので、道灌は翌1479年、千葉自胤とも一緒に繰り出して、馬加孝胤の篭った臼井城(佐倉市)を攻めた。
(以上、だいたい「城主のたわごと」2006年8月<里見公園(国府台城跡)>Aより)
この臼井城は千葉氏の一族、臼井氏の居城。支城に師戸城がある。
1114年千葉常兼の三男、六郎常康が初めて臼井の地を治めた。
ちなみにこれは、相馬氏とかが出て来るより、もっと前に枝分かれした家系になる(^^ゞ。
千葉常兼−┬−常重−−常胤−−師常(相馬)
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└常康(臼井)
やがて14世紀中頃の6代城主、臼井興胤によって、城の基礎がおかれたと伝えられる(この興胤は臼井氏の中興の祖といわれる人物で、鎌倉の建長寺で育った)。
1479年1月、道灌の弟、太田図書助資忠と千葉自胤(武蔵千葉氏)の軍勢が臼井城を包囲したが、城の防備が堅固なため、いったん引き上げようとした時、城兵がどっと討って出て太田勢と激しい戦となり、遂に落城したが、図書助ほか53人がこの地で討死したという。臼井城の近くには「太田図書の墓」がある。
16世紀半ば、長くこの地の領主であった臼井氏は、16代臼井久胤までとなり、戦国時代の末期には原氏が城主となっている。
千葉常永−┬−常兼−−常重−−常胤−−師常(相馬)
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└常宗(原氏)
原氏というのも、千葉一族を遡って出た同族だが、千葉(馬加)孝胤とともに境根原で太田勢と戦ったと見られ、つまり臼井城は一度は道灌の側に落ちたが、その後、原氏に奪還されたと見られる。
臼井城での太田勢の勝利自体を疑う見方もあるようで(^^ゞ、確かに、コトの発端であったはずの、武蔵にいった千葉自胤の系譜が戻って来て千葉介に返り咲いた、とかいう記録も見当たらない(^_^;)。
(以上、だいたい「城主のたわごと」2007年1月<臼井城跡>より)
1479〜80年、千葉自胤と太田道灌が、臼井城を攻めた時、結局成功せずに、庁南城と真里谷城を攻略したという文献もあるが、その後も両城には武田氏が続いている。
(以上、だいたい「城主のたわごと」2007年10月<真里谷城跡>内より)
義実−成義−義通−実堯−義豊−義堯−義弘−義頼−義康−忠義
その後、1497年に里見成実(系譜では二代目で、義実の子になっている)が、そもそも真里谷武田氏の物だったはずの久留里城に進駐し、他の多くの諸城を占領したとも言われ、その時、武田側だった勝真勝(すぐろ・しんしょう)は、久留里城で防戦した人物であるが、平和交渉を行い、円満に里見氏に無血開城したので、里見氏から食録を得て、西原の小沢という所に隠棲したとも言う。
ただ、この時期の里見氏の勢力範囲については誇大記載が多く、「久留里・万木・勝浦・池和田・真里谷・久保田・佐貫・椎津などを攻め取り、上総一国ほぼ手中にした」とあるそうだが、中にはまだ出来てない城や、千葉氏や原氏の範囲の物まであるという(笑)。
ただ久留里は、それらの中でも早くに里見氏の範囲に入ったと見られ、これは、1479〜80年、千葉自胤と太田道灌が臼井城を攻めた時、結局成功せずに、庁南城と真里谷城を攻略した事との関連も言われ、この時、里見氏(義実)は武田氏を救援できず、しかし久留里が千葉勢ひいては管領上杉氏の範囲に入るとコトなので、千葉氏の南下を防ぐため、久留里に進駐したとも言われる。
(以上、だいたい「城主のたわごと」2007年11月<久留里城>内)
また、この時期(1476〜1480)の、太田道灌の繰り広げた一連の動乱時期に絡んで、東葛飾地区の高城氏の出現がやはり言われるが、この時期についても、まだ不透明の粋と言える。
(以上、だいたい「城主のたわごと」2007年6月<高城氏について>より)
<成氏と幕府の和解・道灌殺害・早雲伊豆進出(1482〜1491)>
古河公方・成氏は、最後は越後守護の上杉氏の仲介で幕府と和睦した(1482年)。
しかし1486年、太田道灌は上司の上杉定正に殺され、混乱状態となった上杉氏は扇谷と山内に割れて揉め、再び関東は騒乱に飲み込まれる。(長享の乱。1487〜1505年)
一方、幕府に派遣された堀越公方や、後に千葉県に関わって来る北条氏についてもちょっと(^^ゞ。
1491〜1493年ごろ、堀越公方・足利政知が病死し、跡を継いだ子の茶々丸が継母や異母弟を殺害の上、横暴を奮って領内を混乱させたとして、興国寺城の北条早雲が堀越御所を急襲。
これをもって「戦国時代の始まり」とする説(先に始まった「応仁の乱」(1467年)ではなく)は、こうした早雲の、いわゆる「下克上」を指して言う(^^ゞ。
早雲は、さらに最後まで抵抗した関戸氏を深根城に追い詰めて滅ぼし、瞬く間に伊豆を平定。この後の北条氏による関東平定にいたる第一歩を踏み出した。
が、二代氏綱に渡って北条氏は、まだまだ相模や武蔵で、楽しく戦乱に明け暮れる時代が続く(笑)。
<武田氏と里見氏と小弓公方(1503〜1537)>
北条早雲は、両上杉の仲違いを上手く利用し、大森氏を圧して既に小田原を占領しており、永正元年(1504)、両上杉の内、扇谷(朝良)と組んで、立河原(武蔵)で山内顕定に勝利するが、顕定は越後の上杉氏と組んで反撃したため、扇谷の勢力は後退した。
ために早雲は越後の長尾為景(上杉謙信の実父)と結んで、江戸への進出の機をねらった。
しかし永正2年(1505)以降、争い合っていた両上杉(山内・扇谷)が、早雲の脅威を前に手を結んだ。
早雲が上杉の勢力を滅ぼすためには、古河公方と上杉との仲をさかなければならなかった。
(以上、だいたい「戦国武将一覧」<北条早雲>より)
1503年には、久留里城を武田側から里見氏に明け渡した勝真勝(すぐろ・しんしょう)が、宝泉院という寺を開基。これは一度里見氏の物となった土地(小櫃の一部)を、勝真勝が里見氏から貰い受けた、と見るのが適当であるらしい。
里見義実の次は二代成義(実在に疑いあり)、三代義通と続くが、この義通の弟、四代実堯(家督継承に疑いあり)が、1508年に久留里城代となった。
義実−成義−義通−実堯−義豊−義堯−義弘−義頼−義康−忠義
以後、里見氏には、三代義通の子、義豊と、四代実堯の子、義堯の間に内紛が起こるが、義堯が、あらかじめ父、実堯からこの久留里城主の座を引き継いでいた事から、この内紛でも義堯派の拠点となり、さらに義堯が最終的に勝利した事によって、その後の里見氏にとっても重要な城となっていく。
(以上、だいたい「城主のたわごと」2007年11月<久留里城>内)
持氏−−成氏−−政氏−┬−高基−−晴氏−−義氏−−氏姫
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└−義明
↑古河公方・成氏の子、政氏は、分裂した上杉の扇谷についたり山内についたりしてたが、そのうち政氏も自分の子、高基と対立するようになり、永正3年(1506)から9年にわたって戦乱となった。その結果、高基が宇都宮氏の元に奔ったり、政氏が敗れて下野の小山へ落ちていった。
上杉も内輪揉め、古河公方家も内輪揉め、そこに付け込んで進出してきたのが北条早雲(笑)。この古河公方父子の対立は、そもそも早雲が裏で画策した結果とも言われている。
が、政氏と高基には政策上の違いもあり、政氏が鎌倉公方時代の体制や権利を行使したのに対し、高基は北条氏綱に縁組を申し出て、巧みに北条氏に擦り寄っている。
高基には義明という弟(政氏の次男)がいた。義明は永正7年(1510)に還俗し、「小弓公方」と名乗って独立してしまう(笑)。この義明も「自分も与党が欲しい」と思い、中でも上総の真里谷(まりやつ)武田氏をアテにした。
高基も父・政氏に再び反抗して古河を飛び出し、家来である簗田氏の関宿城に移った。場合によっては高基は「関宿公方」になってたかもしれない(笑)。
この同年、手を組み直した両上杉(山内・扇谷)は、早雲の権現山城を襲い、早雲は痛い敗北を喫した。
(以上、だいたい「城主のたわごと」2006年1月<宗英寺>より
または「戦国武将一覧」<北条早雲>より)
永正年間(1504〜1520)には、勢いに乗じた上総武田氏の勢力・支配は市原郡・菅生・飯・富両庄など養老川・小櫃川下流域から総央の畔蒜庄がある上流域を支配。さらに西上総の天羽郡佐貫・峯上・造海(百首)、東上総の小田喜(大多喜)・一宮・勝浦・興津・天津への進出にも乗り出した。
そのため、同じように宗家千葉氏の後、勢力を持った原氏の南端が、ついに武田氏の北端と境を接しあうまでになり、これがため、1510年代以降は、たびたび武田氏と原氏の間に合戦が起こったようだ。
一方、両上杉(山内・扇谷)が手を組んだため、関東進出に挫折していた北条早雲は、永正9年(1512)から4年の歳月をかけ、前にふさがる三浦氏を攻めた。
三浦氏は、鎌倉以来三浦郡を領した豪族で、当主・三浦義同(よしちか)は、伊豆岡崎城(伊勢原市)に、その子・義意(よしおき)は三浦市の新井城(三崎城)にいて扇谷上杉氏に属し、鎌倉以西にまで勢力をのばしていた。早雲は岡崎城を攻め落とし、道寸は三浦郡の住吉城にのがれた。
こうして早雲が鎌倉に入った。鎌倉は成氏が追われ、関東公方の座を古河に移し、代わりに来た政知も堀越に留まって入れず、長く廃れ果てた都であった。
さらに早雲は玉縄(鎌倉市)に城を築いて攻略の拠点とし、徐々に追われた三浦氏は、新井城(三崎城)にたて籠り、扇谷上杉朝良の子・朝興が三浦氏を救おうとして相模へ兵を進めてきたが、これは早雲に撃退された。3年にわたる籠城で食糧はつき、永正13年(1516)、三浦父子は自刃、新井城も落城。ついに早雲は、ようやく相模を手中におさめる。
そして1516年、上総武田氏は早雲の支援を得て、三上氏の真名城を攻略したようだ。
続けて翌1517年には原氏の岩富城を攻め、原氏の一族が戦死。さらに同年、武田氏は三上氏の真名城と、原氏の小弓城を攻略した。
(以上、だいたい「城主のたわごと」2007年10月<真里谷城跡>内より
または「戦国武将一覧」<北条早雲>より)
原氏が1517年に武田氏(上総)に小弓城を奪われた時、「高城」と称する「越前守」は原氏の家老として戦死している。また同「下野守」が敗走し逐電し、これらと後の高城氏との関連はわからないが、小弓城を奪われた原氏が、高城氏の根木内城に敗走したという記述もあるので、この頃になると、根木内城(松戸市)にはすでに高城氏がいたのかもしれない。
「原胤長判物写」によると、それがいつの事かはハッキリしないが、「栗ヶ沢(松戸市)の地は、原氏が高城氏にあげた物」であるらしい。ここに原氏を「主」、高城氏をその「従(家来とか)」と見る事ができるという。
そうなると、栗ヶ沢同様に、根木内も大谷口も原氏が先に築城・居城(あるいは所持)していた事も考えられる。
(以上、だいたい「城主のたわごと」2007年6月<高城氏について>より)
真里谷武田氏の当主、武田恕鑑は「小弓公方」の足利義明を担ぐと、原氏から攻略した小弓城(千葉市)に義明を入れ、義明はここを「小弓御所」にした。
ちなみに後に信玄の武田24将に名を連ねる原虎胤は、この原氏の庶流の出で、この騒動で原氏は義明らに追い出され、一族は四散。虎胤は甲州武田信虎(信玄の父)を頼って、武田氏に奉公したという。
(以上、だいたい「城主のたわごと」2006年8月<里見公園(国府台城跡)>Aより)
小弓義明が、実兄の古河公方高基(同じく古河成氏の孫)と対立すると、高基が北条氏の支援を受けていた事から、対する小弓義明の形成勢力は反北条の旗印となっていく(^_^;)。
しかし、担いだり担がれたりした武田信保(恕鑑)と小弓義明は、やがて仲がこじれて対立してしまう(^_^;)。
その原因が、これまた昔は「一緒に古河公方の領地を増やそうねっ(^O^)」と、ラブラブだった里見氏にあるとも言う。
(以上、だいたい「城主のたわごと」2007年10月<真里谷城跡>内より)
里見氏は1400年代中頃に安房にあらわれた義実を祖として、
義実−成義−義通−実堯−義豊−義堯−義弘−義頼−義康−忠義
と続いたが、従来いわれてきた「流浪の果てに安房に来た」説は否定され、管領上杉氏を牽制するために足利氏に送り込まれて来た、という説が今では有力視されいる(と館山城の資料館にはあった)。
6代目の義堯から、北条氏との40年にわたる抗争が起きた。
(以上、だいたい「城主のたわごと」2003年5月<館山城・博物館>より)
実は里見氏、5代目まで続いて来た「前里見氏」の系譜が終焉し、「後里見氏」の時代が始まった所だった。
@里見義実−A(成義)−B義通
真ん中の「A(成義)」がカッコつきなのは、「後里見が後で挿入した」からで、実在も怪しい、って話もあったり……。と言うのも、その後、正確には、
┌−B義通−−D義豊
|
└−C(実堯)−−E義堯−−F義弘−−G義頼−−H義康−−I忠義
こう続くんだけど、主に嫡流最後の「D義豊」の年齢を若く偽るために、「E義堯」より後の人達が改竄( ̄∇ ̄;)したらしい。
そしてやはりカッコつきの「C(実堯)」は、実在はしたが里見家「当主」の座に就いた事はないらしい。
どうもこれらは「C(実堯)」を無理やり「当主」に潜り込ませるために、その前の人達の年齢を少しづついじる事になった、というのが原因みたい(^^ゞ。
一応「当主の子が当主になる(甥とか従兄弟じゃダメ)」という「時代の掟」に沿うための手段だった、という感じ。
なので今では、「前里見」が「D義豊」までを指し、「後里見」は「E義堯」から後を指す。そこから傍流に移り、嫡流の記録をことごとく抹殺したからだという。
そういうわけで、特に「前里見」時代については「わからない事がいっぱい」なのだが、最初に手を出したのはラストエンペラー「D義豊」のようだ。
わりと強圧的な人だったようで、1533年、叔父の「C(実堯)」を、「勝手にヨロシクやってる正木氏を野放しとは許せん!」みたく、正木氏ともども呼び出して粛正しちゃう(^_^;)。。家来と言っても、正木氏は独立性の高い氏族だったみたい。
呆れたのが「D義豊」の子「民部大輔」(前里見氏の官位名を彼までが継いだらしい)で、「いつか俺もヤラレちゃうかも?」とばかり、オヤジの従兄弟「E義堯」に「味方しちゃう! 頑張れ〜」と擦り寄って旗振っちゃう(^_^;)。
「E義堯」にとってはいかに主家とは言え、自分の親父の仇。やらなきゃ消されるかもしれないし、カッコ良く立ち上がろうとしたが、急なことで準備が間に合わない(^_^;)。
仕方なく、先祖代々ラブラブだった真里谷武田氏に「ヘルプミー!」して、百首城ってトコに匿って貰った。
助けてくれた真里谷武田氏は、さっき小弓義明を擁立してた信保(恕鑑)の子。
信保(恕鑑)−┬−信隆
|
└信応
↑この内、兄の信隆が「E義堯」を助けたのだが、「E義堯」にしてみれば、親の憎い仇であるにも関わらず、もし「D義豊」に殺されたら、単なる上意討ちで片付けられてしまうもんだから、北条氏にも加勢を頼んで、派手な大水上戦も交え、何とかかんとか「D義豊」を退けた。
途端に劣勢になってしまった「D義豊」、あちこちの拠点を叩き潰され、「自分だってヘルプミー!」と、今度は真里谷信隆の親父、信保(恕鑑)の真里谷城に駆け込んだ(^_^;)。
が、安房は捨てざるを得ず、他国の上総に留まって力を蓄え、上総から反撃した。が、「犬掛合戦」で大敗。ついに討ち取られた。
事が終われば、「E義堯」が勝利者。世の中結果が全てだったのね。。。
小弓公方義明はこの事件から、急に真里谷信保(恕鑑)への態度を変えた。
義明にしてみれば、立場上、何とか筋を通す方法を考えたんだろうが、「里見義豊をどうして死なせたのか」と責任追及したあげく、「勝っちゃった奴にはトコトンへつらうのが公方なんだよ!」と言ったかどうか、何しろこの戦に関わった信保(恕鑑)も、その子の信隆もスッパリ遠ざけてしまった(^_^;)。。
青ざめたのは、うっかり板挟みを背負った真里谷信保(恕鑑)(^_^;)。
「自分は小弓義明さまへの忠節に一点の染みも無かったのに、義明さまは告げ口ヤローの言う事ばかり聞いて! 恨んでやる! 死んでやるぅ〜!」
と遺言っぽい事言って出家したあげく、ホントに死んだ(^_^;)。。
その後の真里谷武田氏、信隆はサラリと受け流されて、弟の信応が擁立された。モチロン小弓公方の支持で(^_^;)。
これは信隆が側室の子(だけど兄)で、信応が正室の子(だけど弟)だったから、という理屈らしいが、タイミングから見ると、こういう前段階のマズさもあったのかも(^_^;)。
いきなり秋風身に染みる孤立無援。仕方なく真里谷信隆は北条氏を頼り続けた。
あんなに助けて貰った癖に、里見を継いだ「E義堯」は早速「北条離れ」を催し、1537年には小弓公方の命令を聞いて、この真里谷信隆を百首城に攻めちゃったりするんだな(^_^;)。
こうして真里谷氏は、武田恕鑑の息子が対立。兄の信隆は富津に拠って北条と与し、弟の信応は対する小弓公方・義明の支援をそれぞれ受けて分裂し、
1538年の第一次国府台合戦へともつれこむ事となる。
ちなみに真里谷城は、1517年から1534年までの約20年間が全盛期であったようで、国府台合戦(1538年)以後、武田氏一族の勢力が衰えるとともに力を失い、次第にその役割を終えたとも言われ、豊臣秀吉が関東を平定した1590年、真里谷信高の代には完全に廃城された。
(以上、だいたい「城主のたわごと」2007年10月<真里谷城跡>内より)
<第一次国府台合戦・河越夜戦(1538〜46)>
こうしてこの地域は、そろそろと第一次国府台合戦に近づいていく。
城を取られた原氏は「小弓城奪還」を狙い、小弓公方義明の兄で古河公方の高基(古河三代)と、その子、晴氏(四代)を担ぎ、小田原の北条氏綱とも組んで、武田や里見と対抗した。
このころ松戸に基盤を作った原氏の重臣・高城氏をして、やがて松戸周辺が北条傘下となったのも、この流れからだろう。
また古河高基・晴氏親子にしてみれば、弟であり叔父である小弓公方義明の勢力が増し、脅威に感じるようになっていた。そこで、北条氏綱の娘を晴氏の嫁に貰っていたので(実際の婚姻は2年後の1540年)、北条氏綱に討伐を頼んだ。
一方、小弓義明には、酒井氏や、房総の南にいた里見氏やらが従った。
強いて古河×上杉の時の構図にあてはめると、これをもって里見氏が古河にケツをまくった臭い結果から見ると、という感じ(^^ゞ。
(以上、だいたい「城主のたわごと」2006年8月<里見公園(国府台城跡)>Aより)
里見氏はここで北条氏と手を切り、小弓義明の娘(青岳尼)を嫡男義弘と婚約させた。
武田氏や酒井氏が里見氏の麾下となったのもこの辺りかと。真里谷武田氏は久留里城を持ってたが、1537年、この城には里見氏が入っている。(里見氏入城の時期には諸説あるらしい)
こうして第一次国府台合戦が始まった。
天文7年(1538)10月、義明+里見連合軍は江戸川の東に布陣、北条軍は西に対峙。
小弓公方義明は息子の義純や里見義堯をはじめ、逸見、武田など房総勢一万余騎を率いて国府台に陣を敷く。北に松戸の椎津、堀江、村上、鹿島の諸将を、南の市川国府台を本軍とし、義純、里見、堀口、正木、多賀などを配置。
対する北条氏綱(二代)は、遠山、根来(金谷斎)、松田、狩野、笠原などと二万余騎を従え、対岸に対陣。
この時、義明は矢切の渡し(松戸市)から江戸川を渡河してくる北条勢に対し、油断して出陣命令を出さなかったとも言われる。
義明+里見軍の南北二つの陣営は北条軍に分断され(たのか、挟み撃ちにしようと、敢えて通したら突破されたのか(^^ゞ)、北上して敵を迎え撃とうと突撃した義明は、すでに東に廻っていた北条軍に横合いを突かれ、激闘のすえ戦死、房総勢は敗退した。
おかげで原氏は小弓城を奪還でき、重臣・高城氏も北条側の勢力を頼みに松戸周辺に広く基盤を築いた。
(以上、だいたい「城主のたわごと」2006年8月<里見公園(国府台城跡)>Aより)
一方の負けた里見氏だが、どうやら「テキトーに様子見してた」ようで、痛手は薄かったという(^^;)。。
なのに勝った北条についてた真里谷信隆は、「椎津城(市原市)」に入る事は出来たが、この後の真里谷武田氏は疑心暗鬼の内輪もめが絶えず、内紛を繰り返す上に、原氏との抗争にも始終晒され、さらに北条と里見という二大勢力の「共同草刈場」にされてしまい、かつての勢力も版図も激減していく一方だった。。
(以上、だいたい「城主のたわごと」2007年10月<真里谷城跡>内より)
二度に渡る国府台合戦(第一次=1538、第二次=1564)においては、原氏は北条方に与したので、その配下にいた高城氏も同様であったと見られる。
原氏が小弓城を奪還できたのは第一次国府台合戦のあった1538年以降であるから、この時期より後なら、原氏は小弓城に戻ることが出来、高城氏が大谷口城(当時は小金城と呼ばれていた)を治め得ると推測できる。
この後、原氏が宗家たる千葉氏に取って代わるほどの大勢力を下総に誇ったのが、宗家千葉氏の没落によるものであると見るなら、その原氏に匹敵するか凌ぐほどの勢力を保持した高城氏についても、急成長した原氏の動向に注目すべきであるのだろう。
いずれにせよ、1540年以降についての高城氏の大谷口支配はほぼ確実で、それより半世紀にわたってこの地を支配した高城氏は、やがて下総北部の大谷口(小金)城を拠点として、現在の松戸市、市川市、船橋市、鎌ヶ谷市、柏市、我孫子市などを支配し、東葛飾地方最大の広大な領土を持つに至った。
(以上、だいたい「城主のたわごと」2007年6月<高城氏について>より)
久留里城が史料に登場するのは、1540年、勝真勝(すぐろ・しんしょう)が創建した「真勝寺」の寺伝が初で、「寺域の東南に、勝真勝の居城がある」と読み取れる一文がある。
1500年代中頃、西上総地方は真里谷武田氏の勢力下にあり、寺伝より前から久留里城はあったはずだが、1540年の勝真勝の久留里居城は、里見の傘下として認められた結果と言うよりは、1538年の第一次国府台合戦の折、北条に負けた里見氏がいったん安房に撤退した折、返り咲いた可能性が高いようだ。
(以上、だいたい「城主のたわごと」2007年11月<久留里城>内)
小弓城に復帰した原氏や馬加(以降の)千葉氏はもちろん、味方だった武田氏も酒井氏も、この後は里見氏を離れて北条氏に属すが、里見氏だけは北条氏と戦いつづけ、しまいには上杉謙信まで引っ張り出す騒ぎになる。
(以上、だいたい「城主のたわごと」2006年8月<里見公園(国府台城跡)>Aより)
天文14年(1545)、家督を継いだ北条氏康に対し、北条氏の勢力伸張を前に結束を強めた山内上杉憲政と扇谷上杉朝定の連合軍が、北条軍の前線基地・河越城を包囲。
しかも、婚姻関係によって北条氏と友好を保って来た古河公方の足利晴氏も、北条氏に危機感を持つようになり、両上杉はこれを味方に引き込み、さらに駿河の今川義元も呼応して、氏康の背後を衝こうとした。
この四面楚歌から、甲斐の武田信玄が氏康と義元の間を調停し講和を結ばせ、窮地を脱した氏康は、翌15年(1546)4月、籠城をつづける河越城の救援におもむき、駿河長久保、武蔵河越の両城を出城として、上杉憲政、今川義元らと戦った。
8000の兵力で両上杉・足利連合軍数万に夜襲をかけ勝利した「河越の戦い」として有名で、一方の朝定が戦死した扇谷上杉氏は滅亡、関東管領の山内上杉氏は上野に、足利晴氏も古河に敗走して、北条氏の武蔵支配が確定した。
(以上、だいたい「戦国武将一覧」<北条氏康>より)
<里見×北条・久留里城の戦い(1554)>
衰退の一途を辿る真里谷武田氏に対し、国府台合戦で負けたとは言え、勢力を温存して挽回した里見氏と敵対する事もなかった、という事か、久留里城は、その後の1554年、北条氏康が久留里城を包囲した時、これに対して奮戦するのが、里見義堯・義弘親子であり、少なくてもこの年には、完全に里見氏の本拠となっている。
この時の北条×里見の攻防城戦は「久留里軍記」に詳細に書き記され、大規模かつ長期の戦いだった事がわかる。
久留里城跡の石碑「里見北条古戦史」には、
1554年の晩秋、北条綱成は2万余騎の軍兵を従えて、向郷に陣屋を構え、里見義堯、義弘の守る久留里城を攻撃して来た。久留里城は知将・義堯の戦略によって湯名城主・山本左馬允、一宮城主・須田将監・鳴門城主忍足美作守、大多喜城主・正木時茂、周西城主茂木与茂九郎などの武将が馳せ参じ、小櫃川を挟んで数十日間余の攻防戦を展開し、北条軍を撃退した。
とくに茂木与茂九郎は16歳の少年武将であったが、敵将、葛西左(右?)京介と小櫃川の中で組み討ちとなり討ち果たした。
弘治元年、再度、北条軍の攻撃を受け激戦となったが、城は堕ちることなく難攻不落の名を坂東に高めた。
といった事が書かれていた(概要)。
同城「お玉が池」伝説にも、「里見義堯」の名が出てくる通り、少なくても里見義堯から後は、久留里城が里見氏の城だった事は明らかで、その後に引き継ぐ久留里城を本格的に築城したのも彼である。
(以上、だいたい「城主のたわごと」2007年11月<久留里城>内)
<古河晴氏の反発〜第二次国府台合戦(1560〜1564)>
第一次から22年経ち、世の中はバリバリの戦国時代に突入。古河公方の権威はすっかり北条に飲み込まれつつあった(^^ゞ。
持氏−成氏−政氏−高基−晴氏−義氏−氏姫
晴氏は家督を氏綱の娘との間に生まれた義氏に譲ったが、内心では「しまった、義明オジと組んでたら良かった」と思ったかどうか(笑)、北条と戦っていた管領上杉氏に同調したのを期に、簗田高助の娘との間に生まれた藤氏・藤政と古河城に籠り、北条3代氏康に反旗を翻す。
が、敗れて藤氏とともに捕らえられ、晴氏は相模に幽閉され、晩年は関宿城に戻って死んだ(1560年)。
危うし古河公方。反乱公方のブランドが、今やすっかり北条@下克上の手中に……(笑)。
そこで永禄4年(1561)、まだ長尾景虎と名乗っていた上杉謙信は、北条三代氏康に対抗、関東管領上杉氏を就任。
(この年が有名な第四次川中島合戦)
里見氏は、第一次国府台合戦で敗れた里見義堯の子、義弘の代になっていた。
この頃、武田・北条・今川(駿河)の間に三国同盟が成立した。
北条と対立を続けた里見氏は、この同盟に脅威を感じ、家臣正木時茂を外交官として、同じく三国同盟から除外されている上杉謙信に誼を通じ、里見義弘と謙信の間に同盟が成立。南北から北条氏を挟み撃つ同盟であった。
この時になると、北条氏綱の孫(氏綱の娘が古河四代晴氏に嫁いで生んだ)義氏が古河公方となりつつあり、謙信や里見氏は義氏とは異母弟の藤氏(母は関宿城主・梁田氏の娘)を推した。
(以上、だいたい「城主のたわごと」2006年1月<宗英寺>より)
というわけで、永禄6年(1563)〜7年(1564)にかけ、謙信は関東へ進出。知らせを受けた里見義弘は国府台に布陣し、岩付にいた道灌の曾孫、資正と康資の江戸城奪還(道灌の居城だったが北条側に取られていた)への兵糧支援に乗り出した。
ところがどうも兵糧の値段で折り合いがつかなかったらしく、それを高城氏が「今がチャンス!」と北条氏に知らせた。
チャンスってのは「謙信が来る前に攻めるなら今」という意味で、北条勢も兵糧は不足してたが、慌てて三日分のみ携帯し、江戸城も守らず、すぐ国府台に攻め込んだ。
こうして第二次国府台合戦が始まる。
同年(1564)1月5日、国府台の里見氏は、大多喜や勝浦の正木氏、太田氏あわせて兵8千。 対する北条氏康(三代)は、長男氏政(四代)、次男氏照、三男氏那はじめ、遠山、富永、松田など二万余騎に松戸の高城も加えて矢切台で迎え撃った。
里見軍は退散したと見せかけて北条勢をおびき寄せ、北条勢が「からめきの瀬」を渡河し台地をのぼりはじめた所を待ち受けて、上から急襲したという。北条勢は大打撃を受け名立たる名将も討ち取られた。
が、翌8日払暁、里見勢は油断して勝利の酒宴を開き、主が家来をねぎらいに行ったりしていたため、その所在が不明になったりなど軍隊指揮が取りにくくなっていた。ここを北条軍は里見の陣地目がけ一斉に攻撃をかけ、国府台城に攻め込んだ。
寝込みを襲われた城中は鬨の声に驚いて大混乱に陥り、鎧、太刀、馬の鞍を探し惑う声が飛び交い、武器や鎧にいっせいに群がり、それぞれ誰の物かも確かめず、ちゃんと身につけられない有様の内(「太刀一振り鎧一領に二人三人取り付けて我よ人よとせり合ひ、兜許りで出づるもあり鎧着て空手で出づるもあり」)に戦いに巻き込まれた。
里見義弘は馬を射られ、家来の安西に助けられて安房に敗走。正木や太田も上総まで何とか行けたが、里見広次、正木内膳らは戦死した。
「里見広次」は、里見義弘の弟、忠弘の子。「広次」「弘次」「弘継」とも書かれる。
里見弘次の末娘が、父の霊を弔うため、はるばる安房の国から国府台の戦場にたどり着き、悲しみのあまり「夜泣き石」に姿を変え、通りかかった武士の供養で泣き声がやんだ、という伝説があるが、里見弘次は15歳の初陣で戦死したので、ちょっと無理がある(^^ゞ。
が、弘次は美少年であったと言われ、敵の将・松田康吉はその死を悼み、のちに出家したともいう。
戦地であった国府台の近く、松戸市八柱の徳蔵院にも、戦没者弔いの墓地の名残として「藤塚稲荷」という祠が残っている。
ちなみに里見勢は戦死者5320(あるいは2120)余人、北条勢も3760(あるいは1700)余人と言われ、北条にとってもかなり無茶な勝利ではあった。
が、謙信が上州から常陸へ出陣して小田城を攻めていた時で、謙信はここを29日には落としている。少しでも長引いたら、既に多くの戦死者を出している北条氏にとって、滅亡の危機に瀕する時だっただけに、まさに危機一髪。
この地域はこうして北条氏の支配するところとなったのである。
だが謙信は里見義弘との同盟を疎かにせず、その後も永禄9年(1566)まで、毎年秋〜冬に越後を背に、足しげく関東に出征を繰り返し、里見勢もこれに呼応して毎年北進、北条を挟み続けた。
(以上、だいたい「城主のたわごと」2006年8月<里見公園(国府台城跡)>Bより
または、「城主のたわごと」2006年7月<八柱「藤塚稲荷」>より)
高城氏は、第一次国府台合戦(天文7年、1538)、第二次国府台合戦(永禄7年、1564)では北条方として戦い、相模国(神奈川県)にも領地を得る。
このころの高城氏は、小田原北条氏関係の古文書に「金(こがね)」あるいは「高城」と書かれたものが残されていることから、北条氏の軍事的勢力に組み込まれていたことがわかる。
ただ、いつ頃の事かわからなかったが、高城氏は僧侶や寺などを相手に寺領でのもめごとで裁判沙汰になった事があったらしく、北条氏の裁定で敗訴している。
高城氏は地元の寺社などに対して、大変に丁重な書状を出しており、そこには「領主として居丈高に命令する」という様子は窺い知れないそうだ。
領地を治める上で、寺社領民に手こずったのではないか、という見方ができそうだ。
狂暴な寺領民が沢山いたのだろう(笑)。中には領主たる高城氏に対して、悪党を雇って暴挙とも思える武力行動に出た記録も残っているのである(^_^;)。。
高城氏は北条氏から認められるかわりに「お約束」の軍役を次々と課せられ、疲弊を余儀なくされたという。
(以上、だいたい「城主のたわごと」2007年6月<高城氏について>より)
<北条氏の終焉(〜1590)>
1564年の下総の第二次国府台合戦で、里見氏は北条氏にまた敗北し、この時に、久留里城も一時、北条方の手に落ちた。
しかし2年後に里見氏が奪還。上総の大半と下総の一部を制圧する。
これが1567年の「三船山合戦」で、正木氏の北条氏への寝返りで、里見氏は苦難を強いられたが、里見義弘は北条勢を泥沼におびき出して沈め、北条勢は死体の山を築いた。
(以上、だいたい「城主のたわごと」2007年11月<久留里城>内)
持氏−成氏−政氏−高基−晴氏−義氏−氏姫
晴氏の子でありながら北条氏の血もひく義氏は、北条氏によって小田原に移され、鎌倉鶴岡八幡宮の参詣を強いられるハメになり、北条氏は義氏を補佐する名目で「副将軍」と自ら称した。
これじゃ「まるで北条の傀儡公方じゃん」と見るのも道理で(笑)、上杉謙信が藤氏を擁立したり、藤氏が死ぬと簗田氏が藤政を担いだりした。
千葉県の最北端にある関宿城は、簗田成助の後、高助・晴助・持助と代変わりしつつ居城したが、この持助の時に上杉謙信に通じたため、1574年、北条氏照に攻め込まれ、関宿城を明け渡した。
関宿城は後北条氏の持城となり、古河勢力はすっかり北条に飲み込まれた(^_^;)。
(以上、だいたい「城主のたわごと」2006年1月<宗英寺>より)
その後は北条氏の勢力に押され、1577年、里見義弘は北条氏と和睦。義弘の死後、家督を継いだ弟、里見義頼は安房の岡本城を本拠とし、久留里城には城番が置かれている。
(以上、だいたい「城主のたわごと」2007年11月<久留里城>内)
ちなみに織田信長が出て来ないのは、房総にとってはどうでもいいから(笑)。思うに、最後まで畿内周辺でゴタゴタしてた信長にとっても、関東はどうでも良かった(^_^;)。
しかし家康にとってはどうでも良くなかった(笑)。
1582年に甲州武田氏が滅び、さらに織田信長が死ぬと(死因もどうでもいい:笑)、家康は俄然ヤル気を出して、甲州武田氏の跡地を我が物にした。
今思えば、これが「関東流」が通用した最後の例かもしれない(爆)。
一方、里見氏。
義実−成義−義通−実堯−義豊−義堯−義弘−義頼−義康−忠義
義弘の代に北条とは和睦し、その次の義頼が優れた政治家で、1585年秀吉が関白になると、すぐこれに服属した。
1588年、豊臣秀吉と誼を通じた里見氏は、館山城を着工。1590年に完成。
秀吉は天下人の座に躍り上がり、1590年、小田原合戦になると、いきなりこれまでの関東の事情もガラリと変わる。
これが(それまでの関東には無かった)「俺がダメと言ったらダメ」という天下人・秀吉の論理で(笑)、小田原攻略というのは、秀吉の「惣無事令」が根拠になっている。
北条はウッカリ上州の名胡桃城などというケチな山城に手を出し、名胡桃城を奪われた真田昌幸が「違反だ!」と騒いで、秀吉に訴え出た。
北条にしてみれば、「これまでこの地にはそんなの通用しなかった」と思っただろうが(笑)、秀吉は重箱の隅を突付いて小田原を滅亡に追い込む。
この小田原合戦(1590)をもって「戦国時代の終了」と見る説は、そもそも早雲が始めた「下克上の系譜による関東支配が終わった」事を指して言うのかもしれない(^^ゞ。
久留里城を攻めていた北条勢は本国に帰ろうと慌て、義頼の子、里見義康は城から討って出て、北条勢の過半数を討ち取った。
(以上、だいたい「城主のたわごと」2007年11月<久留里城>内)
天正18年(1590)徳川家康が関東を治めに入った。
高城氏は北条氏に重んじられて、埼玉県の三郷市や神奈川県の綾瀬市や横浜にも領地を貰っていたが、最盛期の当主、高城胤辰が若死にして以来落ち目で、秀吉の小田原征伐(1590)では、大谷口城は浅野長政に攻められて落城。高城氏の家来たちは帰農した。
(以上、だいたい「城主のたわごと」2004年9月<松戸七福神巡り7、「寿老人=徳蔵院」>より)
真里谷武田氏も北条氏に味方していたので、小田原・北条とともに滅び、このときの城主「真里谷信高」は那須に逃げ延び、後に剣術指南役として名を轟かせたとも言う。
(以上、だいたい「城主のたわごと」2007年5月<真如寺>内より)
里見氏は義頼に代わって義康の代なっており、秀吉の小田原征伐の折、足利公方のために鎌倉を取り返そうとして秀吉の怒りに触れ、上総を召し上げられた。家康が上総に入って来たのは、このタイミングのようだ。
「公方のために鎌倉を取り戻そうとして」。
まだそんな事やってる?という時代になってたが、これがこの土地の伝統なのだ(^_^;)。それが単に名目に過ぎず、何らか別の野心があったとしても、その名目ならまだ多くの兵士がついてくる土壌が残ってた事を、里見氏は領土を投げ出して証明してくれた(^_^;)。
(以上、だいたい「城主のたわごと」2006年1月<宗英寺>より)
つまり勝者側に属するはずの里見氏は「勝手な行動を取った(関東公方のために鎌倉を奪回しようとして、参陣に遅れた)」という理由から、上総の所領を没収された。
以後、関東は徳川氏の支配となる。千葉県には本多忠勝・平岩親吉・鳥居元忠が入り、佐倉・東金・土気・相馬・鹿島・八幡・千葉・生実(おゆみ)・国府台・根小屋・万木・小浜・勝浦・矢竹・高野・庁南・庁北・伊南・伊北・鶴舞・亀城・一宮・久留里、以下48城を空けて、城主・兵士は遁走(房総治乱記)。
千葉県じゅうの領地が、徳川家の譜代家臣および息のかかった者に塗り潰され、里見氏のみ安房一国に封印された。
久留里城には大須賀忠政が三万石で入った。
大須賀氏の名は、元は千葉常胤の子・胤信から始まり、一見ここだけ千葉氏の流れに見えるが、忠政は、家康の重臣、榊原康政の子である。大須賀氏の後裔が家康に仕えていた事から、その名跡を継がせたのだ。12年後に転封。
(以上、だいたい「城主のたわごと」2007年11月<久留里城>内)
さて、その古河公方家はどうなったか。
持氏−成氏−政氏−高基−晴氏−義氏−氏姫
秀吉は古河5代義氏の娘、氏姫を小弓公方義明の孫と結婚させ、喜連川足利氏として子孫を残させ、これを「公家」という意味不明な立場に遇して(それが出来たのは関白だから(^_^;))、一方謙信死後の上杉家を、昔ながらの因習深い越後から切り離し、さっさと会津に転封した(^_^A)。
(以上、だいたい「城主のたわごと」2006年1月<宗英寺>より)
<里見氏の終焉(1590〜)>
義実−成義−義通−実堯−義豊−義堯−義弘−義頼−義康−忠義
館山城は房総里見9代義康が築城して以来、10代忠義が去るまで、27年間里見氏の居城となっていたが、家康が豊臣征伐のために大阪の陣の陣触れを発する一ヶ月前、里見忠義は大久保忠隣との連座の罪を着せられて、家康に伯耆国(鳥取県)の倉吉移封される。
表向きは3万石という前触れだったが、実際には囚われの身にすぎず、忠義が死ぬと、実子の無い事を理由に里見氏は取り潰され、館山は徳川の勢力によって統治された。
安房一国になったとは言え、海上ルート確保によって交易も防衛拠点も優勢な里見一族は、豊臣氏を討とうとする徳川家にとっては危険な存在だったに違いない。
大坂城の豊臣方との決戦を目前にした徳川幕府は、関東御府内外様大名取潰しの策を回らせた。この策により改易を命ぜられた里見忠義は、憂悶のうちに元和八年(1622)29才で倉吉在の堀村に卒した。
悲運の主君に従って殉死した八人の家臣は、その氏名は不詳であるが、四字の戒名の上と下に必ず心・賢の二字が配されている。慈恩院に伝えられた話によると、房州にあった里見氏の遺臣が主君忠義と八人の殉死者の遺骨を房州に持ち帰るべく猟師の姿に身をやつして、遥々倉吉の大岳院の墓から蛸壺に分骨して帰り、ひそかに館山城の南麗(「麓」かと)に埋めたのが、館山城に残る八遺臣の墓であるという。この八人の殉死者が、八犬士のモデルであるとも伝えられている。
(以上、だいたい 「城主のたわごと」2003年5月<館山城・御殿跡><館山城内・八遺臣の墓>より)
久留里城には、1602年、土屋忠直が二万石で入城。忠直は武田24将の土屋昌次の甥で、家康側室・阿茶局に養育され、二代秀忠に仕えながら、関ヶ原合戦では上田城攻略に加わらなかったため、大功を上げた。
その妻が新井白石を可愛がった。
忠直−利直−頼直と直系で続いたが、三代目・頼直の性情が芳しくなく、利直の弟、数直との間でお家騒動が起こり、数直は文知(久留里新田・下総布施)の後、常陸土浦城主となり、この土屋家は幕末まで存続したが、頼直の乱行は苛烈過激を極め、新井白石の父もこの時に失墜。1679年、ついに家禄没収。久留里城はこの時に廃城・廃棄。
幕府蔵入地となり、翌年より、下馬将軍・酒井忠清の加増地とされ、62年を過ごした。
1742年、黒田直純が三万石の藩主となり、幕府から5千両を拝領し、三年の歳月をかけ城を再興。黒田氏の治世は、初代直純から約130年間続き、9代直養の時、明治維新を迎え、1872年、城の建物は解体された。
(以上、だいたい「城主のたわごと」2007年11月<久留里城>内)
東葛飾の高城氏は、北条が滅亡して、負け側の運命として城も領地も取り上げられ、大谷口城主および小金領主としての役割も終わったが、見ようによってはやっと重い軍役からも解放され、徳川秀忠の代に旗本として存続を許された。
(以上、だいたい「城主のたわごと」2007年6月<高城氏について>より)
国府台城は江戸俯瞰の地であるところから廃城。
臼井城は徳川家康の部将、酒井家次の三万石の居城となったが、1593年の火事によって城廓は消失。その後、跡地だろうか、酒井氏の1604年の転封まで使用された、とも言うが詳細はわからなかった(^_^;)。
(以上、だいたい「城主のたわごと」2006年8月<里見公園(国府台城跡)>Bより
または、「城主のたわごと」2007年1月<臼井城跡>より)
関宿城には、徳川家康の母が再婚した先で生んだ子……つまり家康にとって異父弟の松平康元が1590年に4万石で入城。これが1616年に美濃大垣に転封されると、松平重勝(能見)が3年在城の後、遠江横須賀に転封。1619年に小笠原、1640年に北条、1644年に牧野、1656年に板倉、1669年に久世、1683年に牧野、と目まぐるしく変わり、1705年に久世重之が三河吉田から5万石で入ってから以後は、明治まで9代久世氏がようやく安定支配した。1995年に再建。
(以上、だいたい「城主のたわごと」2006年1月<実相寺>より)
「こたつ城」内出典一覧
・2003年
「城主のたわごと」2003年5月<館山城・博物館>より/<館山城・御殿跡><館山城内・八遺臣の墓>より
・2004年
「城主のたわごと」2004年9月<松戸七福神巡り7、「寿老人=徳蔵院」>より
・2005年
2005年・石和川中島合戦絵巻レポート1<流浪の甲斐守護、武田信重>より
「城主のたわごと」2005年10月<石神井城>より
・2006年
「城主のたわごと」2006年1月<実相寺>より/<宗英寺>Bより/<宗英寺>Aより
「城主のたわごと」2006年7月<八柱「藤塚稲荷」>より
「城主のたわごと」2006年8月<里見公園(国府台城跡)>Aより/<里見公園(国府台城跡)>Bより
・2007年
「城主のたわごと」2007年1月<臼井城跡>より
「城主のたわごと」2007年5月<真如寺>内より
「城主のたわごと」2007年6月<高城氏について>より
「城主のたわごと」2007年10月<真里谷城跡>内より
「城主のたわごと」2007年11月<久留里城>内より
・2008年
「戦国武将一覧」2008年5月<北条早雲>および<北条氏康>より |
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