<2014年・城主のたわごと3月>



2013年9月「埼玉北部編」(日帰り)の第2弾(^^)。

深谷から秩父にかけて、畠山(秩父)氏の軌跡を追う





     
  パソコンが何かと固まるんで(*o*)、どうしても遅れがちだが、「埼玉北部編」第二弾じゃっ!

前回(1月号)は久喜市・加須市の関東公方の墓所を二ヶ所めぐり、東から西へ、行田市→熊谷市と行った所で終わった。

今回はさらに西(山岳地域)に向かう。まずは深谷市の「畠山重忠史跡公園(館跡)」にいく。
次は一気に秩父方面に向かうが、その途中、通るだけながら、戦国初期の長尾景春の居城、鉢形城を通りぬけた(^^ゞ。

しかるのち秩父の山に入り、まずは「円福寺」……畠山重忠の父・秩父重能の墓がある寺で、同所に、平将門の実弟・将平のものと伝わる墓もある。

その後、南下して秩父の市街に出て、「秩父神社」を参拝。その途中で次回に譲る。



<畠山重忠史跡公園(館跡)>

前回は熊谷寺(地図)で終わった。その後さらに西に向かう。

途中、荒川を渡る
(中央拡大)

荒川は、東京湾に流れる川として有名だ。
東京湾に流れ込む大まか三本の川筋の内、西(皇居など都心部)側から東(千葉県に近い)側に向かって、隅田川・荒川・江戸川の順。

この真ん中の荒川、水源はここ埼玉県である(と言ってもだいぶ西の方だが)。
埼玉北部の熊谷まで北上すると、川はようやく東西に横たわる。
さらに西にいくと、今度は川上(水源)に向かって南下する。つまり、「∩」という形にカーブしている。

今いく道筋としては、一番北の端で東西を横断する荒川の流れに沿って、東から西へ移動している所である。
(道の都合で、上の写真では川を北から南に渡っている。見えてるのは南の比企方面かも(^^ゞ)

途中に街中を通り
やがて拓けた平原の先に山が見えて来る

あの山々は埼玉の西部に連なる山岳地である。

今回の旅は、熊谷〜深谷あたりを北限として、これより西や南に向かうのみだが、さらに北を突っ切れば、荒川と平行してやはり東西を流れる利根川に出会う。これをさらに北に渡れば上野国……ちょうど前年に旅した太田市(新田氏の領地)になる。

前の旅で、新田氏は馬を産した事が推測されたが、この広い平原を荒川に沿ってこうして走っていると、この辺りも放牧地だったのかな、と感じた。

これより行く畠山館は、畠山重忠の父・重能の頃に、西南部の秩父から出て来て定着したそうだが、近現代となっても辺りは桑畑が多く、逆に水田は少なかったらしいから、農地として肥えた土地とは言えなかったようだ。

それでも新田氏と境を接するこの地域は、平安末は頼朝に、鎌倉時代はその後を引き継ぐ前北条氏に、そして南北朝期は足利氏にとって、是非とも押さえておきたい重要な位置だったのではないか、と思っている。
(2013年1月<「太田桐生IC」から「生品神社」へ>内・2月<生品神社(新田義貞・挙兵の地)、2>内@2014/06/05リンク)

到着「畠山重忠史跡公園」正面(パノラマ4枚180度)

正面に見えるのは墓石を蓋った廟である。後ろを振り返ると……、

道路が前を走っている(パノラマ4枚180度以上)

地図←81号線を分岐した道で、交通量は多くなく、辺り一面平原が広がって長閑な風情である(^^)。
鉄道だと、秩父鉄道の「永田」駅が近い。

この道を←こう進むと……

公園のカド「畠山重忠公史跡公園」の大看板が見える(パノラマ2枚)

畠山重忠については、この「城主のたわごと」でもたびたび触れて来た。
それは、奥州合戦や千葉氏との関連が深い武将だからだ(^^)。

2009年4月<阿津賀志山防塁>内
2009年11月<等覚寺、1>内
2011年6月A<奥会津博物館(旧・奥会津地方歴史民俗資料館)>内

↑良かったら読んで下さい(^^)。
……で、この駐車場のあるカド側から入ると……、

まず目に入るのが
(拡大)この銅像
馬を背負う畠山重忠

これは平家追討の一の谷合戦で、義経が取った戦法……いわゆる「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」の折、畠山重忠が「馬の足を傷めるから」と、馬を労わって自ら背負って坂を降りたので、その情け深さが感心……という有名な逸話だ。

そもそも無茶すぎて作り話っぽいが(笑)、この話の場合、焦点は重忠が現場にいたかどうかがよく問われる。

吾妻鏡」では、範頼(大手)と義経(搦手)の二手に分かれ、畠山重忠は範頼隊に属したとされる。
平家物語」では義経(搦手)に属している。
源平盛衰記」は宇治川合戦(義仲討伐)までは義経に、京到着以後は範頼に、一の谷では範頼や梶原景時を批判して再び義経に属す。
(※源範頼=頼朝の弟で義経の兄。「蒲冠者」)

「逆落とし」の事は、これら全てに書かれているようだが、そこに畠山重忠が馬を担いで……が追加されてるのは、「源平盛衰記」だけらしい。

畠山重忠が範頼軍ではなく、義経軍にいた場合も、「平家物語」では京を出てから一の谷の急襲までの間に、義経はさらに軍を二手にわけており、義経は70騎の別働隊で鵯越の険路に廻る。

この場合の「本隊」を、「平家物語」では土肥実平に率いさせた事になっているそうだが、どうも正式には、安田義定を隊長と見るべきのようだ。
平家追討戦では、範頼や義経といった頼朝の弟に(名目的にせよ)リーダー名を与えているので、家来の土肥ではなく、近江源氏の安田に本隊を任せた事が推測される。

そして義経の例の急襲(いわゆる逆落とし)が功を奏して、平家軍は壊滅に近い打撃を被る。
彼らを討ち取った者の中に、畠山重忠の郎党の名が見える(平家物語)のだが、その手柄は「安田義定」に帰しており(吾妻鏡)、となると、どうも畠山重忠は安田隊(つまり本隊)に属して戦ってた……と見れるらしい。

義経(宇治川)→範頼(京)→義経(一の谷(急襲前))→安田(一の谷(急襲後))
↑こうですかね(^^ゞ

急襲する直前だけ別働隊の義経軍にいて、その直後に安田隊に付き直すなんて無理だから(^_^;)、義経が二手に軍を分けた時、重忠は義経の別働隊には入らなかった……と見るべきで、そうなると逆落としの現場にも居なかった事になる(笑)。

歴史家は非情にも、ここで、「だから馬を担ぐ話も虚構(^。^)」と片付けるのだが(笑)、ここに来てこの銅像を見た私は「マズイ事になった(・・;)」と慌てた。

というのも、傍らに建つ1988年の記念碑には、町の内外の遺族や関係者、事業者から「予想を超える協力」を得て、この銅像が建てられた事、そしてそれが地域や関係者の心の拠り所となることが書かれている。
……この手の文言は、この手の記念碑の決まり文句ではあるが、畠山重忠とこの館跡に関しては、通常の例にはみ出た物を感じるので、それも追い追い書いて行こう。

何しろ、「源平盛衰記」の作者が、「鵯越の逆落とし」を舞台に選んだ事は、なるほど間違いだったかもしれない。
……が、きっと畠山重忠は、「どっかで馬を担いだ」のだ、そうに違いない!!(笑)
(大道具さん片付けないで! 業者さん撤去しないで〜!)←単なる銅像マニア(爆)

(拡大)重忠と馬の像を
ちょいと離れて公園の中に入りまっせ(^^ゞ

私の世代には、畠山重忠はあまり馴染みが無い(^_^;)。
上の、馬を担いだ話も、昔の人なら誰でも習ったらしいが、ちょうど私らぐらいの世代から、この手の英雄伝を教わらなくなったためだ。

畠山重忠は、梶原景時と対照的に語られる武将であるらしい。
梶原景時が悪役で、畠山重忠が善玉という設定が多いとか……。

そう言われても、そのような場面も、教科書は勿論、芝居・小説・映画・ドラマでも、子供向けの絵本や紙芝居でさえ見た事ないから、どう対照的なのかピンとこない(^_^;)。。

それでも、梶原景時が畠山重忠に対して悪役めいた話と言われれば、私の知る限り、いわゆる「讒言事件」がある。

2009年11月<等覚寺、1>内
↑で、畠山重忠が伊勢においた代官が沼田御厨の大領に訴えられ、囚人として千葉氏に預けられた事件を書いた。1187年の事である(1185年に平家は滅んで、探索中の義経が平泉に入った年だね(^^ゞ)。

等覚寺は海上氏ゆかりの寺だから、海上氏の祖・東重胤や、その叔父にあたる千葉胤正を話すため、事件内容は簡略にしか描かなかったが、実はこれには梶原景時による「讒言」が後日談につくのである(笑)。

奥に入ると、さっき道路から見えた正面の廟(墓所)(パノラマ4枚180度以上)

↑から後ろを振り返ると↓さっきの道路に向く方面(パノラマ4枚180度以上)

千葉胤正(常胤の長男)から、重忠が絶食して死ぬ気であろうから許してやってほしいと報告された頼朝は、感動して重忠を許した。
胤正は喜んで屋敷にかけつけ、預かっていた重忠を連れて出仕した。(二人は従兄弟なんだね。重忠の父と胤正の母が兄妹)桓武平氏系図

                                 足利義兼−岩松義純
                                          ├(管領畠山氏)
                                  北条時政ー女子
            (秩父)                         ├ 重保−重国
良文−忠頼┬将常┬武基−武綱┬重綱┬重弘┬(畠山)重能−重忠
(村岡)   |   |        |   |   ├(小山田)有重−(稲毛)重成
        |   |        |   |   └女子(千葉常胤室)
        |   |        |   ├重澄(重隆)┬(河越)能隆−重頼┬重員
        |   |        |   |        └ 女子−木曽義仲 └女子(義経室)
        |   |        |   └(江戸)重継−重長−忠重
        |   |        └(河崎・渋谷)
        |   └(豊島・葛西)
        └(千葉・上総)

重忠は、「自分は他の朋輩と違って清廉潔白だと自惚れていたが、所領を頂いたら、すぐに良い代官を見付けるべきだった。適任者が見付からない場合は、むしろ所領を頂かない方が良い」と反省し、すぐ本領の武蔵国に帰って、秋の取り入れなどに勤しんだようだ。

が、これを梶原景時が頼朝に、内々に声をひそめて、
「私の得た情報では、重忠は大した重罪でもないのに囚人にまでされ、これまでの功罪を無視された、と館に引き籠り、謀叛を企んでいるそうで、一族じゅうが国に集結してる点が符号します、ご熟考を」
とこう言った(^_^;)。

左右に没後800年祭に植樹の「しだれ桜」
母木は秩父郡荒川村「清雲寺」から

頼朝はすぐ小山朝政・結城朝光・三浦義澄・和田義盛・下河辺行平を呼んで、調査か討手のどちらを差し向けるか検討を命じると、結城朝光が、
「何かの間違いでしょう。重忠は生来が竹を割ったように清々しく正直で、道理もわきまえ、曲った企みには無縁な男です。今回の事も悪いのは代官で、その非を認めて素直に服従し、伊勢の神官を畏れて(沼田御厨は伊勢国)、恨みを持ってません。(討手でなく)調査(に留めるの)が然るべきでしょう」
と言い、他も皆が、そうだそうだ、と同意した。

使いには重忠と少年時代からの親友、下河辺行平が選ばれた。

下河辺氏は千葉(野田市)・埼玉(三郷市・加須市・久喜市)・茨城(古河市)あたり、下総の武士(^^ゞ。
ちょうど今回旅行してきたあたりに跨る範囲を占める。

下河辺行平が菅谷館地図←畠山館(地図)よりやや南)にいっていきさつを話すと、重忠は憤慨して、
「讒言者の口車で、召し寄せ騙し打ちにするために貴殿をよこしたに違いない。自分の潔白を見て欲しい」
と腰刀で自殺しようとした。

行平は慌ててこれを止め、
「殺さなきゃならないのなら、騙し打ちなどするものか、貴殿は鎮守府将軍・平良文の後裔、自分は俵藤太・藤原秀郷の四代(下河辺氏は小山氏の分流)、卑怯は不似合な家同志、わざと計画を打ち明けて正々堂々の格闘をしたほうがよほど痛快だ。選ばれて自分がここに来た以上、そんな陰謀など無いからだ」
と言った。
重忠はニッコリ笑って酒を勧め、一緒に鎌倉にやってきた。

梶原景時に会うなり、反逆の心が無い事を言うと、景時は、
「起請文を書いて差し上げなさい」と提案した。

重忠は、「他人の財宝を盗んで生計を立ててるなどと言われれば恥辱だが、自分ぐらいの勇士になると、謀叛の噂はむしろ面目。二心も持たない、二枚舌も用いない。起請文などは心と言葉が違う者に要求すべきだ。頼朝公ならよくご存知だと、こう伝えて貰いたい」
と言った。

頼朝はこれを景時に聞いて、重忠と下河辺行平を呼んで雑談をし、行平には剣を褒美に与えた。

↑正面・廟の中には↓六基の石塔が収められている(パノラマ3枚ほぼ180度)

↑六基は、「重忠主従」という事だ。後に二俣川で討死&自害に及んだ六名、という事だろうか……。
私の知る限り、畠山重忠を筆頭に、重秀(息子)・本多近常榛沢成清(郎従)、他に130〜140騎ほど付き従っていた。
他には、二俣川に先んじて、鎌倉において重保(息子)とその郎従何人かが打ち果たされた。
長野重清(弟)は信濃に、重宗(弟)は奥州にいた。

この中で榛沢成清らしきが、土地に伝わる伝説に出て来る。

ここより北方300mの荒川の嶮崖に、「鶯の瀬」と呼ばれる浅瀬があるらしく、そこは重忠が岡部六弥太(←これが榛沢成清だという説がある)のもとに行き、その帰路雨に逢い、洪水で渡れずにいると、鶯が鳴いて浅瀬を教えてくれた場所だという。
そのときによんだと伝えられる歌碑↓が、そこにあるそうだ。

「時ならぬ岸のおささのうぐいすは あさせたづねて鳴き渡るらん」

重忠と鶯の鳴き声という組み合わせは、もしかしたら「いけずき」の嘶き声と関係があるだろうか……。

義仲追討に西上する時、名馬の“いけずき”の鳴き声を二里も離れた場所で聞きわけた、という逸話が、これも「源平盛衰記」にある。

二里と言えば8キロ……ちょっと無理にしても(笑)、重忠が音感が良かったのは事実のようで、頼朝を中心として開かれる催し物などで、よく楽器演奏で参加している。
義経の愛妾・(静御前)が、頼朝と政子の前で舞を披露した折も、銅拍子を務めた。

「重忠公生湯(うぶゆ)ノ井戸」
江戸時代の記録にも残るという

江戸時代の記録に、「古井戸二ヶ所のうちの一つ」と記されているという(゚.゚)。

鎌倉時代のそれも初期に滅んだのに、江戸時代に古井戸と認識されていた物があるという事自体、何か畠山重忠に付随する、独特の空気を感じる。

重忠の母は、三浦義明の娘(義澄の妹、義村の叔母)であることがわかっているが、重忠は畠山(秩父重能の次男として生れ、幼名を「氏王丸」、やがて「畠山庄司次郎重忠」と名乗った事と同時に、この井戸の所では、母の名を「真鶴姫」と書かれていた。

自殺しかけたり起請文を跳ねのけるなど、武張った実直な気性の割に、音曲に通じるなど雅な風情を身に持つのは、武蔵国総検校職という地域に有力な家柄の生れもあろう。
また、頼朝挙兵の時は、平家方に味方していた点から見ると、京の文化に通じていた背景も仄見えるため(2011年4月<妙雲寺>内@2014/06/05リンク)、さっきのような和歌なんかが碑に建てられるのではなかろうか(^^ゞ。

三浦氏や千葉氏など婚姻関係にある同祖は勿論、結城氏や下河辺氏など、遠い祖先は敵同志だった家の子息たちとも仲良く交わり、あるいは冤罪から庇われるなど、多くの仲間に慕われた様子にも、清廉さを貫きうる育ちの良さが感じられる。

←廟の隣に漢文で畠山重忠の事績が刻まれていた
↑こちらは廟の斜め前にあった。
左が重忠の父・畠山重能の墓、右が重忠の百回忌(1304年)に建てられた供養碑

供養碑の方は、鎌倉末期らしく古びた感じに見えたが、左の墓石は刻まれた文字もハッキリ読め、見るからにまだ新しそうなので、ここ最近作られた墓石だろう。

だが、墓の後ろに立つ木の傍らに案内板があって、「重能の墓は、重忠墓の東南、椎の木の下にある自然石と伝わる」と書いてあった。

←後方に廻ってみる。椎の木って、もしかしてこれ(^^ゞ?
根元をよく見ると、確かにかなり丸みを帯びた、それなり古そうな石。
私は「どっか他所にある椎の木の下」という意味と思ってたんだが、亭主が「これじゃない?」と……。言われなかったら撮りそびれていたと思う(^_^;)。。

実は、このあと、「重能(重忠の父)の墓」と伝わる場所……元々一族のいた秩父なんだけど、そこにこれからいくので、ここにあるとは思ってなかったのもある。
亭主はそういう行程も予定も頭に入れてないから、「どっかにあるはず」と一生懸命探してくれたんだと思う(笑)。

よく見付けたぞよ、ご褒美じゃっ>( ^。^)ノ ヾ♂ ▼・ェ・▼〜<ココ掘れワンワン!

もう一つ、この椎ノ木の根元、廟近くに「伽羅の木」というのがあるんだが、これも畠山氏がまだ秩父にいた頃、先祖の墓地にあった伽羅だったそうで、ここに移った後、墓は取り壊されたので、伽羅は土地の名主の庭に移植されたという(墓を壊したり移植したってのは、いつの話かわからないけどね(^_^;))。

その後、転々として手入れする者もなく時が過ぎたが、明治初期に、畠山氏に関係のある(どういう関係かよくわからなかったけどね(^_^;))浦和裁判所が設置されるのを機に、その庭に植えられる事となった。

その浦和裁判所が移転したので、今は浦和市の「常盤公園」に伽羅の木があり、市の文化財に指定されている。
やがて老化したため、二世を挿木によって採取し、苗木を川本町が譲り受けて、1990年にここに植え付けされて、今もここにあるという。

これが、その伽羅の木→

……何気なく聞き流しそうだが、途中手入れする人がいないとか言いながら、「畠山氏の墓所に生えてた伽羅の木で〜」とか庭の持ち主が伝え続けたって事でしょ?少なくても明治初期には(・・;)。。

無論それは江戸時代あたりからかもしれないけれど(笑)、重忠の供養碑を百回忌の1304年に建てた、というのは本当っぽいし、期待を上回る浄財が集まった件といい、そう滅多に途切れずに地元に根強い人気を保ったのでは……とはやはり感じた。

ところで、梶原景時との対比で、もう一箇所、対照的に描かれるシーンとして、私の知る限り、奥州合戦の論功行賞の場面が思い出される。

奥州合戦における、畠山重忠の活躍については、こちらを読んでね(^^ゞ→2009年4月<阿津賀志山防塁>内

奥州藤原氏側の由利八郎を、誰が捕えたかで、宇佐美実政天野則景の争論となったため、梶原景時は由利の面前に立ちはだかってこう聞いた。

「おまえは泰衡(奥州藤原氏四代)の郎従のうちでも名あるものだ。外聞にとらわれず、ありていに申し上げよ。何色の鎧を着た者がお前を生け捕ったのか」

由利八郎は激怒して、「その言い方は無礼千万、泰衡様は鎮守府将軍・秀郷将軍の正統な嫡流、お前の主人・頼朝公でさえ呼びつけの無礼に及べないのに、俺とおまえは家人同志、対等であって、武運拙く囚人となるのは勇士の常。お前などに誰が返事をするか」と言い返した。

景時が真っ赤になって頼朝に言い訳するのを、頼朝は、景時が無礼を言ったからだと察して、由利八郎の道理を認め、早く重忠に聞かせろと命じた。

畠山重忠は敷皮を薦めて由利八郎を座らせ、礼儀正しく穏やかに、
「武士が囚われる事は、支那にもよくあることで、恥ではありません」
と始め、平治の乱では頼朝も囚われ、義朝などは家来に殺された、とも述べた上で、由利八郎の武勇が鳴り響いて有名がゆえに、頼朝の家人同志が勲功を争う始末で、彼らの浮沈がこの事にかかっているのだと説得し、質問を開始した。

由利八郎は、「あなたが畠山殿ですか。礼儀正しく、先ほどのけしからん奴とは大違いです」
と態度を改め、当時の状況を的確に話して答えたので、宇佐美実政の手柄と確定した。

ただし、こうした梶原景時の横暴な態度や、讒言に及んだ局面は、実は畠山重忠に関係なくあちこちに存在する(笑)。
さらに重忠は、景時の讒言によって死に至ったわけでも、畠山氏が梶原氏によって滅ぼされたわけでもない(^_^;)。

重忠の最期については後に述べるが、この辺り土塁跡であるらしく、そう言われてよく見ると、ウッスラと凹凸が見える→

武士の屋形とはいえ、鎌倉期の構えで、まだ素朴な佇まいだ。「本拠に戻って備えを固めよう」という郎従の提言を制して、潔く散る事を選んだ重忠の最期を思わされる。

話はこの後も続けて書くが、ここ「畠山重忠史跡公園」とはこれでお別れなので、来た感想を書くと、ガラ〜ンと広い公園で、「重忠節」とか「かわもと郷土かるた」、「奥の細道」など書かれた碑や案内板もあって、周囲は田園地帯でさりげなく居心地がいい。

今まで行った史跡の中では、長野の川中島古戦場「八幡原史跡公園」の雰囲気が近いかなぁ(^^ゞ。
川中島も、10年ぐらい前に行ったら、ずいぶん周囲も変わってしまってたから、20〜30年前のだけど(^_^;)。



<皆野に向かう(鉢形城・寄居・長瀞を抜けて)>

次に向かったのは、畠山氏が元いた秩父にもある、重忠の父・重能の墓所で、冒頭にも書いた通り、平将門の弟・将平の墓もあるという、円福寺(地図)である。

道順は「皆野寄居有料道路」を通るのだが、これに乗る前に鉢形を通るので、前回の行田を通過するのに、忍城を通ったのと同じように、「今度も鉢形城跡(地図)を通ってみよう(^^)」と、途中に中継地点を織り込んで、ナビ設定した。

さっきのカドの駐車場(地図)から出てる、ちょっと細い道をそのままいけば良いようだ。
道はすぐ81号線に自然合流となり、かなり鉢形城に近付いた所で、少し屈折を繰り返して山道に入るのだが、全体的に遠くにウッスラと見えてた山が、だんだん近づいて来る様子が感じられた(^^)。

↓「畠山重忠史跡公園」の脇道を行くと
ほどなく81号線。交通量もやや多くなる→

じゃ、続き。
まず梶原景時だが、頼朝の死後、二代頼家が鎌倉幕府の将軍となった直後、66名からなる御家人の連判状で排斥要求が提出され、頼家がこれを示すと、景時は相模に引き下がった後、上洛しようとした所を討たれた。

景時滅亡の発端となった「御家人の連判状」というのが、元はあの結城朝光が「忠臣は二君に仕えず」と言った事が、景時によって頼家に讒言された事が原因になっている。

裏を返せば、「頼朝には従うが、頼家に仕える気はない」と曲解できるからだろうが、気に病んだ朝光が、「そんな事言ったからって、自分が謀叛人になる?σ(^^;)」と三浦義村に相談。

義村もこれを聞いて(・・;)、先手を打って連判状ε==(/>o<)/の流れになるわけだ。

遠くに見える山の大きさが
だんだん近付いて背を増す

そういえば、畠山重忠が謀叛を疑われた時も、この結城朝光がまっさきに重忠を庇った事を思い出す。

梶原景時への御家人らの、ちょっと突出しただけで告げ口されることへの恐怖と怨みと憤懣は、長い時をかけた禍根となって御家人らの間に蓄積し、この期に一気に沸騰した。

と同時に、結城朝光からの相談を受けて、何はともあれ「御家人の連判状集め!ヽ(`Д´)ノ」という実力行使に出る三浦義村に、二代頼家への不信感(とまで行かないまでも、頼りなさ)のような心境を感じずにいられない。

一度「謀叛人だ討て」の裁定が頼家から出たら、取り返しがつかないから、数の力に物を言わせる発想にならざるを得ないのだろう(^^;)。

山がハッキリした色合いを帯び
やがてその斜面に道が及ぶ

梶原氏が滅亡した後も、比企一族の滅亡劇と言い、その前後の阿野全成仁田忠常の没落劇と言い、全ては二代・頼家と御家人の間の不協和音の結果であり、三代・実朝への交代段階として、必然だったと言えなくない。

しかし、その後に続いた畠山重忠および、畠山一族への討伐は、幕府に必要な抗争だったとはとても思えない(^_^;)。

その結果、それまで頼家を廃し、実朝を擁立する事で団結していた(かに見えた)北条時政義時の父子の間に、決定的な亀裂を作った。

……そうこう言ってる討ちに、鉢形城跡に着いちゃった(^_^;)ゞ。これはこれで軽くご案内した後で、また続きを話すね。

鉢形城」跡に到着(地図(パノラマ4枚180度以上)

鉄道だと、東部東上線「寄居」駅が近い。

荒川を渡って、入って来た台地に広がるのが「御殿曲輪」跡かと(^^ゞ。←この向きに来た。
これを先に進むと、先は「二の曲輪」「三の曲輪」と展開し、右側に「稲荷神社」という配置。

そこまでザーッと通って、我々はさらに先を急いだが、詳しい作りと現在の公園区画などについては→見取り図PDF)@「鉢形城ボランティアガイド」@「寄居町HP」を(^^)。

……やっぱメジャーな戦国期の城跡だからだろう。数人の男性が連れだって訪れているのを見掛けた(笑)。
我々のように車で通ったりせず、これより城巡りじゃっという雰囲気で、せっせと歩いて城内に入っていくのを横目に、サァ〜ッとここは過ぎ去りますぇ(笑)。

(左部分拡大)

鉢形城は、文明年間(1469〜87)、長尾景春の築城・居城となった。
景春の長尾家は、関東管領・山内上杉氏の家宰の家柄であったが、景春は、家督を奪った叔父・忠景を支持したとして、1476年に主君・山内上杉顕定に叛旗を翻した(長尾景春の乱)。
その折に本拠とした城でもある。

こうした様相から、古河×上杉の抗争では、古河成氏の与党となり、扇谷上杉の家宰・太田道灌とも対立関係となったので、道灌が豊島氏などと争いあった時は……

古河公方
関東管領上杉
古河成氏・武田信長・長尾景春・馬加(佐倉)千葉氏・北条早雲・豊島泰経 山内上杉顕定・扇谷上杉定正・太田道灌・長尾忠景・武蔵千葉氏(自胤)

こんな感じかなぁ(^^ゞ。
(詳しくは「千葉県の動乱<長尾景春の乱、江古田沼袋・境根原・臼井攻城戦(1476〜1480)>←と、この前後あたり読んでちょーらい)

曲輪の台地から森に入っていき……
振り返る「御殿曲輪跡」

古河公方と上杉は和睦するので(1482年)、長尾景春の叛乱は宙に浮いてしまうんだけど、そういうわけで結局、鉢形城は上杉氏の物となったんだろう。

70年後の1546年、後北条氏が河越夜戦で上杉氏を討ち負かし、ここに乗りこんできた時、ここは上杉氏の持ち城だったと思われ、上杉方から降伏した部将・藤田康邦の娘を氏康四男の氏邦の妻に迎えて、新たに鉢形城に手を入れ直して、今に残る城跡の遺構となったものと思われる。

「御殿曲輪」から「二・三の曲輪」への渡り
城山稲荷神社」の入口

……で、ここから先が、前方と言い周囲と言い、すこぶる風景が良くて「旅行気分〜(≧▽≦)!」と夫婦そろって超上機嫌のまま道行く(笑)。

ただし、話はいよいよ畠山重忠の最期に向かう(爆)

さらば、鉢形城(稲荷神社)!
前を向くと秩父山系が目前じゃ(^^)

父・北条時政畠山重忠討伐を持ちかけられた義時時房の兄弟は、そろって反対の意思を示した。
重忠が正義の人柄でありながら、比企氏追討には、北条氏の婿の立場(義時の妹が重忠に嫁いでいる)を重んじて、味方してくれた事、重忠討伐の大義が無い事をあげて拒否し、忠告し、説得した。

しかし時政の後妻・牧の方(政子・義時・時房には継母)の兄・大岡時親が、重忠の謀叛を言いたて、「牧の方が継母なので、讒言者に仕立てようとしている」とまで義時を攻めたので、義時も渋々重忠を討つのに同意した。

……梶原景時が討たれて以後、「讒言者」という言葉にナーバスになってる御家人社会の、ピリピリした空気が感じられる。

さらに西に向かって……
高速(皆野寄居道)に乗る

重忠と同じく、時政の婿である稲毛重成は、畠山重忠の父方の従兄弟である。
時政や牧の方は、これと語らい、畠山重忠の子・重保を武蔵から鎌倉に招き寄せた。

鎌倉では謀叛人の討伐のため、皆が由比ヶ浜に向かい、先を争って走っていた。
そこで重保も郎従三名とともに由比ヶ浜に向かうと、武士らは三浦義村の指揮で重保を取り囲んだ。謀叛人が自分と知った重保主従は、驚く間もなく皆殺しにされた。

重忠も鎌倉に来るという噂が伝わり、途中を迎え撃つべく、義時や時房、葛西・足利・小山・三浦・和田などの大軍が繰り出し、武蔵国の二俣川で、30〜40騎を連れた重忠と遭遇。

重忠は、息子の重保が殺害された事を知って、菅谷館に戻って態勢を整える事を進言する郎従らに、
「重保が死んだなら、後に肉親を残す心配も無くなった。梶原景時が一の宮館を捨てて京に向かい、途中で殺されたのは、一刻の命を惜しんだようで潔くなかった。かねて陰謀があったように思われたのも、恥であった」と、同じ轍を踏まぬよう戦う決意を述べ、力尽きるまでその場に留まり、激戦に及ぶ事四時間。

敵方は誰も重忠に同情的で、戦いに消極的だったが、ついに重忠に矢があたり、重忠絶命。主従は皆が自殺し、一族は見事に滅んだ。

料金所にあったカモシカ型の植木
高速から見える秩父の山々(^^)

鎌倉に凱旋した義時は、時政に「重忠が謀叛人というのは嘘だった、讒言で殺されて気の毒だった。取った首を見たら、長くともに過ごした事が思い出され、涙を抑えられなかった」と報告した。

この直後、重忠謀叛の虚偽発覚を受けて、畠山重忠討伐に積極的だった稲毛重成榛谷重朝らが、三浦義村などに殺された。

そして重忠の死から26日後、北条政子と義時は結城・長沼・三浦を遣わして、父時政の館から三代・実朝を義時の邸に迎え取る事に成功。

これは後妻・牧の方が、娘婿の平賀朝雅を将軍にするため、実朝を害そうとした計画から、実朝を守るためだったと言われている。
この平賀朝雅と畠山重保(重忠の子)が口論となった事に、実は畠山討伐の原因があったからだ。

高速を終点の皆野で降り……
線路を渡ると「皆野椋神社」鳥居が見える

息子らのクーデターに対抗して、時政も御家人らを招集したが、誰も応ぜず、むしろ義時の邸に人が多く集まった。
時機を悟った時政は俄かに出家。翌日には伊豆の北条に隠居。平賀朝雅は京で註殺された。

これを最後に、北条時政は歴史の表舞台からすっかり姿を消すのである。

北条氏に贔屓的な視点といわれる「吾妻鏡」も、時政の失墜劇に対しては辛辣で、累代の北条氏も義時からを祖と仰ぎ、時政を無視する傾向が強い。
これは、主家たる将軍の座を意のままに(後家のいいなりに)操作しようとした点もあろうが、畠山討伐のあまりに大義の無さに、とても庇うに及べなかった、という見方も強い。



<円福寺「畠山重能(重忠の父)平将平(将門の弟)墓所」>

地図←高速おりると、140号線・206号線を横切り、秩父鉄道の線路も渡り、↑上の写真にみる「皆野椋神社」の脇を通って、円福寺に到達する。

ちなみに「皆野椋神社」は、明治の「秩父事件」の折、秩父困民党(自由民権運動)など大勢が結集した場所。
大河ドラマ「獅子の時代」でも描かれた舞台である。

←「円福寺」到着。秩父鉄道「皆野」駅が近い。
道路を挟んで山門と向かい合うのが、↑この墓地。手前に案内板があり、「平将平の墓」「平重能の墓」の説明が書かれていた。

平将平は、平将門の弟である。
平重能は、畠山重忠の父で、「畠山重能」とも「秩父重能」とも呼ばれる。

将平の方からいこう。上の案内板のすでに後方に見えている。
案内板によると、文化文政年間(1804〜31)に編集された『新編武蔵風土記稿』の「皆野村の条」に、この寺が「郡中最初に出来た寺で、「平将門開基」といい、宗地として一宇の伽藍を建立したと伝わる。

そして、「墓」(五輪)については、「字が毀損して読めない」としつつも「将門の墓」としているのだが、円福寺に残る旧来記には「将門の実弟・将平の墓」とし、将平を「本郡石間村(吉田町)幡武山の城主」という。

こうした事は、「将門記」などには無い内容ながら、「将門記」を解説する段になると、やはり「秩父郡城峯山中に将平が潜伏したことを伝える数々の遺跡、と称する物」がある事などが出て来るので、地域伝承として古くから知られている事なのだろう。

続いて案内板には、「興与王の提案を受けて大志をいだき、神託といって僭上の謀りがあったのを将平が諌め、止めさせようとしたが将門は聞き入れず、貞盛・秀郷に討たれた」……という「将門記」に記される通りの顛末が書かれるのに添えて、

「将平は源経基王に滅ぼされた」と書かれていた。←これは、私的には初耳だった(゚.゚)。

←「平将平の墓」。ちゃんと屋根が設けられ大事にされている様子が窺えるが……
↑江戸期の地誌に言う通り、墓石そのものはかなり古く、倒壊したのか崩されていた。

所似によって、僧侶比丘は将平の遺骸を石間にもとめて当寺に葬り墳墓を建てたと伝わり、今は五輪のうち、火水地輪のみになっているが、これは『新編武蔵風土記稿』の時代にはこうなっていたことがわかっているそうだ。

さて……将平の事だが、案内板に「神託といって僭上の謀りがあったのを諌め」と書かれている通り、いわゆる「新皇僭称」に対して諫言を行ったシーンが「将門記」に出て来る。

将門記」には、どこの城主で、どのような最期で、誰に滅ぼされたか、どこに墓があるかは一切記されてないが、将平が唯一出て来る、その諫言シーンを書いておく(^^ゞ。

     
  新皇の弟将平らは新皇将門に進言した。
「帝王の業は人智で競い求め、力で争い取るものではなく、昔から天下を自ら治めた君主も、祖先から受け継いだ帝王も、全ては天が与えたもので、外から軽々に謀り議すれば、後世に誹りを招くに違いありません。思いとどまって下さい」

新皇(将門)は答えて、
「弓矢の武芸は本朝・異朝を助け、人の命も救ってきた。
自分は坂東一帯に武名と、戦上手の評判を都鄙にひろめた。昨今は勝利者を主君と仰ぐ風潮があり、我が国に例がなくても、延長年間に、大契丹王が渤海国を討って東丹国と改称して支配した例がある。
どうして力で征服しないでいられよう。多くの軍兵で事に当たって来たため、戦闘経験も深く、山を越え巌を破る気概に満ち、勝利への信念は漢の高祖軍もしのぐほどだ。
坂東八カ国に朝廷軍が攻めて来たら、足柄・碓井の関を固守して防備する。お前らの発言は実状にそぐわない、迂遠な空論だ」
と叱られて皆ひきさがった。
 
     

これが学者さん達に、「何これ『帝範』丸写しジャンwww」とか言われてる“将平の諫言”である(笑)。

続けて「伊和員経」の諫言というのが出て来て、殆ど将平のとセットで語られるんで、ついでに出しておこう(^^ゞ。

     
  新皇(将門)がくつろいでいると、小姓の伊和員経が謹んで言上した。
「非行を諫言する臣がいれば、主君は不義をおかさずにすむといいます。しなければ国家が危機に瀕しましょう。
天命に逆らえば災厄が降り、帝王に叛逆すれば刑罰が下ります。
新天皇、皆の諫言を心にとめ、思案ご裁断ください」

新皇は、
「優れた才能も、人によっては身を損なう咎にも、身を助ける喜びの糧ともなる。一度口に出したら、馬車でも追い付けぬ。成し遂げねばならない。決議を覆すなど、浅慮も甚だしい」
員経はその剣幕に驚き、無言で家に引きこもった。
秦の始皇帝が書物を焼き、学者を生き埋めにして批判を封じた例もあるので、誰も諫言しなくなった。
 
     

この「将門記」ってのは、全体としては将門を「悪逆非道の叛逆者」として描き、将門自身の言葉の中にも、思い上がった発言や、「自分は叛逆した」と明確な犯行への自覚が書かれる反面で、こうした問答をつぶさに見ると、「あれ?将門の言ってる事にも一理あるんじゃ……?(^_^;)」と思えてしまう、不思議な書物だと常々思う(笑)。
(2008年10月<下妻市「鎌輪の宿」>内〜<古河市「持明院」、下妻市「五所神社」>

山門を潜ると、左に六地蔵が出迎え↓
正面に本堂、その手前でこの時は「骨董市」のような展示をやっていた(^^ゞ→

ここの伝承にある「源経基」は、先に将門を叛逆者として訴えたが却下され、乱後「本当に将門が叛逆したから」と認められ、追討軍にも加えられ、その後は藤原純友の乱でも武功をあげて、後に長く系譜を残す。頼朝の先祖でもある。

清和天皇−貞純親王−源経基−満仲┬頼光     ┌義家┬義親−為義┬義朝−頼朝
                        └頼信−頼義┴義光|        └義賢−木曽義仲
                                      └義国−(新田・足利)

この経基が「将平を討った」という話は、ここで初めて聞いたわけだが、実はこの経基の館跡というのも埼玉県にある。
今回行ったトコだと、行田の忍城を南に行った辺りである。

あと、将門が武蔵国の国司と地元豪族との抗争を調停し、興世王や武芝は納得して和解に応じたのに、経基一人が応ぜず戦闘した場所も、やはり埼玉県であろうと言われている。

そんな所から、この将平伝承とも結びついたんだろうが、思えば、将門の謀叛行為を止め立てした将平までもが、将門の遺族というだけで、妻や子と生き別れたり、山野を放浪したという「将門記」の記述通りの人生を辿ったなら、何か納得がいかない。

ガラス越しに見えた本堂の内部(^^)
大黒さんも祀られていた→

だいたい、将平らの諫言に至るまでに、将門は既に常陸の国府を(成り行きとはいえ)討ち果たしてしまったので、やむなく興世王も「一国を攻めるも公の責めを受ける」と坂東八ヶ国を切り従える事を提案し、将門も「どうせやるなら坂東八ヶ国から始めて、帝都を全て乗っ取ろう」と同意して行動したのだ。

それを止めるのに、ただ天命思想をもってするのも、やや奇妙な理屈だ(^_^;)。
新皇を称した事に対してのみ言ってるのだろうが、学者が「パクリ」と言うだけあって(笑)、何か、いかにも取って付けた手抜きっぽい印象は正直ある(^_^;)。

大河「風と雲と虹と」になると、将平・員経の諫言シーンそのものが無い。
むしろこの二人は将門の家族を連れて逃げる連中で、都から来た追討軍が将門の家族を追求するに対して、秀郷・貞盛が立ちはだかって反対する運びになっている(笑)。

ウッカリ彼らが見付かって朝廷に通報されても、「将門に反対した者たちですから(^^ゞ」と言い訳できるよう、「将門記」に反対者の名前を書いておいた、という解釈なのかな、と思っている(笑)。

つまりはグルって事だが(爆)、そんな中でも、経基ならば、将平の居所を突き止めたり、私兵を動かしても滅亡に追いやったりしうる存在かもな〜なんて思ったんだけど……さて、伝承の意図する所や如何に(^^ゞ。
2008年12月「将門雑記(風と雲と虹と)」7(40〜46話)内・2009年1月「将門雑記(風と雲と虹と)」8(47〜52話)内(@「作品の広場」)@2014/06/05リンク

本堂からの眺め(パノラマ3枚)

こうして本堂前に佇むと、遠くからせせらぎが聞こえてくるんだわぁ(^^)。

向かって右(墓地の隣)には上下水道場施設が見え、昭和56年の第二次拡張工事完成の碑に、長瀞水道企業団がこの地に初めて浄水場を設置したのが昭和41年と書いてあった。
「この辺りの水は美味しいだろうね(^^)」と言いながら、この後は、初めて荒川を渡った。そういや冒頭に荒川の話を書きながら、川自体を見るに及ばなかったが(笑)。

この秩父地方には、どういうわけか平安期の仏像などが多く蔵され、謎の一つとなっている。

埼玉県と東京都の最西部には、いつ頃からか将門伝承が多い。
どれも、この地のこの場所で、将門が服を乾かしたとか、秀郷に射られた、将門の息子が、七影武者が……などと、細かい筋立てつきの実に具体的な逸話がついている。

修験者たちによる伝播が窺えるという。
点々として、必ずしも繋がった線ではないものの、羽黒の五重塔(国宝・将門が建立したという伝承がある)に届いていると見れなくもない(笑)。(2009年4月<羽黒山・参道2「五重塔」>内参照)

それが、鎌倉〜戦国期に東京の青梅市から奥多摩地域にかけて支配した三田氏が、自ら将門後裔を名乗ったため、これと結びついて、東京都と埼玉県の最西部には、将門の古戦場や城址・神社・伝承地が、まことしやかに存在している。

さて、もう一箇所、畠山重能の墓が残ってるね(^^ゞ。

↓さっきの「平将平の墓」の側面から……
ズズッと退くとそこに「平重能の墓」がある→
畠山は重忠の代で滅びるが、畠山姓を名乗るのは重忠の父・重能からで、元を辿れば平良文に辿り着く。桓武平氏系図

案内板によると……

 桓武天皇の曾孫高望は平姓を賜り、上総介に任ぜられました。その子に国香、良兼、良将、良●(左が「搖」の右の字、右に「系」)、良広、良茂、良文などがいます。このうち良文武蔵村岡(熊谷市)に住み、村岡五郎と称し、良茂常陸少掾と称し下野国に住みました。この兄弟は関東諸国の国司を勤め、後に坂東八平氏と称される武門の祖となります。特に武蔵守であった良文は大里郡村岡付近の開発をすすめ、その子孫は大里秩父に分散しました。
 秩父庄司重能は、秩父にあって代々武蔵総検職を世襲していた秩父権守重綱を祖父に、秩父太郎大夫重弘を父に秩父氏館(吉田町)で生れました。秩父庄司として、武蔵総検職を世襲していましたが、後に畠山庄司として畠山(現大里郡川本町畠山)に移りました。畠山で生れたのが重忠です。

桓武平氏から出た秩父氏の略系

平高望┬国香(常陸大掾)−貞盛
    ├良兼(下総守)
    ├良将┬将門
    |   └将平
    └良文(村岡五郎・武蔵守)−忠頼−将常(恒)[武蔵権守 秩父中村秩父氏を称す]−武基(秩父牧別当・下吉田)−武綱(秩父十郎を称す)−重綱(秩父権守)−重弘(秩父館・下吉田)−重能−重忠

↑という事である。

まず「村岡」だが、同じくやはり良文が住んだとされる所に、「相模国の村岡」がある。
両方に住んだと言うより、どっちかが有力という感じに思えてるが、私は、後の平忠常(千葉や上総の祖)の乱における、常陸平氏との軋轢や房総の亡国など考えると、ここに言う通り、武蔵国あたりが妥当という気がする(^_^;)。
熊谷市は前回通ったけど、そうそう、その辺りね(笑)。

……wikiなど見ると、これにさらに「下総国茨城県下妻市)の村岡」や、「千葉県の東庄町や小見川町にも居館があった」などの説が加わってるようで(^_^;)、候補が増えてるだけか、飛び地的にあちこちに所以地があったという解釈かわからない(^_^;)。。

相模に所縁地を求めるのは、三浦・梶原・鎌倉・大庭なども、同じ「良文流」とする系統の系図があるからだろうか?
ただこれらの氏族は、良文の兄弟か甥の良正を祖とする系図もある(2012年3月<大峠トンネル(県境)〜喜多方市内>内ので、ここでは加えず(^_^;)↓

                                 足利義兼−岩松義純
                                          ├(管領畠山氏)
                                  北条時政ー女子
            (秩父)                         ├ 重保−重国
良文−忠頼┬将常┬武基−武綱┬重綱┬重弘┬(畠山)重能−重忠
(村岡)   |   |        |   |   ├(小山田)有重−(稲毛)重成
        |   |        |   |   └女子(千葉常胤室)
        |   |        |   ├重澄(重隆)┬(河越)能隆−重頼┬重員
        |   |        |   |        └ 女子−木曽義仲 └女子(義経室)
        |   |        |   └(江戸)重継−重長−忠重
        |   |        └(河崎・渋谷)
        |   └(豊島・葛西)
        └(千葉・上総)

房総の「千葉・上総」や、後の時代まで残る「豊島・葛西」といった家と分岐して、武基から「秩父別当」を名乗り、源氏に従ったのは、その次の武綱の後三年の役、さらに次の重綱からは代々、武蔵国の「総検校職」を勤めたという。

畠山氏(および秩父氏)については、この後も続けて書くが、円福寺とはこれでお別れなので、感想を(^^ゞ。

高速降りてからここまでも、この先も、すんごい山奥の景色に清流の音も聞こえ、凄くイイ風情だった。
亭主も大層気に入って、「泊まらないでも来れるから、これからドンドン来よう(^O^)!」と車内盛り上がった!



<皆野から秩父へ>


今いたのが円福寺(地図)、次の目的地が、この日最後の予定「秩父神社」(地図)。
まず荒川を渡る。渡った先で左折。44号線(途中から299号線)をほぼ一本で南下して秩父に向かう。

皆野橋を西に荒川を渡る
南から北へ流れる荒川

畠山氏滅亡については、北条時政が悪いのはわかりきってるが、畠山重忠の無実をわかっていながら、これを討った北条義時をどう評価するかでずいぶん見解が分かれると思う。

「畠山重忠の首を見たら、長年ともに過ごした日を思い出して涙をおさえかねた」との義時の言葉は、「『「吾妻鏡』の創作」とか「子(義時)が父(時政)から家長権を奪取した事への体裁」とする説も見掛ける(笑)。

取り返しのつかない結果を作って見せ、それを世間の目に曝す段どりを踏まないと、父の威圧を覆せないと義時が思った……という点が「作られた設定」という事だろうか?

虚構云々については、それはそれとして、私はこの設定に一定のリアリズムは感じる。父の命令に背けず、苦悩した子の例は多い。
たとえば戦国期だと、父子相克の例は枚挙にいとまがないが、それは、戦国時代が下剋上の時代だからではない。
むしろやっと少しは表面化してきた結果であって、表面にあらわれたその何十倍も、実際には無理に従わされた子の数が多かったと思われる。

義時の子、泰時は、幕府に忠節を尽くし、あるいは親孝行でありながら、父親の裁量権に逆らえないため、所領や家督を他人や兄弟に奪われた御家人を救おうと苦慮している。

つまりこれは同時に、「御恩と奉公」と称され、所領安堵のための幕府でありながら、武士の忠義と勲功に報いてやれない事が多かった事を示している。
権門貴族や非御家人、または御家人同志ならいざ知らず、戦う相手が「親」(親権)となると、「主君」(幕府・将軍)であっても太刀打ちできないからである。

左の車窓からは、秩父の山岳が次々と続いて見える(^^)

残念ながら、歴史上、父子相克は特に不自然な事ではないし、さらにもう一つ、畠山氏滅亡から世代交代クーデターまでの北条父子の間に見逃す事が出来ないのは、継母・牧の方の存在だ。
三代実朝を害して、新たな将軍に娘婿の平賀朝雅を擁立せんとした、時政の後妻である。

この頃ではあまり聞かなくなったが、私の子供の頃は、「意地悪な継母にいじめられる子」の物語は、他の種類を圧倒して多かった(^_^;)。。

前年の旅行で、南北朝期に成立した「神道集」を語った。
そこにも強欲で狡猾な継母とその弟の残忍な所業によって、継娘たちが流浪し、悲惨な最期を遂げる様子が描かれていた。

中世だけの特徴かというと、古代を振り返れば、「平将門の乱」もはじめは叔父や叔父の婚姻関係にあった嵯峨源氏に、一人将門の家だけがつま弾きにされた事が原因にあった。

こんにちだって、「家族内部の事には立ち入れない」と警察が取り合わない内に、無理やり養子縁組させられた家族が次々と巻き込まれ、大勢の死者がでた事件があった。
閉鎖された密室で親の虐待が繰り返され、死に至る子供は、今でも数えきれないほどいる。

婚姻や養子を通じて他人が割りこみ、利権・殺害に手出しする例は古来よりある。
中央からきた権門勢力に利権を持ち取られないよう、幕府が設立されたのに、その頂点たる将軍の座を、牧の方が婿の平賀朝雅に渡すのでは、本末転倒だ。

親の命令より、「お国」や「主君」の命令が優先されるようになったのは、ほんの近世……せいぜい、1500年代ごろ戦国大名が国内法度など整え出した後の事であって、土地でも相続でも、親が決めた事には、国も主君も立ち入れない時代が圧倒的に長かった。

44号線は自然と299号線へと変わり、秩父橋(地図)でもう一度荒川を渡る

ただ、では義時に流れが移ってからは正義が行われたのかと言うと、和田氏の乱など相変わらず続いたし、むしろ北条氏の専横はさらにエスカレートしたと思う(笑)。

畠山重忠の無実がハッキリし、そしてそれを主張した義時が家督を奪取したにも関わらず、重忠にゆかりの遺族などに所領が継続された痕跡を聞いたことがない。

むしろ武蔵は北条氏の知行地になっていくばかりだったように思う(^_^;)。

それは、やはり粛清された上総介広常が無実と認められつつ、残った一族が、同じようにその後はとんと振るわなかった事を見ると、ひとたび粛清対象とされた家の宿命とも言えるかもしれない。

しかし特に日本史上の類例の中でも、やや無理があるように思えるのは、畠山氏の名跡を、重忠の妻北条時政の娘)が足利氏との再婚によって出来た子に継がせている事である(^_^;)。

婿の血筋で永らえている家」というのはちょくちょく見掛ける。男系が絶えてしまったので、女系で繋げようと婿を取ったが、子が出来ないか、出来ても結局絶えてしまった場合などは、どうしてもそういう事になる。
が、「嫁の血筋で成り立った家」というのは、私の知る限り管領畠山氏だけである(^_^;)。

そうまでして武蔵国は、鎌倉幕府(というか北条氏(^_^;))が直轄地的に押さえておく必要があった……という事実は、新田義貞が一筋に武蔵を南下し、鎌倉を急襲して、短期間に幕府を滅ぼしきった例を待って証明される。

秩父橋のもう一つ先に、旧秩父橋が架かる
ここまで時折、峡谷っぽい雰囲気もあったが、これより市街地に近付いていく(^^ゞ。

そう思って振り返ると、畠山重忠とほぼ同時に粛清された平賀朝雅も「武蔵守」だった。
同じく、この事件が発端で粛清を受けた稲毛重成などは、よく考えると重忠と同じ秩父氏の出である。
畠山氏の前に抹殺された比企一族も、やはり武蔵に根拠地を持つ豪族であった。

さらに遡れば、頼朝生前、一時は宗家筋ですらあった河越氏などは、義経の正室を出した連座によって、所領没収の憂き目に遭い、没落を強いられた。
義経との婚姻を持ち出したのは、そもそも頼朝本人であるにも関わらず……である(^_^;)。

                                 足利義兼−岩松義純
                                          ├(管領畠山氏)
                                  北条時政ー女子
            (秩父)                         ├ 重保−重国
良文−忠頼┬将常┬武基−武綱┬重綱┬重弘┬(畠山)重能−重忠
(村岡)   |   |        |   |   ├(小山田)有重−(稲毛)重成
        |   |        |   |   └女子(千葉常胤室)
        |   |        |   ├重澄(重隆)┬(河越)能隆−重頼┬重員
        |   |        |   |        └ 女子−木曽義仲 └女子(義経室)
        |   |        |   └(江戸)重継−重長−忠重
        |   |        └(河崎・渋谷)
        |   └(豊島・葛西)
        └(千葉・上総)

「保元物語」や「源平盛衰記」には、重忠の父・重能が、頼朝の祖父・為朝に頼みにされたとか、頼朝の兄・義平とともに木曽義仲の父・義賢(や、重能の叔父・重隆)を討ち(いわゆる大蔵合戦ですね)、二歳の遺児・義仲を助けたという逸話があるようだが、事実であったとしても、この秩父氏の内紛がその後も続いた形跡を私は知らない。

頼朝が挙兵した1180年には、江戸・河越.も、大庭景近や畠山重忠と呼応して、平家方として行動しているし、頼朝が石橋山合戦で大敗して房総に逃げ、千葉上総など従え、改めて鎌倉を目指して武蔵を通ろうとした時になると、豊島・葛西が帰伏した後に、畠山・河越・江戸らもそろって頼朝に付き従っている。

いずれも、一族に亀裂や内紛の影は感じられない。
それが義経によって、あるいは牧の方の起こした騒動で、一気に没落し、あるいは一気に内輪もめに至るのである。
どうしても、「寄ってたかって(あるいは計画的に)滅ぼした」……という具合に見えてしまう(^_^;)。


以前、私は、三代実朝東重胤の摺れ違いを、義時が取り持った事を、畠山重忠の最期に照らして、

義時は二人を主従と見るより、ふとした事で擦れ違った若い友情と判断したように思える。 そこに、自身が犠牲とした、若き日からの友情を重ね見る姿が浮かばないでもない。

と書いた(詳しくは、2009年11月<等覚寺、1>内を読んでね(^^ゞ))。この東重胤は千葉常胤の孫である。

その常胤が、畠山討伐の前……ちょうど、梶原景時への弾劾連判状に筆頭で署名をした後ぐらいに、老齢のため亡くなっている。
あるいは常胤の卒去も、時政が引き金を弾く導引にはなったかもしれない。

畠山重忠は当初は平家方につき、むしろ頼朝や三浦を攻めた側であったのだから、この場合、彼らに頼朝への帰伏を促すに効果があったのは、三浦氏ではなく、千葉常胤であろう。
(畠山重忠の母は、三浦義明の娘(義澄の妹、義村の叔母)だが、三浦氏は頼朝挙兵から付き従い、義明などは頼朝を援けるため戦死にまで至っている)

重忠の父・重能の妹(重忠の叔母)は、千葉常胤の妻である。
千葉氏はいち早く頼朝を助ける腹を決め、自ら下総国の目代を襲って武功をあげている。この口添え、および呼び掛けがあったのだろう。

しかし同じ重忠の従兄弟でも、母方だったり女系だったりした三浦義村千葉胤正は安泰だった。
つまり秩父氏においては、男系が悉く潰された。

それは結局、総検校職という武蔵国に密着した世襲の家柄であるがゆえだったのだろうか……。

以上、関連事項は(2014/06/05リンク)
2004年2月・本文(後北条氏)
2004年7月<八王子城跡>(後北条氏)
2004年10月<山中城・城址公園>(後北条氏)
2005年10月<石神井城(東京都)>内(長尾景春)
2008年「千葉県の動乱vol2」<長尾景春の乱、江古田沼袋・境根原・臼井攻城戦(1476〜1480)>(長尾景春)
2008年10月<下妻市「鎌輪の宿」>内〜<古河市「持明院」、下妻市「五所神社」>
(平将門)
2008年12月「将門雑記(風と雲と虹と)」7(40〜46話)内(@「作品の広場」/平将門)
2009年1月「将門雑記(風と雲と虹と)」8(47〜52話)内(@「作品の広場」/平将門)
2009年4月<羽黒山・参道2「五重塔」>内(平将門)<阿津賀志山防塁>内(鎌倉時代)
2009年10月<胤重寺>内および<宗胤寺><千葉山>(鎌倉時代)
2009年11月ほぼ全文(含・<等覚寺、1>内(鎌倉時代)
2011年4月<妙雲寺>内(鎌倉時代)
2011年6月A<湯西川〜五十里湖〜県境〜南会津(糸沢)>内以降(含・<奥会津博物館(旧・奥会津地方歴史民俗資料館)>内(鎌倉〜南北朝)
2011年12月<小田原城にお散歩♪>(後北条氏)
2012年3月<大峠トンネル(県境)〜喜多方市内>内(三浦氏)
2013年1月<「太田桐生IC」から「生品神社」へ>内
(鎌倉〜南北朝)
2013年2月<生品神社(新田義貞・挙兵の地)、2>内(鎌倉〜南北朝)




<秩父神社、秩父夜祭>

↑に到着(^^)。この旅行最後の見学地。地図←秩父鉄道「秩父」駅から歩いてスグ。

南下してきた我々は裏口(駐車場入口)に着いた(パノラマ3枚ほぼ180度)

中に進入すると、まず手前左手に「神楽殿」、先に進んで、左に「本殿」を取り囲む塀と門、中央に社務所(平成殿)、右が正式な入口(大鳥居)という並び↓

左から神楽殿・本殿の塀と門・社務所・神馬舎・手水(パノラマ5枚180度以上)

本殿(神門)前に良い見取り図版があったので↓(例によって色太字は私が書き入れた)

←この左側「神楽殿」あたりから入ったトコね(^^ゞ。このあと、改めて、「大鳥居」から入ってみるけど。

秩父神社は、崇神天皇(第十代)の頃の創立と伝わる。
崇神天皇が『日本書紀』では紀元前148(即位が前97)〜前30年とされてるから、神社でも「2000年以上前」としているが、実際には、この時代の天皇は時代推定不能であるから(^_^;)、『三代実録』の貞観4(862)年に「正五位」とされた記録、延喜式神名帳(927年編纂)に名を顕している点から、「平安期以前(^^ゞ」とするしかない。

ただ注目なのは、この神社に祀られる祭神。知知夫彦命八意思兼命天之御中主命の三柱。
まず「知知夫彦命」は、この秩父地方を司ったと思われる「知知夫(ちちぶ)国造(くにみやつこ)」の祖神であり、「八意思兼(やごころおもいかね)命」は、「知知夫彦命」の祖神である。

八意思兼神は記紀の神話に、隠れた天照大神天の岩戸から出す知恵を神々に授けた、高天原知恵を司る神だが、主祭神とする神社は全国に少なく、長野県伊那谷の南端・阿智村の「阿智神社」がそうで、始祖が知知夫国造と同族であるという。

大鳥居」のある正面から入り直してみる(パノラマ2枚)

神族の系譜をひく「国造」を称する点などから、かなり古くから伝わる神社と思われ、秩父地方は独立地域であったようだが、武蔵国に属するようになり、武蔵国の「総社」は大国魂神社(六所宮)(東京都府中市)になり、そこで、ここ秩父神社は「四の宮」とされている。

(※総社=どこの国でも国じゅうに神を祀る神社があるんだけど、赴任した国司が全部廻るのは大変なので、国府の近くに総合施設を作って、一の宮・二の宮……と、そこで拝む。そこの4番目に秩父神社の祠がある、って意味(^^ゞ)

←改めて大鳥居から入場。

平良文の子孫が住むようになると、知知夫(秩父を名乗って、神社の東方・宮地町内に妙見大菩薩を祭神とする妙見宮を祀った。

ところが鎌倉末期、秩父神社の方が落雷で炎上してしまい、その再建に時間がかかった。
そして再建が成った時、秩父神社は「妙見宮秩父神社」となっていたという(笑)。

なので、三つめの祭神・天之御中主命は、明治以後の神仏分離・廃仏毀釈の頃、それらしきを神話から持って来た祭神名で、つまりは「妙見菩薩」の事だね(^_^;)ゞ

妙見宮となった年代については、再建の祝いに、西国に下った丹党(※)・大河原氏が奉納した太刀に刻まれた銘から、この妙見合祀の年代は、1320年ごろとわかっている。(※=朝廷に献上する馬を飼育する集団から出た武蔵の武士団。また埼玉県の武士は多くが備前や播磨に所領を貰って行っている

東方の宮地町内にあった「妙見宮」から、この「秩父神社」まで、妙見神(菩薩)が歩いて来た道筋が、「大野原駅」から「秩父駅」まで一駅分(秩父鉄道)、ジグザグに散らばりながら伸びて来た事が伝わっている→
(緑の字は私が書き入れた物です(^^ゞ)

妙見の足跡それぞれに井戸があり、今も「妙見七ツ井戸」と呼ばれて大事にされてる。
水が湧いた理由にも、「弘法大師」説と「柳の精」説の二通りがあるそうだ(笑)。

このように、まるで目に見えるかのように、神仏がノシノシ歩いた形跡を大地に残すといった、神仏への親近感と生々しい肉迫感に、確かに神仏習合時代の空気が感じられる(^_^;)。

私は、妙見がやってきた風景は、福島南部の「新宮・熊野神社」で見た、「木造文殊菩薩騎獅像」みたいな感じかな〜、なんて想像した(笑)。(2012年3月<熊野神社・長床>内

神仏習合と言えば、前年の上州旅行に触れて書いた『神道集』に、「羊太夫」なる不思議の超人伝説があった。(2013年4月<赤城山頂に向かう>内・2013年6(5)月<「総社神社」と「宮鍋神社(蒼海城跡)」>内
これは群馬南部から埼玉北部……すなわち、この秩父地域に広がっていると聞いたけど、特にその伝説らしきには出会わなかった(^^ゞ。近くに「羊山公園」てトコはあるみたいだけど(笑)。

(※丹党=2007年11月<久留里城>内・2013年3月<金龍寺>内@2014/06/05リンク)

←社務所にあった相馬小高神社の「御神旗」
↑正面「神門」から、本殿の敷地に入る

↑この相馬小高神社の「御神旗」は、「相馬野馬追」で取り合う事で有名な旗だね。
この相馬小高神社を含む、相馬三妙見(相馬野馬追祭りにゆかりの、相馬中村神社・相馬太田神社・相馬小高神社)いずれも、やはり廃仏毀釈の嵐の時代を、天之御中主命(天御中主命)に変える事で乗り切った。

(2009年5月<妙見社・国王社(妙見曲輪)>・6月<「柴崎城跡」の周辺「柴崎神社」(我孫子市)>(亀)・10月<千葉神社>内(神仏分離令)@2014/06/05リンク)

また隣の「神門」および、その先の本殿などの建物は、全て徳川時代の物である。

入ると本殿まで真っすぐ通路が続く(パノラマ4枚180度以上)

南北朝時代の事には触れられてなかったが、ここより北東部に新田氏の新田の庄があり、南東部の入間市には「小手指ヶ原古戦場」、狭山市には、鎌倉公方二代・基氏が新田氏の攻撃に備えて滞在した「入間川御所」跡がある。

埼玉県全体としては、この新田氏絡みの攻防戦はかなり荒廃をもたらしたのではないかと思うが、秩父は直線ラインをやや西に逸れているのと、戦乱や荒廃あればこそ宗教の力がものいった事も考え合わせれば、神仏習合の時代、「秩父妙見宮」は栄えただろうとも思う。

が、戦国時代になり、後北条氏が進出して鉢形に城を構えると、武田氏との戦争に巻き込まれ、1569〜70年には武田信玄の侵略を受けた。
(※ 武田と後北条は、いわゆる三国同盟(甲相駿)で結ばれ、ともに上杉氏と敵対していたが、信玄の南下政策で亀裂が入って「甲×相駿」となり、1569年ごろから、三増峠・薩垂峠・蒲原城・深沢城などで衝突した)

武田氏の攻撃は苛烈を極め、秩父神社は鎌倉末の落雷炎上以来、二度目の焼失に遭う。
秩父神社のみならず、秩父100ヶ所の寺社ことごとく灰燼と帰したため、「信玄焼き」と言われて長く人々の記憶に残った。

ようやく復興が適ったのは、1592年、徳川家康の寄進による。
家康が大旦那となり、代官・成瀬吉衛門の命じて建造された社は、名工・左甚五郎の作と伝承される作品も数々あり、だいぶ暗くなってしまったのが残念だが、次回に続いてお見せしよう(^^)。

←.まず右の空間にいく
この水流庭園は「柞の禊川」と名づく。

この、本殿前の左右参拝の写真は、本殿の方を先に見た(日暮れが迫ってた)ので、その後で撮った。
ゆえにかなり暗い時間帯になってしまい、写りも真っ暗だったのが、この通り、運よく復元できた(^_^A)。

……と、一応断りつつ、実はこのシーン、夜の写真の方が相応しかったようだ(^。^)。
理由はだんだん述べていくが、この「柞の禊川」と称される場に、「禍津日社」があって、ちょうど本殿から「お旅所」と呼ばれる祭礼場所に繋がる線上にピッタリ位置するよう作られている。

そして、「お旅所」の先には「札所12番」があり、そのさらに直線上には、武甲山の「大蛇窪」という山の神(恐らく大蛇だろう)が住む聖地がある。

さっきの見取り図の中央を拡大→
(オレンジの太字は私が書き入れたよ(^^ゞ)

本殿→柞の禊川→お旅所→札所12番→大蛇窪(武甲山)
とピッタリ直線で結ばれている。

これは、秩父神社が武甲山を拝むために設置されたのではないか、とする見解が江戸時代からあったという。

そして冬の間は山にいる神(水神)を、春の田植えの頃、里に呼び込むために、神田の南に大蛇に見立てた注連縄を飾り、祭事をおこなう。
これを「夜祭」と言い、秩父神社のみならず、「秩父と言えば夜祭」とまでいわれるほど有名な祭事となったのである。

それほど「夜祭」が有名で盛大な事は、円福寺にいくのに皆野で高速を降りた時、「秩父市」と書かれた看板に、秩父夜祭に繰り出される笠鉾と提灯の絵が大きく描かれていたのを見てわかった(^o^)☆ミ

その出所が、ここ「秩父神社」である。
例大祭の時期は、ナント12月だという(゚.゚)。帰りに寄った和菓子屋さんでも、「12月に打ち上げ花火をするんですよ(^^)」と、嬉しそうに教えてくれた。

打ち上げ花火なんて、9月に入ったらもう見れないのが常識だと思っていたのに、そんな真冬にやるんじゃ、きっとそれは最近始まった村おこし的な催しなんだろうと思ったんだが、社務所で買った本を読む限り、夜祭じたいが12月(冬至)なのだ(^_^;)。。

なぜ夜なのか、なぜ真冬なのかは、冬至も夜も最陰の時で、これより陽に向かって行く季節であり、時刻であるからのようだ。

これはやはり信州で諏訪社にゆかりの深い起源をもつ、生島足島神社でも、神の渡る時刻は真夜中だったのを思うと、何となく通じる物を感じる。
(2005年7月<生島足島神社>内

また、こちらの祭神サマが闇の中で思案をして、明るい太陽(天照大神)を誘い出した八意思兼神と、やはり夜の北極星・北斗七星を司る妙見菩薩だからだろう(^^)。

あと、江戸時代に確認できる文献には、この祭りは山の神と里の神が会うの(神同志の聖婚)を祝う意味合いがあると伝えられていたそうだ。

これは……七夕の織姫サマと彦星サマだよねっ(^o^)v
それで男女が睦みあう夜に行ない、春の田植えまでに子が宿るべく、冬の内に結婚するという、昔ながらの考え方が踏襲されてるのかもしれない。

見取り図の通り「禍津日社天神天満宮東照宮」と並ぶ(パノラマ3枚ほぼ180度)

江戸期以降については、特に「夜祭」について、案内板にあった記述に、補足(西暦年など)を加えながら書く(^^ゞ。

「夜祭」に曳かれる「笠鉾」と「屋台」は、寛文年間(1661〜72年)にはほぼ現在の形が整ったようだ。
中近と下郷の二基は笠鉾で、他4基の屋台はいずれも「芸能屋台」である。

これは祭礼曳山によって、「庶民劇場」を街中に短時間でくみ上げるもので、江戸の歌舞伎舞台が、祭礼曳山に仕組まれた発達過程をそのまま物語る。
劇場発達史的な見地から、極めて貴重な材料を今に伝え残す祭礼といえる。

神社の隣(徒歩1分)の「秩父まつり会館」(地図)に行けば、いつでも祭りの様子を見学できるそうだ→

そして寛延年間(1748〜50年)以来、絹織物の絹大市がたち、諸国から商人が多く入り、取り引きが盛んに行なわれたため、別名「お蚕祭り」ともいわれ、秩父絹織物産地の基盤ができたのもこの頃からである。

「夜祭り」と言っても、朝9時ごろから各町内を始め、神社で屋台芝居、曳き踊りが見物できる。

ただやはり祭りのクライマックスは、3日夜で、「お旅所」下の急坂を豪快な屋台ばやしで一台一台曳き上げる時。
まさに「動く不夜城」の絵巻であり、折から打ち上げられる大仕掛花火との競演は、祭りを見る人々の心を興奮のるつぼへ誘い込む。

寛政・天保の改革(1787〜93・1841〜43)等の都度、禁止の圧力を受けながらも、秩父の人々に護りつづけられ、現在は二十万余の観光客で賑わっている。

また、この笠鉾屋台の六基、屋台芝居曳き踊り屋台ばやし、神社の神楽と一連の祭行事が国の文化財に指定され、「秩父夜祭」「飛騨高山祭」「京都祇園祭」が日本三大曳山祭として知られている。

……ちなみに、現在その「お旅所」のある位置を地図検索すると……地図←この辺りが出て来るんだけど(^_^;)。

昔は「(ははそ)の杜」と言われていたが、今は各種の地図サイトで、「歴史文化伝承館」「秩父市役所」「秩父宮記念市民会館」(休館中)などが立ち並ぶ公共の場って感じですね今は(^^ゞ。

このうち「秩父宮記念市民会館」というのは、恐らく「秩父宮雍仁(ちちぶのみややすひと)親王」の事だろう。
昭和天皇のご実弟の宮ですね(^^ゞ。
現在は、この秩父神社、四柱目のご祭神として合祀されている。
お妃は勢津子妃殿下……会津松平容保のお孫さんね(^^ゞ。

この本殿の境内には、この秩父宮ご夫妻高松宮(秩父宮ご実弟)三本の「お手植の銀杏」がある→
本殿の前……さっきの柞の禊川(右側)と反対側(左側)の通路近くに並んでいる。

壁側近くには「日御碕宮」「諏訪神社」「(ははそ)稲荷神社」の三社が並び、途中、「諏訪御柱」が建っている
↑×「秩父宮歌碑」←○「秩父宮歌碑」m(__)m

こちらが、その「お手植の銀杏」の内の一本(^^)→
↑こちらは「神門」に入るとスグ前にある「神降石」。

通路の奥側に居並ぶ各祠も、夜になってから撮影したので、ちょいと暗くて恐縮だが(^^ゞ↓

左から「柞稲荷神社」「諏訪神社」「日御碕宮(パノラマ3枚ほぼ180度)

祭神は稲荷は倉稲魂神、諏訪は建御名方神と八坂刀売神(夫婦神)の定例通り。
「日御碕宮」というのは出雲の神社ね(^^ゞ。「須佐の男神」と書いてあった。



<秩父神社、本殿>

では、いよいよ本殿を参拝
江戸期の権現造り

本殿・幣殿・拝殿の三棟からなる権現造り。埼玉県重要文化財。

普通これだけの建造物が残っていると、「土地の権力者は誰で、江戸期は何々藩で、明治以後に出た著名人は云々」という歴史を聞く事が多いんだが、この神社ではそうした背景史は一切見なかった。

埼玉県という県が、廃藩置県の後は多くの県が林立し、それらが集合して成り立ったから、地域史の集積効率があまり良くないという事もあるかもしれないが(^_^;)、秩父市について検索すると、「700年代に朝廷に献上品を云々」の後は、いきなり「明治の秩父事件」になる(^_^;)。

江戸時代の埼玉県は、天領が三割強、旗本領が三割強、旗本の領地は細かく分けあい、飛び地も多く、数百石などの小領主が多かった。

左右ともに豪華な色彩の鶴と亀
中央の扁額「知知夫神社」もまばゆい金色

数人で一つの村を知行する所(相給知行)もあった。
武士や代官に行かせるのではなく、有力農民を現地に行かせて治めさせる旗本もいた。
領主の交替もめまぐるしかった。

だから埼玉県で、土地に根差した藩名や藩主名を聞く事もあまりない感じがする(^_^;)。

(拡大)鶴と亀の部分だけ

そんな中で、秩父地域には天領が多かったようだ。
それと、この秩父神社あたりは門前町として栄えたのだろう。
江戸期には夜祭の熱気に包まれ、日頃は蚕を育てた。

そうした特殊な(?)土地事情が、明治を迎えるや、イキナリ秩父事件といった、民衆蜂起的な展開で幕をあける底流にあるのかもしれない。

秩父事件は、生糸の大暴落によって、養蚕に経済基盤の多くを頼っていた農家の急激な困窮から起こって、新政府の大弾圧と鋭く衝突するに至り、群馬・茨城・福島にも自由民権運動として拡がった。

←さっきから、あちこち拡大して何かと提示してる境内案内図の全体。境内図の周りに四つの彫刻物の紹介が取り巻いている。

左上から右下へ、
@お元気三猿
A子育ての虎
B北辰の梟
Cつなぎの龍

本殿のトコだけ拡大すると↓

こんな風に本殿の周囲に極彩色豊かな木彫りの彫刻が取り巻いている。橙の字は、今みた四種類の彫刻のある所に、私が書き入れたのだが、これ以外にも珍しい絵柄がいっぱい彫りつけられている(^^)。

……と言っても、だいぶ暗くなってきた中で撮ったので、ずいぶん無理があるが(^_^;)↓

正面、鶴と亀の左脇の虎
鶴亀の(向かって)右脇の虎

四つ示した内、「子育ての虎」と「つなぎの龍」が、日光東照宮で有名な左甚五郎の作と言われているもの。
この四枚の虎の絵だと、左から二番目ね。拡大すると↓

「子宝子育ての虎」
ちょっと反則っぽいけど、遠近調節するとこんな具合→
(どうしても下から見上げるんで(^_^;))

虎が本殿の正面に描かれるのは、徳川家康の干支が寅だからみたい(^^ゞ。
家康が寅年・寅の日・寅の刻生まれ、というのは有名な話だが、関東に入った日も「庚寅年」だったんだって(゚.゚)。

他の三枚は勇猛な虎の絵柄で、縞模様をしているが、この子虎チャン達を育てている母虎の彫刻だけが豹柄なんだね(^^ゞ。
そのぶん他と違って、少し柔らかく優しい印象に仕上がっている気もする。

そしてこれは対の鳳凰(パノラマ2枚)

これら彫刻類は、首を上向けて見上げるわけだが、歩行者の目線には、神社のお守り類の案内板が出されていて、上の彫刻類の写真と、それに該当する各「お守り」の写真がタイアップして貼り出されていた(^o^)☆ミ

特に「鳳凰」は瑞鳥とか、不老長寿に縁があるとか言われるから、お守りとして効能がありそうだしね……。

こちらが案内板の写真
こっちは↑の拡大&遠近調整

殆ど同じだよね(^^)。……ただ、夕暮れの残照タイムも、どうやらこの辺りまでが刻限だったようで……。

次の並び辺りからは、だいぶ暗くなって。。(パノラマ3枚)

↑画像ソフトでかなり明度や色具合を調整して、無理して出してる色だから、実際にはもっと真っ黒になってた(^^;)。。
暮れて来たのもあるけど、この辺りはずいぶん影になってたのもあるわ〜(>_<)。。

そんな風に見えなくなってくると、俄然さっきの「お守り案内」として出された展示写真が、すご〜く助かった(;_;)。。<アリガトナシ(←八重風)

案内板の写真から
こちらは実写(写り&復元率がイイ方)

案内板では、よく「水占みくじ」という字を見た。
武甲山を水源とした水をひいて……云々といった事が書かれていた。
これはさっきの「柞の禊川」(禍津日社近くの)にも同じような事が書かれていた。
妙見七ツ井戸にも、道の駅で天然水が飲める案内があった(^^)。

また購入した小冊子にも書かれてた事だけど、夜祭では、古代の農法祭祀にのっとって、水神を祀る事や、妙見が北斗……すなわち北方(五行で「水」)を守護する神仏である点もあるんだろう、特に水を重んじているように思えた。

だいぶ真っ暗な写真だったが、出来る限り画像処理で復元(^_^A)

特にさっき「@〜C」と提示してたポイントの彫刻なんて、よく目を凝らして見ないと見付からないぐらい小さいので、それほど暗く無くても、ちょっと見付けにくかったかも(^_^;)↓

B西側「お元気三猿
←左下部を拡大↓

これは……流石に肉眼でも全くわからず(^_^;)、それっぽい辺りにデジカメ向けて撮るだけ撮って、「写ってたら儲けモン(^_^;)」って感じだったが、こうして復元してみると、辛うじて写ってはいたようだ……何だか全然ワカランけど(笑)。

「お元気三猿」は、現物より↓下の写真や看板の方が遥かにイイ(^^ゞ。

お守り案内板の写真
通路の絵馬風の看板

もっとクリアな画像は、wikiの「秩父神社」→画像「Chichibu Sanzaru At Chichibu Shrine」(「お元気三猿」拡大版)でござんすよ(爆)

さて、この猿たちは、日光の「三猿」(見ざる聞かざる言わざる)と正反対に、「見る・聞く・話す」の姿をしている。
神社でも「大変珍しい庚申信仰の逆説をあらわす」と認めている。

日光東照宮の三猿は、こちら→2005年2月<日光・東照宮>内

庚申云々というのは、庚申の夜、体内から三尸という霊虫が抜け出て、天帝に告げ口をされてしまう。
告げ口する内容は、日頃、三尸が体内に潜む人間の犯した悪行・罪状の類。
天帝は罪状に応じて、人間の寿命を減らすので、長生きしたかったら寝ないに限ると、江戸時代の人は寝ずに夜明かしした。

告げ口するのは「三尸」であって、「三猿」ではないはずだが(笑)、「庚申」の「申」を「猿」にひっかけて、人間の罪状を「見てない、聞いてない、言わない」というポーズをした猿が、庚申塔などにはよく彫られた。

記憶が定かではないが、庚申の夜どうしても眠くなったら、三猿を飾っておけば三尸の告げ口を止めてくれる……って話を聞いた覚えがあるんだけど、最近聞かないから俗信というか……誤伝なのかな(^_^;)(元々俗信だしな:笑)。

何しろ、庚申の三猿を逆手に取って、「見る、聞く、言う」と積極性をアピールしている図柄なんだね(^^ゞ。
……うん、神様も減点法じゃなくて、良い事したら寿命を足してくれればいいんだよね(笑)。

猿については、「魔が去る」→「災いや病を除ける」の信仰が古くからある事、本殿の同方向に、「桃仙人」「キジ」「イヌ」もあって、桃太郎を想像させる事などが説明されてた。

というわけで、一番端まで来た(^^)(パノラマ3枚ほぼ180度)

↑左が北端。屋根の下、右側(手前)は石廊下だが、左(奥側)にズラッと並んで見えるのは「天神地祇社」と呼ばれる社の連続。

全国の一の宮だけ75座を祀ってある。
「古くからこの社があった」といいつつ、案内板には、「これほど多くの一ノ宮の神々を、境内社としてお祀りしている事例は全国的にも珍しいものと思います」と書かれていた。

これは……私も珍しい感じがする(^_^;)。 続けて、
「何故、このような形でお祀りされたのかは定かではありませんが、一説によると当社のご祭神である八意思兼命が多くの神々の意見を纏められ、折々のご聖断を下される神様として古典神話の中で活躍されていることから、たくさんの一ノ宮の神様がお祀りされたとも言われています」
と書かれていた。

一の宮だけを……ね(^_^;)」
と私も思い、全国の一の宮を仮に調べてみたが、全国となると、一国に複数ある場合もあって、99柱ほど出て来た。
……そのうちの、どれどれを該当させて75座にしたのか……。

75という数は、旧国名に蝦夷(北海道)・琉球(沖縄)を足し、陸奥は五国(陸奥・陸中・陸前・磐城・岩代)、出羽は二国(羽後・羽前)に分ければ、ピッタリ合う。

ただ、北海道と沖縄県を範囲に入れ、さらに東北を7国(7県)構成に仕立てたのは明治時代、東北戦線を終結した頃からである。
そうなると……「明治時代から出来た社」となって、全然古くないから、じゃあどういう数え方なんだろうね(^_^;)。。

次回で「埼玉北部編」は最終回。秩父神社・本殿の残りあとちょっと(^^ゞ。
その後は10月に入って、千葉県鎌ケ谷市で初めて行なわれた、相馬野馬追祭りなどお届けしたい!
(関係事項リンクは、今回も後日に……。ちょっと待ってね(^^ゞ)



以上、関連事項は(2014/06/05リンク)
2005年2月<日光・東照宮>内(左甚五郎・三猿)
2005年7月<生島足島神社>内
2007年11月<久留里城>内(丹党)
2009年1月<磐梯山慧日寺資料館>内(山神と里神)
2009年2月<立石寺(山寺)、仁王門〜三院〜三堂>内(山神と里神)
2009年3月<羽黒山・山頂>内以降(山神と里神)
2009年5月<妙見社・国王社(妙見曲輪)>(妙見=天之御中主)<恵日寺(いわき市・瀧夜叉姫の墓所)>(左甚五郎)
2009年6月<「柴崎城跡」の周辺「柴崎神社」(我孫子市)>(妙見=亀)
2009年10月<千葉神社>内(妙見=天之御中主(神仏分離令))
2010年11月<雨引観音(楽法寺)・薬医門〜本堂>内(左甚五郎)
2012年3月<熊野神社・長床>内(神仏習合)
2013年3月<金龍寺>内(丹党)
2013年4月<赤城山頂に向かう>内(羊太夫)
2013年6(5)月<「総社神社」と「宮鍋神社(蒼海城跡)」>内(羊太夫)
2013年7(6)月<日本ロマンチック街道@高平〜追貝>内(左甚五郎)


<つづく>

2014年03月06日(後日リンク追加06/05)
 
     






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