GWは毎年、多忙とぶつかって潰れてしまう事が多いが、今年(2010年)は珍しく、ちょっとまとまった休みが取れた(゚.゚)。 と言っても、1泊がせいぜいだったが(ショボ!)、GWと言えば、NHK大河ドラマ「風と雲と虹と」が、奇跡の再放送された2年前の2008年、やはり突然思い立って、「将門ツアー」をやった事が思い出される(^^)。 そして今年(2010年)も、2月から同じように時専chで、1979年のNHK大河ドラマ「草燃える」の奇跡の復活・再放送がされていた。 「今年もあのノリで行こうか(^。^)」 「北条政子ツアーってぇと、伊豆と鎌倉だね(^。^)」 ↑こんな事を話してる内に、連休直前となり、慌てて情報を集めたり、相談に乗って頂いたり(感謝m(__)m)、渋滞も予想に入れた結果(^_^;)、南でなく北に向かう事となり、茨城県は「下館」に宿を取った(^^)。 今回は、その前日(だったかと)の近場めぐり、「根木内城跡公園」からスタート(^^)。 ■2010年5月・千葉県松戸市 <根木内城跡(根木内歴史公園)の春♪> ↑旅行に出る前日だったか……ウチの近く、戦国期の高城氏(か原氏)の城跡である。地図A←詳しくは拡大を(^^ゞ。 また城跡について、詳しくは前に特集してるので(2007年6月<根木内歴史公園(根木内城跡)、1左廻り>と、2007年7月<根木内歴史公園(根木内城跡)、2右廻り>)、今回は5月の風景をざっと流すのみとする。 これは前に撮った写真ね(爆)(パノラマ4枚・180度以上)
左が「城跡」への道、右は「湿地」の散策路(パノラマ2枚)
左に行ってみよう。鬱蒼とした森に入る(パノラマ3枚・ほぼ180度)
右の写真は、戦後まだ城跡が残されていた時の航空写真。左上のまとまって緑のある一帯が、この城跡だった。 登った途端、正面が土塁の壁!(パノラマ3枚・ほぼ180度)
↑左から行っても、右に行っても、土塁の向こうの「芝生公園」には出られる(^^ゞ。右に行ってみる。 「芝生公園」(パノラマ3枚・ほぼ180度)
↑この広場の右端→に行くと、公園から急な階段で道路に降りて行くようになっている。↓
航空写真で見る通り、城跡の敷地は今、6号線で寸断され、北西(左上)部分は住宅地となって、遺構は残ってない一方、 L字に仕切られた道路の合間のみ、辛うじて今も緑地(遺構)と湿地が残され、整備されて公園となっている。
ここでの活動については、「根木内歴史公園サポーター・根っ子の会」というサイトが出来てる(゚.゚)。 大まか、動植物の観察や保護、田畑の作り方、ここで採れる稲・葦・竹を使った民芸品・細工品などの作り方も教えてるようで、四季を通じての多くの行事・活動が見られる(^^)。 (※文中、「6号線」を、1ヶ月ほど「16号線」として出してました、スイマセン(^^ゞ) 以上、関連事項は(だいたい(^^ゞ)、 2007年1月<柏、酒井根の風景> 2007年6月<根木内歴史公園(根木内城跡)、1左廻り> 2007年7月<根木内歴史公園(根木内城跡)、2右廻り> 2007年10月<根木内城跡> 2008年7月「千葉県の動乱」<武蔵千葉氏×馬加氏「市川合戦」(1455〜1456)>以降 ■2010年5月・茨城県下妻市・つくば市・筑西市・桜川市 <まずは下妻を目指して> さて、本格的に旅行始動。茨城県に向かい、まずは利根川を越える。
2008年の将門ツアーは、GWでも、さほどの渋滞に遭わずに済んだが、やはりGWであるし、東京の近郊でもある。 渋滞に遭わずに済むのも、地元の利を生かして、大勢の移動する時間帯を避けられていたからだろう(^^ゞ。今回は将門ツアーに比べれば、ちょくちょくアチコチで渋滞に巻き込まれた(^_^;)。 利根川を渡って、ほどなく294号線に入り、しばらく街中を走る内に、やがて広大な田園地がエンエンと続く道になり、遠目にウッスラと(特に春は霞がかっている)、しかしかなり大きく筑波山が見えて来る。 そして、やがて「石下」の「豊田城」(地域交流センター)など、城郭風の建物が続々と見えて来る(笑)。地図C
遠くに近くに姿を現す、石下の城郭風建築(笑)
この小さい2階建てのは、水害に備えた備蓄庫とかに使われてるようだが、こういうのが遠くに近くに見えて来た頃より、いよいよ筑波山が少しハッキリと姿を現して来る。↓ こんな感じ。周囲もいよいよ遮る物が無くなる(^^)
石下には、「豊田城(石下町地域交流センター)」の他、将門ツアーをした折、「将門公苑(豊田館跡)」「将門川」「常羽御厨・兵馬調練の馬場跡」「馬場天満宮」なんてトコに行った(^^ゞ。 <総社宗任神社>
地図D←詳しくは拡大してネ。「宗任神社」は少し名が違ったりしつつ、他にも数ヶ所あるようなので(^^ゞ。 立派な鳥居の前には堂々たる狛犬が(^^)
狛犬の台座にも見える通り、平成12年(2000)の碑に「鎮座890年祭記念」とあって、この「狛犬の奉献」の他、「記念建碑、子供神輿、太鼓奉納」など、他にも整備など行なった事が書かれていた。 何から890年かと言うと、神社の創建については、「天仁2年(1109)」とあるから、そこからだろう。 詳しくは境内に入ってから書くネ(^^)。 鳥居に入る直前、左に「弥津波能賣神」が祀られ、台座には「宗道舩連」とあった。その横の石碑の字は掠れてよく見えないが……「佐田麦大神」かな? 「弥津波(みづは)能売神」で検索すると、北海道は小樽の「水天宮」がよく出て来る(^^ゞ。 また「舩連」というのも、船舶関係者による祭祀・寄進を思わせる。 「水天宮」と言うと、東京の水天宮を思い出すが、この「宗任神社」も、東京の水天宮と同じく、「水運交易」「安産子育」といった物が書かれていた。 また船舶に関して言えば、江戸期に河岸が開設されたため、大正時代の中ごろまで、宗道の河岸は物資の集散地として、高瀬舟の帆が立ち並んで繁盛し、詩情豊かな景観に包まれていたようだ。 鳥居に入ってみると、まず右側に……、
「霊神社」というネーミング、最近行った所では、岩手県平泉町の「達谷窟」で会った(^^)。 鳥居前の水神と言い、この「霊神社」と言い、何となく東北の色合いも感じられ、「やはりこの宗任というのは……」という気がするよね(笑)。 この「宗任神社」の祭神は、ズバリ「安倍宗任」である。 前九年の役において、反逆者の主犯・安部貞任の弟であり、同じく主犯・藤原経清(奥州藤原初代・清衡の父)の妻を姉(か妹)に持つ。 安倍頼時┬貞任 ├宗任 └女 ├−@清衡−A基衡−B秀衡−C泰衡 藤原経清 で、なぜここに祀ったのかについてだが……。 昭和54年(1979)に建てられた碑に書かれていた事に、句読点と軽く説明も加えて記させて貰う(^^ゞ。 「天仁2年(1109)、奥州鳥海山麓をあとに、神名を奉じ、決然南下した松本七郎秀則父子、旧臣20余名、幾多の苦難をふみこへ、下総滑田郷・松岡郷(いずれも下妻市内)を経、東方(に)、筑波(山)を仰ぎ、西に鬼怒(川)の清流に臨む、この黒●(「ウ冠」の下に「ハ」「果」)の清地を、神示のまにまに不動定と鎮斎、宗道と改称、宏遠な理念のもと、卓越した治政教化によって、豊かな風土をより重厚に啓拓」 ↑という事だ。 まず、「旧臣」というのは、「宗任の従類」という事かな(^^ゞ。 そして彼らが出発した「鳥海山」だが、普通なら秋田と山形の間にある山が有名だが、「羽州」でなく、「奥州」と言うからには、秋田・山形は違うだろう(^^ゞ。 安倍宗任がらみと言えば……やはり「鳥海柵」だろうか。 詳しい場所は知らないが、胆沢城のちょっと西あたりと推定されてるようだ。岩手県であるから、「奥州(陸奥国)」で正解。 あと宗任は「鳥海三郎」とも称した。
次に、祭祀の理由についてだが、上記の通り、「神の啓示」としている。 穿って見れば、何か移動せねばならない事情(天災・飢饉・流行病・戦乱etc)があって、地元で祀っていた神様も連れて来た……という事のようにも思えるし、この天仁2年(1107)を、乱後、流刑された宗任が死去した頃と見れば、慰霊の一環のような気もする。 ……実は東北から関東北部あたり、わりと広範囲に渡って、宗任の伝承地というのがあるんだな(^_^;)。 「古事談」「古今著聞集」などには、源(八幡太郎)義家と安倍宗任は、主従として描かれている。 つまり、前九年の役の戦後処理で、流刑されたハズの安倍宗任が、源義家の従者となって活躍するのだ(^^ゞ。 下野国は、源(八幡太郎)義家の任地であり、その子孫(足利氏)が根付いた地でもある。 だから、何もかも源氏神話のなせる技って感じもするが(笑)、こうしてはるばる奥州から多数がやって来た伝承を見ると、宗任その人ではないにせよ、役による降者を召し抱えて以来の縁……という線ならあるのかもしれないね(^^ゞ。 ところが、どうも土地に伝わる伝説は、こうした歴史とも後世の創作(?)とも違うようだ。 ちょうど、神社に創建者の子孫の方がいらしていて、色々と話を聞かせて頂いた。 ここから左に川があり、ちょうど橋が渡っている。↓ 「宗任橋」(パノラマ4枚・180度以上)
↑昭和50年(1975)に作られたそうだ(^^ゞ。ネーミングが凄いよね(笑)。 さて、お聞きしたお話によると、この地域で叛乱が起りそうになったのを、宗任が諫めてやめさせた、という伝説があるそうだ(゚.゚)。 つまり宗任自身がこの地に来た……という事になる。 もっとも、それが宗任自身の話か、宗任の霊を祀ってやって来た、社の創始者という事か、ちょっと不明に思えた。 耳で聞いた限りの話を、これ以上書くのもどうかと思うので、この辺りでやめておこう(笑)。 何しろ、安倍宗任を、単純に「武張った軍人」と伝えるのではなく、民人たちが先々に困窮せぬよう、知恵を施し道筋をつけた先人(神啓)として、永く尊敬を集めた事、そこから、「宗道」という地名の起りを伝えているようだ。 それが、先に掲げた文章の後半部にある、「宗道と改称」「宏遠な理念」「卓越した治政教化」に当たるのかもしれない。
その後、社伝は「鎌倉期には豊田33郷及び幸島12郷の総社となる。豊田城主将基、小田城主氏治、崇敬殊に篤く社頭下馬の礼をとり祈願社とす」と続き、「徳川幕府、朱印5石を奉る」と江戸時代の事に飛ぶ(^^ゞ。
明治時代は、明治13年(1880)に村の大火事で燃えたのが、すぐ再建されたのに、その後、戦後になると自動車道路を建設する事が急務となり、神社の境内に道路を通す事となった。 関係者は鼻をそがれる思いだったが、宗任公が人々とともにあって、皆を護っている事を想い、地域福利のために立案を飲んだ。 その代償に、境界柵が作られたものの、交通の震動が凄まじく、傷んで腐食したが、財政の厳しい時代が続いた。 昭和50年代(1975〜)になり、茨城県神社庁の第一期指定神社に選定されたのを機に、社殿修復の声があがり、鎮座870年祭に向けて、奉納・寄進や浄財集めが進み、各建物類の修復、宗任橋の造営や、各記念碑の建立、狛犬・神輿・太鼓・木造神馬などの奉納もあり、 近年では、平成5年(1993)が、伊勢神宮式年61回遷宮と、皇太子御成婚の佳年にあたるので玉垣が奉納されている。
この神馬の木彫りは、社内に案内が書かれた板があったが、賽銭箱に隠れて、読めないトコもあった(^_^;)。 が、だいたい以下の事が書かれていた。 昭和57年(1982)に、豪雨があって鬼怒川が洪水になった時、川底から巨木が顕われ、易によって、日光二荒山の神木だとわかった。 この滑田の地は、そもそも宗任の乗馬が鳥海を発して、二荒山を通って下総に入ったので、これは神慮だろうと察して、神馬を彫って奉納する事としたという(^^)。
宗任は前九年の役の結果、降人となって、同じ安倍氏の家任・正任らとともに源頼義(義家の父)に率いられ、京に行き、伊予国に配流の後、故郷に逃れ帰る疑いのため、さらに大宰府に流された人物である。 ……ここまでは史実と思っていい(^^ゞ。 その途中、京に行った時、都人から梅の花を「陸奥では何と言うか」と問われた宗任は、 「わが国の梅の花とは見たれども大宮人は何と云うらん」 と即興で詠み答えた事が「平家物語」に書かれているのだ(^^ゞ。 都人の侮蔑感情に対し、宗任の才智が顕われるエピソードとして、有名なのがこの歌だ。 宗任のこのように伝えられる機知が、武より才智をもって村を導いた、とされる所以なのかもしれないね(^^)。 <宗道神社・宗任神社> 地図E←宗道。56号線に面しているので、わりと目に付きやすい。 将門ツアーの折、ちょっと寄ったのもこの神社(^^ゞ。(2008年9月<宗道〜下妻>内) ただ、前の「総社宗任神社」では、宗道の地名の起こりを、「宗任」に由来させていたが、ここでは特に触れられず、「京都の八坂神社より遷宮」と書かれていた。
こちらも又、「宗任神社」(パノラマ3枚・ほぼ180度)
地図F←「宗任神社」。宗道より少し下妻に近付いた辺り。わりと奥まって探しにくい(^_^;)。 どうも、こちらが元々神社のあった場所らしい。何故アチコチにあるかと言うと……(笑)。 鎌倉期の豊田氏や小田氏に対し、室町〜戦国期には多賀谷氏の保護を受けるに至ったのだが、どうもこれを嫌って、豊田(石下あたりかな)の方に分祀された「宗任神社」というのもあるらしい(^^ゞ。
ここにも、さっきの「総社宗任神社」とほぼ同文に近い内容の石碑が建てられていた。 が、細かい点を見ると、実は微妙な違いがあって、「鳥海弥三郎宗任命の霊託に依り遺物を護持」となっている。 「鳥海三郎」だと宗任に間違いないが、「弥三郎」になると、宗任の弟・家任を指すようでもある(^_^;)。 さらに「総社」では、「奥州」とあったのが、ここでは「出羽国鳥海山」となってて、ホントにあの(有名な)鳥海山かもしれない(^_^;)。 旧臣の数も「24人」とハッキリしている。 そして、何より違う点が、この地に至ると、絶妙の霊音を奏して告知して、「松本殿岡の如く動かず」となり、ここから「松岡郷」「松岡明神」を、創建の由来としている。 霊域を発した石とか観音像とかが、旅(とか流転)の道中、動かなくなって鎮座……というのは、よく聞く縁起だよね(^^ゞ。
宗道〜下妻はここまで(^^ゞ。 今回はこれより筑波に向かうが、「宗任神社」は他にもあるようだし、この辺りは、親鸞が流刑先の越後から常陸にやって来た時、最初に留まった草庵跡と伝承される所も近い。ウチからそう遠距離でもないので、また気軽に来てみたい♪ 以上、関連事項は(だいたい(^^ゞ)、 2008年8月<取手市「相馬惣代八幡宮」>以降 2008年9月<常総市「将門寿司(爆)」>以降・<宗道〜下妻>内以降 2008年11月<茨城県常総市「豊田城」(石下町地域交流センター)> (以後、安倍宗任・関係) 2009年3月<羽黒山・山頂>内 2010年1月<えさし藤原の郷・C「河崎柵」「伊治城」「厨川柵」、1>内 2010年2月<平泉到着(^O^)! まずは「わんこそば」!(爆)>以降 2010年3月<衣関跡・「接待館跡」>内 2010年4月<達谷窟(西光寺)・三つの鳥居まで>内 2010年5月<「毛越寺」A、南大門跡〜開山堂>内〜<「毛越寺」C、遣り水〜東大門跡> <下妻から筑波山に向かう> ↑同じ茨城県だが、下妻は下総国に、筑波山は常陸国に入る(^^)。 今回、筑波山に行ったのは、亭主を筑波山神社に連れて行くのが目的(^^ゞ。 前、2006年に来た時は、両親と一緒に平日に行ったので、亭主だけ行った事がない。 その後の2008年、将門ツアーでも、亭主は「筑波山ってこんなトコなんだ(゚.゚)」などと言ってたので、「一度一緒に行こう(^O^)/」と言っていたのだ。 地図G←125号線を東に進み、筑波山の山脈にぶつかった辺りで北上、筑波山に近付いたら再び東進……こんなルートでこれより行きたい(^^ゞ。
こっから先は、ジワジワと混み始め、やがて大渋滞!!となった(^_^;)。。 ところで筑波山だが、さっきも触れた通り、「たわごと」で2度ほど取り上げて来た。 2度目の2008年は将門ツアーで、西方面から来たから登り口が違うが、その前の2006年に来た時は、今回と同じ南方面から……いわゆる観光・参拝ルートなので(^^ゞ、時折、リンク出しながら進もう。 2007年5月<まずは筑波山まで(^^ゞ>内←ちょうど今回渋滞で写真が今イチだった道路と、その後に到着した大鳥居の周辺、電話ボックスや土産屋のガマ蛙グッズがたくさん写ってる(笑)。 <筑波山神社・大鳥居〜参道〜御神橋> では神社に入ろう(^^)。 地図H←拡大すると、「神社入口」なる交差点が出て来るが、それが下に見える大鳥居のある道路。
↑車道から大鳥居(神社入口)を入ると、しばらく旅館や土産屋が続くが、やがて道が左に折れながら、神社の正面に達する。↓
スイスイ来てしまったが、実はさっきの車道に面した巨大な鳥居(大鳥居)に達する前、山道の途中の駐車場に車を停めている。 あの大鳥居の所まで、階段とか登っては来たが、そう遠いわけではない(^^ゞ。 気をつけたいのは、これより後の道程だ。つまり車で来ると、駐車場に戻って来なくてはならないって事(当たり前だけど:笑)。 筑波山(全体)と筑波山神社・案内図
↑左下の大鳥居を越えて、今「筑波山神社」の前にいる。筑波山神社のさらに山頂に行くには、ケーブルカー(図の左側)で登るのだが、ロープウェー(図の右側)も出ていて、このロープウェーの到着する先(つつじヶ丘駅)は、駐車場のあるこの一帯からは、かなりとんでもない距離になる(^_^;)。筑波山マップ(筑波観光鉄道HP内) 電車やバスを利用して、ここまで来た人は、行きはケーブル、帰りはロープウェイと、違う気色を楽しみながら巡るのも良いが、車の場合は駐車場がネックとなる。 だから車で来る場合は、登りも降りもケーブルカーに乗る(あるいは登り降りともロープウェーにするなり)のが正解って事(^^ゞ。 さらにケーブルカー・ロープウェーの最終時間も気を付けよう(^_^;)。 歩いて戻って来れなくはないが、特に日暮れの早い時期は、一応チェックしといた方がいい。 筑波観光鉄道←今見ると、上下とも毎時20分間隔で、最終は16:40となってるが、GWだったからか、臨時にもっと遅い……18:00時代の最終(確か特別に18:20とか)があったような覚えがある。 事前にそれだけチェックし、戻りの時間を念頭においてから、神社の参拝を始める方が無難。 境内は見どころが多いわけではないが、何といっても広いので、歩きの時間はちょっと大目に見た方がいいと思う(^^ゞ。 で、この時は、さっきの大鳥居の手前に、「本日の最終ケーブル時間」というのが貼ってあった(^^ゞ。 目ざとくチェックするのが有効☆ミ
切妻造柿葺屋根付 間口一間 奥行四間。 現在の物は、元禄15年(1702)5代将軍・綱吉の改修を経ている。県指定文化財。 なお、参拝者が渡れるのは、4月1日と11月1日の春秋・御座替祭と、2月10〜11日の年越祭の時。 <筑波山神社・随神門〜拝殿〜御神水滝>
「筑波山神社」の案内図
↑ど真ん中にあるのが「随神門」。その下の屋根の下に赤い柱があるのが、今さっき通った「御神橋」。 これより「随神門」を潜って、さらに階段を上り、神社「本殿」に達する。 その後は左(←)に行き、階段など登って「ケーブルカー」に乗るわけよ(^^)。 「随神門」の並びは、庭園や記念碑など(パノラマ3枚)
2007年5月<筑波山神社>内1←さっきのと同じで恐縮。 庭園や「(地場の)果物」や「宇宙の卵」(科学万博つくば85)といった石像が並んでいる所なんだけど、今回は写真&説明を省略させて貰うね(^^ゞ。
「随神門」では、左右に古代の甲冑をまとった二組の武神が、山裾にまで睨みを利かせている。↓
字は「豊城入彦(とよきいりひこ)」とか「日本武尊(やまとたける)」とか、色々書くけどね(^_^;)。 2007年5月<筑波山神社>内2←詳しくはこの辺り。 社伝(筑波山縁起)では、イザナギ・イザナミ・天照大神の、夫婦親子三神が降り来たって以来の創生神話を唱えていて、その辺りの伝えも前に書いたので(^^ゞ。 また筑波山は、男体山と女体山を併せ持ち、ヤマトタケル以来、連歌の出発点となった事から、交流を貴ぶ山である点がまず言えると思う。 あとは、前レポした時、あまり詳しくなかった(今でも詳しいとまでは言えんが:笑)点のみ、なお加記する。 筑波山は徳川家康が江戸に来て以来、祈願所とされ、徳川家より多く寄進を受けているので、江戸時代以降の記録が多いとは思うが、弘仁14年(823)には官社となっており、延喜式内名神大社に列している。 南北朝時代の北畠親房が「神皇正統記」を記した頃には、「天照大神の父母神」なる伝えが広くあったそうだ。 「豊城入彦(豊木入日子)」について。 頼朝のお気に入りだった八田氏の系統が、この辺りに地盤して、小田氏・岡見氏など、戦国期まで子孫が続いたりするが、これが円仁(慈覚大師)の壬生氏、小野猿丸伝説を持ち歩いた宇都宮氏など、古代より上野国・下野国の、いわゆる「毛野氏」の系列と言われ、いずれも「豊城入彦」を遠祖としているんだね(^^ゞ。 「随神門」を潜ると、いよいよ正面に「拝殿」が……
ガマの油と有名な口上については、前レポでわりと書いたので(^^ゞ、先に進もう(笑)。 正面が拝殿。 筑波山神社が今日の様相を整えた発端は、江戸入りした家康によって祈願所と定められた後、三代・家光が寛永10年(1633)に、「山内の諸社堂伽藍を悉く寄進造営」とある。かなり大々的にテコ入れした様子が伺える。 明治初年の神仏分離令によって、明治8年(1875)、この拝殿が神社風に造営されたようだ。その後、昭和3年(1928)、安間立雄氏の設計監理で、「唐破風千鳥破風」付「銅板葺入母屋造り」に改修したという。 中央の拝殿を挟んで、左に「参集殿」、そのさらに左に「社務所」。
記紀など古い文献に見える筑波だけに、ヤマトタケルの話にも見る通り、和歌にまつわる石碑が多かった。 万葉集 巻20-4371 古部広方 橘の下吹く風の香ぐはしき筑波の山を恋ひずあらめかも (橘の花の下を吹く風の香ぐはしい筑波の山を、恋いこがれないでいられようか) 万葉集 巻 3-382 筑波の岳に登りて 丹比真人国人 鶏が鳴く東の国に高山は、さはにあれども二神の貴き山の並み立ちの見が欲し山と神代より人の言ひ継ぎ国見する筑波の山を冬こもり時じき時と見ずて行かばまして恋しみ雪消する山道すらをなづみぞ我が来る (東の国に高い山はたくさんあるが、中でとりわけ、男神と女神のいます貴い山で二つの嶺の並び立つさまが心を引きつける山と、神代の昔から人が言い伝え、春ごとに国見の行なわれてきた筑波の山よ、それなのに今はまだ冬でその時期でないからと国見をしないで行ってしまったら、これまで以上に恋しく思われるだろうと、雪解けのぬかるんだ山道を苦労しながら、私はやっと今この頂きまで登って来た) 万葉集 巻 3-383 筑波の岳に登りて 反歌 丹比真人国人 筑波嶺を外のみ見つつありかねて雪消の道をなづみ来るかも (名高い筑波の嶺をよそ目にばかり見ていられなくて、雪解けの道に足をとられながら、やっと今この頂までたどりついた) (現代語訳=万葉東歌研究会会長 大木昇) <筑波山神社・境内〜宮脇駅(ケーブルカー)> 2007年5月<筑波山神社>内2←さっきも出したので恐縮だが、途中の写真は省略させて貰うので。こんな感じの境内を抜けて、いよいよケーブルカー乗り場に向かう(^^)。
右の写真には、階段の横に鳥居が見えるよね(^^ゞ。 階段登ってる人はケーブルカーに乗ろうとしてるんだけど、登山コースもあって、それがこの鳥居からの参道を行くようになってるんじゃないかと思う。 これから乗るケーブルカーからも、木々の合間から、せっせと山道を歩いてる人が見えるんだよね。
前レポした時は「これ何(゚.゚)」と思ったので、「筑波山は、(将門自身より)将門が焼き払った戦場や、将門と敵対した勢力に(むしろ)近い」と大真面目に書いた(笑)。(2007年5月<筑波山神社>内3) それは勿論その通りなんだが(笑)、これはどうも、NHK大河「風と雲と虹と」の放映を記念して建てられた物だろう。 字の下部分が生垣に隠れて見えないが、「曜(女ヘン)歌」(=かがい)と書かれてあり、その裏側に「『風と雲と虹と』〜記念」とある(草に隠れて見えない所もある)(^^ゞ。 で、その後、時専chで、みごと「風と雲と虹と」の再放送がされ、第二回「恋あらし」に筑波山が舞台として登場するのを確認した(^^ゞ。他に筑波山神社が登場する回はない。 (「作品の広場」内「将門雑記(風と雲と虹と)」内1(1話〜7話)) この第二回は、史料的には全く不明の将門の青年期が描かれているから、当然ながら創作&脚色された話なのだが、「将門記」に出て来る源護(嵯峨源氏)の娘との絡みがある点は、嘘八百とも言えない(^^ゞ。 出会いの舞台が筑波山というのは、100%創作だろうが(笑)、背景としては充分ありうる。
<筑波山神社・山頂〜女体山コース、1>
地図I←さすがに山頂まで来ると、大鳥居辺りからは、かなり距離があるんで(^^ゞ。ただ、このサイズだと殆ど変わらないんで、詳しくは拡大して見てネ♪ 駅に続く、長い長〜い行列っ!(*o*)(パノラマ2枚)
ちょうどケーブルカーの通常の最終便が出るぐらいの時間だったかな……。 この日はGWと言う事もあってだろう、臨時の最終便がかなり遅く(と言っても18時代だが)まで出ていたが、ケーブルの時間だけじゃなく、筑波山に宿泊でもしない限り、大抵は、山を降りた後も、もっと遠い所から来る参拝&観光客ばかりだろうから、バスとか電車の時間もあるし、自動車でも、どこからも遠い。 この後、我々もここに戻って来るんだが、その時にはガラガラって程じゃないまでも、こんなにスゴイ行列にはなってなかった。ま、地元に近い者は有利だ(笑)。 人混みを離れて←の風景を(^^)(パノラマ3枚・ほぼ180度)
お土産屋さんは5軒ぐらいあったな(^^ゞ。だいたい蕎麦・うどん・おでん・団子・コーヒーをやってて、筑波山のメイン「ガマの油」(塗り薬)をはじめ、やはりカエルのマスコット商品が多かったね(笑)。
「ぼけ封じ地蔵」あたりから「男体山」を振り返る(パノラマ2枚)
山頂の一つ「男体山」は、今通って来た行列の先「筑波山頂駅」のさらに奥にある。 前回もそうだったが、今回もこれには登らない(^^ゞ。又そのうち来たい。 が、その男体山には、登り口の「立身の岩屋」に向い、岩屋の斜め下の岩戸の中から「御海(みうみ)の水」と呼ばれる霊水が湧き出ているそうだ。 これが延暦年間(782〜805)に、徳一が発見したと伝わるもので、飲めば無病息災に効果があるとされ、今では遠方から汲みに来る人も多いが、季節によっては水枯れもあるそうだ。 さて、これより女体山に歩いて行くが、さっきも言った通り、我々は車が置いてある駐車場まで戻って来るため、到着しても「女体山駅」からのロープウェーは使用せず、この「筑波山頂駅」まで、また歩いて戻って来る。
後方に構える「セキレイ石」。売店はこっちね→(パノラマ2枚)
↑男体山(筑波山頂駅)側から来ると、裏に隠れているが、この「セキレイ石」は、「石の上に鶺鴒(せきれい)が留まり、男女の道を教えた」と伝えられている。 ……日本武(ヤマトタケル)尊の連歌の伝と言い、「歌垣(かがい)」が営まれた事と言い、筑波山は男山と女山の和合を形にしており、古来から男女の道(交流)の神様なんだろうね(^^ゞ。 ちょうどこの巨岩のある辺りが、男体山と女体山の中間に当たるのかもしれない。 もう一度前方を向く(パノラマ3枚)
↑左にあるのが「せきれい茶屋」。セキレイの石の傍らにある。ケーブル駅前の店と同じく、「ガマ油」は勿論、食事はうどんや蕎麦などの他、あんみつ、ところてん、味噌田楽なんかもあったね(^^ゞ。 男体山から女体山の間は、そんなスゴイ距離とは思わないけど、石段の登り降りが続くから、一息つくのに、ちょうど眺めもいい所なんだよね(^^)。↓
何しろ、ここで永井兵助が「ガマの油売り向上」を考え出したので、「ガマ石」と呼ぶようになったそうだ。 2007年5月<まずは筑波山まで(^^ゞ>内←この辺に、その「ガマ油」についても書いたので、今回は省略ね(^^ゞ。
次回は、筑波山の続きから、下館で一泊して2日目に入り、小栗城とその周辺(筑西市)、月山寺(桜川市)に行ったレポをしたいと〜♪ 以上、関連事項は(だいたい(^^ゞ)、 2006年8月<里見公園(国府台城跡)>および<泉「三夜堂」と「おせし様」>内 2007年5月<まずは筑波山まで(^^ゞ><筑波山神社><筑波山・女体山コース> 2008年6月「作品の広場」内「将門雑記(風と雲と虹と)」内1(1話〜7話)) 2008年9月<「野本の戦い」跡地周辺「鹿島神社」>および<「服織営所の戦い」跡地「筑波山」>以降 2008年10月<桜川市、筑波山「薬王院」、2><筑波山中〜羽鳥(服織)〜湯袋(弓袋)> 2009年7月<南部「海禅寺」>内 2010年09月27日 <つづく> |
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