<2007年・城主のたわごと5月>




2006年9月〜11月まで、一気にお届け〜(^O^)。

「東北土産」「筑波山」「真里谷〜亀山温泉」の(だいたい)3本立て!




     
  まずは、前回までの3連載「会津〜米沢編」の続編、9月の「東北お土産編」。
そして10月のがちょっと入って、11月は珍しく両親と「筑波山」の参拝と登山。
同じく11月、千葉県の南部・真里谷〜亀山に行った。行けたのは城跡ではなくお寺だけだったが、上総武田氏の史跡に行ったのは初めて(久留里を入れれば二箇所目か)なので、写真を撮ってきた。

以上(だいたい)三本立てでお届けっ♪



■9月
<会津〜米沢のお土産(^。^)>

まずは会津若松で買った物から。

漬物「山里の八菜」
クッキー「美味八煎」
駄菓子「はっか飴」

クッキーと漬物は、福島県郡山市安積町の物。

そして駄菓子は、会津の名産品の一つとも言え、飯盛山からやや離れた「本家長門屋」には「駄菓子資料館」もあるらしいが、我々は鶴ヶ城の売店で買った(^^)。
駄菓子の各種類を一袋に寄せ集めているのが下の写真↓。これの中に無かったので、「はっか飴」↑だけ別売りのを買った。

紙風船入りの駄菓子袋
中は、あんこ玉やダルマやトリを象った飴、ぱん、ねじり等。

「本家長門屋」は、嘉永元(1848)年に菓子作りを始め、奉公人が城下町をはじめ街道宿場や村々に駄菓子を売り歩いていたと伝わる。嘉永5(1852)年会津藩発行の「会津五副対」という資料に菓子司の部に名を表し、これを包装紙としている。

駄菓子は人々に親しまれ、生活に溶け込む内に、土地独特の暮らしや風土、風俗をあらわす庶民文化とも、純粋な倭菓子とも言え、仙台でも駄菓子がよく見られる。

←これは山形県の駄菓子で、白布温泉で買った「のし梅」。

一方、こちらは漬物「晩菊」→
仙台の親戚がよく送ってくれ……しかし家族じゅうが好物だったから、一度食卓に出ると即座に無くなった(笑)。酸味の強い漬物で茶漬けにも合う。

「のし梅」の方は、さらに子供の頃から「憧れの食べ物」だったが、我が親族は東北から九州にまで散らばって存在した上に、よく祖父母の家には親族以外にも各地の知人から名産品が集まっていたので、漢字も読めない子供の私は、この「のし梅」を何とか食べたい一念で、親に一生懸命、色や味や形状・食感の説明をした覚えがある(笑)。

「枯れたハッパみたいの(竹の皮)の間に挟まってるゼリーみたいので」
「笹飴?」
「違う! もっと柔らかくて酸っぱいの!」
「梅干?」
「違う! 甘くて、もうちょっと硬くて……」
「ゼリーキャンディ?」
「違う! 和風っ! それに薄っぺらいの!」
「夢でも見たんじゃないのか?」

悔しくて食べたくて仕方のなかった私は、何とかこれに近い味の駄菓子を近所で見つけて、親に食べさせたりもした(笑)。

子供の頃の「憧れの食べ物」だから、大人が食べたらさぞつまらない物なんだろう、と思っていたが、今回これを買って亭主に食わせたら、亭主は一口食べるや、おもむろにGOODサインを出してニンマリと微笑んだ。

生きて来て良かった(爆)。



■10月
<講演拝聴@松戸>

だいたいこれまで、9月になると一気に忙しくなるのが定例だったのが、この頃はそうではなくなって来て、特にこの秋は……待てども待てども予定の来ず、かと言って、何か予定を入れてしまうわけにも行かず、いいかげん間延びしていた(爆)。

まず10月。
■松戸市根木内歴史公園開園記念企画展「戦国の城をさぐる」シリーズ二回目
10/22(日)「里見氏・後北条氏と下総」(千葉県立船橋高等学校教諭)

というのに行った。
「どうせ松戸のやる企画だし(地元だと、どうもナメた評価になりがち:笑)、急に予定が入ったら、当日ドタキャンもアリ」とか勝手に決めて申し込んで貰ったのだが、イザ行ってみたら……。

←ギュウギュウ詰めの超満員(爆)。
狭い会場に一席の空きも無く、また臨席同志が物凄い近さで、渡された書類のページをめくるのも、隣の人と手がぶつかる始末。

しかも焦るのは、事前に抽選があって、亭主と私のうち私が落とされ(^_^;)、亭主は当然私に譲ってくれたが、ちょうど母が席を譲ってくれたので、何とか夫婦で出席できた(汗)。。

参加者はほぼ全員高齢者に近く、男性が多く、渡された用紙には戦国期の地図に空欄があって、いきなり「書き込みテスト」から始まる。

皆が黙々と回答を書き込んで行くのだが、驚いた事に、空欄にはちょっと見当のつかない城の場所もあって、全問正解できなかった(汗)。。

講義もいきなりマイナーな国府台合戦や里見史から始まるんだが、それがまた全てに「皆さんご存知の通り」って勢いで、質問者には講演者の本を読了してる人もいたものの、出席者全員が話しについて行けたのか、ちょっと心配は残る(^^ゞ。

それでも「ここが高校の先生だな〜」と思った(ある意味感心した)のは、10〜15分置きに「眠気覚まし」のトークが入る点(^_^;)。。
そういう雰囲気に慣れてないご高齢の方々には、何となく苦笑まじりの方もおられた感じがする。私も思わず、
「今の子って、こんなに集中力低いの?」と仰天した(^_^;)。

あと、やはり松戸市民なだけあって、質問者には、
「里見もいいけど、松戸周辺の……例えば千葉氏関連の事もやって欲しかった」
という要望の混ざった質問をする方もいて、会場の広さと言い、抽選の枠と言い、これだけ熱心な参加者が多いんだから、もうちょっと税金を上手に使う工夫をして欲しい。

で、題名にある肝心の「根木内城公園」は、明けて2007年2月にオフも兼ねて写真を撮ったので、次回やりたい(^^)。



■11月・茨城県
<まずは筑波山まで(^^ゞ>


行ったのは2006年11月だった。亭主は仕事の日だったので両親と出掛けた。
近頃、つくばエクスプレス(TX)という電車が開通したので、これに乗ってどっか行こうみたいなノリで(^^ゞ。

TXは東京都秋葉原から出て北東にのび、途中に千葉県を通過し、茨城県の筑波まで行く電車。

←途中の「守谷」駅(茨城県に入った地点)。その後も電車は筑波に向って行く。↓

やがて終点「つくば」(地図)に到着(^^)。「筑波山シャトルバス」に乗って筑波山(地図)まで。
地図A←真ん中の下「刈間」とある辺りが駅で、ズズッと上に「筑波山」。わりと距離がある(^^ゞ。
(後日↑地図を貼り替えたので一行上の地図をご覧下さい。2016/06/14)

バスから見える市街
やがて筑波山が近付いて見える

筑波山から連なる峰々(バスの中から撮影・パノラマ3枚)

バスはいよいよ筑波山に登って行く(^^)。

眼下に広がる町並み
山道をさらに登って行く

そして終点「筑波山神社入口」に到着。
鳥居の前にデーン!とお出迎えするのが、公衆電話ボックスに鎮座するガマ君(^^)。

そう! ここ筑波山と言えば、何より「ガマの油」で知られた旧跡。
この「ガマの油」は大坂の陣(1614〜15年)で、東軍・家康の陣に従軍した筑波山大御堂(おおみどう)光誉上人に由来する。

地図←筑波山神社入口
戦場に僧侶が同道するのは、戦勝祈願、死者の弔い、停戦や和睦の使者など色々な役目があったが、戦傷者・病床者の手当てを行なう者もいた。

何と言っても戦場では外傷が絶えない。この光誉上人はガマ成分、山野草成分、植物油脂を練って皮膚薬を作り、これが戦場で大評判。「ガマ油」と愛称され、将兵の口コミで瞬く間に全国に広まった。
以来この筑波山では、光誉上人の出身にちなんで皮膚薬を作り、これが地元の名物となって名を高めた。

土産屋に並ぶガマ・グッズ(笑)
招き猫やキャラクタに混ざってカエル君も

その後、筑波山麓の永井村に兵助という者がいて、江戸に出て大道で販売したところ、その売り口上が大人気。
「ガマ口上」なる題材・舞台芸にまで発展し、その効能には「サアサア、お立ち合い、前足の指4本、後ろ足の指6本、46のガマ筑波山に棲む」などと、架空の設定やセリフがついて、民俗芸能として成立。今も「筑波山ガマ口上保存会」があるそうだ。

この売り口上や舞台芸能がよほど面白かったのだろうとは思うが、「ガマの油」の人気はかなりの物であったらしく、江戸期の随分あちこちで散見する気がする(^^ゞ。

大坂の陣は戦国最後の大規模な戦いであり、その戦功の恩恵に預かった者より、「自分の先祖も世話になった(お陰で生き残った)かもしれない」と思う者の方が遥かに多かったに違いない。(戦功の有効期限に乗り続けた者となると、さらに少なかっただろうし:笑)

また、江戸の町と言えば火事が華(^_^;)。。火傷に効く皮膚薬が売れるのも道理だろう。

この先、進んで本殿を参拝するまで、またその後の山道の各所で、この「ガマの油」の旗を立て、口上の入ってるテープとかも一緒に売っている(^^)。こたつも火傷や皮膚荒れ用に1個買った♪

さて、この先の道のりは地図B。左の地図だと、今は左下の赤い▲マークの所。これより歩いてスグの「筑波山神社」を参拝し、左の青い道筋をケーブルカーで登っていく。

到達すると左が「男体山」。この日は男体山に行く時間が無かったので、右の「女体山」までテクテク歩き、そこから今度はロープウェイで右下「つつじヶ丘」駅に降り、連結してるシャトルバスでまた「つくば」駅まで戻る。

ここまで、TXに乗る時に全区間の遊覧切符みたいのがあって、全ての乗り物の料金が含まれている(有効期限は2日間)。

↑右下部分の暗がりは、実は影が入っちゃって真っ暗だったので、染み抜きを行なった形跡(^_^;)。雑な染み抜きでゴメン。だいたい見えるよね(笑)。



<筑波山神社>

じゃ鳥居をくぐるっ!
しばらくテクテク行くと
神社に到着♪

神社の間取り図はこんな感じ→。

下から入って、中央にあるのが「随神門」。それを超えて本殿を拝し、左の建物前を抜けて階段を上がりケーブルカー乗り場に到る。

参道は参拝客で大賑わい
その参道の途中にも……
「ガマの油」の旗

←「随神門」が近付いて来た。その合間ごとの階段に、果物(中央)や「宇宙の卵」(右)などの石像モニュメント。↓

この果物のモニュメント(中央)に記された「特産新都之碑」には、ざっと「東京都小金井の人の交配種を、東京都北多摩の新技術を受けて、西瓜(スイカ)が関東一の産出として市場で名声を得ることになった感謝の念を示す」とあり、「西瓜新都協会茨城県各支部有志一同、昭和29年」。

「宇宙の卵」(右)の方は、万博会場の東ゲートに飾られた科学万博つくば85のシンボル。強化プラスチック製で銀色。「無の象徴」と「みんなであたためる未来の夢」を表わした。

イチョウの落葉のお掃除をされる方々
随神門の横合いから見える山頂

また随神門の脇には美しい庭園↓
超えて、本殿に登る階段から振り返る随神門→

この「随神門」、「お寺の山門みたい(゚.゚)」と思ったので調べてみたら、元は真言宗(豊山派)の「筑波山大御堂(大御堂観音)」というお寺の仁王門であったらしい。
これもまた明治の廃仏毀釈で破却され(^_^;)、1930年に仮堂再建、1938年の山津波で倒壊、1961年に再建(民家から移転)という。

この随神門には両側に像があり、右が12代景行天皇の皇子、ヤマトタケル命。左が10代崇神天皇の皇子、豊木入日子(とよきいりひこ)命。

倭建(ヤマトタケル)命の方は皆さんご存知の通り、伊勢神宮で伯母さんの倭姫から3種の神器の一つ「天のむらくもの剣」を奉じて東征に赴いた。その一番遠い最終地点がこの筑波である。
お話的には、弟橘姫が身代わりに入水して、神奈川から千葉へ海を渡り、その後もドンドン北上して筑波に達した。
だから千葉県には、上陸した木更津あたりから先の北上ルートに、やたらとヤマトタケルを祀った神社が多いらしい(例えば松戸だとこんなトコ→「城主のたわごと2004年8月<松戸神社>(^^ゞ)。

ヤマトタケルが、その帰りには行きと違い、内陸路を通って山梨県の酒折に立ち寄った時、
「にいばり筑波を過ぎて幾夜か寝つる」(新冶や筑波を過ぎて、幾晩を経ただろうか)と詠った。
これに対して、火を起こす係の翁が「夜には9夜、日(昼)には10日を」と続けたので、これを「筑波の道」と言って、歴史上の連歌の始まりと見て、連歌岳という所もある。

で、左の「豊木入日子」の方がよくわからない(^_^;)。。手持ちの古事記では見掛けなかったが、日本書紀には記述があるらしく、崇神天皇の次の皇太子を決める時、垂仁天皇にするか、この「豊木入日子」にするかで悩んで、二人の皇子の見た夢で判断した。
垂仁天皇は縄を四方に張った中の粟を雀から守る夢を、豊木入日子は東方で刀を振る夢をそれぞれ見た。

ここ筑波山の由緒では、これを「大和国みむろ山に登って、東に向かい、刀と槍を各8回振る夢」とある。
さらに「命は長くこの地を治められ、筑波の里で神奉り給うたが、御威徳を敬う山西の民により宇都宮に祀られ、下毛君、上毛君の祖と仰がれた。5世紀頃、山東の柿岡に栄えた佐自奴公もまた同族である」と続く。

要するに、いわゆる「毛野族の祖」と言われ、東国においては重視される雰囲気を感じる。

本殿(横合いから撮影(^^ゞ)
木の間に見える随神門

筑波山神社は、西の峰・男体山頂に伊弉諾(イザナギ)尊、東の峰・女体山頂に伊弉冉(イザナミ)尊を祀る。これはニ神が国造りをした時に、東方で最初にできた山だからだという。

崇神天皇の時(日本書紀では、約2000年前)から、筑波山を中心として、三国(筑波、新治、茨城)があり、最初は物部氏の一族が国造に命じられた、ともいう。

古来から山岳信仰の霊山として栄え、782年に開基(開山は徳一法師)、823年には官社に列するなど由緒深い名社。

社務所にズラッと並ぶお守り類

お守りには天照大神の名もあり、天照大神が山頂で楽を奏で、海の波が山まで着いたので「筑波」としたとか、「筑波」の「つく」は「月」の意だというサイトも出て来た(゚.゚)。

「月」にちなんだ話は他にも出て来て、開山の徳一法師が童に導かれて「月輪洞」という洞窟に籠ると、神が憑いた女が山の謂れを語り、これを桓武天皇に伝えて、お寺が創建された。

同じような話で、少し時期は遅れるが弘法大師伝説もあるらしく、弘法大師がやはり洞窟に籠って祈念し、悪神を追い払うと、巫女が山の言われを語り(徳一法師が語ったとするのもある)、大御堂に本尊(千手観音)をおさめた。

月にちなんだ話がもう一つあるが、それはまた後で(^^ゞ。

本殿に並ぶ建物を←に進み
階段を登る

←登って振り返る。見える屋根は売店。

↓売店で売ってた「小田北条米」
一瞬「小田原北条米?」と読めた(笑)。
でも北条というのは周辺の地名(^^ゞ。

鎌倉時代、頼朝に任じられて八田氏が小田城を作り、やがてそれが小田氏となって長く領地とする。
「任じられた」と言っても、元から地元の豪族だったのかもしれない。この小田氏も八田知氏も宇都宮氏の流れで、宇都宮氏は毛野族の血筋として古株というから、それで「毛野族の祖」というのが出て来るのだろうと思う。

江戸時代には、祈願所として歴代将軍の厚い保護を受け、神領は広大で、3代家光から寄進された銘吉宗の太刀は、国の重要文化財に指定されている。例祭は春秋(04/01、11/01)二期の御座替祭が有名。

さらに登る坂道の途中に
こんな柱が
いよいよケーブルカーに乗車(^O^)
←この柱は何かと言うと……何だろう(笑)。
「●(擢の左が女ヘン)歌」で「かがい」という。「歌垣」とも書く。

いろいろ調べたが、将門がこの辺りで叔父(良兼?)の領地を焼き払ったとか、将門には敵となった叔父国香の子孫が付近の領地をおさめた(真壁氏というのがある)とか、ここを拠点にした、信仰した、新都建設を目論んだ、という記述も出て来て、将門ゆかりの地には違いないが、ここで言う「かがい」は主に、将門の時代にもあったに違いない「男女の恋のやりとり(歌をかわし交合する)」を指すようだ(^^ゞ。

あと筑波山と将門で思い当たるのは……「瀧夜叉姫」か(^^ゞ。
瀧夜叉姫は「将門の忘れ形見の姫」で、亡父の復讐の念のため、引き込んだ仲間に筑波山で修行させ、蝦蟇(ガマ)の妖術を使って暴れ廻り……という江戸期の芝居(歌舞伎狂言)の登場人物(妖怪)。
多岐に渡る芝居に似たようなネタが登場するようだ。
「城主のたわごと」では、2005年11月<将門神社>に類する話を書いた。



<筑波山・女体山コース>

さてさて、ケーブルカーに乗って発車を待つ間、筑波山の紅葉を写した(^^)。↓

パノラマ2枚。じゃ出発ぅ〜(^O^)

遠くに筑波の平原がまず見える(^^)
やがて森林の奥深く入って行く

最初に見えた平地、地図を見ながら「こっちがウチの方かな〜」とか親子ではしゃぐ(笑)。
「昔、芦屋(兵庫県)に住んでた時、ウチから六甲山が見えるんだから、六甲山からもウチが見えるハズだとか言ってたよなぁ」という、家族ならではのアホ話が出る(^_^;)。。

次の森林地帯、写したハズが写ってなくて(シャッターが下りなかったと見える)残念なんだが、次々と周囲に巨石の岩の波がガンガン出て来る。
いや、もぉどれも物凄い大きさ(^^ゞ。上から吊るしたように下がってる巨石もボコボコと見えて来て、「さすがは筑波山」と感心した。
というのも、ウチ(千葉北部)あたりでは、かなり古代(先史時代と言うべきか)から江戸期までかな、「秩父や筑波から運ばれた石材」って記述を博物館とかで見掛ける気がするからである。

正直「何に使った」という具体的な事は覚えてなくて(^^ゞ、それより何しろ「利根川経由(水運)で」という記述で、「何だよ〜千葉県にはロクな石が無かったみたいじゃ〜ん(p_-)」と思う程(笑)。

(やがて山の景色を拝める→)
しかしその筑波の石が「取り尽くされて減少した」なんて事は全く無さそうな、今もまさに巨石の宝庫で、なんとも頼もしい気分になったのは事実だ。
山岳信仰として発展した地との事だが、こういう場を信仰したり修行したくなる気持ちはよくわかる。

で、石場の風景はこの後、ケーブルを降りて散策コースでの写真にはあるので、そこでご披露(^^)/。

ケーブルを降りて見晴らし台からまず展望(パノラマ3枚・ほぼ180度)

まず茶屋に入って、ちょっと遅いお昼ご飯(^^)。
お蕎麦とかうどんとかおでんとか、そういうのが食べられるお店で、やっとくつろいだので、例の「ガマの油」(皮膚薬)を買った(笑)。
薄いピンク色の塗り薬で、袋の中の説明や容器には、昔風の字と一緒にガマさんの絵も描いてあるっ(^^)。

さて散策スタート。先ほども言った通り、男体山は行かず、女体山に行くコース。
ちなみに、男体山の山頂には「御海(おうみ)の水」という霊水があるらしい。先ほども書いた開祖・徳一上人が発見し、万病に効くという(^^)。

右に見える風景
後ろを振り返ると山頂が……

この山頂、位置から言って、筑波山神社の随神門の脇に見えてた山頂かな〜?と(^^ゞ。

で、こっからイキナリ親どもからガーン!と引き離されて遅れる(^_^;)。。
私の方は写真を撮りながら、というのも勿論あるが、何か基本的な足腰の違いではないか?という気もする(爆)。

私としては「親より老化が早いとは情けない」と思っているが、親の方は「昔から成長の遅い子だったから」とか未だに思ってるような気もする(汗)。

で、これが、ここではよく出会う石だらけの場所の一つ。↓

ここに祀ってある祠だったか、言われが書いてあってウッスラと内容も覚えてるんだが、先を急いでいたので(笑)、また今度来た時にでも(^^ゞ。

というのは、ここには「来迎石」「立身石」「ガマ石」「セキレイ石」「北斗岩」「弁慶七戻り」「出船入船」など、石にまつわる逸話や名称が多く、一度では網羅しきれない気がするからだ(笑)。

なので、今回は筑波山神社より降りた所であるらしいが、先ほども言った「月」にちなんだ、いかにも石の山らしい筑波の痕跡を一つ。

そこには、単神で祀られるのは珍しいという石長(磐長)姫を祀った「月水石神社」があるらしい。
石長姫は、天孫ニニギ命に差し出された姉妹の姉で、醜かったためニニギは妹の木花咲耶(コノハナサクヤ)姫だけ娶り、石長姫を追い返して、姉妹の父、大山津見神に「磐のような永遠普遍ではなく、木の花のようにはかなく終わる」と予言され、天皇家の子孫は神と違って普通の人なみの短命に決まった(でも日本書紀の年表的には、その後もダラダラ長生きするんだよな)。

「月水石神社」は、この石長姫を、イザナギ・イザナミの第四子とするばかりか、神社をその没した場所とするなど、オリジナリティ高い伝承を持つらしい。
ここに遊郭の遊女達が、望まぬ妊娠をせずに済むよう拝みに来た、と伝えるサイトも出て来て、「石長姫は、石女(うまずめ)の女神になったわけか(^_^;)」と思いつつ、いかにも巨石の山らしい信仰と伝えに思えた。

そして名所とも言える石の一つ「セキレイ石」↓
で、こちらが「ガマ石」→
ガマかガメラか、本当に動き出しそうな感じがムクムクと伝わってすごく面白かった(笑)。

この石は、「ガマの油売り口上」を発案した江戸時代の永井兵助が、ここでそれを考えたと言われ、商売繁盛を祈願する名所らしい。

で、ドンドン遅れが出るので、本当はもっと長い道のりなんだが、ドンドン飛ばして、はや最終地点に到着(笑)。

このコースは男体山を背にして歩いて来るので、後ろに遠く見えるのは男体山かと(^^ゞ↓
で、こっちは女体山の頂上に到着→
最後だけ急激な傾斜で圧巻なショット(゚.゚)。

上に見えてる建物(社務所)から橋で渡しのついたお社。↓

女体山の社。ご祭神はイザナミ女神(パノラマ2枚)。

このお社の右の奥に人がいるのが見える通り、この社の右に通り道があって、ここで参拝した後、もっと奥に行けるのっ(^^)。

物凄い巨石の塊!(しかも滑る(^_^;))
そして到達点では……CM撮影?(笑)

アイロンをかける男性と、それを撮影するスタッフ(^^ゞ。
父は「コマーシャルの撮影じゃないか?」と当て推量してたけど、こういうCM(か番組か)見た人います?(笑)
私はCMと聞いて、むか〜しのCMを連想した。きっとBGMは「ハンガリア舞曲」に違いない(爆)。

岩の突端で、曲芸とも言えるアイロンかけ(笑・パノラマ3枚)

観光客の人々はその近くまで行こうと、ちょっと足を出しては「うわ〜」とか「やめときなよ」とか互いに言い合ってるだけで足を踏み入れないんだが、思うにそれは、撮影の邪魔を気にしてるからではなかった気がする。

と言うのも、ここは山頂だから、風は遮る物なくビュウビュウ吹いてるし、私もここまで写すのが精一杯。下を覗き見る余裕すらない(^_^;)。

つまり人が居ようが居まいが撮影はしに行かなかったに違いないが(笑)、何しろあそこに立つ人の真下は、遮る物の全くない奈落の底(^_^;)。
女体山という名の響きから、もっと穏やかな雰囲気を予想してたが、さすがはイザナミ神だという気もした(爆)。

←山頂からロープウェイ乗り場までは、歩きやすい歩道をちょっと歩く程度。
乗り場に到着するとだんだん冷えて来て、乗車を待つ人もみんな震えてた(^_^;)。そして乗車↓

すでに夕暮れ時に差し掛かってはいたが、雷雲のような雲がムクムクと寄せて来たのも、何となくイイ感じ(^^)。
到着地点は「つつじヶ丘」駅→

到着。駅の左側面には……
不思議な空間が……
一部拡大(爆)

このロープウェイと連結してるバスがもう来ていて、途中の土産見学もそっちのけに、両親は早々とバスに乗っていた。
しかし私は、この魔空間がどうにも気になって(笑)、話し掛ける親の言葉もそっちのけに、バスに乗ってからもこの斜面を「じ〜〜〜〜っ」と見詰めていた(爆)。

この観光ルートはわりと最近開拓されたらしく、小野寺維道さんの話では、いま人気のスポットなのだとか。
言われて納得するのは、行ったのは丸々平日だったのに、かなりの人出で驚いたから(^_^;)。

となると……何かこういう「不思議(不気味)な空間」って、遠からず閉鎖されるとか、新しく何か別の物が建っちゃいそうな気もして、「行くなら、今スグ行かなければっ!」と、実はあれからかなり焦っている(爆)。

他にも女体山より下った所にある「弁慶七戻り」という、弁慶も恐れた落ちてきそうな大岩があるそうで、見てみたかったが、こういうのはそう簡単に無くならないだろう。

この後は「つくば」駅に戻り、夕飯なんか食べてから、行きと同じく電車で帰宅(^^ゞ。



■11月・千葉県
<木更津市・馬来田〜真里谷>


この時は所用ついでに、ポーンと千葉県南部に出掛けてみた(^^ゞ。この日一緒に行ったのはご存知こたつ亭主(笑)。
いきなり地図C。高速を「木更津北」(地図)で降りて、409号線・410号線を乗り継いで「まくた(馬来田・地図)」まで来る。その後は↓

「馬来田」駅の絵地図

枝影が入っちゃってゴメン(^^ゞ。左に「馬来田」駅。そこから右(東)にまっすぐ行くと、図の中央あたりに「妙泉寺」、道路を挟んで反対(下)側に「真如寺」(地図)。

私の持ってる本が古くて、「妙泉寺」の方は出てるんだが、「真如寺」の方は無かった。
しかし駅前の案内版には、「真如寺」の事が書いてあったので、チラと頭にメモして、とりあえずは一路、真里谷城跡に向かった。

真里谷城は、この地図で言うと右端の下あたり、「少年自然の家」という所にあるらしい。
これはネット情報でも、わりとアチコチで出て来る(^^ゞ。

で、我々がこの辺りに最後に来たのは……2001年11月だなぁm(。。)m。
「城主のたわごと」だと、2002年8月〜11月の「房総編」に「久留里城に行った」とある。これが最後だろう。

又その前、2001年9月に大多喜城に行った時、車で行くのは初めてなんで(^^ゞ、途中で道を間違え、その効能で「真里谷」に行く道順がわかった事がある。
「真里谷ってこんな所にあるんだ(゚.゚)」と思った。
だから今回はわりとスイスイと行けたが、初めてだと、この辺りは道がわかりにくいかも(^^ゞ。

まずは高速で木更津まで。
馬来田からは真里谷に向かう。


木更津でインターを降りた時から、亭主は「この辺り好きだな〜」と言いながら、気持ちよく運転して来て、馬来田から先はさらに気に入ったようだ(^^)。

ただ、馬来田駅からはかなり距離がある。途中で「どっかから間違ってない(^_^;)?」と気になった。

寺とか商店とか見掛けないので、とりあえず道の途中に立ってた人に聞く。

それがココ、建設中っぽく、交通整理をしてる方に会えた。(パノラマ2枚)

反対側。トンネルも作ってる。(パノラマ3枚)

どうもここまで、圏央道(高速)が伸びるらしい(^^ゞ。ネットでは「真里谷第4トンネル」と出て来た。(今もう開通してる?)

真里谷城の事を聞いてみたら、「ここがそうです」と言われて、ちょっとビックリした。
さらに、「城跡を工事するので、地元から反対の声があった」と教えてくれ、圏央道の建設は神奈川や東京も関係するので、もしかしたら、八王子城跡あたりと間違えたのかもしれないが、この辺りも城跡だった可能性があるのかもしれないね(^^ゞ。

で、正解を言うと、これのさらに先に行くと城跡の残る「少年自然の家(キャンプ場)」に当たる。
同じように迷う人がいたら、この辺りに高速が通るので、それをさらに先に行く事を伝えておこう(笑)。

で、この時は「寺で聞いてみよう」とバックしてしまったので、真里谷城には到達してない(ので、亭主はリベンジに燃えている:笑)。
今回は、そのかわりに聞きに行った「真如寺」をレポする。ここよりは馬来田駅に引き返す道になる。

途中、イチョウの落葉が美しいお宮に行きあった(^^)。



<真如寺>

さっきの絵地図で説明した通り、真如寺は馬来田駅から来ると右折、我々は戻って来たので左折。
曲がり角に「真如寺」の看板がある(^^ゞ。

橋を渡り
鬱蒼とした森林の横合いに
古めかしい山門

真里谷は甲斐の武田氏、武田信満の次男信長(上総武田氏初代)が、1456年、古河公方足利成氏の命で、この地に侵入し、築城した土地である。
ちなみにこの武田信長については、甲府の武田本家に兄の墓に行った記録がこの辺り→石和川中島合戦レポ2005年01<流浪の甲斐守護、武田信重>と<六角山、成就院>

に対して、この真如寺の方は、城の創建に遅れること8年、1464年、3代(信長の孫)信興により、密山正厳禅師の開山を経て、武田家の菩提寺として創建された。曹洞宗。正式名「天寧山・真如寺」。

ちなみに真里谷城までは馬来田駅から7キロ(遠いよ(^_^;))。この真如寺は駅から4キロと、駅からやって来ると、ちょうど中間点ぐらいに位置する(事も書いておくね:笑)。

寺は来た道の右手。背の高い森に囲まれた真如寺(パノラマ3枚)。

真里谷城の全盛期は1530年前後で、浅草の浅草寺、鹿野山神野寺などの改築・修復に多くの財力を傾けたと伝わり、鎌倉八幡宮の修復にも寄進している。

実はこの寺、前にウチの近く、印旛沼の寺を紹介した時にも名が出て来るんだな(^^ゞ。
「城主のたわごと」2006年8月<泉、龍泉院>内。↓

>開山したのは、木更津市の真如寺6世住職の長英。
>天文年間(1532〜54)の頃、曹洞宗だったとも見られる。

この「龍泉院」は、1253年に相馬氏によって創建の後、真如寺の住職によって新たに開山、という事だったが、何で武田氏の菩提寺が相馬氏ゆかりの寺を、という事になると正直全くわからない(^_^;)。

この天文年間(1532〜54)というのは、その初期を見れば、この「真里谷武田氏の全盛期」と関連があるのかもしれない。
真如寺の由緒書きには、浅草寺や鎌倉八幡宮など、極めて有名な名跡しか書かれてないが、もしかしたらそれら修復に金を出した武田氏が、もう余裕のヨッチャンで房総じゅうの寺を直してくれて、ウチあたり印旛沼の廃れたお寺(だったんじゃないかと。相馬氏は北の方に行っちゃったので(^_^;))の再興にも尽力してくれちゃった、とも見れなくはない。

「金は出すが住職までよこさんだろ」と仰るのなら、強いて穿った見方もしてみようか。
ここより南に久留里城があり、久留里には相馬と同じく「将門の子孫」と称する一族がいた伝承(「城主のたわごと」2002年9月内)があるにはあって、同時に久留里城には、武田氏の一族が城主をしてた時期もあるから、とかいう感じ?

さらに天文年間の後期に目を移すと、北条と里見の間で、真里谷武田氏が分裂や内訌を繰り返した時期に当たる気がする。

真如寺には「開基家の武田氏も戦国の世に滅亡、その後、寺は北条氏の庇護を受けた」とあるが、その後の秀吉の小田原(北条)征伐の時まで、真里谷武田氏は一応残ってはいるので、「寺の場所を北条領内(例えば印旛沼あたり(^^ゞ?)に移した」と見るべきなのかな……。

山門をくぐると、本堂まで続く参道も実に静寂とした木立に囲まれ、本堂にはあの武田菱がちゃんと光っていた(^^)。
↑墓所に続く庭園。

お庭で住職さんの奥様と思わしき方に城跡の事を尋ね、教えて頂いた(ありがとうございました(^^))。
またそのお話では、ここに武田信興のお墓があるという事だったので、裏手に上がって拝ませて頂いた。

裏手(墓所)から見える本堂
高台の裏手からの眺めも美しい(^^)

3代武田信興の物と伝わる墓

真里谷武田氏はどうなったかと言うと、豊臣秀吉の小田原攻め(1590年)で関東が平定された時は、小田原の北条氏に味方していたので、ともに滅び、このときの城主「真里谷信高」は那須に逃げ延び、後に剣術指南役として名を轟かせたとも言う。

というわけで、寺の方の話だけその後も書くと、続いて徳川時代、幕府より録30石を賜り寺有山林数十町歩を持ち、堂塔伽藍30余棟、修行僧、常に80余名、末寺も48ヶ寺を数え、仏道修行の道場地方本寺として法灯連綿と続き、盛時には上総の高野山と称されたとも言われる。

明治元(1868)年、義軍(徳川方)官軍の戦いで兵火に遭い、堂塔ことごとく灰塵に帰して以来、100有余年、仮本堂のままだったが、ようやく復興の気配がみなぎり、檀徒の方々の多額の浄財の寄進、末山各寺院の協力で、1991年夏、現在の本堂が建立されるにまで到った。現在も檀信徒の手によって守られ、寺内には室町時代よりの代々僧侶の墓がある。
境内の老杉の下にある大きな礎石、古い石段、庭園の筑山などに往時を偲ぶ面影が残されている。
←お寺に上ぼる月と鬱蒼とした森。(亭主は「ワォ〜ン!」と吼えた)

この後、真里谷城跡のある「少年自然の家(キャンプ場)」まで、車で行くだけ行ってみた(^^ゞ。

お寺の方が「夜は危険だから行かない方がいい」と忠告して下さったので、車からは降りなかったが、時間外は門やロープなどで閉まってたから、知らなくても入れなかっただろうと思う(笑)。

その後は……実はこの日、何のためにこんな所まで来たかと言うと……「温泉に入るため」だったりする(爆)。

その道筋の途中でもあったので、昔を懐かしんで久留里まで出た。地図←ご覧の通り、久留里線だと4駅で「久留里」に着く。

写真出すのは初めて(^^ゞ
商店街の「久留里城」(^^)。カッコイイ♪

本物の久留里城も行ってみた。前は夜ライトアップされてたので、ちょっとアテにして行ったんだが、この日はしてなかった(^^ゞ。



<亀山温泉>

てわけで、この先は地図E。(後日、地図を貼り替えたので↓の地図をご覧下さい。2016/06/14)

久留里からさらに3駅で「亀山」という所に来る。(地図
←亀山周辺の地元ガイドマップ
↑一軒だけ見付かった「亀山温泉ホテル」。(地図

ロビーにはお土産屋さんも(^^)。(パノラマ2枚)

入浴を受け付けてくれた(^^)。上に載せた「ガイドマップ」もここで買った♪
ここに「ぜひ入りたい」と思った理由は……。

見よっ。コーヒー色の温泉(≧▽≦)!色は濃くて、入るとすぐ体が見えなくなる。

効能書きには「含ヨウ素臭素重曹食塩微温泉・加温・循環(一部かけ流し)・塩素消毒連続注入」と書いてあった。
これだけ黒い温泉は、わりと珍しいと思う〜(^^)。

亭主は風呂から上がって休憩を取りながら、「なぜかこの辺りに来ると、突発的に泊まりたくなる」と言った(笑)。
これも確か、「城主のたわごと」2002年8月〜11月の「房総編」に書いたよねぇ(^_^;)。

確かにこの辺りって、まず「同じ千葉県だから」とナメて、出掛けるのが遅くなる上に、来た途端、かなりの観光風情に満ちていて、「日帰り」の決断が鈍る場所だとは私も思う(爆)。
さんざん「泊まろう」と言う亭主を、無理やり引っ張って帰った。この時期は本来なら、そんなに余裕こいていい時期じゃないんだよね(^_^;)。。



<エピロ〜グ〜♪>

風呂は入ったがメシがまだなので、帰り木更津に出る途中で、海鮮寿司屋に入った(^^ゞ。

「あの辺りは城跡臭い」とか言いながら駐車場から撮影(パノラマ2枚)。

↑お店。こちらは枯山水風の石組み→。
どうせならこの辺りで何か美味しい物を……と、入っただけだったのだが、さすがは海が近いだけあって、海鮮丼の美味しかった事(≧▽≦)!

←それがコレ。見た目は普通のマグロ丼なんだが、やっぱ刺身の質が違う(≧▽≦)。
よくテレビでこの辺りの格安海鮮料理の店を紹介してて、普段は「あんな遠い所まで行くグルメって居るのよね〜」とか言ってるが、確かにそう高くもなく、これだけ美味しいと、せっせと行きたくなるかも(笑)。

さて次回は、2006年12月から、2007年3月(か4月)ごろまで一気にお届けっ(^^)。

<つづく>

2007年05月14日(2016/06/14:地図(ヤフー →MapFan)張替)
 
     






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