<2008年・城主のたわごと9月>




2008年5月「将門ツアー@茨城編」第二弾っ(^O^)。

常総・八千代・古河・筑波を舞台に「承平の乱」に突入!




     
  「将門ツアー@茨城編」の第二弾(^。^)。
今回は「将門の乱」の前半「承平の乱」に入る。

早速で恐縮だけど、まずは前回も冒頭に出した<史跡と順路について>←これを出しておこう(笑)。

行った時期は今年(2008年)の5月GW。3日の内、今回は2日目〜3日目に相当する辺りを。
途中で7月ごろに行った写真も挿入する。

それから、これは「作品の広場」で連載中の「将門雑記(風と雲と虹と)」でも出したのだが、いわゆる「将門の乱」には、以下の合戦がある。

<承平の乱>
・野本の合戦
・川曲の合戦
・下野国府の合戦
・子飼の渡しの合戦
・堀越の渡しの合戦
・服織営所の合戦←今回ここまで
・石井営所の合戦
・信州千曲川の合戦
<天慶の乱>
・常陸国府との合戦
・下野国府・上野国府の攻略
・下野国境の合戦
・北山の合戦

ちなみに「天慶の乱」には、将門の敗死後も、西海の藤原純友による「純友の乱」が1年近く継続されるが、ここでは「将門の乱」のみを取り上げる。



<将門川>

では前回同様、まずは「将門雑記」から(^^ゞ。これは前回も出したのと同じページ類。

以下「作品の広場」内
将門雑記(風と雲と虹と)01〜07話/同08〜13話/同14〜20話

今まだ豊田館(将門公苑)のスグそばにいる。近くを「将門川」というのが流れているので行ってみた。地図A

やって来ました(^^)、その名も……
「将門川」!

菜の花の土手(^^)
今も続く川の流れ

将門も弟の将頼(三郎)や将平(四郎)なんかと、この川で遊んだのかなっ(^^)。
後に敵味方に分かれる貞盛も、子供の頃は一緒にこの辺りで遊んだのかなっ(笑)。

↓こちらは川付近の不動産屋さん、その名も「将門商事」!

さて、この後、旅の道程(2日目)では古河方面に向かって、その途中に葦津江を通ったのだが、この辺りは今回の下の方に廻す(^^ゞ。
取りあえず、2日目の旅程はこれにて終了(^^)。

帰宅途中、坂東あたりでお蕎麦屋さんに入って、地元の美味しいお蕎麦の味を堪能した♪
「名代・天ぷら風流手打そば」というお店だったよ♪



<常総市「将門寿司(爆)」>

↑って別にこれがメインなわけじゃないんだけど(笑)、何しろ3日目に入った(^^ゞ。
3日目はちょっとルートを変えて、利根川を渡る西の「新大利根橋」を通り(地図B)、294号線に入る。地図C

「新大利根橋」から見る利根川
294号線「小絹」辺りから右手に筑波山(^^)

ちなみに筑波山は、晴れた平野部(建物が無い所)でなら、ウチあたりからもよく見れる日が多い(^^ゞ。
この道路は周囲が全開なので、特によく見えるんだよね♪

前方。遠景だけをパノラマで繋ぐ(パノラマ5枚180度以上)

実はこの常総市の石下には、「豊田城」なる再建城郭がある(^^ゞ。地図D
これが、右手に筑波山を見ながらの道々、ジワジワと目の前に迫って来る。

左に豊田城・右に櫓っぽい建物(笑)→
この豊田城については、この将門ツアーレポが終った後、改めてレポしたい。

ここで言っておくのは、この再建「豊田城」は正式名を「石下町地域交流センター」といい、前回の最後に出した将門の「豊田館跡(向石下城址・将門公苑)」とは別モノって事(^^ゞ。この地域にはこの他に、東の小貝川そばに「豊田城址」というのもあって、ややこしい(笑)。

代わりと言ってはアレだが、この豊田城のスグそばにあった寿司屋に目ざとくチェックが入る(爆)。

回転寿司・将門」!(爆)
あああ、でもテナント募集中〜。。

この5月には「テナント募集(なんと「将門テナント」と書いてある!)」の看板に気付かず、「今度食べに来よ〜!」と、これまた夫婦で大騒ぎしたんだが、7月に来て、「あ(;_;)」となった。。。

頭の中(の予想)には、カマボコに寿司飯を詰めた「鎌輪」とか、イカスミを使った「墨友」とか、カラスミや馬刺を使った「烏黒駒」とか、川魚を使った「川曲」とか、五角形に押し寿司された「桔梗」とか、キムチを使った「火雷(カライ)天神」とか、カツオを使った「必勝寿司」とか、一口サイズの「一言主」とか、はちきれんばかりに「将門メニュー」が並んでいたのに……。。(お前だけだ客は)

また代わりと言ってはアレだが(^_^;)、この将門ツアーに行った5月の後、7月ごろだったか、もう一度この辺りに来て史跡巡りの追加を行なったので、今回はそれを先に出したい。



<「常羽御厨・兵馬調練の馬場跡」と「馬場天満宮」>


これらも常総市(^^)。豊田城に行くと案内地図も出ているし、中の博物館では入口に常総市の歴史を綴った本も売られていて、そこに絵地図が入ってるよ♪

残念ながら「下総国庁跡」には辿り着いてないが、その近くから発掘された古代の石柩というのを見付けた。地図E

「長塚節の生家」標識の一郭に
このように石柩が置かれている

まず「下総国庁跡」というのは、将門の父・良将が国府を築いたという伝承によるのだが、下総の国府は国府台(千葉県市川市・国府台公園)にあったわけで、それを良将がこの下総北部の「国生」に移転した、という事になる。

この事実関係については、よく知らない(^^ゞ。
少なくても下総国府は、戦国前期、有名な2度に渡る「国府台合戦」の折、千葉県市川の国府台公園にあったわけだし、その前を遡れば、平安末期、頼朝が挙兵する前、まず千葉常胤が孫の成胤に、平家側の「目代(国司の代官)」の館を急襲させており、この場所もやはり市川の国府台と言われている。

ただ、ここにある石柩は傍にあった案内版によると、1995年に県道・岩井高崎道路拡張工事のため、桑原神社の東に新設した階段より、約12m南方台地を掘り下げた所、発見されたという。
この辺りは「東に縄文遺跡や北原東山の古墳群があり、国庁跡と称する本屋敷の台地を望み、下総開拓時代の古代遺跡の一つ」に当たるのではないか、と書かれていた。

この一郭、道路に面して「長塚節の生家」というデカイ標識が建ってて、この石柩がドンと置いてあり、周囲は祠などがあるのみなんだが、「長塚節」というのは石下にいた近代詩人だから、観光客に案内するために標識を出してるのだろうが、その標識の裏を見ると……、

←暗すぎて見えないね(^^ゞ。

書いてある事は、「ここは昔の山王坂 東方下総国庁跡を経て800m国生の渡し跡に至る」という、ナントこれはこれで道標なんだよね(゚.゚)。

「山王坂」と言われて何となく思い出すのは、「将門記」における最初の戦い「野本の戦い」で、「山王神社が焼かれた」という記述だが、それと関係あるかは判らない(^^ゞ。

次は「常羽御厨・兵馬調練の馬場跡」に行ってみる。

夕陽に暮れる初夏の村を移動(^^)。→

この「常羽御厨」というのは、将門が同盟していた多治経明が別当を務めていたと言われる場所。

伊勢神宮の御厨なのだそうだが、御厨の領内という事になるだろう、馬場を備え、そこで兵馬の訓練をしていたという伝承地である。地図F

ここが「常羽御厨(いくはのみうまや)の馬場跡(パノラマ3枚・ほぼ180度)

旧石下地方(豊田郡)は古来牧畜の業の盛んなところにして、延喜式(延喜5年(905)藤原忠平などの勅撰)にも下総大結牧の名を見ることができるが、この大結牧場とは今の石下町古間木(古牧)と八千代町大間木(大牧)を云い土地に残る名称等によって今なをそれとうかがい知ることができる。

鎮守府将軍平良将、将門公親子は、当時心血を農耕拓殖の道に注ぐかたわら、これらの広大な牧場をも管理下に置き兵馬の調練に余念がなかったと云われている。

この地は、官牧としての古間木が手狭となり、附近の形勝の地を物色して移転した大間木の馬見所で、東西に飯沼の入江を控え、南北38町巾四間三尺の大路即ち馬場跡があり、両牧場に通じている。
馬場の北端を花立と称し、検査調練の際の出発点であると云う。

その西方入江に接した白山(城山)の地が常羽御厨跡で将門公の陣頭で上野守に叙された別当・多治経明の居館があった。陣屋の地名はその時の名残と伝えられる。
(以上、当地案内版より)

同じ通りに「馬場天満宮」
参拝してみた(^^)
古い石仏

将門や馬場に関係あるわけじゃないと思う(^^ゞ(意外とあったりして:笑)。
ただ、将門は菅原道真の霊に神託を得て新皇即位した事になってるが、実際に菅原道真の子が常陸・上総・下総に国司として来ていた事は確かで、関連性についてよく言われるので。

八幡菩薩と菅原道真の怨霊が同時に神託を下すという、極めて稚拙にすら思えるこの下り、以前は「将門記の作者の創作(脚色)だろう」と言われていたらしいが、この頃では、八幡信仰はかなり古くから坂東に来て根付いていたとも言われている。

原作とドラマでは、菅原道真の子は「菅原景行」であるが、将門の乱が起こった頃は、「菅原兼茂」という、やはり道真の子が、父・道真の霊が枕元にあらわれたとして、「不吉な予言(たぶん朝廷にとって)」を行なった人物である。
さらに将門が兵乱について訴えられた時の常陸介であったそうで、この裁判に将門は「お咎め無し」の採決を貰っている。

と言っても、現在「天満宮」は関東にも星の数ほどあるので、この神社が関係あるという話じゃないからね(笑)。

頭が良くなりますように〜(^∧^)。



<宗道〜下妻>

さて続きを急ごう(^^ゞ。今回取り上げる「承平の乱」は、舞台を筑波山付近から始めるので、そこまでちょっと駆け足(笑)。294号線に戻って前進。地図G

再び姿を現す「筑波山」(^^)。

この道はやがて「宗道(そうどう)」さらに「下妻」に至るが、まず「宗道」では、「子飼の渡しの合戦場」跡があるが、これは今回の下の方に廻す。さらに「鎌輪の陣」跡もあるが、これは次回に廻す。

宗道、鬼怒川沿の「行田香取神社」(パノラマ2枚)

スイマセン(^^ゞ、特に何か関係のある神社というワケではなく、「子飼の渡の合戦場」を探していて出会ったに過ぎないのだが、この辺りまで「香取神社」が多かった気がするが、この先から「鹿島神社」が増えて来たな〜という感じがしたので(笑)。

やはり宗道「大形橋」から見た、鯉幟の大軍(^^)(パノラマ2枚)

「宗道神社」(パノラマ2枚)

この辺りに「宗任神社」と言って、前九年の役(1051〜61)で敗退して源頼義・義家父子に連行された安倍宗任(貞任の弟)を祀った神社があるが、その関連の神社だろう。これが地名「宗道」の起こりだそうだ。
宗任は伊予や九州に流刑されたそうだが、下総には源頼義の領地があったので、ここに一度連れて来られたのかな。

ってワケで、下妻に到着(^_^A)。3日目の朝食を取った。

下妻「かつ善」でカツ定食(^O^)
「新鬼怒川橋(たぶん(^_^;))」を渡る

この下妻では昼食後、近くの「五所神社」を廻ったが、これは次回に廻し、さらに今「新鬼怒川橋」を渡っているのは、本当なら294号線を北上して行けばいいんだが、「川曲の戦い」があったという伝承地の周辺に寄ったのだ(^^ゞ。こっちは今回のちょっと下に廻す。



<「野本の戦い」跡地周辺「鹿島神社」>

さらに道はドンドン……
筑波山に向かっている

この辺りで、そろそろ「作品の広場」の「将門雑記(風と雲と虹と)」の続きを出そう。

以下「作品の広場」内
将門雑記(風と雲と虹と)21〜26話

↑「野本の合戦」と「川曲の合戦」あたりまで。

この先を書くにあたって、頭に入れておきたいのは、

<桓武平氏>
┌−国香−−貞盛
├−良兼−−娘
|       |
├−良将−−将門
├−良文
└−良正

<嵯峨源氏>
護−┬−扶
   ├−隆
   └−繁

だいたいこうで(^^ゞ、貞盛・良兼・良正が源護の娘(か姉妹)を妻にしている、という構図である。
将門の妻については良兼の娘で確定か判らないが、まぁ判りやすくしといた(笑)。

てわけで「承平の乱」に入るが、「将門記」では簡略本に経緯とおぼしき数行があるのみで、実記の方ではイキナリ戦闘に入るので、合戦にいたる動機はサッパリわからない(^_^;)。

簡略本では「女論(が原因か発端)で良兼と将門の仲が悪くなっていた」とある。
しかし戦端は将門と源扶の間で開かれていて、良兼は長くこの後の戦いに参加しないから、「良兼との関係悪化」が原因だったのか、この時点では実の所よくわからない(^_^;)。

だから原因とおぼしき「女論」になると、どんな内容かもっと判らない(^_^;)。。
その後の経緯から、「婚姻関係のもつれではないか」と想像が及ぶのみである。

この時点では「女論」てのを、「良兼は色白のポッチャリ女性が好みだと言ったが、将門は色黒の働き者の女性が好きだと言い、互いに譲らず口論のあげく喧嘩になったのかも」とかいう想像を交えるのみである。。

筑波山はもう間近!
山道に入る

承平5年(935)2月、源扶は陣を構えて将門を討ち(舞台はどこかわからない)、将門は進退窮まったが扶を跳ね除け、扶は「負けた」が、この時に死んだのかも、この時点では判らない。

しかし扶の味方は殆ど殺され、将門は「野本・石田・大串・取木」も、「筑波・真壁・新治」も焼き払った。

ちょうど「東石田」の辺りかと→
地図H

これが将門の乱(承平の乱)の勃発、すなわち「野本の戦い」と言われる合戦である。

だいたいこの「東石田」とある辺りに、将門の叔父・国香の居館(しだの館)があったという。

←「鹿島神社
国香の居館があった辺りとも言われるようだ。

「将門記」では、国香は、将門と源扶の戦いの「巻き添え」で死んだように受け取れる。
これは将門×扶の戦いに勝った将門軍らしき人々によって(主語はよく判らんが)、放火や殺戮が行なわれた後、京にいる国香の長男・貞盛が、国香の死に涙するシーンで始めてわかる。

ドラマでは「当然でしょ」と言わんばかりに、国香は源氏の味方をして、「将門には一族の長として自分が言い聞かせる」とか言って戦場に出て行ったあげく、将門と干戈を交え、敗れて逃げ帰り死ぬのだが、これを「将門記」では、後日、坂東に戻った貞盛が山野に父・国香の遺体を探し歩くことで補っている。

つまり国香と将門が戦ったシーンは書かれていない(^^ゞ。

鬱蒼とした森に入る
「鹿島神社」拝殿

しかもこの時になって、貞盛が「自分達が源氏と姻戚関係だったから(トバッチリで)父が死んだ」と原因を言うのである。
つまり国香(か貞盛)は、源護の娘か姉妹あたりを妻にしていたのだろう、と推測できるのは、初段を遠く過ぎたこの段階なのである。

奥の本殿
境内に点在する祠郡

さらに貞盛がこの時に妻を得たような描写があるので、この事件の前後に源護の娘と結婚したのは、国香ではなく貞盛ではないか、という想像を呼ぶのかな。でもその「妻」ってのが源護の娘だとは明言されてないの(^_^;)。

で、ず〜っと後の方になって、「貞盛の妻」ってのがイキナリ登場する(^_^;)。勿論この時に結婚した女性と同一かどうかはわからないが。

これは前回の終りの方に書いた通りで、何となく将門と何かあったのかな〜という感じが匂うものだから、ドラマでは貴子(嵯峨天皇の曾孫)と小督(同じく嵯峨源氏・源護の三女)が登場して、この辺りを盛り上げるわけ!

貞盛は調査の結果「京で出世するべく将門とは仲良くして、それぞれ京と坂東で仲良くし合ってると、世間に言い触らす」とかいう結論に至る。……この人どういう人なのか(笑)。



<八千代町、「川曲の戦い」伝承地周辺「鹿嶋神社」>

さて、下妻からス〜ッと筑波山に行っちゃったが、実際は下妻の後で行った、下妻より北西の野爪という所にカムバック。地図I←この辺りだったような気がす(^_^;)。
以下、これまで行って来た所をカムバックしながら、なるべく出来事に沿ってお届け(^^ゞ。

将門が次に戦った「川曲の戦い」のあった場所は特定できてないらしい(早速出た!:笑)。

「将門記」によると、この「川曲の戦い」の時になると、源扶・隆・繁の三兄弟が将門に討たれて死んだ事が書かれ、少なくても扶はこの時までには戦病死してる事がわかる。

時は「野本の戦い」の同年(935)10月、息子を三人も亡くした源護に同情して、将門の叔父でありながら、源護とも姻戚関係にあった良正が、甥の将門に仇討ちを仕掛け、将門と戦った結果、木っ端微塵に負ける(^_^;)。。

で、問題の「川曲の戦い」のあった場所だが……。

大河ドラマ「風と雲と虹と」の原作者・海音寺潮五郎は、幸田露伴が新治郡の川又村(筑波山の東方三里の所)だと主張し、郷土史家団体「つくばね会」は「川曲は地名ではなく、毛野川が迂回した旧関本・旧河内」と主張してる事を紹介した上で、良正が本拠する水守(だいたい豊田の東南方面みたい)と将門が本拠する豊田から、どちらも出て来てぶつかった地点を前提に、豊田と牛久沼の間あたりを舞台に、何しろ「平将門」を書き進めている。

ただ、既にこれらの人々が言ってる地名自体が、今はもう変わってる気がするんだわ(爆)。

なので、色々探した結果、「野爪」あたりも候補地として訪れてみた。そして立派な神社があったから参拝したら、ナント「承平の乱」に関する記述に出会ったので、「ここまで被害が及んだのか、あるいは神社の場所が移ったのか(゚.゚)」とか思いながら、レポを試みたワケ(^^ゞ。

ここも「鹿嶋神社」(^^ゞ
鳥居をくぐり
森林の参道を行く(^^)

この鹿島神社は「常陸国十六郷総鎮守」で、御祭神は武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比ロ羊大神。

創建は古く、奈良時代と云われているが、社伝では平城天皇(平安初期)の大同元年(806)、藤原鎌足公の後裔・藤原音麿(おとまろ)によって、常陸随一の宮・鹿嶋神宮の分霊を迎え、分祀されたのを起源に、子孫代々が奉斎し祀事している。

度重なる戦乱や天災に遭遇し、社殿喪失の憂目をみている。

平安期の承平5年(935)5月には、「平将門の乱」の兵火により社殿が炎上。「将門記」にある「野本の戦」に相当する。

鎌倉時代以降、結城家代々の尊崇を受け隆盛をみるが、室町時代に入って、永亨12年(1440)には「結城合戦」の折にも社殿が炎上。

しかし結城城主は代々、当社を篤く崇敬し、11代・結城氏朝は直ちに小川城主・小川弾正又五郎を作事奉行として宝徳2年(1450)社殿を再建造営した。

江戸時代には、神社の歴史的社会的役割が幕府からも高く評価され、慶長19年(1614)徳川家康が伊奈備前守に命じて、当社の由緒を調閲させ、寄付地を寄進。
すごく背の高い夫婦杉→
真壁郡下16ヶ村の弊社とされ、これが冒頭に書いた「常陸国十六郷総鎮守」の名の起こりだろう。

寛永2年(1625)2月、神祇官から正一位鹿嶋大明神の神位を進奉される。
康安元年(1648)8月には、三代家光の発給により、神官・大久保(冶部守)藤原政植の時代、御朱印地社領・石高15石を寄進される。
以後代々の将軍も先規に任かせ社領を寄進され、合わせて9代の将軍から朱印状・判物等が授与され、現存している。

が、やはり江戸期の安永元年(1772)8月、大風災により社殿大破。
安永7年(1778)起工、寛政元年(1789)9月竣工、正遷宮を敢修しており、現存の本殿はこの時の物である。

ただ……スイマセン(^_^;)、この本殿の写真が撮れてないです。。。

16郷総鎮守旧郷社として社中境内7700坪を有し、近郷の信仰の中心であった明治以前に続き、明治40年(1907)7月、「西村神饌弊帛料供進神社」として縣より指定される。

諸産業、安産守護、開運、厄除、交通安全の神として、当神社の神官の献身と結城家一族や地域の人々の信仰に支えられて今日に至り、創建以来の祭祀の場にふさわしい静寂な神域を保持しており、社殿の整備も続けられて来た。

が、近年は社殿の老朽化が進んだので、平成の大改修によって拝殿の一部を増築、屋根銅版葺に改修し、奉賛の会を起し、広く氏子崇敬者より浄財をえて、平成8年3月に事業完成の碑を建立。

境内社には、「別雷神社」「稲荷神社」「息栖神社」「愛宕神社」「八幡神社」「大山祇神社」「大杉神社」「天満宮」「三日月神社」「天神社」「十二所神社」「八龍神社」など、適わないお願いはなさそうなぐらい多いが、中でも「三日月神社」が目を惹いた。

三日月神社
伊賀神社
「三日月神社」は「月読尊」つまり天照皇大神の弟を祀っているが、「三日月様」と呼ばれ、創建は大同元年(806)の3月3日と、この鹿嶋神社と一緒になってて、かなり古い(^^ゞ。
「縁結びと諸病気平癒の守護神」で、3月のみならず毎月3日が縁日という。

「伊賀神社」の方は、神官の「大久保伊賀守・藤原政重」を祀るという、創建者=祭祀者みずからが祭神の神社。
これは神官が修行の結果、神秘の極意を得た事によるという。
昭和3年(1928)創建され、「安産・疳虫除、水子供養」の守護神として信仰されている。

数々の社宝が伝承されてきているが、それらの中から、これまでに次のものが、八千代町文化財の指定を受けている。

指定第二号(工藝品)銅鋳製鈴一口
 延文2年(1357)の銘があり、祭祀に際し神霊を振起させるための神具である。
指定第27号(史跡)鹿島神社境内及び木立地一円
 創祀以来の清麗な神域が今日まで残されている。
指定第28号(建造物)鹿島神社本殿一宇
 天明3年(1783)の再建だが、雄渾な三手(みて)先斗キョウの組物や精緻な装飾彫刻が各所にみられる。
指定第29号(彫刻)随身像二躯
 製作技法や立纓などから室町時代の作とみられる森厳な坐像である。
指定第30号(古文書)朱印状9通・朱印地絵図2面
 9代の将軍の朱印状が完全な状態で保存されていて、貴重である。

祭事
1月「元旦祭」、2月「節分祭」、4月「神武祭」、7月「夏超祭」「輪くぐり」、8月「祇園祭」、11月「七五三祭」「御化粧式」「秋例大祭」「大々神楽」。




<良兼出陣「子飼の渡し合戦場」>

さて、次なる展開に行こう(^^)。

以下「作品の広場」内
将門雑記(風と雲と虹と)27〜33話(←2008/10/12リンク(^^ゞ)

ここは、さっき通り過ぎた宗道の周辺。地図J

さっき居た筑波山を眺める小貝川の畔

ここでようやく原因とおぼしき当の良兼が戦に加わる。
「将門記」には良兼登場の遅さについては「遠くて戦が起きてる事を知らなかったから」とあるわけだが、まず良兼がいた上総って場所は、そう遠くはない(^_^;)。。

「野本の戦い」については、いきなり戦闘が始まっちゃったので間に合わなかったとしても、次の「川曲の戦い」までには京にいる貞盛が悶々とするシーンなどあるので、どう考えてもこの時点での登場は遅い。

しかし、ここまでには良兼も源護と姻戚関係にあった事が書かれ、「そういう事か(^^ゞ」と、この辺りで戦を繰り広げている人達の人脈構図が把握できる。

ドラマでは(原作でも)、将門は良兼の娘・良子とラブラブになっており、源護の娘である後妻(詮子)と実の娘(良子)との板挟みに合う良兼、将門とは何とか仲直りしたい内心がほの見えて、参戦遅滞の理由づけが上手に行なわれている。

また「川曲の戦い」での良正の敗戦を受けてか、源護がこの頃に京の都に訴えを起こしているが、取り上げられるのはウンと後なわけ。。

だから、良兼も訴訟を取り上げて貰えるのを待ってたのかもしれないが、だったら行動を起こさず待ってればいい気もするので、もしかしたら良兼軍と将門軍の間が、既に何らか戦闘状態に入っており、良兼が下総北部や常陸にまでやって来れなかったからではないか、という見方も実は出来なくないと思う(^^ゞ。

例えば、ついこないだ、ウチからそう遠くない我孫子市の神社に行って来たが、そこでも将門の乱による被害を伝えていた(笑)。
まぁ神社って場所が変わったりするから、伝承というのも場所については明瞭でない点を否めないし、その後の「平忠常の乱」(これには間違いなく上総が入っている)との混同伝承という事もありうるとは思うけどね……(^_^;)。

ここは小貝川の蚕飼「愛国橋」(パノラマ5枚・180度以上)

↑の逆側・川沿いの遊歩道と川べりの風景(パノラマ5枚・180度以上)

さて「川曲の戦い」の後、良兼が参戦して来た最初の戦い「下野国府(付近)の戦い」は、甥の将門に対し、良兼・良正連合軍が戦いを挑む事になる。

この戦いでは良兼の航路に「下総国香取郡の神崎(千葉県)」も出て来るし、戦場は下野国境付近なのだが、今回は茨城ツアーなので、ここで書いてしまう(^^ゞ。

正直この辺りから「叔父さん達がこうまで取り囲むなんて、将門ってよっぽど手に付けられない暴れ者だったのかな〜(゚.゚)?」という感じが流石にしてくる。つまり「将門記」も、さすがに良兼・良正に対し「甥っ子相手に大人気ない」てな雰囲気を漂わせているからだ(笑)。

ところが「今昔物語集」になると、実は土地問題が原因だったように書かれていて、この叔父さん達、将門が父・良将から譲り受けた領地を横領してたゲに受け取れる。

これが同族同志の合戦沙汰の真相だったとしたら、何が何でも邪魔な将門をヒネリ潰しておきたいのが「叔父連」の本音だろうし、将門としても引くに引けないには違いない。

今も利用されている豊かな水運(^^)(パノラマ2枚)

あと、これは豊田城(再建)に行った時、その内部資料館で見かけたのだが、将門が地盤してた下総北部と、国香がいた筑波周辺では、比較にならないぐらい住みやすさと言い、農作物などの採れ具合と言い、違ったようだ(笑)。

これは、この辺りに住んでちょっと歴史を齧る程度で歴然なんだが、利根川や鬼怒川の周囲というのは、つい最近まで「水害の歴史」が続くワケ(^_^;)。

将門が侵略目的で兵乱を起こしたとしても「無理ない」と思う上、元はもっと良い地域があてがわれてたのを、叔父たちに横領されたとあっては、「さっさと鎌倉幕府が出来て裁かんかいオラッヽ(`Д´)ノ」ぐらいの気分になって当然だし、なので、かな〜り広大な地域で「水害と戦った先人達」とかいうトップに「将門」が出て来るのは、土地として自然なの(^^ゞ。

ドラマでは「川曲の戦い」で良正を破った将門が、「自分は横領されてヤだったから、叔父さんの土地を奪う事はしない」と言うんだが、原作では負けて逃げた良正の領地を、将門がマンマとゲット(笑)。

元は将門が受け継ぐべき所だったから、という解釈もあるのかもしれないが、それより将門もそろそろ自分に従う者に対して、威勢を示さねばならなかった事があり、つまり平安期の坂東には、戦に勝った者が負けた者の土地を得る古代の習慣が強かった、という解釈に原作ではなっていた。

遠くの平原から騎馬軍団が出て来そう(^^)(パノラマ2枚)

何しろ良正が兄の良兼に参加を要請し、良兼も勢いこんで参戦の決意を述べ、下総や上総(の国衙だろう)からは「戦は禁止ヽ(`Д´)ノ」と制止が入ってるにも関わらず、承平6年(936)6月、参加者を集めまくってバンバン常陸を通り、嫌がる貞盛まで無理やり引きずり込む。

これまでの戦いで兵力も武具も損傷してる将門には、この新手でしかも大軍の良兼軍とやりあうのはチョー疲れる話だったが(笑)、これに奇襲をかけて何倍か何十倍かの良兼軍に大勝利!

良兼・良正らは下野国府のどっかに逃げ込むが、将門は「ま、親族だし(^^ゞ」とか手ぬるい事を言って、囲みを解いて逃がしてやったりする(^_^;)。これが「下野国府(付近)の戦い」である。

三度まで大軍を相手に寡兵で勝ちまくった将門に対し、叔父連の評判は……中でも特に「良兼ってイタイ奴(^。^)」とか下野国府の記録にまで書かれてしまうわけ(笑)。
この10月、源護の訴えがようやく京の裁判として実を結ぶんだが、上洛した将門に朝廷は「え、いいんじゃない、それぐらい(^^ゞ、気にしなくていいよ」とか言い(笑)、将門は大赦を貰って、むしろ武勇が知れ渡る好調に乗り、翌年(937)5月、坂東に戻って来た(^_^A)。

以下「作品の広場」内
将門雑記(風と雲と虹と)34〜39話
(↑2008/11/15リンク(^^ゞ)

戦には負けるわ裁判では決着しないわ、良兼も「いつまでも負けてると思うなよっヽ(`Д´)ノ」と、今度こそ入念に準備して、8月6日に行なわれたのが、この「小飼の渡の合戦」(^^ゞ。
準備や気力の入れようもそうだが、良兼はこの時に、将門の祖父・高望王や、父良将の霊像を持ち出して威圧。

将門は準備も悪かったようだが、この心理作戦に動揺したのか、この戦いでは珍しく敗走。
こうして、将門の豊田の属する領地「栗栖院」も、今回出した馬場跡でも書いた多治経明の「常羽御厨」も、ケチョンケチョンに焼かれてしまうのね〜(;_;)。。

さっきも書いた通り、「常羽御厨」は乗馬の調練に重要な場所だったから、戦力を削ぐために焼かれたのだろう、とさっきの「馬場跡」にも書かれてあった。。


初の敗戦。「早く挽回しなきゃ!」と将門は、大急ぎで兵をたくさん集めて11日後に戦いを挑んだんだけど、自分は脚気にかかって意識が朦朧としてしまったので、次の「堀越の渡の戦い」では、殆ど戦わない内に兵たちは敗走の憂目に遭う。
ちなみに「堀越の渡の戦い」が行なわれたのは、海音寺センセによると、この辺りかな〜地図K

この「堀越の渡の戦い」か、その前の「小飼の渡の戦い」で、前回出した「豊田館」も焼けちゃった感じ(*o*)。。
こうして将門は、妻子とも散り散りに別れたまま山野に潜伏。再起を図る事になる(^_^;)。



<葦津江「深井の地蔵尊」〜八千代・古河>

この辺りは2日目に行った場所にカムバック(^^ゞ。

「将門記」では敗戦の2日後、将門の妻は一度は捕えられ、その翌日に上総に連れて行かれるのだが、9月、彼女の弟によって脱出し、「親族に叛いて夫の元に戻った」とあって、それで「女論」と重なり、ここで初めて「将門の妻=良兼の娘?」という線が出て来るワケね(^^ゞ。
つまり将門の妻は将門の元に戻ったと見れる。

ところが伝承では、この「葦津江」に将門の妻子が殺された話が残っている。
この伝承が将門の生涯および「将門の乱」の「どこに入るか」については、ハッキリした点は判らないんじゃないかな、と思う。

将門は最終的には敗死するわけで、その場所「北山」もどこだか判らないのだが、今では石井営所から近い辺りではないかと言われている。
それはこの葦津江からそう遠くない場所なので、もしかしたら、将門の敗死に絡んでの伝承かもしれない。

が、「将門記」には、この潜伏期間を「葦津江」としているので、ここで入れる。

まずは周囲の風景から(パノラマ4枚・180度以上)

地図L←だいたい、この辺りだったような(^^ゞ。
ここは坂東市のHPを見て行った。この川べりからちょっと道を降りた所に「深井の地蔵尊」というお堂がある。

深井の地蔵尊
隣接地の名も無き社

ここには何ら将門の妻子や受難について触れられた形跡は無く、堂内の地蔵について

「お姿は、切れ長の眼ややさしい口もとの美しいお顔立ちでその、かざらない面ざしには、人間の感情をはるかに超えた尊さが感じられます」

と書かれた碑があるのみだったが、安産子育ての霊験とともに、古くから近在の信仰を集めている事は書かれている。
ドラマ制作にあたって、この地蔵尊の存在が将門妻妾の最期の様子にタブらされたのかな、と思った。

その隣の神社には字がどこにも無く、ヒッソリと佇むのみだった。

この後、北上して八千代町と古河市の境界まで出張り、妻妾のものと伝承される墓を探したが、亭主の執念が凄くて、マジで感心した(笑)。

途中の道中に見えて来たのは「逆井城」(再建)の片鱗→

ちょっと寄って「逆井城」も撮影(^^ゞ(パノラマ3枚・ほぼ180度)

↑そのうち、ここもちゃんと訪れてみようと思うが、これはバリバリ戦国期の城跡で、前々回(5〜6月)の牛久城に書いた通り、後北条×・多賀谷・結城・佐竹のここも境界線上で、再建された事もあってネット上でもしばしば見られるが、ま、こんな所にある、という事で(^^ゞ。

そしてついに到達。時代劇専門chには、これとソックリの墓石に「君の御前(将門の妻)の墓」と入れられていたので、現地の方に画像を見せて案内して頂いた。↓


ただ、場所については伏せようと思う(^^ゞ。
このコンモリと盛り上がった塚が、かなり古くから伝わる物であるのは確からしい。

ドラマ&原作では、この事件も描かれる一方、「将門記」にのっとり将門の妻は、弟達の協力で無事脱出(^^)。
将門を慕う葦津江の卿民たちの力強い行動によって敵勢を退け、やがて将門の病(脚気)も癒えて、戻った妻とともに石井(いわい)に新たな館を建設し、再起を図るのだった〜(^O^)!



<将門再起、「石井の井戸跡」(坂東市)」>

石井という場所は、前回のレポでも最初の方に登場した、現在の坂東市である。
つまりここは3日間の内で、最初の日に来ている(^^ゞ。だいぶ暮れ方になっていたが。

これまで見て来たように、将門は勝っている時は北部にかなり進出しているが、負けている時は南部に後退しているような印象を受ける。

石井についても、前に館のあった「豊田」よりも、やや南西部にある。
つまり葦津江で再起を図り、ちょっと後退してこの「石井」に居住したのではないかと言うわけだ。

大勢のカエルさんの声とともに
おおおお、豊かな水田がっ(^^)

ここは「石井(いわい)の井戸」と呼ばれる場所(^^)

地図M←だいたい、この辺(^^ゞ。
伝承では、将門が居館の築造場所を探し、この石井あたりにも駆け回って来た所、喉が渇いて仕方なくなった。
すると東南の方から「水」と一声叫ぶ声があり、白髪の老翁が巨石を台地に打ち込んだ。そこからは不思議と清冽な水が滾滾と湧き出し、それを掬って飲んだら妙味で、将門は精気を取り戻したという。

老翁はどこへともなく姿を消したが、この翁こそ実は「一言主神」で、霊水の湧き出した場所は、石を打って水が出た事から、「石井の井戸」と名付けられ、それが地名となった謂れとも言い、またこの井戸が石井の中心地であったとも言う。
以後、将門はこのスグ近くに「石井営所」を営むが、毎朝この井戸で顔を洗ったと伝わっている。

この近くに一言神社があるのだが、この「石井の井戸」はその社地とされていて、「岩井戸の宮」として永く住民に尊びあがめられてきた。

この伝承に沿って、NHK大河ドラマ「風と雲と虹と」が放映された事(1976年に本放送)を記念して、一言神社の氏子さん達が、この地に碑を建てたそうだ(^^)。

←「石井の井戸跡」とある。
今回は行かなかったが、このさらに続く道の先に「九重桜」と言って、室町時代に平家ゆかりの豪族が将門を慕って植えたという所がある。

この「一言主」の神様とちょっと似た話が、後に千葉氏やその一族が祀った「妙見菩薩」かな(^^ゞ。
どうもこれは「源平闘諍録」が元みたい(^^)。千葉常胤が頼朝に語った、という風に描かれるらしい。

良兼軍を相手に苦戦していた将門は、妙見菩薩の導きを得て連戦連勝しだしたが、最後の方に将門の元を離れて、将門と縁の深い千葉氏の祖・良文(将門の叔父)の家に来た、という話になってるようだ(笑)。



<最後の本拠「石井営所跡」(坂東市)>

水田の道路を元に戻ると、十字路に出る。↓

かなり無茶な魚眼パノラマ(笑)(パノラマ5枚・180度以上)

左に登ると「石井営所跡」に行く。真ん中の道の先には筑波山が見えた(^^ゞ。右の道を行くと、「延命院」に行けるが、これは次回に廻す。

坂の途中に「石井営所跡(パノラマ2枚)

地図N←「石井の井戸」と殆ど変わらない(^^ゞ。

ちょっと暗いけど(^^ゞ
「島廣山」と読める

この「島廣山」とは、殆ど石井と同義だが、小説にも何度も登場するこの辺りの地名(^^ゞ。

ここには「将門の真意は久しく誤解されて来たが、今日となって経世済民の志が知られ岩井市民や一般に敬愛されるに至った」と、郷土の英雄が再認識されて来ている事を改めて述べられている。

さっきの坂の下まで降りる。
←見えるかな〜筑波山(^^ゞ。ここからはかなり遠い。それだけ後退してるという事だわね。

しかしここから将門は、前にも増して目覚しい再起を果たす。
「将門記」では、最終段階に来てイキナリ「菅原道真の霊」が出て来るが、原作およびドラマでは、既にこの時点で「神兵降臨・火雷天神」の旗が登場する。

前回の二度に渡る敗戦の時、良兼たちの軍は「父祖の霊」を持ち出して、将門を悩ませた。

これを上回る何かが無いと、兵たちの動揺はおさまらず、また負けてしまいそうな所を勝つわけだから、そこに何があったのかを創作では上手にフォローしているわけだ。

それが「菅原道真の三男・景行」が書いた「火雷天神」の旗になる。

前回も出した「将門煎餅」の店で、坂東市の店舗紹介パンフを頂いたが、そこにも秋の「将門祭り」で武者行列が行なわれ、この「神兵降臨・火雷天神」の旗を悠々と靡かせている様子が伺えた(^^)。



<「服織営所の戦い」跡地「筑波山」>

さて、3日目の続きを行く(^^ゞ。次の戦いは、再びこの筑波山が舞台となるからだ〜っ♪

東石田から入って来るコース続き(パノラマ2枚)

この筑波山は、2007年5月の「城主のたわごと」で、一度だけレポした事がある(^^ゞ。
その時は筑波山神社の正面(南)から訪れたが、今回は西側から入ってみる。

筑波と言うと、今は「つくば学園都市」がイメージされるかもしれないが、それは筑波山からメチャメチャ遠い南の方で、東京の山手線円周入っちゃうぐらい。地図だとスゲェ縮小しないと、両方出て来ないぐらい遠い(笑)。地図O

だから、学園都市でイメージするような「郊外とは言え、拓けた都会」みたいのじゃなく、この辺りは山の近くの長閑な情緒がある。

途中、苗を積んだ荷車を見掛けたり(^^)。→

また学園都市から遠いってだけじゃなく、筑波山じたいがデカイ!
この筑波山じたい、三区分の境界上にあって、北は桜川市・東は石岡市・南がつくば市に入る。

地図P←以前来た時は、ロープウェイとかケーブルカーとか通ってる山の南斜面(つくば市)を観光した。

が、今回の西側からのコースだと、途中に「薬王院」という山寺を通る。地図Q
今回のルートは桜川市から山頂近くを通って、石岡市に抜ける事になり、メインの観光地として賑わう「つくば市」の領域には入らない。

山を登る途中に見下ろす下界
山中の滝不動らしき祠

将門が良兼軍との戦いのために山中に入ったのも、この西側からか、もうちょっと北側からかもしれない。
この一連の戦いを「服織営所の戦い」あるいは「弓袋の戦い」などと言う。
時期は承平7年(937)の秋頃から冬にかけて。

将門は、良兼陣所のある「服織の宿」(石岡に抜ける折に近くを通る)周辺を焼き払い、筑波山に逃げ込んだ良兼軍を追い掛けて、この山中に入ったという。

山中に分け入り、祠の傍を流れる渓流(パノラマ2枚)

が、この広大な山中における互いの持久戦の様子は、「将門記」からも「物凄い消耗合戦」という感じを受けずにはいられない(^^;)。。どうも真冬が来るまでやってたような……(汗)。。

だからここを原作で、意外と軽い調子で通り抜けるのが意外なんだが(^^ゞ、ドラマになると、ここにポイントを置かず、いっそズバと「斥候の報告」で過ごし、そこに至る前段階の内に、原作には無い郷民の武装蜂起を盛り込んで全体を成立せしめていた。

この戦いは、変な戦い(笑)。
全体としては将門がせっせと攻め、相手はせっせと逃げつつ、その途中、将門が「書状を書き送った」とかいうんだけど……(^_^;)。。

何かそういう所が、海音寺潮五郎をして「敵はただ逃げ惑うだけなのに、将門は前に負けたものだから、これも作戦だろうと生真面目に焼き払い、生真面目に追撃し、見付けると生真面目に勝負を申し込む」とかいう具合になり、良兼軍はと言えば、見付けられ勝負を迫られるたび、「ちょ! 違っ……あ、あと5分待ってヽ(^^;)」とか言いながら山中からグズグズ出て来れず、呆れた将門が帰ってしまう下りになったのかも(笑)。



<桜川市、筑波山「薬王院」、1>

山頂はまだまだ遠い(^^ゞ
しかし山頂に行く前に

「薬王院」に行ってみる(^^)
小高い寺の裾を洗う新緑の脇を通り

←段下から見える山門 ↓坂を登って廻りこむ

あ、それでこの辺りで断っておくと、「薬王院」というお寺の敷地に良兼の墓があるゲに聞いたのだが、残念ながら見付ける事ができなかった(^_^;)。。お寺の方に伺ったらご存知なかったので、ここではないのかもしれない。

時代劇専門chのアナウンスでは墓を「大日窟」と言い、桜川市となっていたから、この辺りにも伝承される墓があるのかもしれないが、良兼はこの戦いで死んだというわけではないから、墓があるとしたら本拠の上総にある気もする。

だから、ここから今回のラストまでは、将門の事とは無関係に「薬王院」のレポを行なう。
ちょっと5月の観光気分も味わおう(^^)。

凄く大きなワラジ(^O^)
古めかしく立派な山門

ここは「椎尾山・薬王院」と言い、延暦元年(782)最仙上人の開祖によると伝えられる天台宗のお寺(^^)。
桓武天皇の祈願所だったとも伝えられる。

楼門・薬師堂・三重塔などの伽藍が樹林の中に配置され、本尊の薬師瑠璃光如来像は鎌倉時代の作で、県内三塔の一つに数えられている「三重塔」と共に、県の文化財に指定され、樹齢500年と推定される椎の大木は、寺のシンボルとなっている。

生々しく睨み据える龍神
山門の向こうは石段

山門(仁王門)には仁王像が納められ、江戸時代の元禄元年(1688)、この上にある三重塔も作った大工棟梁・桜井(瀬兵衛)安信により完成した。

山門の前を通り過ぎ、庭園風の石段を上がってみる(パノラマ2枚)

関係ないと言いながら、全く関係ないとも言いがたいので、やはり補足すると(笑)、この「薬王院」は、寺の敷地を含む近辺全体の森が非常に広範囲で、ここを北限とするスダジイ(椎の木)は樹齢300〜500年とも言われる大木を含む樹林をなし、2.6ヘクタールの区域内に、スダジイの他、クスノキ、ケヤキなどの大木が満々と豊かに広がり、108科395種の植物、37科111種の動物のバランスが保たれ、こうした貴重な山林を保ち持つ社寺としては珍しい。

こうした樹林は、防炎林や水源として地域を補助して来たとも思われ、スダジイはその実が飢饉などに際し、農民の命を繋いだと伝承されるため、歴史的にも重要な意味を持っていると見られる。

……将門達が繰り広げた攻防劇が、この社域周辺だったとしたら、それが彼らの命を救ったとも、だから攻防が長引いたとも思えて、複雑な思い(笑)。

登り切ると右に本堂の屋根
左に小さなお堂が見えて来る

←さらに左には三重の塔。立派だった!
↑右に並ぶ本堂。この前を通ってもっと右に展開する庭園に歩きがてら↓

右を見下ろすと……
さっきの山門から登って来る石段と合流(^^)

三重塔は、38世学頭本考、39世尊孝が、大工棟梁・桜井(瀬左衛門)安信の手により宝永元年(1704)に完成させたもの。色彩豊かな装飾建築で、桜井安信は、この8年後に著名な成田山・新勝寺の三重塔を完成させており、連続性を見る意味でも重要な建造物。

本堂は数度の火災を経て、現在のものは延宝8年(1680)に完成した。本尊薬師如来坐像、因陀羅大将立像など指定文化財を多く納め、内陣小壁の彫刻、彩色画ともに美しいという。

以上、関連事項は、
2002年9月本文より
2005年3月<神田明神>
2005年10月<増尾城址公園(千葉県)>内
2005年11月<将門神社>
   〃   <うなぎロード(印旛沼〜宗吾街道)>内
2005年12月<初詣2「神田明神」>
2006年8月<泉「三夜堂」と「おせし様」>
2006年9月<東京・神田明神>
2007年1月<太田図書の墓・臼井妙見社・円応寺・ウナギ(^。^)>内
2007年5月<筑波山神社>内
2007年8月<神田明神「天野屋」>内・<神田明神と将門の首塚(芝崎道場)>
2007年9月<手賀沼周辺散策・古墳と川べりの風景>内
   〃   <松ヶ崎城跡(柏市)>内
2007年11月<久留里城>内
2008年2月<「多賀城」政庁跡と城前地区>内以降

2008年6月〜「作品の広場」内「将門雑記(風と雲と虹と)」
2008年8月<史跡と順路について(@テキトー画像:笑)>以降




次回は、やや脱線したままで恐縮だが(^_^;)、この「薬王院」の庭園から始め、「将門ツアー@茨城」第三弾、最終回。
「服織営所の戦い」の後半から入って、いよいよ「天慶の乱」に突入。常陸国衙跡・鎌輪・古河・そして再び坂東に戻って来るルートをお届け予定ぃ〜っ!

2008年09月15日

<つづく>
 
     




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