<2013年・城主のたわごと6(5)月>




2012年11月群馬レポD3日目、山頂「大洞赤城神社」(^^)。

「三夜沢赤城神社」「上泉城跡」「二子山古墳」「総社神社」など!




     
  月越えとなってスイマセン(^_^;)。
前に同じ事やった2011年を見たら、「6(5)月」としているので、取り合えず前例に倣った。

「上下毛編」レポも第五弾(^^)。前回から3日目に入り、朝に宿を発って一路、赤城山の山頂を目指して、せっせと(車で)登って来た。

今回は、山頂「赤城大洞神社」参拝。午後からは中腹の「三夜沢赤城神社」、さらに前回行った大胡に近い上泉では、前回の大胡城跡でも話に出た、上泉城跡の江戸期における郷蔵と、上泉秀綱(信綱)の墓所を見学(^^)。

夕方にかけて前橋方面「二子山古墳」と、市の中心地「総社神社」を見学してる所で……残念ながら日没(>_<)。。
蒼海城跡のある「宮鍋神社」は、暗くて殆ど写真に写ってない。。
そして3日目の宿、老神温泉方面に向かう高速道路の途中で、<つづく>(^_^;)ゞ。

話は前回、大胡城から始まった「神道集」の続き。
前回は、赤城山の宿から「赤城大明神の事」をスタートしたが、今回はそのフィナーレ。舞台でもある赤城山は大沼、小鳥島の「赤城大洞神社」で話したい(^^)。

続けて、三人姉妹の末娘、伊香保姫の話を続編的に綴る「伊香保大明神の事」に入る。
前回と同様、普通レポが【】、神道集」についてが【】、赤城大明神の事」(上野国勢多郡鎮守赤城大明神事)のストーリーを【で書いて行こうと思う。

前回は途中に挿入の覚満大菩薩の事」(上野国赤城山三所明神内覚満大菩薩事)を【橙】の字で綴ったが、これは前回終わった。
今回は代わって、伊香保大明神の事」(上野第三宮伊香保大明神事)を【紅】で書こう(^O^)。
そして、いよいよ赤城神社へ参拝となるので、普通レポと区別して、赤城神社に関しては【茶】で書く事とする。



<赤城山頂“大沼・小鳥島”「大洞赤城神社」>

前回から赤城山ドライブしている(^^)。
赤城山は、上毛三山(赤城山・榛名山・妙義山)の一つで、標高1820m余。

お天気が素晴らしく良く、良過ぎて明暗がキツイので(^_^;)、写真は所々、暗い所だけ明度を加えた所もある。

道路は前回寄った小沼(地図A)から山頂の大沼の東岸(地図B)へ向かっている。

相変わらず白樺林が続いている(^^)→

これより向かう赤城山頂の大沼には、小鳥島という沼に突き出た半島があり、「大洞赤城神社」が祀られている。

「赤城神社」の由緒は古い。
大沼の小鳥島には、「第十代・崇神天皇の第一皇子、豊城入彦命が東国経営に赴き、上野国に入った時には、すでに山と沼の霊を奉斎されていたと伝えられ」と書かれている。

「崇神天皇や豊城入彦命の頃」は西暦どれぐらいか未だにわからないし(^_^A)。崇神天皇の頃とか云うのも、わりとどこでもよく使われてる由緒であるが、この豊城入彦命の東国遠征は、『古事記』『日本書紀』にもあり、古代の上毛野氏が先祖として祀る神である。

ここ上野国(群馬県)では赤城神社の祭神であるが、下野国(栃木県)では、宇都宮二荒山神社の祭神で、こちらでは下毛野氏の祖神として祀られている。(上下の毛野氏は、古くに別れた同族と見られている)(2012年6月<宇都宮二荒山神社>内


やがて左に湖が見えて来る
右は霧氷に覆われる黒檜岳

↑まず、旅館やレストラン、お土産屋さん街が手前に待ち構え、小鳥島の「大洞赤城神社」はその奥に控えている。
昭和45年(1970)ごろまでは、手前の、この観光地街の方に神社があったようだ。(地図Cヤフー

この赤城山に来たのは、私の記憶の中では一番古い旅行だが(^_^;)、確かにこの後に見る風景は記憶に無い。
ちょうど変わり目か、その前の神社の風景を見たのだろう。

移転の経過については後に続けるが、そういうわけで、今このドライブコースを行くと、先に観光地が拓け、後に神域に入って行く景観がゆっくりと楽しめるようになっている(^^)。

まず遊覧ボートが並ぶ岸辺を通り(^^)
やがて神社の赤橋が見えて来る

由緒の続きを行こう(^^ゞ。
後で行く中腹の「三夜沢赤城神社」(地図M)からは、500年代の土器が発掘されており、祭祀に使われた鏡や剣の模造品、そして信仰対象だった巨石も発見されて、赤城神社の神が、先史時代から信仰されていた事が伺われる。

前回、ここに来る途中の「地蔵岳」の説明をする中でも、


現在はこのように車道があって、山頂の大沼まで楽に行けるが、昔は、前夜も宿に行く前に通った、遥か麓の「三夜沢赤城神社」が、県内70社近くある「赤城神社」の大元であった、と見られている。

と書いた。昔は山頂までおいそれとは来れないから、中腹の三夜沢赤城神社が「里宮」の役割を果たしたと思われる。
こちら「大洞」は、それでいうと「元宮」(奥社)という事になろう。


広く豊かな水を浮かべる「大沼
やがて神域、大洞「赤城神社」に到達

こちら「大洞赤城神社」の「大洞」は、言い伝えでは、大同元年(806)に、神庫山(後の地蔵岳)から遷宮されたので、創建された年号にちなんで名づいたと由来されている。

大同年間というのも、わりとよく使われてる創建由緒であるが、この「大洞赤城神社」からも、平安〜室町期の銅鏡が発見されており、古代に行なわれた「埋鏡」「納鏡」の習俗が伺えるという。


以上から、「三夜沢赤城神社」のみならず、この「大洞赤城神社」においても、「神道集」の編纂された南北朝時代より前から祭祀されていた可能性は充分ある。

前回も書いた通り、「赤城大明神の事」における赤城姫が、赤城山の沼の竜神「ロ奄 佐羅摩(オンサラマ)女」に、「後継者」とされている。
つまり赤城山信仰のみならず、赤城山の大沼信仰自体も、もっと古くからあったと認める記述に思える。


←このように沼水を隔てた向こうに陸地をなすのが「小鳥島」で、現在はその上に立派な社殿が建造されている。

現地の由緒には、「古代の自然神は、赤城大明神と沼神の赤沼大神として祀られたと考えられる」「皇子・豊城入彦命が上野国に移られた時、すでに山と沼の霊を奉斎したと伝えられ」とある。

さらに、「允恭・用明・両天皇の御守社殿を創設し」とした後に、「平城天皇、大同元年(806)に、山頂大洞に神域を定めて遷座奉斎すると伝えられる」とあるのが、先に山頂にあった神を、この沼地に移した事に繋がるのだろう。

このように、古来より赤城大明神が祀られた事、朝野の崇敬を受けた事、神仏習合期には修験者たちにより修行の地とされた事など、長く赤城信仰の中心社とされた事が伺える一方で、「赤城」の名は、鎌倉の三代将軍・実朝が歌に初めて現したのだとか(゚.゚)。
万葉集にもその存在を示す歌はあるようだが、「赤城」の名は無く、古名と違うのか、単に中央に伝わってなかったのか……。


それと前回も述べた通り、古代においては二所信仰であったのが、後の地蔵信仰の発達により三所となった事は、「神道集」から窺い知れる。
古代の山信仰は、夫婦や父母に見立てたりで二所である事が多いから、ここもそうだったのだろう(^^)。(2013年4月<地蔵峠・小沼・黒檜岳の神仏譚>内


小鳥島に繋がる一帯に駐車場。ここから沼地が散策できる(パノラマ5枚180度以上)

この駐車場が、物凄い暴風地帯で(^_^;)、「さすが赤城颪(あかぎおろし)」と思った(笑)。
停まってる車ごとボワンボワン揺れて、車から外に出た途端、車内からバーッと何か飛んでいく風景や、歩きながら上着だかタオルだかが飛んで行ってしまう人とか、スゴイ光景が展開されてた。

亭主は暴風にもメゲず、車から降りるや、展開する山々の霧氷に「見てごらん!」と声をあげた。
ちょうど駐車した車の後方だったので、降りないと見えないからだ。青々と輝くような湖を囲む、真っ白な霧氷の光景は、本当に夢でも見てるように珍しかった。

←黒檜岳の霧氷。朝は溶けて消えるのが、この日は珍しく残ってたそうだ。
↑湖面に近付くと、まだ浅瀬と見えて、沼底の砂や岩が見えた(^^)

中世以後〜近世も、戦国時代の前橋城主をはじめ、天正18年(1590)の平岩氏、慶長6年(1601)の酒井氏から、それぞれ崇敬を受けた。

江戸時代には、徳川家康を合祀して相殿に祀ったため、将軍家をはじめ諸大名の信仰いよいよ厚く、大洞の赤城神社として山麓諸村の信仰によって守られた。


赤城山は家康を祀ってる日光と世良田の間にあるし、「権現」は典型的な神仏習合で神道集の世界そのものだから、抵抗なく家康を合祀したのかな(^^ゞ。

寛永18年(1641)3月の山火事によって類焼したが、三代・家光は寛永19年(1642年)、焼失した社殿の再建を命じ、幕閣の大老職・酒井雅楽頭忠清も社殿を新造営し、併せて神田を寄進した。

その後、松平氏もまた寛延2年(1749)に崇敬を表し、毎年祭祀料を献し、奉幣使の派遣を例としている。


沼を囲む石は、断面が滑らかに黒光りしていた↓
小鳥島への歩道を入る→
左が大沼の中海、右に社殿が見えて来る。正面に先ほどの赤い橋。

明治時代、観光客を迎えるようになると一層有名になったが、荘厳な社殿も、300年以上にわたる高冷地の厳しい自然条件による社殿の損傷が激しく、次第に社殿が老廃・荒廃したため、明治43年(1910)に造営が企てられた。

これが成功せず、次いで昭和10年(1935)に再度計画されたが、実現を見ないまま終戦を迎えた。
昭和28年(1953)、激増する観光客と開発を含めて、宿願であった御造営事業に着手したが、赤城山全域の開発計画となるため、資金調達の目途も立たなかった。


真っ白な霧氷の山々、真っ青な空と湖、真っ赤な紅葉(パノラマ4枚180度以上)

昭和40年(1965)、新たに神域を、ここ「小鳥ヶ島」に移す議が起こる。
長い間、神鎮まる社地を移すについては、賛否両論が戦わされたが、決定を見て、昭和45年(1970)、旧社地大沼南畔の大洞より、現在地である小鳥ヶ島(地図B)に神域を奉遷し、社殿を再建した。


元々神社があった場所は、さっきも言った通り、今は旅館や土産屋、レストランなどがある辺りのようだ(^^ゞ。(地図Cヤフー

平成18年(2006年)「大洞御遷宮1200年祭」が斎行され、社殿の修復と境内整備工事を行うことができた。
今後も引き続き境内整備事業を行う計画であるとして、内外へのご協力を求めていた。


神仏習合と言うよりは、アルプス、マッターホルンな雰囲気

しかし、赤城姫や淵名姫といった女神に象徴されても、「アルプスの少女ハイジ」ではなく(笑)、ここ赤城の神は、元は自然神である。ここ大沼と、前回も見た小沼の湖自体が「ご神体」として信仰された。

よって、この湖には「願掛け緋鯉」と言って、願いを託した緋鯉を放流し、成就のあかつきには、再び緋鯉を奉納する習わしが、古来から現代まで続いている。

特に重病や苦難からの回復を託された緋鯉を釣ったりすると、願いを破るとともに、祟り鯉とも呼ばれるという。
そのため、人々は鯉に餌を与えて丁重に扱い、幸福を願って来た。


←神の渡りそうな赤い橋も綺麗だけど
↑右側の紅葉も鮮やか( ^^)//<パチパチ

ヨーロッパではないが(笑)、本当に美しい景色で、この沼地の景勝が、美人三姉妹のお姫様の物語として語られる理由が、現地に来ると納得する(^^)。
あちこち観光ガイドでも、「女性の願いが適う」「美人になる」「美人の女の子が生まれる」とご利益が謳われている。

というわけで、だいぶ間が空いたが(^^ゞ、前回に綴った「赤城大明神の事」@「神道集」の続きに入ろう。
前回は、悪い継母の「更科の後妻(継母)」とその弟「更科の次郎」の悪行が暴かれ、死に至った所までやった。
(「神道集」については、<大胡城跡、2(続き)>内以降】の字を、「赤城大明神の事」@は<赤城温泉(^_^A)>以降】の字を)

〜「神道集」〜赤城大明神の事(つづき)上野国勢多郡鎮守赤城大明神事
上野国司(姉妹の兄)は、父(高野辺の大将)と妹(淵名姫・赤城姫)の亡くなった場所に「淵名明神」の社をたてると、黒檜山の西、赤城の大沼にも奉幣した。
◆家族関係図◆

湖に張り出した縁側からの一望(^^)(パノラマ4枚180度以上)

すると東岸の障子返しという山の下から、鴨が泳いで来る。左右の羽の上に、玉で飾った御輿があり、淵名姫赤城姫が一緒に乗っている。二人の乳母もその後ろに添い、左右の轅を淵名家兼大室兼保が装束・冠・太刀をつけて供をする。

大沼の東岸というのは、ちょうどこの向き(^^ゞ。淵名姫と赤城姫がやってくるのが見える?(笑)
淵名家兼、大室兼保というのは、前回、更科の継母の弟、更科次郎に騙し打ちにされた、姫様の乳母の家の人(乳母の息子なんじゃないかな)。みんな成仏&神上がりしたんだね!

紅葉の奥には社殿が見える
途中の通路から社殿に出てみよう

小鳥島の東岸から、今度は西岸に出て、大沼の中央にも行ってみよう(^^)。

兄と妹二人はすがりつき、泣いて懐かしみあい、妹は神通力を得た事を告げて、兄を仲間の神にすべく誘う。
そこにも紫雲に乗って下り、ありがたい説教の後、「嘆きも恨みも持たず、多くの幸せを考えるように」と説き、56億7千万年後に弥勒が現れ、三回説教をする機会にめぐりあえ、そのうちの一回が聞ける」と約束して、昇天する。二人の妹も沼に帰った。
◆家族関係図◆

通路の途中に見える太鼓橋風の渡り廊下(^^)。
振り返ると、東岸に浮かび上がる黒檜岳など連山の霧氷が一段と映える→
前日に増す快晴で、明暗の差が激しいが(^_^;)。

国司は来世まで神の威徳を示すべく、二人の姫を先導してきた鴨に、留まるよう願った。
鴨は承知して大沼の中に残ったので、これを「小鳥島」と呼ぶ。

以上の通り、この「小鳥島」(小鳥ヶ島)という呼び名は、「神道集」の成立した南北朝時代には、既にあった事がわかるんだね(^^)。

←拝殿。通路の出口、右奥に↓

かつては徳川家康を祭神として合祀していた、というのが、この「大洞赤城神社」の社殿、つまりコレだろうと思うが、今あるのは、恐らく戦後(1970年)の遷宮時に再建された物じゃないかな(^^ゞ。

ただ、さっきの経過で知る限り、江戸期の焼失後も速やかに再建されたそうだし、明治以後も、「老朽・荒廃」とはあるが、「亡失」「撤去」の字は見なかったので、修造か旧材を一部再利用とかかもしれない。

祭神 赤城大明神 磐筒男命 磐筒女命 豊城入彦命 経津主命 大己貴命
    徳川家康公 大山咋命 高竈命 市杵島姫命 豊受大神 建御名方命
祭日 5月8日 山開祭 境内地神域 1万4800坪
    8月8日 沼神祭 社殿建坪 38坪
    10月1日 秋祭 社務所参集殿 93坪

そして通路の向こうは、小鳥島西岸の広大な大沼(パノラマ2枚)

国司が帰りに小沼を通ると、父の高野辺の大将が現れ、子らの行く末を見守っている事を伝える。
国司も涙を流し、大沼と小沼に社を建て、名残りを惜しんで3日逗留したので、「三夜沢」と呼んだ。
◆家族関係図◆

前回、この「小沼」を見学して、そこでも述べたが、父の高野辺の大将が死後どうなったか(どこの神となったか)記されず、この段まで来て改めて、あの「小沼」に魂が宿って(鎮座して)いる事が知れるわけ(^^ゞ。(前回2013年4月ここからここまで

さらに、その後に出て来る「三夜沢」は、この後に行く「三夜沢(みよさわ)神社」(地図M)に相当するかと(^^ゞ。
さっきも説明した通り、ここ「大洞」を山頂の元宮と見立てると、里宮に当たる中腹に位置する、全国「赤城神社」の総元締的な社。


←西岸は地図で見ると、鈴ヶ岳というのが遠いが高そう。あとは前回も見た地蔵岳が近くて高い。
↑湖の前に御手水を持って来て、アップで写すと、龍神が水面を泳ぐように見せる演出はなかなか(^^)。

赤城姫を後継者に指名した沼の龍神「ロ奄 佐羅摩(オンサラマ)女」の神霊が宿っているに違いない(^^)。(前回この辺からこの辺まで

ただしこの位置に社殿があるのは、今回冒頭から述べて来た通り、昭和45年(1970)以降ね(^_^;)ゞ。

旧社があった場所もそう遠くはないから、周囲の景観は殆ど変わりが無かろうし、旧社でも湖の前に龍神の御手水を置くぐらいの事はあったかもしれない。
そして社殿の遷し替えについては、ずいぶん論争も戦われたようだから、昔の威風も良かったのだろう。

ただ、こうして新しい神社しか知らないから、遷宮前と比べる事は適わないが、こうして淵名姫と赤城姫の話をして来ると、「小鳥島に遷して良かったのでは」と思う(^^ゞ。
入って来た中州から一呼吸置いて、中州とは違う、大沼の湖面の広さと雄大な眺めを、改めて味わう、という造り方が優れて感じられる。

さらに大沼の岸辺に近付く(パノラマ4枚180度以上)

↑から、小鳥島を振り返ると↓(パノラマ5枚180度以上)

国司は伊香保大夫の館にも来て、伊香保姫(末妹・三女)とも再会した。
感激でしばらく言葉も無かったが、兄は都に戻る前に、国司の職は伊香保姫に与えようと言い、伊香保大夫を後見とし、国の行く末を託した。
伊香保大夫の夫婦も、姫の養育と、国司の妻の弟・高光少将を姫の婿に迎え、国司職を果たす事を約束した。

有馬は狭かったので、伊香保大夫は自在丸という所に御殿を建てた。
上野国の総社として現在神社のある所が、伊香保姫の御所跡である。


以上で、「赤城大明神の事」@「神道集」の話を終える(^^)。内容については後に続けて書く。

「デッカイどー!」@こたつ城主(笑)
小鳥島の多宝塔

↑実際には、スゴイ風力なので、飛ばされないよう頑張ってる感じ(笑)。

小鳥島の多宝塔」は、さっきも言った、平安〜室町期の「埋鏡」「納鏡」が、この地中から発見された場所。左は五輪、右は菩薩だったと思う。
この周囲には他に、「志賀直哉文学碑」や「歌碑」などが建っていたが、だいぶ磨滅ぎみなのと、草書なので読めなかった(^^ゞ。

龍神の手水舎や売店の上には……
黒檜岳の連峰に架かる霧氷(拡大)

最後に出て来た伊香保姫(三女)のその後は、この後に続けて、同じ「神道集」から「伊香保大明神の事」を紹介するが、題名の通り、伊香保温泉地図D)が出て来るのみならず、かなり上州のアチコチ広い範囲が出て来る(^_^;)。。

これまで話して来た中でも、伊香保大夫のいる「有馬」というのがどこなのか判らないが、渋川の方に「有馬」という地名があるにはある。(地図Eヤフー
最後に「有馬が狭いから」として出て来る、「上野国の総社」も、平安期から今に至るまで前橋にあって、今回の最後の方に行く(地図F)が、そこの事を指しているのかは判らない(^_^;)。。

あとこれまでも気になってたんだが、上野に戻った国司が「淵名明神」の社を建てた場所が、「二人の姫の亡くなった場所」という事だが、赤城姫(次女)は赤城山で亡くなったが、淵名姫(長女)と高野辺の大将(父)は利根川倍屋(ますや)ヶ淵で亡くなったハズ。
◆家族関係図◆

「倍屋ヶ淵」がどこかよくわからないが、利根川である以上、この界隈ではないし、伊勢崎市淵名神社というのがある(地図Gヤフー)ようだが、関係あるのかわからない(^_^;)。。


↑の売店で買い物して、アルプス風景の中を戻る(笑)
↑売店で買った「上州おやき」。これが長野などで食べる一般的な「おやき」と全く違う食べ物でビックリ(*o*)!

信州で食べるような餅皮ではなく、見ての通りアツアツのパン生地。
野沢菜入りを買ったんだが、これも信州おやきや中華饅みたいに、中央に具がまとめて入ってるのではなく、パンの所々に織り込んで焼いてある。

信州おやきが大好きで、行くと一回は買っちゃうぐらい好物なんだが、この上州おやきも個人的に好みの食感で、信州おやきより気に入ってしまった(笑)。

あと、この売店で、群馬入りしてから初めて「熊除け鈴」を見付けた(≧▽≦)!!

お値段はそれなりしたが、それまで持ち歩いていた風鈴(夏物)や飾り(クリスマス用品@100円ショップ)より小型で、携帯しやすく、音はもっと遠くまで響く音色で、そのくせ近くでは耳障り過ぎず、「これぞ熊除け鈴の決定版!」という感じがした(笑)。



<大沼南岸の観光街と「忠治うどん」(^。^)>

昼時を過ぎた。元、大洞赤城神社のあった、現在の観光街まで戻るとしよう。

道を戻ると、程なく入口の観光街に到達↓
駐車場をド〜ンと蓋するような背後の山壁→

地図Hヤフー ←お昼を食べたお土産屋さんに充ててる。旧・大洞赤城神社跡も近い。

右の大きな山の写真は、お土産屋さん、旅館、レストラン、定食屋さんなどの、大きな集合駐車場で、モロ山の裾野が壁となって立ち塞がっている。

この山に蓋をされる手前が観光街で、右手に少し行くと、「旧赤城神社」(たぶん今は石碑とかあるのみじゃないかな(^^ゞ)だけど、地蔵岳駒ケ岳という、どちらもデカイ山の影にあって、いかにも風と寒さに晒された一帯なので、この辺りにあった旧社殿の傷みが激しかったのも頷ける(^_^A)。

南に立ち塞がる赤城の山々
北は大沼の南岸と観光施設

↑この「青木別館」というのは、もしかしたら最初にテレビで見た「青木旅館」の別館かな(^^ゞ?
真冬の氷の下からワカサギ釣りをするため、多くの釣り客で賑わっていたのが、原発の放射能汚染問題でワカサギ食用が禁止になったという報道を見て知った。

でも、その後は解禁になって、今はだいぶ経つように思う。
この時も、もうワカサギ定食が食堂に出されていたよ(^^)。我々もお腹が空いたから、一番湖に近い食堂に入った。

←(拡大)青々とした大沼を目の前に入ったお店で
↑お昼の「忠治うどん」(^O^)! 地場野菜と味噌汁風味のお汁がタップリ入って、アツアツ!( ^,3^)ф´

さすが上州空っ風の本場、赤城山。この「忠治うどん」の威力に脱帽した。
暴風にバンバン吹かれた後、体の奥底まであったまる汁で本当にホッとさせられ、いつまでも食べ続けていたい味だった(≧▽≦)!

それと……そう! 赤城山と言えば「国定忠治」!
観光街の一郭には顕彰碑も建ってて、各お土産屋さんの中には、記念撮影用の三度笠や合羽が置かれていた。

忠治の人気は、一般的には「義侠」という点にあるとは思うが、あまりに有名すぎて、どこまで創作か歴史かも判別つかない。
「赤城の山も今宵限り〜可愛い子分のてめぇ達とも」とか、局所の名場面・名台詞ばかり知ってて、結局どこに特徴があるのかよく判らない(^_^;)。

ここの顕彰碑には、国定忠治の生涯の概略が書かれてるし、それは私も手持ちのガイドで、ざっと読んだが、どこで抗争したとか誰の縄張りが云々という話は、細々やると意外とボリュームがあって、返って「単なる渡世人」に過ぎない感じが濃厚になる(^_^;)。。

国定忠治像「忠治肌ぬぎ地蔵尊
(拡大)

ただ、群馬に来ることになっから、改めて私が手持ちガイドで「ふ〜ん(゚.゚)」と思ったのは、逮捕容疑が「関所破り」で、これが「江戸時代には重罪」と強調されていた点だった。

それは実際に関所破りが行われた、ここよりずーっと西の「大戸関所跡」(地図Iヤフー)の史跡紹介記事だが、ここ赤城山に来ると、その「関所破り」が「忠治の罪歴の中で一番重く、逮捕できれば磔刑に出来るから採用された」という理由だった事が知れた。

つまり、それだけ忠治に寄せる人々の信頼・応援の思いが強くて、みんなが庇うものだから、なかなか捕まえる事が出来なかったと、これこそ国定忠治の一番謳われるべき点だろう。
もちろん最期には磔、つまり刑場の露と消えたわけだが、長い抗争劇や罪歴、逃走劇は全て省略させて貰い、そこの部分だけ提示させて貰う↓

常に木綿の粗服で通し、堅気衆や農民と道で出会うと、小腰をかがめて道を譲ったという。
庶民百姓を愛し、賭場の寺銭は民衆の為に消費施した。天保大飢饉の時の救助米の手配や、用水池の底ざらい、修理または水争いの仲裁など、世の為人のために尽力した。
島村の伊三郎を斬殺してより15年余、各地に潜入出来たのは、誠にその人徳の賜である。

赤城颪に揺れる大沼を見ながら、忠治うどんを食す(パノラマ3枚ほぼ180度)

赤城颪の凄まじさには、ホントに参った(^_^;)。。
この土産屋の大きな窓ガラスからも、空高く何か飛んで行く光景がよく見られた。

この定食屋さんには、群馬県の県民性と題して、色んな事が書いてあるプリントが置かれていた。
……どれもこれも良くない事ばかり書いてあって、ビックリした(・・;)。。。
普通、ヨソから来る人に自分の県を悪く言わないと思うんだけど(笑)。

こたつ達は気持ちよく旅行し、土地の人にも親切にして貰ったから、写真には撮ったけど載せない(^_^;)。
ただ一つだけ、よく群馬の女性を「かかぁ天下」と云うけど、それだけは元の語源が書かれてたので……。

「ウチのかあちゃん天下一」が、「かかぁ天下」になっちゃったんだって(^_^;)。。それが長々と誤解されてるようだ(苦笑)。

ここの食堂で、黒檜嶽などの頂上が真っ白なのは、積雪ではなく霧氷だと教えて貰ったのだ(^^)。
さらに前夜カモシカに遭った話をしたら、「よく出るんですよ〜(^^;)」と、日光と同じ鹿やカモシカの食害(樹木の皮を身ぐるみ食べ尽くしてしまう)の話をしてくれた。
かなりスゴイ被害らしく(^_^;)、山まるごと枯れ木となってしまう程だと聞いた。。

みんな! 鹿を食べよう! 食べないと山が枯れてしまう!\(>o<)/
鹿は低カロリーだし、牛より食感も風味も抜群に美味しいよ!

(地元の猟銃ボランティアの後継者や人件費の不足問題にともない、ジビエ料理など通し、食肉化の動きが広まっています。スーパーで買える程には至ってませんが(^_^;)、食す機会に接した時は、なるべく食べて応援しましょう。人が食べないと、ただ埋められるだけです)



<赤城山頂から中腹(三夜沢)へ>

さて、↑に向かう途中、ちょっとは進めておこう(^^ゞ。

〜「神道集」〜伊香保大明神の事上野第三宮伊香保大明神事
題名の通り、やがて伊香保温泉が舞台となるが、まず伊香保には今回の旅行では行ってない(^^ゞ。
ただ「神道集」に出て来る話はインドや中国まで含め(^_^;)、京に行ったり箱根や伊豆が出て来たり、四国や近畿など日本じゅう出て来る。

上州(現在の群馬県)についてもかなり広範囲で展開されるようだが、上州についてのみ不自然なほど詳細な地名が出て来る。今と合致してる地名もある一方、前述の通り、よくわからない所も多い(^_^;)。。
よって画像の場所にこだわらず、話を進める。


登りにも見た眼下の市街
登って来た山道を今度は降りて行く

高光中将(「赤城明神の事」では「少将」で終わってるが、出世したのか、「中将」で始まっている)と結婚した伊香保姫には、が一人生まれた。
高光は都に上りたかったが、この妻娘とも別れづらく、前の国司で、伊香保姫の乳母と夫婦の有馬伊香保大夫の元で暮らしていた。
◆家族関係図◆

伊香保姫は、父や姉の供養のため、淵名社へ参詣した。
その帰り、狩の最中だった今の国司・大伴の大将が、輿の簾の合間から伊香保姫を一目見て、恋に陥り、求婚の文を送ったが、もちろん姫は取り合わない。

前夜、一気に色付いた紅葉が素晴らしい(^^)

大伴の大将は国司の地位を笠に着て、大勢の家来に命じ、伊香保姫を奪い取ろうとした。
伊香保大夫は、(前回も活躍した)九人の息子三人の婿を立てて防戦したが、現職国司の兵力は大きく、有馬は狭いため、火攻めに抗しきれず、伊香保姫と姫君、その乳母たる自分の妻と、娘の石童御前有御前の姉妹、計5人の女を連れて、群馬郡白井伊香保児持山へ入った。


伊香保温泉(地図D)、渋川の有馬(地図Eヤフー)・群馬県白井「白井城跡」(地図J)・子持山(地図Kヤフー

高光中将(37歳)は深傷を負い、伊香保太郎宗安(伊香保大夫の息子だろう)が背負って、ともに猛火に飛び込み、都から供をしてきた武士たちも多く討たれたが、大伴の大将の軍勢も多くが死んだ。

やがて中腹に至り、そろそろと三夜沢の参道に到達(^^A)

伊香保大夫は、女性たちを赤城山と児持山に預けると、上京してに拝謁し、事件を報告した。
帝は「高野辺の大将の時も、更科の継母の事件と言い、主君を助けた志は立派で、これほど優れた武人はインド・中国にもない。伊香保姫には国司の職を与え、その姫は私が面倒を見るから、都へ上らせなさい」と言い、伊香保大夫には、国司代理を勤めるよう申し渡した。

五人の女性は無事に国府の庁に入り、姫君は宮中に召されて更衣となり、皇子を生んで、国母(天皇の生母)となられた。
◆家族関係図◆

東国ながら京の帝や貴族の子を産む話は、信州戸隠の「鬼女紅葉」の物語や、上州だと、沼田や名胡桃に行った折、月夜野の如意寺(地図Lヤフー)で、沼田氏(真田の前の領主)の姫が帝の子を産む話があったのを思い出し、しみじみ京との縁深さを感じさせる(^^)。(2005年6月<如意寺>

伊香保姫の話はまだ途中だが、事件は解決を見て一段落(^_^A)。



<赤城山中腹「三夜沢赤城神社」>

到着(^O^)、「三夜沢赤城神社」大鳥居
入って右に池

地図M。正面・大鳥居にも到着したので、これより「三夜沢赤城神社」の説明&レポに移る。

「大洞赤城神社」でも述べた通り、ここ「三夜沢赤城神社」こそが、全国各県の「赤城神社」の総本社。
案内板によると「各県」とは、宮城・福島・茨城・栃木・群馬・埼玉・千葉・東京・神奈川・新潟で、群馬県で78社、全国の総数は300余とある。

鳥居を潜ると早速右にあらわれる池は御手水でもあるが、この社の神霊を顕してもいるのだろう。

御手水(龍神の水差し)周囲の広い池(パノラマ3枚ほぼ180度)

ここ「赤城神社」は、赤城山の山頂・小沼から流れ出る粕川を、水源神(沼の神霊)とする。
ちなみに、前回、この粕川の上流「三途の川」辺りを通ったレポ→2013年4月<地蔵峠・小沼・黒檜岳の神仏譚>内

古い史跡ガイドには、加えて、「黒檜山に象徴される雷神」も書かれているので、沼と山の両方を自然崇拝の対象に見立てているのだろう。

龍神の御手水と山頂からの水が、赤城の沼の龍神「ロ奄 佐羅摩(オンサラマ)女」を思い出させる↓
正面の石段を登り、森の奥の拝殿に行く→
物凄い明暗が強く、暗い所だけ明るくした(^_^;)。

祭神は、赤城神・大己貴命・豊城入彦命と、大洞赤城神社と比べるとシンプルで、「東国開拓の神々」と総称している。

由緒によると、創建は崇神天皇の時代の上毛野君による創始。
その後、承和六年(839年)に従五位下、元慶4年(880年)に従四位上。
延喜式神明帳(神名帳)には、上野国三大明神の一つ(明神大社)に列せられる。
長元9年(1028)頃には正一位、次いで、上野國の二宮と敬われた。

←何をやっているかと言うと、杉の大木を抱き抱えている。くっつているだけに見えるが(汗)。。

大鳥居にあった境内の見取り図を見て来て、「この辺りにあるハズ!」と探したが、特に表示が無く、「どれがそうだか判らないね(゚.゚)」と、取り合えず大きいのに抱きついている(笑)。

目当ては、この神社の「たわら杉」(県指定天然記念物)で、藤原秀郷が寄進したと伝えられる物だったのだが、どうも見取り図を見誤ってたようで(^^ゞ、伝承の杉は、拝殿より奥の本殿、手前「中門」付近にあったようだ。

ただ、この境内の森は、このように大木が多数あり、他にもヒノキやアスナロなどの大木も多い。
伝承の「たわら」杉になると、樹齢1000年以上とも、1800年とも書かれていた。

←これが見取り図にあった写真。左が「たわら杉」。中門は拝殿の奥で、森が鬱蒼としてて行けなかった。

右の写真は「櫃(ひつ)石」と言う物で、一度神社を出て、1.5キロも歩く所にあるようだったので、こっちは最初から見るのを諦めた(^_^;)。。

ただ、この「櫃石」、見取り図には「古代の磐座(いわくら)信仰による祭祀場跡」と書かれるのみだったが、手持ちの本には「石の周囲からは、祭祀に用いた土器(500年代)・など石製模造品が出土し、櫃石を赤城山の神の宿る磐座として祀っていた」と、巨石信仰が行なわれた事が書かれていた。県指定史跡。

ガイドは、沼や山、雷など自然神を崇拝し、石に霊が宿るのを信仰する神域だったので、こんにち「みよさわ」と読むのを、「かつては、みやさわ、と呼ばれていた」とも説明づけている。

これらには「なるほど(゚.゚)」と思ったんだが、後で振り返ると、この「櫃石」に関連してだろうか……? 拝殿に至る森林の参道手前に、「神代文字の碑」というのがあった(^_^;)。

江戸期の平田篤胤の周囲が撰文したというんだが、対馬国「阿比留家」に伝わる「阿比留文字」なるものが、漢字が伝来する前の、いわゆる古代日本文字という説で、なぜここにあるのか首を傾げるのみだったので(^_^;)、詳細は却下(笑)。

←拝殿の直前に左へ伸びる通路が敷かれ……
↑近寄ると、石垣から天然水が灌がれ落ちている(゚.゚)。「神域から湧水で水道水のように消毒されてない」と断わり書きされていた。

話は「たわら杉」に戻るが、藤原秀郷が寄進したとされる経緯について、社の案内には、杉にかかる名である「俵藤太」を、カッコ書きで顕している(^^ゞ。
この名は、室町期ぐらいに呼ばれるようになった、藤原秀郷の異名(愛称?)である(笑)。

「たわら杉」は、「平将門について上野国府(元総社)に来る途中、赤城神社の前を通りかかった際に献木したものと伝説されている」という事だった。

説明はその後に続いて、秀郷が将門の乱を平定した事や、武蔵守・下野守・鎮守府将軍をつとめた事も記しつつ、「実像はあまりわかってない」とも書かれていた。

史実を伝える『将門記』では、イキナリ将門を討つ者として登場する秀郷(2008年10月<坂東市「延命院」>が、室町時代に成立した『俵藤太物語絵巻』では、前もって将門に面会し、ご飯をこぼしながら食べる将門を見限り、朝廷側について将門を討伐する、という物語性に満ちている。

では、ここに書かれる「将門について上野国府に来る」という話の展開は、『俵藤太物語絵巻』か、そのあたりを基にした創作物にあるのか、それともここの純粋な土地伝承だろうか(^_^;)?
将門と一緒に上野国府まで行ってしまうと、将門は新皇を称してしまうが(^_^;)、その時、秀郷はどういう行動をしたんだろう(笑)。

拝殿に到達(^^)
振り返る森林の参道

↑これでもかなり暗い所だけ目いっぱい明るくしてるんだけど、ホントに「昼なお暗い」とはこの事! 凄く深く豊かな森だと感心した!
拝殿は、この奥(裏)の中門や本殿と同じく、 明治2年(1869)の建造。

ところで、この古社として著名な「三夜沢赤城神社」に、藤原秀郷の伝承が残されているのにはどういうわけがあるのだろう。

一般的に藤原秀郷の地元と言えば、まぁ下野国(栃木県)というのが現在では妥当な見方だろう(^^ゞ。
ただ前回に出した大胡氏などは、藤姓足利氏(秀郷子孫)の流れを名乗っており、下野との近さから言って、上野国に子孫が散らばって来ていても、そう不思議ではないかもしれない。

拝殿前の樹林
拝殿の隣は「神楽殿」

藤原秀郷と上野国と下野国と、例の日光と赤城の神戦で「ムカデ」が出て来る件と、俵藤太が「ムカデ退治をした」という作り話の関連について、次のように書かれていたので、原文のまま記す。

一方、秀郷に関する伝説としては、大ムカデを退治して琵琶湖の龍神を助けた、「俵藤太物語」が有名です。

 鎌倉時代、上野国(群馬県)東部から下野国(栃木県)南部にかけての地域は、幕府の弓馬の家として一目を置かれた大武士団の拠点でした。

 彼らはともに「秀郷流」を称していましたので、おそらく秀郷がムカデ退治の弓矢の名手「俵藤太」として説話の世界で活躍を始めるのはこのころからです。
 秀郷流武士団のなかでも赤城神社への信仰が篤かったのは大胡氏でしたが、富岡市一之宮・貫前神社境内にある「藤太杉」にも同様な伝説が伝わっていることから、弓矢の名手秀郷へのあこがれは、中世の武将たちに共通する意識だったのかもしれません。

 ところで、日光の二荒山神社の縁起では、日光神と戦った赤城神ムカデの姿で表されており、起源を異にする秀郷ムカデ赤城神社が様々な伝承や説話を受け入れながら結びついてきた様子がうかがえます。
 このように、「たわら杉」とその伝説は、名も無き多くの人々の交流の歴史を伝える遺産であり、赤城神社に対する時代と地域を越えた篤い信仰を象徴しています。

やはり唱導者(遊行者)の存在が仄めかされている感じがした(^^ゞ。

神楽殿から今度は拝殿→の方を写す(パノラマ4枚180度以上)

拝殿の奥(裏手)に確かに建物群が見えはするけど、樹林ミッシリで行ける感じがしなかったんだよなぁ(^_^;)。

平安期が終わり、鎌倉時代を迎えると、「金槐集」の三代将軍・実朝の歌に、
「上野の勢多の赤城のからやしろ やまとにいかであとをたれけむ」
と、「赤城」の名が現れ、将軍はじめ武将や一般人の多くの信仰を集めた。


これまで題材にして来た「神道集」にも、「上野国一宮の事」という段に、
赤城神一宮だったが、機を織る「くだ」を貫前神に借りたので、織物上手で財持ちな貫前神に一宮をゆずり、二宮になった」とある。

案内板では、「(「神道集」の成立した南北朝の)その頃には、一宮よりも二宮の赤城神の方が信仰を集めていたから、このような伝説が起こったのでしょう」と推測されていた。


三本の「たわら杉」は↓この辺?(^_^;)?(パノラマ縦4枚ほぼ180度)

正直暗くてよく見えず、当てずっぽうで写したんだが、もし合ってたら、目通り周5.1mと6.1mと4.7m、根元周6.0mと9.6mと5.6m、樹高各約60mだそうだ。
この三本というのは、三本とも秀郷が寄進したのかな、それとも伝説のは一本だけで、あと二本は違うのかな(^^ゞ。

そして、あの奥社に通じる門が「中門」、そのさらに奥の「本殿」、ともに明治2年(1869)築造。本殿は神明造りといって、復古神道の代表的な作り。

……と言っても、我らは見れなかったけど(^_^;)、本殿の内部に秘蔵されてる「内宮殿」という品は、元々非公開のようで、先ほどの見取り図に出ていた写真で拝める。↓


←再び見取り図より、上「内宮殿」、下「中門」
↑こちらは神楽殿の裏側まで来てみた(^^)。

「内宮殿」(県重文)は、「神輿」のようだ。
前回、金龍寺などでいっぱい語った、あの太田金山城主・横瀬由良成繁が奉納したもので、戦国期の建築を知る上で貴重な物。

次の「中門」。屋根に乗る6本の鰹木と端2本(計4本)の千木が、明治復古調・神明造の特徴だそうだ。
ちなみに(見えないけど)本殿の屋根は銅板葺だとか。以上・県重文。

最後の「神楽殿」は実写ですよ(笑)。
五穀豊穣、無事息災を祈願して、1月1日、5日、5月5日に奉納される神楽は、13座が舞われる。村無形文


三夜沢神社は由良氏の他に、厩橋城主・北条氏、近世の大胡城主・牧野氏、前橋城主・酒井氏、松平氏などの崇敬を受けており、「赤城神社古文書」という、永禄3年(1560)から慶長18年(1613)まで45通、戦国武将古文書などが蔵されている。県重文。
他、大勾玉、伝・嵯峨天皇勅額。


拝殿前の窪地も、ミッシリと大木で埋まる林(パノラマ3枚ほぼ180度)

三夜沢は、山頂からひく河川、樹齢ながく大木の多い森林、櫃石のある祭祀場跡など、赤城神社の境内(地図M)を含めた広い範囲が、古代より自然崇拝と信仰の場であった点において貴重である。

境内を外に出ても、参道には松並木13.4ヘクタールの区域、3.5キロが続き、これは慶長17年(1612)、大前田村川東の彦兵衛が寄進したと言われ、約3.2キロメートルの間にアカマツとクロマツが約1200本植栽されている。
その参道というのは、我々が入った大鳥居に続く道路の事みたい。

「高麗門」(見取り図より)
これがその松並木だね

↑この「高麗門」というのも、境内を離れた所にあって、かつては赤城神社の「惣門」だった。
手持ちガイドには、「宝暦元年(1751)の建立」とあるが、現地の見取り図には、「弘治二年(1556)建立」という。どっちだろう(゚.゚)。県重文。

最後の松並木だけど、マツの間にはヤマツツジが植えられ、春には見事な開花がみられる。
このヤマツツジは特に有名らしい(^^ゞ。ちょうどこのレポ作ってる途中、テレビで見たけど、人が植えた物ではなく、天然野生のツツジだと言ってた。



<赤城山から上泉へ>

↑に移動の間、また、伊香保姫の話の続きを(^^ゞ。

伊香保大夫は、戦で亡くなった九人の息子を九所神社に、三人の婿を三所明神として祀り、伊香保山の東麓、岩滝沢の北岸・梨手の沢の(今も水梨の木がある)寺に、高光中将の遺骨を修め、群馬郡を寺領として菩提を弔った。寺坊は三百に増えて繁昌した。

やがて伊香保大夫は98歳、奥方も89歳で世を去り、二人の娘・石童御前と有御前は、伊香保姫に付き添って暮らし、高光中将の甥・恵美僧正が別当になって、寺はいよいよ繁昌。寺号を水沢寺と称して額を掲げた。

伊香保姫は夫・高光の形見に千手観音を本尊とし、石童御前・有御前ともに、先だった父母・兄弟・夫らの転生に祈りを馳せた。


この「水沢寺」というのが伊香保にあるようなので、既に舞台は伊香保だろうが、ウチらは赤城山から降りたばかり(^_^;)。
前の日に行った場所。大胡城(地図N)・大胡神社(地図O)・長善寺(地図P
この日に行ったのは、上泉郷倉(地図Q)・西林寺上泉秀綱墓所(地図R

昨日来た大胡の近くに来てる
見晴らしがいいんだわぁ(#^.^#)

すると、高光中将が鳳輦、伊香保大夫夫妻が網代の輿、九人の息子が木賊色の装束、三人の婿が騎馬姿で、多くの女官をつれて現れた。

伊香保大夫の妻は、「供養のお蔭で、伊香保山の山神、伊香保沼の竜神たち、吠尺羅摩女(ベイシラマニョ)らに大切にされて、悟りを開け、高光中将を主君として、王子眷属として尊敬され、衆生を導くことが出来るでしょう」と嬉し泣きする。


この「吠尺羅摩(ベイシラマ)女」というのは、赤城山の龍神「ロ奄 佐羅摩(オンサラマ)女」の、どうやら“伊香保版”なんだね。後でまた出て来る(^_^;)。。(ロ奄 佐羅摩女→前回この辺からこの辺まで

高光中将と伊香保姫は、再会の感動で言葉も出なかったが、やがて高光中将は、「トウ利天の瓔ラクの御殿に生まれかわれた、伊香保姫は如来となれる」と予言する。


そこで姫主従三人は夢から覚めた。
夢で会った人々との別れ辛さに堪えかね、伊香保姫が姉妹の御前に岩滝沢を遺産相続して別れを告げる。
姉妹は相続を断わり、むしろ死出の供を願って、伊香保姫が伊香保沼に身を投げると、石童・有の姉妹御前も後に続いた。

別当や寺僧らが現場に駆け付けたが、姫主従は事切れており、西の山から紫雲がたなびき、音楽が聞こえて来て、彼女らがトウ利天の瓔ラクの御殿や、都率天の摩尼宝殿に入れ、鳳輦に乗れる身となった事がわかった。

……こういう事がわかる、というのは、『往生要集』(臨終マニュアル)なんかにも出て来る。夢でわかるらしい(^_^;)。。

近くに川の流れを、遠くに上州の山々をシルエットに見ながら……

別当の夢に伊香保姫が寺に参詣に現れ、「神となれたので、寺の鎮守として衆生を救おう」と述べる。
目が覚めると、枕元に日記が置かれていた。

日記には、伊香保姫が伊香保大明神となり、伊香保大夫は早尾大明神に、その妻は宿禰大明神有御前は岩滝沢から北に、石童御前は南に鎮座し、更衣となり国母となった伊香保姫の娘は、若伊香保大明神となった事が記されていたので、岩滝沢にあるこの水沢寺を鎮守として大切に崇敬した。


以上、伊香保姫の話はこれでおしまい。
この後、「後世の話」というのがあるんだけど(^_^;)、ここまでの話とイキナリ無関係な展開&内容になるのと、次回は老神温泉からスタートで、ここは赤城の神が入った温泉という伝説もあるので、あわせて次回に譲りたい。

これにて、淵名姫・赤城姫・伊香保姫の話は、完結とさせて貰う(^O^)!



<上泉郷蔵(上泉城跡)と西林寺(上泉秀(信)綱の墓)>

到着(^_^A)。上泉郷倉(正面奥・地図Q(パノラマ3枚ほぼ180度)

手前左の建物は「上泉町自治会館」。ここはその駐車場で、正面に上泉秀綱(信綱)の銅像があり、その奥に江戸期の「郷蔵」がある。
そして「上泉伊勢守」の旗が、この駐車場を取り囲む四方八方で翻り、同ポスターが会館の壁と言い扉と言い、窓ガラスにまで貼られている(笑)。

上泉秀綱の生誕500年(2008年)の物であるらしく、その言わんとする事は「ドラマ化推進中!(推進委員会)」であり、その理由は「前橋が生んだ剣聖」だからである。
演歌歌手のポスターが貼られ、「剣聖・上泉伊勢守」の歌が、ボタンを押すと流れる仕組みになっている(笑)。

以上の通り、ここも太田市の「円福寺」と同じく、「史跡」として主張するのに、三つぐらいの歴史が一箇所に同居している(^_^;)。

上泉城跡
まず、今いる所は、「上泉城」の本丸二の丸跡である。
城域は東西600m、南北400mで、ここ(本丸・二の丸)以外に、後に行く西林寺地図O)あたりに「一の廓」、玉泉寺あたりには「出丸」があったとされている。

ちょくちょく言って来た通り、赤城山の南麓はその大半が大胡領であったと言われ、主な領主は「大胡氏」である。
が、その本城は、前回行った「大胡城」で、ここより少し東の方に行く。(地図N

(ちなみに「大胡城」は、2013年3月<大胡城跡>と、つづく4月<大胡城跡、2(続き)>を見てね(^^))

郷蔵上泉秀綱像

対して、ここ「上泉城」(地図Q)は、大胡氏の支城であり、「上泉氏」が在城していた。

「上泉氏」が大胡一族である点は、そのままとしても、よく「大胡氏の出」と見られる(書かれる)事が多い。

しかし、こちらでは、「一色氏」の出と認識されている。その経緯と略歴は以下↓

享徳年間(1452〜54)、一色義秀(上泉信綱の曾祖父)が、京の足利将軍から大胡氏再興の命を受け、関東に派遣された。
功を果たし、藤原姓を承け、この地に築城、上泉城主となった。

←郷蔵の隣の隙間から、赤城山の頂上部分が浮かび上がって見える(^^)

この一色義秀からが京兵法諸流の達人であった。

ゆえに、時秀(祖父)、義綱(父)と上州名代の兵法者として剣名高く伝えて、やがて信綱に至ったという。

◆上泉信綱
上泉信綱は、永正5年(1508)上泉城主・義綱次男として誕生。初名は「源五郎」、後に「伊勢守秀綱」、さらに「武蔵守信綱」と称した。
幼少より兵法・兵術の志あつく、天稟の才も豊かで、修行数年で剣技は父祖を凌駕し、鹿島に遊学して、郷勇・松本備前に師事。鹿島神伝兵法の奥義を承けた。

(↓拡大)赤城山
上泉信綱の銅像→
2008年に、生誕500年を記念して建てたそうだ。
台座によじ登って後方から「隙アリ!」とか討った人いっぱい居そうだけど、危ないからやめてね(^_^;)。。

その頃、上泉城に来遊した剣仙・愛洲移香は「陰流」兵法の始祖で、信綱は弟子となって神技の奥義を極め、兵法の諸流の奥源を採長補短して、「新陰流」を創始し、これを号した。

この剣技は、現代の科学者も驚嘆するほど合理的で、袋竹刀を自ら考案した事が原型となって、その後の竹刀の発明など武技の進歩が倍加し、剣術の継承や稽古に改革をもたらし、斬りあいを理論的・体系的にしたことから、「剣術の祖」とも言われている。
門に学ぶ者は多く、鹿島の兵法者・塚原卜伝も信綱に参じて、兵法の必要を説いたと古書にある。

信綱の墓があると伝わる西林寺地図O

↑先に言った通り、ここも上泉城の「出丸」があったと伝わる所で、この裏手に信綱の墓所がある。
自治会館や郷蔵や銅像のある所から、スグ近く(^^ゞ。

信綱の名は武芸者としても広く知れ渡ったが、上泉城四代目城主として領地・領民を守りながら、箕輪城主・長野業正とともに武田信玄軍と壮絶な戦いを繰り広げ、戦場の勇名としても高まり、「上野国一本槍」と称賛された。

が、永禄6年(1563)二月 長野業盛(業正の子)の箕輪城は落城 信綱も浪人となる。
敵将・武田信玄は、三顧の礼をもって己れの旗下に参加を願ったが、信綱は「新陰流兵法を天下に伝授するため」と称して誘いに応ぜず、同年秋、高弟の疋田神後の両名と生国・上州を去って、諸州に旅立った。

←寺の裏に墓地と石碑

京にのぼるや、その剣名・人徳を慕って、忽ち上方に数百人の弟子が集まった。

中でも、後に傑出して日本を代表する兵法者となったのは、柳生宗厳(後に柳生石舟斎)、宝蔵院胤栄丸目蔵人佐奥山休賀斎松田織部之助などがあり、後世の日本武道に与えた影響は大きい。

他にも大勢の弟子に剣を指導して、新陰流は全国に広まったという。

が、「一国一人」とした新陰流の後継者には、柳生宋厳を選び、新陰流のすべてを印可相伝した。

こうして新陰流は、柳生家により受け継がれていった。

また、時の将軍・足利義輝の前で上覧試合を行い、「上泉伊勢守兵法天下一」と感状を賜った。

さらに正親町天皇の御前でも天覧演武を行い、即日、従五位下から従四位下へ昇叙され、天皇ご愛用の御前机を拝領した。
この机は今も金色に輝き、西林寺の秘宝とされているそうだ。

信綱は骨格雄偉で品格があり、教養が高く、文字通り文武両道に優れていた人であると伝えられる。
公卿の山科言継との親しい交友もよく知られる。
言継は当時、第一級の文化人であり、信綱が一介の武弁ではなかった点が窺える。

信綱の精神は「活人剣」、人を活かす精神であり、新陰流は「和」の兵法、「無殺他生の剣」として、柳生宗矩らによって徳川三百年の治世に流れ、平成の現代に至った。
さらに、尾張柳生新陰流の正統伝承者、柳生延春氏らの努力によって 末永く広く人々の生活や仕事など多方面に活かされていくべく、そして世界人類の平和の大道に繋がるべく、アメリカ イギリス フランスにと弘流の波は拡がっている。

平成20年(2008年)、生誕500年を記念して、剣聖・上泉伊勢守之像を建立。この立ち姿は、新陰流の基本である「無形の位」という代表的な構えで、手には袋竹刀を持っている。

↑は、上泉郷倉地図Q)ね。再び戻って来ている(^^ゞ。で、最後に「郷蔵」の説明も……↓


◆上泉郷蔵
上泉城の跡地で、唯一の歴史的建造物として、この「郷蔵」が残されている。
これは江戸時代、天明の大飢饉(1782〜87年)の後を受けて、寛政2(1790)年、前橋藩が社倉制度(貯穀令)を定め、寛政8(1796)年に、天災や飢饉などの非常時に備えて麦などの穀物を貯えることを目的として建てられた土蔵である。

間口8間(約14m)、奥行3間(約5.5m)の土壁造。

上野国内のこうした郷蔵は、明治以降は他の目的に転用されたものだが、上泉郷蔵は本来の目的通り、明治42(1909)年まで使われ、蔵の維持の経過を知れる関係古文書(上泉文書)が保存されている。

度々修理が行われていたが、老朽化による倒壊の恐れが出て来たため、前橋市の補助と地域住民や関係者の協力で、平成3年(1991)より解体修理を行った。
現在は、隣の自治会による所有となっている。



<総社二子山古墳>

上泉を出ると、前橋に向かった。
これまでいた大胡・赤城山・上泉、どれも「前橋市」ではあるんだが、これまでは市の北や東におり、これより向かうのは、群馬県の県庁所在地のある、いわゆる「前橋」で、市の西端にある。
また、鉄道では上越線、高速は関越道、そして利根川の三本が南北に伸びる平野部(というか谷と云うか、山間部ではないという意味)に合流するかのように、狭く平行して流れている。

前方は(たぶん)西方面、妙義山とか信州とかある方かな

この日は前橋から高速で北上し、群馬でも北の沼田まで行って、また東の山間部に入り、最後は老神温泉に泊まるのだが、そこへ向かう途中まで今回はお届けする。

見ての通り、だいぶ日暮れが迫っているが、次の見学場所までは、ギリギリ明るかった。

次の見学場所、「総社二子山古墳」は、「総社古墳群」と呼ばれる古墳の大変に多い一帯にある。

右手が(たぶん)北。赤城山などある方かな(パノラマ2枚)

総社古墳群は、北から南に、「総社二子山」「愛宕山」「遠見山」「蛇穴山」「宝塔山」、やや離れて、「玉山」と利根川に沿って点在する。

地名としても出て来る「総社」は、古代の国府のあった場所を示す。今も大都会である(^_^;)。
また、古墳群の中で「二子山」だけ「総社」が上につくのは、市内に「二子山古墳」の数が多いからだ。

←「総社二子山古墳」(地図R)に到着(^_^A)。

現在の案内板には、特に「誰の墓(と伝承)」とは書かれてなかったが、墳頂の大きな石碑に「豊城入彦命」と大書される通り、「豊城入彦(とよきいりひこ)命の墓」と伝えられ、明治初期までは御陵墓として、墓掌・墓丁が置かれていた。

かつて「陵墓」の扱いを受けたのは、豊城入彦命が、崇神天皇(第十代)の皇子だからだ。
しかし今は皇室の陵墓には含まれてないようだ。

崇神天皇がどれぐらいの時代の人かにもよるが、だいたい200〜300年代ごろではないかと言われるのに対し、総社二子山古墳は、後で500年代ごろの築造と判断されたからかもしれない。
総社二子山古墳は、総社古墳群の中でも、最後の時期の前方後円墳と見られている。

かつては「豊城入彦命の墓」と伝わった(パノラマ2枚)

現状で、全長約90m。前方部前幅61m、後円部径44m、二段に築造された前方後円墳で、主軸を東西に置き、前方部が大きく張り出している。
前方部も後方部も、南に開口した両袖型の横穴式石室が一つづつ確認され、前方のみでなく、後方からも横穴式石室があるのは珍しい。

前方部の石室は全長8.7m、玄室長4.2m、同幅2.1mの自然石の乱石積。
石材などから後方部の物よりやや古く、500年代末期と推測され、その時代差から成立過程が推測できる点に、関心を求められる。

地図で確認する限り、この入口は後円部のような……。
登っていくと、二段構え形成がハッキリ確認できる。

後円部の石室は、榛名山二ツ岳から噴出したと考えられる、角閃石安山岩を加工して使用しているが、天井石が落下している。現状で全長約86m、玄室の長さ約7m、幅3.4m。

葺石や埴輪も配列されていたと考えられ、地割などから周濠の存在の痕跡を追う事ができる。

文政2年(1819)に開口した記録が残され、頭椎大刀、鉄鍬、刀子、勾玉、耳環、鈴釧、須恵器などが出土したと伝えられ、その一部は東京国立博物館に保管。
ここは現在、古墳の南方約200mの光巌寺の所有地。

前方と後円の両方が写るショット♪
墳頂から見えた遠くの山並み

これだけの古墳となると、豊城入彦命そのものでなくとも、上毛野氏など、その子孫を称する豪族だった可能性は高かろう。

豊城入彦命は、古事記では母の名とともに出て来るのみだが、日本書紀では、加えて夢占いの話がつく。

父・崇神天皇が皇位継承にあたって、二人の息子に見た夢を話させる。
二人とも御諸山(三輪山)に登る夢を見たが、兄の豊城入彦命が「東に向かって矛と刀を振り廻す夢を見た」と云うのに対し、弟の垂仁天皇は、「網を四方に張って粟をついばむ雀を追い払う夢を見た」と答える。

父帝の崇神天皇は、兄の豊城入彦命には東国を治めるよう命じ、四方に注意を払った弟・垂仁天皇に11代の座を譲る。
そして、豊城命は上毛野君下毛野君の始祖となった、と続く。
(2007年5月<筑波山神社>内・2012年6月<宇都宮二荒山神社>内

周囲は住宅街。夕陽もだいぶ落ちて来た(パノラマ2枚)

記紀の時代差から考察するのか、豊城入彦命の存在は、上毛野君が大和政権に服属してから加えられた、と考える向きもあるようだ。

いずれにしても上野国に古墳が多いのは確かで、近世の人も中世の人も、この上野国の古墳や埋蔵品に多くの想像を馳せたに違いない。
この旅行の後も、渋川から日本史上で最古の甲冑を着た人骨が発見され、この上毛野の地に、武族系の文化や部族があった事を匂わせる。

また、渋川と言えば、伊香保大夫の地盤した有馬も、渋川にある地名だった(地図Eヤフー)←渋川の有馬で合ってるかわからないが(^_^;)。

淵名姫や赤城姫がはかなく世を去る物語の裏側で、伊香保大夫の存在は、主人の一族を守る忠義を語り継ぐと同時に、乳母とか家臣という立場から、帝に直接認められるにまで至る、地方豪族の底力を示しているようにも思われる。




<「総社神社」と「宮鍋神社(蒼海城跡)」>

総社神社に着いた時は、さすがに日没後で、写真にもよるが、殆どの画像は暗い(^_^;)。
まず「総社神社」に行き、この夜の宿泊地に行くため、高速に乗る直前に、「宮鍋神社(蒼海城跡)」にも行ったが、後者は残念ながら殆ど写ってない(^^;;)。。

総社神社」(地図S)正面
暗い境内の奥の灯りが頼もしく目に映る

全国どこでもそうだが(^_^;)、上野国府のあった場所は不明ながら、今の「総社神社」(地図S)の付近と推定されている。

「和名類聚抄」には「国府は群馬郡」とあり、元総社町(現在名)もかつての群馬郡なのだが、現状からは国庁などに相当する遺構は確認されておらず、国府推定地には住宅が密集しているため、古代の国府跡は想像できない。

しかし、総社神社の東を流れる牛池川の調査で、「国厨(くにのくりや)」と書かれた墨書土器や人形(ひとがた)などが発見されているので、国府が総社神社と極めて近い距離にあった事は疑いない。

上野国府正庁推定復原図→

総社神社のすぐ南「元総社小学校」の校庭から5間×2間の掘立柱などが発見されて、国府の建物の一部ではないかと言われるそうだ。
また、都市計画事業などによる発掘調査で資料も蓄積されてきている。

これまでの所、大規模な溝で囲まれた遺構の集中する所が、方八町(872m四方)、方六町(654m四方)と想定されている。
関越自動車道の建設に伴う調査では、鳥羽遺跡を中心に神社跡と想定されている特異な遺構や、付属工房と考えられる小鍛冶遺構などが確認されている。

境内は深遠な森と灯りが続き
闇の中から鳥居↓を浮かび上がる

総社神社の創立は、社伝によれば、天平10年(738)上野国549社を合祀して総社明神としたというが、実際の成立は平安時代末期の創建と考えられる。

というのも、律令体制化では、毎年春に豊作祈願のために国司が任国のおもな神社を巡っていたが、律令体制が衰え、国司の力が落ちてくると、この行事の実地が不可能となり、国内巡行を省略するために、国内の神を一括して祀り、1箇所で祈願するようになったのが「総社神社」である。

したがって祀られているのは、上野一之宮の神をはじめ、549の神々と磐筒男命・磐筒女命の2神である。
(由緒としては、豊城入彦命が最初に祀ったのが経津主神で、その親神が磐筒女命という事であるらしい)

天慶2年(939)、上野国を占領した平将門が、上野国府新皇を名乗るという、日本史上の大事件が発生した場所でもある。

新皇(八幡)の位を授けたのも総社神社の巫女と思われる

↑このズラーーッと並ぶ灯りの中を通りながら、日光と赤城の神戦で、赤城側のムカデが湖上に現れるシーンで、目が鏡のように並ぶという描写を思いだした。(2012年6月<川治温泉〜鬼怒川温泉、121号線を南下>内

亭主はと云うと、将門の新皇即位シーンを思い出したと云う。
私も「風と雲と虹と」で見た村娘の神がかりシーンが、ちょうどこんな夜の篝火の中だったんで、尚更……(^_^;)↓

 将門は、同月(939年12月)15日をもって上野の国にうつったが、その間に上野介・藤原尚範朝臣は国印と鍵とを奪われた。19日をもって、将門はまた使いをつき添わせて京都へ追いやった。
 その後、国府を占領して侵入し、四方の門の警備を固めて、そこで諸国の除目を発令した。
 ちょうどその時、一人の巫女があらわれ、「われは八幡大菩薩の使いなるぞ」と口ばしり、こう云った。
「朕の位を蔭子・平将門にお授けいたす。その位記は、左大臣正二位・菅原朝臣の霊魂が捧げるところである。右の八幡大菩薩は、八方の軍を推して朕の位をお授けするであろう。今ただちに、三十二相楽を奏でて、早くこれをお迎え申し上げよ」と。
 ここにいたって、将門は位記を頭上にうやうやしく捧げもって再度礼拝した。
 当然のことに、四つの門を固めていた軍兵たちは総立ちになって歓声をあげ、数千の者どもがいっせいに跪いてこれを伏し拝んだ。
 また、武蔵権守と常陸掾・藤原玄茂らは、その時の主催者として、その喜び満足することは、たとえば貧者が富を得たようであり、相好を崩して笑うさまはあたかも蓮華の花が開きひろがるようであった。ここにおいて、彼らはみずから贈り名をつくって、これを奏上。将門を名づけて「新皇」と称した。
「将門記」
(2008年10月<下妻市「鎌輪の宿」>内〜<古河市「持明院」、下妻市「五所神社」>

拝殿のガラス戸の中の……↓
大臣サンも菅原道真に見えてしまう(爆)→

長元3年(1030)の「上野国交替実録帳」には、国司の館、南門や多数の倉庫の存在が記録され、多種多様な施設があった事がうかがえるが、これらの検証には辿り着いてない。

治承4年(1180)、源平の争乱の中で、平氏の側についた藤姓足利俊綱(藤原秀郷の末裔)は、国府を焼き払い、この時に決定的に荒廃したと見られている。

中世に入ると、国府の跡に長尾氏蒼海(おうみ)を築き、永禄6年(1563)武田信玄に攻略されるまで存続した。

正面「拝殿(パノラマ3枚ほぼ180度)

本殿(県重文)は三間社流造。屋根は柿葺、規模は間口3間・奥行2間の主屋に間口3間・奥行1間の向拝が付いている。唐様を基本にした蟇股や大幣束、組物、さらにのびやかな海老虹梁などが桃山風の建築の特徴をよく伝えている。
昭和61年(1986)に保存修理が完成し、創建当初の姿に戻っている。特に外壁に描かれた壁画はほとんど剥げ落ちてしまっていたものが、みごとに復元されている。

ただ実は、総社神社も永禄9年(1566)に兵火にかかり、北西から、元亀年間(1570〜73)に現在地に移ったとも言われている。
総社神社の場所は、現在のこの場所という説と、すぐ北の(あとで行った)宮鍋神社(地図T↓)という二説がある。

前説は、「後に長尾氏が宮鍋神社に遷した」という説。
後説は、「宮鍋神社に元々あったのを現在地に遷した」という説で、この場合「宮鍋」は、「宮辺(みやのべ)」が語源ともいう。

言い伝えでは、永享元年(1429)頃、長尾景忠・忠房父子(足利直義の家来ともいう)の頃、簷滴(あまだれ)石が城内の軒下、風にさらされていたのを修策した。
その後の兵火を受けて、氏子住民が手力でここに運んだ事を、白髪の老人が言い伝えて去った、という。

後で行った「宮鍋神社」(蒼海城跡
さすがにもう真っ暗だった(^_^;)

上野国府が廃絶した後も政治的機能のみ持続されてたようで、方形の区画(居館)が連接された所に、戦国時代の蒼海城に発展したようだ。
なので、城の形態は戦国期の城郭とは異なり、合理的な縄張りとはなっていない。
しかし市街地化が進行する中でも、宅地割や道路敷など、随所に空堀土塁が残っているそうだ。

本丸跡に隣接して御霊神社があり、「学校院若王子大明神」といわれる。
全国でも少ない「上野国学」伝承地で、西端に国分寺、東に国学、さらに国府中枢部という施設の構成は、筑紫大宰府と学校院・観世音寺の配置に相当するという。

信玄の手に落ちてから先の蒼海城がどうなっていたのかわからないが、江戸初期に1万石で封ぜられ、入城した秋元長朝(おさとも)が、古い縄張りでは手狭なため、八日市場陣屋・総社城(総社町)を新しく城を造って、順次移っていったので、蒼海城は廃され、この地も「元総社」と呼ばれるだけとなった。

写真は総社神社に戻る(^^ゞ
←「蒼海城跡地図」(総社神社にあった)
↑総社神社推定復原図

総社神社には、多数の資料・文化財が伝えられている。
「上野国神名帳」(県重文)は、合祀した549の神の名を14郡の郡別に記したもので、神名帳そのものが「御神体」として祀られている。

また、ここの神名帳は「総社本」と呼ばれ、他に「一宮本」と「群書類従所収本」とがある。
「総社本」は、応仁6年(1298)に正本を書写したものを、弘治3年(1557)さらに書写したとする奥書きがある。

他に、懸仏(県重文)が二面ある。
神仏習合の考え方が普及すると、神社に奉納する鏡に仏像などを表現するようになる。
「御正体」といわれ、「本地仏」として神殿内などに懸けて拝むので懸仏といわれた。

縁部に吊り下げ用の耳を二つくくるか、二つの穴をあけ、一点直径29センチの円板に弥勒菩薩の半肉彫が鋳出されているもので、裏面に天正14年(1586)小島美作守定吉が鋳造したという銘文がある。
他の一つは、直径9.4センチの青銅の円板に普賢菩薩の線刻があり、1589年の作。

また、雲版(県重文)という寺院で食事時などを知らせるための打器がある。
大正時代、境内の樹齢480年といわれた老杉の根元から発見された。縦40センチ、横幅32センチ、厚さ3ミリの銅製品。片面だけに二重の縁取りがあり、中央の菱形の部分に吊り下げ穴をあけている。銘文はないが、鎌倉時代後期のものと推定されている。
他に、北条氏康の掟書・天正18年、前田利家、浅野長政の禁制など。

拝殿ガラス越しに見える幣束
裏手の摂社

総社神社の太々神楽は、神官の赤石家に伝えられてきたもので、現在は町の青年たちによって受け継がれ、毎年3月15日に舞われている。また、神社に伝わる祭太鼓も古い様式が残る雄壮な太鼓である。

総社神社の周辺には、釈迦尊寺(曹洞宗)や、徳蔵寺(天台宗)などがある。
徳蔵寺は、秋元氏の入城にともなって、あらたに光巌寺を造営するため、徳蔵寺を移転したことにして幕府の許可を受けたという。境内に中世の石仏もある。

これは総社神社の裏に祀られてる祠群だけどね(^^ゞ→

釈迦尊寺は今でも大きな寺院だそうだが、かつてはもっと大きく、東山道駅路(国府ルート)と推定されている。
古代道路との関連(※)か、日本三古碑の一つ多胡碑(700年代後半、他二つは、那須国造碑と多賀城碑)と関連した羊大夫の伝説を伝えている。

※羊大夫伝説
先月も赤城山に登る道で話した、
上州に古くから伝わる、俊足の超人伝説(^^ゞ。前回「赤城大明神の事」にも出て来た→(2013年4月<二泊目・赤城温泉に到着、赤城山の夜>内<赤城山頂に向かう>内

伝説として舞台となる時代は、藤原不比等の時代の前後。
伝説によると、不比等の祖母(母の母)は中臣氏の出で、物部氏が蘇我氏に敗れた時に連座で上野国に流れて土着した。その一族の末裔が羊大夫で、謀叛の疑いで討伐されたという筋立て。

話はこの通り、奈良時代ごろだが、私の知る限り、文献は江戸時代の物が多い(^_^;)。一番古いので前回話した「神道集」だから、遡ってもせいぜい南北朝時代という事だ。

もちろん「口承」という事だから、発祥時はもっと前という事はありうるけど、そもそも神道集の世界が唱導というのは、前回話した通りでつ(^^ゞ。→
(「神道集」については、<大胡城跡、2(続き)>内以降】の字を、「赤城大明神の事」@は<赤城温泉(^_^A)>以降】の字を)

※「古代の道路との関連」と云うのは、羊大夫に出て来る「かかとに羽根が生え、都城に日参(日帰りで通勤)できた」という部分だろう。
羊大夫の伝説は、埼玉県の秩父で特に色濃く語り込まれているようだ(^^)。


←高速から見る夜景

3日目の旅も終わり、沼田を目指す。この旅行で初めて関越自動車道に乗る。スゴイ久しぶり(^_^;)。

総社神社は当初、やはり平将門の新皇即位の場として認識していた。
2008年5月(レポは同8〜10月)に将門ツアーを行った時、茨城方面だけ重点的に行き、下野国や上野国は廻れなかったので、その時以来の悲願という感じだったが、あいにく一番日暮れの早い時期で(^_^;)、だいぶ暗くなってた。

ただ、今回「赤城大明神の事」で、ラストに伊香保姫が住んだ(伊香保太夫が住まわせた)のも、この総社神社という話になってるのを知って、改めてまた来てみたいな〜と思った(^^)。

さて次回は、老神温泉に到着後から、となるので、いま移動中の地理を説明しておきたい。
総社神社(地図S)、宮鍋神社・蒼海城跡(地図T)に今までいた。
高速は前橋インター(地図U)で乗り、沼田インター(地図V)で降りる。目的地は老神温泉(地図W)。

今回話した伊香保は、わりと広い範囲を指す地名だが(^_^;)、前橋(南)から沼田(北)の間だと、まだだいぶ前橋寄りを左(西)に行った所に温泉地(地図D)がある。

さらにもっと前橋に近い所に、白井長尾氏(長尾景春を出した家)の本城・白井城跡地図J)がある。
白井長尾氏は、上州における謙信に近い勢力として、武田勢力の真田氏と攻防し合った。関越道の周囲には関連史跡が多い。
ただし、このほどこれら戦国期の史跡には一切行ってない。

次回は老神温泉で3泊目を迎え、4日目朝からやや沼田方面に戻して、「白佐波神社(うつぶせの森)」「雲谷寺(新田義宗墓所)」「高平の書院」、それから切り返し東進して日光の山越え!

2005年4月<戦場ヶ原>内以降
2005年6月<如意寺>
2007年5月<筑波山神社>内
2008年10月<下妻市「鎌輪の宿」>内〜<古河市「持明院」、下妻市「五所神社」>以降
2009年1月<対面石と対面堂>内

2009年3月<羽黒山・山頂>内
2012年5月<南会津方面に向かう>内以降
2012年6月<23号線を東進、川治ダムまで>内以降/<宇都宮に向かう・「栃木県立博物館」>内<宇都宮二荒山神社>AB
2013年1月<東北道〜北関東道>内
2013年3月<大胡城跡>
2013年4月ほぼ全文


<つづく>

2013年06月04日
 
     






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