<2010年・城主のたわごと12月>




2010年5月「茨城北西編」最終回は、真壁氏の史跡巡り。

その後(5〜7月)は、近隣レポと花めぐり(#^.^#)





     
  ゴールデンウィークの茨城旅行は、一泊二日と短かった割に、写真が多くて長レポに及んだが、今回(第4弾)で最終回(^_^A)。

2日目午後の「雨引観音」の続きから始まって、「真壁城跡」(なぜか2ヶ所(^_^;))、「真壁氏累代墓所」に行った。
その後はだいぶ暗くなって写真は今イチだが、「五所駒瀧神社」、「歌姫明神」、下妻温泉、砂沼湖など。

今回もあまり知らない場所であるのと、多忙につき調べてる時間も無くて、前回に引き続いて文章は薄め(^^ゞ。
特に真壁氏については、レポ時になったらもうちょっと調べようと思いながら、気付いたら締め切り状態で(笑)、殆ど調べがつかないまま、慌ててアップになっちゃって恐縮(^∧^)。

その後の近隣めぐりは、久々に沼南(千葉県の手賀沼南部)の「将門神社」など行きつつ、初夏にかけて、何となく花めぐりがメインに(笑)!



■5月(GW)・茨城県北西部
<雨引観音(楽法寺)・山頂〜奥の院(客殿)>

まずは、地図A←ここに今いる(^^ゞ。詳しくは拡大を。
雨引観音(楽法寺)の山門(と仁王門)を潜り、石段を登って、本堂(観音堂)からの並びを順々と見て来た。
そして「多宝塔」の渡り廊下まで来て、山の斜面に登って、「鬼子母神堂」「弁財天池」と見た。

↓「鬼子母神堂」の背面の石段をさらに……
登って振り返る↓

公式サイト(「雨引観音)によると、「聖見堂」とある建物かな、と思うがどうだろ……。何しろこのお堂を背に階段を上がって行くと……↓

次々と出て来る仏像。十三仏巡りコースだ(パノラマ2枚)

十三仏巡りは、前に東京都の奥多摩「檜原城跡」を見た時に、仏様と順番を列挙したので、参考までに出しとくね(^^ゞ→2004年6月<檜原(ひのはら)城跡「十三仏巡り」と吉祥寺>内

←振り返ると、弁天のお堂(聖見堂?)から、十三仏に導くように、小さなお地蔵さんの列が連なる。

前方。さらに頂上に登って行く→
階段を囲んで赤いサツキが綺麗に咲き揃っていた(^^)。

ここのは千手観音があった(゚.゚)(パノラマ2枚)

↑頂上は梅林になってて、赤い枝垂れ梅(かな(^^ゞ)が咲いていた。
十三仏の最後か、独立した仏像か、頂上のやや奥まった所に「白衣聖観世音菩薩」が立っていた→

そして、この頂上の林じゅうに「ケーーーッ!!」という、凄まじい声が響き渡って、来る者を驚かすのだが、実はここに来るより前から、チョクチョク目に触れていたのが……↓

↓コレ。林の枝に何気に止まっている
(拡大)クジャクだ!(爆)

この孔雀(クジャク)、実は行きも会ったし、帰りもこの通り↓

渡り廊下の屋根にデーン!と(笑)(パノラマ2枚)

スゴイ絵になる光景ではあるが
この屋根に餌付でもされてるのか。。

前回の牡丹と言い、多宝塔と鬼子母神堂のアングルと言い、この孔雀と言い、狩野派か花札の絵柄かと思うような、ドップリ江戸時代な絵巻がめくるめく展開されて圧倒される(笑)。

降りて来た所で皆さんが見てるのは(パノラマ3枚・ほぼ180度)

孔雀ではなく、鴨と鯉!(パノラマ2枚)

あるいはこの渡り廊下を
僧侶の行列が通るのを撮影したり(笑)

このお寺、あちこちの渡り廊下が外から見えるので、こうして揃いの袈裟を着たお坊さん達が列をなして通るのを、みんな待ち構えて撮影している。
お寺の方でも心得てか、この僧侶行進が一定の間隔ごとに催され……つまり、もはやアトラクション化してる感じも……(笑)。でも坊さん達はぜんまい仕掛じゃなかったよ(爆)。

渡り廊下と池の向かい↓には、公式サイト(「雨引観音)によると……、

「六角堂」とあって……
中央に薬師、その左に不動明王

この「雨引山楽法寺」は、江戸期に入ると、慶長9年(1604)江戸幕府の祈願寺として150石の封を得、十万石の禄式に叙せられ、末寺43ヶ寺を統して幕末に及んだ。
この左隣「御供所」の下には(写せてないが(^^ゞ)大きな石垣が支えており、お寺の格式を象徴するものだという。
現在でも、「坂東観音霊場」の第24番札所として尊ばれている。

↑この薬師像は、徳川(八代)吉宗が1723年、養女竹姫の病平癒のため、不動明王(県指定文化財)は、1438年、足利(六代)義教が彫らせたそうだ。

前回は本堂「観音堂」から左に進んで、「多宝塔」まで来て、山の斜面に登った。
今は山の斜面コースから、元の高さまで戻って来ている。「多宝塔」よりさらに先(左)に進んでみると……、

奥の院(客殿・パノラマ4枚・180度以上

この辺で殆ど終点(^^ゞ。ここから下を見下ろすと……↓

大きな池の庭園と東屋が見える(パノラマ3枚)

↑これも滝下ろしが付いてるね(^^ゞ。
大きな池や岩、豊かな水の音、樹木に囲まれた開放的な休憩所……何かスーパー銭湯の露天風呂のようなイイ感じ♪



<真壁城跡(古城と城跡公園)>

月山寺から雨引観音に行った時も、逆コの字型に、西進→南下→東進という道順だったが、今度も同じように逆コの字を取って、さらに南に戻る。

地図B←ちょっと拡大。月山寺から雨引観音に来た時、南下した道路が「41号線」である。
まず雨引観音(楽法寺)から西に、152号線で戻り、突き当たりを左折して41号線に入って、さらに南下する。

また筑波山を見ながら南下(^^)

この地域に多い石材加工の店(^^)
コの字に折り返し、再び西に向かう

この旅行に行った後、テレビで「雨引観音」や、この辺りの古い町並みなど紹介する番組を見た。鎌倉時代から続く町としての伝統とともに、ブルーベリーや蕎麦など、地域の名産も紹介していた。
特に特産の石臼でひいた蕎麦粉は、石が一定の冷たさを保つため、他で作られる蕎麦より美味しいのだとか(゚.゚)。

地図C←右の写真は、「伝正寺入口」という交差点を左折し、「真壁城跡公園」と地図上に示される高台を目指して走ってる道だが、その途中、交差点を左折してスグ、「真壁城跡」と4枚の大看板が建てられた一帯に出た(゚.゚)。↓

道路の右側に見える城跡(パノラマ3枚・ほぼ180度)

住所を確認すると、「真壁町古城」とある辺りに思え、「城跡公園」のある丘陵地より、かなり手前にある低平地のようだ。
地図D←敷地は広いが、だいたい真ん中あたりにポイントを取ってみた。詳しい位置は拡大を(^^ゞ。

中央拡大。「真壁城跡」と4枚の立て看板

右拡大。土塁群は建築(整地)途中のようでも?(゚.゚)

左拡大。土手っぽい道が左方向から伸びている。

土手道の方まで来てみた。水田との隔てになってて、土塁まで歩いて行ける。地元の人も近道に利用してるようで、ススイと自転車が通っていった。

さらに、もうちょっと←方向に進むと……、↓

こんな道路が通ってて、駐車場まで完備(゚.゚)(パノラマ3枚・ほぼ180度)

↑右側の土塁↓(パノラマ3枚・ほぼ180度)

駐車場と言っても、この通り、土嚢のような物やポール等があったり、軽トラが見えたりで、作業中というか整備中と言うか、ちょっと造作工事っぽい雰囲気で、「真壁城跡」という大きな4枚看板の割に、説明や案内のための記述版なども一切見えなかった。

もっと奥に行けば何かに会えたかもしれないが、暗くなる前に、目指した本来の城跡(公園)や、真壁氏の墓所なども見ておきたかったから、この辺をちょっと歩きまわったのみで、ここはもう去る事にした(^^ゞ。

もうちょっとだけ先に行って……(パノラマ4枚・180度以上)

振り返って見る(パノラマ4枚・180度以上)

ちょっと拡大。虎口(馬出)っぽいような?(^^ゞ

↑元から遺構があった場所なのかもしれないけど、さっきの土嚢とか見る限り、今造ってる感じ……。。こうして写真で見る以上に、実物には真新しい感がある(^_^;)。

どれか一つ登って上から撮影
道路の入口付近の水田

↑左の写真には階段が造作されているのが見える。また右の写真は水田だが、城のあった当時は、貯水とか要害のための濠なんかあった位置かも(^^ゞ?

平野の側(西)と山に近い側(東)のうち、平野の方に向けて広々と展開されてる敷地が続いてたので、そちらをちょっとだけ散策(^^ゞ。

植木群で仕切りが作られ(パノラマ3枚・ほぼ180度)

↑の左の方をちょっと拡大
←の左の方さらに拡大
神社の鳥居らしきが見える↑よね(^^ゞ

実はこれ、現地では全く気付かなかったんだが(爆)、地図で確認できる「鹿島神社」じゃないかと(地図E←地図も拡大しといた)。

だいたい北東方面(パノラマ4枚・180度以上)

↑の逆側、だいたい南西方面↓(パノラマ4枚・180度以上)



で、元々さがしていた「真壁城跡公園」にも行ってみた。地図F←地図には公園の名があり、拡大すると市営レストランまであるようなのだが、時間が遅かったのか、どうもそれっぽい場所に近寄れなかった気が(^_^;)。

こんな場所に着いた(パノラマ3枚・ほぼ180度)。そこから入れそう↓

ちょっとだけでも登るつもりでいたんだが、亭主が「スグ暗くなっちゃうよ」と気をもむので、この山↑と、この位置から見える……、↓

下界の風景だけ撮って(パノラマ2枚)

「真壁城」は、真壁氏の城だろうと思うが、真壁氏については後述するとして、真壁の地については、平安期「将門記」の始まりにある「野本の戦い」で、将門が焼き払った常陸の各地……すなわち「野本・石田・大串・取木・筑波・真壁・新治」と登場する地名だ。

拡大

ここと同じ桜川市で、昔は同じく「真壁郡」だった「大国玉」……ここよりだいぶ北西方面になるが、「后神社」という所があって、将門の妻(「新皇」となったのに対応して、「后」という事かと(^^ゞ)だった「君の御前」を祀っているという。地図G

この「君の御前」と同一人物か知らないが、同じ「君の御前」の墓所(伝承地)は、将門ツアーの時に訪れた(2008年9月<葦津江「深井の地蔵尊」〜八千代・古河>)。
大河ドラマ「風と雲と虹と」や「将門記」では、将門の妻は、平良兼(将門の叔父)の娘としており、ドラマでは葦津江の村娘を「桔梗」と名付けていたので、「君の御前」に相当する女性をドラマで探すと、嵯峨天皇の曾孫とも、元は京住まいの姫君ともされていた「貴子」になるかと(^^ゞ。「君の御前」らしきは、戦の途中で処刑された伝説もあるらしい。

が、ここでいう「君の御前」は、「平真樹」の娘と伝わっており、父の「真樹」は将門の味方であったとも伝わっているそうだ。
つまり、元・真壁郡(現在は桜川市)の「后神社」が、元は「平真樹」の居館の跡地と伝わっているのだとか。(平真樹については、2008年12月「将門雑記(風と雲と虹と)」40〜46話にも書いた(^^ゞ)

一方、良兼の娘については、父の良兼と将門は敵対関係で、舅と婿が苛烈に戦い合った(「将門記」にいう「服織営所の合戦」の)陣屋跡と推定される「羽鳥」は、やや南のだいたいこの辺りかと→地図H

こんな風に真壁という地は、将門の外戚をめぐる攻防伝説を南北に持つ地域とも言える(^^ゞ。
今回は、この旅行レポ後、千葉県に戻ってからになるが、沼南「将門神社」においても、「君の御前」の事をちょっと書く。



<真壁氏累代の墓地と墓碑群>


真壁町の街中の雰囲気もちょっとお届け(^^)。


夕陽もそろそろ沈む頃
真壁氏累代の墓所」に到着

墓所の前に立つ、石像の多重塔↑は、真壁町指定(昭和46年)文化財彫刻で「大自在天尊像唐金造」とあった。
……ちなみに、これより入るこの場所は、

「遍照院」(真言宗豊山派)というお寺の
横ちょっと高台にある(^^ゞ

地図I←うんと拡大して貰うと「遍照院」が出て来る(^^ゞ。
←真壁氏累代の墓所に行き着くまでは、こんな風に、一般の墓地(と思う)の合間を、ゆったりとした石段を上がって行く。

真壁氏の事をあまりよく知らないが(^^ゞ、知ってる事を書いておくと……。
さっきの「雨引観音」の山門にも、真壁城から持ってきたと伝わる薬医門があった通り、平安期から戦国期まで、長く地域に続いたのが真壁氏である。

真壁氏は常陸平氏(繁盛流)の支流の一つである。
平氏(国香流)系図←の通り、前々回に登場した小栗氏とも、、大掾氏の流れから派生した大元においては同じだが、その中でも 、多気・下妻・東条と近い同族と言える。
常陸平氏と言うと、頼朝の挙兵に積極的な協力態度を取った話をあまり聞かない気がする。
中でも真壁氏は、距離的にも佐竹氏と近い。
戦国時代などは、南から伸長して来る後北条氏に、次々と勢力図を塗り潰されていく中、反北条を貫いた勢力の一部として見るように思う。

が、南北朝時代には、北畠親房が常陸上陸を果たした時など、小田城・関城・大宝寺城とともに、この真壁城の名が南朝方として見え、佐竹氏と共同歩調ばかりではなさそうにも思う(^^ゞ。
南北朝の頃は、多くの氏族が南北に分かれたからだろうが、氏族的な協力(あるいは対立)関係より、地勢的な必然かな〜と(^^ゞ

到着、「真壁氏累代墓地および墓碑郡(パノラマ2枚)

ちょっと進んで、左側と右側をそれぞれ写してみた。

左、「遍照院」の側(パノラマ4枚・180度以上)

右、裏手は雑木林だったかな(パノラマ4枚・180度以上)

大きな石碑で説明が刻まれていたのだが、残念ながら所々かなり磨滅してて、全体の文章が読みとれなかった(^_^;)。

この地域も、千葉・埼玉・東京・神奈川と同様に、秀吉によって後北条氏が倒される「小田原征伐(1590年)」を機に、戦国時代の長い戦乱に終止符が打たれた点は、大きな変わりがないハズだから、だいたいそんな事が書かれてたのじゃないかと思うけど……。



<五所駒瀧神社>

「じゃらん」の案内には、「真壁氏代々の祈願所」とあったので、最後に足を伸ばしてみた。真壁氏の墓所から車だとスグの距離だけど、いい加減日も暮れて、だいぶ暗くなった(^_^;)。。
地図J←拡大して貰うと、遍照院のほぼ隣と言っていいぐらい近い距離にあるのがわかる。

←鬱蒼とした木々の中、細い坂道を降りて来て、正面の鳥居に届く→

鳥居を潜ると、すぐ橋が渡してあって、明るければ左右に川が見えるのだろうが……、

↑この通り、既にだいぶ暗くなってる上に、この鬱蒼たる樹木の影にいるから、写真に写る川は殆ど真っ黒(笑)。橋は「明神橋」とあった。
頑張って再生した1枚→

←橋から境内に入って来たトコ。振り返って撮影。
↑横合いから神社に入る。暗いながらも灯篭が灯ってて、名前の通り、水流も清らかな感じで、何とも素敵だったわ〜(#^.^#)。

本殿(拝殿)
その前にも灯篭が点々と(#^.^#)

←石灯籠と一緒に並んでるガマ像(笑)。どこ行ってもこれは見るわ。茨城のマスコットキャラなんだね〜。
↑真っ暗なんで明度アゲすぎて、スケッチ画みたくなったけど(^_^;)、参道に向かう道の他に、橋が渡されてるのを横から写した図。左の建物に行ってみる。

暗がりの中、左右に仄見える清流。
……暗がり、と言っても、肉眼だとわりとハッキリ見える時間帯でも、カメラでは真っ黒なんだけど(^_^;)。

で、橋を渡った先には……、

別荘風の建物(゚.゚)
さらに奥には茅葺屋根の民家

「楼斎軒」とあった(パノラマ4枚・180度以上)

建物の中にも灯りがともされて、工房のような雰囲気だった。陶芸でもされておられるのかも……。

この後も、実は「歌姫明神」など行ってみたんだけど、日照時間の長い季節とは言え、そろそろカメラの限界(^_^;)。史跡レポはこれにて終了〜♪(旅レポはもうちょっと続く(^^ゞ↓)



<下妻温泉と砂沼広域公園>

下妻に戻って来た。行き最初に寄った「宗任神社」があった地域である。
帰り道というのもあるが、主な目的は温泉(^。^)。

地図K←拡大すると「ビアスパークしもつま」が出て来る。

←「びあすぱーくしもつま」ロータリー。
↑ロビー入口。

このところ各地に多い、地域の温泉施設なんだが、ちょっと幅広く、レストランやバーベキューなどレジャー施設も兼ね、温泉を堪能したい人には、家族風呂とかホテルまである(^^)。

←大衆浴場はひっきりなしに人が入ってるから、撮影が不可能だが、店内に写真が貼ってあったので、それを(^^ゞ。
露天の檜風呂だね。他に岩風呂もある。

一般の入浴は22:00までで、宿泊でも、大浴場はそれで終わりだが、22:00以降〜夜中1時までは、宿泊者専用の温泉があるみたい(^^)。

一風呂浴びた後は、近くの「砂沼広域公園」に歩いて行き、ユッタリ夜の湖の散歩を試みた(^^)。↓


温泉施設のある場所と、大きく違いはないけど、地図L←拡大すると、湖の沿岸に来てる。周囲にず〜っと歩道がついてて、車両は入れないから、真夜中でもマラソンしに来る人とかよく見掛ける(^^)。
沿道には所々、街灯もついてて、わりと明るいのがいいな〜と思った。(ウチの方、手賀沼とかスゲェ暗いから:爆)

↑左部分を拡大↓

湖の中央付近には、屋根付きの立派な東屋があって、そこに座って湖面を見てると、まるで大型船にでも乗って、穏やかな水上を旅してるような、あるいは夜の湖面に張り出した貴族の豪邸にでも、お呼ばれした気分よ(#^.^#)。↓


地図を見ると、中央に橋が渡っているようだが、↑の発光源がちょうどそれに当たると思う。地図M←拡大して見ると地図上にも出て来る。

今回の旅行レポはこれにて終了(^O^)。

この後、夏に出費もあり、秋の旅行がここ数年に比べれば、控えめモードに抑えざるを得なかった。
亭主は年々、東北旅行に意欲を燃やすようになってたから、ちょっと可哀そうに思ったが、栃木まで出る途中の、この下妻や下館に温泉も宿泊もあって、途中下車しながらアチコチ見れるのを知ったから、あまり苦にならない様子だった(笑)。



■5〜7月・千葉県柏市
<藤心「アンチーブ」(喫茶店)>


先にお断りの通り、これより春〜初夏の近場花巡り(^^ゞ。
時期はだいたい、5〜7月ごろ。ツツジや月見草・アジサイが綺麗に咲いていた頃ね(^^)σ→

地図N←ちょくちょく取り上げた事もある、柏市藤心の喫茶店「アンチーブ」。鉄道だと、東武野田線「逆井」駅が近い(^^)。

北上ルートは他にも色々あるが、このルートから手賀沼に行く途中、沼南の「将門神社」(龍光院)に久々に寄ってみよう。

ピーカンに晴れた日の「アンチーブ」↓
一方こちらは傘が置いてあり、地面が濡れてるから、雨の日だね(^^ゞ→

足元にこぼれるような紫の小花
野菜中心のヘルシー・ランチ( ^,_^)ф

←円形(多角形)に張り出したお店の側面(店内の窓)からは、お外の水田風景が一望(#^.^#)↓



<将門神社(沼南「龍光院」)>

さらに北上する。ちなみに「沼南」は「手賀沼の南」。北は「湖北」という。地図O
「将門神社」(龍光院)のレポは3回目だったかな(^^ゞ。(2005年11月<将門神社>・2008年12月<「将門神社・龍光院」(沼南)>

左に鳥居(将門神社)、右に山門(龍光院
「岩井青年館」の通路奥に

2008年12月レポの「将門神社(パノラマ3枚・ほぼ180度)

安政6年(1859)の再建。↑この1枚は、2008年7月ごろに行った時の物(^^ゞ。使い回しでゴメン(笑)。
使い回しと言えば……、

↓これは2005年12月レポ版。行ったのは2004年11月(爆)。
これは今回レポの写真。本堂の側から写してる↑

ねじれ型のご神木
翁・媼と鶴・亀の彫絵

前は相馬氏のシンボル、「放れ駒」の彫絵を紹介したが、フツーに目出度い絵柄のもあるのよ(^^ゞ。

逆側、外に出て、通りに面した「将門神社」(パノラマ4枚・180度以上)

同じ通りには古風な民家と
可憐な野菊の群生(^^)

続いて、お隣の「龍光院」(真言宗豊山派)の山門から入ると、

「龍光院」境内、中央が本堂(パノラマ3枚・180度以上)

山門の前脇に龍神の石彫絵
「地蔵堂」の手前(右脇)に庚申塔郡

左の龍神の石彫は前からあったっけ(^^ゞ。ヤケに立派に感じたな〜。

右の庚申塔の郡は、「岩井庚申塔郡」と銘され、「沼南の歴史23」の碑が建てられ、説明が書かれていた。
いわく、「この場所は岩井地区と箕輪地区の境にあたります。庚申塔は九基あり、大部分が塚の上に造立されており、正徳年間から明治初期にかけてのものです」

↑「地蔵堂」(左)は奥に、手前(右)は「庚申祠」かな。通路に旗指物がたくさん立ってて見えにくいが、ちょっと角度を変えて見ると、この通り、「地蔵堂」の前に仏像が座している。→

←拡大。極めて女性的な姿だが、如蔵尼を象ったものだろう。
如蔵尼は、平将門の三女と伝わる尼僧で、古くは「今昔物語」に現れる(2009年5月<恵日寺(いわき市・瀧夜叉姫の墓所)>内
如蔵尼の話は、地蔵信仰として語られるのだが、ここでは「如蔵尼」を、「地蔵のように情深い尼」と意味しており、如蔵尼自身を象ったものと思って良さそうだ。

堂内には地蔵が安置されている→
元和2年(1616)、岩井村が灰じんとなる程の大火にも、自ら火炎を逃れて村民の安穏を守ったと伝えられる。

ところで……以後は、将門の生前の話とは切り分けた方が良さそうに思えるジャンルではあるが、ここの伝承では、如蔵尼の母は、先程も触れた「君の御前」という事になっている。

坂東市(茨城県)においても、「君の御前」の「受難の地」と伝わるのが、「深井の地蔵尊」であり、くっつけ合わせると、母娘ともに地蔵信仰という共通項を持つ事になる。
母娘ともに大変な美貌の持ち主だったそうだ。

当地の由来では、将門の乱後、如蔵尼はこの(岩井の)地に庵を結び、病で地獄に落ち、地蔵に蘇生された(この辺は上部リンク瀧夜叉姫を(^^ゞ)後、父・将門を祀ったのが「将門神社」の始まりで、自分を救った地蔵に深く帰依し、尊像を安置したのが、「地蔵堂」建立と所以。

再建が江戸期なので、それ以前について確実な事はわからないが(^^ゞ、普通に見て、この地が相馬氏の物だった事があるのと関係あると思う。
この寺をはじめ、この地域には「将門伝承ウォーキングルート」というのがあるので、今度実行してみようと思う。



<梅雨の風情(湖と蛙と紫陽花)>

↑と言っても、梅雨時に撮った写真ばかりじゃなくて(^^ゞ、だいたい5〜7月ごろ。

手賀沼の土手の月見草
(拡大)風に揺れて可愛い(^^)

次は手賀大橋の交差点にある、和風レストラン(地図P←詳しくは拡大(^^ゞ)。
「道の駅・沼南」や「手賀沼温泉・満天の湯」と、交差点を介して隣接している場所。

和風レストラン「みの太」
生垣に座すガマ蛙クン!

(拡大)ここにおるぞよ!ゲコッ
手賀沼を見下ろす背中(笑)

茨城県は、どこ行ってもガマさん像に会ったものだが、千葉県に戻って来ると姿を消すので、撮ってみた(笑)。

GWに茨城に行って、田んぼじゅう鳴き渡るカエルの声に感動した後だったので、この夏はカエルの声をちょっとでも聞くと、車を馳せて聞きに行った(^^)。だから水田を大写しにしてる写真とか多くて、後になると「何故こんな所を撮ったんだろう(^_^;)」と思ったり(笑)。

ルソーの描く月夜のような手賀沼
拡大

↑白井あたりを抜ける頃から、緑のまだ至らぬ頃の水田に、雲が凝る夜空や、変幻自在に大きさや色を変える月が映ると、まさにルソーの描く神秘絵を彷彿とさせる風景になる。
新しいデジカメだと、わりと雰囲気が出るので撮ってみた(笑)。

後は、蛙と言えば梅雨時、梅雨と言えば……って、小学生が学校のカレンダー見て連想してるみたいで恐縮だが(笑)、今年も綺麗なアジサイの絵が撮れたので(^^ゞ。↓





以上、関連事項は(だいたいね(^^ゞ)、

2004年6月<檜原(ひのはら)城跡「十三仏巡り」と吉祥寺>内
2005年11月<将門神社>
2007年5月<筑波山神社>内
2007年7月<逆井〜手賀沼・栗ヶ沢>
2007年10月■2007年8月ごろ
2008年7月<牛久城跡、2>内
2008年9月<「野本の戦い」跡地周辺「鹿島神社」>および<葦津江「深井の地蔵尊」〜八千代・古河>
2008年10月<坂東市「国王神社」>内
2008年11月<茨城県常総市「豊田城」(石下町地域交流センター)>内
2008年12月「作品の広場」内「将門雑記(風と雲と虹と)」40〜46話内
2008年12月<「将門神社・龍光院」(沼南)>
2009年1月<如蔵尼と乗丹坊の墓・龍宝寺「不動堂」>
2009年5月<恵日寺(いわき市・瀧夜叉姫の墓所)>内
2009年7月<南部「今城」>内
2010年11月<雨引観音(楽法寺)・薬医門〜本堂>以降


次回も、今少し初夏の風景などお届けした後、いよいよ、8月の「山陰・妖怪ツアー(爆)」行っちゃおうかとっっ(≧▽≦)。。

<つづく>

2010年12月23日
 
     





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