<2008年・城主のたわごと10月>




2008年5月「将門ツアー@茨城編」最終回は「天慶の乱」!

舞台は筑波〜石岡・鎌輪・古河。そして再び坂東と豊田。




     
  「将門ツアー@茨城編」の第三弾・最終回(^。^)。
今回は「将門の乱」の後半、いよいよ「天慶の乱」に入る。

前回・前々回も出した<史跡と順路について>←まずはこれを(笑)。

時は、2008年5月GW。3日の内、今回は3日目に相当する所をお届けの後、これまでカットして来た所を(^^ゞ。他に、7月と9月に行った写真も挿入する。

今回は以下の太字部分を提示。

<承平の乱>
・野本の合戦
・川曲の合戦
・下野国府の合戦
・子飼の渡しの合戦
・堀越の渡しの合戦
・服織営所の合戦←今回はここから最後まで↓
・石井営所の合戦
・信州千曲川の合戦

<天慶の乱>
・常陸国府との合戦
・下野国府・上野国府の攻略
・下野国境の合戦
・北山の合戦




<桜川市、筑波山「薬王院」、2>

脱線したままで恐縮だが、この「薬王院」の続きから入る(^^ゞ。今こんな所。地図A
前回はお寺の文化財を中心に話したので、今回はちょっと歴史的な流れを。

このお寺自身は、最初の頃は「法相宗」に属していた。
法相宗とは、600年代、奈良時代に平城京を中心にした「南都六宗」という六宗派からなる奈良仏教の一宗派で、やがて平安時代、平安京を中心に天台・真言が隆盛するわけだが、奈良時代は日本に仏教が行なわれたばかりで、布教や救済といった行動より、仏教が学問として研究されていた頃の学術的な(学僧の)集まりだった。

この時代の山岳系でよく名を見る「行基」や、筑波山でもその名をよく見掛ける「徳一」などもこの法相宗で、「徳一」がこの同じ筑波山の「筑波山神社」の開山を行なった事は「2008年5月<筑波山神社>内a」にも書いた。

実はこの「徳一」や、この後にも触れる「慈覚」(天台宗)は、今回の最終段・将門伝承の裏に見え隠れする(^^ゞ。

前回の続き、三重塔の隣にある本堂(^^)。
そして、そのさらに先に(三重塔より離れると)、山肌を背景に大きな池に弁天様を祀った庭園(^^)→

本堂と池辺の庭園を繋げて見ると……、↓

こんな感じ(^^ゞ。なかなか大きなお庭(パノラマ4枚・180度以上)

開祖・最仙上人は常陸国・関本の出で、茶花氏の長子。南谷椎の洞に篭り、法華三昧と念仏にくれたため、洞から紫雲がのぼって光を放ち、桓武帝が臣を遣わして光のたよりに尋ねさせた所、最仙上人は「天下泰平と国土安穏を祈るほかに望みはない」と応えた。

この寺の本尊「薬師瑠璃光如来」はこれに由来し、延暦元年(782)4月8日に開祖。七堂伽藍を建立して道場とし、33郷を香華の資料として賜って、桓武天皇の勅願所とされた。

またこの時に桓武帝の勅使が過ごした処として、「勅使ヶ峰」が大字椎尾と酒寄の間に、同じく勅使が最仙上人の居所を知った場所として「筆立山」がある。

この「勅使ヶ峰」「筆立山」には行けてないが、この本堂から階段を降って行くと……↓
木の洞に小さな菩薩像が安置され、紫色のお花まで供えられて、最仙上人の伝承がイメージされる(^^)→

桓武天皇と言えば、良兼には4代、将門には5代の祖に当たるわけだが、二人は「そんなの関係ねー!」と思ってたのか、「父祖の妙罰作戦」とかやるトコ見ると、関係あるから周囲でダラダラと粘ってたのか(笑)。

延暦20年(801)に最澄が天台宗に改め、最澄の作「赤栴檀薬師如来」の尊像が今でも在る。
天長2年(825)、最澄の後継(三世)慈覚の再興もあって、天台浄土教となり、天台檀林所として四隣に権威を冠した。慈覚の作は「因達羅大将および日光月光菩薩」などが今も残る。
「因達羅水」といって、巳の神がどこからともなく来て巌窟の上に立ち、霊水をコンコンと湧かせたとも云い、これが眼病に効くとして多くの信仰を集めた。

が、こうした伝承を残す慈覚の再興の後は、やがて衰退して廃寺同然となり、弘安年間(1278〜1287)、鎌倉から忍性と玄性の両僧が来て再興した。
これも天文3年(1534)4月29日に野火の火災に遭い、薬師瑠璃光如来いがいの堂宇や貴重な記録などが灰となった。

永舜の代に再び仮堂を営み、融通念仏の布教に務め、また阿弥陀仏信仰を進めた38世の本考(江戸時代)が伽藍建立に着手、延宝8年(1680)10月、尊考の代に成就した。
徳川氏も朱印地として百石を寄進した。

正徳3年(1713)、祝融の際、「因達羅大将」の塩勧化によって、筑東の銚子の浜の人々が塩を担いで来て、積んだ場所を「塩をり谷」と云い、この塩が、本堂再建の地鎮に供された伝承がある。
境内には、薬師堂、三重塔、楼門、鐘楼堂、護法堂の他、「常念仏堂」は享保18年(1733)10月、41世の円順の代に、江戸芝田町の富豪・仙波(太郎兵衛)定延の妻が寄進して建立され、「牛仙波」の名で世に謳われた。

が、明治初年(1868)より以降は、台風の災害などで堂宇が損傷、やむなく阿弥陀仏を寺坊薬王院へ奉還し、薬王院阿弥陀堂として諸法要して来たが、最近は薬王院自体が老朽化したため、平成6年(1994)8月、檀徒たちによって再建を目指し、多額の寄付によって客殿を含め、阿弥陀堂と庫裏を建設しなおした。
お寺の方のお話では、往時は大層賑わっていたこの「薬王院」ルートも、現在は麓から頂上まで車道が整備されたために、訪れる人が激減してしまったという事だった(;_;)。。
これは「薬王院」より、さらに山頂を目指し、高台で車を停めて、下界を撮影。↑



<筑波山中〜羽鳥(服織)〜湯袋(弓袋)>

さて、将門の話に戻ろう(^^ゞ。
地図B←筑波山の西の「卍」マークが今いる「薬王院」で、筑波山の西北方面に「羽鳥」。そして筑波山の東部に「湯袋」が見られる。

まず将門は、承平7年(937)の秋頃から冬にかけて、「服織営所(現在の羽鳥あたりか)を焼き払い、良兼軍は高山に逃げ入る」となる。この高山が筑波山中のようで、やがて良兼軍を追って山に入った所、良兼軍の居場所が「弓袋(現在の湯袋か)」と知れ、この後が長い攻防戦となる所まで前回提示した。

我々は先に「筑波山中」に入っているので、あと「羽鳥」と「湯袋」を通り過ぎ、果ては「常陸国衙跡」のある「石岡」を目指しながら、将門の話の続きを書きたい。

まだ筑波山中
涼しい山林を潜り抜ける(^^)

服織営所の戦い(弓袋の戦い)」の話は既に終わっているので、その先に話を進めよう。
この戦いで決着がつかなかった将門と良兼が、その後どうなったか(笑)。

以下「作品の広場」内
将門雑記(風と雲と虹と)40〜46話(←2008/12/15リンク(^^ゞ)

承平7年(937)11月、ついに「良兼・源護・貞盛を追捕せよ※T)」という官符(朝廷からの命令)が将門に出され、将門は「頑張らなきゃ!」と思うし、一方の良兼は、将門の雑用係を捕まえ、褒美や出世をチラつかせて篭絡し、将門の身辺を探らせた。
12月、この雑用係をスパイに石井(いわい)営所の武器のありかなど知った良兼は、石井営所に夜襲をかけた。

「石井営所」は前回レポした通り(^^ゞ。
「将門記」で「石井」が出て来るのは、実はこの辺りが初なんだが、4ヵ月も山野に潜伏し続けたとは到底思えないし、後で状況説明が出て来るのはこの書物のパターンなので、前回で出させて貰った(^_^;)。

良兼の計画を将門側の人が察知し、良兼軍の行軍に混ざり込んで調べ、途中から軍を抜け出て石井に通報した。
良兼軍は80騎、将門の方は僅かに10人しか兵が居なかったが、将門が先頭きって戦った所、又々又々、将門の大勝利っっ(≧▽≦)。。良兼たちは又しても、ワ〜ッと逃げてしまった(笑)。

これが「石井営所の戦い」と言われるもので、人数的には小規模だが、いかに将門個人の武勇がスゴイかは、この戦いで特に証明されてしまう(笑)。

途中に通った小さな社
筑波を吹き渡る坂東の風

この筑波を吹く風、「筑波おろし」などと表現されてるのをよく見る。↑

大河ドラマ「風と雲と虹と」にも、将門が良子(良兼の娘)を略奪する衝撃的な回や、源扶たちに待ち伏せされて始まる「野本の戦い」で、大風がゴオッと激しい唸りをあげて大木をゆするシーンが取り上げられ、京周辺の雅な雰囲気だけが知られる平安時代、ここ坂東では、荒々しく猛々しく大地を戦塵が舞い上げていった様子が強く印象づけられていた。

又この道には「男の川水分神(不老峠)」「小滝不動」など多くの神仏が祀られていたり、月待講と思える「○○夜」という石碑も見られ、習合的・修験的な雰囲気が満載だった(^^)。

やがて筑波山を抜け
羽鳥の街並が見えて来る(^^)

将門が焼き払った営所は……
このどの辺りかなぁ(^^ゞ

麓まで下りた。服織営所のあった山はあの辺りか(パノラマ2枚)

さて、ここで久々に貞盛の登場(笑)。
負け側にいる貞盛は、「そもそも出世が望みだし、坂東にいるとロクな事ないしなぁ」と、もういい加減に京に戻る気になってて、ここで貞盛の「京贔屓で坂東嫌い」みたいな性格の一端があらわれる。

余談だけど、この貞盛の系譜はこの後は伊勢に行っちゃって、後の伊勢平氏。平清盛に繋がるワケね(^^ゞ。

で、注目発言としては、この時に貞盛が「盗みは辞めないとね〜」とか言うトコ(^_^;)。。
この時代の坂東に多かった「群盗」の風潮を嘆くようでも、将門に批判的なようでも、逆に将門の領地を掠めとった叔父連に批判的にも受け取れ、「盗を避ける」と解釈されようだが、何の気ナシ普通に読むと……。

「そうか貞盛って落ちぶれて、ドロボーに身を落としたのか(・・;)」と、まず思う(爆)。

羽鳥を去って
再び筑波山に入山決行!

将門は貞盛の「上洛する」発言を、どうやってか伝え聞くわけ(^_^;)。。
忍者みたいな人でも抱えていたのか、それとも既に近隣勢力がみんな将門に加担して、貞盛情報がモレモレだったのか、将門って結構な情報通だった気がするけど、何しろ将門は「あいつチクる気だな!」とか、貞盛を追撃する腹を決めるの(笑)。

この時点では、特に貞盛が誰を「チクる」気かわからない。「身の愁を奏す」とはあるけど「不定愁訴」かもしれないし(んなワケないだろっヽ(`Д´)ノ)、将門は「貞盛を追討せよ」て官符を受けて追い掛けてるんだろう。

今度のルートは西北から
ズンズン山に近付いて行く!

そんなわけで、明けて承平8年でもあり天慶元年(938)でもある、2月、将門は信濃国小県の国分寺あたりで貞盛に追いつき、双方ともに戦死者や負傷者を出す合戦となった。
これが「信州千曲川の戦い(追撃)」で、ここも茨城じゃないから今回は文字だけ(^^ゞ。

この信濃国小県には元は国府があったのが、この頃には筑摩郡に移ってたようだけど、戦場と推定しうる長野県上田市街の東端・国分寺跡からは、この時の兵火とも可能性しうる瓦の焼け跡が確認されるという。。

貞盛を討ちもらした将門も残念だったけど、辛くも山中に逃げ込んだ貞盛の苦難はもっとスゴイわけ(^_^;)。。食い物は無いわ、馬には雪を食わせ、寒い中を餓えながら……。

山中に入った↓
ここが湯袋峠! メッチャ深い森!→

こんな深遠たる森に入ったら、敵にも会わないだろうが、生きてるのも困難そう!↑
って今してる話だと、どっちかっつーと良兼より、貞盛の苦難が目に浮かんじゃうっ(爆)。

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▼@何とか京に着いた貞盛が太政官あいてにボヤくと、今度は「将門を糾問しよう」て事になった。
貞盛が坂東に帰って、「て事だわ(^^ゞ」と言うと、将門は「それがどうしたヽ(`Д´)ノ」って調子(笑)。(※U)
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▼A6月に良兼が死去してしまい、貞盛はますます窮して、知り合いの平維扶が任地の陸奥に行くのについて行きたいと願ったんだけど、また将門が追い掛けて来たので、貞盛がまた山に身を伏せてる内に、維扶は(たぶん「コイツ連れてると将門に敵視されて厄介」と)貞盛を見捨てて陸奥に行っちゃったの(≧▽≦)。。

又々、野宿つづきの貞盛。周囲に「兇賊」が徘徊して、山から出られないという事なんだが……これは山賊とかも怖いんだろうけど、たぶん将門の味方が貞盛を付け狙ってたんだろう。
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(▼@A この事件はこの翌年、つまり天慶2年(939)の事とも言われている)

何しろ貞盛が窮乏しまくってる間に、将門は武蔵国に出掛けて行ってしまう(笑)。

まだまだ続く弓袋(湯袋)峠
良兼(と貞盛)の苦難を背負って(爆)

武蔵における事件は、先にあらましを言っちゃうと、ここで登場する「興世王」は後に将門派になり、同じく「源経基」は反将門派になる。この「源経基」というのは、清和天皇の三世の孫で、つまりあの源頼朝の先祖!

が、この二人は最初は仲良く武蔵国にやって来た。
武蔵では国司が交代する時期で、国司の代理・権守に「興世王」、国司の次位・介に「源経基」。

これを迎えるのは国司の下で働く郡司「武蔵武芝」で、公正な人柄で国内の人気者(^^)。
だいたい国司は京の命令でヨソからやって来るのに対し、郡司は地元の人が多いようで、地元民が郡司を頼りにしたり、国府内でも下役人が国司の横暴に反感を持つ事が、この時代、他の国にもあったのだわ。

ところが興世王・源経基コンビは新任地に入ろうとし、武芝の側は、それまで納税についても多少の遅滞で督促を受けた事すら無かったのでビックリし、「(代理の)権守じゃなく、(正式な)国司が来てから迎えたい」と揉めてしまう。

何でそんな事で揉めるのかよく判らないけど、国司の着任とかあるたびに、国許は何かと物入りだったんじゃないかと(^_^;)。。そういう負担って、なるべく減らしたいわよね。。
すると興世王たちは武力で武芝の屋敷や周囲の民家から強奪し、合戦にも及ぼうとした。

将門が武蔵国に来たのは、翌・天慶2年(939)、この揉め事の仲直りを勧め、武芝と興世王は国府で対面。
将門が武芝と興世王の間を取り持って、仲良く一杯(^^)やって盛り上がってたら、武芝の軍が源経基のまだいた山の陣に行ったので、経基は脅えて逃げ出し、「興世王と将門は、武芝の言いなりに自分を殺そうとした!」とか京に訴えちゃう(^_^;)。。

筑波山中を出て……
今度は石岡に向かう(^_^A)

移動距離が伸びたので地図を取り替えよう。地図C←左(西)が筑波山、左上(北西方面)から右下(南東方面)に地図を斜めに来て、終点が「石岡」となる。

天慶2年(939)3月、京で将門の主人だった太政大臣(藤原忠平)宛に、真相を説明するよう通達が届いて、将門は5月に、常陸・下総・下野・上野・武蔵の各国府から、解文(げぶみ)という釈明証みたいのを送って貰うの(^^ゞ。
これは「将門には罪は無いから訴えは筋違い」みたい内容と思う。つまりこれだけ多くの国の司(今だと県知事クラス)が、将門を応援してくれてはいたわけだ。

この揉め事の成り行きは(将門の乱の後に記述される事だけど)、結局この源経基の訴えが「讒言」として却下され、経基は獄されたみたい(笑)。……つまり被害妄想だった、という事だね(^_^;)。。(※V)

(前述の「▼@」の出来事が「天慶2年(939)」とすれば、この後に入る。無実の罪に問われてる時だったので、将門にしてみれば神経を尖らせてた時期だったのかも)



<石岡市「常陸国府跡」>

さて、ここに将門、初の反逆行為が勃発する! いよいよ「天慶の乱」幕開けである(^。^)。

事の起こりは、藤原玄明という人物。
「天慶の乱」を語る上で、将門と「将門記」の作者の間に擦れ違いが見られる所があって、そういう人物としては、まず第一級と言えるのが、この藤原(大河ドラマでは「鹿島」)玄明である(^^ゞ。

「将門記」では、「乱人」「国の秩序を乱す」「民の害毒」「農作物の搾取と横領」「脱税」「公務執行妨害」「脅迫」「誘拐」「不動倉(納税で集めた米)襲撃」「強盗」「国司殺害および合戦計画」と連続凶悪行為のあげく、将門の元に転がり込んでいる(^_^;)。。

これが後にいわゆる「将門書状」には、将門自身がシャアシャアと「最初から自分の従者」と書き、そこに何ら上記の罪状への弁解が無い。

ここは「乱人を匿って何が悪い」と、将門が傲岸不遜に開き直っているから、と見る事も出来なくはないのだが、少なくても将門と「将門記」の作者には、藤原玄明に対する感覚に隔たりがあった感じがボンヤリ窺える。まぁ、この事はもうちょっと後に譲ろうか。

以下「作品の広場」内
将門雑記(風と雲と虹と)47〜52話(←2009/01/18リンク(^^ゞ)

というわけで画面とのズレもこれで終了し、何とかかんとか常陸国府跡に到着(^_^A)。

が、着いたら夜だったぁ〜!(爆)
なので、改めてこの9月、東北旅行の帰りに寄り直して撮影(^_^A)。→

写真が、夜のと昼のが交差して変な具合だが(笑)、実は5月に来た時には、まだドラマで常陸国府のシーンを見てなかったのが、後で見たら、将門が戦に勝ってこの国府に乗り込んで来たのが夜のシーンだったので、自分達が来た時の印象にちょうど重なった(^_^;)。

で、ここ常陸国府跡は敷地が石岡小学校の中(校庭)(^_^;)。。
入口はニ方向あって、こっちは隣の民俗資料館の駐車場から入る。地図D
夜に来るのもどうかと思うが(笑)、かと言って小学校の運営時間に来るのもどうなのかな(^_^;)。。校庭で体育とかやってる時は、邪魔にならないように気を付けようねっ。。

で、最初に出会うこの門は江戸時代の物で、「陣屋門」と名称されていた。
本柱の上に妻破風造の屋根がつき、控柱の上にも本屋根と直交してそれぞれ別棟の小屋根をつけ、扉と控柱とを覆っている高麗門の形式だが、冠木と棟木間が土壁で閉ざされいる高麗門に比べ、冠木が本柱を貫きとおし、また冠木と棟木間に格子を組み入れるなどの手法を見せている。

左に府中城の土塁跡・右に陣屋門(パノラマ2枚)
↑間に見える背景の建物は「民俗資料館」(^^ゞ

律令時代から始まる「国府(国衙)」は、今でいう「県庁」みたいなもので国ごとの政治を行っていた。<県(今)国(昔)対照表>

が、古い時代なので、当時の各国の国府跡は文献には記録されても、史跡としては愚か、場所が不明な国府もあるらしく、「国分寺」や「総社」とか、「府中」という一定の時代まで残った地名とかで、「昔は国府があったらしい」と推定される事も多いようだ(^^ゞ。

ここ常陸国府の成立は600年代後半から700年代初頭で、常陸国は大国であるため、国府も大規模なもので、国府の下に郡衙が置かれ、多珂(たが)・久慈・那賀・新治・白壁・筑波・河内(こうち)・信太(しだ)・茨城・行(なめ)方・鹿島の11郡を統轄していた。

国府の中心・国衙には、行政官の勤務する役所や倉庫郡など、さまざまな建物があり、国分寺・国分尼寺・国衙工房などの施設も存在し、当時はこの石岡付近が国の中心地として、多くの官人や兵役・雑徭にやってくる農民たちでにぎわった。

この国府跡は、700年代初頭に置かれたと推定され、昭和48年(1973)、石岡小学校の校舎改築に伴い、校庭の中央部付近の発掘調査が実施され、多くの柱穴が発見された。
大形のものは径1.5m、深さ2mの規模を持ち、これは国衙の建物跡と考えられている。

「常陸国府跡」大きな石碑
国府発足時ごろの古墳から出た石棺

右の石棺は「箱式石棺(舟塚山古墳群第9号噴出土)」で、石岡市北根元681番地より昭和51年(1976)の発掘調査によって発見。古墳は、一辺約13mの方形をあらわし、周囲に幅1.5m、深さ60cmの溝をめぐらしていた。

これが、だいたい約1300年前のものと推定され、国府が出来た頃に重なる可能性もある。
古墳は一般的には古墳時代後期(約1500年前)頃から出現する事が多いが、関東では箱式石棺の分布が茨城県に最も多く、霞ヶ浦周辺に濃密な分布をしめ、この古墳のように飛鳥・奈良時代以降と、比較的新しい時代に作られた物の方が数多くみられる。

前回も下総国庁跡から発掘された石棺を提示したが、やはり「古代の開発時代を探る手掛かり」といった記述が見られ、古墳時代の後、広い地域で開発がどう発展していったかを知る上で興味深い。

石棺は、扁平な板石を組み合わせ、蓋石5枚、側石8枚、妻石2枚の計15枚でつくられ、床石には15cmの小石を敷きならべて、内部には人骨二体が埋葬されており、一体を埋葬した後にもう一体を埋葬する「追葬」形式がとられていた。

また藤原宇合が京に上る時、娘とおぼしき女性に送った歌が碑に記されていた。

土塁は国府時代の後の大掾氏時代の城郭跡(パノラマ2枚)

ここで、そろそろ「将門の乱」の時代に入るわけだ(^^ゞ。

常陸の国司・藤原維幾が「指名手配ヽ(`Д´)ノ」と追ってた藤原玄明を、将門が匿って「逃げてしまいました(^^ゞ」と言ったと「将門記」の作者は言う。

(前述の「▼A」が「天慶2年(939)」なら、ここに入りそう。後でわかる事だが、どうも常陸国府が「玄明を出せ」と言いながら、将門が追捕してる貞盛を擁護してたって事みたい(^_^;))

そのうち将門は常陸国衙にやって来て、「玄明ら(家族も連れていたらしい)を追捕しないでちょ(^。^)」という書状を持って来たんだけど、国衙は「ダメ、合戦あるのみぃっ」とチョー強硬態度(・・;)。。

ドラマでも原作でも、貞盛が「バカじゃね? 将門に勝てるハズないジャン」と呆れるんだけど、その通りに将門圧勝、国衙軍はボロ負け(^_^;)。
これが天慶2年(939)、11月の「常陸国府との合戦」。

国府は朝廷の代行機関だから、これと戦闘した時点をもって、将門は「叛逆罪」を被り、つまり「謀反人」になったわけだ。

上の土塁に乗っかって、「将門、常陸国司を相手に怒り心頭!」ごっこを亭主と二人でやって遊んだ(爆)。←小学校の敷地内でかっ??!

何に怒り心頭だったかと言うと、ここらがドラマの解釈もあるんだけど、この当時の国司というのは、税や労役の物凄い過酷な負担を強いてたわけ。
その事に将門は怒り狂って、戦が終わると国府にやって来て怒髪天を抜き、同時に季節ならぬ雷鳴が轟き渡る。

夜シーンだったのもあり、この将門がメチャクチャ カッコ良くて 怖くて、国司も土下座するが、なぜか同時に視聴者も土下座する(爆)。

この常陸国府跡では、淡々としかし明確に「この国府の栄華を破壊したのは、将門の乱」と案内版に記述されている。
この周辺からは当時の物と可能性しうる焼け跡などが発見されるとも言われ、「将門記」の記述の裏付けが待たれるが、当時の物なら、これまでの戦いで将門がやったのか敵がやったのかわからない放火については、国府側が自分でやるわけないので、将門軍がやったのだろう(国府の横暴に対する民衆の暴徒化を指摘する説もある)。

そして、その後について書き起こされるのが、「南北朝以後」とポンと時代が飛ぶ。
つまり「将門の乱」のあった900年代半ばから、南北朝の1300年代まで、律令の頃の繁栄を思わせる歴史に空白が続いたのかもしれない。。

と言っても、この地に再び君臨する大掾氏というのは、貞盛の弟・繁盛から出た系譜だから、将門の時代から連続性はあるハズだけどね(^^ゞ。

その土塁を辿って反対側に来てみる↓
すると、こっちには小学校の正門がある(^^)→
この大きな木の下には……↓

ド〜ンと階上に石碑の場が作られてる!(^^)
表彰台みたいな立派な階段♪

↑ここも正門から小学校の敷地にちょっと入らないと、この一廓は拝めない(^^ゞ。

ここにはもう来ないので、将門の乱の後の、この常陸国府跡の話もちょっとしよう。
南北朝時代から戦国時代にかけて、さっきも言った、貞盛の弟・繁盛から出た大掾氏が支配。正平年間(1346〜1370)大掾詮国により「府中城」が築造されたといわれる。さっきの土塁はその時の物だろう(^^ゞ。

風間阿弥陀
これは筑西市の小栗城の守り本尊で、府中の風間氏の転居により引き取られたのだが、この小栗城というのも小栗氏なら、やはり大掾氏と同じく、貞盛の弟・繁盛から出た系譜だろう(^^ゞ。

1400年代に小栗城が落城し、(照手姫伝承の)小栗助重の家臣が大掾氏を頼り逃げ落ちた時に持って来たとも、風間次郎正興、八郎正国親子が三河に落ち延びる途中(現在のかすみがうら市下志筑)、幼い4代目三郎正三とともにこの阿弥陀を残していったのを、代々風間氏が守ったとも言う。

高さ約130cm、五輪塔が壊れたような形をしており、風間文書によると本尊は地下に埋められ、地上には粘土で固めた像が残されたと言う。

その後、府中城は、天正18年(1590)12月、大掾清幹(きよもと)が佐竹義宣に攻められて落城したが、義宣の叔父・佐竹義尚が城主となった。
慶長7年(1602)佐竹氏の秋田国替後は、六郷政乗がこれを領するなど、領主が交替しつつも府中城に拠点が構えられた。

江戸時代の元禄13年(1700)、水戸徳川家の初代藩主・徳川頼房の五男・松平頼隆が府中藩主となったため、以後170年近く、明治維新に到るまで、この石岡地方は「御連枝・府中松平氏」の領地となった。
その間、代官や役人が在任する屋敷や役宅、「府中陣屋」も建設され、さっきの「陣屋門」は文政11年(1828)2月に建てられた。

城の規模は東西約500m、南北約400m、本丸・二の丸・三の丸の他、箱の内出丸・磯部出丸・宮部出丸を備え、堀・土塁をめぐらした堅固な城郭だった。

「常陸のみやこ一千有余年」
←の碑のある階段上から見る周囲の校舎

明治には石岡小学校、新治郡立農学校(現在の石岡一校)、大正には石岡実科女学校(現在の石岡二高)、昭和には石岡中学校など、教育施設が次々と建てられた。
この石碑の位置も、中世府中城の土塁であると同時に、昭和戦前期、石岡小学校の奉安殿が建てられていたという。

以下は小学校の敷地の外(^^ゞ。

まず「石岡の陣屋門」の碑
そして「青屋神社

↑どちらも石岡小学校の正門から1〜2分の距離(^^ゞ。正門の周囲をちょっと歩くと在る。

「石岡の陣屋門」は、一番最初に出した代官屋敷の門の事で、門そのものは小学校の敷地に保存されてたが、正式にはこっちに在ったか、小学校の敷地の中にあるので案内表示として出されてるのか、一般人が気軽に入れる「民俗資料館」の敷地にあった。

同所に「元真地(もとまち)」という碑があり、こちらは「府中石岡城」(大掾氏以後の城跡)の簡単な説明と、この町名「元真地」が、不確定ながら「元々その地のおさえであった場所」とも解される、と紹介されていた。

右の写真「青屋神社」は、常陸国司は着任すると「鹿島神社」に参拝する慣わしだったが、この辺の海はよく荒れたので(^_^;)、出航不可能な場合は、出航する高浜でススキ・マコモ・ヨシで仮屋を造って、鹿島への代理参拝とした事が「青屋祭」の起こりと書かれてあった。

この「青屋祭」は6月21日に行なわれ、高浜・大洗磯崎・鹿島など各神社の津で、霞ヶ浦と鹿島灘の航海安全や水産物の豊穣を祈願し、舟塚山古墳を「青野喪山」と呼んで、幣帛を供し、鎮魂の神事を行なった。

それが近世は、「青屋の馬場」と呼ばれるこの辺りで行なわれ、前夜、青ススキや細竹で仮屋を造り、当日、公家装束の税所(さいしょ)氏と小仁所氏が高浜の高浜神社に参拝に行った。
つまり国府以来の祭りが、長く近世にも引き継がれて行なわれていたのだ(^^)。

というわけで、5月GWの3日に渡る「将門ツアー@茨城」は、これにて終了っ(^O^)。
あとは、それまでに撮影した写真を繋げて、残りのお話しをするっ。



<下妻市「鎌輪の宿」>

叛逆に踏み切った将門は、天慶2年(939)、11月より常陸国府を包囲して東西を封鎖。
山のような高級品が分配されたとあるが、藤原玄明が「家族や配下を養った」とあるのと同様、分捕品を大勢に分け与えたと思われる。

長官や使者らは印鎰(ハンコや倉庫の鍵)を奪われたが、将門は彼らに家を与えて住まわせ、労わった。

この時に将門が「帰った本拠」とおぼしき地名が、「鎌輪の宿」と書かれ、豊田館(常総市)から少し離れた、現在の下妻市南部に「鎌輪の宿跡」の碑が立っていた。→

場所は、地図E←この辺り。交差点を南に曲がった所。

この碑には「平将門公鎌輪之宿址碑」とあり、やはり将門を「真の姿が理解されるようになった」と記念碑を建てている。

それだと、普通なら「英雄が誕生したのは、ヨソでなくココよ(^^)」と言いたがる気がするんだが、将門の本拠地(常総や坂東)に限って、将門が従来いた(か誕生した)場所を、ちょっと離れた「相馬」と伝えている所が興味深い。

ここにある碑にも、将門はだいたい16歳で京に行き、28歳で一度、相馬御厨に戻って来て、自ら率先してみんなと開拓し、豊田に移ってから鎌輪を本郷と定めた事が書かれている。
7年ほど住んで、一族の抗争に巻き込まれて石井に移った、という。

ここに限らず、将門の館があった豊田の周囲では、このように将門を「相馬御厨から将門がやって来た」とか、「相馬御厨の下司であった」といった記載が多く見られ、最初に行った「豊田館」跡(将門公苑)になると、ハッキリと「良文の子・忠頼」と「将門の娘」が婚姻し、その間に生まれたのが、後の「平忠常の乱」の忠常本人としている。
つまり女系ながら、後の千葉氏・相馬氏に「将門の血が繋がっている」と伝えているのだ。

ここには旅程の3日目、筑波山に向かう途中、「将門寿司」とか「子飼の渡の合戦場」とか見学してるのと一緒に、お昼ご飯の前に来たの〜(#^.^#)。

「将門記」で「鎌輪」が出て来るのはこの時なんだけど、ここも昔の豊田郡だから、原作では、その前から本拠として登場してた。

つまりここでは、石井に行った後、この時期までには豊田に再び勢力を挽回してたんだな〜、という事が判るワケ(^^ゞ。

この辺から武蔵の事件で出て来た「興世王」が将門の側近として登場する。
興世王は武蔵国司の代理(権守)だったのだが、正式に新国司となった「百済貞連」に排除され、武芝との仲直りの時に将門と仲良くなったのか、下総にやって来ていたのね。

興世王が「一国を取った以上、反逆者決定だから、このさい坂東(八ヶ国・今の関東地方)を全部取っておいた方が有利」と言い、将門は「常陸と一緒の事を他の六ヶ国もやって、人民にも認めて貰おう(^O^)/」と数千を率いて、12月には下野(栃木県)、その4日後には上野(群馬県)で、常陸(茨城県)と同じく国司から印鎰をゲット。

これが「下野国府・上野国府の……これ合戦と言えるのかな(^_^;)。攻略」にしとこう(笑)。

常陸と違う点は、これを受け取る儀式みたいのをやって、国司の方も恭しく捧げる、みたく戦闘が無い事かな(笑)。残りの4ヶ国(上総・武蔵・安房・相模)になると、デキのイイ使者を送るだけで、長官どもを都に追い返しただけになった(笑)。



<古河市「持明院」、下妻市「五所神社」>

ここは古河と八千代の間あたり。地図F
2日目、葦津江あたりを廻った後、この辺りのお寺にも寄ったので、下総から、下野国や上野国に出る時に出そうと取っておいたの(^^ゞ。
将門が下野あたりまで出張って行ったルートが、ちょうどこの辺りかな〜と(笑)。

古河市「持明院(パノラマ4枚・180度以上)

さて、上野国にいる間の出来事としては、巫女が神がかりをして、「八幡大菩薩の使い」と称し「将門に位を授ける」と口走り、この時に「取次ぎ」と称して「菅原道真の霊が伝える」とも言う事件で、前回も触れた通りだけど、これを喜ぶ将門の部下として、「興世王」と常陸国の掾「藤原玄茂」が出て来る。

この「藤原玄茂」が、さっき「乱人」とされた「藤原玄明」と近い人物じゃないかと言われる人みたい(^^ゞ。
また国府ってのは通常、「守」「介」「掾」「目(さかん)」の順に序列されてるんだが、そもそも将門が叛逆に踏み切ったのが、常陸国府が仕掛けた戦争からって点を見ると、この人物が常陸の「掾」ってトコがミソ♪

これ以来、将門は「新皇」と呼ばれたと言うんだけど、将門自身がどう思ったかについては、この後「将門書状」の中にそれっぽい主張がある。

この「将門書状」は、京都時代の上司で、当時の朝廷でも最大の実力者・藤原忠平あてに書いたと言われ、時間が前後するとも、「将門記」作者の作為とも言われるけど、「自分は桓武天皇の五世だし、武勇でずいぶん頑張ってるから、日本の半分ぐらいゲットはアリじゃね?(^。^)」とか言う表現になってて(笑)、まぁ「日本乗っ取り」と言うよりは、「坂東独立国家」ぐらいの小規模構想だったんだろう、と見られている。

「持明院」の美しい庭園(^^)(パノラマ3枚・ほぼ180度)

しかしそんな事より、この「将門書状」でトンデモ・ビックリなのは、将門反逆の動機が、「貞盛と結託してる藤原為憲が、冤罪を押し付けて、自分の従者・藤原玄明を追い掛け回すから、常陸国府に事情を聞きに行ったら、貞盛と共謀してイキナリ襲って来た」という所。

藤原為憲というのは工藤氏(曽我物語にも登場する)の祖で、常陸国司・藤原維幾の息子なのだが……実は系譜的にはこうも言われる。

<桓武平氏>
┌−国香−−貞盛
├−良兼−−娘
|       |
├−良将−−将門
├−良文
├−良正
└−−−−藤原(工藤)為憲

要するに、将門を排斥する「叔父連」に加担してた可能性も考えうる人物なんだけど、まぁここでは単に、従兄弟の貞盛を匿ってただけだろう、と見とくね(^^ゞ。
大河ドラマでは、「貞盛と母同志が姉妹」とされていた。貞盛と将門が父兄の従兄弟なら、貞盛と為憲は母系の従兄弟って事だね。

将門が「貞盛追討令」を根拠に「貞盛を引き渡せ」と言ってたのだとしたら、イキナリ自分の従者(藤原玄明)に濡れ衣着せられ、「お前こそ罪人出せよ」とか言って来られて、「ポカ〜ン(・o・;)」とした……なんて想像も出来なくはない。。

しかも為憲が暴挙に及んだ事を、その父で常陸国司だった藤原維幾が(脅されてなのかもしれないが)、「ウチのドラ息子がご迷惑をおかけして(^^ゞ」と謝ったと言うのだ(笑)。

他にも、「子飼の渡の戦い」の後、将門は住居や領地を荒されたから、それを将門が下総国を通じて訴え出たから、「良兼や貞盛を追討せよ」と言われたという経過(※T)。
その後、貞盛の訴えから、将門にまた上洛の要請があり、それに対して将門は公の使いに詳細を説明してるという経過(※U)。
さらに武蔵での揉め事を源経基が誤解して訴え、それについて諸国の解文を取り付け、送った後の沙汰が何も言って来ない内に、貞盛と藤原為憲が因縁つけて来たという経過(※V)などがある。

何よりも、将門には「貞盛を追討せよ」と言い、貞盛には「将門を糾問せよ」ってのは、「どゆこと?」という将門の言い分がイタイ(笑)。

ただ、「常陸国府制圧」が謀叛罪に当たる事は充分に自覚してて、これ自体が「実は無かった」とは受け取れないから、将門の叛逆自体は動かしようもないけどね(^_^;)。。

今度は下妻中心地の「五所神社」。地図G←下妻駅が近い。3日目の昼食後に訪れた。
スッゴイ大きな樹があって、大きすぎて全部入らなかったけど(笑)、亭主に撮って貰った→

新皇の神託は上野国(群馬県)の出来事なんだけど、茨城ツアーなんで、これもそれらしい所を探して行った(^^ゞ。
「五所」というのは、かつては「御所」……つまり新皇(将門)の御殿があったとか、新築されたとかいう伝承のある場所である事が多いらしく、こういう部分が「憚って漢字を取り替えた」とか伝承される所以なんだね(^_^;)。

新皇になった将門に、弟の将平や従者の伊和員経が諫言し、将門が「今さらそう言われてもなぁ〜(^^ゞ」と却下した後、興世王と藤原玄茂が、将門の弟4人と、前回も馬場の所で出た「多治経明」「藤原玄茂」「興世王」「文屋好立」を、坂東八ヶ国に配する「除目」(諸国の国司などを決める事)を行なった。

さらに下総の南に京都みたいな街を作る「王城建設」構想とか出て、そこに「相馬郷」が出て来るワケね(^^ゞ。
さらに八ヶ国の国司の下の人事も発表され、坂東の各国に、都に追い返された長官の後、留守を守る役人が仕事するよう指導し、「どうも〜(^^ゞ、こんど天皇になった将門です♪」とかいう挨拶も送られ、朝廷以下はビックラ仰天!(笑)

ちょうどこの前後「純友の乱」も勃発しちゃったりして、大騒ぎして、祈願したり修法(呪いの)をしたり、有名なのは成田山の新勝寺が出来たりしたわけだ(笑)。

ただ、将門が謀叛に踏み切る前、武蔵での揉め事を解決した労をねぎらうべきだ、と朝廷で議論されてたようなフシも推察され、こういう上奏をするのも地元の国府だろうから、少なくても坂東諸国の国司にはウケが良かったのかもしれないね(^^ゞ。

←やっぱり上まで撮りきれない大木(笑)
↓こちらは拝殿だが、案内版とか謂れを書いた碑とかは一切無かった。祭神も不明。
将門はといえば、諸国の巡検が終わって、やっと本拠地に戻って来るなり、「貞盛と為憲を探せ」と、元々の問題に戻るんだが……。。

この辺り、新皇より今でも「追捕の仕事」をしてる所が不自然な感じもするが(^_^;)、何しろ貞盛と為憲じゃなく、貞盛の妻と、最初の「野本の戦い」で死んだ源扶の妻が見付かった。

ここは前々回の「豊田館跡(将門公苑)で書いた通りね(^^ゞ。
この二人の女性は、別々に見つかったのかもしれないし、一緒に見付かった場合も、二人が知り合いだったのかもしれないし、落ちぶれ者同志がともに逃避行してただけとも考えられるが、貞盛の妻が扶の姉か妹なら、扶の妻と一緒にいる事に納得がいく。

もう一つ、ここで辱めを受けた事について、「復讐しようとして復讐され」つまり「因果応報」みたい言葉があって、「将門の妻が捕えられ陵辱された報復という意味ではないか(前回のだと葦津江での悲劇)」という想像を呼ぶ一方で、そうではなく、もし扶の姉か妹なら、殺された兄弟の恨みを晴らそうと将門を付け狙うか、夫貞盛を炊きつけて復讐させたのではないか、とも考えられる。

そうなると、良兼・良正の将門に対する執拗すぎる復讐劇も、何となく背景が読める気にはなるよね(笑)。



<坂東市「延命院」>

明けて、天慶3年(940)、「純友の乱」も勃発しちゃって、何しろ大騒ぎ中の朝廷では、将門追討軍の人員に、藤原忠文を征討将軍、藤原忠舒を副将軍と定めて坂東八州に派遣。
また、将門に濡れ衣を着せた罪で獄されていた源経基も、「讒言ではあったが、今になって的中したから」とかいう事になり(笑)、従五位下に叙されて、追討軍に加わったという。

が、そろそろ農繁期が近いからか、将門は兵たちに解散を命じ、それぞれ返してしまうと、「今がチャンス!」と兵を集め始めたのは、坂東にいた貞盛と、下野の藤原秀郷
藤原秀郷(田原(俵)藤太)が出て来るのは、ホントこの最終段階なのだ(^^ゞ。

こうして将門が少数の兵を率いて応戦しようと、下野の国境付近に来たのは、2月だった。

下野国境付近の「高山」(大河ドラマでは「三毳山(みかもやま)」と推定されていた)まで来た将門軍で、敵軍を見付けたのは、藤原玄茂と多治経明と坂上遂高(坂上田村麻呂の末裔とも同祖とも推定されている)だった。
彼らはこれまで武勇に引けを取らなかったので、将門に報告せず突っ込んで……負けた(^_^;)。。死傷者多数の大損害。。

将門は文句も言わず、川口村で追撃してきた敵軍を自らせっせと迎え撃つんだが(笑)、この「川口村」ってのも諸説あって、どこだか確定しきれてない!(又々!)

又この時の貞盛のボヤキが凄くて(笑)……。
「将門軍は雷神のように強いが、味方の兵は便所の虫けらみたいに弱い」(爆)
この人どういう人なのか(^^;)。。。

これが「下野国境(付近)の戦い」あるいは「川口村の迎撃」という合戦。

将門は敵をある程度ふせぎ止めてから引き払ったが、将門追討の命を受けていた(事がここでわかる)貞盛と秀郷は、「ここで攻撃を緩めたら、将門はまた挽回するよ!\(>o<)/」と相談しあい、上手いこと民兵を丸め込んで、今度は自分達から下総に攻め込んだ。

こうして、みたび坂東に戻って来る。
ここは前回もレポした「石井営所」や「石井の井戸」のスグ近く。訪れたのは一日目の夕方。地図H

医王山・金剛王院、真言宗豊山派「延命寺
山門前に咲き群れる……スミレかな?

将門は「また敵をおびき寄せて一気に殲滅しよ(^^ゞ」とか気楽な事を言って、「幸嶋の広江」に兵を連れて隠れる。葦津江とか羽生とか、石井より西か南西あたりの湿地帯だろう。

境内入ってスグの庭園(パノラマ4枚・180度以上)

だけど貞盛は、将門の館をはじめ周囲を焼き払い、その時に、この「延命寺」も焼かれたと言う伝承が残っている。前回行ったあの「石井営所」も恐らく……(;_;)。。

本堂に進む
鐘楼
山門を振り返る

この寺「延命寺」は、そもそも将門の「石井営所」の鬼門除けに建立された。

天慶3年(940)藤原秀郷・平貞盛に石井営所一帯を焼かれた時、薬師如来像は移し隠され、世の静まるのを待って現在の低温地に祀られた。
これが「島の薬師」として知られる「大日如来(薬師如来)坐像」である(県指定重要文化財)。

だいぶ遅い時間だったので写真が不鮮明で申し訳ない(^^ゞ。

こちらは庫裏ではないかと思う。

文安2年(1445)、守谷城主・相馬家が大檀那となって本堂、薬師堂、山門を建てたが、その後火災にあい山門だけが残った。
有慶上人によって再建された薬師堂も焼け、現在は仮堂であるが、山門、石製太鼓橋は市の重要文化財に指定されている。



<取手市「桔梗塚(墓所)」>

これも地元の伝承だが、将門の妻(妾)「桔梗の前」をここらで挿入する。
この伝承は、わりと全国区かも(^_^;)。千葉県にもあるらしい(佐倉にもあると聞く)。

茨城県では、前々回、最初の頃に出した「将門誕生地」の「竜禅寺」が管轄する国道沿いにある。地図I
つまりここは一日目の午前中ぐらいに来た場所(^^ゞ。

バンバン車が走る道路沿い
原っぱの上のこういう生垣の中

ちなみに「竜禅寺」に行くのも、↑このカドを←こう左に入れば直行で行けるよっ(^^)。

生垣の狭い合間から
「桔梗御前の墓」(^∧^)<合掌

車道の脇なので、安らかな空間を作るためにこうした生垣で囲ってるんだな〜と、お墓を守っている地元の方(竜禅寺の人かな)の温かい思いやりが感じられた(^^)。

ここにあった案内版(取手市教育委員会・竜禅寺・取手大利根ライオンズクラブ)によると、ここは「桔梗塚」と言われ、郷土の英雄を慕う地元民たちが、ここを悲劇の舞台として語り伝えたのだろうと書かれてあった。

また桔梗伝説が見られるのは「相馬日記」であるという。
これは江戸後期(1817)、将門の伝承地を探し歩いた記録と言われ、今にして思うと、その後の史観によって評価された史跡以外は、やがて近代化(開発など)と供に失われた物も多かったので、貴重だったと思う。

「相馬日記」には、「米野井(この辺りの地名)の桔梗が原といふは、将門が妾桔梗の御前といふが殺されける所にてその墳あり。今も桔梗はありながら花咲くことなきは、この御前がうらみによれるなりといへり」とあるそうだ。

「桔梗塚」から「竜禅寺」に戻る
再び華やかな八重桜の散華(^^)

また、この竜禅寺(地図J)に伝わる話では、桔梗は「大須賀(庄司)武彦」の娘で、将門との間に三人の子をもうけ、薙刀の名人であった。
将門が竜禅寺「三仏堂」で誕生したからだろうか、桔梗が「三仏堂」に将門の戦勝祈願に来た所、その帰りを藤原秀郷に討たれた、と言う。

この「大須賀武彦」というのは何者なのか判らないけど、「大須賀」氏というのは、千葉常胤の四男「千葉胤信」を祖として苗字が起こされており、ここが後の相馬氏(やはり千葉常胤の次男を祖とする)から起こされた後付の伝承なのか、そうではなく、元々「大須賀」が地元にあった苗字なので、千葉氏が受け継いだのか……。

こうした事は、将門の三女と伝わる「如蔵尼」が東北に落ち延びた伝承に絡んで、「高城」氏という、後にやはり東葛飾で大基盤を誇る戦国大名と同じ姓が登場する点とあわせ、興味深い。

←「将門生誕地」と、その愛妾「桔梗の死没地」の両方を兼ね備える、ここ竜禅寺の花びらの散華が心に染みる。

「桔梗伝説」は各地に多種多彩のようで、大まか「桔梗を伝って、藤原秀郷が将門を討てた」点が共通するが、この桔梗を、藤原秀郷の縁者(妹など)としたり、桔梗からの情報のよって将門が敗死したから、将門の呪いで桔梗が咲かなくなった、という物も見聞した事がある。

この「桔梗塚」でも「一説」として、将門に7人の影武者がいたが、桔梗は敵に騙されて、本物の将門は「こめかみ」が動くことを敵に教えてしまったので、将門は「こめかみ」を射抜かれて死亡し、秀郷は桔梗を口封じのため殺害した(ので、桔梗の呪いで桔梗が咲かなくなった)と書かれている。

だいたいは、ここにある通り「桔梗自身の呪い=桔梗の花が咲かなくなった」と伝えられてる事が多い気がする。

なぜこうまで話の筋が多様化しながらも、「桔梗の花」のみ伝承化するか判らないが、個人的には、桔梗は喉の薬(咳止めなど)によく使われたからかなと(^^ゞ。

漢方薬の成分には、よく「桔梗」が用いられる。昔は結核や肺炎など簡単に治る病気じゃなかったし、殆どの村には薬屋や病院なんか無いから、苦しみ抜いて死んでいく現状を前に、「将門(や縁者)の呪い」とか言われたら、凄まじい恐怖に繋がっただろうと。。。

もっとも薬に用いるのは、桔梗の「花」というより「根」なんだけどね(^_^;)。



<坂東市「国王神社」>

これまでも「ベルフォーレ(将門像)」「将門煎餅」「富士見の馬場跡」(前々月)、「石井の井戸跡」「石井営所跡」(前月)、「延命寺」(今回)と坂東市の多くの将門史跡を見て来たが、ここもその一廓。地図K
これも一日目の午後〜夕方ごろだったかな、来たのは(^^ゞ。

坂東市最後の場所「国王神社(パノラマ3枚)

周りを囲む石柵の一本には、ちゃんと「将門煎餅」の社長サンの名もあった(≧▽≦)。

さて将門はどうなったか(^^ゞ。
石井を焼き払われちゃった翌朝、何とか貞盛の探索を上手く撒いて、まだ帰した多くの兵が戻るのも間に合わないのに、たった400人で北山に陣取って待ち構える(^_^;)。。

ここは「(討伐令を出された朝敵の)将門から人心が離れて兵が集まらなかった」とも、「待てば集まったのに拙速だった」とも見れなくはないが、大軍の時には大敗し、寡兵なら大軍相手に大勝利という将門の戦歴を見る限り、この選択自体が失敗だったかどうかは何とも言えない(^^ゞ。

一方、貞盛・秀郷、あとどうも藤原為憲……常陸国府で将門に挑戦して見事に負けた、あのドラ息子サン(^^ゞ、この人も一緒に策を練って、両陣は天慶3年(940)、2月14日に戦端を開いた。これが最後の激戦「北山の合戦」である。

この北山がまた諸説……(^_^;)、以下略(爆)。
今いるこの「国王神社」あたりも、その候補地として名高いので、ここで語らせて貰うー!
←神社の裏側の通りはこんな感じ。風情があるでしょ(^^)。

鳥居を潜って中に入ろう→

戦況続行。この日は暴風で枝も土も飛びまくって、将門はそれを察知&利用して北山に陣取ったのかもしれないね。
風を盾で塞ぐしかない敵に、風上からバンバン矢を射たあげく、イキナリ貞盛の陣に飛び掛り、あっちゅう間に貞盛・秀郷・為憲連合軍は2900人もが逃げ出し、残りは300人に(^_^;)。。

これまでだと将門の敵は、これでどっか行っちゃうんだけど、貞盛・秀郷は「後が無い(^_^;)」と戦死覚悟で踏みとどまったのが幸い、急に風向きが変わって、将門に射た(けど今までは届かなかった)流れ矢が命中。
これが関東一円を平定した将門の最期になった。38歳と言われる。

←ここの参道も深緑の杜の下、桜の花びらが舞い散って、たいそう美しかった。
本殿の脇の経堂か宝物堂↓

将門に家を与えられ鎌輪に移ったと見られる常陸の国司・藤原維幾は、前は息子の為憲が貞盛を匿ってやってたのだろうが、今では将門を討った貞盛の恩を受けて、将門敗死の翌日に元の館へ帰った。
さらに翌日には(首領の将門が死んだからって事か)恩符が出され、将門側についた中から出頭する者もいた。

が、前月に出された将門追討令を受け、東海道・東山道には官符が行き渡っており、将門を討った者に「五位以上の任官」、副将格でも「官職にありつける」内容だったため、手強い将門が討たれた以上、「やり放題(^。^)」とばかり皆が精を出し、追討軍主格の藤原忠文・忠舒らが到着する前に、将門の次弟・将頼と藤原玄茂は相模で、興世王は上総で、坂上遂高・藤原玄明は常陸国で、それぞれ殺された。

なので到着した忠舒は、平公連(良兼の子)を押領使として4月に入国すると、家族や縁者・郎党・下々の伴類に到るまで、かなりの残党掃討が行われたようだ。

経堂らしき堂のさらに左奥の墓
境内に咲くサツキの鮮やかな真紅

まだ残る将門の弟たちは出家して山に入ったり、妻子も置いて山野を逃げ惑った。他の者達も逃げ去った。
将門の首は下野国から(将門を討った秀郷がいたからだろう)解文をそえられ、4月に京に送られた。

この「国王神社」には、「その首は遠く京都に運ばれ、逆賊として四條碵にさらされた」と書かれ、一族らが殺される中、「まだ幼かった次女(三女とも言われる)は難を免れ仏門に入って、如蔵尼と号し、この地に庵を結び、父の菩提をとむらったのがこの神社の発端」としている。この如蔵尼が、後に「瀧夜叉姫」になったのだろう。

上の墓は、如蔵尼の墓ではないかと思うんだけど、傍にあった案内版には、如蔵尼が将門の霊を祀った地がここである事、如蔵尼自身は東北の恵日寺にて、慈覚(円仁)や徳一といった高僧の縁にひかれ仏道に帰依した事、そして長い年月の果てに、今ようやく将門の首と胴の合体を得た事、将門のみならず、将門に付き従って戦い散っていった多くの郎党や民人の霊をも供養する旨が書かれてあった。

拝殿。明暗のコントラストがキツイ(笑)
裏の彫り細工

将門を追討した側では、まず武蔵の事件で讒言をしたため罰を受けた源経基が、従五位下に叙された事は前に書いた通りだが、長年の苦労によって将門討伐に成功した平貞盛は、正五位上をゲット。
しかし貞盛が、単独ではとても将門に適わなかった時期が続いた所を、急転直下、将門にとどめを刺すに到った功績が大きいとして、藤原秀郷にはさらに高い従四位に叙された。

正一位/従一位
正二位/従二位
正三位/従三位(ここまで6等)
正四位上/正四位下/従四位上従四位下
正五位上/正五位下/従五位上/従五位下
正六位上/正六位下/従六位上/従六位下
正七位上/正七位下/従七位上/従七位下
正八位上/正八位下/従八位上/従八位下
大初位上/大初位下/少初位上/少初位下(ここまで7〜30の24等)

これは京にビッチシと張り付いて、進物とかガンガン振りまいて猟官運動した所で、一生かかっても無理ってぐらい飛び級で、特に京から遠く、さらに開発の労苦がともなう坂東人にとっては、有り得ないぐらい破格の出世(笑)。

何よりこの当時は、「親(後ろ盾)の長生き」が出世や生き残りの最大の条件だったから、彼らがこの戦で駆け回ってた所を見ても、まだそんなに高齢でなかったハズだから、残りの余力でさらに頑張れば、子孫に相当の財を残す余裕が出たのではないか(^_^;)。。

一方、将門の妻子や兄弟は路頭に迷い、従兵も逃げ散ったり戦死したりで、その遺族が探し歩いたり、逃げ延びるために家族と生き別れた上、将門の叛乱が全国に知られると、もう土地の者達には、手柄があったの罪があったの区別などつけられる事もなく、皆が同じく辛酸を舐める日々を送った。。。

←こっち側は翁と媼の物語かな(^^ゞ。
↑拝殿と繋ぎ廊下と本殿。壮大ってほど大きくはないけど、この藁葺きの重厚感はすこぶる圧巻(≧▽≦)!

「将門記」は、武蔵国での仲介が朝廷で認められようとしてた矢先という所を指すのか、将門の功績が全く打ち消され、永く謀反人の名だけを残した事を残念がりながらも、「朝敵」という判定より、なぜか「学問より武芸を優先したから」「合戦に明け暮れていたから」……つまり「殺戮罪」に話が移って終わる(^^;)。。

さらに、地獄の拷問に絶えることなく苦しめられる将門自身が、霊界から出てきて、「威勢が良かった頃は従う者もいっぱい居たのが、今は大勢の訴えを受けてるけど、生前にお経を奉納した功徳で、何十年に一回だけ休みがあるから、遺族の皆さん、慈善事業に精を出して、草食に徹して、貧しくてもお坊さんに施しをしてね(;_;)」と諭す。

当然ながら、この「国王神社」においては「長い間叛臣の汚名をきせられたが、民衆の心に残る英雄として、地方民の崇敬の気持は変らなかった。本社が長く地方民に信仰されてきたのも、その現われの一つ」と訴える。

あるいは「将門の真意は窮乏のどん底にあった庶民を救うため、中央政治の姿勢をただすためで、死後の関東各地に追慕の空気が高まった」とも書かれ、明治以後ようやく公然と認められる風潮になって、地元民が神社の復興を成し遂げられた、と記されていた。

このカッチョイイ古風な建物じたいはいつ時代の物なのか(パノラマ2枚)

特に如蔵尼の話は、将門が朝敵の烙印を押され、「他の大勢の叛逆した者に代わり、地獄で剣の山や肝焼きの拷問に、未来永劫の苦しめを受けている」とされる事への「後日譚」として、「今昔物語集」に語られられるもので、「国王神社」ではこれを、「多くの民を救うためとは言え、殺傷の罪は罪として、ひたすら冥福を祈る日を送った」と伝える。

またここでは、如蔵尼の祈りが高僧の教えに導かれて天に通じたのは、ようやく昭和50年(1975)とし、これがすなわち「胴と首の合体」の供養を示すようだ。

この神社の祭神は将門その人。
ご神体も将門像(木像・県指定文化財)で、これは「如蔵尼」が刻んだと伝説され、今でも「将門の顔」として書籍やテレビで紹介される時には、よく用いられる。

近くのお店で聞いた話では、これが盗まれた事もあるらしく(^_^;)、しかし犯人が病気になったりで返して来たとも聞いた(笑)。

また、大河ドラマ「風と雲と虹と」に主演して以来、将門役の加藤剛や、良子(将門の妻)役の真野響子は、今でも毎年参拝に来ると聞いた。



<取手市「延命院・神田山・将門胴塚」>

ここにも、やはり一日目、取手市から坂東市に出る途中に寄った(^^ゞ。地図L

「国王神社」にも書いた、「将門の首と胴の合体供養」というのは、東京の神田明神に伝わる「大手町の首塚」に将門の首が祀られ、ここ地元近くの「神田山」には、将門の胴が葬られている事に由来する。

この事は、2007年8月<神田明神「天野屋」>内・<神田明神と将門の首塚(芝崎道場)>でも述べた通り、神田明神の「神田」は、その語源をこの地に見ると言われる。
つまり将門の首のない胴体のみを葬ったのがこの地であるから、「からだ山」と呼ばれていたのが、後に「かんだ山」に変化したという謂れだ。

道路からこう入って来て
右にまず毘沙門堂がある

左には赤い屋根の観音堂
グルリと絵物語で綴られる各側面

将門ゆかりのお寺や神社って、わりとこういう絵物語風の古めかしい彫り物がよく見られ、それがどれも立派な造りで、「字では書けないけど、絵で何かを語ろうとしてるのかな」と穿って見たり、「将門とは関係なくても話の筋を知りたいなぁ」とも思ったりする(笑)。
このお寺では、倉持や寺尾といった、これまで巡って来た場所の貼り札も沢山見られた(^^)。

そして正面のお堂の裏は……
こんな風にカヤの樹で塞がり……

カヤの樹のさらに裏には……
いわゆる「胴塚」が安置
つまり正面のお堂に向かって手を合わせると、その裏の将門の墓に礼拝できる配置になっている。

さらに墓前を塞ぐように「神田山」の碑が建つ。

ちなみに、この「カヤ」には「天然記念物」と表示されていた。

「神田山」の碑をちょっと潜って像を拝ませて頂く。

この「延命院」の案内版によると、首は京に送られたが、後に武蔵国柴崎村(現在の大手町「首塚」だろう)に葬られ、胴体はこの「延命院」の境内の一隅に埋められて「将門山」と呼ばれた。

←墓前に勢揃いする六地蔵サンと、その横は観音サンだろうか、女性的な顔立ちで、将門の娘・如蔵尼が父の将門と対面してる様子が思い浮かぶ。

ちなみに地蔵は、如蔵尼が祀ったと伝承される菩薩だが、あるいは将門の殺された妻子を祀ったのか、将門の没後、縁類の妻子が生き別れて、散り散りになったと言われる事にも思いが到る。

そして今度は墓の左(向かって右)側面から見てみると……↓

こちら側には「大威徳・将門明王」とされ、「南無阿弥陀仏」と書かれた墓碑があって、ちゃんと賽銭箱も置かれている(^^)。

「南無阿弥陀仏」は、東京都の「将門塚保存会」からの寄贈によるものだそうだ。

大手町の「首塚」も「南無阿弥陀仏」であるが、これは神田明神の前身「柴崎道場」の開祖・真教上人(時宗二代)が、直筆で書いた字が元になっている。
真教の書いた字は碑とともに現存してないが、その碑から取られた拓本が、神田明神の氏子総代・小栗家に代々保管されていたので、それを元に「将門塚保存会」によって、現在の大手町・首塚にも用いられた字体なのだ。

真教の書いた「南無阿弥陀仏」の字によって、360年も経ている将門の死期に遡って、将門の霊を安からしめた(鎮めた)事に全て忠実に由来されてるのだろう。
将門が大勢の罪を一身に背負って、死後の世界で果てることなき拷問に苦しめられている事に対し、こちらも絶える事なく供養を続行してやろうという真剣さが滲み出ている。

これが昭和50年(1975)に、ここに寄贈されたという事で、「首(大手町)と胴(延命院)の合体」とされるのだろう。
さらに「大威徳将門明王」の碑は、延命院住職・倉持照最氏よりの寄進、その隣の「顕彰碑」は岩井市(今の坂東市が相当)の浄財である。

また案内版には、「この地は相馬御厨(そうま・みくりや)の神領なので将門山はあばかれることなく今に及んでいる」と書かれていた。
相馬氏や相馬御厨が将門のいた地でよく記される所以のように思えた。



<常総市「平将門公赦免供養の碑」>

さてさて、5月GWの残りの写真も全て消化(^_^A)。
あとは7月に追加レポしに行った所の残りをお届けして終わろう。

「豊田館跡(将門公苑)」(前々回)や、多治経明の御厨近くの「馬場跡」(前回)などのあった常総市に再び来着!
まずは地図Mマップファン

左二基が父良将・将門の「菩提供養碑」、右が「赦免供養碑」(パノラマ2枚)

将門の乱の後、将門を討った貞盛の系譜は伊勢に行っちゃったが(^^ゞ、この地域には、貞盛の弟・繁盛から4代の子孫・豊田(四郎)政幹が、前九年の役で手柄を上げた褒美に賜わり、以後、「豊田氏」を称するようになった。

鎌倉時代の建長5年(1253)11月4日、実権は源氏直系が三代で尽き、執権の北条氏が政務を司っていた頃、五代の執権・北条時頼(1246〜1256?/時宗の父)は、この豊田四郎の供養塔を寄進した。

その時、この土地で同じく将門の祭祀が今も「ままならざる事」を聞き及び、自分が執奏勅免を得て、当時の千葉氏当主で、下総守であった「千葉胤宗」に供養の許可を与え行なわせた。

こうしてまず最初に、一番右の「赦免供養」の碑が建てられた。
今は古びて解読不能だが、傍の案内版によると、やはり将門の地獄浮遊の魂のためだろう、婆婆の災禍を遠ざけ、涅槃の極楽に往生させる「アン(無我)・サ(観音)・サク(勢至)」の梵字を配していると言う。

所縁に連なる者達は、結願成就を唱え阿弥陀を配して、これを大いに喜んだと伝わる。良かったね〜!!(つД`;)

続けて、建長6年(1254)の2月14日(将門の命日)には、さらに大勧進供養が営まれた碑が建てられたが、これのみ後で西福寺に移された。
建長7年(1255)にも、やはり2月14日(将門の命日)に、真ん中の「将門の供養」の碑が建てられた。

さらに一番右のは、建長8年(1256)5月24日に供養し建てられたものと伝わり、これが将門の父・良将(鎮守府将軍)を供養する碑であるといい、将門の兄・将弘のもあったと伝える。この話は次の「六所塚」で話したい。

ただ、建長5〜8年(1253〜56)だと、胤宗の父・「千葉頼胤」の時代かも?(^^ゞ
或いは許可を得たのが父の頼胤で、千葉氏として祭祀を起こしたのが子の胤宗、とかいう事かもしれないけど。

この伝えを信じると、死後313年に公的に祭祀が許された事、北条時頼が祭祀の許可を得たのは、朝廷からって事じゃないかと思うと、執権北条氏の権限が同時に伺い知れる事、また祭祀を命じられたのが「豊田氏」「相馬氏」でなく「千葉氏」ってトコもポイントかな。

供養碑の奥には二つのお堂、右が観音堂(阿弥陀)
供養碑の傍らに咲くアジサイ

前はここより東南800m離れた、筑波山の見える鬼怒川べり「御子埋台地・引手山」の一廓にあったが、昭和5年(1930)の河川堤防改修により、今のこの地に移設された。
その時に、建長6年(1254)の一基は西福寺に旧縁があったため、ここには3基が現存している。
また元あった鬼怒川べりの場所には、今でも「平将門公一族・墳墓之地」があるが、今回は行けてない(^_^;)。

この碑の前は、古くから「乗打禁止」とされ、必ず下馬して怪我のないように祈る風習があり、「荒ぶる神」として畏敬されていた。

↓「供養碑」ここで下馬せよ!(パノラマ4枚・180度以上)

しかし車のまま通り過ぎた(爆)。↑この奥のカドから来たんだけど、曲がった途端に建ってて、取りあえずは前を通るしか(^_^;)。。この反対の道(右)↑から来れば、前方に見えるから気付くと思うけどね。

そういうわけでココに来る時は、気をつけて下さい(と言われてもなぁ〜。。)

地区の人々はこの碑を別名「不動石」「阿弥陀石」と称して崇め、毎年2月14日の(将門の)命日には「キッカブ祭り」(↓参照)を行ない、その慰霊を慰めて来た。



<常総市「六所塚考」>

ここも7月の追加レポにて(^^ゞ。
「赦免供養の碑」から鬼怒川べりに近寄って、将門の「一族墳墓」を探したが、それは見付けられず、代わりに来られたのがココ。

地図N←普通に道路があるトコじゃなく、車がやっと通れる田んぼの中だったので、ちょっと不正確かも。

ちなみに「一族墳墓」は、ここより東側の通称「六所谷」と称される地で、将門の遺骸を引取り、埋葬した地であると伝承され、かつては数多くの石の卒塔婆が出土していた。

こっちが前方後円墳の「前方」部分(パノラマ4枚・180度以上)

↑対して、ここは「六所塚」と言い、一説に将門の父・良将(鎮守府将軍)の墳墓と伝わる物で、良将が桓武天皇の四世の皇統血筋なので、初めは「御所墓」と言われていたが、将門の逆賊の汚名が高まるにつれて、「御所塚(五所塚)」から「六所塚」と改称されたともいう。

やがて北条時頼の執奏・勅免を得て、千葉氏が施主となってようやく法要を行なった後は、将門の命日に祭祀が行なわれる事も公的に許されたので、住民達は白膠木(ぬるで)の木で刀や槍などを作って将門の霊を祀り、願い事を書いて霊前に奉納、網火、煙火をあげ、念仏衆により将門を供養した。この祭りを「キッカブ祭り」と称した。

この六所塚での祭祀は「カブキ祭り」と言われ、灯火を消して闇夜に行う奇祭で盛大に行われていた。
が、享保年間(1724〜1729)の土地改良により、祭りのための経費を捻出していた耕作地が不能となり終止された。

しかし住民が行なう「キッカブ祭り」の方は、時代の変遷と共に形を変えながら、明治時代まで続いてきたといわれる(^^)。

こっちは前方後円墳の「後円」部分(パノラマ3枚・ほぼ180度)

ところで、この「六所塚」だが、実は「良将の墓」と伝承される前は、どうやら古墳時代における、この辺り一帯の墳墓の一つであったようだ(^^ゞ。ここは古墳群の中でも最大の規模を持つ前方後円墳で、恐らくは良将・将門の時代までも、それなり霊域として畏敬されて来たのだろう。

良将が下総国府(千葉県の国府台)から、この地域の「国生」に国府を移転した(といわれる)時、国府では「大国魂神社」を祀るのが通例だったので、同等の「六所の宮」を祭祀して、他の国府と同程度の格式としたのだろう事、更にここで祖先の霊も供養・祭祀したので、良将の墓という事になったのだろうと、案内版に推測されていた。

六所塚の周囲の田園風景(パノラマ4枚・180度以上)

この一帯にはこうした古墳が群がり、鬼怒川の右岸南に突出した沖積層の台地に、この六所塚のを初め、どれも規模の大きな円墳や前方後円墳などがあり、85基が確認され、「神子女」或いは「御子埋」古墳群と称されているが、盗掘や開発の波によって、その殆どは消滅した。。

以上、関連事項は、
2002年9月本文より
2005年3月<神田明神>
2005年10月<増尾城址公園(千葉県)>内
2005年11月<将門神社>
   〃   <うなぎロード(印旛沼〜宗吾街道)>内
2005年12月<初詣2「神田明神」>
2006年8月<泉「三夜堂」と「おせし様」>
2006年9月<東京・神田明神>
2007年1月<太田図書の墓・臼井妙見社・円応寺・ウナギ(^。^)>内
2008年5月<筑波山神社>内a
   〃   <筑波山神社>内b
2007年8月<神田明神「天野屋」>内・<神田明神と将門の首塚(芝崎道場)>
2007年9月<手賀沼周辺散策・古墳と川べりの風景>内
   〃   <松ヶ崎城跡(柏市)>内
2007年11月<久留里城>内
2008年2月<「多賀城」政庁跡と城前地区>内以降

2008年6月〜「作品の広場」内「将門雑記(風と雲と虹と)」
2008年8月<史跡と順路について(@テキトー画像:笑)>以降

2008年9月本文以降



さて来週(月)のサザエさんは〜!
2008年5〜9月、手賀沼の南北を、2回で一気に駆け抜けたい!
次回はだいたい、豊田城(茨城)、利根川、中峠城と古利根川、将門神社など「手賀沼北岸」編に取り掛かる……つもりー!

2008年10月19日
 
     




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