<2013年・城主のたわごと2月>




2012年10〜11月「上下毛編」第二弾(^。^)。

太田市新田・世良田・安養寺・別所、新田の里めぐり♪




     
  前回まで「上下野編」と言ってたんだが、どうも下野は「野州」と言うが、上野も含めると、昔ながらの「毛」の方がはまるんで、前回のサブも書き変え、「上下毛編」とする事とした(^^ゞ。

というわけで、「上下毛編」第2弾\(^O^)/!
時は引き続き、2012年10月末。前回来た群馬県太田市の「生品神社」の続きからスタート!

この1日目は、朝そんなに早く出たでもないが、群馬は遠くないので、午前中には着いている。
「生品神社」の後、「世良田東照宮」のある歴史公園に移動し、昼食を取ってから、「新田荘歴史資料館」「世良田東照宮」「長楽寺」(得川義季・累代墓所、新田岩松累代墓所)など見学。

その後、「明王院」(新田触不動)まで見て、円福寺まで行った所ですっかり暗くなったので、宿に入って一泊目を迎える。

2日目からは11月に入る(^^ゞ。
朝、前日も行った「円福寺」にもう一度行き直す。そこで次回に続けたい!



<生品神社(新田義貞・挙兵の地)、2>

前回は、「生品神社」に到着したのだが、正面ではなく後方の駐車場から入ってしまった(^_^;)ゞ。(2013年1月<「太田桐生IC」から「生品神社」へ>内
なので、神社の横腹を歩いて正面に向かう所で、<つづく>にさせて貰った。

今回は正面から入って見よう(^^)。地図A

改めて、「生品神社」正面、鳥居の前に↓
(拡大)新田義貞

前回は右の道路をテクテク歩いて来た(^_^;)ゞ。
周囲は大都会とまでは行かないけど、山奥とか農業地と言うよりは、住宅街という感じ。

上の右の写真は、鳥居の前を塞ぐように建つ、新田義貞の像。
剣を前に差し出しているポーズは、稲村ヶ崎の祈祷シーンかと(^^ゞ。

元弘3年(1333)の鎌倉攻めで、敵の堅固な守りを破って中枢を急襲すべく、稲村ヶ崎から波間を渡ろうとしたが、船が無く波も深かったため、海の龍神に祈祷を捧げて剣を水底に投げ打つと、見る見る波が引いて全員が渡れた……という「モーゼの十戒」みたいな奇跡が起きたんだねぇ。

この手の有名なエピソードを所々知ってはいたけど、私は古典の「太平記」も、吉川英治の「太平記」も読んだ事が無いので、どういう順番でどの逸話が来るのかは、実は大河ドラマ「太平記」(1991年)の(しかもCS再放送)を見て、初めてちゃんと認識した次第(^_^;)ゞ

←義貞像の裏に廻ると、改めて赤い大きな鳥居。

新田義貞の話をする前に、今回の旅行で新田氏ゆかりの地を訪れて感じた事を先に書く。

この辺りの史跡は、「新田義貞」と言うよりは、「新田氏」全体であり、「新田荘」の歴史を取り捲いて成立している。
新田荘遺跡」として11の遺跡がセットで国史跡の認定を受けたためだ。

←境内にあった「新田荘遺跡・案内図」。右下は義貞クンかな?(笑)↓(拡大)

←左下拡大。全て太田市。
右上、別所町、
@円福寺
A十二所神社
左下、世良田町
B総持寺
C長楽寺
D東照宮
右下、安養寺町
E明王院
上部中央、新田市野井町とその周囲、
F生品神社
G反町館跡
H江田館跡
I重殿水源
J矢太神水源
(今回行った場所は太字)

これら11遺跡が国の指定を受けたのは、平成12年(2000年)。つい10年ちょっと前だ(^_^;)。
それまでの史跡の経過を示す記述は全く見掛けなかった。

と言っても、この地が敗北した南朝側の武将の地ゆえに廃れていたのかと言うと、新田義貞が滅んだ後、女系一族でありつつも、足利尊氏の側についた岩松氏が領したため、新田の痕跡が消え去る事は無かったようにも思える。

が、その岩松氏も戦国期までには、家臣の横瀬由良の下剋上にすっかりお株を取られ、家名ばかりになったあげく、その横瀬氏が下総に去った(2008年7月<牛久城跡、2>内後も、新田氏の支流を詐称する家康が天下を取ったために、やや複雑な経過を辿って維新を迎えたようだ(^_^;)。

例えば、この後に行った、世良田東照宮で購入した本には、「新田」の名(地名か姓かわからなかった)を、四代将軍・家綱が幼少期「新田竹千代」と命名されたのに遠慮して、自ら「岩松」に戻したという話もあった(^_^;)。。

江戸時代は、神君・家康公の同祖を祀る地として栄えたようだが、ある意味、この事が史跡の在り方としては複雑な色合いを加えたようにも思える。

同祖というのが本当だったとしても、徳川にとって先祖は新田義貞その人ではなく、7代も遡った義重という主張であるから、この神社が歴史的に重要な地として認識され、脚光を浴びるに至ったのは、ようやく昭和に入ってから……みたいなトコがあんのかなぁ(^_^;)。

鳥居を潜ると、広い敷地の脇に大きい社務所(パノラマ2枚)

その「昭和」についても、純粋な意味の歴史とは別の匂いがある(^_^;)。
神社境内には至る所に「600年祭」の石碑が建っている。これらは今度は逆に、「新田義貞」個人を“忠烈の士”として極端に讃える姿勢が感じられる(^_^;;)。。

だって、昭和8年(1933)ですもの。どうしたってそういう色合いになるわな(汗)。。
ただ、この600年祭はかなり盛大だったと見え、拝殿には、徳川家達の謹書による記念碑も捧げられていたし、祭典の記念行事が天聴に達して、祭祀料の御下賜があった旨も書かれていた。

昭和も戦後ならどうかと言えば、これも決して普通と同じではない(笑)。
境内には「福田赳夫」と「中曽根康弘」両元首相の各々自署の筆跡を刻んだ石碑が、まるで競い合うようにデカデカと立ち合う(^_^;;;)。。

この二人が同じ選挙区で火花を散らし合ったのは、私の世代あたりまでは有名な話で(笑)、今ネットを洗っても、「上州戦争」とか「福中戦争」なんて字が飛び出して来る程だもんね。。。

中曽根元首相による自署石碑と赤い「神橋」(パノラマ2枚)

しかし、戦前戦後の特殊な事情も含め、ここに土地の歴史が刻まれているとは言えるだろう(^^)。

ところで、「新田荘」の括りとなると、気になるのは、義貞に至るまでの7代にわたる新田氏であるが、以下の表にまとめた。
この先も、その時々の説明に際してこの表をリンクするね(^^)v

  八幡太郎義家
(頼朝、新田・足利の祖)
前九年(1051〜62)・後三年の役(1083〜87)の合間に、「下野守」に任じられており、義家の頃から下野に根拠地を有していた、と見られている。
  義国
(新田・足利の祖)
1142年、足利荘の立荘。
1150年、恥辱を受けた従者の仕返しに藤原実能の邸を焼き払い、罪を問われて、足利に引き籠る。
@ 義重(里見・山名・世良田・得川の祖) 1157年、新田荘の下司職に任じられる。
1180年の頼朝挙兵に際し、義仲や平家方の藤姓足利氏との勢力に挟まれ、自立(中立)を保っていたため、頼朝からの呼び掛けに応じたのが年末まで遅れ、頼朝から叱責される。
義重の娘が頼朝の兄・義平の未亡人となっており、頼朝が妾にしようとしたのを、義重が北条政子の機嫌を恐れて他の男に嫁がせたため、頼朝に重用を得なかった、と「吾妻鑑」に書かれている。
しかし義重の逝去の際、政子は源氏の重鎮として義重の喪を重んじ、二代・頼家に蹴鞠など遊興を禁じている。
A 義兼(岩松の祖) 岩松氏は、義兼の娘が足利義純に嫁いで生れた岩松時兼を祖とする。
B 義房  
C 政義(大館の祖) 1241年、預けられた囚人の逐電の罰金に問われた。
1244年、京の大番中に無許可で出家した罪に問われ、御家人の身分をはく奪され、所領を一部没収、隠遁させられた。
代わりに、庶家の世良田頼氏が28年間を幕府に仕えた。
D 政氏 世良田頼氏は、1272年の「二月騒動」で、名越時章・教時、北条時輔(時宗の兄)謀叛の連座を問われ、佐渡に流罪となったため、新田本家に再び嫡流が復帰される。
E 基氏 母が赤橋長時の一門出身だったので、宝治合戦(1247年)に滅んだ三浦氏の旧領・甘羅郡に所領を得て、郡の地頭職にあった安東重保の娘を義貞の妻に迎えた。
F 朝氏(氏光・朝兼)
(脇屋の祖)
長楽寺の再建に従事するため、畠を由良景長の妻・紀氏に売却。
G 義貞  
参照:源氏系図

中ほど横切る通りを越え、さらに神域へ(パノラマ3枚ほぼ180度)
右に↑福田赳夫・元首相の自署碑

この途中を抜ける通りは、前回の最後、横合いの道(右)を通った時も見えたんで、も一回載せる↓

横合いからのショット(パノラマ4枚180度以上)

では、ここで改めて現地の案内板より↓

国指定史跡 新田荘遺跡「生品神社境内」
 所在地 群馬県新田郡新田町市野井640他
 指定 平成12年11月1日

 新田義貞が後醍醐天皇の綸旨を受けて、元弘三年(1333)5月8日、鎌倉幕府(北条氏)討伐の旗挙げをしたところが生品神社境内です。昭和9年に建武の中興六百年を記念して「生品神社境内、新田義貞挙兵伝説地」として史跡に指定されましたが、平成12年に「新田荘遺跡 生品神社境内」として、面積を広げて指定されました。
 義貞が旗挙げを行った時はわずか百五十騎でしたが、越後の新田一族などが加わり、たちまち数千騎となって、十五日間で鎌倉幕府を攻め落としたといわれています。
 神社境内には、旗挙げ塚、床几塚があり、拝殿の前には義貞が旗挙げの時に軍旗を掲げたと伝えられるクヌギの木が保存されています。
 現在では、義貞挙兵の故事にならい、毎年5月8日、氏子によって鏑矢祭が行われています。
この行事は古くから神社に伝わるもので、旗挙げの時に鎌倉攻めの吉凶を占ったといわれています。
 平安時代に編集された「上野国神名帳」に「新田郡従三位生階明神」と書かれていることから、神社は平安時代には存在していたと推定されます。
 平成13年7月  文部科学省・群馬県・新田町

つまり、平安期からあった神社だったが、新田義貞の挙兵地として知られる神社である事を根拠に、昭和になってから史跡の指定を、平成になってから国の指定を受けた事がわかる。

昭和の指定は、管轄がちょっとわからなかったが、この後に行く円福寺は、はじめが県の指定で、「新田荘」11遺跡として国の指定を受ける事になってから、県の指定は解除されたというから、似たような感じかなと(^^ゞ。

新田義貞について補足すると、生年は永仁6年〜正安2年(1298〜1300)のどれか、というのが一般的に思えるが、世良田では、正安3年(1301)とする説も見掛け、さらに世良田の総持寺がある辺り(地図B)で生まれたともいう。
上には「後醍醐天皇の綸旨」とあるが、「大塔宮護良親王の令旨」とする物も見掛ける。

←鳥居を潜ると、左に……神楽堂?↓
NHK大河ドラマの「太平記」では、足利尊氏と新田義貞の少年期からのストーリーを積み上げ、中盤で尊氏・義貞の同時挙兵に至る、という構成を取っていた。

乱世の武将を小説化し、ドラマ化する場合、記録(大抵は軍記物だが)としては、いきなり戦闘行為から始まる人物でも、少年の頃から先々に至る伏線を交え、親族や女性関係などとの葛藤も描きながら、戦闘に至るまでの物語を積み上げて行く事が多い。

史実より古典文学(軍記物)、古典より現代作家による小説、そして小説よりドラマになるに従い、主人公たちがドンドン人間味を増して行くわけだが、ではドラマが一番史実から遠いか……と言うと(そういう勘違いをしてる人が巷に多いが)、大河ドラマになる時は「時代考証」が間を割って、ド〜ン!と入るため、古典として個性豊かに描かれる有名な人物やエピソードが、「史実ではこれがホ・ン・ト(^。^)」みたく変化しちゃう事も多い(笑)。

史実における新田義貞の登場は、この挙兵からである。
大抵の武将はそうしたものだろうが、義貞については、現地に行ったからと言って、子供の頃の逸話といったような伝承の一つすら見なかった。(詳しく歩けばあるのかもしれないが(^^ゞ)

「挙兵」というのは、案内板にもあった通り、元弘3年(1333)5月8日、新田義貞が上野国で挙兵したものだが、以後、利根川を渡って武蔵国を通過(南下&一部戦闘)し、鎌倉を攻め落とし、北条一族が揃って自刃して、新田義貞軍に鎌倉が占領されるまでの、僅かに14日ほどの全戦闘経過を指す。

←正面に見えて来る拝殿。
↑その手前に「神代木」。義貞が挙兵の際、大中黒(紋)の旗をこの樹に掲げて、戦勝を祈願したと伝わる物だが、近付いてよく見ると……↓

所々補強されているようだ。
櫟(クヌギ)の木で、元は周囲二丈(約6mか)、高さ十丈(約30m?)あったが、明治37年(1904)6月に静穏の時、大音響があって倒れたので、一部を遺すだけとなった。
やがてそれも風化・腐食が進んだので、燻蒸処理をし、ポリウレタン系合成樹脂加工で脆弱部、破損部の強化修復をし、最後シリコン剤塗布で保存処理をしたという。。
この事も昭和9年(1933)の「義貞挙兵666年祭」に際して記されていた。

では、いよいよ、この新田義貞の挙兵について、及ばずながら書いてみたい(^^ゞ。
新田義貞の挙兵に至る根拠は、案内板にあった通り、「後醍醐天皇の綸旨(あるいは大塔宮護良親王の令旨)」なんだろうが、その日程を決めた理由(事情)が、後に重要性を帯びる。

と言うのも、戦後、新田義貞が、足利側に「尊氏の勝利を聞いてから出陣を決断した」だの、「鎌倉までに兵が急増した理由は、足利尊氏の嫡子を担いだから」みたく言われて、反論に苦慮した様子が伺えるからだ(まぁ足利側も、情報操作と言う意識なく、本当にそう思ってたのかもしれないけどね(^_^;))。

足利尊氏と新田義貞の「同時挙兵」については、ドラマでは二人が互いに示し合せ、事前の約束を基に行動を起こしているように描いていた。

この点は、史実としては「虚構」部分と言える。
が、「事前に示し合せ」が無かったか、というと、「在った」もしくは「同時となるべく(北条氏の動きを麻痺させるため)両氏の間を連絡した者がいた」と見なす方が自然だろう。
新田・足利双方の血をひく岩松氏(新田義兼の娘が足利義純に嫁いで生れた岩松時兼を祖とする)がそこに相当するようだ。

しかし余裕の足利軍と違い、僅か150騎で挙兵に踏み切った新田義貞には、もう少し差し迫った根拠があった。

幕府(北条得宗家)によって楠木討伐の軍資金徴収が命じられ、紀親連黒沼彦四郎徴税使として世良田に入部して来たのだが、義貞がその無法さに怒って黒沼を斬首、紀を拘留←これが挙兵に踏み切る直接要因となっている。

大河ドラマは、尊氏と義貞の事前約束と、義貞の徴税使殺害の両方を描いて、上手に繋げていたが、ドラマは足利尊氏が主体のストーリーだから、それでいいとして、新田義貞を主体と見る時、後者が挙兵根拠であった事が重要になってくる。

古めかしくも荘厳な拝殿の祭祀
(拡大)

@新田義貞は、足利尊氏の京攻略を聞いてから挙兵したか(足利×新田の相違点)

尊氏は北条氏の命令で、北条に反旗を翻す楠木正成を討伐する遠征にあり、関東に不在だったが、嫡子の千寿王(当時4歳)は、周囲に守られて鎌倉の屋敷から抜け出し、新田義貞の行軍と途中に合流し、新田義貞とともに鎌倉の北条氏を討伐すべく、足利氏の旗頭を勤めた。

足利尊氏の六波羅攻略と新田義貞の鎌倉攻めが各々成功すると、鎌倉攻撃に参加した多くの武士は、足利氏の千寿王と、新田義貞のどちらに軍忠状を提出するかで混乱した。鎌倉攻撃によって北条氏が滅び、恩賞を査定する幕府が、実質的に消滅したからだ。

つまり鎌倉陥落の直後から、足利×新田の主導権争いが発生した。尊氏と義貞は、後醍醐天皇に奏状を提出し、互いに自己の武功を主張し、相手を非難し合った。

足利側は新田義貞を、「尊氏が京の六波羅を攻略した事を聞いてから挙兵した」と決めつけ、新田義貞は、「尊氏の挙兵など、挙兵当時はまだ伝わってなかった」と反論した。

このあたりの日程の詳細な点が、各々の主張で食い違いがある事がわかる。
以下の年表は、新田側の主張ではあるが……

05/02、千寿王(尊氏の嫡男)が鎌倉を脱出し、世良田に向かう。
05/07、足利尊氏が丹波で決起し、京の六波羅探題を一日で攻略
05/08、新田一族が生品神社に参集。「天狗山伏」の報せで、越後などの一族も次々と合流。

↑こんなとこかな、と(^^ゞ。
新田義貞の徴税使殺害は、足利側が新田側への攻撃材料として提示した話で、新田側の反論に見掛けないので、何となく見落としがちだが、現地には(今回は行かなかったが)、徴税使の首を晒した伝承地などもある。

新田側が主張しないのは、誉められた話じゃないからか、足利側への反論に終始してるからかは知らんが、否定してるわけではない。

やはり、北条氏が差し向けた徴税使を義貞が斬ってしまった事が、一刻も早く動き出さざるを得なくなった原因と見ると、尊氏の京攻略が05/07、一方の新田義貞の挙兵は05/08というのも納得で、一日しか経ってないのに、新田義貞が尊氏の戦勝を聞いてから挙兵したとは思いにくい(^_^;)。

拝殿の脇から本殿の裏手に行ける。その途中、小さい祠がいっぱい集められていた→

A足利千寿王の挙兵は、新田義貞と同時か(「梅松論」と「太平記」の相違点)

この千寿王と新田義貞の合流場所が、どうも「梅松論」と「太平記」で、微妙に違うらしい(^_^;)。

義貞の挙兵は、だいたいにおいて、上野国の生品神社→世良田→利根川→武蔵→鎌倉だが、「梅松論」では、千寿王もともに世良田から武蔵に入ってるように受け取れるらしい。

対して、「太平記」によると、義貞の挙兵が05/08に生品神社、千寿王は05/12に世良田においてで、千寿王が後から新田義貞を追いかけ、義貞との合流は武蔵で追い付いてから……と受け取れるらしい。

これもさっきの表で、あの続きを綴ると……、

05/09、新田軍、武蔵に出撃。
05/10、入間川で鎌倉軍と対陣。
05/11、小手指河原(所沢市)で合戦。新田側300、幕府側500が討死。
05/12、足利千寿王、新田義貞と同道。(太平記)
05/15、分倍河原(府中市)・関戸河原(多摩市)で激戦。
05/17、新田義貞の鎌倉攻撃はじまる。
05/21、新田義貞、稲村崎で龍神に祈念。太刀を海に投げて波を引かせ、兵を渡らせる。由比ヶ浜で激戦。
05/22、北条一族の集団自害。

「太平記」はどちらかと言えば南朝側に近い立場から、一方の「梅松論」は足利側の立場から書かれていると言われるから、つまり「梅松論」に、新田氏の詳細な動向を求めること自体、ちょっと無理な話なのかもしれないね(^_^;)。

新田義貞の挙兵は05/08と早く、足利千寿王は後を追いかけ、05/12になってから武蔵で合流したに過ぎないのだろう。
勿論、武蔵より後の進軍でさらに味方を増やした分は、足利氏の嫡子というネームバリューや、それこそ尊氏の戦勝が伝わった効果も考慮に入れるべきだが、その前までに、越後・信濃・甲斐などの新田一族が駆け付け、義貞軍の補助となりえていたと考えられる。

本殿に到達。(パノラマ縦横3枚)

ところで、各種ネット情報で、この神社の祭神が「平将門」あるいは「将門の弟」とする記述を見掛ける(^_^;)。
神社では特にそうした記載は見なかったが、と言って、確かに普通は神社で見る「祭神」についての記載も、これまた見なかった。

将門は下野国とは何度か戦闘を行い、最後は藤原秀郷に敗れてしまうが、この上野国に来た折には、国府の総社で巫女に、新皇となるべく八幡のご神託を授かった。
この事から「下野ではともかく、上野ではウケが良かったのかな〜」と思った事はある(^^ゞ。

他に千葉氏に伝わる伝説には、将門が上野国で妙見の加護を受け、戦いに勝ったとする話もある。(2009年8月<東光院>内
さらに、茨城あたりでは、どうも南北朝の遺跡が、将門伝承に紛れて遺されているように感じる事がある(^_^;)。

なるほど、義貞と将門は、ともに30代の半ば過ぎて史上に現れ、武勇に優れて瞬く間に有名を馳せ、5年強で突然死に至った。
同じように戦場において、あっけなく敵の放つ矢に倒れた点まで同じである(汗)。。

さらには、女系を辿った子孫が土地を守っていた点など、確かに数々の符号があるかもしれない。
しかも主な強敵は、下野出身の武将という点まで酷似している。

違う点と言えば、片や朝敵、片や皇国忠義の武将と謳われている点ぐらいかなぁ(^^ゞ。……と言っても、北朝から見れば、新田義貞も「朝敵」だろうけど(^_^;)。



<新田荘歴史資料館>

↑古称かもしれないが、一部「東毛歴史資料館」と書かれる案内も見かけた。そこに向かう道の途中……、

亭主が「あれ撮って!」と珍しくリクエスト(笑)
何度か車を展開して正面から撮影(^^)

「ステーキ けん」の「太田新田店」だったかと(^^ゞ。地図C
ウチあたり「いわたき」も「けん」も古くからあって、美味しいんで時々いくが、調べて見ると、ウチの近くのは1号店のようだ。発祥地だからか千葉には店舗数も多いが、このような建築は初めて見る。

「けん」って廃業したレストランなどをそのまま再利用しているとか聞いた事があるので、「もしかすると、元々は地元の和風レストランだったんじゃないかな!」「きっと新田義貞がらみの!」というのが、我々の推測だった(^_^;)。
亭主が言うには、「屋根の上に乗ってる、いかめしい角立がそういう風情」だと(笑)。

後でだいたいの住所から調べた所、地図に古い店名のまま残ってて、ここは「すぎのや本陣」というチェーン店だったようだ(^^ゞ。
本拠はどうも茨城県坂東と常総市あたりのようだから、この造りは、これまたむしろ将門のノリという事に?!(笑)

くだらん事言っとらんで早、次行けぇ〜!
世良田に到達(^^)

上野国は「かかあ天下と空っ風」と言われるが、時折、ポーンと拓けた平原の草は白く枯れて、聞いた通りに乾燥風が吹き渡っている風情だった(^^)。

やがて入った「世良田」という地名は、私の辿った学習過程では、やはり徳川家康にくっついて記憶された(^^ゞ。

フィクションだが、「影武者徳川家康」(隆慶一郎/作)で、主人公(家康の影武者)が「世良田二郎三郎」と名乗っていたと思う。
そういやあれには、世良田氏との関係など説明されてたかしら……と、今から全巻ふりかえるのは面倒なので、あれこれ検索したところ、どうも「二郎三郎」の名乗る「世良田」姓への明確な説明や位置づけは、作中ではされてないようだ(^_^;)。
ただ偶然そういう名前の赤の他人……という事なのね(笑)。

左が「新田荘歴史資料館」
近くの喫茶店のランチでカレーを食べた♪

実は「新田荘歴史資料館」の駐車場に、「葵」という和風レストランがあって、そこを宛にして来たんだが、タッチの差で、店じまいとなってしまったので、周囲を探して喫茶店に車を乗り入れたら、喫茶店の方が出て来て、車を入れやすいように色々片付けて下さった(^^)。

カレーはビーンズたっぷりのキーマ風で、ずいぶん専門的な味わいだった(゚.゚)。
コーヒーが特に美味しかった。酸味タップリでこたつの好みの味だった ( ^o^)〃迴~~
後で地図を示そうと思っていたんだが、探しても見付からない(>_<)。。また行きたい!

……と悔しがっていたら、地元に近いさまが、
「境女塚のCAFE ROSSYさん(地図:http://goo.gl/maps/m1QKJ)では」
と教えて下さった。店名だけだと自信が無かったが、示して下さった地図のストリートビューで見る店構えがピッタリで(^。^)☆ミ 間違いない!と(笑)。(紫さま、ありがとー(^O^))
さらに、「宿に忘れて来た(>_<)」と思いこんでいたメモが、後になって見付かり、そこに、
「カフェロッシー ブログ http://caferossy.blog134.fc2.com/ ツイッター @caferossy
と自分の字で書きこんでいた(^^ゞ。
あと、ここの美味しいコーヒーのブレンド豆が、「ブラジル コロンビア」ともメモしてあった(笑)。
……以上、2013/05/  追記

←というわけで、再び「新田荘歴史資料館」の駐車場(地図D)に到着。

前に佇むのが、和風レストラン「葵」。葵の御紋の「葵」だね(笑)。とろろ飯や山かけ麺といった、特産の大和芋料理のお店のようだ(^^ゞ。

その隣、後方から資料館や茶室、寺社などが連なる地域が始まる。

現地の案内図に、字を書き入れて見たよ(^^ゞ

ざっと5コーナーあって、今、一番右の「駐車場」にいるが、最初に@「歴史資料館」の敷地に入る。
続いてその左はA「世良田東照宮」の敷地となるが、「宝物館」のあたりで一度仕切りがあって、外に出る。
B「太鼓門」から入るのが、徳川(得川)・新田岩松氏の墓所、Cその隣の「長楽寺」には続けて入れる。
「太鼓門」から通りを隔てて向かい側D「三仏堂」には奥に蓮池の庭園がある。

早速@「歴史資料館」に入るわけだが、まず駐車場と和風レストラン「葵」の敷地を奥(裏手)に入ると……、
最初に右手に見えるのが、この「茶会所・大光庵」→

平成5年(1993)に建設されたそうだ。これより行く「長楽寺」が茶道と深く関わりがある事が書かれていた。
長楽寺は栄西の門弟・栄朝の開山だからだろう。栄西は日本に茶道をもたらしたからね(^^ゞ。

この日は閉まっていたが、看板の下には、営業時間が書かれ、地域の茶道愛好家はじめ、一般の人でもお茶が楽しめるようだ(^^)。

あと、この辺りから、この先の寺社にかけて、子供の描いた絵と、いろは俳句 による「尾島かるた」と書かれた案内板が各所に立てられていた(^^)。
ここには茶室の青畳で、お茶を点てる紫色の着物の女性が書かれていた。

茶室から左を見ると「歴史資料館」とその前の庭園(パノラマ3枚ほぼ180度)

この後に行く「世良田東照宮」で購入した本によると、世良田東照宮や長楽寺の寺社域は、明治以後は経済的に全く立ちゆかず、相当ひどく廃れたようだ(^_^;)。

特に、小中学校が割って入るように建てられて、子供達の遊び声だけが寺社域にまで鳴り響いた様子など、荒涼たる閑散ぶりが描かれていた(^_^;)。

それが戦後、国の文化財に指定されたり、補助金や寄付金によって修復が出来たり、知名も上がり、徐々に参拝客も増えて賑わうようになった。
小学校は今でもあるが、中学校が生徒数減少によって、他の中学と統合して去ってからは、貸し地も戻り、1986年に「東毛(現・新田荘)歴史資料館」(地図E)が建設されたそうだ(^^)。

なので、資料館の建物だけでなく、その前の緑地も広々として、今見た茶室「大光庵」も建てられた、という事だね(^^)。<めでたし、めでたし♪

新田荘歴史資料館(パノラマ2枚)建物の前に佇む像は……

これまた「新田義貞@(たぶん稲村ヶ崎)像」
そういや、ちょうど像の先には、↑小島をしつらえた池があって、由比ヶ浜の海岸に向かってるような雰囲気(^^)? うぉ〜今まで全然気が付かなかった(笑)。だんだん水が引いて行くトコだね!

……ん? しかしそう思って見ると、池の後方、樹木の合間から見える建物群は……隣接地の学校のような(^_^;)?
……と言う事は、今、新田義貞が敵(鎌倉の北条氏)に見立てて、攻め込もうとしてる先は……

危うし!世良田小学校(爆)!
(もしかして中学校もこうやってどかした(^_^;)?)

←入館(^^)。中は撮影禁止……と思ってたら、バシャバシャ音たてて撮ってる人がいてビックリした。防犯カメラさん、それ私じゃないよ(笑)。

図版集を1冊買ったけど、全部は載ってないので、忘れない内にあれこれメモしたのに、残念ながら無くしてしまった(^_^;)。宿に置いて来ちゃったのかも!

覚えてる限りで話すと……入るなり目に飛び込んで来た、埴輪がスゴかった。
古代の発掘物って、関東だとこれといって見た目に凄い刺激がある物をあまり見ないので、さすがは群馬だなぁ……と思った(^^ゞ。

前回も書いたけど、群馬は関東の中でも巨大古墳が多いなど、何しろ大和朝廷との接触が早い。早い内から、東国進出の拠点とみなされてたのだろう。
最近、発掘されて話題沸騰の、史上最古の鎧を着た男性が見付かったのも群馬県だもんね(^^ゞ。
記紀にも、豊城入彦命(崇神天皇の第一皇子)が東国を治めに行く記述があり、また上野国と下野国の毛野族の先祖が豊城入彦命とされる事とも関係あるんだろう。

が、この東毛においては、巨大古墳を作るだけ作って、わりとすぐ勢力がヨソに二分していってしまったらしい(^_^;)。
ある時を境に、前方後円墳はピタッと作られなくなり、かわって独特の埴輪がいっぱい作られたようだ。埴輪作りの専門職があったと見られている。

あとは縁切寺満徳寺の話も印象に残ってる。戦国末期、豊臣家が滅んで、大坂城から戻って来た千姫がはじめたとされる鎌倉の東慶寺と、この満徳寺の二つだけが、縁切寺として認められていたそうだ。
展示されてた絵に、逃げ込んで来た女性の姿が確かあったように思う。

ただいま展示閲覧中につき、お庭をご覧下さい(笑)(パノラマ3枚ほぼ180度)

あと覚えてるのは、江戸期の香炉が凄いデザインで印象に残ってる。群馬の藩のだったか……。

あとは図版にあるから詳細がわかるもので、新田徳純の「猫絵」が面白かった。新田氏の末裔・岩松氏の人だ。
この岩松氏は、忍藩の藩主・安倍忠秋の推挙で、百石の加増を受け、交代寄合の格を得た。
徳川将軍家と同祖である事から、特別待遇によって、正月に江戸城に登城し、将軍にお目見えして挨拶を述べたという。江戸城では柳の間詰めといって、一万石の大名並みの体面を有したとか。
日常では、下田島村に屋敷を拝領し、代々で住んで「田島の殿様」と呼ばれ、相続や隠居は全て阿部家の取次を経た。明治には新田姓となり、華族に列したそうだ。

先に言った香炉も、この阿部氏がらみだったような記憶が……(違ったかしら(^_^;))

これもメモが見付かって、「獅子香炉」という展示物だった。メモ書きには「安倍忠秋(1602〜75)東照宮へ寄進」と書いてある。
……以上、2013/05/  追記

他に展示物で、一番印象に強かったのは、間引き絵馬(^_^;;)。。
尾島の青蓮寺に伝わる、大きな木製の絵馬で、女の人が生れたばかりの赤ん坊を上から体重をかけて押し潰そうとしてる恐ろしい絵が描かれている(^_^;)。。上空の空間には、鬼の顔の幽霊みたいのが浮かんでいる。
これは間引きを戒めるために書かれた物だが、農民の生活の苦しさが裏に浮かびあがる貴重な絵だ。江戸期の古い絵なのに、彩色が鮮やかに残っている。

特に上野国だけの実態はなかったはずだが、「木枯らし紋次郎」の設定などには影響しただろうね(^_^;)。

といった所で、そろそろ資料館を後にする(^_^A)(パノラマ4枚180度以上)

ちなみに「歴史資料館」の前に冠される、「東毛」が、「新田荘」に変わった経緯については、特に書かれてなかった気がする。

が、購入した本には、「元は、上毛野、下毛野の二国を“毛”と呼んだのだから、本来“東毛”と言えば、二国の東部にあたる下野国を指すべきなのに、群馬県の南東部のみを“東毛”とするのは筋違いではないか」というような事が書かれていた。

……なるほど、と思った(^_^;)。



<世良田東照宮>

↑(地図F)上の写真の位置から、後ろを振り返ると↓

←「世良田東照宮」が木の間に見える
右に歩いて行くと、↑こんな入口がある

「南御門」と書かれ、「東照宮が御鎮座したおり御神域を守護するため、現地より東南の位置に築かれておりました。また御黒門を中心とした北御門・南御門の門前には、下馬札が立てられておりました」と説明されていた。
御黒門というのは……↓

「世良田東照宮」見取り図(字を入れておいた(^^ゞ)

本来は中央下の「御黒門」から入るんだが、私らは「新田荘歴史資料館」の方から来たから、↑この図だと、左の方向(「真言院井戸」あたり)から→こう入って行き、「御黒門」は最後に出る……という順路。

さて、この世良田東照宮は、徳川家康が関東に移封されて来た時(1590年)に、先に示した新田氏の祖・新田義重新田氏八代(さっきの表ね(^^ゞ))の子で、新田義貞にまで繋がる「義兼」の下に、「義季」という弟がおる源氏系図新田氏系図(円福寺版))が、この「義季」に発した「得川氏」を、「先祖」と見なして、郷内の寺々や郷民に寄進や扶持、課役の免除などを施した事に端を発するらしい。

家康に、得川氏ゆかりの寺院の復興を命じられた天海は、家康の死後、寛永16年(1639)にようやく着手の意思を固めた。
3代・家光も、祖父・家康への尊敬の念ことさらに篤かったので、既に2代・秀忠によって造営された日光東照宮を、新たに造り替えを行なう事としていた。

そこで、この世良田が徳川氏の先祖の地ということから、当時、日光輪王寺と長楽寺(得川義季を開基とする寺)の住職を兼ねていた天海は、世良田東照宮の建設にも着手し、こちらには本殿を新築し、既に元和年間に造営されていた、日光の奥社・元の宮(拝殿・唐門ほか)を移築した。

実は、天海が弟子の晃海を世良田に派遣し、天台宗に宗替するに当たっては、禅宗系の僧侶や寺内の農民の一部が、それを拒む行動を取ったので、家光が天台宗系の寺院を整えるため、東照宮の建設に至った、という事情もあったそうだ。

中に入る。まずはさっきも言った↓「真言院井戸(パノラマ5枚180度以上)

天海が差配する前は、長楽寺の別院のあった、ここ「真言院」で灌頂(僧侶の資格を与える真言密教の儀式)を行なっていた。
灌頂で僧侶の頭に注ぐ清浄な水(閼伽)を、この井戸から汲んだ。この水で灌頂を受けるため、諸国から僧侶が集まった。

灌頂の儀式は長楽寺で行われるようになり、真言院は廃されたが、井戸だけは丁重に保存されている。
ただ、天海によって井戸は作り替えられ、底に玉石を積んだ上に、方形にくりぬいた花崗岩の大石を、縁を唐戸面に仕上げた井戸枠にして据えてある。

家康がこの地の寺社や郷民に、寄進・扶持・課役免除など施したのが、慶長8年(1603)という事だが、天海を長楽寺の住職とした、という話があって、これがいつかわからない(^_^;)。
世良田東照宮の建設は、寛永16年(1639)に始まり、この井戸の作り替えは、寛永19年(1642)との事だ。

「群馬県一太いソメイヨシノ」
「月船深(←王ヘン)海の塔所普光庵跡」

左はさっきの門を入ってスグ振り返った所。スゴイ逆光でせっかくの桜の大樹の葉ぶりが殆ど飛んじゃったが(^_^;)。

この桜と向こうの真言院の井戸の横あたりに、往年は「本地塔」という二重の塔(木造多宝塔)が建っていたらしい。
これも日光東照宮から移築された物だったらしく、「塔の薬師」と呼ばれた。家康の本地が薬師如来とされた事からのようだ。
明治の分離政策で、仏教建築に属すという事から、長楽寺に移そうという案もあったが、東照宮にある方が見栄えがするという事で留め置かれ、やがて売却されてしまったという。。
購入した東照宮の本には、復元図が描かれており、 内部の壁画は一部長楽寺に保有されてるとの事。

右の写真は「普光庵跡」で、門を入って左手の奥にある。
案内板には「法照禅師月船深海塔所並びに普光庵跡」とあるが、「深海」の「深」の字は、「サンズイ」ではなく、「王ヘン」が正解。変換で出て来ないので(^_^;)ゞ
禅師名が「法照」、字が「月船」、名を「深(←王ヘン)海」。

昭和12年(1937)、大杉の根を掘ったら、石櫃が発見された。
「月船和尚」などと刻まれ、骨壷が納められていた事から、「塔所」(墓所)だとわかった。それまで、法照禅師の遺骨が東福寺と長楽寺に分葬されたとは伝わるものの、墓所は長く不明だった。

法照禅師は、鎌倉時代の弘安5年(1282)幕府の命で、長楽寺の第五世住職となり、鑑堂大円(長楽寺六世)、牧翁了一(十世)など多くの高僧を世におくり、徳治二年(1307)に京都の東福寺大八世となり、延慶元年(1308)同寺で没した。法照禅師の諡を朝廷より賜った。

石櫃の西側に、弟子の遺骨が六個の骨蔵器で埋葬されていた。「普同塔」(共同埋葬)といわれる禅宗僧侶の埋葬形式で、従来文献にのみ伝える物を実証した、数少ない遺跡。

法照禅師の骨蔵器の発見の時、近くから礎石も見付かり、「普光庵跡」も確認された。
「普光庵」は、法照禅師の高弟、(長楽寺十世)牧翁了一が、法照禅師のために建てた塔頭(たっちゅう、弟子が師を慕って塔の頭に建てる庵)。密教道場として大いに栄えたが、その後は所在も不明になっていた。

朱色のボンボリが立ち並ぶ通路を先に進もう(^^)。→
通常の神社のように、上り下りも無く、ド〜ンとだだっ広い。

上に「真言院」や「法照禅師の塔所」「普光庵」などで見て来た通り、家康によって天海が遣わされたり、家光によって世良田東照宮が出来る前は、先ほどから何度か話しに登場する「長楽寺」がこの地域の名刹であった。後で行く(^^ゞ。

新田義貞が徴税使を斬るに及んだ背景にも、長楽寺の存在が関与するが、これは長楽寺に行ってから書く。
また、家康が「祖」と仰ぐ「得川義季」や、家康の徳川家との関係についても、「得川家墓所」に行ってから話す。

ここでは、長楽寺が平安期、得川義季によって創建された事、地域の権力は盛衰したり、交代しながらも、長楽寺じたいは長く土地に伝えられて来た事、その最後の庇護者が徳川宗家であり、同時に江戸幕府であった事を伝えておこう。

通路の先も、広い空間の各々端に各社が並ぶ(パノラマ4枚180度以上)

世良田東照宮が出来ると、奉斎にあたり三代・家光から御神領二百石が寄進。徳川幕府は祭祀を継続し、家康の宮を厳重に守るため、二百石の社領を与え、長楽寺を別当に任じて管理を任せた。
社殿の修理や祭祀の費用も、幕府の財政によって賄われることになった。

莫大な費用が幕府から出されるのだから、地域の経済にとっては勿論のこと、江戸から遠くない地である点も加わって、文化発展にすこぶる大きく寄与した。
特に修復・修繕となると、多くの労働者を潤したんだねぇ。

←まず最初に会うのが、東照宮の創建当初からあったという「稲荷社」(^^)
↑ちょっと鳥居の柱をズレて、狐ちゃん達も写してあげよう( ^^)σ只 <カシャッ>

東照宮の修復の際は、この稲荷社も幕府により手厚い保護がされてきたそうだ(^^)。

明治25年(1892)、同地良田山内に鎮座していた世良田五社稲荷の一社と伝わる「開運稲荷社」を合祀。
明治40年(1907)「開運稲荷社」は、小社合祀奨励により、旧世良田村小角田の「稲荷神社」、旧世良田村上矢島の勝手神社末社「稲荷社」、旧木崎町高尾の久呂住神社末社「稲荷社」と共に東照宮へ合祀。
平成8年(1996)現地に社殿が新築、遷座祭が斎行。御宮に合祀されていた全ての稲荷社が御鎮座され、現在の「開運稲荷社」となった。

←こちらはお隣、人形代(心身祓)の祈願所
↑境内の中央に記念撮影用の顔抜き立ち絵(笑)。江戸情緒だねぇ〜(^o^)

江戸時代には、「お江戸みたけりゃ世良田へござれ」と謳われ、随所に江戸っぽい雰囲気が濃厚で、訪れた著名人の写真もバンバン張り出されて、賑やかな雰囲気(笑)。

「三ツ葉葵会」なんてのもあって、「入会のご案内」というのが張り出されてた(^_^;)。

正会員が5千円、特別会員には1万円でなれるらしい(笑)。
会員になると、会員証が貰え、家内安全の祈願をしてくれ、正月は拝殿での祈祷に入れて貰え、御札と破魔矢が貰えるんだとか(^^ゞ。
他に例大祭の参列、研修旅行の参加、東照宮の拝観、特別会員になると、社頭に「献燈」が設置されるそうだ☆ミ ……研修旅行って何教えるのかなっ!(爆)

←七五三の祈祷案内。翌日も和服の女の子が親に連れられてる姿を見た。

こちらはその祈祷に用いる碁盤。砂利にドーン!と置かれてた(^^ゞ→

奥に三つ立つ燈籠は、奉納者が、奥から前橋城・松平朝矩、河越城・松平直恒、忍(現・行田)城・松平忠国

その碁盤と各燈籠の向こうに聳えるのが、いよいよ東照宮・拝殿(国重文)だね(^^)。

元和2年(1616)、徳川家康は駿府(静岡市)で75年の生涯を閉じた。遺言は、「日光山に小さな堂を建てて、自分を神として祀ること。自分は、日本の平和の守り神となる」だった。
その遺命により、遺体は一旦駿府郊外の久能山に葬られ、翌年、下野国日光に改装された。
そして20年後、先ほども話した通り、日光東照宮は家光に改築され、旧社殿の一部を長楽寺元境内に移築して、ここ世良田東照宮を勧請した。

日光奥社の拝殿を移した拝殿は、桁行五間・梁間三間。寛永21年(1644)に遷宮式が行われた。
家康の最初の墓標として建てられた多宝塔も、先ほど話した通り、本地堂(俗に塔の薬師)として、明治初年まで豪華な姿をとどめていた。

……実は、この「拝殿などを移した」という話、前は文献からしか確認できない事だったんだが、昭和の大修理を行った時、拝殿の正背面から「日光より御被下申候也」と、日付や方位とともに墨書されてるのが発見され、史実として裏付けられたそうだ(^^)。
日光では南向きに建てられたが、ここでは東向けに建てられた、という事も判明した。

拝殿の前の石鳥居
拝殿(国重文)正面

写真のように、通行止めがしてあって中に入れそうもない。「日光東照宮では、奥社まで行けたけどなぁ」と思い、止めてあるのを通り越して行こうとしたら、亭主が「入れないんだよ、きっと」と言う。

「あっちに入って見る?」と亭主が「授与所」の方を指すので、行って本を買って、授与所の周囲を見回して……結局外に出てしまった。(汗)
……ここで拝観料を払って、奥に入れて貰う、という事だったのかも(^_^;)。

何か宝物館のような場所に誘導するだけに思えて、「隣の敷地から入るんじゃないかなぁ」とか言って、隣の「太鼓門」に入ってしまったのだ(笑)。

というわけで、拝殿の奥にある「平唐門(国重文)」、そのさらに奥「本殿(国重文)」には、残念ながら行けてない(^_^;)ゞ。良かったら、これで見て(爆)→境内案内世良田東照宮HP

■東照宮の文化財
●国指定重要文化財
建造物−本殿・唐門・拝殿・附鉄燈籠・棟札
史跡「新田荘遺跡」 東照宮境内
工芸品−太刀銘了戒・附拵銀造沃懸地太刀
●県指定重要文化財
絵画−板面著色三十六歌仙図
●県指定史跡(国史跡指定のため県指定解除)
法照禅師月船深(王ヘン)海塔所並びに普光庵跡
真言院井戸
■祭神
主祭神・徳川家康公(東照大権現)
 東から照らす朝日のように勢い盛んな神の意味。
祀:
・菅原道真公(学問の神)
・倉稲魂命(穀物、商売繁盛)
・須佐之男命(愛、農業の神)
・伊弉諾尊(結婚・火防の神)
祀:
・火産霊命(車、縁結びの神)
・大穴牟遅命(招福、医療の神)
・誉田別尊(安産、育児の神)
・建御名方神(スポーツの神)
・豊城入彦神(開運の神)
・外十柱

←拝殿の向かいは、弥栄松(いやさかのまつ)。
↑松の根元で、「御黒門」の脇に、「上番所」と板に書かれた小屋があり、その前に立つ、これまた撮影用の顔抜き立ち絵(^o^)。お役人風の侍姿だ。いいねぇ〜!

「弥栄松」は、明治9年(1876)、旧御神領目代の菊池栄之進に奉納された。
この「神領目代」というのは、世俗の仕切りでは「代官」、神社内部では、今でいう宮司に相当するかな(^^ゞ。

この菊池氏は、肥後からやって来た「菊池武秀」という人が初めで、天文23年(1554)に、父が討死し、母に連れられて京に行き、永禄5年(1562)に上野国の新田郡一ノ村に住み、金山城主・由良成繁国繁に仕え、長楽寺七騎となった。

天正18年(1590)、秀吉の小田原征伐につれ、金山城も接収となり、世良田に移住した所、嫡子の武長の頃、日光からの東照宮の移築の御用役を勤めて、天海に見込まれ、以後、代々目代を勤めた。

戦国期とは言え、「肥後」で「菊池」で諱に「」の字があって、来た先が「新田氏」の故郷となると、南朝の菊池氏と関係ないの?……という気分を濃厚に催すが(^_^;)、「世良田東照宮」の案内を書かれている御当人が、今でもこの菊池氏の子孫の方で、一字もその事に触れていない。。

その癖、家康の徳川家と、この地の得川義季の繋がりについては、一生懸命に筆を割いておられ、すこぶる好印象を持った。
思うに、この地に繁栄をもたらしてくれた徳川家の恩を、今でも思っておられるのではないかと思う。

しかし、そのように地域を潤した徳川幕府からの出資も、飢饉や災害、幕藩財政の窮乏など、時代によっては、滞る事もしばしばだった。
ちょくちょく財政難の壁にぶつかり、東照宮もなかなか修復が施せないだけに、防火には入念な手配りがされた。それが、「弥栄松」の根元の「上番所」に見る、「火の番助郷」だ(^^)。

「番所」は上下の二ヶ所に設け、昼夜警備に当たった。番所の建物は二間と一間半だったという。
番所にあった道具は、上から、「袖搦」「刺股」「突棒」の、いわゆる「三ツ道具」、他に、「棒十本」「鳶口三本」が紹介されていた→
火災時にはこれらと、縦横三尺の大内輪をもって数十数百人一団となり、火消しを行った。

重要なのは、この役割を担った「火の番助郷」で、地元、世良田の住民はもとより、近隣十数か所の住民が、東照宮の火の番を奉仕した。火災や水害時、夜間でも常時出動できる態勢を取るためだ。

「火の番助郷」に当たった村々は、
・川南(埼玉県深谷市)
中瀬(深谷町)・横瀬・北阿賀野・南阿賀野・町田・血洗島・上手計・下手計・大塚・成塚・新戒・高島。
・川北(群馬県太田市・伊勢崎市)
世良田(尾島町)・小角田・粕川・出塚・大館・上江田(新田町)・中江田・下江田・高尾・八木沼(境町米岡)・平塚(境町)・中嶋・境(境町栄)・女塚・上田中。

以上の村々から2〜4人出仕していた。
なかでも、世良田・小角田・中瀬は特別な御用を勤めた(天保7年資料による)
決められた村の者は、平常時にも清掃や宮に関係する御用も勤め、修復の折には奉仕も義務付けられた。

一見、損な役回りのように聞こえるが、この役目に任じられた村には、幕府によって開削された神領用水の利用を許されるなど、種々の恩典に浴することができた。
中でも特に大きなメリットは、一般的な「道中助郷」の課役を免除されるという点だ。

道中助郷」は、宿場近隣の村々から臨時の人馬を供出させる仕組みだ。
時代とともに交通が頻繁になると、幕府は各街道を整備し、本陣・旅籠など宿泊所、輸送に必要な問屋・人馬の継ぎ立てなども次々と出来たが、それでも人馬が不足する事態がたびたび起きたので、そんな時に適用された。

「道中助郷」にはバイト料が出はするのだが、かなり低賃金で、盆暮れ正月に関係なく、休み無しのキツイ内容だった。
それでも休む時は、「差し村」といって、他の村を名指し指名せねばならず、指名を受けても大金を払って拒否した記録もあり、相当な負担で嫌がられた事がわかる。これを永久に免れた得点は大きい。

←これが本来なら正面入口の「御黒門(縁結び門)」
(我々は出口として通らせて貰ったけど(^^ゞ)

「御黒門」は東照宮創建時、幕府により建てられた。左右に80mの白壁の堀があった。
江戸時代、平常は閉ざされ、参拝は門前までだったが、正月と4月の祭典日などは特別に開かれ、拝殿下の階段前まで参拝が許された。(日光東照宮でも、陽明門の中に一般民衆も入れたそうだ)

この門の蹴放し(溝のない敷居)をまたいで参集すると、良縁が成就すると云われ、「縁結び門」とも言われている。

「御黒門」を出て→こう行くと「太鼓門」に至る(パノラマ5枚180度以上)

私は奥社(本殿)の方に行くには、あの「太鼓門」あたりから入るのかな、と思ってたので、ここで出ちゃったんだな(^_^;)ゞ。
「御黒門」から「太鼓門」に行く間に……↓

←「車祓」の空間があった
↑ちなみに通り向かいは小学校の壁(^_^;)

お祓いする車輛を停める周囲、四隅の各柱ごとに……↓

青・赤・白・黒の各テルテルボーズ風の四神がぶら下げられてた(^^)(拡大)

さすが風水パワーの天海僧正だー!(笑)



<得川氏・新田岩松氏塁代の墓>

←で、ここ「太鼓門」に至るわけだが、見取り図では、ここは「得川氏の墓所」で、「長楽寺」にはその隣(東照宮から見てさらに奥)となっている。

ところが通りの向かい「三仏堂」の案内版には、「長楽寺三仏堂及び太鼓門」と、「長楽寺」「三仏堂」「太鼓門」の三点は、全て長楽寺の管轄に入るようだ。

もっとも、先ほども話した、家康の「本地塔」も、明治の神仏分離後、東照宮に留めるか、長楽寺に移すか取り沙汰されたようだから、その時々の事情で移転してるのかも(^_^;)。

この「太鼓門」(県重文)は、鼓楼ともいわれ、三仏堂の西に隣接して立ち、様式手法等により江戸時代初期のもので、その後、三仏堂同様に修理を経て現在に至っている。
桁行三間、梁間三間、袴腰付、入母屋造、銅瓦葺、東向き、中央一間扉構、上部は四周に縁をめぐらし、高欄が付く。正・背面の中央間に火灯窓、嵌板に華麗な彩色透彫文様を施す。楼上に太鼓をかけ、寺の諸行事の合図に使用した。

門を潜ると、途端に鬱蒼と繁る森林(゚.゚)!
途中左手に「徳川義季公・累代墓所」→

先ほどから、つい「得川」と書いてるが、現地では全て「徳川」で書かれてる事をお断りしておく(^^ゞ。
得川義季は、新田氏の祖・新田義重の子。新田氏八代(さっきの表ね(^^ゞ))

この得川氏については、一般的な系図だと、源氏系図←こんな風に「義季」まで載ってるのがせいぜいだと思うが、この後に行った、新田氏の居館跡「円福寺」では、もう少し詳細に、新田氏系図←「義季」の孫の代まで載せてくれてた(^^)v。

で、ここ、「新田荘歴史資料館」「世良田東照宮」「長楽寺」のある一帯にある説明版では……、

徳川氏略系図
新田義重−徳川義季頼氏−教氏家時−満義
                      └満義−政義−親季−有親松平親氏−泰親−信光−親忠−長親−信忠−清康−広忠−徳川家康(尊卑分脈清和源氏新田系図より)

■新田氏系図 ■円福寺の系図 ■世良田東照宮 ■徳川家系図

こうなって、あの「徳川家康」まで抜け無く続いて書かれていた。
色をつけたのは私(^^ゞ。松平親氏から徳川家康までの色が、さらに別の色になっているのは、徳川家の系図が、だいたい親氏から後だけ書かれている事が多いから。

つまり、得川義季から松平親氏までの間は、繋げて書いている系図が無いどころか、全く別の系譜として項目が起こされるのが通常だと思う(^_^;)ゞ。
これが徳川幕府の時代は、この通り、全て繋がっているのが常識だったんだね。

お邪魔します(^^ゞ。中央に文殊菩薩(たぶん)(パノラマ3枚ほぼ180度)

得川義季は鎌倉幕府に仕え、世良田郷を開発して、地頭職に補せられた。
承久3年(1221)、臨済宗の宗祖・栄西の高弟・栄朝を招いて、後鳥羽上皇の勅願と伝えられる「長楽寺」を開基。
……この栄朝ゆかりの「開山堂」は、この後に行くね(^^ゞ。

頼氏も幕府に仕えたが、将軍の勘気を被り佐渡へ流罪。
教氏は所領の一部を長楽寺に寄進。家時は早世。

満義の時、元弘3年(1333)、新田義貞に属して鎌倉で合戦し、義貞の属した南朝と運命を共にして敗北、足利尊氏に所領を没収され、長楽寺普光庵に寄進。
政義の時は、観応の擾乱で尊氏・直義兄弟が争い、政義は直義側に就いたが、同じく直義側の桃井・長尾は惨敗、政義の所領は没収され、岩松直国に与えられた。
一方、同族・世良田氏は内部分裂し、足利方に属した世良田義政は没収を免れた。

←右手に剣、左手に経文、蓮の花弁に座す姿は文殊菩薩かと(^^ゞ。

この位置も「文殊山」と呼ばれ、元々前方後円墳の後円部に当たる。

その後ろに案内板とともに控えるのが「得川義季の墓」と伝えられる→

宝塔は凝灰岩製で、相輪は失われいるが、高さ1.65m。屋蓋、軒口の切り方、軒反り、瓶型の塔身等に鎌倉時代の特色を良く現わしている。
昭和6年(1931)、周囲の石垣を築造し、塔を整備した時、宝塔の基礎底面に
  敬白
  奉造立多宝石塔
  右所造立如件
  健治二年丙子十二月廿五日(1276)
  第三代住持比丘院豪
と刻まれているのが発見された。塔の造立者・院豪は寛元年中(1243〜1246)に宋に渡り、正嘉二年(1258)長楽寺第三世となり、24年間住職をつとめた。弘安四年(1281)長楽寺で没し、「円明仏演禅師」と朝廷よりおくり名された。

ところで、家康の徳川家との接続点についてだが……(^_^;)。

まず新田義貞亡き後、義貞の遺児・義興・義宗は南朝側にあって、南朝についた世良田氏を率い、これに親季親氏が加わったとか、二人の間の有親が転戦して戦死したというのだが、この辺りから、時代の錯綜が凄まじい(^_^;)。。

有親は、元中2年(1385)に、新田義貞の孫が信濃に隠れているシーンに登場するかと思いきや、永享11年(1439)、鎌倉公方の足利持氏が自害した折、持氏の子の義久に従い、義久が捕まると、新田一族への探索が強まって、生国の上野国には帰れなくなった……と、同じ時代の人にしては、かなりの時代の広がりがある(^_^;)。

同様に、親氏も没年が、康安元年(1361)〜応仁元年(1467)と幅広い中に9例ある(^_^;;)。
その子、泰親も、永和2年(1376)〜文明4年(1472)に7例の没年があるという(^_^;;;;)。。。

結局の所、「南朝の遺臣たる新田一族は、草の根を分けても探し捕えろ」と厳しい追及が続く中、上野国には帰れず、時衆の僧に身をやつし、三河で松平氏に婿入りして、徳川の名乗りを封印……その9代の子孫が家康……という事になる(^_^;)。

現地の案内板には、「有親・親氏父子は当地を離れて流浪の旅に出、親氏は仏門に入って徳阿弥と名のった後、松平郷(豊田市松平町)に移って松平太郎左衛門信重の入婿になったと伝えられ」とし、「永禄九年(1566)家康は松平姓から徳川姓に復姓し、関東に入国した後、世良田藩徳川の地は徳川氏発祥の地として、将軍家の厚い比護を受けるようになり」……と結ばれている(^_^;)。

……ええと、こうした史料を紹介されてる「世良田東照宮」の菊地宮司には、ほとほと頭が下がる。立場的に結論めいた事の一つも言わないと文章が浮くし、言ったら言ったで何か言われそうだし(^^;)。。

←「得川義季の墓所」から戻り、さらに先に進むと「新田公並一族従臣忠霊供養塔」に出会う。
↑その対面(後ろを振り返ると)、こ……この小屋は? 古い蔵(^_^;)ゞ?

新田公並一族従臣忠霊供養塔」は、世良田村の有志十数名が発起人となって、昭和16年(1941)に建立された。
「尾島町商工観光課」による案内板に書かれた、以下の趣旨に注目した。

「(新田義貞自身は)公の県等においても神として奉斎されているが、新田一族のそれはあまり世に現れず、従臣に至ってはほとんど顧みられない現状を遺憾」
として、『太平記』における堀口貞満の言
『義を重んじ節に殉じて死屍を戦場に曝した者は、一族132人、郎党士卒8千余人』
を借りて、
「その後の転戦を合せれば、万余に及ぶ将兵が、二度と再びふるさとの地を踏むことなく、異郷の土と化した」事を重く見て、「新田一族従臣の忠霊を供養のため造塔の仏事をなさんとする」としている。

以下、私的に補足。

この堀口貞満(新田一族で、義貞軍の一人)の言は、足利尊氏の討伐を命じた後醍醐天皇が、楠木正成の戦死後、新田義貞には一言の相談も無く、勢いを挽回した尊氏と今度は和睦しようとした時、天皇の乗り物に取りすがり、涙を流して怒りをぶちまけたものだ。
前述の言に続けて、「(それでも新田一族を見捨てて京に帰ると言うなら)、一族50余人の首を刎ねろ」と言うんだねぇ。。。

その後も、越前に向かう雪中の木の芽峠の大遭難、夥しい凍死者、「叫喚大叫喚ノ声耳ニ満チ」と描かれる地獄の様相、金ヶ崎城における累々たる餓死者、そのあげくの義貞の頓死……。
義貞についていった大勢の悲惨な末路に、つくづく思いが至る。。。

←そして最後、突き当たりに「開山堂
↑門前、右の足元に「牛石

「開山堂」(地図G)は、栄西の高弟・栄朝の開山にちなんだ本堂名と思われる(^^)。

「牛石」は、その栄朝禅師が全国を行脚し、牛が留まった場所に一字一堂を建立することを発願したところ、ここまで来て牛が倒れ、そのまま石になったので、ここに寺を建てたという伝承による。
この石に座って願い事をすると、その願いがかなうんだそうだ(^^)v

←逆に門前、左の「逆竹
↑そして開いた扉から見える「開山堂

「逆竹」は、これまた栄朝禅師が行脚中に使用した杖竹を逆さにさしたところ、仏頂竹という珍しい竹が生えて来て、何度となく枯れそうになりながらも、また新しい竹が生えて来た。
水戸黄門もこの竹を杖として使用したんだって(゚.゚)! 水戸黄門。江戸情緒だ!(笑)

そして、この開山堂の(向かって)右脇に、「新田家累代墓」という大きな石碑があり、横から卒塔婆が倒れかけており、梵字が並んだ後に、「大施餓鬼会者為新田一族追善菩提也」と書かれ、石碑と開山堂の合間に細い通路があって、奥に墓所が見えたので、開山堂の脇を進み、裏手に出て見ると……↓

鬱蒼とした森の奥に点々と並ぶ墓石(パノラマ4枚180度以上)

「太鼓門」から入って来るこの領域は、ずーっと鬱蒼とした森が続いて、禅宗道場の地としても、鎮魂の地にも相応しい雰囲気(^^ゞ。

ここは、先ほど最初に見た「新田荘歴史資料館」「世良田東照宮」「長楽寺」など、歴史公園全体の見取り図では、「新田岩松氏累代墓」とあったので、この地に旧領主として江戸期も続いた、岩松氏の墓所でもあるのだろうが、その岩松氏が供養していた新田氏の墓所でもある、という事かもしれない。

ちょっと前に進んでみよう。

左がボケてゴメン(^_^;)。柵の前に並ぶ墓石(パノラマ3枚)

岩松氏は、足利義純と新田義兼の娘との間に生まれた、岩松時兼を祖とする。
新田氏八代(さっきの表ね(^^ゞ)/源氏系図新田氏系図(円福寺版))

北条氏討伐の挙兵においては、義貞の挙兵より前に足利氏から働きかけがあったようで、両氏の血を引く家柄ゆえ、岩松経家が義貞と「両大将」として鎌倉攻撃を行なったとも、足利氏から新田氏への政治工作に関わったとも見られている。

さらに進み、柵むこうの墓石を撮影(パノラマ3枚)

かように、新田氏および岩松氏の墓石が、ズラーッと並んで壮観である。

北条討伐の頃の岩松経家は、直後の中先代の乱で死去したようだが、岩松氏は足利氏と新田氏が物別れとなっても、新田義貞とともに滅ぶ事はなく、足利尊氏に従って土地に行き残り、室町時代の応仁の乱の頃、金山城の築城に至っている。



<「長楽寺」「三仏堂」と蓮池竜宮伝説>

「長楽寺」は、今まで居た「得川義季、累代墓所」や「新田・岩松累代墓所」の隣……と言うか、殆ど同じ敷地にあると言っていい(^^ゞ。
ただ、これまで居た深い森とは雰囲気が違って、一転、空のよく見える拓けた場所に出る。

本堂(地図H
伝教大師童形像

↑逆光もあって、実は本堂の写真はかなり真っ暗だった(爆)。アチコチ苦労して何とか色を復元(^_^;)。

一方、右の聖徳太子みたいな像は、その台座に「一隅を照らす」とあった。天台宗のよく使うキャッチフレーズだね(^^ゞ。

この童子は、聖徳太子ではなく(笑)、天台宗祖・最澄(伝教大師)の諭す「御遺誡」に顕す、薬師を手に抱いて子供の成長を祈念する姿だそうだ。「御遺誡」には、

「自分(最澄)は56歳のこの年まで、荒々しい言葉や暴力を発した事がない。自分の同法(自分と同じように仏法を学ぶ者、実際は弟子に対する呼び掛け)も、子供を打たなければ、私への大恩を施したことになります。子供を打たないよう努めなさい、努めなさい」とあるそうだ。

このところ問題になってる「体罰」、よく古い指導法だと思ってる人がいるみたいだが、700〜800年代の最澄が「ダメ」と言ってるんだから、「古い人間だから」は通用しない。

←出口にしたが、たぶんこちらが「長楽寺」山門。

「長楽寺」は、得川義季を開基、臨済宗祖・栄西の高弟・栄朝を開山として、承久三年(1221)に創建された東日本最初の禅寺。
が、禅の専門道場ではなく、顕教密教を兼修した「三宗兼学」の寺だった。

当時の境内は広大で、塔頭子院も多く、五百を超える学僧が修行し、入宋した者も多く、出身者は全国に禅を広めた。

門下に、聖一国師・神子栄尊・無住一円・一翁院豪・月船深(王ヘン)海、他多数。

正和元年(1312)頃、火災で灰燼に帰し、新田義貞の父・朝氏(氏光・朝兼)が、その再建に力を尽くしていた。新田氏八代(さっきの表ね(^^ゞ))
費用の工面から始まり、着工してからも10年の月日を要して、義貞が挙兵した元徳4年(1333)に完了に漕ぎ付けた所だった。

莫大な費用を捻出した直後の余力の無い所に、北条得宗家の寄越した徴税使があらわれた事が、義貞挙兵のキッカケと見る説もある。
皮肉な事に、長楽寺は門前町で宿や市が多く、商業活動・経済交流の盛んだったから、幕府からも、有徳銭(富裕層から取る税金)を取るのに目をつけやすかったのだろう(>_<)。。

長楽寺はその後も隆盛し、その教化は新田氏を越えて、関東武士や周辺庶民にも及び、室町初期、日本十刹の一つに数えられたが、戦国末期には寺運いちじるしく衰退。

天正18年(1590)関東入府した徳川家康は衰退を嘆き、天海を住職に任じ(日光輪王寺と兼任)、百石を与えて、祖先の寺として復興させた。
やがて前述の通り、日光東照宮の移築、勧請の運びを迎えると、二百石を与えて、長楽寺に世良田東照宮の別当寺として管理と祭祀にあたらせた。

明治維新後は、徳川幕府の崩壊とともに荒廃。最近になって歴史的価値が多くに認められ、復興の端緒についた。

■長楽寺の文化財
《国指定重要文化財》
建造物 石造−宝塔
絵画 絹本墨画−出山釈迦図
書跡 紙本墨書−長楽寺文書
《県指定重要文化財》
建造物 勅使門・三仏堂・太鼓門
彫刻 木造−伝徳川義季像・伝徳川義季夫人
像・月船深(王ヘン)像・三尊仏
《県指定重要文化財》
絵画 絹本著色−荏柄天神像・山王曼荼羅図・慈覚大師像・無準師範像・牧翁了一像・律台栄宗像・十六羅漢図
 絹本墨画−淡彩呂洞賓図・葡萄図・枯木図・月湖観音像・三十三観音像
 紙本墨画−蘭図
書跡 紙本墨書−永禄日記
(昭和62年 太田市教育委員会)

道路を隔てて向かい(小学校の隣)にある「三仏堂」(地図I)→

県重文。長楽寺の中心的建物。慶安四年(1651)3代将軍家光の命で再造。

桁行五間、梁間四間、一間の向拝付寄棟造、東向き総丹塗、屋根は茅葺から、明治9年(1876)に瓦葺、昭和59年(1984)銅版平葺に改めた。
正面両隅間を中敷居入りの窓、竪連子を組み込み明障子付杉戸引違、中央四ツ折桟唐戸両開き、明障子を設け、第三間を板壁とする。

室内には、向かって左から、弥勒菩薩(像高2.24m)・阿弥陀如来(像高2.53m)・釈迦如来(像高2.2m)の、いずれも木造寄木造による、三仏坐像が安置され、左から、未来(弥勒)・現在(阿弥陀)・過去(釈迦)をあらわし、「三世仏」と呼ばれる。

釈迦と弥勒の胎内に銘文(願文)が留め置かれており、釈迦像内の銘には、「鍋島(攝津守)直之」の名が見える。(鍋島直茂の曾孫に同名同官の人がいるが……(^^ゞ)

この御堂は、後ろには長楽寺との間の道路が通り、前は広い庭園となって鬱蒼とした森が続き、その先に蓮池がある。

蓮池と渡月橋」、正面は「勅使門(パノラマ4枚180度以上)

長楽寺の住持・義哲西堂が、永禄八年(1565)の日記(「永禄日記」。県重文)にもある池で、承久三年(1221)長楽寺創建当時の遺構を遺す。心の字を象った「心字池」で、南の池の二つの島が、心の字の二点を現すともいう。
以前は北の池に白、南の池に紅の蓮があり、盛夏には池一面に紅白の花が咲き、さわやかな芳香があたりに漂っていた。

池には、「竜宮伝説」が伝えられる。
北の池は、底が竜宮に通じていて、必要なものの品名を書いた紙を池に投げこむと、水面が渦巻いて吸いこみ、忽然とその品物が浮上するといわれた。
ある時、寺に大行事があって、千畳張りの蚊帳を借りた所、蓮の糸で織られた精巧な蚊帳だった。
寺僧が惜しんで返さなかったため、以来、いくら紙を投げこんでも、池の水面には何の異変も起こらなくなったという。

中央に架かる弧状の橋は、後鳥羽上皇から下賜されたと伝えられる、五面の勅願の一面にある「渡月橋」と考えられ、寛政8年(1796)木橋から石橋に改められたが、木橋当時の欄干の擬宝珠は、今も本堂(旧太子堂)勾欄の擬宝珠として保存されている。
北側の橋桁の内側に、御修復・篠木勝左衛門ほか16名と、棟梁市田吉左衛門、石工・天野源兵衛の名が彫刻されている。

昭和57年(1982)、歴史公園計画事業の一環として、池の浚渫及び周辺の整備を行ったが、本格的な学術調査は後日をまつことになった。
池の汀にある岩石は、昭和44年(1969)護岸のために据えたもので、元は素堀の池であった。



<明王院(新田触不動尊)>

「新田荘歴史資料館」「世良田東照宮」「長楽寺」の一帯が、見どころいっぱいで(≧▽≦)、明王院に来た時には、だいぶ日暮れモードに入ってしまった。

ここ明王院は、正式名「呑嶺山明王院安養寺」という。真言宗の豊山派。場所は→地図J

現地の案内には、特に書かれてなかったが、私の持ってる歴史観光ガイドには、ここの住所(太田市安養寺町)から、「新田義貞の館があった」と推測されていた(^^ゞ。(新田義貞は「安養寺殿」と呼ばれていた)

こんな参道を入って来て
まず「二天門」を潜る

この明王院は、「新田触不動尊」がある事と、その伝説の地として知られる。
元弘3年(1333)、新田義貞が鎌倉攻めを行なった際、山伏に化身して、越後方面の新田一族に義貞の挙兵を一夜にして触れまわったと伝わる。

ここは「太平記」によると、生品神社に挙兵した新田義貞が、笠懸野から東山道を西進し、夕刻、利根川から越後の新田一族・里見・鳥山・田中・大井田・羽川氏らと合流した。
義貞が、挙兵をなぜ知ってるのかと問うと、「『天狗山伏』が越後国中に触れ回ったのを聞き、急いで駆け付けた」と答えが返るシーンがあるんだねぇ(^^)。

←参道にあるのが、かつては中門にあったという「二天門」との事なので、増長天・持国天ではないかと。
このはるか南には「大門」もあったと伝わる。

寺伝によれば、康平4年(1061)に後冷泉天皇の勅により、源頼義が開基となり、奈良の興福寺から招いた頼空上人を開山として創建され、その後、新田氏初代の義重が中興。さらに八代の義貞が、元弘3年(1333)に後醍醐天皇の勅により、七堂伽藍十二坊を有する大寺院として再建したという。
新田触不動尊」の山伏の霊験が、後醍醐天皇の御耳にも達したのかな(^^)。

寺内の「触不動」は、1寸8分(約5.5cm)の閻浮檀金(白金)製の不動明王像で、今も不動堂の厨子(宮殿)に納められているそうだ。

他にもう一体、不動明王像があり、 二尺五寸(約76cm)ほどの木像で、新田義重が楯の上に座り、剣を握って軍勢の指揮をとる姿を写し、刻ませた所、一夜のうちに不動明王像に変じたとされ、「御影不動明王」とよばれるものだとか(゚.゚)。背後に火炎がないのが特徴らしい。これも不動堂内に秘蔵されているそうだ。

←二天門を潜ると「本堂」が見えて来る
↑足元にはサルビアの花が密集(゚.゚)!

例年より旅の季節を遅らせたから、そのぶん日暮れも早いのが残念だったけど、むしろ少し暗がりになってるのが、新田義貞挙兵の伝説に雰囲気が被って、思わぬ効果になった(笑)。
参道から続く並び燈籠の灯と言い、日暮れ時に赤く浮かび上がるサルビアと言い、今にも山伏に姿を変えて、諸国に向かって歩きだしそうな感じがした。

軍記の「天狗山伏」も、伝説の「触不動尊」や「御影不動尊」たちも、私の頭の中で、ディズニー・アニメ「ファンタジア」の、「魔法使いの弟子」に登場する、呪術をかけられ暴走する大勢の箒たちのシルエットをしている(笑)。

←(向かって)本堂の左脇にあった建物。
↑本堂。本尊の「(絹本彩色)倶利加羅不動明王画像」は、こちらに安置されているそうだ。

以上、本尊の「(絹本彩色)倶利加羅不動明王画像」と、二つの不動明王像の「新田触不動尊」「御影不動明王」をあわせて、三不動明王が「新田氏相伝の守本尊」と言い伝えられている(^^)。
(「触」「御影」の2不動を納めるのは「厨子」とあるので、一瞬、左の建物かな、と思ったけど、「不動堂に秘蔵」とあるので、これも本堂の内部じゃないかと思う(^_^;))

元禄16年(1703)に明王院の不動尊が、成田山新勝寺の不動尊と共に、江戸城三の丸へ出開帳したことが江戸護国寺住職の隆光僧正の日記に記されている。
現存の不動堂は、宝永2年(1705)の建築で、江戸時代の絵図面に、周囲二間幅の堀をめぐらせた百余間四方の境内地と、その周辺に十二坊の跡地の位置等が示され、往昔の明王院の規模が推定できる。

参道から「二天門」を経て「本堂」への並び(パノラマ3枚ほぼ180度)

寛政6年(1794)、境内に芭蕉百年忌の句碑が建立されたことを記念して、翌7年に呑嶺山主(明王院住職)柳翠ら304名の同人(江戸、大阪など遠隔地の俳人も多数、尾島関係者は21人)の作品を収めて、句集『萩のふす満』が出版された。江戸後期俳諧史の貴重な資料である。

■明王院の文化財(平成元年・尾島町教育委員会)
《町指定重要文化財》
史跡「新田荘遺跡」明王院境内
建造物 石造−千体不動塔
     源義助板碑
五輪塔残欠、経塚、
《町指定重要文化財》
伝興教大師作の摶仏(雨乞い不動)
《その他の文化財》
芭蕉百年追善の句碑(昭和55年復元)
薬師如来像(南北朝期の石仏)

本堂の室内↓
本堂の外、右側に「千体不動尊供養塔」→

千体不動尊供養塔
二段積の基礎に、不動尊像を浮き彫りにした石を、ピラミット型に15段積み上げ、頂上の塔身に金剛界四仏の梵字を彫った塔を安置。底辺約7.2u、高さ6m、伊豆の小松石使用。
不動尊像は東側270体、西側254体、南側238体、北側238体の合計1,000体で、不動尊像につきものの火炎の光背が無いのは、不動堂の「御影不動明王」に火炎の向背が無いのにちなんだ造形と推測されている。

供養塔、建立の趣旨を記したと思われる南面の銘文は摩滅して判読できないが、「慈救呪百億供養・・・・・二百万遍由良村寂心坊・・・・・千二百万遍尾島町浄厳坊」などの文字が周囲に彫られている事から、不動明王の呪文(慈救呪)を唱えることにより、諸願成就を祈る不動尊信仰が盛んであったことをしのぶことができる。

建立の中心となった安養寺村の小川宇兵衛重政が、延享4年(1747)に江戸の石工和泉屋治良右衛門に85両で造らせたとの記録がある。その後二百年以上を経て、傷みがひどくなったため、小川家20代の宇十郎が昭和32年(1957)に修復した。
昭和54年(1979)太田市の重文指定。



<1泊目・新田の夜〜2日目朝>


だいぶ暗くなったが、例年なら、まだまだ史跡巡りを続行してる時間帯(笑)。
「まだ宿に行くのはちょっと(^_^;)」とか言いながら、神社ならまだ何とか撮影も出来るかも?と、取り合えず「義国神社」(新田&足利の祖・義国を祀った・地図K)目指して走り出した。

が、辺鄙な所にあるのか、ナビ具合が不調だったのか、何度か脱輪しそうな不安な道に至ったので、途中で断念した(笑)。
ちなみに、「義国神社」の周辺は、「岩松八幡宮」「金剛寺」「岩松館跡公園」「青蓮寺」など、全て岩松氏ゆかりの地なので、新田氏が祀ったと言うよりは、足利と新田の両方の血をひく岩松氏が祀ったのだろう。

途中に通った道に……
(拡大)見える?
明暗が強いんで、字が薄れてよく見えないけど「義貞」とある。お酒の名前じゃないかな(^^ゞ。
やっぱこういう看板を地元で見ると、「ゆかりの地に来たなぁ」と実感できて嬉しいよね(笑)。

すっかり日も暮れたので、宿に向かう方向に進路を取ったが、時間的にはまだ余裕だったので、さらに先の「円福寺」の前まで行ってみた。
でも、やはり真っ暗だったので、翌日また来る事として、おとなしく宿に向かった(笑)。

地図L←到着。

太田市は史跡はいっぱいあるのだが、温泉街みたいな情緒タップリの観光地とは違い、そもそもあまり宿泊施設が多くない(^_^;)。
それでも、亭主は温泉が大好きなので、その線で探したら……ナントあったのだ(・・;)。。

出張か研修用に整えた施設っぽく、利用者が「病院と間違えた」とか言ってるのをネットで見た(笑)。
お値段は格安で、お料理も社内食堂っぽく、廻りは工場だらけで……なのに、お風呂は温泉(・・;)。。。

夕飯。頂きま〜す(^O^)〃
わ〜い温泉だぁ〜(つ^^)つ

人工温泉っぽかったけど、よく温まるイイ湯だった(^_^A)。ドアに「使用中」とかぶら下げて、家庭風呂にも出来て。

ご飯は研修か出張で利用してる感じに、外国の方と4人ぐらいでテーブル囲んでるメンバーがいて、みんな仕事もあるんで早く引き上げ、夜も静かで過ごしやすかった♪

朝〜おはよー(^O^)。部屋の窓から撮影(パノラマ3枚ほぼ180度)

例によって、到着時は暗くて周囲が見えないのが、翌朝「こんな所に居たんだね(゚.゚)」状態。

このほど太田市の南部地域を東西に旅した。
もちろん田園・農村・山間の風景は、田舎そのものなんだけど、主要道の周辺は、東京やその近郊と変わらず大都市が広がり、合間によく見たのは、こんな大工業地帯。
一軒一軒の工場が凄く大きいんだよね〜。

亭主が「上州、新田と言えば」と、朝どっかから「木枯らし紋次郎」のエンディング・ナレーションを探して、流してくれた(笑)。

「木枯らし紋次郎。上州新田郡三日月村の貧しい農家に生まれたという。10才の時に国(故郷)を捨て、その後一家は離散したと伝えられる。天涯孤独な紋次郎が、なぜ無宿渡世の世界に入ったかは定かでない」

朝は味噌汁をご飯にかけて、箸二本握って紋次郎風に食べようかと思ったが、周りの目があるのでやっぱりやめた(^_^;)。
気のせいか、夕食より豪華な感じがする朝ご飯(笑)→

そろそろ出発じゃ(^nn^)<フキフキ

太田市の細谷駅に近いビジネスホテル(パノラマ3枚)

昨夜も通った312号線、前方に金山城が見える

312号線(例幣使街道)から、程なく左折して北上し、ちょっと左に入ると「円福寺」に着く。
寺の前には「上州太郎・焼そば」「やきまんじゅう」といった、上州名物の旗や看板が見える(笑)。



<「円福寺・茶臼山古墳」(伝・新田氏累代の墓)、1>

地図M←到着(^^)。
前夜は、寺の前に出てた月が赤く大きく、月影も濃く、前の家にソテツかヤシか南国調の木があってスゴイ風情だったが、翌日は爽快な秋の朝を迎えていた♪

←「円福寺」山門。
↑境内および古墳部の見取り図(字は私が上から入れておいた(^^ゞ)

山門の扁額は「御室山」と書いてある。筒井政憲の書。
筒井政憲は、江戸時代に別所村(583石)を知行した旗本で、知行高2千2百石。長崎奉行・江戸南町奉行などを歴任、ロシアのブチャーチン来航時代、大目付兼応接係として日露和親条約を締結した人。

この史跡は、入っちゃうと、ただ広場と遊具があり、高台にも神社があるのみで、登って四季の風情を楽しみながら、お弁当でも食べて帰っていくような所である。
この日もちょうど、そのような園児らが大勢で遠足に来ているのに出くわした(^^ゞ。

しかし、右上の見取り図でもおわかりの通り、実に様々な史跡がこの一箇所に重複・凝縮されて在る。

まず、山門の左右に立つ石碑案内が、
「群馬県指定史跡 円福寺茶臼山古墳及び伝新田氏累代の墓附石幢」
「国指定史跡 新田荘遺跡 円福寺境内 十二所神社境内」
↑の二本である。(ちなみに「県指定」(1971年)は、「国指定」(2000年)が成ると、解除されている)

「円福寺」という寺がまずある。具体的には見取り図に「本堂」が見える。
寺の境内は「新田荘遺跡」として「国指定」を受ける「11遺跡」の一つである。

それから「茶臼山古墳」という先史時代の「前方後円墳」がある。
その「前方墳」には「馬頭観世音」の敷地があり、「後円墳」には「十二所神社」が建っており、中世の神仏習合を示す史跡である。前後の古墳の中間に「千手観音堂」がある。

そして古墳の足元には、「新田氏累代の墓」が並べられている……のである(^_^;)。。

では山門から入ってみよう(パノラマ4枚180度以上)

↑最初は少し緑地が続くが、左側ちょっと濠のようになってるので、「これだけ色々重複してる史跡だから、もしかして中世の城跡もあったり(≧▽≦)」とか思ったが、ここ円福寺自体が寺社以外の跡地だった、という記述は見なかった(^^ゞ。

ただ周辺には、東方に約400mに「台源氏館跡」、南東に約500mに「由良城跡」がある。

もう一度外に出て駐車場から見ると、その濠の上に藤棚があり、棚の屋根下に「弁財天」が見える(^^)↓
(拡大)→

平安末の12世紀中頃、新田氏初代義重は、現在の新田郡のほぼ全域と太田市の南西部を開発して、「新田荘」が成立。日本の中世史を代表する荘園の一つで、ここを中心に新田氏一族が活躍を繰り広げた。新田氏八代(さっきの表ね(^^ゞ))

冒頭「生品神社」でも述べた通り、近年(2000年)、「新田荘遺跡」として「11の遺跡」が国指定史跡とされた。
11遺跡は、太田市と新田郡尾島町・新田町の一市二町にあり、ここ円福寺は、その内の二ヶ所「円福寺境内」および「十二所神社境内」に該当する。新田荘11遺跡

奥へ入ると広い公園、先は古墳、右に本堂(パノラマ3枚ほぼ180度)

『吾妻鏡』によれば、第4代新田政義(新田由良入道)は、寛元2年(1244)京都大番役(朝廷警固)として在京中、所労と称し、六波羅探題にも、上司である上野国守護・安達泰盛にも許可も得ず、突然、仁和寺に入り出家したため、幕府の咎めを受けて所領の一部を没収されて失脚、帰国して、由良郷別所の地に蟄居した。

円福寺は、その新田政義が開基した寺と伝えられ、政義が京都御室の仁和寺から招いた阿闍梨静毫が初代住職と伝わる。古義真言宗の寺で、正式名は「御室(おむろ)山・金剛院・円福寺」。

近年改築された本堂には、新田氏の第4〜7代にあたる新田政義政氏基氏朝氏の位牌が安置されている。新田氏八代(さっきの表ね(^^ゞ))

円福寺・本堂(近年改築)
(拡大)唐破風下の白龍の彫像

栃木の日光から福島の南会津あたりまで、渓谷が多く、龍神を祀ったり龍や大蛇にちなんだ逸話が多いが、この辺りでも、地名や造詣に龍や大蛇が多い感じがした。この辺りだと、利根川が近いよね(^^ゞ。

弁天や龍など水神を祀ってて、将門伝承もあって南北朝の動乱もあって……となると、同じ利根川流域のウチの近く、相馬氏と岩松氏の婚姻関係など思い出す(笑)。(2008年12月<六所神社(柳戸砦跡)>内

円福寺は現在太田市別所町に所在するが、円福寺のある一帯は、中世の当時「新田荘由良郷」と呼ばれ、由良(現太田市由良町)を中心に、別所(別所町)・脇谷(脇屋町)・奥(沖野町)・細谷(細谷町)の4ヶ村を付属させた大きな郷だった。

鎌倉時代には新田氏本宗家の所領で、13世紀中頃〜14世紀前半頃の新田氏宗家の拠点になっていたと考えられ、新田本宗家の館跡が円福寺の北東隣接地(大字別所字大門)や東方(大字由良字北之庄)に想定されている。

その後、金山城を主な舞台として活躍した岩松氏横瀬由良もこの地を重視しており、周辺には、台源氏館跡(伝・新田義貞・脇屋義助・生誕地)や由良城跡(鎌倉〜戦国・新田政義館要害地)などの存在が推定されている。新田氏八代(さっきの表ね(^^ゞ))

高台の古墳に向かう前に、古墳の左裾野脇にある「伝・新田氏累代の墓」に行ってみよう。

←こんな敷石の小道が儲けられ、屋根付き素通しの小屋に、縦一列ズラーッ!と墓石が並ぶ→

伝・新田氏累代の墓
多層塔・五輪塔・板碑の台石20基ほどがある。石材は新田郡笠懸町西鹿田の天神山産出の凝灰岩と同定され、中の一基の五輪塔地輪部に、「新田基氏」(義貞の祖父)の法名とされる「沙弥道義」の銘文があり、「七十二逝去、元亨四季甲子(1324年)六月十一日巳時」と刻まれている。新田氏八代(さっきの表ね(^^ゞ))
五輪塔などに一部、南北朝期の物も混じるが、多くは室町〜戦国期の物と見られる。

昭和54(1979)年度に、保存整備事業により発掘調査が行われ、埋葬施設が確認された。
出土した骨蔵器には、中国産の白磁四耳壺、常滑焼・渥美焼の壺、地場産の軟質陶器が用いられている。中国製磁器の出土は珍しく、新田氏の財力の大きさを物語る。

他の出土遺物に、かわらけ、板碑(建武5年銘ほか)、渡来銭(北宋銭が中心)、仏具、阿弥陀教の一部を写経した経石などがあり、中世仏教信仰を知る手掛かりになる。

墓が営まれた年代は、骨蔵器・板碑・五輪塔郡の様式から推定すると、鎌倉中期〜南北朝時代(13世紀中頃〜14世紀中頃)と考えられる。

以上が、案内板による概要(^^ゞ。

……で、この中に「新田義貞の墓」はあるか……新田義貞の墓ってホントは所在不明なんだろうね(^_^;)。
一応「新田義貞の墓」がある寺に次回行くけど、戦国期の横瀬氏や江戸期の徳川家が「供養」した、という事なんだと思う。

旅行から帰ってから、世良田の傍の利根川流域で、伝承の墓とされる場所があるっぽいのを見付けはしたけど……。
う〜ん。亡くなったのが越前国の藤島(福井県福井市)だから、その周囲で葬られたか、親類家臣が形見の品など持ち帰るにしても、新田荘まで辿りつけたものか……(^_^;)。。

以上、関連事項は(だいたい(^^ゞ)、
〜2001年9月■徳川家康■@「戦国武将一覧」@「戦国時代一覧」
2004年4月<まずは「新田義則(陸)の墓」>内
2005年2月<日光・東照宮>内以降
2008年7月<牛久城跡、2>内
2008年12月<六所神社(柳戸砦跡)>内
2009年4月<霊山神社>内
2009年7月<南部「今城」>内
2009年8月<東光院>内
2011年6月A<塔のへつり>内以降
2013年1月<東北道〜北関東道>以降




次回は、この「円福寺」の続き、古墳「十二所神社」にいよいよ上がる。
その後、2日目の昼〜夕方にかけて、「大光寺」「金龍寺」「さざえ堂」。
太田市を離れて北上し、桐生市「里見兄弟の墓」、前橋市「大胡城跡」「大胡神社」……まで行けるかしらっ(≧▽≦)。。。

<つづく>

2013年02月28日
 
     






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