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八幡太郎義家
(頼朝、新田・足利の祖) |
前九年(1051〜62)・後三年の役(1083〜87)の合間に、「下野守」に任じられており、義家の頃から下野に根拠地を有していた、と見られている。 |
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義国
(新田・足利の祖) |
1142年、足利荘の立荘。
1150年、恥辱を受けた従者の仕返しに藤原実能の邸を焼き払い、罪を問われて、足利に引き籠る。
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義重(里見・山名・世良田・得川の祖) |
1157年、新田荘の下司職に任じられる。
1180年の頼朝挙兵に際し、義仲や平家方の藤姓足利氏との勢力に挟まれ、自立(中立)を保っていたため、頼朝からの呼び掛けに応じたのが年末まで遅れ、頼朝から叱責される。
義重の娘が頼朝の兄・義平の未亡人となっており、頼朝が妾にしようとしたのを、義重が北条政子の機嫌を恐れて他の男に嫁がせたため、頼朝に重用を得なかった、と「吾妻鑑」に書かれている。
しかし義重の逝去の際、政子は源氏の重鎮として義重の喪を重んじ、二代・頼家に蹴鞠など遊興を禁じている。 |
A |
義兼(岩松の祖) |
岩松氏は、義兼の娘が足利義純に嫁いで生れた岩松時兼を祖とする。 |
B |
義房 |
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C |
政義(大館の祖) |
1241年、預けられた囚人の逐電の罰金に問われた。
1244年、京の大番中に無許可で出家した罪に問われ、御家人の身分をはく奪され、所領を一部没収、隠遁させられた。
代わりに、庶家の世良田頼氏が28年間を幕府に仕えた。 |
D |
政氏 |
世良田頼氏は、1272年の「二月騒動」で、名越時章・教時、北条時輔(時宗の兄)謀叛の連座を問われ、佐渡に流罪となったため、新田本家に再び嫡流が復帰される。 |
E |
基氏 |
母が赤橋長時の一門出身だったので、宝治合戦(1247年)に滅んだ三浦氏の旧領・甘羅郡に所領を得て、郡の地頭職にあった安東重保の娘を義貞の妻に迎えた。 |
F |
朝氏(氏光・朝兼)
(脇屋の祖) |
長楽寺の再建に従事するため、畠を由良景長の妻・紀氏に売却。 |
G |
義貞 |
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