<2009年・城主のたわごと5月>




2008年9月、「福島〜山形編」の第5弾・最終回(^^)。

4日目は「相馬中村城」、5日目は「いわき恵日寺」♪ 




     
  福島〜山形レポ第5弾・最終回である(^^)。
前回から再び福島県に入って、4日目を迎え、東の太平洋岸近くまで来て、「相馬」から今回が始まる〜♪

相馬の後は、ホントはこの4日目で終了のハズだったんだが、思わぬ誤算(笑)で、その後「5日目」というのが始まる(^^;)!
というわけで、5日目はいわきからスタートし、海外沿いの風情なども楽しみながら、「(いわき)恵日寺」にて東北旅行は終了する(^_^A)。

最後は数点ながら、地元(千葉北部)に戻って、ドォ〜ッと駆け足で12月まで行く〜!!



■2008年9月・福島県■
<相馬・中村城跡(東〜南側)>


前回はここで終了した(^_^A)。↓ 地図A

相馬中村神社(中村城跡)大手一ノ門(パノラマ3枚・ほぼ180度)

手前に「大手一ノ門」と標識され、中に入るとスグ「外大手一ノ門」とある(^_^;)。同じ場所の事だろう。城のあった当時から現存しているのは、この門のみである。

下の案内版には「大手二の門跡」という表示も見られるが、内部で他の門の説明に触れ、この大手門が「枡形」だった事が書かれていた。つまり「枡形」によく見られる、二つの門を組み合わせるスタイルだったのだろう(^^ゞ。

←中村城の見取り図。

図の右下ヘッコミ部分の「大手一の門」と「大手二の門跡」から入り、図の下側「南二の丸跡」を通って、左にある「中村神社」に向かい、中央の「相馬神社(本丸跡)」に入る。

この「相馬神社」本丸跡を、図の通り、左から「西二の丸跡」「西三の丸跡」「溜池跡」「岡田氏塁跡」「北三の丸跡」「蓮池」「北二の丸跡」「東二の丸跡」「東三の丸跡」「南二の丸跡」が囲んでいた事がわかる。北の守りが堅い。

↑茶色は平地。青が塁で、水色が水掘だろう。これより入るあらゆる所で水面が見られる。

中村城は、江戸時代の全般を通し、幕末維新まで相馬氏の本城であった。
慶長16年(1611)、相馬17代・初代藩主・利胤の時、城の南を流れる宇多川をさらに南に切りかえ、土木工事を盛んにおこして城を広げ、今見るような姿にしてからここに入った。

なので、こうした縄張りは殆どが江戸時代に仕切られたのだろうが、古くからの伝えでは、この中村城は延暦20年(801)に、坂上田村麻呂を創建と伝えている。
案内版には、田村麻呂が蝦夷征伐の折に、「菅原敬実」を西館(現在の中村城の西部一帯)に置いて守らせ、「菅原敬実」は天神を氏神として館をかまえていたと書かれていた。

これから行く城内「相馬中村神社」には、「北野天満宮」が祀られているのだ。京都で菅原道真を祀った神社だね(^^)。
ここの「菅原敬実」が、「菅原道真」の例えば先祖筋に当たるか、などの繋がりは判らなかったが、ここも古くから「天神山」と呼ばれてたようだから、「天神サマと言えば(^^)」という事で、北野天満宮を勧請したって事かもしれない。

大手一ノ門に向かって右手前は蓮池→

中村城は、1611年、相馬17代・利胤の居城に始まるが、この大手一ノ門は、18代・義胤が城番で武蔵(埼玉県)河越城を訪れた時、その城門の堅固さに感心し、模して作らせたと伝わる。1649年に完成した。

「東三の丸跡」の外水濠
敷地に入るとまた池が見れる(^^)

今でも城跡を囲む濠がこのように巡らされて市街地と接し、中は市民公園と神社になっている。

大手門跡の一帯を過ぎて進むと、周囲に石垣が見れる(パノラマ5枚・180度以上)

ここを進むと、左(南)は拓けた運動場が展開し、右(北)には急斜面の丘陵が続く。

同位置から後方の大手門跡一帯を振り返る(パノラマ5枚・180度以上)

綺麗に積み上げられた石垣を、緑と赤い彼岸花が彩って美しい(^^)。→

案内版の記述を先に進む。
源頼朝が平泉の藤原泰衡奥州藤原氏4代)を討っての帰り道、「天神林」に馬を繋ぎ、「菅原の館」に宿営した、と伝える。

つまり「頼朝の時代にも、菅原氏(子孫?)の館があった」という事だよね(^^ゞ。

ここで言うのは、前回「阿津賀志山防塁」で書いた、1189年の奥州征伐だ。
頼朝の本隊は東北道を進んで、阿津賀志山の合戦に及んだので、この太平洋側は通らなかった。

太平洋側を通った別働隊には、千葉氏八田氏などがいて、多賀城に先に入り、阿津賀志山の合戦を終えた頼朝らと合流した。
相馬氏の初代・師常は、この千葉氏の当主・千葉常胤の次男である。

頼朝は奥州征伐の完了後、多賀城に滞在し、やがて鎌倉に戻るので、ここを通ったなら、案内版にある通り、「帰り道」という事になる(^^)。

ちなみに相馬氏がこの陸奥に知行地を得たのも、前回の伊達氏や葛西氏同様、この奥州征伐の功によると思われる。
相馬初代・師常は、陸奥国・行方郡に功労の地を与えられている。

さらに進むと大きな鳥居、ここより神域(パノラマ4枚・180度以上)

↑ここは現在は運動場のようになっていたが、江戸期は「南二ノ丸」があった。通称「長友」と言い、本丸のある北側(→)に対して、重臣の邸や馬屋(厩)などがあったと言うから、元から平地だったのだろう。
馬屋はのちに、ここより後ろ(↓)にあった「東三の丸」に移され、跡地のここには、常小屋(営膳所)が造られた。

↑この広場より南(←)の土塁には、合横矢(あいよこや)という、近付く敵を両側面から迎え撃つ、コ字状の防塁があるそうだ。
築城した戦国末期(江戸初期)、北(→)の内堀の際に、数十株の桜木が植えられ、時を経るごとに捕植されて、今でも残っているようだ。
東の隅にも、18代義胤が植えた「外天桜」(義胤は「外天公」と呼ばれた)があって、近年跡地に若木が植栽されたという。

同地点から後方(東方)を振り返る(パノラマ4枚・180度以上)
↑ここを進むと、さっきの見取り図で確認する限り、本丸と東二の丸の間あたりの「中ノ門跡」に到達する。

この「中ノ門」も、大手と同じく「枡形」構造の門構えで、二階造りの「楼門」があったという。1648年に建てられたが、幕末を迎える前の1826年に棄却されたという。

「中ノ門」より北側は土塁が続き、西に進めば本丸と出会う構造になっている。

また、案内版の記述に戻ると、その後、中村城は居住者の無かった時代もあるが、やがて中村氏黒木氏が居住したり、小高城の相馬氏が城代をおいたこともあって変遷を繰り返し、最終的には江戸時代の相馬氏の城となった。

長く土地問題で苦痛を強いられた千葉氏にとって、やっと本拠・下総国の地を安堵されたのだから、頼朝の登場は非常に巨大だ。
千葉氏から出た相馬氏も、頼朝の伝承なら「ここでお茶を飲んだ(^^)」と言うだけでも、嬉しい場所だろう(笑)。(相馬氏系図・陸奥相馬氏)

その相馬の城に、頼朝より前の田村麻呂が出て来るという事は、中村・黒木時代までに伝わる何らかの伝えを引き継いだか、当地の謂れがあったからだろうと思うが、残念ながらこの二氏については全く知らない(^_^;)。

中村氏と黒木氏では、南北朝の頃の中村氏の方が早いようだ。その頃までは、使われてなかったと言う事のようだか……。

鳥居を潜る(モロ逆光(^_^;))。
右・木の間に本丸の石垣が見える→

この本丸の南に面した切岸(崖)の下は内堀跡で、一部は西の端に残っている。
本丸の切岸は急斜面で、中段より上に鉢巻石垣が一周している。石垣は浜通りでは平城と中村城のみという。
相馬氏が居城を開始した1611年、会津藩浪人の幸田彦左衛門の指図で構築されたといわれている。

樹々の合間から断面を見せる石垣は、野面積みと言って、川の自然石に割石を混ぜ、石材の小面を据える工法。上下の石が奥で噛み合うため口があき、明暗が生じて自然の色合いに溶け込んでいる。
この積み方は石垣の中でも古い形式と言われ、美的な均整感には欠けるが、鎌倉時代から続いた相馬氏の城、という空気が伝わって、城郭は無くても存在感は強かった。



<相馬「中村神社」(西館跡)>

進路は、上記の鳥居をただ真っ直ぐ進むだけだが(^^ゞ、この先は神社の領域なので、一度区切らせてもらった。

運動会でもあったのか、南二ノ丸跡グランドにシートが敷かれ、各国の国旗が並んでいた(^^)。
正面には、いよいよ「相馬中村神社」が登場!→
まず左右のお馬サンの像がお出迎え(^O^)!
さすがは相馬だっ!(笑)

「狛犬」ではなく「駒」!(笑)
そして神社の前にはドーーン! 違和感なく本物の馬がっ

相馬氏は「将門以来」と銘打って、長く「相馬野馬追い」で知られる家だ。
今でもこれは、「相馬と言えば」ってぐらい有名で、鎌倉の流鏑馬などと並んで、毎年この祭りを見に行く熱狂的な「野馬追いファン」も多い。

千葉常胤は御家人の宴会などに、酒宴の接待役でも活躍したようだ(^^)。
引出物に馬も出したようで、平安時代は合戦でもない限り、馬は高貴の方々に差し上げる贈答品・献上品になる事が多く、それが引出物で貰えるというのは、どっかの政治家のパーティに出席したら、外車を一台貰えるっつーぐらい豪華な事だった。

馬の良し悪しは、戦の作戦会議に「良い馬じゃないとダメ」とか、行軍のたびに、頼朝が乗る馬をどれにするか議論するぐらい重要だった。
合戦でも、特に川に乗り込む時や、陸でも馳せ違いざまの威力が変わってしまうので、相手がいい馬に乗ってると、手合わせを渋る者もいただろう(^_^;)。

千葉氏は「頼朝様の御家人になれば、ビッグプレゼント(^O^)」てな演出を買ったわけだ。
来賓客の格付けとか、御家人の功績度なんか示されるので、大勢にってワケには行かなかったけど、御家人には「千葉氏に貰った一級馬(^。^)v」と自慢する者も居たから、励みには繋がったに違いない。馬は遠くから大勢に、ハッキリ目に見える「格」だからだっ(笑)。

さらに相馬氏が引き継いだ系譜の祖・平将門も、ご当地・豊田の周辺に牧や調練所があった伝承があり、相馬氏にとって馬は、二重に「ブランド(^。^)」の証明だったのだ!

この中村城跡は、日常は市民の広場として活用されているが、このように城跡としても、神社としても敷地を共有しており、「馬陵公園」「馬陵城」などとも呼ぶ。

今度は横から写してみよう。←こう来ている(パノラマ4枚・180度以上)

←が進路正面「中村神社」、↑が北に向かう「相馬神社」で「本丸」跡地。後で行こう。
神社が二つあるのは、明治の神仏分離後に、本丸の跡地に神社を作って、敷地の保護に努めたためだろう。

正面「中村神社」に入る。本物の狛犬(笑)
まず「北野天満宮」に出会う

←字が小さくて殆ど見えないが(^_^;)、右下から入って来た。

真っ直ぐ進んだ正面が、この「北野天満宮」。進路は、そこで右折するようになっている。
左に続いて摂社「八坂神社」「諏訪神社」があり、池を経て手水。
右には広い敷地があって、「社務所」がある。

そして正面が「拝殿(奥に本殿)」。
その左に「御神水」「国王」の各社。
右には「絵馬殿」「塩釜」「松尾」「足尾」の各社である。

「中村神社」の由緒によると、そもそもこの神社が平将門に由来するという事だった。
すなわち、承平年間(931〜937)に、将門が下総国の、現在の千葉県に当たる地域に妙見宮を創建した事に始まる。

将門の子孫が鎌倉初期の前後に絶えたため、後を千葉常胤の次男で相馬氏初代・師常が継いだ、と伝えられている事は何度か書いた。
以後、相馬氏の移動のたびに、将門以来の神官一族も随行し、移動先に妙見を祀った。

ここで北野天満宮が出て来るのは、中村城の創建に関わる「菅原敬実」や、古くは「天神山」と呼ばれた事に由来すると思われるが、こうも真正面をデカデカと立ち塞がる所を見ると、「将門記」絡みもあるのかな?(^^ゞ

将門が常陸・下野・上野を攻略した時(940年)、神がかりした巫女(当時は歌舞音曲や遊女も兼ねた)が、「八幡大菩薩が蔭子・平将門に、朕の位を授けるとお達しなのを、菅原道真の霊魂が位記を捧げる」と口走る下りがある。
これ以降、「将門記」の記述は、将門を「新皇」と呼び始めるのである(^^ゞ。

何しろ「北野天満宮」の祭神は「菅原道真」である。
ここでは、これのみ堂々とした社が建てられ、後は慎ましく摂社が続く。

相馬氏は前回の伊達氏とは違って、初代・師常以降しばらくは、下総国(千葉県北部と茨城県南西部)にいた。
それが、この陸奥に居住するようになったのは、鎌倉時代の元亨3年(1323)、相馬6代・重胤の頃である。

この「相馬中村神社」によると、重胤は一族郎党83騎を従え、それまでの本拠地である下総国・流山から、はじめて陸奥の行方郡に移った。
今と地名が同じかな。流山って松戸の隣の市だけど〜(^_^;)。<超ローカルな話題(笑)

ただ奥州相馬氏と言うのも、戦国期には、元からそんなにデカイ領土や勢力の主という感じには、出て来ない(^_^;)。
元が、どちらかと言うと分家の出とされたからだろう。鎌倉時代の事である。
相馬氏の惣領家は下総にあり、こちらは本拠の下総に領地を継続したと思われる。

陸奥にやってきた6代・重胤は、13年ぐらい、太田(福島県原町市)に住んだ(か、他も転々としたかした)後、建武3年(1336)に、小高城(福島県相馬郡小高町)に居城を移した。
以来、この中村城に来るまでの代々は、300年近くも小高城を本拠とした。
戦国期には、この中村城を支城とした事もあったようだ(^^ゞ。

←ここより右折して、「拝殿」に続く通路が伸びているので、まず左の摂社の並びをご案内〜(^O^)。
↑まず続く摂社は「八坂神社」「諏訪神社」。

次は池を挟んだ庭園。周囲の濠水を引き込んでいるのではないかと思った。↓
そして、又してもドーーーン!(笑)→
お馬サンの手水である(≧▽≦)!! ヒヒ〜ン!

南北朝時代の夜明けは、奥州の相馬氏も、下総の相馬氏も、前回も「霊山神社」で出した、あの北畠顕家に従った。相馬氏系図

が、足利尊氏が建武の新政に反抗して挙兵しても、下総の相馬氏はそのまま南朝に従い、つまり負け組に属して、顕家の戦死後は、もはや勢力は無くなったも同然に(^_^;)。。
一方こちら奥州の相馬氏は、足利尊氏の方、つまり北朝に従った。だから元はショボくても、奥州の相馬氏は、盤に一点残された碁石のように、伊達氏など南朝勢力の強豪連に取り巻かれながらも、戦国期まで何とか大名として存続したのだ(^_^A)。

見ようによっては、南北二つに分裂した結果、上手く残った方とも言える。鎌倉御家人の頃から継続してる武家大名は、全国にも数える程しかいない(^_^;)。
しかし生き残るためには、東北では大きな勢力の伊達氏芦名氏の傘下に入らざるを得なかった。

頼りの伊達氏が、天文の乱で、稙宗×晴宗(政宗の曾祖父×祖父)の親子喧嘩を始めると、これまた負け組の稙宗方に属した奥州相馬氏は、その後エンエンと、勝ち組となった方の伊達氏・晴宗・輝宗・政宗と戦い続けるハメになる(^_^;)。。
これが物凄く熾烈で長期に長引き、50年間に30回も合戦があったという(汗)。。

伊達稙宗は相馬氏の舅だったから、当初は所領問題に絡んだ事もあったようだが、伊達氏はあちこちにこの手の影響を与えて、乱は越後まで含めて東北じゅうに広がった。。
結果から見れば、人ンチの親子喧嘩の逆恨みを引き継いだ、という事に(^^;)。。

しかしこうして相馬氏も、ある意味では、古くから続いた大勢力の呪縛から脱し、独立性の高い戦国大名として、頭角を現すようになるのである!

今度は通路の右側をご案内(^^)。
まず入って来た鳥居には、大きな杉の木がある。「親子杉」という御神木のようだ。(パノラマ縦2枚)
↑通路の右側は広々とした敷地が広がり、奥に社務所がある。
社務所の手前・右には又々……↓

ドーーーン! ポニーちゃんよ!(笑)
さらに社務所をよく見ると……
猫チャンよ!
もう動物ランドだっ。でも白猫だから、もしかして神様のお使い?(^_^;)



<妙見社・国王社(妙見曲輪)>

これも「中村神社」をさらに奥に進むだけなのだが、ここで区切らせて貰った(^^ゞ。

初代・師常は、先祖・将門にならい、下総の相馬郡に妙見宮を祀った。
千葉氏が妙見を祀ってるので、将門と妙見の結び付きは、後を継いだ相馬からだろうという見方もあるが、千葉氏と同じ良文流でも、武蔵や相模の良文子孫には妙見を祀る習慣がないので、いずれにせよ独特だろう。

中村神社の神官(祠官)は、相馬氏が下総から陸奥に移った1323年は、田代(左衛門大夫)信盛が務めていたので、鎮守妙見の神輿に遷従し、6代重胤に同行した。
こうして相馬氏は、1336年に小高城に定住した時も、1611年、小高城から、この中村城に移った際にも、城内に妙見宮を氏神として祀り続けたので、相馬地方に妙見信仰が広がった。

相馬氏歴代治世
妙見歴代宮司
1
師常
1180〜1205
藤原左京進田代冠者・信綱
2
義胤
1205〜1222
 〃 右    〃   ・義綱
3
胤綱
1222〜1238
 〃 左    〃   ・実綱
4
胤村
1238〜1272
 〃 右    〃   ・房綱
5
師胤
1272〜1296
 〃 左    〃   ・師綱
6
重胤
1296〜1335
 〃 右    〃   ・盛綱
7
親胤
1335〜1357
 〃 左    〃   ・信盛
8
胤頼
1357〜1367
 〃 右    〃   ・頼重
9
憲胤
1357〜1395
 〃 左    〃   ・重俊
10
胤弘
1395〜1436
 〃 右    〃   ・信秋
11
重胤
1436〜1439
 〃 左    〃   ・信寛
12
高胤
1439〜1492
 〃 右    〃   ・信尹
13
盛胤
1492〜1521
 〃 左   〃 ・右兵衛佐
14
顕胤
1521〜1549
 〃 右  〃 ・駿河守守定
15
盛胤
1549〜1578
 〃 左 〃 ・左衛門尉正秋
16
義胤
1578〜1602
 〃 右  〃 ・右衛門正重
17
利胤
1602〜1625
 〃 左    〃   ・正信
18
義胤
1625〜1651
 〃 右   〃 ・左近正重
19
忠胤
1652〜1673
 〃 左    〃   ・賢信
20
貞胤
1673〜1679
 〃 右    〃   ・尚信
21
昌胤
1679〜1701
 〃 左    〃   ・重信
22
叙胤
1701〜1709
 〃 右    〃   ・重治
23
尊胤
1709〜1765
 〃 左    〃   ・那信
24
恕胤
1765〜1783
 〃 右    〃   ・最信
25
祥胤
1783〜1801
 〃 左    〃   ・盛信
26
樹胤
1801〜1813
 〃 右     〃    ・最
27
益胤
1813〜1835
 〃 左    〃   ・千信
28
充胤
1835〜1865
 〃 右    〃   ・重信
29
誠胤
1865〜1871
 〃 左    〃   ・誠信
30
順胤
-
-
31
孟胤
-
-
32
恵胤
-
-
33
和胤
-
-

さてさて、通路を行き切ると、いよいよ妙見宮への階段が始まる。神社で最も神聖な場所である。
と思って手すりを見ると
おおお! 又々々馬軍団!

このチェスみたいな手すりのついた階段を、「馬頭列柱」と言う(^_^;)。競馬の好きな人は、うんっと寄付したら次は勝てるかも(爆)。にしても、ホンットーーに馬だらけ!!

この領域は、江戸期は「西二ノ丸」の一角にあって、藩主相馬氏の氏神である「妙見」を祀ったところを、特に「妙見曲輪」と呼び、相馬氏の居城には必ず設けられた。
千葉県でも、他の勢力が割拠したため、混同して千葉一族の城跡か判らない場合、「妙見社があったから」というのは決め手になる例を見る(^^ゞ。

「馬頭列柱」の階段を登った先に、拝殿(パノラマ2枚)

この妙見社は、寛永20年(1643)、中村城内に建てられた。相馬地方最古の神社建造物で、国指定重要文化財。
権現造りの社殿は全体的に簡素な意匠だが、木割は太く力強い。屋根はこけら葺。

ご祭神は「天之御中主(あめのみなかぬし)大御神」。
古事記には、天上に最初に現われた神として名が見えるが、ゾロゾロ出て来る多くの神名として最初に記述されるのみで、人格的要素も役割も話もない(^_^;)。

同じ妙見社の多い千葉県だと、「妙見は菩薩(仏教)だから、神仏分離後(神道にしなきゃならなくなって)、妙見の代わりに冠した」という具合に思える(笑)。

ここでは、「願望と宿命の狭間にある人間が、祈る行為によって解決に向け実践する」といった事が書かれ、信仰の場として、これはこれで含蓄があると思った。

拝殿の右(向かって左)に廻る↓
その向かいに「御水神舎」→

「ここでも又、水の神様だね〜(^^)」と言いながら、さらに奥隣を仰げば……↓

←ド〜ン! 屋根に覆われ名の隠された社がある。
↑この屋根の不均衡なまでの張り出しを、上の「御水神舎」と見比べて欲しい。下から覗き込まないと何の社か判らなくなっている。

これぞ「国王社」、すなわち「親王将門」を祀った、この神社本来の社なのである。
私は名の隠れたこの屋根が、「御水神舎」の横背後にノッソリと、しかし妙に恐ろしく存在感を放って現われた瞬間から、思わず「うっ(・・;)」と声が漏れた。

近年では、映画「帝都物語」で、帝都を破壊する魔を相手に、多くの者が倒されて行く中、将門の眠りを守るために、最後の戦いに立ち向かう相馬神社の巫女が登場したが、何かそういう物凄い話(笑)を連想させる空気は確かにある。

この「隠されている」という独特さ。茨城でも千葉でも、袋小路や迷路になっていたり、ダミーの社や大木で遮ったり、将門を祀る場に共通した一種異様な祀り方だ。
起源をどこまで遡れるのか丸で不明だが、これまで見た物の全てが相馬氏の所領地という点は、確かに特筆せずには居られない。(特撮ではない:爆)

国王社の向かい「本殿」を廻って
拝殿の左(向かって右)側に来る

右の写真は、左から「足尾」「松尾」「塩釜」の各社と、一番手前が「絵馬殿」。
「塩釜社」も、「国王社」ほどじゃないが、屋根が深く垂れ込めている。何で社によって屋根の長さが違うのか、いっぺん建築者に問い詰めてみたい! ヽ(^^; )<そこまでせんでも。。

さてさて、だいぶ長居してしまった。元に戻ろう(^^ゞ。

最後に「絵馬堂」に奉納された絵馬を一枚。これはなぜか謙信&信玄だが(笑)、やはり馬の絵が多かった(^^)↓   「親子杉」のある鳥居まで戻る→

ここは坂上田村麻呂が創建した城跡という伝承があるから、田村麻呂の話もしよう(^^)。

東北には、坂上田村麻呂・磐司磐三郎・慈覚大師・小野小町・八幡太郎義家・源義経・松尾芭蕉といった人々の伝承地がとても多い。
陸奥の国は、今の青森・岩手・宮城・福島に相当したから、その広がる範囲も大変に広い。

田村麻呂ゆかりとされる寺社や伝承地は全国的に多いが、特に東北に多い(^^ゞ。山形県を除く殆ど全域に田村麻呂伝説が広がっている。
山形県に多くないのは、征討範囲に含まれてないからだろうが、田村麻呂の時代だと、青森県まで行ったと思うのは難しいのに、青森県にもある(^_^;)。

東北の全域に広がる田村麻呂伝説(信仰)になると、病除や害虫駆除にまで霊験が拝まれている。慈覚大師にも似たような傾向はあるけどね(^_^;)。

が、田村麻呂ほど古い時代だと、志波胆沢(岩手県)・伊治多賀(宮城県)の4点が主な拠点と言え、確実に把握されるようになるのは鎌倉時代か、せいぜい奥州藤原氏の時代が前段階として注目されるのみである。

少なくても田村麻呂になると、志波(岩手県)より北は、ちょっと関連としては難しい(^_^;)。。また多賀城より南というのも、文献的に確認できるかどうか……。

しかし福島県には田村郡があり、田村麻呂の子孫を称するのが田村氏であるので、ゆかりと言われる史跡や寺社はとても多いらしい(^^)。

さて、鳥居の前まで戻って来ると……、
おおっ? さっきの猫チャン!

↑ちょうどお馬サンが上げた前足の下に、堂々と場所を占めちゃって(笑)。



<相馬神社(本丸跡)>

中村神社から赤い欄干の橋を戻って来て、ヒョイと隣が「相馬神社」である(^^ゞ。

入ると早速、石垣の通路を辿る。城の中心、本丸に向かうのだ。

福島県における坂上田村麻呂伝承は、田村麻呂が征伐に来た時期の周辺の、延暦15年(796)〜大同3年(807)を、創建時期に上げている場合が多いそうだ。

特に延暦17年(798)、20年(801)、大同2年(806)が多いという。

延暦16年(797)に、田村麻呂は日本で初めて征夷大将軍に任命されたが、延暦17年(798)は、どちらかと言うと、この年に京都清水寺を建立した(と伝わる)事と関係があるようだ。

延暦20年(801)は、2月から10月まで奥州に居たと見られるから、関連づけとしてはOKである(^^)v。

そして延暦21年(802)にアテルイらを都に連れ帰り、延暦23年(804)は志波城の建設を任じられたから、奥州に来た可能性は高いが、史料の裏づけとしては見付からない(^_^;)。

大同年間に入ると、田村麻呂と東北の関係は全く無くなる(^_^;)。

東北には「大同2年(807)創建」とされる寺社が非常に多い。前回レポの羽黒山本堂「三神合祭殿」も、1月レポの「慧日寺」も、創建時期を「大同2年」としている。
この「大同」の創建由緒は、関東や信濃でも見かけるが、東北では「とても古い」「最古」という意味で使うらしく、「古いお屋敷」を「大同屋敷」などと呼んだそうだ。

強いて大同2年(806)を見ると、田村麻呂が京都の清水寺に寝殿と大炊屋(炊事場)を一宇づつ施入し、伽藍の一部としたと言われ、これは「扶桑略記」にもあるそうだから、そういう事があったのだろう(^^ゞ。

清水寺の「縁起」によると、この「施入」は、田村麻呂の西京の家に化物が住み着いたので、読経して退散させた事に、田村麻呂が喜んで……という事だ。

だから田村麻呂の東北での事績より、田村麻呂=清水寺という高名なお寺にあやかる創建伝承が多いって事になるかもしれない。
←坂が下り、また登ると、左に本丸跡がある。

田村麻呂伝説は内容も多種多様だが、多くは室町以降の創作と思われるので、今回は初段で徳一をやった事もあり、その辺りに絡めた話でまとめてみよう。

田村麻呂は抜群の武勇者のように言われるが、実はその功績の殆どは、蝦夷との融和策が功を奏しているのだ。
これは、その前段階の無茶な行軍劇と悲惨な結果とは決別した結果にも思える。

延暦21年(802)、田村麻呂がアテルイらの帰服を受け入れ、彼らを都に連れ帰る(04/15)ちょっと前の1月9日、田村麻呂は胆沢城の築城のため派遣を命じられ、その出立に当たってだろう、1月20日にお坊さん(「度者1名」)を賜わっている。
征服後の奥地で、蝦夷の教化を行う考えだったのではないか、と見られている。

こう見てみると、田村麻呂の来た直後から、ドッと雪崩を打ったように東北じゅうに、この時期を創建とする寺社が多くなるのも頷けるかな(^^ゞ。

それと相馬に関しては、香取・鹿島からのルートで、塩竈を経由して国府・多賀城と見ると、その途中地点としては興味深い地には思えた。

坂上田村麻呂の蝦夷征伐より後、上総や常陸からのルートが、それまでは香取・鹿島からだったのが、805年に、市川か船橋だろうか、「井上駅」というのが使われるようになり、利根川に通路が変更されるのだ。

すると、陸奥に御子神の幣を奉るのが中止になってしまい、祟りを恐れて「関所を通して欲しい」という要望が出て、商人や俘囚の通行が黙認されるようになっていく。

つまり蝦夷征伐の後は、古いルートは使われなくなったと見なされがちだが、実際にはそうではなく、その理由が、鹿島・香取からの宗教的(?)ルートが途絶える事への危惧(少なくても表向きな表現では)が原因だった、という事になる。

田村麻呂自身は帰ってしまっても、寺社などの流通が継続される中で、その発端となった田村麻呂の記憶が、繰り返し追想された事はありうるのではなかろうか。

石垣に囲まれた坂を登ると
「相馬神社」の鳥居と拝殿に出会う(^^)。

ここが江戸期まで「本丸」のあった場所である(^^)。

福島県の田村氏が坂上田村麻呂の末裔というのは、それほど確実な話ではないようだが(^_^;)、それはちょっと置いといて(^^)//

相馬氏との関わりで言うと、相馬(14代)顕胤の娘が田村清顕に嫁いでいて、この田村氏が、坂上田村麻呂の子孫を称しているのだ。
ところがこの夫婦の間には、女の子が一人しか生れなかった。。

だから、その一人娘が嫁いで男の子を生んだら、養子に迎え(祖父から孫へ跡を繋いで)家名を保とうとした。
その娘というのが、伊達政宗に嫁いだ正室・愛姫だった。

ただ結局、田村氏は、弱肉強食の時代に翻弄され、秀吉小田原征伐でも、こうした事情から伊達政宗に従って参戦せず、改易され所領を失った(^_^;)。。
田村氏再興は、愛姫の孫の代にようやく興され、田村氏は一関に幕末を迎えた。

ただ独立豪族としてではなく、伊達氏の一門としての存続だったのと、天文の乱で田村氏も稙宗側についてたし、愛姫の母方・相馬寄りの勢力も出来て、田村氏には伊達氏に対抗した一派もあったり、相馬氏の配下となった者もいたようだ。
(田村清顕の墓所は、2008年1月<白石「片倉家・歴代藩主廟所」>冒頭)

拝殿の周囲には、本丸跡の頃の平地が取り巻く(パノラマ2枚)

戦国時代も終わり、中村城の築城は、慶長16年(1611)7月、木幡(勘解由)長清を責任者として開始され、同11月に完成、17代利胤は同12月2日に、小高城より移った。
以後、江戸時代を通じて、相馬氏の歴代藩主の居城として、藩政の中心となった。

当初、この本丸の南西隅に天守閣も建てられたが、寛文10(1670)落雷のため焼失し、その後は再建されていない。
しかし6万石の相馬氏・中村城は、小規模ではあったものの、東・西・北に、二の丸と三の丸をそれぞれ置き、南には二の丸を置いた他、溜池を挟んで北に岡田塁(岩崎塁)を置くなど、非常に堅固な築城であった。

これは戦国期、伊達氏に備えた相馬氏が、そのままやはり北に守りを固めたからだろう。
天守閣は焼失したが、同じく南西に搦手門が配されており、本丸の廻りには郭・濠・溜池・土塁・空濠などを廻らした。
1847(弘化4)年、西面の鉢巻石垣が崩落したが、これも積み直された。

拝殿「相馬神社」
「劔社」(横から撮影)

中村城は、こうして江戸時代の260年を通じて相馬氏が保った。
奥州移動から見れば、相馬氏の領した時代は、実に550年も続いた事になる。
石垣は少なく、土塁を廻らして、すぐ近い海岸沿いには多くの港に囲まれ、古代の名残をとどめた要衝の城だった。

平安期より坂東の土豪から出て以来、周囲から常に独立を脅かされ続けた相馬氏も、維新を迎え、ここにはもう居ない。
拝殿の「相馬神社」は、維新後の31代・相馬孟胤氏の謹書だった。

隣の社務所で、お馬サンの御守をシッカリ頂き、ご加護を賜わりますように(^∧^)と、ルンルン下って行く坂のちょうど下、さっきは田村麻呂の話で抜かしたけど(笑)、北の溜池から引いていると思われる水濠が、又あったのである。↓

この辺は、古くは「西館」と呼ばれ、相馬氏が中村城に移る前、まだ本城ではなかった頃だが、 2代前の15代・盛胤が隠居に使っていたという。

その後、本城となって「西二ノ丸」とされ、移る頃には家臣の屋敷があった。
後に南は台所役所、北は米倉が作られ、宇多・北・中郷の貫税が収められた。
火薬庫が置かれた事もあり、北側には籾蔵門が配され、防御施設とされた。



<4日目・相馬の夜〜5日目・いわきの朝っ(爆)>

実はこの相馬中村城の後は、さらに南下し、いわきの「恵日寺」に行く予定だったが、やっぱ最上川とか霊山とか、ちょ〜っと寄り道が過ぎたか(笑)、予定は超過しており、「暗くなって来そうだから、もう無理だね〜(^^ゞ」という事になった。

それでも亭主は「いやいや、今からなら、まだ薄暗い程度かもよっ!」と行こうとしたが(笑)、そうこう話してる内に、本当に暗くなって来たので諦め、「メシはここで食って行こう(^_^;)」という話に落ち着いて、良さそうな店なんか探した。

東北最後の夕飯は、こうして相馬で食った(パノラマ2枚)

「やっぱ海近いから美味いね〜( ^,_^)」
「最後だから、ちょっと奮発〜(^O^)」とウナギなんか食べちゃう!
何かと言うと「最後だから」と、互い内心は「嫌な事を言うな〜」と思いつつ(笑)、これより帰路に着く。

帰りは行きの東北道とは別ルート。相馬から6号線・陸前浜街道を太平洋岸を南下、常磐富岡ICから常磐自動車道に乗って、さらに南下。地図B

こうして無事に東北ツアーを終え、深夜に家に着いた。いい旅行だった〜( ̄^ ̄)。

……のハズだったが、そうじゃなかった(爆)。

海沿いを勿来の関を越え、茨城県に入った「関本PA」の駐車場で運転休憩を取ると、「眠いねー(≧▽≦)」とか言って、ちょっと仮眠を取る事にしたのだっ(笑)。

で、ちょっと仮眠のつもりが、起きたら……朝だった( ̄∇ ̄;)。。。  コケコッコー

「朝ご飯〜(^O^)//<パンパン」
「風呂に入りたいな〜(p_-)、モチロン温泉だったよねここも」
「お風呂なら、チェックアウトまでに入ればOKだから〜(^^)//<パンパン」
「早く食べてあげないと、旅館の人が片付かなくて困るしね〜(^^ゞ」

二人とも気づかぬフリをしているが、この夫婦が食ってるメシは、旅館の朝食ではなく、PAの特朝定食であるっ(笑)。
そして、やはり全く気づかぬフリを続行しているが、食後に入りに行く朝風呂とは、旅館の温泉ではなく、PAから近かった日帰り温泉である(^^;)。。

そしてこんな場所に到着する。

地図C←今「湯元」駅前広場にいる。笛吹き銅像の後ろで、何気に地元民に混じって、まずは足湯に浸かる(笑)。これより同地図の「旅館こいと」を目指す。
ちなみにこの銅像達は、街の到る所にあって、どうやら市民にベンチを勧めているように見える。

寝床に使った「関本PA」(茨城県)から2インター分、再び北上(^_^;)。又々福島県に入り、「いわき湯本IC」で降り、常磐線の「湯本」駅にやって来たのだ。地図D

ちなみに北緯は、最初に行った会津磐梯あたりを、さらに南下してはいる(笑)。「なら、もう帰ればいいのに」と今、誰かに言われた気がする(爆)。

しかし車は真っ直ぐ「こいと」に到着する→
これより朝温泉・始動。

約1時間後、「さぁ〜て朝風呂も入った事だし、続き行くかぁ〜(^O^)」と、ハンドルを握る亭主(爆)。
「えぇ〜っと5日目のスケジュールは〜(^^ゞ」と、すかさず地図をめくる私。

こうして予定にはなかった「5日目」が始まった。
この人達は一体、家に帰る気があるんだろうか(汗)。。



<いわき市・波立、海を見ながら昼ご飯(^^)>

で、どんな事になったかと言うと(^_^;)、予定が伸びて余裕も芽生え(笑)、「日本海(羽黒に行った時)にも、太平洋(相馬に行った時)にも、近くまで行きながら出なかったよね〜(^^ゞ」と、亭主は急に海に出る。

地図E←温泉のある「湯本」駅から4駅目、さらに北上。グ〜と海岸に近付いた所に「四ツ倉」という駅がある。
ちょっと拡大すると、地図F←こんな風に道路が海岸線に張り出して、かなり海に近づける。最終的には、「長友」のちょっと西、中心点のある所に向かう予定だが、昼食は右の海岸「波立」で食べた。

←四ツ倉から波立に差し掛かった辺り。おおおお! 海だぁ〜(#^.^#)。

ちょっと浜に近寄って撮影(パノラマ4枚・180度以上)

空が曇ってるので、ちょっと時化っぽくも感じるが、波は穏やかだった(^^ゞ。

右端の岩場と離島に風情がある
橋が架けられ、社と鳥居が見える

時間があれば参拝したい所だが、そゆ事やってるとまた超過するから、黙って飯を食う(^_^;)。

そう、既にレストランに入っているのだ。窓からの眺め(パノラマ3枚・ほぼ180度)

←海を見ながら昼食。 帰りは四ツ倉を通る↓

「昨日の夜は、これで最後と思ったから、つい奮発しちゃったよねっ(≧▽≦)!」と、ちょっと後悔しなくもなかったが、亭主はせっせと食べている。
実は前日の飯坂〜相馬コースの一日は、その前の羽黒巡りの日に続いて、又々昼抜きで……(^_^;)、てわけで、実は3日ブリに昼ご飯を食べている(爆)。



<恵日寺(いわき市・瀧夜叉姫の墓所)>

再びさっきの地図F←海岸からちょっと内陸に入った所、「恵日寺」(中心点)に向かおう(^^)。
ただ、どの駅からもやや距離がある(^_^;)。強いて最寄と言えば「四ツ倉」だと思うが、一駅分は歩くな〜。

それと、道はそれほど入り組んでないが、ちょっと見付かりづらいかもしれないので、拡大しておこう→地図G
わりと民家の合間に隠れがちと言うか、細い道を入って急に見える感じなので(^^ゞ。

恵日寺」到着「瀧夜叉姫・終焉の地」とある。(パノラマ2枚)

いわき市四ツ倉玉山という所だ。北に向かって行くと「玉山温泉」がある。
この路地に入って来さえすれば、この通り、ド〜ン!と「平将門三女・法名・如蔵尼」「瀧夜叉姫・終焉の地」という、おっきな標識が見える。

寺伝によると、奈良時代の和銅2年(709)、三論宗の慈慧法師が、聖徳太子の教法を広める為、奈良より下向して此処に堂宇を建て、慈豊山「慧日寺」と号して開創された。
平安時代の大同元年(806)、玉造川の清流に、徳一大師が奥州に仏教を布教する拠点として中興した。

徳一が慧日寺を建立したと伝わるのは、1月「たわごと」で示した通りだ。このいわきの「恵日寺」には、徳一の頃よりさらに前の時代に前身があった、という事になる。
蛇足ながら、このいわきは勿来関を越え、常陸から陸奥に入ってわりとスグの場所である。

「三論宗の慈慧法師」という人はよく知らないが、これも蛇足ながら、18代・天台座主の良源が「慈恵」とも「慈慧」とも書かれるようだ。
が、良源は900年代の人なので、もちろん同名の別人だろう(^_^;)。
ただ一つだけさらに蛇足を続ければ、良源は、これより関連する「将門の乱」のあった時代の天台座主ではある。

←江戸期の左甚五郎の作と伝えられて、唯一空襲の被害から免れ、地域の人々から現在も「大門」と呼ばれて、親しまれている。字・名の「大門前」は、この寺の大門を指している。
可愛い六地蔵さまがお出迎え(^^)↓

寺伝に戻る。
天慶3年(940)平将門の三女・瀧姫(瀧夜叉姫)が当山に逃れ、その終焉の地となる。

ここでちょっと気をつけたいのは、このお寺では各所で「瀧夜叉姫」で語っているが、どうも元の寺伝には、この通り「瀧姫」とあるようだ。
私の知る限り、「瀧夜叉姫」は、江戸時代の劇などで使われた名のように記憶する(^^ゞ。

「瀧姫」が伝承され、芝居風に「瀧夜叉姫」としたのかもしれないが、この女性は元は「如蔵尼」とされ、いずれにしても将門の乱に関する書物には記録されてない存在と思うが、それでも「如蔵尼」の方は、かなり古い時代に遡れそうだ。

ここは磐梯の「慧日寺」と違って、発祥から尼寺のように感じたし、如蔵尼の話を寺伝に取り入れているので、あまり上手じゃないが、以下は「今昔物語」にある話を、ざっと今の言葉で書いてみる(^^ゞ。
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「陸奥国の女人が地蔵に助けられて生き(返)る」
陸奥国恵日寺という、興福寺の前の入唐の僧・得一菩薩の建てた寺があり、寺の傍らには、平ノ将行の第三の女子が尼になっていた。
出家前は美麗で心も柔和だった。父母がたびたび夫を娶わせようと言ったが、好まずに年を過ごし、病で悩み煩い、冥界の閻魔庁に行った。

大勢が縛られ、罪の軽重ごとに罰を下されて、雷のように泣き悲しむ声を響かせるのを見聞きすると、肝が砕け心も迷って耐え難かった。
そこに、姿が端厳で左手に錫杖、右手に一巻の書を持つ小僧が行き来して、罪人の沙汰を定めていた。皆が「地蔵菩薩がおいでになった」と言うので、女も掌を合わせて跪き、泣きながら「南無帰命頂礼、地蔵菩薩」と両三度唱えた。

小僧は「自分を知ってるか。三途の苦難から救う地蔵菩薩だ。汝は大きな善根を持つ人だから救おう」と告げ、女も「命を助けて下さい」と申した。
小僧は女を引き立て、庁の前に対面して、「この女人の信心は大きく強い。女の姿を受けていても、男婬の業がないためだ。霊界に召されたものの、速やかに(現世に)返して善根を修めさせたい」と訴えた所、(冥界の)王も、「仰せの旨に従おう」と答えた。

小僧は女を門外に出し「一行の文を与えよう」と教え、女も「(その一文を)手放しも忘れもしません」と答えた。
小僧は「人身難受、仏教難値、一心精進、不惜身命」と説き、「汝は往生すべき縁がある。要点を教えるから、勤めを忘れてはならない。極楽への道は一心に祈る事だ」と追加した。

そう聞いたと思う内に生きれた(蘇生した)。その後、一人の僧を請じて出家し、如蔵と号して、一心に地蔵菩薩を念じ奉ったので、世の人は「地蔵の尼君」と言った。
そうして年月を過ごし、80余歳となっても、心を変えずに端座して念仏を唱え、地蔵を念じて入滅した(死去した)。
これを見聞きした人は貴ばぬ事は無く、語り伝えた。

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説話集の「今昔物語」を史料とまで捉えるかは置いといて( ^^)//、これが書かれた頃には、「得一(徳一)@恵日寺@陸奥」が、ほぼ完璧に確認できるのは確かだ。

次に「如蔵」も確認したが、父親が将門ではない。
「字の誤り」と見ても、前歴を匂わせる話をこの中に見つけるのも難しい。

どっちかと言うと、これを読んで、「心が柔和で善根を持っていても、地獄に堕ちてしまうんだ(・・;)」と、彼女が地獄に行かされかけた原因を、「強いて言えば、親の勧めた縁談を突っぱねたから?」とか、「女ってだけで地獄?」など、文中から探し求める気を起こす(もっともこの時代は、誰でも地獄に堕ちる傾向があるが:笑)。

が、将門が地獄で苦しむ「将門記」、生前の功徳によりアノ世で天王となる「僧妙達蘇生注記」なんかとくっつけると(「善根」を拡大解釈して)、将門の娘として成立する(^_^;)。。
同じ話を載せる物は他にもあるらしく、そこでは将門になってるようだから、史実かはともかくとして、かなり古い時代から、将門の娘が「如蔵尼」と認知されてたんだろう(^^ゞ。

また、将門の現地・豊田では、将門の娘は平忠頼に嫁いで、忠常を生んだという系譜を上げている。これも史実は別として、女系を伝って千葉氏に血縁が継続、という解釈になる。

大門から上がって正面の本堂(パノラマ3枚・ほぼ180度)

さて、この寺にある「瀧夜叉姫・遺徳顕彰碑」の記述を見ると、「今昔物語」にあるストーリーの前段階が補充されてるのが確認できる。
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将門は天慶の乱に恨みを呑んで、七生に祟る、と無念の中に敗れた。
三女の姫は父の遺志を継いで、胸中に、父や一族の怨念を晴らす一念を持ちながらも、一族離散の後、黒髪を宝冠布に包んで辻に立ち、地蔵菩薩の功徳を説いては村里を巡りながら、ひそかに兵を募って機を窺い、戦を起したのである。
しかし利なく、敵に囲まれる中、白馬にまたがって明月の空に向けて逃れ、奥州玉山村「恵日寺」に身を寄せ、寺内に庵りを結び、仏門に帰依した。

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ここから先が「今昔物語」の話に繋がって、美人薄命、地獄へ堕ちて地蔵菩薩に救われ、如蔵尼となる話が入るが、蘇生してからの後日譚がちょっと入る。
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如蔵尼が村里に立って辻説法をはじめるようになると、人々は姫の声音といい姿といい、どこか都の姫さまを見るような、とささやかかれるほどの気品であった。
いつも説話は優しく、説くのは地蔵菩薩の功徳であり、こうして姫は、悲運の父と一族の冥福を祈り、八十余歳にして……
と、「今昔物語」の入滅に繋がっている。
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死後についても、「寺内には古くから姫の位牌も安置され、背負い歩いたと云う地蔵菩薩像も、姫が使用された遺品も残り、縁起書にも姫の物語りが記されて、裏山には墳墓を残す」と、如蔵尼と恵日寺の関わりを示している。

この顕彰碑は、昭和53年、「瀧夜叉姫・遺徳顕彰会」として、寺の42世住職の方の名が刻まれており、大略すると「将門公を慕い、遺志を継がんとして果せなかった姫の生涯と、北の寺内に終わった姫の麗しい物語りが、今後忘却されることを憂い、瀧夜叉姫を敬慕する、ゆかりの多くの人々と共に遺徳を偲び、後世にこれを永く伝えて、心魂を慰霊する」。

さっき「大門」と背景の集落を臨む(パノラマ3枚・ほぼ180度)

奈良時代からの寺伝だから、当然、徳一や如蔵尼の後も長い。

如蔵尼の後も、尼寺として継続したという事だろうか。
明徳3年(1392)、鎌倉観修寺の甚恵上人が、「隆恵比丘尼」より寺の由緒を諭されて、喜悦を開き、中興第一世の祖となり、山号を「甚光山」と改め「岡本段林」となった。

その後は岩城氏の庇護を篤く受けた。
戦国期の初頭は、天文3年(1534)、相馬顕胤岩城重隆を攻めた折、岩城氏の依頼により、ここの住職が仲裁・和睦の役割を果たしたという。

……書こうか迷ったが、やはり書く(^_^;)。。
「山椒大夫」に登場する安寿と厨子王の父が、陸奥の太守という「岩城(判官)正氏」だ。

安寿と厨子王は、幸若舞にある「信太」と似ている(笑)。これまた伝承では幾通りもあるようだが、将門の子孫が、安寿と厨子王のように人買に騙されて……という筋のようだ(^^ゞ。
また、秀郷の子孫に仇討ちをする話もあったと思う。仇討ちというのが注目できる。
将門から相馬氏に到るまでに、「信田」という苗字が系譜に混ざる事も追加しておこう。

背景側には「十九夜供養塔」
本堂側には「国王神社」と「瀧夜叉姫」の碑がある!

左の昭和51年の石碑には、「国王神社・宮司記念植樹」とある。「国王神社」は、さっきの「相馬中村神社」にもあるが、茨城県坂東市の「国王神社」ではなかろうか。
と言うのも、真ん中の昭和54年のは、茨城県石下町……つまり「将門公苑(豊田館跡)」のある、現・常総市の町長さんから贈られた、記念樹の碑のようだから(^^ゞ。
さらに右には、何本もの寄付碑が建っている。

江戸期、如蔵尼は「瀧夜叉姫」になって(この名になるまでにも、色んな名乗りや経過が加わるようだが)、大まか、弟の「良門」と共に、父・将門の仇を討とうと頑張る話になっている。
東北には(今はどうか知らないが)、この良門の伝承地もあるらしい(^^ゞ。

ここでは、江戸期の創作的な要素も語られ、とても興味深い寺なのだが、「如蔵尼→瀧夜叉姫→仇討ち」まではあるが、さすがに「仇討ち→ガマの妖術→ガマ油」までは出て来なかった(^_^;)。。

これは前、筑波山に行った時も見掛けなかった。大河ドラマ「風と雲と虹と」で筑波山が出て来るシーンがあるので、その事だけが標識され、ガマ油は全く別の売り物(軟膏薬)として扱われていた。。
さすがに「蝦蟇」まで来ると、山東京伝のタネ本より前には遡れないって事だろうか(爆)。

石碑の奥は鳥居の連列と
ひっそり佇むお堂。ほのかな紅葉と深緑(^^)

瀧夜叉姫の登場がウケた江戸時代は、将門の祀られる神田明神が大賑わいしていたのに加え、何しろ「仇討ち」ってのが大ウケしたのは、赤穂浪士で周知の通りだ。

じゃあ江戸期に芸能になってから、将門伝承が各地に伝播したのだろう(^^)、と考えられそうな所だが、例えば将門の愛妾・桔梗の逸話なんか見ると、彼女が藤原秀郷の妹って説まで見た覚えが……(^_^;)。

江戸時代に流行した筋立てには、民間の俗説が入って出来た物も多いらしく、それも伝承が先か芸能が先か判らないが(笑)、芸能から土地に根付いた場合でも、それをさらに後になって「こんな伝承(史跡)がある(゚.゚)」と驚いた人が、何らかその説明っぽい話を又作る、という現象もあったかもしれない(笑)。
だから伝播ソースの一点として、寺伝を示しておく事にも意義があると思う。

ここでは、1392年に寺の由緒を語ったという「隆恵比丘尼」に、ヒントがあるのかな(^^ゞ。
後はこれまで見て来た限り、大掾氏城氏岩城氏など、常陸を主な基盤にした繁盛流・平氏の土地に、妙見信仰や如蔵尼伝承が関わってる感じがした。平氏系図

おっ、あの山中に見えるのが如蔵尼の墓地か!
狭い風情のある階段(^^)

鳥居の所からして「岡本稲荷大明神」と書いてあるにも関わらず、登ったら、やっぱり「岡本稲荷大明神」だった!(笑)
寺の案内では「墳墓は裏山にある」という事なので、もっと深く行けばあるのかもしれない(^^ゞ。
が、如蔵尼の墓地も、意外にも↑この一般墓地(と言っていいのか)の並びに見付かった。

「隆恵比丘尼」と「如蔵尼」の位牌
この位置から臨む岩城・玉山の眺め(^^)

左は「隆恵大禅比丘尼位」で、その前はハッキリ写ってなくて、オボロで恐縮(^^ゞ。たぶん「岩城郡司・岡本忠次郎正義・娘・俗名・●奈理」と書いてあったように思う(違ってたらスイマセン。●は下が「奏」に似た字)
こちらが室町時代に、中興と言うか、この寺の「岡本談林」にまで直接伝わる「隆恵比丘尼」の事だろう。

中央は「如蔵大禅比丘尼位」で、前に「平将門・娘・俗名・瀧夜叉姫」。
その右は、少し古そうな墓に思えた。

江戸時代に移ると、磐城平藩主の祈願寺となった。
元和5年(1619)、城主・内藤政長の領内の材木・人馬・入用に任せ、本堂・庫裏・緒仏堂造営寄進された。七堂伽藍の瓦が並び、門葉集合して、寺門の隆盛を極めたと伝えられる。

入って来た時の「大門」も、この内藤氏の寄進によって建立されたようだ(^^)。
さらに、慶安3年(1650)には、幕府より御朱印25石を賜わり、末寺63ヶ寺を擁した格式高い大本寺で、「岡本談林」の室町時代以来、明治維新まで多くの学僧を輩出した。

参拝を終えて坂を下る(パノラマ4枚・180度以上)

境内の配置と言い村落の風景と言い、前日に行った「霊山寺」にすんごく似ていて、帰ってから記憶がゴッチャになった(^_^;)。

明治に入ると、寺は俄かに零落。明治6年(1873)、玉山小学校が開校されると、明治の後期には、小学校の仮校舎とされた。それでも生徒の育成などに貢献し、学んだ人々には郷愁の地となり、さらに駐在所や消防団の詰所として、大野中学校には飲料水の供給などして、地方の自治に役立っていた。

ところが戦中の昭和20年(1945)、7月28日の空襲によって、大伽藍・庫裏・宝物殿・諸仏像が、一瞬にして灰燼に帰した。
「甚光山・恵日寺・戦災復興」という、昭和42年に建てられた碑に詳しかったが、残念ながら字が読みにくい箇所も多々あって(^_^;)、それでも大略ながら記してみよう。

役員たちは危険も顧みず、阿弥陀如来像や寺の過去帖などを、猛火の中から救出。
ちょっとここが読めなかったが、周辺に災火が燃え広がらなかった事を、不思議に思われたといった事が書かれ、これを奇蹟として仏の慈悲を思い、復興の切願があったものの、敗戦による未曾有の苦労からなかなか立ち直れず、昭和36年(1961)にようやく再建が決定。昭和38年(1963)本堂が再建された。

檀信徒の総力を得て、先師・祖先を祀る「位牌堂」も建設されるなど整備が続いて、平成6年(1994)には、「福島88ヶ所霊場・第76番札所」となった。
平成13年(2001)には、大門の屋根や社寺の瓦葺の替改修復工事にも着手され、上棟落成の慶讃大法会が修された。

そして今年、平成21年(2009)は、開創1300年に当たるそうだ(^^)。

この後、さらに南下して茨城県に入り、石岡市の「常陸国府跡」や「青屋神社」に行ったんだけど、これは2008年10月「将門ツアー@茨城3」でレポしたので、東北レポ「山形〜福島」編はこれにて終了!

旅の土産は一昨年と同じ、山形県の「のし梅」(^。^)→
前は中身を撮らなかったので、剥いて出してみた(笑)。甘くて酸っぱくて、固いゼリーみたいな食感さぁ〜♪

以上、関連事項は、
2005年10月<増尾城址公園(千葉県)>内
2005年11月<将門神社>内
2006年8月<泉「三夜堂」と「おせし様」><泉、龍泉院>
2007年5月<会津〜米沢のお土産(^。^)>内
2008年1月<白石「当信寺」>内〜<白石「片倉家・歴代藩主廟所」>
2008年2月<塩竈(志波彦)神社><鹽竈(しおがま)神社>
   〃   <「多賀城」政庁跡と城前地区>内
2008年8月<常総市「将門公苑(豊田館跡)」>
2008年10月「作品の広場」→「将門雑記(風と雲と虹と)」27〜33話内
   〃   <坂東市「国王神社」><取手市「延命院・神田山・将門胴塚」>
2008年11月<茨城県常総市「豊田城」(石下町地域交流センター)>内
   〃   <千葉県我孫子市「将門神社」(湖北)>
2008年12月<「将門神社・龍光院」(沼南)>
   〃   <布瀬城跡・香取鳥見神社(天慶の乱・伝承地)>内
2009年1月「作品の広場」→「将門雑記(風と雲と虹と)」47〜52話内
   〃   <恵日寺><如蔵尼と乗丹坊の墓・龍宝寺「不動堂」>
2009年4月<阿津賀志山防塁>内〜<霊山寺><霊山神社>




■2008年9月〜12月・千葉県
<古利根川・手賀沼・清遊湖>


千葉県に戻って来て、タタ〜ッと駆け足で、秋から冬の風景をお届け(^^)。

古利根川の周囲の畑(パノラマ3枚・ほぼ180度)

地図H←古利根川の南岸(我孫子市)にいる。秋もそろそろ深まりかけた頃(#^.^#)。
一方こちらは手賀沼→

地図I←この辺。夏場はヨットもよく見掛けるけど……、

白鳥もたくさん集まって来る(^^)
湖面が気持ち良さそう〜〜(笑)

←東の川沿いに向かってみると、橋の袂にも、いっぱい集結〜♪↓

そして、あっと言う間に冬枯れの季節(^_^;)。。
もうちょっと南下してみよう

地図J←この辺り。手賀沼より南にも点々と沼地があって、ここには「清遊湖」がある。
上の案内図は湖面に敷かれた足場の見取り図で、ここは専用の釣り場。

山に囲まれたプールになってる(パノラマ3枚・ほぼ180度)

「へら鮒」の釣り場で、わりと釣り人に知られてるようで、魚屋さんのスチロール箱なんかに、たくさん魚を入れて帰る人も見る(笑)。

クリスマス!手賀沼温泉「満天の湯」〜(パノラマ3枚・ほぼ180度)

一気に12月まで来たぁ(^。^)。(ホンットーに駆け足だね。。)
次回は、年末年始〜2月の茨城県・守谷レポまで行っちゃう予定っ(≧▽≦)!

2009年05月21日
 
     






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