<2013年・城主のたわごと7(6)月>




2012年11月群馬レポE3〜4日目、老神温泉からスタート(^。^)

新田義宗の史跡と真田氏書院の後、栃木県に向かう!



     
  月越え二度目(^_^;)ゞ。
追い付きそうもないと踏んだ時点で、一月飛ばす事も考えてはいるが、まだ判断がつかないので、今回もまだ「7(6)月」なんて書き方でお出まし♪

最終泊の3日目夜は、老神温泉(^^)。
4日目の朝を迎え、前夜通って来た沼田方面にちょっと戻る形で、高平の白佐波神社「うつぶしの森」、雲谷寺「新田義宗(義貞三男)の墓」、そして「高平の書院」の三ヶ所を見学。

近くの和食処で昼食の後は一路、栃木県境に向かう。
その途中「片品温泉」への入口を通り越したあたりで次回に引き継ごう。

話は、前回で大まか終わった「神道集」の「伊香保大明神の事」の後日談編をお届けする(^^)。
前回と前々回に同じく、普通レポが【】、神道集について、および、ストーリーの解説&感想が【】、伊香保大明神の事」(上野第三宮伊香保大明神事)のストーリーを【紅】の字で綴る。

今回は、いよいよ日光へも向かうので、例の神戦の話も交えながら話していこう(^。^)。
上野国側すなわち赤城側の伝承としては、このスグ下↓の、老神温泉や赤城神に伝わる伝承と、新田義宗などにまつわる文章を【青】で書く。



<3日目夜、老神温泉に宿泊>

前回の最後に乗った高速、関越自動車道を北上して沼田インターで降り、120号線(日本ロマンチック街道)を東進、やがて右手の片品川沿い、すなわち南に右折すると、老神温泉に入って来る(地図Aヤフー)。

前回最後の写真の通り、すっかり夜の帳が下りていたので、辺りの風景は翌朝に廻すとして、まずは美味しい夕ご飯からじゃっ( ^,_^)ф

ここは伊藤園ホテル・グループの傘下にある「老神山楽荘」で、朝夕ともバイキングの方式は、前々年の川治温泉の宿以来、二度目。
(2011年6(5)月<川治温泉で一泊(#^.^#)>

亭主取り皿(笑)→

食事も浴衣も全てセルフだが、館内は本館だの新館だの物凄い広さで、何度か迷子になりかかったり、廊下を歩くお客さんに、食堂や受付・新旧建物の渡り廊下への行き方など聞かれる事もあった(^_^;)。

←こたつ取り皿

翌日の昼食時、近くの席にいたお客さんから、「伊藤園のホテルによく泊まる」という話題が聞こえて来たので、土地の人かわからないけど、地元ではウケがいい?と思ったら、伊豆半島に次いで、栃木と群馬に店舗数が多い事がわかった(゚.゚)。

ここも、元は地元の相当大きなホテルだったのを、伊藤園が経営を引き継いでいるのかな〜とも、栃木もそうだが、群馬も首都圏から遠くないから、低コスト競争では苦戦があるのかなぁ……とも思った。

夕飯の後は温泉〜(つ^O^)つ<ザブーン(パノラマ2枚)

↑まずは室内(^^)。こんなに大きいホテルなのに、早く寝てしまう人やまとめて入る団体客が多いのか、夜10時を過ぎると、一人も入湯客が居ないという。
写真は撮りやすかったけど(いつもは人が居なくなるタイミングを長々と待って、パッと撮るので(^_^;))。

脱衣場も同様ガラーンとしていた(笑)。
宴会場とか遊戯場(卓球の音が聞こえた)なども、それぞれ盛り上がってる雰囲気だったから、風呂はそっちのけなのか……(笑)。

ただ、この老神温泉は全国でも有名な温泉だ(^^)。

こちらは露天(^^)→

「老神」の名の由来は、例の赤城山の神と日光二荒山の神の「神戦」(神同志の争い)にある。
日光の話は「日光山縁起」を読んだが、こちら老神バージョンは、丸きり地元の口承なのか、どこぞに記述があるのか皆目わからない(^_^;)。

戦場は日光の戦場ヶ原、赤城の神が日光側の弓矢に倒れた所まで、日光での神話と同じである。

この後、日光では「めでたし、めでたし(^^)」と終わるのだが、こちらではその続きがある。

日光の話はこちらね(^^ゞ↓
2005年4月<戦場ヶ原>内以降
2012年5月<南会津方面に向かう>内以降
2012年6月<23号線を東進、川治ダムまで>内以降


<つづき>老神の話(赤城の神のその後)↓
傷を負った赤城の神は、刺さった矢を引きぬき、片品川の河原に突き刺すと、そこから湯が湧きだし、その湯に浸かった所、矢傷が癒えた

元気になって、追い掛けて来た日光二荒の神を追い返し、見事に退散させたので、「オイガミ」(老神)と呼ばれ、その場所が「オッカイ」(追貝地図B)という地名になったという。

この老神温泉は、そのようなわけで古くから皮膚病などに特効のある温泉として知られて来た(^^)。


神戦の話はここまでだが、色んなバージョン話を翌朝に続けよう(^O^)/



<4日目、老神温泉の朝(^o^)ノ>

おはようございます(^。^)。ああ〜今日が旅行の最後の日だけど(>_<)。。

朝起きたら、こんな所にいた(笑)! 朝ご飯食べに食堂に行きがてら、館内じゅう窓の外を散策♪
この山楽荘のある辺りは、「特別景観保護地区」に指定されてるそうだ。

神戦の件、「日光山縁起」では、日光(男体山・二荒山)の神は大蛇の姿、赤城の神は大ムカデの姿で戦うのだけど、手持ちの古いガイドブックには、ここ老神の伝説を、日光とは反対に「赤城の神が大蛇日光男体山の神が大ムカデ」と書かれていた(゚.゚)!

「誤植(^_^;)?」と思ったんだけど、続けて「老神温泉の最大の祭りは、老神の赤城神社で5月の7・8日に行なわれる、ヘビになった赤城の神を祭る「大蛇祭り」で、ご神体として長さ108mもの大蛇を、200人以上からの担ぎ手で担ぎ歩く」という。

つまりどちらも「自分の所の神が大蛇敵の神がムカデ」という認識なんだ〜と(^^ゞ。

赤城と日光二荒山神戦」(@「赤城山ポータルサイト」)によると、戦に勝ったのが赤城の神とか、怪我をするのが日光の神とする話もあるようだ(゚.゚)。

今回もこれより伊香保姫の後日談をするが、そこではいずれも上野国の沼の龍神同志の戦いがある。つまり「二神とも龍」となってるのだ(^_^;)。

朝もバイキング。
亭主の膳→

↓こたつの膳(^人^)<頂きます
建物の隅に祀られてた神社→

神社と言うより小さな祠という感じで、祭神はわからないけど、ここは赤城山からは距離があるのに、この温泉街のあちこちで赤城神が祀られてたから、やはり赤城の神か、あるいは温泉神を祀ってるのかも。

ちなみに「伊香保大明神の事」にも、温泉にまつわる縁起話が絡むのだが、この老神(地図A)から西に沼田(地図C)があり、沼田をグッと南西に行くと、伊香保(地図D)という地理でござる(^^)。

食堂の窓から一面に見える山の壁

↑夜は真っ暗で見えなかったけど、この食堂のある部屋が一番山に近く、座った近くの窓からは、こんな切り立った山壁が迫って、折よく紅葉もしてて、良い眺めだった(^^)。

(拡大)→
この山壁とホテルの狭間に、さっきも言った片品川が流れている。
赤城の神が、刺さった矢を引きぬき、突き刺したら、湯が湧き出した川ね(^^ゞ。

湯の方はこのホテルに引いて、みんなで入湯してるんだね♪(^.^A)

ちなみに「片品」は、この「たわごと」だと、2005年1月<片品温泉>←ここにある地名でもあり、これより日光に向かう途中から分岐した地点(地図E)にある。
ここに流れるのも、そこに繋がってる川という事だ(^^)。

また、片品川については、館内の廊下に、1960年代前半ごろと思われる、「太陽ホテル」という宿が濁流に浸されてる写真があった。

大雨による片品川の大水で、宿泊客も旅館から出られず、川沿にあった湯船は流砂に埋まって、掘り起こされるまで入浴が出来なかったという。

こちらは、お部屋からの眺め(パノラマ縦5枚180度以上)

老神温泉の南西約4キロ、薗原ダム地図F)は、このような片品川の洪水調整と発電、灌漑など多目的ダムとして建設され、1965年に完成した。

ダム建設により、老神温泉湧出口が湖底に沈む計画となったため、ボーリングにより別の湧出口を確保し、学校や旅館4軒も移転した。
どこに移転したかは知らない。この辺り(老神温泉・地図A)からは少し遠いけど、この温泉街で開業してる宿もあるかもしれないね(^^ゞ。

ロビーに行くと……ジャーン!!
(拡大)ついに会ったぁ〜!(≧▽≦)

北極熊だよね! 幾らなんでも白熊はおらぬでしょうが(笑)、何か今度の旅行は「熊に遭うかもっ(>_<)」と思いながら歩いた場所があったので、ついに会った!と色めきたってしまった(笑)。

では本日も、お会計を済ませて、そろそろ出発。

ホテル正面。さっきの山壁は裏側(パノラマ4枚180度以上)

これより温泉街から一度、120号線(日本ロマンチック街道)を西の沼田方面にやや戻すが、沼田にまでは行かず、三ヶ所ほど見学したら、120号線をまた戻って来る。

が、その後は120号線を東進して、栃木県に向かうので、ここ老神温泉にはもう戻らない。これが見おさめ。

横合いの入口からも山壁を背景に撮影(パノラマ3枚ほぼ180度)

第二次世界大戦中の老神温泉は、沼田陸軍病院の老神分院などもおかれ、東京板橋区内の学童疎開のうけいれた。

1965年に金精峠トンネルが開通してからは、尾瀬や日光方面への観光基地として賑わうようになり、温泉街の近在でとれた、新鮮な野菜や山菜などが並ぶ朝市も有名になった。



<老神温泉街〜日本ロマンチック街道を西へ>

旅館を出てからは、120号線の温泉街入口まで、まず向かおう。

町の大型駐車場の片隅に
(拡大)大天狗のお面が祀られてる

天狗の大型お面は、沼田城跡の「天狗堂」にも奉納されており、前にお堂を見たり、お守りを買ったりした(^^ゞ。(2005年6月<沼田・沼田城>内

以前も書いた通り、沼田やここ老神から北の迦葉山(上発知町・地図F)は修験道が盛んで、天狗を祀る事から「日本一大きな天狗面」で知られ、沼田でも祭りに「天狗みこし」を担ぐ。

老神(地図A)・沼田(地図B)・迦葉山(地図G)・赤城山(大洞神社)(地図H)←1/20万ぐらいに縮小すると、位置関係わかりやすいかも

さらに遠ざかる坂道を登る途中には、赤城神社も祀られている↓
(拡大)→

栃木と群馬の全体で豊城入彦命を祀り、群馬だけだとこんな風に赤城神を、さらに北の沼田以北で、天狗など修験道の傾向が強まる……という感じかなぁ(^^ゞ。

あとは、伊香保もそうだが、やはり温泉神。
道々、前回やった「伊香保大明神の事」@「神道集」の後日談を再会するが、話には、神仏習合温泉の関係が現れているように思える(^^ゞ。

全国どこの温泉も、地獄谷・三途の川・鬼〜、といった猛烈な言葉が多いが、それはどれも仏教との絡みが関係しそうだ。
そして温泉地には、修験道の発達など、神仏習合の色合い濃い所が多い。

私見ながら、温泉と仏教の関係は、聖徳太子にまで遡れると思っている(^^ゞ。
聖徳太子が伊予・道後温泉に行った時に、以下の碑文が刻まれたという。

「惟ふにそれ日月は上に照らして私せず。神井は下に出でて給(た)らざるなし。
万機はゆえに妙応し、百姓はゆえに潜扇す。
すなわち照らし給りて偏私なきは、何ぞ寿国に異ならん。
華台に随って開合し、神井に沐して疹(やまい)をいやすは、いずくんぞ花池に落ちて弱きを化するに舛(たが)はむ」

徴税を行うため戸籍を整え出すと、国民寿命が顕れ、「短命人種=文化の遅れた国」という比較も出て来るだろう。
聖徳太子は、中国(隋)に対して、強い対抗心を露わにした事で知られる人だ。
「寿国」は長寿、すなわち中国の神仙思想を意識しているという。

「神井」「沐」「疹をいやす」「弱きを化する」あたりが温泉の効能、「日月」「百姓」「私せず」「私なき」あたりが、仏教の得意とする、利他精神に相当するだろうか。

日本において温泉は、神仏習合の色合いが濃くなる平安期より前から、このように「仏の慈悲」をもって分け隔てなく、国民の全てに寿命を与える「神の水」と位置づけられた、ともいえる。

沼田市利根観光会館(パノラマ4枚180度以上)

↑やがて、坂を登り切って右側(地図Iヤフー)。
中に入って観光パンフレットを幾つか貰ったが、それらの中にも、館内のポスターや郷土本とか置いてありそうな場所を見ても、これといって無いので、思わず、

「あの〜伝説のムカデにちなんだ場所とか、ありませんか(^_^;)ゞ?」と係の女性に聞いたが、
「ムカデはありませんね」と一言で、剣もホロロに答えられた(笑)。

やはり、ムカデは日光でもここでも悪者なのかな〜(;_;)。
どっかにムカデの銅像とか建ってたら、喜んで写真を撮りに行くのに。
……あ、でもよく考えたら、日光でも大蛇の銅像というのは無いわ(爆)。

銅像が無理なら、せめてムカデ酒に、ムカデ蕎麦、ムカデ瓦煎餅に、ムカデ饅頭、ムカデ漬け、ムカデのど飴……*しつこいね(^_^;)*

←120号線に出る(地図J)まで、老神の街道を行く。凄くウネウネの道や……
↑スコーン!と広い青空の下。車は殆ど無かった。

では、「伊香保大明神の事」後日談に入ろう(^^ゞ。
前回は、伊香保姫と、姫に仕えてた伊香保太夫の娘たちが身を投げて亡くなり、伊香保姫が伊香保大明神に、他の縁者たちも各々大明神となった所まで話した。
(2013年6(5)月<赤城山頂から中腹(三夜沢)へ>から<赤城山から上泉へ>内まで)


〜「神道集」〜伊香保大明神の事(つづき)〜上野第三宮伊香保大明神事

やがて、49代・光仁天皇の頃(770〜781年)となる。

……と、始まった途端で恐縮だけど(^_^;)、ここでいう「光仁天皇の頃」を、在位期間から「770〜781年」と書いたが、その前の伊香保姫ら三姉妹の話(さらに前の「赤城山神社の事」の冒頭)の、「履中天皇の時(400〜405年)」と比べると、人間1〜2代の寿命では保てないほど時間が経っている。

ところが、この後に出て来る「別当・恵美僧正」は、確か前回「高光中将の甥」として、伊香保姫のいた時代にも出て来た(^_^;)。。(2013年6(5)月<赤城山から上泉へ>
同名同職の別時代の別人という事だろうか……(笑)。

こういう時間計算のメチャクチャな点なんか、特にこの神道集や、後の日光山縁起の「荒唐無稽」とされる点なのだろうけど(^_^;)。


120号線に出た
左車窓から見える山々

120号線は、「日本ロマンチック街道」とも言われ、風光明媚な景観をもって知られる。こたつ亭主が大好きな道(^^)。

赤城山は先に行くほど、左あるいは前方向に見えて来た覚えがあるので、左車窓から見たのは、まだ今一つ東の袈裟丸山か、それに連なる峰々か……。

下↓の「オルゴール館」は今は営業してないらしいけど、この先どこからも見えるとても目立った建物で(再利用されるといいよね(^^ゞ)、 地理的には、さっき洪水とダムの話で言った、薗原湖のちょうど真北あたりにある。
その辺から道路の左右を高く切り立った岩壁が囲み、ちょっとした景観(^^)。(地図Kヤフー)オルゴール館

左「オルゴール館」(閉館中)
薗原湖の北、切り立つ岩場の狭間

……じゃ、改めて続き(^^ゞ。
上野国司・柏階(かしわばし)の大将・知隆は帝の寵を鼻にかけ、国内の農民を苦しめ、伊香保山で七日の巻狩りをし、伊香保沼で乗馬を沈め、多くの鹿の体を切り裂いて辺りを血で汚し、山の神に呼び掛け、沼の深さまで測ろうと、藤蔓を切り集めた。

その夜、夢に女人が顕れ、「この沼の底は丸く狭い。白蛇(別の写本には「白地鉢」とある)に似ている。図形に現そう」と言い、何町かの小山を現出させた。夢で聞いた通り、上が狭く、下が広い。
国司は絵に描き、記述を添えて、都に提出した。

沼は西に移動し、沼だった場所は野原に変化したので、国司は恐ろしがった。


ちなみに老神(地図A)から西に沼田(地図C)があり、今向かう道にある。
現在所から近い話の舞台は、前回、伊香保姫に横恋慕した上野国司が伊香保姫を奪おうと襲って来たため、伊香保太夫が姫たちを逃がれさせた「子持山」(地図Lヤフー)というのが、沼田の少し先、今まさに向かってる方角である。
さらにグッと南西に行くと伊香保(地図D)という地理。(そんなに正確に地理関係を押さえた話なのか、今と地名の位置が一致してるのかは、何とも言えないけど:笑)


景観の素晴らしい日本ロマンチック街道
左車窓から望める山間の町並

(中央部・拡大)↑

国司は岩滝沢の傍で、一頭の鹿を追い出した。鹿は水沢寺の本堂に逃げ込んだ。国司は大勢で取り巻いて、本堂に閉じ込めて射殺した。

水沢寺の者たちは騒ぎだし、殺された鹿を奪って大御堂の大門の傍に埋葬して、塚を築く一方、国司たちを仁王堂から下に追い払った。
国司は激怒し、仁王堂に火をかけたので、金堂・講堂・常行堂・勧請堂・鐘楼・経蔵・千手院・真言院・法花院・多宝塔・大風炉・大湯屋など、御堂が30余、坊舎は300余、仏像は180余、悉く焼失し灰燼となった。


この水沢寺というのは、前回も述べた通り、現在も伊香保にあるお寺のようだ。(2013年6(5)月<赤城山から上泉へ>
または、「水澤寺の歴史・沿革(@「坂東十六番札所・五徳山・水澤観世音」より)
地図M←水澤寺。……といった地理関係から、もしかすると伊香保沼というのは、榛名湖の事だったり?(笑)


やがて見えて来る赤城山地図H
そろそろ高平に来てるかな

別当の恵美僧正が、京に上って事件の詳細を報告すると、帝は激怒し、国司に佐渡ヶ島流刑を命じると、流刑地への護送のため、数百人の検非違使が下った。

伊香保大明神も、国と隣国の山の神を集めて、伊香保沼の東方の窪地、沼平にある小山に大石を運ばせ、石牢を造って待ち構えた。

……と、ここにイキナリ、“伊香保大明神”が、彼女らの生きた何百年も後の国司騒動に対し、何を思っていたかなど、一切の描写も何の脈絡も無く出て来る(^_^;)。

これは前回の最後、伊香保姫を救った伊香保太夫が、伊香保姫の夫・高光中将をはじめ、戦死した自分の息子や婿の菩提を弔い、霊を祀った所が水沢寺だからで、伊香保姫主従らもそこで亡くなったので、水沢寺の危機に際して、土地神として現れ出た……という事だろう(^^ゞ。

ややこしくなるんで、地理的な説明は最後にまとめてやるね(笑)。


特徴ある葺屋根の家々の向こうに……
「うつぶしの森」が見えて来る

↑この、屋根の上にも小さな屋根の乗っかってる二重屋根は、長野あたりでもよく見る建築スタイル(^^)。里見兄弟の墓所に行った時にも見掛けたが、やっぱ長野と近いんだな〜という感じがする。
ぐぐった所、「越屋根」という物に相当しそうだが、地域で何と呼ばれるのかな。

国司が何も知らず蹴鞠を催していると、伊香保の大嶽から黒雲が立ち登り、旋風が吹き下ろし、車軸のような豪雨が襲い、真っ暗闇となって、国司主従は行方不明となり、家中上を下への大騒動となった。
風雨がやんでも、翌日になっても、東西を探し回って見付からない。

実は国司主従は伊香保大明神の作らせた石牢に入ってしまい、たちまち焦熱地獄に落ち、猛火に襲われていた。無限地獄で終わりのない苦しみだった。
石を積んで造った山だが、見た目は普通の山と変わらず、石楼山という。
北麓に北谷沢という冷水が流れていたが、石楼山が出来てからは熱湯が流れ、涌の峰というようになった。


……と、この段も、「悪は滅びる!」という結末で、だいたい以上をもって、伊香保姫の時代より350年以上も後の後日談もおしまい(^^ゞ。

この後も、関連縁起のような記述が少し続くが、だいたい、「この熱湯が温泉になりました」という話なんだな(笑)。
これより高平の古跡(三ヶ所ある)を見学するので、残りは後に廻そう(^^)。




<「うつぶしの森」(白佐波神社)>

この高平には三ヶ所の名跡があり、三ヶ所は、長い沼田街道の中では近い距離にある。
南北朝の新田氏と江戸期の真田氏の二つの最期が合わさって感じられる場所ともいえる。

さらに近付いて来た
左方向の道からも写してみた

このとおり、大層大きな樹木の密集した所ではあるが、現在では、これもご覧の通り、大きな道路120号線の平野部を通って交通量も少なくはない。大型トラックも続けて通る道だ。

120号線に面した神社の側面↓
拝殿への入り口→

神社のちょうど隣接地が白沢小学校、そのさらに隣は白沢中学校が併設され、登下校の児童らのために、大きな歩道橋が道路を蓋って渡されている↓

このように、少し物々しい通りの喧噪を遮って、森林地帯は鬱蒼とし、沈み込むような低地を成している。

120号線に面した「白佐波神社」と「うつぶしの森(パノラマ3枚ほぼ180度)

地図N。以下、現地の案内板(沼田市教育委員会)の記述(適時、句読点などを入れさせて貰う)を基に、解説を加えたい(^^ゞ。

史蹟「うつぶしの森 新田義宗討死の地」@

 吉野時代、南朝の柱石・新田義貞の嗣子・新田義宗は、父・義貞、兄・義顕義興ら討死の後、新田の総帥として従兄・脇屋義治と各地に転戦し、当地及び越後に在った

まずは、ここまで(^^ゞ。

←拝殿の扉から見えた室内 ↑120号線来た方向を振り返る

↑額にある写真は、手持ちのガイドによると、新田義宗(義貞三男)の木像(ご神体)ではないかと。
制作年代は不詳だが、衣冠束帯の武士像で中世の作と伝わるそうだ。

新田義貞の活躍期は5年間と短い。
挙兵して、鎌倉攻めで歴史に登場するのが1333年、北朝足利方の軍に敗れて、越前の藤島で自害(殆ど戦死だが)するのが1338年。
長男・義顕(母・安東氏)はさらに早く、1337年に金ケ崎落城の折、越前に奉じた尊良親王とともに自害している。

比べて、次男・三男の二人は活動期は長い。兄弟で南朝のため力を合わせて戦っている。


森は社殿を頂きとし……
石垣で段々を築いた谷間にある

三男・義宗(母・小田氏)が義貞の後継とされている。
次兄・義興の母・天野氏は、上野国一之宮・抜鉾神社の神主の家柄で、出自の低さから義興は重用されずに新田荘に留められていたからだ。

一方、三男・義宗の母は、常陸の小田氏という出自の高さもあり、後継となったのも、父・義貞の蜂起に際し、常陸方面の武士が多く参陣した事があったと思われ、6歳で昇殿を許されている。

が、次兄の義興も、1335年には、鎌倉で建武新政に叛旗を翻した足利尊氏を、北畠顕家が奥羽から追って上京したのに加わり、新田を出て鎌倉を占拠し、その後も活躍した。

新田義宗はここで最期を遂げたと伝わる(パノラマ3枚ほぼ180度)

話はまだ途中だが、(話の都合で:笑)神社の裏手にある、新田義宗の墓(雲谷寺)に向かおう。
すぐ近くなので、戦場という事で言うと、範囲に含まれるかと(^^ゞ。
現在地(うつぶしの森「白佐波神社」)→地図N

ここ、「うつぶしの森・白佐波神社」の案内板記述も、↓に引き継ぐ。



<雲谷寺(新田義宗の墓)>

今いた白佐波神社の裏に向かって行き、突き当たりが雲谷寺→地図O

拓けた一帯の突き当たり丘陵に、雲谷寺墓地(パノラマ2枚)

新田義貞の死後、新田一族をまとめたのは、義貞の弟・脇屋義助で、義宗も義助とともに活動を開始している。

義宗はやがて関東に戻り、上野・越後の各地で、兄・義顕や、義助・義治父子とともにゲリラ活動を組織。
脇屋義助は越前→吉野→伊予と移り、1342年に病没後は、義助の子・義治が、義興と義宗の兄弟ともに南朝方として活動した。


続く墓地の右端までいくとお寺に着く(パノラマ3枚ほぼ180度)

1350年から、いわゆる観応の擾乱(足利尊氏・直義兄弟の相克)が起こり、北畠親房は足利陣営の不和の虚をついて東西呼応策をたて、1352年の武蔵野合戦では、義顕・義宗の兄弟が揃って南朝方として奮戦。
義宗は(尊氏×直義の内)直義派の上杉憲顕とも組み、関東に蜂起して、鎌倉を脅かした。

しかし1358年、兄の義顕は、武蔵国の矢口の渡し(東京都大田区とも稲城市ともいう)で畠山国清の配下に謀殺され、これがため、義顕の怨霊が顕れたので、大田区には今も新田神社が祀られるという


お寺に続く道から赤城山などがズラーッと(*o*)!(パノラマ3枚ほぼ180度)

↑中央切れ目の所を拡大すると……
←(拡大)さっき通った「オルゴール館」の薄紅色がよく映えて見える。閉館とは勿体無い(>_<)。

新田兄弟の名は、結局は父・義貞とともに歴史の一幕として消えて行くが、その背後・周辺に彩られる人間模様は、長く東国の歴史に留まる名ばかりだ。

今も書いて来た畠山国清(畠山氏祖の兄)などは、関東府が出来たばかりの頃の関東管領であり、一方、新田義宗ら南朝軍と手を組んだ上杉憲顕も、国清亡き後の関東管領職に就任している(^_^;)。

この上杉氏は、南北朝より後、謙信が出る戦国期に至るまでの非常に長い時代を、この上州や武州(埼玉)で欠かす事のできない名であり、「群馬と言えば上杉氏」と言って過言ではない。

そして新田義宗も、いよいよ以下の展開を迎える事となる。


史蹟「うつぶしの森 新田義宗討死の地」A〜白佐波神社より〜

が、正平23年(1368)鎌倉の足利氏満らを討たんと、7千の兵を率い、沼田へ進出した。(雲谷寺の墓所によると「上越国境で挙兵」との事)
 これを知った足利の将・上杉憲将能憲兄弟は、千葉・結城・宇都宮の諸勢6万の大軍を寄せ、一隊は利根川沿いに、一隊は赤城山を越して新田勢を挟撃、沼田から当地まで東西三里の滝棚の原は激戦の修羅場と化した。

左が赤城山で、右は榛名山とかかなぁ?(^^ゞ(パノラマ3枚ほぼ180度)

←(↑右部分を拡大)方向としては、沼田の西側、榛名山・妙義山・そして伊香保姫の話にも出て来た子持山などある方向だろうが、群馬は周りが高山・名山だらけなので……(^_^;)。

1368年という年は、その前年に、二代将軍・義詮と鎌倉公方の初代・基氏が相次いで亡くなったばかりで、この「足利氏満」というのは、鎌倉府の2代目公方である。当時まだ10歳だった。
新田義宗ら南朝方は、二大権力者の死と幼君支配による鎌倉の動揺を、見事についてきたのである。

足利尊氏┬義詮
      └@基氏−A氏満−B満兼−C持氏−(古河公方)成氏

ちなみに、関東管領・上杉氏とは、早くも氏満の頃から代々で揉めているが(笑)、さっき義宗と手を組んでた上杉憲顕は、この時には亡き基氏の要請を受け入れて関東管領となっており、憲将能憲兄弟というのは、その憲顕の子達である。


お寺(伽藍)は右方向に行くと出会うが、まずは墓地の頂上を目指して、そのまま登る。
こんな坂道を登って行く→

上杉憲顕は、足利尊氏・直義兄弟の母方の従兄弟で、特に直義と仲が良かったので、観応の擾乱で「尊氏×直義」の戦いとなった時は、尊氏を敵に廻していた。

しかし鎌倉公方初代の基氏も、幼い頃から直義の養子となっていたから(直義には子がいない)、基氏と憲顕は、直義繋がりで懇意だったと見え、1358年に尊氏が死去し、1361年に畠山国清が失墜し追放されると、基氏の要請に従って、憲顕は関東管領となり、以後、代々上杉氏の関東管領職が定まるのである。

ちなみに、上杉憲顕の子で、憲春憲将能憲の弟)が、さっそく氏満に対して諫死を行っており、鎌倉府では、早くもこの氏満の頃から、鎌倉公方と関東管領・上杉氏との間で、代々における悶着がスタートしている(笑)。


義宗の墓所から見える風景(パノラマ2枚)

話は脇に逸れたが、新田義宗の最期について、「うつぶしの森」では、こう書かれていた。

史蹟「うつぶしの森 新田義宗討死の地」B〜白佐波神社より〜

 義宗は本陣鐘撞堂反町の砦を出て、当地の丘上に駒を進め決戦中敵の一矢に右眼を射抜かれうつぶしに落馬し、壮烈な最期を遂げた。時に、7月21日、年37(歳)。副将・(脇屋)義治は軍を収め、追貝に退いた。(雲谷寺の墓所によると「(脇屋)義治は出羽国に逃れた」ともある)
 義宗の骸は、船田(長門守)経政によって近くの雲谷寺に葬られ、墓塔が現存してある。
 村民は義宗の霊を祀り「うつぶし明神」と称し、この地を「うつぶしの森」と言い伝ふ。

「追貝」の地名を見るのは、現在だと老神温泉のちょっと北。だいたいこの辺→地図B

←「雲谷寺の大杉」と呼ばれる、沼田市指定天然記念物(目通周囲4.5m、樹高約37m)の樹影に五輪塔が並ぶ↓
義宗の討死後、義宗の執事・船田長門守経政(新田義貞の執事・船田善昌の子)は、うつぶしの森の北方、ここ雲谷寺の高台に義宗の墓を建てた。

塔は現在地より下手の土中に埋もれていたのを、墓地改修にあたり発見され、現在地に移された。

中央無銘の塔(高132×幅42×奥行42(p))が義宗の墓と伝わり、右の塔(高126×幅40×奥行40(p))は、船田長門守経政の墓といわれ、逆修冨(←「合」の下が「田」、「塔」の古文字)と刻んである。(逆修とは、生者が生前に墓を建てること)

生き永らえた経政は我身の逆修に託して、故主や多くの同僚の三回忌となる建徳元(1370)【北朝応安三】年、古戦場近くに建てたものと思われる。

左の塔(高123×幅32×奥行32p)には「聖慶禅尼生年二十八」とあるがいかなる人物か定かでない。

史蹟「うつぶしの森 新田義宗討死の地」C〜白佐波神社より〜

追詠 岸大洞
 打伏の森陰に玉垣を築き、里人ひそかに義宗の魂をまつる
 遥かに思う南北両朝の戦い、六百年を過ぐるも涙痕を伝う
沼田市教育委員会

三男・義宗は、この地では「1368年に戦死」とされるが、「没年不詳」と書かれる物も見る。その場合、さらに長く生きた可能性を示唆されるようだ。

今度はお寺の方に行ってみよう
お寺の前の紅葉が素晴らしい(^^)

この三回ほどに渡って、「神道集」から「赤城大明神の事」と、その後日談である「伊香保大明神の事」を紹介してきた。
前年に「日光山縁起」を紹介してきた流れもあるからで、日光を主体に書かれる「神戦」を、赤城山の側から見ると、どういう話になってるのか興味があったからだった。

日光では、日光の神が「大蛇」となり、赤城の神が「大ムカデ」に化身するのに対し、老神では逆に、日光が大ムカデ、赤城が大蛇となっていた。

この伝説は、上毛野氏下毛野氏の古代における分裂と闘争を示すのだ、とする説をよく聞く。

ただ、赤城をはじめ多く上州を舞台として語られ、特に赤城南麓で唱導が盛んだったという「神道集」においては、大蛇やムカデは出て来ない(^_^;)。


←ススキも立派だった
↑十三仏だっ(゚.゚)! こたつは十三仏が大好きなので、全部撮影したけど(笑)、その一枚(五仏)。他にも鳥芻沙摩(うすさま)明王も庭園に置かれていた。

また、「日光山縁起」では、日光の神の要請で参戦した「小野猿丸大夫」が、姿醜い狩の名人であるのに対し、赤城山の縁起とする所の「神道集」の「赤城大明神の事」では、「「ロ奄 佐羅摩(オンサラマ)女」なる龍神で、しかも人の姿をして顕れる時には美女らしきである事がわかった。(2013年4月<3日目・赤城山の朝>内
神戦の源泉らしきについては、これより後にも書くが、そこでもやはりムカデや弓矢の話は見掛けない(^_^;)。

神道集の成立は、南北朝、後光厳院の文和・延文年間(1352〜1360)と考えられている。

一方の「日光山縁起」の成立は室町時代以降と見なされる。
変化した部分はその間に入り込んだ、と見ればいいだろうか……?


新田義宗の戦死(少なくても負傷、1368年)は、ちょうどその間に相当する。

(拡大)虚空蔵・大日・あしゅく・阿弥陀・勢至

そして、上毛野・下毛野の戦いと言うのであれば、日光は下野国であり、下野国からは足利氏が出ている。
老神や赤城は上野国であり、上野国からは新田氏が出た。
この両氏も、元は同祖から出ながら、やはり熾烈に争い合った。

元は古来よりあった何らかの伝説が下地にあるとしても、下野国の神を加勢したが、上野国の神の化身であるムカデの目に刺さるという構成に、この「うつぶしの森」における新田義宗の最期が重なって感じられる。

下野における伝承の影響と思われる「俵藤太物語」でも、ムカデを射たのは俵藤太すなわち藤原秀郷、新田義宗を倒した上杉氏も、元を辿れば藤原氏である。

先ほどの「うつぶしの森」(白佐波神社)より
一部拡大→

これらの縁起の意図はともあれ、この義宗を最後として、新田義貞の子孫の活躍は聞かなくなるので、「うつぶしの森」の戦記は、この地に長く語り伝えられたように思う。

新田義宗については以上(^^ゞ。お寺の方も参拝して行こう。

「武尊山・雲谷寺」(曹洞宗)参道
山門、本尊は延命地蔵菩薩のようだ

境内にも入らせて頂いたが、特に碑文や説明版など見掛けなかった気が……。
ちょうど大工さんが来られていて、住職様らしき方が表に出ておられたので、お声をお掛けした所、とても丁寧に応じて下さった。

でもきっと、この日の工事関係か、あるいは檀家関係の方と間違われたのだろう。
新田義宗の墓所の場所を訪ねていると云うと、「ああ、あっちの方です」とだけ仰った(笑)。

お寺の至る所に六文銭紋が見られたので、こちらは新田氏関連ではなく、真田氏にゆかりの寺である事が徐々に明白となった(^_^;)ゞ。

←本堂
↑山門の木製扉には、本当に金属で模した六文銭(六連銭)紋が示されていた

手持ちのガイドによると(どうも群馬では、案内板関係が充実してるとは言えない(^_^;))、この寺は、最後の関東管領上杉憲政が、まだ長尾景虎と名乗っていた頃の上杉謙信を頼って、越後に落ち伸びて行く時、一時滞在した事が「加沢記」に記録されているそうだ。

上杉憲政と言えば、沼田よりやや北の水上温泉にあたりにある「建明寺」には、上杉憲政の木像があるらしい。(地図P

その後、1580年、真田昌幸がこの地に再建した事から、昌幸が中興開基とされている。

それで、どこにでも六文銭が記されているのではないかと思う。
もしかしたら、真田ファンが訪ねて来るので、訪れる人に気を付けておられるのかしら……?(笑)

←門前の庭園風通りと赤城山を一望(^^)
↑信州・上州でよく見掛ける越屋根

ただ……どうも、今回私の受けた感触としては、上州(群馬県)における真田氏というのは、信州(長野県)の好感度とちょっと色を違える感じがある(^_^;)。。

信州においても、武田氏による攻略というのは、所によってはかなり苛烈な印象が拭えないが、ここ上州においては、一層その感じが強まるからだろう。

この日も霧氷の見れる赤城山(拡大)→

もう一つは、真田氏の真田藩は信州においては永らえたが、上州(分家)においては江戸期に入るとすぐ断絶してしまった事も小さくないように思う。

それも、ただの断絶ではない。
地元民に圧政を訴えられ、幕府によって(遠まわしに)処断を受けた結果という空気が匂う(^_^;)。。

続きは次の見学所にて。



<「高平の書院」と「酒呑み地蔵」>

ここも前の二ヶ所(うつぶしの森・雲谷寺)から近い。(地図Qヤフー

この漆喰土蔵風の建物と、その右の大樹が目印(パノラマ3枚ほぼ180度)

道路の端に一応「高平の書院」なる標識はあるが、一瞬で通り過ぎるし、周りが市街で大樹は目立たないし、樹の奥に「高平の書院」があるのは、道路からはもっと見えない(^_^;)。

なので、その隣の白壁の土蔵造りの建物を目印にすると良いが、この建物の事を調べていたら……ナント、「高平の書院」の持ち主だったような……(・・;)。。。そ、そうだったのか……。

前に赤い郵便ポストがあるから、てっきり郵便局か公民館かと(^^ゞ。
入口付近には、盛んにパンの幟が立ってるが、公的施設で地場農家の作物を置いたりする光景って、そう珍しくないから、きっと村おこしネタを含んだ食料品なんだろうと、てっきり……(^^ゞ。

何しろ、この建物は「眞田本陣・鍵屋」という、手作りパン屋さん。前の赤ポストと言い、レトロな雰囲気。

で、入る前に、ちょっと左方向(来た方角)を振り返ると……

近くに「うつぶしの森」とその手前の越屋根の民家が二軒見える↓左端の看板「左大臣・地酒」とある所が駐車場で……
片隅、高平の書院の向かいに「伝承・高平の酒呑み地蔵」の碑と地蔵がある→

この「左大臣」という地酒屋さんが守っていると思われるお地蔵さんの方は、さっぱり観光ガイドにも載って無い。案内板なども無い(^_^;)。。<何で?

この地酒屋さんサイト「左大臣」に謂れがあるので、ご案内→高平の酒呑み地蔵
ちなみに、この「左大臣」の謂れも同サイトにあり、かいつまんで言うと、ご先祖が平清盛に左遷の憂き目に遭わされて、この地に落ちて来たらしい。

では、改めて「高平の書院」に入ろう。

高平の書院は、慶安二年(1649)沼田城主・真田信政が、新田開発・宿割等を行った後、城主の領内見回りや鷹狩りの際の休憩所として利用された。

手持ちのガイドには、「代々この地の名主であった、小野良太郎家の離れ」とあるが、こちらの案内板(沼田市教育委員会)には、「真田信政が宿割等を行ったおりに設置」とある。
敷地が小野家であった事は間違いなく、さっきの土蔵の手造りパン屋さんが、その小野家であるようだ(^^ゞ。
当時は7棟の建物が配置され、書院はその一部と伝える。

←この五葉マツは、真田信政の宿割の際に、書院の庭木として植樹されたと伝えられ、今に続いている。推定樹齢約400年、高さ約18m、目通り2.5m。

屋敷地が12間×43間、道の片側には、沼田氏(真田氏の前の領主)によって、沼田(白沢)用水が流され、飲料・農業に使われた。
また真田氏の改易後は、黒田直純が手を加えて、現在の書院風の物となったようだ。県重文。

以下、案内板に従う。

木造平屋造(151u)、県内の書院造りとして貴重なものである。
 床及び脇床、平書院を備える八畳の主室と間口二間の床を備える八畳の次の間を中心とし、二方に一間幅の畳縁をめぐらし、次の間の奥に二階をもつ四畳半ならびに六畳の二室を設けている。主室の床柱に丸太を用い、長押・天井棹縁に面皮材を用い、格式ある数寄屋風書院の様式を呈している。襖絵、脇床、天袋子襖絵、釘隠の意匠はみるべきものがある。

……という事なんだけど、残念ながら……

ピッタリ雨戸が閉まって中は見れなかった
五葉マツ根元の燈籠・庭石の跡

近寄ると、窓いっぱいに生活用品などが積み上げられるのが見え、現代的な生活感に溢れすぎて、史跡という感じはまるでしなかった(^_^;)。
二人とも「これが?」と、最後まで驚いたまま(笑)。

さて、先に書いた「改易の背景」だが、今回は真田氏の関連史跡に殆ど行かなかったので、手短に済ませる。

松代真田藩初代・真田信之の孫・真田信利というのが該当する。ここ上州における真田家は、沼田藩である。その居城・沼田城跡には前に何度か訪れた↓
(2004年12月<沼田城跡(城址公園)、1>内以降←真田氏が来る少し前あたりにポイントをつけておいた)

(パノラマ縦横4枚ほぼ180度)

沼田城では、「真田信澄」で書かれてたと思うが、ほぼ同じ人物と思わしきが、こちらでは「真田信利」で書かれるように思われる。同様に、長男とする「信就」を、ネット上では「信音」と書かれるのを見る。(そう言われてみれば「信就」は、松代二代藩主・信政の子にもいる)

昌幸┬@信之┬信吉┬熊之助
   └幸村  |   └B信利(沼田)−信就?
         └A信政┬信就
               └B幸道(松代)

信利の父(信吉)は若くして、兄(熊之助)も幼い内に死去したので、叔父・信政に家督が渡ったが、やがて祖父・信之の裁定によって、信利は上州沼田、従兄弟(信政の子)幸道が信州松代を各々おさめる事となった。
信利は不満を持ち、幕府に働きかけたが、祖父・信之の裁定通りの決定が幕府からも下された。(紫さまの「真田信之」に詳しい(^^)@「真田三代」@「真田氏のススメ」より)

松代を合わせ持つ石高を欲したのか、何しろ、この信利時代の圧政というのがかなり酷かったらしく、年貢が5倍近くにまで引き上げられ、それが20年近く続行されたという(^_^;)。

やや廃屋モードの裏側だが
鳥居や祠もあり、石材の残骸も……

沼田真田藩の改易は、表向きには、江戸両国橋つけかえ工事の用材遅滞のカドによるが、その裏で、実は杉木茂左衛門松井市兵衛という、沼田領内の農民らが幕府に訴えている。

直訴はご法度なので、もちろん二人とも処刑されたが、月夜野にいくと刑場跡や資料館、地蔵尊(地図R)が篤く祀られ、「磔茂左衛門」と親しまれ、義民として語られているようだ。

真田氏による年貢取り立ての苛烈な姿勢は、他に、「桃瀬の水牢」(だいたい→地図S)などにも濃く見られる(^_^;)。(こちらは前代・斎藤氏の頃からのようだが)
これは、年貢の滞った者を寒中、水の中に入れるもので、男なら首まで、女性は70センチほどだが、子を背負わせた状態で入れたという(^^;)。。

また、そのような拷問場跡を、ちゃんと残してあるという点に、何となく地元の意識が読み取れる感じもする。。

真田氏に対する恨みといった、歴史的な部分も勿論なおざりには出来ないが、赤城山のあの宿と言い、神道集に現れる「石楼(石牢)」と言い、全体的にここ上州の文化であるように思える。
もしかして、この地に古墳が多い事も一因するのだろうか?



<日本ロマンチック街道@高平〜追貝>

毎年必ず出る話題なんだが、この年も「疲れないように早めに帰って、仕事に備えて休養を」という旅程を組んだ。

本当は前日(3日目)の赤城山の後、前橋方面までの見学コースを終えたら、高速で帰ろうと思ったんだが、前の年の旅行の最後が都会周りで不評だったから(^_^;)ゞ、この年は、最後には日光の山めぐりで締めくくろう(^O^)/!と考えていた。

なので、老神温泉を朝出たら、爽快な山ドライブを重ねて帰宅の予定で、午前の内に日光あたりまで行き、どっかドライブインの昼食にありついてるつもりだった。

が、「疲れが溜まるといけないから」と当初注文していた亭主自身が、だいたいこの時間帯になると、「もっと色々見て行く\(>o<)/」と言い出すのである(爆)。

そうなる事を見込んで、午前中に廻れそうな史跡も見繕って来た。それが今回見た「うつぶしの森(白佐波神社)」「雲谷寺(新田義宗墓所)」「高平の書院」だったというわけ(^。^)ゞ。

結局、午前中はたっぷり史跡巡りをし、昼飯は日光ではなく、高平から老神に至る途中、目に見えた和食処にパッと入った。

食事処「山小屋」(地図Tヤフー
120号線に面した駐車場から

ここがなかなか良かった(^^)。そういっぱい飲食店があるわけじゃないから、ご案内♪

外からだとあまりわからないが、中は意外と広くて、でもお客さんもいっぱい入って、満席(^^ゞ。
「そば・うどん」と書いてあるけど、ずいぶん豪華な定食もやってて、私らは……

←ガッツリ食べたでござるよ(笑)。
見た目ボリューム満点だけど、わりと野菜やコンニャク・ひじきなどが中心で、蕎麦やご飯は少なくしてくれる見た目以上にサービス満点。

あと、今回冒頭あたりで触れた話は、ここに来てたお客さんが、「伊藤園にあちこち泊まったけど、わりといいよ」と話してるのが聞こえたわけ(^^ゞ。

ごっつぉさん(^nn^)<フキフキ

この後は、ひたすら120号線(日本ロマンチック街道)を日光方面に向けてドンドン行くだけ。本当に気ままなドライブコースである。
たくさん写真を撮ったので、今回はその途中までお届けして次回に繋げたい(^^)。

さっきも通ったサルビアの沿道
(中央拡大)オルゴール館もよく見える

最初に沼田に来た2003年8月(レポは2004年12月〜)の時から、この辺りでよくサルビアが植えられているのを見ると思ったら、白沢町(沼田市)の町花なのだとか(゚.゚)!

ただ、これまでこの道は、日光や片品などに行くのに通るだけで、今回のように途中に立ち寄る用が無かったので、こうして高平を見学に訪れてみて、このサルビアの咲くのが、高平の辺りなのだとキチッと印象に残ったのは良かった(^^)。

←前方を蓋う山々を一望
↑老神温泉の入口にまずは向かう

進む方角的には、皇海山・庚申山・袈裟丸山といった、栃木県との県境の高山地域に向いているが、今見えてるのは、その手前の山々じゃないかと(^^ゞ。

あとはひたすらドライブコースに入った所で、「伊香保大明神の事」の後日談の、そのまた後日談を……長らく引っ張ったが、今度こそ完全に終結編とする(^0^)。

そして目印の「オルゴール館」通過(^^)
切り立つ磐の狭間を通る120号線

「オルゴール館」には、今も花とハーブと地酒(ワインも含め)の看板などあって、営業してる感じに見えるけどね(^^ゞ。

で、伊香保大明神だが、350年後の悪い国司が怒りに任せて水沢寺を焼き払い、伊香保大明神によって火焔地獄に堕ちた所まで話した。その続き。

恵美僧正は、水沢寺を山奥に移そうとし、黒沢の南の差出山の東麓・弥陀ヶ峰、岩屋の大平なる窪地に大きな御堂を建て勤行した。

……と、これも唐突な展開でなくはないけど、問題はその後(^_^;)。。

峡谷のような道を抜け
これはもう老神(への入口・地図J)を過ぎた地点

大昔、赤城沼の竜神・「ロ奄 佐羅摩女(オンサラマニョ)」と伊香保沼の竜神・「吠尺羅摩女(ベイシラマニョ)」が沼争いをした時、西から毛垣を取って川から東へ投げ、東からは軽石を取って川から西へ投げたと伝わるが、群馬郡渋阿保の郷戸村では、衆生に利益するため、病気治療の湯が出されるようになった。

……このイキナリ出て来る、「大昔の伝承」というのが、この前後と脈絡が薄い気がする(^_^;)。特に文中の「毛垣」には、わざわざ「未詳」なる注釈がつけられている(笑)。

が、これも恐らくは、「温泉のありがたみ」(衆生に利益するため、病気治療の湯)を強調するために書かれた文章なんだろう、と思っている(^^ゞ。

120号線はさらに北「吹割の滝」に向かう
右の低地は片品川→

「吹割の滝」の北緯が、さっきも書いた「追貝(おっかい)」と呼ばれる地域(滝が片品川の西、追貝が東)にあたる(地図U)。

「吹割の滝」は、国天然・国名勝に指定される珍景で、片品川が追貝で凝灰岩を侵食して深い渓谷を形成し、大絶壁の崖が障子岩と呼ばれ、千畳敷と呼ばれる広い川底に多数の割れ目を造り、岩石の切れ目に沿って滝が7mも落下する。巨岩が吹き割れたように見える事からついた名という。

滝は左の方向と思って左に入ったら……
リンゴ畑だった(^_^;)。。

また、このリンゴ畑を囲ったワイヤー網には、さりげなく電流が通されて、ウッカリ触ると感電する方式(^_^;)。。
この年はどこの農家も熊対策が大変だった事がうかがえる。

このように道を間違えたが、実際の「吹割の滝」は、もう少し北まで行って左折だったようだ。観光の名所と見えて、その近くに行くとかなり混雑していたので、結局自分らは避けて先を急いだ(^^ゞ。

このリンゴ畑から見た風景も良かったけどね(^^)(パノラマ3枚)

かつては、滝の上流1.5キロほどの岩頭に、左甚五郎の作と伝わる「浮島観音」(如意輪観音)があったそうだ。
現在、観音は川東300mほどいった追貝の海蔵寺で安置されているという。

実は、ここにも「竜宮伝説」があるのだ(^^ゞ。
滝壺が竜宮に通じており、借りて返し忘れた「お椀とお膳」が、追貝に残されているという。この話は、新田氏にゆかりの長善寺でも話した、竜宮伝説と同根の話に思えた。(2013年2月<「長楽寺」「三仏堂」と蓮池竜宮伝説>内

また、そもそも「日光の神を追い返した」などと云うのも、そのような珍しい滝の景観ゆえだろうか(^^ゞ。




<日本ロマンチック街道A栃木県境に向かう>

ここまでも片品川とは平行して走って来たが、ついたり離れたりだったのが、このあたり(地図V)から、グッと片品川のすぐ傍を走るようになる。

川の流れが左窓のすぐ脇から見下ろせる

いよいよ日光へ向かうので、「神戦」に関連する話もしておきたい。
日光の神戦に出て来る「小野猿丸大夫」の源泉が、「ロ奄 佐羅摩(オンサラマ)」である事は、これまでもしばしば書いて来た。

「赤城大明神の事」「伊香保大明神の事」の、これまでの話を振り返ると、「ロ奄 佐羅摩(オンサラマ)女」は、赤城山で赤城姫を沼にいざない、後継とした龍神の化身。
一方の「吠尺羅摩(ベイシラマ)女」は、伊香保姫の祈りに応えて、あの世から現れた縁者たち(伊香保太夫夫婦や伊香保姫の夫)が、「伊香保山の山神や伊香保沼の竜神たち、吠尺羅摩女らに大切にされて悟りを開けた」と語る事によって彼らの庇護神となっていた事がわかる。

つまり、かつては沼争いをした、各々別の沼の龍神同志が、片方は姉の赤城姫を後継とし、もう片方は妹・伊香保姫の縁者たちを世話した事になる(^^ゞ。

もちろん、「赤城大明神の事」と、「伊香保大明神の事」は、同じ「神道集」に編纂されていても、別の話と見るべきなのかもしれないが(笑)。

やや遠く見える山は少し白っぽく
手前の山は手前が緑で奥が紅葉(^_^;)

そして、この「沼の龍神同志の戦い」が、後世の「日光赤城神戦」の原型と言われる部分なのかな、と(^^ゞ。
ここでいう「沼争い」は、上に云う通り、赤城か伊香保か、その間にでもある沼に思えるが、日光の伝承(日光山縁起)では、「中禅寺湖を巡って神同志が戦になった」となってる(^^ゞ。

他に「神道集」には、「日光権現の事」なる話もあるようで、求めた書籍に話が無く、現存するかもわからないが、ただ注釈には、「往古、日光権現赤城明神の間に沼争いがあった」とあるので、やはりロ奄 佐羅摩女と吠尺羅摩女が、日光と赤城に変わっただけ、といった物ではないかと(^_^;)。
前々回に書いた通り、神道集には、「使い回しネタ」が多い(笑)。(2013年4月<長善寺(大胡太郎の墓)>内

(拡大)
左は尾瀬大橋、正面は白根山かも!

白根山は日光でも最も高い山(標高2578・地図W)だけど、この方角から見えるかな……ガスでもかかってるのか白く霞んで浮き上がる様子が、すごく神秘的だった。

片品川はそのまま北上して片品村に届くが、今走ってる120号線は右に曲がって、日光方面(東)に向かう。
実は既に右に曲りかけており、片品川は左に行ってしまったから、代わってこの「尾瀬大橋」の渡る(地図X)のは、片品川から分流する大滝川で、これよりこの大滝川が120号線の「お供」となる(^^ゞ。

一方、左折してこの「尾瀬大橋」を渡ると、片品温泉に行ける。↓
2003年の旅行では、片品温泉に泊まり、翌日この尾瀬大橋まで戻って、改めて日光に出たんだよね(^^)。(2005年1月<片品温泉>

左に見えて来る「尾瀬大橋」を渡れば
片品温泉の方面(今回は行かないけど)

大宝元年(701年)、(恵美僧正が、水沢寺を山奥に移そうとしたので)差出山に水沢寺が建ち、大工の妻子らが衣類の洗濯をしていると、老女が来て、「衆生利益の湯とも知らず、汚れ物を洗濯するから、湯は山深くに運ぼう」と瓶に入れて頭に乗せ、弥陀の峰を越えた。

これを夢で見た僧正が確かめさせると、夜の内に湯は無くなり、山奥の石楼山の北麓・北谷の東の窪地に、大崩ヶ谷から里湯が出て、伊香保の湯に合流していたという。


つまりは、これが伊香保温泉の縁起(由緒)というわけ(^^)。
これは伊香保温泉や水沢寺で、今もわりとシッカリ語られてる感じがする。

日光の山々が見える低地から
徐々に山の中に分け入っていく

伊香保大明神男体は、伊香保の湯を守護し、本地は薬師如来である。
女体は里へ下る三の宮、渋阿保に立ち、本地は十一面観音である。
宿禰若伊香保の二所は千手観音早尾大明神聖観音有御前如意輪観音石垣明神(ママ)は馬頭観音(2013年6(5)月<赤城山から上泉へ>内参照)

(※石垣明神は生前の石童御前の事だと思う(^^ゞ)


旅館や蕎麦屋などで風情ある山道(^^)
めくるめく紅葉の連続で大感激(≧▽≦)!

恵美僧正は上洛して、行基菩薩の弟子・東円上人に別当職を譲って、世を去った。
東円上人は、水沢寺の落成を見て、大宝二年(702)の供養に行基菩薩を導師とした。
延文三年(1358)まで、701年となっても、・柏階の大将・知隆と、代官の右中弁宗安の二人は燃え続けている。

……この「宗安」なる名も、確か、高光中将と一緒に果てた、伊香保大夫の息子か婿の一人が同名だった(^_^;)。。
善者だった人が、地獄の炎に焼かれているハズはないから、こっちはさすがに違う人物だろうと思うけど。。


ペンション風のお店(かな?)や
茶屋風のお店も紅葉に彩られ♪

標高が高くなってきたか、山々に遮られているかで、何しろ相当に寒いと見え、山に入るなりめくるめく鮮やかな紅葉の連続で、驚いた。
あいにくの曇りで写りがかなり暗くなったので、少し手を加えさせて貰ってるが、色はつけてないよ(元の天然色のまま)(^^ゞ。

藤原実方(〜998)は奥州への途中、伊香保山を見上げて、
「ちはやふるいかほの沼の底ふかみ見し山がつは身をまかすかな」
「伊香保山麓のみゆにたむけして苔しきこけはまたもやみなん」

「伊香保の沼は深く、のぞきこんだりする男は身を投げるが、お湯の神に奉幣して湯を浴びれば、罪垢も消滅するだろう」と詠んだ。

国司の罪が消えるよう祈る歌のようだ。

これで「伊香保大明神の事」も完結(^_^A)。

地獄に何百年も燃やされてるなんてラストには、将門記にも見る仏教縁起の典型である一方、その熱が温泉となって薬師の効能を謳う、といった妙に現実的な(どこかお気楽な)構成力(宣伝力?)もなかなかのものだ。

最後には、行基やら藤原実方やら、各界実在の著名人まで出て来て、みんなが伊香保に関係あったかの如く締め括るエンディングといい、どういう語りが唱導の信者にウケたのかわかって、凄く面白い(笑)。

ちなみに、最後を締め括る藤原実方の歌二首だが、もちろん実際の実方が詠んだ歌の中には確認できないそうだ(爆)。

<地理のご案内>
◆赤城大明神の事
@渋川の有馬(地図ヤフー)・伊香保太夫の本拠と思われる地名、姉の淵名姫や赤城姫がそれぞれの乳母の実家に預けられていた時、伊香保姫も預けられていた場所
A「上野国の総社」(地図)・更科の継母姉弟が滅びた後、伊香保太夫が「有馬が手狭」として、伊香保姫のために館を建てたとされる場所
◆伊香保大明神の事
B群馬県白井「白井城跡」(地図)・↓子持山や伊香保のある地名として「白井」と書かれる
C子持山(地図Lヤフー)・人妻の伊香保姫に横恋慕した上野国司に襲撃され、伊香保姫主従が逃げ込んだ山の名
D地図M←水澤寺・榛名湖・赤城山(大洞神社)(地図H)・
Fいわゆる伊香保温泉(地図D




ただでさえ遅れてる上に、パソコンが熱暴走でどうにも不調で(*o*)、ちょっと作業しては動作がイカンを繰り返すので、何をするにも時間がかかる。
そういうわけで、関係記事のリンク貼りを、ちょっと後日(追加更新)に譲りたい。(ここまで、2013/07/05記)

次回は上下毛編の第七弾……あとは日光に出て帰宅するだけなんだが、写真は驚くほど沢山ある(笑)。
上手く行けば最終回にしたいとは思うが……(^_^;)ゞ。

<つづく>

2013年07月05日



できました(^_^;)ゞ。

以上、関連事項は、(これのみ、2013/07/08追記↓)
2004年11月<芦ノ湖>内
2004年12月<沼田城跡(城址公園)、1>内以降
2005年1月<沼田城跡(城址公園)、2>内および<片品温泉>
2005年4月<戦場ヶ原>内以降
2005年6月<沼田・沼田城>内
2006年10月<4日目、駒ケ岳「箱根神社元宮」>内
2008年6月「千葉県の動乱」vol2<上杉禅秀の乱(1416〜1417)>以降
2009年1月<対面石と対面堂>内
2009年4月<霊山神社>内
2009年7月<南部「今城」>内
2010年4月<厳美渓温泉で最終泊、3日目夜〜4日目朝♪>内以降
2011年4月<「塩原温泉郷」を目指す>内以降
2011年6(5)月<川治温泉で一泊(#^.^#)>
2011年6月A<塔のへつり>内
2012年5月<南会津方面に向かう>内以降
2012年6月<23号線を東進、川治ダムまで>内以降/<宇都宮に向かう・「栃木県立博物館」>内<宇都宮二荒山神社>AB
2013年1月<東北道〜北関東道>内以降
2013年2月ほぼ全文
2013年3月<「円福寺・茶臼山古墳」(伝・新田氏累代の墓)、2>内
2013年4月「神道集」については<大胡城跡、2(続き)>内以降】の字を、「赤城大明神の事」@は<赤城温泉(^_^A)>以降】の字
2013年6(5)月・ほぼ全文「神道集」「赤城大明神の事」Aは上記通り、「伊香保大明神の事」@については
【紅】の字
 
     




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