<2013年・城主のたわごと3月>



2012年11月、「上下毛編」の第三弾、2日目(^^)。

太田市の四寺の後、北上して桐生市や大胡へ向かう





     
  群馬旅行、第三弾は前回から2日目を迎え、2012年11月に突入している。


↑これは今回いく「大光院」にあった案内図。字が小さいので、私が写真の上から入れておいた(^^ゞ。赤い字がこの旅行で行った場所。紫色が行ってない場所。

前回までに、太田市の「生品神社」「新田荘歴史資料館」「世良田東照宮」「長楽寺(及び得川・新田岩松氏の墓所)」「明王院」、そして2日目に入って「円福寺」と巡って来た。

今回は、「円福寺」の続きから、「大光院」(ここで昼食(^^))「金龍寺」「曹源寺さざえ堂)」。

ここで太田市を離れるので、上の図から外れるが、赤城山を目指して北上する途中、まず東の桐生市、高津戸城跡の足元にある「里見兄弟の墓」。
その次はずーっと西に行き、「大胡城跡」に着いた所で次回に続けたい。



<「円福寺・茶臼山古墳」(伝・新田氏累代の墓)、2>

↑前回のタイトルを引き継ぐが、「伝・新田氏累代の墓」までは前回やったので、今回はいよいよ古墳に登る。(前回のは、こちらに(^^ゞ→2013年2月<「円福寺・茶臼山古墳」(伝・新田氏累代の墓)、1>

地図A←前回言い忘れたけど、鉄道では東武伊勢崎線の「細谷」駅が近いかなと(^^ゞ。 徒歩30分はかかりそう。

円福寺境内(パノラマ3枚ほぼ180度)

↑前回も出したパノラマ写真。
山門入って、まずこの広い公園と右の本堂が見れる。奥に控える森林が古墳。古墳に登る手前を左に進むと「伝・新田氏累代の墓」があった……というわけ(^^ゞ。

これも前回出した境内と古墳部の見取り図。字は私が入れてるけど(^^ゞ→

今回はこの見取り図の中央「千手観音堂」に向かう石段から↓

←こう登って行くんだけど、その手前のテーブル&ベンチ傍らに植木花が置かれてホノボノしている(^^)。案内板は前回「生品神社」でも紹介した、義貞クン(と思う)の描かれた絵地図(笑)

また石段を形成する斜面には、「夜二廿」と書かれ、如意輪観音像が刻まれた石塔、見ざる聞かざる言わざるの三猿や観音など、庚申の石碑群が多い。

石段を登りきった先の千手観音堂から見下ろすと↓

この日は幼稚園児達がいっぱい(笑)
これが「千手観音堂」のようだ

この観音堂、彫刻や色彩が鮮やかに美しく残っていて、これ自体いつごろの建築なのか知りたかったが、前回も話した通り、何しろこの円福寺は、史跡として多種の重要な項目が重なり合う寺院跡だから、現地の案内板でも説明する事が多く、建物の説明までは無かった(笑)。
(また出しとくね。前回→2013年2月<「円福寺・茶臼山古墳」(伝・新田氏累代の墓)、1>

お堂の扁額には、凄く凝った象形文字風の字が描かれ、どう読むのかわからなかったが、千手観音なので「大悲閣」だったのではないかと(^^ゞ。

で、この千手観音堂の(向かって)右手に、続いて「十二所神社」の丘陵があり、少し段をあがって行くんだが、千手観音堂のある所が前方後円墳の「前方部」、「十二所神社」のある敷地が「後円部」に当たるわけ(^^ゞ。

十二所神社」のある後円部(パノラマ5枚180度以上)

神社の正面には、生まれたばかりの子供の名前に、誕生日や両親の名が書かれたお札が扉いっぱいに貼られ、今でも地域に篤く崇拝されている様子がうかがえた(^^)。

左、木陰からウッスラと見えるのが、さっきの千手観音堂、一方、神社の右に立つ石碑には「国良親王御陵」と刻字がある。

「国良親王」とは初耳ながら、はじめは、新田義貞とともに北陸に下向した恒良親王(か尊良親王)の別名?……と思ってたら、ネット上すでに調べてる人がいて、後醍醐天皇と新田義貞の孫にあたる親王で、新田荘にいた、という伝説があるんだとか……。
新田義貞の死後、その子の義宗が南朝挽回の戦いをしてる頃に相当しそうだ。

新田義宗(義貞の三男)については、旅の最終日(4日目)に関連史跡に行く(^^ゞ。

ここは古墳頂上に並ぶ三つの神社の中でも、特に歴史的な意義が高いとして、「円福寺境内」と並んで「十二所神社境内」が国指定史跡を受けるのに名があげられているが、 「十二所神社」の創建時代は不明らしい。

ただ、中に16体の神像(30p弱ほどの木彫一木造りで、胡粉を塗った後に彩色が施されているという)が安置されており、そのうちの5体(太田市重文)には正元元年(1259)の銘がある。鎌倉時代だね(^^ゞ。

円福寺は寺として創建されたが、神仏習合の考えが平安時代に進み、中世には、日本の神々を仏教の如来や菩薩の権現とする考えが一般化して、神殿に仏を安置したり、逆に寺院に神々を祀る事が普及した一端を伺う事ができる貴重な痕跡といえる。

さらに5体の内の1体は背面上部に「阿波天神」、背面下部の左右に「右志者為阿闍梨静毫」「現世安穏後世善処往生極楽也」、中央に「正元々年巳未十月五日」の刻銘があり、日付の下に花押が刻まれる。

銘文の「阿闍梨静毫」は、創建時、新田政義(四代:参照→新田氏八代)により仁和寺から招かれた、円福寺の初代住職で、この神像は静毫により生前の安穏と来世の安楽を祈って造像、奉安されたものと考えられる。
(また出しとくね。前回→2013年2月<「円福寺・茶臼山古墳」(伝・新田氏累代の墓)、1>

十二所神社や国良親王御陵の石碑のさらに右には、白い大きな石の鳥居があるが、その先は右の通り、わりと急な坂道。いかにも人工的に盛土して作られた高台という感じで、古墳だなぁと思わされる(^^ゞ。→

古墳の名称は「円福寺茶臼山古墳」「別所茶臼山古墳」「宝泉茶臼山古墳」など複数(^_^;)。

築造時期は五世紀前半頃と推定。墳丘の全長約168m、後円部は直径96m、高さ14m、前方部は前端幅42m(現存部)、高さ9m。

群馬県には巨大古墳が多いと前回、前々回に書いて来たが、ここはその県内でも第3位の規模。市内では天神山古墳に次いで第2位。
(天神山古墳にも行きたかったけど、時間が押して来て諦めた。わりと近くにあるよ(^^ゞ)
(2013年1月<「太田桐生IC」から「生品神社」へ>内

墳丘は二段に盛土をして築造され、川原石による葺石が認められる。中程の平坦面には円筒埴輪が巡らされ、周堀はほとんどが埋まっているが、後円部北側にそのなごりが残る。

さっきの千手観音堂前方部)に戻ろう。

千手観音堂の今度は左に廻って見る(パノラマ2枚)

園児がいっぱいいて(^_^;)、観音堂の前はちょっと居づらかったけど、後で撮った写真を見廻して「あれ? 石幢(せきどう)というのが無いφ(。。)m」と気付いた。

たぶん↑上の写真の↓

←(拡大)これがそうだったんだと思う(^^ゞ。
ちゃんと写せていれば、七角形に七地蔵像が彫られているそうだ。
室町時代の長享三年(1489)己酉十月廿四日(の銘文が幢身にあり、本願主と他八名の名が見れるという。
形式は重制石幢。総高142cm、安山岩製。

「石幢」の歴史についても書かれており、中国では隋・唐の頃から作られ、我が国には平安・鎌倉の頃に伝わり、中国のが八角柱なのに対し、六角柱が多く、六地蔵信仰と結びついて流行したそうだ。

←あと個人的に気になってるのは、この鬼瓦(拡大)。
鬼の髭に見立てた部分が泡立ち波を打って、頭上には跳ねかえる鯱も乗せてる。前回出した本堂の白龍と門前近くの弁財天と言い、全体的に水神の細工が印象的で、水流のイメージが濃厚。

それにしても、色鮮やかな観音堂だ(^^)
(たぶん)「馬頭観世音堂

この一帯は、先ほども言った通り前方墳部で、「馬頭観音堂」はその端(千手観音堂を間に挟んで、十二所神社の正反対側)にある。簡素な建物で、近年建てられたんじゃないかと思うんだけど(^^ゞ。

ただ、この前方墳部の全体の敷地に、「馬頭観世音」と書かれた石碑が四体はあり、「大東亜戦争慶召軍馬供養塔」は字のごとく、軍馬として徴収された馬に対する供養であるから、古くから馬頭観音信仰が行われていたように思える。

新田氏の後は岩松氏がいたわけだけど、江戸期も庚申とか馬頭信仰などが行なわれたのかもね。

江戸期と言えば、安政4年(1857)、木崎宿の画家・角田岱岳が「往古之図」を模写した物が寺の所蔵に残り、寺の東に「釈迦坊」「大日坊」「光明坊」など12の塔頭(小院)が見える。

これは題名通り「往古」すなわち中世の繁栄が伺えると同時に、「出丸要害之地」や「新田由良入道居館要害地」など、かつての城館跡などを推定させる記述も見られるそうだ。
(この寺との位置関係がちょっとわからなかったけど(^_^;))

見終わって、寺を出て駐車場から数歩行くと、付近に檀家の物と思われる(距離から言って(^^ゞ)墳墓があり、いわゆる大中黒紋入りの大きな墓石があるのを見た。
「新田堀口氏先祖供養塔」とあったのは、これも前回、得川義季の墓所で話した、「太平記」に新田一族として名をあらわす、あの堀口氏の子孫サン筋かな……なんて思った(違うかな(^_^;))。
(2013年2月<得川氏・新田岩松氏塁代の墓>内



<大光院門前・大河「太平記」と焼そば(爆)>

さて、これまでは太田市の西部や南部を旅して来たが、いよいよ金山城のある地域(東部)に向かうとしよう(^^ゞ。

冒頭の地図をもう一回出す

↑さっきも出したこの地図、赤は行った所、紫は行ってない所。金山は右上部分が相当する。
先に断わっておくと、金山城跡そのものには行ってない(^_^;)。
この金山は周囲から浮きたって独立した山ながら、わりと範囲が広く、見所も豊富なのだ。

その中で、我々は今回、「大光院」と「金龍寺」を選んで行ってみた(^^ゞ。

まず「長念寺」「受楽寺」(字は省略してるが(^^ゞ)を経て、「大光院」「金龍寺」に至り、さらに山奥に分け入って、「金山城跡(新田神社)」があり、山を出る直前に「玉厳寺」「永福寺」「厳穴山古墳」などがあって、山を出て平野部に入って、「曹源寺(さざえ堂)」に至る……という順路(^^ゞ。

2号線(円福寺付近)から見る金山城
321号線に入って北上

途中何度か「焼そば」の幟を見る。↑
「そういや群馬って、焼そばが名物なんだっけ( ̄ー ̄)?」なんて話題が車内に流れる(笑)。

太田市の町の風景は、都会と田舎が程良く混じってて、観光地には、大層な年季の入った民家が多かった(^^ゞ。
だいたいガラス張り(室内も見えがち)なので写真公開は控えるが、そのまま保存展示できそうな、ちょっと珍しい建物もいっぱいあって、「建替えの時、ただ壊しちゃうだけなんだろうな〜(^_^;)」と、惜しい気分になった。

ウチあたり(千葉の東京寄り)だと、建築様式の云々に関わらず、旧式建物ってだけで希少価値だし、新興住宅街でレトロが流行だから(笑)、何でも保存に廻すだろうな、という気がする所だ。

このゲージ↓新田氏と関係ある?(笑)
金山に到着〜♪

↑こういう物々しい門とか、やっぱ坂東(将門の故郷)とちょっと通じる所がある感じが……(笑)。

で、この通り、到着とは言っても、金山の山頂はまだまだ先で、もっと高い部分が先に見える場所で車は止まる。今いるのは……地図B←この通り、金山のまだ登り口あたり。

ズーン! ここが「大光院」山門(パノラマ4枚180度以上)

「大光院」とは何か……、一言で言うと、天下を統一した徳川家康の以降、新田氏は徳川氏の祖として祀られたので、ここに新田義重の墓所を作ったんだね(^^ゞ。
だから平安・鎌倉は勿論、南北朝の新田義貞とも、その後この地に残った室町期の岩松氏とも、今イチ関係ない寺ではある(笑)。

中に入る前に、ちょいと腹ごしらえをしておきたい(=^m^=)<ムフフ

振り返ると、ド〜ン!とお土産屋さん通りが続く
最初の一軒目(その右カド↑)の店に入ると……
おおお〜昔懐かしい風情満載のお土産屋さん!→
しかも着き辺りの壁に貼ってあるのは……?

(拡大)大河ドラマ「太平記」のポスター!
大河放映が決まった頃の幟だぁ!

それも、足利尊氏(真田広之)でないのは勿論、南朝の後醍醐天皇(片岡孝夫)ですらなく、新田義貞根津甚八)ってトコが渋い!
いや、新田義貞はそれでもメインキャラだからともかく、ヒロイン役が赤橋登子(沢口靖子)でも藤夜叉(宮沢りえ)でもなく、勾当内侍宮崎萬純)ってトコが、さすが地元!!(こんな撮影してたんだね、NHKは!)

このポスターを見付けるなり、お店の人に「よく貼ってますね! 太平記が好きな人は、きっと『ここに来て良かった!』という気分になりますよ! これは貼っておかないとダメです!」と激励したら、お店の人も、

「古いなぁ、と思うんですけど、何かはずせなくて。そう言って貰えて、貼っておいて良かったですっ!!」と感激しておられた(笑)。

他にも、いかにも地元ならではの名産が次々と並んでる♪↓

←(左)ほうとう・上州やきりこみ・新田乃庄かまど蒸し饅頭/(右)南北朝うどん↓
ほうとうや、やきりこみについては→2013年2月<「太田桐生IC」から「生品神社」へ>内

あと土産屋通りで目をひいたのは、太鼓かなぁ……?
なぜかオモチャ類が多く、機械仕掛けの犬のぬいぐるみや着せ替え人形、ままごとセット、乗り物のオモチャなど、昔の縁日屋台に置かれてた子供用玩具がいっぱいある中に、「呑龍子育て 虫きり太鼓」とあって、ちょっと大きい太鼓が中央に置いてあり、周辺に小太鼓がいっぱいぶら下がって、お客さんにも叩かせてくれる。

この店で、地域の飲食店マップ「やきそば散歩道」を貰った(^o^)v
そこに、太田市が焼そばを名物とした背景が書かれていた。

大光院の隣の敷地は、「富士重工業群馬製作所」の発祥地だ。
富士重工とその関連工場には、東北地方から大勢が出稼ぎに来てたから、東北に古くから発展していた「焼そば」がこの人々によって持ち込まれたのだという。

水路が巡らされ石橋が各筋に渡される町
ちょっと大光院から遠ざかったが(^^ゞ→

焼そばは安くボリュームもあり、汁が無いので時間を置いても伸びず、いつも手軽に食べられて、工場で働く人々に受け入れられ、この太田市に根付いた。
戦後の昭和20〜30年代(1950年前後)には、大光院の参道に屋台をはじめ多くの焼そば屋があった。

東北でも、特に秋田県横手市が現在も「焼そばの街」として名乗りを上げ、秋田県横手市静岡県富士宮市、そしてここ群馬県太田市が、「三国同盟」ならぬ「三国同麺」を結んで、盛んに交流を行なっているという(^^)。

お土産屋さんで「一番近くの焼そば屋さんがココ」と教わったお店が開いてなくて、「もっと先かなぁ?」とさらに遠くに足を伸ばしかけた時、おもむろにガラガラと戸をあけて店開き☆ミ
「良かったー(^O^)」と入って、早速、焼そばを注文(爆)。

←「金子九一郎商店」店内
↑ホカホカの焼そば(^。^)ф

店内は↑この通り、壁じゅうにお土産が並び、反対側の本棚にはズラッと本を並べる図書コーナーつきの食堂。
「門前焼そば・くいち」という赤い幟とともに、「門前市本部」なる看板も置かれてた。水曜定休、午前11時〜午後5時。地図Cヤフー

焼そばは、わりと太麺でボリューム満点。チャーシューや芋の塩気と酸味がアクセントになっている。
芋というのが変わってるが、大和芋がここ太田の名産なんだね(^^)。店頭でもいもフライや和風コロッケなど、芋関連のおやつを作って、様々メニューで売っている。

お土産屋さんで貰った食事処の地図入りパンフには、ここも入れて55店舗もの飲食店が載っていて、名前だけでハッキリ「焼そば」とわかる店だけでも、13店舗ある。
実際に焼そばをやってる店は、その倍ぐらいはありそうな気配(笑)。



<大光院>

↑では、改めて入りましょう(=^m^=)。

再び地図B。もよりの駅は、東武伊勢崎線の「太田」駅か、東部桐生線の「三枚橋」駅と思われる(徒歩20〜30分ぐらいかな)。
「太田」駅前には「新田義貞公像」が建ってるそうで、ネット上でも写真を載せてるサイトがいっぱい出て来るが、私らは車なんで駅には行ってない(^^ゞ。

さっきも来た「大光院」山門
この日は「菊花大会」が行われていた

この大光院は、1983年に上毛新聞が選んだ「ぐんま名所百選、名所ザ100」で、第1位に輝いたそうだ(゚.゚)。

慶長18年(1613)徳川家康がその祖とした新田義重(源義家孫・新田氏祖)を追善するため創建した。
(新田義重〜新田氏八代は、2013年2月<生品神社(新田義貞・挙兵の地)、2>内、徳川氏による祭祀は、同<世良田東照宮>内、得川義季〜徳川家康は、同<得川氏・新田岩松氏塁代の墓>内を)

この門は元和元年(1615)に中門として建立されたと伝えられ、「吉祥門」と呼ばれている。
ちょうどこの山門が上棟された日、大坂城が落城した。
徳川方にとってめでたく記念すべき事であったので、徳川家康によって「吉祥門」と名付けられた、と伝わっている。

間口三間、奥行一間の切り妻造りで、屋根は桟瓦葺。
比較的簡素な出来だが、瓦の葺き替え・袖垣の修理の他は、殆ど当時のまま保存され古式をよく残している。
大光院創建期の姿を伝えているといわれる本堂内陣・大方丈・小方丈・庫裡とともに、太田市で数少ない近世初頭の建築物として重要。
昭和47年(1972)に、太田市重文に指定された。

御手水。七五三詣の女の子も(^^)
奥はお釈迦様と阿弥陀様かな?

そして、御手水の大きな水受け石に刻まれるのが……ド〜ン!新田の大中黒紋に左右を囲まれた、徳川氏の三葉葵紋! この二つの紋が並列して見れるのが、ここならでは!という感じだね(^^ゞ。

下で水桶を背負うのが、稚児のように見えるが、この寺の「子育て呑龍」と呼ばれる事と関係あるのかも?
龍は、この辺りでよく見る図案に思えるが、これもここではやはり「呑龍」に懸けられていると見るべきだろう。

徳川家康が先祖・新田義重を追善供養するとして、この大光院を建立する事となると、その初代住職には、江戸芝・増上寺の観智国師四哲の一人、「呑龍上人」が迎えられた。
呑龍は庶民教育に心をくだき、生活困窮者の子供を弟子の名目で養育するなど、その高徳により「子育て呑龍」として、今に信仰を集めている。

以後、大光院は、江戸期を通して寺領三百石、徳川幕府が定めた浄土宗の学問所関東十八檀林の一寺として栄えた。

特にこの日は、「七五三」と書かれた大きな看板が境内の目のつく所に掲げられ、併せて菊花の展示会も盛大に行なわれて、着物姿のお子さんの手をひく参詣客も見られた(^^)。

右に鐘楼堂を見ながら、菊花の参道を進む
右の敷地は「呑龍公園

あの何となく城っぽい感じもする、変わった滑り台(など組み立て遊具)も新田絡みなのなぁ(^_^;)、と写してみたんだが、理由はよくわからない(笑)。
地図では大光院に隣接するこの広場は「呑龍公園」とあり、大光院が「子育て」の寺なので、祈祷や参詣に連れて来られた子供が、「お寺なんかつまんないよ!」とか言い出した時、遊ばせる場となってる感じもした(笑)。

この公園の片隅に、「旧中島飛行機鞄ロ龍工場と中島知久平」という説明版が出されていた。
中島知久平は、さっきも「焼そば」で少し話に出した「富士重工業」の創業者で、「飛行機王」としても知られ、この公園のさらに右、道路を隔てた工場が、「富士重工業梶vの「群馬製作所・発祥地」であるからだ。

←(拡大)何か城っぽい遊具(笑)

中島知久平は、明治17年(1884)1月17日、尾島町押切で農家の長男として出まれた。
海軍機関学校を卒業し、海軍機関大尉まで昇進したが、民間での飛行機製造を志して退役、「中島飛行機」の創立と経営に当たった。

ここには、大正6年(1917)に尾島から「飛行機研究所」を移し、9名程の同志と創業して、「中島飛行機製作所」と改めたのが前身で、ここで出世機「中島式四型6号機」が製造され、大正8年(1919)10月の第一回懸賞郵便飛行機の名声を一気に高めた。

やがて太田市街の東端に新工場が完成してからは、ここは「呑龍工場」(現北工場)と呼ばれた。

中島知久平は、昭和5年(1930)2月、衆議院議員に当選し政友会総裁、商工政務次官、鉄道大臣(後に商工大臣)などを歴任。同24年(1949)10月29日、脳溢血で急逝、多摩霊園及び押切の徳性寺に眠る。行年66。法名は知空院殿久遠成道大居士。

案内板には、1958年〜69年に生産された「スバル360」(総台数392,016台)、1946年〜68年「ラビットスクーター」(637,895台)の写真も載せられていた。

←いよいよ参道正面の「本堂」に到達。
↑「本堂には「新田寺」と掲げられている。

新田寺」の字は尊超法親王の染筆によるもので、名は寺名の「義重山新田寺大光院」からだろう。
名の通り、新田氏初代・新田義重に由来し、そもそもこの「大光院」の名も、新田義重の法号「大光院殿方山西公大禅定門」による。

この堂の中央、須弥檀上に安阿弥快慶作の本尊・阿弥陀仏が安置され、脇檀には新田義重徳川家康秀忠家光歴代上人の像を祀られているそうだ。
(新田義重〜新田氏八代は、2013年2月<生品神社(新田義貞・挙兵の地)、2>内、徳川氏による祭祀は、同<世良田東照宮>内、得川義季〜徳川家康は、同<得川氏・新田岩松氏塁代の墓>内を)

この本堂は、大正14年(1925)に大改修を加えているものの、先ほどの吉祥門と同様、慶長18年(1613)の創建時の姿を伝えているといわれ、近世初頭の貴重な建築物である。

本堂の左手には……

開山堂」がある。内部は撮影禁止なので……
鬼瓦を見てくらはい(^^ゞ

案内板には「昭和8年(1933)67世・實譽上人の代に落成」とも「13間四面鉄筋コンクリート造り」ともある一方で、「桃山風建築」ともあって、丸きり新規の建物なのか再建(あるいは再現)なのか、ちょっとわからなかった(^_^;)。

が、持参の歴史観光ガイドには、この「開山堂」を「昭和の物」と紹介しているから、これのみ新しいのかもしれない。

こちらには、正面の壇上に、「呑龍上人自作の尊像」が安置されており、毎月1日、8日、15日が御開帳日となっている。
この日は1日だったから、ちょうど御開帳だったんだね(゚.゚)。

堂内は撮影禁止のため写せないが、ここの大きな賽銭箱にも、新田の大中黒紋が入っていたよ(^^)。
御守コーナーには、椅子に座す姿の呑龍上人を御影とした、息災延命や家内安全の守札が見られ、「交通安全」や「学業守」といった一般的なものもあるが、やはり「身代守」「子育守」「安産守」と、出産や子育てに関わる祈祷が多かった。

カメラは堂内を避け、その裏手や周りを……
キョロキョロと何を探しているかと言うと……

実は、「新田義重の墓」を探している(^_^;)ゞ。
さっきの「本堂」に、「脇檀に像が祀られている」と書かれてたので、その像に追善供養の証があるのだろうけど、これも持参の歴史観光ガイドには、「西北の上段に新田義重の宝篋印塔と、江戸前期の忍藩主・阿部氏と伊勢崎藩主・酒井氏の建てた石燈籠がある」と書いてあるので、やっぱ墓所があると思ってたんだが……。

「開山堂」と「本堂」を繋ぐ長い渡り廊下(パノラマ3枚ほぼ180度)

また「本堂」↓まで戻って、さらに右の方丈や庫裡を見回す(パノラマ5枚180度以上)

どこも奥に入れそうな所には、建物が立ちはだかるか固く門が閉ざされ、とても一般人が入れそうな感じじゃない(^_^;)。。
「この感じは、昨日の世良田東照宮の奥之宮(本殿)に入れなかった感じに似ている(^_^;)」と思いつつ、渋々と撤退した。ただ、今思えば……、

渡り廊下の下に「弁天堂入口」
(拡大)↓どうもここが怪しい(^_^;)

ここを潜って、まず「弁天堂」をお参りし、その左に幟が数本見える辺りに、墓所へ続く道(か階段)があったんじゃないかと(^^ゞ。
ここに何の道標も無かったので見過ごしてしまったが、ネットでは、ちゃんと墓所に辿り着いてる人もいるので(^_^;)、やはり「新田義重の墓」はあるようだ(笑)↓

新田義重の墓大光院@「口コミ百選プラザ(太田市の企業協力による口コミ情報サイト)

他に開基「呑龍上人の墓所」というのもあるようだ。いずれにせよ江戸時代の物ではあろう(^_^;)。
……もしかしたら、今は公開してないとかいう事がある??

群馬県と言うと、前に沼田城に行った時、真田氏の名胡桃城の城代・「鈴木主税の墓」を探しに行ったら、お寺の住職さんが、「今この墓が本当に鈴木主税の墓か疑いが出たので、標識と案内板を外している」とご説明を受け、親切に徒歩で墓のある場所に案内して頂いた事がある。
(2005年1月<沼田・正覚寺>

そういう事が新田義重の墓にもあるのかな〜(^_^;)。一つ思い当たる事があるとしたら……。

これは「生品神社」の義貞クン入りの絵地図の周囲に並んでた史跡の写真→
絵地図にあった場所を、地図で特定すると、だいたい、地図D←この辺かなぁ?

前回の最後、円福寺の「伝・新田氏累代の墓」で、新田義貞の墓の話に言及して、「旅行から帰ってから、世良田の傍の利根川流域で、伝承の墓とされる場所があるっぽいのを見付けはしたけど……」と書いたが、どうも義貞ではなく、義重の墓だった気がする(^_^;)。(2013年2月<「円福寺・茶臼山古墳」(伝・新田氏累代の墓)、1>

↑この写真で見る感じ、確かに徳川町の方が古そうではある。そちらが本物の墓の可能性が高まったとしても、ここ大光院は大光院で、「後世に徳川氏が先祖の追善供養のため建てた墓」と断り書きを入れれば、公開して差し支えが無いと思うけど……(^_^;)。

(新田義重〜新田氏八代は、2013年2月<生品神社(新田義貞・挙兵の地)、2>内、徳川氏による祭祀は、同<世良田東照宮>内、得川義季〜徳川家康は、同<得川氏・新田岩松氏塁代の墓>内を)

「新田義重の墓」は残念だったけど、この日の大光院は「菊花大会」が見れたのが良かった(^^)。
やはり渡り廊下付近に立つ、ミニチュア五重の塔。その屋根の上に、小さな菊花が可愛らしい(^^)

今一つ、持参のガイドにあった、「忍藩主・阿部氏と伊勢崎藩主・酒井氏の建てた石燈籠」というのも、さっきの弁天堂など裏手にあるのか……。
そう言えば、この開山堂と本堂の間に、見事な巨大石燈籠や、石燈籠の1/3ぐらいの高さながら、やはりかなり大きい鉄燈籠があったが……↓

(パノラマ4枚180度以上)

鉄燈籠(右の方、本堂とテントの前、色が暗くてわかりづらいけど)などは古錆の色濃く、かなりの年代物に見えた。説明版など見なかった気がする。ちょっと残念(^_^;)。。

←こちらは鶴と亀に見立てた菊花

 
七福神
七草寺
@ 長念寺 恵比寿 なでしこ
A 受楽寺 大黒天 はぎ
B 大光院 弁財天 くず
C 金龍寺 毘沙門天 ききょう
D 玉巌寺 福禄寿 ふじばかま
E 永福寺 寿老人 おばな
F さざえ堂 布袋尊 おみなえし

この金山地区のお寺で、「上州太田七福神」と「七草寺」というのをやってて↑、「七草寺」は、「秋の七草」に各々の寺を当てはめる趣向のようだ。

上の表の今Bにいる。大光院は、渡り廊下の下から行けるようになってた、あの「弁天堂」に弁財天が祀ってあるんだろうね(^^)。あとCFに行くよっ(^o^)。



<金龍寺>

↑曹洞宗「太田山義貞院金龍寺」。新田義貞の法名「金龍寺殿眞山良悟大禅定門」によるといわれる。本尊は釈迦牟尼仏。

先に説明しちゃうと、新田氏の郷里(或いは「その近く」)で、唯一「新田義貞の墓」がある(或いは「あった」)とされる寺。

ただ、これも「墓所」と言うより、「大光院」が、徳川氏によって「先祖・新田義重の追善供養所」とされてるのと同じく、横瀬由良によって「先祖・新田義貞の追善供養所」としてるのだと受け取ればいいかと(^^ゞ。

金龍寺は、大光院から殆ど隣の敷地と言っていい距離、車だと僅かに登った所にある。
登り道の左手の斜面いっぱいに墓苑の並ぶ、大きな駐車場があり、そこに車を停めて、入口を目指す。

到着。金龍寺地図E)の門前(パノラマ4枚180度以上)

この横瀬(由良)氏については、金龍寺の「寺伝」と横瀬氏の「家伝」に殆ど食い違いは無いが、史実性については、ちょっと気を付けた方がいいのかもしれない(^_^;)。
まず寺伝によると……。

元享元年(1321)、新田義貞が国家動乱の鎮護の念により開いた禅林(精神作興の道場)。
延元三年(1338)、越前国藤島で戦死した新田義貞の菩提を弔うため、応永五年(1398)、新田岩松系の岩松三河守源満純が、諸堂を建立し開基した。


↑これが始まり、という事になる。

新田義貞の死後10数年を経て、足利尊氏は1347年、岩松直国に「新田荘由良郷」を、1350年、岩松頼宥(同一人物?)には「新田荘安養寺義貞跡」を与え、義貞の菩提を弔う役目を果たさせている(現在の明王院が相当する)。

だから、岩松氏が新田義貞の菩提供養を行なった、という話はあっておかしくない。

ただし、私の知る限り、新田氏と新田義貞に関係する寺社と言えば……。

・新田政義が開基した寺で、前回と今回に渡ってお届けしている「円福寺」。
・前回レポで、義貞挙兵時に現れる「生品神社」。
・同じく新田氏が深く関わり、その後も土地に続いた「長楽寺」。
・同じく義貞の頃に館があったと推定され、挙兵時、「天狗山伏」を生んだと伝承され、義貞の菩提を弔うために建てられたと見られる「明王院」である。

この「金龍寺」の名が確認できるのは、戦国時代の横瀬由良)氏の菩提寺(金竜寺)としてのみだった(^_^;)。

階段を囲む楓の森が
とんでもなく美しい登り口(^^)

この階段を登る途中、地元の方が「ちょうど紅葉が始まった所だよ」と御声をかけて下さった(^^)。
このちょっと前ごろから急に冷え込んで、ここは京楓だから葉が小さくて、紅葉の美しさが際立つのだと教えて頂いた(ありがとうございます(^0^))。

金龍寺については、横瀬氏がらみで見たのみだが、この金山全体については、新田義貞の有力家臣に、船田氏についで由良氏というのがあり、由良郷金山に所領を与えられていた事がわかっている。
由良景長の妻(紀氏)の名義で、焼失した長楽寺を再建するための資金集めにも名を著している。

また義貞の挙兵後は、太平記にも何人か由良氏の名が出て来るらしい。
・義貞が越後守護だった時に守護代を勤めた由良氏
・金ケ崎城で戦死した由良氏
・義貞の死後、義貞の弟・脇屋義助に従軍した由良氏
・義貞の次男・義興とともに武蔵で戦死した由良氏……などあるようだ。

が、いずれも嫡流家は滅亡した、という見方が専門家の間にある。

登り切ると、緑の中から本堂や庫裡が現れる(^^)(パノラマ3枚ほぼ180度)

この由良氏が武蔵七党の丹党の出自であるのに対し、戦国期に金山城にあった由良氏は、同じく武蔵七党でも「猪俣党横瀬氏」と言って、両由良氏に「系譜的な繋がりは無い」と見られる。

ところが「家伝」には、由良氏はともかく、新田氏とは繋がりがあるように書かれているらしい(^^ゞ。

「家伝」によると、(戦国期の金山城主)由良氏新田氏の出身で、政義由良郷内に住して「由良」を号したことに始まる。

……とするようである(^_^;)。この「政義」とは、円福寺を開基し、「由良入道」と呼ばれた新田政義の事かもしれない。。(2013年2月<「円福寺・茶臼山古墳」(伝・新田氏累代の墓)、1>内

ズラーッと並んで出迎える七福神(^O^)!
案内板の上州太田七福神の絵

この金龍寺は「毘沙門天」で、「秋の七草」では「桔梗」に相当するお寺のようだ(^^)。
登った真正面に「上り来て桔梗明るく金龍寺」と白い字で彫りつけられた石碑が建っていた→

続き。「寺伝」と「家伝」は共通して、以後は次の主張を取っている。

戦国時代に金山城主となる横瀬(由良)氏の祖、貞氏は、新田義貞の子(または義貞の三男・義宗の子)である。

そして「家伝」では引き続き、新田義貞が戦死した時の貞氏は幼少であったが、家臣の横瀬時清の婿となって「横瀬」を称した。

入り婿ですよ、入り婿。そう、徳川家が同じ手で「なので今は姓が違うが、本当は新田氏の子孫」だと称してましたよね(^_^;)。(2013年2月<得川氏・新田岩松氏塁代の墓>内

「太平記」では、新田義貞の遺体は、越前称念寺(戦死地・藤島の北)に葬られているのだが、「寺伝」では、この由良氏初代・貞氏は、その義貞の墓まで遺骨を取りに行かせているのだ。↓

応永24年(1417)、金山城主の貞氏がここを廟所と定め、道元8世の法孫・大見和尚を招いて開山し、越前国足羽(現在の福井県丸岡町)より、祖父・義貞の遺骨をこの地に転葬し、木像を安置して追善した。


では本堂に入ろう。入口が開け放されてる(^o^)!
入って左にぶら下がる輿。江戸時代の物だよね(*o*)!→

この応永24年(1417)というのは、横瀬貞氏が「禅秀の乱」で鎌倉公方・持氏に従った応永23年(1416)の翌年に当たる。この功によって、横瀬貞氏が新田庄内に土地を与えられた事が、「鎌倉大草紙」に記されているようだ。

ところがここは、太田市のHPによると、応永24年(1417)ではなく……↓

近年の研究によれば、金山城の重臣であった横瀬氏が文明年間(1469〜1486)に創建したとする説が有力

と解説している。(金龍寺の由良氏五輪塔並びに新田義貞公供養塔太田市
なぜ「文明年間(1469〜1486)」が有力なのかは知らないけれど、金山城の築城年代は、1469年、岩松家純の命によるので、それに沿って推測できるのかもしれない。

じゃ遺骨を取りに行ったのも、そんな後なの?と思わずツッコミを入れそうになる(笑)。

話の内容とは裏腹に、室内装飾と言い
仏具仏像と言い、素晴らしく美しいお寺♪

まぁ「新田義貞やその三男の義宗の子から出た」と言う主張は置いといて( ^^)//、「家伝」を振り返る事にすると、初代・貞氏から、戦国期の国繁・成繁までを……↓

貞氏−貞治−貞国−国繁−成繁

としており、貞治の代から、岩松家純より以降の岩松氏に代々仕えた、と言ってるようだ。

この主家たる岩松氏というのは、上杉氏と鎌倉公方の間にあって、土地柄的に上杉氏寄りながら、途中から古河公方成氏に寝返る(笑)。
謙信の出る頃の上杉氏と、氏康・氏政の出る北条氏との抗争の時代になっても、だいたい同じような経過で、最後は北条氏の側に拠っている(^_^;)。

そしてよくある構図の通り、この岩松+横瀬の主従の間には、お家騒動など通しつつも、だんだんと下剋上の風が強まり、横瀬国繁成繁の頃になると、主家たる岩松氏を超然と凌いで、最後の方の岩松当主・昌純も、その次の氏純のどちらも、横瀬氏の圧迫に堪えかねて自殺してしまう(^_^;)。(岩松氏は存続するけど)

本堂を出ると……嗚呼、庭園も美しい(#^.^#)(パノラマ3枚ほぼ180度)

金山城主の地位にのしあがった横瀬氏も、武田・後北条・上杉の強豪に囲まれてスッタモンダ揉まれ(^_^;)、1585年に後北条に追われて、桐生に退去。金山城には後北条氏の城代が置かれ、1590年の小田原征伐で廃城。
横瀬氏は他の関東の武将らと同様、この小田原征伐を期に国替え、常陸国の牛久に行く事となる(2008年7月<牛久城跡、2>内

以後は素直に「寺伝」に従って良いかと(^^ゞ。

(金龍寺は)横瀬氏の菩提所だったが、天正18年(1590)、最後の金山城主、横瀬信濃守国繁は、常陸国牛久(現在の茨城県牛久町)に移封され、寺も寺僧・寺宝ともに移り、ここには建物、木像、墓のみが残され荒廃した。
一方、牛久に移った寺院も、その後、竜ヶ崎市にうつしている。

慶長年間(1596〜1615)、館林城主となった榊原康政は、金龍寺の荒廃を惜しみ、田畑八町余りを寄進して、寺の再興を図り、以後寺運栄えて今日に至った。
本堂裏手にある、寛永14年(1637)銘の義貞公供養塔と、長享二年(1488)銘の横瀬国繁以下由良氏一族五輪塔九基は、昭和49年に太田市重要文化財に指定されている。

実に残念ながら、この義貞供養塔と、横瀬(由良)一族の五輪塔群には、これまた行けてない(^_^;)。
大光院では、さんざん探して見付けられなかったんだが、こちらでは、左方向に歩いて行けそうな小路が見えてたのに、何となくお寺の住人の敷地を通らないと行けないように思えて、「檀家さん専用?」と思い、行きかねて帰ってしまった(^_^;)。

先ほどの太田市のHPが、良い写真を出して下さってるので、もう一度出しておこう。
金龍寺の由良氏五輪塔並びに新田義貞公供養塔太田市
もっともこれも、横瀬氏が牛久に行った後に整えた場ではあるのだろうが……。

新田義貞の遺骨を取り戻した……というのは、ホントかウソか見当がつかないが、この金龍寺よりさらに北に山を登る金山城跡に行くと、山頂に「新田神社」があるようだ。

現在の金山城跡は「再現」として整備されてるようだから、「新田神社」も近年に作られた社かもしれないが、新田氏の血筋を受けた主家・岩松氏を、下剋上によって押しどけた横瀬氏にとって、新田義貞の子孫を称する事や、自分が主体となって新田義貞を祀っている事は、凄く必要だったのではないかと思う。

足利が天下を取ったために、新田の子孫はよほど日蔭者の扱いを受けていたのかと思いがちだが、実際には足利尊氏によって、新田義貞の菩提を弔うよう命が下され、賊将の傷跡も少しは癒されたのではなかろうか。

むしろ土地の後に続く者らが、「新田への探索を逃れるため、入り婿に入って名を変えた」などと嘘吹いてまで、新田氏子孫の名を欲しがった……という事はなかろうか(爆)。

同時に、徳川家が後に上塗りしたベース部分を、既に横瀬氏が行なっていた事に気づく。
新田義貞までの歴史も面白いが、横瀬氏や徳川氏が、それぞれ新田氏の子孫を称して、この地に栄枯盛衰する過程を読むと、土地の歴史って本当に味わい深いな、とつくづく思う(^^ゞ。

←山門出て、道路を戻るとすぐ、金龍寺の隣(敷地的には一緒かも)に見えたお堂。幟が立ってる所を見ると、これが毘沙門堂だったのかな(^^ゞ。

金龍寺は今回行った旅行の中でも、森にしつらえた石段と言い、庭園と言い、ご本堂とその内部と言い、特に美しいお寺だった(^^)。

さらに先に進むと「金山城跡」への分岐点に出会う
(拡大)標識

金山城跡には行ってないので、畠山義綱さまの金山城レポをリンクさせて頂く(^^)。
写真が凄く見やすく、ちゃんと「新田神社」のレポもされてる♪

2012年7月「金山城〜西城編〜」(群馬県太田市)、其の1
   〃   「金山城〜実城編〜」(    〃    )、其の2
   〃   「金山城〜実城編U〜」(   〃   )、其の3
   〃   「金山城〜ガイダンス施設編〜」( 〃 )、其の4 畠山さま、ありがとー☆

金山は太田市の中で、周りの都市や農風景とは空気からして違う山奥で、山道を運転するのが大好きな亭主は大喜びであった(笑)。

やがて山を抜け出て、向こうにはまた平地が見えて来る→

金山に入る前に地図で説明した通り、山を出て平野部に入る直前に「玉厳寺」「永福寺」「厳穴山古墳」などがあるハズなので、ちょうどその辺りを通ってるか、通り越した所かな(^^ゞ。



<曹源寺(さざえ堂)>

↑に行くには、一旦、金山を背に東に遠ざかってから左折、316号線(東国文化歴史街道)を北上、やがて右に曹源寺。地図F

北上してると、左に金山城がよく見える(^^)

道路の右に曹源寺(さざえ堂)
(拡大)ここは裏門(^^ゞ→こっちに廻る

→グルッと廻って来た(^^)→
→ここが山門

↑左奥に見えるのが「さざえ堂」(^^)。今は南に山門が一つ、南向きにあるが、元は山門が南に二ヶ所、西向きについてたようで、二重の門(手前が山門、奥が仁王門とか?)になってたのかもしれない。

今の山門は、その両脇のガラスケース入りのモニュメントが凄く面白い!(笑)

左には鶏・鼠・龍
右には猿・馬・白蛇

実は鶏や猿の乗ってる台座は、四面全てに動物の絵が描かれている。
上に1点、台座4点、柱に巻き付くのが1点で計6点。柱2本で12点。
つまり左右の二本柱に、十二支の動物が浮き彫り着色されているのだ!

妙味は柱に巻き付く辰(龍)と巳(蛇)で、内部をグルッと回れる「さざえ堂」を表しているのだと、勝手に思っている(笑)。
なかなかのグッド・アイディアで、お寺にしては珍しい斬新な絵柄だと思うが、作者の人の名とか見掛けなかったような……。
もしかしたら、いかにも建築物!という感じに周りを囲まないようにしてるのかな……。

中に入ってから書くが、これはもしかしたら、最後に遭った火事に原因があるのかなぁ……と思ったり(あるいは全然関係なかったり(^_^;))。

山門入ると、早速正面に姿を見せる「さざえ堂
一見、二階建てに見えるが、実は三階建て。
かつては、この「さざえ堂」の前に「鐘楼」があり、改めて「本堂」を囲むように、「書院」「庫裡」「衆寮」「土蔵」などがあったようだが、嘉永4年(1851)に全て焼失してしまった。

祥寿山・曹源寺」は、文治三年(1187)、新田氏初代・新田義重による創建。
今はこの「さざえ堂」しか無いが、元は、新田義重が京都からの養姫である「祥寿姫」の菩提を弔うために建立したという「六角堂」が起源であった。

曹洞宗。本尊は阿弥陀如来……と言うが、今は一階中央・起点の魚藍観音が本尊と書かれるようだ。これも「元は(本堂では)阿弥陀如来だった」という事かもしれない(^^ゞ。

では入ろう。
内部はとても暗く、撮影には適してないが、特に撮影禁止とは書かれてなかった。

堂内には、この祥寿姫の話を記した本のコピーも貼り出されており、内容はだいたい、2013年2月<生品神社(新田義貞・挙兵の地)、2>内に見る通り(^^ゞ。

だが、「頼朝×政子×新田義重」の軋轢とは別に、「その後の祥寿姫」の逸話(土地伝承か創作か)として、「帥六郎(そつのろくろう)という武士と再婚させられた祥寿姫だが、義平(悪源太)を忘れられず、六郎の許を去り、この六角堂で義平を思って生涯を送った」といった事が書かれていた。

また、世良田東照宮や長楽寺の近くにある「清泉寺」は、やはり義重の娘が義平を弔ったと伝わるがあるが、そこでは義平の「未亡人」ではなく、「婚約者」とされてるようだ(^_^;)。

さらに、ボタン寺として知られる「大慶寺」も、義重の娘で義平夫人(ここでは「妙満尼」)が1180年に建立したと伝わる。

←奥まった空間にズラリと並ぶ仏像にも
↑手すりと通路が巡らされて近寄れる

創建後は、新田一門の祈願所でもあったというが、「新田氏・横瀬(由良)氏に崇拝された」とあるのみで、時代が飛んで江戸時代になってしまう。
……が、手元の資料では、横瀬氏二代・貞治が葬られたのが、この曹源寺という事になってるようだφ(。。)m。

で、江戸時代の初めに焼失。
寛政五年(1793)の造営が、「当時の火災のあとに再建」とあり、この「さざえ堂」はその時に、「観音堂」として13年かけて造営された。

←ミシミシ音がする。香りも濃厚な古い木造階段。
↑比較的明るい三階。地蔵菩薩と聖徳太子像。

「さざえ堂」の建築様式は、江戸本所五ツ目の名札天恩山羅漢寺の「三匝堂」の構造を継承しており、外観は二階建てに見えるが、木造三層造り。間口、奥行きとも16.3m、高さ16.8m。
大工棟梁は、京都吉田家門下で龍舞の出身の、町田(兵部)栄清

構造上の特徴は、一階正面の本尊・魚藍観音を中心にして、その周りを右回りで三回巡ると、自然と元の位置にもどって礼拝できるように造られている。
ちょうど栄螺(さざえ)の殻の中を歩くようなところから、いつしか「さざえ堂」と呼ぶようになったという。

これは「太鼓橋」と呼ばれる所(パノラマ3枚ほぼ180度)

また、回廊式といって、同じ所を二度通らずに元に戻れ、参詣人が多くても、途中で行き帰りが入り交ることのない一方通行の構造になっている。

これは古いインドの礼拝の形式で、仏教の「右繞三匝(うにょうさんそう)」を建築に表現していて(右回り三回、仏陀礼拝の最高の型であるが、インドをはじめ世界のどこの建築物にもその例をみない、極めて貴重な遺構である。県重文。

←このように、階段も上りと下りが合わさらないよう、横に並行して作られている。
↑こちらの回廊でも同様に、行き帰りの通路が仕切られ、しかも行きと帰りでは段差があり、高低差がジワジワ離される(あるいはだんだん近寄って来る)が、どちらの通路からも、ズラリと居並ぶ仏像が拝める。

このようにして、一階には「秩父三十四観音」、二階には「坂東三十三観音」、三階には「西国三十三観音」の、計百体の観音像を巡拝でき、さざえ堂を一周すれば、百札所の功徳を得られると言われている。

しかし曹源寺は、嘉永4〜5年(1851〜52)に、再び火事で焼失してしまった。
拝観時のパンフに「過去二回の火事で本堂は焼失」とあるので、再建によって作られた「さざえ堂」だけが残った事になる。

中に展示されてた貼り紙に「不始者により」とあった。「不始末者」の事か……。付近の村が十世帯余り焼け、「その事由により再建しない」と口伝えされてるそうだ。

曹源寺が火元だった……という事だろうか。故意でないにせよ、被災した民家に申し訳ないという思いか、縁起でもないという思いもあるからか……。

前回の世良田東照宮でも見た通り、空っ風で知られる上州は、火事が一番恐い(>_<)。
しかし逆手に考えれば、この「さざえ堂」だけが全く焼けなかった、という点も「縁起」と言えるだろう(^^ゞ。
(2013年2月<世良田東照宮>内

現在、埼玉県児玉町の成身院、福島県会津若松市の正宗寺の「さざえ堂」と合わせて、「日本三さざえ堂」と言われている。(2012年2月<会津若松「長門屋・会津駄菓子資料館(飯盛店)」>内
さざえ堂は上州型会津型にわけられ、埼玉県の成身院と、ここ曹源寺は上州型。
規模は、ここ曹源寺が最大で、埼玉の成身院、福島の正宗寺の順。

難しい仏教の経典を解さず、苦しい修行の出来ない者でも、ただこの堂内を巡るだけで、仏の功徳を得られる「さざえ堂」だけあって、お堂の外でも境内のあらゆる所で功徳を積めるシステムを導入している。

まず裏門の扁額に「法雨」とあった。あまねく仏の加護が衆生に及ぶ事を表す。

参道の踏石の下には、西国坂東秩父百観音霊場から頂いた砂を納めて、霊場巡拝と同じ功徳を供している。
さらに庭には、インド聖地ブッタガヤの釈尊足跡の拓本から、仏足跡を刻んだ石が置かれている。

また境内にあじさいが数多い事から、「群馬のあじさい寺」とも呼ばれている。

ここも「上州太田七福神」に含まれ、「七福神」では「布袋」が相当し、「秋の七草」では「女郎花(おみなえし)」が相当する(^^)。

以上をもって、太田市を去る。

墓とか地域指定の重文など、見れるのを宛にして来て、結局見落として去る事が多く(^_^;)、残念な点も多々あった。
もしかしたら「今では歴史的に疑問視されてる」などの事情があって、意図的に案内を出してない所もあったのかもしれないが……。

ただ太田市は、まだまだ寺社や史跡が多く、とても一日二日で廻りきれない(^_^;)。
その事は訪れる前からわかっていた。が、正直どんな場所か全く見当がつかなかった。
それが今回来てみて、ウチら的な旅程を組む上でも、だいぶ雰囲気を掴めたので、また機会があれば来てみたい(^^ゞ。



<里見兄弟の墓(阿弥陀堂)>

これより桐生市に向かう。
今まで居た太田市は、群馬県でも南東部だったが、これより北上して、群馬のほぼ東端に達する。

ちょっと移動距離があるので、途中の風景もお届けしながら進もう(^^)。概ね道の東(右)には平行して渡良瀬川が流れるルートである。

まず曹源寺を出て、50号線(桐生バイパス)の西を平行する316号線を北上。途中から桐生バイパスに合流。

316号線、吉沢(地図G
50号線(桐生バイパス)(地図H

左手に見える大きな山は、その向こう側に大きなゴルフ場が二ヶ所ある辺り。さらに山向こうに、木枯らし紋次郎の「三日月村」パークがある(笑)。

道はさらに真っすぐ行ってるだけだが、道路名かわって122号線(東国文化歴史街道)を北上。桐生町二丁目で右折し、桐生合同庁舎前で左折。

122号線、広沢町一丁目東(地図I
桐生合同庁舎前(地図J

途中から「わたらせ渓谷線」が右に(さらに右には渡良瀬川が)平行して流れる。大間々六丁目で右折。紆余曲折するが道はずっと122号線のまま行き、大間々三丁目でようやく右折、338号線に入り、「わたらせ渓谷線」を越え、渡良瀬川を渡る「高津戸橋」。

↓「高津戸橋」(地図K)を渡ると……
左手に「高津戸城跡」(地図L)→

高津戸城跡」はずいぶんな山の上なので、今回は行かないが(^_^;)ゞ、現在は「高津戸公園」となっており、頂上には「要害神社」があるようだ。

ウチらは「高津戸橋」で渡良瀬川を渡ると、338号線は川を離れて行ってしまうので、高津戸城とは反対方向に右折し、渡良瀬川に沿って南下すると……、

↓森の先端に「阿弥陀堂」←こう入って来てる(パノラマ5枚180度以上)
↑高津戸城跡の山
↑この森の向こう側が渡良瀬川(^^ゞ。殆ど川に沿ってると言えるぐらい近くの道路。

ここは実は「みどり市」になる。殆ど「桐生市」に食い込んでいるが(笑)。
ちなみに「みどり市」は西、「桐生市」はその東で、栃木県に接している。

高津戸城のよく見える森に
阿弥陀堂」と足元の墓石群

地図M←「阿弥陀堂」の位置。
この辺の案内板は「みどり市」の教委が担当してるが、記される歴史は「桐生氏」に関する事だ。ややこしいね(笑)。
ここに関しては、教委の文をそのまま出す(句読点・改行・西暦年・太字だけ入れさせて貰ってる(^^ゞ)

みどり市指定史跡「山田氏および里見氏の墓」 昭和51年5月12日指定

 高津戸城は「後三年の役」(1083〜87)のあと、寛治二年(1088)山田七郎平吉之が築き、その後二百数十年間当地をおさめていたが、南北朝の観応二年(1351)に、山田筑後守則之桐生国綱に攻められて滅亡した。
  凝灰岩製の大型五輪塔および阿弥陀堂内の阿弥陀石仏は、南北期以前の型式であるため、山田氏のものである。

 戦国期に仁田山里見氏を頼って来た房総里見氏里見上総介勝広が、桐生氏によって謀殺されるや、その子、隨見勝政と平四郎勝安は、上杉謙信の援助で、天正五年(1578)5月、高津戸城を再興した。
  翌六年9月16日、金山桐生勢が高津戸城を攻め、夜は逆に里見勢用命砦を攻めた。
  この合戦で平四郎勝安、以下、三十数名が戦死し、隨見勝政は切腹した。
  小さい安山岩製の五輪塔が里見勢の墓である。

この案内では、前半で平安期と南北朝の「山田氏」について、後半で戦国期の「里見氏」「桐生氏」について書かれている。

まず前半。大抵の場合、「前九年・後三年」と書かれても、「取り合えず古くからあると言いたいんだな(^^ゞ」と思っとくのが妥当だが、この近くには、足利・新田の支配地域があるので、源義家以来の継続的な由緒を語っている可能性はあるだろう。

ただし「山田氏」が何なのかはわからない(^_^;)。
ちなみに、さっきも見た新田荘に定着した義家の子孫からは、「山名氏」「田中氏」「新田氏」「仁木氏」「里見氏」などが出ている。

そして中盤、南北朝時代に「山田氏」を滅ぼした、として名の出る「桐生国綱」と、その後の戦国期における「桐生氏」というのが繋がるのかどうかもわからない(^_^;)。。

桐生氏は秀郷流の子孫という話もあるようだが、怪しいという説も聞く(笑)。

←右の奥にある「阿弥陀堂」の中に安置されてるという「阿弥陀石仏」が、南北朝期の「山田氏」の物という事だね(^^ゞ。

一方、手前の巨大な石は、「理正院殿高誉勝政大居士」「義光院殿即到勝安大居士」とあり、献花台には「里見」と大きく刻まれて、里見兄弟の事とわかる。

そして案内板の後半に進むと、「桐生氏と敵対関係」にある「里見氏」が、「謙信の助力を得て城を再興」なのだから、その後に攻め合っている「金山桐生勢」てのは、当然、「桐生氏とその配下」と思ってしまいそうな所だ。

が、どうもこの天正5〜6年(1578〜79)の頃になると、既に桐生氏は、さっき太田市で見た「横瀬由良」に攻略されて、滅亡まではしてないかもしれないが、桐生に居ないか、居てもここでこんな軍事活動してたか、ちょっと疑問もある(^_^;)。。

なので、攻めて来た「里見氏と攻防」しあったのは、「金山」つまり金山城にいる「横瀬由良)氏」に主導されてる「桐生勢」と読む方がいいように思う。

ただ、上に乗って指揮してるのは「横瀬由良)」の息がかかってても、城の中に居て防いでいる武力自体は、「元・桐生氏の配下」かもしれない。

いずれにせよ、先に父の「里見(上総介)勝広」が謀殺され、兄「勝政」は戦って切腹、弟「勝安」も戦死、他、30名の戦死者が葬られている事になる。

(※ちなみに支援者だったという謙信も、この天正6年(1578)3月には既に亡くなっており、房総里見氏の義弘も同年5月に逝去)
(2008年7月「千葉県の動乱」vol2<古河晴氏の反発〜第二次国府台合戦(1560〜1564)>以降)

三十数名の里見勢の墓(パノラマ2枚)

ここには、ともに「高津戸の渡し船場跡」という案内板も建てられていた。

ここは昔、渡良瀬川によって「大間々村」と「高津戸村」に隔てられ、渡し船で往来してたので、「船場」と呼ばれて、銅山街道有数の宿場として栄えた。

明治初年、地元の先駆者、二渡金平・須永宇八氏らが、私財を投じ「高津戸橋」を架橋。これにより渡し舟は廃止となった。架橋には当時の金で「1960円」だったそうだ。それが……↓(地図K

さっきも通ったこの「高津戸橋」なんだね(^^)。写せなかったけど、左右の峡谷が絶景だった。

風景も良いし、ハイカラなムードの街だった。「立体映像歴史民俗・コノベント館」という博物館がレトロだったし、橋渡ってスグの↓

ちょうど踏切を横切った「わたらせ峡谷鉄道」のチョコレート色がお洒落〜(#^.^#)→

ところで、今の里見兄弟の事、房総の里見関係の本に載ってない(>_<)。。じゃ兄弟が頼った「仁田山里見氏」ってのは何者なのか……。

ちなみに里見氏というのは、戦国期の房総に有名だが、その出身地は上州である(^^ゞ。
前回から何度となく出て来る、平安末の新田氏初代・新田義重の子に、里見義俊がいて、これが里見氏の初代である。新田氏八代源氏系図新田氏系図(円福寺」版))

里見氏は長く、上州西部の榛名山の麓(上里見中里見下里見という地名がある)にいたようで、上州には、「新田義貞は里見家から新田氏に養子に入った」とする伝説もあるという。

が、越後にも領地を持つ事から、新田義貞の北陸戦と戦歴をともにするハメとなり、長く流浪したようだ(;_;)。。(2013年2月<得川氏・新田岩松氏塁代の墓>内

しかし関東には鎌倉公方家があり、京の将軍足利氏に対して野心を持って帰属を促したので、里見一族(鳥山・世良田・額戸・大島・大館・堀口・桃井の他、里見姓の者もいた)はこれにいっせいに従った。
その後、戦国期に発展した房総里見氏も、古河公方との結びつきが強かった事で知られる。(2008年7月「千葉県の動乱」vol2<享徳の大乱(1454)>

で、ここ「里見兄弟の墓」にある「仁田山里見氏」と同じ「里見」かは判らないけど(^_^;)、戦国期の桐生市に、「仁田山城」の城主「里見(蔵人)宗連」というのを、手持ちの房総里見氏関係の本に見付けた(^^ゞ。

天文年間(1532〜54)、里見宗連は、子の「里見河内」とともに榛名山麓に逃げて来て、中里見に「雉郷城」築き、箕輪城の「長野氏」に属した。
「里見河内」は、下里見の「里見城」(こちらが本城っぽい)の城主にもなっていたようだ。

ただ長野氏は、永禄9年(1566)に武田信玄に滅ぼされたので、この里見氏もともに没落したようだ(^_^;)。。

だから今言った、房総里見氏の兄弟の父・里見勝広が「頼って来た」時には、この地に居たのかもしれないが、兄弟が父の死後、高津戸城奪還とかやってる天正5〜6年(1577〜78)には、もう先んじて没落してるように思われる。。



<大胡城跡>

↑までが、またちょいと距離だったが、亭主がこのルートを凄く気に入った(^^)。途中の風景が、実にのびやかで爽快だったから(^O^)!
道順はだいたい、122号線に途中まで戻ってから、今度は西方向に353号線(東国文化歴史街道)……までは、写真の地名で確認できる。

左「ぐんま昆虫の森」を抜け視界が拓け(^^)

地図N←353号線(東国文化歴史街道)の「ぐんま昆虫の森」北側。

このあと353号線のままか、途中から……333号線だったか、正確に覚えてないが(ナビの言うなり(^_^;))、概ね、西に進むルートだから、あいにくの逆光(夕陽)タイムで、思ったようには上手く写真が撮れなかった。写真もほんの少しだけね(^^ゞ。

この辺りは広い平原が繰り返し出て来た
左の車窓はエンエン草原(牧場)→

途中だいぶ省略するけど、牧場が多いのか、それっぽい匂いも交じる中(笑)、凄くノビノビした風景が広がって心地よかった(^^)。
そして、いよいよ大胡の街に入って来て……、

荒砥川を渡る
大胡城跡に到着。坂道を登る

一応、案内板が出てはいるので間違う事はないけど、川渡って城跡に近寄ると、突然トンネルを潜る所があって、ちょっとビックリしながら潜って車を進ませる内に、大胡城跡に到着(笑)↓地図O

駐車場に到着。右が本丸方面への道(パノラマ5枚180度以上)

↑の180度反対側↓左=本丸、右=二の丸(パノラマ5枚180度以上)

この大胡城めぐりから先は次回に譲ろう。今回はここまで(^^)。

以上、関連事項は(だいたいね(^^ゞ)
2004年4月<まずは「新田義則(陸)の墓」>内
2005年1月<沼田・正覚寺>
2008年7月「千葉県の動乱」vol2<享徳の大乱(1454)>以降
2008年7月<牛久城跡、2>内
2008年12月<六所神社(柳戸砦跡)>内
2012年2月<会津若松「長門屋・会津駄菓子資料館(飯盛店)」>内
2013年1月<「太田桐生IC」から「生品神社」へ>内以降
2013年2月<生品神社(新田義貞・挙兵の地)、2>内以降
   〃   <世良田東照宮>内
   〃   <得川氏・新田岩松氏塁代の墓>内以降
   〃   <明王院(新田触不動尊)>
   〃   <「円福寺・茶臼山古墳」(伝・新田氏累代の墓)、1>以降




次回は第四弾。
この大胡城跡の続きから、大胡神社、長善寺(大胡太郎の墓)、2日目の宿は赤城山の麓に泊まる。
そして3日目の朝は、赤城山からスタートする(^O^)!

<つづく>

2013年03月30日
 
     






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