<2014年・城主のたわごと8月>




2014年3月「茨城北部編」第3弾は、花園神社からスタート!

常陸太田に戻って、馬坂城に佐竹寺と、佐竹氏オンパレード(^O^)




     
  「茨城北部編」第3弾(^O^)!
前回、3日間のうちの2日目を迎え、西金砂神社(金砂城跡)を見学し、海沿いまで出て常磐道に乗り、北上。
花園神社に到着した所で、今回に譲っている。

今回はこの花園神社から始まり、再び太平洋側に戻って常磐道に乗り、今度は南下。常陸太田にバック。
お話し的には、他ではあまり話す機会が無さそうなので、新羅三郎義光の事をあれこれ見繕ってみた(^^)。

いよいよ本格的に佐竹氏本拠の史跡巡りに入るが、2日目は、そろそろ夕暮れを迎え 馬坂城跡佐竹寺の見学で終わった。
2日目夜〜3日目朝にかけて泊まった、笠間市の温泉地で、次回にバトンターッチ( ^O^)//☆ミ



<北茨城市「花園神社」@滝と渓流>

地図←前回の西金砂神社(金砂城跡)に比べれば、山奥度が深くはないかもしれないけど、金砂山よりスゴく感じたのは、梅花も盛りを過ぎようという時期、ここだけ至る所に見た残雪!

千葉でも今年はかなりの積雪を記録し、なかなか溶けずに残ったが、さすがにこの3月下旬となると、すっかり溶け切っていた。

前回の最後に出したパノラマ構成写真(パノラマ3枚ほぼ180度)

旅に出る前、行く先々の道路をネット地図で見たら、通行止めの事が書いてある物もあったので、市の観光課などに問い合わせたところ、

「通行止め……ですか? なぜでしょう。雪は殆ど千葉と変わりないですよ(^^ゞ」と言われた。
「雪じゃないなら……何でしょう、震災がらみでしょうか」と言うと、
「それは全然無いです!」と強く言われた。(風評被害があるのかなぁ)

神社はこの渓流とともに走る道路の途中にあり、今、正面を通り過ぎて、駐車場まで来ている。
このまま神社に戻らず、さらに林道をいけば、「七つ滝」と呼ばれる渓谷地に分け入るようで、そっちの林を奥に見て「こっちも良さそうだね〜」と言いながら、神社方向に歩いて戻った。

車道の下には清流、脇には残雪が(゚.゚)(パノラマ4枚180度)

ここ花園神社には、これと言って案内板や説明書など乏しく、手持ちのガイドによると、795年、坂上田村麻呂の創建、860年、慈覚大師円仁の開山と、東北によくある寺社とそっくりな由緒だ(^^ゞ。

さらに平安時代、日吉山王大権現の勧請、天台系山岳寺院が開かれ、7年目の磯出祭がある……と、前回の金砂神社と同じだね(^^)。

そして、1180年の金砂合戦頼朝に攻められ、佐竹秀義金砂山より、さらに奥地に逃げた……とされる場所だ。

橋の反対側は山奥の上流から注ぎ込む(パノラマ2枚)

う〜ん、いかにも山間を敵を逃れて辿り着く場、という雰囲気が濃厚だよね(^^)。
車から下りるや森林の匂いと清涼感に包まれ、思わず……うう〜ん>\(^O^)/<セノビ!

前号(7月号)で述べた通り、頼朝の征伐に抵抗した佐竹秀義は、味方(叔父・佐竹義季)の背反によって、立て籠っていた金砂城も危うくなってしまったので、落城前に脱出し、ここに落ち伸びてきた。

ここで、秀義は「山猿に助けられた」という伝説が残る(^_^;)。
これは金砂神社の比叡山からの来歴を考えれば、日吉系、山王社修験者にでも援助を受けた……という事だろうか。
は山王の神使とされる(ちなみに花園神社の近くには、「猿ヶ城」という民宿があった(^^ゞ)。

ただ、ここ花園は茨城県でも最北端に近く、これよりさらに北上すると福島県境、すなわち勿来の関である事も考え合わせて、この先を書いていこう。
というのも、勿来の関あたりにある菊多庄を、佐竹氏の先祖・源義光新羅三郎)が貴族から譲り受けた、という話があるからだ。

↓この水道管がミソ(笑)で、山林を伝って奥に続く
それを追うように丘の裏手に続く遊歩道をいくと、木立に囲まれる山道の風情が素晴らしい(^^)→

ほどなく、また左右に渓流が現われ、橋で渡った先が「花園神社」だが、この辺りの景観が瑞々しくも素晴らしいので、ちょっと停まって辺りを見よう(^^)。

細い山道を割って左右に顕れる渓流と、さらに前に進む橋(パノラマ3枚ほぼ180度)

左には森の奥まで続く渓流↓
右の岩影には、ナント白糸の束ように輝く細長い滝がっ(^O^)!→

石尊の滝」と黒石に刻まれていた。
この滝が、さっきの水道管だったんだね(^^ゞ。
水源は渓流から直接ひいてるわけだから、半分は人工だけど、半分は天然の滝と言えるよねっっ(笑)。

では橋を渡ろう(^^)左の渓流
右には来た道路が木々の合間に見える

さて「菊多の庄」だが、正直、新羅三郎義光の事に詳しくない(^_^;)。
……と言うより、何を読んでも、義光についての事蹟は「確実な史料に乏しい」と書かれるので、そうなんだろう(笑)。

ただ同じ義光の子孫でも、武田氏小笠原氏とは違って、何と言っても佐竹氏となると嫡流であるし、佐竹氏は初代・昌義より前代から常陸に縁があったとも見られている。

それは前九年・後三年の役直後……つまり、昌義の祖父・新羅三郎義光に遡ると考えられる。
なので、面倒でも始祖・義光から話すべきだろう(^_^;)。

そこで、あまり知らないなりに、義光エピをあれこれ見繕ってみた(^_^;)。
以後、5段に渡って話を展開してみようと思う。

渡って振り返ると、滝が中央に見える(^o^)v(パノラマ4枚180度以上)

◆義光@、官職を捨てて兄・義家の援軍に駆け付けるの段◆

↑「後三年の役」(1083〜87年)の時である。

前九年の役」では、源頼義が、出羽国・仙北三郡に基盤する清原氏の参加を得て、陸奥国・奥六郡安倍氏と、その婿・藤原経清らを追討した。
頼義の嫡男・八幡太郎義家も武勇を示して、父子ともに功績を認められた。
(詳しくは2010年1月<えさし藤原の郷・@「政庁」>内以降を読んでね)

後年(頼義の死後)、義家は陸奥国司として赴任し、かつては敵であった藤原経清の子・清衡奥州藤原氏初代)と手を組み、かつての同盟相手・清原氏との間に、「後三年の役」を戦った。
(詳しくは、2010年2月号を読んでね)

石尊の滝」改めて拡大
さらに拡大、カッコイイね(^^)

で、いよいよ義光の登場となるわけだが……、
(2010年2月<矢びつ温泉「瑞泉閣」にて、3日目朝!>内←にも書いた事がある(^^ゞ。
義光に相当する所だけ抜粋↓する。


さて、この「金沢柵の戦い」に到って、義家の弟、(新羅三郎義光が来援する。
これも有名な逸話で、義家は「君がここに来たのも、父上(頼義)が生き返られ、いらした証だ。君が副将軍となったからには、武衡・家衡の首は手中にしたも同じ(^^)v」と大いに喜んだ。

義家と義光は協力し、東国の精鋭をもって、この柵の攻略にあたったが、武衡・家衡の防備は堅かった。

↑この義家の言葉は、「奥州後三年記」にあるそうだ。今回は原文も記しておく。↓

「今日の足下の来り給へるは、故入道(頼義)の生きかへりておはしたるとおぼえ侍れ。君已に副将軍となり給はば、武衡・家衡が首をえん事、掌(たなごころ)にあり」

さらに進むと滝は隠れるが、渓流の音がついてくる(^^)(パノラマ4枚180度以上)

家衡」とは、義家が敵として戦っていた清原氏の当主で、「武衡」はその叔父。
義家は、この清原氏を相手に苦戦しており、それを聞いた義光は、官職を辞してまで兄を助けるべく戦陣に赴いた……とされ、美談として多くの軍記に語り継がれた。


古くは「源平盛衰記」「吾妻鏡」にもあるそうで、「吾妻鏡」では、富士川の合戦において、兄・頼朝の元に駆け付けた弟・義経のことを、「今の来臨もっともかの佳例に協う」と、この故事を思い起こして描かれている。

ただ、「官職を辞してまで」と、自発めいた表現は誇張で(笑)、「為房卿記」という当時の日記には、「解却せらるなり」と、義光が左兵衛尉を「クビ(解任)」にされた事実が伺える(^_^;)。

それでも解雇の理由は、謀叛・無能・怠慢・私利私欲にあるのではない。
同日記にも、「身の暇を申さず陸奥に下向す、召し遣わすといえども已に参り対さず、よって……」とあり、「無断欠勤(無断下向)」をあげている。

兄の苦戦を知って、暇乞いの許可など待っていられなかったのなら、それも兄思うゆえの美談とは言えよう。

←小滝の連続する渓流が続いて、長くサワサワと心地よい水音と連れ立ちながら、さらに小径を進む。

それと、実はこの一年前、義家の弟で、義光には兄である、賀茂二郎義綱に対し、朝廷で奥羽への派遣が検討されていた。

この派遣検討も、やはり貴族の日記(「後二条師通記」)に見付かるそうだ。

(源)経基−満仲┬頼光(摂津)−頼義┬(八幡太郎)義家┬義親−為義−義朝−頼朝
          ├頼親(大和)    |           └義国┬義重(新田)
          └頼信(河内)    |                └義康(足利)
                        ├(賀茂二郎義綱 ┌義業(佐竹)−昌義−隆義
                       └(新羅三郎義光-┴義信(武田)
(八幡太郎義家より先は、詳しくは源氏系図を(^^ゞ

これは、既に陸奥に下向していた義家が、清原氏を相手に独走(暴走)しだした事を懸念して、義家の弟(義光の兄)義綱を対抗馬として候補に挙げた、と見られている。

つまり、後三年の役における義家の戦闘行為は、功を認めるどころか、朝軍の司令官とは認められない「私闘」と見なされ、むしろ朝廷政府(貴族社会)が警戒感を強めた事と合わせ見る必要がある。(2010年2月<中尊寺・参道、1(八幡堂)>内


新羅三郎義光の話は、続きます)



<「花園神社」A楼門から拝殿まで>

という内に、「花園神社」に到着(^O^)(パノラマ2枚)

まずは、この右にある大きな杉を撮影(^^)。
これよりいく拝殿の左50m先に、これらと同じ樹齢で、地上10m上で三つに分かれる「三本杉」のある事が、看板に出ていた。

どれも根元から見上げて写したので、一息には入らず、縦状に2〜3枚のパノラマに繋いで作った(^_^;)↓

樹齢700年からなる巨大な杉がいっぱい。根元が合体してる物、大きな瘤のある物

今回、初めて義光の生涯を通して見たら、この義綱という次兄が、後三年の役より前から既に、京の朝廷や貴族どもに嘱望を受け、長兄・義家に対して立ちはだかった事は、義光にとっても後々、小事で済まなかったのかな……なんて、ふと思った。

このことは後述しよう。


それゆえ、義家の応援をする義光の下向にも、簡単に許可など出ないと踏んで、解雇を覚悟の上で、敢えて許可願を出さなかったとも考えられる。

ところで、「吾妻鏡」も認めた兄弟愛の故事でありながら、富士川合戦の後、義光の子孫・佐竹氏を、義家の子孫・頼朝(と義経)は征伐するわけだ(笑)。
さあ!兄弟とその子孫たちの間に、何があったのだろう(≧▽≦)!!


道路から先ほどの渓流を渡る橋を経て、石段を上って来るのが見え、門を潜って境内に入る。
←1792年に建てられた立派な楼門
神社は1602年に、徳川家康が50石を寄進。明治の神仏分離で廃されて神社となるまで、神仏混合の寺でもあった。

◆義光A、助けた兄・義家に言い負かされるの段(笑)◆

これも「後三年の役」である。戦争が終わりに近づき、金沢柵の陥落した様子を(2010年2月<磐井川〜衣川>内に書いた。↓は義光に関するトコのみ抜粋


その前に武衡は、新羅三郎義光に話がしたいと呼び出したが、義家は他の者を遣わしている。
こうした城中との遣り取りで、落城のタイミングが読めたのではなかろうか。

武衡と家衡も、義家の強硬な姿勢を感じ取ったのだろう、柵に放火して、しぶとく逃亡を企てた。
武衡は城中の池の中に隠れていたのを、見付かって捕らえられ、家衡は下郎に扮して逃亡途中、「次任」という者に殺され、首級のみ持ち込まれた。

これらは「後三年の役」を書いた「奥州後三年記」の記述だが、後世に書かれた物なので、「前九年の役」の戦後ほどなく書かれたと推定されている「陸奥話記」に比べると、史実性が高いとは評価されてない。

……と断った上で、今回は義光の登場シーンのみ、少し詳しめに書こう。


楼門を潜って入ろう。
奥にも赤い社殿らしきが見えている→

↑この楼門の一階部、入口の両脇に、これまた真っ赤な仁王像が二対で立っている↓
潜ると、さらなる階段。下に残雪、上に社殿→

まず、清原武衡は義光を金沢柵の内部に招き、真意を説明したいと申し出たようだ。
これは、途中から参陣した弟の義光の方が、戦前からの経過事情に詳しく、戦争中もさんざん互いに罵り合った兄の義家よりは、怒りや恨みの感情が強くないと見越して(ある意味、見くびって(^_^;))、名指しした、とも見れなくはない。

ところが、この武衡と義光の面談からして、義家は「ダメヽ(`Д´)ノ!」と許さなかった(笑)。
そこで義光の郎等から、「藤原季方」という勇者が、義光の名代として武衡と面会した。

この「藤原季方」は、義家が「剛の座」に常に座らせた(2010年2月<矢びつ温泉「瑞泉閣」にて、3日目朝!>内、戦いの功者として名を知られた者だが、もしかすると、この後に出て来る「滝口季方」と同一人物だろうか(^_^;)? (「滝口季方」については後に書く)

←拝殿に着く。
↑(拡大)唐破風の内に施された、驚くほど華麗な装飾。
手持ちガイドには「拝殿建築は、嘉永四年(1851)」とあるが、江戸末期にしても、間近な渓流の湿気や山奥の風雨に曝されながら、この保全状態の良さには驚かされた(゚.゚)。
しょっちゅう修復を施して維持してるのかな……。

懸魚に隠れてる裏側もちょっと失礼して撮影
なんといってもこの鬼瓦!

佐竹秀義が助けて貰った、という山猿の面が象られている。しかも金色
山王系の神社って他でも行った事があったけど、こんなにハッキリ猿を真正面から打ち出している工匠って、見た事無い(^_^;)。

……ふと思ったのは、佐竹は越後の上杉謙信と同盟し、謙信の死後も、戦国期の最後まで後北条勢力に抵抗しつづけていた。
殆ど「風前の灯」ってほど、近くまで地図が塗り潰され、迫られていた。

そのとき、豊臣秀吉が劇的に現れ、小田原征伐で後北条氏を撃破・滅亡させてくれた。

秀吉も「猿」だったよね(笑)。
だから、そんな佐竹氏にとって、「猿」は本当に金色に塗りたくり、純金で造営しても惜しくないほど、ありがたい神使いだったのかも(^_^;)。。

……もっとも今ある建物は、そんな佐竹を、遠い秋田に追いやった徳川時代の物だけどね(爆)。

向拝に入り込むと二匹の龍が(゚.゚)
四隅には和歌を奉納する彩色の額(^^)

滝と川流れの合間に浮かぶ色とりどりの紅葉、ああ〜さぞ綺麗だろうねっ(≧▽≦)
春や秋の草花の透かし彫りの木額もあって、どちらも和歌を奉納しているようだ(^^)。<良いねぇ

……話が途中でゴメン(^_^;)。続き。

↓隣に建つのは神楽殿のようだ。(パノラマ2枚)

そして結局、武衡は捕えられ、義家に死刑を申し渡されるわけだが……、

2010年2月<平泉到着(^O^)! まずは「わんこそば」!(爆)>内


結局、清原武衡は死刑と決まったが、前もって名指しで何事か打ち明けられるハズだった(新羅三郎)義光は、情が移って、「降参を申し出てるのだから、許してやっても……」と願い出た。

これに反論する兄・義家が持ち出したのが、前九年の役で捕らえられ、一命を許されて流刑された安倍宗任の例だ。

「捕らえられずに逃げ切れておりながら、後で罪を悔いて自首して来た者」←宗任はこれだったから許された。
一方、今回は、「捕まっておりながら、命を惜しんでいるだけ」←の武衡はダメ、という事になった。

ここで義光が弁護したトコを、もうちょっと詳しく述べると↓

「降人として捕えられた者を、さらに排するとは合点がいきませぬ。なんとか武衡の命は助けて戴きたい。兵の道において、降人を許した例は古今にもある事で、武衡一人、首を切ろうとするご心底を計りかねます」

←「神楽殿」の方は、マジで真新しかったよ(^_^;)ゞ
大きな大きな杉の木立の合間から、階段下の建物が見える。

公衆トイレ専用の建物があって、ホテルの一室と思うほど重厚な室内に驚いた!
普通こういう所のトイレって、雨風は防げても冷気は防げず、床が水浸しだったりで、寒々しく湿気た印象があるけど、ここのは外気もシッカリ遮断して、冬も寒くなさそうだった(#^.^#)。

対する義家は、反対意見に出くわした時に出る「爪を弾く」仕草を見せながら↓

「三郎よ、よく聞くがよい。“降人”とは、@戦場から逃げて人の手にかからない(捕まらない)で、Aその後に罪を悔いて自ら投降した者をいう。武衡は戦場で生虜され、自分の命を惜しむ輩ではないか。この行為をどうして降人と呼べるのか。お前は戦を知らぬだけではないか。

義家が好戦的で恐れられたのは事実だが、この手の遣り取りは、感情優先で手ぬるい弟に対し、厳格で高圧に臨む兄という、定例の対比パターンっぽい感じもする(^_^;)。
(2010年2月<平泉到着(^O^)! まずは「わんこそば」!(爆)>内

そして拝殿の後方を上る↑と本殿、左隣→には神泉もあった(パノラマ2枚)

が、単に「虜囚の辱め」とか「武士の情」といった、「捕虜に対する態度・待遇・美徳」に留まらず、「降人の条件」を論じ合っている事は注目できる。

@は、「敵の手を経ず、戦場から独力で逃げ切った状態」が確保できているかどうか。
Aは、「敵の手の内に入る」のも、自発的であるかどうか。

つまりいずれも、敵の手に捕えられてから、「降参」と言うのは「認められない」という事。
それが認められるのなら、最初から戦う意味が無いからだね(^_^;)。戦争は大勢の命を巻き込んで勝敗を決するものだから、と言う事だろう。
中世に進むに従い、こうした刑法も意識とともに変化していくので、注目される点だろう。


こちらがその神泉池。習合時代は弁天など祀ってたのかも(パノラマ2枚)

◆義光B、今度は貴族に忠義を捧げてみるの段◆

中央の沙汰を待たず、身内の事情で勝手に下向して、左兵衛尉をクビにされた義光だったが(^_^;)、後三年の役が終わった1087年より16年後の1103年に、「刑部丞」として上京を命じられていることが、今度は「殿暦」という藤原忠実の日記に顕れて来るらしい。

尊卑分脈には、その16年間に相当する官位として、「衛門尉」「右馬允」「兵庫助」といった、京における役名を充てているので、命じられて上京してる所から見て、常陸と行き来しながらではあろうが、京での猟官(復帰)運動もそれなり成果を上げた、という事かもしれない。

今度は「今昔物語」「十訓抄」といった説話集になるが(^_^;)、白河院の近臣として大層な権勢を誇った、六条顕季(院の乳兄弟らしい)と、冒頭でも述べた「菊多庄」(これが、ここからすぐ北の「勿来の関」周辺)を巡る事件が起きる。

……と言うより、義光が一方的に起こしている(^_^;)。


新羅三郎義光の話は、続きます)



<「花園神社」B本殿>

拝殿の裏は絶壁が差し迫っている(^_^;)↓
本殿へ上がる、かなり急な上り階段。特に日が当らないと見えて、ここには残雪がタップリとへばりついていた(^_^;)。。→

元々菊多庄は六条顕季の所領で、「義光が侵略した」と「十訓抄」には書かれているそうだ。

当然、六条顕季は白河院に訴えたが、どうも反応が乏しいので、幾度も催促したところ、院からは、

「道理は汝(六条顕季)にあるのだが、相手は無法な武士(義光の事)。何をするかわからないので、汝のためにも裁定を控えている。
汝には他にも所領があり、荘一つで困ることはなかろうが、義光にはあの一ヶ所しかなく、その一ヶ所に命を懸けているので、いっそ義光に譲ってはどうか」

と提案して来た。
院にこう言われては仕方なく、顕季は涙をのんで譲状を書き、義光に与えた。
義光は大いに喜び、直ちに顕季に名簿(みょうぶ)を捧げ(家来となる証)、臣従を誓った。


石段途中の古びた狛犬
急階段を上って拝殿の屋根を振り返る

その後のある夜、顕季が伏見の鳥羽殿から僅かの供連れで道行くと、甲冑をつけた武士が5〜6騎、乗車の前後を取り囲み、ついて歩いたので、顕季は恐怖を感じて、供に尋ねさせた。すると、

「夜に御供も少なく退出されているので、刑部丞(義光)殿の命で、警備護衛しています」
と答えた。顕季は改めて、白河院の深謀を知り、感謝したという。

このように、説話にではあるが、平安期に貴族の間に顕れた武士の存在を、所領の確保・拡大に熱心な余り、粗暴な力も奮うが、受けた恩恵は忘れず、義理堅く、臣従への忠義が強い生き物として書かれている。

←本殿に到着(^_^A)
こちらは先ほどの拝殿より19年早い、寛政4年(1792)の建築だそうだ。

ただ、このように後三年の役の後、16年目にして、何の脈絡なくイキナリ六条顕季の所領を襲ったわけではあるまい(^_^;)。

また菊多荘の領有が、下司職などとして差し下される事なく、六条顕季のような貴族と勝ちあっている点は、不思議な感じもする(^_^;)。

いわゆる院の近臣が地方で起こす摩擦の話は、あちこちで聞くが、相手がトップクラスの摂関家や大寺社および、その家族・家司であれば、「身分の低い者の癖に」と言われただろう。

権勢を奮った六条顕季も、そういう脆弱な基盤だったという事かもしれないが、地方の武士と互角というほど低くもあるまい(^_^;)。
この点は、畿内周辺と違い、辺境地においては武士(新興貴族)でも上位の領有権を持ち得た、という見解もある。

ただ佐竹氏が、北部ながら常陸に根を下ろし得た背景に、常陸大掾氏との婚姻関係があったであろう事だけは言うを待たない。


やはり華麗できめ細かい細工に
鬼瓦には猿のお面だ(^o^)☆ミ

↑あまり鮮明じゃないが、猿が3匹いるようだから、三猿ポーズをしてるのかも(^o^)☆ミ

◆義光C、結局地元(身内)の抗争に身を投じるの段(^_^;)◆

まず、義家・義綱・義光の父・頼義が、常陸平氏大掾繁幹平重幹)の子、多気到幹の娘に女子を生ませている。

この女子が、常陸平氏の岩城海道成衡に嫁いで、夫婦して出羽・清原氏に嫡養子に入った。これに絡んで、「後三年の役」が起きている。(2010年2月<えさし藤原の郷・D「大路」「街並み」→出口>内

ただ、頼義自身は常陸に住した記録は見当たらないし、伝承などにその気配も薄い。
本殿には左右におどけた赤ら顔の人形があり、なかなか古風で印象に残った。

下に座す狛犬も、この人形の番犬でも勤めているかのように控えてて面白い(笑)

義光が常陸に根を下ろしたらしい事は、同じく大掾繁幹(平重幹)の子・清幹吉田氏)の娘を、自身の息子・義業の妻に迎えた辺りから推察できる。
そして、この夫婦の間に生まれた昌義が、佐竹氏の初代となる。(いずれもハッキリした経過と年代は判らないが(^_^;))

┌(平)繁盛┬維茂−繁成−(城)貞成−重家−永基−永家−資国
|      |                    ┌清原光頼   ├資長(資永)
|      |                    ├武則┬武衡−女
|      |                    ├女  ├−武貞−真衡=成衡(海道氏)
|      |                    ||  └女  |      ↑|
|      |                    ||   |  |      ||
|      |                    |├吉彦秀武 |      | |
|      |                    |吉彦氏    |      | 婚
|      |                    └女 ┌橘貞頼 |     | 姻
|      |                      ├┴橘頼貞 |     | |
|      |                    橘氏       ├家衡  養|
|      |                       安倍頼時−女     子 |
|      |                              ├清衡  ||
|      |                  藤原(秀郷嫡流五代)経清   ||
|      ├安忠−則道−−貞衡−繁衡−−忠衡−−成衡(岩城氏)−┘|
|      └維幹−(大掾)為幹−繁幹┬(多気)到幹(宗基)−女      |
|                        |             ├−−−−女
|                        |     源頼信−頼義
|                        |            ├┬(八幡太郎)義家
└貞盛−−−維将−維時−−−直方−|−−−−−−−−女└(新羅三郎)義光┐
                         |             ┌−−−−−−┘
                         |             └義業
                         |                ├(佐竹)昌義
                         └−(吉田)清幹−−−−−女


←今度は本殿にむかって右側の人形と狛犬→

さっきの左の人形と狛犬が「阿吽」の「吽」の口をしてるのに対し、こちらはやはり揃って、「阿」の口をしているのが面白い(笑)
常陸平氏は常陸国の南部に地盤し、相当範囲の勢力を保持、嫡流は代々で国衙の大掾職を世襲し、大掾の名を姓にもしていた。

このようにして、義光は常陸の在地を基盤に得て、「常陸介」に任じた事もあるようで(尊卑分脈)、以後の佐竹氏は代々、常陸国久慈郡佐竹郷を本拠地として、戦国期の終わりまで続いていくのである。

義光は、この大掾繁幹とともに、1106年には、兄義家の子で、下野・上野に勢力を及ぼしていた源義国新田・足利の祖)と合戦沙汰を起こしている。

常陸合戦」と呼ばれ、勝敗はどちらにあったのか判らないが(^_^;)、朝廷も問題視し、義光と平繁幹に対しては、東国の国司に裁判のための呼び出しを行わせ、義国に対しては、その父である義家に同じく呼び出しを命じさせているので、大かた「痛み分け」といった結末だったろうと思う。

以後、義光流の佐竹氏と義家流の頼朝にまで至る両家に、あんまり仲が良かったような話は聞かなくなる(^_^;)。。

ただこれで、義家と義光の兄弟の間が不和となった……とまでは結論づけにくい(^_^;)。
この争乱のあった、まさに1106年に、兄・八幡太郎義家は死去してしまうからである。


新羅三郎義光の話は、まだ続きます)



<花園〜常磐道〜常陸太田>

前回、金砂神社から花園まで来たルートを、そっくり元に戻る。

まず花園地図)を出て山道を東に返し、北茨城インター地図)で常磐道(高速)に乗り南下。

前回は日立北インター(地図)で乗ったが、今回はさらにド〜ン!と南まで戻って、日立南太田インター地図)で下りる。初日の最後、「大甕倭文神社」を参拝した時に使ったインターだ(^^)。

花園の渓流を今度は左窓に見て
水沼ダム」(地図)を通る

一昨年(2012年)、群馬県の太田市を旅して、新田氏ゆかりの史跡を幾つか訪ねた。

レポは翌年(2013年)の1月号〜8月号に跨って綴った。
その間の2月号において、新田氏の初代・義国新田足利の祖)、義重(新田の祖)の辺りを表で示した。全部出すとデカイんで(^^ゞ↓そこだけ


  八幡太郎義家
(頼朝、新田・足利の祖)
前九年(1051〜62)・後三年の役(1083〜87)の合間に、「下野守」に任じられており、義家の頃から下野に根拠地を有していた、と見られている。
  義国
(新田・足利の祖)
1142年、足利荘の立荘。
1150年、恥辱を受けた従者の仕返しに藤原実能の邸を焼き払い、罪を問われて、足利に引き籠る。
@ 義重(里見・山名・世良田・得川の祖) 1157年、新田荘の下司職に任じられる。
1180年の頼朝挙兵に際し、義仲や平家方の藤姓足利氏との勢力に挟まれ、自立(中立)を保っていたため、頼朝からの呼び掛けに応じたのが年末まで遅れ、頼朝から叱責される。

@義重の後半以降〜G南北朝の新田義貞までは→(2013年2月<生品神社(新田義貞・挙兵の地)、2>内

太平洋めざして東進し
北茨城IC地図)から常磐道に乗る

この「義国」だが……、「常陸合戦」と、「藤原実能邸、焼き打ち事件」を並べて、「粗暴」「勅勘を被った」と表現されがちだが、記述の誤りがない限り、「常陸合戦」は1106年、「藤原実能邸の焼き打ち」は1150年、間に44年も開きがある(^_^;)。

wikiで見る生年(1091年)を信じると、常陸合戦は義国15歳、焼き打ち事件は59歳。
少年時代と老齢期の騒動に連続性を感じるには無理がある(^_^;)。
が、在地に根を置く根拠として、中央政府との齟齬があるという事なら、共通性はあると言えよう。

何しろ、弟(義光)と、この息子(義国)の間に挟まれるハメになったのが、晩年の義家だ。

さらに義家にとって悩ましいのは、遡る1101年から、嫡子格であった次男・義親(長男の義宗は早世)が謀叛を連発し、勅令を受けた義家が無謀を止めさせるべく差し向けた家来が、むしろ義親の味方となってしまい(^_^;)、ついに義家自身が、我が子・義親を討伐すべく勅を下されていた事だった(汗)。。


(前回に続き)再び常磐道から見る北茨城の海

さらに遡ると、さっきも話した通り、義家と義光には、間にいた義綱(賀茂二郎)というのが、後三年合戦の頃から強力なライバルとして立ちはだかっており、郎等同志の諍いから、洛中で兄弟合戦がおっぱじまりそうになった事もあった(^^;;)。。(これも1091年で、ちょうど義国が生まれる頃)

もう一族のあちこちに亀裂が入りまくって、家庭崩壊どこの騒ぎじゃない(^^;)。
今回は義光の話なので、義家については、「んなわけで、義光との相克にばかり関ズラあってる場合じゃなく、多彩な争乱のゴタゴタの時期に死んだ(^_^;)」とだけ書いて通り過ぎる(笑)。

◆義光D、兄・義家が死んだ途端の超黒幕な暗躍劇!◆

義家が死んだ途端、義光は黒幕として大暗躍を開始する( ̄▽ ̄;)!
私はこれを「一説」として受け取って来たが、これをおおっぴらに「義光=黒幕」とするのは、新しい説ほど「確実視」という勢いを感じる(^^;)。

何をしたか……。義家の後継者に確定していた義家の四男・義忠を、
謀殺(暗殺)した(*o*)。。

前方も坂下から海面が見えて来る
だんだん近づいて来る

以前、(2010年3月<衣関跡・「七日市場跡」>内2←に載せた内容を転写↓

義家の死んだ1106年、義家の次男・義国(新田・足利の祖)と、義家の弟・義光(新羅三郎)の間に「常陸合戦」が起き、1108年にも、義親が討伐されるなど、トラブル続きの河内源氏は、義親や義国の弟・義忠が後を継いで、義親の長子(義家の嫡孫)・為義を養子とし、その成長を待つ事で決着した。

が、1109年、義忠は何者かに殺害された。容疑者として、満仲の弟・満政の三代の孫・重実と、義綱の三男・義明に疑いがかけられた。
重実は捕らえられて調べを受け、釈放されると、残った義明への疑いが増して、その父の義綱自身にも疑いが及んだ。

登場人物が全員「源氏」すぎて、頭がウニになりそうなので、系図を出そう(笑)↓

源経基┬満仲┬頼光(摂津)−頼国−頼綱−仲正−頼政 ┌義親−為義−義朝−頼朝
     |   ├頼親(大和)                  ├義国(新田・足利)
     |   └頼信(河内)−頼義┬(八幡太郎)義家−┴義忠
     |                ├(賀茂二郎)義綱┬義弘
     |                |          ├義俊
     |                |          ├義明
     |                |          ├義仲
     |                |          ├義範
     |                |          └義公
     |                └(新羅三郎)義光┬義業(佐竹)−昌義−隆義
     └満政−忠重−定宗−重宗┬重実        └義清(武田)
                      └重時


遠い地平線に筑波の山々が見えて来て
日立南太田(地図)で高速を降りる

色々と問題の多い(というレッテルの)義家の遺児の中では、義忠は、珍しくトラブル・ネタが無かったと見え、これが後見して、幼い為義(義家の嫡孫で、義親の子)を養育するという路線は、トラブル続きの一族としては安全策だったのだろう。

長男・次男・三男についてもざっと書くと……。
長男・義宗は既に他界。次男・義親は、義家の死の翌年の1107年の末、白河院の命によって、平正盛(清盛の祖父)が追討に発ち、一月程度で討ち取られた。

正盛への異例の論功行賞に対し、当時の貴族の日記に不満が書かれたのを手始めに、義親の死は長く世間に疑問視され、その後20年もの間、次々と「義親が顕れた(実は死んでなかった)」とする事件が相継ぐ。
義親騒動については、2010年3月<衣関跡・「七日市場跡」>内1、2010年5月<「毛越寺」A、南大門跡〜開山堂>内および<「毛越寺」B、「嘉祥寺」跡〜金堂円隆寺「鐘楼」跡>内を)


義親が実は生きていたにせよ、「逆賊」である以上、別の後継者を立てざるを得ないが、三男・義国は、常陸合戦で義光と争い、召喚を受けるような立場だから、後継ぎとするわけにはいかなかっただろう。

その次が四男・義忠だったのだ。


常陸太田の中心地(西)に向かう
程々に都会で程々に田舎かな(^^ゞ

何しろ、容疑者とされた賀茂二郎・義綱は、急転直下、悲劇の真っただ中に落ちた。。

義綱は多くの子息を連れて、近江の甲賀山に篭居し、義明は病のためついて行けず、乳人の滝口季方の宿所に隠れた。
実はこの滝口季方が義明の命令で義忠を襲った、といわれている。

↑と以前は書いたが、wikiの源義光には、義明(義綱の三男)に濡れ衣を着せるため、義光が季方に義明の刀を盗ませ、それを下手人に渡して義忠を殺害させ、殺害現場に刀を置かさせた……とある(・・;)。。。<そうだったんだ。。

それと、この「滝口季方」が、「後三年の役」の終盤で、清原武衡との面談を、義光に替わって行った義光の家人「藤原季方」と同一人物じゃないかな……といった人(^^ゞ。→ここね

同一なら、義光の密命を帯びて、義明の身近に潜入……という事だろうが、「剛の者」として内外に顔を知られた武者だったんだから、身元を偽って潜入というのは無理で、義綱が息子・義明に仕えさせるため、弟(義光)の家人を迎えたって事かな?

里川橋(地図)を渡る。見えてる山は金砂山の方角

朝廷は義綱らの討伐を、14歳の為義にやらせた。為義は家人らを率いて甲賀山に攻め込み、義綱は坂東に向かって謀叛を策したが、為義の攻撃は早く、義綱は出家して降参、為義に連れられて京に戻った。
義綱の男子は降参に反対し、長男・次男・四男・五男・六男が全て自殺。

義綱は助命を願うべく、甥の為義に降参したのだが、長男・義弘は父・義綱に自害をすすめるため、二男・義俊とともに高い樹に登って谷間に転落自殺。四男・義仲も火中に身を投じ、五男・義範は切腹。
六男・義公は後日自殺。


三男・義明も、疑いの晴れた源重実の弟・重時の追討を受けて自殺した。
義綱は佐渡に流罪となった後に殺害され、その後に、義綱らの容疑は冤罪と知れた。

つまり、義綱一族がすっかり根絶やしに殺され尽くした後だったと。。(汗)

新羅三郎義光の話は、もうちょっと続きます)



<馬坂城跡>

↑「間坂城」とも書く。

JR水郡線・始発(終点)「常陸太田駅」(地図)の西側は、南北に佐竹氏の史跡が点在する。
北から南に、「正宗寺」、「太田城(舞鶴城)本丸跡(誉田小学校)」「同二の丸跡(若宮八幡宮)」、「佐竹寺」、「馬坂城跡」。

正宗寺と太田城跡は3日目に廻し、この2日目は「佐竹寺」「馬坂城跡」を見る。

61号線で先に「佐竹寺」に会う
その裏手「馬坂城跡」の丘陵を目指す

手持ちのガイドでは、この丘陵の真ん中あたりに城跡があったので、ナビにもだいたいその辺に印をつけて上って行った。

丘陵に入って行くと、わりとスグ車道から城跡に入れる坂道が見付かるが、車を停めれる所を探してしばらく通り過ぎた(^^ゞ。
専用の駐車場はないが、車一台ていど停められる所があったので停めさせて貰って、城跡には歩いていく。

途中、綺麗な花を咲かせる梅林があった(#^.^#)(パノラマ3枚ほぼ180度)

馬坂城は、佐竹氏発祥の城である。
よって、そろそろ始祖・義光の話も大団円を迎えるわけだが、最後の最後に衝撃の真相!……と、まるで刑事ドラマのような展開(^_^;)。


一説には、義光が源氏の棟梁の座を狙い、弟や家人と共謀して刺客を送り込み、計画通り義忠が死ぬと、口封じのために刺客(鹿島冠者)を殺してしまったとも言われている。

以上↑部分を通しで読みたければ→(2010年3月<衣関跡・「七日市場跡」>内2)をどうぞ(^^ゞ


「弟」は「快誉」といい、これと共謀して送りこんだ刺客「鹿島冠者」は、「家人」とあるが、これもwikiの源義光には「妻の兄」とあって、手持ちの系譜図にも、舅の吉田清幹の子には確かに「鹿島成幹」がいる。→国香流平氏系図

「義光=真犯人」説は尊卑分脈にあるようで、動機については、「嫡流の義忠に権力が集中するのを嫌った」「自分が代わって源氏棟梁となる野心」という。
(もっとも「尊卑分脈」も「後三年記」と同じく、当時史料とは言えないが(^_^;))

そろそろ春の暮色たちこめる中、常陸の梅(^^)。

これ以後、新羅三郎義光の名が中央に日の目を見る事は無くなったという。
……て事は、常陸に逼塞したのだろうが、常陸に地盤できたのも、息子の嫁方・常陸平氏の背後勢力があったゆえだ。

その姻戚による義兄を、刺客に使ったあげく口封じに殺害、……これらは露見したから伝書されてるのだろうから、そうなると、常陸平氏との関係はその後も円滑だったのか……なんとも気になる所である(・・;)。。

後三年の役における若き日、官職を顧みず兄・義家を助けたり、清原武衡の助命を願い出たり、回りを一生懸命に助けようとした義光。
その後、貴族の荘園地を武力で奪い取ったりはしたものの、恩を受ければ、律儀に警固を買って出る誠実な武将の面影。

無論これらは、全て異なる史料にある事だが(笑)、それが晩年、周り全てを利用しまくる、狡猾で残忍な権力欲の鬼に化したという事か、生来の一生懸命さが、陰謀にも顕れたと見るべきか。。。 *唖然*


綺麗な梅の花を、そろそろと後にして(^^)
馬坂」というだけあって、こんな坂を降り、「間坂」というだけあって、“坂の途中”に城跡はある(^_^;)

この黒幕説(義忠暗殺を義綱に濡れ衣→「為義×義綱」の相討ち)が有力視される根底には、各種の貴族の日記(当時史料)が裏付ける、「義家×義綱」の対立図があるのかな(^_^;)。
……としたら、「野心」については、「そんなもんだろうか(^_^;)?」としか思えないが、「義忠=嫡流」へのモヤモヤなら、何となく頷けなくもない。

義家の生前から、兄・義家に対抗するように院や貴族らにもてはやされたのが、次兄・義綱だ。
義家が生きているうちは、こういう義綱を押さえつける力を発揮してくれただろうが、義家が死ぬと、義家の子らでは義綱を押えられないとは思っただろう。

例えば、むしろ義忠が方向変換し、義綱に媚びたり意を受け入れたりすれば、それまでの義光の路線にとって、好ましくない包囲網じみた、圧迫感・疎外感があった、……とかかね(^_^;)?

新羅三郎義光の話は、以上〜)

以上、関連事項は、(2014/12/04に遅れてリンク(^^ゞ)
2010年1月<えさし藤原の郷・@「政庁」>内以降
2010年2月号、特に、<矢びつ温泉「瑞泉閣」にて、3日目朝!>内、および、<磐井川〜衣川>内以降
2010年3月<中尊寺・白山神社〜帰りの参道>内以降
2010年5月<「毛越寺」A、南大門跡〜開山堂>内および<「毛越寺」B、「嘉祥寺」跡〜金堂円隆寺「鐘楼」跡>内
2013年2月<生品神社(新田義貞・挙兵の地)、2>内
2014年7月<1泊目夜〜2日目朝・横川温泉「八幡太郎義家の湯」>内以降


カーブを曲がりきると前方に
(中央・超拡大)筑波山(^^)

筑波山は、この常陸太田では、周りを見渡せるちょっと拓けた所だったら、わりとよく見えた(^O^)。

ただ我々、千葉組は、北から筑波山を見た事があまり無いので、パッと見て「筑波……だよね(^_^;)」と自信無さそうにいうんだが(笑)、頂上のツートップ具合(男体山&女体山かな)に特徴がある。

■富士山と筑波山(2014/12/04遅れてリンク(^^ゞ)
2010年7月<手賀沼と下手賀沼から、富士山・筑波山を>内

2011年10月<真冬の手賀川、白鳥・富士山・筑波山>内
2012年7月<クリスマスの街(^^)>内


……で、今も言ったように、坂の途中から↓こんな階段がついて昇れるようになっており、車道からもわかるよう、「馬坂城跡・入口50m←」と、入口には立て看板もついている。地図

階段を上る、看板はコレね↓
すぐ出会う「薬師堂

この馬坂城は、今まで話していた新羅三郎義光の孫で、佐竹氏を名乗った、初代・昌義が平安末にこの久慈郡佐竹郷に土着し、館を築いて永住したのを始まりとする。

<佐竹氏系図>
義光┬義業−昌義┬忠義(大掾養子)
   └義清(武田)├隆義┬秀義−義重−長義−義胤−行義−貞義┬義篤−義宣-┐
            ├義宗└義清(稲城)                 └師義(山入) |
            └義季                                    |
┌−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−-┘
└義盛−女
      |        ┌義治−義舜−義篤−義昭−義重−義宣−義隆
上杉義人(義憲)−義俊┴義成(天神林)

↑堂内の薬師如来さま(^∧^)<ナムナム

久慈川支流の山田川沿いの低湿地に突き出た平山城で、佐竹氏はまず、この山田川の流域を支配した。

この昌義の代で、常陸奥七郡、すなわち、多珂・久慈東・久慈西・佐都東・佐都西・那珂東・那珂西を、ほぼ支配下に入れたと見られている。

昌義の子で、佐竹氏3代・隆義の時まで居していたようで、隆義はここから太田城舞鶴城)に引っ越した。
……と言っても、太田城って、ここから2キロぐらいかな。そう遠くはないよ(^_^;)ゞ。

馬坂城(地図)、太田城本丸(地図)・二の丸(地図

白梅とともに見下ろす城下は、夕焼けに照らされる田園風景(^^)

馬坂城に住んだ理由は……、わりと住みやすかったんじゃないかな(^^ゞ?

後に引っ越した太田城にも、佐竹が来る前から、藤原秀郷の後裔とされる太田氏(後の小野崎氏)がいたようだし、その前を辿ると、この馬坂城の北で、太田城からはやや西方に「久慈郡衙」跡があり、「長者屋敷」と呼ばれる古代の遺跡(瓦や礎石跡・条里制の遺構などの出土)もあるそうだ。

馬坂城から南を辿ると、「梵天山」があるが、こっちには前方後円墳があるらしく、「久自国造」の祖、「船瀬宿禰の墓」と伝えられている。

またこの馬坂城内にも、縄文時代の「間坂貝塚」があって、全体的に久慈川山田川による恵みが伺える。

先に断崖絶壁の金砂山や、森閑とした山奥の花園神社に行ってしまったから、「佐竹ってどんな忍者軍団?」と思われそうだが(笑)、攻め込まれたりしなければ、平常はこういう便利な所にいたんだろう(^_^;)ゞ。

さらに登って来ると、上は平たい台地(パノラマ4枚180度以上)

↑から後ろを見ると↓森の手前に案内板が立っている(パノラマ4枚180度以上)

また馬坂城は、台地の先端部の約6000uの敷地を、三つの空堀で分断して曲輪を設け、北を「鶴が池」(沼地)、西南を山田川に囲まれた、平山城なりに自然の要害でもあった。

案内板より「実測図」

佐竹氏3代・隆義の頃になると、佐竹氏の勢力は常陸奥七郡を越えて、一部が下総にまで及びつつあった。(それで相馬御厨との問題も発生したんだろうね(^_^;))

隆義が太田城に移ると、その後の馬坂城には、4代秀義の弟・義清が「稲城氏」を名のって移住したり、14代・義俊の子・義成(支流)が「天神林氏」を称して居住した時代もあった。
両氏ともに山入一揆(いわゆる佐竹百年戦争における、反宗家・山入氏側)に与し、佐竹惣領家に反抗し、後に平定された。

<佐竹氏系図>
義光┬義業−昌義┬忠義(大掾養子)
   └義清(武田)├隆義┬秀義−義重−長義−義胤−行義−貞義┬義篤−義宣-┐
            ├義宗└義清(稲城)                 └師義(山入) |
            └義季                                    |
┌−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−-┘
└義盛−女
      |        ┌義治−義舜−義篤−義昭−義重−義宣−義隆
上杉義人(義憲)−義俊┴義成(天神林)

慶長7年(1602)、佐竹氏が秋田へ国替えになると、長く続いた馬坂城も廃城となった。

案内板の方に行ってみよう
案内板と石碑

石碑にはカナ混じりの漢文体が刻みつけられていたが、字の磨滅も写真の写り悪さもあって読みづらく、しかしどうも、この後に通りすがった、近くの「稲村神社」と、これよりいく「佐竹寺」、そして佐竹氏の事(佐竹昌義の事を「下野から来た」と書いてあったような(^_^;))などが、だいたい書かれていたと思う。

←こちらが、その一つ「稲村神社
前を通っただけだが、門前に案内板があったので、由緒を記す。

この社は、久自国造の祖神饒速日命並びに七代天神を奉斎した神社で延喜式続日本後紀日本三代実録などに載っている古社である。
昔、日本武尊が東方征討の折、天神七代の神々を間坂外六ヶ所にまつって戦勝を祈願したと伝えられ、元禄六年(1693)、西山荘に隠棲していた水戸第二代藩主徳川光圀(義公)は、これらの神々を稲村神社に合祀して七代天神宮と称し、社殿を修理し、扁額をかかげ、神宝を奉納し、自ら祝詞を奏上して鎮座祭を行った。
その後も光圀は、たびたびこの社に参詣した。現在の本殿は後に建てられたものであるが、神明造の特色をよくあらわしている。
常陸太田市

先ほどの石碑にあった字にも、「久自国造」「饒速日命」「日本武尊」「源光圀」という字があった。
実は他に、「物部」「藤原鎌足」という字も見えた(これだけで、だいたい何を示そうとしてるかわかる気が(^_^;)ゞ)



<佐竹寺>

↑先ほども通ったように、こちら(地図)のほうが道路(61号線)に面していて、目につきやすい。(馬坂城は→地図


佐竹寺は、寛和元年(985)に花山天皇の勅願により元密上人が開山したと伝えられ、創建当時は現在地から西北西に約700m離れた鶴ヶ池洞崎の峰に建てられ、「観音寺」と称していた。

佐竹氏の初代・昌義が、治承元年(1177)に同寺に寺領として300貫の土地を寄進。
以後、佐竹氏の隆盛とともに寺運も栄えた。

仁王門の外脇から、古めかしい本堂が見える
門の(向かって)右脇に立つ仁王像

仁王門仁王像については、途中に「佐竹寺HP」からの「寄付お願い」を入れてあるので、参照して頂けると……(^∧^)

←同・左脇
↑門を潜って会う狛犬が、どことなくバタ臭い(笑)

その後は鎌倉時代の6代・長義の名が顕れる。

が、佐竹氏については、馬坂城で3代・隆義の所まで書いたので、長義までの間もちょっと書こう(^^ゞ。

まず隆義(3代)は、兄・忠義大掾氏に養子入りした)や子の秀義(4代)とともに、常陸平氏を介して西の平家と繋がりを持ったため、1180年の頼朝挙兵には応じず、頼朝の征伐を受けた事は前号に書いた。
(2014年7月<「金砂城跡」と「西金砂神社」>内以降)

ゆえに佐竹氏の所領は大きく減じ、勢力は後退。
佐竹氏の支配が及んだ跡地の多くが、宇佐美・二階堂・佐伯といった頼朝の与党が、各々、郡地頭となって配された。

門内・境内に入る。中央の本堂に通路が続く(パノラマ4枚180度以上)

だが金砂合戦の後は、頼朝に服した4代・秀義が、1183年の父・隆義の死去を経て、1189年の奥州藤原氏征伐には頼朝の軍に従い、その功によって、佐竹郷など一部ながら所領安堵。家運のみは保った。

(戦後すぐに許されなかった期間があるが、佐竹の背後に奥州藤原氏がいると睨まれていたのではないかと思っている。2009年11月<圓福寺・飯沼観音>内

以後も秀義と、その子(5代)義重は、頼朝および鎌倉幕府への忠勤に励み、1221年の承久の乱では大功をあげて、美濃にも新規に所領を与えられた。

無残にも崩れ斃されている石組、燈籠か狛犬などの奉納と思われるが。。

で、話の途中ゴメン(^_^;)ゞ。
これ、東日本大震災かその余震による倒壊じゃないかな。

さっきも言った通り、それらしき記述が→「佐竹寺HP」に、
灯籠が倒壊、仁王尊像が損傷、仁王門の屋根瓦が崩落するなど多くの損害が生じ、特に、仁王門屋根に崩壊の危険性があり、今修復しなければ仁王門及び仁王尊像を後世に残せなくなる状態」とあり、寄付を募っている。

←境内の隅に佇む石塔群  正面・国重文の「本堂」↓

そして鎌倉時代、6代・長義は、宍戸氏(常陸国の守護・小田氏の一族)から、7代・義胤二階堂氏から妻を迎えるなど、主に鎌倉期の有力な氏族との婚姻によって、せっせと勢力回復に乗り出した。

長義は、佐竹氏の衰運とともに衰えていた、ここ佐竹寺の寺堂を、佐竹氏の祈願所として再興するなど、家とともに寺の復興にも乗り出した様子が伺える。

本堂は、1544年(戦国期)に再建された(パノラマ4枚180度以上)

しかし天文12年(1543)に兵火にかかって焼失してしまい、同15年に18代・義昭によって再建。それが、この本堂である。
又、その時に、佐竹寺は鶴ヶ池洞崎の峰から、この地に移されたのだろう。

史料上この義昭の名を示す初見が、佐竹寺の奉加帳にあり(「佐竹寺文書」「常陸遺文」)、ともに佐竹南家佐竹北家の当主名が書かれている事から、この時代の佐竹氏が、三家によって政務を行っていた当時記録として重視される。

本堂は茅葺屋根・寄棟造で、主屋の周囲にこけら葺の裳階をめぐらし、正面中央に唐破風をあげている。

正面の火頭窓外陣の繋ぎ梁の海老虹梁や組物などに、今も桃山建築(戦国後期)の先駆としての様式を残している。

江戸の元禄時代、徳川光圀によって、内部の柱を取り除くなどの大改造が行われた。
明治39年(1906)に、この本堂は、国指定重要文化財に指定されている。

建物もスゴイのだろうが、天井や壁いっぱいに貼られたお札が(*o*)!(パノラマ縦4枚ほぼ180度)

佐竹寺は、「妙福山明音院」と号し、真言宗豊山派。
本尊は十一面観音で「北向観音」といわれ、古くから安産、厄除けの仏様として信仰され、坂東三十三観音霊場の第二十二札所として巡礼者も多い。

本堂脇の細い路地の先には稲荷社もある(^∧^)<パンパン

以上で2日目も終わり、2泊目の宿に向かうが、前々号でも書いた通り、この旅行は初日からして、大幅に予定を超過してしまっている(^_^;)。。

それでも一泊目は、大きなズレに感じなかったが、この2泊目は、常陸太田の史跡巡りもスッカリ済んでるつもりだったので、水戸より西方面にバーンと戻って泊まるんだけど、実際には常陸太田は全然済んでないので(≧▽≦)、翌3日目もこの界隈にまた来る事となるのっっ!(笑)

以上、関連事項は(2014/12/04遅れてリンク(^^ゞ)
2008年7月<牛久城跡、2>内
2008年12月<布瀬城跡・香取鳥見神社(天慶の乱・伝承地)>
2009年11月<圓福寺・飯沼観音>内




<2日目夜〜3日目朝、笠間市「ぶんぶくの湯」の宿>

↑という所に泊まった(^o^)。地図←笠間市大渕にある。
北関東は首都圏に近いので、特に温泉だと軒並み料金が高いのだが、よく探すと安くて良い宿もある。
特に温泉は史跡の集中してる所から、かなり遠い場合が多いが、亭主も私も温泉が大好きなので、宿だけちょっと遠めというパターンが多く、着いた時には真っ暗というのが定例(笑)。

この宿は、朝夕の食事が、奥様(女将さん?)の手料理風で、食卓に着いていると、次々と作って持って来てくれるのだが、よく旅館で出るような、御膳に決まったメニューという感じではなく、どうもその時にテーブルについてる客が、その時に出来てる料理を食べる……という具合だった(笑)。

「さっきまで何々のお皿があったんだけど、綺麗に無くなっちゃったから、今度は何々を作りましたー」と言いながら、お皿を持って来てくれた(^O^)。

野菜は近くの道の駅で売ってる農家の野菜と言う事だった。
確かにメチャクチャ肉厚で、噛むとプシューッと水分が跳ね上がるほど新鮮な食感!

刺身はさすがは茨城。産地直送の新鮮なネタ(#^.^#)

だが女将さんが仰るには、「山菜やキノコの季節だと、ウチで採れたてのを召し上がって頂くんですが」と、ちょっと残念そうなのが意外!
そうかなっ。すんごく美味しいけどっ>( ^,_^)ф<モグモク・゙ガツガツ

そして翌朝は……、

起きると、こんな森林が目の前に!(パノラマ5枚180度以上)

後ろを振り返ってみよう(#^.^#)。実は……、

こんな山小屋を一軒、借り切って宿泊した(^O^)↓(パノラマ4枚180度以上)

ログハウスが何軒かあって、予約制で一晩貸してくれるんだが、近くに泉があって冷えるので、起きてる間はこたつとストーブに、夜中は電気毛布にしがみついて寝る(笑)。

この家の向こうに、食堂や風呂のある建物があり……↓

下駄でカランコロンと食事や入浴に出向く(パノラマ5枚180度以上)

↑この家屋の前は↓こんな丘陵と森(パノラマ5枚180度以上)

↑この森の向こう側に、天然の湧き水があって、朝食の後で宿の方が案内して下さった。後でいこう(^O^)。

室内や温泉の写真も撮りたかったんだけど、夜は暗いので、明るくなった朝にしようと思ってたが、結局撮れなかった。。
というのも、夜、入浴しに行って、ちょっとはずれかけた扉を、えい!と頑張って閉めたら、勢いで指を挟んで(*o*)、目から火花の痛さで(笑)、写真どこじゃなくなってしまった(^^;)。。

湿布とハサミを借りに行ったら、宿の方もビックリして平謝りされるので、
「自分が不注意だっただけで(^_^;)ゞ」と慌てたり……(笑)。

しかしそのぶん、温泉の効能が確かめられたかも(爆)。

泊まった建物。内部は二部屋とバス・トイレ・台所付と豪華!

ここの温泉は、いわゆる「温泉」とは違い、天然水を温めて風呂にしている……という事らしい。

この天然水というのが、先ほどいった丘の裏手の湧き水で、この水を貰いに来る人がいっぱいいるという。
この朝も、早々と水を貰いに来る地元の方がいらした。
アトピーや難病で、かなり遠隔地から貰いに来たり、定期的に送ってくれるよう頼む人もいるのだとか……。

食堂&大広間。民宿っぽい懐かしい雰囲気(^^)(パノラマ4枚180度)

実は泊まる前から、案内の栞など送って下さったのを読んでたから、大きなペットボトル(焼酎の入ってた)を一本車に積んで、宿を出る前に汲んで帰った。

防腐剤とか一切使わず、いつまでも持つと聞いたが、確かにいつまで経っても濁ったり匂いが出たりせず、ズーーーッとビニールのように透き通ったままで、一ケ月ぐらいとちょっとづつ飲んだが、悪くなるような感じがまるでしなかった。

←そりゃ水戸と言えば(まだ笠間だけど:笑)納豆に梅干し!
それに塩鮭をつければ、「黄金三点セット」、これこそ「旅館の朝ごはん」の王道!(意味不明)

こうした飲食物も、全て天然水を使って調理されているようだ。

肝心の水の効能だが……、

この日は挟んだ指の傷につけただけで、水が効いたのか、思いの他早く治っただけなのか判らなかったが、この水を普通の水にちょっと混ぜて沸して飲んでも、200ミリほど風呂に入れて入っても、すごく眠くなる(・・;)。。
風呂なんか、入ってる最中から風呂桶の中で寝息になる(笑)。

それと、やせたかなぁ(笑)。まぁこれは偶然って感じもするけど(^^ゞ。

ペットボトルに一本分貰っただけなので、効能をシッカリ確かめるには至らなかったが、不思議な水である事は確かに思えた。(亭主は何も無かったようなので、個人差があるのかなぁ……?)

てなわけで、食後こんな森に分け入り
だんだん沼地に降りていく

……続きは次回〜\(^O^)/

次回は、この笠間「ぶんぶくの湯」の出る、「源九郎・意成大明神」の神水の畔から、3日目(最終日)の続き。
そして、先ほども言った通り、常陸太田にカムバックして、佐竹氏の史跡巡り続行。
「太田城」「若宮神社」を見て昼食。午後は「正宗寺」、そして水戸黄門の別荘地「西山荘」に赴きたい〜♪

(例によって、関連リンクはまた後ほど)←ちょくちょく追い付き貼ってます(^^ゞ



↑出来ました(^^ゞ↓(2014/12/04・09遅れてリンク)

■新羅三郎義光関連
2010年1月<えさし藤原の郷・@「政庁」>内以降
2010年2月号、特に、<矢びつ温泉「瑞泉閣」にて、3日目朝!>内、および、<磐井川〜衣川>内以降
2010年3月<中尊寺・白山神社〜帰りの参道>内以降
2010年5月<「毛越寺」A、南大門跡〜開山堂>内および<「毛越寺」B、「嘉祥寺」跡〜金堂円隆寺「鐘楼」跡>内
2013年2月<生品神社(新田義貞・挙兵の地)、2>内
2014年7月<1泊目夜〜2日目朝・横川温泉「八幡太郎義家の湯」>内以降
■富士山と筑波山
2010年7月<手賀沼と下手賀沼から、富士山・筑波山を>内
2011年10月<真冬の手賀川、白鳥・富士山・筑波山>内
2012年7月<クリスマスの街(^^)>内
■佐竹氏・鎌倉中期ごろまで
2008年7月<牛久城跡、2>内
2008年12月<布瀬城跡・香取鳥見神社(天慶の乱・伝承地)>内
2009年11月<圓福寺・飯沼観音>内
2014年7月<「金砂城跡」と「西金砂神社」>内以降

↑以上は、文中にも各所で貼ってあります(^^)。


<つづく>

2014年08月31日
 
     





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