前回から始った「茨城北部編」第二弾。 二泊三日の内、前回は初日をお届けしたが、今回はその続き。 まずは前回途中までレポした、海沿い「大甕倭文神社」の続きから入って、夜に山奥に向かい、横川温泉で一泊。 2日目は、西金砂神社(金砂城跡)を訪れ、午後は福島県境近くまで北上し、花園神社に到達した所で次回に繋ぐ。 <大甕倭文神社(つづき)> 前回の最後の方を、ちょいとコピペしてくる(^^ゞ↓
↑「大甕(おおみか)倭文(しず)」と読む。 この鳥居は6号線・陸前浜街道に面して建っている。 その近くにある「大みか神社入口」なる交差点名からも、ここが正面っぽく思えるが、入ってすぐ立ち塞がるこの建物には社務所があるのみで、建物名も「儀式殿」とあって、つまり社殿そのものではない。 ちょうど帰って来られた神社の方にしおりを頂き、これよりさらに奥に進むと……、
さらに奥に進んだ所(この裏背)に本殿があるから、そこの「宿魂石」に閉じ込められている星の神、「天香香背男」神を、まずここで祀ってるのかなーと(^^ゞ。 ……てな感じで、ここからが今回レポの始まり(^^)v。 まず、この「天香香背男」は、「天(あまの)」でいったん切っていい。名前は「香香背男(かかせお)」。 この神社の話になると、この「香香背男」の名が真っ先に出る傾向を感じるが、この神社は香香背男を主祭神としているのではなく、香香背男を退治した、“武葉槌(たけはづち)命”の方を祀っている(^_^;)。 ここをむやみにすっ飛ばすと、この地域全体の持ち味がともにすっ飛ぶ感じがする(笑)。 「武葉槌」の字は、「武」を「建」と書いたり、「葉」を「羽」と書いたりもするようだ。 「香香背男」の方は、「星神」とも、「悪神」とも、「天津(あまつ)甕星(みかぼし)」とも称される。 この「武葉槌命」と「香香背男」という神の名は、「日本書紀」には出て来るが、「古事記」には無い。 もう一つ、この常陸国では、「常陸風土記」が重要であろうが、これにもなさそうだ(^_^;)。 全国に残る各国の「風土記」中で、全編が残るのは「出雲風土記」だけだから、「常陸風土記」に無かったとまでは言えないが、前回いった「茨城県歴史館」にも、ここの伝説は全く触れられてなかった。
武葉槌命と天香香背男は、「日本書紀」に、ほんの一文出て来るのみである(^_^;)。葦原中国の平定の所だ。 「日本書紀」の順番を念のため書くと、まず天地開闢、イザナギ・イザナミ、天照とスサノオの果たし合い、天の岩屋騒動、ヤマタオロチ退治、少彦名が登場、そしてニニギを君主にすべく、葦原中国を平定の段……ここで登場する。 まずは平定前、次々と遣わす使いの神々が帰って来ず、返り矢で亡くなった天雅彦の葬式の段がある。 そしていよいよ、香取神宮の経津主神、鹿島神宮の武甕槌神(古事記では「建御雷之男神」)が平定しにいく。 二神(経津主神・武甕槌神)の行き先は、常陸ではなく出雲である(^^ゞ。 出雲で、大己貴命と事代主神の父子の国譲りの段となるからだ。 しかる後、さらに「まだ従わない神がいる」として登場するのが、この香香背男なのだ。 そこで「武葉槌命が使わされ、征服し、二神は天に上った」と締め括る。 ……これだけ(^_^;)。 さらにズンズン行くと、↑の緑色の屋根のある建物(神輿入れか何かかと)を越えた所で、こういう岩場が出て来る↓ 奥に本殿(拝殿)・手前に「宿魂石」の岩場(パノラマ4枚180度)
この岩場に「香香背男」の霊魂を封じ込めていると伝わる。↑ 「日本書紀」では、さらに「一書(第二)(※)」として以下の話がつく。 (※ 「日本書紀」の書き方で、本伝で大筋を語り、「一書(第一)一書(第二)一書(第三)……」と各伝によって、伝え方が違う内容を続けて列挙する) ここでは出雲の国譲りの前に、経津主神と武甕槌神が葦原中国を平定しにいく。 ……つまり、出雲の国譲りと前後関係がちょっと違うが、何しろ経津主神と武甕槌神は戻って来て、こう報告する。 「香香背男という悪い神がいるから、これを除かないといけない」 ここでは武葉槌命ではなく、「斎(いわい)の大人(うし)」による征服が述べられ、しかもこの「斎の大人」を、「楫取」(「楫」は「楫戈」←二文字で一文字)の地にいると、書き足される。つまり「香取神宮」の神としている。 (香取神宮では「経津主(フツヌシ)神の「別名」として「伊波比主(イハヒヌシ)命」を掲げている)(2008年4月<香取神宮・1、「要石」>内、同5月<香取神宮・2、「本殿」>内) ……でも、ここでも、これだけ(^_^;)。 さらに進んで来て、やっと本殿(右↓)到着(^_^A)(パノラマ5枚180度以上)
それがこの神社に来ると、全て「伝承」とし、しかも「創祀年代は不詳」としながらも、こうなる。 まず「武葉槌命」の子孫、「倭文部可良麿」なる者が、「大甕山の東端の釜坂(可良麿坂)付近の中丸屋敷という所に住んでいた」。 「可良麿は天平の頃、防人として筑紫国に赴いた事もある」としている。 この可良麿の歌が、「万葉集」巻二十「防人歌」にあるともいい、その歌が紹介されている。 「足柄のみ坂たまはり顧みず吾は越え行く 荒し男も立しや憚る不破の関越えて吾は行く 馬の蹄筑紫の崎に留り居て吾は斉はむ 諸は幸く申す帰り来までに」 この「子孫が近くに住んでいた」という伝承に絡んで、「武葉槌命を祀っている」という事だと思われる。 倭文部とは、主に機織りを行う部と解してよいかと。武葉槌命を祀る神社は、養蚕など織物がらみの信仰をもつ所が多い。 本殿の方から振り返る境内(パノラマ4枚180度以上)
香香背男については、「大甕山に陣取り、東国地方の陸地はおろか海上にまで一大勢力をもっておりました」と詳しく述べる。 そして、「鹿島・香取の神も為す術なく、二武神に代わって、知恵の神・武葉槌命が知恵を駆使した巧みな戦略を用い、香香背男の大勢力も敢えない最後を遂げた」という。 その様子の一つに、「香香背男が変身した大甕山の巨石を、武葉槌命が蹴ると、一つは海中に落ちて「おんねさま」、神磯と呼ばれる磯になり、他の石は、石神・石塚・石井に飛んだ」という。 そして、香香背男の荒魂は、ここの宿魂石に封じ込められた……と伝わる。 今度は、本殿に直接あがれる道側から見上げてみる(パノラマ3枚ほぼ180度)
香香背男を退治した武葉槌命の方は、その後もこの大甕にとどまったという。 製塩や織物をはじめ様々な生活の術を東日本一帯に広め、大甕山に葬られ、今も「おだて山」と敬愛の念をもって呼ばれている。 武葉槌命の埋葬地が、元は古宮と呼ばれ、筑波山や鹿島灘を眺められる地だったが、昭和初期から開墾されて、陸軍の通信や進駐軍、日立研究所などが建って、辛うじて松林の中に石祠があるのみだそうだ。 一方、ここの「宿魂石」だが、元は「大甕山」の山上にあったそうだ。 それが元禄二年、大日本史の編纂により、当社の由緒を重大と認めた水戸光圀が、藩命をもって大甕山上から街道筋に近い、現在の「宿魂石」に遷座したという。 以後、水戸藩によって格式高い号を用いられ、社殿なども造営、江戸期の間は修復も重ねてきたが、傷みが激しくなったので、昭和32年(1957年)に造営され、遷宮式も行われた。 それが現在に伝わる「宿魂石」である↓ さっきも見た「宿魂石」のある岩場、正面から(パノラマ3枚ほぼ180度)
香取・鹿島の二武神による征討神話に絡め、日本書紀に名のある神が実際に現地に来て、神話の後も現地に留まって産業技術……特に製塩を伝え、地元神として祀られ、製塩など生産技術向上を顕彰し祈願する……という神社由緒は、私の知る限り、宮城県の鹽竈(しおがま)神社の地主神・鹽土老翁(シホツチオヂ)神に、同じような伝承がある。(2008年2月<鹽竈(しおがま)神社>内) 鹽竈神社の鹽土老翁神と、ここ大甕倭文神社の武葉槌命が似通っているのは、この点だけではない。 鹽竈神社は、前も述べた通り、江戸期の1700年代初頭、藩主の伊達氏によって地史や祭祀の調査研究が行われた。 この大甕倭文神社にも、江戸期の水戸藩、徳川光圀の名が顕れて来る。(時代は徳川光圀のほうが古い) もう一つ、鹽竈と大甕に共通するのは、神社が海からの河口に位置する点である。 鹽竈神社は、平安初期の820年には史料に現れ、古代の国府・多賀城の水運拠点として機能した事がうかがわれる。
この大甕倭文神社のある所は、今回行った旅行の中では、もっとも太平洋側に近く、東日本大震災では、ここまでは津波も及ばなかったようだが、浸水地図を見ると、これより南の茂宮川・久慈川は、この神社よりもっと西の経度、つまり陸地側に深く津波が遡上してきていたのが見てとれる。 先史時代から貝塚や古墳群も多く、久慈川の河口を天然の良港として海岸道が開かれ、古代における交通の起点として奥州へ通ずる街道の要衝であった、と栞にも紹介されている。 ここよりすぐ近くの海岸に出ると、「水木浜」という海水浴場(地図)があり、ここがナント、翌日に行った金砂神社の「湖水祭」を行う場として、古くより伝わった海岸だったようだ。 この日はだいぶ暗くなってきたので、この後は宿に向かって、海とは反対側の山に行ったが、金砂神社はそちらにある。 つまり、一見別エリアのようだが、この大甕と、これよりいく横川や金砂には関連があるので、この「大甕倭文神社」が、機織りの神・武葉槌命を主祭神とする事とあわせて、このあとも関連事項を述べて行きたい。
もう一つ言うと、実はこの近くには「相馬碑」がある。 時間が無くて寄れなかったが(^_^;)ゞ、これは1562年、佐竹氏が上杉謙信と呼応して転戦していた隙に、陸奥の相馬盛胤が佐竹領に侵入したので、佐竹義昭の軍が反撃し、激戦となって、戦死者30名を出した慰霊碑で、相馬氏は後に江戸に往復の途上、そこに供養塔を建てたと伝わる。 この後も追い追い述べようと思うが、この地は非常に長い間、佐竹氏の勢力下にあったので、佐竹氏を背景にした逸話・伝承の類が非常に多い。(佐竹氏については→2008年7月<牛久城跡、2>内) 伝説であるから、史実的には必ずしも正確とは言えないし、必ずしも佐竹の名を冠さないのだが、全体的に武人(武神)伝承的な色合いを持っている物が多い。 次に行く金砂神社の祭祀にも、鹿島の神・武甕槌命が武神として登場するなど、それらには陸奥への備えの色合いが強い。 この神社の伝説がいつ成立したかにもよるが、香香背男に見る「星の神」も、この地においては、妙見(北極星)を祀り、家紋にも星を顕す、陸奥相馬氏の影があっただろう。 また、南北朝時代、大甕倭文神社の近くで、「甕の原の戦い」というのもあったらしい。 この後も続けて、これらを述べて行こう↓ <1泊目夜〜2日目朝・横川温泉「八幡太郎義家の湯」> ↑に向かうが、このルートが色々あった(^_^;)。 最後は道に迷って大変な目に遭った。ちゃんと宿に着いたから良かったが、ただでさえ遅れ気味の旅程だったので、ちょっと焦った〜〜。。 まず、道は6号線を南西に→293号線を西に→349号線を北上→461号線を北東へ……という道のりが正解だったのだと思う。 大甕倭文神社(地図)、目的地・横川温泉(地図) 途中に常陸太田の中心部を通ったと思うが、そこに差し掛かる前、まだ太平洋近くを走ってた頃↓
この日は、春の割には台風のような豪雨ぶりだったから、気象によるものだろうとは思うが、茨城県は前に鹿島に来た時、すごく急に暗くなって、まだ4時ごろから夜のような状態になった事がある(^^;)。。 日本でも一番東にいるわけだから、夜明けと日暮れが日本で一番早いって事かもしれないが(笑)、その割に、地平線のみひどく明るく、夜中まで続いた事もあって、その直後に中越地震が起きたので、気色悪がったのが記憶に残っている。 あまりに異様な明るさなので、ついそんな事を話しながら道行きしたのだが、この時のこの現象は間もなく引いた(^^ゞ。 旅行から帰ってから、人に「空に異様な感じがあったから、近く大地震に気を付けてって伝言まわってる〜」と聞いたから、特に茨城だけの光景じゃなく、どこでも見えたのかも(^_^;)ゞ。
■不思議な空(2011年以降)(10/25遅れてリンク(^^ゞ) 2011年1月<夏の花・森・夕焼・月・花火> 2011年4月<晩夏〜初秋・手賀沼までの空と雲> 2011年9月<松戸市「祖光院」「カフェ・リビエラ」「庄や」>内以降 2011年10月<クリスマス本番〜年末>以降 2011年12月<晩春から初夏にかけて>および<夏の夕空・夜空> 2012年1月<夏空・夏雲> 2012年10月<GW突入、新緑と八重桜、震度5前夜>内 2014年4月<明るい夜空と虹と月> この後、常陸太田を通ったんだが、最後の日に常陸太田の若宮八幡宮(地図)を通った時、「ここ最初の日の夜に通った(゚.゚)!」と思い出した。 亭主は「よく覚えてるね〜!」と驚いたが、今よく地図を振り返ると、どうもその時点から、ちょっと道筋にズレが生じていた気がする(・・;)。。 横川温泉に行くのには、若宮八幡宮は通らないように地図では見える……(もっともナビの示す道って、他の事情も加味するんで、この辺りまでは合ってたのかもしれないが(笑) このあと車は、宿のある方にいかず、西金砂神社(地図)の方に向かってしまったのだ。 ざっと頭の中に地図はあって、「途中まではそれでもいいはずだけど、どっかから分かれないと……」と思っていたのに、いつのまにか、ナビがその途中の辺りを飛ばして、神社方面に先導したのだ。 神社の鳥居が出て来て、「さすがにここまで来ちゃうハズない(・・;)。。」と焦り、慌てて宿に電話をしたが、宿の人も神社からの道に詳しくなく、何とか宿(地図)に向かう道に出られたんだが、到着は8時を過ぎる大幅な遅れ。。。
「1057年」とは、ヤケにハッキリと……(゚.゚)。 この年、確かに義家の父・頼義が、安倍氏追討のため具体的に行動を開始している。その結果、義家も戦闘に参加し、黄海の戦いで惨敗している。 安倍氏は頼義・義家父子が来る前、1051年から叛乱を起こしていた(前九年の役)が、1052年に頼義が赴任して来ると、これには従順に服していた。 それが再び動乱状態となるのは、1056年からで、以後、1062年までに源頼義・義家によって征討される。詳しくは→(2010年1月<えさし藤原の郷・@「政庁」>内以降) 一晩明けて朝です。オハヨー(^O^)。お部屋から(パノラマ4枚180度以上)
この茨城北部は、平安期より戦国期まで、実に600年もの長きに渡り、佐竹氏が地盤していた。 一豪族が同じ地域で築いた歴史として見ると、これは全国的に見てもかなりの長寿地盤と言える。 ただ佐竹氏の先祖は新羅三郎義光であって、その兄の八幡太郎義家ではない(^_^;)。 (源)経基−満仲┬頼光(摂津)−頼義┬(八幡太郎)義家┬義親−為義−義朝−頼朝 ├頼親(大和) | └義国┬義重(新田) └頼信(河内) | └義康(足利) ├(賀茂二郎)義綱 ┌義業(佐竹)−昌義−隆義 └(新羅三郎)義光┴義信(武田) (八幡太郎義家より先は、詳しくは源氏系図を(^^ゞ) しかも佐竹氏は、義家の子から出た新田氏や足利氏の祖とは、かなり険悪な関係だった事が知られている。 そうした仲の悪さも後に影響してか、1180年に頼朝が挙兵した時も、これに多くが次々と従う中、関東でひとり佐竹隆義のみ頼朝への帰属を頑強に拒み、むしろ平家の味方をし続けた。 なのに、なぜかこの陸奥との国境地帯のわりと広範囲にわたって、義家伝承が色濃く残っている(^_^;)。 ↑逆(立つ位置の後ろ)側↓この通り山の中にある(^^)(パノラマ4枚180度以上)
義家の父・頼義ならば、義光の父でもあるわけだから、同じ事なら、頼義伝承にすればいい気がするが、伝承の名を冠されるのは義家に限るのである(笑)。 それと、頼義・義家の父子が奥州征伐に行った時、陸奥との国境は、この常陸からだと勿来の関になりそうだが、史実的には、どうも白河関を越えて行ったと見られている(^^ゞ。 だから、佐竹が義家の血筋だとか、奥州征伐にこの街道を通ったとかは、後に憶測から生まれた伝承だろうと言われている。 が、この「たわごと」では何度も言って来た通り、史実と違おうが、「土地で信じられ、伝えられて来た事」は、「いついつまでの意識」「いついつ頃の天候・地理・地勢」など推し量る上で極めて重要であり、後世これもまた史料として貴重となりうるのである。 だから、「無知な俗信」「消えゆく風聞」と抹殺せず、シッカリ土地で謳う姿勢を高く評価する。 (針穴棒大の歴オタや重箱つつきの腐った史実厨どもは今スグ氏ねwww) というわけで、「義家ゆかり」を謳うだけあって、この旅館のシンボル・マークが……↓
美味しく頂きながら( ^,_^)ф<モグモグ、食堂のテレビを見ると、水上の白いガチョウの背上に、黒い水鳥が乗って、ガチョウの尾をついばんでいる映像が流れていた。 旅行中、深い山奥などで大嵐・大雪・濃霧といった、東京周辺の日常とはかけ離れた風景から旅館に辿り着いて、朝夕の食堂でついてるテレビを見ると、「ついさっきまで別世界にいたけど、ここもいつもいる日常と変わらないな〜」と思う事がよくある。 ところが、たま〜に、日常よく見る画像なのに、なぜかいつもと違う画像に感じられてならない事がある。 この朝が、まさに、そういう気分になった。 鳥の上に鳥とは、確かにちょっと変わった映像だが、何かそういう不思議な事が、ここでしか起きない事のように思えてしまった。(もちろん映像の撮影された場は、この茨城北部とは全然違う場所だったと思う) 以上、関連事項は(10/25遅れてリンク(^^ゞ) ■八幡太郎義家(伝承は全国に凄く多いんでまずは史実のみ(^_^;)) 2010年1月<えさし藤原の郷・A「見返り坂」周辺>内以降 2010年2月<えさし藤原の郷・D「大路」「街並み」→出口>内以降 2010年3月<中尊寺・白山神社〜帰りの参道>内以降 ■常陸北岸の伝承に似た武勇伝、天然巌に弓矢で彫刻 2010年4月<達谷窟、「毘沙門堂」「岩面大佛」「蝦蟇ヶ池・辨天堂」>内 ■白河関へ通じるルート上だと…… 2012年3月<熊野神社・長床>内 <横川温泉から金砂温泉まで> 前夜は遠回りして、かなりガソリンを使ったので、宿の人にガソリンスタンドの場所を聞いた。 近いが休日休みかもしれない所@と、確実そうだが遠い所Aを教えて貰った。 その折、@は「道路に出て右」と言われたんだが、宿を出るとすぐ道が始ってて、「でも右にいけないよね」という話になった(笑)。 正解は、「道をしばらくいき、大きい道路に出て右」(^^ゞ。 「そういや昔さー、道(ミチ)と道路(ドウロ)って、分けて言ってなかった(^^ゞ.?」 「言ってた言ってた、俺もそれを思い出した」 「道路(ドウロ)ってのは、舗装されてる立派な道なんだよね」 「そうそう、今どの道も舗装ぐらいされてるからわかりにくい」なんて話になった(笑)。 結局、Aしか営業してなくて、それでも無事に給油を済ませ、いよいよ西金砂神社に向かう。 349号線(たぶん(^^ゞ)を南に
横川温泉(地図)→里美大橋(地図)→金砂温泉(地図)→西金砂神社(地図) 目的地の西金砂神社は、33号線のすぐ西側、山の裏手にあるが、道はかなり南下して廻り込まないと到達しない。 だから宿(地図)を出て、461号線を南西→349号線を南→36号線「里美大橋」(地図)を渡り、途中に33号線を交えつつ29号線と引き継いで南底辺を西に向かって廻り込み、上宮河内町の「金砂温泉」あたり(地図)右折して、北上していく(地図) 。 ちょうど数字の「5」を描くような遠回りコースである(笑)。
今通るルートは、おそらく前夜に迷ったコースを逆戻りしてる(笑)。 前夜は迷いながらも、車を走らせる亭主が「この辺り、日のある内に通ったら、きっと良い風景なんだろうな」と何度も言っていた。 果たして明るい中を走ってみると、想像以上に素晴らしい風景つづきだったのだが、それもこのあと山に分け入る道が続くと、次第に亭主は、 「佐竹ってよく、こんな山奥に逃げ込んだね。ここまで馬や人の通れる道が本当にあったの?」 と聞いて来た。 「う……うん、あったと思うよ。昨日見た歴史館でも、そう書いてあったよね」 と答えつつも正直、腹の中で「何かの間違いでは(^^;)」と焦った(笑)。 ここは昨夜も通ったな〜とか思いながら道行く
今も言った通り、これよりいくのは佐竹氏の「金砂城跡」で、1180年、頼朝に追われた佐竹氏が引き籠って防戦した天然の要害である。 同じ場所に「西金砂神社」があり、これはさらに古く、対をなす「東金砂神社」(地図)とともに、大同元年(806)の創建と伝わる。 これよりさらに西に向かい、金砂山に向かって北に分け入るコースを目指すが、今でも道路がここからしか行けないのだから、頼朝の時代も、この迂回ルートから迫っていったのかも(^_^;)。 ジワジワと山奥コースに迫る(パノラマ5枚180度以上)
例年のように秋に行くのではなく、3月に行った事もあって、この茨城北部の旅行ではどこに行っても、華麗な梅の花を拝むことが出来た(^^)。 千葉でも梅の花はよく見掛けるが、さすがは「水戸の梅」で有名な茨城、梅の花の見事な様子を見せる風景がとても多く、写真もいっぱい、いっぱい撮れた。(多過ぎて全部は見せられないのが残念:笑)。
そして先述通り、南西部から神社のある北部に向けて入る、上宮河内のカド(地図)を右折する。 <金砂温泉〜西金砂神社の石像群「田楽舞」> 西金砂神社方面に導く道路標識もちょくちょくあったので間違いはしないと思うが、まずカド(地図)の周囲には菊蓮寺がある。 カド曲ってすぐ左には「金砂温泉」の施設・駐車場が並ぶ。温泉施設は「金砂庵」(食事処かと(^^ゞ)「常陸太田市西金砂・湯けむりの郷・金砂の湯」と地図にある。 道の右には遊歩道が伸びて、その至る所に石像が次々と現れ見えて来る。カド付近初めの目印は……↓
この最初の……盃のような石像は何を意味してるのか判らないが(^^ゞ、この後、遊歩道あるいは車道に点々と続く石像達は、73年に一度の大祭礼・7年に一度の小祭礼の折、奉納・挙行される「田楽舞」を象った石像のようだ。 祭礼の前、先にも言った大甕の「水木浜」における水取りから始まり、実に大掛かりな行列を催す。 小祭礼は大祭礼ほど広範囲ではないものの、どちらも練り歩く行列の各所で、この「田楽舞」が行われるそうだ。 後で西金砂神社の前にある「ふるさと歴史民俗伝承館」の受付で聞いた所では、「まぁ石像はどうでも良くて、それより祭りの方が……(^_^;)」というお話しだったが(笑)、初めて訪れる者にとっては、この石像軍団大いに目立ち、風景と合わせると、なかなか見どころも風情もあった。 たまたまシャッターチャンスが合って撮れただけながら、手持ちの資料から想像がつく限り、説明しながら深まる山の雰囲気をお届けしよう(^^)。
竜神の石像は、思うに、西金砂神社よりやや北方にある、「竜神川」「竜神峡」「竜神湖」「竜神大吊橋」「竜神ダム」「水府竜神ふるさと村」といった(地図)、竜神の地名(伝承もあるかも)にまつわる物だろう。 (拡大)↓「竜神像」、烏帽子姿↓は楽師? そして「一本高足」↓
「一本高足」は、田楽舞の「第四段」に登場する。 鬼の面(武甕槌命)を付け、腰に飾り太刀を差し、紅白の布を巻きつけ十字の形をした高足と羽団扇を持って舞う。 これは、高天原の天照大神より命を受けた武甕槌命がその大任を果たし、国家統一を達成した喜びを表して、威風堂々と振る舞うところを表現した舞だといわれている。 武甕槌命が舞台四方を廻り、中央に戻ってから高足に乗って跳ぶしぐさは、冬のあいだ地下に眠っていた霊気を呼び覚まして、農作物がよく稔るように新しい生命力を漲らせるもので、春になって新しい大地の生命力をよみがえらせる願いが込められているとされる。
東西の金砂神社における祭礼は、小祭礼の方が815年からと早く、遅れて大祭礼が851年から始まるが、日本における田楽の歴史から振り返ると、「田楽舞」は創建時にはまだ無く、第五回目の大祭礼が行われた1139年が初演であったろう、と推測されている。 江戸期の研究者の発表によると、「千早乙女」「四方固め」「祝(えんぎ)文」「獅子舞い」「蓮葉踊り(種蒔き)」「高足力士(一本高足)」「シメシ」の七段があったが、現在までに四段(太字)が伝わり、残り三段は残念ながら消滅してしまったようだ。 そうした中で残った舞と見ると、この地域ではやはり鹿島の神・武甕槌命は特別な存在なんだな……と思わされる一方で、天津⇔地津で言えば天系に属す感じがする武甕槌命が、「鬼の面」とは……(^_^;)。。 敵を睨みつけるいかめしい(天狗のような)面に象られる絵なら、ちょくちょく見るけど、「鬼」とまで強さを示されると、やっぱ陸奥への最前線という意識の濃さを感じる(^_^;)。。
「四方固め」は、同じく田楽舞の「第一段」。 鳥の兜に猿田彦命の面を付け、大鉾を持って四方桝形に舞う。天照大神が瓊々杵尊を降臨させた際、猿田彦命がこれを出迎えた場面を表現している。 力足と言って力強く大地を踏みしめ、大鉾を四方に突き出す動作が特徴で、何処からも悪い霊を寄せつけない呪術として、“反閇(へんばい)”とも呼ばれ、地固めの意味があるとされる。
前夜は、この鳥居の前まで来て、「このままだと神社に行っちゃう(^_^;)」と気づいて、夜の闇の中この鳥居の前に車を止めて、宿に電話したり地図で道を探し直したりしたのよ(笑)。 なので、この時まで、この鳥居さえ潜れば、すぐさま西金砂神社に入るのだとばかり思っていたが……。 どっこい、ここから先が、又々スゴイ道のりなんだなっっ( ̄▽ ̄;)。。。 途中、道幅は狭い、凸凹すさまじい、道なき道っぽい岩場のようなトコもある、何よりも意外と道のりが遠くて、「ホントに神社に着くかな、戻ろうか(^^;)」などと言いながら進みました〜〜(笑)。 しかし、そんな山道の間にもちゃんと石像が飾ってあるので、こちらも頑張って撮影を続けた!(笑)
顔が見えず何とも不気味な雰囲気で、道の険しさとあいまって、だんだん「水木しげるの妖怪ロードになってる気がする(^_^;)」と思った(笑)。 が、これは田楽舞の「第三段」、「種蒔き」で、五穀豊穣を祈る舞。 顔を隠しているのは「蓮の葉のような笠」といい、これを被ることから、江戸期の「金砂山田楽記」では「蓮葉踊り」とも称されている。 笠の他、白装束をまとい、びんざさら・小鉾弊・笏拍子をもち、前かがみの姿勢で苗代の種蒔きのしぐさを表現する。 舞の途中で、所役が舞台を廻りながら籾種子を蒔く。客席に及んだ籾種を拾って苗代に蒔けば豊作になると言われる。
「獅子舞い」は、田楽舞の「第二段」で、獅子が四つん這いになり、笑いの面(大国主命)を付けた舞人が、獅子の尾についた大鈴を振りながら舞う。 大国主命が出雲国を統一して国土を広め、勢力すこぶる盛んであった事にちなんでいる。
私は林六郎光明さまの「六郎光明の屋形」における、「リアル!戦国時代」の「座シリーズ」で猿楽や田楽の事を知り、田楽舞を直に見てみたいな〜と思ったので、ちょっと詳しめに書いた。 東西金砂神社の大祭礼は、11年前の2003年にやったばかりだから、次は2076年……あと62年しないと開催されないが(^_^;)、小祭礼の方は七年に一度で、田楽舞もやるそうだから、興味のある人は予定を調べて行ってみてネ♪ <「金砂城跡」と「西金砂神社」> やっと到着(^_^A)。(地図) この道を←こう入って来たトコね(^^ゞ(パノラマ3枚ほぼ180度)
今見えてる、道の向こうの丘が「金砂城跡」↑で、道を挟んで手前側が「西金砂神社」↓ 今度は「金砂城跡」の方から写す、「西金砂神社」側(パノラマ5枚180度以上)
こんな具合に、城跡地と神社の境内が、道路を挟んで対面しあっている。 ズーッと、山中奥深い道をエッサカホイサカ上って来て、イキナリこうした拓けた平地に出るので、ちょっとビックリする(^_^;)。 神社はさっきも言った通り、平安初期の大同年間(806年)3月11日に創建されたと伝わる。 祭神は大己貴(おおなむち)命・少彦名(すくなひこな)命・国常立(くにどこたち)命であるが、江戸中期までは寺であり、本尊は千手観音であったようだ。 創建は、天台沙門宝珠上人が勅を奉じて、近江国日吉権現を勧請・開基、比叡山に擬し七堂伽藍を建立し、常陸七郡の総社とした。 また、ここと対となる「東金砂神社」には、「蝦夷征伐の際、坂上田村麿が祈願のために多宝塔を建立」とも伝わる。
茨城県全体を大雑把に述べると、南部はかなりの広い地域を常総平氏(平国香の子・繁盛が祖)が早くから(800年代末〜900年代初頭ごろですか)諸氏に広がって在地基盤しており、一方西部(下総)には、隣接する下野国において勢力ある秀郷流藤原氏の子孫・結城氏がちょっと入り込んでいる……という図である。 遅れて来た清和源氏(河内流)の佐竹氏は、北部に勢力地盤を求めざるを得なかった。 これら在地に根差した武士勢力の他、名目上すなわち荘園領主としては、八条院領が多い中、九条家や日吉社の荘園も少なからずあったようだ。 だからこの北部においても、佐竹が入り込んで来た時には、既に比叡山(日吉社)系の寺社領が及んでいた……という事なんだろうと推察している。
日吉権現を近江から金砂山へ遷座するに当たっては、海路を通り、大甕の海岸「水木浜」に上陸したと伝わる。 伝説によると、金砂神社の神は、「あわびの舟」に乗って水木浜に姿を表したという(^^)。<カワイイね☆ミ この海辺とその周辺の伝説については、金砂山の後にも、続けて述べる事にしよう(^^ゞ。 何しろこの故事にならって、冒頭「大甕倭文神社」でも述べた通り、大小の祭礼が行われる際には「浜降りの祭」を厳修し、「湖水行事」と称して、必ず神官が水木浜に出向いて清い湖水を汲み、伝説の神事を行い、御神体を洗い清める。
本殿には、↑拝殿の横からある階段を上って、さらに森林を行けばお参りできるんだが、木の根がかなり凸凹してて歩行困難だったのと、前日から予定をだいぶ押しぎみだったので、拝殿までで満足する事とした。 どうもここ最近、足首や足爪に来る事が多いんで(^_^;)、旅行初段回でトラブると後に響く気がして……(笑)。 というわけで、行けなかったが、本殿は1810年の建築といい、「権現造を西金砂風にとり入れた荘厳華麗な社殿」であるそうだ。拝んでみたい! 一方、この拝殿は、明治6年(1867)に不慮の災害で焼失した後、急ごしらえの社殿が建っていた所、長年の念願が適って、昭和63年(1988)に完成したという。 立派だよね(゚.゚)。周囲の深い緑がよく合う(パノラマ2枚)
大小の祭礼は、天下泰平・五穀豊穣・万民法楽を祈願するものであるが、先に小祭礼が815年、嵯峨朝に始められた。 以後、小祭礼は、未・丑の7年目毎(と書いてあるけど、「7年目が祭り」だから、計算上は6年だろうね(^^ゞ)に行われる例となった。これを「小祭礼(小田楽)」と称し、最近では2009年で198回目を数えた。 行列は100人で4日間をかけて行なう。 次いで、851年、文コ朝に大祭礼が初めて行われ、こちらは73年毎(これもやっぱ72年サイクルだろう(^^ゞ)、未年に行う例とする。「磯出大祭礼(大田楽)」という。 最近では、平成15年(2003)に挙行された。こちらの行列は600人で7日間かけて行なう。 古代・中世・近世の装束を着た、それぞれ数百人から成る二つの渡御行列が、両神社を出発点、日立市水木浜を折り返し点とする地域をそれぞれ一週間かけて往復するのである。 祭礼の様子を象った紙人形模型
その後は東金砂神社に、「源頼義・義家父子は奥州征伐の際、戦勝を祈念して柄太刀や太刀を奉納」と伝えられている。 そして先ほども述べた通り、田楽舞が祭礼行事に加わったのは、1139年の第五回大祭礼の時と見られる。 田楽は平安期から民間に生じた舞踏で、笛・太鼓と歌舞をもって田植えに接し、やがて遊芸化して室町期まで盛んになっていった。 やがて寺院の僧侶が行うようになり、職業化して座を形成するなどで、各地に流れ伝わったのだが、近江の日吉権現では早くから田楽が行われた記録があり、金砂神社の経緯から見て、やはり日吉権現を経由して伝わって来たと考えるのが自然だろう。 以後、金砂神社は、殊に義家の弟・新羅三郎義光の子孫・佐竹氏の崇敬篤く、社領一万石を有し、衆徒300坊によって奉仕され、頗る隆盛を極めたという。
佐竹氏については、次回以降、本拠地であった太田城とその周囲の寺社にも足を運ぶので、また追い追い書いて行くが、この神社は金砂城とほとんど同じ場所にあり、歴史をともにしてきたと考えて良いように思ったので、ここでは平安末の「金砂合戦」について書いてみよう。 1180年4月、平家に対して挙兵した以仁王と源頼政だが、5月には早くも敗れた。 この煽りを食らって、やや慌てぎみの挙兵に追い込まれた頼朝は、三浦・北条・土肥・佐々木らと語らい、8月、山木兼隆を何とか討ったものの、すぐに平家方の大庭・伊東などに阻まれ、石橋山で大惨敗。房総に渡った。 9月には、千葉・上総などを味方につけ、10月に武蔵に出て、足立・豊島・葛西・江戸・河越・畠山など加える一方で、同じ源氏でありながら、上野の新田の帰属を鮮明に得ぬまま過ぎていた。
鎌倉を本拠と定め、妻子らと移り住んだのもつかの間、頼朝は同月、富士川に維盛の率いた平家軍を駆逐。 この時、逃げる平家を追って上洛戦に出るべきかを計る頼朝に、常陸の佐竹(敵対)・上野の新田(去就不明)・信濃の木曽(勢力拡大)といった、同じ源氏勢力を危険視し、先んじて関東の平定を説いたのが、千葉常胤・上総広常・三浦義澄の三氏であった。 上総氏や千葉氏が、上洛より関東のおさえを先に廻すよう進めた動機に、「相馬御厨」問題があるとよく言われる。 ■相馬御厨(千葉氏)関連(10/25遅れてリンク(^^ゞ) 2007年9月<松ヶ崎城跡(柏市)>内 2008年12月<布瀬城跡・香取鳥見神社(天慶の乱・伝承地)>内 2009年9月<1日目・千葉城(亥鼻公園)>内 2009年11月<犬吠埼の夜〜朝(#^.^#)>内以降 <佐竹氏系図> 新羅三郎義光┬義業−昌義┬忠義(大掾養子) └義清(武田)├隆義−秀義−義重−長義−義胤−行義−貞義┬義篤−義宣 ├義宗 └師義(山入) └義季 ↑隆義と義季の間に「義宗」を書き加えておいた。 相馬御厨を千葉氏から強奪した「源義宗」を系図上に探した所、隆義の弟に同名を見付けたので書いておいたのだが、この後に行なわれる「金砂山合戦」では、義宗の名を見掛けないので、この時どこに居たのか(というか健在だったのか)はわからない。 拝殿から振り返って境内を写す(パノラマ4枚180度以上)
10月27日、大軍を率いて鎌倉を発った頼朝は、11月4日には常陸国府(現・石岡市)に到着。ここを本拠として、佐竹氏に改めて打診。 当主であった佐竹隆義は、この時、平氏に従って京都に居たので、留守を守っていたのは兄の忠義(大掾氏の養子となったため、佐竹氏は弟の隆義が継いでいた)と、息子の秀義であった。 秀義は父・隆義が平家方にあることを理由に、太田にある本城(←最終日にいきます(^^ゞ)を捨てて、ここ金砂城に籠城。抵抗・応戦の意思を示した。 そこで頼朝はこれを攻めたが、金砂城は天然の要害、ただでさえ堅牢に守っている佐竹軍は、高所から矢や石を雨霰れと降らしてくる。 一方の頼朝軍は、狭小絶壁の道なき道に進退ならず、放つ矢は敵に届かず、空しく矢をつがえて時を過ごすのみ。 (車で来た我々でもさんざん手こずったもん、マジで相当な険しさだと思うよ(^_^;)) 今度は下り坂を一気に降りる(パノラマ5枚180度以上)
ただし計算違いは佐竹の方にもあった。 地元・常陸において絶対的な存在であり、しかも佐竹とは親族関係にあった常陸平氏が、諸流(大掾など多数)とも傍観を決め込み、秀義の軍事にまるで呼応してくれなかった(つД`;)。。 さらに翌5日になると、頼朝の下で佐竹攻撃を提言した上総広常は、縁故を頼って、秀義の叔父・佐竹義季に密使を送り、内応を勧めた。(  ̄▽ ̄)σ 城の裏手で鬨の声を挙げる義季軍の姿に、兵は味方の裏切りを知って動揺(((( ;゚Д゚))) 金砂城は落城し、秀義は城を抜け出し、 さらに北の花園城に退却した。ε==(/*o*)/ ……花園城には、この後にいく(^^)。 ドーンと降りて来ちゃった(^^ゞ(パノラマ4枚180度)
金砂神社はその後、建久年間(1190〜98)、廃せられて21坊に、田は1200石に激減。 さらに戦国末期には、太閤検地の結果、この1200石も没収となってしまった。。 徳川時代は僅かに24石を存続し、21坊を保ったものの、かつて一万石・衆徒300坊であったので、渡御・行列と称して行なわれる祭りの範囲がすごく広い、という事じゃないかと想像する(^_^;)。 南北朝時代の常陸は動乱の真っただ中にあり、瓜連城に南朝の楠木氏が入部したり、北畠親房が漂流の後に国入りを果たして、やはり南朝勢力の扶植に努めたが、いずれも失敗に終わった。 ■北畠親房の関東遠征(10/25遅れてリンク(^^ゞ) 2009年7月<南部「今城」>内 2011年6月A<塔のへつり>内 「西金砂神社」から見る「金砂城跡」(パノラマ3枚ほぼ180度)
そのような中、佐竹氏は早くから足利尊氏と結び、ここ北部においては北朝勢力の一拠点となり、ここ金砂城も、南朝方と激戦を交えた時の籠城の地となった。 ゆえに鎌倉時代は雌伏期であった佐竹氏も、室町期を迎えてからは概ね好調に乗り、結城や千葉とともに鎌倉府の重要な位置を占め、「関東八屋形」(※)の一つに入ったのだ(^^)v<ヴイヴイ (※千葉・小山・結城・長沼・宇都宮・佐竹・小田・那須の八氏を指す) (パノラマ4枚180度以上)城跡の隣に先ほどの「ふるさと歴史民俗伝承館」が(^^)↓
しかし応永10年(1403)から、佐竹氏内部の間で争乱、すなわち支族・山入氏との内紛が起こった。 いわゆる「佐竹百年戦争」である。 貞義┬義篤−義宣−義盛−女 | || | 上杉憲定−義人−義俊−義治−義舜−義篤−義昭−義重−義宣−義隆 └師義−(山入)与義−祐義−義真−義藤−氏義 コトの起こりは、義盛に男子が無かったため、女系に上杉氏からの男系を迎え継がせるに対し、一族の山入・稲木・長倉が強く反対したからであった。 これに鎌倉公方の後援で、上杉義憲(義人)が太田入城を果たしたが、反対勢力の山入氏が京の室町将軍と結びついて、「京都扶持衆」となっていた事が問題を複雑・深刻化してしまった。 京将軍から見れば関東に対する布石、関東内部においては台風の目でもあるのが「京都扶持衆」である(笑)。 宇都宮・佐竹(山入)・常陸大掾・小栗・真壁・那須・結城白河・桃井などがおり、常陸はこれの影響が少なくない(^^;)。。 城跡の土塁を上るとこんな感じ(^^ゞ(パノラマ5枚180度以上)
それと、「京都扶持衆」については、(2014年1月<加須市「龍興寺」(持氏・春王丸・安王丸の墓)>内)←にも経緯を書いた通り、山入与義は、京都扶持衆として追討される前から、上杉禅秀の乱でも鎌倉公方持氏に逆らっており、その与義が鎌倉公方+佐竹義憲に滅ぼされてからも、京の幕府は与義の子・祐義をなおも取り立て、常陸守護に任じたので、佐竹氏の内紛は終息するどころか再燃する一方だった(^_^;)。。 ゆえに、義俊・義治・義舜と、本拠の太田城から幾度も退却を強いられ、義舜などは10年以上も流浪の日々を送らされている(^^;)。。 その隙に、江戸氏や小野崎氏などの勢力増長を許す経過ともなったが、この両氏と北の岩城氏の力を得る事に成功した義舜が勝利して、ようやく百年戦争に終止符を打った(^_^A) その折にも、やはりここ金砂城は、義舜が籠城して死力を尽くした地であり、佐竹家初代・昌義が尊信するようになってから、佐竹が西金砂山に籠城の都度、戦いが有利に展開したので、金砂山は「佐竹開運の山」として、長く崇敬された山であり神社であった。
そして戦国時代も終焉の頃、天下統一を果たした豊臣秀吉により、石田三成が遣わされ検地を行なった結果、ただでさえ1200石に減った石高も没収となり(;_;)、徳川時代は僅かに24石を存続、朱印地として下賜され、21坊を保った。 徳川時代を迎えた後も、秋田に転封となった佐竹氏によって、金砂神社は秋田にも遷宮されたから、その後も秋田において崇敬され祭祀を続けてはいたようだ。 ここ常陸においては、水戸藩・徳川光圀が神道を崇め、1666年に国内の寺院997ヶ所を廃寺とした。 金砂山も、光圀が元禄13年(1700)、寺院の全ての古仏像を総て廃し、神社に変えるべく、新たに神鏡一面を鋳造、山王権現と刻み、幣帛を加えて神璽とした。 さらに46石余の黒印地を与え、僧侶を本山へ移動して排除、聖護院門主派・修験山方村・宝蔵院祐永(後に又玄)を別当に任じ、入院。観音を中堂に奉り、飯綱不動を賜り、水戸藩の祈祷を命じた。 さらに後日、ガラス酒瓶を奉納し、光圀自身も社参を行ない、祭器幣帛を奉納している。
また代々藩主は大小祭礼に御代拝を差し向けている。 水戸斉昭も社参して折、「眺むれば心の隅も打ち晴るさやかに匂ふ遠の山の端」と詠じた。 私は行けなかったが、本殿は1810年の建築で、「権現造を西金砂風にとり入れた荘厳華麗な社殿」という。 私らが行けた拝殿は、明治6年(1867)災害焼失後、仮社殿のみ建っていた所、ようやく昭和63年(1988)に完成した。 西金砂神社は、昭和19年(1944)県社に列し、「西金砂神社田楽舞」は、東金砂神社(天下野町)に伝わる「東金砂神社田楽舞」とともに、昭和35年(1960)・県指定無形文化財に指定。 ついで、昭和46年(1970)には、国選択芸能無形文化財に指定された。 他に、県指定天然記念物として西金砂のサワラ、西金砂のイチョウの2株が指定。 境内面積26.655坪は、特異な林叢により、自然環境保全地域の指定を受けている。 ワッショイワッショイ!(ふるさと歴史民俗伝承館)
小祭礼の方はともかく、大祭礼は72年に一度である。前の大祭を体験した殆どの人は次の大祭までに死んでるだろう。 上手い事2度経験できる人でも、やっと記憶のある5〜6歳の頃に見たら、次は77〜78歳。平均寿命の短い時代、何人いた事か……(^_^;)。。 口伝や秘儀伝達の通る時代ならともかく、これからもこれを受け継ぎ伝えるべく、現在は、神社向かいで城跡隣の「ふるさと歴史民俗伝承館」(地図)が出来て、祭りの練習などに使用され、古い写真パネル展が常設されている。 私らも係の方に熱心に薦められ、中に入って見学させて頂いたが、白黒写真時代のパネルは、祭りの様子も珍しいが、今の日本には無い風景が満ち溢れていて、実に見ごたえがあった。 <西金砂山〜日立北IC> 来た道がかなり険しかったのと、違う風景も見てみたいので、西金砂山を降りるルートは、上って来た道をさらに先に行ってみたが、この山から東に行くのにはだいぶ南下しなくてはならない点は変わらない(^_^;)。 東に行く理由は高速に乗りたいからで、このあとさらに北上し、金砂山合戦で頼朝軍に敗北した佐竹秀義がさらに逃げ伸びたと伝わる、北茨城の花園神社に行くのだが、そこは福島県との国境「すぐそこ」ってほど北にある(^_^;)。 まず西金砂山(地図)を南に降り、東に里美大橋(地図)まで戻り、さらに東に進路を取って日立北インター(地図)まで山道をいく。 常磐道(高速)に乗って北上し、北茨城インター(地図)で下り、進路を西に向けて、これまた山道を花園(地図)へ。
今回はあと、花園に到着するまでの風景をお届けしながら、「茨城バナシ」をしていこう(^^ゞ。 さきほどの金砂神社の神が、はじめて常陸国、水木浜に現れた時、「あわびの舟に乗っていた」という伝えが気に入っている(^^)。 似たような話が、これより行く日立北インターに間近い、日立市川尻町「蚕養(こかい)神社」(地図)にある。 位置的には、先に見た大甕倭文神社を海岸沿いにやや北に行った所で、緯度的には西金砂神社と同じぐらいだ。 この辺りに「布ヶ滝」と呼ばれる名所があって、案内板に、
と書かれていた。 こういった伝説は各地の合戦話で聞くものだろうが、その表現法に独特の地域性を感じる。 すなわち、「布」である。 海からもたらされた蚕によって糸が紡がれ、布が織られる。海と山、伝承と宗教と実際の生活が織り合って感じられる。 「蚕養神社」の伝承では、「流木に乗った一匹の蚕が流れ着いたのが日本の養蚕の始まり」とする伝承を持つ。 詳しくは「金色姫」で検索して貰うと、いっぱい出て来ると思う(^^ゞ。 現存する出典は江戸時代っぽいけど、継母にいじめられて、インドから来た姫が蚕に姿を変えて云々という話で、先年に紹介した「神道集」(南北朝時代に成立)に雰囲気が近い。 (神道集の安居院唱導は鹿島にも拠点を持っていたと聞くが、金砂神社の天台系と関係があるだろうか(^^ゞ。2013年4月<大胡神社>内以降) ほぼ同じ場所の海食洞には、「八幡太郎の馬の足跡」があり、海辺と言わず山と言わず、八幡太郎の伝説はありとあらゆる所に残っていて、海から文化が伝って来る事と、武人(武神)が武勇を示した事がいたる所に伝説されている。 筑波にも「蚕影山神社」というのがあって、北関東・甲州・駿河など養蚕の盛んな地域から、多くの信仰者が参拝に訪れる。 前回、秩父神社でも述べたが、近世〜近代にかけて、養蚕は関東甲信越の多くの農家の支えで、ここ常陸では特に盛んだった。
この辺りに一軒だけ、わりと立派な蕎麦屋があって、駐車場に車を入れかけたんだが、時間と金の関係もあって(^_^;)、この昼食はコンビニ食事で済ませる事とし、先を急いだ。
神道集にある、悪い継母による継子いじめの話は、赤城大明神だけにではなく、同じネタの使い回しが幾つもあった(笑)。(2013年4月<長善寺(大胡太郎の墓)>内) どうもこの系統の話は、唱導の得意なスタイルだったように思うが、それは「継子いじめ」と言うより、「人買い話」と言う方が、よりジャンルとして的確かもしれない(^_^;)。 なに不自由なく育った良家の子女子息が、突然住み慣れた家を追われて、流浪する、拉致される、監禁される、乱暴され、酷使される……etc。 あげく悲惨な死を遂げ、神仏になって弟妹や我が子の行く末に加護を与える、形見の仏像などが傷を癒す、不思議を起こす……etc。 最後には、離れ離れになった家族や主従が涙の再会を果たし、名誉や身分を元通りに挽回。自分らに仇なした憎い敵への復讐劇が開始される。 山椒太夫(安寿と厨子王)などがこれだが、これも岩城氏を二人の出身氏とするなど、この常陸と境を接する陸奥南部に舞台を持っている。 「小栗判官」の話も、やはり戦に敗れて同族を頼っていこうとする旅の途中を、賊徒に襲われ、身ぐるみ失って流浪のあげく、神仏の加護があって元の身分を挽回する。(2010年10月<「小栗城跡」周囲をウロつく(小栗判官の話)>内) ……そういや岩城には、瀧夜叉姫の伝説もあったよね(^_^;)。マジで不思議説話の宝庫なんだなこの辺て(笑)。(2009年5月<恵日寺(いわき市・瀧夜叉姫の墓所)>)
さらに東北太平洋岸には、例の坂上田村麻呂の(史実とは全く違う:笑)伝承が広く分布している事を、だいぶ前に紹介した。(2010年4月<厳美渓温泉で最終泊、3日目夜〜4日目朝♪>内以降) 江戸期は座頭によって語られた物であるが、田村麻呂に討ち果たされたと伝説される「悪路王」(アテルイがモデルとも言われる)の伝説、「姫待瀧」「髢石」なども、やはり人買(人攫い)話である(^_^;)。 実際、平将門の乱の起きた頃の関東地方は、とんでもない無法地帯だった。 貢だ労役だと、都やその周囲からは物も人も持っていかれるが、無法者があらわれ住処も家族も失った所で、何の援助も差しのべてくれない、自分の身は自分で守らなければ、誰も何もしてくれない。そういう時代が長かった。 実際のアテルイや悪路王・将門が本当に悪人だったかという問題ではなく、どんな時代どんな場所にも犯罪者はいただろうし、人攫いだって現にあっただろう。 あるいは京で、娘や子供が浚われ、どうも東国のどこかに連れ去られた、なんて事があったとしても、そういう場所では、「死んだもの」と諦めるしかなかったかもしれない。(2010年4月<達谷窟、「姫待不動」「金堂」>内) 治安が悪いというのはそういう状態である。
以前、相馬神社に行った時、坂上田村麻呂の伝承に触れて、こんな事を書いた。
これは「鹿島や香取の祭祀が、陸奥にとっていかに重要であるか」を示す内容だが、これを単に「信仰」だけで括ってしまうと、ちょっと軌道がズレると思う。 やはりもうちょっと現実的に、「武的な背景を期待されている」と見るべきだろう。 そして、こうした「地域の要望」を、どうしても「先住民」と「植民」の間に差をつけて表現すべきなら(私はそんな必要など無い気がするんだけど(^_^;))、勿論それは「植民側にとって」と言うべきだろうが……。
上のはコンビニから写した写真だが、山の下に鳥居があって、神社の境内が半ば剥き出しに見える。 こういう神社や鳥居を、あちこちで見掛けたが、こういう風景は東北に多いので、やっぱこの辺て陸奥に近いんだなぁ〜と思った。 それも福島や宮城より、間を一足飛びに飛んで、岩手あたりに来ちゃったような、そんな風景に感じた。 そして深い深い山奥の道を進む。
もう分岐点を過ぎてるが、この少し南に、地域でも有名な「御岩神社」がある。ガイドやネット上の写真で見る限りでも、かなりの山奥という風情に満ちて、修験の山だったようにも思える。 ↑この道も山が深く、見るからにスゴイ感じがするけどね(^^ゞ。 「御岩神社」は出羽三山の「湯殿山」を勧請した神社で、かつては佐竹氏が掘った坑道「佐竹坑」があったという。 佐竹義宣が金の採掘を試したと言われる。 こういう話は、やはり佐竹が通じていたと言われる、奥州藤原氏に通じる匂いを嗅ぎ取れる伝承である一方、総体的には八幡太郎伝説にかき消されている感じもする(笑)。 江戸時代は水戸徳川家の祈願所として名の通った神社だったようだ。 茶屋や宿泊所もあったようで、分岐点の近くでも、「おからドーナツ」「豆乳」など、観光客向けのお土産の幟が見られた(^^ゞ
日立北インター(地図)に来た。これより高速に乗る。特に仕分ける必要はないが(笑)、ここでいったん項目を分ける(話は続くよ:笑)。 <日立北IC〜北茨城IC〜花園神社>
高速に乗った途端、太平洋が見えた。 あの津波以来、東北の海を見るのは初めてだが、いつも東北道に乗ってしまうから、実はこれまでも殆ど見た事がなかった。 相馬に行った時も、内陸を通って到着し、帰りは真夜中になってしまったから。 しかし、やはり海を見て感動した。感動できて良かった、とも思った。 ほんの僅かな間だけどね(^^ゞ。やっぱり高速で見れるのは、ほんの水平線になってしまうので。。 養蚕の話をしたから、大甕倭文神社の話も再開しないとね(^^ゞ。 香香背男(カガセオ)の語源が、実はアイヌ語にあるという見方がある。 私もこれは一理ありそうに思うので書くと、「カウカウ」が「霰(あられ)」を指す点から、「カウカウアシ」→「霰降る」→「鹿島の枕詞」、「よって香香背男は、鹿島のある常陸に関係する」と導く説である。 枕詞にこだわると、返ってやや遠ざかる感じがするが、「霰+広がる」で「カウカウ・サ」、「霰+岩」なら「カウカウ・ショウ」と、ちょっと近寄る感じもするね(^^)v。 万葉の頃の日本語は、漢字で書き表される物より、実際にはとてもゆっくり話されたと言うから、複合的な語彙を「香香背男」と書いたとしてもおかしくない。(2005年11月<鹿島神宮>内) まぁこじつけみたくなったが(笑)、アイヌ語に持って行く本意は、「神」に対する感覚についてである。
早くも高速を降りる頃。道路標識に「関本まであと何キロ」とか出てて、「前来た時、ここで爆睡こいたよね」という話になった(笑)。 そう、2008年9月の旅行だった(レポは2009年1月〜5月)。福島飯坂で最終泊を済ませたつもりで、阿津賀志山防塁や霊山の北畠顕家の陣営跡、最後に相馬の中村神社にいき、帰路について、休憩によった関本PAで寝て……朝になってしまったのだ!!( ̄▽ ̄;)(2009年5月<4日目・相馬の夜〜5日目・いわきの朝っ(爆)>内) でも、それでいわきに行けた。あまり長居はできなかったけど、「瀧夜叉姫」伝説の恵日寺にもいけた。 ……と思い出に浸るのもつかの間、そろそろ高速を降りる。関本より手前の北茨城インター(地図)である。 この日「久慈」という地名を多く見て、「常陸奥七郡に来てるんだなぁ(^^)」と改めて実感♪
……話は戻る(^^ゞ。 アイヌでは、「神」は、それほど絶対的な存在という感じではないらしい。 人間につける尊称程度の意味というか(^_^;)、確かにユーカラとか読んで、ヨソから来る人をすぐ「神」と呼ぶ傾向を感じた事はあった。 自然災害など、人に不都合が起きると、祈りや供物の不足など、自分らに悪い行ないがあればともかく、それが思い当たらない場合は、神に対して強い抗議を行うらしい。 他の国にある宗教観と比べても、人と神の間に、それほど決定的な差や、強く恐れる感覚が薄いように思う。 そういやアイヌには魔神や悪神という観念もあって、東北地方の悪魔祓いに近い感じがある。 アイヌ圏にも他文化が多く混ざり込んでるだろうし、逆に本州からの移入も考慮した方がいいだろうが、どうも私はこういうアッサリした宗教観は、そもそも北や東に強い感じがする(^^ゞ。 やがて渓流の脇道を通る
天香香背男と武葉槌命の戦争の話は、大甕倭文神社で貰った栞の他に、さらにストーリー仕立てになってる物をネット上では見掛ける。 「香香背男が巌を高めて天を突いた」とか、「香取鹿島の二神もお手上げだった」とか、「武葉槌命が金の靴を履いて香香背男を蹴った」など(笑)。 なかでも「金の靴」が気に入った(出典がどこにあるのかはわからないが:笑)。 つまりこの戦いの、「文明×大自然の戦い」という図式がより明確さを増すからだ(^^ゞ。 さっき「御岩神社」の話もしたが、茨城の筑波山などは、山じゅうが巨石の宝庫と言える。 めくるめく岩場の塊といった所で、我が下総でも縄文時代から、この筑波山から利根川を通して運ばれる石を珍重していた様子が博物館など行くとよく伺える。 大甕は、筑波山からはちょっと距離があるが、香香背男を封じ込めていると伝わる岩場をああして見た限りでも、やはり筑波山と同じような巨岩地帯がイメージされる。 ■筑波山の巨石群(10/25遅れてリンク(^^ゞ) 2007年5月<筑波山・女体山コース>内以降 2010年9月<筑波山神社・随神門〜拝殿〜御神水滝>内以降 2010年10月<筑波山神社・山頂〜女体山コース、2>
香香背男=巨石は、もちろん日本書紀には出て来ないし、そもそも記紀や風土記に書かれてない香香背男にまつわる伝説が、大甕など一定の地域に残っている……とも、実はそんなに思ってない(^_^;)ゞ。 しかし「ホント」に迫る所はあると思う。 だから水戸の御老公サマも「重大( ^。^)σ」と認めてくれたのかもしれない(笑)。 条件を満たしてくれる要素として、「常陸国風土記」の巨人伝説など、どうだろう。
「常陸風土記」は成立も養老年間(717〜724)と古く、古事記・日本書紀と殆ど同時期の書物である。 作者は不明ながら、藤原宇合(いわゆる藤原4兄弟の三男、式家の祖)と推測されており、そのせいか出雲風土記に比べると、仏教の話が極端に少ないのが特徴という。
風土記の中で、夜刀(やつ=谷)の神と箭括(やはずの)麻多智(またち)の戦いの話が有名である。
これはよく開墾譚と言われ、川筋に沿って水田を築く人と、山に領域する山の神との「棲み分け話」とも言われる。 やがて花園神社の駐車場に到着。綺麗な森
藤原宇合は、中央の朝廷政権に深く関わった中臣(藤原)鎌足の孫・記紀編纂に関わったともいわれる藤原不比等の三男である。 常陸風土記の作者であった場合、中央の風土記編纂の意図を深く理解し、文章を選定した事は充分に考えられる。 また、藤原氏は常陸の出身という説もある。(2005年11月<鹿島神宮>内) そういわれてみれば鹿島の武甕槌命は、出生に遡るとカグツチを切った血から、岩石を思わせる兄弟と一緒に、ボロボロと生まれて来た。「甕星・天香香背男」も、実は似たような同根の可能性があったかもしれない。 名前に「天」とわざわざついてくる矛盾が、その辺りに見え隠れする気がしなくもない(笑)。 朝廷勢力の言いなりに、せっせと風土記編纂にいそしむ藤原氏などは、在地においては、「朝廷の飼い犬」「廻しモン」などと後ろ指を刺されていたかもしれない(笑)。 そう思って振り返ると、先ほどの夜刀の神に対して、箭括麻多智が、「目に見る雑の物、魚虫の類は(中略)打ち殺せ」など言うのも、やはり日本書紀で、香取・鹿島の二神が香香背男の事をいう前に、「邪神や草木・石に至るまでも平らげた」という言い方に似てるな〜と思う(笑)。 常陸風土記の「夜刀の神」が、敵対的な存在なのか、或いは自然の脅威・災害などを象徴するのか、山と田の仕分けを描く上で具現化されただけの存在かはわからない(^_^;)。 前号、藤ヶ谷城や富塚城の所で、律令の態勢から外れて、国衙同志の領域の狭間に隠れ住む人の話をした。 それが可能となるのは、実は班田税収というものが、最初から川沿いの開田だけを当て込んで、それ以外の土地をカウントせぬからだという(笑)。 中央から任命される国衙人とは別に、在地の豪族らは人を雇い使って開墾し、食っていける産業を見出し、谷も山もだんだん凌駕していった。常陸や房総の平氏も、佐竹も新田や足利も、皆せっせと開拓した者たちである。 しかし記紀や風土記を編纂した頃は、未だ「アラレが降る」自然現象こそが、「天界(朝廷)が未だに手こずっている困難」だった。 弘仁〜桓武朝に行われた蝦夷征伐(対アテルイ戦)も、平安期の前九年・後三年の役も、強敵と言うよりは、自然の脅威との戦いだった。(2010年1月<巣伏村の古戦場跡(胆沢側)「田んぼアート」>内、<えさし藤原の郷・B「経清館」「清衡館」>内、<矢びつ温泉「瑞泉閣」にて、3日目朝!>内) それは夜の闇に見えては瞬き、雲がかかれば見えざる遠い星の彼方、太陽の光は遠く届かぬ土地。大和朝廷の限界を表している気がする。 そうした自然を克服すべく、肌を覆う布を作り、靴をはき、着物をくれる人を「神様(^^)」と思って信仰するのは、土地として当然のリアリズムだろう。 次回は、この「花園神社」から始め、常陸太田市の「馬坂城」「佐竹寺」など見学して、2日目の宿に到着。3日目の朝ぐらいまで行けるかなー。 (関連リンク類は、また後日おいおい(^^ゞ) 2014年07月31日 出来ました(^^ゞ↓ 以上、関連事項は(10/25遅れてリンク(^^ゞ) 2005年11月<鹿島神宮>内以降 2007年5月<筑波山・女体山コース>内以降 2007年9月<松ヶ崎城跡(柏市)>内 2008年2月<鹽竈(しおがま)神社>内 2008年5月<香取神宮・2、「本殿」>内 2008年7月<牛久城跡、2>内 2008年12月<布瀬城跡・香取鳥見神社(天慶の乱・伝承地)>内 2009年5月<妙見社・国王社(妙見曲輪)>内以降 2009年7月<南部「今城」>内 2009年9月<1日目・千葉城(亥鼻公園)>内 2009年11月<犬吠埼の夜〜朝(#^.^#)>内以降 2010年1月<巣伏村の古戦場跡(胆沢側)「田んぼアート」>内以降 2010年2月<えさし藤原の郷・D「大路」「街並み」→出口>内以降 2010年3月<中尊寺・白山神社〜帰りの参道>内以降 2010年4月<厳美渓温泉で最終泊、3日目夜〜4日目朝♪>内以降 2010年9月<筑波山神社・随神門〜拝殿〜御神水滝>内以降 2010年10月<筑波山神社・山頂〜女体山コース、2>以降 2011年6月A<塔のへつり>内 2012年3月<熊野神社・長床>内 2013年4月<大胡神社>内以降 2014年1月<加須市「龍興寺」(持氏・春王丸・安王丸の墓)>内 <つづく> |
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