<2014年・城主のたわごと11月>




2014年3月「茨城北部編」第5弾・最終回\(^O^)/!

常陸太田市「西山荘」、水戸「偕楽園」の夜の梅☆ミ




     
  「茨城北部」の旅レポも、今回が最終回(^^)。
今回は歴史ネタと言うより、ボンヤリ見る「水戸の夜の梅ツアー」って感じ♪

なので、ちょっと気が早いけど↓

日常編は文章も少ないし、日常編だけ読まれてもそんなに嬉しくないので(笑)、ここで去年同様、前レポの宣伝を行う(^。^)。

今回はまだ「日常編」ではないが(^_^;)、メインは前回分までで、今回のは事実上、「日常編」と変わらないので、もう入れとく(笑)。

〜おしながき〜(これまでの茨城北部編
「6月のたわごと」(千葉北西城跡・茨城北部1)
■3月・茨城県水戸市・常陸太田市・北茨城市・笠間市
<水戸・茨城県立歴史館「常陸南北朝史」展>
<水戸市街と水戸城「彰考館」跡>
<常陸太田市「大甕神社」へ>
「7月のたわごと」(茨城北部2)
<大甕倭文神社(つづき)>
<1泊目夜〜2日目朝・横川温泉「八幡太郎義家の湯」>
<横川温泉から金砂温泉まで>
<金砂温泉〜西金砂神社の石像群「田楽舞」>
<「金砂城跡」と「西金砂神社」>
<西金砂山〜日立北IC>
<日立北IC〜北茨城IC〜花園神社>
「8月のたわごと」(茨城北部3)
<北茨城市「花園神社」@滝と渓流>
◆義光@、官職を捨てて兄・義家の援軍に駆け付けるの段◆−−−−−
<「花園神社」A楼門から拝殿まで>
◆義光A、助けた兄・義家に言い負かされるの段(笑)◆−−−−−−−
◆義光B、今度は貴族に忠義を捧げてみるの段◆−−−−−−−−−

<「花園神社」B本殿>
◆義光C、結局地元(身内)の抗争に身を投じるの段(^_^;)◆−−−−−
<花園〜常磐道〜常陸太田>
◆義光D、兄・義家が死んだ途端の超黒幕な暗躍劇!◆−−−−−−
<馬坂城跡>
<佐竹寺>
<2日目夜〜3日目朝、笠間市「ぶんぶくの湯」の宿>

「10月のたわごと」(茨城北部4)
<「ぶんぶくの湯」A、霊泉と「源九郎・意成大明神」>
<笠間から、再び常陸太田へ>
<「太田城(舞鶴城)・本丸跡」(太田小学校)>
<「太田城(舞鶴城)・二の丸跡」(若宮八幡宮)>
<昼食・太田街なか「石打うどん」>
<佐竹氏歴代の墓所「正宗寺」>
<正宗寺「佐竹氏一族と佐々宗淳(助さん)の墓所」>
<西山荘>

読んでねっ(≧▽≦)!(既に読まれた方は今回のに進んでネ(^^))

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そして、東北・北関東の旅もヨロシクね!

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リンク貼ったけど、「東北観光博」は自民政権はやらないみたい。「閉幕」になってますた(^_^;)。
旅*東北」なるサイトが後を引き受けてるっぽいけど、バナーがない(^_^;)。。
東北の歴史」というページが史跡巡り向きって事みたい(説明が殆どないけど。。)

さて、今回は最終日の最終回で、3日目の夕方、常陸太田の西山荘の続きから、水戸に戻って「偕楽園」の夕刻〜夜の梅花をタップリと堪能して帰宅した。

珍しく、今月号でピッタリ終わるです(^^)。



<西山荘、2(つづき)>

前回は→2014年10月<西山荘>

西山荘(地図)は、前回も述べた通り、水戸黄門の名で親しまれている水戸藩主・徳川光圀の隠居所で、その死後も大事に保存・管理されていたが、光圀の没後119年の文政2年(1819)、野火により焼失。
現在ある西山荘は、その二年後に、規模を縮小して再建されたものだそうだ。

ただ、現在歩いている辺りは、これも前回述べた通り、光圀に仕えた侍たちが家屋敷を建てた辺りであったようで、グーグル地図では「西山荘管理事務所」と書かれている敷地で、庭園公園風にしつらえてある。

前回はその入口となる小路から入り、梅林を囲む通路をめぐって、「お前田(ぜんだ)」に到達した所で、今回に譲った。

↓「お前田」とやってきた道を振り返る(パノラマ3枚ほぼ180度)

「西山荘」に行くには、この道でクルリと後ろに向き直して、前に進む。

実質上、「西山荘」と呼ばれる場所は、これより先(今見ている位置の後方)の庭園と建物を指すと思うが、残念ながら、それより先は「撮影制限」地帯である。
(確か「違反者は見付け次第、訴える」的な文言だったよ(^^;))

「禁止」でなく、「制限」というのは、確か「内々に見る分には可」的な文言だったと記憶する。

「こたつ城」ていどの閲覧者数だと、「内々」に近かろうね(^_^;)ゞ。
だから最初は、今月号だけ検索から外して(検索で来れちゃうと、大勢になる可能性があるから)アップしようか、と思った。

が、遠慮してそんなに撮影しなかったのと、今回意外と写真枚数が多く割愛の必要もあったから、提示は控える事とする。
よって、ほんの入口付近まで進む事にしよう(^^ゞ。

もう少々この梅林公園が続き
やがて「西山荘」の入口付近が見えて来る

それとこの時、内部は東日本大震災による破損の修理工事中で、建物には全面に覆いがかけられ、建築機材などが辺りに置かれて、大きく視界を遮っていた。

この事は入口で入場料を払う時に説明を受け、「仕方ないよね(^^ゞ」と了解して払って入ったんだが、その入場料というのが確か700〜800円ほどと、決して安くない(^_^;)。。
(水戸・偕楽園ちかくの同団体(徳川ミュージアム)拝観料は、1200円だとっ(*o*)!!)

さらに、そうやって入ってみると、建物以外の散策庭園は広いと言えば広いが、素晴らしく見ごたえがあるという感じでもないので、正直「ちょっとヤラレた(^_^;)」と思った(爆)。
入場する所では、何やら地元の高価な和菓子を売られそうにもなった(汗)。。

震災復興のためと思えば、高いとは言いにくいが、復旧工事は40年ぶりだそうだから、時々このような補修を行っているのだろう(^^ゞ。

ただ、歴史的に意義の高い文化財の修理であるから、修理内容についての説明版には、実に綿密な内容が記載されていて、これには感心した。

江戸時代の材料や工法を用いて行なう事が書かれていた。
震災では、御殿は傾き、土壁もヒビが入り、疎石までもがズレたという。
その修理が今ごろ行なわれているのも、調査のために二年の月日を要したからのようだ。

料金所の建物
入口から見える「通用門

……ちなみに、貰ったパンフ内にある絵地図には、↑の料金所の左奥に「便所」と書いてあるような……(^_^;)。
(前号で、ここまで来た人が慌てて戻ったのは「ナイ」と言われたからだったが)

ここから見える「通用門」は、普段から出入する家臣や近所の領民が通った門で、正門「(くぬぎ)」や、水戸城からの使者が通った「突上御門」といった正式な門より、立派な作りとなっているそうだ。
その理由を、「光圀が領民を大事にした姿勢の顕われ」という(^^)。

写真はここまでにするが(ごめんね(^^ゞ)、西山荘に入ると、建物は「御殿」と「守護宅」があり、修理中なのは「御殿」の方だったから、「守護宅」には入れた。
内部には展示場が設けられていたが、ここは完全に「撮影禁止」( -_-)×
読書にいそしむ黄門のマネキン人形が置かれ、黄門の声音らしきで、「ようおいでじゃった」みたく話しかけてくれた(笑)。

展示内容は調度品などあったと思う。あと、光圀のいわゆる「漫遊」の実質的な範囲が地図に示され、講談や映画・ドラマに描かれるような「全国」ではなく、主に関東(せいぜいその周辺)といった感じに書かれていた。

話は続けるが、写真はこれまでの梅林園を、今度は後戻りしていこう↓

←入口前に広がる池。この辺りは梅が多く、黄門役を演じた「佐野浅夫」からも「難波梅」という、光圀が愛した梅の苗木が寄贈されていた。

亭主は「佐野浅夫は確か、「風と雲と虹と」で平国香将門の叔父)の役もやってたね、つくづく常陸に縁があるんだね」と言ってた(笑)。

「水戸といえば梅」と、殆ど反射的に思いこんでいるから(笑)、ここに梅林が多くても全く違和感が無かったが、どうも「水戸藩=梅」のイメージは、これよりいく水戸の偕楽園の梅林からのようで、偕楽園を作ったのは光圀ではなく、幕末の斉昭である(^_^;)。

家康−頼房┬頼重−頼章−頼豊−宗堯−宗翰−治保−治紀┬斉脩┌慶篤
       └光圀−頼常                      └斉昭┴慶喜

しかし光圀にも梅にちなんだ逸話が残る。
梅は「学問に励めば梅が咲く」という故事にあり、光圀は西山荘の書斎の丸窓の近くに梅を植えて、日々梅を見ながら、勉学のいましめにしたという。
今言った「なにわ梅」も、西山荘の庭園に、光圀お手植えの梅樹がある。

今度は梅林の左側を通ってみる
立派な白梅。樹の翳りによく映える(^^)

見るからに贅をこらした美麗さや、風流の極致といった芸術的な庭園ではないが、池辺や山が続く中に、四季折々の山川草木が見られる造りだった。
また、医薬や健康食、染料・香料といった、実用を兼ねた多種多様の植物に、光圀の工夫の精神が感じられ、後世、斉昭の偕楽園に通じる水戸庭園の源泉が感じられた。

維持を考えると料金はいいとして、こんな山奥の庭園が撮影制限なんて意味不明すぎ(^_^;)。
建物内や展示物への撮影禁止は当然としても、高額の見学料を取ったあげく、庭全部禁止はやりすぎでしょ(汗)。
せめて可と不可に分けて、限定的に許可するとか 、せっかくの工夫と庭の味わいを、こういうネット・レポを通して、多くの人に知って貰えた方が集客効果が高いのにね……。

日光あたりでも感じる事ながら、「徳川」関連の史跡(水戸藩では徳川ミュージアム)の姿勢は、領民思いの光圀や、「締め付けだけが学問じゃない」と考えた斉昭の精神に反する
気取って腐った儲け主義の寺院風を、この東国で吹かせるなんて感心しない。

あと、書籍類を受付(料金所)に揃えていないトコも問題。
それなりの料金を取るなら、できるかぎり豊富な郷土本(無ければせめて学術書か観光書)をズラリと並べて然るべきで、このような点が、伊達・上杉・保科・松平・真田などの治めた東北・信州に劣る。(良心的で質の高い史跡を見慣れてる人が多いから、生き残れないわよ(^_^;))
(2007年3月<鶴ヶ城内・茶室「麟閣」><会津松平氏庭園「御薬園」>

梅林公園の途中にあった池辺庭園と和風建築(パノラマ3枚ほぼ180度)

ただし展示内容には、光圀がここ西山に別荘を求めた理由が推測されていて、印象に残った。
記憶が薄れぬうちにメモ書きした内容によると……、

@母の墓が近く墓参りに便利だから
A大日本史の推敲をするのに水戸と近いから
B史記の伯夷・叔斉兄弟のゆかりの地(首陽山かと(^^ゞ)と同じ地名だったから
C佐竹の本拠地だった事への配慮(佐竹旧臣らに気を使った)から

光圀の母の墓というのは「久昌寺」かな。前号、若宮八幡宮からも見えた→(2014年10月<「太田城(舞鶴城)・二の丸跡」(若宮八幡宮)>内が、元はちょっと位置が違ってたらしく、他の史跡との位置関係ごと示すと→<西山荘>内

水戸に近いのが良いというのは、連載第一回目、2014年6月<水戸市街と水戸城「彰考館」跡>内でも述べた通り、大日本史編さんの中心地は、水戸城であるからだ。

(細かく述べると、1657年に着手。1672年に江戸の駒込亭から小石川本邸に移り、1698年に水戸城に。光圀の死後、再び江戸に移り、以後、1829年に江戸が廃止されるまで、江戸水戸の双方で進められた)

「伯夷・叔斉」は有名な話なので、「光圀」を付け足して検索してみて(^^ゞ。


で、ここでやはり気になるのは、最後Cの「佐竹遺臣への配慮」の項(^^ゞ。
水戸を事実上の本拠地と定めたから、佐竹旧臣が「ないがしろにされた」と感じるのを避けるため、西山にも何か目玉施設を作って、地域繁栄を計ったって事だろうか。

或いは逆に、太田城などに遠慮して、ちょっと奥まった所に場を避けた、という意味なのか……。
はたまた、こうして引退藩主が何かと御用を作って、旧臣らを活用した(つまり雇用の斡旋(^_^;))のような効果があった、という事なのか……。

さて、途中に笠間泊を交えつつも、前々回から長く特集してきた常陸太田の史跡巡りも、これにて終了(^_^A)。
この後も、光圀のことはちょっと話に出ると思うが、これよりは初日にも寄った水戸に、最後の見学タイムを充てたい♪



<偕楽園@南門まで(千波湖〜梅桜橋)>

本来は、常陸太田の史跡巡りは2日目には終え、3日目は水戸を通り過ぎてさらに南下しながら、各地の史跡巡りをする予定だったが、何度か述べた通り、この旅行では初日から遅れが出たため、常陸太田が最終日となった。

それでも3日目は、意外とスイスイ予定をこなせて、西山荘を出る時も、まだ夕方ちょっと前ぐらいだったのと、秋旅行に比べると、やはり3月下旬は日暮れが遅く(^。^)、この後も長々と明るい時間が続いて余裕が残った。

西山荘を廻る頃から、亭主は何やらソワソワと、「偕楽園、行けるよね?」と聞いてきた。

「……と思うよ。初日に駐車場免除して貰ったから、行けないと申し訳ないよね(^^ゞ」
「あと、何と言っても、水戸と言えば偕楽園!って印象がある!」
「子供の頃行ったきりで、殆ど覚えてないけど……(^_^;)」

その「子供の頃の記憶」では、正直そんなに強い印象に残る所じゃなかったんだが(笑)、こっちは行って見て大正解だった\(^O^)/!
水戸に向かう亭主のハンドルさばき(何それww)も、常に無く先を急ぐ感じがあり、亭主は車中、偕楽園を見たい思いを、かくのごとく名言した。

一般人の血が騒ぐ!( ̄^ ̄)」  ヾ(^^;)<何ですかそれ

西山荘(地図)からは293号線で東進、常陸南太田IC(地図)から常磐道(高速)で南下、水戸北スマートIC(地図)で降りて、偕楽園に向かう。

真正面に千波湖が見えたら(地図
右折、右の岸壁は七面山の南岸

七面山というのは、偕楽園を作るために切り開いた山で、千波湖を臨む位置にあったと言うから、この斜面が相当するだろう。現在はこの通り、常磐線が通っており、ちょうど偕楽園に到達した地点に「偕楽園」駅がある。

やがて道の左手は、千波湖に代わって……

田鶴鳴公園梅林が見えて来る
一方、右手・高台に偕楽園の好文亭

右の写真の通り、道の手前に駐車場があるから、向こう側(七面山)にある偕楽園に入るには、この道路を横断しなくてはならない。

初日も登ったエレベーター付き歩道橋から見下ろす(パノラマ2枚)

初日の写真はこれね→2014年6月<水戸市街と水戸城「彰考館」跡>
駐車場の向こうに淡い色で横たわるのは、さっき通った、田鶴鳴公園の梅林。
←道路の左が偕楽園だが、近年、道路を跨いだこちら側↑にも公園を整備し、あの梅林を増殖させたそうだ(^O^)。

↑田鶴鳴公園(部分拡大)↓

偕楽園が約11ヘクタール(国有地)に対し、近年、南西の崖下約1.7ヘクタール(県有地)が加わり、さらに道路を越えて、千波湖の西側……↑この田鶴鳴公園を含めた広大な敷地を、県が大規模な都市公園として造成中だそうで、偕楽園と合わせると、約58ヘクタールの広さを整備している事になる(゚.゚)!<スゲェ。。

偕楽園の絵地図

↑園内にあった案内板だけど、字が小さいので、濃紅の字は(例によって)私が書き入れたよ(^^ゞ。

まず、上部、右上の梅林と緑の森などが書かれた一帯が「偕楽園」である。
常磐線と国道に区切られた下部も、今言った通り、現在は県の事業計画によって公園として整備されていっている。

で、今いる所は、中央やや左寄り「梅桜橋」(地図ヤフー)。
これより園内に入って「南門」→「南崖」に行きかかる途中を戻って、「(くぬぎ)」あたりから、「好文亭」(地図)にすぐ入れる所を歩く。
が、せっかくの梅の季節だから(^^)、暮れ切る前にちょっとだけ見ようと、一度「東門」に向かって梅林を歩き、日暮れと同時に、「好文亭」に入って内部を見る。

←道路向かいの駐車場から見えた「好文亭」最上階。(拡大)

「好文亭」から出た後は、右上の梅林を、いわゆる「水戸の夜の梅(^^)」を見ながら、「御成門」近くまで行って左方向に転回。最後は「孟宗竹林」を通って、また「梅桜橋」から駐車場に戻る。

このように我々は「南門」付近から入ったし、交通の便もあって、一般的には「東門」から入る人が多いそうだが、本来は北の「表門」から入場するのが正式な歩き方だ。

すなわち、竹林や森林といった緑の空間を「」に例え、やがて「中門」に達し、「好文亭」の建物を通って、「芝前門」から「」への展開、すなわち光り輝く梅林へと見て歩く道のりである。
偕楽園とその周辺では、実に多くのパンフレット類を貰ったが、多くの案内に、この正式な歩き方への薦めが書かれていた。

梅桜橋」を渡り切ると、階下には偕楽園の南端が既に見えてくる。下を通る散歩や見学に来た人達→

実はこの日、園内の「好文亭」が、特別に夜間入場OKという、さすが梅で日本一有名な偕楽園の、「梅まつり」期間だったので、遅い時間だが超・超・超お得な「夜の梅ツアー」が堪能できた(≧▽≦)!

通常だと、
好文亭(建物)は9時〜17時(10/1〜2/19は16時半まで)で、
偕楽園(野外)でも6時〜19時(2/20〜9/30)、7時〜18時(10/1〜2/19)だが、
この日は21時ごろまでいられたと思う(#^.^#)。

では、いよいよ偕楽園に着地しよう(^O^)!

橋からエレベーターで偕楽園に降りて来た(^^)(パノラマ4枚180度以上)

偕楽園が出来たばかりの頃は、ここまで千波湖が及んでいたそうだ。
やがて桜川を経て入るようになったのだろうが、何しろこの辺りには船小屋もあり、又これより通る南門あたりには船着き場もあって、水戸城からここまで直接、舟で来る事もあったという。

現在の水戸は、陸地がたくさん続いているが、昔は千波湖がもっと広く、大正時代の干拓を経るまでは、今の三倍から四倍の大きさだったそうだ。

水戸城跡は、ここよりやや東方にあるが(この辺ね→地図)、博物館で買った本で見ると、城のすぐ南まで大きな湖が迫っていた様子が確かに見て取れる。

その千波湖より、さらに東方の城下に対し、光圀は飲料水に悩む下町の住民のため、1663年、のべ2万5千人を大動員し、550両を費やして水道を完成させた。
全国で18番目の水道と言われる。(水源地は現在も使用されている)

有名な「偕楽園」と書かれた立て札
南門まで続く石灯籠

この「偕楽園」と書かれた大木の立て札は、震災の時大きく傾いて、この地面も液状化で水浸しになってる写真が、配られたパンフレットにあった。

他に、南崖の崖崩れ、地面の崩落やひび割れの写真が、修復後の写真と並列して載せられ、「ちゃんと復興しました(^^)」と報告していた。
とても好印象だったし、ちょっとジワッと来た(;_;)。。

右の石燈籠は、偕楽園のライトアップに併せて、足元を照らす誘導灯として、真壁産の石が選ばれ設置されたそうだ。
そうそう、真壁は前に真壁城に行って、「この辺て、石工の看板やお店が多いね〜(゚.゚)」と驚いた事を思い出す。
(2010年12月<真壁城跡(古城と城跡公園)>

中でも真壁の石燈籠は全国的にも知られ、石燈籠には多くの「型」がある中、光圀が京の勧修寺に寄進した物として、「勧修寺型燈籠」が知られるという。

京の勧修寺では今でも水戸に縁のある燈籠として庭園に飾られているという。

今回、金砂神社に行った折も、大祭の田楽の様子を石像に刻んで街道筋に並べられたのを見たが、あれも笠間で作られたそうで、やっぱ常陸は、つくづく巨石材の国だねぇ(^^)。

南門」到着→
こけら葺の門。ここに昔は船着き場があったんだね(^^)。(さっきの案内板・絵地図



<偕楽園A南崖と見晴らし広場の夕梅(南門・櫟門・東門・好文亭前)>

偕楽園を作る9年前、その先がけとして、9代藩主・徳川斉昭(なりあき)は天保4年(1833)、その母体といわれる梅林(植樹)計画を立てた。
翌年、ここ七面山の一角を切り開き、飢饉と軍用の非常食として梅の木を植えさせた。

右手に視界が開け、さっきの田鶴鳴梅林がズラリ(パノラマ4枚180度以上)

←この左手に迫る崖壁が、この偕楽園の南崖と呼ばれる急斜面。
実はこういう地形にも、ここに偕楽園が築かれた理由がある、と言われている。


それは水戸城が、その西側の防備が手薄である事が難点と言われてたからだ。
つまり、このように見晴らしが良い場所という事は、裏を返せば、「敵を見張るのに最適」とか、「敵の上陸を許したら最悪」という事かな(^^ゞ。

何しろこの地の造営については、「敵の攻撃への備えがあった」といわれており、建築構造にもそのように受け取れる箇所が少なからずあるそうだ。(さっきの案内板・絵地図

←(確か)「櫟(くぬぎ)門」に続くちょっと急な坂
↑振り返ると、なだらかな下り坂は綺麗な綺麗な梅の花盛りだよ(^O^)!<うわぁ〜い♪

天保10年(1839)には、偕楽園の創設趣旨として「民と偕(とも)に楽しむ」という目的を表明。
天保12年には、藩校「弘道館」を開校。
同年、これの付属施設という性格をもたせて、偕楽園の造園や好文亭などの建築工事をはじめた。
翌13年に完成。開園した。

弘道館が文武修業の場であるのに対し、偕楽園は「修業の余暇における、心身休養の場」と位置づけられ、この両面をもって修める事が、水戸藩の文教政策の一環をなした。

だいぶ登って高所から写す(パノラマ3枚ほぼ180度)

ちなみに「弘道館」(この辺ね→地図)で教えた内容は、「文館」で儒学・礼儀・歴史・天文・数学・地図・和歌・音楽など、「武館」で剣術・槍術・柔術・兵学・鉄砲・馬術・水泳など、多種多様だった。

施設は文館・武館の他に、医学館・天文台・馬場・調練場などがあり、総合大学の機能をもっていた。

さらに、建学の精神を、「神儒一致」「忠孝一致」「文武一致」「学問事業一致」「治教一致」の五項目に求めたため、八卦堂・鹿島神社・孔子廟・学生警鐘が建てられた一画もあり、聖域とされていた。

また、藩主も立ち会いのもとで試験が行なわれた正庁の間、徳川慶喜が幼児期に学び、大政奉還後に恭順謹慎を送った至善堂などが残るという(我々は行かなかったケド(^^ゞ)。

櫟門から入って来て左脇の「好文亭」(地図)↓
好文亭に入る門も見えたが、「本日は夜間ライトアップ」と書かれた案内が目に入り→
「じゃ、先に梅を見ようか(^^)☆ミ」と周囲を散策した。

上記「弘道館」に対し、ここ「偕楽園」の“由来”は、「偕楽園記」に「一張一弛」とあり、「礼記」に残る孔子の言葉で、「厳しいだけでなく、時には緩めて楽しませることも大切」という教えによる。

そして偕楽園の“”の謂れは、「孟子」の「古(いにしえ)の人は民と偕(とも)に楽しむ、故に能く楽しむなり」からとったもので、この建物「好文亭」は、梅を愛した斉昭が中国の故事から、を意味する「好文」を使って命名した。

梅の木は現在3000本あるが、当初は1万もあったという。

見事に咲く白梅に↓
低地を這って緑に映える紅梅→

偕楽園の南西半面は、さっきも絵地図で見た通り、竹や杉など緑の林だが、北東半面はこの通り、有名な梅林に覆われている。

こちらは東南部、東門に向かう「見晴らし広場(パノラマ4枚180度以上)

梅の本数が多いだけでなく、梅の種類の多さでも国内有数で、特に花の形、香り、色のどれをとっても優れた梅として評価された次の品種が、昭和9年(1934)に「水戸の六名木」に選ばれた。

1月下旬〜2月下旬「白難波」「烈公梅」
2月上旬〜3月上旬「柳川枝垂」
2月上旬〜3月中旬「虎の尾」
2月中旬〜3月上旬「月影」
3月中旬〜4月上旬「江南所無」

東門」付近、土産屋および偕楽園レストハウスなどの灯りが綺麗↓(さっきの案内板・絵地図
他にも「白牡丹」「翁」「てっ懸梅」「日月」「御所紅」「見驚」「冬至」「八重寒紅」などが、配布されたパンフレットに見えるφ(。。)m。

植えられている場所は、大まか以下のエリア。

  「表門」附近 「御成門」附近 「東門」附近 「芝前門」附近 「櫟門」附近





白難波
烈公梅
柳川枝垂
虎の尾
月影
江南所無
白牡丹
てっ懸梅
日月
御所紅
見驚
冬至
八重寒紅

そろそろ日の光も限界。「夜の梅」モード近し(^_^;)
こちらは、「菁莪遺徳碑」→
石碑の類は偕楽園内にいっぱいあるが、これのみ何とか写真に納めたので、案内板の記述を提示↓

この碑は15代将軍・徳川慶喜公のブレーン原市之進の顕彰碑である。
市之進は文政13年(1830)水戸藩士・原雅言の子として生まれる。
藤田東湖とは従兄弟の関係にあった。
元治元年(1864)一橋家の用人となり、慶喜に仕える。慶応三年(1867)兵庫開港を計ったという理由で幕臣に斬殺される。歳38であった。
 篆額は水戸代11代藩主・徳川昭武公で、「青莪遺徳碑」の青莪は市之進の号及び経営した塾の名。伍軒も同じく号である。碑文は昌平校の同学仙台藩の岡千仭。書は九州の吉田晩稼で、明治30年の建碑である。

まぁさすがは幕末動乱の中心的存在だった水戸藩で、幕末の有名人を多く輩出してるし、関連史跡もいっぱいある。
特に天狗党の乱に関する史跡は茨城県じゅうにあって、書き始めるとキリがないほど(^_^;)。
(2012年11月<「光明寺」(伝・親鸞お手植えの菩提樹)>内

個人的に関心を持ったのは(時間無くて見学どこじゃなくなったけど)、武田耕雲斎らが処刑される前に閉じ込められてた鰊倉かなぁ……。敦賀の現物が、この水戸にあるんだぁ(^_^;)。。



<偕楽園B「好文亭・奥御殿」>

てなわけで、これより夜の偕楽園……特に「好文亭」をお届け(^O^)!

だいたいの所は説明して来たので、この先は出来るだけ画像中心でいくねー♪
ただ暗さが一層増して来たので、かなり部分明度あげて出します(^_^;)。

いよいよ夜陰の近付く梅林を背に
好文亭の門を潜る!

「好文亭」は天保13年(1842)、偕楽園の開園と同年に、藩主別邸として建てられた。

先述の通り、偕楽園が弘文館とセットで企画造営された経過から、詩歌管弦の催しなどを通して家中の人々と共に「心身の休養をはかるため」に、特に梅を愛した徳川斉昭(9代・水戸藩主)が、「学問に親しめば梅が聞き、学問を廃すれば梅の花が開かなかった」という中国の故事にもとづいて、を意味する「好文」をとって命名した。
(「学問を好む」という「梅の異名」ともいわれる)

←ライトアップの仄明るさが幻想的(#^.^#)
↑闇に浮かびあがる白梅。夜の梅だー☆ミ

「水戸といえば梅」というイメージから、水戸黄門の光圀と直結しがちだが、今言った通り、そもそも梅の愛好者は斉昭である(^^ゞ。

水戸黄門の漫遊記というのは、江戸〜明治の講談に既にあったようだが、黄門の脇で、助さん格さんが納豆や梅干しの包みを、印籠がわりに突き出してアピールしてる絵が、江戸時代からあったわけではないと思うよ(笑)。

西山荘でも、光圀が書斎の窓辺に梅を植えて、この故事を戒めとした逸話を見たが、その梅の実を、「飢饉や兵糧の足しに」と、多く植樹したのは斉昭ね(^^ゞ。
ちなみに光圀(2代)と斉昭(9代)の間は、光圀の死が1701年、斉昭の生誕が1800年と、ピッタリ100年ちかく空いてる。

納豆や梅干しが水戸名物として全国版となったのも、やはり斉昭以降と思われ、納豆は明治時代、駅のホームで売られたのが始まりだったという。
水戸天狗納豆の歴史(「水戸天狗納豆」より)←こちらに、八幡太郎義家の伝承に始り、光圀の採用などを経て、偕楽園とともに明治に全国版となった経過が書かれている。

門を入ると横合いから灯りがチラチラ見え
好文亭(本館)の玄関に到達(^^)

今「本館」と言ったのは、当地でそう呼ばれてるわけではなく、入って行くと、続き廊下から奥に「奥御殿」と呼ばれる建物に通じるから、取り合えずそれとの区別上ね(^^ゞ。

奥御殿のほうは平屋だが、こちら(本体)は見ての通り、上に建物が乗っていて、最上階は「楽寿楼」と呼ばれる部屋がある。いわゆる「二層三階建て」構造。


玄関は、奥御殿と本体、二つの建物(と言っても繋がっているが)の接点にあり、玄関を上がると、奥御殿から先に巡るのが順路になっている。

入るとすぐ脇に「羽衣の松」がある。
かつて仙奕台(せんえきだい・(さっきの案内板・絵地図)の南岸に、やや斜めに立って、全枝を南岸に垂らす姿が見られたが、昭和54年(1979)にマツノザイセンチュウ害によって伐採された。。
傍らにはかつての威容を留める写真が置かれていた。

「常盤公園撹勝図誌」に、「駿州三保の松原の羽衣の苗を移したもの」と伝わる松の存在があるらしく、この羽衣の松が該当すると見られる。

「羽衣の松」と並んで、「天翔の松」が「偕楽園の名木」と称され、どちらも同じ黒松であったが、こちらも前年(1978)に松食い虫害で伐採された。

ここ水戸の「偕楽園」は、金沢の「兼六園」、岡山の「後楽園」とならぶ「日本三公園」のひとつである。

説明書きには、兼六園の「根上りの松」「唐崎の松」、特別名勝の栗林公園の「鶴亀松」「根上り五葉松」と、それぞれの名木についても触れられ、偕楽園の二つの松の樹は、「(前二つの公園の松のような)人為的に作られたものでなく、長年の風雪に耐えた自然な姿をもつ」と加筆されていた。
虫害による伐採が惜しまれる。。

奥御殿に入って最初の部屋は「菊の間
菊花をあしらった襖絵が鮮やか!

ここは、次の「桃の間」とともに総板敷きで、調理室として利用された所だそうだ。
が、 この襖絵(をはじめ、恐らく全室の襖絵)は戦後の物で、東京芸大の須田 王共 中(きょうちゅう)氏と田中青坪(せいひょう)氏の作。

そうだよね。調理室にこんな綺麗な絵を書いても、お客の目に触れず、もったいないよね(^_^;)。

好文亭は、戦中の昭和20年(1945)に空襲全焼し、戦後の昭和30年(1955)から3年かけて復元されたが、昭和44年(1969)9月、落雷奥御殿橋廊下焼失。昭和47年(1972)2月に再び復元された。

だからこの襖絵も、それ以降に描かれた物と思う。

次の「桃の間」、これまた華麗な襖絵(#^.^#)(パノラマ2枚)

「好文亭」は、詩歌など遊興や高尚文化に限らず、藩内の老人のために「慰安会」も催したそうだ(゚.゚)。
現代の長寿者お祝い会みたいなものだろうね。「民と偕(とも)に楽しむ」を実践したんだろう。
この調理室も、招いた客人の馳走に使われたのかなっ☆ミ

さらに進んだ場に続く「つつじの間

↑さらに先にある「つつじの間」「桜の間」の二間は、藩主夫人のお付きの女性達の詰所として使用されたそうだ。
時代劇で「お腰元」と言われる人達だね(^^)。
調理室だった「菊の間」「桃の間」と違って、畳がついてるネ☆ミ

桜の間」(さらに奥の部屋)↓
ここまでは、玄関から一間づつ遠ざかって来ている。

各部屋の横に通る廊下→

が、この先は、この「桜の間」に横一列に、平行して並ぶ構造となる。
「桜の間」を起点として、奥に行くに従い、「萩の間「紅葉の間」「松の間」と続く。最後の「松の間」が藩主夫人が使用した部屋。

まずは「萩の間(パノラマ3枚ほぼ180度)

この「萩の間」も、前二つの部屋と同じく、お付きの腰元たちの詰所。

この「奥御殿」は、城中に出火などあった万一の場合、立ち退き場所として備えられた。
それと、当時藩内では管弦などが禁制であったので、城中の婦人たちの遊息場所とする配慮もあったようだ。

幕末に参勤交代が廃止され、藩主の妻や母のために、国元に住居を作った例は他でも見た事があるが、それには建設時期がちょっと早いし、規模や部屋数から見てもかなり贅沢に思えたが、斉昭夫人の貞芳院という人は、有栖川宮親王の孫(霊元天皇の曾孫)だったね(^^ゞ。
慶喜(15代将軍)の生母だね。大河「徳川慶喜」で、若尾文子が演じてた(笑)。

さりげなく天袋に描かれた夕陽
続いて隣、「紅葉の間

「紅葉の間」は、そのさらに奥の「松の間」の「控えの間」で、「松の間」が藩主夫人の座所、あるいは「奥対面所」として使用されたので、そのすぐ隣に侍女たちの「詰の間」が迫っているのでは、何かと不都合だからだろう。

……よく時代劇で、「お人払いを……m(-_-)m」とか言うけど、すぐ隣で話を聞かれてたら困るもんね(笑)。

それにしても紅葉の綺麗なこと(#^.^#)(パノラマ2枚)

日本の家屋は、寝起き、食事、接客などの用途ごとに部屋をしつらえるのではなく、ケースバイケースに使い分ける合理的な間取りになってるが、井戸や調理場との遠近、畳の有る無しなどで、大雑把な用途範囲はあったようだ。
忠臣蔵でも、吉良邸内部の仕切りなどを、スパイが絵図面で知らせたりする話をよく見るよね(^^ゞ。

廊下を兼ねる場も畳敷
そして一番奥に「松の間

↑左の廊下らしき場所は、どの位置にあったか記憶がオボロだが(^_^;)、見取り図で見ると、「紅葉の間」と「松の間」の間に、さらに「入側」と書かれた小さい空間があり、説明文でも「一間」とあるので、これがそうかも。
藩主夫人の座所「松の間」は、さすがに周囲から簡単に入れない空間になっているが、これが住居というのではなく、城からここ「好文亭」に来訪した折の「専用休息所」だ。

また、この「桜の間」「萩の間」「紅葉の間」「松の間」と横一列に並ぶ構造の先に、さらに今度は縦一列に部屋が続く。
繋ぎ目は、「紅葉の間」から始まっており、「松の間」は奥に一部屋突き出して留め置かれている。

「紅葉の間」のさらに先には
まず「竹の間

襖絵はどれも部屋名に沿って、素晴らしく鮮やかな色彩で描かれており、これも戦後、落雷焼失後の復元によるものだろう。

この、さらに奥に縦長に続いて行く部屋群は、「竹の間」「梅の間」「清の間」とあるが、当初からあった部位ではなく、明治2年(1869)に城下柵町の中御殿から移築したもので、先ほども言った、斉昭正室・貞芳院が、明治6年(1873)まで住んでいたそうだ。

ここまで奥御殿の屋根は、茅葺の素朴な風情を連ねて来たが、この先の三室はこけら葺である。

屋根・庭の写真もちょっと出そう(^^ゞ
そしてこれが「梅の間

この「梅の間」の襖絵がまた、優美にして斬新なデザインで素晴らしいよね(^^)。
「梅の間」は、この奥御殿の中でも最も高貴な部屋で、明治2〜6年(1869〜73)の藩主夫人の居室であった。

明治35年(1902)には、大正天皇が皇太子の時に宿泊。
大正元年(1912)には、昭和天皇が皇太子の時、秩父宮・高松宮とともに訪れて、ここに休憩。
さらに大正15年(1926)、三笠宮もここで休憩されるなど、皇族が来亭されるたび、宿泊所や休息所として使用された。



<偕楽園C「好文亭・東西塗縁〜楽寿楼」>

「奥御殿」を見終わって、順路はいよいよ三階建ての本館へと向かう(^^)。

↓帰路、縁側から屋根向こうの夜空に、三階が仄見える。
途中「つつじの間」の横合いから、「太鼓橋廊下」を渡る→

太鼓橋廊下は周囲が密封されて、「太鼓橋」でイメージされる風景ではないが(^^ゞ、橋を渡った先は、三階建ての本館の内部、「東塗縁(ぬりえん)」と呼ばれる部屋にイキナリ出る。↓

華燈口」から見る「東塗縁
右折した次の間は「御座の間

「華燈(かとう)口」は、太鼓橋廊下の出口に設けられた二畳の部屋で、板戸に色紙や短冊が描かれている。

御座の間」(↑東塗縁に出て右に入る小さい部屋→)は、「東塗縁」と「西塗縁」という二つの広間に挟まれた6畳の質素な藩主の間で、斉昭が好文亭に御成りの折、ここで文人・墨客・庶民と歓談した。

夜中なのでだいぶ暗いが、戸には紗張戸を用い、左右が透かして見えるように工夫されているそうだ。
また床の間は設けず、簡素に、竹の柱だけが下げられている。

←左から「西塗縁」、↓「御座の間」、太鼓橋廊下から出る「華燈口」→
(パノラマ3枚ほぼ180度)

↑の写真を撮っている場は「東塗縁」。わかりにくかったらゴメン(^^ゞ。
この「東塗縁」から見て、(中央の)「御座の間」↑に入れ、さらにその奥の「西塗縁」に通過する……という造り。

「東塗縁」は、18畳の総板張り(漆塗り)の広間で、斉昭はここで、藩内の80歳以上の家臣、90歳以上の庶民を招いて、「養老の会」を催したという。
「お殿様の別荘にお招き頂ける(^^)」と思えば、さぞかし下々の年寄りどもの励みになっただろう(笑)。

斉昭については後に書くが、私が言わなくても、藩政や幕政の改革者として有名だし、特に尊王攘夷や国防の論者としてイメージされているのではなかろうか。

が、そうした面とは全く別に、実は医学の進歩、特に種痘の普及といった予防医学に、著しい功績を残した人物だった事は、殆ど知られてないという。

あの「水戸黄門」でイメージされる、「カクシャクとした元気な年寄り像」も、水戸藩の長寿者を祝った、こういう習慣から来た部分があったのだろうか(笑)?
財政困難に直面すると、「老人になるべく元気で長生きして貰う方が有利」と気づくのは、昔も今も変わらないね(^_^;)。。

「東塗縁」→「御座の間」→「西塗縁」と出て来た(パノラマ4枚180度以上)

実は、この本館の「東塗縁」「西塗縁」に来るまでは、燈灯の風情は楽しみながらも、「昼に見たら明るくて綺麗だっただろうに」と思ってたんだが、この「西塗縁」に入った途端、「ワ〜夜の雰囲気が凄くステキ(^O^)」と感動した!

真夜中の港や水族館とか川沿いの料亭のように、光陰が揺れる感覚もあって、「夜」が伸びやかな解放感に満ちていた。

「西塗縁」は、36畳の総板張り(漆塗り)の大広間(三間と六間の大塗縁)で、しばしば詩歌の宴など催された。
天井は杉皮網代張り。仕切り戸は竹篭目紗張りで、ここに文墨雅人がよく集まり詩歌を作り書画をかいた。

北側と西側の各二枚の杉の板戸には、漢詩の作詩作歌に便利なように、八千の韻字・真仮名・平仮名を、範筆の人に書かせ、辞書代わりにした↓(現在の文字は、東京芸術大学の先生が復元したもの)

←板戸にビッシリと難しい漢字が書かれている。
↑「御座の間」を「西塗縁」側から見た縁長押に、斉昭が「好文亭」と自筆した扁額が掲げられている。

この「西塗縁」の脇には、「何陋(かろう)」という草庵風の茶室(4畳半)があり、その控えとして「待合」「対古軒(たいこけん)」と呼ばれる小さい空間もある。
それぞれに斉昭自筆の扁額や、「茶説」「茶対」「巧詐不如拙誠」など、斉昭の茶への講義内容が書かれた物があるようだ。

やや急な階段を上がると、二階は狭く、警護の侍が控えた「武者控室」という、踊り場ていどの三畳室を経て、すぐ三階に登る構成。

階段には警備の人が立っていて、なぜそこにいるのか一瞬わかりにくいからか、
暗いです、階段が急です、気を付けてくださいね
と、次々といっぱい来る見学客の一人一人に、イチイチ声をかけておられた。

これは大変なご苦労に思えた! さすがは「助さん・格さん」の国だと、頭が下がったよ(≧▽≦)!
そして階段周りの暗くて狭い所には、本当に忍者が潜んでいそうだった(爆)。

では、いよいよ三階、「楽寿楼」へご案内(^^)

三階に上がって来る。前方の左脇に……
洒落た丸型空きの窓(^^)

忍者の話が出たついでに(笑)、好文亭の各部屋で、比較的メインっぽい部屋になると、必ずこの「入側」という、畳一畳分を敷いた廊下らしきがついてる。

ここなんて、「入側」の外側は障子で囲まれてるから、すぐには逃げにくいし、逃げようと障子を開けると、真っ逆さまに下に落ちてしまう作りという感じもする。
特にこの三階なんか、階段あがって入って来るや、↑右の写真のような仕掛けが施してある。

……言いたい事は、侵入者には見えにくい障子の影に、槍を構えた守備の侍など居そうな感じしない(^_^;)?
右の丸窓から見える座に、わざと背中が見えるよう囮の影武者を座らせて、刺客がアクションを起しかけた途端、障子の蔭からブスリ……(笑)。

新たに城を作っちゃいけない江戸時代、それでも偕楽園は防衛上の理由で作られたと見られるフシがあるらしい。
思うに、建物より、もうちょっと地形的な部分にその根拠があるんだろうけど、この好文亭も、なかなか「水戸黄門」に出て来る、アノ人やアノ人の舞台っぽい(#^.^#)♪

(こういう話も、だんだん通じない人が増えて行くんだね〜(;_;))

これは「配膳用昇降機
下を見下ろす
上には滑車がついてる

↑階段の脇にあったこれは、要するに今で言う「エレベーター」(゚.゚)!
これを使って、さっきも見た一階の調理室から、お膳酒肴を乗せて貰い、ここまでスルスルと上げる!

これはいいねっ(≧▽≦)! さすがは家臣や領民、ご婦人思いの斉昭公!
三階建を作ったからには、「運ぶ労力もさぞや」と思い、「あとは手酌で(^^ゞ」と言ったわけだ!


そしてこの三階から、城下町や千波湖、階下の梅林の素晴らしい風景・夜景を展望しながら、美味しくご馳走も頂こう、という腹である!(笑)

では刺客の……いや、来客の気分になって(^_^;)、丸窓から「楽寿楼」を覘かせて頂きましょう〜♪

どやっ(≧▽≦)→

開け放たれた屋外に見えますのは、千波湖の夜景でございま〜す!


藩主サマの御前をちょいと失礼しまして(=^m^=)、まずはあの夜景を写させて頂きまする〜♪

カシャーカシャーカシャーカシャー ( ^^)σ只(パノラマ5枚180度以上)

お尻を向けてしまった、藩主サマの御座所をふと、振り返りますと(^_^;)〃只

控えい控えい、この紋所が目に入らぬかぁ〜っ!(パノラマ4枚180度以上)

(ノ_ _)ノ <へへぇ〜っ
って誰もいませんがな(笑)。

さっき見えた丸窓(丸い枠)も見えるね。イイ雰囲気だな〜夜だと殊に良いねぇ。
一階の「東西塗縁」と、ここ三階の「楽寿楼」の雨戸は、回転式となっていて、眺望を妨げる戸袋がないのが特徴(^^)。

江戸時代は、このように宙空間(空)を上手く演出する建築技巧が発達したように思う。
前に行った、やはり同じ常陸国の月山寺や雨引観音も、建物と遠景との絶妙なバランスで、宇宙ステーションのような感じが出ていた。
(2010年11月<月山寺、2><雨引観音(楽法寺)・東照山王権現社〜多宝塔>以降)

日光の中禅寺湖と華厳滝のセットなんて、まさに宇宙的な広がりを感じる景色で、この時代の風景観の源流って感じがする。(2005年4月<日光・明智平>内

正面八畳は藩主の座がある(拡大)
端に向かう軒と湖の夜景がマッチ♪

建物・建具・家具・調度に反射する灯りが、夜の水面の光陰に似て、何か夜の舟遊びを思わせ、この「楽寿楼」の命名が、「論語」からつけられた、と言われるのが、よく頷ける。

「論語」より
知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ
知者は動き、仁者は静かなり
知者は楽しみ、仁者は寿(いのちなが)し

この「水を楽しむ」から「楽」が取られ、「仁者は寿」から「寿」が用いられたそうだ。
水を「知」に例えるのは、五行の「徳」で、「水=知」であるからだが、五行に「山」は無く、「東北」すなわち「地」に属すと考えれば、「徳」は「信」が該当する。(「仁」ではなく(^_^;))

が、この場合は、「水」を「流動」、「山」を「不動」ととらえるんだろうね。
「動かざること山の如し」ですな(^_^;)。賢者は寿命も長い、って事を指すようだ。

昔は無かったネオン街が(拡大)
今は一層、夜景を輝かせる(さらに拡大)

長寿を目指すのに勉学は必要ないが、藩政には知者が必要だもんね(^_^;)。長生きしても、知る楽しみが無ければ楽しい人生とは言えないしね。
でも逆に、勉強だけで頭デッカチになる(ひいては命を縮める)事も戒めているのかもね(^^ゞ。

弘文館で勉学すなわち「知」を鍛える反面、静養をとって体の健康をはかることが大事、という感じに受け取っておこうかな(^^)。

鏡のように街灯を映し出す千波湖が特に綺麗だよね〜(#^.^#)。

往時は筑波山や大洗海岸の松林まで望めたそうだ。アッパレじゃっ(^O^)/~

この好文亭も、平成23年(2011)の東日本大震災では、大被害を受け、閉館を余儀なくされた。

被害状況は、壁の剥離・崩落、雨戸や襖の脱落など。
が、翌24年(2012)2月には復旧し、今はこうして無事に綺麗な夜景を楽しめているからね(^^)。

閉館時に来て、復旧を知らない人がいたら、梅の季節……今年は、2月20日から3月31日まで「水戸の梅まつり」と書いてあったから、その期間だと、好文亭の夜景もこうして見られるから、是非ぜひ、ゼヒ、来て見てネ!

これにて好文亭の見学を終え、最後にまだ行ってない北部の梅林で「夜の梅」を見たい♪



<偕楽園D「夜の梅」@梅林〜孟宗竹林>

入園前に予め述べたが、このさきの順路をもう一回ご案内(^^ゞ。

(さっきの案内板・絵地図←好文亭を出て、一度「東門」方面に行ったと思う。
それからアチコチ歩きながら、「御成門」の方角に向かい、北部の梅林を歩きながら、「表門」(北の門)に到達し、「孟宗竹林」を通って元の「梅桜橋」に戻る。

この鬱蒼たる杉の大木林は「好文亭」裏手の大杉林か、東門付近だったかな(記憶がウロ(^_^;)ゞ)
夜も更けて闇が濃くなると、梅も深緑の大樹も、仄かなライトアップに浮かんで、すごく幻想的だった!

最後に、徳川斉昭の事を書こう(^^ゞ。
1800年〜1860年。第7代藩主・治紀(はるとし)の三男として、江戸の小石川藩邸に生まれる。

家康−頼房┬頼重−頼章−頼豊−宗堯−宗翰−治保−治紀┬斉脩┌慶篤
       └光圀−頼常                      └斉昭┴慶喜

30歳で9代藩主の座に就くと同時に、藩政改革に取り組み、倹約の徹底、軍政改革と追鳥狩の実施、藩内総検地、定府制の廃止など、いわゆる天保の改革を推進する傍ら、弘道館と偕楽園の造成に着手した。

←並木状に並ぶ梅林も、ライトアップで闇に浮かぶ
↑並木の奥にもエンエンと並んで、仄かに及ぶ灯りに所々輝く様子も幻想的(#^.^#)

この「追鳥狩」というのは、確か「八重の桜」第一回で出て来たよね(^^ゞ。
水戸の博物館でも、行事絵巻のような物が展示されていた。軍事教練だね。
会津でもやってた、という記録は見掛けなかったが、松平容保が水戸徳川家の分家出身だからかな?

弘化元年(1844)、改革の行き過ぎなどを咎められ、幕府から謹慎を命じられたが、士民が冤罪を晴らしたため、半年で放免、5年後の嘉永2年(1849)に藩政参与が許された。

嘉永6年(1853)のペリー来航の折には、海防参与となっていた。
藩においても、那珂湊に反射炉大砲を築鋳造、軍備増強に力を注いだ(安政の改革)。


「夜の梅」って羊羹にもあるよね(^^)
東門のレストハウス付近だっけな

安政5年(1858)、将軍の後継に、一橋家に養子としていた七男・慶喜を推していた一橋派と、紀伊藩主・徳川慶福を推す南紀派の対立が表面化。

南紀派の井伊直弼が大老となって、日米修好通商条約に調印。
徳川慶福が14代将軍・徳川家茂となり、条約に反対した斉昭や尊王攘夷の志士ら一橋派は、安政の大獄で弾圧され、翌年(1859)、斉昭も水戸城に永蟄居(終身刑)を命じられた。

その翌年(1860)が、桜田門外の変で井伊直弼は横死したが、斉昭も水戸城で死去した。

……以上が斉昭の経歴(^^ゞ。

遠くに市街の灯りも見えるね(^^)
御成門の方向、梅木がビッシリ!

今回ここまでに述べて来た通り、「水戸黄門」でイメージされる徳川光圀や、その周囲の雰囲気は、どうも偕楽園を作った徳川斉昭(より後の付帯状況)から育まれたんじゃなかな、と感じた(^^ゞ。

史実における光圀が、「黄門漫遊記」のような事をしなかったと知ってる人でも、その功績を、大日本史の編さん事業に求める向きはあると思う。
これがいわゆる「水戸史学」の発端とされるもんだから、光圀の祀り替えなんかと幕末の尊王攘夷論がゴッチャになってる感じがする。

でも大日本史編さんの骨子などツラツラ見ると、「現代の歴史学と姿勢はそう変わらないな〜」と感じる(^_^;)。。
その時代なりに、出来る限り科学的な視点を養おうとした事がわかる。つまり偏見や先入観を取り除こうとしたのだ。

こうした事柄は、時代の限界はあれど、7月号<大甕倭文神社(つづき)>でも述べた通り、水戸藩に限らず伊達藩などにおいても、歴史を調査する姿勢の中に伺える。

「御成門」から「表門」までの北部一帯は、特に梅林の密度が高い(#^.^#)

大日本史の掲げた目玉の史観として、

@神功皇后を歴代に入れず、「后妃伝」に移した。
A「日本書紀」で即位を認めない大友皇子の即位を認めた。(→39代・弘文天皇ね(^^ゞ)
B皇位の象徴である神器の在るところを正統とする。

↑がある。こう聞くと、「え、それまで、そうじゃなかったの(^^ゞ?」と思うよね?(笑)

それぐらい今日の歴史の根幹となってしまっているのだが、実はこの編さん事業が起こった頃、すでに江戸初期の儒学界が持つ特色として歴史尊重の空気が強く、その筆頭に林羅山がいた。

が、残念ながらその書物は明暦の大火で焼失してしまい、何とか跡を引き継いだ「本朝通鑑」によって完成された。
これが、幕府擁護論・北朝正統論・編年体と、大日本史とは違ったそうだ。

光圀も明暦の大火による焼失を経緯として、歴史書の必要性を痛感したので、独自に編さんに乗り出したのだが、そのために設立した「彰考館」に、「過去をあきらかにして、未来に伝える」という目的を名付けた事は、前も話した通りだ。

史料集めや事業にあたる学者への指導として、「私見排除」「史料批判」「事実究明」という、現代にも通じる科学的な尺度を強く求めた。

梅林に代わって、横に竹林が現れ
偕楽園の北「表門」に到達
(さっきの案内板・絵地図

ところで、「大日本史」と言えば、南朝正統論だと思ってる人は少なくないだろう(^^ゞ。
実はこれ、今言った「B神器の在所」によって、「南朝正統」としただけのようだ(笑)。

てっきり、「徳川家が南朝に与した新田氏(得川氏)の出であるから」だと思ってたんだが、まぁ根本的な理由がどこにあったかまでは、お題目の大義名分だけ読んでも汲み取れないかもしれないね(笑)。

しかし何しろ光圀の時代に、南朝論や後の尊王攘夷論だとかイデオロギッシュな事に偏ったわけではなさそうだ(^_^;)。
ただ儒学界で歴史観が定まってしまうのに対して……という側面はあっただろう。
幕府の一党独裁が決定的な江戸時代において、思想(の根幹をなす歴史観)に偏りが出ないよう配慮するのは、徳川家内部からしか無かったからかもしれない。

そのように「現政権より、やや高位置からの修正」というエッセンスが、やがて「水戸黄門の世直しの旅」に変じたのだろうか(笑)。
後世、薩長やアメリカの(高飛車な)主導で行なわれた維新や戦後の世相にあって、明治天皇や昭和天皇による巡幸に重ね合わされてウケた、という側面もあるらしい(笑)。

さらにスグ潜る「一の木戸」
すると開かれる孟宗竹林の世界

実際の水戸からは、天狗党も一種の「世直しの旅」に出たわけだけど、その実態は貧民や良民を助けたどころか、前途に窮したからとは言え、各地で一般民あいてに金品の強奪や放火、乱暴など、破壊行為をやりまくったと聞く(^_^;)。
(2012年11月<「光明寺」(伝・親鸞お手植えの菩提樹)>内

無論これらが、光圀や斉昭と直接関係があったわけではないが(^^ゞ。

残るは、廃仏毀釈なんてのに対する影響はどうか……といった所だろうか。
光圀は神仏分離は厳格に行なったように思えた。
その場合、問題となるのは、いわゆる「祀り替え」といった、前時代宗教への弾圧じみた行為があったかだと思うが、水戸の城下町において、寺社の統廃合(および移動・破却)はかなり強力に行なったようだφ(。。)m。
その理由を、「迷信がはびこっている」事が根拠とされている。

話の向きのせいか、何だかこの孟宗竹林に、だんだん「樅の木は残った」のオープニングの音楽が鳴り響いて感じるんだが(爆)↓

(パノラマ3枚ほぼ180度)

寺社の統廃合を行なう際、その指針となる「迷信」云々という判定基準が、光圀の個人的な見解や好悪によるものかは気になる所ではあるが、迷信・淫祠邪教に関しては、個人的な見解ながら、常陸国には根強くあったんじゃないかという感じがしている(^_^;)。

一つは、親鸞が常陸に長くいた(そのため常陸における宗派の影響力は強い)が、この親鸞自身によって否定・義絶の憂き目に遭った、親鸞の子・善鸞が、邪宗とされた教義を東国に広めており、宗派が江戸期を通じて摘発されたり、つい最近まで長く問題視されている事が思い当たる。
(2012年11月<「光明寺」(伝・親鸞お手植えの菩提樹)>内

もう一つは、やはり7月号<西金砂山〜日立北IC>でもちょっとふれた通り、関東から東北にかけて、太平洋沿岸に唱導的な仏教説話が多く伝わっている事も気にならなくはない。
(2014年7月<西金砂山〜日立北IC>内以降)

これらが光圀の時代には、まだオドロオドロしい部分があった、という想像もできなくはない(^_^;)。
どれぐらいクソ真面目に取り組むかにもよろうが、まともな歴史観を根付かせる弊害になる、と見られても仕方なかったかもしれない(笑)。

この青竹林は亭主にウケた(^o^)ライトアップが、竹の清々しさを体の芯にまで届けてくれた。
↑その孟宗竹林も、だんだん遠ざかっていった。

ただ寺社統廃合については、財政的な理由かも……という感じが個人的にはする(^_^;)。
というのも、寺社整理の理由について、「寺社の多さが民衆の弊害になる」というものだからだ。

実は、常陸国は、あちこちで窮乏あるいは窮民による一揆などの記録が多く見られる。
これも江戸の将軍家を支える御三家の地盤として、やむを得ない部分もあったと思うけどね(^_^;)。
(例えば天狗党の乱などについては、尊王攘夷うんぬんより、むしろ民衆史的な括りを感じた(^_^;))
(2012年11月<「光明寺」(伝・親鸞お手植えの菩提樹)>内

ライトアップの華麗だった偕楽園も、徐々に真っ暗になっていき、売店や水辺や並木道に僅かに残る灯りを楽しみながら、残りを歩いて、駐車場に戻った。

←好文亭だけをまだ闇に明るく浮かべつつ、水戸の夜は更けていった。

それにしても、偕楽園……殊に好文亭は、記憶と想像の範囲を遥かに超えて良かったな〜(#^.^#)!
たまたま「梅まつり」で、夜もライトアップ&開園してくれたから、というのが大きな要因だけど(笑)、子供の頃には見なかった物を見たような気もする(単に子供だったから、気付かなかっただけかなぁ?)。

建築の様式が変わってて面白かったし、何と言っても襖絵が綺麗だったなー(≧▽≦)。
再建・再現ではあるけど、そうした試みや技術力が、震災復興にも大いに役立ったんじゃないかと思う。
これからもちょくちょく来てみたい(^^)。

それと……亭主に聞いたら、
一般人の血が鎮まった」と言ってました。ヾ(^^;)<それ何?

好文亭(拡大)
あそこに居たんだねぇ(さらに拡大)
(さっきの案内板・絵地図

水戸市街も車をちょっと走らせたと思うが、夕食は水戸では食べず、高速途中のサービスエリアでとったと記憶している。
ところが常磐道には結構SAが少なくなく、後で地図を見たら「どれだったっけ(^_^;)」と思った。

そしたら、茨城の観光サイトに、各サービスエリアのお薦めメニューが載せてあって、たまたま私が食べた定食の写真が出ていたのでわかった。

友部サービスエリアだった!(笑)

「大洗の干物定食(トロあじの開き)850円。大洗・森寅の干物に惚れ込み、直接足を運んで仕入れを実現!」
と書かれている。この一品だけが載っていた。(たまたまそれを食った:笑)

こたつ注文「あじの干物定食」(^^)
亭主注文「とんかつ定食」かな(^^ゞ

家に帰ってからも、笠間の宿で汲んだ水が当分あって、飲料水やお風呂に混ぜてしばらく使った(^^)。

以上をもって、「茨城北部編」を終わる。(珍しく過不足なくピッタリ終わる:笑)

関連事項リンクは、例によってまた後日に(^_^;)ゞ
(現在、7月号の所まで追い付き貼りましたー☆ミ)



出来ました(^^ゞ。(2015/02/25追記)

以上、関連事項は、
■徳川光圀(水戸黄門)
2004年9月<寄り道3、なぜか水戸黄門(笑)>
2008年4月<香取神宮・1、「要石」>内
2008年5月<香取神宮・2、「本殿」>内
2011年8月<南湖公園>内
2014年6月<水戸市街と水戸城「彰考館」跡>内
2014年7月<大甕倭文神社(つづき)>内<「金砂城跡」と「西金砂神社」>内
2014年8月<馬坂城跡>内
2014年10月<西山荘>
■他
2005年4月<日光・明智平>内
2007年3月<鶴ヶ城内・茶室「麟閣」><会津松平氏庭園「御薬園」>
2010年11月<月山寺、2><雨引観音(楽法寺)・東照山王権現社〜多宝塔>以降
2010年12月<真壁城跡(古城と城跡公園)>
2012年11月<親鸞聖人「小島草庵跡」>内以降
2014年7月<西金砂山〜日立北IC>内以降




さて次回は、3月〜6月の日常編(^^ゞ。桜の季節から初夏。
近辺をブラブラした写真ばかりだが(笑)、史跡としては、柏市の増尾城・妙見堂跡、鎌ヶ谷市の貝柄山公園(野馬史跡跡)、松戸市の酒井根合戦場跡(境根原)、印西市の上宿古墳といった所かな。

8月号の欠番分を、月に二回号出すなどで、どこかで調整しないと全体に遅れが出てしまうのでは……と気にかけていた上に、この11月も、日帰りでちょっと遠出した分が溜まってはいる。
が、今の所その心配は無い気がしている(^^ゞ。

ただ、12月にも「続けて出掛けようか」とか言ってるんで、そこで溜まっちゃったり(笑)。
てなわけで、相変わらず先行き不透明でつ(^_^;)。。<ぬはは

<つづく>

2014年11月26日(追記リンク2015/02/25)
 
     



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