<2010年・城主のたわごと4月>




2009年9月「岩手南部編」も、第5弾に突入!(^O^)

3日目は衣川〜厳美渓、そして4日目「達谷窟」に♪




     
  前回も話した通り、3日目は平泉の北部、4日目は南部を廻った。今回はまだ北部編で、3日目の夕刻、前回行った衣川地区の「長者ヶ原廃寺跡」の続きから(^^)。
衣川地区は、平泉の北隣の地域で、「長者ヶ原廃寺跡」の他にも数々の史跡(&伝承地)がある。

その後、2日目と同じく一関まで南下し、「厳美渓」(2日目に泊まった矢びつ温泉ほどは遠くない)に3日目の宿を取り、4日目朝は、この「厳美渓」の涼やかな風景からお届け(^^)。

その後……前回は毛越寺まで行けるかな〜と予告したんだが、ちょっとそこまでは到らず(^^ゞ、平泉に出る途中の「達谷窟」までで、次回に譲りたい!!

今回は1月に述べた、平安初期の坂上田村麻呂がメインになるが、歴史と言うより、伝承(信仰)と創作の世界をドップリと〜(#^.^#)。



<長者ヶ原廃寺跡、2>

↑前回の続き。
地図A←前回と同じく、あんまし正確な地図じゃないけど(^_^;)。

長者ヶ原廃寺跡」の正面(パノラマ4枚・180度以上)

↑正面(道路沿い)から入って、奥の山(束稲山)に向って進むと、中央はこんな感じ↓。

中央。北〜東(束稲山)〜南を写す(パノラマ5枚・180度以上)

同じくその逆、南〜西〜北(パノラマ5枚・180度以上)

↑ここまでは、実は前回も使った写真だったりする(爆)。↓ここより今回スタート。

礎石群→
本堂跡かな?(^^ゞ

礎石は角閃石安山岩で、産地は上に見える束稲山の北(北上山地)の麓・山毛齠サだそうだ。斜面に人の背丈もある大岩があちこち見えるらしい。

北上川を使った事は確かだろうが、どう運んだか詳細が不明との事だった。

これより後に行く「渡船場跡」などは、文献的な裏づけが取れず、年代の特定が出来ないのだが、衣川に接岸してる「渡し跡」なので、お寺に建築材を運ぶなどの流通に関わったんじゃないかな〜と(^^ゞ。

奥のほうに進むと、これは調査より少し進んだ段階……何か整地のような区画付けのような、造作中の風景に出会った。↓

←史跡におけるこういう光景って、平泉もだが、東北全体であまり珍しくなく(笑)、この後も、「柳御所跡」や「無量光院」などで、よく見られる(^^ゞ。

古い建物跡なのだが、公園のような場所にするべく造作をしてて、その途中でも「工事中」とか幕を張って入れない空間とかじゃないトコがいいなと思った♪

以上、今回分はちょっとだったけど(^^ゞ、「長者ヶ原廃寺跡」は、これにて終了。

最後に。今回行った地域では、到る所で、この「長者」という地名(や伝承)に出会った。
この「長者ヶ原廃寺跡」では、義経の話に出て来る「金売り吉次」の屋敷と伝わっている事から、自然と「長者=吉次」という連想を呼ぶ。

また前回も、「地元の人々が長い間伝えてきた伝承として、『金売り吉次の屋敷跡』とされた理由について、引き続き研究を続けていく必要がある」と書いた。

この後に続く「長者伝説」は、必ずしも「義経伝説」との絡みではない。
今回は宿に着いて以降、ちょっとその辺りから「坂上田村麻呂伝承」に入りたい(^^ゞ。




<「渡船場跡」「渕端諏訪社」「衣川柵跡」「小松館跡」>

↑通り掛かり上、いっぺんに出会えた所なので、まとめさせて頂いた(^^ゞ。

←最初の「渡船場跡」は、「長者ヶ原廃寺跡」の通りを、さらに進んで、廃寺跡(進んで道の右)とは反対側(道の左)の土手に、この案内板が見えるけど、夏場は草ボウボウかな(^_^;)?

位置については、案内板に「長者ヶ原廃寺跡の西北隅から直距離170mの衣川北岸の河底に設けられた桟橋の跡」とある。

地図B←だいたいのトコにポイント置いてるので、詳しくは拡大してね(^^)。蛇行して近付く衣川の曲部にあった気がする(^^ゞ。

遺構としては、桟橋の柱脚孔が砂岩の盤に見付かった。太さ径0.6m内外。1.8m前後の間隔で20個、3列に施されていたそうだ。
出土遺物が検出されなかったため、造営の年代は不明だが、長者ヶ原廃寺跡との近さから、先ほども言ったように、廃寺跡の建物に関連する「水上交通施設の跡」と考えられている。

次は「渕端(ふちはた)諏訪大明神社旗鉾神社)」に行った。↓

「長者ヶ原廃寺跡」や「渡船場跡」のある通りから、一度、前回も行った「接待館跡」や「七日市場跡」のある南側の道路に戻るが……、地図C←この地図の一番南か、一個その北の通りを西に進んでて、右に急に見える(^^ゞ。

案内板には、実に豊富な伝承が語られていた。

まず「嘉祥年中(846〜51)慈覚大師が、この川の深渕に臨み水底光明と輝くのに驚かれ、その岸辺に祠を建てて渕端諏訪大明神と称し建南方命を祀られた」から始まる。

次に、「その後、天喜年中(1053〜58)安部頼良頼時)が兵器(旗鉾の由来)を祭って鎮護の神と崇めた」と安部氏発祥の地らしい伝承(^^)。

さらに奥州藤原氏の時代に入って、「文治年中(1185〜90)藤原秀衡の三男・(三郎)忠衡が再興、自分の守り本尊・魚藍観音を配祀したと伝えられる」。

この「泉忠衡」は、三代・秀衡の三男(四代・泰衡には異母弟)である。三代・秀衡の遺言により、奥州藤原氏は、源頼朝に追われた頼朝の異母弟・義経を匿っていたものの、その義経を巡って泰衡・忠衡の兄弟は対立し、忠衡は泰衡に殺害されたという。

仙台より北東の鹽竈神社(陸奥国一ノ宮)に行った時にも、その境内に、忠衡が1187年に奉納し、その碑文が刻まれた「文治の燈篭」というのがあった(^^ゞ。(2008年2月<鹽竈(しおがま)神社>内

また、実は前回行った中尊寺にも、この忠衡が、能登(石川県)に移植した「能登アテ(あすなろ)」が、中尊寺の境内に苗木として戻り、境内に生長している事が、「平成3年5月 石川県門前町 門前町浦上 能登アテの元祖保存会」の名で書かれていた。
この「能登アテ」は、石川県木・門前町天然記念物にも指定されているそうだ。

このように、現地に伝承や痕跡の多い「忠衡」だが、その「居館」というのが、「中尊寺の北裏手・衣川の畔に在った」……と聞く。ここも「中尊寺の北裏手」の「衣川の畔」ではあるので(^^ゞ、「忠衡の祭祀」という事になるんだろうね♪

案内板には、続けて「なお、陸奥史叢に、『社殿は文化10年(1813年)9月9日建設』とある」事から、建物は江戸時代の後期の作だね(^^ゞ。

そしてここが「衣川柵並木屋敷(パノラマ3枚・ほぼ180度)

地図D←これもだいたいの位置を指してるから、詳しくは拡大を(^^ゞ。
道としては、今の諏訪神社を、そのまま真っ直ぐ進めば右に出会える♪

安部氏の時代には「柵」(防御のための要塞)を作る必要が無く、屋敷を建てていただけだったので、「柵跡」ではなく、「屋敷跡」である。
また、「並木屋敷」と呼ばれた根拠は、当時、桜並木によって囲まれていたと伝えられるからである。

まずは、永承元年(1045)頃、安部頼時が当地一帯に本拠を構えたとされるが、一族の主な居住地域は川西で、政庁や家臣団の居住地はこの川東であったと推測されている。
康平5年(1062)9月の安部貞任の撤退までの18年間、安部氏の政庁であった。

敷地はカドにあり、正面(←)からも横合い(↓)からも、こんな墳墓が見える。中尊寺のお休み処で、「衣川の安部氏屋敷跡にある安部氏の墳墓に、安部信三元総理(が宗任の子孫だとか)も最近、墓参りに来た」と聞いたけど、これはそれとは違うのかなぁ〜(^^ゞ。

そういや、安部元総理のゆかりの土地でもある一方、町のいたる所に張られるポスターは、小沢一郎氏だらけだった(^^ゞ。そういや岩手だったよね(笑)。

←後方墓所。全然関係なかったら無茶苦茶スイマセン(^_^;)。。

「前九年の役」で安部氏が滅亡すると、前述の通り、改めて「柵」が築かれ、「衣川柵」と称された。すなわち、翌・康平6年(1063)から永保3年(1083)までの20年間、安部氏に替って奥六郡に支配が及んだ仙北の清原氏武則武貞真衡の三代)の政庁もしくは居館であったといわれる。

前九年の役で、「小松の柵」を破られると、安部氏は衣川も破られて、奥地の「厨川の柵」まで撤退するのだが、「衣川に柵が無かったから」というのは、「なるほど」と思った(^^ゞ。
(2010年1月<えさし藤原の郷・B「経清館」「清衡館」>内および、<えさし藤原の郷・C「河崎柵」「伊治城」「厨川柵」、1>内

この衣川柵より南の区域で、中尊寺に到る手前が、「泉ヶ城」の跡と言われ、先ほど言った、泉忠衡の居館があったと伝えられる所ではないかと。時代によっては、関としての防衛機能もあったかもしれない。

同じ道をさらに西に進んでみた。↓地図E←これもだいたいね(^^ゞ(詳しくは拡大)

小松館(こまつだて)」に到着(^_^A)(パノラマ3枚・ほぼ180度)

前回(前々回もか(^^ゞ)、ここを「小松柵」と予告したが、「こんな近くに(^_^;)?」と、正直行った当時から訝しく思っていた。
ちょっとアレな史跡案内も現地には多いので、どう紹介しようか迷ったんだが(「小松」については、この後も少し書く)、もしかして、「小松館」と「小松柵」は、かなり距離があるのかもしれない(^^ゞ。

小松柵」というのは、「前九年の役」において、不敗だった安部軍が初めて破られた柵である。
又、この敗戦から、安部軍(安部貞任・藤原経清)は、官軍(源頼義・清原武則の連合軍)に対して崩されていく一方となったので、防衛上も重要な位置にあった、と見なす向きもあるだろう。

「小松柵」についての記述には、あまりハッキリした書き方を見ないので、もしかして、場所の確定が取れてないのかもしれない(^^ゞ。
それでも私の知る限り、柵があった場所はここではなく、同じ「磐井郡」でも、「平泉」より少し南の「一関」と見られているように思う。

というわけで、案内板にも「小松柵」としての記述は無く、史跡名も「小松館」となっており、「安部貞任の叔父(頼時の弟という事になる)で、僧だった、良照の居館であったと伝えられる」とあった(^^ゞ。

田園の前の案内板
衣川の幻想的な夕闇と月影

良照について、現地には「康平5年(1062)8月、磐井の小松柵において源頼義と清原武則の連合軍を迎え撃った」と、やはり「小松柵の戦い」のことが書かれていた。

また、「東側は衣川が南流して断崖になっており、西及び南側は小成沢の崖に囲まれ、北館から続く台地の突端部で、東西60m南北160mある」とあって、先ほども言った「泉忠衡の居館」などと同じく、天然の断崖から要害にかなう館と伝承された地域だったようだ。

安部氏の滅亡後は荒廃したようで、それでも貞治5年(1366)葛西氏の家臣、破石氏が館を建てて住み、天正18年(1590)葛西氏と共に滅亡するまでこの地を支配していたという。

しかし残念ながら、上記の「小成沢の崖」は、東北自動車道の建設時、側道として埋められ、門跡が北部にあったようだが、これも自動車道の工事で破壊された(^_^;)。。

以上、衣川地区を一気に廻ったのだが、この日は、平泉以北を出来るだけ廻ろうと、この後も尚、「白鳥館跡」に足を伸ばした。

が、途中から上の写真の通り、綺麗な夕闇となってしまい(笑)、着いた時は真っ暗だったので、翌日に廻す事として、これより3日目の宿に向かった。ε==(/^o^)/<れっつご



<厳美渓温泉で最終泊、3日目夜〜4日目朝♪>

↑なのっ(^O^)。来方は二日目とほぼ同じだが……。

地図E←さっきの「小松館跡」に中央点が入ってる。
地図F←今ここ。前日に泊まった矢びつ温泉よりは平泉に(一関にも)近い、「厳美渓」という渓谷に来ている。ちなみに前日宿泊の矢びつ温泉は、さらに西ね(^^ゞ。→地図G

ってわけで、最後の旅館ご飯だからねっ。お腹いっぱい食べないと!(爆)

ジャジャーン!!いっただっきまぁ〜す!(^O^)

ムグムグムグ〜( ^,_^)ф
んで! 美味しく食べた後は、毎度楽しい温泉タイムーー!\(^。^)/

ここの温泉は古代の地底湖から汲み上げてるので、地底油の匂いが混ざってるが、無害なので大丈夫(^^)v、という張り紙があった。……でも、それほど油臭くはなかったよ(笑)?

ただし露天はナシ。室内風呂のみだった。
露天があると、涼んだり入ったりで長湯が可能だが、実はこの厳美渓(一関より西の渓谷)って、その露天がビミョーなんだよねぇ(^^ゞ。

前日の「矢びつ温泉(瑞泉閣)」でも、露天に「アブに注意」とか張ってあって、お部屋で夜中、寝てていきなりアブに噛まれて大騒ぎになったの(^_^;)。
でも、こういうとこが、奈良時代末期、征伐に来た人々が難儀した地域って感じがして嬉しかったり(爆)。

だから、いっそ露天ナシの方が安心だったり(笑)。あと夜は窓を開けない方が無難かも(^^ゞ。夏〜秋口はちょっと暑いけどね。。
平泉は宿が高いんで(^_^;)、車なら1時間以内だし、安いし温泉もある厳美渓がお勧めだけどねっ☆ミ

室内の温泉にユッタリ(^_^A)(パノラマ2枚)

宿に地元の歴史講座の案内が置いてあったけど、一関宿場町として、早くは戦国末期には名を顕すそうだ。
お餅がご馳走」という「おもてなし」文化も、そういう土壌で生まれたのかしら〜(#^.^#)。

この近辺でよく聞く「長者伝説」には、旅人と現地の娘の物語なんかあったりして、なるほど、背景に「宿場」っぽい雰囲気が感じられる(^^ゞ。

又この辺は、元は「五串」と呼ばれ、「小松姫の伝説」というのがあるらしい。
さっきの「小松館」にせよ、一関にあったという「小松柵」にせよ、「小松」は広範囲に当てはまるんだねぇ……(^^ゞ。

伝説によると、「小松姫」は、頼朝が奥州に攻めて来た帰り、郷人と合戦になった時に(モチロンそうした史実は無いが(^_^;))、人々を救うため投身入水したそうだ。
また、「金売りの長者」を慕って、小松姫が厳美渓に身を投げたという伝説もあるらしい。

さらに今回は、ここより平泉に出る途中で「達谷窟」を見学するが、そこを中心とする坂上田村麻呂の伝承にも、「長者伝説」が混ざって来ている(笑)。
今回はこの辺りの話をしていこうと思う(^^)。


4日目の朝〜っ(^O^)。「渓泉閣」(パノラマ2枚)

「達谷窟」で語られる坂上田村麻呂の伝説は、先(1月)に話した蝦夷征伐における歴史とはかなり異なっている(^^ゞ。
と言っても、「達谷窟」だけが変わっているのではなく、東北全体で田村麻呂伝承が、歴史とは全く別ソースを基調としているのである。

大まかな筋を話すと、全体は「三代にわたる物語」で、一代目と「大蛇」の間に二代目が生まれ、二代目と「陸奥の賤女」の間に三代目(田村麻呂らしき)が生まれる。
また、「二代目」と「三代目」が戦う敵に、「悪路王」「赤頭」「高丸」「大武丸」がいて、これに「鈴鹿御前」(あるいは「立烏帽子」)なる女人が、敵になったり妻になったりの筋立てを交えつつ関わる、という構成だ(^^ゞ。

その萌芽は、平安末には片鱗が現れていたと思えるが、鎌倉期に骨格が出来、室町時代の「田村草子」で構成が整った後、江戸期以降は、伊達藩南部藩で盛んだった「お国浄瑠璃奥浄瑠璃)」の演目「田村三代記」によって、「座頭」という盲人の「弾き語り芸」に発展していった。

筋立てが幾つもあったり、伝わる地域や時代によって、細かい部分が違うのも、座頭による「弾き語り」という形態の特質ゆえだろう。
それは「奥の細道」にも記載されており、つい最近まで語られていた物だそうだ(^^ゞ。

そのように時代が深まるにつれて、話は多岐にわたり、詳細になり、構成は複雑性を増し、信仰的な尾ひれもいっぱいついて地域性も豊かになったようである。


建物の隣は小庭園に水遣りなど風情があるが(^^ゞ、建物の裏手はド〜ン!と渓谷そのものが広がって圧巻!↓

宿泊した部屋から見える渓谷(パノラマ3枚・ほぼ180度)

夜はガラス窓いっぱいに虫がついてはいたが、水流の調べが響き渡る中、渓谷にはライトが施されて、巌の陰影が何だか怪しく映えて、スゴイ幻想的だったわ〜└(#^.^#)┐

↑のスゴイ風景を見ながら、4日目の朝ごは〜ん(^O^)//<パンパン→
こたつは、納豆・鮭・海苔がついてる朝食が大好き!(爆)

さて、「田村麻呂伝説」と「長者伝説」の混同は、わりと新しい時期じゃないか……という気がする(^^ゞ。

と言うのも、室町時代の「田村草子」では、単に「陸奥の賤女」にすぎない三代目(田村麻呂らしき)の生母が、後の「田村三代記」では、「九門の長者のはした女・悪玉姫」と、設定が具体的で、扱いも濃密、かつ筋立も豊富になるからである。

悪玉姫」は二代目(つまり田村麻呂の父)が奥州に来た時、狩をした後の酒宴で杓をしに上がった、身分の低い水仕女として登場する。
これは「田村草子」からしてそのようで、妻がいる身の「二代目」に対して、「たまたま奥州で伽を勤めた女」として登場するから、「土地の女」つまり「奥州の女」ではあるのだろう。

しかし、なぜ「長者の娘」ではなく、「長者のはした女」なのだろう(^_^;)。。ただ単にそれらしい話を作るだけなら、土地の長者が、自分の娘を貴人の床に差し上げて子を生ませる、といった事があっても、それ自体はそう不自然でなさそうに思えるのに……?

「田村三代記」が江戸期に花開いた所以の一つには、田村氏が、「坂上田村麻呂の後裔」を称した事が関係するように思える。
この田村氏は、伊達政宗の正室・愛姫実家でもあり、愛姫の血筋は伊達氏にも流れているから、伊達氏にとっても無縁ではなかっただろう。

朝食後の温泉も気持ちイイ〜(((((っ^o^)っ

が、田村氏の言い分はともかく、田村麻呂の子は、12人ほどいるとされるうち、上から、
大野△
広野○
浄野
正野△
滋野×(陸奥国の安達郡)
継野×(常陸国の石河郡)
継雄×(上総国の武射郡)
広雄△
高雄×(下総国)
高岡×(越後国)
高道△
春子○(桓武後宮、葛井親王母)
と、後ろにカッコをつけた「奥州や関東に土着した」とされてる子供に限って、学問的には疑問視されている(×がついてる)。

この中で奥州に多く繁栄した田村氏の祖とされるのは「滋野」で、「坂上党」なる武士団を形成したと称しているが、「将門記」に将門の部下の一人、「坂上遂高」が書かれている事や、1300年代末の福島県に、「田村麻呂の子孫」とか「田村荘司」とか称した武士がいた事が文献にあり、「鎌倉大草紙」には「田村麻呂が陸奥に下向の時に、土地に子孫を残して田村庄治と号した」とあるので、これらを見て「捏造」したのだろうと言われている(^_^;)。

もっとも、戦国期に奥州の大名だった田村氏が先祖と仰いでいるのは、「○」のついてる「浄野」で、「田村兵軍記」に「浄野が奥州の女性を母として生まれ土着した」とあるそうだが、これも「田村麻呂の子であった事が認定されてる人物」という事であって、「後の田村氏との関係」は疑問視されている(^_^;)。。

田村麻呂に関する史料は古くからあったから、戦国期や江戸期においても、確認は可能だったハズで、伝承の是非を確認した事はあったのだろう。
そこで、「田村草子」にある「土地の女との間に子が生まれ……」という筋書きに対して、今書いて来たように、否定的な見解が出た事があったのかもしれない。

否定されてしまったから、「土地の長者の娘」で行くのは不都合になって、「杓にあらわれた賤女ならOK」ということになったのだろうか、何しろ「娘」ではなく「はした女」なんだな(^_^;)。
むしろ「はした女」でなければ出来ないような話の膨らみ方に発展していくのだ(笑)。


この後も、田村麻呂伝承(信仰)については話していくが、そろそろ宿を離れるので、最後に写させて貰った、お土産コーナーを紹介しておきたい(^^)。

上が漆の「秀衡塗」、下は駒人形、左下が「鹿踊」だね(^^ゞ
拡大(手ブレ!)

秀衡塗」というのは、平泉のアチコチで頻繁に見る(^^ゞ。奥州藤原氏の三代・秀衡の名をとっているんだね。秀衡は、奥州藤原氏の中でも、地元で一番人気じゃないかな(^^)。

鹿踊」の方も、写真や民芸品が広い範囲の各所で見られるが、主に江刺を代表する郷土芸能で、「村々に悪魔降伏のため神楽を教えた」事を起源として、お盆には祖霊供養・悪霊追放、秋には五穀豊穣を祈願した。

岩手県に伝わる鹿踊は、「太鼓踊」系と「幕踊」系に大別でき、宮城県北部から岩手県南部にかけた旧仙台藩領と旧南部藩領の一部に伝わる系統は、「太鼓踊」系を伝えている。
装束には頭から下半身にかけて、「ササラ・角・頭・ザイ・九曜紋・九曜星・前垂・大口・太鼓・ハカマ・シラベ縄・シラベカクシ」からなっている。
着用の仕方は、前腰に太鼓をつけ、背に一対のササラを立て、鹿角のついた頭(カシラ)をかぶり、馬の黒毛をザイとして用い、顔から胸にかけて黒の幕垂れをさげ、自ら太鼓を叩き、歌を歌って踊る。

大別して行山流金津流の二流派があるが、全ての踊りの基本となるのが、「礼庭(=れいにわ、「本庭」「一番庭」とも称される)」という儀礼的な踊りで、踊りの進行は、一隅に8人が集合して、中立の寄せ太鼓に始まり、入り込み型になり、いったん引き下がった後、あらためて本入り込みの型になって、門、屋敷、庭、等の褒め歌を歌い、本舞になる。
演技パターンは、通常は8人で、8頭の鹿に扮し、「中立」と呼ばれる鹿を中心に、それぞれ役割を分担し、自ら太鼓をたたき踊り、「側鹿」が「雌鹿」を囲んで、離散を繰り返しながら、それぞれの場所に合わせた踊り方をする。

次に庭切りの歌に続いて「狂い」を踊り、「白鷺の歌」になり、「かのこ狂い」に踊り、太鼓の調べで終る。
この他に、鹿の群れの所作を擬した「役踊り」として、「女鹿かくし」「案山子踊り」「鉄砲踊り」などの演目がある。



<厳美渓、「厳美公園(郭公だんご)」>

地図H←宿からスグ(^_^;)。一応、自然公園になってて「厳美公園」と言うらしい。入って来て、中央に「郭公だんご」のリフト停車場の屋根↓が見える。

厳美公園」入り口(パノラマ3枚・ほぼ180度)

↑この左には厳美渓の見事な景観が、右には橋が拝める(^^)。

まず右の橋付近に行ってみると、通りに面した入り口から澄んだ渓流が流れている→
↑その清水が、ゴツゴツした岩盤の合間を縫って、橋付近まで流れていくのが見れる(^^)。

全体はこんな感じ(^^)(パノラマ2枚)

この厳美渓にかかる橋は、 文化3年(1806)、西磐井の大肝入・大槻文作の指導の下で、里正の佐藤時茂が、里人と力を合わせ、厳美渓に初めて架橋した。

この辺りは幕府からも使者が見聞に来たようで、その折、松島から北上して、胆沢あたりまで行くのに、ここに橋が出来た事で、ずいぶん便利になったようなんだね(^^ゞ。

橋は、里人の日常の利便のみならず、厳美渓を一望に収める優美さを讃えて、「天工橋」と愛称され、文人や墨客が多く訪れるようになった。

また、橋についての碑文が、文政元年(1818)の松崎慷堂の撰文、松平定信の題字揮毫、屋代弘賢の清書を得て、文政2年(1819)天工橋の袂に建碑されて、「三絶の碑」と言われ、これらに多く尽力した大槻家の人々とともに顕彰されていたが、昭和22年(1947)のカスリン台風の洪水で倒壊・流失し、平成10年(1998)に、永く望まれた再建がなった事などが書かれていた。

←ゴツゴツした岩場を、今度は、中ほどの屋根つきベンチ「郭公だんご」リフト停車場に行ってみる。

これは「空飛ぶダンゴ」で、テレビとかでも有名みたい(^^ゞ。私は知らなかったけど、亭主が「俺見た事ある」って言ってた(笑)。
ダンゴってのは、こういう物(爆)↓

ゴミ箱で撮影(爆)
おもっち」に該当するのだろうか。公園入口にこんな旗が(笑)

どういう所が「空飛ぶ」なのかと言うと……、

このように屋根つきベンチで待ってると
滑車と糸を伝って団子箱が降りて来る仕組み

団子屋看板(拡大)
なぜか国旗らしきが聳え、どことなく国際色豊か(笑)

さてさて、「坂上田村麻呂伝承」が、今回「たわごと」のメインディッシュである(爆)。

「田村三代記」は、長い時を経る内に変容を重ね、「お国浄瑠璃」というスタイルで、座頭語り(盲人による伝え語り)に語られ、夥しい数の伝承を東北の各地に根付かせてきた。
長期間、広大な東北じゅうに行き渡ったのだから、各地で独自の筋立に発展するものあり、互いに相乗し合う面もありで、原型の突き止めようもないらしい(^_^;)。。

しかし、室町時代に成立した「田村草子」まで遡れば、原型に近い話は推測できる。
また室町時代あたりが、平安〜現代までの中間として見るのには、ちょうどいい出来具合と思えるので、いっちょ書いてみよう(^o^)。


<お話スタート(^o^)>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−┐
藤原俊重の子・俊祐は、50歳になっても妻が無かったので、理想の女性を求めて上洛し、五条に住み、嵯峨野に遊んで出会った美女との間に、男子を儲けた。

美女は実は「ますたか池の大蛇」だった。が、俊祐は彼女との約束を破って、期日より一日早い、入室7日目に産屋を覗いたため、正体を知られてしまった美女は「この子は日本の主にはなれなくなったが、せめて大将軍にしよう」と、子の未来を予言して姿を消した。

こうして生まれたのが、俊仁利仁)将軍(
苅田麻呂)である。
母親の予言通り、父俊祐が亡くなり、二匹の大蛇の討伐宣旨を賜って、先祖の弓矢をもって退治を果たし、俊仁将軍となった。

やがて俊仁は照日御前と恋仲となった事から、天皇に伊豆に流された事もあったが、許されて都に戻り、晴れて照日御前とも夫婦になれ、二人の姫も儲けた。

ところが照日御前が辻風に吹き上げられて行方不明となり、伯父(母の兄)である大蛇から、照日御前 が、陸奥国たか山の「悪路王」という鬼に誘拐された事を教わる。

俊仁は鞍馬山に篭って多聞天の力を得、陸奥国に着くと、「陸奥国はつせの郡・田むら郷の賤女
悪玉姫)」と一夜を過ごし、子供が生まれた時のために、形見の鏑矢を渡した。
こうして賤女が、月満ちて生んだ男子が「坂上俊宗田村丸)」である。
└−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−つづく(^^ゞ


今度は左、「厳美渓」(渓谷)に近付こう(パノラマ4枚・180度以上)

↑後ろを振り返る↓「格好だんご」の屋根も遠ざかる(パノラマ4枚・180度以上)

全体は、「二代目・俊仁(利仁)」+「三代目・俊宗(田村麻呂)」の二代ぶんの人生を使って、「悪路王・大武丸・高丸」を討伐する話になってるが、読んで「えっ(・・;)」となるのは、坂上田村麻呂より100年ほど遅れて歴史に名を顕す「藤原利仁」が、「田村麻呂の父」になってる点ではないかと(笑)。

利仁将軍と言えば、芥川龍之介の「芋粥」にも出て来る有名人なんだけど(^_^;)、地域や時代によって、藤原利仁と田村麻呂が、父子の二代だったり、同一人物となったりするようだ。


<続きスタート(^o^)>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−┐
俊仁は、鞍馬と多聞天の加護で悪路王の本拠に侵入し、待ち伏せの上で悪路王を討ち、照日御前をに連れ戻せた。
また賤女の生んだ男子は長じて、形見の鏑矢をもって上洛し、父・俊仁に対面して「田村丸」と名乗る。

俊仁はその後、唐に攻め寄せて不動明王に挑み、殺されてしまうが、子の田村丸の方は帝の宣旨を受け、数々の活躍の後、伊勢国の鈴鹿山に住む「大武丸」の退治に出る。

妖術を使う大武丸は手ごわかったが、大武丸が言い寄っている「鈴鹿御前」(
立烏帽子)と恋に落ちた田村丸は、彼女が大武丸を騙して秘宝の剣を取り上げた隙に、大武丸を討ち果たす。

天皇から伊賀国も与えられ、鈴鹿御前との間に「しゃうりん女」(
正林小輪)という姫も生まれた田村丸に、今度は近江国の「あくじの高丸」追討令が発せられた。

田村丸が攻めると、高丸は信濃国の「ふせがや嶽」に逃げ、そこを追うと、 駿河国の富士嶽に逃げ、ついに奥州外浜まで追い詰めた。
苦戦している田村丸に、又しても鈴鹿御前が高丸を騙して討たせるべく力を貸し、こうして高丸も、田村丸に討伐された。
└−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−以上(^^ゞ


↑さらに降りて行くと、「厳美渓」の見事な景観が見えて来る(^O^)! この狭い峡谷の合間をくぐる水が、所々で滝にもなってるんだっ(^^)→

で、「田村草子」の登場人物を整理すると、こんな感じ(^^ゞ。↓

<登場人物・系図>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
               藤原俊重
                 |
堀越(中納言)隆遠     俊祐−┬−「ますたか池」の大蛇の化身の美女
  |                  |
照日御前−┬−俊仁(利仁)将軍(
苅田麻呂−┬−陸奥国はつせの郡・田むら郷の賤女
      ┌┴┐                   |(
悪玉姫
      姫 姫                    |
                              |
(鈴鹿山の)大武丸−−鈴鹿御前(
立烏帽子)┬「いなせの五郎・坂上の俊宗(田村丸)」
                             |
                    「しゃうりん女」(
正林小輪
※その他の登場人物
悪路王高丸
赤頭

<出典など>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
系図は、室町時代の「田村草子」の登場人物だが、ほぼ同根の筋立てで、「すずか」「立烏帽子」などがある。

カッコ内に記した色付の名前(
苅田麻呂悪玉姫立烏帽子赤頭正林小輪)は、他の時代や作品の登場人物名だが、まとめた方が整理しやすいので、全部一緒に出させて貰った(^^ゞ。主な出典は以下。

苅田麻呂=「仙道田村兵軍記」。秋田県に伝わる話。
また、
苅田麻呂は、史実における坂上田村麻呂の実父の名(坂上氏については後述)。
「藤原利仁が坂上田村麻呂の父」という設定に無理があるので、実父の名を持ってきたのだろう(^_^;)。

悪玉姫立烏帽子=「田村三代記」など(多くの異本・異伝がある)。
悪玉姫」は、「飽玉姫」「阿久玉」「阿久多摩」などとも書かれる。
立烏帽子」は、平安期の書物にもその名が見られ、古くから伝わっていた名ではあると思われる。

・「
赤頭」は、「悪路王」とともに「吾妻鏡」に出て来る賊徒だが、元寇のことを書いた鎌倉時代の書、「八幡愚童訓」にある「塵輪」という、日本を侵す古代の魔物に、それらしき描写があるようだ。
この「田村草子」に「赤頭」は出て来ないが、この先の「達谷窟」では、「赤頭」の名も案内板に載せているので、載せてみた次第(^^ゞ。

・「
正林」「小輪」は、ともに坂上田村丸と鈴鹿御前(立烏帽子)の間に生まれた姫の名として伝わっている。
岩手郡に「正林寺」という寺があって、そこで「
正林」が93歳で大往生したと伝わる。
小輪」の方は、南部叢書に編纂されてる「三代田村」では、白蛇権現の事だそうだ。


今いる辺りは「長者伝説」のある土地だから、ここからは「悪玉姫」の続きをやろう(^。^)。

今度は左右の風景を(^^)(パノラマ5枚・180度以上)

↑と逆側↓少しは緑も生えている(パノラマ5枚・180度以上)

上の「田村草子」で確認する通り、陸奥国はつせの郡・田むら郷の賤女に過ぎない「坂上の俊宗(田村丸)」の生母が、後の「田村三代記」における「悪玉姫」になると、以下のように変容・増幅・複雑化していくのである(^^ゞ。まず出身と容姿についてだが……

@田村麻呂の父(つまり二代目)が奥州に来た時、狩をした後の酒宴で、杓をした身分の低い水仕女だから、美人ではない

↑こういう話がつき、さらにだんだん以下の尾ひれがついて変化する↓

A賤女だからパッと見は醜女なのだが、実は貴人には美しく見える
B元は賤女ではなく、身分の高い女だったが、人買に売られて長者の家で奉公している。
C過去には身分の高かった父親が流刑されたから、奥州に住んでいる。
D本当は美人なのだが、昼間は顔に煤を塗って髪も乱し、わざと醜くしている。
E人買に連れられ転々する中、和賀の観音堂で醜女になったので、人買に捨てられ、地元の町人に助けられて、長者の下婢に雇われる。

「田村草子」や「田村三代記」には、いわゆる「悪女」も登場するが、「悪玉姫」の呼び名は「悪女だから」というわけではないみたい(^_^;)。

福島県の白河に、珍しく悪玉姫自身が妖女という筋立てや、とびきりの美人名前だけ「あくだま」というパターンもあるようだが、大抵は「悲劇のヒロイン」的な扱いで、「性格」より、@Aのように「身分が低い」、@AやDEのように「容姿が醜悪」に起因する設定が多い。

「悪玉姫」は、「阿久玉」「阿久多摩」(宮城県利府)「飽玉姫」(岩手県紫波)とも書かれるようだ。
柳田国男は、「悪路王」について、悪霊の呪い祟りを避けたり、その怒りを鎮めるため、有力な神社の末社悪霊を祀る習慣がある、と言ってるらしい(^^ゞ。
よって、「悪玉姫」についても、巫女の名を元祖と見る名(あぐり・あこや)に相当する、とする説もある。

BCのように、「元は身分が高かった」という話も多く、その場合、「京の貴族出身」という設定で、「三条大臣の娘・笹鶴姫」「紀伊国の斎大納言の娘」「中御門中納言泰照の娘」「山蔭中納言の娘(生玉姫)」「橋本光忠の娘(阿口ダ姫)」など、実に様々な貴人の名が宛がわれている(^_^;)。。

せっかく「陸奥出身の女」なのに、何で「京出身の身分の高い女」なんかにしてしまうのか……。
父母ともに中央の出身者であっても、子孫が地元に根付いたと考えれば、地元としては問題ないからか(^_^;)。

もしかすると、そもそも正妻である貴族の娘「
照日御前」と「陸奥の賤女」を、「一人の女性」に集約したい考えからなのかもしれない(^^ゞ。

もう一つは、「京出身の女性が陸奥に連れて来られた」という伝説が古くからあったため、そこだけは崩せないのかもしれない。これについては後述しよう。

いずれにせよ、BEに見る通り、「長者伝説」に、大抵「人買伝説」が相乗して、話を必要以上に面白く盛り上げている(笑)。


厳美渓とその周囲を彩る奇怪な巌々(パノラマ縦4枚)

←遠くの滝を拡大撮影(^^)

悪玉姫の話が、長者伝説と深く関わる筋立てでは、長者の性格や、長者の性格に付随した悪玉姫の出産シーンが、話によって著しく異なる。

F不幸な身の上を、長者に雇われたり、田村麻呂の父(利仁)との出会で救われ、出産の時も、長者に良い産屋を建てて貰ったりする。
G悪い長者の話では、長者にこき使われていたり、汚い小屋で生んだり、山で出産したり、生まれた後、やむをえず野に子を捨てるのが、観音の助けを得たりする。
(大雑把に分けると、宮城県の泉市など南の方では前者、岩手県の紫波など北の方では後者、という感じかな(^^ゞ)

しかる後、田村麻呂の人生は、こう派生・展開する(^_^;)。

H生まれた子へ、父からの形見の品として、白羽の鏑矢・観音像・短刀・振袖・矢の根石・どこどこ神社の御守りなどを授けてある。
I生まれた子は洞門寺・道雲寺(ともに宮城県泉市)に入れられて育つ。
J子は、自分が貴種とは知らず、武芸大会(流鏑馬の引太郎とか、競射の弓太郎などの役)を、母親の身分のゆえに断られたり、武芸の成績のことで「父なし子」と罵られたりで、落ち込んでいる。
Kあるいは逆に、競馬で荒馬を乗りこなしたり、障子をしめて食事をしていたのに、外から射込まれた矢を打ち払ったりの武勇を見せる(つまり、血筋は争えない、というオチ)。
L母から父の事を知らされたり、うっかり聞いたりで、形見の品を携えて、都に出掛けたり、国府に出向いたりで名乗り出、父との再開を果たす。
M成功を修め、都で出世コースに乗るなりして、母を都に呼び寄せる話もある。

どうかな。江戸時代(特に歌舞伎や浄瑠璃とか)っぽい空気が濃厚になってるよね(笑)。

この「悪玉姫」は、東北の各地域に根ざす伝承となっていて、田村麻呂の「母」だった「悪玉姫」が、「」とされる地域も多く、例えば、石巻市零羊崎神社などでは、田村麻呂と悪玉姫の両像が、雛人形のように二対で祀られているらしく、夫婦神のようにも思える(意外と母子像なのかな……(^^ゞ)。




<達谷窟(西光寺)・三つの鳥居まで>

いよいよ「達谷窟」に向かう(^^)。厳美渓からわりと近い。地図I←31号線を真っ直ぐ。

←もう着いた(笑)。この岩壁の向こう側が「達谷窟」。この名所に関しては、この岩盤からして伝説の一端と見るべきなんだろうな〜と思う(^^ゞ。
また、この辺りから、とんでもなくメルヘンの世界が醸されていて、初めに見る、このネジリ式の藁なんか、まるでもぉお菓子みたいよ!(≧▽≦)

→こう来る。↓「達谷窟」。隣の藁葺屋根の民家↓も目印(^^)(パノラマ4枚・180度以上)

道路を隔てた広い駐車場からも撮影(パノラマ3枚・ほぼ180度)

中央やや右寄りに、人の二倍はある、大きな看板塔が聳えている。↑
毘沙門天は寅年の寅刻に現れるとか、北方の寅の方位を守護する、などと言われる。
今年(2010年)が、その寅年(庚寅)であるので、「達谷窟・毘沙門堂」としては縁年なのだろう、「平成廿ニ庚寅年」と大きく書かれた後に、「征夷大将軍・坂上田村麿公、一千二百年御遠忌 別当 達谷西光寺」と続く。

坂上田村麻呂の没年は811年であるから、ちょうど1200年忌の年に突入しているのも確かだ。

その後に続く「延暦廿年 坂上田村麿公創建」←これが微妙だが(笑)、この点については、2009年5月<妙見社・国王社(妙見曲輪)>内〜<相馬神社(本丸跡)>に書いたので、ここでは省略させて貰う(^_^A)。

そもそも、坂上田村麻呂と達谷窟の関係は、田村麻呂の事を書いた同時代史料には無い。
田村麻呂の蝦夷征伐については、<「胆沢城(鎮守府)跡」と「鎮守府八幡宮」>内〜<巣伏村の古戦場跡(胆沢側)「田んぼアート」>〜<巣伏古戦場「中陣・後陣」跡地>〜<神明社(伝アテルイ居住跡)>の通り(^^ゞ。

対して、「達谷窟」が文献に現れる最初は、「吾妻鏡」(鎌倉幕府の公式記録)のようだ。
さらに、実はこの「達谷窟」も、近年の発掘などによって平安期の遺物が確認されており、奥州藤原氏あるいは安部氏などと関連の深い場所だったのではないか、と見られている。

というわけで、今度は室町時代の「田村草子」より前の時代に遡ってみたい。
と同時に、これまでは、田村麻呂の母(あるいは妻)である「悪玉姫」を追って来たが、これよりは、物語世界で田村麻呂の「敵」に該当する、「悪路王」「赤頭」「高丸」「大武丸」「鈴鹿御前立烏帽子)」を追い掛けてみよう!(^O^)/


寺域の端「薬医門(パノラマ2枚)

達谷窟毘沙門堂・別当西光寺HP←によると、江戸初期に建立した鳶澤の西光寺(本坊)の門を、明和年間(1764〜1772)にここ(別当)へ移し、維新後、毛越小学校→毛越寺→再びここ(別当)に戻った。

隣の「御供所」は、行事の支度・神楽の伝習・信者の宿だそうだ。1600年代末の建築。
藁葺屋根と土塀の前に咲き群れる、コスモスと彼岸花、カレンダーの風景みたい(#^.^#)。

現在ある建物は、古くて江戸時代のせいぜい初期の物だろう(^^ゞ。が、これより入る達谷窟の毘沙門堂になると、焼失と再建の判然たる記録(ってか縁起)は各々3回づつあるのに、建立回数は全部で「5回」と伝えていて、最初の頃の年代が明らかではない。

そこで史料として時代性の明らかな「吾妻鏡」が手掛かりとなるのだが、そこには、頼朝が奥州藤原氏を討伐し、平泉を廻って見た時には既に、後世の創作物(「田村草子」など)に繋がる伝説の原型(あるいは一端)が、土地にあった事が判るのだ(*o*)。。

「吾妻鏡」には、まず胆沢鎮守府の八幡宮が出て来る。
胆沢鎮守府八幡宮では、坂上田村麻呂が蝦夷を征伐した折に、「弓箭や鞭を奉納し、宝蔵にある」事が触れられた。これは1月に載せた通りね(^^ゞ。(2010年1月<「胆沢城(鎮守府)跡」と「鎮守府八幡宮」>内

その後、ここ「田谷(たっこく)」の前を頼朝が通り、号を尋ねた所、「田村麻呂利仁等」が征夷した時、「賊主悪路王ならびに赤頭」が柵を構えた岩室だと知れた。

そして「田村麻呂鞍馬寺に模して、多聞天像を安置し、西光寺と号した」とあって、少なくても頼朝の奥州征伐がされた平安末の1189年には、岩室も寺らしきもあった事、征夷の対象に「悪路王」や「赤頭」という名が現地で記憶(伝承)されている事、そしてさっき父子で出て来た「田村麻呂」と「利仁」登場の伏線が、既にここにある(ってか、「吾妻鏡」のこの記述が発端らしい)事もわかる(^_^;)。

「吾妻鏡」が編纂されたのは鎌倉時代の中〜後期ごろと見られているから、「正確に平安末の状態を写し取っている」とまでは言い切れないが、「悪路王」「赤頭」なる「賊」の登場と、「田村麻呂」「利仁」の合体が、鎌倉時代まで遡れる事は間違いない(^^ゞ。

つまり内容の正確性についてはともかく(笑)、鎌倉幕府が西光寺を優遇する理由も思い当たらないので、意図性(捏造とかの(^_^;))には乏しく、やはり頼朝が来た時、既に後世に繋がる伝承の一部が醸成されていた、とは見なしていいと思う(^^ゞ。

↓「御供所」の裏手には庫裏があるようだ(^^ゞ。
左右が逆になってるが(^_^;)、「御供所」を←こう過ぎると、坂の上に境内の「金堂」がチラと見える→
「金堂」には中に入ってから、後で行く(^^ゞ。
さらに←こう進んで、「達谷窟」の入り口に達する↓

これより、三つ並んだ鳥居を潜るが、その前に、↑このように拝観料を支払う処があって、わりと急に始まっている(^^ゞ。東北の寺社には、このように入り方が唐突に思える寺社が多いけど、ここもそうだ(笑)。

東北には修験道が多く(ここは羽黒修験が盛んだったようだ)、つまり神仏習合なので、元は門や敷地の区別が無かった所に、維新後、イキナリ分離させられた経緯とかもあるのかもね(^_^;)。

でも三箇所の鳥居は古くから参道にあった物で、最初の「一」の鳥居は、「八石の鳥居」とも称され、「ひこじうらう、とくぢ、せいのじゃう」という達谷村の三人の石工により、達谷石を用いて江戸時代に建立された。

ところで、悪路王赤頭も気になるが、頼朝が来る前から、この地で寺を営んでいた「西光寺」の存在も気になる。

もちろん社伝は、「田村麻呂自身が勧請して来た」と伝える(^^ゞ。ただこれは達谷窟に限らず、田村麻呂の伝承を持つ、他の多くの寺社が同じ事を言ってると思う。

しかし実際には、田村麻呂らによる征伐が800年の前後、頼朝の奥州征伐が1189年。すでに約400年ほど経っている。

坂上田村麻呂は清水寺の建立縁起に深い関わりを持っており、清水寺は観音信仰である。(2009年5月<妙見社・国王社(妙見曲輪)>内〜<相馬神社(本丸跡)>
一方、藤原利仁鞍馬寺と縁が深く、「鞍馬寺縁起」に、多聞天(毘沙門天)の加護で、下野国の賊を退治する話があるそうだ。

清水寺も鞍馬寺も、南都仏教(天台・真言より前)を母体とし、平安期より前に縁起を持つ京でも数少ない古寺なので、蝦夷征伐の後、両系統が布教の触手を伸ばして来ていたのかもしれない。

しかし南都系だと、山形県の行基伝承、会津の徳一による教化色などが強い一方、田村麻呂伝承の拡がり方は広大で、単体の寺勢力と見るより、慈覚大師を開祖とする、すなわち天台系の教線も、田村麻呂人気にあやかった同類伝承を土地に結びつけて布教した可能性がありそうだ(^_^;)。

現にここ達谷窟においては、慈覚大師の痕跡として伝わる物に、毘沙門堂や辨天堂における大師作の本尊佛の他、正月1日から8日迄行われる「修正会」があり、これは恵海和尚が慈覚大師から伝え受け、千余年後の今もなお続く神事と伝わっているという。

頼朝が奥州征伐に来た平安末(「吾妻鏡」に書かれた時代)までの経過については、だいたいこのぐらいでいいかな(^^ゞ。

今度は、それより後の時代から、さっきの「田村草子」までの時代……すなわち、鎌倉〜南北朝〜室町時代あたりを見て行きたい♪
←「二」の鳥居は朱塗りで、反り返った屋根も華やか(^^)。

この「二」の鳥居は、「八丹の鳥居」と称され、昭和30年(1955)年に失われたが、平成10年(1998)に再建された。
三の鳥居とともに、他には見れない特殊な形式を伝えている。

その右脇、森林の合間からチラチラと、「鐘楼」や「不動堂」が垣間見える(^^)↓

←先に通り過ぎる不動堂は、「姫待不動堂」と言って、後で参拝に来るが(^^ゞ、このように途中からの参道も設けていて、両脇を囲む古杉が巨大!(笑)
↑不動堂の続きには奥に「鐘楼」、手前に「閼伽堂」も(^^)。

さて、「吾妻鏡」の「悪路王」「赤頭」に続いて、史料上に登場を見るのは、「高丸」と見るべきかと(^^ゞ。
前に書いた「田村草子」では、「大武丸」の方が「高丸」より先に登場するが、史上に現れるのは「高丸」の方が早そうだ。

平安末には、「立烏帽子」という伊勢・鈴鹿山の賊も都で騒がれたそうだが、まだ田村麻呂の話と繋がりが持たれる事はなかったようだ。

その点、「高丸」が初めて登場するのは、元寇のことを書いた鎌倉時代の「八幡愚童訓」で、「安部高丸」「安部介丸」とあるそうだ。
が、そこでは、「赤頭」に相当する国敵、「塵輪」の来寇を食い止める武勇の役割を果たしている。

「外敵調伏」といった事だと、陰陽師の清明に代表される「安部氏」かとも思うが、「元寇の事」と言っても、「塵輪」は、どうも仲哀天皇の頃の夷戎を表現したようだから、そうした古代の外敵を相手したとなると、鹿島・出雲・九州などの戦力を想像する。

つまりそれらと同様、奥州を吸収してからは、俘囚の武力を宛にした点から見て、この「安部」は、奥州の安部氏を意識した命名?って気もする(^_^;)。

もう一つ、奥州の安部氏と通う点は、前九年の役が、「安部氏の南下」に端を発している点であるが、この点については、その後に成立した「高丸」の性格づけの方が、史実に近寄っていると思う(^^ゞ。

いよいよ「三」の鳥居を潜る(^O^)
風変わりな表札

毘沙門堂」の食い込む「達谷窟」が見えてくる(パノラマ2枚)

「高丸」が、「田村草子」の筋により近く、殆ど「原型」として描かれたのは、鎌倉末期に書かれた「元亨釈書」のようだ(^^ゞ。

まず清水寺の創建話に絡んで、田村麻呂の話が起こされ、話の主旨は、「矢を拾って渡す童子(仏神の化身)と戦場で出会い、田村麻呂が戦勝に導かれる」という典型的な武運縁起物語だ。

そこにおいて、「高丸」はこう書かれる。
奥州の逆賊・高丸駿州(駿河国)をおとし、清見関まで来ていた時、田村麻呂が来た事を聞き、本拠を保とうと奥州に退いたが、戦となって(地蔵や毘沙門の加護もあって)、田村麻呂が高丸を射殺した」と。
そして奥州に撤退した高丸が、この「達谷窟」に篭った、と書かれるケースが、その後も多いように思う。

以後、室町時代は、「神明鏡」「義経記」「諏訪明神絵詞」「未来記」などにも登場し、田村麻呂に討たれる(利仁に討たれる場合もある)「悪事の高丸」にほぼ定まり、高丸を倒す矢を渡すのが、諏訪明神になってる物もあり、さらに稲荷が加わるケースもあるようだ(笑)。
ちなみに利仁は、「赤頭」を討つ話もあるらしい。




<達谷窟、「毘沙門堂」「岩面大佛」「蝦蟇ヶ池・辨天堂」>

見よ、これが達谷窟毘沙門堂」だ!(パノラマ縦3枚)

いや〜何だか日本の風景とは思いにくいスケールだよね(^_^;)。。
洞窟は、最大標高差約35mの断崖に掘られており、奥州で最も著名な窟である事はモチロン、窟毘沙門堂は、岩窟に堂宇を構える窟堂としては、日本一の規模を誇る大堂。

話としては、ここに案内されている「達谷窟毘沙門堂縁起」と、今ちょうどピッタリの所まで来たので、現地にあるままの文章を出させて貰う。

およそ1200年の昔、悪路王・赤頭・高丸等の蝦夷がこの窟に塞を構え、良民を苦しめ女子供を掠める等乱暴な振舞が多く、国府もこれを抑える事が出来なくなった。
そこで人皇五十代・桓武天皇は坂上田村麿公を征夷大将軍に命じ、蝦夷征伐の勅を下された。
対する悪路王等は達谷窟より三千余の賊徒を率い駿河国清見関まで進んだが、大将軍が京を発するの報を聞くと、武威を恐れに引き返し守を固めた。
延暦20年(801)大将軍は窟に籠る蝦夷を激戦の末打ち破り、悪路王・赤頭・高丸の首を刎ね、遂に蝦夷を平定した。
大将軍は、戦勝は毘沙門天の御加護と感じ、その御礼に京の清水の舞台造を模ねて九面四面の精舎を建て、百八体の毘沙門天を祀り、国を鎮める祈願所とし窟毘沙門堂と名付けた。
そして延暦21年(802)には別当寺として達谷西光寺を創建し、奥真上人を開基として東西三十余里、南北二十余里の広大な寺領を定めた。

寺伝は、この後の時代についても述べているが、そこはまた追い追いやっていこう(^^ゞ。

ただでさえ灯篭や狛犬が好きな私だが(笑)、ここの狛犬は特に窟の番犬っぽく、スフィンクスみたいな異国情緒もあって、丸くて可愛くて、たくさん写真を撮ってしまった(^_^;)。

思うに、こっちは雌じゃないかな(^^ゞ。
雄っぽいと思うけど、どうかな(笑)。

ここ達谷窟(西光寺)の案内には、「悪路王・赤頭・高丸」までで終わっていたが、既に示して来た通り、室町時代の「田村草子」では、さらに「鈴鹿御前立烏帽子)」「大武丸」なる、鈴鹿山コンビを登場させているo(^^)o。彼らは鬼だったり盗賊だったり様々。

まず、「太平記」に「鈴鹿御前」が出て来る(^_^A)。
ただ、登場したての頃の「鈴鹿御前」は、田村麻呂と夫婦にまでは至らず、むしろ剣を合わせるなど、はじめは敵味方の関係だったようだ(^^ゞ。

こうして、伊勢国の「鈴鹿山」が田村麻呂伝承に加わるのは室町以降だが、もっと古来から物騒な連中の住処だったようで(^_^;)、「鈴鹿御前」の異名「立烏帽子」は、さっきも言った通り、平安末の鈴鹿山の「賊」として知られた名だった。

鎌倉時代も不気味な場所として知られ、女盗賊・鬼・群盗の存在が、説話集などに取り上げられている。
また室町時代の盗賊はすこぶる凶暴で、弱者から徹底して奪いまくるなど、無慈悲きわまる存在だった(T_T)。

元々、田村麻呂は畿内の人だし、蝦夷征伐の後も畿内の墓がたいそう崇められたそうだから、都に近い地域では、彼に討伐して欲しい対象はいっぱい居たのかもしれない(^_^;)。。

前回も見た八幡太郎義家にせよ、平安末の義経にせよ、都やその周辺に多い盗賊や乱暴な僧兵を取り締まり、京を守ってくれる存在が、朝廷や貴族からたいそう期待を集めていた現れの一つと思う。

なので、特に田村麻呂に固定された話と見なす必要は無いと思うんだけど(^^ゞ、強いて、田村麻呂に特化した事情と言えば……。

やはり一つは、鎌倉幕府は倒れて無くなったのに、また「室町"幕府"」てのが出来て、そのトップが、また「征夷大将軍」だった、という所かなぁ(笑)。
実際に鎌倉期と室町期の説話・草子類など比べると、奥州を征伐した鎌倉幕府より、その後の室町幕府の方が、よほど蝦夷や奥州の「征伐」を神格化してる気はする(^_^;)。。

この辺、支流の足利氏が天下を取った事から、殊更に源氏神話を美化したとも言われる一方、室町時代にまでなると、「蝦夷」への恐怖が、具体的な生々しい記憶としては薄れ、現実では「盗賊」「天災」「疫病」、心理的には「妖怪」「鬼」といった物への恐怖の方が関心の的になった、という風にも思える。

あと、「鈴鹿御前(立烏帽子)」は女性なので、もしかしたら、坂上田村麻呂が蝦夷征伐より後年、「薬子の乱」の時に、太政天皇(平城天皇)がわの勢力を阻止し、嵯峨天皇(平城天皇の同母弟)の治世立脚に貢献した事が混ざってる……なんて事もある?(^^ゞ

実際に「薬子」が悪女だったかはアレだが(^_^;)、絵としては、「帝をたぶらかす女の正体」を暴いて、闇の中でチャンバラ……平安初期ほど古代だと、坂上田村麻呂がうってつけのキャラというのはあるかもね(^_^;)。


いよいよ毘沙門堂に入ろう!(^O^)/
垂れ込める岩石を半ば掻い潜って

縁の下の組立
途中で割り込み塞がれる回廊
屋根にも岩が覆い被さる

こっから先は、残念ながら「撮影禁止」なのーーっ!\(>o<)/
でも内部には、慈覚大師の作と伝える、巨大な毘沙門天(毘沙門天の化現である田村麻呂の貌を模して刻んだ)像が祀られ、彩色も威容も奇抜で、スンゴイ迫力がある!

本尊の他は、吉祥天・善賊子童子を秘仏とし、内陣の奥には、慶長20年(1615)の伊達家寄進の厨子を安置している。次の開扉は、平成22年(すなわち今年=2010年)とあった。

さて室町時代、先ほどの「田村草子」が書かれた頃に達して、ようやく「大武丸」が加わる(^^)。
鈴鹿御前(立烏帽子)は大武丸と夫婦だったり、田村麻呂と夫婦となったり、物語に複雑な構造を与えるようになり、大武丸も鈴鹿山に居たり、奥州におりながら鈴鹿山の鈴鹿御前と夫婦になったり、住所不定ぎみのような(笑)。

鈴鹿が出て来ると、田村麻呂の話は妖術話になり、全体的に、後から生まれた登場人物が、古くからいる登場人物の上位に立つ場合が多いような?(^_^;)

子供の頃、変身ロボットや怪獣物のニューヒーローが登場するたび、近所の男の子に、スピードは誰の乗用マシンより早く、破壊力はどの怪獣より強く、戦闘持続時間はどのロボットより長く……という説明をされた事がある。

あれと同じ原理かなぁ(^_^;)。何しろ後から出て来た奴の方が上なんだわ。
例えば、田村麻呂より後から生まれた利仁が、田村麻呂の父になってるし、後から登場した高丸は悪路王を配下とし、もっと後から出た大武丸が、古くから活躍している悪路王や高丸を部下にしてるらしいよ?(笑)


懸崖造の「毘沙門堂(パノラマ2枚)

内部は撮影禁止。せめて外の景色を(^^ゞ(パノラマ5枚・180度以上)

社伝によれば、坂上田村麻呂の創建(勧請)の後、源頼義・義家の父子が寺領を寄進。
さらに奥州藤原氏の初代・清衡と、二代目・基衡によって、七堂伽藍が建立されたと伝えられる。
まんざら虚伝でもなさそうで、発掘調査の結果、奥州藤原氏が開いた平泉の最盛期である1100年代には、既にこの毘沙門堂の前面に、池が存在していた事が確認されている。

現在のこの池辺は、跡地を利用して作られた事になるね(^^)。→
そして先ほども言った通り、頼朝が奥州藤原氏征伐に来た帰りに立ち寄り、寺領は安堵された。
幕府要職として入って来た、葛西氏からの崇敬も篤かったようである(^^)。

室町時代に入り、延徳2年(1490)の大火で焼失するが、直ちに再建された。

戦国時代には東山の長坂家より別当が赴き、多くの衆徒を擁した。
天正(1573〜91)の兵火で、岩に守られた毘沙門堂を除き、塔堂楼門悉く焼失したが、慶長20年(1615)、伊達政宗によって毘沙門堂が建て直された。
以後、江戸期を通し、伊達家の祈願寺として寺領を寄進されている。
軒下に向かう階段を降りる↓
昭和21年(1946)、隣家から出火があり、本尊以下20数体を救い出したが、毘沙門堂は全焼した。。

現在の毘沙門堂は、昭和36年(1961)に再建された物で、これで創建以来「五代目」と数えられている。

この出口用の脇階段も、巌にはまり込んでスゴイ(笑)(パノラマ縦3枚)

この床下を、当地では「毘沙門様に抱かれた床下」と表現し、「往古より守護不入」の場であったと書かれていた。

同時に、「諸国行脚の遊行の聖山伏乞食等のやすめる安住の宿として、また合戦に敗れた武士が暫し身を隠し、しかる後、生まれ代わって往く再生の場として、さらには御先祖様の霊魂があの世から帰り来て集う聖なる所として、現在も人の立ち入る事を許さぬ禁足地」と、毘沙門堂の多く果たして来た、行きかう人々への軌跡に触れられていた。

この事は同時に、後の草子などによって描かれた世界観を彷彿とさせる。

「田村草子」によって、最後に誕生した「大武丸」も、「田村三代記」でさらに多く語られるようになり、彼もここに篭った一人とされる一方、この平地では凄みが足りないからか、これより北の「岩手山」を「大武丸の篭った山」としたり、その周囲に「史跡」と称する伝承地が多いようだ(^^ゞ。

彼とその与党のアジトなどを合わせて「七観音」としたり、大武丸の遺骸を三分して各地に埋め、観音堂を建てた「三観音」とした、などの伝承が多くあるという。

例えば「七観音」には、箆岳・水越長谷・鱒淵華足(登米郡東和町)・南部三戸(岩手県)・小迫・富山・南方の大武観音。
「三観音」を由来とする例は、牧山観音(石巻市)・富山観音(松島町)・箆岳観音(涌谷町)・大嶽観音(佐沼郷)など。

また、岩手県や秋田県の北部や青森県にまで、「悪玉姫」や「鈴鹿御前」らしきを発祥とする地元宗教の由来地は多く、内容も多岐であるらしい。


洞窟は毘沙門堂のさらに奥にも続いてるのかな(パノラマ3枚・ほぼ180度)

無理やり全体を繋げると(^^ゞ(パノラマ縦5枚・180度以上)

かなり魚眼だが(笑)、↑この辺に「磨崖佛」という大仏の顔が彫られている(^^ゞ。
およそ十丈(約33m)にも及ぶ大岩壁に刻まれているという。現地では「岩面大佛」とも説明してあった。

これは、源(八幡太郎)義家が、前九年・後三年の役で亡くなった、敵味方の諸霊を供養する為に、「馬上より弓はずを以って彫り付けた」と伝えられる物だそうだ。

大仏は高さ55尺(約16.5m)、顔の長さ12尺(約3.6m)肩巾33尺(約9.9m)全国で五指に入る大像で、「北限の磨崖佛」として名高い。

ここに在ったことが認められる史料としては、江戸期の元禄9年(1696)の記録に、「大日之尊體」(岩大日)とあるらしい。

そこから「大日如来を指す」とも考えられるが、西光寺では、昔から「阿弥陀仏」の名号を唱える事を伝えている。

↑ちょっと隠れ気味だが、下に立つ、この「文保の古碑」(1317)に、阿弥陀の種子である「キリク」が刻まれている事、戦没者追善の供養を伝説とする事から、寺伝通り、「阿弥陀仏」と解釈されている。

明治29年に胸から下が地震により崩落し、現在も摩滅が進んでおり早急な保護が叫ばれている。

それにしても、伝説に言うのは「馬上から」だから、遠くから矢をバンバン射て描いたって事だよね(^_^;)。

八幡太郎義家の参戦記録は、軍記(「陸奥話記」)および官位取得の経過から見ても、確実なのは、前九年の役において、清原氏の参戦前、安倍貞任に対して惨敗した「黄海の戦い」(1057年)からと思われる。

その時の義家は19歳。痛い敗戦のさなか、その武勇は絶倫で(^_^;)、むしろ敗戦であったればこそ、若い彼が初段から神々しさを纏って、弓矢は百発百中。義家が居なかったら、源氏軍は全滅していたと思う程である。

又その後も、まだ源氏と味方同志だった清原氏の武則が、頑丈な鎧を3個重ねて、「貴殿の弓の腕を見たい」と言った所、義家は一矢で全てを射抜いたという。

鎌倉時代になると、ただ強弓なのでなく、技術が卓抜して芸が込んで来る。
すなわち、狩に出掛けて、飛び出した狐の前の土に刺さるように矢を射たので、狐は立ち止まり、気絶したが、義家は「生き返るだろうから逃がしてやろう」と言った。

毘沙門堂や池の方に戻ろう(^^ゞ→

また、義家が夜這いに通っていた人妻の夫が、築地に幅の広い堀を設け、茨を植え、道には囲碁盤を立て、つまづいたら太刀で斬ろうと、待ち構えていたにも関わらず、義家は到着するや、牛車から、いきなり途中を飛び越えて縁に突入したばかりか、碁盤の角を五寸ほど切り落とした、という(笑)。
恋愛の艶っぽい雰囲気より、義家という男が、恋愛一つ取って見ても、都の他の公達とはいかに異なるタイプか……という視点に支えられた逸話に思える。
どちらかと言うと、英雄談……いや、殆ど怪談にでも出て来る「物凄い男」という感じが濃厚だ(笑)。


これほどの怪奇現象となると、殆ど「神話」の域だろう(^_^;)。
どう排除しても、夜が明けると、女の元に通って来た事がわかる、といった男の存在。それはもう人間ではなく、神のする事だからだ。

闇夜に「義家がいる」と自ら声を出すなり、家来(←に安倍宗任が相当する説話もある)が義家の存在を呼ばわったりすると、盗賊が自分から出て来て退散を誓う、といった話もある。

「その存在があると聞いただけで、付近に悪漢が寄り付かない」という空気は、ただ弓が上手いだけに留まらず、「霊異」すら漂い伴うようになる。

すなわち、白河上皇が眠る時に物の怪に悩まされていたので、義家が呼ばれた。
義家が黒矢を捧げると、上皇は物の怪を払い除ける事ができた。

堀河天皇(白河上皇の子)が病気になった話もあり、この時も、義家が庭にむかって弓弦を三度鳴らすと、たちまち悪霊が退散し、帝の病は平癒したという。

ちなみに、ここにはデッカイ蜂の巣があったが(爆)。

蝦蟇ヶ池」と、中島の「辨天堂(パノラマ2枚)

↑左には、さっき見た「毘沙門堂」がある。あれの前に広がってた池辺に今来ている(^^)。
ここを「蝦蟇ヶ池」と呼び、昭和60年(1985)の調査で、池の旧護岸から、平安末期のかわらけ大量に発掘されたため、ここも奥州藤原氏(かそれ以前)の痕跡地ではないか、と見られているようだ。

この中島の「辨天堂」も、慈覚大師の作と伝わる「八肘の辨才天」を本尊とし、これは昭和21年(1946)の大火にも焼失を免れ、「生けるが如し」と称される美しい姿のまま、現存しているという(^^)。

池の霊かな。確かに、毘沙門堂や池に拝礼する僧侶の影が写真に映っていて(公開は差し控えさせて頂くけど)、ちょっと驚いた(^_^;)。
←昼なお暗い、ジャングルのような深い森が、池辺の奥に広がっている。
←拡大。拳より大きめの実。

「辨才天」は、寅年の守本尊である「毘沙門天」に対し、巳年の守本尊である事から、ここの寺では、お使いである「蛇」を、今も大切に保護しているそうだ。
それで、池と周囲の森も、このような原生林っぽい風情を保ってるのかもね(^^)。

また、弁天サマも毘沙門天と同じく、財宝を授ける福徳の神として名が高い(^^)。
ここの弁天さんも、「辨天には銭上げて拝め」と、特に商家の信仰が厚く、知恵の神、技芸の神として崇められる事などは、他地域の多くの弁天さんと同じだ。

が、さらに「悋気な天女」との事で、「縁切りの願」が叶うと伝えられ、「仲良き男女は共に参らぬ習がある」と書かれていたので、先に橋を渡って来た私は、慌てて、まだ橋を渡ってない亭主に「大変っ\(>o<)/」と教えに行った(笑)。

亭主も驚いて、「じゃ他人のフリで行こう(^^;)」と話を合わせ、以後、しばらくバラバラに境内を巡っている(爆)。

頼三樹三郎の詩碑
橋を渡ると左が辨天堂、正面が毘沙門堂

毘沙門天と弁財天は、ともに七福神として有名だよねっ(^^)。
七福神については、だいぶ前の、それも地元ネタで恐縮だが、2004年9月<松戸七福神巡り4、「毘沙門天=医王寺」>および<松戸七福神巡り5、「弁財天=華厳寺」>にも書いた。

すなわち、インド・ヒンドゥー教の三大神は、創造神ブラフマー・維持神ウィスヌ・破壊神シヴァ。
ウィスヌ神は、吉祥天(ラクシュミー)・弁財天(サラスヴァティー)・ガンガ女神を妻としていて、この三女神はそれぞれ河の女神だったが、互いに折り合いが悪く、弁財天はブラフマー神の妻に、ガンガ女神はシヴァ神の妻になった。

一方、毘沙門天は仏教の守護神として、この世に登場した。
寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に現れたとする、寅年の守本尊である。
元は四天王の一人・多聞天として、四方位のうち北方を守護。軍神として悪鬼を祓う。

又、あらゆる敵から仏法を守り、経典や金剛杵などを守る義から、財宝・官位・智恵・寿命などの福を授ける神として尊ばれ、諸々の願が叶うとされている。


この毘沙門堂も、毘沙門講を結んで参詣する人が後を絶たないそうで、先ほど書いた、(慈覚大師いらいと伝える)正月の「修正会」の他も、毎月三日の月例祭、春秋の大祭を始め多くの祭事がある。

橋の左の池には蓮の葉(^^)
右には楓の木陰(#^.^#)

ところで、毘沙門天と弁財天が、「七福神」とされたのは室町時代ごろからだろうが、ここの「池」は平安時代からあったと言うから、当初は毘沙門天にゆかりの池だったのか、弁財天にゆかりの池だったのか……(^^ゞ。

元々、毘沙門天の住まいは、須弥山の北に三つの城があり、羅漢・欄楯・樹林・宝などで、それぞれ七重に囲まれ、各城とは街道をめぐらせあい、諸城や園や池、四天王大臣の宮殿とも繋がっていたという。

そして城の中央には池があり、水は清く澄み、蓮の花が咲き、たくさんの色に満ちて、多くの鳥が住んでいる、と「長阿含経」に書かれており、特に川の女神のお出ましが無くても、もともと毘沙門天の住居には池があるようだ(^^ゞ。

が、「川の女神」と言えば、よく吉祥天女(ラクシュミー)が毘沙門天の妻になってるケースを見るし、吉祥天と弁財天が混同されてる事もあり、吉祥天が「七福神」に加わって、弁財天が加わってない場合もあれば、「七福神」という括りでないかもしれないが、「女神が二人」ってパターンもあるらしい(^_^;)。

だから、或いは吉祥天と弁財天の混同ケースに該当するかもしれないが、実は「鈴鹿御前」が、「田村草子」になると、「竹生島(琵琶湖の孤島)の弁財天だった」と語られる。

そして鈴鹿御前は、大武丸の妻だったり、田村麻呂の妻となったりする。田村麻呂が「毘沙門天の化現」とされるのは動かぬ事なので、つまり物語の中の解釈とは言え、毘沙門天と弁財天が夫婦となっている、という事になる(^_^;)。

室町時代よりさらに下ると、「田村草子」は、「田村三代記」に発展し、「仙台叢書」「南部叢書」「奥州箆嶽本地」と三流を帯び、「御国(奥)浄瑠璃」として座頭に語り継がれた。
その一つ、南部叢書に編纂されてる「三代田村」では、「田村草子」で田村麻呂と鈴鹿御前の間に生まれる「しゃうりん女」が、「白蛇権現」とされている。


弁財天を巳年の守護神としたり、蛇を使いに見立てるのは、宇賀神将との混同による。乗り物が白蛇だったり、冠に白蛇が乗っていたり、弁財天自身が白蛇の化身とされる事が多く、竹生島に限らないが、特に竹生島や鎌倉の江ノ島における弁天はそうだ。

「田村草子」では、田村麻呂の祖母が大蛇だし、鈴鹿御前(立烏帽子)が竹生島の弁財天で、これまた蛇(^^ゞ。
てな事から、達谷窟における「辨天堂」の由来は、室町時代か江戸時代より後かな……という気もするが、残念ながら「鈴鹿御前」の事は、現地には一切書かれてなかった(^^ゞ。


悋気とは違うが、「怒り」や「縁切り」という点では、道成寺の安珍・清姫を思い出す(^_^;)。これも蛇女の話で、巳は十二支で南東にあたるから、火と重ねられ、僧侶の安珍は奥州白河の出身との事だし、これも平安時代の話というので、元は古そうではあるんだが、田村麻呂との関係として見るとなると、縁遠い(あったとしても後付)という気がする(^^ゞ。



<達谷窟、「姫待不動」「金堂」>

←毘沙門堂の祭事を司る別当奉行という僧が、各坊の僧に指図して、この杉の元に参集させたので「奉行坊杉」と呼ばれている。
昭和21年(1946)、隣家からの出火で、毘沙門堂や辨天堂は燃えたが、この後に行く、不動堂、鐘楼などが類焼を免れたのは、古来、雷が落ちて神宿木となったこの杉に、火之神不動尊が降り、枝葉を失いながら炎を防いだためだと言われた。
←この奉行坊杉の右を通ると、先ほどの三つの鳥居を出るが、左に折れると、不動堂や金堂に至る。左に行って振り返ると、こんな感じ→
手前の小さな堂は↑「閼伽堂」といって、清水を汲む井戸

←これがまた、すこぶるジャングルチックな!(笑)
「鐘楼」と「不動堂」に到着(^^)
「鐘楼」を拡大♪

この鐘楼は、慶長20年(1615)の建立と伝えられ、江戸時代は、伊達藩が毘沙門堂と同時に屋根の葺き替えを行っており、板葺で120貫(約450kg)の洪鐘を吊っていたが、昭和19年(1944)に戦時供出した。

現在あるのは、昭和58年(1983)に新鋳した150貫(約563kg)のもので、屋根は銅板に改めた。今でも、午前8時、12時、午後4時に鐘を鳴らしている。

さてここで、「田村草子」の不思議な点を、改めて蒸し返させて貰う(^^ゞ。

「田村草子」は、妻のいる利仁にわざわざ「奥州の賤女」と関係を持たせ、「田村麻呂の誕生」に持っていく。
これが「田村三代記」になると、「長者の娘」でも良さそうな田村麻呂の母親が、「長者のはした女」となっている点が不自然である。

そもそも「妻」なる存在……つまり、作中の「照日姫」は必要あるだろうか(^_^;)。。

後になって、悪玉姫が「実は京の貴族の娘だった」とかになっちゃうのも、照日姫とのラブロマンスが先にあって、陸奥に来た時だけ「賤女」と契ったので、後になって二人の女を「合体」する必要に迫られた感じがする……というのは既に書いた(^^ゞ。

結論から言うと、話に必要だったのではなく、古いソースにあったネタだからかな〜と(^^ゞ。
つまり、「長者のはした女」になら出来るのに、「長者の娘」に出来ないのには、「ヨソから来た女」という設定があったからかな〜と。

これに該当するのが、ここにある「姫待不動堂」および、近くにある「姫待瀧」の伝承だろうか(^^ゞ。
この達谷窟より程近い場所に、「姫待瀧」と「髢(かつら)石」がある。
車だとスグだが、パ〜ッと通り過ぎざまに撮影した写真なので、あまり見栄えが良くない(^_^;)。


←「姫待瀧(もっと右下にある!:笑)
(かつら)(もちっと右にぃ〜!(^^;))↑

「あまり見栄え」どころか、写ってないという気が(爆)。
ご覧になりたい方は、お手数ですが、検索して頂けると〜(^_^;)。
ちなみに、上の2枚のみ、達谷窟の外にあるのでご注意を。
地図J
←「髢石」のみ地名がある。道路の反対側を探すと「姫待瀧」も、ほどない距離にある。

で、まず「姫待瀧」だが、元は西光寺の飛び地境内であったそうだ。
そこは、悪路王たちが京から攫って来た姫君を、達谷窟の上流にある「籠姫」という所に閉じ込めて、「櫻野」で花見を楽しんでいた所、姫君が逃げようとしたのに気付き、逃げる姫君を待ち伏せした瀧だと伝える。

そして「髢石」は、再び逃げ出せぬよう、姫君の黒髪を見せしめに切り、切られた髪を掛けた石だと伝える。

これより先の写真は、再び達谷窟の中ね(^^ゞ。↓

←ここの「姫待不動堂」は、西光寺の飛び地境内であった、さっきの「姫待瀧」の本尊として、智証大師が祀った「姫待不動尊」↓を納めている。

姫待不動尊」は、奥州藤原氏二代・基衡が再建したといい、製作年代は平安後期だそうだ。桂材の一木彫で、全国でも希な智証大師による不動の大像。岩手県有形文化財に指定されている。
堂宇の腐朽が著しくなったので、寛政元年(1789)に、現地から当地に移された。

酉歳の守本尊として名高く、また宮城県栗原の信者が、生涯一度の大願を掛けに参拝する習が、現在も続いている。
当地では「火之神様」と呼ばれ、火伏不動尊として信仰される他、眼病を治す御不動様として閼伽堂の水で眼を洗う習がある。猶、不動尊膝前に祀られる獅子頭は向って右が室町時代、左が江戸時代の作で達谷村の権現舞に使われたものである。

「火伏と眼病治癒(予防)の神様」と言えば、中尊寺でもソックリ同じ験を担いだ「峯薬師」があったよね(^^ゞ。
これも、この辺り一帯の広い範囲で多い信仰スタイルのようだ。(2010年3月<中尊寺・参道、2(総門〜本堂〜讃衡蔵)>内
又、ここにも「古峯社」の石碑があった。

このように、「悪路王が京から姫を攫って来た」という伝承がまずあったので、姫君を救うために、利仁なり田村麻呂なりが陸奥にやって来て、悪路王を退治する……という話が、旧来から本筋にあったのではなかろうか(^^ゞ。

だから話は荒唐無稽でも、こちらは「田村草子」などの創作物より古くから、「動かしがたい元の伝承」としてあったのでは……という気がするけど、どうかな(^^ゞ。

←「姫待不動堂」を去り、脇道を登って、「金堂」に行く↓
金堂は、15年前に完成した再建だが、由来は古い。

隣接の庫裏とを風流な門で仕切られてる(^^)(パノラマ2枚)

以下、案内板に従って書く(^^ゞ。

「金堂」は、古くは「講堂」とも呼ばれ、延暦21年(802)に達谷川対岸の谷地田に建てられたと伝えられる。
が、延徳2年(1490)の大火で焼失。
江戸時代には、現在地に建てられた客殿が金堂の役割を果たしていたが、明治初年に排佛棄釈に破棄された。

昭和62年(1987)に再建に着手し、平成7年(1995)に完成した。
桁行5間梁間6間の大堂で、後世に技を伝える為、昔ながらの工法を用いて作られた。本尊は真鏡山上の神木の松で刻まれた4尺(約120cm)の薬師如来である。

さてさて、次に疑問となるのは、「じゃ、田村麻呂の母は、京から攫われて来た娘(照日姫)ではダメなの(^_^;)?」という点だが、ここは「鎌倉大草紙」に、「田村麻呂が陸奥に下向の時に、土地に子孫を残して田村庄治と号した」という説を採っているのでは……と思ってみる。

もし、尚も引っ掛かるとしたら、歴史に先に登場する坂上田村麻呂が、100年も後で登場する利仁の「子」として出て来る点。
これも正直、不思議に感じる所なんだよね〜(^_^;)。


金堂」(再建)を正面から(^^)(パノラマ2枚)

仮に、歴史の順序通り、田村麻呂の方が「父」で、利仁は「息子」で行くと、筋に遜色が出るだろうか……。

すると、一代目が「大蛇」との間になした子が「田村麻呂」となり、田村麻呂が照日姫との間になした子が「利仁」となる。
朝廷に命じられ、田村麻呂は奥州に蝦夷征伐(悪路王から被害者を救い)に来る。
田村麻呂が帰京した後も、利仁が「陸奥の女(長者の娘)」との間に子を儲け、やがて子孫が陸奥に根付いていく……。

どうだろう。この方が、全て自然だし、スンナリと無理のない話じゃなかろうか(^_^;)。
伊達氏や田村氏が、「田村麻呂の後裔」と主張するにしても、「子孫」と言えればいいのであって、田村麻呂自身が「陸奥の出」である必要はないように思える(^_^;)。。

しかし「田村草子」は、わざわざ「利仁」の方を「父」にして、「奥州の女」と関係を持たせ、「田村麻呂の誕生」となるのだ。


「金堂」の裏手には、ちょっと広い池があって、大きな鯉が気持ち良さそうに泳いでいた(^^)。→

前九年の役を著した「陸奥話記」に、平安初期の蝦夷征伐を語る段において、「坂面伝母礼麻呂、降を請い」という一文があるらしい(^_^;)。
これを「坂上田村麻呂が(中央政府に対して)降参を願い出て」と読んで、「田村麻呂が蝦夷出身」という説が出た事もあるそうだ(笑)。

田村麻呂の坂上氏が、「後漢の霊帝の曾孫・阿智王の子孫」というのは後付としても(笑)、先祖は渡来人で、壬申の乱に功を上げて以来、ちょくちょく史上に名が現れ、畿内を中心に活動してたから、「蝦夷出身」はちょっと無理がある(^_^;)。

なので、「坂面伝母礼麻呂」は、アテルイとともに田村麻呂に降参した「盤具母礼」の事じゃないかと見られており、田村麻呂の事だとしても、「降を請い」じゃなく、「降を請け」(蝦夷の降参を受け入れた)と解釈されて、「蝦夷人説」は否定されている。

蝦夷に融和的だった田村麻呂が、「降参するように呼びかけた」とか、「盤具公母礼」が蝦夷側から、同じ蝦夷のアテルイらに降参を呼びかけた、と読んでも可笑しくない(^^ゞ。

以上、結果は、「読み間違い」にせよ(笑)、室町期の「田村草子」に、田村麻呂自身を「陸奥人」とする試みがあって、その根拠が「陸奥話記」って事なら、あったかもしれないね(^^)。

ここで討伐される「悪路王・大武丸・高丸」は、歴史上の存在ではないが、東北じゅうのアチコチで祭祀されまくってるから、各所で歴史と混同されそうだ(笑)。

かろうじて「悪路王=阿弖流爲(アテルイ)」を唱える説もあるようで、先に行った「奥州市埋蔵文化財調査センター」にも、鹿島神宮にある「悪路王の首像」(たぶん複製(^^ゞ)がアテルイ絡みで展示されてた。

が、恐らくは関係ナイだろう(^_^;)。。
「悪路王」のモデルとなるような、賊やら悪党やらが当地にいたかもしれないし、アテルイ(人名)、アトロイ(地名)と音の近さから見て、関係付けされた事もあったかもしれないが、蝦夷征伐から頼朝の時代まで、400年近くも経っている。

しかし伝承や創作も、厳密に言えば、歴史と言える。
語られる内容が歴史そのものでなくても、原型に対して、どの時点から何が加味・創作(または省略・削除)され、それはどの時代(あるいは土地)の、どういう影響によるものか、といった部分から、各時代や各土地に特有の歴史を知る手掛かりとなりうる。

田村氏と田村麻呂を結びつけるにあたって、どの時代に、何を意識し、どの文献を参考にしたか、出自(前史)関係が唐突に感じられる奥州の戦国時代として見ると、「田村草子」も、注目して良いトコがあるかもしれないよね(^^ゞ。

以上、関連事項は、
2004年9月<松戸七福神巡り4、「毘沙門天=医王寺」>および<松戸七福神巡り5、「弁財天=華厳寺」>
2008年2月<鹽竈(しおがま)神社>内
2009年1月<恵日寺>内
2009年5月<妙見社・国王社(妙見曲輪)>内〜<相馬神社(本丸跡)>
2010年1月<「胆沢城(鎮守府)跡」と「鎮守府八幡宮」>内
  〃    <「胆沢城(鎮守府)跡」と「鎮守府八幡宮」>内〜<神明社(伝アテルイ居住跡)>
  〃    <えさし藤原の郷・B「経清館」「清衡館」>内
  〃    <えさし藤原の郷・C「河崎柵」「伊治城」「厨川柵」、1>内
2010年2月<えさし藤原の郷・D「大路」「街並み」→出口>以降
2010年3月<中尊寺・参道、2(総門〜本堂〜讃衡蔵)>内
  〃    <長者ヶ原廃寺跡、1>




次回は第6弾、4日目午後「毛越寺」から、「柳の御所跡(資料館)」「無量光院跡」(と、2日目「えさし藤原の郷」の「伽羅御所」)あたりまで行って、最終回は次々回、第7弾に委ねる事になるかとぉ〜(≧▽≦)。。。<ウフッ。。

<つづく>

2010年04月15日
 
     






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