<2018年・城主のたわごと11月>




11月、都内は「皇居東御苑」の後、いよいよ大手町「将門首塚」へ!

あとは地元で、紅葉・クリスマス・年末の風景を( ^^) _旦~~



     
  冒頭は定例通り、宣伝(^o^)↓

日常編は文章も少ないし、日常編だけ読まれてもそんなに嬉しくないので(笑)、ここで恒例・前レポの宣伝を行う(^。^)。

〜おしながき〜「埼玉〜栃木南編
「4月のたわごと」(千葉北西・埼玉〜栃木南1)
■8月・埼玉県川口市、栃木県栃木市・佐野市
<川口「長徳寺」、@裏門〜本堂>
<川口「長徳寺」、A三重塔〜仁王門>
<川口「長徳寺」、B仁王門・参道・山門>
<東北道で茨木まで移動>
<皆川城址>
<金剛寺(皆川氏菩提寺)>
<佐野市葛生、お昼ご飯(^O^)>
<佐野氏菩提寺「本光寺」>
<佐野氏本城「唐沢山城跡」に向かう>
「6月のたわごと」(栃木南2・東京)
■8月・栃木県佐野市
<「唐沢山城跡」到着、@枡形・天狗岩>
<「唐沢山城跡」、A竜神宮・大炊井・神橋> 
<「唐沢山城跡」、B神橋・桜の馬場・南城> 
<「唐沢山城跡」、C本丸・二の丸・三の丸>
<「唐沢山城跡」、D和合稲荷・組屋敷・避来矢山>
<唐沢山を降り、西に向かう>
<「興聖寺」(清水城跡)>
<樺崎寺跡〜佐野やすらぎの湯(^_^A)>
読んでねっ(≧▽≦)!(既に読まれた方は今回のに進んでネ(^^))

その前のも……↓

〜おしながき〜
武蔵千葉氏編
湯島天神(天満宮)編
2016年「4月のたわごと」(東京板橋)
■10月・東京都板橋区
<板橋区郷土資料館@「武蔵千葉氏展」>
<板橋区郷土資料館A「旧田中家住宅」>
<赤塚城跡「本丸〜滝不動」>
<「松月院」(伝・武蔵千葉自胤の墓)>
2017年「2月のたわごと」(東京湯島〜千葉北西部)
■8月・東京都千代田区・文京区
<「湯島天神(天満宮)」@〜参道両脇〜>
<湯島天神(天満宮)A〜社殿・男坂・女坂〜>
■8月〜9月・千葉県柏市・松戸市
<夏から初秋へ>
良かったら読んでねっ(≧▽≦)!

この前後も、境根原古戦場ウォーキング(2016年6月号)、松戸の根本城跡(同7月号)、北総の龍腹寺(同11月号)、松戸の中根城跡・上本郷城跡・上本郷館跡ウォーキング(2017年4月号)、北総の龍角寺に松戸戸定邸(4〜6月号)、東京の清澄庭園・手賀沼の鷲野谷城跡(8月号)、松戸の根本城跡、萬満寺(9月号)、茨城の東林寺城跡(2018年1月号)

など、小ネタ史跡巡りはあったので、ご覧になりたい方はメニューからどぞ( ^^) _旦~~

あとは、その前からの流れ通り、さらに前の「足利編」も出しておく(^^ゞ↓

〜おしながき〜「足利編」1〜4
2015年「9月のたわごと」(足利1)
■7月・東京都港区〜栃木県足利市
<虎ノ門「光明寺・明和大火の供養墓」>
<皇居〜首都高〜東北道〜館林〜足利>
<足利市に到着、1泊目夜〜2日目朝♪>
同「11月のたわごと」(足利2)
<足利の朝から振り返る>
<「足利学校」@、外観〜「入徳門」〜「稲荷社」>
<「足利学校」A、「学校門」〜「杏壇門・大成殿」>
<「足利学校」B、「南庭・方丈(外観)・裏門」>
<「足利学校」C、「方丈・庫裡・中庭・北庭」>
<「足利学校」D、「宥座之器・衆寮・木小屋・庠主墓所・遺蹟図書館」>
<門前通り>
<鑁阿寺>
2016年「1月のたわごと」(足利3)
<鑁阿寺、2(つづき)>
<「太平記館」を見てから、お昼ご飯(^O^)>
<勧農城跡(岩井山赤城神社)> 
<長林寺>
<法楽寺>
<両崖山>
<心通院>
<北東へ向かう>
<樺崎寺跡(樺崎八幡宮)>
同「2月のたわごと」(足利4・千葉北西部)
■7月・茨城県足利市・佐野市
<樺崎寺跡(樺崎八幡宮)、2(つづき)>
<佐野「やすらぎの湯」(日帰り温泉)>
<羽生パーキングエリア(東北道)「鬼平江戸処」>
宜しくねっ(≧▽≦)!

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そして、東北・北関東の旅もヨロシクね!

COOL SHARE「東北・北関東への訪問運動」/「東北・北関東を訪問して復興支援しよう!」by民主党時代の政府&観光庁

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各種お得な交通手段
「お得に東北へ行こう!」

リンク貼ったけど、「東北観光博」は自民政権はやらないみたい。「閉幕」になってますた(^_^;)。
旅*東北」なるサイトが後を引き受けてるっぽいけど、バナーがない(^_^;)。。
東北の歴史」というページが史跡巡り向きって事みたい(説明が殆どないけど。。)

さて今回は、前回最後に都内散策に夫婦参加したレポの途中で終わったので、その続きから(^^ゞ。
前回は神田川から駿河台へと南下しかかったが、今回は明大やら見学しつつ、さらに南下して神保町を通り、皇居に達する。
皇居・東御苑を見学の後、大手町の将門塚(いわゆる平将門の首塚)をお参りして終了。

あとは紅葉とクリスマスの町をお届けしつつ、ひたすら年末に向かう。
前回の予告で、「年末年始までいける!」と宣言したが、年末までしかいけない。とんだヘタレでスイマセン(^_^;)。



■11月・東京都千代田区
<「駿河台〜一ツ橋、皇居東御苑@平川門〜二の丸>


前回は、神田川を東から西に「万世橋」「昌平橋」(地図)「聖橋」の順に出会いながら、「神田明神」や「湯島聖堂」を巡って、駿河台に入った所で今回に引き継いだ。

駿河台をさらに南下すると、明治大学の前通りに出るルートがあって、明大の手前十字路をちょっと路地に入ると、薬局の前に「小栗上野介ここに生まれる」と書かれた小さな標識が立つ(地図)。

それを写真に撮ったりしつつ、結局、明大(地図)に入って博物館を見学した後、学食で昼食を取り、午前の部を終える。

小栗上野介の生誕地」(薬局前)
明大のエレベーターから外を撮影

明大の博物館には、「商品」「刑事」「考古」の三部門の常設展示会場があって、案内の人もついて、詳しく説明してくれた(団体だったからかもしれないが)。
「刑事」部門の昔の処刑とか拷問とかやたらエグくて、見学者同志おちゃらけ話しながら正視せず済ませた(汗)。

後日ニュースで、明大が、自動運転が今後の社会に及ぼす影響を踏まえ、法整備に取り組むため、「自動運転社会総合研究所」を発足したのを知った。
「法制の拠点としての自負から」みたいな根拠だったので、「そういや『刑事』展示が博物館にあったっけなー」と思い出した。
(同じ駿河台で、前回通った杏雲堂病院の前に、「法政大学発祥の地」という碑もあった)

楽しみにしてた明大の学食は……激混みだった(^_^;)。。
安くて美味しくて助かるけど、こちらも団体なので、学生さん達に迷惑じゃないか気になった。
あと団体行動なので昼時間が限られ、食べる時間が10分も無くて焦った(汗)。
(こんなに混雑した東京で、オリンピックなんて無理だと思うけど……)

食後は、駿河台から神保町を通って、さらに南下した。
途中に「学士会館」(地図)を通り、同じ敷地にある「東京大学発祥の地」とか「日本野球発祥の地」とか「新島襄の生誕地」の石碑を巡りながら周囲を歩いた。

東京大学の由緒としては、元禄元年(1683)五代将軍・綱吉が、一ツ橋一帯に「筑波山・護持院・元禄寺」を建立したが、享保2年(1717)に焼失した。
跡地は火除地とするため空き地となり、将軍の猟場となったり、一般に開放され庶民の憩いの場となり、「護持院ヶ原」と呼ばれていたが、文久2年(1862)、「蕃書調書」が移転してきた。

蕃書調書」は、全国から洋学者を募って、英仏独の語など教えた所。幕末の黒船来航の流れから、条約締結など国際事務対応が急務となったが、日本には蘭学以外は欧米知識を学ぶ場が無かったためだ。安政4年(1857)、神田小川町に開設され、一ツ橋に移転した。

やがて「洋書調書」「開成学校」と変化した(交差点はす向かいの如水会館あたりが跡地)。

そして明治(1877)、開成学校東京医学校が合併したのを機に、大学として徐々に充実してゆき、現在、東大のある本郷へは、明治18年までに移ったそうだ。
(はじめは「帝都大学」と名称されたが、戦後の昭和22年(1947)に「東京大学」と改称した)

野球は、1871年に来日し、日本に野球を伝えたホーレス・ウィルソンの殿堂入りを記念して2003年に建てたそうで、ボールを握る手を銅像にしてある。

新島襄は前にやったから割愛するね(笑)

こちらは「一ツ橋門・石垣跡」(地図)→
名の通り、かつて江戸城の「一ツ橋門」があった場所で、その石垣の一部を今に残す。

この一ツ橋門内には、一ツ橋徳川家の江戸屋敷があった。
この水郷は「日本橋川」と呼ばれる続きで、突っ切ってさらに南に進むと、皇居が目前に迫る。

皇居前の道路にド〜ンと出る(パノラマ3枚ほぼ180度)

この横断歩道を渡ると皇居の敷地に入るが、その前に、ちょっと皇居のある都内中心の緑地を、ざっと説明させてもらう。
今言った「緑地」とは、東京都の地図および上空写真を見た時、パッと目に入る緑色の敷地で、その周囲を水濠が囲み、さらに周囲をビルが「所狭し」と林立して、大都会の喧騒が取り巻いている。

東京に来たことない人には、緑地の全部を皇居と思ってる人もいるかもしれないし、長く住んでても、「詳しい仕切りを知らない(^^;)ゞ」って人も大勢いると思う。
しかし、その全部を皇室や宮内庁が占有しているわけではない。
大まかに分けて、4エリアに分けられると思う。

北部が「北の丸公園」(地図)をメインとする緑地で、書いて字のごとく「公園」だから、自由に出入りできる。海外アーチストが大掛かりのコンサート会場に使う「日本武道館」や、「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」とは同じエリア。
江戸時代には、田安・清水・一ツ橋の御三卿をはじめとした武家屋敷が立ち並んだ。

平川門に向かう平川橋地図パノラマ2枚

東部がこれより入る「皇居東御苑」↑で、書いて字のごとく皇居の敷地で、宮内庁の管轄だが、入園の時間内なら見学できる。
一般的に「江戸城跡」(地図)と呼ぶのは主にここで、一時期は天守閣もあった。
また、駅では「大手町」駅が近い。

橋の欄干から見える平川濠

西部および南部が、いわゆる「皇居」で、「吹上御殿」や「御所」(地図)など、天皇陛下と皇室のご一家がお住まい&儀式などなさる場所。宮内庁の建物もある。
江戸城の遺構や名称も多く残り、江戸時代には、現職以外の将軍(隠居した先代やお世継ぎ)の住まいがあった、と説明するものもある。
現在は濠を隔てた南西の対岸に、「国会議事堂」がある。
6
そして東南部が、「皇居外苑」(地図)で、これも北部の「北の丸公園」と同じく、一般人が出入りできる公園。最寄りの駅は、千代田線の「二重橋前」駅。

以上、4エリアの内、これより入る「東御苑」の説明に移ろう。

皇居東御苑は、昭和35年(1960)の閣議決定によって整備の運びとなり、昭和36年(1961)着工。昭和43年(1968)に完成。宮中行事に支障のない範囲において、一般に公開されている。

←南北の上下が逆です。
現地の地図は字が小さいので、例によって、私が上から字を書き入れて見やすくしてある。
主な地名は赤みがかった大きな字で、周囲の濠名は、やや小さめの黒い字で記した。

今、下の左「平川門」にいて、これより場内に入る。
最初に左側のエリア「二の丸」の庭園を散策後、「汐見坂」を登って、「本丸」エリアに入り、「天守台」を見学。

「天守台」から、右辺を下から上に、「石室」「富士見多聞」「松の廊下跡」「富士見櫓」と巡り、最後に中央付近「百人番所」「大番所」「同心番所」と経て、図の左「大手門」から退出する。

大手門が正門であるのに対して、平川門は御殿勤めの奥女中などの通用門とされ、城内から罪人や死人を出す折にも、ここを使用したと言われる。
通る人が多くないのか、平成26年(2014)より春と秋に恒例となっている、「乾通り一般公開」の張り紙で、「大手門北桔橋門は混むので、平川門を利用して下さい」という旨が呼びかけられていた(^^ゞ

しかし平川門も、大手門と同様、厳重な防御の構造になっていて、小さな脇門があり、平川濠の中に伸びた「帯曲輪」という細長い渡り堤につながっている。

入る直前で、係員の方が手荷物のチェックを行い、内部に入ると、「入園票」と字が刻まれたプラスチック製のカードを渡され、帰る時に各門で返す仕組みになっていた。

←「平川門」(地図)は枡形。これは最初の「高麗門」(奥に見えるのが「渡櫓門」)。
まず「二の丸庭園」に入って、「諏訪の茶屋」↑

今、入った二の丸庭園は、江戸時代、小堀遠州が造園し、3代将軍・家光の命で改修された庭園があったが、長い間に火災などに遭った。↑さっきの絵地図
さらに明治以降は荒廃。
昭和39年(1964)、9代将軍・家重の時代の庭園図面を参考に、回遊式の庭園として蘇った。

右上、「諏訪の茶屋」(地図)は江戸時代、「諏訪神社」のあった場所らしい。
明治45年(1912)、皇居の吹上御苑に、休憩所として建てられた建物を、昭和43年(1968)、ここに移築したそうだ。

清掃ボランティアの方々がお掃除
背景に林立する高層ビル街(笑)

この二の丸はこのように庭園も広いが、同じぐらいの広い敷地を、「雑木林」「新雑木林」(地図)が占める。

雑木林」は昭和天皇のご発案で、失われていく雑木林を再現すべく、昭和58年(1983)から60年(1985)にかけて造成。表土を東京近郊の開発予定地から移したため、植物の種や根、昆虫の卵や地中の生物ごと再生された。

新雑木林」は、今上(平成の)天皇陛下が、さらに雑木林を拡張してはどうかと発案され、平成14年(2002)に整備。
隣の雑木林から、やはり種や昆虫の卵ごと表土を運び、野鳥などの好む樹木も植えた。

そのどっちかの「雑木林」(^^ゞ
こちらは「二の丸休憩所

「休憩所」は、地図に字を書き入れてない(^_^;)。
「本丸」と「二ノ丸」に各一ヶ所づつあるが、狭くて書けないので割愛した。
両方とも、地図で見るとだいたい「展望台」周辺にあります。↑さっきの絵地図



<皇居東御苑A本丸、天守台〜松之大廊下跡>

雑木林を抜けると、隣の敷地は、二ノ丸よりさらに広大な「本丸」の高台が聳えており、その土台の石垣が重厚にして華麗。

この、二ノ丸と本丸に挟まれた通路、フツーに自動車とか走っていそうな整備された道で、一瞬「あれ、いつの間にか、皇居の外に出ちゃったのかな(^_^;)」と思う。
ジョギングやサイクリングしてる人がいても違和感なさそう(笑)。↓

左に見えて来る「本丸」の石垣
やがて「汐見坂」に到達

汐見坂(潮見坂・地図)」という名は、家康が江戸城を築城した頃、この近くまで日比谷入江(海水)が入り込み、この坂から海を眺めた事から付いたという。
二の丸と独立して別れていたので、城のあった頃は、坂の上に「汐見坂門」があった。

今回は二の丸を先に見学したが、平川門から直接、本丸に向かう坂道もあって、これを「梅林坂」という。 さっきの絵地図
この「汐見坂」から「梅林坂」の間の石垣は、平成14〜17年(2002〜2005)にかけて修復工事が行われ、変形前の形状への復元を目指した……と書かれてるが、「変形」というのが、もう一ヶ所修復工事された「中之門」と同じ原因なら、「長年の間に生じたひずみ」の結果らしい。

汐見坂を登って、その途中から
二の丸側を振り返る

石垣は、明暦2年(1656)から作られ始めたが、翌年に「明暦の大火」が発生した影響か、発掘では石垣の裏側から大量の屋根瓦が出土したそうだ。
また、梅林坂側のカドに「汐見太鼓櫓」と呼ばれる二重櫓(二重屋根の物見櫓)があり、石垣内に充填されていた瓦破片が、殆どが焼けて赤く変色したり、高熱で溶けた跡が見られた。

石垣が作られる前の事もわかった。
徳川家康を祀った「東照社」が建てられていて、明暦の石垣造営では、地中に使った基礎部分に、この東照社の石垣を再利用したようで、今回の修復工事でも、そのまま再利用した。

やがて本丸の突端「天守台」に到着
「明暦の大火」まで「天守閣」が在った

家康の入城(小田原征伐の1590年)以来、江戸城は、慶長(1607年)、元和(1623年)、寛永(1638年)と、3度、天守が建てられた。中でも寛永(1638年)の規模は大きく、地上から約58mの高さがあったと伝えられる。

しかしその寛永の天守も、明暦の大火(1657年)で焼失。天守台地図)は再建を目指して万治元年(1659)に築かれたが、幕府内で天守不要の結論が出され、天守台のみ天守自体は建てられないままとなった。

江戸時代の江戸城は、天守があった50年、そして天守がない210年を刻んだ。
(「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)には、天守閣のある状態の江戸城が描かれている)

登って右に「桃華楽堂」が見える(パノラマ2枚)

桃華楽堂は、香淳皇后(昭和天皇の皇后)の還暦のお祝いに作られた音楽堂。

さっきの絵地図←の通り、汐見坂からくると、天主台は南から入る作りになっているから、右(東)に「桃華楽堂」と大手町方面のビル街が見え、前(北)に進むと、「北桔門」と一ツ橋方面が見下ろせる。

そして、入って来た方(南)を振り返ると、本丸御殿の跡地(今は広い芝生公園となってる)が見えるが、かつては本丸の建物が立ち並んでいた。

本丸御殿は、表、中奥、大奥という三つのエリアに分かれていた。
」は、将軍の謁見など公的な儀式・行事、幕府諸役人の執務の場で、「中奥」は将軍の日常生活、政務を執る場、「大奥」は御台所と呼ばれた将軍の正妻をはじめ家族や女性たちの生活の場であった。

↓前方、北の先頭に「北桔門」が見える
天守台の後方「本丸」かつての配置(字は私が書き入れた)→

これより本丸の跡地を通るが、跡地と言っても、かつて「表:中奥:大奥」のあった建物跡は、今だだっぴろい芝生公園があるのみなので、見るのは、「本丸」の右辺に点在する「石室」「富士見多聞」「松の大廊下跡」、そして「富士見櫓」である。 さっきの絵地図

ただ、その途中途中に植物庭園が見られ、植物に詳しい人が見たら楽しいのだろうと思う。

例えば、まず最初に出会うのは「竹林」で、今上(平成)天皇陛下のご発案で整備された。
昭和天皇の「お印」が「若竹」なので、喜寿の記念として宮内庁職員から贈られた竹を、吹上御苑にお植えになってあったのを、こちらに移して一般の見学者に公開された。
ここでは、日本と中国の竹・笹が13種類、名と写真が説明版に紹介されていた。

で、←これが「石室」(いしむろ)なんだけど、最初パッと見て、「江戸城内に、先史時代の横穴式石室古墳があったんだー」とフツーに思った(笑)。

しかし案内板には、「用途は諸説ある」としつつ、位置が「本丸の大奥の脇に当たる」事から、「火事など非常時の大奥用の調度などの避難場所と考えられている」と書いてあった。

古墳にしては新しそうだもんね(^_^;)ゞ<ははは

さっきの絵地図←「石室」に続いて、「富士見多聞」が出て来る↓が、これがこの東御苑……すなわち一般人が入れる皇居の施設で唯一、中に入れる建物
「ご休息所前多聞」とも呼ばれている。(わりと最近、公開展示になったみたい)

「多聞」は、長屋造りの防御施設で、現在の富士見多聞の正確な建築年代は不明だが、明暦の大火(1657年)の後、諸建物が再建された際に建てられたものと考えられ、万治2年(1659)頃の可能性もいわれている。

かつての江戸城には、本丸の縁辺各所に多くの多聞(多聞櫓)があったが、現存するのはこの富士見多聞と、伏見櫓の左右にある多聞だけだそうだ。
……ちなみに伏見櫓は、この東御苑にはなく、4つのエリアの内、公開されてない皇居の敷地に含まれる建物。
ただ、外部(二重橋前あたり)から見えはする(^^ゞ。

「富士見多聞」の内部は現在、資料展示会場になっている。無料で拝観できる↓
富士見多聞の格子窓から見えるのは、手前に蓮池濠乾通り、奥に倉庫門長屋の建物と紅葉山

ここからの眺望は、今見た「門長屋」(木造二階建ての倉庫)の左に「局門」(女官が居住していた)があり、両方とも明治20年(1887)の明治宮殿を造営した時に建築された。
また「乾通り」は、桜や紅葉が植えられ、先に述べた通り、春と秋に一般公開がされる。

それから「紅葉山」というのは背景の森がそうだが↑、ここに高い木が無ければ、建物の名に当たる富士山が見えたと思われる。
江戸時代の紅葉山には、頂上に東照宮があった。

現在は、昭憲皇太后以来の歴代皇后が行われてきたご養蚕が引き継がれており、その作業をされる「紅葉山御養蚕所」がある。
ただし、お住まいの方の皇居エリアにある。ここから天皇・皇后が見えちゃったら大変だよね(^_^;)。

とはいえ後日、格子窓から写した上の写真に、後光のような強い光の一条↑が差しきらめいてるのを確認し、「やっぱあっちは天皇がいるからだなー」と満足した(^_^A)。

苑内は「桜の島」「バラ園」「茶畑」「野草の島」「果樹古品種園」「ツバキ園」「菖蒲田」「都道府県の木」など植物園の種類が豊富!↓
そしてやってきました「松之大廊下跡」→

この皇居東御苑、子供の頃に来た事あったかもしれないが、記憶にない(^_^;)。
だから、初めて来た場所のような書き方になっていると思う(笑)。

江戸城に見学に入れる事は前から知っていたが、 来てみるとどう思うのか、見当もつかなかった。
というのも、皇居と言うと、桜田門外の変とか、半蔵の門とか、皇居周りで有名な場所にまつわるエピソードがボンヤリとイメージされるからだ。
それらは、「東御苑」という限られたエリアからは外れている(笑)。

そんな中で、イキナリ目に飛び込んで来た、この「松の廊下」の跡地というのは、「おおっ!」と思わず声が出てしまう「史蹟」だった! さっきの絵地図

案内板には、名の謂れである襖に、松と千鳥が描かれた絵(現物は無いが、東京国立博物館に意匠図が残ってるんだね)や、これを歌舞伎で演じた浮世絵などと共に、ここが浅野長矩(内匠頭)が吉良義央(上野介)に対し、刃傷事件(元禄14年(1701))に及んだ場所である事、赤穂浪士の討ち入りに繋がった事、「仮名手本忠臣蔵」はじめ、多くの舞台芸能、文学、映画、テレビドラマが生まれた事が書かれていた。

「このたびの遺恨、思い知ったかーっっヽ(`Д´)ノ!」
「殿中! 殿中でござる!⊂(`・ω・´)⊃」
「武士の情け、今一太刀〜〜〜〜\(>o<)/!」……だね(^_^;)。



<皇居東御苑B富士見櫓〜大手門口、大手町「平将門首塚」>

そして、ようやく達した南端!
←「富士見櫓」(地図)。
最初に建てられたのは、慶長11年(1606)頃だが、これも明暦の大火(1657年)で焼失した。
しかし万治2年(1659)、間もなく再建された。

そして再建が叶わなかった天守閣の代用として使用された。
将軍が富士山両国の花火品川の海を眺めたと伝わっている。(今は高層ビルの林立で、富士山や東京湾は見えないそうだ(^_^;))

は、城の隅など重要な個所に作られる防御施設の役割を担う建物で、かつての江戸城には多く在ったが、現存するのは、この富士見櫓の他は、「伏見櫓」「巽櫓」のみ。

中でも、この富士見櫓だけが三重の櫓で、「どの方角から見ても美しい」という意味で、「八方正面の櫓」と呼ばれていた。

大正12年(1923)の関東大震災では破損したが、これも間もない大正14年(1925)に修復されている。
昭和42年(1967)には、外壁等の修理を行っている。

さて、「富士見櫓」がクライマックスで、あとは終盤、折り返しつつ右折して大手門に向かうが、その途中、「大番所」「百人番所」「同心番所」の順に出会う。 さっきの絵地図

大番所」は、大手中之門の内側に設けられていた警備詰所で、位の高い武士が勤務していた。明治期に改築され、作業所として使われていたが、昭和43年(1968)に江戸時代の姿に復元された。

大番所」と通路を挟んで対岸が→
百人番所

百人番所」(地図)は、本丸への道を厳重に守る、大手三之門に向き合って設けられた警備詰所
甲賀組伊賀組根来組二十五騎組の4組の鉄砲百人組が昼夜交替で勤務した。各組20人の与力と、100日との同心で構成されていた。

よく「忍者」を特集する歴史番組で、「忍者のその後」とか、忍者の末路に必ず出て来る「大奥の番」「門番」「お庭掃除」という定番は、江戸城に残された、こういう痕跡も関係するんだろうね(^_^;)。

忠臣蔵大奥忍者となると、「歴史の本筋から外れたバラエティー物(^。^)」みたいな滑った印象があるが(笑)、れっきとした史跡にまつわるネタだったんだねーo(^^)o<ルンルン

横長の「百人番所」と背後に立ち並ぶ大手町ビル街(パノラマ1枚チョイ)

ところで、今「百人番所」を見る後ろを振り返ると、そこに「中之門石垣」があるんだが、写真を撮りそびれている(爆)。
この「中之門石垣」も、平成17年〜19年(2005〜2007)に修復工事が行われた。
解体・発掘・遺構調査・三次元レーザー測量、および復元に関わる作業を検討し、変形や開き、ひび割れ、剥離などを直した。工法は布積み、江戸城内でも最大級の巨石を使った。

今回の解体で、明らかになった事を時系列に並べると……、(@〜Bの部分)

<江戸城普請年表>
1590年、徳川家康江戸城に入る
1600年、関ケ原の合戦
1603年、江戸幕府開府
1604年、家康、江戸城本丸(富士見櫓、他)の修築
1606年、秀忠、本丸御殿、二ノ丸、三の丸石垣造営
1607年、天守閣完成(第一期) 藤堂高虎、中之門の縄張りを行う@
 @明暦3年(1657)の大火以前の中之門の遺構が出土。
1622年、天守閣(第二期)を北に移す
1636年、江戸城の主郭、内外郭完成
1637年、家光、天守閣(第三期)他の改築に着手
1638年、天守閣(第三期)改築完成
1657年、明暦の大火(振袖火事)、江戸城焼失、以後天守閣は再建されず
1658年、江戸城の復旧着手 細川氏による、中之門普請A
 A現在の中之門は、この折の、細川綱利(熊本藩主)により再構築されたもの。
1703年、大地震、江戸城被災、中之門崩落
1704年、江戸城の修復 池田氏による中之門修復B
 Bこの折、池田吉泰(幼名・松平右衛門督吉明)が修復した刻銘が出土。

同心番所
そして「大手門」(地図)から退出

同心番所」は、主として「同心」と呼ばれる武士が詰め、登城者の監視に当たっていた。屋根瓦に、菊紋(皇室)の物や葵紋(徳川家)の物も見られる。

……と、以上で、皇居東御苑の見学を終え、皇居の外に出ると、いよいよ……、

本日の(自分的に)メインイベント、平将門の首塚に向かう!

こっから先は将門レポになること必然なので、先にウォーキング参加の締めをやっておく。

いずれも日常的に歩いたり車で通ったりしたことのない道はなく、初レポ気分の皇居東御苑ですら、覚えに無いだけで、実は来たことがあったであろう(^_^;)。

ただ、秋葉原から大手町まで歩く、という発想自体が普段無く、そういう意味で「日常にない体験だった」とは大いに言え、新鮮味に欠ける気持ちに竿さして、たわごとで今さら東京レポを出せたのも、「非日常」気分ゆえである。

スイマセン。ウォーキングについて言う事はそれだけです(笑)。
そして、これより先の行程こそが、「もっとも言うべき事」に相当する。

すなわち、私の人生における長い年月の間に、「大手町・将門の首塚」という場所は、何かよほど弾み勢い間違い用事がなければ、来れない場所になっていた。

ゾロゾロと一行に続いて、首塚に向かう→
周りは見るからに「大手町のビル街

その「来れない」意識に大した理由はない(^_^;)。
すぐ思い浮かぶ理由としては「駐車場が無いから」だが、そんな所は東京にはいっぱいあるから、もっとメンタルな所に原因がある。

強いて例えるなら……。

何か特別な日のために取っておいた、極上年代物・高級ワイン(むろん貰い物:爆)のコルクを開けるとか、精巧・繊細で芸術的な彫りの入り組んだ記念物ロウソク細工の芯に火を点けてみるといった、初雪の雪原に足跡をつけるのを躊躇う気持ちに近い。

雪は溶ける前に踏むべきだし、刺身や果物はどんなに高価でも新鮮な内に食べるしかないが、ワインやロウソクが長持ちするように、墓は無くならない。
大手町はいつでも来れるから急がないし、関係者じゃないから墓参や祭祀の用もないし、何かの間違いでウッカリ訪れるような場所でもない。

残るは「勢い」か「弾み」だが、思い付きにしては自宅の近くでもなし、渋谷や銀座ならともかく、酔った勢いでフラリと歩いて来る街でもない。

そんな中、「団体行動の一環で」……これこそ、待ちに待った「何らかの用」である。
これほど大勢いれば、万一祟られた所で、人数分に薄められるんじゃないか、みたいな意味不明の言い訳に乗って、ズンズン歩いて到着した「将門首塚」は↓

こんなトコです。周囲とパノラマ続きにして公開(パノラマ4枚180度以上)

よく聞く通り、そう広くない(^^ゞ。
前に参拝した事のある同行メンバーの方のお話では、「前はもっと薄暗くて、鬱蒼とした感じだった。立て札や説明版もあんなに無かったような……」との事だった。

それがこのほど、「将門塚保存会」により、ちょうど防護工事のお知らせが張り出され、11月上中旬は、夜間の参拝ができない事、防護台の高層鉄骨柱と梁、防護ネットの設置を行う工事である事が書かれていた。
……てことは、このあと立派に整備されたのかな(^_^;)?

それと、この時は案内板が少なくても5本(「将門塚保存会」「神田明神」「東京都教育委員会」「千代田区教育委員会」の4本と、「酒井家上屋敷跡」)は建てられていた。(もっとあったかな(^_^;)ゞ)

内容には「将門の首塚」と書かれるが、史跡名は「将門塚」(地図)とするようだ。
重複する所も多いので、まとめる↓
(各々の書き方によって、微妙に主張してる点が違うけど、まとめちゃう(^_^;)ゞ)

     
   昔この辺りを「芝崎村」といって、神田山・日輪寺や神田明神の社の傍らに「将門の首塚」と称するものがあった。
 今から1050有余年、桓武天皇五代の後胤で、鎮守府将軍・平良将の子、将門は、下総国に兵を起こした。承平天慶年間(931〜946)の事だ。忽ち坂東八ヶ国を平定し、自ら平新皇と称して、政治の革新を図った。

 当時(平安中期)、京では藤原氏が政権をほしいままに、我が世の春を謳歌していたが、遠い坂東では各国の国司が私欲にふけり善政を忘れ、民の血税を収奪したので、洪水や旱魃も続く中、民は衣食もない窮状に苦しんでいた。
 今も関東地方に多くの将門の伝説や神社がある事から、力弱い人々が将門に寄せた期待と同情が大きく、朝敵と呼ばれる将門が、実は郷土の勇士だったことを証明している。
 
     

入って正面「古蹟保存碑
(将門の本によく出て来る石碑)
右を見ると墓「南無阿弥陀仏」→

     
   しかし将門は、平貞盛藤原秀郷の奇襲をうけ、馬上陣頭に戦って憤死。享年38歳。
 将門の首級は京に送られ獄門に架けられたが、三日後、白光を放って東方に飛び去り、武蔵国豊島郡芝崎に落ちた。大地は鳴動し太陽も光りを失って暗夜のようになったという。村人は恐怖して塚を築いて埋葬したのが、この場所であり、将門の首塚と語り伝えられている。

 その後もしばしば将門の怨霊をなすため、徳治2年(1307)、時宗二祖・真教上人が江戸に行脚した折、荒れ果てていた将門塚を修復し、将門に、「蓮阿弥陀佛」という法号を追贈し、塚前に板石塔婆を建てて、傍らの日輪寺において供養したとされる。
 さらに傍らの神田明神にその霊を合わせ祀ったので、漸く将門の霊魂も鎮まり、この地の守護神になったという。

 天慶の乱武士の台頭の烽火であると共に、弱きを助け悪を挫く、江戸っ子の気風となって、その影響するところは社会的にも極めて大きい。

 江戸期に入り、神田明神が移転した後も、塚はこの地に残った。
 同地は「酒井家上屋敷跡」でもあり、寛文年間(1661〜72)、酒井雅楽頭の上屋敷の中庭に含まれ、歌舞伎の「先代萩」で知られる伊達騒動の終末、伊達安芸原田甲斐の殺害された所でもあった。
 
     

↑左右のガマ君を拡大・左↓
右。周囲のミニ蛙クン達もラブリー♪

     
   江戸期を通して残された塚だったが、明治二年(1869)、大蔵省再建事業の際、ついに崩された。
 以降、第二次世界大戦時まで、大蔵省がこの地に置かれたので、大蔵大臣、阪谷芳郎は、「故跡保存碑」を建立し、後人のために史跡保存の要を告示された。

 幾多の変遷の後、昭和45年(1970)に「将門塚保存会」などにより、現況のように整備され、現在も、塚の跡にある石塔婆が、真教上人が将門の霊を供養したもので、焼損するたびに復刻し、現在に至っている。

 ここは、神田明神の創建の地として、毎年9月彼岸の日、「将門塚例祭」が執り行われ、また5月の神田祭の時には、必ず鳳輦・神輿が渡御して神事が行われる重要な場所である。
 「将門塚保存会」の神輿も、神田祭の時に同保存会の方々により担がれており、現在、同保存会により大切に維持・神事が行われている。

 ■史蹟 将門塚保存会
千代田区外神田2-16-2 神田神社内/電話 03(3254)0753

 ■江戸総鎮守 神田明神
千代田区外神田2-16-2

 ■平成3年3月/千代田区教育委員会

■平成24年3月/建設 東京都教育委員会
千代田区大手町1−2/指定 昭和46年3月26日(都指定旧跡)
 
     

これをもって、都内ウォーキングのレポを終わる。お疲れ>( ^^) _旦~~



■11月〜12月・千葉県柏市・松戸市・市川市
<晩秋〜初冬、華麗な紅葉(#^.^#)@>


これよりパパパパーッと、年末までの秋冬の風景をお届けする!

まず、松戸市六高台から。
六高台は、五香(西)と六実(東)の間にある住宅街だが、ど真ん中に食い込む(か飛び地の)ように、「六実」とする番地が入り込んでる。
そこに、中央公園・第三小学校・幼稚園・消防署・図書館&市役所分館などが、「六実」の名で存在している(^^ゞ。

←小学校の銀杏の大木
↑中央公園の銀杏も綺麗な黄色

上の三本銀杏をロングに引くと……「六実中央公園」(地図(パノラマ2枚)

↑カドまで行って、振り返ると……↓

背の高い樹木の紅葉が素晴らしい( ^O^)//<パチパチ(パノラマ1枚チョイ)

今年も10月下旬に同じ公園に行ってみたけど、まだまだ銀杏が青くて、この紅葉は11月末〜12月にならないと見れないんだなーと思った(^_^;)ゞ。

秋、特に美しいと感心するのが、葡萄色の空に浮かぶ夕月(#^.^#)

六高台から五香方面に向かう。

五香の野馬除土手地図)も
赤く黄色く色づいて……

ここの紅葉は実に色とりどりで、土手の高さが秋晴れの空に葉の色をよく映えさせて素晴らしいので、しばし続けてお送りしたい。

野馬のいた頃は、高台の田畑との間を隔てる土手だったのだろうから、今は通りになってる方が谷で、馬が水を飲んだり走ってたんだろう。
ヒヒ〜ン!と秋空に馬の嘶き声が響く気がする

「秋と申せば、ラーメンじゃのぅ〜。ズルズル〜ッ!」→

程近い、六実のラーメン屋「花月」(地図
いつも立ってる幟が違うが、この時は「家康」だった(笑)



<晩秋〜初冬、華麗な紅葉(#^.^#)A>

紅葉を追いかけて北上し、柏市の逆井から手賀沼の南(鷺野谷あたり)まで出て見よう。

柏陵高校の坂の下から上がり
逆井のいつも美しい紅葉通り(地図

このあとは、逆井の観音寺前通り(地図)の紅葉が続くー♪



新しいデジカメ(ニコン)を買って、ほぼ一年経つ頃だったが、相変わらず扱いに慣れず、ちょくちょく上のように、ちょっと色が白っぽくなる事があったなー(^_^)。。

←こちらは手賀沼の南、鷺野谷あたり(地図

このへん山は無いけど、大きな沼や水流が多いから気温は低い。丘陵が多くて温度や湿度変化も強いのか、紅葉も山奥の風情(#^.^#)

この先はアチコチだけど、また南に戻って……↓

←市川大野あたり(地図)。
夜の銀杏の大木が、近くの強烈な光を浴びて輝きを放つ(光源は大型ゲームセンター:爆)

……実は、この近くに市川動植物公園があって、レッサーパンダがいるので有名。一度見てみたいと思いながら何年も経った(^_^;)ゞ。。
↑月の陰影。肉眼では見えても、撮影に反映されない事が多い(全部光ってしまう)中、よく映った一枚。ヽ(^^;)<花鳥風月も語らんかい、こら

今度はググ〜ンと北に県境を越えて、茨城県龍ケ崎のお店「分福」(地図)。

花鳥風月よりも色気よりも食い気が優先のこたつ夫婦は、近頃、ほうとうの美味しいお店を見つけた。

←アツアツのほうとう鍋。
キノコたっぷりヘルシーな味噌仕立て
「やっぱり冬は、ほうとうじゃのぉ〜う( ^,3^)ф´<フゥ〜」

お店の写真も撮ったんだけど、夜だったので写りが今イチ。そのうち又、撮ります(^^ゞ。

最後は、松戸の市役所地図)前から
同所前の神明社地図)、社殿裏の落葉

以上で、紅葉シリーズはおしまいo(^^)o

このあとはクリスマス特集なんだけど……、毎年のことながら、実は紅葉クリスマス風景は、時を同じくしているか、下手をすると、クリスマス飾りの方が先で、紅葉の方が色づきが遅れる事すらあるんだなぁ(笑)。
ゴッチャに出す方がリアルなんだけど、まぁ無粋なので、分けてレポしますね(^_^;)。



<クリスマス@、サンタとツリーと「満天の湯」>

みんな、クリスマスだよ!(^O^)ノ

「メリークリスマス!」。ツリーに囲まれたサンタ!(笑)

スーパー通路の飾り付けだっ♪

ここから先は、毎度おなじみ、街のイルミネーション開始だけど……。
今年(去年だけど:笑)のから、微妙ながら新しい試みがある!
それは……多分見た目に大きな変化は無かろうが(^_^;)、画像に仕掛けがあります。

そろそろ、ニコンのデジカメに変えてから一年が経った頃なんだけど、今度のにはなかなか扱いに慣れず、特に夕方や夜の写真が難しい(^_^;)。

フラッシュの有る無しで大きな違いが出る点は、これまでのどのカメラでも同じだったが、今までは「上手く写った方を出せばいい」と、なるべく割り切っていたのが……。

今度のカメラは特にその開きが大きく、クリスマスのイルミネーションの写った写真など見ると、どちらの特徴も出したい、という思いに駆られる。

だいたいにおいて、明るく写った写真の方が輝いて見えるから、パッと見がすこぶる豪華である。ただ、前からいつも「光っちゃって、せっかくの美しい絵柄模様が詳しく見せられないなぁ〜(-_-;)」というトコが不満だった。

そこで、両方の写真を重ね合わせて、どちらの良さも引き出す手法を編み出してみた。

こちらが暗いが絵柄がよく写った写真
一方、明るいが絵柄が光って潰れた物

↑上の二種類の写真を「掛け合わせ」た画像→

特に中央のミッキーマウスのライトが、明るい写真では絵柄が光で潰れてしまったのが、掛け合わせると浮き上がってよく見える。

同様に、ツララや窓のツリー型、左のカモシカも、光で形がくっついてしまわず、輪郭がハッキリと残った画像になってると思う。

光度が抑えられるので、煌びやかさに欠け、やや地味にはなるが、絵柄や輪郭がよくわかる工夫が効いてると思う。
電灯に施された細工の細かさを楽しんで貰えたら嬉しい(#^.^#)。

フォトショップで明暗二枚の写真をレイヤーの複写で重ね、透明度を調整すると、こういう合成が出来る(^^)

全部じゃないよ。最初から上手く撮れてる物はそのまま活かして、明暗の極端に出た写真だけ、掛け合わせてある(^^ゞ。掛け合わせた写真には、☆←このマークをつけておく。

今年(去年だけど:笑)は、ここから行こう「満天の湯」!☆

↑例えばこの写真。全てにおいて細部が掛け合わせてあるが、特にわかりやすいのが、左側に数本立ち並ぶ白熱灯の街灯。
明るく写る写真では、実は周囲にボ〜ッと広がる光りの部分の全てが真っ白に潰れて写ってる。
一方、暗い写真には、上の通り、中心の丸いガラス灯の輪郭だけがクッキリと写っている。

その両方の写真を重ねているので、ガラス灯の輪郭も、周囲に広がる光も、両方が写っている……という出来具合が、「掛け合わせ」の妙味である。( ̄^ ̄)<エヘン

以下、@〜Cと番号を振って、さらに解説(笑)↓

@↑の中心部分に↓こんな門構えがあって、その右の建物の屋根から横長に、ツララ風の灯りが続いてブラ下がってるのが見えるかな。
A門の内側から写すと、こんな感じ→

……で、↑上の二つ(@A)は、明るめモードの写真で、光度が強いため一見、華やかだが……。

B←こちらが「掛け合わせ」☆
明るさは抑えられるけど、ツララの雫がよく写ってるよね(^o^)
C↑こちらも「掛け合わせ」☆
@と比べると、門構えの屋根下、電気の飾りが光に潰れず、形を保ってるのがわかるかな(^o^)

「ゴタクを並べるのはもういいから、ドンドン先をやりなさいヽ(`Д´)ノ」←誰
「スイマセン(^^;)ゞ」

というわけで、門内に入ろう(^^ゞ→

ここのクリスマスって、いつ見ても綺麗ねぇ(*´ω`*)

門をくぐると、建物までの僅かな距離ながら、樹木を覆うまばゆいライティングと、手賀沼の湖水(青)と温泉(赤)をイメージする光の絨毯が出迎える↓

お邪魔しま〜す(((つ^o^)つ
入ってから振り返る

↑手賀沼の湖水が青いのはわかるとして、温泉が赤いのは、ここの温泉が本当に赤いからだろう。鉄分が豊富なんだろうね(^^ゞ。
こちらはクリスマスツリーの下の水辺。鹿・白熊・雪だるまらが、ファンタジーな集会(#^.^#)

あ、「掛け合わせ」画像は、また出て来るからねっ(^O^)ノ~



<クリスマスA、いよいよクリスマス(^O^)>

引き続き、クリスマスの各イルミネーションから!(ただし普通のおうちが多いので、例年通り、場所は示さないよ!)

まずは「掛け合わせ」されてない物を二つ。


左のは、灯りが室内についてるのと、それほど細かい模様がついてないのと、比較的早い時刻だったからか、イルミネーションの色の違いがハッキリ写ってるので、肉眼で見たのと殆ど変わりない。

が、右の写真は、上部の白い光が確か星の形だったし、他の灯りも色や形が様々だったのに、残念ながら光で潰れてしまった例。
(そのぶん光度は強いので、輝きは充分伝わるどね(^^ゞ)

一方、上のと逆に、輪郭や色は伝わりやすいが、極端に暗い写真というのは……↓

この左↓のがそう。右のは掛け合わせてあるので明るさも伝わるよね↓☆

これが上の左右、両方が繋がった図☆(パノラマ2枚)

繋がったと言っても、スグ上の一枚が本当に繋がってるのに対し、上の二枚は、真ん中から左に、右に、向けたショットなので、視点の角度が違うけど、左のトナカイさんやステッキ、右の長靴や雪だるまやハシゴなどで、左右がわかると思う。

「掛け合わせ」は、まばゆさは半減するけど、肉眼だったら確認できる細かい細工が、光に潰されず見れる点が楽しい。

この手のイルミネーションは、小刻みに点滅するので、動画じゃないと全容が確認できないのが、この方法だと、何枚か撮っておけば、静止画でも表現できてGOOD♪
☆→

左☆・右☆

左の写真。二階の部屋にハシゴをかけて登るサンタや、星型に見える灯りが実は雪の結晶のような細工があったり、実は青かったりするのが、こうして掛け合わせるとよく見える。

右の写真も、サンタの人形の塗りの色がよく見えるのが、その通りに表現できる。

こういうのが明るく写る写真だと、光って潰れてしまうんだな〜。

左☆・右☆

右の白い木なんて、樹氷を表現してるのがわかるよねー↑

左のみ☆、右は光って潰れている(光度は強いけど)

←こちらは、全く「掛け合わせ」無しなんだけど、周りの闇が深いせいか、ほぼ見た目の通りに細かい点までよく写ってる(^^)。

今年もステキなクリスマス飾りを堪能できた所で、イソイソ帰宅し、夫婦で手作りケーキを囲んで乾杯☆

( ^O^)/∀☆∀\(^O^ )

手作りと言っても、ケーキが高いから、スーパーでスポンジ、フルーツ、生クリーム、チョコなど有り合わせを買うだけ(笑)↓

キャーキャーこんな感じよっ(≧▽≦)!<興奮

安くあげるコツは……イチゴを買わない。フルーツはパイン、キウィ、オレンジなど安い物ばかりにする。
生クリームは一本しか買わない。
チョコは菓子作りコーナーのではなく(高いから(^_^;))、50円ぐらいで売ってる板チョコを、湯せんで溶かして上からかける。

味や食感は、市販のクリスマスケーキと殆ど変わらない。
なぜ安く済むのか……店内では空間(3D)を取らないからかなー(ケーキって飾り付けると、やたら場所取るよね(^_^;))

メリークリスマ〜ス!(ノ^O^)ノ⌒・*:.。. .。.:*・゜゚・*☆



<年末の風景、「来年もヨロシク」(^o^)ノ>

クリスマスも終わって、後はセカセカ掃除に正月の準備に、買い出しに年賀状(いつも出すのが遅くてスイマセン)。

最後に年末の風景で締めくくろう。

……と言っても、紅葉とクリスマス風景が、実は時期的に混在してるのと同じく、年末の風景というのも、紅葉やクリスマスと同じ時期の写真で(笑)、項目として分けてるに過ぎない(^_^;)。。

白井市の平塚あたり(地図)、遠く見下ろすのは下手賀沼

↑いつも通り、下手賀沼の南沿いの道路を走ってたら、左のカド(沼と反対側)に気になる標識が見えたので曲がり、しばらく走る内に見つけた景観。
その標識じたいは、大した用事にならなかったんだが、通った事のない景色を知ったのが嬉しかった。

同じく下手賀沼南岸から見た筑波山
筑波山の方角に進む道

(拡大)
こちらは下手賀川地図)、残照

手賀沼東岸「曙橋」(地図)付近、日暮れ過ぎ

晦日になり、大晦日になり、2017年も暮れた……(^_^A)
次回より、2018年を迎える!



次回はお正月、恒例の松戸七福神めぐりからスタートするが、その後はどの辺まで行けるかなー。出来れば一気に4月ごろまで行きたいが、行けたとしても、4月には、えらく久しぶりに一泊旅行をしたので、その辺りで止まると思う〜(≧▽≦)!<なぜか興奮♪

今回も関連事項のリンクは後回しとする。
現在……2017年11月号までは、追いつき貼ってあるんだが、その後がなかなか追いつかず……(^_^;)。。
頑張ります! ⊂(`・ω・´)⊃ ←何故、通せんぼ(笑)

2018年11月04日

<つづく>
 
     



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