<2014年・城主のたわごと10月>




2014年3月「茨城北部編」第4弾、3日目最終日は笠間から。

みたび常陸太田に入り、太田城跡と正宗寺、西山荘!




     
  遅れまして(^^ゞ。
実は今回、わりと早い内に「間に合わなーい\(^O^)/」と見極めをつけた。

今年は春に、この茨城北部の旅行をやったから、秋に旅行の予定は無かったが、シルバーウィーク辺りで、月末までに終わらせるのは諦め、近くの銭湯にいくなど、わりとノホホンと連休を過ごした(^_^A)。

ただ、遅れっぱなしのまま、いつも遠い過去のレポを晒すことになるのも嫌なので、出来る限り追い付きたいとも思う。次回は読んで貰うスピードも考えて、一ケ月ぐらいは間を空けるが、次の次あたりから、ちょいスピード上げて、月に二回を又やるかも……。どうぞよしなに(^^ゞ。

さて今回は、茨城北部編の第四弾ですなっ( ̄^ ̄)。
早々と3日目に入って、ようやく2日目の旅程に着手(笑)。
それでもこの最終日は、わりとスイスイとこなせた。

まず笠間市の温泉宿から。出発前に、前回の最後にもちょっと触れた、宿の近くの泉に朝の散歩に出掛ける。

いよいよ出発し、もう一度常陸太田にバックし、まずは太田城跡。別名「舞鶴城」とも呼ばれた佐竹氏の本拠地。続けて、その二の丸跡の「若宮八幡宮」。

太田で昼食を取り、午後は、佐竹氏の歴代墓所「正宗寺」、水戸黄門の助さんの墓もある(笑)。
しかるのち、同じく太田の西山荘(徳川光圀の隠居所)にいく。その途中で次回に譲る。

話は常陸国と佐竹氏の歴史を、ズズズーイ!と語りたい(^O^)!



<「ぶんぶくの湯」A、霊泉と「源九郎・意成大明神」>

つづき(^^ゞ。前回(2014年8月<2日目夜〜3日目朝、笠間市「ぶんぶくの湯」の宿>は↓

こんな森の斜面↓を降りて、低地に泉が見える所↓までお届けした(^^)

笠間市「ぶんぶくの湯」という宿(地図)の隣の森と泉。宿の方が案内して下さっている。

2泊3日の茨城北部の旅の3日目(最終日)の朝、朝ごはんを食べ終わり、これより出発する前に朝のお散歩(^^)。

上の通り、森の合間を降りていくと、泉があり、↓

辺り一帯、湿地と水草原が広がる(パノラマ4枚180度以上)

ここで湧く水が、宿で風呂や料理に使われる天然水。
この泉から「ブクブク」と泡をたてて湧き出ていることから、「ぶんぶくの湯」と名づいている。

ここは昔、「御手洗し」「弘法大師踏止の水」と言われ、弘法大師が発見した霊泉と伝わってきた。
大日山の中腹に、大日堂があったそうだ。

前回も話した通り(2014年8月<2日目夜〜3日目朝、笠間市「ぶんぶくの湯」の宿>内、こちらの風呂は温泉ではないものの、この泉からひいた天然水を飲用・入浴に用いると、皮膚病・胃腸病に効能があり、有名な場所だった。

戦前までは湯治の宿もあり、賑やかで盛んな所だったという。
遠くからも入浴に来る客が多く、水を持ち帰って自宅の風呂に入れ、病気を治した風習もあった。

ところが戦後、世の変化から、振り返られる事もなくなり、往時を知る「食事処やまびこ」のご主人が残念に思って、「ふくふく荘」として復活させたのが、今の宿になっているという。

透明の普通の水。左に「源九郎・意成大明神(パノラマ4枚ほぼ180度)

成分は、「ヒドロ炭酸」とカルシウムが結合して、重炭酸カルシウムとなり、鎮静・炎症をおさえる。ナトリウムとの結合では重炭酸ナトリウムが作られ、皮膚を柔らかく滑らかにする。

カルシウムはアレルギー・糖尿・消化・利尿に、硫酸および塩化ナトリウムは、胆嚢・肝臓・胃腸に効き、便秘・高血圧・動脈硬化・神経痛・リウマチ・痛風・火傷・外傷・利尿・痔などの改善が期待できる。

クロレラも確認でき、常温で長期間保存できるのも、優れた殺菌効果があるからではないか、と推測されていた。
私も一ケ月以上、常温で置いてたが、全く傷む気配も匂いも濁りも出ない。

利用者からの声も送られて来たパンフにプリントされ、胃腸・便秘・皮膚や花粉症など炎症トラブル系の他、元気の無くなった鳥や犬が好んで水を飲んだり、元気を取り戻したとか、不眠症の解消・体力向上なんかが目立った。

背面を振り返ると、こんな森。下草に注目(パノラマ3枚ほぼ180度)

↑この下草が水に作用を及ぼすような事を、お話しに聞いた。
下草の豊富な地下で育まれている点に、水の効能と、「ブクブク」と泡の出る何らかの成分が含まれている、という事だろう。
「石灰岩の山で、岩の合間より空気と共に湧き出している水」と看板には書かれていた。

自分について云えば、ここの水を風呂に入れると、テキメンに眠くなるのは確かだ(^_^;)。
特に不眠症の自覚は無いけど、時に応じて漢方薬を処方されると眠くなる事がよくあって、漢方の先生には、「気力が上回って、突然死するタイプ」とか脅されてるから(苦笑)、自覚がないだけで、眠りが浅い傾向はあるのだろう(^_^;)。。

だから、遠まわしに体力回復に役立ってるのかもー(≧▽≦)。

←池の畔に立つ「源九郎・意成大明神
稲荷だけど、「義経に大変ゆかりが深い」所からこの名がついて、今は宿の方が奉仕してるそうだ。
毎月9日に稲荷寿司を9つ奉納し、時計の針が万歳の形になる10時10分、太陽に向かい万歳三唱するんだとか(゚.゚)。

最初、これがここの霊泉神かと思ったんだけど、天然水についての由来は、さっきも言った通り、いわゆる弘法大師伝説なんだね(^^ゞ。

義経にまつわる伝承もあったのかもしれないが、祀る人も絶えてしまったのかもしれないね。。

宿の方は、「水の出があまり良くなかった時、ここのご奉仕を熱心にやったら、また出るようになったので、継続してるんです。気のせいかもしれませんけどね(^^ゞ」と笑いながら、明るく仰っていらした。

水は頼めば送ってくれるらしい。手数料と送料で5リットル2315円と書いてある。
風呂には一回500ミリリットルだから、10回分だね(^^ゞ。

さて、そろそろ出発の時刻(^^)。

宿に戻ってお別れと御礼を述べ、宿の方に見送られながら出発しようとする傍ら、すでに水を汲みに来た方がおられて、ホントに人気があるんだなーと思った。

泉の畔から宿の方に戻り
車に乗って森の脇道をいく

亭主が前夜、ここに入って来た時も、この朝ここを出て行く時も、
「この森をちょっと入っただけで、こんな大自然があるなんて(゚.゚)!」
と驚いて、何度もそれを言っていた。

確かに、ほんの僅かな道のりをいくと、大勢の車がバンバン通る大道路に面する。
逆に道路を走っていたら、奥にこんな所があるとは気付かないに違いない。

森の終わり頃から道路が見え
畑地に出ると車がバンバン通ってる(笑)

この後、亭主はウチの近くでも、曲った事のない道や、奥に緑のある空間を見ると、「もしかしたら」とばかりにハンドルを切るようになった(笑)。

写真が小さくて見づらいが、この畑地の向こうに、コンビニのあるカドが見えている。そこまで細い道で出て行き、大きい道路(61号線)に合流する。地図

←これがそのコンビニ「Seicomart」とある。「セイコーマート」と言うらしい(^^ゞ。

茨城にいくと、よく「セーブオン」を見たものだが、セーブオンはこの頃、ウチの方でもちょくちょく出店してるのを見掛ける(^^ゞ。

このセイコーマートも、そのうち来るのかなぁ(どういう方程式だそれは:笑)
(2010年10月<下館→小栗>内

ここでちょっと買い物してから太田方面に向かう(^^)。

以上、関連事項は(2014/12/12遅れてリンク(^^ゞ)、
2010年10月<下館→小栗>内

2014年8月<2日目夜〜3日目朝、笠間市「ぶんぶくの湯」の宿>以降




<笠間から、再び常陸太田へ>

↑その道中と、今月号のほぼ全般を使って、今回は佐竹氏の鎌倉以降の歴史(7月号・8月号の続き)を語りたいが、その前半部では、常陸国全般についても少し詳しめに書こうと思う。

まだ当分は笠間市。61号線を東に進む

■佐竹氏・鎌倉中期ごろまで(2014/12/12遅れてリンク(^^ゞ)
2008年7月<牛久城跡、2>内
2008年12月<布瀬城跡・香取鳥見神社(天慶の乱・伝承地)>内
2009年11月<圓福寺・飯沼観音>内
2014年7月<「金砂城跡」と「西金砂神社」>内以降


頼朝に抵抗した佐竹氏が、跡地を頼朝の与党ら(宇佐美・二階堂・佐伯)に地頭として配置されながらも、宍戸氏(小田氏の一族)や、二階堂氏といった鎌倉期における有力氏族との婚姻によって、勢力回復に乗り出した事は、前回書いた通りだ。
(2014年8月<佐竹寺>内

佐竹より前から基盤し、大勢力をなした常陸平氏では、大掾氏の宗家・多家義幹も失脚したが、これも同じ常陸大掾氏の吉田氏から出た馬場資幹が、頼朝より水戸の地頭に任じられ、水戸城を築いて治めた事は6月号に書いた通りだ。
(2014年6月<水戸市街と水戸城「彰考館」跡>内

常陸平氏の勢力の一部には、小田氏が入り込んだ。
小田氏は頼朝の旗下・八田知家を祖とし、八田氏宇都宮氏から出ている。



この八田氏は元々、常陸にも何らか由来地があったとする伝えもあるようだが、八田知家の縁類(姉か妹あたり)に、頼朝の乳母で、小山氏に後妻に入って、小山・長沼・結城の母となった寒河尼がいる。
このような点から、八田氏の常陸における流れが確定されたのは、頼朝以降と見る。
(2007年5月<筑波山神社>内・2011年6月A<湯西川〜五十里湖〜県境〜南会津(糸沢)>内以降)

その後は、常陸の各豪族らが、鎌倉期を通じて北条氏(前北条氏)に所領を奪われて行く歴史が続く。

この小田氏は、承久の乱(1221年)で一族が後鳥羽上皇がわにつき(恐らくはそれを理由に)、所領の一部(信太荘)が北条氏に渡ってしまった。



その後は、宝治合戦(1247年)による連座劇。
宝治合戦は、五代執権・北条時頼が、四代将軍の頼経(九条道家の男子)を更迭したのを期に、頼経父子の背景勢力だった三浦氏との衝突でおきた。

三浦氏は北条氏と肩を並べるほどの最有力御家人だったから、三浦氏がこの合戦で敗れた事により、連座して排除された勢力も非常に多かった。
(2008年11月<茨城県常総市「豊田城」(石下町地域交流センター)>内・2009年10月<胤重寺>・2011年6月A<奥会津博物館(旧・奥会津地方歴史民俗資料館)>内・2012年3月<大峠トンネル(県境)〜喜多方市内>内

常陸においては、関政泰小山氏の一族)が三浦泰村の妹を妻にしており、三浦氏とともに自害。
関郡とその隣の下総国・豊田郡大方郷北条得宗領となり、その被官・諏訪氏の入部を許す事となる。


下妻氏も三浦側に廻ったのか、同じく隣接の下妻荘も、大仏北条氏のものとなる。


泰村の娘を妻にしていた小田泰知も、やはり没落。一族の宍戸国家常陸守護職を譲った。
下河辺氏下河辺荘も同様に金沢北条氏のものとなる。

鎌倉期の常陸国は、このように北条氏の専制支配が次々と及んだ。
まずは北条氏に浸食され、続いて、北条得宗家によって浸食されていくのを、ただじっと見ている期間といえた。


北条氏北条得宗家を、二段に分けて書く理由は、北条得宗家は、北条氏の内部でもトップに踊り上がった勝者であり、一方同じ北条氏に生まれた者らでも、得宗家でない支流は排除されたり、叛旗を翻して討ち果たされたりで、関係者は連座になりかねないからだ(^_^;)。。


そのように巨大になる北条得宗家のさらに内側から、御内人(北条氏の被官)が顕れ出て、大きな権力を差配しはじめていく。
平頼綱(霜月騒動)がそれであるし、先ほど関氏の跡を入部した諏訪氏というのも、北条氏の被官である(^_^;)。

幕府創成においては負け組だった佐竹氏も、幕府の有力御家人と結ぶなど、縁組による浮上に余念が無かった事は前回も述べた通りだが、こうした頼みの「有力御家人」というの自体が、最後は得宗家の独走態勢によって、必ずしも安泰とは言い難くなった(^_^;)。。
この事は有力御家人筆頭(生き残ったとも言える)安達氏への粛清劇(霜月騒動)に端的に示される。

山・緑・建物が無くなり、平原が続いた先で
那珂川を渡る千代橋地図

霜月騒動(1285年)は、北条得宗家の御内人・平頼綱安達泰盛を襲撃し、討ち取った事件である。
平頼綱自身は、9代執権・北条貞時に討たれて居なくなるが(平禅門の乱=1293年)、霜月騒動とその後の恐怖政治の残した爪跡は深く、頼綱に討ち取られた御家人は500を越えたと言われる。

これもまた連座劇が続く。
常陸では、泰盛の弟・重景が常陸において自害し、こうして安達氏の中郡荘も奪われた。
小田氏の一族・田中氏も討たれ、田中荘が15代執権・北条高時の弟・泰家のものとなっている。
同じく小田氏に連なる高野景家も討たれ、陸奥国の高野郡常陸北郡が北条氏・金沢北条氏・北条得宗領となる。

経緯は不明ながら、佐竹氏の奥七郡も、多珂郡が得宗家被官の諏訪氏に、瓜連桜田(瓜連)北条貞国(時頼の孫)に、那珂東郡大仏北条維貞にそれぞれ取られている。

←こちらはその「瓜連城跡常福寺)」(地図
前日(2日目)、宿に向かう途中に見付け、もう一度通ったら写真に撮りたいと、ちょっと意識してたら、上手いコト撮れた(^^)v

寺と城跡が一緒の場所にあるのはあらかじめチェックして来たんだが、数ある城跡の中で、瓜連城に注目したのは、初日に水戸の「茨城県立歴史館」の特別展「常陸南北朝史」を見てからかなぁ……。

瓜連城については、もうちょっと後にいっぱい書くね(^^ゞ。

行方氏(常陸平氏)は行方郡小幡郷・外小牧村・玉造郷・高岡郷などが取られた。
他の諸氏からも、伊佐郡・幸嶋郡・鬼怒川・小貝川・常陸川の流域、霞ヶ浦など、茨城県の南部〜南東部を北条氏が掌握した。

小田・宍戸・下妻・関・伊佐・真壁など諸氏の所領は、次々と北条氏の手に落ちる一方で、吉田・馬場などは、北条氏への接近によって存続を保った。


そして佐竹の旧領を宛がわれた、宇佐美・二階堂・佐伯らも、この霜月騒動によって没落。
跡地が佐竹に戻るなんて事はなく、無論サックリ北条氏が吸収した(^_^;)。
(ただ、婚姻関係だったので「二階堂氏の所領を一部得たのでは」と推測する説も見掛ける)


↓再び、森も宅地も無い広〜い平原に行き合い……
程なく、今度は「久慈川」を渡る栄橋地図)→
つまり瓜連城那珂川久慈川の間にあった

佐竹が婚姻を結んだ宍戸氏も、同族の本家・小田氏にとってかわった有力支族だったが、上に書いて来た通りの経過だから、一時有力であっても、いつどうなるかわからない(^_^;)。

この成り行きに、北条体制の浸食図には終わりが訪れない、と悟った者は、内在的には相当な数に達したと思う。

ただ、このように本来はまるで別々の土地を、北条氏が境界を取り払って往来を可能としたため、水運の便が向上し、鋳造技術の発展を見た。
元(中国)の渡来僧が夜に停泊する客船を書きとめる様子などに、潮来津の繁栄が伝わるそうだ。
そうした発展は、宗教面・文化面に貢献し、後に引き継がれた。


川辺の立派な防風林に亭主が感心(^^)
北に聳える山は金砂山の方角

後醍醐天皇倒幕運動は、正中の変(1324年)が失敗に終わり、元弘の乱(1331年)で再挙となった。
幕府はその都度、鎮圧・応戦の兵を向けるわけだが、常陸からは、六波羅探題に出仕していた高野時知・貞知(小田氏一族)が幕府軍に見える。

隠岐に流された後醍醐天皇(1332年)に替わって、楠木正成などが各地で倒幕の火の手をあげると、足利尊氏(当時は「高氏」)も、幕府の鎮圧軍にいたのが、急に寝返って京の六波羅探題を討ち、上野国の新田義貞も鎌倉をそれぞれ急襲したため、鎌倉幕府と執権北条氏は滅亡した(1333年)。

足利や新田の寝返りとほぼ同時に、殆どの武士たちは幕府軍を離反した。
常陸の武士達もそうだった。

(↓関連事項、2014/12/12遅れてリンク)
■東北・北関東の南朝戦線(北畠氏・長沼氏・新田氏)
2009年4月<霊山神社>内
2009年7月<南部「今城」>内
2011年6月A<塔のへつり>内
2013年2月<生品神社(新田義貞・挙兵の地)、2>内以降
2013年7(6)月<「うつぶしの森」(白佐波神社)>〜<雲谷寺(新田義宗の墓)>


久慈川を越えた後も、しばらく河川敷が続いて、遠くの山がよく見える(^^)

僅かに、石川道幹・通近真壁秀忠が幕府側に見えるが、行きがかり上の感が拭えない。。
彼らの名は、六波羅探題・北方北条仲時南方北条時益が、持明院統後伏見天皇・花園上皇・光厳天皇を奉じて関東へ落ちる途次、次々と討たれたあげく、近江国で佐々木道誉に阻まれたため、432人が蓮華寺で自害した中に顕れるそうだ。

石川氏(常陸平氏・吉田氏一族)は、大仏北条氏(六波羅探題・北方)との縁故があった。
真壁氏真壁荘をもっていたが、1299年に土地トラブルから地頭職を幕府に取り上げられ、北条氏被官・江馬光政が代わりに入部しているので、北条か江馬の下に入らざるを得なかったのかもしれない。
真壁氏については少し後の時代に思えるが→2010年12月<真壁城跡(古城と城跡公園)><真壁氏累代の墓地と墓碑群>

しかし殆どの常陸武士たちは後醍醐天皇側に入って戦ったのだ。
そんな倒幕の嵐の後、失われた旧領は戻って来たか……来なかった( ̄▽ ̄;)。。


河川敷を越えると下り坂に入り
だんだん太田市街が近付いて来る

上に述べて来た多くの氏族の多くの旧領、すなわち北条氏から没収された土地は、ソックリ足利尊氏の物となった(爆)。
宝治合戦で取られた関郡下妻荘、霜月騒動で失った田中荘中郡荘も、みんなみんな足利が持ってった。

それが後醍醐天皇の論功行賞だった。

だから常陸の多くの諸氏は、次はこの足利尊氏と戦って、旧領を取り戻さねばならなくなった。。
常陸国に幅広い南朝勢力が生まれ、長い戦歴を育んだ理由(下地)は、まさにここにある。
「北畠親房が漂流してきたから」ではない(笑)。←それはもうちょっと後ね(^^;)


いよいよ市街に入って来た☆ミ 昨日も来たから「戻って来た」(笑)

上野国の新田義貞はせっかく占領した鎌倉を放棄して、上洛したが最後、主従ともども二度と故郷に帰れなかった。。

同じく常陸国でも、特に小田氏の所領がずいぶん北条氏に接収されたから(^_^;)、小田高知も京にのぼって後醍醐天皇に拝謁し、諱(尊治)を頂いて「治久」と名乗った。

ただ、小田氏など常陸の豪族が南朝(反足利)勢力となった事は、後に北畠親房が来た時、多くの常陸豪族がそれを助けたり、親房が小田城に籠って「神皇正統記」を執筆する伏線にはなったんだろう(^^ゞ。

そんな中、佐竹氏ひとり北朝&足利党となったのは……。


常陸国と佐竹氏の歴史の話は、この後も続きます)



<「太田城(舞鶴城)・本丸跡」(太田小学校)>

太田城は南北に縦長の構造を持つ。
北から南に、X廓(外搦)・W廓(内搦)・T廓(主廓)+U廓(中城)・V廓(内堀)の四段から出来ていて、今はそのうち中央西側T廓(主廓)跡に「太田小学校」が建ち、そこに碑と案内板がある。

街中なので駐車する場所に迷い、はじめ隣接するW廓(内搦)の方に来た。(地図
そこに小さな商店街があって、車も停めやすかったからだ。

工場か何かの跡地のような感じで、ガランと広く、外から見える敷地には、曰くありそうな大きな樹(城跡とかによくあるよね(^^ゞ。伝説付きだったりの……)も残されていたので、いずれ城跡公園のような場に作り変える予定なのかな……なんて思った(^^ゞ↓

太田城跡・W廓(内搦)(パノラマ4枚180度以上)銀杏の大木

↑この左の路地の先に「太田小学校」があり、昭和54年度(1979〜80年)の卒業生による建碑に、太田城と佐竹氏の歴史が書かれていた。

それによると、佐竹氏の前に、藤原秀郷の子孫・太田通延が定住し、城を築いたのが、天仁年間(1108〜09年)であるという。

その後、曾孫の通長まで居城していたが、その頃に前回やった馬坂城に定住しはじめた、佐竹氏の初代・昌義と主従の契りをかわして、通長は小野崎(瑞竜町)に移り、佐竹昌義は馬坂城には城代を置いて守らせ、この太田城に移った。
(2014年8月<馬坂城跡>
城の竣工の日に、鶴が城の上を舞いまわり、吉兆としてゆかしいので、「舞鶴城」と名付けられたと言い伝えられている。

その路地(拡大)から
太田小学校にも来てみる(^^)

その後、三代・隆義の時、城の規模を拡大して、「青龍城」とも称したという。
これについては、隆義が平家との結びつきによって奥七郡を支配し、武威を境外にまで響かせ、平清盛の執奏によって、従五位下・常陸介に叙任された背景が書かれていた。

……が、前日(8月号)の馬坂城では、「太田城に引っ越したのは三代・隆義」としていた。
また、「奥七郡の支配を完了したのは、初代・昌義の頃」とする説も見る。

というのも実は昌義と隆義は父と子で、大抵は隆義を「二代目」にカウントするんだが、この石碑の記述は恐らく、隆義の兄・忠義を「二代」に入れてるのではないかと思う(^^ゞ。

というわけで、祖父と孫なら時代もちょっと遠いが、父と子だから、同じ時期の出来事(支配や転居)を、どっちの名で記載するかの違いに過ぎないかもね(^_^;)。

太田小学校」(地図(パノラマ3枚ほぼ180度)

その後は、間がバーン!と飛んで(笑)、いきなり戦国期の19代・義重の最盛期と、その次の20代・義宣が秋田に国替えされる下りが、いかにも明暗のクッキリした書き方となって記され、最後に地元と卒業生としての顕彰がされていた。

なかなかの名文だった(^^)。
このあとの歴史を書いた後、別の場所に行っちゃってからで恐縮だけど、載せたいと思う。

で、あとは手持ちのガイドによるが(^^ゞ、この太田城が本格的な城郭として整備され始めたのは、その後、南北朝時代……これより話す、佐竹貞義(1287〜1352)の時代以降だそうだ。
さらに戦国期は、1500年代の後期から1600年にかけて、大規模な改修と拡張が施されて、先ほど言った、4列5廓の壮大な縄張りを形成したと見られている。

平安時代から江戸初期秋田転封まで、実に450年間、途切れる事無く機能しつづけた、全国的に見ても、極めて歴史の長い城跡と言える。

校門を入ってすぐに見える「舞鶴城址」の大きな石碑(拡大)→

鉄道は水郡線「常陸太田」駅(終点・地図)から、歩いて30分ぐらいかなぁ(^^ゞ。

前号(8月号)にいった、「馬坂城」や「佐竹寺」だと、駅から30分以上かかりそうだけど(^_^;)。。

それと、馬坂城(地図)や佐竹寺(地図)は駅から西南に、この太田城は北西方面だから、各々違う方向に向かわないとダメだよ。

あと、この奥は校庭なので、平日の就学時間は、お邪魔にならぬよう気をつけたい(^^)。



<「太田城(舞鶴城)・二の丸跡」(若宮八幡宮)>

同じ太田城跡だから、目と鼻の先と言っていいぐらい近い(^^ゞ。地図
常陸太田駅からだと、太田小学校に行く手前にあるから、こっちを先にお参りしていく感じかなぁ。

このようなカーブ状の縁に聳え、見晴らし抜群(^^)(パノラマ3枚)

二の丸跡」と書いたが、正確には、この社地の右隣が、さっきの仕切りでいうと、北から南に、X廓(外搦)・W廓(内搦)・T廓(主廓)+U廓(中城)・V廓(内堀)とあるうちの南端、「V廓(内堀)」に該当する。

応永年間(1394〜1428)に、佐竹13代・義仁鎌倉鶴岡八幡より、さきほどの太田城(舞鶴城)の中に勧請し、守護神とした。
室町時代のほんの初め、南北朝時代が終わったばかりの頃だね(^^ゞ。 義仁というのは、佐竹百年戦争の前に、上杉から養子に入った、義人義憲)の事みたい。

貞義┬義篤−義宣−義盛−女
   |             ||
   |     上杉憲定−義人−義俊−義治−義舜−義篤−義昭−義重−義宣−義隆
   └師義−(山入)与義−祐義−義真−義藤−氏義

注目するのは、「その折、神女鶴子が供奉して来り数世祭祀を司った」という記述。
女の人が初代の神主だった事がわかる。あまり見た事のない珍しい付記だと思った。

ただどうも、この室町初期に創建した時、この八幡宮はこの場所ではなかったらしい。

その後は江戸時代、慶長14年(1609)、水戸藩初代・徳川頼房が7歳の時、駿府で発病し、当社に祈ると、たちまち快癒した。
宝永5年(1708)、中山(備前守)信俊が、勅命を奉じ、両社(稲荷と八幡)をこの地に造営。

……とあるんだが、どうもこの中山信俊という人は、水戸藩の家老で、ちょうど八幡宮を遷した頃に、「太田御殿」と呼ばれる屋敷城跡に建てた。

一方、この「若宮八幡宮」も、やはり太田城の内部に祀られていた。
で、同じ城跡に住んでいた中山家老が、理由はよくわからないが、この場所に遷宮を行なった。

家老の屋敷を建てるのに、どかしたのかなーという想像もしたんだが、そうじゃなくて、施工中に祀られているのを見付けた(発掘したとか)……という事かなぁ(^_^;)。

入口左右の獅子の浮き彫り
その背景に広がる丘陵と眼下の町並み

所々でお宮の説明も入れつつ、中断していた話を再開(^^ゞ。
諸氏が北条氏に所領没収された話をしてきた。

そんな中、佐竹氏ひとり北朝&足利党となったのは……。←ここからだったよね(笑)。

佐竹氏の旧領も、殆どが北条氏領に取り巻かれていたようなもんだったから(^_^;)、奥七郡多珂・久慈東・久慈西・佐都東・佐都西・那珂東・那珂西)の内、那珂東郡は、尊氏の弟・直義に与えられた点などは、他の常陸諸氏と変わりはなかった。

ただ建武新政より前(1330年)ではあるが、佐都郡・東岡田郡・西岡田郡常陸太田市)などは本家職・預家職を京の臨川寺領として、夢窓疎石が安堵され、これが後に正宗寺に繋がり、足利氏と佐竹氏に強力な関係が出来る所縁となった。

正宗寺は昼食後いきます(^^ゞ

西側丘陵(拡大)には、「諏訪神社」「久昌寺」「義公廟」「西山公園」などが並ぶ

そして、さらにもう一ヶ所、久慈西郡楠木正成に与えられた。(偶然にも今ちょうど、そっちの方角を見ている:笑)
後に足利と楠木は敵同志となったから、振り返れば、この分配も立場を分けた面があるかもしれない。

そもそも佐竹氏は、常陸の南部が常陸平氏の勢力下にあって、北部に場を求めざるを得なかったわけで、西出口に蓋をされたら、海に落ちるかますます山奥に入るしか……(^^;)。。

何しろ、その後の長い常陸における戦争の前半部は、まさに先に述べた、久慈西郡「瓜連」において行なわれた。
←さっき通った、瓜連城ね(^^ゞ
その経過を、中央および全国の動乱と並べて見ていきたい。


県天然記念物ケヤキ。樹高30m。確かにそれぐらいあった!樹齢640年との事だから、八幡宮の創建よりちょっと古い、南北朝時代ごろだねぇ。
↑境内に入る。

建武新政の破綻要因は色々あったが(笑)、尊氏謀叛への直接の道筋は、1335年7月に、北条高時の子、時行が「中先代の乱」を起こし、尊氏がこれの討伐のため、後醍醐天皇の許可を受けず関東に向かった所に始まる。

11月には後醍醐天皇によって謀叛認定され、尊氏の討伐には新田義貞が向かった。
尊氏は逆に、12月、新田を箱根で破り、に進撃。
……この時、佐竹氏からは義篤・師義の兄弟が、足利方として従軍したようだ。

陸奥国に赴任していた北畠顕家が、攻めのぼる尊氏を食い止めるために後を追いかけ、12/12に陸奥を出発し、に急行。


右部。たいそう立派な御手水、その右隣は
神主さんの家か、もう城跡地(V廓)か?

翌1336年1/11、後醍醐が逃げ出した直後の京に尊氏が攻めのぼるが、1/16には顕家が追い付き、近江で尊氏軍を破ったため、尊氏は1/28には京を去って、九州に落ちた。
このあたりで、佐竹義篤(1311〜62)はどうも関東に戻って来たようなんだが、弟の師義山入氏の祖)は、そのまま尊氏に従軍しつづけたようだ。

そしてこの、顕家が陸奥を出て京で尊氏を討つまでの間、 陸奥国岩城郡伊賀盛光(常陸国の伊佐郡の地頭職)が、佐竹貞義(義篤・師義兄弟の父)がかけた動員に応じて、12/24に常陸国に参陣している。
(この佐竹貞義の頃から、今いる太田城は拡張を開始したと見られるわけよ(^。^))

<佐竹氏系図>
義光┬義業−昌義┬忠義(大掾養子)
   └義清(武田)├隆義┬秀義−義重−長義−義胤−行義−貞義┬義篤−義宣-┐
            ├義宗└義清(稲城)                  ├師義(山入) |
            └義季                           └義冬      |
┌−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−-┘
└義盛−女
      |        ┌義治−義舜−義篤−義昭−義重−義宣−義隆
上杉義人(義憲)−義俊┴義成(天神林)


中央部。
←歌碑。スイマセン、字が読めませんでした(爆)
↑正面これまた凄く立派な門から拝殿が見えている

そして翌1336年1月、楠木正家(楠木一族)は正成の命を受けて瓜連城に入城。
つまり、ちょうど陸奥に北畠顕家が居ない頃、このような緊張状態に入ったことになる(^^ゞ。
(ちなみに瓜連城には、楠木方として入城してた佐竹一族もいたようだ)

2月に佐竹の攻撃(瓜連城の外から)が開始、2/6には貞義の子・佐竹義冬が戦死。佐竹にとっては不利な戦線が続いた。その後、戦況膠着。

4/3、足利尊氏が九州から挽回してに攻めのぼり(途中に北朝樹立運動なんかもやりながら笑)、5/25、湊川の戦い楠木正成が戦死。
6/14、尊氏が光厳上皇を奉じて入京。


左部。あの丘陵の裏に瓜連城がある。ここから戦局を案じただろう(パノラマ3枚ほぼ180度)

ここで膠着していた瓜連城の周囲に動きが出る。
7/22、佐竹側の伊賀盛光武生城(常陸太田市)に軍を集結させ、南下して花房山(同市)付近で、南朝方となった小田治久広橋経泰らと戦い、敗れる。

尊氏らの京周辺の動きは……、
8/15、比叡山に逃れた後醍醐天皇と北朝・光明天皇の和睦成立(北朝樹立)。
11/7、建武式目の制定(室町幕府成立)。

瓜連城では……。
12/2、今度は佐竹義篤(兄の方ね(^^ゞ)の下に入った伊賀盛光は、再び武生城に集結を計り、12/10に岩出河原で再び合戦して今度は勝利。
12/11、ついに瓜連城陥落楠木正家は脱出した。

(↓関連事項、2014/12/12遅れてリンク)
■東北・北関東の南朝戦線(北畠氏・長沼氏・新田氏)
2009年4月<霊山神社>内
2009年7月<南部「今城」>内
2011年6月A<塔のへつり>内
2013年2月<生品神社(新田義貞・挙兵の地)、2>内以降
2013年7(6)月<「うつぶしの森」(白佐波神社)>〜<雲谷寺(新田義宗の墓)>

拝殿の敷地に入ろう。こんな並び(パノラマ4枚180度以上)

神社の説明もしよう(^^ゞ。
ここは茨城観光百選にも選ばれた景勝の地で、由緒には、「ご両社」という名称がよく使われており、これは「八幡」と「稲荷」をセットで示すようだ。

鎌倉鶴岡八幡宮は、現在地の松ヶ岡に元は稲荷を祀ってあったそうで、こちらは今も「丸山稲荷」として、ともに祀られ、信仰されている。
これを故事として倣い、この若宮八幡宮でも、稲荷社と八幡社の両社を勧請……という事かと思う。

新編常陸国誌」には、若宮八幡宮の「神体は絵像」、稲荷明神の「神体は石剣宝物」と書かれているそうだ。

八幡宮のご祭神は、大鷦鷯(おおささぎ)命(仁徳天皇)。
絵を神として祀り(これも多くない気が……)、正式名称は「絹本着色僧形八幡絵像」。
佐竹義仁が勧請した折、 鶴岡八幡の尊像を写し、本絵と共に持参して、現在でも所蔵されている。

やはり鎌倉から勧請して来たんだなー、奥七郡でちょくちょく見掛ける義家(八幡太郎)信仰には、この若宮八幡宮の影響も小さくないんじゃないかなー、と思った(^^ゞ。

稲荷社は、ご祭神が倉稲魂命
江戸期の元禄5年、徳川光圀が桜の頃に詣で、稲荷の御神体(石剣)を拝し弊札した。
御神体の正式名は、「稲荷大明神石剣形宝物」。

向かって左脇から側面にも出られた(^^)(パノラマ3枚ほぼ180度)

他に、新羅三郎義光の所持と伝わる「軍扇」、丸山可澄の書いた両社の「縁起」、有栖川熾仁親王の書かれた「扁額」と「若宮八幡宮御神号掛軸」などの宝物がある。

ここでも「磯降りの神事」が行なわれるらしい。場所は久慈浜鎌坂だそうだ。
明治14年、郷社に列せられる。例祭5月15日

天満宮」は「梅天満宮」と称する。↓
ご祭神は、もちろん学問の神・菅原道真であるが、これには、康平6年(1063)、八幡太郎義家がここに至り、菅原道真の自筆の天満像を掲げ、奥州征伐で利する事を祈った(との伝承に由来する)。
(※7月号で触れた通り、奥州征伐に通ったのは白河関であるが、昔は勿来関を通ったと思われていたようだ→2014年7月<1泊目夜〜2日目朝・横川温泉「八幡太郎義家の湯」>内

拝殿(向かって)左脇の「太田天満宮
絵馬には流鏑馬が(^^)

天満宮もまた、江戸期の元禄年間、光圀がこの像を拝し、圭田を寄進して社殿を造営したと伝わり、御神像に神酒をたてまつると、紅潮するといわれる。例祭は2月25日。

境内には、東日本大震災における井戸や石囲いの復興の文字が刻まれているのも見た。
震災時の話は、先ほどの笠間の宿で話を聞かせて貰ったが、やはり相当な揺れで、壊れたり傾げたりした物も多かったと聞いた。

我々千葉は、東北震源の一発目の揺れ以上に、その後に続いた茨城震源の誘発地震の方が強く長く伝わって来たのを、今でも生々しく思い出す。
(2011年10月<3月11日、東日本大震災>

常陸国と佐竹氏の歴史の話は、この後も続きます)



<昼食・太田街なか「石打うどん」>

常陸太田の街には、3日間の旅行の、これで3日とも来たわけだが、水戸・大甕・笠間・金砂山・花園などとの行き来で、いつもセカセカ通り過ぎるだけだった(^^ゞ。

「この後はどこに行くの?」と亭主。
「この後も、まだ少し太田を見て、それから水戸に出ようか」とこたつ。

というわけで、お昼は太田で食べれる所を探した。

街は和風レトロのムード満載だが、路地に濃淡のタイルを敷き詰めるなど、ただ古さを残すと言うより、お洒落で格調高い町作りの意識が感じられた。

検索した所、トップに出たのが、石打うどん屋さんだった。

店はほどなく見付かり、入る前に写真も撮ったんだが、癖のある難しい字体の漢字で書かれていたのと、写真の角度で店名が隠れてしまったのとで(^_^;)、実は後で検索で探した(爆)。
塩町館」というお店だそうだ(アップしてくれてた方ありがとう!)。地図

二つ並んでるが右の白い2階建て↓(パノラマ3枚ほぼ180度)

飲食店に限らず、ネット検索のトップ争いの熾烈さはよく聞くが、正面から写真を撮りたいと思ってる間に、お昼時だけあって、次々と駐車場に車が来ちゃう。
慌てて撮って中に入ると……超満員だった( ̄▽ ̄;)。。<オソルベシ

外観のみならず店内も超レトロな建築で、これもネット上で調べた限りで恐縮ながら、明治時代の銀行だったらしい(^^ゞ。

現在、営業されてる「石打ちうどん」というのは、特に常陸太田の名物ってわけでも無さそうだが(笑)、ここで舌鼓を打ちながら(実際は連休のせいか、すごく待たされたけど)話の続きをさせて貰おうか(^^ゞ。

店内の作りが、この通り(^^)(パノラマ縦6枚180度以上)

瓜連城が、楠木正家(南朝)から、佐竹側(北朝)の手に落ちた所だったよね(^^ゞ。

筑波山に、楠木正勝の墓というのがあるが、瓜連城の正家について、手持ちのガイドには、
「楠木正成の甥・正家は北朝方の佐竹に対抗し、1336年に派遣されたが、佐竹義篤によって落城。陸奥に逃れた。寺(常福寺)は佐竹氏の保護をうけ隆盛」
といった感じに書かれてた。

が、正家は河内国に戻ったようでもあり、どっちかが誤伝なのか、そうじゃなくて陸奥は経由地って事なのかは確認してない(^_^;)ゞ。
北畠顕家は、京に尊氏を追った後、また陸奥に戻って来たし、顕家は居なくても、陸奥は南朝ムードがその後も長く残留したから、陸奥に難を逃れるのはアリかも……とは思う(^^ゞ。

また落城直前、後醍醐天皇がわの白河結城氏の軍が、結城郡に侵入したが、足利方についた小山氏・茂木氏と戦闘となり、失敗に終わった。

12/21、後醍醐天皇の吉野脱出(講和決裂=南朝発足)。

←上が亭主の頼んだ天ぷら(塩付け)と温蕎麦。
下が私ので、釜あげうどん納豆がけ(醤油)、納豆が花カツオに隠れてたので、ちょっと混ぜ混ぜして撮影(^^ゞ

頭上には、二階部屋が格子越しに見える→

食べ終わってから、二階に登って撮影させて頂いた☆ミ

翌1337年、1/8、北畠顕家が陸奥国の多賀城(宮城県)から、拠点を霊山(福島県)に南下させる。(2009年4月<霊山神社>
これは常陸国の瓜連城を足利方に取られたため、空洞化(敵による南北分断など)を防ぐためと見られる。

が、この顕家も、再度の西上軍の途上、翌1338年5/22、和泉国でついに戦死。
この時すでに「三木一草」(楠木正成・結城親光・名和長年・千種忠顕)と称された人々も無く、同年7/2に新田義貞が越前国の藤島で戦死……と、足利(北朝)相手の戦いは、わずか一年半の間に、主戦力たりえた者達の殆どが潰えた(・・;)。。

……に対して、同年9月から始まる、北畠親房(顕家の父)独りが常陸国に漂着して以降の戦いは、実にナント5年強に及ぶのである!
(2009年7月<南部「今城」>内
一体全体どういうしぶとさだろう(笑)。


これが二階。銀行と言うより両替商みたいな(笑)(パノラマ3枚ほぼ180度)

故に、この先が又、書き甲斐あるネタが盛沢山なのだが、今回はこれまでにしておく(笑)。
というのも、親房奮戦中に出て来る、小田城大宝寺城になると、ウチ辺りから日帰りでも行けそうな距離にあって、そのうちレポできそうなので、その時にやればいいや、と思っているからだ(爆)。

だいたいの勢力図だけ書いておこう。

南朝方は、北畠親房を旗頭に、春日・小田・東条・関・下妻・白河結城・村田・伊佐・根本・那珂・相馬・広橋といった名がある。
北朝方は、高師冬を現地司令官として、石塔・佐竹・小野崎(佐竹被官)・伊賀・大掾・鹿島・烟田(鹿島被官)・宇都宮・那須・結城(下総)・島津・白旗一揆(別府・山内・小見野など)。

(むろん同姓の支族や個人が、敵味方に別れて参加した現象などは、多くの氏族に見られただろう)


←こちらは、うどんや蕎麦を打つ小部屋。
ごっつぉーさま(^nn^)<フキフキ そろそろ午後の出発。

何しろ、それほど頑張ったのに、結局、南朝扶植は失敗に終わり、北畠親房は辛くも脱出して吉野に戻れたが、常陸で南朝に属した者たちは、尽くした南朝の帝や上皇・政府によって報いられる事はなかった。
むしろ、敵対した足利政権下で後世に続いた家もあったから(もちろん降伏したからだが)、歴史は皮肉である(^_^A)。

そしてなかなか去就を明らかにせず、南北ともに苛つかせた小山氏が、親房が去って三年後の1346年以降、遅れに遅れて、ようやく足利方に参加した(笑)。
(2011年6月A<塔のへつり>内

全体の空気を何となく握っていたのは、この小山氏だが(笑)、それまで飛び抜けて積極的だった佐竹氏までもが、どうも高師冬師直の従兄弟)が出て来る頃から、ピターと動きが止まってしまったそうだ(^^;)。。


常陸国と佐竹氏の歴史の話は、この後も続きます)



<佐竹氏歴代の墓所「正宗寺」>

食後は太田城跡の脇を通って(^^)
佐竹氏の菩提寺「正宗寺」へ向かう

↑この城の脇道を初日の夜、横川温泉に向かう(つもりで金砂神社に行っちゃったんだが(^_^;))途中に通った。
常陸太田には、これで通算3日連続で来てるんだねー(^^)。

さて、次の訪問場所「正宗寺」について述べよう。(佐竹氏の歴史との区別上、緑色で述べる)

臨済宗・円覚寺派で「萬秀山・正宗(しょうじゅう)寺」と称し、佐竹氏の菩提寺であった。

延長元年(923)に平良将将門の父)が律宗増井寺を建立したことに始まる。
永承六年(1051)に源義家が朝敵調伏の祈願をしたのを期に、大瑞山・勝楽寺と改称。
……と、伝説的な創世記に始まり、律宗から真言宗に変わったようだ。


並木の参道があるが
実は参道入口が通れず、ちょっと遠回りして

↓寺の裏手から廻り込む道を伝って来た(パノラマ4枚180度以上)

恐らくこの右にある、工事中っぽい建物が山門(地図)かと。修復してるのではないかな。
地図では、29号線から入って来れるよう書いてあるが、入って来る所で出会う里川支流にかかる橋が、スンナリ渡れる具合になってなかったので、震災の復旧工事か、山門修復と関連して整備されてるのかも?(関連施設の増設とか(^^ゞ)

続き……。
鎌倉時代には、貞応二年(1223)に佐竹4代・秀義が、勝楽寺内に子院「正法院」を開設したが、これは火災で焼失。
弘安八年(1285)に8代・行義が、あらためて勝楽寺の中に「南明山・正法寺」を建立した。

南北朝の動乱では、南朝方の武将・那珂通辰は、瓜連城が陥落した際、この勝楽寺境内へ逃れ、裏山の一本松の峰で自害したと伝えられ、「那珂通辰の墓」が残る。


総門から入った気になって参道を進もう(パノラマ5枚180度以上)

やはり南北朝時代、佐竹氏9代・貞義の庶長子・月山周枢臨済宗に改める。
「庶長子」←でわかる通り、月山周枢は長男で、俗名は佐竹義継。庶子であったために、異母弟の義篤が家督(10代)を継承した。
(ちなみに、この寺では10代「義篤」を「義敦」と表記してた)

<佐竹氏系図>
義光┬義業−昌義┬忠義(大掾養子)
   └義清(武田)├隆義┬秀義−義重−長義−義胤−行義−貞義┬義継(月山周枢)
            ├義宗└義清(稲城)                  ├義篤−義宣
            └義季                           ├義冬(戦死)
                                            └師義(山入)


←この「柏槇」が、また樹齢640年(市指定天然記念物)。南北朝時代だ。南北朝時代の樹が多い!(笑)
↑てわけで、参道つきあたりまで来たら、通せんぼ状態(^_^;)。

この義篤の兄・月山周枢が、夢窓疎石の有力な弟子であった事が、まずは臨済宗に改められた理由だろう。
そして、夢窓礎石が臨川寺領の領家職を有し、かつ開山でもあり、さらに足利尊氏の信任厚かった事が、この後の佐竹氏の発展に(もしかして所領安堵にも)大いに役立った。

佐竹義篤→月山周枢→夢窓疎石→足利尊氏
つまり師弟の僧が、佐竹氏と足利尊氏を結ぶ強力なパイプ役になった……という事だね(^^)v

まずは、その臨川寺領についてだが……。

元徳2年(1330)、後醍醐天皇の皇子・世良親王が崩じ、親王の菩提を弔うため、父の後醍醐天皇が京に臨川寺を創建した。
この臨川寺領として、それまで世良親王が領家職を有していた、常陸国奥七郡佐都荘を寄進した。


正面に見えた満開の白梅が、すごく綺麗だった☆ミ
で、通れないんで、参道右脇の小路から行った。ちょうど住職さんの車が通ったので、お寺専用の道だろう→

世良親王が有する前は、松殿基嗣伊賀氏からの寄進によって有していた。
伊賀氏の前に支配していたのは、どうやら佐竹氏であったようだが、頼朝の佐竹征伐によって、伊賀氏に移った……という経緯のようだ(^_^;)。

ただ、この伊賀氏も、寄進により有していた地頭職を、霜月騒動の連座でどうやら北条氏一族に奪われてしまったようだ(^_^;)。。

(ざっと、本家(本所)・領家預家下司(鎌倉以降は地頭)といった順で取り分があるんだけど、預家職は、在京などで地元にいない本家・領家に管理を任された役ながら、そのさらに下に下司・地頭といった地元の荘園管理者が出て、地元にいるのは後者よねー(^_^;))


昭和60年(1985)に再建された本堂地図パノラマ4枚180度以上

伊賀氏の名は、先ほどの瓜連城の攻防でも、陸奥から佐竹氏の傘下に入って楠木正家と戦った伊賀盛光にも見たが、これとの関係は知りません(^_^;)。

で、鎌倉幕府が滅亡し、目出度く佐竹氏に地頭職が戻って来るわけだが……。
先ほどから述べて来た通り、建武新政では、常陸豪族たちの旧領は、殆どが足利氏の物となったのだから(^_^;)、ここで足利尊氏と個人的に結び付きの強かった夢窓疎石の存在感が物を言ったわけだ。

夢窓疎石は元は東大寺で受戒し、天台・真言を学んでいた。
が、を志して建仁寺に学び、鎌倉の建長寺・円覚寺を経て、同じ鎌倉の万寿寺の高峰顕日(後嵯峨天皇の皇子)の門下となり、法跡を継いだ。


←所蔵の「絹本著色 開山・夢窓国師 頂相」(県指定文化財)
↑本堂の正面は、珍しいガラス張り(^^)

臨済宗は、開祖・栄西鎌倉に下向し、北条政子のために寿福寺を開いた。
栄西の弟子・栄朝は、上野国・世良田長楽寺を開いている。
(2013年2月<「長楽寺」「三仏堂」と蓮池竜宮伝説>
そして栄朝の弟子・円爾(聖一国師)のさらに弟子が、夢窓疎石の師・高峰顕日であり、下野国の那須雲厳寺を開いている。(高峰顕日そのものではないが→2011年4月<「塩原温泉郷」を目指す>内

このように臨済宗は、開宗以来、関東に縁深い宗派となっていた。
夢窓疎石も、はじめは後醍醐天皇によって南禅寺の往持に任じられたが、執権・北条高時によって鎌倉・円覚寺に招かれるなどの後、1305年に常陸国を訪れ、多珂郡に三年滞在。座禅をしたと伝わる「夢窓窟」が北茨城市に現存する。

仁王門でなく、本堂の両脇に仁王像という配置もユニーク(^^)

鎌倉幕府滅亡の折は京にあり、1335年、先に述べた臨川寺を開いた。
その後、足利尊氏に後醍醐天皇の供養を薦めて、落成された天龍寺(京都)の開山ともなった。
(観応の擾乱では、対立する高師直と足利直義の間を調停すべく、中立の立場で奔走した事でも知られたそうで……(^_^;))

一方、弟子であった月山周枢は、師・夢窓疎石を中興の勧請開山とし、自らは開基二世となって、正法院の中に「正宗庵」を営んだ。
佐竹氏10代となった弟・義篤が、まもなく庵に寺格を持たせて、「正宗寺」と改称。

寺の内外で聖俗の兄弟が手を携え、ここに正宗寺が初めて興り、今日に至る寺となった(^^)


今度は本堂のほうから振り返る(パノラマ4枚180度以上)

義篤は佐竹氏の菩提寺として七堂伽藍を整備し、以後の室町時代は寺勢すこぶる盛んで、関東十刹のひとつとなるまでに発展を極めた。

その後も歴代住職に、佐竹氏から出た人が就く事が多く、夢窓疎石の著名な弟子(義堂周信、絶海中津など)が、この太田を訪れ、高度な文化をもたらした。

後で、佐竹氏出身の文化人と思われる、雪村周継を紹介しよう(^^)。
(このあとの室町〜江戸初期の佐竹氏については、寺の説明の後で書く)

しかしながら、慶長元年(1596)、火災で勝楽寺が焼失。
盤陀石は、勝楽寺が残す唯一の遺跡で、宇治平等院鳳凰堂や岩手県の毛越寺などに見られる苑池式伽藍の配石の一つである。


←案内板にあった附近地図。
字(オレンジ)は例によって私が入れた(^^ゞ。

下の「総門」から「本堂・庫裡」までが、今いる「正宗寺」の範囲。
これより寺の裏手、高台の「佐々宗淳の墓」「佐竹一族の墓」までいく。

そのさらに先、左側にかつて「勝楽寺」と「正法寺」があったと推定されている場所がある。

江戸時代には、徳川家光より朱印百石を拝領し、水戸藩初代・徳川頼房以来、歴代の藩主の尊崇も厚い寺であった。

が、天保9年(1838)、総門(市指定文化財)を残し、全伽藍を焼失。
(さっきの柏槇南北朝時代の樹だから、これも辛うじて残ったんだろう)

翌年(1839)、本堂と庫裡の兼用の建物を再建したものの、不便であったため、明治3年(1870)に仮本堂を再建したが、百年余が経つうちに腐朽、危険な状態にまで陥った。
昭和60年(1985)、建設委員会を発足し、募金活動を経て、現在の本堂は昭和63年(1988)に建てられた。
その折、仏像五体の修理もあわせて行なわれた


本尊の「木造十一面観音菩薩坐像」(県指定文化財)(^∧^)<ナムナム→

さて、ここから室町以降の佐竹氏に話を戻すが、まず南朝との戦いの顛末から……、(ここで色が変わるわけよww)

全体の空気を何となく握っていたのは、この小山氏だが(笑)、それまで飛び抜けて積極的だった佐竹氏までもが、どうも高師冬師直の従兄弟)が出て来る頃から、ピターと動きが止まってしまったそうだ(^^;)。。←ここだったよねww
高師冬は北畠親房に対抗するため、1339年に足利尊氏が送り込んだ、足利氏執事家の者だったんだが、現地周辺の北朝方に、あんまりウケが良いとは言えなかった(^_^;)。

高師直や師冬の人格や個性もモチロン関係なくはないだろうが(笑)、尊氏の「部下」が出て来て、守護家の上に立ってあれこれ指図しだした事が、鎌倉将軍に対する執権北条氏、ひいては北条得宗家に対する「御内人」への苦々しい思い出を呼び覚ましたのではなかろうか(^_^;)。。

これが親房の南朝方を、成功とまでは言えないまでも、5年もの長きに渡って、なかなか追い出すまでに至らない一因にあったと思った。


↓本堂の前に脇侍のように左右に控え、鎮座するカエル君たち(^^)
←その眺める先には、綺麗な赤い橋と池と、春爛漫の梅の花(^^)。良き哉、良き哉☆ミ

この常陸戦線あたりでは、まだ足利氏内部の亀裂も大きく表面化してはいなかっただろうが、このころ既に、関東の諸将の間では、尊氏の弟・直義への信望が集まっていたようでもある。

この直義に対しても、建武の新政府からはそれなり信が置かれたようで、尊氏が京から鎌倉に行くのに許可が出なかったのも、直義に鎌倉府を差配するよう言われていたから、という事になってはいる(^_^;)。

(ちなみに鎌倉府初代・基氏は、尊氏の子で直義の養子である点は、異母兄・直冬と同じだが、生母が尊氏正室(二代義詮と同腹)であるから、直義の後継者は基氏であって、直冬ではない、と見なされる)


そしてこの直義もその後は、高師直のみならず、兄・尊氏とまで凄まじい敵対関係に入ってしまうので、その直義に旧領地を取られた佐竹にしてみれば、ただ旧領復帰運動をやってるだけで、足利尊氏の最与党に立場が定まったようなものと言える(笑)。

勝楽寺・正法寺のあった方角。右の坂を登って、佐竹墓所にいく(パノラマ4枚180度)

そして、この時きわめて動きの不鮮明さをもって、むしろ南朝に益したとも言える小山氏が、この後「小山氏の乱(1380〜97、小山義政の乱若犬丸の乱)」で鎌倉公方に滅ぼされる(^_^;)。

今回は茨城北部の旅なので、南部中部については割愛するが、この小山氏の乱で逃亡した小山義政の子・若犬丸を匿ったカドで、小田氏(茨城南部)も鎌倉府からの追求の手が及び、身柄を拘束されたり、所領の大幅削減などの憂き目を見たが、小山氏のように討伐されたり滅ぼされるまでにはいかずに済んだ(^_^A)。
(2010年4月<「塩原温泉郷」を目指す>内、2012年6月<宇都宮城址公園>内

ただ、この小田氏の騒動の時、当主の小田孝朝に娘(小田御前)を嫁がせていた佐竹義篤が、実は背後でコッソリ支援に動いたのでは、との指摘もあるが、いちおう表向き、佐竹は討伐軍に加わっていたようなので、「関係しなかった」ことにして先に進もう(笑)。



<正宗寺「佐竹氏一族と佐々宗淳(助さん)の墓所」>

坂道は途中から、左側にお墓が段々に並ぶ。

←上の方で「佐々宗淳の墓」があり、看板が見えるが、さらに登って、まずは「佐竹一族の墓所」を目指し、森の奥に辿り着く→

この小山や小田追討の頃から、著しく存在感を示したのが犬懸上杉氏であり、つづく伊達氏の南下を打ち払った上杉氏憲(禅秀)が家督を継いで、関東管領となった。
氏憲は、小田氏が騒動にともなって失った跡地を支配したが、小田氏の一族・越幡六郎を、鎌倉公方・持氏から庇った成り行きから、持氏に叛乱を起こす。(上杉禅秀の乱、1416年
(2008年7月「千葉県の戦乱vol2」<上杉禅秀の乱(1416〜1417)>

これに佐竹氏分家の山入与義が禅秀側に与し、やがて京都扶持衆として京の公方・義持(4代)と深く結び付く一方で、佐竹宗家を鎌倉公方が支持する所から、佐竹百年戦争となっていくのは、7月号に書いた通りだ。
2014年7月<「金砂城跡」と「西金砂神社」>内以降。↓太字の間が、百年戦争の期間)

貞義┬義篤−義宣−義盛−女
   |             ||
   |     上杉憲定−義人−義俊−義治−義舜−義篤−義昭−義重−義宣−義隆
   └師義−(山入)与義−祐義−義真−義藤−氏義


墓所に入るや、左脇にズラー!と現れるのが、この「佐竹氏歴代の墓所」→

13基あるが、境内の各所に散在していたものを戦後に集めたそうだ。
どれが誰の墓か判らないだけでなく、佐竹氏の物かどうかも確証がない。

ただ、墓塔の笠の四隅の突起が直立に近いという、中世における宝篋印塔の特徴を示していることから、佐竹一族の墓と伝えられている。

長い歴史を持つ佐竹氏には、分家・庶家も多くあったはずだが、中でも山入氏は既に述べて来た通り、南北朝の動乱において、祖・師義尊氏に従軍して労苦を分かち合ったことから特別優遇を受け、奥七郡の山田川流域に多くの所領を得て、本家と対等となりうるほどの目覚ましい発展を遂げた点が大きい。

1418〜23年の小栗満重の乱も、常陸国内では大事件で、小栗は山入と同じ京都扶持衆である点からも、無縁とは言い難かったが、何しろ佐竹氏は山入氏との100年抗争に明け暮れる真っ最中で、小栗落城の年も、山入与義を討ち果たしたりで手いっぱいだったろうから、小栗の乱はスルーさせて貰う(^_^;)。。
(2010年10月<「小栗城跡」東方、「内外大神宮」)>〜特に<「小栗城跡」周囲をウロつく(小栗判官の話)>内以降・2014年1月<加須市「龍興寺」(持氏・春王丸・安王丸の墓)>内

永享の乱(1438〜39年)、結城合戦(1440年)も同様ね(^_^;)。
(2008年7月「千葉県の戦乱vol2」<永亨の乱〜結城合戦(1435〜1440)>

佐竹氏一族の墓の前には、比較的新しい墓郡も(パノラマ4枚ほぼ180度)

百年戦争中は、太田城におられず放浪するほど大変だったが、1504年、山入氏の滅亡をもって、これに終止符を打った後は、全体的に他の戦国大名に見るような、家臣の下剋上にヤラレたとか、後継者不足とか幼君が相次いだとか、強国に浸食され滅亡したといった、著しい衰運には見舞われなかったような気がする(^_^A)。


義篤(←二人いますが後の方(^_^;)、1507〜45)と、その弟・義元との間で、百年戦争と同じような「内紛」が十余年に及んだが、1540年、義篤の勝利に終わると、佐竹氏の内部強化は進んだ。

戦国期の水墨画家・雪村周継の事は、この辺りに書き入れておこうか(^^ゞ。
雪村周継について、寺では特に触れてなかったが、戦国期にかけての画家で、佐竹氏一族ともいわれる。この寺で修行した経歴からここに所蔵されてるようだ。

紙本著色滝見観音図(県指定文化財)→
茨城県教育委員会の説明文

義昭(1531〜65)の代になると、叛乱勢力だった江戸氏も従え、これと連合して、北は白河結城氏の領土の多くを奪い、西南の大掾氏・小田氏・真壁氏などを圧迫して、下野東部にまで勢力を誇示した。

これが後々、北は南下してくる伊達政宗と、南は北上してくる後北条氏とぶつかりあう伏線となる。

地図を見ると、奥七郡から見てざっと、北の太平洋岸に「岩城」、北北西に「田村」、北西に「白河」、西に「那須」という地名が見える(^^ゞ。

このうち、義舜の妻で義篤の母、そしてその次の義昭の妻で義重の母、この二人の女性が岩城氏の出身と見られる。
そろそろ戦国時代が近く、妻や母の実家だからと言って、必ずしも関係が良好とは限らないが(^_^;)、抗争した相手として知られているのは、白河結城氏那須氏である。

貞義┬義篤−義宣−義盛−女
   |             ||
   |     上杉憲定−義人−義俊−義治−義舜−義篤−義昭−義重−義宣−義隆
   └師義−(山入)与義−祐義−義真−義藤−氏義

特に白河結城氏との攻防(どっちかと言うと、佐竹が白河結城を侵略(^_^;))は、百年戦争を終わらせた義舜の代から数代に渡って、かなり長く継続された。

前列は歴代住職(佐竹出身者も含め)の墓かな(パノラマ2枚)

1500年代も後半になると、いよいよ戦国期の色合い濃厚となる中、佐竹氏は一貫して上杉氏と結び、後北条氏とは対立しつづけた。

例の百年戦争だと、【幕府+上杉+山入】×【鎌倉府+佐竹】の構図でいけば、上杉とは相いれない関係になりそうだが、山入氏から反発された原因が、そもそも上杉氏から養子を入れたからであるから、その山入を葬り去り、上杉の血筋でその後も続いた佐竹氏にとって、上杉との同盟は、特に違和感は無かっただろう(^_^;)ゞ。

(ただ正直、上杉氏が入って以降は、従来の佐竹氏の色合いとちょっと違う感じもしなくないが(^_^;)。。)

上杉との同盟路線は、次の義重(1547〜1612)の代も引き継がれ、この時期が佐竹の最盛期といわれる通り、版図はさらに拡大。
常陸国のほぼ全域を支配し、宇都宮氏と結んだ事で、下野国の中央にまで勢力がおよび、1572年にはついに、白河城を落として白河領の全域を手に入れた。

そして後列は先ほど横に見た「佐竹氏一族の墓(パノラマ2枚)

義重(19代)については、先に行った「太田城(舞鶴城)・本廓跡(太田小学校)」の「舞鶴城址碑」にもこう称えられていた↓

機略縦横、思慮周密、小田原の北条氏、陸奥の伊達政宗に対抗して北関東を完全に支配し、1591年(天正19年)義宣水戸城に移った後も自ら太田にあってこれを後見した。徳川・上杉・前田・毛利・島津の諸家とともに、天下の大大名に教えられたのもこの頃である。

しかし、伊達氏や後北条氏との対立も本格化した。
宇都宮・那須・結城と手を組んだものの、次代・義宣の弟・義広が養子入りして継いだ芦名氏は、1589年の摺上原の戦い伊達政宗に大敗し、大きく衰退。
これと同時に、佐竹氏の陸奥における支配は阻止された。

ここで秀吉小田原征伐(1590年)が入るのである。

佐竹は後北条氏を敵に廻す点で、元から秀吉と利害が一致した関係にあった上、義宣は芦名問題についても秀吉に裁定を依頼した優等生だったから(笑)、そこまで保持していた所領は全て安堵された(^_^A)。

ズラリと13基。境内のアチコチから戦後に集められた(パノラマ4枚180度以上)

↑菩提寺は正宗寺だが、この他に、清音寺(東茨城郡城里町)・浄光寺(市内塙町)・常光院(市内久米町)にも、佐竹一族の墓と伝えられる宝篋印塔や墓石があるそうだ。

江戸重通・大掾清幹といった在地のライバルに対しても、小田原に参陣しなかったカドで、佐竹義宣(20代)が秀吉にかわって蹴散らし(笑)、鹿島や行方の国人層も太田城に誘殺(^_^;)。
江戸氏から奪い取った水戸城に、晴れて本拠を移し、54万5800石の大大名として関東に君臨した。

ちなみに、【佐竹+54万】で検索してみると、全国で7位とか8位とか出て来る……うん、そんなもんでしょう(^_^;)。

最後は、再び「太田城(舞鶴城)・本廓跡(太田小学校)」の「舞鶴城址碑」の文で締めくくる。

 しかし、二十代義宣は、関ヶ原の戦い西軍石田三成)に味方し、1602年(慶長七年)徳川家康の命により常陸54万石から出羽(秋田)20万石に国替えされて、舞鶴城廃墟となる。
 以後、水戸徳川家の領となり明治維新にいたる。

(関連事項↓ 2014/12/12遅れてリンク)
■佐竹氏、室町〜戦国期
2008年1月<白石「片倉家・歴代藩主廟所」>内
2008年7月<牛久城跡、2>内
2008年10月<石岡市「常陸国府跡」>内
2014年1月<加須市「龍興寺」(持氏・春王丸・安王丸の墓)>内
2014年7月<大甕倭文神社(つづき)>内、および<「金砂城跡」と「西金砂神社」>内以降


常陸国と佐竹氏の歴史の話は、殆ど終わりですが、次の項でも、もうちょっとだけ書きます)

そして、さっき通り過ぎた
佐々宗淳の墓」を改めてお参り

太田城は佐竹氏の国替えと同時に廃城となったが、この正宗寺は、水戸徳川家の保護もあって、江戸期も存続していた。

この通り、テレビ時代劇「水戸黄門」の「助さん」のモデルとされる、佐々宗淳の墓もある(^^)。地図

時代劇の「水戸黄門」は、はじめ映画が主流で何作も作られたが、1969年から連続テレビドラマ化が定着し、何代も引き継がれながら、2011年まで42年間続いた。
長く、時代劇の象徴的な長寿番組だったが、現在は残念ながら、時代劇の下火によって無くなった(;_;)。。

原案は、ご存知「水戸黄門漫遊記」であるが、wikiによると、講談が発祥らしい(^^ゞ。

「助さん」「助(介)三郎」の名で親しまれているが、史実では本名を「佐々宗淳(さっさむねきよ)」という。
新旧(と思う)二基の墓が建つ。右の墓基には「係累先亡供養」の字が読めた。

以後は、案内板より(^^ゞ。

字を子朴(しぼく)、通称を介三郎十竹と号し、寛永17年(1640)、戦国大名・佐々成政の姉の孫、佐々直尚の五男として瀬戸内海の一小島に生まれた。
15歳で京都妙心寺の禅僧となり、祖淳と号して修行に励んだが、その後還俗して江戸に出て、延宝二年(1674)徳川光圀に仕え、進物番・兼・史館勤務となり、大日本史編さん事業に従事した。
史料の収集のために、畿内をはじめ北陸・中国・九州などを訪れて貴重な文書記録を集め、元禄元年(1688)からは彰考館・総裁を務めた。
また、光圀の命で下野国の那須国造碑の修復や、摂津国湊川の楠木公碑建立の現場責任者としても活躍した。
元禄九年(1696)彰考館総裁を辞し、小姓頭として西山荘の光圀に仕えたが、元禄11年(1698)6月3日に59歳で没し、妙心寺と同じ臨済宗の正宗寺に葬られた。
墓碑は宝永元年(1704)に養子の藤蔵宗立が建て、撰文は格さんこと安積(あさか)澹白(たんぱく)である。

傍らに石碑に刻まれた漢文(読み下しつき)があり、やや磨滅ぎみながら、所々よめた。
「父母兄弟ヲ殺サルルモ亦復讐ヲ報エルコトヲ得ストイフニ至り概シテ曰ク是レ豈人理ナラ 報イサランヤト」
とある(磨滅もある(^_^;))。

これは仏教の教えに、「肉親が殺されても復讐してはならない」とあるのに疑問を抱いた、という事のようで、論語(儒教)に転向し、還俗して江戸に出て、水戸藩の御用を果たす身となったようだ。

戦国武将、佐々氏の流れとは言え、寺に入れられた所を見ると、武士として身を立てられる境遇には無かったことが伺える。
しかしその一方で、教義に疑問をもったとはいえ、学問の素養は寺で得たからこそ、知識もあり文章も読み書きできたのだろう。



<西山荘>

佐竹氏の後は、水戸徳川家が入って以降の歴史に比重が移り、我々もこの後は、その歴史経過を追うように、まずは黄門の隠居所「西山荘」を見た。

今回は、この「西山荘」の途中で次回に引き継ぐが、その後の行程を先に述べると、水戸に戻って、初日に行きそびれた「偕楽園」の梅林と園内「好文亭」を見学する(^^ゞ。

先に予定した旅程では、水戸の後、時間のある限り、いろいろ見ながら帰って来ようと、途中にマークをつけていたが、水戸ですっかり日が暮れたわけだ(笑)。

で、まずは「西山荘」だが、水戸光圀はこの地で晩年を、大日本史の添削などしながら過ごした。
太田の史跡範囲でも西端にあり、若宮八幡宮から見えた丘陵の裏手にある。地図

←現地の案内板、例によって字はワタクシが入れました(^^ゞ。
まず右(東)上に、太田城跡にある「若宮八幡宮」。

川を挟んで「義公廟(光圀遺徳碑)」「久昌寺(光圀生母墓所)」の丘、その裏に「旧久昌寺跡」。そのさらに左(西)に「西山荘」と「から傘御殿」。

中央には「山寺」「白馬寺」など名所がある。

そして西南(左下)方面に、前日行った「佐竹寺」「馬坂城跡」といった佐竹氏(特に初期の)史跡があり、このエリアを西に久慈川を越えると、「瓜連城跡」の「常福寺」に至る、という位置関係。

「西山荘」だが……まず入口まで行っても、先がどうなってるのか皆目わからない場所(^_^;)。。
手前に広い駐車場があり、ドライブインのように大型の公衆便所があり、レストランや売店もある。

でその右にいくのか左にいくのかも、一瞬わからない(^_^;)。
答は、右に小路がある。そこを進む内に、いつの間にか入り込む。

最初にぜひ気をつけたいのは、↑これらの施設がある内に、トイレに行っておいた方がいい感じがした。
この後も庭園つき建物が出て来るから、そこでも貸して貰えるんだろうが、それを最後に、あとはエンエンと散策路が奥に奥に深まるばかりで、やがて門と入口と料金所に到達するが、それなり長い道のりながら、そこまで行ってしまうとトイレはないようだ(^_^;)。

そこでトイレの場所を聞いてる人がいて、よくわからないような答を聞いて、青ざめてバックしていった。

←最初の頃に出会う「西山山荘記碑」。
↑そしていつの間にか入り込む散策路。この辺りではまだ売店のような建物が見える(トイレがあるかは知らないが(^_^;))。

「西山山荘記碑」は、高さ4m、幅2m、厚さ30センチ、「仙台石」で作られた石碑。
篆額の篆字(題字)は、水戸徳川家11代昭武の筆。
撰文は詩人・野口雨情の伯父、野口勝一(漢学者・画家・政治家で、維新史料の収集に勤しんだ)。
「桃源遺事」を引用して山荘のたたずまいを描写しており、後半部が案内板に示されていた。

月雖隠瑞龍雲
光暫留西山峰
満山樹艸至今猶隠約
帯余光
豈可不崇敬乎
遠近有志者胥謀
建碑山下
余恭作之記
月は瑞龍の雲に隠ると雖も
光は暫く西山の嶺に留まる
満山の樹艸今に至りて猶隠約
余光を帯ぶ
豈崇敬せざるべけんや
遠近の有志者胥謀り
碑を山下に建つ
余恭しくこれが記を作る

風景や山荘の風情については、次回あらためて述べるとしよう……。
ちなみに、この道は「いばらき森林浴の道100選」に選ばれた(No.19)そうである。

行きは園内の右通路を歩いた。梅林がよく見える(^^)(パノラマ3枚ほぼ180度)

佐竹について、最後にちょっと補足(^^ゞ。
石田三成と懇意だったらしく、関ヶ原(1600年)では、西軍に参加したわけではないまでも、東軍に積極参加って程でもなく、出羽国の久保田(久保田藩・現秋田県)に転封、54万石余から20万石に減らされている。

ちょくちょく聞く冗談話で、「秋田に美人が多いのは、佐竹が国じゅうの美人を連れて行ったから」というのがあるが(笑)、これは、やはりこの国替えへの不満を表そうとする逸話なのかなぁ(^_^;)。

ネット上では、「佐竹は実は上杉と内通してた」とか、「信州の真田と戦った秀忠軍に、少数ながら兵をつけた」とも出て来るけど、スイマセン、出典を知りません(^_^;)。。

でもこれらが本当なら(本当っぽい感じがする(^_^;))、前者だと20万石に減封なんてもんじゃ済まない気がする一方、後者なら、寡兵とはいえ兵を出した割には厳しすぎかなぁ……。。
だから間をとって20万で秋田なのかぁ……納得するような、何だかなぁ、というような(^_^;)。。

←この水路がなかなかイイ感じ(^^)
やがて右手に「ご前田」が見えて来る↑

ホントの所は……どいて欲しかったんだろう。
奥七郡はともかく、佐竹が最後の方で勢力を張った南西部は江戸に近い(^_^;)。。

佐竹転封後の水戸は、(2014年6月<水戸市街と水戸城「彰考館」跡>内←でも述べた通り、家康五男・武田信吉→十男・頼宜→慶長14年(1609)に十一男・頼房という順。(頼宣の水戸領主は名目だけで、駿河に6年過ごしている)

この段取りを見て、世間は「そういう事か(^_^;)ゞ」と思っただろう。
西軍でもないのに里見も言いがかりで山陰に飛ばされた。
思えば守谷の相馬氏からして、北条氏に城を明け渡されたのは、つまり邪魔だからだし、小山氏が鎌倉公方にヤラレたのも、どうも関宿あたりを御領所にするためだったと言われている。

関東の諸侯は、もうあまり驚かなかっただろう。
江戸氏は「喜多見」に、新田氏は「岩松」に、みんな慌てて名も替えた。
デカイ大名への、理由なきイタイ仕打ちが効いたのだ(汗)。


常陸国と佐竹氏の歴史の話は、以上〜。お疲れ>( ^^) _旦~~)

前方、左手に現れた「ご前田(せんだ)」
奥地にもちょっと続いている→

水戸黄門」の呼び名で有名な徳川光圀義公)は、水戸藩・第二代藩主である。
元禄4年(1691)5月から同13年(1700)12月6日の逝去まで、約10年間を、ここ西山荘に隠居した。
西山荘には、光圀が紀州から取り寄せた熊野杉や老松が茂り、庭は薬用などの実用を兼ねた珍しい草木が多い。

大日本史の筆削する傍ら、敷居をへだてず領民に接し、いろいろな事業をすすめた。
中でも今も残るのは、光圀が自ら耕した水田(約50u)、「ご前田(ぜんだ)」である。
光圀はここで採れた米を、一領民となった証として、太田奉行所に13俵の年貢米にして納めた。

また、ここに至る一帯は、当時「不老沢」と言われ、光圀に仕えた家臣の邸もあった。
 大森典膳   (西山の家老)
 佐々介三郎 (格式小姓頭)
 剣持興兵衛 (格式御納戸)
 鈴木宗興  (御医者)
 朝比奈半治 (格式小納戸)

明治初年に附近の水田が開拓されたため、用水池となった。

(一応、光圀(黄門)関係も拾ってみた〜↓2014/12/12遅れてリンク)
2004年9月<寄り道3、なぜか水戸黄門(笑)>
2008年4月<香取神宮・1、「要石」>内
2008年5月<香取神宮・2、「本殿」>内
2011年8月<南湖公園>内
2014年6月<水戸市街と水戸城「彰考館」跡>内
2014年7月<大甕倭文神社(つづき)>内<「金砂城跡」と「西金砂神社」>内
2014年8月<馬坂城跡>内




次回はこの西山荘の続き、そして水戸に出て「偕楽園」を見る(^^)。
いよいよ最終回!……の予定!(笑)

(今回も関連リンクは、また後日に(^^ゞ)


↑出来ました(^^ゞ↓(文中ついてるリンク類も、ほぼ↓と同時12/12に貼ってます)

以上、関連事項は(2014/12/12遅れてリンク)
■笠間の宿まで
2010年10月<下館→小栗>内
2014年8月<2日目夜〜3日目朝、笠間市「ぶんぶくの湯」の宿>以降
■常陸太田までの道にて
2007年5月<筑波山神社>内
2010年12月<真壁城跡(古城と城跡公園)>
2011年6月A<湯西川〜五十里湖〜県境〜南会津(糸沢)>内以降
2014年6月<水戸市街と水戸城「彰考館」跡>内
2014年8月<佐竹寺>内
■佐竹氏・鎌倉中期ごろまで
2008年7月<牛久城跡、2>内
2008年12月<布瀬城跡・香取鳥見神社(天慶の乱・伝承地)>内
2009年11月<圓福寺・飯沼観音>内
2014年7月<「金砂城跡」と「西金砂神社」>内以降
■東北・関東の宝治合戦
2008年11月<茨城県常総市「豊田城」(石下町地域交流センター)>内
2009年10月<胤重寺>
2011年6月A<奥会津博物館(旧・奥会津地方歴史民俗資料館)>内
2012年3月<大峠トンネル(県境)〜喜多方市内>内
■東北・北関東の南朝戦線(北畠氏・長沼氏・新田氏)
2009年4月<霊山神社>内
2009年7月<南部「今城」>内
2011年6月A<塔のへつり>内
2013年2月<生品神社(新田義貞・挙兵の地)、2>内以降
2013年7(6)月<「うつぶしの森」(白佐波神社)>〜<雲谷寺(新田義宗の墓)>
■佐竹氏、室町〜戦国期
2008年1月<白石「片倉家・歴代藩主廟所」>内
2008年7月<牛久城跡、2>内
2008年10月<石岡市「常陸国府跡」>内
2014年1月<加須市「龍興寺」(持氏・春王丸・安王丸の墓)>内
2014年7月<大甕倭文神社(つづき)>内、および<「金砂城跡」と「西金砂神社」>内以降
■他、常陸太田、到着以降
2008年7月「千葉県の戦乱vol2」<上杉禅秀の乱(1416〜1417)><永亨の乱〜結城合戦(1435〜1440)>
2010年4月<「塩原温泉郷」を目指す>内
2010年10月<「小栗城跡」東方、「内外大神宮」)>以降
2010年12月<真壁城跡(古城と城跡公園)>以降
2011年4月<「塩原温泉郷」を目指す>内
2011年10月<3月11日、東日本大震災>
2012年6月<宇都宮城址公園>内
2013年2月<「長楽寺」「三仏堂」と蓮池竜宮伝説>
2014年8月<馬坂城跡>
2014年7月<1泊目夜〜2日目朝・横川温泉「八幡太郎義家の湯」>内
■徳川光圀(水戸黄門)
2004年9月<寄り道3、なぜか水戸黄門(笑)>
2008年4月<香取神宮・1、「要石」>内
2008年5月<香取神宮・2、「本殿」>内
2011年8月<南湖公園>内
2014年6月<水戸市街と水戸城「彰考館」跡>内
2014年7月<大甕倭文神社(つづき)>内<「金砂城跡」と「西金砂神社」>内
2014年8月<馬坂城跡>内


2014年10月09日(追加リンク12月12日)

<つづく>
 
     




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