<2008年・城主のたわごと2月>




2007年9月、「宮城〜山形ツアー」第四弾(^^)。

3日目後半は塩竈神社と多賀城、4日目朝は遠刈田温泉からっ。




     
  去年11月からスタートの「宮城〜山形ツアー」、5回シリーズ(の予定)の4回目。
時は2007年9月。今回は4日間の内、3日目午前〜4日目の朝まで(^^)。

3日目の続きはまず塩竈に出て「塩竈神社」に、続いてやや南下して「多賀城」と「東北博物館」に行き、仙台で所用を済ませ、夜は遠刈田に出て、3日間の旅程だったのを、ここで追加宿泊。
4日目は遠刈田温泉からスタート〜♪



<塩竈(志波彦)神社>

↑「しおがま」と読むが、元は「鹽竈」と書く(見づらいので大きくしてみた:笑)。
ここを「塩釜」と書いて紹介する物も見かけるが、市名は「塩竈市」となっているので、「しお」の方は「塩」でいいが、「がま」の方は現在でも「竈」が正解(^^ゞ。

場所は、まず前回行った「松島」から「塩竈」を抜けて、この先に行く「多賀城」のある全領域。地図A
↑ちょっと注意を要するのは、「松島」(JR東北本線)と「松島海岸」のある場所が離れてる事。前回行った地域は「松島海岸」(JR仙石線)。
また「多賀城」(JR仙石線)も「国府多賀城」から離れてる(^^ゞ。実際に多賀城跡があり、この後で行くのは「国府多賀城」(JR東北本線)のほう。

次に塩竈あたりだけの地図B。←「塩竈神社」も、この地図で社宅の位置を示してるが、この地図だと「志波彦神社」と入ってる所が今回行った「塩竈神社」のある所(^^ゞ。
それと、ここも「塩竈駅」(JR東北本線)からは距離があって、「本塩竈駅」(JR仙石線)の方が近い気がする(^_^;)。

というわけで、「鹽竈神社」に到着〜♪

駐車場からゆるやかな階段(^^)。
途中にまだ青い栗の実(^^)

この「鹽竈神社」は陸奥国の「一の宮」と言われる。
「一の宮」と言われる神社は全国にあると思うが、「陸奥国」と一言で言っても、それはつまり「東北全域」を指すわけだから、ちょっと県単位の「一の宮」とは規模が違うかもね(^_^;)。

特にここは、古代〜中世には近くに国府・多賀城(724年設置)があり、国府を中心に広範囲に栄えたこの地域の精神的な支柱とも、非常に歴史が古いとも伝えられて来た聖域である。

史料に登場するのは、820年の「弘仁式」という、後の「延喜式」より前の記述で、朝廷より極めて高額の祭祀料を受けていた内容である。

その高額さは、祭祀料を受けた全国的にも有数な他の神社を遥かに圧倒してるにも関わらず、927年制定の「延喜式」になると、鹽竈神社の名は無くなっており、この理由がわからない。
多賀城を足掛かりに朝廷の勢力が北進し、その北限の位置が移った事と関係があるのか、それとも700年代後半から800年代にかけて、反乱によって国府が焼失した事などと関係があるのか……。

しかしその後も、1017年には後一条天皇から使わされて神宝が奉納されたり、1100年には朝廷の御卜占を受けるなど、「延喜式」の制定の時期を挟んで、朝廷から重んじられた形跡が伺われ、都人の憧れの地として歌枕に詠まれた。

ズンズン神社に近付き↓参道の一つに行き会う→
参道と途中で出会うのは、駐車場から歩いて行くのでこうなる(^^ゞ。本来は↓こんな風になっている。

「鹽竈神社」「志波彦神社」の境内見取り図(パノラマ2枚)

↑左上の大きな敷地が「鹽竈神社」、右上の小さめの敷地が「志波彦神社」。

この図でいくと、駐車場は右下あたりにある。そこから←こうズンズン道を入って来て、「鹽竈神社」と「志波彦神社」に進む分岐点に到る。その辺りで鹽竈神社に続く参道にも行き会うってわけ(^^ゞ。この図で見る限りでも、下に三本は道があるよね。

今は博物館とか出来てて、道もあちこち整備されているが、この地図に見える「鹽竈神社」に真っ直ぐ続く参道を「東参道」という。
さらに、図の左下にあるクネクネした道が「七曲坂」。左上にある山を登って到達する感じの道が「表参道」。
案内版には「表坂」「裏坂」の存在が書かれてたが、「表坂」は「表参道」の事だろう。

そして、それらの中で「七曲坂」が一番古いそうで、ほぼ創建時の奈良時代ごろからあった道筋だという。
古代・中世を通じて、国府・多賀城から香津(国府津・現在の第一小学校あたり)へ至る東海道を鳥居原(現在の塩釜高校の校庭)で江尻へ下り、入り江となっていた祓川を舟で渡って、この「七曲坂」に直接来れたそうだ。
ただこの川には、鎌倉時代に「御臺(おだい)の橋」が出来たと言うから、やがて船着き・渡しを古代ほどは要しなくなったかもしれない。

また古代は上野原(古代の野菜採取場)や利府春日、松島方面へ通じる重要な生活道路でもあった。

「七曲坂」の下には四方石(よもせき)と言い、地上の造作で排出した土砂を海面に埋め立てて造成された地域。
「埋め立て」なんてつい最近のように思いがちだが、古代より行われてたんだねぇ(笑)。
で、神社創設の古代以来、神官の阿部家が江戸期初期まで、約千年の間、この「四方石(よもせき)」に屋敷を構えてこの参道を守っていたと伝えられ、江戸時代の1731年から近年までの間は、祭礼の際、神輿の帰る道筋でもあった。

←そして「鹽竈神社」に入る鳥居。この道が「東参道」で、鳥居をくぐった後も神社まで続く。

こっちは「志波彦神社」への鳥居。→

その中間にチョロと見えてる建物が、案内版では「神龍社」「御神馬」と書かれ……↓

神龍社」中央で参拝してると……
あっ、お馬さんが見える!

と、こんな具合に、参拝口からもお馬サンが見えるし、直接馬に会えるよう、馬の前の扉も開けられていて、↓

↓ニンジンを載せた小皿が沢山ある♪
柄杓みたいので口に運び
パクッ☆ミ

現在のこの「御神馬」は「金龍号」という名だった。
スゴイ大人気みたいで(笑)、みんなニンジン用の賽銭箱にドンドンお金を入れて、次々と金龍号にニンジンをあげるのだが、ご覧の通り、柵があって首がつかえるので、金龍号は盛んに首を伸ばして口元をヒクヒクさせていたから、柄杓は出来るだけ高くしてあげる方が美味しく食べられると思うよっ(^^)。

実はこれは参拝後の写真。「お馬サンにニンジンをあげる〜!\(>o<)/」と言い続けて、もう一回ここに来たのだ(笑)。ちゃんと戻って来られるルートで良かったぁ〜♪

むか〜し香取神社(千葉県)にも確か御神馬がいたような……(鹿島だったかな)。
やっぱりお馬さんの産地だね(^^)。江戸期ここの領主は伊達氏だが、歴代の藩主が鹽竈神社に馬を捧げたそうだ♪



<鹽竈(しおがま)神社>

←で、まずは「鹽竈神社」の方に「東参道」を進む。
↑やがて階段を登ると、上に「東神門」が見える。あそこから先が隣の「志波彦神社」と明確に違う神域。

←コレは何か。書いて字のごとく「うまくいく御守」である(笑)。
このネーミングのゆるさ(ある意味で強烈さ)に釣られて、もちろん頂いて(買って)しまった(笑)。
あちこちにこの看板があったが、多くの参拝客がこれを見た途端、思わずその通りに復唱する場面を何度か見た。
社務所にも「特に何が”うまくいく”」とは書かれてなかった。
こうした、すこぶる「万能な匂い」こそ、製塩の神、鹽竈神社に特有な気配なのかもしれない。

←ちなみにこの看板は、「東神門」の階段脇→
にあった。

東神門」。下から写すと木々で暗いので、近付いてパノラマ2枚で撮影

晴れてはいたものの、特に日差しの強い日でもないのに、ここの樹木の影は強く、写真でも明暗がハッキリ出た(^^ゞ。↓

振り返り、東参道を見下ろす
で、鹽竈神社の見取り図を再度

「東神門」をくぐると、又しばらく参道が続く。

入った正面(パノラマ4枚180度以上)、お宮は右にある。

少し進んで「東神門」を振り返る(パノラマ5枚:180度以上)
↑今度はお宮が左

この参道の途中に並んでいるのは……、

今度は牛の神様っ(^O^)
鹽竈櫻の記念碑
「唐門」前の狛犬

この牛サンは、大正時代に奉納されたと書いてあったと思う(ちょっと字が薄くて読み取れなかったが(^^ゞ)。
そこには商い(商売繁盛)に触れ、「牛の涎のように次々と生まれ、乾く事がないのにちなんで」といった事が書かれていた。

鹽竈櫻」は、73代堀河天皇(1079〜1107)歌に、
「あけくれに、さそな愛で見む鹽竈の桜の本に海人のかくれや」
とあるように、平安時代にはこの神社にあって、その特徴として、めしべが変化して2〜3枚の青葉になる。花軸が極端に短く、花弁は35〜50枚で縦じわがあり、先端が2〜5の微かな凹のノコギリ状になってるんだとか。
平安期に詠われた樹は枯れてしまい、保存会の努力で現在、後継木が植栽され、今では国の天然記念物に再指定を受けた。5月初旬に開花。

この鹽竈櫻にちなんでだろう、境内の社務所もは「さくら咲く守り」があって、五角形の金布に桜の花が刺繍されて「必勝合格」と銘打ってあった(^^)。

狛犬は、何か縄文土偶っぽいと言うか、他で見るのと雰囲気が違うので撮影(実はこの頃、灯篭から又ぞろ狛犬にマイブームが転化しつつあるかも:笑)。

この狛犬の鎮座してる所が、本殿に入る「唐門」で、この参道の右にある。
ちなみに「唐門」と参道を挟んで反対側(お向かい)に「楼門(随身門)」があって……↓

(パノラマ2枚)

この「楼門」に向けてズンズン登って来る階段(いま登って来てる人が見える)が、直接この「鹽竈神社」に来る正式な「表参道」。

じゃ「唐門」を入る〜♪
入って正面が「左右宮・拝殿

この正面「左右宮・拝殿」には、拝殿のさらに奥に、向かって左の「右宮」に経津主(フツヌシ)神が祀られ、向かって右の「左宮」には武甕槌(タケミカヅチ)神が祀ってある。

「え(゚.゚)、正面にあるのは本殿でしょ?」と思いそうだが、実はここの「本殿」に匹敵する宮は、入って右にある……↓

←この「別宮拝殿」(^^ゞ。
鹽土老翁(シホツチオヂ)神を祀る。拝殿の奥には「別宮」(特別な宮の意味)があり、こちらが「本殿」

鹽竈神社のHPによると、塩土老翁神は(海にまつわる神様だから)海上守護のため海に背を向けて(海難を背負って)西向きに祀られ、経津主神と武甕槌神には、藩主が城から拝めるよう仙台城のある南向きに祀られた、とある。

かなり魚眼になるが「唐門」を囲んでこう並ぶ(パノラマ5枚180度以上)
↑左から「別宮拝殿」「唐門」「御待所(休憩所)」

伊達家が仙台に入った1601年より、陸奥国一の宮としての品格たらしめんと、再興だ、造営だ、修築だ、奉納だ、とここに何度も手を入れた記録が残るが、決定的に現在のこの形が確定したのは、江戸期の1704年、5代藩主、伊達吉村の時である。

その前の社殿は江戸期の1663年で、本殿と拝殿が1個づつ、どちらも南向きだったそうだ(^^ゞ。他には東側に貴船宮・只州宮が並び、今の配置とは大きく異なっていた。

今に伝わる配置は他に殆ど類例が無いそうで(これは他の事も含むのかもしれないが、特に本殿が正面に無い「三本殿二拝殿」の事を言ってるのだと思う)、この配置は4代綱村の頃に大々的な造営を行った事による。
この大規模な造営は、寛文事件(伊達騒動)で危難に遭った4代藩主綱村が、伊達家の存続は神仏の加護によるもの、と感謝と信心の思いに篤かった事の表われだった。

左右宮」に祀られる経津主(フツヌシ)神(右宮)と武甕槌(タケミカヅチ)神(左宮)は、日本神話に登場する神様で、経津主神の方は「日本書紀」だけね(^^ゞ。武甕槌神は「日本書紀」にも「古事記」にも名が登場するが、「古事記」では「建御雷神」と書かれる。

「古事記」は綱村の時代より後に出た、伊勢の国学者・本居宣長(1730〜1801)の研究による所があるので、ここでは「日本書紀」に沿っているのだろうと思う。

「日本書紀」における経津主神と武甕槌神は、大国主神(出雲大社)に国譲りを迫り、葦原中国を平定している神々。
一方、「別宮(本殿)」の塩土老翁(シホツチオヂ)神は「古事記」と「日本書紀」の山幸彦が、兄の海幸彦に借りた釣り針を失くしてボヤイてたら、現われて海の宮に案内した神。

だが、どちらかと言うと、ここでは経津主神を「香取の神」、武甕槌神を「鹿島の神」、鹽土老翁神を「地元(に留まった)神」として祀ってる感じがする。
それで鹽土老翁神のまします「別宮」を「本殿」と見なしているのだろう。

確かに経津主神が「香取神宮」(千葉県佐原市)の祭神で、建御雷(武甕槌)神が「鹿島神宮」(茨城県鹿島)の祭神になってるわけで、両神は「武神」として祀られ、時代劇でも江戸期の武芸道場には、必ず「鹿島大明神・香取大明神」の掛け軸が掛かってる(^^ゞ。
武をもって朝廷にご奉公する、特に東国の武士の立場から見れば、この二神を拝むのは理に適っているわけだ。

だが伊達氏の藩主が、その居城・仙台城から直接拝めるように「左右宮」を配置したのは、伊達氏としては経津主(フツヌシ)神と武甕槌(タケミカヅチ)神を「藤原氏の祖神」と捉えて、「藩主が手を合わせる」としたのではないかな〜と(^^ゞ。
一方の鹽土老翁(シホツチオヂ)神については、船出の時や海難などのあった時、誰でも神社の外から手を合わせられるようにしてる、って事かもしれない。

ここでは取り合えず、「伊達氏がなぜ藤原の祖神を?」て話だけ(^^ゞ。
理由は簡単で、伊達氏は藤原(中臣)鎌足の末裔という事になってるから。
伊達が藤原氏だと言うと、「それで竹に雀(家紋)か」と思われるかもしれないが、伊達家が「竹に雀紋」を得たのは、上杉氏から貰ったから(^^ゞ。(詳しくは2007年4月「たわごと」<米沢「上杉神社・松岬神社」>内を)

上杉氏も同じ「竹に雀」紋だが、こちらは上杉謙信が管領職と同時に家紋を引き継ぐよりずっと前から、上杉氏が拝領していた。
「竹に雀」は、そもそも藤原北家の一族・勧修寺家に伝わる家紋で、上杉氏はこの末裔に当たる。

に対して伊達氏は、古く藤原鎌足の末裔ではあるようだが、家紋については上杉氏から……どうも17代(独眼竜)政宗の曾祖父、植宗の時に縁組絡みで貰った、って話をアチコチで見掛ける(^^ゞ。植宗の頃には、世の中そういう時代になってた、と見ていいのかもしれない(笑)。

伊達氏に限らず、大きくなっていく過程で「成り上がり」と思われない工夫は必須科目だろうが、江戸期の伊達氏は藤原とか関係ないぐらい威勢のある家で、一般的に62万石と言われているが、実質石高は倍はあったという(^_^;)。
対してよく言われるのが、今年の大河にもなってるので言うと、島津77万石で、実質的には「半分しか無かった」という(^_^;)。

そういう所が目をつけられやすい立場でもあったわけで、お家断絶の危機に晒された伊達家にとっては、祖が藤原氏であるという意識は再度、重要な意味を持ったのかもしれないし、祖神を祀ると同時に奥州藤原氏を意識した、って所もあるかもしれないね(^^ゞ。

(えと、ちなみに拙サイト「作品の広場」の小説「嵐待つ」は、寛文事件(伊達騒動)の原田甲斐の話じゃなくて、原田甲斐の母親(小説内では「田鶴」)の話です:笑)

ただ神社の由来が、4代綱村の個人的な宗教心や伊達氏独自の主張が発端と言うのではなく、伊達氏に至るまでにも、平泉の藤原氏、陸奥国の留守職(るすしき)の伊澤氏、綱村に至るまでの伊達氏の庇護を受けるなど、歴代の領主がこの鹽竈神社を篤く崇敬した理由は、古代の国府・多賀城以来の伝承や信仰によるものだろう。
伊達氏も最初の(伊達政宗の)頃は、仙台からいつ国替えを命じられるか、まだ判らなかったのかも(^_^;)。綱村の時代になって、ようやく確定的に思われたって所もあったのかも。

実はこの鹽竈神社は、伊達氏のやってくる江戸時代以前は祭神の詳細がはっきりせず、「鹽竈宮」「鹽竈明神」「鹽竈六書明神」「三社の神」など言われ、諸説あるままに存在していた。

伊達氏も4代綱村に至るまでに、伊達政宗をはじめ歴代の藩主が、あちこち手入れしたり作って寄進したり、丁寧に手を入れて来たのだが、この際、神社や祭神の由来をキチンと調べようと、綱村は自らが先頭に立って、当時の名立たる学識者を集めて研究し、1693年に「鹽竈神社縁起」を選定、現在の三神を祭神として、今の形に定まったのである。

えと、関係ないかもしれないが、前回ちょっと立ち寄ったので触れると、ちなみに松尾芭蕉が松島に来たのは、この「鹽竈神社縁起」が出来るちょっと前の1689年ね(^^ゞ。

で、鹽竈神社では三神の由来について、「経津主(フツヌシ)神武甕槌(タケミカヅチ)神が陸奥国を平定した時、道案内したのが鹽土老翁(シホツチオヂ)神で、経津主神と武甕槌神は役目を終えて、元の宮(香取鹿島)に戻ったが、鹽土老翁神だけは当地に留まって、製塩の技術をもたらした」としている。

近くの多賀城に大規模な国府があった事、そこを拠点に蝦夷征伐をした事などから、こうした伝承自体は、かなり古くからあっても不思議じゃないようにも思えた。

もう一つ、鹽竈神社のサイトでは、建御雷(タケミカヅチ)神が塩竈に降臨し、その後、鹿島に行った、という伝承(1309年の縁起)が藤原氏が建立した「春日大社」にある事を指摘しているが……。

この辺り、4代綱村が主体となって編纂させたという「鹽竈神社縁起」に何か詳しい事があるかもしれないので、興味のある人は調べてみるといいかもね(^^)。

建築や内部の彫刻が日光東照宮と似通っているそうだが、それは伊達氏が東照宮の改修に協力させられ、終わってからその職人を連れて来て鹽竈神社を作ったからで、これは長野・松代の真田藩の菩提寺・長国寺もそうだよね(^^ゞ。

現在に残る鹽竈神社が、その建築様式も含め、正統にして細部の古風な様式や特徴的な配置についても、江戸中期の神社建築として歴史的価値が大変に高いと言われるが、4代綱村は完成を見ずに死去したため、事業を引き継いだ5代吉村の時代に完成した。

別宮と左右宮のある、この境内には、二つの燈篭が寄進されていた。

銅鐵合製燈籠
1814年、仙台藩は蝦夷地警護の命を受け出役、無事帰還の報賽に藩主伊達周宗が寄進。
↑「文治の燈篭

「文治の燈篭」には「和泉三郎忠衡」の碑文が扉にある。1187年に奉納されている。
「和泉三郎忠衡」とは、奥州藤原氏の「藤原忠衡」の事で、三代秀衡の三男と言う。4代泰衡にとっては異母弟。
奥州藤原氏は、三代秀衡の遺言により、源頼朝に追われた頼朝の異母弟・義経を匿ったが、その義経を巡って忠衡は兄の泰衡と対立、殺害されたという。

江戸時代、奥州を巡って「奥の細道」を綴った松尾芭蕉は、この神社にあるこの宝燈を見た事を記し、「五百年来の俤(おもかげ)、いま目の前に浮かびてそぞろ珍し。かれは勇義忠孝の士なり」と述べている。

確か「炎立つ」(1993〜94・NHK大河)では、この忠衡の首を「義経の首」とか捏造して、泰衡(渡辺謙)が鎌倉に届けてた覚えがある(^^ゞ。

てわけで、「鹽竈神社」の参拝はおしまい。

この日は東儀秀樹のコンサートがあるとかで、本殿の敷地いっぱいに観客用の椅子が並び、ああいう音楽(や機材)専門っぽい人達が、アイドルのファンが群がってると勘違いしまくった風情で、音響や舞台組み立てをしていた(汗)。。
でも殆どの大勢の人は神様を参拝しに来てたよ? だってここ神社だからね(笑)。

でも社務所の方々は参拝者に気を使われ、参拝後、「うまくいく御守」と一緒に「清め塩」も頂いたら、「盛り塩にされても、お料理に入れられて召し上がっても(^^)」とご説明下さった。
鹽土老翁神は製塩をこの地にもたらし、出産に効験を表す神と言われ、ひいては「あらゆる良い産物に効く」という事なので、今年(2008年)は元旦から雑煮に入れて食べたぁ☆ミ

鹽土老翁神が祀られる神社というと、全国でも筆頭に上げられる「鹽竈神社」。
全体的に大らかな雰囲気と、美しく整った社内は調和して感じられた(^^)。



<志波彦(しはひこ)神社>

前に揚げた地図の通り、↑「志波彦神社」は「塩竈神社」のすぐ隣(^^ゞ。

「志波彦神社」(パノラマ2枚)

入ろうと階段を登る途中から……
おおおおっ、海が見える!(拡大)

元は多賀城国府に入る交通の要所「岩切村」(現・仙台市宮城野区岩切)の「冠川」のほとりにあった。
地図で見ると、「岩切」という地名は、この辺り。地図C←かなり縮小してる。ちょっと遠い所なので(^^ゞ。だいたい仙台と鹽竈の中間ぐらいかな?

こちらの神社はなぜか「延喜式」(927年)に指定されてるんだな(^^ゞ。
さらに不思議な感じもするのは、この祭神「志波彦神」は、日本書紀や古事記のどの神様とも推定できないらしい。

この「志波彦神」についても、塩竈・志波彦両神社のサイトには「しわ」が「端」を示す言葉だった事をヒントとして、この「しわ」の名のつく神社が北方面に向けて、東北の各地にある事から、朝廷勢力が北進するごとに「端」の場所が北に移動していったのでは、と書いていた(ちょっとこの辺については、今回この後に行く「多賀城」で触れようかと思う)。

そこに「ただし農耕神だったようだ」と追加して述べられ、何かと言うと「縄文系の神」とか言われる事に対してかな〜、なんて思ったり(笑)。

境内は意外と簡素な神殿
こっちの狛犬もカワイイ♪

明治7年になって、塩竈神社の別宮(本殿)に遷祀されたので、大正から昭和にかけて、さんざん政府に造営の陳情をした結果、ようやく昭和9年(1934)に塩竈別宮から分け、その隣の敷地に造営できた。全額を国費によって造られた最後の神社とも言われている。

さて「志波彦神社」を出ると、目前にこのベンチがあり、その石の大きいのに驚いた。↓

これは「稲井石」と言って、宮城県石巻市の北部の山地から産出される。「仙台石」「硯石」とも言われ、碑石、敷石などに使われた。
ネット情報だと千葉県の寺社でもたくさん使われてるのだとか(゚.゚)?
ここにあるのは市内の川から女郎山に至る橋板に使用された物で、これだけ大きい石は産出も難しく、珍石として後世に伝えるため、この神社内に置いた、という事だった。

「志波彦神社」の参道は行きに通らなかったので、帰りはこちらから帰ってみる(^^)。

途中に「社務所」の脇を通る(パノラマ2枚)

庭園がなかなか立派だった(゚.゚)。ありし日には、伊達家の藩主自らとか、お使いの人が詣でて、ここで接待を受けたりしたのかな〜♪なんて思うような、庭園のみならず建物も立派な「社務所」だった↓
さっき通らなかった「志波彦神社」の参道と大鳥居(^^)→

わずかな道のりの間に、「奥の細道」に描かれる松尾芭蕉の来訪(1689年)の事と、この塩竈の地が多くの歌人から愛された「歌枕」(和歌に詠み込まれる名所・旧跡)の地である事が書かれた古い案内版があった。
(ただ芭蕉が来た時期は、こんにちの社殿になるちょっと前と思う(^^ゞ)

和歌にあまり詳しくないので、ネット検索で恐縮だが(^^ゞ、塩竈を歌枕とした和歌は……

「古今和歌集」「後撰和歌集」「詞花和歌集」「千載和歌集」「新古今和歌集」「新勅撰和歌集」「続後撰和歌集」「続古今和歌集」「続拾遺和歌集」「玉葉和歌集」「続後拾遺和歌集」「風雅和歌集」「新千載和歌集」「新拾遺和歌集」「新後拾遺和歌集」「新続古今和歌集」「玄玉和歌集」「建保名所百首」「夫木和歌抄」「最勝四天王院和歌」「宝治百首」「新葉和歌集」「洞院摂政家百首」「古今和歌六帖」「嘉元百首」「正治後度百首」「仙洞句題五十首」「菊葉和歌集」「万代和歌集」「内裏歌合」「治承三十六人歌合」「金塊和歌集」

などが出て来た。他にも歌人による歌集など沢山ありそう〜!

こうして両神社の参道から出て来た所に「鹽竈神社博物館」があったので入って見学した。
由来の「鹽竈」に沿って、古代の製塩方法などパネルで説明されて興味深かったが、陳列される武具・絵画・古文書・刀剣などは、伊達家時代の物が多かった。

この神社の由来は年代不詳の神話に遡り、国府や弘仁式の記述、平泉藤原氏の保護、源頼朝からの神領狼藉禁止の令や祭料田の寄進、奥州留守職の伊澤氏の保護、吉良貞経からの神馬奉納など、時代ごとに寄進や文献登場がありつつも、点の繋がりで途中を想像する過程が続く。

記録的にド〜ン!と内容量が充実するのは、やはり伊達時代以降が圧倒的である。

これは「鹽竈」と言うより「釜」だが(笑)、江戸期の仙台藩の「鋳銭(いせん)」→
「甑(こしき)炉型」と言われる物で、博物館の外に展示されていた。

仙台藩は幕府の許可を得て、1637年に栗原郡の三迫で始まったが、詳細は不明。
その後も再三、幕府に鋳銭願いを出し、1726年、領内で銅のみで鋳造する条件で許可を得、石巻に設置、鋳造を開始、明和の頃には鉄銭も作り、明治になるまで続いた。

日本に現存する鋳銭釜甑炉で、上中下の三段そろって保存されてるのは唯一。



<「多賀城」政庁跡と城前地区>

鹽竈神社から多賀城跡までは地図D←多賀城跡の南に「国府多賀城駅」があり、さらに南に「東北歴史博物館」がある。
多賀城跡に近付いた所では、こっちの方がわかりやすい。→多賀城史跡めぐり東北歴史博物館より)
ピンと来ないかもしれないが、かなりの規模(^_^;)。。

城跡の西「砂押川」周辺
昔、亭主が出張でよく来た(爆)

城跡巡りからはちょっと外れるコースだが、亭主は「東北歴史博物館」がらみの仕事をした都合で、この辺りに何度か足を運んでて、話によく聞きながら私は来れなかったので、ドライブがてら周辺を案内して貰ったの(^^ゞ。

多賀城の発掘調査じたいは随分と古く、関係サイトを見ると、大正時代から立ち上げてるんだね(^_^;)。。
本格的な調査は戦後、1960年代ごろからかな。

で、亭主が来た当時は10年ぐらい前。まだ閑散たる田舎で、昼食を食べる所とか整ってなかったので、ちょっと遠いこんな道路まで出たらしい。地図E←多賀城跡よりかなり北。拡大して行くと「ミルキーウェイ」と出て来る(笑)。

多賀城跡あたりをかなり北上
到着♪ 遅い昼ご飯を食べた(^^)。

今はこの道路上に色んなチェーン店とか出来てて、亭主も驚いてた(笑)。
この「ミルキーウェイ」で聞いたら「はい、ウチは10年以上前からやってるんですよ〜♪ その頃に来られたんですね〜!」と懐かしそうに言っていた(^^ゞ。

てわけで、日が暮れない内に、多賀城跡に到着〜♪

駐車場から→こう進む。(パノラマ4枚180度以上)

スゴイ逆光(笑)
道の右側の風景。あ〜のどか〜(#^.^#)。

一方道の左が「政庁跡」がわ(パノラマ4枚180度以上)
↑ポツンと立つ石碑にも「政庁跡」と表示されてる。

ところが、今いるこの場所、どうも裏側から入っちゃったような気が(笑)。
多賀城跡は一応パンフやHPなどで正面からの写真を見た事があるが、右の図面だと「現在地」とある赤い丸の所に今いて、赤丸のかかる水玉部分が「政庁跡」で、そこに至る右下の水玉あたりが正面かな〜と(^^ゞ。

他の水玉部分については、それぞれちょっと遠くに位置するのだと思う。今言った二箇所の水玉のちょい下にある小さな水玉に「多賀城碑」とあって、これだけは帰りにちょっと横切った。
なので、今回行ったと言えるのは、今言ったこの三個の水玉とその付近のみね(笑)。

という認識で、この多賀城を含めた全領域を見ると、徒歩だとわりと時間要するかな〜という気がした(^^ゞ。

特に右下のひときわ遠い場所にある「廃寺跡」になると、この多賀城の領域の中でも「端」の場所だと思う。さっき出した東北博物館の地図では、この「廃寺跡」のグ〜ンと左下あたりにも 「城外の町並み」とか言って、律令時代っぽい碁盤目状の区画が示されていたが、この辺りの発掘まで進んでるのか……何しろ、素晴らしく広大な範囲で、ちょっと気が遠くなりそうだった(笑)。

ただ、この辺りホント開発とかそんなされてなさそうで(かなり早い時期から「デカイ史跡」という意識があったためだろう)、レポを見て共感して頂けるかもしれないが、「また来ればいいや〜(^^)」という、何かノンビリした気分になれる場所だと思う。

←亭主がズンズン入って行く目前に広がる石敷が政庁跡の中心部で、当時は100m四方の築地塀で囲まれ、重要な政庁の儀式が執り行われた。

この中央部かなり広いが、その周囲はさらに広い(パノラマ2枚)

現在は基壇部分のみ復元表示
発掘時の写真パネル

東北歴史博物館にこの後で行ったが、じっくり見れば多賀城についても判ったのかもしれないが、どうもざっと見た限り、特に多賀城の説明をする展示ではなかった気がする。

何しろ、あまりちゃんと知らないので的確な事は言えないが、この先、粗相の段は平にお許しを(^∧^)。
多賀城は一辺約1kmの外郭施設(築地塀や材木塀)で囲まれ、南・東・西には門が開かれていた。ほぼ中央には政庁が約100m四方の区画内に置かれ、また城内で平坦部が確保できる地域には役所が配置されていた。

ただ多賀城については、特にいつごろ役割を終えたのか、その具体的な時期についてハッキリしてない感じがする。
この多賀城跡では「900年代後半ごろまで、古代東北の拠点として機能していた」とあった。

あと、何しろ発掘調査によって明らかになる点が多いようで、主に第1期から第4期までに分けて、国府・政庁の在り様と歴史背景について説明されていた。

第1期(724〜)。724年、大野東人という人によって造営された。
創建時については近年の発掘調査によって、確かに724年の前後ごろに創建された事が明らかになった。

区画内は政庁中心部の他に、東西に各1個づつ建物があり、あとは南門(正面)の外(区画外)に東西各1個づつの建物、全て掘立式という簡素なスタイル。
門は南(正面)門のみ大きく、東と西にはちょっと出入り口程度の門。

これは710年に平城京が出来た事から見れば、すごく早い内から陸奥に国府を置こうとした、という風に思える。
またこの多賀城・政庁が創建されてから、9年後の733年には「出羽柵」(秋田城の前身)が造営されている。

「柵」というのは、後の感覚で言うと城か砦が近く、律令時代、北陸と東北に(蝦夷勢力の平定のため)設置された防御および軍事施設で、日本で初の柵が作られたのは(今の所)、647〜648年、新潟に二箇所と言われている。
その後、「日本書紀」によれば、658年に阿倍比羅夫が蝦夷征伐を行ったというが、この時代はまだ、ちょうど史料としてわかってくる頃の狭間って気もしたり(^_^;)。

600年代(図では7世紀)後半の日本では、律令に基づいて中央に権力を集中させる国づくりが進められた。

個人的に感じる限り、この600年代という時期は、どっちかと言うと、まだ東北地方より西南および半島との関連記述が多い気がする。

それが、663年、白村江の戦いに敗れ、半島の利権を失って、国内に篭らざるを得なくなった事が、東北地方への進出に関係するとも言われる。

確かに700年代(図だと8世紀)に入ると、平城京が出来る710年より早く、708年には出羽郡というのが史料上に出て来て、709年に蝦夷征伐が行われると、712年には出羽国が置かれる、と連続性が出て来る。
そしてこの多賀城が国府として724年に置かれ……となって来るわけだ。その後に出来た秋田の「出羽柵」は、さらなる北進の結果だろう。

政庁中心部より南に続く道(パノラマ3枚・ほぼ180度)

←石畳が政庁中心部の建物跡から階段(再現部)から真っ直ぐ南方向に伸びている。
これは途中で途切れ(と言うか、折れ曲がって)いたが、この政庁外にも、南門から大きな道路が真っ直ぐ南に伸びていたそうだ。

緑の草地の合間にクッキリと見えるこうした光景は、何か海外の史跡ドキュメントで見る風景みたいで、何となく圧巻。

第2期(762〜)は、762年、藤原朝カツという人が、この多賀城の大改修をしてから後。
南門(正面)の外の東西建物が無くなったが、区画内においては逆に東西の建物が1個づつ増え、中心建物の後方、北側にも大きな建物が出来て、西門と東門と北門が大々的に造られ、南門(正面)なんか二層になってる。
現在も復元されてる、政庁(建物)の前の「広場跡」は、この時期に出来たようだ。

また、全体的にこの政庁跡で復元(と言っても基壇部分だけだが)されてるのは、この第2期の図案に従っていたと思う。基本的には第1期から第4期まで、殆ど大きな変更はないが、建物の痕跡としては一番華やかと言うか……建物類が多かった時代だからかな(^^ゞ。
あと第2期から建物は全て礎石式・瓦葺に建て替えられた。

左端(東側)に行ってみよう
東側の遺構・発掘時の写真

途切れてる箇所(パノラマ3枚・ほぼ180度)

これも又、何か大陸チックな史跡の風景を彷彿とさせる広大な風景で、特に夕陽を浴びてたりして実に圧巻であるが、ここは発掘調査の後、基壇部分のみ復元されている。

これが第2期(700年代後半)に入って、大きく変化した東門に造られた殿舎の跡地である。
この後、東西の門にこうした作りの建物は構えられず、第2期にのみ特徴的な形跡である。南北には築地塀がついていた。

逆に東門から中央部を振り返る(パノラマ4枚180度以上)

←樹木の合間から裾を流れる川が見え、すごく清楚な風景だった。地元の方だろうか川に入っておられた(↓一部拡大)。
第2期になると、周辺事情も、まず都に752年、東大寺の大仏が開眼供養されている。
大仏や寺社の金箔が、東北で見付かった金を使用したとも聞く。金の産出に目をつけた勢力による東北進出にも熱が篭ってきたのかもしれない。
760年には桃生城が、767年には伊治城が造られる。京や奈良には寺社がバンバン作られ、東北には「柵」がバンバン出来た。

ここで、780年の「伊治公呰麻呂(これはりのあざまろ)の乱」というのが起きる。多賀城は呰麻呂の率いる反乱(蝦夷)軍によって焼失。
この時の広範囲にわたる火災の跡も発掘によって実証されている。

中央から派遣された官僚や軍への蝦夷の反乱の歴史は、その後に勃興したアテルイ(700年代後期)と坂上田村麻呂の対決(801〜蝦夷討伐)が有名だが、そこに到る前、700年代には数知れず反乱が各地で起こった事が記録に残っており、この多賀城に関して言えば、780年の「伊治公呰麻呂の乱」による城の焼失が大きな事件として上げられる。

この多賀城の案内から受ける印象では、反乱はすぐに終息したようにも受け取れる(他にネット上でも、翌年に論功行賞されたような記述が見付かる)が、伊治公呰麻呂がその後どうなったのかは不明。
この乱には幾度も討伐が差し向けられたようだが、伊治公呰麻呂が捕えられたり処刑された等の記録は無く、その後の動向すら判らないとか。。

この反乱事件と繋がりや連続性があるのか全く判らないが、やはり東北で反乱を起こした蝦夷人として有名なアテルイの記録は、その僅か10年以内には現われて来る。

アテルイに関しては京に護送された事、処刑された事が記録に残っているので、その僅か数年前に反乱した人物の記録が無い事が「無視」とか「記録を隠匿」とは今イチ思えない(^_^;)。
事実これらの反乱を、ひっくるめて「38年戦争」と総称されているようだ。(むろん征伐する側の史料に拠るとは思うが)

当時の政府や関係者による意図や蝦夷への姿勢がどうこうより、「本当にどこに行って何をしてたか、判らなくなっちゃったから(^^ゞ」という見方が有力に思える(笑)。

二つの反乱の時期的な相違を見るなら、坂上田村麻呂の蝦夷征伐は平安京が成った794年の後なので、桓武天皇を中心とした京政府の威信をかけて、本腰を入れた討伐戦を行った結果、首領者を捕える事に成功した、という事かな。

真ん中に戻って来た(パノラマ3枚・ほぼ180度)

本来、正面(南側)から来るとこう見える(パノラマ2枚)
手前にチラと見える石碑↑には「石敷広場跡」と表示されてる

この位置から逆に南(正面)に向かって進むと、そろそろ南門跡が見えて来る。↓

南門跡。わかりやすく草地が赤土色に変わっている(パノラマ3枚・ほぼ180度)

政庁・南門跡も、第2期(700年代後半)の基壇部分のみ復元表示されている。
第1期〜第4期の全てにおいて、南門は政庁の正面にあり、扉が正面に開く門の跡。第2期は礎石式の門で、東西に翼廊というのが取り付いていた。
ここにも草むらに小さく「西翼廊跡」と表示されてる石碑が見られた。

←南門の東側 ↓発掘時 西側→

第3期(780〜)に入ると、焼討ちされた政庁と国府は再建され、この政庁の形状も第2期とほぼ同じ、やはり礎石式・瓦葺での再建となった。
ただ東西南北の門は第1期時代に逆戻りし、つまり第2期と比べると、北門は無くなり、東と西の門も第1期なみに縮小された。外から入りにくくし直したって事だろうか。

坂上田村麻呂の蝦夷征伐戦においても、この多賀城が機能しただろう事は言うまでもないが、この多賀城が記録に現われるのは「日本後紀」に、839年の事として、伊治呰麻呂の乱で焼失した後に再建された記録からのようで、これだけの広範囲の史跡でありながら、その役割を終えた時期など、普通なら城に関わる記録に必ずあるような内容が、あまり文献に残ってない感じがする。

政庁と言うより、主に軍事拠点として、また兵站の貯蔵地として活用された事が言われているように思える。

だが多賀城の外に町並みが出来たのは、この第3期が相当するそうで、この国府の町並みも平安時代に入ると、政庁から南に一直線に伸びる大道路が、奈良時代の道幅12mに比べ、道幅23mと、一回り広く拡張されている。
道路には排水用の設備が出来て、そこから多数の木簡が見付かっている。

時期的には784年に長岡京遷都、794年に平安京遷都。
京の都とともに町並みの整備など発展性が出たのだろう。

また陸奥に関しては、802年に胆沢城、803年に志波城と、坂上田村麻呂の征伐後は、確かにググッと岩手県に食い込んで築城(築柵)ラインが北上している。
つなぎ合わせると、大勢の人が街並みを形成できる程、この地域も安定して来たって事だろうか。

……この志波城が、志波彦神社で言った「しわ」ね(^^ゞ。他にも東北にはこの読みを使った地名が散在する。

しかし800年代も中〜後期になると、もはや辺境の開拓・服属の時代と言うよりは、地方政治の破綻時代と言って良く、日本の各地に反乱が起きた。京や陸奥には多く見受け、近畿以西では海賊なども跋扈した。

この第3期時代の政庁は、869年の大地震で被害を受けた。

南門を過ぎると……
やがてなだらかな階段部分に到達

途中まで降りて振り返る(パノラマ4枚180度以上)

逆側、なおも降りて行く方面(パノラマ4枚180度以上)

そして下まで降りきって、初めて正面から撮影(^^ゞ。ここは多賀城の広範囲の遺跡の中では「城前地区」と大きな石柱が案内に建っている所。↓

これが有名(かな?)な国府・多賀城政庁の正面(パノラマ4枚180度以上)

↑もうちょっと左側から階段部分を取り込んだショットが、わりとよく見られる(かな?:笑)多賀城(政庁)の正面図ではないかと(^^ゞ。
でも何か、話の構成的には、裏(北側)から入って来た今回の流れが正解だったような気も(笑)。

何せこの南側正面から先にエンエン大道路が南に真っ直ぐ伸びて、最盛期には町も賑わったのではないか、という気がするのだが、詳しい資料が無いので、国府における庶民(植民って言い方が正しいかな)の暮らしぶりとかは知らないッス(^_^;)。

そして最後の第4期(869〜)に入ると、第3期の最後に書いた大地震からの復興で、瓦の葺き替えが行われたのに始まり、区画内にもさらに北方に東西の建物が対で建てられ、区画外にも、やはり北方に縄張りを大きく押し広げて、政庁並みに大きな建物が建てられ、そのさらに外(北)側に太い塀(門?)で囲み、北方に重点が置かれた造りになっている。

この北に特に重点が置かれた理由って何だろう?(^^ゞ

この時期は、878年に元慶の乱が勃発。これは出羽で「夷俘」という俘囚が反乱を起こし、秋田城が炎上した事件。
また俘囚というのは、陸奥の支配や征伐によって、大量に出た蝦夷人の捕虜の事で、600〜800年代に現われる。
俘囚は陸奥から連れて行かれて全国に搬送され、留めおかれて定住させられたが、この第4期には、上総や下総でも俘囚による反乱が起こっている。

政庁跡の案内には、第4期に相当する事件として、915年に十和田湖で火山の爆発が起こり火山灰が降った事、935年に平将門の乱が勃発した事が書かれていた。

……将門(^_^;)?
何か多賀城と関係する(から書かれた)のかもしれないが……。
将門は「天慶の乱」を起こした人だが、この同じ年に、やはり「天慶の乱」って名称かどうか、やっぱ俘囚による反乱事件が、この陸奥でも起こってはいるが……。。

その後は、「900年代の後半まで機能していた」という事だから、穿って見れば、「それ以後は朝廷勢力の北進にともない、主たる役目を終えた」という意味にも受け取れる。

ただ兵站基地の機能としてならば「前九年の役」(1051〜59)「後三年の役」(1083〜87)には源頼義・義家父子、奥州藤原氏の平定(1189年)では源頼朝が拠点としただろうと思う。その間の期間は奥州藤原氏の支配時期が相当する。

さらにその後、鎌倉時代になると、武士勢力がドド〜ンとこの陸奥に割拠し始めるので、蝦夷討伐とかいう時代じゃなくなって来る感じ(^^ゞ。
多賀城が再び史料に登場するのは、ド〜ンと時間を経て、南北朝時代のようだ(^_^;)。。
それらの時にここがどうだったのか、建物があったのか、砦ぐらいの機能だったのか……。

車に乗って「東北歴史博物館」を目指す途中、ここ「多賀城碑」の傍を通った。
多賀城の造営や改修について記す碑があり、他の文献にない貴重な情報が残る日本三古碑の一つ、と紹介されている。
発掘されるまで偽碑の疑いを持たれていた、とも聞く。

私らは主に「政庁跡」と「城前地区」にだけ行ったが、他に北には「六月坂地区(役所や倉庫の跡)」。
北東には「外郭北東隅(奈良・平安期の築地塀)」「外郭東門跡(奈良と平安の構造の違い)」「大畑地区(役所跡・700年代の材木塀)」。
東には「作貫地区(コの字型の役所跡)」。
南東には「外郭南東隅(材木塀の設置跡)」「館前遺跡(800年代の上級役人の邸宅跡)」少し遠く「多賀城廃寺跡(国府付属寺院で塔や金堂の配置跡)」。
南には「外郭南門跡」。
などの遺跡が見られ、南西には城下町(国府町とでも言うか(^^ゞ)の町並みがあった事が現在までに確認されている。



<東北歴史博物館〜仙台>

地図F←多賀城政庁跡からの位置。
博物館なので写真はここまでね(^^ゞ。

せめて池を含めた全景をお届け(^^ゞ(パノラマ4枚180度以上)

内容は、それほど期待してなかった割に意外と良かった気がする(^^ゞ。
と言うのも「エミシの歴史」みたいのに焦点を当ててた覚えがある。

この時は実はそんなに展示物を真面目に見る気が無く、かなりギリギリ潜り込んだに近かった。
展示を一つ一つ見る時間を取っておけば良かったな〜と思ったが、この日は又々仙台に所用があったし、展示時間もそろそろだったので、後はまだ少しやってそうな資料室とか行って、亭主の出張の時の思い出話なんか聞いて(笑)、あまり留まらずに去った。

今度来たら、又じっくり見てみたいと思う(^^)。

てなわけで、仙台に行って知り合いに会って、ドンチャン騒いで(笑)、夜景の仙台を送って貰い、途中で「あれが何とかタワーだ」とか言われて、慌てて写真を撮って→
高速乗って降りて遠刈田を目指す。

地図G←鹽竈〜仙台〜仙台南
地図H←仙台南〜村田JC〜宮城川崎〜遠刈田
↑どちらも恐ろしく縮小地図(笑)



<遠刈田温泉>

ここから4日目〜。おはようございます(^。^)。

鎌先温泉や松島は前に余裕をもって探した宿だったが、ここは当日イキナリだったし到着は夜だったし、何と言っても土曜日だったので、どこも予約はいっぱい料金は高いし、その割にここは安かったので殆ど期待してなかった。

だから朝起きて窓を開けたら、イキナリこの風情で、かなり喜んだ!(笑)

遠刈田温泉街の朝っ(^O^)(パノラマ縦5枚ほぼ180度)

やっぱイザとなると、9月後半のスキー場はイイ!(爆)
夜の静寂ムードが特に良かったな〜(#^.^#)。山奥にいる空気が夜でも伝わって来て♪

朝風呂の温泉と……
朝ご飯(^O^)!→
わ〜湯豆腐鍋に山菜!

夜は食べてから来ちゃったから、ここでは朝ご飯のみ( ^,_^)<モグモグ
温泉は硫酸塩・塩化物泉・芒硝泉。ほんの少し濁った湯。温まった〜。亭主も松島から「温泉!」と主張してたから、ここに入ってかなり満足した様子だった(^^ゞ。

さて朝のお散歩は、遠刈田温泉街でも一番奥にある「蔵王大権現神社」にお参りっ。
地図I←これだと5〜6件しか見えないが、ホテル・旅館・土産屋・食事処はじめ、わりとお店とか多く、温泉の町に相応しく、神社は「神の湯」という新しそうな公衆浴のすぐ前だった。

←「蔵王大権現」の赤い鳥居をくぐると、さらに左と奥に鳥居がある。左の鳥居から先に参拝。↓

二つの鳥居の中間に「郷社・刈田嶺神社(延喜式内)」という大きな石碑があり、最初どっちの神社かわからなかったが、どうも左のようだ。この石碑には「竪三つ引両」という伊達家のと同じ家紋が掘り込まれていた。

民家の庭を通らせて貰い(朝から失礼します(^^ゞ)、奥の社でお参り〜♪

「刈田峯神社」の参拝の後は、また赤い鳥居の所まで戻って……。

←今度は奥の方の鳥居を潜ってみる(^^)。

こちらは「湯神社」とあった。地元マップには「湯神神社」とあり、鳥居の左脇から上り石段が始まっていた。→

石段は折り返し登って行くのだが、この赤い鳥居の所から見える風景を(^^)↓

折り返し、さらに登って行くのだが、この後、蔵王に行く予定だったのでここまで(^^ゞ。→
案内図によると、この先は「湯神神社」のさらに先に「古嶺神社」があるようだった。

そのさらに先にも遊歩道が続き、「ビオトープ・ガーデン」があり、さらに散策路が続いて「遠刈田公園」となっていた。

蔵王方面かな。雲の様子が神々しかった〜(パノラマ2枚)

明暗が強いので明るくして街の様子も(^^ゞ(パノラマ2枚)

地元、遠刈田の「祭典実行委員会」により、この「湯神社」の由来が書かれてあった(^^)。

1692年、湯守り大沼久兵衛氏が、湯神の加護霊場として神の有難さを身をもって知り、47戸の住民ともども権現山(表面の山)の中腹に蔵王湯神の石碑を建立し毎年湯神祭りを行って来た。
伝記によると噴出する熱湯にも似た熱い一杓の湯泉に託し、尊像にかけ諸願成就、万病万癒の御利益があると伝えられ、万病を癒す霊湯として、近隣近在の湯治客のみならず、全国の人々にまで親しまれて現在に至った。

遠刈田は、宮城県から山形県にかけて連なる蔵王連峰の入口にあり、この最終日は、これより蔵王巡りを行った。
その様子を含め、行けたら山形県に入って、上山温泉と上山城に出た所まで次回お届けしたいと思う〜♪

<つづく>

2008年02月26日
 
     






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