<2010年・城主のたわごと10月>




2010年5月「茨城北西編」第2弾(^^)。1日目続きは筑波から。

下館で一泊し、2日目は筑西市の小栗城跡、桜川市の月山寺♪




     
  前回から始まった、今年GWの「茨城北西編」。1日目の筑波山の続きは、いよいよ山頂・女体山から始まる(^O^)。
夜は下館(筑西市)まで北上して一泊。

2日目は、下館を出発して、さらに少し北上し、栃木県(下野国)境の「小栗城跡」に行ってみた。
その後、東に向かい、桜川市に入って、「月山寺」でお花見三昧〜(#^.^#)。



<筑波山神社・山頂〜女体山コース、2>

徒歩15分ほどだが、位置は前回より少し動く→地図A←大きくして見て貰うと、中心点は「男体山」を離れ、「女体山」を指している。

2007年5月に行った時のレポも出しておく→(2007年5月<筑波山・女体山コース>2

前回この写真で終わった。
今回はさらに先に進もう(^^)。

この先は階段になり、階段だと登りやすいんだけど、その前の坂がホント急で、巨石を跨いだり、ズリ落ちそうな砂地があったり、子供達が大変そうだった(^_^;)。。

←で、こんな風にさっきも見えてた建物(守札授与所)の脇に向かって階段を登り終え、そのさらに奥にチラと見えてるのが本殿ね(^^)。
右側(柵の外側)は、男体山だろう。夕陽に浮かび上がる山のシルエットが壮観な眺めだった↓

そしてこれが女体山「本殿」(^^)(パノラマ縦4枚ほぼ180度)
本殿の裏側にも階段が通じて、行けるようになっている↑

江戸時代より前については、前回も書いたので、今回はその後の筑波山神社の事を(^^ゞ。
徳川幕府の祈願所として、3代・家光が山内の諸社堂伽藍を悉く寄進・造営してより、神領も1500石と広大になった。

幕末には、水戸浪士らによる「筑波山義挙」(とあるのは、1864年の「天狗党の乱」だね(^^ゞ)も経て、明治を迎え、神仏分離令に従って、「神体山信仰の古制に復した」とある。

これは多分、「神仏習合から分離した」って意味に過ぎないだろうけど、もしかして江戸期には、他にご神体があったのかも(゚.゚)? 何しろ今は「山そのもの」を神とみなす。

さらにその神仏分離令を受けてだろう、明治8年には拝殿の造営が行なわれ、これは昭和3年、文部省の古社寺保存課の技手、安間立雄氏の設計および監理によって、唐破風千鳥破風銅板葺入母屋造りに改修されたという。
……思うに前回、随神門を潜った先に真正面に控えていたのが、そうじゃないかと(^^ゞ。

また、水戸浪士が「つくばのやかた」と称していたところから、明治になると、「筑波館」という、斬新な洋風の木造4層楼が建築された事も書かれていた。

この山頂の方にも、現代の手が加わった。まず昭和30年には、男体山の本殿を改築。
……今回は行ってないけど、山を去る前に、亭主が大アップ状態で男体山頂の社を写してくれたので、それを見てちょーらい(^^)。

そして、この女体山の本殿は、昭和51年に昭和天皇・皇后の御幸啓を機に、昭和54年、造営奉賛会が結成され、昭和57年に竣工されたそうだ(^^)。

←女体山本殿への階段を登って来る参拝客。かなりの急斜面ぶりが伝わるかな(^^ゞ。

ちなみに、女体山本殿の竣工の折、記念として、他に「参集殿」、三重塔を配した「千手堂」建立、随神門の屋根の改修も行って、大まか今日の形が整ったようだ。

昭和60年には、昭和天皇の行幸・御登山があり、翌61年の正月のお歌で、
「はるとらのを ま白き花の 穂にいでて おもしろきかな 筑波山の道」と詠まれた、昭和天皇の「御製」の碑が、平成19年の「昭和の日」を記念して建てられていた。

じゃ、本殿のさらに奥(裏側)にも行ってみよう(^O^)/

さらに先はこんなんなってる!(パノラマ縦6枚・180度以上)

左側をさらに登る↑。途中(中央)の階段から入れる↑ようになってる。右の橋は帰り道↑

岩場の手前で立ち止まる人が多いが……(パノラマ縦4枚・ほぼ180度)

頑張って踏み越えて行く。おおおお!!(パノラマ3枚・ほぼ180度)

これまで下界を見た場所との違いは、遮る物が全くない事!
ここに来るまでは柵があったり、下半身あたりまで岩場があったりしてたが、この女体山、本殿の裏の岩場は、ちょっと強めの風でも吹けば、「あああぁぁぁぁ〜〜〜!!!」と簡単に飛ばされ、あの遥かな下界まで真っ逆さまなのだ(^_^;)。。

私は↑ぐらいまで写すのが精一杯だったが、亭主は平気そうな顔でズンズン先まで行っちゃって、↓こんなに先まで写して来た。。見てる方が怖いからヤメテ ヽ(^^; )。。。

お陰で撮れたパノラマ。カメラをさらに←に向ける(パノラマ3枚・ほぼ180度)

└−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−┐
                                                    ↓
(パノラマ3枚・ほぼ180度)

こんな感じに、エンエンと山脈の続くのが見られる。←にさっきの本殿の裏が見え、帰りは脇の橋を渡って、坂道を下るんだが、これが又スゴイ道なんだわ!!

↓上から撮影   下から撮影→

↑上から見る光景なんか、さっきの女体山頂と変わらない気がするけど、岩影が腰あたりまである所に、しゃがめる階段(平たい足場)があったり、ちょっと手すりがついてるだけで、全く怖く感じないから、文明の利器って偉大!(≧▽≦)

このコースは、最初に振り返った男体山(西)とも、女体山頂から見た風景(西〜北)とも違う方向(北〜北東)の山並が見渡せる(^^)↓ 元来た道を引き返そう(^O^)/→

前回も案内した通り、筑波山神社に参詣した後、ケーブルカーで男体山の麓まで登り、徒歩で女体山まで来た。

その後、コース的には、女体山頂のちょっと下から出ているロープウェーに乗って、山の麓の「つつじヶ丘」駅まで行くのだが、そこは筑波山神社からは程遠い。

が、我々は神社に近い駐車場に車を停めているので、ロープウェーには乗らず、女体山に参詣の後は男体山の麓に戻り、下りもケーブルに乗って、さらに神社まで戻る(^^ゞ。

ただ筑波山は、神域として長年に保護されて来たため、植物が豊富で、富士山・太平洋・日光・那須・阿武隈などの山々を遠望できる日もあって、ハイキングコースとしても名高く、ケーブルやロープウェーを使わず、せっせと山歩きをする人影も見られる(^^)。

主なコースの所要時間を書いておこう。
(字の色=登り↑下り↓)→
男体山
筑波山頂駅←15分→女体山←┐−┐
↑90分           80分  
↓70分       110分95分70分
宮脇駅        |     
筑波山神社−−-−┘←-┘つつじヶ丘駅
                   
└−−−50分−−−−−−−┘ 
└−−−−−−−60分−−−−−┘

←途中、行き(前回)に会った「ガマ石」にまた会い。
↑男体山の麓「筑波山頂」駅(地図B)に戻って来る(^^)。



<筑波山頂駅〜大鳥居(帰路)>

男体山頂の社と、麓「筑波山頂」駅の屋根

駅の屋根より高く、男体山の社が見える。あれがさっき、「昭和30年に改築」と言った物かな(^^ゞ。

「次は男体山も行きたいね(^^)」
「あと、ロープウェーのコースも来てみよう(^^)」
↑こんな事言いながら、駅に続く行列の後についたが、行列の人数は、到着した時よりズ〜ッと少なくなっていた。

男体山頂の社(超ズーム)
帰りのケーブルは真っ赤な「もみじ」号(^^)

「もみじ号」の赤は深緑に映え、行きに乗った「わかば号」の緑は紅葉によく映える(^^)。
写真は、下山後の「宮脇駅」までもう降りて来ている。

「宮脇」駅、ケーブル乗り場から出て来たトコ(パノラマ3枚・ほぼ180度)

駅の背後に聳える筑波山(^^)
前面の水田風景には暮色が近付く

テラス風の駅前(地図C)から見る下界(パノラマ4枚・180度以上)

駅を出ると、前回、将門の史跡を示す塔の建ってた辺りを通り、階段を下りて、神社の境内に入って来る。

階段下りて拝殿の並び「参集殿」など
境内を出て、「筑波山大御堂」を通る

繋げて、左右の写真を並べてしまったが、実は左の「筑波山神社」の境内から一度外に出ないと、右の「筑波山大御堂」には行けない。

ただ、大鳥居に至る前に在る(^^ゞ。
大鳥居までの間、行きに通った参道からちょっと入った別ルート上にあるのだ(地図D←詳しい位置は拡大を)。

「筑波山大御堂」の前通り(パノラマ4枚・180度以上)

この「筑波山大御堂」は江戸時代までは、神社と一体となって栄えた神仏習合の寺である。
前に行った福島県の会津地方「慧日寺」とともに、奈良〜平安の法相宗、徳一の創建を伝えるという。

また、前にレポした時、筑波名産「ガマの油」については謂れを書いた(2007年5月<まずは筑波山まで(^^ゞ>内)。
その「ガマ油」を薬として考案・作成し、大阪の陣の傷病者の手当てとした、「光誉上人」の寺でもある。
現在は「坂東第25番札所」と書かれている。

と言っても、今回も前を通り過ぎただけだが、前来た時には撮影は愚か、前を通りもしなかったので、写真を出すのは初(^^ゞ。

特に足を停めた理由も、実はカエルにある(爆)。
堀風にめぐらせた池に、ガァガァ、コココッと、そりゃ盛大にカエルの合唱が鳴り響き、又その声音が素晴らしいんだわ!!
「ガマ油発祥の地」として、特に声音の良いカエルさんを揃えているのかしら!(笑)

途中から参道と合流
サツキかツツジ。暮色に赤が鮮やか。

写真では写りが良くないが、緑と言い、まだ盛りの八重桜と言い、ほのぼのと暮れて行く中に、春の自然がたいそう美しかった(^^)。
そうこうする内に、大鳥居(地図E)に到着(^_^A)→

夜の赤い大鳥居と、筑波山のシルエット(#^.^#)(パノラマ2枚)

ただでさえ大きく真っ赤な大鳥居の、かなり高い場所までライトが当たってるせいか、何か後ろの筑波山が、黒々と動きだしそうな錯覚が起きた(゚.゚)。

後ろを振り返ると、下界の夜景〜(#^.^#)。(パノラマ3枚)

↑中央拡大↓。湖の橋に見えるけど、水田かなと(^^ゞ

前に来た時は、車じゃなかったから帰りの時間も気になって(^_^;)、かなりセカセカ帰ったが、今回は長々と散歩が楽しめた♪

この後は一路、下館の宿を目指して車を走らせた。
道々、5月のカエルの大合唱が、ホント素晴らしかったー(≧▽≦)!

以来、今年は夕刻になると、沼地や水田まで、カエルの声を求めて行ってみるのを、本格的な夏になるまで続けた(笑)。

以上、関連事項は(だいたい(^^ゞ)、
2007年5月<まずは筑波山まで(^^ゞ><筑波山神社><筑波山・女体山コース>
2008年9月<「野本の戦い」跡地周辺「鹿島神社」>および<「服織営所の戦い」跡地「筑波山」>以降
2008年10月<桜川市、筑波山「薬王院」、2><筑波山中〜羽鳥(服織)〜湯袋(弓袋)>
2010年9月<下妻から筑波山に向かう>以降




<下館(筑西市)に一泊〜翌朝(^O^)!>

地図F←「下館」駅の駅前ホテルに宿泊(^^)。ちょっと縮小して貰うと、右下(南東)に筑波山、という位置。この下館は、もう殆ど栃木県に近く、茨城県でも中部に入って来ている(^^ゞ。

栃木県に近いのに、未だ中部……というのは、茨城県は、西半分は北部を栃木県に譲っている。
対して東半分は、単独で北部に食い入り、東北の福島県と境を接している。

つまり茨城県は、「逆L字型」という事だね(^^ゞ。(地図G

「北関東」と言う時、群馬県(上野国)、栃木県(下野国)は必ず入るが、茨城県については、その北部だけ入ったり、常陸国(北部と東部)が入ったり、全部(常陸国と下総国)が、埼玉県や千葉県の北部と一緒に入る事もあるように思う(笑)。

一泊旅行のお宿(^^)、翌朝に撮影(パノラマ縦3枚)

↑日中は明暗がキツイが、夜は中の灯りが目立って……↓

こっちは夜、到着時に撮影(^^)v。(パノラマ2枚)

入口(左)と料理屋さん(右)からなる1階部分から入り、まずは宿泊部屋に案内され、ちょっと休息した後、この料理屋さんで夕食(^^)。

一階「一の房」(翌朝)
窓越しに石庭風の空間(夜)

ガマさんの像が!
夕ご飯〜(^O^)。

例によって、安旅行しか出来ないご身分なので(^_^;)、GWの割には格安の宿(笑)。
宿泊料金に料理店メニューが含まれてて、豪華なのが良ければプラス料金……という方式。気が効いてていいよね。当日の気分や腹具合もあるから(「持参した金具合」という話もあるが:爆)。ウチらには料金内で充分に豪勢だったし、美味しかった(^^)v。

私らはビールしか飲まなかったけど、鹿児島や宮崎、沖縄など、メニューには南国のお酒が多かった(゚.゚)。

そして夜が明け……。(ρ_<)<ムニャニャ
テーブルの花。(^O^)<オハヨー

続いて(笑)、朝ごはんはバイキング〜( ^,_^)ф”<モグモグ
日頃殆ど食わない癖に、何で旅行中だけ朝食こんなに食えるんだろうなぁ(爆)。
↑食後のコーヒーもシッカリと。イタダキマ〜ス>( ^^)ρ旦~~

お腹もいっぱいになったし、茨城県も奥まった所で迎えた朝だ。いつもは行けない所にも行けるハズ(=^m^=)。
では出発ー(^O^)/



<下館→小栗>

↑下館よりさらに北上。……正確には北東に進むんだが(^^ゞ、目的地の「小栗」は、栃木県との県境にある。

地図H←下やや左に「下館」、上やや右の「スプリングフィルズGC」とある辺りが「小栗城跡」。

まずは「下館」駅で合流する、真岡鉄道線・水戸線・関東常総線をまとめて踏切で渡り、さらに北上する。
……踏切を渡る時、SLっぽい電車と、それを撮影に来てる雰囲気の人々を見た(゚.゚)。
また、道々、明治〜昭和の陶芸家「板谷波山」の記念館が見えた。この辺りの出身のようだ(^^ゞ。

レトロな街並みが続く、下館より北側の道(^^)(パノラマ2枚)

茨城県に来ると、よく見掛けるコンビニ、「セーブ・オン」。
ナビでは店名でなく「コンビニ」とだけ出てたかも(^^ゞ。
群馬の会社らしい。関東北部・北陸北部・東北南部に出店してる。

さらに行くと、市街地を出て、田園風景や農家も増え、遠くには山々が見える。
「昨夜はカエルの合唱が凄かったよね〜(^^)」と、水田の中を行く道にもちょっと寄り道。

途中まで渋滞ぎみだったが、やがて解消され、一路、小栗に向かってドライブ〜(^O^)。




<「小栗城跡」東方、「内外大神宮」)>


↑鉄道だと、どの駅からも遠いような気が……。あと、結論から先に書くと、小栗城跡には行くには行けたが、本丸のある辺りには近寄れなかった(^_^;)。
ただ、城跡に行く前に通り掛かった「内外大神宮」が、見応えも歴史もあり、城跡の一部もしくは隣接地であったように思えたので、この神社のレポをメインとしたい(^^ゞ。

地図I←拡大すると「内外大神宮」が出て来る。 城跡はその左(西)にあり、「内外大神宮」の鳥居の前にあった案内図に、城跡と神宮の位置・規模が図示されていた。→

小栗城跡」(左)と「内外大神宮」(右)が隣接してる事はわかるが、隔ての土塁らしきが城の遺構と関係あるか、といった所か……。

ただし北が上であるから、神宮の位置は城の鬼門(北東)や裏鬼門(南西)ってわけではない(^^ゞ。

また、神宮や城の下には、二通りの道が見えるが↑、底辺の道路は狭いながらも車道。
城に続くやや上に書かれた道は、殆ど歩道と言える(^^ゞ。だいたい人家に続く道なので、車では入らない方がいいと思う。

大神宮の前の車道と水田風景(パノラマ5枚・180度以上)

↑の逆側、「内外大神宮」とその左右↓(パノラマ5枚・180度以上)

小栗城は、歌舞伎(近年ではスーパー歌舞伎:笑)や浄瑠璃などで有名な「小栗判官」の城、と言っていいと思う。
話はかなり脚色され、史実から遠ざかっているようにも思えるが(笑)、創作と伝承と史実の合間にあって、もう一つ歴史的な評価が遅れていたのか、ごく近年になって、城跡(あるいは隣接)地にある、この「内外大神宮」が評価されて来ている事を現地に来て知った。

ただし小栗判官の話の舞台としてより、この地にあった「御厨(みくりや)」に類する評価にも思える(小栗判官および、そのモデルの小栗満重助重については、後述するね(^^ゞ)。
小栗氏は、この「小栗御厨」の保司(管理係)であった。

じゃ「内外大神宮」に入ろう。最初の鳥居は、鬱蒼とした緑に覆われてしまっていたが(笑)。↓
二の鳥居までの参道には桜の花びらが(^^)→

そして土塁(?)らしき側面(パノラマ4枚・180度以上)

いよいよ参道から階段を登って神殿に向かう。
←登って振り返ると、深緑の高い木立が美しい(^^)。

この「内外大神宮」は、社伝によれば大同元年(806)頃に創建されたという。

関係ないかもしれないが、さっきの筑波山大御堂も、これより行く「月山寺」にも、大同年間ごろの「徳一」による創建が伝承されており、徳一の伝承を持つ寺は、福島県(会津地方)と茨城県が多いらしい。

又この地域は、新治郡衙新治廃寺(いずれも国指定)等の史蹟もあるなど、比較的古代から栄えた地域でもある。

「内外大神宮」が歴史的に注目できるのは、具体的に歴史に名を露わす「小栗御厨」の地に鎮座している事である。
「小栗御厨」は、寛治〜康和年間(1087〜1104)には伊勢神宮領となり(神宮雑書)、茨城県内で唯一の御厨である。

が、応永年間(1394〜1427)に兵火により社殿を焼失した(小栗落城の頃だろう)とされ、現社殿の建立は、延宝7年(1679)、地元の大工による物だが、境内には室町建築の様式による、「御遷殿(遷宮)」(天正2年(1574)建立)も現存。

階段を上がると明るみに展開する社殿群(パノラマ4枚・180度以上)

左に「神楽殿」、中央に「拝殿」(後方の「本殿」は後で行く)、右(拝殿の隣)に「御遷殿(遷宮)」という配置。
新しい時代が先になるが、左の神楽殿から行こう(^^ゞ。

ここには「太々神楽」の碑と説明版があった。

江戸時代の寛延4年(1751)、山城国(京都府)愛宕郡の三嶋神宮・宮司、友田左京と、祇置大政所市大進によって、この内外大神宮の宮司、小栗(山城守)宣政に伝授されたのが、「太々神楽」である。

その後、伊勢の神楽師の指導を受け、十二神楽・三十六座を成立させ、小栗三喜が工夫をこらした舞が、現在の神楽師にまで伝承されている。

十二神楽とは、十二の場面に登場する三十六柱の神々のこと。悪を祓い、神を称えて平穏と豊穣を祈る。
神代神話に基づいた「岩戸神楽」、三十六座による「勇壮舞」「融和舞」で構成されており、大正初期に、さらに神楽師が「八岐大蛇(やまたのおろち)退治の舞」を作って加えた。

現在は茨城県指定(昭和41年)、民俗無形文化財とされており、春4月21日、秋11月10日の例祭に奉納……とある。
この建物を使うんだろうね(^^ゞ。村の秋祭りの様子が、目に浮かぶようだ♪

そして拝殿を挟んで右の「御遷殿(遷宮)」↓
補強用と思われる屋根の下に、古めかしくも立派な社が建っている。覆い屋根の下に入って撮影→

平成21年(2009)……つまり去年、重要文化財(建物)の指定を受けたばかりだ(^_^;)。
しかも、その事を明記する、「筑西市教育委員会」の日付が、平成22年(2010)3月25日……1ヶ月ほど前に建てたばかりの説明版だったんだね(^^ゞ。

その説明版には、この建築様式について、「一間社流造で、向拝柱および方柱の大面取、海老虹梁の袖切などの細部手法や全体の形式は、室町時代の古様をとどめている」とある。

さらに扉の金具に刻まれた銘に、「祈迎 厚木大和守 同柳町源右衛門、元亀5年 甲戌2月吉日 敬白」とある事から、天正2年(1574・元亀5年と同年)の建立と判明した事が改めて記されていた。

つまり、「室町時代の建築として貴重な建造物であった事が判明したので、重要文化財の指定を受けた」という事だろう(^^ゞ。

恐らく長くここに在った建物だろうから、応永年間に大神宮が焼失した後も、江戸時代の造営を見る前までに、この「御遷殿(遷宮)」が建造された、という事になるかな(^^ゞ。

そして、中央の拝殿の後方(裏)に廻ると、立派な「本殿」がある。

外宮本殿」(左)、「内宮本殿」(右)(パノラマ3枚・ほぼ180度)
↑亭主が囲いの合間から一生懸命に写している(^^)

各々手前の屋根付き門は、「外宮御門」(左)、「内宮御門」(右)である。(まんま(^^ゞ)

これも平成21年(2009年、つまり去年)、先ほどの「遷宮」と同じく、重要文化財(建造物)の指定を受けたばかりである。

重文指定を受けるに際して、という事もあっただろう。
「正統的な神明造本殿二棟並立させる形式として、我が国で現存する最古のものであり重要」
「伊勢神宮御厨に勧請された神明社として、建築年代の明らかな点においても価値が高い」
と、歴史資産的な評価を受けるに至った点が記されていた。

拝殿から廻ると階上にある
二棟並立神明造本殿
亭主の努力の結果、写せた一枚じゃ(^。^)σ↑

先ほども述べた通り、現在のこの建物は、江戸時代の延宝7年(1679)、地元の大工によるものだが、案内板には、「建築手法は、ともに三間社神明造茅葺(銅板仮葺)であるが、外宮はすべてにおいて内宮より規模を減じている」とあり、伊勢(本宮)から引くしきたりが伺える。

外宮」には「豊受大神」を、「内宮」には「天照大神」を祀る。
御厨における伊勢神宮の祭祀って、直に見た事なかったけど、内外宮に祀られる神様の配当は、(当たり前だろうが)伊勢神宮と丸きり一緒だね(^^ゞ。

これまでも、相馬御厨大庭御厨など、東国における御厨の存在自体には、しばしば触れて来たが、こうして実体的な社を目の当たりにし、かつ「茨城県唯一の御厨」と聞くと、東国の御厨と伊勢神宮の関係を、改めて実感した(^^)。



<「小栗城跡」周囲をウロつく(小栗判官の話)>

↑どっちかっつーと、当初はこっちがメインだったんだが(笑)。

「内外大神宮」から出ると、隣接するグラウンド↓(と公園の敷地)の手前を通り過ぎ、おもむろに山道に向かって行く。
↓で見ると、グラウンドの向こうに広がる緑の裏手に、山に続く坂道が続いている。

緑に囲まれた運動場(パノラマ4枚・ほぼ180度)

途中に見た、公園の八重桜が綺麗だった〜(#^.^#)

さて、小栗城と小栗氏についてだが、まず小栗氏というのは、桓武平氏の国香流から出た常陸平氏の一族で、「内外大神宮」の鳥居の前にあった現地の案内板には、国香の子の貞盛から出ている、という書き方になっていた↓

(伝)桓武平氏小栗系図
○桓武天皇− 葛原親王(天皇の四子・常陸太守)−高見王−高望(賜平姓・上総介)
┌−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−┘
└国香(常陸大掾・鎮守府将軍)−貞盛(陸奥守・鎮守府将軍)
┌−−−−−−−−−−-−−−−−−−−−−−┘
└維幹(常陸大掾・多気大夫)(ここの系図では貞盛の子になってるが、繁盛の子)
┌−−−−−−−−−−−−−−-−−−−−−−−−−−−−┘
└為幹(常陸大掾・陸奥守・鎮守府将軍)重幹(上総介)(繁幹)重家小栗の祖・小栗五郎)
┌−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−┘
重義(五郎)−重成(十郎)−重廣(次郎・掃部介)−重朝(弥次郎・左衛門尉)−重信(弥次郎)┐
┌−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−┘
└頼重(弥次郎・左衛門尉)−重宗(弥次郎・左衛門尉)−重政(彦次郎・左衛門尉・遠江権守)┐
┌−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−-−−−−−−−┘
└重貞(掃部介)−詮重(遠江守)−氏重(五郎)−基重(小次郎)満重(孫次郎)
┌−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−┘
助重(彦次郎・判官)
 <新編常陸国誌・(時宗)小栗堂長生院文書・(禅宗)天照山太陽寺由来文書・他・参考>

貞盛は平将門の従兄弟だが、藤原秀郷(俵藤太)とともに将門を討伐した武将(地方貴族)でもある。
が、常陸平氏は貞盛の養子になりつつ、元々は、貞盛の弟・繁盛の子孫から出ているので、そのように書き加えておいた(^^ゞ。

全般的な平氏(重幹(繁幹)まで)→平氏系図
小栗氏に繋がる常陸平氏(重義まで)→平氏(国香流)系図


ここの系図では、これよりさらに先が続いて、小栗落城の頃の満重助重まで、累代の当主の名が入っている、という事だね(^^)。

このように小栗氏は、小栗(五郎)重家を祖として、小栗御厨の保司(管理人)となり、地名の小栗を称し、要害の地・小栗山に築城し、15代300年余の間、この地方を統治していた。

案内板にあった「神宮雑書」というのは、「内外大神宮」に伝わる文書なのだろう。小栗の地が御厨……すなわち、伊勢神宮領となったのは、平安期の寛治〜康和年間(1087〜1104)と伝えている。

対して、小栗氏が保司となり、小栗御厨を管理し始めたのは、平安も末期の久寿2年(1155)となってるから、その前は、宗家筋の大掾氏あたりが管轄していた、って事かな(^^ゞ。

やがて道は、坂を登っていく→
ちょうどこの辺りで、亭主が面白いマンホールの絵を発見(笑)↓

協和町(この辺りの地名)のスイカさんとお日様とキュウリさんだ!(爆)↓
登り始めの坂から振り返る→

さらに登っては振り返り
また登っては振り返る(笑)

一方、側面(耕作地)、および前方の登り道(パノラマ2枚)

さて、時は経って、小栗氏も14代となり、小栗(孫次郎)満重の時代。室町時代の応永30年(1423)8月2日、関東公方・足利持氏との激戦に敗れ、小栗城は落城(>_<)。。

ちなみに、この「たわごと」では、「千葉県の動乱」がらみでたびたび取り上げる、「上杉禅秀の乱」は小栗落城の前段階と言える。(千葉の動乱vol2<上杉禅秀の乱(1416〜1417)>
「上杉禅秀の乱」においても、小栗氏も禅秀(上杉氏憲)側について、関東公方の足利持氏とは、この頃から敵対関係だった、という見方も出来る。

また、この「たわごと」には、2008年の「将門ツアー」の折、石岡市(茨城県)の「常陸国府跡」(石岡小学校内)をレポした時、「風間阿弥陀」を取り上げた。

これは、小栗城の落城の折に茨城県内に残された、阿弥陀像(本尊は地下に埋蔵と伝承)と伝わっている物で、常陸国府跡と史跡を共にする、大掾氏の城郭跡土塁の近くにある。(2008年10月<石岡市「常陸国府跡」>内

そして小栗城が落城した時、城主の小栗満重が死んだ、と見なせる記述を見掛ける事があるが、その出典を知らない(^^ゞ。

「鎌倉大草紙」では、満重と同じく逃亡した宇都宮・桃井・佐々木は討ち取られたが、満重自身は逃げ切れて、三河に潜伏したように受け取れる。

ここ小栗城跡(内外大神宮前)の案内板でも、「伝承」としながら、「満重と、その子の助重と10人の家臣は、美濃(岐阜県大垣市)の一族、小栗貞重などを頼って落ち伸び……」としており、どちらも満重は落城の時点では死んでない(^_^;)。

坂の上には大きな杉がそびえ……→

さらに先には建築中の家と、道の行き止まり(汗)(パノラマ4枚・180度以上)

道はここで終わってて、その先も草むらを越えて行けそうではあるが、ハチがブンブン飛んでたし、足場の下地はフワフワと藁のような物まじりで、迂闊に踏むと怖い気もしたし、建築中なのは家だけでなく、斜面一帯に苗木が植えられて、「ここって私有地では(^_^;)」という思いもあって、この先に進むのは断念。。

仕方ないので、一度車道に戻り、城跡を遠景から見ながら、近付ける場所を探した。

水田から見る「小栗城跡」の山
廻り込んだら、入口が(゚.゚)

地図には、この道、書いてないような気が……(^_^;)。。でも、だいぶ位置が変わって来たので→地図J
この入口、塞がれてるように見えるが、車が入れないだけで、人一人入れる程度のハバが空いてて、先は遊歩道のようになっていた(^^ゞ。

さらに廻り込んで全体像を(^^ゞ
道と水田の合間にタンポポ(^^)

さて、「鎌倉大草紙」とこちらの「伝承」が、細かい点ながら違ってるのは、落城より後である。

「鎌倉大草紙」では、父の満重は三河に逃れて行ったが、息子の助重は関東に潜み、相州権現堂という、強盗の溜まり場に宿り、強盗どもに騙されて毒を飲まされそうになり、10人の家臣は倒れたが、一人、助重のみ遊女・照姫の忠告を得て脱走し、藤沢の時宗道場の助けにより、三河に行けた。

遊女の照姫も毒にあたったフリをして、被害者たちとともに川に捨てられたが、自力で命拾いした。
後に助重は三河から遊女を探しに来て、照姫と再開し、褒美を与えた。


入口を入り、少し登ると左に川が見渡せる(パノラマ2枚)

こちらの「伝承」では、相州の豪族(神奈川県横浜市)横山氏館で歓待を受け、父・満重と10人の家臣は酒で毒殺され、上野ヶ原(神奈川県藤沢市)に捨てられ、時宗の遊行寺14代・他阿太空上人により、手厚い埋葬を得た。

九死に一生を得た子・助重は、小栗貞重の元に落ちのび、嘉吉元年(1441)の結城合戦に、幕府軍の将として大活躍をなし得た論功により、再び小栗城に復した。

と同時に、菩提寺・天照山太陽寺(筑西市井出蛯沢)を再び新しく建立し、非業の死を遂げた父・満重と10人の家臣(十勇家臣)の供養として、境内の墓地に大九重層塔、五輪供養塔十基を建立した。

つまり、「伝承」には、父・満重が家臣とともに毒殺され、その供養のために、寺と供養塔の建立に至った経緯があるが、「照姫」は(省略されてるだけかな?)出て来てない(^^ゞ。

逆に、「鎌倉大草紙」に出て来る「照姫」だが、後に「小栗判官」で「照手姫」となり、小栗判官と恋仲となる創作話のヒロインになるわけだが、創作話の方は、筋立てが何本もあるらしい(^_^;)。

道は行き止まり。右の森林が「小栗城跡」→

道路の終わったさらに先を、亭主が草を掻き分けて行き掛けたが、「そろそろ、他廻る時間が無くなって来たから〜( ^o^)/」と、引き返して貰った(笑)。

というわけで、小栗城跡はこれまで……なんだが(^_^;)、有名な戯曲「小栗判官」の話を最後にして締めくくろう。

コンモリと茂った密林(パノラマ2枚)

「鎌倉大草紙」で、最後に小栗から褒美を貰う遊女「照姫」が、後に戯曲化された「小栗判官」になると、小栗と恋仲になる「照手姫」になるのだが(^^ゞ、小栗判官の方も、京の公家の子として登場する筋立まである。
大蛇を妻に得る筋立などもある後、常陸に来て、横山氏の下に働く照手姫(身分ある武士の娘という筋もある)と愛し合い、死亡→蘇生などの筋もあって、数々の苦難と活躍の末に敵を倒し、照手姫と結ばれる。

上記のように筋立が多岐にわたるが、「小栗判官」はメジャーなので、ネット上でも多くの記事が見付かる(^^ゞ。特にこちらが詳しく、又わかりやすい。
照手姫と小栗判官」(「相模原の歴史シリーズ@相模原郷土の歴史研究会」より)
多くの筋立てを丹念に調べて紹介し、多様化した筋立の源流を検証している。

私の方から紹介するとしたら、前に載せた「田村草子」かな。こっちは坂上田村麻呂の話だが、殆ど同じと言っていいストーリーを紹介させて貰った(^^ゞ。
・大筋→2010年04月<厳美渓温泉で最終泊、3日目夜〜4日目朝♪>内
・「田村草子」→同月<厳美渓、「厳美公園(郭公だんご)」>内


「田村草子」においては、小栗判官は一代目・藤原俊祐に役回りが近いが、照手姫の方は、二代目・俊仁と恋仲になる「照日御前」に近いかもしれない。

また、さらに後世の「田村三代記」になると、三代目・坂上俊宗(田村丸)の生母「悪玉姫」が、「長者に仕えるはしため」として登場し、流浪のあげく悪者にコキ使われるなど、「照手姫」とこれ又、似てるんだな(笑)。

「小栗判官」も「田村三代記」のように、江戸時代の娯楽劇でよく使われたモチーフながら、「田村草子」は室町時代の成立だから、どちらも室町期には既に原型の話があったようにも思える。

以上、関連事項は、
2008年7月「千葉の動乱vol2」<上杉禅秀の乱(1416〜1417)>
2008年10月<石岡市「常陸国府跡」>内

2008年11月<茨城県常総市「豊田城」(石下町地域交流センター)>内
2008年12月<布瀬城跡・香取鳥見神社(天慶の乱・伝承地)>内
2009年8月<東光院>内以降
2010年4月<厳美渓温泉で最終泊、3日目夜〜4日目朝♪>内以降




<月山寺>

小栗城跡を切り上げたのも、行きたい所があったからで、その一つが「月山寺」だった(^^)。

←鯉の〜ぼ〜り〜♪(^O^)
↑月山寺に向かって進路を取る。

進路は、45号線→216号線→50号線→257号線。今までいた小栗あたりからだと、北緯はそのままで東進。笠間方面に行く途中にある。

地図K←今までいた「内外大神宮」「小栗城跡」は「スプリングフィルズ」とある辺り。右(東)に「月山寺」がある。
地図L←到着、月山寺(^_^A)。鉄道だと、水戸線の「羽黒」駅が最寄り(拡大すると駅も出て来る(^^ゞ)。徒歩15〜20分ぐらいかなぁ。

まずは車道から見えて来る「月山寺」全体像

「月山寺」山門と、周囲の豪壮な壁(゚.゚)(パノラマ2枚)

ガッチリ堅牢な石垣と、屋根付きの白亜の壁に囲まれ、まるで近世城郭のように立派な佇まい(^^)。

最初に断っておくと、この「月山寺」は、奈良期、法相宗の僧侶・徳一の創建伝承に始まる由緒を持つが、正直、歴史的な事はよく知らない。
中に入ってから述べる内容も、境内の案内にあった限りで、レポは庭園巡りがメイン(^^ゞ。

城壁の(向かって)左端、茅葺門
(向かって)右端、壁越に各伽藍(拡大)

←そして階段を上がって、中央の瓦葺屋根の山門を潜る。

すると左手に、緑の空間がパッと目に入る。→

昼間は、まだ少し残暑めいた日もある初秋、庭石と水遣りを称えて、奥深く広がる涼しげな風情が、まず心に染み入る(^^)。

改めて、(中央)山門から入った全視界(パノラマ4枚・180度以上)

まず緑の空間に行こう(^^)。奥深くまで繋がる森のような空間が、寺の境内で楽しめるのが嬉しい→
↑目を左に転じると、水廻りに↑七福神や、各種の亀の置物がチョコチョコ置いてある(^^)。

親亀の上に子亀・孫亀・曾孫亀がぁ〜♪(笑)↓
お手水の横の七福神。ちゃんと石橋が架かってる→

七福神・拡大
さらに拡大

また、山門から入った時、真っ先に目に入った真紅のツツジが豪勢で、ホント目に鮮やか〜!
このツツジの事を寺の人と話してる、お馴染みサンがいて、「庭園で評判な寺なんだ(゚.゚)」とスグ判った!

さてさて、山門付近だけで、スゴイ枚数を重ねてしまった(笑)。この先にも進まないとね……(^^ゞ。

ちょっとだけ先に進んだ(笑)(パノラマ3枚・ほぼ180度)

これより右を見ながら、本堂(正面)に近付いてみる(^^)。

島を象る石と、波紋を象る砂利が
さらに進むと、赤い千手観音堂が

さらに進んで振り返ると、大きな砂山(^^)↓
そして本堂に到達。石庭から緑庭に変化して、奥の千手観音堂も竜宮城のように浮かび上がる(^^)。→

←ちょっと本堂の前に、足場を移して撮影すると、また違った風情(^^)。

植木に雪除を施した姿態が、ご本尊とか門の前に立つ、仁王か武将のようにも、あるいは一度、竜宮城に見えてしまったせいか、海底に突き出る珊瑚礁のようにも見える(゚.゚)。

さてさて、次回も、この「月山寺」の続き、さらに奥まった所をお届したい(^^ゞ。
その後、「雨引山(雨引観音)」「真壁城跡」あたりまで行けるかな……。

以上、関連事項は、
2007年5月<筑波山神社>内
2008年10月<桜川市、筑波山「薬王院」、2>内
2009年1月<恵日寺>
2009年5月<恵日寺(いわき市・瀧夜叉姫の墓所)>内


2010年10月26日

<つづく>
 
     




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