<2012年・城主のたわごと3月>



2011年9月、東北第3弾、2日目午後は喜多方と会津坂下(福島県)。

「佐原義連の墓・青山城・新宮城」「熊野神社長床」「陣ヶ峯城」





     
  2011年秋の東北(〜北関東)レポ第3弾(^.^)。

2日目の昼食後は、小野川(山形県)から喜多方(以後、福島県)廻りコースで、会津坂下まで向かいながら、次々と佐原氏の史跡を攻略する!

あいにくの雨模様で、全体的に写真が暗めだけど(^_^;)、時間的には、午後1時〜4時半頃。そう遅いわけじゃない。

どちらかと言うと、この日については、雨による影響はデジカメなどに出た(笑)。
内部に湿気がこもりやすく、レンズが曇ったり、自動で閉じるレンズ扉が閉まったまま開かなくなったり、ちょいちょいアクシデントが出始め、時間を取られる事もしばしば。

しかし、メゲずにレポを開始する( ̄^ ̄)。



<121号線を南下。山形・福島県境まで>

地図A←中心点が、小野川温泉から出て来て、121号線に合流する地点(拡大すると出て来た道も見える(^^ゞ)。
前回も途中まで、この道路から見える風景をお届けした。今回さらに続きを行く。

遠くに見える山々
水しぶき上げながらトラックも通る

これより向かうコースは、震災が無かったら来ないままだったかもしれない地域。震災のお蔭とは口が裂けても言いたくないけど、キッカケになった点は認めざるを得ない。。

と言うのも、福島県で行ってない所はいっぱいあろうが、自分としては「あとは徳一がらみの寺社が幾つか、ってトコだな(^^ゞ」ぐらいにしか認識してなかったからだ。

会津地方は、京、奈良、鎌倉、平泉とともに「日本五仏都」と呼ばれるそうで、「徳一がらみ」と言ったのも、平安期の寺ばかり八寺ある(中でも初期の寺が多い)中で、五寺までが「徳一」に由来するからだ。

八寺の範囲は西から東へ、磐越道の「西会津」から「会津坂下」「新鶴」「会津若松」「磐梯河東」の間……と非常に広範囲でありながらも、一定の緯度にだけ集中しているという、何とも不思議な散らばり方をしている(^_^;)。(広範囲なんでちょっと縮小サイズだが、だいたいこの範囲→地図B

「会津若松・喜多方」方面を示す標識
午後は雨脚がさらに強まった(^_^;)

↑道路標識は「会津若松・喜多方」方面に向かう121号線である事、右に「川西」に向かう4号線が出て来る事を図示しているから、地図C←今このちょっと手前ぐらいかと(^^ゞ。

で、この東西に広がる八寺を「必ず巡ってやる( ̄^ ̄)」と強く決意してたわけでも無く(笑)、これまで、三寺(慧日寺・法用寺・弘安寺(中田観音))まで廻ったものの、「今度来たら、また一寺ぐらい廻ろうか(^^ゞ」って程度だった。

実は今回はこの後、二寺巡ったが(^^ゞ、それも今思うと、震災が無かったら廻ろうと意識したかどうかすら疑問である。
そう思うぐらい、範囲が広い割に、まだ行ってない寺ほど奥地にあり、その寺以外には見るべき観光地を全く知らない。……ってか、寺以外は何も無いって気もする( ̄▽ ̄;)。。

平野部から山間の地域に差し掛かる
濃霧に隠される山の頭部

ただ、今回は「福島県を旅する」と決めた以上、「廻る所が無いから」と通り過ぎてしまうわけにもいかない。
時間やユトリの無い人は、モチロン温泉に入りに行くだけでも、風評被害に悩んでる地元は助かると思う(^^ゞ。ウチらも二泊目は福島県の温泉だったしネ♪

でも出来れば今回は、もうちょっと福島県を案内するような旅をやってみたい、と思ったので、台風情報にオロオロする合間も、史跡に詳しそうな本を手に入れる等、せっせと情報を集めた。

その結果、一定の地域に芦名諸族の痕跡が広がる事を掴み、さらに今回間際まで迷った「危険な場所」に相当しない、「それほど山が険しい場所って感じでも無さそう(゚.゚)」と思った所で、尚且つ、八寺の地域に到達するルートでもあったので、行く事に決めたのだ(^^)v

それらの史跡が喜多方の南北に点在する。まずは121号線を南下し、喜多方市に近付く。

121号線は、前夜(一日目)通った山間の道より、西寄りの道路

このまま行くと、米沢や小野川のあった山形県ともお別れ(;_;)/~となるので、最後に上杉家の事も書きながら去って行こう。
今回どっちかと言うと、その後の佐原氏・新宮氏がメインなので、景色見ながらサラッと流す(笑)。

前回は上杉鷹山の事を書いたので、今度は初代藩主・上杉景勝の頃の話を(^^ゞ。
というのは、直江兼続の本(小冊子だが)も買ったので(^^)。

印象に残ったトコだけになるが、読んで改めて、「御館の乱」で敗死した上杉景虎(北条氏康の七男)に対し、謙信景勝兼続の、それぞれ立場の違いに思いが至った。

と言っても、兼続については、その意思らしきは特に見られない(^^ゞ。
大河ドラマ(天地人)では、全て兼続の主導で乱への導入(景虎の排除)が行なわれたように描かれた覚えがあるが、彼の活躍が見られるのは、やはり秀吉政権と接近・交流する頃からのように思えた。

幼い時分や初恋の頃の逸話も無いわけではなさそうだが、年代のハッキリ特定できる筋合いの物はなく、若い頃の兼続について伝わってるのは「大胆な性格」って事ぐらいかな(^^ゞ。


山形県の風景も見納めじゃのぅ(;_;)/~

一方、景勝×景虎の後継者争いについて、何かとよく聞くのは、「謙信は後継者を定めなかった」とか、「理想主義」という声だが、どうも筋違いのようだ(笑)。

まず景勝だが、大河「天地人」では、景虎への敵意が無かったように描かれてたが、敵意云々はともかく、謙信が死んだ途端、景虎を追い出すように春日山を突然占拠したのは、やはり景勝の主導らしい(^_^;)。

景勝の危惧は、「景虎に居座られると、春日山北条氏の物になってしまう」事にあったというから、あるいは謙信の生前から、「春日山から追い出す」と腹を括ってたのかもしれない(^_^;)。



すると、「謙信の考え」はどうだったかという事になるが、どうもここはハッキリ残されてない……と言うと、謙信に問題があったような誤解を招くので、もっと率直に言えば、謙信の遺志は「隠匿」あるいは「捏造」された、と考えた方がいいんだろう(^_^;)。
大河ドラマでもそこは、突っ込んでそう描いてたよね(笑)。

勿論、米沢で発行される本にそこまで書いてあるわけじゃなく、「謙信は筋目を大事とする性格上、景勝には越後守護職、景虎には関東管領職を考えていた(もしかして遺言もしてた?)のでは……」という事だったね。
私も読んでる内に「その辺りかな〜やっぱ」と思った(^^ゞ。

これも前からちょくちょく聞いた事のある説で、明確に記述が残されてない以上、推測の域を出ないながら、結局、景勝は「景虎を制した」のだから、要するにハッキリ「謙信の遺命に逆らった」と言ってるのと同じだよね(爆)。


121号線、左手の山岳風景

考えてみれば、上杉藩は建前は謙信を初代としてるが、他藩と比べてもこれは異例で、事実上は「景勝が初代」である。当然ながら「景勝の意思に従って作られた藩」と考えるのが正常であり、藩の本筋と言っていい。

その初代藩主が、「先代(謙信)の遺志に逆らった」とか「他にも後継予定者がいた」とは、本人(景勝)が認めても、藩としては認めにくいよね(^_^;)。
江戸期、廃絶の危機に何度も晒された、関ヶ原敗退組の上杉藩なら尚更。

でも景勝は後年、謙信の考えの通りにやった方が上手く行ったかも、と何かと反省する事が多かったんじゃないかって気もした(^_^;)。

その辺りを感じるのが、関ヶ原合戦に至る直前、家康が小山における評定の後、上杉討伐を切り上げて、畿内(関ヶ原方面)に向け、急ぎ取って返した時、兼続は「好機」と追撃を進言したのに、景勝が採用しなかったという辺りだ。

これも本当みたいよ(^_^;)。
理由は「謎」としたままだったけど、やはり「御館の乱」以後のゴタゴタに懲りた景勝が、本腰入れて「謙信流儀」を取るようになったから、という感じが、ちょっとしたかなぁ(^^ゞ。



つまり、それぐらい御館の内乱は、当初の想定範囲を越えて長引き、又かなりの深刻な禍根を残したのでは……と思った。越後国内の遺跡からは、当時の凄まじい攻防の惨状が窺えると聞くし、その後に起きた叛乱も、この内乱の余波と言うよね(^_^;)。

関ヶ原の時も、上杉が徳川勢の後背を追わなかった事を、「やってれば家康の命は無かった」などという意見を見る事はあるが、逆に「追い討ちをかけなかったからこそ、戦後の上杉家は比較的穏便に許された」と考える事も出来るわけだね(^^ゞ。

謙信は軍神と仰がれ、正義を好んだと言われる割に、竹を割ったようなスパッとした処断をあまり取らず、どっちかと言うと節度を重んじ、全体のバランスを取るタイプだと思う。
出過ぎた杭は遠慮なく叩くものの、それが徹底的な殲滅とか、滅亡するまで追い詰める、という強硬手段にまで届く事は殆ど無い(^^ゞ。
それが越後統治における力学として、現実的だったからかもしれない。


トンネルが見えて来た
潜った。依然だいぶ深い山中

ただ景勝の主導となって、謙信の頃には思いも寄らなかった展開が出来たのも、また事実だ(^^ゞ。

「御館の乱」が勃発した時、北条氏政(景虎の兄)が景虎の救援と称して、越後に侵入して来ると、さらに景虎の姉を妻とする武田勝頼から挟み討ちを受ける危険もあったため、急ぎ勝頼の妹(菊姫)を景勝の妻に迎えて、武田と同盟したのなんかがそうだね。

それと途中からはともかく、当初の春日山占拠までは、謙信の意思が上記の通りだったとしたら、まぁまぁ謙信の想定(遺言)内と言えなくもないよね。
景虎は関東なり、越後のどこかに行けば良かった、という事だね(^^ゞ。具体的にどこに住む事になったかは想像つかんけど(笑)。

中央分離帯の花壇に色鮮やかな花々(^^)
カーブの先にツンと尖った三角山

↑「沼田から真田や草津に行った時に通った、吾妻渓谷とか思い出すね(^^)」
「去年行った塩原の渓谷道路にも似てるね(^^)」
なんて話しながら進んだ。雨模様だったが、山の様相がこれまで行った道路を思い出させて、良い感じの道だった♪

ところで、勝頼の妹(菊姫)を景勝の妻に迎える案は、意外と謙信の生前から考えられてた策だったかもしれないね(^^ゞ。それでも謙信が生きてる間に通すより、死後ハッキリ世代が変わったと内外に知れてからの方が、上手く運んだように思えるので、この成功要因も、また「景勝主導」という考え方でいいと思う(^^)。


さっきのトンガリ三角山かな?
さらに前方は白モヤだらけの山!

やはり景勝の妙味は、さっきも言った通り、直江兼続とタッグを組んで現われる、秀吉政権の時代以降に現われた、と見るべきだろう。
直江兼続の話が出て来るのも、この時代以降だ(^^ゞ。

ただ、景勝や兼続の意思表示や行動は、あまり現われてなくて、それより秀吉や石田三成の態度の方がハッキリ表面に出ていて面白い(笑)。
秀吉に屈すると決めると、実直に潔く屈して来た上杉主従(景勝・兼続)に対し、豊臣主従が驚き、喜び、あれこれ気を使う様子が窺い知れて、何となく微笑ましい(笑)。

例えば三成だが、「(小牧・長久手合戦のあげく)秀吉と家康が縁組する前に上洛して、秀吉に会って欲しい」と言ってて、いかにも、「家康が降ってからだと、せっかくその前から秀吉に従う意思を持ってたのが無効になりそうで心配」という感じがする(笑)。


モヤモヤ〜凄い急な流れの霧
これはブレじゃないの!モヤなの〜!

↑奥の山が立ち上る水蒸気で激しくモヤッてるので、パッと見ブレて見えるが、他の被写体がブレてないんでわかると思う。本当にこういう風景だったの〜(^_^;)。

景勝・兼続主従が、三成の指図通り上洛して来ると、秀吉は大歓待で迎えたあげく、まだ新発田など敵対勢力があると知ると、「(上杉の敵である)新発田は、秀吉の敵でもある」とお墨付きを与え、越後に帰る事を認めるんだね。

さらに会津に行かせる時にも、「かつて奥州征伐で会津に行ったが、険路で不便な場所だから、道を整備するように」という名目で、三年の参勤を免除するんだね(^^ゞ。
兼続も会津に向かう時には、「城をきちんと整頓して三成に渡すように」と布告を出している(笑)。

又、こんな様子を通して、三成が味方に引き入れた相手に有利になるよう、融通を効かせたり、大名らの城引き渡しなどに細々と手を尽くしたり、有能さを発揮していた様子がわかって興味深い。


まさに山水画(笑)。

そして、有名な直江状は全文載ってるが、これは……後世創作の疑いなど色々言われてる物なので(^_^;)、上杉氏からの弁明要旨は、「亡き秀吉の命令で、会津の道など整備している」のであって、そのために参勤免除を貰った経緯もあり、さらに前段階で、新発田を討つために帰国した時も、お墨付きを頂いて許された、という点だと思う(^^ゞ。

こういう事を抜きに、イキナリ直江状だけ見させられると、これは前の東北レポで神指城跡に行った時書いた通り、「何故こんな城を作ってイイと思ってたのか、全くワカラン(^^;)」の一言に尽きる(笑)。

この辺りは、双方の主張が凄く食い違ってて、どっちがどう正しいとか決めようがないけど(笑)、「前に書いた」というのはコレね→2011年7月<神指城跡>内 まぁ神指城を見た限りでは、こういう感想だと思うわ(笑)。


←いよいよ「大峠トンネル」。入る前に「トンネル内ラジオつけよ」と看板が出ている。
この長いトンネルを越えれば福島県(^^)

地図D←「大峠トンネル」入口付近。
次の場面から福島県なので(^^ゞ、話は上杉の事を離れ、次はこれより向かう喜多方までの地域で、顕著な勢力として出て来る、佐原氏芦名氏)の事を説明して行きたい!

以上、関連事項は(だいたいね(^^ゞ)、
2007年4月<米沢「上杉神社・松岬神社」「上杉博物館(伝国の社)」など>
2008年7月「千葉県の動乱」vol2<古河晴氏の反発〜第二次国府台合戦(1560〜1564)>以降
2011年7月<神指城跡>




<大峠トンネル(県境)〜喜多方市内>

てわけで、福島県に入った(^_^A)(と思う)。

道はトンネルのある一帯全体を「大峠道路」としているが、トンネルは「大峠トンネル」の他、地図で確認するだけでも、「不動」「弥平」「明ヶ沢(第一・第二)」などが見える。写真には「御手窪」というのも写ってる μ(。。)m
wikiで見ると、この他に6ヵ所ほどトンネル名が見られる。かなり長距離のトンネル地帯。

その「御手窪トンネル」を潜り
左の車窓に見える山(^^)

あれは……山崩れ?
拡大(コントラスト調整)

遠くから見えてたので、横を通る時シャッターを切ったが、今イチ映りが悪い(^_^;)。

検索すると、この翌日付で、喜多方の旅館さんが、この大峠道路が大雨の影響で不通になった、と書いてるのを見付けたので、ウチらはギリギリ通れただけで、意外と他人事じゃなかったのかもしれないけど(・・;)。。。

この夏〜秋は、大量の雨に持ち堪えられず、山の斜面が道路ごとズリ落ちてしまったり、そのような危険性を呼び掛ける、といったニュースを何度も見たけど、ここのはどうだろう。。

もう一枚。麓の集落も撮れた
拡大(コントラスト調整)

さて、佐原氏だが、相模国の三浦氏の支族である。三浦氏は桓武平氏と言われている。

高望王┬国香┬貞盛(平(清盛)・熊谷・北条・山木・伊勢)
     ├良兼└繁盛(奥山・城・大掾・吉田・石川・鹿島・岩城・岩崎・仁科・谷田)
     ├良将−将門…(5代)…(相馬)師国=師常(千葉氏より)
     ├良文┬忠頼┬将常(秩父・畠山・河越・江戸・河崎・渋谷)
     |   |   ├忠常(千葉・上総・相馬・東・野与・多名・大蔵・村山・金子・山口)
     |   └忠道└忠通−為道−為直−為継┐     ┌義宗(杉本・和田・朝比奈)
     |         ↑   ↑(三浦)↑ ↑  ├┬義明+義澄(三浦)
     └−−−−−−良茂−良正┬公義−為次┘|   └義連佐原・葦名・三浦
                      |         └義実(岡崎)
                      ├致成(鎌倉・大庭・股野・梶原)
                      └致頼(長田・賀茂)
ズレる場合はこっちを(^^ゞ→相模系平氏系図
平氏全般・詳細版→桓武平氏系図


↑黄色の部分が、三浦氏などの祖から続く系図になるが、この通り、三浦をはじめ、和田大庭梶原といった、平安末〜鎌倉初期頃になって、頼朝の家人としてドッと名の現われる、いわゆる「相模平氏」は、高望王から後がハッキリしない。

「尊卑文脈」では、良文の子に「忠道」はあるが、三浦系の系譜には繋がらない人名とされ、三浦氏の祖は、良文の弟から「良茂−良正−公義−為次」という経過を辿る事となっている。

一方、「桓武平氏系図」(続群書類従)では、良文の子に「忠頼」、さらに子から「忠常」と「忠通」に分かれ、「忠通−為道−為直−為継」という経過を辿る。

なので、上の図は、不明の四代を各々同列に列挙して、歴史上にハッキリと登場する「義明」に繋げておいたが(^^ゞ、あくまでも図的に並んでるだけで、各々が同一人物だとか、だいたい同じ時代に生きていた、といった考証は今の所見た事がない(笑)。

例えば「良茂」の子「良正」は、「将門記」には、「高望王の妾の子で、将門の伯父」とあるから、良文の兄か弟かはともかく、良文の代に違いないのであって、「尊卑文脈」のように、将門と同世代(従兄弟)ではない事になる。

要するに、順番すら史料によって錯綜しているのだ(^_^;)。。。
だから、高望王が孫たる忠頼の妻に手を出して生まれたのが良茂(か忠通)で、父・忠頼に「叔父子」と呼ばれていたとか、そういう推理も全く成り立たないからね(笑)?

人里の高さに降りて来た(^^)

地図E←最初の目的地はここ。121号線がかなり近くまで伸び、あとは農村に分け入って行く。

この辺り、右に見えて来た平野部に、やがて折れて入る

さらに先の時代に進もう(^^)。

三浦氏は泰村の時、宝治合戦(1247年)で、北条側の勢力によって滅亡した。

「あれ(^^ゞ? 戦国時代、北条早雲が戦った相手に、三浦氏って居なかったっけ?」。
そうそう、その三浦氏が、下の系図の通り、三浦義明の子、佐原義連から出ている。これからその墓に行く所なんだけどね(^^ゞ。
「戦国武将一覧」「北条早雲」内「千葉県の動乱」vol2<武田氏と里見氏と小弓公方(1503〜1537)>

                     

                     ├┬@経連(猪苗代)
                     |├A広盛(北田)
      ┌佐原義連−−−−盛連 └B盛義(藤倉)
      |             ├┬C光盛−泰盛−盛宗−盛員(芦名)
三浦義明┴義澄−義村┬泰村  |├D盛時(加納・佐原・三浦)
               └矢部禅尼└E時連(新宮)
                 ├−−−−時氏┬C経時
北条@時政−A義時−B泰時         └D時頼−G時宗
@E=佐原氏・兄弟の順
@G=北条氏・歴代執権

義連は、三浦半島の佐原(今の横須賀市)を本拠としたので、佐原氏を称したと見られている。
佐原氏には、同族三浦氏から矢部禅尼が嫁いで、
C光盛、D盛時、E時連という男子を生んでいるが、その矢部禅尼は佐原盛連に嫁ぐ前、北条(執権三代)泰時に嫁いで、時氏C経時、D時頼の父)を生んでるんだね(^^ゞ。

一方の佐原氏では、宝治合戦の時、前妻(ではないかと)の子、@経連、A広盛、B盛義は、本家の三浦氏に与力したが、矢部禅尼の生んだ、C光盛、D盛時、E時連の三兄弟は、北条氏側に味方した。

121号線から平野部に入ると、この暗雲の中、黄金色の実りが輝いていた(^^)→

結局、三浦一族が滅んで、北条得宗家の一人勝ち時代が到来するので、@B三兄弟は「負け組」となり、物の本によっては「滅亡した」と書かれてるけど(^_^;)、前もレポした、あの亀ヶ城猪苗代城)の「猪苗代氏」(は「@経連」から出ている)など、庶氏が出ている。(2011年8月<亀ヶ城(猪苗代城)>

A広盛」から起きた「北田氏」も、河沼郡の北田里に城跡があったようで、上杉氏が会津に来た時、黒川城若松城)が手狭なので、直江兼続が城地を探して、この北田里の城跡を薦めたが、景勝から許可が出ず、神指城跡に決まった……なんて事があった(^^ゞ。

B盛義」は「藤倉氏」の祖という。会津若松より少し北にある藤倉館跡には、この盛義が住んだと伝えられるから、三氏ともだいたい、東は猪苗代湖から西は会津若松あたりまでの間を、ちょっと北側に行った地域あたりに地盤してた、と言えようか。

しかし、やはり目立った氏族として頭角を現すのは、「勝ち組」となった
CEで、こちらの三兄弟が、これから行く各史跡にも、よく子孫の名を顕す。



<佐原義連の墓>

↑121号線から喜多方市内に入って、今ここを目指している。

時折、集落に入り込んだり……
また農地に出たり……

宝治合戦の時、北条氏の執権は、5代・時頼なんだけど、その時頼にとって矢部禅尼は祖母にあたる。
三浦泰村には北条泰時の娘も嫁いでるんだけど、こっちは矢部禅尼の生んだ娘じゃないので、時頼と直接の血の繋がりはない。佐原氏系図(さっきのだけど(^^ゞ)

だから、主に矢部禅尼の縁と言えるだろう(^^ゞ。北条側についた戦功を主因に、そうした血縁事情も加わって、矢部禅尼の生んだ、
CEの三兄弟は「勝ち組」となり、後の戦国期にも名の出る「芦名氏」や、さっきも言った戦国期の「三浦氏」も、ここから出た(^^)。

「芦名」は、「葦名」「蘆名」などとも書かれ、佐原義連より前から三浦一族に名乗りがあったという話も見掛けるが、一般的に名の知られる東北の芦名氏は、「C光盛」を祖とする。

D盛時」の系譜にも見掛けた事もあるが、いずれにせよ上記の流れから、佐原氏より出た氏族をそう呼ぶ。

また「
D盛時」は、よく「加納氏」と書かれてるようだが、「佐原氏」とも書かれている。
どうも、この「加納」は、「加納殿」と呼ばれていた事に由来するだけで、「加納氏」と認識されてたわけではないようだ(^_^;)。


さらに、この「D盛時」から、
盛時−頼盛−時明−(三浦)時継−高継−高通−高連−高明−時高−義同(道寸)−義意
と、戦国時代に名を顕す「三浦氏」(北条早雲に滅ぼされた(^_^;))に続く。
佐原氏系図(さっきのだけど(^^ゞ)

そろそろ近くまで来てるね(^^)

というわけで、長らくお待たせしました。いよいよ到着〜♪

佐原義連の墓(パノラマ3枚ほぼ180度)

(拡大)東側(336号線)から(パノラマ縦2枚)

地図E←を拡大して見て貰えるとわかるが(「18」ぐらいまで)、墓所の前(東)をやや大きめの道路(336号線)が通り、他二辺(北と南)両脇も道が囲んでるが、西に抜けるのは北の道路(写真では向かって右側)だけ(^^ゞ。

しかしお墓に入って行けるのは、行き止まりになる南の小道なので、ちょ〜っと廻って下さいな(^O^)♪

正面は南側(左の道)
西に抜ける北側(右の道)も良い風景(^^)

←こっちは行き止まり(笑)。南正面「佐原義連の墓(県指定・パノラマ3枚ほぼ180度)

まず、この場所だが、現地の案内板には、広域すなわち「会津」については、その根拠を「三浦義明の子・佐原義連が、源頼朝より与えられ、領主になった」としている。佐原氏系図(さっきのだけど(^^ゞ)

同様に『新編会津風土記』にも、「鎌倉右大将、藤原泰衡を征伐ありし時、三浦(または佐原と称す)十郎左衛門尉義連、軍功により此地を領せり」と、より詳細に「奥州藤原征伐(1189年)」を上げ、上述と一致している。

ところが同書は続けて、「然れども、常に鎌倉に伺候して在邑の暇なかりしや。其の住所何れの地とも知れず」として、佐原義連の在地に懐疑的だ。

その癖、今いるこの場所すなわち「耶麻郡半在家村其の墓あり、云々」と、極めて特定の場所を示す(゚.゚)。

ちなみに、向かって右には、 あの「(故)伊東正義」氏が建てた「半在家地区・農業構造改善記念碑」というのがあったので、ここがその特定地でいいんだろう(^^ゞ。

『新編会津風土記』は、完成は1800年代かと思うが、作成は初代・保科正之の頃からのようで、案内板にも、「寛文8年(1668)保科正之山崎闇斎に命じて史実をさぐり、元禄8年(1695)松平正容(3代)が志を継いで「佐原義連之碑」をそばに建立」と書かれていた。

中央部の柵内、向かって左の屋根の下に「義連の墓」と伝わる宝篋印塔。室町時代の形式である所から、義連の歿後しばらくしてからの建立と思われる↓
その右の縦長の建物、手で扉が開けられた(^^ゞ→
中に立ってる、このデカイ石碑が、今も言った「元禄8年(1695)松平正容が建てた「佐原義連之碑」」と案内板に言われる物かな(゚.゚)。大きかったよ〜。
残念ながら、所々字が磨滅して読みとりにくい字が多かったけど……。。

この加納あたりは、「1185〜89年や1192年に、佐原義連が住んだ」とされる「岩尾館」「山岩尾館」などもあるらしい。佐原氏系図(さっきのだけど(^^ゞ)

今「加納」と呼んだのは、ここの所在地……これも案内板に「耶麻郡熱塩加納村大字宮川字墓の西」とあって、この「熱塩加納村」が相当する。
(今この「耶麻郡」は幾つかの町村に分かれ、「熱塩加納村」は「喜多方市」に編入されてるようだ(^^ゞ)

が、鎌倉時代の幕府御家人が、陸奥に直接下向して来るのは、伊達氏のような早期組いがいは、大抵が一族や家来を代官に送り込むだけで、来たとしてもだいぶ後という場合が多い(^^ゞ。


案内板にも「当初の墓所は不明」とあり、以上を繋ぎ合わせると、保科正之の時代には、既にこれが「佐原義連の墓」と伝わりつつも、当時の研究結果からも、「佐原義連自身は鎌倉にいて、会津地方に住む暇はなかった(恐らく生涯を終えた場でもなかった)」事が判ってたのだね。

なので、死後しばらくして、子孫がここに遺骨なり納めて墓所をしつらえ、少なくても室町時代から守られて来た……とかいう事になりそうだ(^^ゞ。

となると、この加納村あたりを治めたのは、「D盛時」以後の加納殿・佐原氏だから、これが惣領か……という事になりそうだが、ちょっと途中を埋める時代については、次の「青山城跡」でも書こうか……。

さらに右、柵の外には「佐原義連の墓」の石碑→
明治時代の物かね(^^ゞ。傍に明治44年の「帰命碑」というのが建ってたし。

↑ちょっと「伝・義連の墓」(宝篋印塔)に戻ろう。拡大して見る(^^ゞ。。
高さ2.3m。塔身には四方仏の種子が彫られ、基礎は短形を二つ並べ、反花は形式化している。
同じ形式の物が、猪苗代町川桁の観音寺にあり、そちらは応永18年(1411)の銘が確認できるそうだ。

塔の周囲の小さな五輪10基は、家臣の墓といわれるが、現存の物は、明治44年に行われた「義連750年祭」の折に改修したものという。

右の写真に見た「義連の墓」や「帰命碑」の石碑も、この750年祭の時に整備・建立されたんだろうね(^^ゞ。
「帰命碑」の文字、全部漢文だけど(^_^;)、文字の磨滅は浅く、まぁまぁ読めて、今書いたような事に加え、土地の荒廃を憂えて、土地の長が村民と図り、750年の回忌式典を期して、修理費・維持費を集めて整備した、というような事が書かれていた(多分(^^ゞ)。

その文末に「当時墓守」として「佐原太郎」とあって、「子孫の人が管理してたのかな(゚.゚)」と思った。

ここ「佐原義連の墓」は、前統治者の芦名氏の墓所を、後に領主(藩主)となった保科(松平)氏が保護を加えたという点で、歴史経緯として二重の意味があり、宝篋印塔としても県遺存の物の中でも優れており、史跡としての高い価値が認められ、昭和31年(1956)、福島県指定文化財となっている。



<青山城跡>

地図F←お次に向かう「青山城跡」は、「佐原義連の墓」より、やや南東方面にある。殆ど同じエリアと言える。

雨に濡れるフロントガラスを通して、熱塩加納村の農村風景を南下

遠くの山景色
途中から東進して濁川を渡る

今回の旅行は台風に遭遇してしまい、難儀も少なくなかったが、振り返るとこの日の午後が一番、史跡巡りの醍醐味っぽい時間を過ごした気がする。

若い頃から、仙台はもとより、米沢や山形にも行ったし、もっと北の松島・気仙沼にも行った事はある。
子供の頃は、さらに北の岩手、秋田、津軽にも、北海道にも行った。

亭主と一緒に東北旅行するようになってからも、もう6年目の秋を迎え、やはり平泉にまで行って、北緯を極めてるにも関わらず、なぜか芦名氏と聞くと、今でも、「う〜んと北の最果ての地」みたいな感覚から、どこか抜けれてない(^_^;)。。

これは羽黒に行った時もそうだった。「出羽三山」というイメージが自分の中に勝手にあって、今そこに居るのに、何となく信じられない気分になった(笑)。

さっきの「佐原義連の墓」に居た時も、何度も「芦名の史跡巡りをしてるなんて、何か信じられない(^_^;)。夢見てるのでは」と思った(正直、自分はしょっちゅう史跡旅行の夢を見る:笑)。

しかしこの氏族に関しては、単に距離や印象の問題に限らず、やはり「謎の一族」みたいな所があるので、そういう感じに結びついている。

到着。「青山城跡」のある「日枝神社」前(パノラマ2枚)

地図F←再び出す。

これが、さっきも話した、佐原氏五男「加納殿・D盛時」を祖とする佐原氏の居城跡と伝える。(江戸時代の地誌「新編会津風土記」)
この南西約150m行くと、この「D盛時」を祀った「五郎神社」があるそうだ。

ところが、この佐原氏、応永9年(1402)に新宮氏と争い、滅ぼされたという(・・;)。。
「新宮氏」は、弟「
E時連」から始まる系譜だから、つまり同族争いだ。佐原氏系図(さっきのだけど(^^ゞ)

と言っても、さっきも話した通り、「
D盛時」の系譜は、その後も関東・三浦氏として戦国期まで続いてるから、ここに言うのは、子孫の一系統という事だろう(^^ゞ。取り合えず、「加納佐原氏」と呼んでおこうか。

この「加納佐原氏」が、いつ頃から陸奥に根付いたかは知らないが、これを滅ぼした「新宮氏」の方は、後に見る「新宮城跡」にあった案内板に、「鎌倉時代の末頃には当地の地頭として土着」との事だった。

(拡大)森林の入口、階段上がると
(さらに拡大)日枝神社の鳥居
雨は増す一方で、「危険な場所に近付かない事」というお御籤の忠告もあったし(笑)この後に行きたい所への到達時刻を図って、この奥には入らず、先を急いだけど、ちょっと冬場に差し掛かった頃とか良さそうだな、と思った(^^ゞ。

ところで、矢部禅尼の長男(惣領?)たる「C光盛」の系譜は、鎌倉に奉公すべく関東に居て、「D盛時」から出た加納佐原氏なり、「E時連」から出た新宮氏なりが、先に陸奥に来て土地を管理したのかな?(奥州に家来や庶流を行かせた、って図に該当する(^^ゞ?)

ちなみに、「
C光盛」から出る芦名氏が本格的に会津に根付いたのは、1379年、(光盛を初代として)7代・直盛と見られている。

鎌倉の北条氏が滅亡し(1333年)、建武の新政がスタート(1334年)した後、北条氏の残党が起こした「中先代の乱」(1335年)で、主犯・北条時行に加担して、足利尊氏と鎌倉で戦い、戦死したのが、芦名氏6代・盛員

その跡を継いだ直盛が、後に鶴ヶ城(会津若松城)となる黒川城を開いた、最初の人物と伝わる。
明徳元年(1390)に世を去った。(2007年2月<東山温泉の朝>内および<鶴ヶ城、1>内

応永6年(1399)、幕府側から笹川公方や稲村公方なんかが送り込まれて来る頃は、陸奥では元々、南朝勢力が強かったせいか、伊達や大崎とともに、芦名もこれを阻止する側に廻ったようだ。

こういう動きと関係あるか知らんが(^_^;)、「加納佐原氏」が「新宮氏」に滅ぼされたという、応永9年(1402)は、その3年後の事だ。

その後、芦名氏は8代・詮盛が、「会津小太郎」と称して、すっかり定着。応永14年(1407)に享年62歳で歿。
次の9代・芦名盛政の応永年間(1394〜1427)には、一族だった北田氏A)や、新宮氏(E)と頻繁に合戦が起き、会津は、早くも芦名氏の勢力が伸び始めている
佐原氏系図(さっきのだけど(^^ゞ)

←案内板の城郭図。字が小さいんで赤い字で入れてみた(^^ゞ。
廻りを空堀、内部の外側は土塁に囲まれている。
今いる所から2段ほど曲輪を上がり、「南郭」「物見台」を抜けて、「北郭」に向かう構造。

左の道路は、「県道大平・喜多方線」で、さっきの熱塩加納村より来ている。

案内板によると、城の規模は、東西約160m、南北約250m。「物見台」(もしくは矢倉台)と推測される比高約10mの高まりと、南北二つの郭から成り、南郭の鳥居付近は土塁が二重になってるそうだ(゚.゚)。

昔は東城と西城があったのが、現存するのは西城にあたるこの城のみとなったが、遺構の残りは良好だという(^^)。
市指定史跡(昭和48年、喜多方市)



<新宮城跡>

地図G←次に向かうのはここ。拡大しても何も出て来ないけど(^_^;)、新宮城跡は平地で道路に面してて、建物など遮る物が全くないから、行けば辿り着くよ(笑)。

喜多方の市街も ( ^^)σ只 <カシャッ
有名な所は全く寄れなかったけど(^^ゞ

喜多方は(寄れなかったけど)「蔵の町」として有名で、特に酒造など物凄くレトロな建物と、あと喜多方ラーメンでも有名だね(^^ゞ。温泉では熱湯温泉で知られている。

史跡としては、今通ってる道路や、新宮城跡よりも東、喜多方から真っすぐ南下したあたり、だだっ広い平原で、「弾正ヶ原」という所がある。地図H
自由民権運動の発祥の場というか、市民に対する警察の武力鎮圧事件として知られ、私はこの旅行終わって、冬ごろから始まったスカパーの再放送で見たけど、NHK大河ドラマ「獅子の時代」(1980年)で扱われた事件だった。

ドラマは秩父事件までやったが、途中に喜多方事件というのがあって、それら騒動の舞台となった所だ。
今通ってる辺りだとまだ、農民たちが集結した「弾正ヶ原」より、彼らを弾圧した喜多方署の方が近いかな。地図I←今の警察署。当時の警察署とはあった場所が違う(^_^;)ゞ?

喜多方をドンドン南下して行く

「獅子の時代」再放送は1月に終わったけど、1月にやったNHKの関連番組(「日本人は何を考えてきたのか」第2回「自由民権、東北で始まる」)も録画しといたのだ(^^)v。
これは、今回の福島第一原発の事故で、強制退去となった浪江町にある、自由民権運動家・苅宿仲衛の家などを訪ねる番組だった。

「獅子の時代」の菅原文太も、震災の被災地・宮城県の出身で、ドラマに出た自由民権運動に今も思いを寄せ、土地の方と一緒に防護服を着て、その活動家の旧家を訪ねていた。
一緒に出てた人、今はこの喜多方に避難生活してる、と言ってた(;_;)。。

ただ、この初秋は、まだそういうのは一切知らず道を走ってて(^_^;)、それでも弾正ヶ原とか自由民権運動は、今回わりと詳しめの本を揃えたんで、予め知ってた。
かの三島通庸の悪名は、山形県の山寺や、栃木県の塩原でも轟いてましたし(笑)。

はい、到着。「会津新宮城跡(パノラマ4枚180度以上)

まんま、新宮氏の居城跡である(^_^A)。地図G

さっき説明した通り、「E時連」から出た「新宮氏」は、鎌倉末期に当地の地頭として根付き、南北朝〜室町前期には、会津北部から新潟県の東蒲原郡方面に勢力を持つ、有力武士として成長していた。

そして、青山城跡でも話したように、「
D盛時」から出た「加納佐原氏」を、応永9年(1402)に滅ぼすに至った。佐原氏系図(さっきのだけど(^^ゞ)

ところが、そのすぐ後、今度は黒川(会津若松市)に拠った「
C光盛」から出た芦名氏とたびたび争い、この城も合戦の場になったあげく、応永22年(1415)に城を落とされ、越後に逃げて、永享5年(1433)、小河荘(新潟県東蒲原郡阿賀町津川)において、芦名氏に滅ぼされてしまうのだ(*o*)。。 *何とも凄まじい*

←道路(336号線)に向いて建つ「新宮城址」の石碑
↑やはり道路に面して、数本の幟が立ち並び、「国指定 会津新宮城跡 新宮地区重要文化財●」と書かれていた。(下が翻ってて読めないけど(^_^;))

城跡は、全体が東西約480m、南北約440m。
こうした、平坦な場に方形に堀をめぐらす城館跡を、「平地式の方形居館」と呼称する。

周囲に幅15〜20mの内堀と土塁を方形(ロ字状)にめぐらした、東西100〜120m、南北120〜130mの主郭と、その外側を天然の谷を利用した外堀で広く囲む外郭からなり、1300年代〜1400年代前半の、戦国以前のものとしては、東北有数の規模。

隣の敷地(さらに南側)には、史跡見学用の広い駐車場が設置され、案内板もある(^^)↓

これね☆ミ 真ん中の立て看板は「長床」と書いてある(パノラマ3枚ほぼ180度)

↑ここから「新宮城跡」の側面(南側)が見渡せる(^^)。さっき見た道路に面してたのは東面。

長床」というのは、この後行くけど、「新宮熊野神社」の拝殿の名称。
「←こっち」と図示してあって、さっきの336号線が→こっちね(^^ゞ。「城の背後にある神社」と言えばいいかなぁ。

←これが、この後に行く「新宮熊野神社」の駐車場にあった神社周辺の案内図なんだけど、中央上が「熊野神社」で、真ん中の十字路が鳥居のある神社入口。右下の「新宮城跡駐車場」という敷地に今まだ居る。

この熊野神社には、新宮氏の寄進した銅鐘が、今でも残されている。

新宮氏の一族については、発掘調査によって判明した遺構と、出土した品々から、財力・勢力ともに極めて大きい事が浮かび上がった。以下の内容が、イチイチその事をよく示している。

←こっちは今いる新宮城跡の隣の駐車場にあった発掘資料パネル。右上が遺構の見取り図。右下2枚が発掘現場。左4枚が出土品(上から2番目を下↓に拡大。「象の横顔」)

まず遺構は、「礎石建物跡」が見付かった。(↑左の写真、下3枚の内、真ん中)
……礎石って、よく平安期の大型寺院の「ナントカ門」とかで見る奴だよね(^_^;)。
通常は穴を掘って、柱根を埋めるだけの掘立柱建物が多い中、ここでは、土台石を用いて建物を立てていた。

もう一つ、国内最大級の「方形木組遺構」が見付かった。(↑左の写真、下3枚の内、右)
これも、通常の城館跡には見られない遺構である。(うん、あまり聞かないよ(^_^;))

次は出土品だが、陶磁器類など、12世紀から15世紀前半のもので占められ、文献史料から知られる新宮氏の盛衰と一致する。

まず大陸や半島(高麗)舶来の、青磁・青白磁が↑左の写真だと、左の上から3枚まで。
この時代の出土事例として希少で、当時としても勿論、相当な高級品。
上=青磁筒形香炉・青磁器台
中=青白磁の象(右の写真「象の横顔」で拡大しといた( ^^)σ↑)
下=高麗象嵌青磁←器面に陰刻で図柄を描き、黒褐色や白色の土を埋め込んで焼いた青磁。14世紀代を中心に高麗で生産された。

次に国産品だが、珠洲系の陶器や古瀬戸、かわらけが出土した。
かわらけは、素焼きの小皿(小椀)型土器で、「主郭」から大量に出土している。東北地方の中世城館跡でまとまった出土事例は少ないそうだ。

かわらけは、「灯明皿」として、また、儀式や宴会の膳に供する、杯、取り皿、小分け皿などに用いられたが、一回の使用で使い捨てにされたと考えられる事から、出土数が多いほど、多くの客を招待して、宴会、儀式を何度も行った事が窺われる。

このように例を見ない建物を建て、高級な陶磁器類、大量のかわらけなど、全て新宮氏の財力勢力の大きさと、それに伴う政治的地位の高さが窺え、かなりの力を持った領主像が想定される。

以上に見る通り、会津新宮城跡は、遺構、出土品ともに保存状態が極めて良好で、これらに加え、規模、文献史料との整合性など、来歴を後づけられる点においても、優れて貴重な遺跡と言える。



<熊野神社・長床>

さっき示した通りに行くわけだが、地図的にはこうね(^^ゞ→地図J
新宮城跡から歩いても、わりとスグじゃないかと(新宮城跡=地図G)。どれぐらい距離があるか判らなかったので、我々は車で行ったけど(神社にも駐車場はあるよ(^^))。

新宮熊野神社」鳥居前(パノラマ2枚)

↑左に駐車場、その奥に見える赤い屋根が拝観所。

「新宮区」の宿願が叶って、国・県・市の指定を受けた文化財の保存と公開を兼ね、区民と多くの人々の支援で「宝物館」が出来たものの、建設費の償還や、この先に見る「長床(ながとこ)」の屋根を葺き替えるなど、大きな維持管理費が負担となっているので、拝観料を浄財として充てさせて頂きたい……といった、「お願い」が書かれていた。

てっきり、拝観所が資料館なんだと思ったが、まだ閉まる時間には早そうだから、取り合えず入場料(と思ってた)だけ先に払い、「拝観は後でね。まずは神様にお祈りしないとね(^^)」とズンズン鳥居を潜って先に進んだ。

で、参道の途中、右手に「宝物館」を見付け、「こっちで払うのか(^^ゞ」と曲がって入り、見終わって出たけど、どこにも支払う場所が無い(゚.゚)。
「さっきのが……拝観料?」と首をひねって、参拝の後もう一回訪れたら、そうだった(笑)。

ここには指定重要文化財が何点もある。内部には盗難防止のセキュリティもついてる。金がかかるのは当然なんだから、宝物館の入口で、バシッと金を取っちゃっていい気もするんだが、随分と腰の低い姿勢でやっておられるなぁ、といたく感心してしまった(^_^;)。。
……が、この件は、後でまた書く(笑)。

↓こちらは鳥居の道を挟んでお向かい。立派な土蔵じゃ(^^)。また雰囲気も濃厚でヨロシ☆ミ
←改めて鳥居。すんごい太い注連縄(゚.゚)。まずこれにビックリした!山陰は出雲出身の亭主も、「スゴイ!」と声を上げた。

ちなみに鳥居は貰った絵葉書にある記述から、その後も変わりが無ければ、享保14年(1729)に作られたもので、注連縄の方は、3年に1度、氏子さんが奉納するそうだ(^^)。

実はこの会津北西部から西部にかけた地域に関心を持ったのも、特定のどこの史跡と言うより、何となく全体的に古そうな感触を持ったからで、その一つがここ、熊野神社だった。

創建の由緒は、あの前九年の役(1051〜62)の前後、源頼義・義家の勧請に遡る。

……これまでも言った事あるが、東北や関東で、源頼義・義家が「前九年・後三年の役」の武運を祈ったり、加護に謝して、勧請・創建した(の発端となった)とする寺社の類は、実にいっぱいある(^_^;)。。
河内の人だから、道すがら東海・中部あたりにもあるんじゃないかと。

「全部ウソ(^。^)」と言いたいわけではなく、前九年・後三年の頃は荘園整理令とか出た時期に近く、何らか社地っぽく登録・認知された土地が本当に多かったのかも(^_^;)。
全国に荘園が行き渡り、奥州戦争も、遠隔地まで出掛けて地権をゲットする時代になってた事が遠因するんだろう。

ただ、ここほど詳細が刻まれてるのは、あまり読んだ事がない(^_^;)。
源頼義・義家や前九年・後三年の役と関係あったとしても、多くの伝承地は大抵、それより後に具体的な発起縁起らしきが控えていて、その前段として出て来る例をよく見る。その後との継続性が不明な事が多い。

そんな中、この熊野神社については、この後に行く「陣ヶ峰城跡」などと合わせ考えると、義家の頃から、頼朝の奥州平定までの間、由緒に記される「三百余の末社」「百余人の神職」に信憑性を感じやすい。

ちょっと、そうした視点で以後を書く(^^ゞ。
↑デカイ注連縄の下を潜るだけで縁起良さそう〜♪。潜ってすぐ左に支え木に身を乗せる巨木→
(デジカメの蓋が湿気で開けきらず、ちょっと端に被さってゴメン(^_^;)。今回はこういうの多くて)

奥州平定を命じられた、鎮守府将軍・源頼義と、その子・(八幡太郎)義家は、紀州の熊野三所に武運を祈願した折、「平定の暁には、熊野三所を陸奥のいずれかへ勧請し、国家鎮護の祈願所とする」と誓った。

天喜3年(1055)、勝利を得た機に、阿沼郡熊野堂村(河東町)に「熊野三社」を勧請した事を始まりとする。


……ちなみに、この「天喜3年(1055)」は、まだ全然「勝利」に至ってない(^_^;)。
前任者が「鬼切部の戦い(1051年)」で安倍氏に敗退した後を受け、源頼義が陸奥守として赴任したのが1052年、しかしこの年、賊視された安倍氏も大赦で許され、頼義はさらに1053年、鎮守府将軍と兼任となってるから、陸奥に居た事は間違いない。

源氏が陸奥において安倍氏と緊張状態へと発展するのは、1056年の「阿久利川の戦い」からなので、強いて言えば1055年は、安倍氏と平和共存的な間柄だったと見られ、その感謝として祀るとか、中央文化の委嘱という意味合いなら納得できる。
(2010年1月<えさし藤原の郷・A「見返り坂」周辺>内<阿久利川の戦い>


↑さらに先に進む。雨に塗れる緑が爽やか(^^)

前九年の役が平定されてから年数を数え、若かった義家も中年を過ぎ、再び奥州にやって来る。

後三年の役(1083〜7)による兵乱渦中の)応徳2年(1085)、義家は父・頼義の(陸奥のいずれかへ勧請すると神に誓った)意を継いで、熊野堂村(河東町)から「熊野三社」を、この地に移したと伝わる。
着工して4年後の寛治3年(1089)に完成、遷座に至った。


この「応徳2年(1085)」と、妙にハッキリ特定されてるのも目を引く(゚.゚)。
後三年の役は、永保3年(1083)に、清原真衡(途中から源義家が助勢)と、その異母弟・家衡(異父兄の藤原清衡(奥州藤原氏初代)が助勢)の間に起きたが、たぶんすぐに家衡側が負け、しかも勝った真衡が急死して、恐らくその年の内に終わっている。
(2010年2月<えさし藤原の郷・D「大路」「街並み」→出口>内<真衡×清衡・家衡、「白鳥村の戦い」>内

応徳3年(1086)に起きた乱は、再燃と言うより、三年前は味方同志だった藤原清衡清原家衡の異父兄弟の間で新たに起こった戦いで、その三年の間は戦いらしい戦いがあったという記録も無い。
(2010年2月<館山史跡公園(岩谷堂城跡)、「二清院」>内<義家・清衡×家衡、「沼柵の戦い」>以降)

なので、その平和な合間、陸奥守として赴任中の義家が、前に勧請した神社を別の地に移し……といった事がありそうにも思える(^^ゞ。


こうした記録は、この神社の記録だろう。「新宮雑葉記」という物に書いてあるらしい。
そして、
義家によって移された後、三社の内、「新宮」が本村に、「本宮」が岩沢村に、「那智殿」が宇津野村に、各々別々に祀られ、さらに後に合祀された……と、これまたえらく経過に詳しい(^_^;)。

そして、さっきも書いた通り、
「盛時には末社・霊堂が軒を連ね、三百余の多くの宗徒、百余人の神職を常に置き、国家の安全を祈願し、奥州における熊野と称され、熊野の威勢を全国に知らしめ、崇高されて、新宮本庄と呼ばれる供田は35ヵ村に及び、二百町余、十万八千刈に及ぶ領田を持っていた」と綴られる。

←正面に「長床」が見えて来るが、着く前に右→に「宝物館」が見えて来るので、そちらに先に入る。

ただ、雨でデジカメ調子がやや悪く、「大イチョウ」(市指定天然記念物)の写ってるのがコレしかないので、ここで書く。

神社創設の折に植えられたと口伝され、目通り7m80p、喜多方市内最大。主幹が折れる前は、遠く会津若松市からも見れた程大きかったとか(゚.゚)

今でも幹や枝からは「ちち」が数本垂れさがる。
この時はまだ緑色だったけど、黄色く色づく頃には、この前の地面は真っ黄色で綺麗なんだろうね〜(≧▽≦)。

やがてこの熊野神社は、「文治5年(1189)、会津四郡の領主となった佐原義連によって、寺社領悉く没収され、衰退を余儀なくされたが、建久3年(1192)、新宮の長吏鎌倉に上って、源頼朝に神社創建の経緯を説明し、社領の安堵を訴えたところ、頼朝より再び社供二百町の印証と、文殊菩薩の像を賜り、安置せられたとある。

文治5年(1189)は奥州藤原氏が頼朝に滅ぼされた年だから、佐原義連が寺社領に手を下したのも、その後、頼朝が社供を与えたり、仏像を置いたりするのも、戦後処理の流れからだろう。

頼朝は奥州の伝統ある寺社には、かなり手厚い保護を与えたようだから、その一端だろうとは思うが、あるいは、先祖・頼義・義家の由緒ゆえに厚く遇した、という事も想像する。
ただその場合も、「先祖より伝来の言い伝えなどで、既に知っていた」のでない事は、長吏からの訴えを聞いて、初めて所領安堵と仏像安置に及んだ点から見て明白だけど。

途中を右に折れ、道路向こうの「宝物館」に入る(^^)↓
ここが凄かった(≧▽≦)。「木造文殊菩薩騎獅像」→
頼朝が安置した文殊菩薩像がこれなのか、この仏像の内部に収まってるような記述も見る……

ここは特に撮影禁止の注意書きも無く、後で聞いた所、特に問題って回答でもなく、歴史の話もたくさん聞かせて下さった。
他サイトでも写真を乗せてる人いっぱいいて、同じような事を書いてるんで、一枚だけ載せさせて頂く。

と言うのも、宝物館の設立主旨からも、「何しろ見て欲しい、知って欲しい」という強い思いを感じるのだ。この場で入場料を取らないのも、「長床」(が非常に有名)だけ見て、満足して帰っちゃう人が多いからかも、と思った……と言うか、自分もそうした気がする(^_^;)ゞ。

正直私は仏像って全く惹かれないタチで(笑)、奈良や京都行ってもアクビの連続なんだけど(爆)、ここのは入った途端、目が点状態だった!
殆どの仏像に退屈な私が、これだけ言うんだから間違いない。絶対間近に見るべき!(と、強く思うんで、敢えて写真も掲載したワケ)

この文殊菩薩像が一番凄かったけど、確かに陳列品には他にも凄い作品が多く、亭主も物も言わずにだいぶ見入ってから、「見た事ない物ばかり次々と見た!」と驚いてた。

この文殊菩薩像も、「藤原時代の作風が見られる」と書いてあるものの、他の特徴とつけ合わせると、「鎌倉時代の初期の作」と考えられるそうで、思えば東北では、よく鎌倉時代の作品を見る機会が多い。

どう言うのか……羽黒山の国宝・五重塔と言い、去年見た法用寺の五重塔にしても、今すぐにでも動き出しそうな、躍動的というのを越えて、物凄く生々しい印象の物が多い(^_^;)。。単に巨大だからではない気がする。

この文殊像は歩く獅子に乗る姿が珍しいそうだが、それだけじゃなく、菩薩の体がやや前のめり気味に獅子の背中に沈み込んでて、少しユラユラ揺れてるように錯覚させられ、コワイと言うか、有難いと言うか、何とも言えない、泡立つような感情を呼び覚まされる。。

元に戻って「長床(ながとこ)」到達(^O^)(パノラマ3枚ほぼ180度)

↑実際には横に真っすぐね(^_^;)。新しいデジカメはどうも、カクンカクンと極端な角を作って並ぶんだけど、パノラマなんで魚眼な点は前のと変わらない(笑)。

国指定重要文化財(建造物)。
これがここ、熊野神社の「拝殿」である。この先(裏と言うか)にさらに階段が設けられ、上った先に、三社の本殿(本殿3棟)が構えられている。

拝殿の長さ、9間×4間。茅葺寄棟造り。柱は直径1尺5寸(45.4p)の円柱44本が5列に並び、各柱の間は10尺(303p)の等間隔で全部吹抜け。
外廻り一間通りが化粧屋根裏の庇の間として区切るように並べてあり、中央桁行7間、梁間2間のところは天井を張った身舎(もや)となっている。
各柱の上には、平三斗の組物がのり、中備には間斗束を用いている。

内部に上がる。↓今来た参道を振りかえる(パノラマ5枚180度以上)

↑とは逆側↓。さらに先の本殿へ続く階段が見える(パノラマ5枚180度以上)

冷たい雨と、そろそろ鬱陶しくなってきた湿気からようやく解放され、広々とした空間が身に染みてホッとする(^_^A)。
冬は大雪に囲まれるだろうけど、これだけ周囲が開け放ってあるのに、ドッシリとした安心感があるのには驚いた。

現在の建物は、昭和46〜49年(1971〜74)に解体修理・復元したもので、その時の調査の結果、この前に修理した慶長19年(1614)は、慶長16年(1611)の大地震による倒壊のため挙行されたのだが、旧材を再使用したため、柱間寸法が縮んで、身舎9尺(272p)庇8尺(248p)となっている事や、組物や天井等を廃したり、軒はせがい造りに改められたりしていた事が判明した。

なので、当初の姿に出来るだけ戻したというから、今見てる長床の方が、江戸時代に建ってた物より、旧来のスタイルに近いんだね(゚.゚)。

「当初」とか「旧来」と呼ぶ時代は、各所に残る部材の様式手法から、平安末期〜鎌倉初期の物と推定されるそうだ。

何度も存亡の危機に遭いながら、旧来の姿を残して、今に復元されたというんだから、それだけで感動だが、さらに前身を源義家が遷座のため建立し、完成した寛治3年(1089)に遡れば、1124年の平泉・中尊寺・金色堂や、1160年の白水・阿弥陀堂より古く、東北で一番古い事になる。

黒々した天井。目線を下ろすと……
本殿に向かう側に祈祷台が設置

長床から見える本殿。上に上ると、これと同じ形式の本殿が横に三つ並んでいるらしい。
そこまで行ってない(^_^;)。実はこの時、湿気でデジカメのシャッター下りるたびに蓋が閉じるんで、外気に触れる間を置きながら撮ってたんだけど、そろそろシャッターも押せなくなりかかってたので、行っても写真は無理だったかと。

この本殿、何か変わった印象になるのは、入母屋造の上部(切妻部)が、こっち向く鳥の嘴のように見える点かな(^_^;)。妻入りという(横向きじゃない、顔がコッチ向いてる)屋根形式なので、尚更、巨大な鳥が挑みかかって来る雰囲気がある。

あと千木って言うのかな、トサカみたいのが三本あるのが、ツノみたいに見えるのも何かスゴイんだけど。。

屋根の形式については、春日造りとか熊野造りとか書いてあるけど、本家・紀州の熊野神社の写真を見ても、こんな風じゃない気が……(^_^;)。。亭主は「恐竜だ」と言ってた。羽黒山の五重塔でも言ってたけど(笑)。

一番上のが本殿の三社(横から)→
これは案内板の写真(^^ゞ。

カメラの不備が気になるのもあったけど、この時はまだ、拝観所を資料館だと思いこんでたから(笑)、閉まる前に行かなきゃ……と、本殿まで行かずに引き返した。

ただ、それはそれでラッキーだったのは、拝観所の方が、ご親切に昔の絵葉書を下さった(≧▽≦)。
そこに書いてあるのだと……、

(向かって)左=那智山飛竜権現殿/中央=新宮証誠殿/右=本宮十二社権現殿

とあり、形式は同じ物らしいけど、案内板には、修理の仕方がマチマチで、建築は室町時代の末期に作られた形式、1600年ごろ大修造、とあった。

室町時代の末期と言うと……芦名盛氏とかの頃かな(^^ゞ?

←拝観所の休憩室にあった「会津まほろば街道」の絵地図♪
↑八咫烏のお守りっ☆

ここの係の方がこの辺りの歴史に詳しく、ず〜っと付き添ってお話しして下さった(^o^)☆ミ
今回の旅行は、前回の会津若松と言い、小野川温泉の旅館と言い、現地の方とじっくり語り合う機会が多く、もしかして震災の風評被害の影響で、特に心掛けてる部分もあるかもしれないけど、まさに「絆」を感じる旅行だった。

歴史については、郡山あたりなどは、昔は荒涼たる土地で人があまり住んでなかったけど、この西会津の地域は相当古くから仏教文化が隆盛を極め、↑の地図にある通り、広範囲にその痕跡を残していた。

ところが戦乱で荒廃しまくり(;_;)、何とか残ってた物なども廃仏毀釈で亡失して(TOT)、それでも何とか寄せ集めた物を宝物館に陳列してあるらしい。

そう、鎌倉時代より後の話もしないとね……。

新宮氏については、熊野神社においても、やはり佐原義連の孫、佐原六兄弟の末弟「E時連」の名が上がり、 建暦2年(1212)、新宮城を築く」とあって、新宮城跡にいう土着化(鎌倉末期)より、だいぶ早い築城を唱えているものの、「新宮熊野神社を守護神として崇め、現存する数々の神器を寄進」とあるのみで、それ以上の言及は見ない。佐原氏系図(さっきのだけど(^^ゞ)

←ここは神社の隣……と言うよりは、殆ど神社の敷地という気がするが(笑)、「駿河館跡」を探している。

新宮氏を滅ぼした芦名氏が、新たに熊野神社の守護に任じた、西海枝(さいかち)駿河守の館跡という。

六地蔵の並ぶ小屋から、農道が出てるだけで、「ちょっと判らないね(^^ゞ」と諦めて先を急いだが、後でこの城に行った人のレポを探しても、やっぱこういった所のようだった(笑)。

新宮氏の、先に見た新宮城における豪勢な暮らしぶりや大きな力の持ち方と、この熊野神社との近さを見ると、何かこの神社自体に関わる特別な権益みたいものが存在したんじゃ……という気にはなる(^^ゞ。

実際、さっきの新宮城跡でも見た通り、新宮氏は永享5年(1433)に滅亡するが、この新宮熊野神社は繁栄を続けたという……(^_^;)。

ところがそれが、戦国期の永禄(1558〜69)天正(1573〜91)には、社家・山徒は法務を忘れ、民衆も年貢を怠って供料もなく、荒れ放題となった。
中でも象徴的なのが、天正17年(1589)、社士某が重要書類を盗んで伊達政宗に降り(・・;)、他の社士も逃亡し、衰微に向かった、という事件が伝わっている。


左・六地蔵の裏、奥は宮司さんの家?
前方・駿河館跡の方面かな、と(^^ゞ

地図K←史跡巡り用の本に書いてある位置で、今イチ不明瞭だが、だいたい新宮城跡(地図G)と熊野神社(地図J)の間辺り、と言っていいかなぁ。

慶長6年(1601)、蒲生秀行が会津に入部し、神社の由来を知って補修を加えたが、慶長16年(1611)に大地震が起こり、本殿以外、長床など全ての建物が倒壊。

しかし、その後も山崩れなどで倒壊・破壊が起こるたび、蒲生・保科(後、会津松平)氏によって、社殿の再建や修復が行われながら、新宮熊野神社は「会津七大社の一社」として、藩の祈願所になった。

明治4年(1871)、没収され、廃仏毀釈の煽りで、什物など多くを失う。

が、昭和に入ってからは、「銅鐘」が国重要美術品、「銅鉢」「長床(拝殿ね、私らが中に上がった(^^ゞ)」が国重要文化財、「牛王版木」「銅製鰐口」「木造文殊菩薩騎獅像(宝物殿にあった、獅子に乗った文殊さま)」「御神像6体」「本殿3棟(奥の本殿ね(^^ゞ)」が県重要文化財に指定される。




<陣ヶ峯城跡>

↑に行くには、さらに南西に向かう。途中で阿賀川を渡るが、橋に行くまで少し川に沿って走る箇所がある。

ここね(^^ゞ。阿賀川がしばらく見られる
泡の巻橋」を渡る(地図L

この橋渡らずさらにちょっと行くと、地図には「安部仲麿神社」というのが出て来るケド……μ(。。)m

阿賀川を渡ると
やや折り返しつつ南下

さて、次なる「陣ヶ峰城跡」だが、これまた古代の痕跡を残す城跡で、その背景として、平安末期に平家方についた北陸勢力「城氏」の存在が伝承されて来た。

すなわち「(四郎)長茂が会津進出の拠点として築城」といわれる物である。

そう聞くと、同じ福島県でも、会津若松をさらに西部に行くと、新潟がだいぶ近いな〜なんて改めて思う(^^ゞ。
と同時に、前に行った「慧日寺」においても、城氏をはじめ平家勢力に加担した寺社勢力として「乗丹坊」というのが出て来たのを思い出す。(2009年1月<如蔵尼と乗丹坊の墓・龍宝寺「不動堂」>内

さっきまで居た「新宮熊野神社」で、「八幡太郎・義家の後、源平動乱のある平安末ごろまでの間に連続性が云々」といったのは、こうした地域性がある。

ただし行ってみたら、城氏の事も乗丹坊の事も、何も書いてなかった(^_^;)。
ちょうどそこに公民館があるのだが、開館時間なら中で何か見れたのかもしれないが、閉館していたから、藪と案内板だけ見た。


地図M←「陣ヶ峰城跡」。河沼郡会津坂下町にある。ちなみに「坂下」は「ばんげ」と読む。

中に入って行ってしまうと、返って城跡の全体像がわかりにくくなるので、先に案内板にあった全体図から入らせて貰う(^^ゞ。

見取り図
上空より(航空写真)

↑どっちも大きくないけど(^^ゞ、城跡の底辺が道路に面してるのは見れると思う。道路からは、城跡の右下部分から入って行ける(だいぶ藪の中だけど)。

すると、図で見る、中央右寄りに唯一ある建物に突き当たる。この建物が「公民館」で、左寄りの一帯が遺構として、三つの区分から構成されている。

左半分が「主殿」。掘立柱建物跡。
右は上部が「厨(台所)跡」、下部が「馬場跡」。

同じ部分を、右の航空写真で見ると、全て明るい緑色に見えて、大きい木など伐採された広場になってるのでは……という具合に見える。

が、そんな具合だったかな。どうも覚えがない(^_^;)。
暮れが近付いてたので、早々に引き上げ、次の史跡に向かったから、じっくり確かめたわけではないけど、ネット上同じように訪れた人が、奥の広場らしきに到達した様子も見ない(笑)。

では、入ってみよう(^O^)。

←「陣が峯城跡」の案内が立っている。
↑藪と水が多いが、車一台入れるぐらいの道

この「陣が峯城跡」なる案内棒は、道路を何度も行き来して、やっと見付けた。薄暗がりで葉影にあるので、見付けにくいかも。
突き当たりの建物(公民館)の横腹は最初から、チラッと見えているけどね(^^ゞ。

ただ……建物まで行き着くと、地面が水浸しというか、殆ど池のように水が満々とあって、まず、公民館の周辺から離れようという気にならない(笑)。この日は長雨だったからだと思うけどね(^_^;)。

「川西公民館」正面(パノラマ3枚ほぼ180度)

↑ここに着いた。廻って正面に来たんだけど、ここまで来ると、水浸しって程でもない(^^ゞ。
さっきの見取り図・航空写真で言うと、三つに区画分けされた城跡(居館)部分は、この裏手という事になるね。

もう辺り一面、池って感じだったから、これ以上は行かなかったけどね(笑)。

ただ、ここはこれでナント、「国指定史跡」だった(゚.゚)。
案内板によると、やはり「平安末期(12世紀代)の城館跡」とあったものの、さっきも言った通り、「城氏」の事は全く触れておらず、代わりに、「会津坂下町は摂関家領蜷河(いながわ)であることから、ここにはその中心的施設が置かれていたと考えられます」とあった。

そういう事か(゚.゚)。

城跡はさっきも示した通りで、規模は、内部が東西約110m、南北170m。

「会津坂下町川西公民館」
北の「主殿」から出土した発掘品

出土したのは、中国産の白磁四耳壺・水柱、高麗青磁などの奢侈品と、税金の基準となる権(秤の錘)など。
東の「厨(台所)跡」からは、火災の跡(炭化した椀・盤と大量の飯類・穀豆類が出土)が見付かったという(・・;)。

ま、火災って昔は珍しくないが、つい劇的な光景を想像してしまう(^_^;)。

一方、城の周囲は、段丘崖となる東側以外は、全て二重堀になっているという(゚.゚)。また、入って来た西側だけ土塁がある。

この辺りかな(パノラマ3枚ほぼ180度)

何か超スピードで森林に入って行くような、物凄い迫力ある画面になっているが、勿論そんな狙いは一切なく、単に左右の二枚が、暗さと湿気で焦点がボヤケてるだけ(爆)。
こんな効果が出来るんだーと、今見て驚いている(笑)。

「二重の堀」と言われる周囲(^^ゞ
だいぶ暗くて写りが今イチ(>_<)。。

「このような立地で二重堀の巡る城跡には、奥州藤原氏の拠点である岩手県平泉の柳之御所遺跡があります」とも書かれていた。
柳之御所跡は前に行った(^^ゞ→(2010年5月<柳之御所跡>

城の持ち主については、かなりハッキリ「摂関家」とされてるのにちょっと驚いたけど……確定(笑)?
陸奥における摂関家領については、平泉の中尊寺や毛越寺に行った折、奥州藤原氏との関係で随分述べたが、ここもそうだったとは知らなかった。
(2010年3月<中尊寺・参道、2(総門〜本堂〜讃衡蔵)>内以降、2010年5月<「毛越寺」C、遣り水〜東大門跡>内<9、摂関家との関係(1148〜1152)>内以降)

前話した事に付け加えると、院政期の摂関家は旗色が悪く、家司・家人らの勤仕が減りに減って、儀式など遂行できなくなった(^_^;)。
そこで当主の藤原忠実は苦慮し、故人の所領名義を自分の名義にしたり、支流の所領を自分の元に集約したり、結構あくせく奔走する。。

雇用制度(というか(^_^;))も然りで、鎌倉幕府が整えた「侍所」や「政所」も、元を辿れば摂関家の家政機構を発端とするが、やはり忠実の時代に、摂関家の台所事情から生じたり、充実した内容が多いという。(タイムカード制だったんだよね(^_^;))

そうした財政事情の中、遠隔地の在地勢力と直接提携の必要性が強まり、在地豪族の中でも有力なのが、陸奥では奥州藤原氏だったから、摂関家と奥州藤原氏の関係は深い。4代・泰衡の母は摂関家と縁続きだった。

……実は、さっきの新宮熊野神社の社伝の中で、佐原義連によって「寺社領悉く没収され、衰退を余儀なくされた」という表現に、かなりキツイ印象を受けた。

要するにこの地域は、頼朝軍の来寇に対し、奥州藤原氏側に立って、かなり強い抵抗の姿勢でも見せたって事ではなかろうか(火災の原因がそれかはワカランが(^_^;))。

その後の安泰を得るため、源氏に起因した由緒を持つ(これも別にウソとは言わないが(^_^;))事を持ち出し、一転、強力な安堵と保護を受けた経緯を考慮に入れる必要はあるが、土地伝承を見て歩くと、確かにとても面白い地域だと思った☆ミ

以上、関連事項は(だいたいね(^^ゞ)
2007年2月<東山温泉の朝>内および<会津藩主松平家墓所>内および<鶴ヶ城、1>内
2008年7月「千葉県の動乱」vol2<武田氏と里見氏と小弓公方(1503〜1537)>
2008年5月「戦国武将一覧」の「北条早雲」内
2009年1月<如蔵尼と乗丹坊の墓・龍宝寺「不動堂」>内
2010年1月<えさし藤原の郷・A「見返り坂」周辺>内<阿久利川の戦い>
2010年2月<えさし藤原の郷・D「大路」「街並み」→出口>内<真衡×清衡・家衡、「白鳥村の戦い」>内以後
2010年3月<中尊寺・参道、2(総門〜本堂〜讃衡蔵)>内以降
2010年5月<「毛越寺」C、遣り水〜東大門跡>内<9、摂関家との関係(1148〜1152)>内以降
   〃   <柳之御所跡>
2011年6月A<大内宿に向かう>内
2011年8月<亀ヶ城(猪苗代城)>および<土津神社(保科正之の墓所)>内




次回も続いて、東北(山形〜福島〜栃木)レポ、第4弾!

2日目はこの後、同じく福島県の会津坂下の「恵隆寺」と「心清水八幡神社」を廻って、会津柳津温泉で2泊目(^_^A)。
3日目を迎え、柳津の「圓蔵寺(福満虚空蔵尊)」にお参りするっ(^O^)!

<つづく>

2012年03月23日
 
     






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