■ 北条氏康 ■


(1515〜1571)

北条氏の祖は北条早雲(伊勢新九郎)だが、素性は定かではなく諸説あり、室町幕府政所執事・伊勢氏の出身という説が有力とされている。(詳しくは北条早雲を)

二代目の氏綱は事実上、北条氏の基礎を築いた人物で、初代・早雲によって相模を手中にはしたものの、支配の中心は伊豆にあったので、氏綱は自分の代になって鎌倉で検地を行い、代が代わるたびに検地を行なう先例を示した。

これらの行為は、関東管領職の山内と扇谷の「両上杉」氏を意識しての事と言われ、そもそも(後)北条氏を名乗ったのも氏綱の代からだが、これも北条氏=鎌倉幕府執権=室町幕府管領という図式、すなわち関東制覇を意図しての改姓とも言われる。

永正12年(1515)、氏康は氏綱の嫡子として、小田原に生まれる。幼名・新九郎。
諸学に広く通じ足利学校の復興などにも努め、詩歌は三条西実隆に学び、かなりの詠み手だったという。

天文7年(1538年)の第一次国府台合戦では氏綱主導だったが、氏康も足利義明・里見連合軍と戦い、敵の総大将・足利義明を討ち取って勝利を収めている。

これも関東管領・上杉氏を意識すれば大きな功績で、北条氏は、関東管領を上回る古河公方家にとって功労者となり、その2年後の天文9年(1540)、氏康の妹が3代古河公方・高基の子、晴氏(4代)に嫁ぎ、5代公方となる義氏を生んだ同年に、氏康は家督を相続するのである。

天文10年(1541)、氏綱の病没によって氏康が家督を継ぐ。26歳。
小田原城を本拠とし、武蔵攻略を着々と進めるが、4年目の天文14年(1545)に危機が訪れる。
北条氏の勢力伸張を前に結束を強めた山内上杉憲政と扇谷上杉朝定の連合軍が、北条軍の前線基地・河越城を包囲したのである。

しかも、婚姻関係によって北条氏と友好を保って来た古河公方の足利晴氏も、北条氏に危機感を持つようになり、両上杉はこれを味方に引き込み、さらに駿河の今川義元も呼応して、氏康の背後を衝こうとしていた。

この四面楚歌から、甲斐の武田信玄が氏康を救った。氏康と義元の間を調停し講和を結ばせたのである。

窮地を脱した氏康は、翌15年(1546)4月、籠城をつづける河越城の救援におもむき、駿河長久保、武蔵河越の両城を出城として、上杉憲政、今川義元らと戦った。
8000の兵力で両上杉・足利連合軍数万に夜襲をかけ勝利した「河越の戦い」として有名で、一方の朝定が戦死した扇谷上杉氏は滅亡、関東管領の山内上杉氏は上野に、足利晴氏も古河に敗走して、北条氏の武蔵支配が確定した。

武名を上げた氏康はさらに下総古河城を落とし、この後、安房里見義弘の水軍や、甲斐の武田、駿河の今川とも戦うわけだが、領地については、氏康の代には、その版図が武蔵以北に伸張しなかった。

と言うのも、早雲の時代には古河公方と関東管領の上杉氏が戦い合い、さらに古河公方の親子兄弟同志、また上杉家の宗家・分家同志で内輪揉めをしていたのが、氏康の時代になると北条氏は脅威となっており、関東が北条氏に丸呑みされるという危機感から、管領上杉氏は関東を放棄して越後に逃げ込み、時の越後守護・上杉謙信(当時はまだ景虎、あるいは政虎と呼ばれていた)が関東に遠征して来る時代になっていたからだ。
特に関東管領上杉氏の要請を受けた謙信がたびたび関東に出撃してくるため、その対応に追われて、 中でも上野は、北条・上杉・武田の競合三者による争奪の場となった。

関東では強大になった北条氏だが、氏康の時代には匹敵する他国の敵も強大になって、合従連衡織り成す世界となっており、今川義元・武田信玄・上杉謙信の現役時代にもあたるため、盟友という存在はないが、比較的同盟関係が継続したのは信玄であり、生涯でもっとも数多く、しかも苛烈に対戦したのは謙信である。

氏康は武田・今川両氏との婚姻外交の成功によって、後顧の憂いを断ち、拡張政策を進めた。
すなわち、天文23年(1554)、信玄の娘が氏康の嫡子・氏政に嫁ぎ、氏康の娘が義元の嫡子・氏真に嫁いだ。この三国同盟は、義元の戦死で崩壊したものの、武田氏との親交はしばらくつづいた。

氏康は8男7女と子供に恵まれ、さらに家庭も円満だったと見え、嫡子・氏政以外の男子(氏照・氏那・氏規・氏忠・氏堯)は共に協力しあって領国内支城の城主となり、支城制を固める役割を果たした。

氏照には大石氏の跡を継がせて滝山・八王子城主とし、氏那に藤田氏を継がせて鉢形城主、氏規を韮山城主、氏忠を佐野氏の後継、氏堯を小机城と隙間なく協力体制を築いた。末子の氏秀は上杉氏との同盟の際に人質となり、のち謙信の養子(景虎と名乗る)となっている。

さらに三国同盟ともう一つ、古河公方・足利氏との婚姻により、その権威を最大限に利用した。
5代目の古河公方・義氏は、氏康にとっては甥になり、鎌倉の鶴岡八幡宮における公方就任の時から手中にあって、北条氏に威光が移った事を内外に示したので、謙信は対抗上わざわざ越後から鶴岡に出掛けて来て、関東管領職に就任する作法を取った。

房総の里見氏とは海を隔てて近く、互いに攻防を繰り返し、陸路を北上すれば、三国同盟と対抗するように里見と同盟した謙信に対峙を迫られる、という図式に挟まれた。

関東制覇を悲願とする北条氏にとって、名目上とはいえ、関東管領職を任じた謙信との対決は避けがたく、それでも氏康は決して謙信と正面衝突しなかった。
現実主義者と言われる武田信玄でさえ、謙信とは一度大激突した事を考えると、謙信に関東への領土欲があると判断せず、まともに戦って損害を受ける方途を避けた点は傑物と言えると同時に、自制的かつ常識家とも見てとれる。

永禄4年(1561)、小田原を攻めた上杉謙信と城を閉ざして戦わず、さらに永禄5年(1562)3月には武田信玄と連合し武蔵松山城を落とした。その勢力は東海関東一帯を圧したが、まだ下野、常陸、下総は制圧できなかった。

謙信が川中島で信玄との戦いに戻ると、氏康は海を挟んで里見氏との久留里城などの戦いに出向き、謙信が関東に出ると、北条は城に閉じこもって謙信が越後に帰るを待つのを繰り返し、相変わらず里見氏だけは安房に勢力を残るものの、永禄7年(1564年)、第二次国府台合戦で里見軍に大勝した頃から、謙信の臼井城攻めが失敗に終わるなど、ジワジワ房総は北条氏の色に塗り変わっていった。

氏康は河越夜戦、国府台の合戦など、野戦での強さを見せたが、籠城による"陣地戦"を多用した点も際立った特徴で、謙信と信玄に包囲された二度の小田原籠城戦が代表例と言え、とくに謙信には、10万の大軍で囲まれたが、いずれも相手の補給の困難さを見越して籠城し、謙信・信玄を撃退している。

氏康が堅固な籠城戦術を取れるのも、安定した領国支配の裏打ちがあるからで、氏康は小田原城を要に、領内の重要拠点に支城を配し、城主は信頼できる家臣か親族で固め、それぞれ支城にも放射状に出城が属して、強い防御態勢を確保し、領国は重層的に支配された。点と線に頼る敵の侵入には強かったと言える。

また氏康の領国経営の基盤には、繰り返し実施された検地による、土地掌握と税制改革があった。
これらの事は、北条家も三代に及び、氏康の時代には組織が充実して整備された事がうかがえ、その配下は評定衆が行政・司法を担当し、直属には御馬廻衆や小田原衆などが戦場で旗本となる他、普請・財政など幅広い実務を担当し、地方官には、十前後の支城主たちを配し、親族の他にも、大道寺政繁(河越)、松田康長(山中)、太田氏房(岩槻)、上田憲定(松山)、内藤綱秀(津久井)、遠山綱景(江戸)などが知られている。

45歳で隠居し家督を譲るなど、権力委譲で均衡を図ったため、氏政は氏康の後見の下で経験を得られ、氏康の死後も家臣団は動揺しなかった。生前あるいは死後に後継者問題で揺れた信玄や謙信に比べても、万事にソツがなく常識的、平凡で地味とさえ言える氏康ならではの政治手腕とも戦略とも言える。

元亀2年(1571)、その子・氏政を大将として下野に出陣したが、これは失敗に終わった。
今川義元の死後の今川領に対する温度差が原因で、武田信玄とは断絶し、謙信と組む状態を迎えた(末子の氏秀=景虎が謙信の養子になった)まま、同年10月3日、唯一の不安材料である武田氏との和解を遺言に病没。享年57歳。一説に元亀元年56歳没ともいう。

天正元年(1573)に信玄が没し、天正6年(1578)には謙信も没し、天正10年(1582)織田信長が横死する中で、氏政・氏直の代を通して、その版図は最大となり、相模・伊豆・武蔵を中心に下総・上野・上総の北半・下野の南半・駿河の一部を領し、五代100年の間に北条氏の版図は9ヶ国にまたがり、総石高で約200万石、最大動員数は小田原城籠城軍だけでも5万以上。秀吉の天下統一後も、日本第二の戦国大名であった。

が、秀吉の小田原攻めを迎える頃(1590年)には、堅牢に張り巡らされた支城網や築城術など、北条氏の伝統的戦法が裏目に出たとも言われ、東国王国の王者としての後北条氏は早雲以来、5代にして消滅する。
早雲以来の民主的とさえ言える施策も、氏康の代にさらに促進されて経済や城下町の発展に寄与したが、特にその特徴とも言える評定衆については、後に「小田原評定」などと揶揄対象の如く表現されている。