■ 北条早雲 ■


(1432?〜1519)

北条早雲から始まる北条氏は、鎌倉時代に幕府執権として名を馳せた北条氏との区別上、「後北条氏」と呼ばれるが、実際に北条氏を称するのは二代目・氏綱からで、早雲自身は「伊勢新九郎」と自ら名乗っている。

その下に諱が来るが、「盛時」あるいは「長氏」などが言われ、「盛時」と早雲が同一なら、早雲は幕府の申次衆で、その父は伊勢盛定になる。一方「長氏」の方は一時的な自称なのか、後世の創作なのか判然としない。

また早雲が剃髪して、「早雲庵宗瑞」と号したのは文亀元年(1501)という説があるが、その以前(1494年ごろ)から宗瑞の号を用いていたようである。

ここでは「早雲」と書く。

早雲は、その誕生も出自も定かでなく、のちの斉藤道三、松永久秀とともに、下克上の先駆けのように言われている。
その誕生は、永亨4年(1432)生まれと推測できるが、これは永正16年(1519)に88歳で没したという記録から逆算された生年であり、近年では康正2年(1456)説など、誕生がもっと遅かった事も言われており、この生年の不可解な点については、追い追い述べて行く。

ここでは長く言われて来た永亨4年(1432)生まれの年齢で書き、後説についてはカッコ書きで追記とする。

早雲の出自については、一説にいう「室町幕府政所執事・伊勢氏の一族」が有力視されているが、経歴も前半生は不詳で、早雲の生まれ、父母、その育ちは明らかになったとは言いがたい。

氏族の出身についても、『北条五代記』より「山城宇治」「大和在原」などの説、『相州兵乱記』(軍記)および『小笠原文書』からの一解釈により「伊勢素浪人」説、『寛政重修諸家譜』から「京都伊勢」説、『別本今川記』『甫庵太閤記』『中国兵乱記』の他、京都側の史料『蔭涼軒日録』と岡山県井原市の法泉寺の古文献から「備中伊勢」などの説が出ている。この一番最後が申次衆の「盛時」と同一とされるもので、備中伊勢氏から京都伊勢氏の伊勢貞道に養子に入ったと言われるものである。

幕府の政所執事・伊勢貞国の子に貞親がいるが、この貞国・貞親親子が早雲の出自には関わって来る。

上記の内、北条家から幕府に提出した『寛政重修諸家譜』の中にある経歴では、早雲は北条高時の4代の末、新三郎行長(長行)の子で、はじめ新九郎長氏と称した。母が伊勢(備中守)貞国の娘で、伊勢に生まれ、先祖高時が滅んでからは、名をはばかって伊勢氏を称し、伊豆・相模を平らげてのち、北条に革むという。
早雲が北条氏を名乗ったことについては、伊豆を領するようになったので、再び北条氏を称したという。

しかし、同じ『寛政重修諸家譜』でも、伊勢系譜の方では、これと異なった記述がある。
早雲は伊勢(伊勢守)貞親の二男で、はじめは新九郎貞辰、のち貞藤と改めたが、相模の北条某に養われ、養子となり、長氏また氏茂に改めたという。父貞親の室は、蜷川右衛門尉親心の女で、その生母は記していない。貞親は京都に住していたが、早雲の生まれた場所は明らかでない。

が、この貞親は、文明5年(1473)57歳で死んでいるから、早雲は15歳のときの子となる。
あり得なくはないが、早雲の兄(伊勢守)貞守は文安元年(1444)生まれとなり、弟の早雲より12年遅れて生まれたなど、不自然である事から、早雲の生年に疑問が生まれる。

『藩翰譜』は、これに対して異説をだし、早雲の母は尾張国の住人横井胤で、北条の一族で伊豆に住んでいる者がいたが、男子がなかったので、長氏を聟にしてその家を譲ったので、北条氏と名乗ったといっている。

次代からとは言え、北条氏を称するに至った経緯に触れている点が興味深い。
名門、伊勢氏の出であるならば、なぜ北条氏を名乗るなど驚天動地の異常すぎる事態が発生したのか、後世人なりに説明の要を感じたという事だろうか。

また早雲の母だが、『今川家譜』には、伊勢(伊勢守)貞親の姉妹ともいい、やはり伊勢貞国の娘という。

早雲が生前には北条氏を称さなかった事は今では確実視されているが、いずれも北条氏に改めたのは、伊豆を領するようになってから後という事では一致している。

早雲は足利義視(8代将軍・義政の弟)の近侍であったと言われ、明確に史料に登場するのは寛正5年(1464)ごろからで、この3年後の応仁元年(1467)、応仁の乱が起きて、義政の次期将軍と目されていた義視は京から伊勢へ落ち延び、早雲はこれに従ったようだが、再び義視が京に戻る時にはともに戻った形跡はない。

さらに早雲自身の活躍が史上にはっきりあらわれてくるのは、駿府の今川氏にその身をよせるようになってからである。
これを駿河下向と呼ぶが、これにも諸説があり、一説は応仁2〜3年(1468〜69)、さらに文明8年(1476)、もう一説は長享元年(1487)などという。

この中で注目すべきは、文明8年(1476)である。

早雲が下向した原因は駿河・今川氏にある。
今川氏は足利の一族であり、尊氏に属して戦功をあげ、駿河・遠江の守護職になった家柄であるから、一貫して足利の忠実な部将の一人であった。

文明8年(1476)、遠州の勝間田修理亮、横地四郎兵衛らが今川家に服せず、自立の気配をみせたので、当主の今川義忠は自ら兵を率いてこれを討ったが、その帰路、塩見坂で残党に襲われ討ち死にした。

義忠の室・北川の生んだ竜王丸(氏親)はわずか6歳、その弟もいたが、竜王丸が幼少のため、お家騒動がもち上がり、家老たちは国政をもっぱらにしようと、二派にわかれて争い、家臣団も分裂。そのために竜王丸は母・北川と駿府をのがれて身をかくした。

話は遡るが、享徳3年(1454)の「享徳の乱」によって、追討を受けた鎌倉公方・足利成氏は古河に逃れ、長禄元年(1457)、将軍義政の弟・足利政知は、古河公方となった成氏に対抗する公方となるべく、使命を帯びて鎌倉へ下ろうとしたが、関東管領・上杉氏の対立もあって鎌倉に入ることができず、伊豆の堀越にとどまって、堀越公方と呼ばれていた。

この堀越公方・政知が今川氏の内訌を知って上杉政憲に、一方、関東管領・山内上杉氏の分家・扇谷上杉定正は家宰の太田道灌に兵を与えて内乱鎮圧に差し向け、それぞれ競うように内政干渉して来たのだ。

今川氏の領国は、上杉氏に併呑される危険にさらされたが、このとき、竜王丸とその母・北川の縁者として、早雲が調停者に浮上したのである。
早雲は道灌の陣へ行って、「今度の内訌は今川家中の問題なので、自分が説得して必ず和解させる」と道灌たちが兵を動かすのをおさえたという。

そして、みずから竜王丸の後見人になるとともに、反目し合っている家老たちを説得し、妥協案を出して紛争をみごとに解決したという。
ちょうどそのとき、長尾景春の謀叛が起こり、太田道灌は急ぎ兵を率いて引きあげた。
動揺し疑心暗鬼の今川家の家老たちも、熱誠をつくして説く早雲に説得され、竜王丸=氏親を当主として、以前のように協力して今川家をもり立てることとなり、氏親も母・北川とともに駿府へ戻ることができた。

早雲の駿河下向を文明8年(1476)と見る説では、早雲はこのまま駿河に定着する。
つまりこの調停の功で、伊豆に近い興国寺城を与えられ、駿河興国寺城主へ、はじめて一城の主となる。これで早雲は"成り上がり"の貴重なきっかけをつかんだというのである。

従来はこの説で語られてきたが、この興国寺城の位置が、早雲に与えられた地領の範囲を超えた地にある事などに疑問点が残る。

一方、調停が済み、京に戻ったという説もある。下向説の後者にいう文明15年(1483)までの間、早雲は京の建仁寺や大徳寺で修行か勉学をしていたとも言われ、これが一時的な事か、長期滞在なのかはわからないが、早雲が駿河に流れてくる前に、京都大徳寺で禅の修行を積んだ他、古典や歌道にも明るく、有名な「早雲寺殿廿一箇条」の第一条が、"神仏を尊ぶこと"とあるように、宗教を重んじる姿勢は確かにあったと言える。

その後、「伊勢盛時」は、文明15年(1483)〜長享元年(1487)になると、『長禄二年以来申次記』や『親長卿記』に名を顕し、幕府の申次衆を務めていた事がわかる。

長享元年(1487)以降は、確実に駿河に定着していたようで、11月9日に小鹿(新五郎)範満を今川館に攻め、氏親に家督を取り戻すと、そののちは氏親を援けてその勢力をのばし、関東の乱れているのに目をつけ、東国へ進出の機会をねらっていた。

以上、駿府においては、今川氏の室・北川との縁で駿河国に下って氏親に仕え、端緒をつかんだ事は定説だが、この「今川氏の室・北川」は、今川(上総介)義忠の側室とも正室ともいうが、いずれにせよ氏親の母である。

北川は早雲の祖父・伊勢(伊勢守)氏貞の娘であり、早雲には伯母に当たるという説もあり、また一説に北川は早雲の姉とも言われ、あるいは早雲の妹という説もある。

長享元年(1487)の駿河下りを信頼すれば、早雲は56歳(32歳)となり、当時としてはかなり年を取っている。
もう一説にいう文明8年(1476)でも45歳(21歳)になり、姉を頼ったということになると、当時北川は幼い竜王丸がいたのであるから、北川は孫のある年齢で竜王丸を生んだことになり、北川が早雲の伯母となると、もっと不自然になる。

この不自然さを解決させるには、早雲88歳(64歳)没を若くしなければならず、自分を売り込むなり貫禄をつけるためなど、何らかの理由で年を多くいっていたという説、早雲の生年を康正2年(1456)などと見る説(カッコ書き追記)もある。

北川を逆に、早雲の年の離れた妹とみなし、下向の時期を文明8年(1476)と早めて、早雲の生年を永亨4年(1432)のまま通す創作物も多い。

このとき早雲は、6人の部下を連れている。荒木兵庫、多目権兵衛、山中才四郎、荒川又次郎、大道寺太郎、在竹兵衛の6人だが、伊勢にいたとき知り合った友人で、早雲の志を聞いて、ともに下って来た者たちという。この6人が心を合わせて早雲を助け、北条氏の基礎を築いて行くことになる。このあたりの話には、中国の英雄伝を付会したとも言われるが、備中を出身とする説には、後北条氏の家臣が備中国にも見られるといい、大道寺氏については一致する。

延徳3年(1491)4月、伊豆の堀越公方・足利政知が堀越館で没すると、政知の先妻の嫡子・茶々丸が、政知の後妻とその子を殺し家督を継ぐが、性格粗暴で非道のふるまいが多く、継母を殺したりして公方の器ではないので民心は離れ、家来たちも離れ、心から服従しなかった。

一説には、継母が実子に家督をとらせたいため、茶々丸を非道者に仕立てたともいい、またこの時に茶々丸に殺されずに済んだ子供が、後に11代将軍、義澄となった。

ちょうどその頃、扇谷上杉定正は古河公方・成氏や長尾景春と組んで、山内上杉氏と同族争いをしていた(長享の乱。1487〜1505年)。
早雲は山内・扇谷のいわゆる「両上杉」同志の戦いあうスキを衝いて、わずか数百の手勢で堀越御所を奇襲し、茶々丸を自害に追い込んだ。

堀越館の攻略については、『名将言行録』や『北条五代記』に次のような話がある。

早雲は新九郎という名を嗣子・氏綱に譲ると、「自分は病身の上に年はすでに60になって、余命いくばくもない。弓矢を捨ててのんびりしたい」と髪を剃り、療治のため弘法大師の遺跡をめぐろうと、堀越館に近い伊豆の修善寺の温泉につかり、逗留中の退屈をなぐさめるために木樵等を呼んで、いろいろの話を聞き、伊豆四郡の地理をはじめ、地侍の勢力まで、残るところなく聞き出した。

こうして伊豆の状況を探ると駿河へ帰り、駿府城へ出仕して、伊豆を攻めとる計略を話し、手勢200人、今川の援兵300人、都合500人を引き連れて清水の浜から船出、伊豆の松崎に上陸、黄瀬川をへて、北条の堀越館へ押しよせた。

早雲の来襲に茶々丸は館をのがれ、森山へ落ちたが、追撃されて山下会下寺で自害したとみせかけ、三浦氏を頼って落ちたともいう。この時期については、延徳3年(1491)、明応元年(1492)、明応2年(1493・『妙法寺記』)など諸説ある。日付は4月5日であったという。

その後、早雲は抵抗した深根城の関戸吉信を倒し、伊豆一国を獲得したのである。
また、公方家の茶々丸を倒して、その領地を乗っ取って所領とした事で、早雲の茶々丸殺害を「下剋上」とみなし、この時期をもって「戦国時代のはじまり」とする説もある。

が、明応2年(1493)には、堀越公方・足利政知の子・足利義澄を11代将軍に就ける動きが起きているので、将軍後継として浮上した系譜と見ると、地域紛争の範囲を超える見方もありうる。

伊豆を手に入れた早雲は、興国寺城を今川氏に返還し、堀越館を城としての防備にそぐわぬと見て、韮山城を築いて居城とした。この韮山城が関東進出国の拠点となったのである。早雲は自立の道を歩み出す。
領内には、さっそく各所に三か条の禁制の札を立てた。

一、空家に入って諸道具に手をかけぬこと
一、金銭に相当する物をどんな物でも奪ってはならぬこと
一、国中の侍ならびに土民に至るまで、住んでいるところから立ち去らぬこと
三か条をそむいたときは、その稼業をやめさせてその家に火をつける

ある日、早雲自ら部落を回ると、家ごとに病人がいた。尋ねると、悪病が流行し、10人に7〜8人が死ぬので、元気なものは伝染を恐れ、家財道具をもって山奥へ避難したが、自分たちは歩くことができないので残った、と答えた。

早雲が医者に命じて薬を与え、部下の兵に彼らを看病させたため、治った幾人かの病人たちが喜んで避難している親族をたずねてこのことを話すと、みな山奥から出て来て、親や子の命が助かった礼を述べ、自分の家へ戻り生業に励んだ。このことを伝え聞いて、五里、十里と離れていた者もみなやって来て、在所や身分などを名乗り出たので、早雲はそれらの人達に、役目は元のようにするという約束状を与えた。

早雲が伊豆に入ってしばらく病人の救助に励んだ甲斐あって、30日ばかりの間に伊豆の主だった武士の大半は味方となった。

早雲は堀越館の経費にしていた知行だけを自分の領地に加え、その他は元の領主のままにした。侍や領民たちを集めて、「税は五分の一を少なくし、いろいろの課役を除く」と約し、諸将や役人が自分の命令に逆らい、領民をいじめる者がいれば、その領民の訴えを聞いたので、領民も家来もみな心服するようになったという。

が、おのれの勢力拡大には相模進出しかない。山内・扇谷のいわゆる両上杉同志の戦いは続いていたが、扇谷定正が明応3年(1494)の落馬が元で亡くなり、その養子・朝良は後を継ぐと、山内上杉氏との同族抗争を凌ぐためもあっただろう、早雲や今川氏親と結んだ。

結果から見れば、早雲には両上杉の抗争が長引いた方が良い。早雲もこれを受け、さらに一方の山内顕定が永正7年(1510)、越後守護の上杉氏との抗争(長森原の戦い)で命を落とすまでに、早雲は相模に国力を伸ばしていくのである。

まず相模への進出のためには、小田原の大森氏、三浦半島の三浦氏を除去する必要があった。
特に小田原の城は南方に海が開け、東北の方に山をもつ地の利を得た名城であった。

が、小田原の大森氏頼は定正の忠実な部下であり、用心深く聡明な人物であったから、早雲が堀越公方を滅ぼしたことを知り、かえって早雲の巧言や贈り物を警戒し、心を許そうとはしなかったばかりか、国境の守りを固めた。

その氏頼が病に亡くなって一年目の明応4年(1495)、早雲は跡を継いだ大森藤頼に贈り物を届けて油断させ、書状を出して欺き、鹿狩りの獲物が箱根山に逃げ込んだ事を口実に、小田原に勢子(人夫)を入れるについて、藤頼の承知を得た。

話が出来すぎている事から疑問視もあるようだが、この時に用いた戦略が「火牛の計」という中国の軍略で、これは源平の戦いで木曾義仲が敵を破った例があり、早雲伝説の中でも極めて物語的な要素の強い一幕で、時期についても明応3〜4(1494〜95)と多少のバラつきが言われる。

一説には明応4年(1495)9月、早雲は武勇秀れた者・数百人を勢子に仕立て、あるいは犬引きに変身させ、槍は竹槍として狩りらしくみせかけ、夜討ち仕度で山に入らせた夜、千頭の牛(本当としても2〜3百頭だろう)の角に松明を結び、火をつけ、法螺貝の音を合図に一斉に鬨の声を上げ、牛を追い、城下町屋には細作に火をかけさせた。
小田原の城兵は多くが上杉の加勢に出かけ、城内の警備が手薄だと早雲は知っていた。

小田原の大森藤頼は、父氏頼の一周忌を終わり、酒をすごし、館で床につこうとして、突如、城下にすさまじい鬨の声が聞こえたので、物見をさせると、火の手も上がっているという。藤頼も井楼から見ると、箱根山や石垣山にまで、数千か数万の大軍によるおびただしい松明が、驚く早さで城下に移動していた。

城兵は山々の松明をみて、敵の数を推し量りかねて怯え、成田左門という武士が藤頼に、一度逃れて軍兵を集め城をとりかえす策を進言すると、自分は殿(しんがり)を願い出て、敵に切り込んで見事討死したという。
藤頼はわずかの兵に守られて城門を出たが発見され、兵は離散、その後大森氏は、小田原城を再び奪回することができなかった。

ときに早雲、すでに64歳(40歳)の老将であった。
以後、早雲は韮山を本拠にはしつつ、この小田原を制して、以後の北条氏の礎を築いた。
領民たちは、こうした早雲にたちまち帰服している。あるいは、北条氏の裔という喧伝が物をいった等もあったかもしれない。

早雲の関東政略に邪魔だったのは関東の上杉氏だろう。両上杉のどちらかを潰すためにどちらかと結ぶ案、江戸を越えた古河公方と結ぶ案、越後を頼みに両上杉とも牽制する案があっただろう。

永正元年(1504)、早雲は両上杉の内、扇谷(朝良)と組んで、立河原(武蔵)で山内顕定に勝利するが、顕定は越後の上杉氏と組んで反撃したため、扇谷の勢力は後退した。
ために早雲は越後の長尾為景(上杉謙信の実父)と結んで、江戸への進出の機をねらった。

しかし永正2年(1505)以降、争い合っていた両上杉(山内・扇谷)が、ようやく早雲の脅威を前に手を結んだ。

早雲が上杉の勢力を滅ぼすためには、古河公方と上杉との仲をさかなければならなかった。
既に古河公方・成氏は没しており、政氏がそのあとを継いだが、政氏ははじめ扇谷定正を支援し、のちに山内顕定と結んだりする人物である。

早雲は政氏に上杉を警戒するように説き、同時に政氏の子・高基を味方に誘った。
しかし、政氏は高基らの意見に従おうとしなかったので、親子の間が不和となり、永正3年(1506)から9年にわたって戦乱となった。その結果、高基が宇都宮氏の元に奔ったり、政氏が敗れて下野の小山へ落ちていった。

あげく、永正7年(1510)、高基の弟が還俗し、義明と名乗って小弓公方となるわけだが、高基も父・政氏に再び反抗し、古河城を出て関宿城に入るなど、こうした政氏親子の抗争には、影に早雲の策動が言われている。

しかし同年、手を組み直した両上杉(山内・扇谷)は、早雲の権現山城を襲い、早雲は痛い敗北を喫した。
そこで早雲は、関東に進出する第一歩としてその前にふさがる三浦氏をまず攻めた。三浦氏は、鎌倉以来三浦郡を領した豪族であり、当時は鎌倉以西にまで勢力をのばしていた。

当時三浦氏の当主・三浦義同(通寸)は、伊豆岡崎城(伊勢原市)に、その子・義意は三浦市の新井城(三崎城)にいて扇谷上杉氏に属していた。
早雲は80歳(56歳)を超えてから、最後の事業に取りかかる。88歳(64歳)で亡くなるのだから、実際年齢はもっと若かったにせよ、もはや晩年には違いない。
永正9年(1512)から4年の歳月をかけ、三浦義同(よしちか)・義意(よしおき)父子と戦ったのだ。

永正9年(1512)8月、早雲は自ら兵を率いて、岡崎城を攻めてこれを落とした。道寸は三浦郡の住吉城にのがれた。

早雲は鎌倉に入った。鎌倉は源頼朝が幕府を整え、執権北条氏が政務を引継ぎ、動乱の後、足利政権の成立後も鎌倉府が置かれ、室町将軍家から鎌倉公方を迎えて続きながら、成氏が関東公方の座を古河に移し、代わりに来た政知も堀越に留まって入れず、長く廃れ果てた都であった。
この鎌倉を押さえたからこそ、その後の北条氏は「北条氏」成り得たと言えよう。

さらに休む暇も与えず、三浦半島を押さえるため、早雲は玉縄(鎌倉市)に城を築いて攻略の拠点とし、しばしば三浦氏と戦った。徐々に追われた三浦氏は、支え切れずに新井城(三崎城)にたて籠ったので、早雲は、一気に攻め落とそうとしたが、天然の要害である新井城はなかなか落ちない。当時の新井城は関東の名城で城兵の士気も高かった。

扇谷上杉朝良の子・朝興が三浦氏を救おうとして相模へ兵を進めてきたが、これは早雲に撃退された。新井城も3年にわたる籠城で食糧はつき、永正13年(1516)、三浦父子は自刃し、落城。ついに鎌倉以来の名族・三浦氏を滅亡に追い込んだ早雲は、ようやく相模を手中におさめる。

早雲が氏を適当に名乗り、野武士くずれの素浪人から身を起こしたという伝説や、老人力が威力を発した神話も、出自や実生年が明らかになるにつれ覆される部分があるにせよ、一人、突出して早く他国を切り取り、戦国大名の座に駆け上がったのは紛れもない事実で、戦国時代の先達である事に変わりはない。

また早雲に関しては、その後、4代に継承された北条氏自身の自賛が関わっているにせよ、他国から入った配慮からにせよ、言い訳の余地もなく開き直りにせよ、下剋上や侵略行為に対する「やむにやまれぬ事情」が優先されるより、民政を行ない、それが支持された事が書かれるのは特徴的でもある。

『北条五代記』によれば、とくに民政に配慮し、永正3年(1506)、厳正な検地のうえに「四公六民」の税制で善政を敷いたという。同時に、貨幣経済の発展を見越して自由市場を創出、商工業の隆盛をもたらした。

豆一つでも衆と共にわけて食し、酒一樽でも士と等しく飲み、夜は眠らずに行いに気を配り、昼は柔和に睦まじく交わり、楽しみは諸侯の後に廻し、憂いは万人の先に気が付く事だ、と訓戒を残し、特に質素倹約に重点を置いた。こうした面は、氏綱以下の後継者に引き継がれ、北条五代、百年の繁栄の基礎となった。

伊豆、相模の太守になった早雲は、その後も江戸進出の機会をねらっていたが、永正15年(1518)、87歳(63歳)で家督を氏綱に譲り、翌16年(1519)8月15日、伊豆韮山に没した。88歳(64歳)。遺命により、箱根の早雲寺に墓がある。

北条氏は早雲の死後も氏綱、氏康と継がれ、やがて関東一円に及ぶ大大名となり、豊臣秀吉の小田原征伐で滅ぶまで、まさに東国王国を形勢するに至った。