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さて、無事に石和入りを果したこたつ夫婦。今夜のお宿にて河内太夫判官さま、筑後川さまとも無事に合流〜、を果しました(^^)。 *パチパチ*
今年の合戦は見学っ!
前日は(わりと)思いっ切り体力使い切っていいよね〜、と既に何ヶ月も前から史跡巡りの話など重ねており(=^m^=)、さぁさぁ日が暮れる前にド〜ンドン廻りましょう〜♪ 出発進行〜っ(^O^)/!
<鵜飼山、遠妙寺>
はいはい、もう着いちゃいましたね〜(早っ)。
ここは石和町の中心部。石和で史跡に関するパンフレットなど貰うと、一昨年に行った「八田家書院」に並んで、必ず名前の出て来るお寺です(^^)。
山門(内側から撮影)
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入って正面本堂、左のお手水の横には→
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七福神巡りの大黒さん
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さて、どんなお寺なんでしょ〜♪
文永11年(1274)夏の事。日蓮上人がお弟子の日郎日向上人と巡礼中、平時忠の亡霊(鵜飼漁翁)のために、法華経8巻(69,380余字)を河原の小さな一つの石に書写し、鵜飼川の水底に沈めて3日3晩、施餓鬼供養によって亡霊を成仏させたお寺なのです。
それでこのお寺には、その鵜飼堂と勘作の供養塔が残されているのです。→
「勘作」というのは平時忠の事で、やがてこの伝説が日蓮宗の信徒に広く知られ、のちに世阿弥(元清)が謡曲「鵜飼」に描いた時、時忠に「勘作」という名が当てられ、ここからこの話はさらに広まりました。
それによると、日蓮さん達は安房(千葉県)から甲斐(山梨県)に入り、石和の川端というお堂に泊まり、その2〜3年前に接待を受けた漁翁に似た老人に出会います。
しかし老人は生前の殺生(鵜飼)のために、鵜飼老人という亡霊になっており、懺悔のために鵜飼の様を物語り、日蓮さんが供養してあげると閻魔大王が出て、「地獄に落とす所だったが、僧を接待した功徳を考慮して極楽に行かせてあげる」のです。
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平時忠は、平清盛の妻時子の弟です。今年の大河ドラマ「義経」にも出て来てますねっ。
で、時忠について調べてみた限りでは、源氏との戦に敗れ捕らえられ、能登に流刑の後は能登で没した(お墓も能登にあります)となってますわ(^_^;)。
それが謡曲では、能登から甲斐に来て、平家の落人なので鵜飼に身を落とし細々と暮らしていた、という事になってるようです。……何でそうなっちゃったんだろー(笑)。
ちなみに石和に伝わる鵜飼の歴史は、遡れば平安時代まで遡ると言われますが、現在、観光のために復活した鵜飼は、1976年から始まったそうです。
<法城山、観音寺>
さあさあ、ドンドン行っちゃいましょー(^O^)/。
お次は、これまた石和の中心部にあるお寺です。
前の遠妙寺と言い、この観音寺と言い、同伴の河内太夫判官さまのご推薦&車中ナビのお陰で、ドンドン来れちゃいましたっ(笑)。
お寺の正面(右手前に大きな駐車場があります)
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入り口お手水の身代わり観音
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717年創建。法相宗から後に天台宗に改宗。
七堂伽藍、塔頭12、末寺98を数え、円通古道場として多くの名僧を出したのだそうです。
1373年、武田信成が七堂を修造。鎌倉から今川基氏の子、仏満禅師を招き、寺内には信成とその子、信春の牌子があるそうです。
武田氏
信成−信春−信満−信重−信守−信昌−信綱−信虎−信玄
また3世和尚、遠大法久は、信春の子の一人で、信重の伯父にあたると言われ、武田家を供養したと思われる五輪塔その他が数基ありますが、完全な形で確認できるのは一基になってるそうです。
1582年、寺は織田の兵火に晒され、はじめに上げた寺宝の全てが焼失。武田家は滅亡しましたが、徳川家康が朱印を出して復興を果し、江戸期は1782年に大飢饉の祈祷法要が伝えられてます。 |
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