<石和川中島合戦戦国絵巻・レポート1>


2005/04/17、山梨県笛吹市石和町、笛吹川。

午後快晴、妻女山(観客席)より
八幡原(戦場)のまさに合戦絵巻を写す。


「メンバー(&亡霊:笑)紹介」

     
  年々参加予定も立てにくくなり、去年は解散時から「次回は見学ぅぅ〜!」と宣言しておりました(笑)。
また約20年前の初参加のころから長年に蓄積した見学希望が適うという事もあり、今年はワクワクドキドキ、例年にも増して石和に行くのが楽しみで楽しみで、夜も眠れない興奮ぶりでしたっ(笑)。

ただ参加予定を当てこんでおられる方のために、参加の申込その他の手配は引き受け、よって「こたつ隊」の名だけは残留しましたが、蓋を開けたら……亡霊軍団となってた事は「推移状況」で書いた通りです(笑)。

というわけで、亡霊一同、見学隊を編成しておりました(^^ゞ。

梵天丸さま、梵天丸亭主さま、shinさま、キャマティさま、はたこ様、わんこ様、しの様、きりん様、筑後川さま、河内太夫判官さま(初)、こたつ亭主こたつ城主の12人。
この内、筑後川さまだけは立派に参加を果されてます(^^)。 *パチパチ*

今年はこれまでと一風違った……つーか、かなり違いますねっ(笑)。
それはそれで楽しみと言って下さる方もいらっしゃるので、今年も懲りずにレポして行きたいと思います〜(≧▽≦)!!
 
     


「16日、石和、史跡巡り」

     
  <千葉〜石和まで>

今年は気候が不安定で、3月の終わりごろ夏のように暑くなり、桜が一気に満開に近付いたかと思いきや、その後いきなり寒くなり、咲き遅れた分が長々と葉っぱとともにいつまでも咲いて、珍しく潔くない風情でした。

まるで亡霊と化しながら、未だに戦場への思い絶ち難い我々の煩悩を物語るように(爆)。

が、石和に出発した4月16日は、殆ど散り切ってスカスカ状態(笑)。葉っぱも沢山見えてました。
石和に向けて出発。千葉は殆ど葉桜。

が、東名高速に乗り、八王子を過ぎ東京を脱して、神奈川・山梨と入って来るに連れ周囲を山に囲まれ始めると、桜が!
もぉどれも殆ど満開状態で、例年ならこの山間の桜もとっくに終わってる時期ですから、今年はとっても目に楽しい道中となりましたっ(^^)。


そして桜見もそろそろ終え、やがて一宮御坂インター。下りる直前に一瞬見える桃畑↓

そうです、皆さん! これまで何度となく「そういや桃の花を見なきゃいけないハズだよな〜」と口に上ることの多かった、この石和の祭り。その名も「桃の花まつり」(爆)。

「合戦に明け暮れする日々ゆえに、花の美しさについぞ心を向けるゆとりもなく……」とは、まさに戦国武将18番の決り文句!(爆)
今年は、今年は、今年こそはっ!!!
まぁ石和に関しては、毎年これを手を変え品を変えて言うわけですが、今年こそはやるっ、やるんだっ!

……というわけで今年こそっ、出来る限り桃の花の写真をお届けしたいと思います(^^)。

高速を下りて石和に入るまでにもっ♪
そして石和入り。鵜飼橋を渡る。
 
     

     
  さて、無事に石和入りを果したこたつ夫婦。今夜のお宿にて河内太夫判官さま、筑後川さまとも無事に合流〜、を果しました(^^)。 *パチパチ*

今年の合戦は見学っ!
前日は(わりと)思いっ切り体力使い切っていいよね〜、と既に何ヶ月も前から史跡巡りの話など重ねており(=^m^=)、さぁさぁ日が暮れる前にド〜ンドン廻りましょう〜♪ 出発進行〜っ(^O^)/!



<鵜飼山、遠妙寺>

はいはい、もう着いちゃいましたね〜(早っ)。

ここは石和町の中心部。石和で史跡に関するパンフレットなど貰うと、一昨年に行った「八田家書院」に並んで、必ず名前の出て来るお寺です(^^)。

山門(内側から撮影)
入って正面本堂、左のお手水の横には→
七福神巡りの大黒さん

さて、どんなお寺なんでしょ〜♪
文永11年(1274)夏の事。日蓮上人がお弟子の日郎日向上人と巡礼中、平時忠の亡霊(鵜飼漁翁)のために、法華経8巻(69,380余字)を河原の小さな一つの石に書写し、鵜飼川の水底に沈めて3日3晩、施餓鬼供養によって亡霊を成仏させたお寺なのです。

それでこのお寺には、その鵜飼堂と勘作の供養塔が残されているのです。→

「勘作」というのは平時忠の事で、やがてこの伝説が日蓮宗の信徒に広く知られ、のちに世阿弥(元清)が謡曲「鵜飼」に描いた時、時忠に「勘作」という名が当てられ、ここからこの話はさらに広まりました。

それによると、日蓮さん達は安房(千葉県)から甲斐(山梨県)に入り、石和の川端というお堂に泊まり、その2〜3年前に接待を受けた漁翁に似た老人に出会います。

しかし老人は生前の殺生(鵜飼)のために、鵜飼老人という亡霊になっており、懺悔のために鵜飼の様を物語り、日蓮さんが供養してあげると閻魔大王が出て、「地獄に落とす所だったが、僧を接待した功徳を考慮して極楽に行かせてあげる」のです。
平時忠は、平清盛の妻時子の弟です。今年の大河ドラマ「義経」にも出て来てますねっ。

で、時忠について調べてみた限りでは、源氏との戦に敗れ捕らえられ、能登に流刑の後は能登で没した(お墓も能登にあります)となってますわ(^_^;)。
それが謡曲では、能登から甲斐に来て、平家の落人なので鵜飼に身を落とし細々と暮らしていた、という事になってるようです。……何でそうなっちゃったんだろー(笑)。

ちなみに石和に伝わる鵜飼の歴史は、遡れば平安時代まで遡ると言われますが、現在、観光のために復活した鵜飼は、1976年から始まったそうです。



<法城山、観音寺>

さあさあ、ドンドン行っちゃいましょー(^O^)/。

お次は、これまた石和の中心部にあるお寺です。
前の遠妙寺と言い、この観音寺と言い、同伴の河内太夫判官さまのご推薦&車中ナビのお陰で、ドンドン来れちゃいましたっ(笑)。

お寺の正面(右手前に大きな駐車場があります)
入り口お手水の身代わり観音

717年創建。法相宗から後に天台宗に改宗。
七堂伽藍、塔頭12、末寺98を数え、円通古道場として多くの名僧を出したのだそうです。
1373年、武田信成が七堂を修造。鎌倉から今川基氏の子、仏満禅師を招き、寺内には信成とその子、信春の牌子があるそうです。

武田氏
信成−信春−信満−信重−信守−信昌−信綱−信虎−信玄

また3世和尚、遠大法久は、信春の子の一人で、信重の伯父にあたると言われ、武田家を供養したと思われる五輪塔その他が数基ありますが、完全な形で確認できるのは一基になってるそうです。

1582年、寺は織田の兵火に晒され、はじめに上げた寺宝の全てが焼失。武田家は滅亡しましたが、徳川家康が朱印を出して復興を果し、江戸期は1782年に大飢饉の祈祷法要が伝えられてます。
 
     

     
  <流浪の甲斐守護、武田信重>

ここで、この観音寺と、この次の成就院に関連の深い武田信重について、ちょっと語らせて下さいませ(=^m^=)。

武田信重は、武田信玄の5代前の武田家当主です。残念ながら生年は不肖。
そして信重の姉(か妹)が、関東管領職、犬懸上杉氏の禅秀という人に嫁いでいました。

禅秀は上司である鎌倉公方の足利持氏とはソリが悪く、持氏は禅秀の家人から所領を没収したり、それに抗議して禅秀が関東管領職を辞職すると、これ見よがしに山内上杉氏から、憲基という禅秀のライバルを後釜に据えたりの嫌がらせを濫発します。しまいには禅秀もブチ切れ、1416年持氏に謀反を起こします。

これが禅秀の乱です。

当時の武田家は信重の父、信満が当主にして守護でしたが、娘婿が挙兵したのですから、武田家も当然禅秀の味方となりました。
が、やがて関東を巻き込んでの大叛乱となったので、幕府もやっと鎮圧にかかります。

相手が幕府の組織する討伐軍ですから、名目も立たず局面は不利。
禅秀は鎌倉で自刃。その妻(武田氏)も後を追って死に、武田信満も帰国した所を、持氏の意を受けた山内上杉憲基に追撃され、逃げ込んだ木賊山で自刃します。

信重は高野山まで逃げ延びますが、甲斐は逸見氏に横領され、信重の弟、信長はこの逸見氏と戦いますが、敗れて京の幕府、足利義教に庇護を求めます。
この武田信長が上総に進出をはかっていくのも、きっかけは、この武田家の不幸な出来事が始まりだったと考えられます。

幕府も武田氏を甲斐の守護と認め、信重の伯父(信満の弟)信元に子がいないので、信長の子、伊豆千代丸を信元の養子に立てて信元に守護を任命し、信元が死ぬと、信重を守護として帰国させますが、逸見氏の力は持氏と結託して大きくなりすぎ、信重は自分の国に入れませんでした。

1438年、鎌倉公方持氏が永亨の乱でついに幕府と破局を迎えると、これを機にやっと信重は帰国がかなうのです。



<六角山、成就院>

お次は……こたつが今回一番行きたかったお寺でちゅ(^^)。
成就院は、これまでのお寺(石和の中心部)からズンと離れて、南西方面に出ます。車で行けばスグですが、歩いて行くと結構な道のりだと思います。

ここは新羅三郎義光の孫、逸見清光が1155年ごろ開宗して清光院と称し、その頃は真言宗でした。

1418年、武田信満の弟信元が守護として甲斐に来て以来、信長の子伊豆千代丸、そして1438年から信重と三代(32年間)の守護館として使用された場所でした。
苦労の果てに、やっと甲斐の国に戻れた信重でしたが、戻ってから僅か12年後の1450年、黒坂太郎信光と交戦中、穴山満春に背後を衝かれ、館はその兵火で全焼。信重もまた、ここで自刃したのです(;_;)。。

蛍見通りという道路に面してる正面
武田信重の墓

翌1451年、信重の子信守が再建し、成就院と改称し、ここから臨済宗となりました。
信守は病弱で国主の座について僅か5年後の1455年に亡くなりました。成就院の名の謂れはわかりませんでしたが、流浪の守護と言われた父信重への想いに関係があるのでしょうか。

時代は大きく飛んで、1550年、信玄が岩窪に寺を移し、瑞岩山円光院と改称してからここは放置されていたそうですが、1610年ごろ、円通という僧侶が寺院として再建し、今度は浄土宗に改宗。円通院とも称しました。
宝物は、成就院系図と呼ばれる武田氏系図、平岡宗寿証文、信重の辞世の和歌など。



<佐久神社>

上の成就院から北西方面にすぐの距離だったのと、どの地図にも載ってるので行ってみました。

何と言うことはないだだっ広い神社ですが、由緒はかなり古そうで、雄略天皇の時代に国の中央にある地を選び、甲斐の国の開闢祖神として、岩裂、根裂の二神と天手力雄の神を祀り、延喜式内20座に登録されてます。

1862年に改築。欅唐破風、桧皮葺。