<2010年・城主のたわごと11月>




2010年5月「茨城北西編」第3弾(^。^)。2日目午後。

「月山寺」の続きから、「雨引観音(楽法寺)」に赴く☆ミ




     
  GWの「茨城北西編」、第3弾(^^)。茨城中部の名刹を二ヶ所。
一軒目は、前回の続き「月山寺」(桜川市)、二軒目は、同市の少し南「雨引山・楽法寺」(雨引観音)を。

どちらも歴史的な痕跡(伝承も含め)のある、由緒ある史跡だろうが、あまり深く知らないのと、多忙期に突入して時間が無いのもあって(^_^;)、今回は文章も少なめで、ちょっと写真展示会みたくなってる(^^ゞ。が、二寺ともに、茨城県で11ヶ寺に限られる「東国花の寺百ヶ寺」に選ばれた、庭園や建築による空間美に技巧が凝らされたお寺なので、単純に目が楽しめると思う(^^)。



<月山寺、2>

前回の続き(^^ゞ。地図A
前回は、山門入って、左の緑の空間を見た後、真っすぐ正面の本堂に向かいながら、右側の庭園を案内した。↓

前回の写真。山門から入った全視界(パノラマ4枚・180度以上)

左の深緑の庭園(#^.^#)
右の庭園と千手観音堂

左側足元、上品な石畳と繊細な波紋

左の深緑の庭園は、本堂に行きつく手前で終わり、替わって、本堂前には横長の小庭園が本堂を囲んで始まる。↓

本堂を囲む五葉松の庭園(内側から撮影・パノラマ3枚・ほぼ180度

足元・アヤメか菖蒲かカキツバタか(笑)
これは牡丹だよね(^^ゞ

参考(笑)→2006年4月<仙石原「湿生花園」>内(アヤメ・ショウブ・カキツバタ見分け方)

外側からも撮影(パノラマ3枚・ほぼ180度)

本堂の並びは庫裡かな↑。この横長の家屋の前にも、濃い深緑と池の庭園が広がっており、←には博物館と最澄の像(らしき)が建てられている。まず←に行ってみよう。

←突き当たりに「夢」と書いた、人の身長の3倍もある、巨大な衝立があり、その向こうには立派な美術館がド〜ン!と現れるのだが、ゴールデンウィークにも関わらず休館(^_^;)。。
お寺の方に声をかければ、閲覧できたのかもしれないが……。
境内には造園屋の軽トラが駐車して、庭樹や石など造作中の様子で、お寺の方も忙しいように思えたのと、旅程が他にもあったので、ここにあった案内板の記述から、このお寺の紹介をするに留める。

この「曜光山・月山寺」は、正式には「曜光山見明星悟道院」と号され、古くは法相宗の寺で、徳一(大師)を開基と仰ぐ(795年)。

室町時代のはじめ(1430年)、天台の学僧・光栄(阿闍梨)によって天台宗に改めた。
天台宗は宗祖・伝教大師(最澄)の教えにより、鎮護国家と並んで、人材育成を範とするため、学問所として栄え、関ヶ原合戦の徳川方の戦勝成就を実らせた功績により、江戸時代には格式と名声を高めた。

「夢」の衝立石の裏側には、最澄(らしき)像が!
深緑と池の庭園への渡り橋

↑最澄の像(らしき)と思うのは、その背に書かれた字に、最澄の言葉が書かれているから(^^ゞ。

このお寺は、大坂の陣が集結した直後の元和2年(1616)までは、磯部にあったというが、現在地に移転建立されて以後の江戸時代は、朱印地60石、格式10万石の寺として隆盛。
関東における天台宗の中心を果たす、「関東八ヶ檀林」の一寺として、その名を関東に知られた。

尚、閉館していた「月山寺美術館」には、彫刻・絵画・工芸・書籍が収蔵され、木村武山、榎戸庄衛、永瀬義郎など画家の作品もあるそうだ。

案内板によると、指定(国・県・市)文化財の内容は右記の通り。→
◎指定文化財
一、国指定重要文化財
 工芸品 網代笈 一背 室町時代 指定 昭和32年2月19日
一、県指定文化財
 建造物 月山寺書院     一棟 江戸時代 指定 平成10年1月21日
 絵画 絹本著色曼荼羅    一帳 室町時代 指定 昭和28年7月9日
 〃   絹本著色両部曼荼羅 二幅 〃     指定 昭和32年6月26日
 彫刻 木造薬師如来坐像   一驅 鎌倉時代 指定 昭和28年7月9日
 〃  木造菩薩像        二驅 〃     指定 昭和32年1月25日
 〃  木造薬師如来像     一驅 〃     指定 〃
 工芸品 青銅製鈴       一口 平安時代 指定 昭和28年7月9日
 〃    木製つのたらい   一口 江戸時代 指定 〃
 〃    呉須皿        一枚 明治時代 指定 〃
 〃    厨子         一基 室町時代 指定 昭和32年1月25日
 書跡 法華経         八巻 鎌倉時代 指定 昭和28年7月9日
一、市指定文化財
 建造物 月山寺本堂     一棟 江戸時代 指定 平成5年6月15日
      境内山王社本殿  一棟 〃      〃  〃
      中門         一棟 〃      〃  〃
 (写真)網代笈   平成14年3月 桜川教育委員会

行きに通らなかった、森林と池の庭園も散策(^^)。
↑池の向こうに見える、この茅葺っぽい屋根の建物は、前回入った中央の山門ではなく、端の門だろう↓

これね(^^ゞ↓(外から撮影)
再び森林と池の庭園に戻り……

本堂の前に近付き
本堂を通り過ぎて(振り返って撮影)

いよいよ千手観音堂に登る(^O^)
石段から見える本堂と大きな池(^^)

石段を登り切ると、左に千手観音堂、右に鐘楼(^^)

↑観音堂と鐘楼の間の通路奥は墓地↓背景の山並が美しい(^^)(パノラマ2枚)

写真で全ては伝え切れないが、お寺の頂上、千手観音堂まで登って来ると、空がスッコ〜ン!と高く突き抜けて感じるのよっ(^o^)。
これも緑と水辺の多い、陰影の美しい庭を巡った後に来るから、尚更空の広さを実感するんだけど、ただ空を感じるだけでなく、何となく「近くに海のある土地」という感じすらして、耳を澄ますと遠くから波音が聞こえてきそうな錯覚がある(^^)。

改めて「千手観音堂」正面から(パノラマ縦3枚)

そして千手観音堂の前が、また見事な眺めなのだ(^^)。↓

背景の山々・花の庭園・大きな本堂……(パノラマ縦横5枚・180度)

↑左にチラと見えるお堂には布袋サンがあるので、仮に「布袋堂」と通称しておく(^^ゞ。

←「鐘楼」のある側から見下ろすと、急勾配の石垣で隔てた下に、「布袋堂」の屋根が見える。だいぶ低く感じるが、本堂のある位置からは少し高台にある(^^ゞ。
← 一方、低地に建つ本堂の巨大さがよくわかるのが、この写真。亭主がカメラを構えたり、私がVサインしてるのは、「千手観音堂」前のステージのような張り出し↓

←こたつ亭主
↑こたつ城主
屋根の近くに行けて、本堂の巨大さを実感。

「布袋堂」まで降りて来た。その名の通り……
堂の中には布袋サンが(^^)

「常陸七福神」というのがあるらしいm(。。)m。ここの布袋サンはその一つなんだね。
ちなみに他の六福神は、同じ茨城県の、太田市玉造町・笠間市・石岡市八郷町・つくば市・稲敷市・潮来市潮来町などに鎮座しているとか(^^)。

(拡大)布袋サン
布袋堂への登り階段(後方は千手観音堂)

←というわけで降りて来た(^_^A)。右方向を見ると↓
↑「那智聖観音」と、その背後の社務所。

社務所の「元三大師」御守(^^)
社務所の前を通って山門から出る

元三大師の御守については、平泉の中尊寺でも書いたね(^^ゞ。
いやっ、平泉と関係あるとかじゃ全然無くて、一言で言うと、「天台宗繋がり」(笑)。
でも元三大師とこの魔物っぽいデザインの厄除については、中尊寺で書いた通り→2010年3月<中尊寺・奥のロータリー、金色堂〜弁財天堂>内

以上、関連事項は、
2006年4月<仙石原「湿生花園」>内
2007年5月<筑波山神社>内
2009年1月<恵日寺>
2009年5月<恵日寺(いわき市・瀧夜叉姫の墓所)>
2010年3月<中尊寺・奥のロータリー、金色堂〜弁財天堂>内
2010年10月<筑波山頂駅〜大鳥居(帰路)>内




<雨引観音に向かう>

小栗城や月山寺と同北緯だと、笠間もちょっと行ってみたかったが、このGWはこの一日しかないので、この辺りでそろそろ折り返し、南下する事とした。
前回も書いた通り、「月山寺」は、水戸線「羽黒」駅に近いが、次の「楽法寺(雨引観音)」は、位置としては「羽黒」と「岩瀬」の南に当たるが、鉄道からは遠いから、車が無難かと(^^ゞ。

車だと、50号線(岩瀬バイパス)を西に向かい、左折して41号線を南下、左折して152号線を東進。地図B←ここが「楽法寺(雨引観音)」。今いる「月山寺」は、そのちょっと右上に見える。

「月山寺」を出た道路のガードレール下に咲いていた、タンポポ(^^)→

初めは農村の家々の合間を縫って西へ

もう南に向かってる道かな?
あれは筑波山かな(゚.゚)

←筑波山だよね。ちょっと拡大してみよう。
山って普通、方角が違うとまるで形が違って見えるものなんだが、いつも見てる南側からと反対(北)側から見ても、同じようなツートップ形状に見えるんだな〜と(^^ゞ。

やがて山に近付き(↓)、再び東方向に折り返すように、山奥の途に入って行く(→)。

さらに緑深く山奥に吸い込まれた先に、駐車場があり、ギッシリと車が停まる(GWなんで(^_^;))中、ここでも八重桜があでやかな色を放っていた。



<雨引観音(楽法寺)・薬医門〜本堂>

駐車場も色々あったな(^^ゞ。ここは正門に近い駐車場。もう一度お寺の位置を→地図B


↑左の素通しで見えてる辺りは、次回のレポになる。右の繁みの奥が今回廻る所(^^ゞ。

←山門は「薬医門」と名付けられ、真壁城(これも次回やる(^^ゞ)の大手門を寄進されたと伝わる、安土桃山建築。

門柱に刀痕が残ってるんだとか(*o*)!
車輪つきベンチがレトロ(^。^)

この「薬医門」が戦国期の真壁氏の居城・真壁城の大手門というのは、境内に入ってパンフレット貰ってから知ったんだな(爆)。
パンフには、その“刀痕”について、「戦国の風雲を感じる」とある。

が、残念ながら戦国期の痕跡は、この大手門のみ(^_^;)。
後の建物は全部、江戸時代の物となるが、謂れはもっと古い物もある。

<雨引観音・文化財一覧>(桜川市)
 
仏像
建造物
その他
国指定
本尊延命観世音
御前立観世音
-
-
県指定
不動明王像 本堂・多宝塔
東照山王権現社殿・仁王門
十一面観音画像・愛染明王画像
大弁財天女画像・大般若経四百巻・五鈷杵
市指定
仁王尊像 黒門(薬医門) 徳川家康公座像
宿椎(立ち木)(市指定天然記念物)
他・什宝
-
-
武蔵坊弁慶の書・光明皇后の宸筆
嵯峨天皇の宸筆・狩野栄信画「三番叟・翁・千歳」
狩野伊川画「蝦蟇仙人の図」「鉄拐仙人の図」
(平成13年3月時点)

この「雨引山・楽法寺」は、始まりを用明天皇の頃(587年)として、聖武天皇と光明皇后(730年)、嵯峨天皇(821年)、そして鎌倉幕府の6代将軍・宗尊親王(1254年)、足利尊氏(1336年)、徳川時代(1600〜1800年代半ば)は、初代・家康〜15代・慶喜といった、各時代の権力者たちと接点を持つ寺である。

が、奈良・平安期の天皇・皇后の痕跡は、法華経の奉納などのようで、現在の堂宇は、全て江戸時代の物ながら、本堂・三重塔(多宝塔)・仁王門・鐘楼堂、客殿・不動堂など、基礎的な構想は、鎌倉時代の宗尊親王の願によるものと伝わっている。

長い石段を登って行くと、途中右側に「鐘楼堂」が見える。→

破損がひどかったため、江戸時代に再建されており、屋根だけ昭和に入って、瓦に変えたそうだ。

が、これもやはり、元は鎌倉幕府の6代将軍・宗尊親王の願によって、建長6年(1254)建立された物である。

宗尊親王……懐かしいというか、「北条時宗」に出て来た、あの素っ頓狂な将軍である(笑)。

源氏による鎌倉将軍職が3代(実朝)で絶えなんとした時、幕府は朝廷に皇子による将軍後継を願い出たが、許されなかったため、摂関九条家より将軍を迎えた。
これが4代頼経で、その子・頼嗣と父子二代で、4代・5代を経た後、彼らは鎌倉から京に戻され、かわって迎えられ、6代の座に就いたのが、後嵯峨天皇の皇子・宗尊親王である。。
つまり皇子として、初めての鎌倉将軍である。

あのドラマではああだった(し、それが面白かった:笑)ワケだが、鎌倉幕府は都からやってきた将軍と、執権の北条氏(北条得宗家)との間で、御家人の取り合いと言うか(^_^;)、与野党の対立っぽいパターンがちょくちょくあって、つまり将軍は将軍で、必ずしもお飾り人形ではなく、周囲に尊敬されたり、幕府(というより執権というか、率直に言えば北条得宗家:笑)に不満を持ってる武士らから、人望を集めている事も多いんだよね。

←さっきの「薬医門」は遥か下になり(^^ゞ。
↑左には「地蔵堂」。やはり宗尊親王の願による建立を由来とする。今見た「鐘楼堂」の向かいになる。

そして、この位置から正面を見ると……↓

仁王門(県指定文化財)
四面には鷲・鷺・鷹・鶴の彫刻が

重層入母屋造の楼門。
今の建物は江戸時代、宝永年間(1704〜1710)の物で、日光東照宮とも比べられるそうだが、これも元はやはり、鎌倉将軍・宗尊親王の願によって建てられた物で、内部の仁王像は、鎌倉時代の作が現存されている。

天井絵には、うねり廻る龍神
左右の仁王像は新型(゚.゚)?

こちらも「仁王像」(鎌倉期・康慶の作はこれかな?)
門を出て左はそそりたつ石垣と楼閣

←仁王門を振り返ると、終わり掛けた枝垂れ桜と、昼下がりの陽光がそそがれる様子が美しい(^^)
↑さらに少し階段を登り、回り込んで左が本堂。階段の右側には↓

←巨大な宿椎(スダジイ)。筑波山もスダジイの宝庫だと書かれてたが、ここのも凸凹具合が生き物っぽい!
↑果たして、本堂に到着(^_^A)。

……意外な仕切りになってるんで、階段登り切って到達した入口を、まずパノラマで見渡してみる。

こんな藤棚の下から入って来る↓(パノラマ4枚180以上)

すると、正面はこんな具合↓(パノラマ4枚・180度以上)

上のパノラマで左の建物は売店で、公式サイトによると「絵馬堂」とあり、後で戻って来るね(^^ゞ。

通常、お寺とか神社って、規模の違いはあれど、基本は奥に向かう構造で、手前左右に仲見世だの道場や祈願所だの色々な建物があったり、そゆのは全然無くても庭園とかあったりして、何しろそれらの奥を塞ぐように本堂(神社なら拝殿)……みたいな作りを想像する。

それがここは、↑上下2枚のパノラマで見る通り、登った正面がイキナリ本堂で、他の施設(と言うのか)が、横並びに配置されてるのが意外なのだ(^^ゞ。

これまで行った中でも、思えば山寺(立石寺)などはこうだったかな〜とは思ったが、あそこは奥まった所から「山寺」が始まってたからなぁ〜(笑)。

「本堂」は「観音堂」と名称され、これも鎌倉時代は、宗尊親王の指揮によるが、その折「再建」というのは、当時すでにお堂が腐朽していたかららしい。

↑この赤い観音堂じたいは、やはり江戸時代の建築。
四面に施される彫刻も、左甚五郎と相弟子の無関堂円哲の作と伝えられ、「本朝二十四孝伝」や、四隅に配される「地獄極楽」の彫り物も見事→

「地獄極楽」は他に3点ほどあり、まな板に乗せられたり、首枷をはめられ、鬼に閻魔の前に引き立てられたり、火炎や血の海地獄にあえぐ裸体の死者たちの姿が描かれていた。

GWだったからだろうか、本堂の中にも入れ、仏様を拝めた(^∧^)。あれがご本尊だったのかな?

ご本尊の延命観音菩薩像は、国指定重要文化財(旧・国宝)。
謂れは、このお寺の由緒の中で一番古い、用明天皇の頃(585〜587年)で、粱から来日した、この寺の開祖「法輪独守居士」が護持してきたのが、この延命観音であったそうだ。

また、その時に渡海を庇護した鬼神を称えて、毎年、「マダラ鬼神祭」が執り行われる。
観音の住まう浄土を守護する神と言われ、寺の縁起では、戦国前期にひょっこり出て来るみたい(^^ゞ。

古河公方・足利成氏と、関東上杉氏の家宰・長尾景信長尾景春の父)が戦い合った折(1471年という。長尾氏はまだ、上杉氏と足並揃えて、古河公方と戦っていた)、成氏は長尾勢を追って、この雨引山を囲んだ。(背景事情は→「千葉県の動乱vol2」<永亨の乱〜結城合戦(1435〜1440)>以降)
ご本尊は自らの法力によって脱出したが、山は炎上(^_^;)。。

以後、夜毎に多数の鬼が材木を運び、覆面の職人たちが仮堂を建設し、その指揮をした馬上の鬼神が、「マダラ鬼神」であろうと、地元の人々が噂したという。
詳しくは、→「マダラ鬼神祭」(「雨引観音」(公式サイト)より)



<雨引観音(楽法寺)・東照山王権現社〜多宝塔>

本堂に向かって右、少し奥(通路の右先)には、「東照山王権現社殿」。入母屋造り。
昭和51年(1976)県指定文化財である。

別々に祀られていた、「東照」と「山王」の二つの「大権現」が、合祀によって一統の名に連なったわけだが、合祀は、享保12年(1727年)第18世吽教上人が、両権現社とも腐朽が進んだため、「東照」と「山王」の各々「大権現」とも、本地が「醫王善逝(薬師如来)」であるという理由によって、一堂に新造営したもので、明治以後の宗教政策によるものではなさそうだ。

社殿内から、「東照大権現」と「山王大権現」の棟札とともに、徳川家康(神)像と、徳川将軍・歴代14代の位牌が発見されたそうだ。

この大権現社を端として、これより折り返し、横並びの各所を見て行くが、実はこのさらに先(つまり大権現社よりさらに奥)には、「延命水」「壺月鼡稲荷大明神」「開山堂」などを示す案内板があった。

「延命水」は、延命のご利益を頂ける水として、発祥の謂れとなっている。
「壺 月鼡 稲荷」(「月鼡」で一文字)は、開祖・法輪独守居士が、土地神を勧進した稲荷。
「開山堂」は、開祖・法輪独守居士と恵岳上人(万葉学者)を祀り、「学業成就」の利益を得られる。

また、観音堂の前には、地元のお酒が樽で積まれていて、「延命水」の名に相応しい雰囲気だった(^^)。

←横後方から写すと、ウエストがスリム!(爆)
「東照山王大権現」から折り返す。↑本堂の向かいにある売店は、さっき藤棚の隣にあった建物。

この売店、後で「雨引観音」のHPで見たら(さっきの奴ね(^^ゞ)、「絵馬堂」と書いてあって、多くの絵馬とともに、「源頼政・ぬえ退治」もあったとか。見そびれた!(爆)

このお寺はHPが充実してて助かるものの、現地における説明が多くないため(各地の他の史跡でも、同じような所はあるが(^^ゞ)、現地では気付かないで通り過ぎる事が多かった(笑)。

さらに、この日は食事に難儀した。
さっきの「月山寺」の前には、食事処があったが休業しており、この雨引観音に来れば……とアテにして来た所、駐車場の前の食堂が廃業していた(^_^;)。。

だから、この「絵馬堂」に唯一売ってるアイスクリームを買ってる人が多かった(笑)。
GWには、レストランやトイレが超満員とか売り切れとか、よく見る風景ではあるが、満員や売り切れじゃないので、一応、「ここに来る時には、前もって腹ごなしを済ませてから来た方が……」と言っておくね(^^ゞ。

さて、観音堂(本堂)の(向かって)左側にも行ってみよう。

今度は左側から観音堂を振り返る(パノラマ2枚)

「観音堂」の隣は「観音堂口」とあった
靴を脱いで上がれるようになってる

小さいながら屋根がついて、独立した建物に感じるが、そのさらに隣の「多宝塔」との連結廊下になっている。

観音堂の側から(パノラマ2枚)

←左端に鎮座してたのは、「びんづる」さんだったかな。体の悪い所を撫でると治るとあったような覚えが……。

こちらは、さらに隣の「多宝塔」への連結→

ちょっとその前に、再び前面の庭に出て、向かいを確認してみよう(^^ゞ。↓

左・石畳前の真紅の牡丹(^^)
石畳の右は「御供所」、御守など並ぶ建物

江戸時代の後期の建築。建物の向こう側は断崖絶壁で、この断崖の上に石垣が配され、その上に建てられている。

眼下に見下ろす町並と山並(^^)
ナント美形な牡丹!

この「御供所」と「観音堂」と、そして次に向かう「多宝塔」の合間に、この牡丹の庭園が華麗な色彩を放って、実に豪華(^^ゞ。

←「観音堂」と「多宝塔」を連結した、さっきの渡り階段の前。観音像を囲む花壇。

お次は「多宝塔
左斜めから、観音堂と連結して見る

用明天皇の頃(585〜587年)に粱から来日した開祖・法輪独守居士の後は、推古天皇や聖武天皇・嵯峨天皇の勅願寺となった。

奈良時代の天平年間(730年)、聖武天皇が、光明皇后(藤原光明子)の安産子育て祈願に当てられ、光明皇后の奉納した法華経が、什宝として寺に現存している。

これが由来の一つとなってだろう、本尊の延命観音には、安産子育・厄除が祈願され、現在の皇后陛下(美智子さまだね(^^)v)にも、安産守を御捧呈申し上げたという。

又この時、光明皇后の願によって建立されたのが、この「多宝塔」の謂れともあるが、「多宝塔」の前身「三重塔」も、宗尊親王によって再建、というのが確認できる確かな時代じゃなかろうか。
現在の物は、江戸時代に三重塔を目指し、二重まで塔が出来たのを、後に言い改めて、「多宝塔」と呼ぶようになったとか。

古代に話を戻すと、聖武・光明夫婦の後は、平安時代の弘仁12年(821)の旱魃に際し、嵯峨天皇が紺紙金泥の法華経を書写・奉納(同じく現存)。
この時、目出度く雨が降ったので、それまで「天彦山」とされていた山名を、その効験によって「雨引山」の山号を賜わり、改称したのが、「雨引山・楽法寺」の名の謂れと伝わっている。



<雨引観音(楽法寺)・多宝塔〜弁天池>

「多宝塔」をさらに過ぎると……
渡り廊下と登り階段に出会う

「多宝塔」を過ぎると、連結した渡り廊下の背景に山の斜面が迫り、斜面を登る階段の上に「聖見堂」や「鬼子母神堂」が各所から覗いている。今回は先にこの斜面(↑)を登ってみる。

一方、渡り廊下の先(←)は、次回に譲る(^^ゞ。

ちなみに先程の「観音堂(本堂)」に上がった続きで、「多宝塔」までは連結廊下を辿って、建物内を歩き通れるが、渡り廊下から先には「歩行禁止」の立て札があり、一般参拝客は入れない。↓

山の斜面には、渡り廊下の下を潜って、階段を登って行くようになっており、階段は、「多宝塔」側から見ると、渡り廊下の下にめりこむように配された石垣に側面を支えられ(補強され)ている。↓
階段の先には、「鬼子母神堂」が待ち構える→
高さが「多宝塔」に並ぶ程あって、3D効果抜群(笑)↓

左「鬼子母神堂」、右「多宝塔」
眼下に見える境内と山々

この「鬼子母神堂」は、公式サイトには、「建武2年(1335)に開運祈願した足利尊氏を祀った祠」と紹介され、パンフには、足利尊氏について、「翌3年(1336)、寺領350貫を寄進、厄除祈願して、幕府を開設」とあるから、これに根付いてだろう。

その後も、歴代の江戸幕府将軍の名が続き、特に徳川家康・吉宗は当山観音を信仰したとされ、多くの寺領・堂塔を寄進しているので、幕府治世を祈願する寺という事になろう。

この「多宝塔」とタメを張ってるような高さには、何か意味があるのかなぁ(^_^;)。。
宇宙ステーションのような、ちょっとSFな味わいになってる点が、寺と言うより、テーマパークに来たような気分にさせる(笑)。

左「多宝塔」、中央下「渡り廊下」、右「弁天池」(パノラマ縦5枚・180度以上)

「弁天池」の方にも行ってみよう(^^ゞ。

←から来た。横長の空間に噴水池と弁財天像(パノラマ3枚・ほぼ180度)

この噴水から流れ出る池の水が、先程の渡り廊下に向かって落下している。↑下に渡り廊下の長い屋根が見えてるよね(^^ゞ。

噴水を前にする弁財天
拡大
落下する池水・渡り廊下

この噴水なんか、演出過剰な感じもしなくはないが(笑)、珍しい組み合わせの構図が、3Dのあらゆる所に満ち溢れて、写真を撮り始めるとキリがない(笑)。

客寄せ効果も期待して、滝を人工的に作ったりしたのは、確か江戸時代にもあったんだよね(^^ゞ。
羽黒山でも滝を紹介したが、やはり江戸期の造作のようだし、ウチの近くだと、前にレポした柏市の「松ヶ崎城跡」などが、江戸時代には宿場街として賑わい、茶屋など立ち並んで、水脈を利用した「不動滝」を流していた。

以上、関連事項は、
2008年7月「千葉県の動乱vol2」<永亨の乱〜結城合戦(1435〜1440)>以降
2008年9月<「野本の戦い」跡地周辺「鹿島神社」>内および<桜川市、筑波山「薬王院」、1>内




次回は、第4弾。「雨引観音」の続きは、この弁天池や鬼子母神堂より、さらに高台に登った後、渡り廊下まで戻って、その先を見るので、そこで落下する滝も出したい(^^)。

「雨引観音」の後は、「真壁城跡」「真壁氏累代の墓所」「五所駒瀧神社」など廻り、下妻に戻って「佐沼湖」まで行ったんだが、全部行けるか……先の予測が立たないままで(^∧^)。

<つづく>

2010年11月24日
 
     





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