<2004年・城主のたわごと7月>




2002年8月の奥多摩・八王子方面レポ、無理やり完結編。

2日目は武蔵五日市の大悲願寺(前回つづき)と八王子城。




     
  先月の続き。
先月分もちょくちょくあったが、今回分のは特に写真の破損が多い(^_^;)。
原因は去年のPC遭難時のデータ破損だと思うが、去年は復帰に四苦八苦して全て確認できなかったので、いつ破損したのかわからない。

「もっといろいろ撮ったハズなんだがなぁ」と思いつつ、これだけ時間が経つと、「どういうイイ写真があったのか」も覚えてない(笑)。
一面真っ黒とか完全に開けない写真なら何だかわからないからいいとして、横半分とか下半分が破損してる奴が、「ちょっとだけよぉ〜」と言ってるようで、わりと悔しさを誘うので、意地になってチョコチョコちょんぎって出す(笑)。

実はこの頃デジカメにもちょっとガタが来てるらしく、今年のGWには撮るたびにパーになった写真が何百枚もあったから、もうだんだん「悔しい」という感覚自体が麻痺しつつあって(笑)、 風景や人物・建物の類は、何を写したのかすら全く思い出せない。
なのに、「あの食い物もこの食い物も写したハズだ(が、それが全て消えた)」という記憶だけが素晴らしく鮮明なのはどうしてだろう(汗)。



<武蔵五日市、大悲願寺、2>

さて、大悲願寺に入る。

大悲願寺の門
門内の天井絵

仁王門は安政6年(1859)再建。市指定文化財指定。門に入ると見える天井絵も同年、「狩野養信門人藤原善信」というこの地域の画家の作で、天井絵は中央に大日如来の梵字、周囲は草木の絵。
仁王像の天井の右天女、左迦陵頻伽(極楽の鳥)、北側袖天井の雲竜図は、現日の出町平井千石の人で、幕末期狩野派画家として盛名のあった森田五水の作。

門をくぐるとお堂

天女などを美しく彩った彫り絵

そして問題の「白萩文書」。「伊達政宗の弟がいた」と伝わる所以になった文献である。
伊達家の系図では政宗の弟は小次郎しか居ない事になっているが、恐らくは、政宗の小次郎以外の弟とするのだと思う。が、これを「実は生存した小次郎自身では?」と推理している東北のテレビ番組があり、たまたま仙台の親戚がその番組を見付け、わざわざビデオを録画して送ってくれた事があった。
もちろん結びは「謎」と放映されてはいた(笑)。が、仙台としては見逃すわけにはいかない、ちょっと嬉しい材料だったに違いない。

やはり問い合わせや「文書を見せて欲しい」という声が多いのだろうか。今回訪れた時は、「白萩と臥龍梅」という立て札の他に、「伊達政宗、白萩文書」という、原文を写真撮影して貼られた看板が立っていた。

「白萩と臥龍梅」の看板
上が梅、下が萩

説明文が長いので要約すると、まず「この寺の13世住職海誉上人の時代に、政宗の末弟『秀雄』が弟子として在山したと言われる」という。
この「末弟」部分を「俗弟」「舎弟」とする説明もあった。寺には他の由緒なども書かれた小冊子が売られていて、ここにも触れられている。
何しろ相変わらず「弟」とされているのが、とっても満足である(^^)。

さらに「政宗の来訪」と「政宗の手紙(いわゆる「白萩文書」)」については、こうである。
「川狩りを好んだ仙台藩主伊達政宗が訪れ、そのあと御礼と所望の手紙をよこした。年次は『政宗公実記』より元和9年(1623)と推定」。
そして政宗の手紙の内容は、「先日訪問した折、庭の白萩が見事であったが、(欲しいと)言い出しかねていた。使いをやるから、その白萩を所望したい」という主旨である。

さて、原文に行こう(^^)。
「伊達政宗 白萩文書」
追て曽掛(そがけ=粗末な衣)に候へ共、折節に任せ、小袖壱重(ひとかさね)進め候。以上。
態(わざわざ)飛脚を以て申し入れ候。
先度は参り、会面を遂げ
本望に候。仍(よって)無心の
申す事に候へども、御庭の
白萩一段見事に候(そうらい)き、
所望致し候。先日は申し
兼ね候(そうらい)て罷(まかり)過ぎ候。預(あずけ=使いの者に)
候(そうら)はば恭(かたじけな)かるべく候。
猶(なお)後音を期し候。
恐惶謹言

松平陸奥守
8月廿一日 花押
彼岸寺御同宿中」

一見すると、「弟がどうのこうのは言ってないな〜」と率直には思う(笑)。
しかし強いて目をつけるなら「会面を遂げ本望」かな〜、とか無理やり思う。
たったこれだけから目一杯に想像を膨らませて、ダラダラと小説(「作品の広場」→「嵐待つ」)を書いた自分も自分だな〜、とかも思った(笑)。

勿論この文書も市指定文化財で、平成8年3月18日、これを含む1万3百35点の資料が「大悲願寺文書」として東京都有形文化財に指定されたそうだ。
また昭和47年11月に、五日市町で「全国健康都市会議」が開催され、議長が仙台市長(島野武氏)であったので、このような因縁のある白萩を贈呈したところ、仙台市でも大いに喜ばれ、記念として政宗ゆかりの市の銘木「臥龍梅」(私は宮城県松島の瑞巌寺で見た覚えがある)の若木を贈られてきた。
というわけで、大悲願寺では白萩とともに、贈られてきた臥龍梅を移植させて、寺の庭の春秋を花咲かせているのである(^^)。

ちなみに「白萩と臥龍梅」の「白萩」の方は、仙台に伝えられて、後に歌舞伎で有名な伊達騒動の「先代萩」となったとも言われるが、「臥龍梅」の方は上記の通りだから、「嵐待つ」で登場するラスト付近の「白萩と臥龍梅の交換」は、この逸話をパクッただけで、史実としてはむろんウソ以外の何物でもない(爆)。
また、作中に出て来る、海誉上人の前住職、源誉上人が北条氏の下にいた由木氏の出という点は、この大悲願寺の伝えをそのまま使わせて貰っている。



<八王子城跡>

武蔵五日市から八王子を目指す。
八王子城にはわりとすぐ着いたが、雨足がいっこうに衰える気配もなく、合流予定のメンバーを各々の車の中で待った。

「史跡、八王子城跡」の石碑
入り口から続く勾配

やがて現われたのが、上杉播磨守定景さま、相模守太郎さま、東方賓従者さま、星友さま、猛馬飼育係さま、あれ?これだけだったっけ(^_^;)?
何しろこの後「雨男疑惑」が浮上し、このメンバーの誰が「主導的雨男」(何だよそれ:笑)なのか取り沙汰されるキッカケとなったのである(だよね?:笑)。

じゃ行こうか、ゾロゾロ
橋が各所に

八王子城跡は、戦国時代の終わり頃(16世紀前半)、北条氏照によって、変化に富んだ地形を利用して築城された。 東を城の大手(表口)、北を搦手(裏口)。現在は建物を建てた曲輪の跡、石垣や堀切(ほりきり)、土塁や通路の跡の遺構がよく残り、全国的にみても戦国時代の代表的な山城として、約154haの範囲が国史跡に指定。

北条氏照は、小田原に本拠を置く北条氏三代氏康の次男。初め大石源三、後で北条陸奥守。
永禄の初め(1559年頃)、大石氏の後を継いで滝山城主となり、多摩川と秋川の合流地点、滝川城(八王子市・国史跡)を居城としたが、栗橋城(茨城県五霞村)を勢力下におさめ、ここを拠点として、北関東一帯の領土拡大に乗り出し、支配地は八王子、北の五日市・青梅・飯能・所沢一帯、南は相模原・大和から横浜の一部にまでに及び、永禄12年(1569年)武田信玄に落城間近まで攻撃されたため、八王子城の築城に至ったと思われる。

地名は、北条氏照が城の守護神として八王子権現を祀ったためと言われる。
築城時期は不明だが、天正16年(1588年)には、豊臣秀吉の来攻に備え、兵糧確保や兵士とその妻子の入城を命じていて、元亀から天正初め(1570年代)に築城が開始され、天正年間の中頃に入城と推測される。

天正18年06月23日、小田原在城の城主氏照を欠いたまま、豊臣秀吉の小田原攻めの一隊前田利家・上杉景勝などの猛攻を受け、一日で落城。
これにより天正18年(1590年)07月、小田原は開城をうながされ、氏照は兄氏政とともに、秀吉から命じられて切腹。
豊臣秀吉の天下統一に至る。

遠くに見える掛け橋
道は広めで雨でも歩きやすかった

この日はこの通り雨で、本丸付近は道が険しいとの事で行けなかったが、城の縄張は、いくつかの地区に分けられる。

まず深沢山(ふかざわさん=城山)山頂付近とそれに続く尾根の「要害地区」。
急な斜面で守られた地区を平らに削りとって、主要部の「本丸」をはじめ、「松木」「小宮曲輪」、西側には「詰(つめ)の城」などを何段にも並べて建物を作った。

次に、各々の館跡と見られる「居館地区」。城山川沿いの山腹。谷間は盛土で平らにされている。
「御主殿跡」には城主・北条氏照の居館。15km以上も盛土して館を構えている。大きな建物の跡や石を敷いた通路、溝などが発見され、庭園もあった様子。
東側は有力家臣の屋敷跡「アシダ曲輪」。

ちなみに、この山中を流れる城山川は堀に利用され、橋を架けて防御の役割を担わせた。2か所に井戸が残され、他にも、合戦時に篭城して戦うための兵糧倉庫などがあったと思われる。

三つ目は城下町となる「根小屋(ねごや)地区」で、城山川に沿った中宿付近。城への大手口として城下町の一部も形成され、麓も屋敷割をして城下町になっていた。
城山川の南側には細い尾根に連続して「太鼓曲輪」などの曲輪と掘切が並び、小田野の曲輪群や、恩方方面の搦手口にも多くの遺構がある。
八王子城跡だけで約154haだが、その周辺にも遺構が残り、かなり大規模な縄張(少なくとも東西約2km、南北約1km)が想像できる。

中央の亀裂はデータ破損跡(汗)
橋を渡る

この橋は曳橋といい、戦時はこの橋を壊して敵の侵入を防いだ。
城山川の両岸の斜面に御主殿に橋を架けるための橋台(きょうだい)石垣が発見された事を根拠に、現代の工法によって、景観を崩さぬよう木造で再現されている。

下を覗くと深い谷
かなり幅のある掛け橋

また石垣も補充して再現されているが、元の形を崩さず残っていた石垣から、城山の山中から産出する砂岩を利用して積み重ねた事、隙間に小石を詰めて強固にした上、裏側に石を砕いて補充している点、勾配が急な点が特徴とわかった。


この後、御主殿に向かう途中、虎口と呼ばれる出入り口を通過するが、橋を渡ってから高低差約9mを「コ」の字に折れた階段で、途中に二度踊り場が設けられていた(がどうやら写真は破損:笑)。
踊り場には物見や指揮のために櫓門らしき礎石が発見されたという。

ご覧の通り、とんでもなく手入れされてる(されすぎてる気もする:汗)大きな公園となっていて、率直に言うと「さすが東京都っつぅか、金あるよなぁ」とか思ったな(笑)。
そういや都民だった、それも20年近く前、選挙運動に訪れたある候補者に私はかつて言った事がある。
「城跡の整備を公約に盛り込んだら投票してやる」(爆)
当時はアッケに取られたものだが(笑)、かように整備する姿勢自体は悪い事じゃないと思う。

ここは落城後、城として再生されることなく、現在まで約400年間放置され、昭和26年、国の史跡に指定。
調査は、昭和52年(1977年)から始められ、石敷きの通路、大規模な普請(造成工事)の跡、石垣の最新技術が伺える(のだそうだ)。市民の整備公開が強く望まれたため、今後は多くの専門家の協力によって、調査結果をもとに、史跡保存活用、再現を目指して整備続行中とのことだ。

さて予想していた雨もわりと小降りだったので、そう苦労もなく御主殿までは辿り着いた。全員集合(^^)。

のはずだったが、実はこの写真も左側がパクッとズレてるので、バランス上3名さんほど連座でカット(スイマセン)。
しかしお陰で上杉播磨守さまの采配を囲んで、「美しく整列した図」になってるのだと思おう。

別方向から駐車場付近に戻る途中、下のような滝と川があった。東方賓従者さまから、落城の時ここから大勢が身を投げたと伝えられる場所だと教わった。
それにまつわる呪いの伝説などが残されてるそうだが、加賀(前田)や越後(上杉)、信濃(真田)に関係ない人は大丈夫という話だったので、けっこう気楽に見学した(笑)。

手前の石から身を乗り出したのだろう
回り込んで滝を写す

あ、そうだ。この左の写真、後で「心霊写真だよ〜ん」とか噂になったんだよね(爆)。
それもこれも、行く前にさんざん「八王子城は心霊スポット〜!」という話題が出たからなんだが、それにしても、どうしてこういう写真だけはシッカリ残ってるんだろう(苦笑)。

人の顔に見える岩と水滴。→
しかし岩の方は、幽霊にしては爽やかな笑顔が印象的(笑)。下はすごく無理をすればシャレコウベに見えなくもないが、何せこの雨だったから、この手の水滴は他の写真でもたくさんついてるんだな。

昔はわりといろいろ感じるタチだったが、今はすっかり鈍くなって、ここでは特に「な〜んも」感じなかった(笑)。むしろこの後、駐車場に向かう途中に止めてあった車の周辺にちとヤバイ感じを覚えたが、どっちかと言うと、その車自体に感じた気がしたり(笑)。
あちこち変な所に行きたがる人が連れ込むパターンが多かったりね〜、とか思ったり(笑)。



<宋関寺>

八王子城見学の後は、定食屋さんに入ってみんな揃ってお昼ご飯(^^)。下は途中の車中から見た地元のお祭り風景。お神輿を担いでいるようだった。


東方賓従者さまから資料を頂いたり、上杉播磨守定景さまからは上越のお土産を見せて頂き、旅の話を聞いた覚えがある。
確か見せて貰った物や、人の食ってる物まで写真に撮ったがどれも残ってない(汗)。いつとはなしに私と、そしてこの日八王子の空を晴らせる事のできなかった梵天丸さまの「ダブル遺恨(笑)」は、城の亡霊をも凌駕するのであった(笑)。

さて、楽しいお食事の後は菩提寺にお参り〜♪

宋関寺に到着
中に入る。わりと閑静なお寺

ここでは寺の中を歩きながら、こんどは猛馬飼育係さまにちょっとお話を伺ったっけ。
出掛ける前に予備知識に、八王子城の伝説を読んだのだが、落城のおりに小田原にいる氏照を慕って、氏照の側室の片袖が空を飛んでいったという伝説だった。そしてこの側室が正室と仲が良かったらしく、この正室の話だった覚えがある。
が、だいたい見学が終わったので、今後は氏照の墓まで行こうと誘って貰ったが、我々数馬からの6名はそこで解散という事になり、この日合流した人々は続けて周辺の見学に行かれたようだ。今度話の続きを聞こうと思いつつ、かれこれ二年経った(笑)。

帰りの道々、亭主が「氏照の墓ってどこにあるんだろうね」と言うので、「前に来たけど、わりといい所で近いよ。前は氏照の墓だけ行って、八王子城は入り口までだったから、いつも片方だけだね」と説明したら、「じゃ行こうか」という話になったが、先発組はもういないし、結局二人でお茶して帰った。

どうでもいい事だが、この日に夫婦が寄った店がジョナサンだったので、この後も何かと言うと家の近くのジョナサンには行くのだが、八王子にはこれまた多忙に紛れて、かれこれ二年近く行かず仕舞いだったり(笑)。

2004年07月15日
 
     




ホーム