<2005年・城主のたわごと7月>




2004年8月上州〜信州「真田ロード」ツアー・第二弾(^^)。

1日目後半、岩櫃〜真田〜上田。2日目は生島足島神社へ。




     
  前回の続き。
今回は旅程の1日目午後から2日目午前までをお届けっ♪



<岩櫃城跡つづき、「天狗の丸」と神社>

前回「次回に廻す」とした、岩櫃城の「天狗の丸」跡に入る。
これまで居た山をいったん入り口まで下り、駐車場まで戻って来る。山と対面方向にまた登り口がある。

「天狗の丸」入り口
ゆるい坂を登る

登りつめると花壇が見え→
後は平坦な一本道

さんざん登山(笑)をした後だっただけに、この「天狗の丸」のなだらかな道と周囲に広がる風景、そしてこの、いかにも農家風の花壇のお出迎えに、何ともホッとさせられた。

真夏だったので「キレ〜イ!」と溜息つくほど華やかな花では無かったけれど、ここではそんな豪華な花を見るより、この方が、よっぽどニコニコな気分になる。

「麦茶でも飲みたいね」
「飲みたい飲みたい(^^)」

パノラマ4.5枚、やって来た道を途中で振り返る

パノラマ4.5枚、続きを先に進む

ここは岩櫃城に比べてはるかに平坦然としてて(笑)、ここに居館とか建てたら眺めもいいし、忍者じゃないなら住むのはこっちだなっ(爆)。←まだ言ってる(笑)

先はコンモリした杜、奥は→
鳥居と小さなお堂

残念ながら祭神がちょっとわからなかった(^^ゞ。
「天狗の丸」と言うからには、天狗サンに絡んだ神様なのかも。
沼田でも天狗堂があったし、名胡桃のノロシ台に使われたという山も天狗山と書かれてて、天狗はこの辺り(あるいは真田)の守り神なのかな〜とか思った。



<真田ロード2、岩櫃→真田の庄>

さてさて、沼田→岩櫃の後も、さらに南西方向に進んでこれより「真田」に向かう。
だいぶ岩櫃でノンビリしてしまった。何せ好きなので(^^ゞ。

あと実は、5月のGWに来た時、この岩櫃でそれまで撮った写真が、なぜか強制的にフォーマットさせられる状態になって、全部パーになってしまった(;_;)。。
なので5月の旅行では、この後のルートを、かなりしょげ返りながら道行きしたもので、この8月は再び来られたものだから、尚一層感激してたかも(笑)。

ってわけで、この先はいよいよ上野国(群馬県)から信濃国(長野県)に入るルート。
ちなみに、いったん長野に入ってから先は、再び群馬に戻りはしないです(^^ゞ。

ここはまだ群馬。→

前回も述べた「日本ロマンチック街道」と呼ばれる国道145号線をそのまま南西方向に進む。
説明が遅れたが、この道は岩櫃に入る手前で吾妻線(鉄道)と合流し、その後はほぼ線路と同じルート(隣)を走っている。


←で、ここ。
「長野原町」という標識が見えるこの辺りが「吾妻渓谷」。
ここから岩櫃のある吾妻町から長野原町に入る。

ずっと一本道で追い越し禁止車線だから、あまり途中で休む事無く走ってくるが、この渓谷付近の断崖は名所なのか、車を停めて写真を撮る人なんか見る。

確かにこの断崖に差し掛かると、「おおっ」と見上げる感じはあり、また道路脇に停車スペースもあって写真を写しやすい。

ここから先、いよいよ日が暮れ始める時間帯に入り、暗さは気になるが、沼田から岩櫃に来た時よりもシャッターが上手くなり(笑)、我ながらイイ写真が撮れた気がするので、以下ご披露〜♪

「川原湯(かわらゆ)温泉」を通り過ぎた。ここは「長野街道」(同じく145号線)。

↑「半鐘」のある風景が大好きなので、これがあると必ず撮影する(^^ゞ。↑渓谷沿いの道路はめくるめく奥の山並風景が移ろい、とっても爽快♪


道路は自然と144号線に切り替わり、「嬬恋」を通り過ぎる。吾妻線とご一緒ルートはこの嬬恋あたりまで。
この辺りの道で、前は浅間山みたいな風景を見たんだが、今回は逆光が強くて見えなかった。あれは一体何の山だったんだろ。。

で、いよいよ県境付近に差し掛かる。 それまでの風景とは一変して、いきなり山の中に入って行く。

前も同じルートを行ったのだが、2回とも霧や小雨に見舞われた。天候の変化しやすい地域なのかも。

群馬とはこれでお別れ。ちょっと感想を述べると、上州はすご〜く信州に風景や雰囲気が似てると思った。
と言っても、それは上州にせよ信州にせよ、真田氏に関連のあった地域ばかりだけどね(^^ゞ。

が、よく考えたら、我々が懐かしむ「自然の風景」とは、実は殆どが「人工的にデザイン」された上で植林したり道筋を作ったりで出来ているので、まんざら全く関係がない事でもないかもしれない(笑)。

で、ここはもう真田。このルートで長野県に入って一番最初に見る標識が「真田町」という事になる。↓




<真田、御屋敷公園(館跡)〜山家神社>

真田。その名の通り、ここが真田氏発祥の地と言われている。
実はこっから先のコースは、最後まで殆どが「昔来た事あるトコ」ばっかである(爆)。
ただ、この「たわごと」で紹介した事は全く無かったから、がんばって写真も撮った(^^ゞ。

行け行けドンドン真田だぁ〜っ!
で、最初に来たのが「真田氏歴史館

5月に来た時は、実に15年ぶりぐらいだったので記憶もオボロで、ウロウロ車を進めながら温泉施設(ふれあいさなだ館)に入り、そこのロビーでこの辺りの絵地図を貰って、この歴史館が出来てるのを知った(^^ゞ。

15年前には無論こんな資料館も無ければ、温泉施設もあったかどうか……。あったかもしれないが今のような新しい建物ではなかった。何らか公共施設はあった覚えがある。

で、今回は5月の時に貰った絵地図を頼りにイキナリ行ったか、また地図を貰いに行ったのか、正直1年も経つとこれまた記憶が簡単に抹消されてしまうのだが(笑)、亭主も一年前となると道路をよく覚えていて、わりとスンナリ来られた。

が、既に閉館していた。最初から諦めてはいたのだが、入館時間は朝9時〜夕方4時。
まぁこういう所はどこもだいたいそうだが、実は5月に訪れた時にも閉館時間を過ぎて来た。
こと真田については、どこからやって来ても別の所を先に廻る事が多くなり、どっちかつーと最後の方に来るコースになりがちなのが難点と言えようか。

ただ、もっと気をつけたいのは、休館日が火曜日って事。月曜日だと思っちゃう人多そうな気がしたので(^^ゞ。

全体を囲む敷地を「御屋敷公園」と言い、真田氏が上田城を築城する前に居住していた館跡といわれ、今ではツツジの名所になっている。


↑地図の右端が「歴史館」で真田一族の資料を時代に沿って展示。同じく「真田庵」(休憩所っぽい)。
中央上の「親水広場」は大沢川。トンボやホタルが来る一帯。
中央下の「出陣広場」は大勢の人が集まれる場。
左端、上が「体験農園」。戦国期にも食された五穀の実りを収穫。
左端、下は 「三ツ頭つつじ園」と「真田氏館跡」、神社もある。


ここが「歴史館」。なぜかここだけは裏手から入れた(笑)。



15年前に通った所とか行ってみようと、亭主が車を出した。

「最初に来た時は、こんな資料館とか無かったよね〜」
「そうそう、寒〜い温泉宿に泊まって……」
「千古温泉!」
「そうだった! 寒かったね〜、星が綺麗で」
「そうそう。目を見ると星が良くなるんだ、とか言い間違えたんだよなぁ」
「言ったね〜、星の何が良くなるんだ?って(爆)」
「星が、このごろ目ぇ見てないから俺悪くなっちゃってさぁと言う、だから何がだよっ!」

(※正解は「星を見てると目が良くなる(視力の矯正効果がある)」)

なんちゅうアホ話をしてる内に、昔はエンエン歩いて来た辺りにやって来る。

やって来ましたっ、吉野屋食堂!(笑)
おっ雨だっ、ちょっと急ごうか……

この食堂で昔食べたのは、確か「煮込みうどん」(爆)。猪の肉が入ってるとか聞いた覚えがあるんだが、これは記憶違いだっただろうか。。
何しろ当時は見渡す限り、ここ一軒きりしか飲食店は無かったと思う。
今は営業してないのかな〜。あーーっ、懐かしっ!



さらにやって来たのは「山家神社」(^^)。700年代に創始。
ここ「真田」の地が真田発祥の地とされる事から、代々の真田氏に崇敬されたと伝わる。

イザナミと菊理姫を祀った白山信仰の神社で、山岳信仰とも関わりが深いと見られる他、真田幸隆や昌幸の文書も保管。

天狗といい、真田氏のいた地域は、ホント山岳信仰の色合いを強く感じる。

残念ながらここでかなり横殴りの強い大雨になってしまったため、写真はこれのみ(^^ゞ。
が、その後は雨も小ぶりになり薄明るくなって来たため、「もうちょっと行こうか」と長谷寺に向かう。



<長谷寺(真田氏の墓所)>

ここも昔はエンエンと坂道を登って来た覚えがある(^^ゞ。
古めかしい民家と田畑に囲まれた登り斜面の先にある。

今もそう大きく変わった感じはしなかった。
長谷寺に入ってからも、本堂までわりと階段が続き、高い所に作られた寺だとわかる。
アーチ型の門が見え
門をくぐって境内へ

このアーチ型の山門、あいにく写真が(暗さで)見事にブレちゃったんで、近くで写した奴は出さないけど、近くで見るとイスラム寺院か何かみたいよ(^。^)。
検索して出て来たサイトに「真田幸隆(初代)の時代から伝わる門」と書かれてた。

で、この正面の本堂から二度に渡って「真田公墓所→」と、わかりやすく六連銭もよう入りの標識があって、本堂を超えて裏手に出ると、さらに山の斜面を登り、その奥深くにある墓所に行ける。

鬱蒼とした森林、石段を上がり
真田氏(左が幸隆夫妻、右が昌幸)の墓

真田三代というと、幸隆・昌幸・信之(信幸)を指す。
真田を生んだ町として、町の中心には三代を称えるレリーフの置かれた公園もある。

特に初代幸隆については、この真田の地のみが主要関連史跡に当たるので、遠い所からでも、真田ファンならこの真田町を訪れる人も少なからずいると思う。
幸隆は1513年に生まれたと言われ、上州安中の長源寺の晃運和尚によってこの寺を開いた。

この幸隆を大きく取り上げたドラマとしては、1988年のNHK大河「武田信玄」が唯一ではなかろうか。
橋爪功さんが機智に富んだ信州の地侍として演じた。
ドラマの幸隆は、家督を継いで間もない武田信玄を、ある日ひょっこり訪れて碁の勝負を持ちかけ、本当は勝っているのに「自分が負けた」と言い放って、信玄の麾下にちゃっかり加わっていた(笑)。

その後、幸隆は武田氏が北信濃を攻略するたびに才能をあらわし、川中島合戦を経て重要なポジションを確保したのだが、亡くなったのが信玄の死から一年後の1574年、その翌1575年が武田の命運を分けた長篠合戦、とちょうど区切れの時期に当たるため、非常に注目される人物でありながら、残念にもドラマや映画で登場する機会を得にくい(^^ゞ。
また真田氏の出は海野とか滋野と言われるが、幸隆にいたる系譜がハッキリわかってない(史料に乏しい)、というのも一因するかもしれない。

二代目、昌幸は1547年に生まれた。幸隆の三男であったが、長兄と次兄を長篠合戦で失ったため、一度は信玄の命によって継いだ武藤氏を改め、真田氏の当主となった。この寺を整備し、真田氏の菩提寺と定めたのは昌幸である。
やがて上田に本格的な居城を築いたのも昌幸であった。

三代目にあたる信之は昌幸の長男で、はじめは北条滅亡後の沼田を仕切っていた。
父昌幸と弟幸村が関ヶ原で西軍につくと、家康についた信之は父にかわって上田領主となったが、1624年、幕府により松代に転封され、信之以降(江戸時代)は、松代に「長国寺」(読みはどちらも同じ「ちょうこくじ」)を建立し菩提寺・墓所と定められた。

よってこの寺の真田家墓所の役割は昌幸の代までとなった。
が、後を引き継いだ松代でも、「藩主」初代は信之から数えるのが当然だが、戦国期については「先史」として幸隆に遡り、「真田三代」として語られる。



<真田本城・真田温泉>

たぶん15年前(1990年ごろか)に行ったのは松尾城(同じ真田町)じゃなかったかと思うのだが、実はその時は城廻りにだけはタクシーを使ったので、正直道のりは殆ど覚えてない(^_^;)。

というわけで前回、2004年の5月に来た時は、松尾城(と絵地図に書かれた)あたりをウロウロしたんだが、城廻りをするには遅い時間だったというのもあり、途中まで行きかけて「道に見覚えがあるような、無いような……」で終わった。

なので今回は、同じく絵地図にある「真田本城に行ってみよう」という話になった。
こちらは標識も途中にあり、殆ど迷うことなくやって来られた。

標識には地元の工房で作られた木のレリーフも使われてたよ(^^)。(拡大↓)

真田本城は山城(もちろん城跡)で馬蹄形状(馬の足跡みたいな形)という構築。

南に2mの土塁。北は急な崖で外からの侵入を阻む内側に、二の郭、三の郭と段差を設けている。
南西のゆるい斜面には、最初に訪れた「真田氏歴史館(御屋敷公園)」がある。これは真田氏館跡であるから、対して真田本城は、居館の東北の守りに位置する城(砦)と言える。

矢沢城・戸石城といった城とも連絡を取り合う、程良い地の利を持っていたと見られ、上田築城にいたる昌幸の時代までは真田氏にとって本城的な役割を担った地と見なされる。

「真田本城跡」の案内が正面に
道はうねりながら先に延びる

やっぱ岩櫃城よりは平坦な部分があるよなっ!(爆)

が、これも本丸付近に行くと、又しても凸凹と勾配が激しかったりする(笑)。

う〜ん残念。時間的に暗さ制限の限度。。じーーーっと光が取り込まれるのを待ちに待ってシャッターを切るのだが、どうしてもブレる(^_^;)。
代わりに比較的きれいに撮れた真田本城から写した眼下の町並みをご覧あれ↑。

写真はブレブレなので出さないが、本丸付近もちょっと傾斜が凄かった(^^;)。そのうえ風も激しく、座ってても落ちてしまいそうだった(笑)。
ただ岩櫃ほど全部が急勾配の連続ではないから、歩き疲れる程ではない。公園にブラッと行く気分で見られる。

もっとも車なら、だけどね(爆)。

「この傾斜ぐあい、やっぱ前に来た城跡と同じじゃないかな〜?」と亭主。
「そんな感じするよね(^^ゞ。でも松尾城って聞いた気もするし、ちょっと風景が違う気も?」
と結局、むかし来た城と一緒なのかどうか判断できなかった。

町には灯りがともりはじめる
慕色たち込める戻り道

↑左の光景。5月は横いっぱいに繋がれた縄に、エンエンと物凄い数の鯉のぼりがブラ下がって風に靡き、かなり圧巻だったのを思い出す。



この日の行程は全て終了(^_^A)。
写真も撮れたし、前は行けなかった所も行けたので大満足で「じゃ、まず風呂」(爆)。

真田には「ふれあいさなだ館」という温泉施設がある。夜9時までやっててくれるのが助かる。
中には飲食のための座敷もあり、土産屋もある。
風呂の施設は二つに分かれて、最初にどっちに入るか決めなくてはならない。
GWには菖蒲風呂をやってて、これが露天温泉だった。今回も露天に入った(^^)。

蕎麦を食べたんだっけな。メニューが殆ど終わってしまってた気がする。
お座敷には真田十勇士の活躍が描かれた障子絵があった(^^)。

左面

右面



<夜の上田城>

さてさて真田を後にして、今夜のお宿、上田に向かう。
沼田で高速を下りて以来、岩櫃・真田・上田と、とにかく南西方向に進んで来ている。
で、真田から上田までは車だと20〜30分ぐらいかな。何しろそう遠くはない(^^ゞ。

上田では格安のビジネスホテルにイン。夜食を買いがてら、外に出たついでに上田城に向かう。
夜10時だったが上田城には入れる。大手門から入り、真田神社を通って西櫓に行き着く。

夜だぁ〜〜〜。城内の渡り廊下(肝試しみたい:笑)。

城内は真っ黒↑。
だが南側から夜じゅうライトアップされてるので、背の高い建物には光が当たっている。↓

西櫓に行き着く
西櫓から南櫓を振り返って写す

そして今度は南側の駐車場に廻って、写してみる。

左が西櫓、右が南櫓(大手門)。パノラマ3枚

夜食を買いあさると、宿に戻って酒飲んで寝たっ☆ミ



<朝、上田市街>

おはよー(^。^)。
ジャーーーン! 朝食は和食っ♪
部屋は狭かったけど居心地は快適で、何しろ格安な上、朝食スゴイ豪華(゚.゚)。食後のコーヒーも美味しかった♪

さらに喜んだのは、チェックアウトの時。
会計する亭主を待ちながら、ロビーでこんな物を見ていた。↓

ご存知「真田十勇士」! これは切り絵
こっちは貰ったブローチ♪

↑こういう昔風の「揃い絵」が大好きなので(トランプとかカレンダーとか:笑)、「写真撮ってもいいですか」と聞いてみたら、フロントの人が「どうぞどうぞ」と言ってくれ、「これも真田十勇士だから、どうぞお持ち下さい」と、上のブローチを持って来て下さったのだっ!(^^)

この日を境に、こたつの中で「真田十勇士」はグンと評価が高くなった(笑)。

そして……翌2005年、つまり今年6月に時代劇専門チャンネルで「風神の門」を再放送してから先は、「ドップリ首まで浸かってる状態」と言っても過言ではなくなった(爆)。

今思えば、このブローチに何か魔力が秘められていた気もする(笑)。

ところで、どうして上田で「真田十勇士」なのだろう。

それにはもう一つ、このロビーには書庫に長野県史が全集でズラッと並び、他に地元誌のスクラップも置いてあって、何となく見ていたら「真田随想録」という記事が目に入った。
なぜ目に入ったかと言うと、「出浦対馬守」の名が見えたからである。

上田にとって本来、生粋の地元の英雄と言えば、この出浦氏こそが相当するだろう。
この上田の城下町北側にある虚空蔵山には、かつて出浦氏のもつ和合城があった。
出浦という名が、今では武田時代いらいの「忍者の統領」として知られている事、そして松代藩の真田家に家来としてその名を残している事も、この「たわごと」で何度か触れた。

「真田十勇士」と言えば、
猿飛佐助/霧隠才蔵/三好清海入道/三好伊三入道/穴山小助/由利鎌之助/海野六郎/根津甚八/望月六郎/筧十蔵
の十人。むろん「出浦」の名は存在しない。

しかしその記事には、あくまでも小説風の書き出しで「真田幸村の放った(とおぼしき)忍者が岐阜城に潜入し、信長を守っている忍者“キョウ談”に命を奪われかけて、出浦対馬守に助けを受けた」という筋立てが書かれていた。
(“キョウ談”の“キョウ”は、上が「」、下が「」の字)
つまりは十勇士に名をあげるのとは別の働きをもって、影ながら幸村の武功に貢献した存在として名が出て来る。

考えてみれば、真田の生まれた地は「真田」であり、真田の城下町は「松代」にある。
となると、どうして上田は「真田」ではなく、「真田十勇士(=忍者)」なのか……。これで納得したつもりになってはいけないだろうか。



上田に着いたのは夜だったから、朝はちょっと市街に出てみる。
ホテルを出ると、トトロの街路樹が「おはよー」と出迎えた(笑)。→

上田駅は町の南、そのさらに南に千曲川、市街の東を神川(かんがわ)が流れる。最初に徳川が攻めて来た「第一次神川合戦」の名で知られる川だ。
一方北には、東太郎山、 大峯山、虚空蔵山が聳え、北からの外敵の侵入を防いでいる。

上田駅からメイン通りをやや北上すると「松尾町」と標識される交差点がある。

「松尾町」から北(東太郎山)を写す
「松尾町」から南(上田駅)を写す

ちょっと「上田駅」にも出てみる。

「上田駅」。駅前にチラと見える赤い旗は→
真田幸村の像

長野オリンピックの前、この駅も改修工事され、幸村像も駅の別の所にあった覚えがあるが、今はこうして駅前に復帰している。

上田城に向かってみる。
ライトアップされたお城もステキだったが、やはりお日様の下でも見てみたくなった。

上田駅から北西方面に進む




<朝の上田城>

上田城は市街中心地より、やや西側に位置する。

左が南櫓、中央が大手門(東虎口櫓門)、右が北櫓

そして昨夜も最後に写したショット。南側の駐車場からもう一度撮影。↓

パノラマ3枚。左が西櫓、右が南櫓(と大手門)

比べて見る?(笑) ↓前夜写したパノラマもう一度

今回は上田城の中には入らなかった(^^ゞ。見取り図の写真だけ出しておく。↓

上の写真は、この図の中央一番下側(の駐車場)に来て城側を写した。

写した所だけ拡大してみる。↓
現存の上田城は、左側の西櫓のみで、江戸時代初期(1626〜1628年)、真田家の後に城主となった仙石氏によって建てられた。
戦備としては西の出入口を固める重要な櫓だが、江戸期は戦争がなかったため倉庫として使用された。

雪の多い地方で見られる特色もある上、長野県では数少ない江戸初期の城郭建築。

現存するのは仙石氏の作った櫓のみだが、上田城にはやはり真田にまつわる伝説も数多く、敷地の中にはそういう史跡(例えば井戸から近くの山まで通じる通路とか)や神社もあるし、史料館もある。
が、今回は上田城はカットして先に進む(^^ゞ。

この時はこの後、別所に向かった。

これも我々夫婦にとっては「懐かしい〜!」の旅路(笑)。
というのも 、実はこの先の旅程は……ナント死ぬほど懐かしい、この「たわごと」で「旅行レポ」を初めて載せた、2000年7月〜2001年5月までの「信州旅行編」の「写真入り懐古編」をやっちゃるっ!(爆)

はじまり、はじまり(^。^)。



<生島足島神社>

この日も前日に引き続き、すこぶる快晴にて暑かった(^_^A)。
あほんだら夫婦は、上田を出ると飲み物を買いに寄ったコンビニで夕張メロンソフトなんか買って、むさぼるように食い終わると一路別所方面を目指す。

上田から別所に出るのも、やはりこれまで沼田から岩櫃や真田、上田に来たのと同じく、ひたする南西方向に進む。
この東北から南西に進むルート上に真田は点々と拠点を持っていたからである。

とは言え、この上田まではともかく、そのさらに先の別所に行く道筋となると、真田の痕跡を辿るルートと言うよりは、伝説や小説・ドラマにあらわれた真田を追い求めての旅路、と言う方が近いかな〜?

むろん「真田太平記」にも、真田の草の者達や幸村が別所の湯に浸かりに行くシーンが多々出て来る。
実際、別所あたりも真田の領有であったし、湯も古くから出たと伝わり、ここまで遠乗りに出かけたり、湯で病を治したり、そうした日常があったと想像しても、そう史実から遠ざかるわけではなかろう。

というわけで、この先も相変わらず「真田ロード」という事で進めたい(笑)。


↑これは上田から別所に行くルート。
南西方向と言っても、上田〜別所間は南に西にと、ややジグザグな進み方になる。

↓ナイスなようでいて実は北が下南が上な地図。。
上田駅の南を流れる千曲川をさらに南に超えて、143号線をしばらく西に進み、65号線に入って南に行く。まっすぐ別所に行くには、すぐまた西に向かうルートを使うのだが、今回は「別所への旅を懐かしむ」と決めたので、前に辿った鉄道ルートをなるべく忠実に追い駆ける事にした。

だから65号線に入った後は、すぐ別所(西方面)を目指さず、「上田交通別所線」という鉄道路線に行き会うまで、少し南下を進める事とする。

この「別所線」は、実際上田駅を始発として出発すると、いったんは西に進むが、途中から南にやって来て、ちょうど「生島足島神社」のある辺りから再び西を目指し、終点「別所」に到達する。

というわけで、我々もまず最初にやってきたのが、ここ「生島足島神社」だった。
この神社を訪れるのは初めてである。これまで何度となく別所には行ったが、どうしても途中ルートにあるこの神社参拝に時間を割くゆとりがこれまで無かったため、この辺りは「やっぱ車って便利だな〜」と素直に思う(笑)。

というわけで65号線上に見えて来る「生島足島神社」

上田市大字下之郷中池西701
という所にある。
電車(別所線)で行くなら、「下之郷」駅が近い。

一般的にはこの神社は「日本のヘソ(中心)に位置する」といったキャッチフレーズで名が知れている。

正面から入る、右隣の駐車場には→
御柱

「御柱」と言うと、諏訪大社(上社・下社の総称)の七年に一度の大祭「御柱祭り」で知られるが、要は木材を切り出してきて山から運んで来て、宮の中に建てる神事である。
この「生島足島神社」では古来より、この諏訪の神が奉仕したという二神、生島神と足島神を祀っている。

となると、諏訪大社の説明がちょっと必要になる。
諏訪という地は同じ信州でも、ここからはかな〜り遠い。諏訪大社の上社では建御名方富命(たてみなかたとみのみこと)を祭神とし、下社では八坂刀売命(やさかとめのみこと)を祭神としている。

続きは入りながら話そう。
門を入ると奥にまた赤い門が見える。→

さて続き。
諏訪湖は真冬、凍った湖の上に氷が競り上がる亀裂が入り、この轟音がかもされる現象を「御神渡り(おみわたり)」と呼ばれる事でも有名だ。
これは男神の建御名方富命が、女神の八坂刀売命をお見舞い(夜這いともいう:笑)に行くから、という事になっているわけだが、この建御名方富命は人を訪ねるのが好きと見えて、実はこの生島足島神社にも来た事がある(笑)。

「いやいや、どうぞお構いなく、やって来たのは私の方ですから(^^ゞ」
と言ったかどうかは知らないが(笑)、何しろ建御名方神は、やって来ると炊事場に行き、せっせとお米を洗ってお粥を作り、生島神と足島神に捧げたという。

要するにしばらく滞在するんで、その謝礼って事なのかな(笑)。
この出来事は、建御名方神が諏訪に下降して来る途中だったらしい。滞在期間は春から秋の半年。

その古事にちなんだ神事「御籠祭」が今でも行われ、やはり毎年、春から秋にかけて。
北の諏訪社から真っ直ぐにやってくる道があり、途中の「舞殿」ってトコで舞を踊り、踊った後でやってくる。

あ、誤解の無いよう言っておくと、この「北の諏訪社」は、この近く50mほどの所に諏訪社があり、神事にはそこから来る。諏訪大社からエンエンやって来るわけではないよ(^^ゞ。

ただやって来る時間は真夜中で、神の姿は誰にも見る事は出来ない秘事だそうだ。

つまり……この「諏訪の神」こそ信州流忍者の祖かも(爆)。

話は途中だが内門に到着。左は池。右は社務所。本殿は門の奥。

この池に囲まれた小島の上に改めて本殿を作るやりかたは、「池心の宮園池(いけこころのみやえんち)」と称され、出雲式園地の面影を残す、日本でも最古の形式の一つだそうだ。

で、続きだが、何しろ上記の古事を起源として、以来ここでも6年に一度、寅・申の干支年の4月に御柱建てが行われる。
長さ約17m、幹回り2m、重量約3トン。東山市から樹齢150年の赤松を切り出す。
この際、宮中より幣帛料が下賜され、御柱は近郷16ヶ郷の若者により奉曳、氏子によって奉建される。

という事だが、つまりは諏訪御柱にあやかって、という事かと思うのだが、それともこの柱も建御名方神の「諏訪から愛をこめたプレゼント」って事かな。あるいは「6年分の滞在費は粥を作るだけでは足らないので、6年に一度不足分のツケ払い」なのか……、そこんとこちょっと判らなかった(^^ゞ。

内門入って左側を撮影。
左から「神池」、奥に「子安社」、真ん中の橋は「人間用」、右は「神様専用」の橋。

何しろそんなこんなで、ここでは「御柱大祭」が行われ、皇室(天皇陛下)からは幣帛料が下賜されてるわけだ。

人間用の橋を渡って本殿前。↓まんま立て札がこの通り(^^ゞ。

現地で買った本によると、現在も皇居で天皇がいつも拝む神は全部で23柱(神を数える時は「柱」という)があるが、その中にこの「生島」「足島」の二神が入っているそうだから、今でも皇室にとっては疎かにできない神様なんだろう(^^ゞ。
皇室の見知った方々の御名が歴訪記念としてズラズラ連ねてあったでおじゃるよ。

これが神事の際、神様の渡る橋
こたつ城主
こたつ亭主

こたつ夫婦はちゃっかりご神徳にあやかって、傍で記念撮影なんかしておるが(笑)、この神様が渡る橋は、一般人はもちろん、神社の人でも神事の時しか渡ってはならないそうで、神事の時にはもちろん撮影も禁止。

通り過ぎてまた一つ門を超えて振り返る
既に述べた通り主祭神は「生島」「足島」の二神。
「生島神」は万物を生み育て、力強い生命を与える神。「足島神」は国中を満ち足らしめ、人々の願いに満足を与える神。

歴史的に認められる時期としてもかなり古く、平城天皇の大同元年(806年)には神封戸の寄進があり、平安期の延喜式内では名神、大小のうち大社に指定、「生嶋足嶋神社二座名神大社」と記載されている。

本殿の撮影を試みる→

通常の神社と違う点は「御神体」で、通常なら鏡や玉を奥に祀り、御神体とする所だが、ここでは本殿に床板が無く、土間の大地、つまり「土」が御神体とされている。

これは稲や麦を育てるのが「土」であり、「水」であるからで、その「水」もやはり「山(=土)」から来るからであり、ここから非常に古い信仰の脈づいてる事がわかる。

屋根は切妻造の当初は柿葺(こけらぶき)、のち厚板張り。 内部は向かって左が内陣、右が外陣、外陣は諏訪大神が半年間、生島足島神にご飯を炊いて奉った所と伝えられ、今でも「御籠祭」で受け継いでいる。

内陣周囲は殆どが板壁。内外陣の境界に片引き板戸の潜り戸、正面中央の片引き戸口は当初は窓、右側面の西妻は今では壁も戸もないが、当初は向背が存在したと推定。

床は内外陣とも土間で神体。主要部材はケヤキ。表面は手斧仕上げの上を削って磨き、外面の一部には朱の彩色した跡が残り、軸部は、粽(ちまき)、礎盤、太瓶束などを用いた室町時代(1522〜1555頃)の様式と推定。
内殿はかつては屋外に建設されていたが、18世紀後半〜19世紀初期に諏訪社本殿が建てられてから屋内の内殿となる。
尚、本殿は権現造りで北面。

また本殿の他に、諏訪社、八幡社、子安社、十三社、荒魂社、秋葉社、山宮社、御旅所社、といった摂社を持つ。

子安社(本殿の右隣)
諏訪社(人間用の橋の向かい)

諏訪社の前、左右に異様な形(笑)の一対の巨木。樹齢古そう〜!

この神社は、戦国期は武田氏・真田氏が信仰し、江戸期には続いて歴代上田藩主の庇護を受けた。

諏訪社本殿は1610年、上田藩主真田信之の寄進で再建され、大工棟梁は宮坂勘四郎。本殿手前の門も同時期と考えられる。

本殿の部材は一木からすべて作られ、正面は一間社流造り。屋根は元はこけら葺、あとで鋼板葺。現在の塗りは昭和16年施行だが、当初から朱漆、胡粉を用いたと考えられる。
全体の建ちが高く、軽快な感じのする点が特徴で、向拝の頭貫上部にある蟇股は、表に竜、背に雲を彫り、扉の上の蟇股は雲と麒麟。どちらも立体的で精巧な彫刻。軒障子の上部に熨斗結びの透かし彫。桃山様式。
門は当初は内部に床を張った諏訪糸の神社にみられる「御門屋」形式が痕跡から確認。県内で一番古い門。

諏訪社の隣には、「歌舞伎舞台」が並んで建っている。

歌舞伎舞台
舞台の裏手から神橋を写す

「歌舞伎舞台」は、江戸〜明治時代に建築。農村歌舞伎の中でも最大規模で全国でもトップクラスに属する。
正面右と左の中二階に「太夫座」「下座」を設け、内部中央に半径2.4mの「廻り舞台」が作られ、前方二ヶ所に「せり上がり」がある。
観客は舞台前方の平地から観劇。観客がわから舞台に向かって左手に花道を仮設した。後方の壁面には3.6mの窓があり、背後の自然風景を舞台の背景として利用した。
氏子の伝承では、舞台は1868年(明治時代)に建設後、校舎や集会所に利用されていたが、最近は建築が江戸期農村歌舞伎舞台の典型的な姿をほぼ完全に伝えていることが検証されたため現在では県指定として保存。

歌舞伎舞台の隣にあるのが展示場。
この生島足島神社で、もう一つ有名な物と言えば、何と言っても「武田信玄の願文」だろう。
むか〜しから、ここに来れば見れると思いながら、やっと来られたのでウキウキしながら入ってみるだっ(^^)。  

入り口
展示場の地下は廻り舞台の仕掛け展示

入っていきなりご挨拶だが(笑)、実はこの展示場、「廻り舞台」といわれる明治時代(1868年)に作られた「舞台装置(仕掛け)」を備えている事でも貴重な建物。
入るとズラーーーッと展示物が陳列されてるので、1階の撮影は遠慮。
というわけで、いきなり「地下室」の写真から出して貰っている。

どうもコレが「廻す仕掛け」らしい
これだけ撮影させて貰った

右上のは1階の展示室に陳列されてた物だが、これだけは物を見てもらわないと判らないから、小さく出させて貰った。
「鬼梶紋」という。諏訪社で用いられている鬼瓦。梶の紋が他で見られる物と変わっているのだそうだ。

さて「信玄の願文」と書いたが、ここにズラーーーーと陳列されてた物は、殆どが「文書」史料である。

まず信玄の信州攻略は、天文11年(1542)諏訪氏攻略を手始めとする。
ここから諏訪を出口として、殆ど毎年、近くからシラミ潰しに城を落としては、破竹の勢いで侵略を重ねていった。
同17年(1548)に上田原で村上義清に敗北し、ここでちょっとモタつきはしたものの、風林火山の侵略の炎がおさまる事は無く、ここ東信濃まで到達し、天文22年(1553)、最後まで残っていた塩田城を落とすと、信玄はこの生島足島神社に乗り込み、堂々と戦勝祈願をあげた。

と同時に、信玄はここに甲州はもちろんの事、信州や上州の武士にまで呼び掛けて参集させ、自分への忠誠を生島足島の二神の前で誓わせるという手法に打って出た。

というわけで、誓いを立てた武将達の起請文83通がここには残されている。

メモを取ったが、字が見づらくて全部は取れなかった(^^ゞ。
見づらいと言っても、展示された文書類は全て後付けでそれぞれの名が書き込まれているから、博識な人が見れば誰だかわかるのかも(^^ゞ。

以下、起請文
浅利信種/麻績清長/跡部昌長/安中量繁/飯島為方/板垣信安/一宮氏忠/今福昌和/浦野幸次/海野幸貞/海野幸忠/大井信舜/大井昌業/大井満安/小幡信尚/小幡信実/小幡具隆/小幡信実/小幡具隆/小山田信茂/片切昌為/上穂為光/衣笠信貴/後関信純/小林幡繁/三枝昌?/大日方蓮武/高田大和守/高山定重/ 武田信豊/武田信廉/長坂昌国/仁科盛政/野村勝英/原昌胤/武藤幸昭/横田康景/吉田信生/依田信茂/和田業繁

以下、連署起請文
高山衆/小泉被官/六河衆/山中衆/南牧衆/室賀

起請文は全て「牛王紙」という「烏」をたくさん書き込んだ紙に「自分は信玄さまに背きません」などと約束し、自分の名を署名した似たような形式だが、中にはそれぞれの地域や立場、事情の関係で、約束に特別な文言が書き込まれるなど、またその説明を読むと面白そうで、ずいぶん長い時間見ていた(^^ゞ。

で、信玄に関しては、前述の「天文22年(1553)、武田信玄(判物)」の他、その後、川中島に謙信と対決するに至った頃、つまり、
「永禄2年(1559)、武田信玄(願文)」
これが有名で、内容としては、
「謙信に勝たせてくれたら、今後10年はお金をたくさん差し上げます」
といった物。

海音寺潮五郎の「天と地と」だったか、これを謙信が読んだ途端、信玄のあまりの不遜さにブチ切れてしまう、というシーンが確かあったと思い出した(笑)。

およそ武田信玄の政治力・人心掌握術、さらに宗教性について語られる時、この生島足島神社に残る願文ほど「他の武将との比較」に使われたネタは無い感じもする。
つまり信長と比較すれば「神様に必死に頼んでいるから、保守的で暑苦しいオジサン」のイメージに使われる一方、謙信との比較では、「純粋な修行や祈祷はせず、願文はPR手段、神(ひいては寺社勢力)とも金で取引する」という、いたって現実的でクールなイメージとなるのが面白い(笑)。

以下、真田時代の文書もわりとあった。

元亀4年(1573)、みかわ(連署願文)
真田昌幸(朱印状)
天正18年(1590)、平盛幸(願文)
天正19年(1591)、小幡信繁(願文)
慶長16年(1611)、真田信幸(寄進状)

生島足島神社とも別れを告げる。
ハッ(・・;)、「信州旅行編」の「写真入り懐古編」まで至らなかった。待て次回!

というわけで、次回は別所までのコース。
さらに別所から先は一転して北上し、北信濃に出るコースをお届けしたい。

2005年07月25日
 
     




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