「風と雲と虹と」7(40〜46)
キャスト
平良兼=長門勇
詮子=星由里子
蓮沼五郎=小沢幹雄
海老丸=伊藤高

平将門= 加藤剛(青年役)
良子=真野響子
平三郎・将頼=高岡建治
伊和員経=福田豊土
将門の爺や=日野道夫
三宅清忠=近藤洋介
鹿島玄道=宍戸錠
鹿島玄明=草刈正雄
栗麻=神田正夫
多治経明=金内吉男
文屋好立=大宮悌二
興世王=米倉斉加年
子春丸=島米八
子春丸の女=藤田弓子

平貞盛=山口崇
小督=多岐川裕美
平繁盛=佐々木剛
佗田真樹=藤巻潤

田原藤太(藤原秀郷)=露口茂

定子=新藤恵美
源扶=峰岸徹

藤原純友=緒形拳
螻蛄(けら)婆=吉行和子
武蔵=太地喜和子
季重=沢竜二
季光=無双信

藤原忠平=仲谷昇
藤原子高=入川保則
紀淑人=細川俊之
源経基=菅野忠彦
武蔵武芝=宮口精二
藤原惟幾=横森久
藤原為憲=中島久之
常陸の目(さかん)=内山森彦
多治助実=中山昭二
下総守=小沢重雄



この回の関連レポートは、「城主のたわごと」2008年10月<筑波山中〜羽鳥(服織)〜湯袋(弓袋)>からを(^^ゞ。

40話「夜襲」

  筑波の山深く逃れた良兼だったが、石井営所の近くまで忍び入り、郎党の蓮沼五郎将門の下人の子春丸を捕えさせた。拷問と処刑を宣告して子春丸を脅し、郎党への取立てや褒美などの甘い誘いで子春丸の恋人を篭絡。お墨付きの書状まで貰った子春丸は、良兼の郎党を「従兄弟の海老丸」と偽って、石井の営所に招き入れた。
  子春丸の挙措を怪しんだ玄明は良兼の配下に忍び入って夜襲の計画を察知し、将門に急報を告げる。良兼は、石井営所の建物の配置や武器の仕掛けを調べた海老丸の情報を頼りに、80騎の精鋭だけを連れ、僅か10人の兵しか守りの居ない将門を夜襲した。



41話「貞盛追跡」

  石井館で将門と一騎討ちとなった源扶は、思いを寄せる良子に看取られて息絶え、良兼も、娘の良子に長刀を突きつけられ、打ちひしがれて逃げ帰った。
  裏切った子春丸三郎(将頼)から逃げたが、夜襲が失敗に終わった以上、裏切り者の妻にはなれないと恋人にはフラれ、隠密行動を供にした海老丸は姿を消し、良兼の郎党・蓮沼五郎は、子春丸に与えた良兼の書状を奪って破り捨てた。行き場のない子春丸は姿を消した。
  下総国府は、将門が富士山の火山灰の始末のため、民を田畑に帰した事を評価し、将門のため京の藤原忠平に進物を送ることを助言したが、将門には中央に媚びる気はもう無かった。
  貞盛は未だに将門との和解を目指し、民のゲリラ戦に懲りた弟の繁盛は同意したが、妻の小督が姉の詮子定子を呼び出して予防線を張ったため、早く京の生活に戻りたい貞盛は「最終的に将門を討つため」と言い繕い、戦闘を避けて下野領内から旅立った。
  田原藤太は将門に、貞盛のこの動向を伝言。将門は貞盛追撃のため出陣した。



42話「天慶改元」

  侘田真樹は信州の千曲川付近で追いついた将門軍に気付き、逃げたがる貞盛を押し留めて戦闘に及び、戦死。将門は尚も貞盛を追ったが、矢を射る事を躊躇。将門が貞盛を討てば将門につこうと考えていた田原藤太は、面会に来た将門に敢えて会わなかった。
  京に到着した貞盛は藤原忠平子高に面会。紀淑人の策で海賊は従順になったが、得た貢を海賊と分け合うだけで、貢は4割しか京に届かず、忠平は坂東兵を使う考えを貞盛に相談した結果、貞盛すら想像せぬ方向に思案を向けた。結局、将門追討役を担った貞盛は、新任の国司・藤原惟幾とその子・為憲を伴い、常陸に下向。下野の実力者・田原藤太の元を訪れる。
  良兼の重病を知った将門と玄明は、良子に会いに行くよう勧めたが、また身柄を拘束される事を案じた良子は行かず、良兼は良子の名を呼びながら死去した。



43話「武蔵の風雲」

  将門につかなかった田原藤太は、貞盛にも将門討伐の意図を察しながら遠回しに断った。
  凶作に飢える出羽から「うかれ人」とその家族が辿り着き、幼い頃から彼らに同情していた将門は、民たちの頼みを聞いて、違法と知りつつ彼らを開墾の要員と認め留めさせた。
  藤原忠平の意向を受け、武蔵国に権守(国司代行)として興世王と、介の源経基が派遣された。が、足立郷の郡司・武芝が「国司と権守は違う」と巡見案内を拒否、献上品も出さず、興世王たちは公の威光を示すため、武芝の館の兵糧や家財を没収(略奪)した。
  父の鹿島(藤原)玄茂が武芝と親しかった玄道玄明兄弟は将門に仲裁を頼み、はじめは断った将門も、公の強硬策を前に坂東豪族の結束を思い、仲裁に出た所、京と決別し将門と誼を通じたい興世王は喜び、人見知りの激しい犬が将門になつくのを見た武芝も、将門の顔を立てて快く仲直りに応じた。一人、清和天皇の孫である源経基のみが不機嫌に席を立つ。



44話「玄明慟哭」

  武芝鹿島玄明の笛の音に、傀儡(くぐつ)女に生ませた二人の子を思い出した。正室を迎えると聞いた傀儡女は、鹿島玄茂(玄道の父)の元に身を寄せようと館を出て、二人の子ともに行方不明になった。母の手に引かれた姉弟の旅路は、武蔵や玄明の共通の記憶だった。
  源経基は坂東の荒々しい気風に脅えて陣に篭り、来る者には誰彼構わず射掛けていた。興世王はそれを迎えに行く将門に忠告したが、将門の提案で兵同士も親睦の宴に加わり、兵たちの遠慮を気遣う興世王の配慮で、将門・興世王・武芝が座を離れた間に、兵たちは「源経基の兵達も誘おう」と振舞われた宴の酒や肴を持って、経基の陣に近付き、数名が射殺された。将門・興世王・武芝・玄明が駆け付けたが、やはり武芝が射られ、玄明に見取られて死んだ。
  京は経基からの「将門・興世王・武芝が謀叛」の報告に動揺したが、藤原忠平は「将門は素直な男」と、むしろ次期の下総守に推薦する一方、坂東の特に常陸に貢や徴兵を厳しく命じた。



45話「叛逆の道」

  伊予で純友に再会した武蔵季重は坂東に戻り、螻蛄婆鹿島玄道玄明と合流、街道の貢を襲い、武蔵国や常陸国の不動倉を襲撃。今回の重税に飢え苦しむ民に食糧を分配した。
  京から源経基の訴えを確認する使者・多治助実下総守を同道して訪れたが、坂東で集めた情報から、経基の妄想過剰を苦笑し、むしろ将門に好意的だった。が、将門は忠平の意図する次期の下総守が、常陸に続き、下総からも厳しく取り立てる立場になる事と、よく心得ていた。
  武蔵と玄明は互いが姉弟だと知る。二人の母(傀儡女)が、行く先であった鹿島玄茂の名を告げて息絶えたため、玄明を育てた山の民が、玄明の父の名と思ったようだ。
  しかし武蔵国での不動倉襲撃の騒動の中、武蔵を咄嗟に助けた鹿島玄道が深傷を追った。将門は、玄道が不動倉の襲撃犯と知りながら館に入れた。「謀叛人になってもよい」と、三郎伊和員経老爺三宅清忠多治経明文屋好立栗麻に将門は頷く。それが忠平への答だった。
 


46話「決断」

  常陸の新任国司・藤原惟幾の子、為憲は、玄道玄明兄弟が将門と旧知だと調べあげ、下総国府に追及させようとしたが、将門は「罪人は匿ってない」と答え、問い詰める立場の下総の役人も「自分は下総の役人であって、常陸は関係ない」という態度なので、焦りと苛立ちを強めた。
  武蔵では自ら公の権威を失墜させて将門を立てた興世王が、源経基の訴えから、武蔵の国司として赴任した百済王(百済貞連)に役目を遠ざけられ、将門の元に身を寄せた。
  興世王も、初めは将門の玄道・玄明兄弟を匿う事を止めたが、さらに常陸の目(さかん)を遣わし、玄道・玄明兄弟の差出要求をする為憲に、将門が正面から撥ね付けようとすると、「いずれは公とぶつかり合う」と腹を括り、書面の遣り取りで時間を稼ぎ、筋を通す案を献策した。
  武蔵は将門に、将門に季光を討たれた恨みは季重にももう無いと伝え、武蔵と姉弟とわかった今も自分達は兄弟だと病床の玄道に言う玄明にも、かつての暗い面影はもう無かった。



<コメント>

承平の乱
・野本の合戦
・川曲の合戦
・下野国府の合戦
・子飼い川の渡しの合戦
・堀越の渡しの合戦
・服織営所の合戦
・石井営所の合戦
・信州千曲川の合戦←今ココ
<天慶の乱>
・常陸国府との合戦
・下野国府・上野国府の攻略
・下野国境の合戦
・北山の合戦

将門ほどアゲたりサゲたりされた人は、歴史的にもかなり珍しいようです(^_^;)。
難しいこと抜きに、単純に「アゲられた理由」としては武勇が上げられると思います。

ドラマでは、将門が少数を率いる時は団結力ゆえに抜群に強く、多勢を率いる時には油断もあって敗戦など、状況を上手く作って、視聴者をハラハラ・ドキドキさせる事に成功してます。

ドラマにある「100人で2000人以上の敵を打ち破る」という程に具体的ではないものの、大よその根拠は「将門記」の記載を元にしてるのではないかと思います。

こうした、合戦の様子を生々しく伝える「将門記」のスタイルが、後に「軍記物の走り」と言われるのですが、「将門記」自体はともかくとして、通常「軍記物」最大の特徴は、「誇張の宝庫」です(爆)。
そういう目で見るならば、その雰囲気が等身大のドラマになるとよく伝わるのが、今回最初の「石井営所の夜襲」ですね(^^ゞ。

古代から中世において、戦闘とは長く「矢戦」が主流でして、このドラマにおいて圧巻なのは、むしろ矢戦の凄まじさなんですが、この「石井営所の戦い」は、いきなり館を襲撃される設定なので「斬り合い」が主流となり、それが「10人未満×80騎以上」と伝えるわけです(^_^;)。
具体的に、将門が何人斬ったか数えられますので、味方10人はキビシかったー!(笑)

しかし殺陣で補充しにくい面を、前回も書いた通り、良子と良兼、将門と扶という組み合わせで、これまでのドラマの重要な展開を作り出し、非常に上手に構成されてて感心します(^^)。

ところで、将門の強さの秘訣をよく馬と鉄に見立てられますが、馬の生産量と品質については、かなり後世に到るまで圧倒的に東国優位でした(^^ゞ。

が、鉄については、将門とその地域特有の個性と言うより、この時代、東国はそろそろ鉄の生産量が一般的に西国に追い付きつつあったようです(^_^;)。
鉄生産はもちろん武器の製造にも役立ちますが、実質的には農業生産に寄与したのでしょう。

やはり将門や田原藤太のような戦に、特に粘り強さを発揮する人は、本人の武勇も勿論ですが、精鋭とされる「従類」の比率が高かったとか、蝦夷や賊との抗争に鍛えられた経験、戦闘に個人力を発揮する(例えば蝦夷の)人を組み込んだりなど、軍組織として高い精度を持っていたのではないかと思います。

この辺りで注目されるのが「子春丸」という人物で、「将門記」には「丈部(はせつかべ)子春丸」で登場します。
彼は「伴類」と見なされ、負ければ真っ先に逃げてしまう、あまり忠誠心の強くない兵士ですが、数はたくさんいたと言われています。

対して「従類」というのが、人数は僅少ながら、精兵として強く、主人を最後まで支える忠臣と言われます。
強いてドラマで言えば、子春丸と組む海老丸などがそうで、子春丸と同じような薄汚い格好をしていても、周りが怪しむほど馬の乗り方も歩き方も堂々としていて、顔付きからして「(後の)武士そのもの」という雰囲気を醸し出してます(^^ゞ。

ドラマにおける、こうした子春丸と海老丸の遣り取りだけを見ると、「じゃ従類の方が、伴類より身分が上?」と感じがちですが、そもそも「伴類」と言われる人は、土地で有力な力を持っているとか、富豪農民の要素もあって、それぞれが「従類」を従えている、という事も言えるそうです。

だから負けがこんで来ると、ワッと散ってしまう図というのも、大将を囲む重臣がチョロしか居なくて、その他大勢は動員された農民ばかりだから……といった、後の合戦図のような図式とは、ちょっと違うのかもしれませんね(^^ゞ。

子春丸の場合は雑役に負われる背景が窺え、つまり「貧しかったので、良兼のような裕福な人の郎党たる海老丸のような立場になりたかった」と受け取るべきなんですね(笑)。

となると、海老丸についても、「従類」と見ると同時に「郎党」と見る方がアタリなのでしょう(^^ゞ。ドラマの子春丸も海老丸の事を「自分達と違う、まるで郎党衆のようだ」という言い方をしています。
鎌倉時代の前ごろから、こうした「郎党」はジワジワと力を身に着けていくわけです。

その後、坂東に嫌気の差した貞盛が京に逃げ、それを将門が「貞盛がチクる気だ」と追撃し、貞盛の郎党・佗田真樹が戦死します。
この「佗田(他田)真樹」は、ここにしか記載されない人です。

実は「歴代皇紀」には、最初に将門が源扶と戦う前段階として、「将門を戦いに誘った人物」として、「平真樹」というのが見られます。
一方「将門記」では、「平真樹」は京で行なわれた裁判の折、将門とともに出廷してます。

その後の「服織営所の戦い」で、兵が酒を飲んで討ち果たされた後、「真樹の陣営のみ死亡者が出なかった」と書かれる「真樹」が、どっちの「真樹」か判りません(^_^;)。。

「平真樹」であった場合、将門を戦いに引っ張り込み、ともに訴えられて裁判に出たほど将門に近い人物でありながら、坂東八ヶ国の国司任官の折にも、将門が敗死した前後にも、その名が登場しなくなります(^_^;)。

「平真樹」と「他田真樹」は恐らく違う人物だろうとは思いますが、「真樹の陣営のみ死亡者が出なかった」と書かれた後、「口惜しい事だ」と続く文を、一般的には「将門が成果を上げられずに戻った事」として解釈されますが、その後「子春丸」を操る良兼の話、将門の執拗な貞盛追撃に移行する事を含め、検討する必要は無いのかな、と思います(^_^;)。

そして貞盛は京に到着し、将門をチクッて、やがて将門追討の運びになるわけですが、後の将門追討の根拠に、この時の貞盛の訴えがどれほど関わってるのか、正直よく判りません(^_^;)。

将門追討の直接根拠は、将門が新皇と仰がれたためなのか、それより前からの貞盛の訴えが功を奏したのか、43〜45話における源経基の訴えが響いたのか、単に純友の乱勃発によって朝廷が機能しなくなった結果なのか(^_^;)。

ドラマはこの点、42〜43話から始まる武蔵国の揉め事に入って、上手に色分けして行きますが、将門の話は、正直この武蔵国の揉め事あたりで「ウッ(・・;)」と思う段に入ります。
というのも、それまで同族同士の戦いですから、覚えなければならない登場人物は、源護・扶・国香・貞盛・良兼・良正など、ごく僅かに限られ、それもこの段階までに「だんだん片付いて(死去して)いく」わけです。

<桓武平氏>
┌−国香(故)−−貞盛
├−良兼(故)−−娘
|          |
├−良将(故)−−将門
├−良文
└−良正

<嵯峨源氏>
護−┬−扶(故)
   ├−隆(故)
   └−繁(故)

あとは貞盛が残り、田原藤太が出てきてオシマイ……なハズなのが、ここに来て一気に、興世王・源経基・武蔵武芝・百済貞連・藤原玄明・藤原惟幾・藤原為憲・藤原玄茂・藤原忠平・藤原忠文と、ゾロゾロと出て来るのです(^_^;)。。藤原だらけなのが特にイタイです。。。

しかもその人達は皆、当時の役職とか権威とかそれなり持ってて、さらに彼らがその後の戦いにどう関与してるのか今イチわかりにくいまま、貞盛・藤太の参戦を迎えて終わるので、この武蔵国の出来事については「一体どういう事件だったのやら(^_^;)」という印象のまま過ぎてしまうんです。

ところがここからが、学術書になると急にページを割いて、ズラズラと難しい事が書かれるのです(^^;)。
つまり「承平の乱」までは、何のかんの言って一族同志の私闘に過ぎず、そりゃ坂東の人はみな注視したでしょうし、自分達の去就の決め方に右往左往したでしょう。

しかし、そういう事は他の地域にも全く無かったとまでは言い切れないハズです。
それが「天慶の乱」が起きた事によって、「将門の乱」は総括的に注目されるようになり、「承平の乱」にも遡って、「同じような事がウチの土地にもあったかも(゚.゚)?」と、他の地域の研究にも役立つ可能性を帯びたとも思います。

つまり京では、むしろ「天慶の乱」こそが歴史的な大事件でして、その内の「将門の乱」は940年初頭に終りますが、「純友の乱」がその後さらに約1年追加され、特に純友の暴れまわった瀬戸内海は京に近いですから、上から下まで大混乱に陥るわけですね。

将門の事のみを記した「将門記」も、「天慶の乱」から先が全体の50%を占めてますし、原作でも全体の25%は、この「天慶の乱」以降にページを割いて書かれてます。

ドラマも原作も、最初の20話が「将門記」の始まる前段階を構成してますから、その分だけ配分にズレが生じるのは当然ですが、ドラマでは45話から……つまり全体の15%程度に留めているわけです。

「すると、大河ドラマ『風と雲と虹と』は、後ろをかなり端折っているのか」と問われると、個人的にはあまりそう思わないですね(^^ゞ。
「将門記」は僅か5年余りの「将門の乱」の記述を、ドラマでは生涯として扱ってますし、前回も書いた通り、後ろに書かれてる記述を、ドラマでは「もっと前にあった事」として、前め前めに盛り込んでます。また純友の「海と風と虹と」を挿入した分のズレ込みも大きいと思います。

強いて「入れた方が良かったのでは」と思える逸話があるとしたら、信州千曲川で将門が貞盛を追撃した後、貞盛が坂東に戻って来て、今度は陸奥に行こうとするのを、また将門が追撃し、貞盛は陸奥に行くのを断念する、という段があります。原作でも、この話は扱っています。

原作では、あくまで将門と仲直りしたい貞盛と、そういう根性が気に食わないから怒り狂って追い掛け回す将門。そして将門を怒らせたくないから逃げまくる貞盛の話が面白すぎて(^_^;)、もぉ結果はどうでもいいから永遠に読んでいたい気分に陥ります(サザエさんか:笑)。

まぁ「抜け」があるとしたら、これぐらいかな〜という気がします(^^ゞ。最後まで「端折った」という感じを受けずに見れる構成になってると思います。

と言うのも、実は原作でも、「将門記」には細やかに悲嘆をこめて描かれる当時の貞盛の悲惨さが、どことなく違う味付けになってるのです(笑)。
もちろん海音寺センセも、貞盛の悲惨な状況をよく説明し、悲嘆の心境を細やかに解説するのですが、その割に折々に入る彼のボヤキがイチイチ軽い!(笑)
あたかも浪人生活をエンジョイしてるかの如く、苦境から浮きまくっておるのです!(^^;)

原作のこの風味を増殖させて、ドラマになると、貞盛の悲惨な逃亡後は100%カットされてます(爆)。

これは原作における貞盛のテーストを十二分に生かしてるからだと思います(笑)。
が、強いて考証っぽく言い訳をつけるなら、「将門記」の作者が、「実は貞盛周辺の人物では」とか言われる辺りが関わっているのな〜とか言っておきましょうか(^^ゞ。つまり「将門記」における貞盛像は、ひたすら被害者の体裁を貫いているのです。

どういう事かと言いますと、貞盛にとって将門は敵には違いないんですが、同時に親族でもあるわけです。生き残った貞盛は、将門を慰霊する立場でもあるのですね(^^ゞ。
だから「将門は強い」「スゴイ」と書く一方で、自分とやりあった場面だけは「自分は悪くない」と記載された、って事ですかね(笑)。原作やドラマでは、そこを差し引いているのかもしれません(^^ゞ。

さて、学術書にズラズラ書かれる理由ですが、「天慶の乱」を追究する上で、将門については勿論、将門を離れて見ても、この後の武蔵国の出来事は、この当時、その前の状況と変わって、何が起こりつつあったかを知る手掛かりになるのだそうです。

端的に言えば、中央の体制が方向転換し、地方においては国司一人の権限が急に強くなった頃(律令制から荘園制への過渡期という見方も言われます)に相当するそうで、こうした急な遣り方に、将門や武蔵武芝や藤原玄明など古い体制に馴染んでいた者らが猛反発した、という見方も出来るようです。

が、ここはドラマに描かれて来た線に沿って言う方が判りやすいですよね(^^ゞ。つまり公的権力の及ぶ国衙領より、私的荘園に富が集積されつつあり、国庫がヤバくなって来たから、いきなり強硬路線に転じた、という事を主な原因に捕えているのでしょう。

そうなると、公共サービスの質を低下させ、そのくせ払ってくれる人間からさらに搾り取るアレですわよ(笑)。本当に歴史は繰り返すんですねぇ。。

この局面に重要なのが、一人は藤原玄明、もう一人は興世王です。

このドラマでは、藤原(鹿島)玄明は最初から出て来ますし、興世王も京にいた頃の将門と顔馴染みになってますから、ここで違和感は無い上、この時のために取っておいた、鹿島玄明の過去がかなり強く響いて、「急に難しくなった」という印象が、ガクンと下がってます(^^)v。

この鹿島玄明(草刈正雄(^^ゞ)の「家族探し」は、殆ど1話から出て来る、このドラマのサブ・テーマで、これが、合わさる面の多くない二つの原作、「平将門」と「海と風と虹と」を接着する大きな役割を果たしてました。

この二つの作品は、「平将門」が将門の話、一方「海と風と虹と」が藤原純友の話ですが、なぜ同時期に起きた「天慶の乱」の二大主役と言うべき将門と純友でありながら、その両者に「合わさる面が多くない」かと言うと、原作者の海音寺潮五郎が、そういう結論を出してるからなんですね(爆)。

つまり「将門と純友が共謀して京を襲う」というのは、「天慶の乱」当初から噂レベルで起こってるようで、そういう意味では、「説」として「一番古い」とすら言っていいのですが、その裏が取れないようです(^_^;)。。

強いて言うと、将門が坂東八ヶ国から追い出した国司の中に、純友の親戚がいた、という事ぐらいなんですね(^_^;)。。
これが畿内に戻って来て将門の反乱について語り、それを聞いた純友が……という事ぐらいしか想像のしようがないのです(^_^;)。

それでも「将門と純友の共謀」説は根強く、比叡山に「将門岩」だかあるらしく、二人が「皇孫の将門を天皇に、藤原氏の純友が大臣に」と東西呼応の打ち合わせをしたという話で(笑)、海音寺サン「将門岩」を見に行ったりもしたそうです(^^ゞ。

しかし結局は、「叛逆が目的の純友が、将門をも叛逆させるべく工作した」という話にするのが限界だったようです(^_^;)。
「工作」ならば、表面的には現われない部分で創作できるからですね(^^ゞ。

将門と純友の共謀説を「風評」として見た場合も、当時の京が、いかに凄まじい「都市パニック」「国家機能破綻」に陥ったかという証拠としては、充分に取り上げて良いわけで、だから純友の挙兵の仕方、将門が死んだ時の挙動から、「少なくても純友の方は、将門の反乱を意識しての動きだろう」とは誰もが思う事のようで(私もそう思います)、この線では原作もドラマも一致して、「将門記」に一字も出て来ない「藤原純友」を形作っています。

原作では、純友の陰謀に将門がハメられた格好を貫いてますが、ドラマでは、ここからが原作とは全く違う味付けになっていて、ここがドラマの大きな魅力にも成り得ていたと思います(#^.^#)。
叛逆に至る将門については、下の方に書きましょう。

二者の貴重な接着役、「鹿島玄明」が出て来るのは「平将門」の方だけで、ドラマで玄明と一緒に隠密活動する「武蔵」「藤原季重」「螻蛄(けら)婆」などは、全て「海と風と虹と」に登場する架空の人物です。(螻蛄婆は原作では「螻蛄麻呂」という男性でした(^^ゞ)

「鹿島玄明」は史実の人物ですから、原作では「将門記」に沿って書かれてますが、二作品の接点の役割が求められるせいか、ドラマでは以下の構成になってました(^^ゞ。

 
「将門記」
原作「平将門」
大河「風と雲と虹と」
藤原玄明 乱人 左に同じ。藤原純友と接点を持ち、純友の計略で将門を乱に誘導 玄道の弟として登場・藤原純友と将門の連絡役・武蔵武芝の子
藤原玄茂 常陸国の掾・将門主導の坂東八ヶ国では常陸介 左に同じ。↑の兄 登場せず・故人・武蔵武芝の友人
  ↑両者の関係は不明。二人が会話したり同席するなどの描写もナシ ↑両者の関係は兄弟 ↑両者の関係は他人・会った事もない
鹿島玄道 登場せず 登場せず 玄茂の子・イ就馬の党(ドラマのオリジナル登場人物)

つまり「玄明」の要素を、ドラマではオリジナル登場人物の「玄道」に負わせ、「玄明」自身は原作では結び付かない「武蔵」と接点を持たせ、最終的に「武蔵」と「玄明」が辿り着く「武蔵武芝」は彼の代で(郡司としての)系譜が途絶える、という構成です。

が、「西角井文書」という氷川神社の文献には、「武芝の女子が平将常(良文の孫)に嫁いだ」という伝があり、また、将常と忠常の母、つまり忠頼の妻が、将門の娘という説もあるようです。

┌良将−将門
└良文−忠頼┬将常
         └忠常

平忠常の乱が、1028〜1031年ですから、この時の忠常が65歳と設定し、武芝が将門の乱後も長生きして、武芝の娘が武芝が60歳ぐらいで生まれたとすれば、う〜ん、何とかギリギリ行けるかな。。(笑)

有名な東京大手町の将門の首塚は、1300年代になるまでは江戸氏が祀っていたと言われてますが、江戸氏は元を辿ると、将常から出ているようでして、神田明神で買った本には、「将門の子孫を自称」と書かれてました。

ここは諸説あるかと思いつつ、私はドラマ通りでいいかな〜と(^^ゞ。

後に武蔵を舞台に書かれた「更級日記」には、武芝が名乗った「武蔵」姓の謂れと共に、古い昔の伝承として、「竹芝寺があった」と書かれるのみで廃墟となっており、残念ながら武芝の家系のその後は判らなくなっています。。
こういう事も合わせて、国司の力がさらに大きくなり、武蔵武芝のような郡司の権限は弱まっていった、という見方のみが取り上げられるわけですね(^^ゞ。

次に興世王ですが、ドラマでは伊予親王の四世の子孫と説明されてました。
伊予親王は、冤罪で幽閉死した代表的な怨霊の一人として、京の上御霊神社に祀られている皇子ですね(^_^;)。

この興世王は「将門記」において、文字ヅラだけで追いかける限り、あまり良い印象の残らない人物なんですね(^^ゞ。

権威を傘に着て私腹を肥やすため、武蔵国に来るや勝手な事やって地元の人を困らせ、一緒に来た部下の源経基を従えられず、仲裁に来た将門の顔を潰してるし、そうやって新たにやって来た国司(百済貞連)とも揉めたあげく、将門に謀叛を勧めたり、新皇即位だか演出した人って感じもするし。。

この注目の興世王が、なかなか上手かったと思います(^^)v。
どこが良かったかと言うと、「将門記」から受ける印象を大きく逸脱してる点です。

「将門記」は前半は黙々と事実を書き連ねるのに対し、後半になると、将門自身の問題をまず原因に挙げてから、「その結果として落ち目になった」という著述方式に陥っていく傾向が見られます。

読み物としては、前半部は事実の羅列で感情移入しにくく(^_^;)、後半部の「悪い奴の末路」に来て、「この書物を読んで教訓なりを得られた(^^)」という一定の満足感を得られるので、文芸作品としては、将門が急に悪人に変貌し、転落していく後半部も良いと思います。
多くの人が理解でき、興味をもって読めた結果、歴史上の大勢が将門に関心を持ちましたし、後の軍記の出発点とも言われるだけで、高く評価して良いと思うんです(^^ゞ。

が、将門の生涯を考える時、「最初は同族に苛められて可愛そうだ(から応援した)けど、だんだん図に乗って勝手な事をしでかすようになったので討伐されたんだなぁ(仕方ないなぁ)」と写り、これがその後の殆どの書物や伝承に感染している点、「将門記」あるいは「将門記」が基調としてるさらなる原文なり、当時の京の流言などが後世に与えた影響の大きさを感じさせます。

すると作者は、前半の将門には好意的だったが、最後には嫌いになったのか、と言うと、この辺りが作者自身の視点が、果たして史実の記載者として適切か、という問題にブチ当たってしまう点なんです(^_^;)。。

つまり、後ろに行くほど将門の「浅慮・暴悪・我儘」を強調する割に、「これから、いよいよって時だったのになぁ〜」といったボヤキが出たりする点、この作者は必ずしも「将門を非難」に終始してはいないのです(笑)。

決定的なのが、「悪いのは藤原玄茂と興世王」という記載です(^_^;)。。
こうしたいわゆる「君側の奸」と対比するように「将門に諫言した人間」として、将門の弟の将平や、郎党らしき伊和員経が描かれるのです(^_^;)。

これは将門の時代の後から現代にまで至る、ありとあらゆる過程に垣間見られる内部分裂、すなわち「文治派×武断派」、あるいは「企画派(軍師)×現場派」や「旧臣派×新鋭派」「親族派×直属派」などの対立のようにも見え、将門軍における人物構成がわかる面など貴重ですから、モチロン書いてくれて良かったのです。

問題なのは、一番悪いのは将門を陥れたり(藤原玄明)、そそのかした奸ども(藤原玄茂と興世王)で、次に悪いのがそれに乗せられた将門で、そういう将門に諫言してる忠臣(弟・将平や伊和員経)は悪くない、という風に読者に受け取らせる点なのですね(^_^;)。。

読者は「すると、この作者はどういう立場の人なのかなぁ」と、つい色眼鏡で見てしまいますし(^_^;)、歴史について書く人は、公平な立場にいなければならない、という歴史学上の常識から言うと、ここで多くの学者も「どうしようかなぁ(^_^;)」と思ってしまう気がします(笑)。

今回の冒頭でも、将門がアゲたりサゲたりされたと書きましたが(笑)、将門を擁護するのにも、大きく二つの方向がありまして、一つは「将門は朝敵じゃない」という物で、これはわりと長いそうで、大まか「冤罪説」になる傾向を感じます。
が、「朝敵=悪」は、長い日本史の中ではそんなに重視されてなかったので、ある一定の時代や識者に向けられてる感じもします(笑)。

「将門記」も、「朝敵だから悪い」を結論に持って来たと言うよりは、「大勢の人を死に至らしめた、つまり殺戮が仏法に適わない」と論点をボカして終止符を打ってます(^_^;)。
つまり皇国史観としてはともかく、仏教観としては「完璧な下げ」というわけです(笑)。

もう一つの将門を擁護する方向性、つまり「当時の諸外国を見ても、革命じたいは特別な悪ではないから、それを日本でやったのは前にも後にも将門一人と見れば、もっと認めるべきなのでは」というもので、これは戦後でしょう(^^ゞ。

この両極端に違う説の間を行くのが、「当時の情勢を鑑みると、将門は民衆のために蜂起したのではないか」など、「朝敵」とは認めても、その動機に何らか正当性を得る見方で、これも戦後か、せいぜい遡っても明治以後、それより古くなると、鎌倉武士とか江戸庶民とかの潜在意識下に仄見える程度じゃないでしょうか(^^ゞ。

これらについても、「将門記」は、「多くの民衆に支持されていた」点を主張してません。むしろどれほど多くの人に迷惑をかけたかに力点が置かれてると思います。

ところが、その同じ「将門記」の中で、「自分が悪事を行った時は大勢が付き従ったのに、今は自分一人が一万五千人もの人に訴えられ、地獄の責め苦に合っているんだよなぁ」と霊界から将門が言いに来るのですね(^_^;)。

「三国志」で有名な関羽なんかも霊魂が彷徨って仏僧によって成仏する話になってまして、だいたい武勇伝が出廻るのは、最初は仏教説話(つまり地獄の話)というパターンから考えても、理由を考えること自体が無意味なのかもしれません(笑)。

しかし強いて将門との共通点を見出すなら、霊魂浮遊にすぎない武将の魂が、やがて大衆が信仰する神にまでなった点、そして威勢のあった時は大勢が付き従ったのに、不利となるや寡兵に陥ったという点でしょうか。。
死んだ将門が主張するワケありませんから、つまり、ここにも作者からの、将門や将門の縁者に対する同情が垣間見られるのです。

ただし「将門記」の作者が、将門の陣営に何らか関係した、例えば途中から排斥された一派や親族ではないか、とまで直行して見るわけではなく(笑)、我々の時代でも、今の政治や風潮に不満を言うのに事寄せて、環境、教育、福祉、経済、趣味の方向性など、自分の言いたい方面の問題を言う時がありますよね(^^ゞ。

作者は文字の世界の人なので、武芸より学問を重んじる性格なのだと思います。 だから霊界の将門が「反省」として「武芸ばかりで学問を取り立てなかった(から見捨てられたのか)なぁ(^^ゞ」と言い出すのも、作者の意見が寄せられているのだと考えときます(笑)。

それより、ここでは「将門記」に入っている「将門の書いた書状」(以後「将門書状」)として、藤原忠平に当てたとおぼしき将門の肉筆のような長い文章が登場する点が注目です(^_^;)。。
その内容に、「自分には貞盛を討てと言ったのに、貞盛には自分を討てと言うのは……どゆわけ?」と書かれるわけです(爆)。

この「将門書状」が載ったために、「……この時代の政府って矛盾してね?」と気付く人は気付くようになっているんです(笑)。
宛先がオボロながら「藤原忠平」とわかるよう載ってる所も妙味です(^_^;)。。

将門の乱の後、「平忠常の乱」においても同様の無作為が見られ、忠常は「仇敵」としている平直方などにはあくまで徹底抗戦し、房総の全土を焦土させてますが、彼を降伏せしめたのは、そうした構図に関わらなかった源頼信だったんですね。

降伏の前に、忠常は頼信の家人になっています。「主人の言う事なら受け入れる」という体裁、つまり武人としてのプライドを保って貰ったわけです。誰も好き好んで、自分や人の住む土地を焼き払うわけではないのです。

つまり元は私闘であっても、裁判沙汰といった公的機関を仲裁に頼む以上、その時々の上層部の勝手な都合(婚姻・主従関係、就任に関わる利害や贈り物など)でクルクルと裁定を覆されたら、それはもう裁判とは言えないんですね(^_^;)。。となると、そもそも税を納める必要あんのか、という気持になったとしても、無理からぬ事だと思うわけです。

ところが「将門書状」についての作者のコメントは全く無く、その後も「将門は悪い」と何しろ決め付けて書き続けます。あたかも「将門書状」について、「私(作者)は政府を批判なんかしてないよ、将門が言ってるみたい」と無関係のような雰囲気です(笑)。

だから大まか、「将門を批判する立場(将門記の作者)と、将門自身の訴え(将門の書状)を同一に見るわけにはいかない」という見方が多く、もしかしたら「両方あった方がいい」という結論が当時からあったのでは、という見方も出来ると思います(^^ゞ。

逆に、こうした後半の矛盾について、「作者が途中から別人に変わったのでは」「複数で編纂したのでは」「将門書状は後から挿入されたのでは」「将門書状と反する文面の方が後かも」など議論を呼ぶようです。

ところで、「この書状こそが、作者の作為を交えない将門自身の肉声」として読めば、完全に将門を擁護できるのかと言えばそうではなく、「桓武五世の自分が、日本の半分ぐらい領有して当然」といった主張も、この「将門書状」の中にあるわけですから、事は複雑なんです(^_^;)。

現段階で問題なのは「将門書状」を作者がどうやって手に入れたのかでして(笑)、この書状が作者の作為でないのなら、将門近辺が残した書状の写しを手に入れた、つまり戦後、秀郷や貞盛など討伐側から入って来た可能性が言われたり、将門が京にいた青少年時代、将門と交友のあった藤原忠平の近親が「将門記」の作者ではないか、という説もあるわけです。

「興世王」についても同じです。将門と興世王が「謀議を行なった」とあり、「やっちゃえ、やっちゃえ」と煽る興世王が悪い奴に見えるんですが、二人きりでやってる「謀議」なのに、その内容を「どうして作者が知り得たのか」です(^_^;)。

こうした、最後に行けば行くほど色濃くなる「将門記」の怪しい点も、原作では取り除くことなく書かれたわけですが、ドラマでは殆ど取り上げてません(^_^;)。

それなら、このドラマは史料を逸脱しまくって改造したファンタジーなのかと言うと、それがそうじゃないと思うわけです。

「将門記」の記述を忠実に追いながら、それでも将門を擁護する話を書くとなると、どうしても原作のような色合い、つまり「周囲に押し流されて、本意でない流れに鬱々と悩みながら、最終段階に追い込まれていく悲劇の将門」という作りになってしまうんですね。

そこを「将門記」に沿って、「あくまで将門自身から発せられた反逆」とし、積極的に行為に踏み込んでいく主役の姿を、ドラマは原作を覆す形で取り戻しているのです。

将門と興世王の「謀議」を、ここでは「将門が日頃から周囲に言って大勢に聞えていた」かもしれず、「作者も噂で聞いたんだろう(^^ゞ」と仮定して、書いてみます。

原文
「掌入八國且腰附萬民」
書き下し
「掌ニ八國ヲ入レ且ハ腰ニ萬民ヲ附ケム」

「謀議」の折に、将門が言った言葉とされています。

「(坂東)八ヶ国の腰に万民を据える」だと「民主国家」と見えなくはないですが(^^ゞ、「掌」と「腰」は恐らく対句のようなもので、「将門自身の掌と腰」だと思いますので、「自分が坂東を手に入れた上で、万民も自分が手なずける」という意味に受け取れると思います。

こう書くと「万民を思い通りにするって意味じゃん、やっぱ将門悪行〜ヽ(`Д´)ノ」に今の感覚だとなりますが(笑)、これは一例に過ぎず、要するに「将門自身から発した積極性」に話を限定させて下さい。(他にも積極性を示す表現は多くありますが、全部出してるとキリがないので(^_^;))

一つ、このドラマの描き方において大きなポイントは、46話「決断」における将門の態度です。
ここは原作と大きく違う点です。

純友に対しては「貴方は多くの民(今で言う日本国民)の全員を愛する事が出来るのか、自分には出来ない」でしたし、忠平には「友である純友であっても、坂東を攻めればこれを討つ」でした。

このドラマにおける将門の答は非常に明快で、大事なのはあくまでも坂東だけ(笑)。

43話「武蔵の風雲」に始まり、45話「叛逆の道」で玄道・玄明兄弟が不動倉襲撃をやらかすまで、このドラマでは凶作・流民・国司の横暴(搾取)を強く描いていくわけですが、ここから従来の将門像を大きく覆して行くのです。(※4

将門の居たご当地は下総です。ところが下総については、殆ど記載されてません。記載されない理由も今の所知りません。

下総の国府は今の市川市にあり、後年、2度に渡る「国府台合戦」で有名になりましたが、下総国府は、もしかしたら最初から将門に加担しぬいていたのでしょうか(^_^;)。
そういう事だと、史書類に記載されたくないに違いありません(^_^;)。
何しろ将門は「謀反人」ですし「朝敵」ですから。

が、先ほども、国の上層部が一方的に決めた国司への権力集中に将門たちが反発した、と書きましたが、中央の定めによって都から赴任して来た者が、権力に物を言わせて奮う横暴に対しては、表向きには朝廷に連なる下級役人でさえ実は反発していた、という点も、「将門記」はちゃんと記しているのです。(それが「源経基と興世王による横暴」となっているので、人物評価に陥ってしまう傾向はあるのですが(^_^;))

前に下野国府の事を書きました。公の権威を引きずる立場でありながら、将門の公明正大さに惹かれるという描き方に思えました。
ドラマでは今度、これまで登場しなかった下総の国司が出て来るわけですが、富士山の噴火あたりから、将門に好意を持ってる様子がチラチラ見えてました。

彼らはあくまでも役人なので、彼らが将門に言う「行政区が違うから自分達はどうでもいい」という言い分も、聞きようでは、これまで通りの「お役所的」「事なかれ主義」なんですが、彼らの表情を見ると、決してそうではないのです。
こうした役人たちが、内心ひそかに将門を応援してる様子もチラチラと見えて、このドラマはとても面白いのです(笑)。

丸々引用は憚る事ではありますが(^_^;)、ドラマの将門が「決断」で言った言葉を提示します。
「不動倉は民人が開いてはならぬ、これは公(おおやけ=朝廷)の法だ、公の法を民人が侵した、公の法の元では生きていけないからだ

この言葉で将門は、自らの意思で反逆者(玄道・玄明兄弟)の暴挙を肯定し、彼らを匿い、それがやがて中央政府と、そして政府が抱き込んでいる朝廷すなわち帝に叛く道に突き進んで行くのです。

主人公にブレが無く、ぶっとい線で描いていくこの辺り、モグラ叩きを片っ端から金槌でブッ叩いて、テーブルごとブチ抜くぐらいの迫力があります(笑)。そうやってミシン目になったテーブルの向うとこっちが見事に割れて、向こうにあった史料や思想は切り離され、こっちに居る将門は神に近付いて行くのです!

実際、将門やその縁類を擁護しようと、最期まで将門についてた人々をコキ下ろす事でしか解決せず、「周囲に引きずられて」とか「乗せられて(イイ気になって)」と描く所を、ドラマではハッキリと「これを謀叛と言わば言え」ですよ!(笑)

この辺りが「原作との大きな違い」とは言えます。
ドラマでは、同じ「将門記」に書かれている論調を、クッキリ真相(と解釈できる点)と風潮(書かれた時代背景)を分けて、改めて練り直したからかもしれないな〜という感じは受けました(^^ゞ。

ただし、原作でも将門書状を軽視しているわけではなく、それが「追討官符」が自分にも敵にもやってくる、という非常に矛盾した朝廷側の遣り方なんです(^_^;)。。

これは先ほども言った通りですが、蠱術というのがありまして、同じ檻に何十何百の毒虫を入れて互いに戦わせ、勝ち残った虫や蛇の類を敵に送り込む、という呪術なんですが、こういうのがつまりは「夷をもって夷を制す」と言われた、この当時の中央政府の遣り方だったとは言えると思います。

将門を倒した人々すなわち、平貞盛や藤原秀郷は、中央政府から追討官符をもって追われるような経歴の持ち主です。
そんな人に追討させ、しかも飛び級もんの昇進を許すというのは、つまりは毒に頼らなければ毒を倒せない状態です(^_^;)。とてもシビリアン・コントロールが効いてるとは言えません。。
事実、将門を討伐した面々は、そのまま純友の乱の平定に向かわされているのですね。

さてさて、次回はついに最終回!
「天慶の乱」いよいよ勃発です〜!!!

以上、2008/12/15



※4(2009/01/18追記)
「掌入八國且腰附萬民」
について、「時の政府が万民を虐げているからこそ、自分が守ってやる、という意味には取れないのか」というご指摘がありました。
「なるほど(゚.゚)、そういう文脈としてなら原文にも(叛逆動機として)繋げうる物がある」と思ったので、追加計上します。

原文
「将門素済侘人而述気顧無便者而託力」
下し文
「将門ハ素ヨリ侘人ヲ済ケテ気ヲ述ブ、便リ無キ者ヲ顧ミテ力ヲ託(ツ)ク」

「素ヨリ」は「将門の元来の性格」みたく見るとして、「侘人」や「便リ無キ者」を、「当時の圧政による被害者」とまで言うには及ばないまでも、彼らに対して「(強きをくじき)弱きを助ける性格」って事には変わりないと思います。

出て来る場面は、まさに将門が藤原玄明を庇う段に出て来るので、叛逆に至ることとなった根拠に関わると見なすのが妥当だろうと思います。

また、この一文を主因的な動機(行動原理)として見れば、 全体の構成が成り立つと思います。
ドラマでもこの原文が読み上げられて出て来ます。