<2009年・城主のたわごと2月>




2008年9月、「福島〜山形ツアー」第2弾(^^)。

2日目は山形県は山寺(立石寺)の壮大な三世界からっ。




     
  前回に続いて、福島〜山形編の第二弾(^^)。
前回から入った「山寺」の続き、今回はいよいよ境内に入る!



<立石寺(山寺)、対面石〜根本中堂〜山門>

山寺は大まか上・中・下の三つの世界から構成され、下が多くの建造物が並ぶ平地、中ほどは深い山林に囲まれた修験道、上に奇岩と建造物から成る仏閣世界が広がっている。

地図A

←まずは前回も出したこの絵図から(^^)。

前回「山寺駅」から橋を渡って「対面石」まで到達した。

「山寺」を前に、開祖の円仁(慈覚大師)と狩猟の地主・磐司磐三郎が「対面」した話は前回お伝えした通り(^^)。

が、橋を渡る折、流れる川を「最上川」とお伝えしたが、「立合川」の間違い(^_^;)。
前月分のも訂正してあるですm(__)m。

ではこれより、いよいよ「山寺(立石寺)」の領域に入ろう!(^O^)/

↑の右下部分を拡大↓

↑「対面石」の右に道路が続いている。「大日堂」と「登山口」とある中間に鳥居と階段が見える。これを登ると「日枝神社」に到達する。

これを登らず、道路をさらに右に進んで「登山口」とある階段を登ると、「根本中堂」に達する。
ここから今度は左方向に「山門」とある所まで、居並ぶ建物を参拝しながらバックして来る(^^ゞ。
ここまでが取り合えずは、最初の行程である。

まずは「日枝神社」登り口の鳥居
さらに進んで「根本中堂」への「登山口」

「日枝神社」と「立石寺」は明治以後、神仏分離によって分かれただけで、立石寺は長く神仏習合の修験山であったから、元は一緒ね(^^ゞ。
ただ、「神様にお祈りしたい人はコチラへどうぞ」という事になったのね(笑)。

根本中堂」に到着(^O^)!
お賽銭の前の布袋サマ☆ミ

この布袋サマの体を手でさするとご利益がある(^^)。足が悪い人は足を、目が悪い人は目をさするんだね、きっと。

この「宝珠山・立石寺」は、貞観2年(860)清和天皇の勅願によって、円仁(慈覚大師)が開いたと伝わっている。慈覚は比叡山の第三代座主であるから、この立石寺は古くより天台宗である。

円仁=慈覚が開いたとか、中興として関わったと伝わる寺は東北に多く、またその地域も、すこぶる広大な範囲に及んでいる。
例えば、848〜50年に毛越寺(岩手県平泉)、850年に中尊寺(同)、蚶万寺(秋田県象潟)、858年に霊山寺(福島県伊達)、859年に円通寺(青森県恐山)と続く。
ちなみに福島県の霊山寺には、この旅行で行ったので、後でまたレポしよう(^^ゞ。

この他にも松島(瑞巌寺)・黒石寺・天台寺・小瀧・女鹿・鳥海・羽黒・葉山、といった所が列挙できるともいう。

そしてさらに、860年の立石寺(山形県山寺)と続き、これらの中でも立石寺は、東北への仏教布教の集大成の寺とも受け取れる。

が、前回も書いた通り、東北の寺社には、前回の「徳一の慧日寺」みたいには、創建の時期や開祖についてハッキリしてる物が多くないそうだ(^_^;)。

例えば平泉の毛越寺や中尊寺が、奥州藤原氏の創建した寺と見なされているのは周知の通りで(^_^;)、中尊寺は初代・清衡の頃から、そして毛越寺が二代・基衡の頃から作られた事が推測されている。
(ちなみに、三代・秀衡の代にあたると言われているのは、無量光院である)

後三年の役の終了が1087年であるから、その後、初代の清衡が寺院建立をはじめたとして、中尊寺は1105年、毛越寺については、その庭園が1117年、中尊寺の金色堂が1124年と見られている(^^ゞ。

これらが伝承では、奥州藤原氏による「再営」とされており、その前段に800年代の「慈覚の開祖」と入る理由についてはよく判らないが(^^ゞ、歴史的にハッキリした人物名が冠される前から、何らか信仰の場だった所に寺が作られたかもな〜といった所で済まさせて貰う。

そうした中では立石寺は、慈覚の弟子の「安慧」が実質的な開祖ではないかと言われており、「慈覚本人に近い」と推察されてる寺だとは言えると思う。

「ナニそれじゃ、前回の対面石も、磐司に対面したのは慈覚じゃなくて、慈覚の弟子?」
と言われるかもしれないが(笑)、細かく言うと、承和11年(844)に出羽の講師・安慧が開基。斎衡3年(856)に慈覚が開山……対面があったのはこの時じゃないかな(^^ゞ。
そして貞観2年(860)、朝廷から正式に立石倉印と刻した銅印と380町の境内を賜わった、という事になる。

ま、この先、境内に入ると「円仁団子」が売られてたから、円仁(慈覚)でオッケーよ(^。^)v。(それが決定理由ですかっ!)

←根本中堂の脇にある記念碑と白樺
ハンス・ティーデマン(1883年〜哲学博士)は1921年から10年、山形高校でドイツ語を教授。帰国にあたり、山寺に記念の石を置き、後にドイツから送った白樺を、知人と教え子の有志で植え、1958年記念碑を建てた。

燈篭に積み上げられた小石。賽の河原だね〜。→

中尊寺や毛越寺については、奥州藤原氏四代・泰衡が頼朝の奥州征伐の折に、平泉を焼き払ってしまったし、この山寺も、たび重なる火災の被害を受けて焼失したので、平安期の特に慈覚以来の詳細な痕跡や、他の寺々との関連などは殆ど掴めない(^_^;)。

が、この山寺(立石寺)は、西行が奥州藤原氏を訪れた文治2年(1186)をはじめ、鎌倉時代には東北仏教界の中枢をなして、山上山下三百余の寺坊に一千余名の修行者が居住、盛況を極めたという。

この「根本中堂」には、今でも「不滅の法灯」が守られており、堂内で拝することができる。
これは最澄(伝教大師)が、中国から比叡山に移した灯を立石寺に分けたものと伝わり、他に比叡山と九州にも伝わったと言う。
堂内には他に、慈覚大師作と伝える本尊の木造薬師如来坐像、文殊菩薩、毘沙門天など安置されている。

いま建ってる「根本中堂」は延文元年(1356)、初代山形城主・斯波兼頼が再建した。
この斯波兼頼の山形城にも、後で行こう(^^ゞ。
斯波氏の再建の後、永亨元年(1429)に修復された記録も見られる。

が、その後、最上諸族の戦争が起こり、大永元年(1521)、天童頼長によって山寺は焼かれ、寺領は侵略され、堂宇がことごく破壊された。

天文12年(1543)、38世住職・円海がこの惨状を嘆いて最上氏を頼り、比叡山の根本中堂から常燈火を頂き移して、慶長13年(1608)に再建された。立石寺奉行には最上義光の家臣・神保隠岐守の名が見れる。

この時の「不滅の法灯」が、後に思わぬ事から、元の比叡山再興の一助に繋がった。
それは織田信長の焼打により、比叡山延暦寺は徹底的に破壊され、長く伝えた法灯が途絶える悲劇を迎えたからだ。。
なので後に、その延暦寺を再建するに辺り、今度は逆に立石寺から分けたという(^_^A)。
オリンピックの聖火リレーみたいだけど(笑)、まさに平和の象徴とも言える逸話だ♪

「根本中堂」は、入母屋造、銅板葺、五間四面、正方形の正面に一間の向拝、前と左右の三方に縁がある。材質は6割がブナで、他に杉・松・欅・桐など。ブナ材の建築物では日本最古といわれ、天台宗仏教道場の形式がよく保存されている。
全体としてはいかめしい作りだが、上記の慶長13年(1608)に大修復を加えたので、蟇股や彫刻類の線には、桃山時代の特徴も見られると言う。

又この1608年は「修復」ではなく、「再々建」だったとも見られており、1521年の天童氏侵攻の折、根本中堂も焼失したので最上氏の元で再建された、とも推測されている。

このように、戦国時代は兵火のため一時衰退したものの、江戸時代には御朱印2800石を賜わって再び隆盛し、密教文化の殿堂を築きあげた。

現在の立石寺は、境内35万坪(115万5千u)の自然の岩山に、40余の堂塔を配し、平安初期以来の山岳仏教の歴史を物語る、日本を代表する霊場である。

さて「根本中堂」から、次の「日枝神社」の領域に向かおう(^^ゞ。

鳥居の前に橋が架かっていて……
石仏が安置、「橋殿」と呼ばれる

これは古来から、天皇・宮家人のみ渡る石橋と伝えられ、橋の裏側に梵字(インドの古代仏字)が刻み込まれている。

「日枝神社」に到る前に、右の方を皆さんが見ているのは……、

清和天皇・御宝塔」と「芭蕉句碑
大正天皇お手植え「宮様楓
鳥居に入って左の茶屋に「山寺イチョウ

まず奥に「清和天皇・御宝塔」がある。860年に、この山寺を勅願寺とした清和天皇の供養塔で、ここで最も古い石塔なのだそうだ。
慈覚大師の「大師」は、日本で初めての大師号なのだが、これを授けたのが清和天皇なんだねぇ(^^)。

清和天皇は元慶4年(880)に崩御。この知らせを受けて、当山の衆徒は西北の「自然岩」に宝塔を刻み、遺徳を偲ぶとともに、天下泰平を祈ったのを始めに、朝夕礼拝し、盂蘭盆会には宝塔を飾って読経するようになった。

……ちなみに出羽には、この2年前の元慶2年(878)に「元慶の乱」(蝦夷の叛乱)が起こってる(^_^;)。。「天下泰平を祈った」というのと符号するだろうか。

御宝塔の手前に「芭蕉句碑」。これは山に入ってからも説明するが、江戸期の松尾芭蕉を記念し、門人たちが嘉永6年(1853)にたてた句碑。

次の「宮様カエデ」は、まだ皇太子であった時代の大正天皇のお手植えで、これも山に入ってから説明するが、このカエデの原産は北米。

最後のは「日枝神社」の鳥居を入ってスグ左にある「山寺の大イチョウ」。
「慈覚大師お手植え」アンド「1100余年の樹齢」と伝えられる。雄株で、根元周り約10m(幹部は空洞)・高さ約30mの巨木。山形県では宮内熊野神社や湯田川のイチョウと並んで、市内最大であるが、昭和47年(1972)の台風で折損して大半を失った。

その下には、高浜虚子・年尾の親子句碑が建ち、ともに銀杏の茶屋の涼しさを謳う歌が書かれている(^^)。

鳥居に入る手前(右)には「貞明皇后記念碑」と「東宮(大正天皇)行啓記念碑」↓
そして鳥居をくぐって「日枝神社」拝殿(^^)→
さっきの階段から、ここに上って来るんだね。


東宮(大正天皇)行啓記念碑」の方は、さっきの「宮様カエデ」と由来は同じ(^^ゞ。
行啓は明治41年(1908)だが、記念碑を建てたのは昭和4年(1929)、県によって建立。元侍従長・徳川達孝の題額で、選文は元山形県知事の馬渕鋭太郎。

貞明皇后記念碑」は、昭和25年(1950)にお成りがあり、昭和27年(1952)に建立。
大正天皇の皇后で、昭和天皇の生母。お成りは大日本蚕糸会総裁としてで、毎年4月に蚕糸祭が行われ、県内の蚕糸業者が参列のもと盛大に斎行される。
貞明皇后御歌「夏の日のなかき曰くれし桑畑に桑きる音のまたたえぬかな」

そして「日枝神社」に入ったわけだが、さっきも述べた通り、明治以後に神仏分離によって寺から分けられただけなので、これも慈覚大師の立石寺開山と同時の860年と見る。

その折、釈迦・薬師・阿弥陀三尊を安置し、守護神とした一方、近江坂本の日吉神社から山王を勧請したとも伝わり、神仏習合していた江戸時代までは、「山王権現」と言われていたのを、明治以後は「大山咋(おおやまぐい)尊」を祭神とするに到った。祭礼は5月17日。

これは「亀の甲石」と言って、亀の形をしてる事から、小銭に名前を書いて置くと、延命・長寿など諸々の願いに霊験があると信じられ(良善院資料)、夕方に小銭を神前に奉納して、祈祷されている(^^)。

また向こうの街を見下ろす方には……↓

←祓戸大神が祀られている。
反対側には「こけし塚」と「御輿殿」↓

「祓戸大神」については、2008年6月<麻賀多神社、2>内にも書いた通り(^^ゞ。

こけし塚」は、本当にこけしの形をしていて(笑)、あちこちにある山寺の絵図には、他のものは省略されていても、必ずこの「こけし塚」だけは表示されていた(^^ゞ。

御輿殿」は名の通り神輿を納めた建物で、神輿は1320年製作の「玉御輿」、1615年製作の「鳳凰輿」が二基、1980年にこれらを複製した三基の、あわせて六基が納められている。
例祭(5月17日)に若宮誕生の様子を描く「御生まれ神事」に使用される。山形市無形文化財。

松尾芭蕉と門人・河合曽良の像
「秘宝館」の前の大木

この大きな樹(杉かな)の前の「秘宝館」には、慈覚の作と伝わる「伝教大師坐像」の他、「薬師坐像(本尊)」「釈迦立像」など鎌倉期の作や、「阿弥陀立像」「曼荼羅仏像」などの秘仏や仏具が、さんざん焼失しながらも守られて、収蔵・展示されている。
新しい物では戦国期、最上義光のために義光の弟 ・光直が祈願し奉納した「鰐口」があり、銘が残っている。

こちらは「真っ白い仏」→
「万物供養阿弥陀如来」と書かれ、我々の食べる物の命を供養する仏様と案内され、鯉の泳ぐ池に渡された橋の向こうに安置されていた。

これは磐司と円仁(慈覚)の対面より後、この山寺が「殺生禁断の地」となった事と関係があるのだろうと思う。

「山寺百話」には、江戸期は害獣でも寺の許しを得なくては狩りは出来ず、山寺の周囲で水を掬うと、どんなに気をつけていても、何か魚が入って来てしまう、という話が紹介され、かなり最近までこの禁制が守られていた事が窺える(^^ゞ。

常行念仏堂
本尊は阿弥陀如来

常行念仏堂」は江戸時代の初めに再建された、坐禅や写経をおこなう修業道場。参詣者が修業できるよう準備されている。

元は根本中堂の東にあったのを、江戸期の元禄4年(1691)、山形の近江商人の寄付によって移されたとも言う。山形24万石・鳥井左京亮と、同15万石・源直基の零碑を安置した。
また案内図を見ると、この念仏堂の前には「不浄門」がある。

本尊の「阿弥陀如来像」は慈覚大師の作と伝わるそうだが、ここでは「ころり往生・阿弥陀如来」と書かれていた。
これは苦しい闘病のあげく、長く寝付く老後が切実に思える現代、「そうじゃなく、出来るだけコロリと(^∧^)」とお願いする事を指すのだろうと思う。

一つにはこの「念仏堂」が、先祖供養と縁の深い事もあるかもしれない。
この山寺では前回も述べた通り、磐司と慈覚に感謝する「しし舞」が由来を語る重要な祭りであるが、この祭りの前夜(8月6日)におこなわれる「夜行念仏」が、「しし舞」に並んで重要な行事である。

この寺の由緒と発祥は慈覚大師にあるが、実は「しし舞」も「夜行念仏」も先祖供養の色彩が非常に強く、立石寺の前からの流れではないか、とも言われている。こういう所が、慈覚の前に地元民(磐司)がいた、という伝承を重視する所に繋がるのかもしれない。

負摺を着て金剛杖をつき、一文字笠を被り、裁着に草鞋をはき、歌と念仏に鉦にあわせて、夜通し唱和しながら順次お山を回る。参詣を始めたばかりの三年の間は、笠の周囲に細長い紙をつけて腰までぶら下げる。

これは空也が始めたと言う(「念仏の開始者」とも言われる(^^ゞ)。平安期の900年代ごろの僧侶だが、後に鎌倉時代になって、時宗の一遍が流れを継いだとも言われる。

一方、開祖・慈覚は天台宗だが、慈覚も「声明学の祖」と言われ、これは独特の節をつけて経文を読むもので、唐に学んだ折に、慈覚が五台山・大聖竹林寺の法照禅師より伝授を受け、それが良忍や空也によって発展した事、日本における声楽の根源である事が「山寺百話」に説明されていた。

いよいよ「山門」に到着っ!(^O^)
←右手前にある「鐘楼

↑山門の横のこの建物より左の先には、お山から降りて来て、帰りに通るね(^^ゞ。

この「山門」は、建立の年代は明らかではないが、山寺で「根本中堂」と並ぶ古い建築と伝わり、鎌倉期らしいとも言われる。
ここを起点として、これより山に入って行くので、ここを「登山口」とも言う。

鐘楼」の方は、山寺66世の優田和尚が再建したと言うから、46世の英海が元禄時代の人という事から見ると……江戸末期か明治以後かな(^^ゞ。「除夜の鐘」として全国に知られ、元旦にかけて大勢の参拝者が鐘をつく。



<立石寺(山寺)、山門〜姥堂〜仁王門>

←絵図の位置を変えて、次は「山門」から「仁王門」までのコース(^^ゞ。
           ←┐
これまでコの字に−┘こう歩いて来た。
「山門」の下を見ると、「対面石」から近い「大日堂」からの階段を登れば、直接ここに来れる、という事がわかるね(^^ゞ。

また「山門」のスグ左横の建物は「寺務所」と書かれ、宗教色の強い土産がたくさん並んでいると同時に、この先を難なく行けるよう、杖も用意されていた。

「山門」から先は、「仁王門」の間に、小さなお堂のような建物が見えるが、これは「姥堂」だろう(^^ゞ。

さて、山門をくぐると早速、石段が始まっている。これが山寺を有名にした800余段の石段である!
石段を一段一段登ることによって、煩悩が消滅され、幸福になれるという(^^)。

その途中、絶壁の岩に建つ堂塔や数百年の樹林の間に、宗教文化と自然景観が一体となった、日本を代表する霊場である。

←チョロと見えるのが「寺務所」
この石段はいつ作られたのかなっ!

ここから先は大変に長い道程なので(^_^;)、チョコチョコ間を省略しながら行かせて貰う(笑)。
山門に入ると、途端に「山寺」特有の風景である石段がエンエンと続く。

山寺は、たび重なる火災によって、多くの建物や文書・宝物類を焼失しながらも、慈覚が開山するに到った根拠である自然の景観は、特に天然の岩石によって明治初期まで保たれていた。

ところが明治時代になると、ドンドン採石が進められ、山の麓から多くの名石が失われてしまったのである。

その始まりは明治9年(1876)、元・薩摩藩士の三島通庸が山形県令に就いた事が発端で、三島は山形南の逆巻に「眼鏡橋」を作るため、その石材を全てこの山寺から掘り崩して持って行かせてしまったのだ。。

山寺は広大なので、敷地は官地と民地に分けられていたが、その区別もなく、運搬しやすい所から始めた。
前に宮城県の「塩竈神社」に行った時、硯石というのを紹介した(2008年2月<志波彦(しはひこ)神社>内が、この硯石や、前回の「対面石」や「不動石」のみ、なぜか持って行かれずに済んだ。

これから行く「姥堂」までの間もその勢いが及んだが、立石寺の代理・金乗院の住職が「他でも採れるのだから、お山の採石は免除して欲しい」と頼んで、ようやく受け入れられたという(^_^A)。
なので、この辺りも多少は採られたのか、丸々免除されたのかは判らなかったが、何しろ「姥堂」より上は守られたのだと思う。

山肌に卒塔婆や石塔が次々と出て来る中、一際目立った場所に
空也の供養塔

空也については「常行念仏堂」で話した通り。
「夜行念仏」の折にも、鉦を打ち鳴らしながら、ここで盛大に念仏を唱えるのだろうね(^^)。

←そして「姥堂」に到達。
何か、とんでもなく恐ろしい形相(^_^;)。。この堂の本尊「奪衣婆(だついば)」である。

この堂のある位置が「浄土口」であり、これより下が地獄、上にいけば極楽と言われる。
今は着替えてる人は居なかったが(^^ゞ、本来はそれまで着ていた衣服はこの「奪衣婆」に奉納し、そばの岩清水で心身を清めてから新しい着物に着替えて極楽に赴くのである。

このお堂の左に大きな岩があって、「笠岩」とも「笠投石」ともいい、「慈覚大師が雨やどりしたところ」とも伝えられる。
写真が無くて恐縮だけど(^_^;)、さっき話した採石は、この「笠岩」まで割ろうとしたと言うから、明治初期からの開発の凄まじさを実感する。。。

この先は、確かに奇岩・巨石の類がバンバン出て来て、山寺の凄みが味わえる(^^)。

遠く岩石に守られた秘仏
岩石の下の「預天智地蔵」

到る処の仏像(墓石?)が全て巨石の上に乗っている
四寸道」に差し掛かる

この長い長い石段が、いつから作られたのか不明だが(^^ゞ、元は山の自然に沿って、この長い参道が歩かれたのだろう。

特にこの「四寸道」には、山寺における古来からの修験道の面影が強く残っていると思う。
一番せまい所が「四寸道」で約14センチ幅という。
自分の先祖も子孫も登る事と、その初めである「慈覚大師の足跡を踏む」として、「親子道」「子孫道」とも称されている。

お坊さんは本来、子孫とか先祖とは無縁のハズだから、慈覚は山寺に修業に来る「全ての人の先祖」として、仏教と地元信仰の接着剤の役割を果たしているのだ!

太古からの先祖崇拝と、本来は肉食妻帯を禁じる厳しい仏教修業の考えが、どんな具合に融合されたのか、今思えば色々考えさせられる(-_-)。

が、この時は、そろそろこの辺りから、徐々にヒィヒィ(*o*)言って登るようになってて、勿論こんな事はカケラも考えてなかったわさっ!(爆)

左上に見えて来る「百丈岩(パノラマ2枚)

↑案内版には「この上に、納経堂・開山堂・五大堂がたっている」と書いてある。この三堂については、「仁王門」を超えた頃から、ジワジワ〜ッと目に見えて来るので、そこまで行ったらね(^^ゞ。
ここでは「あー!こんなスゴイ風景が〜!」って事しか、登山者にはわからない(笑)。
逆に仁王門を超えてしまうと、下がどんだけスゴく切り立ってるかは見えなくなるけどね(^_^;)。

また、「道のあちこちの、車のついた後生車という木柱は、年若くして亡くなった人の供養で、南無阿弥陀仏ととなえて車をまわすと、その仏が早く人間に生まれて来ることができるという」と案内版にはあるが、登るのに必死でちゃんと見れてない(爆)。

そして、やって来ました、「せみ塚」です。→

ここで、ようやく松尾芭蕉と「奥の細道」の話をする(^_^A)。

松尾芭蕉が門人の河合曽良を連れて東北への旅に出て、ここ山寺を訪れたのは、元禄2年(1689)である。
その紀行文「奥の細道」には、以下の文で綴られている。

「山形領に立石寺といふ山寺あり。慈覚大師の開祖にして、殊に清閑の地なり。
一見すべきよし、人々の勧むるによりて、尾花沢よりとって返し、その間七里ばかりなり。
日いまだ暮れず。麓の坊に宿借り置きて、山上の堂に登る。
岩に巌を重ねて山とし、松柏年旧り、土石老いて苔滑らかに、岩上の院々扉を閉ぢて物の音聞こえず。
岸を巡り、岩を這ひて、仏閣を拝し、佳景寂寞として心澄みゆくのおぼゆ。
(俳句)閑かさや岩にしみ入る蝉の声

芭蕉のこの句は、あまりにも有名だが、これが、それまで山岳修業の霊場にすぎなかった山寺が、全国版の「旅ガイド(^。^)」に初めて載った瞬間である(爆)。
芭蕉の句は短冊にしたためられ、この地に埋められ、石の塚をたてたので「せみ塚」と呼ばれていて、この界隈は座って休める場所が設けられている(^_^A)。

しかし「四寸道」を超え、「百丈岩」の見える辺りから少し疲れて来るのと、そろそろ「この先どれぐらいあるのかな〜」という緊張感が漂いはじめ、誰一人としてここで芭蕉の詠んだ風情をゆったりと味わう観光客はおらぬ(爆)。

お若い人や子供になると、ここで「まだ全然平気!」と休まずに進むが(私も前に来た子供の頃はそうだった)、少しお年を召した方は、この前後にも「お休み石」がある(慈覚が休んだ石という)ので、なるべく休み休み行った方が(^^ゞ。
上りはまるで支障無くても、下りに入った所で足に来る(爆)。

そろそろ左に見えるのが「弥陀洞」かと(^^ゞ。→
絵図から見て、その辺りと思ってるが、案内版には「長い歳月の風雨が直立した岩を削り、阿弥陀如来の姿を作り出した」とあって、全体を見る事が適わなかったので、ちょっと自信がない。。

でもネット上の多くがこれを「弥陀洞」と紹介してるので、相乗りさせて貰う(爆)。
←こちらが壁面。何か莫高窟にでも来た気分(^^ゞ。

こっちはギリギリまで下がって撮った上下パノラマ。→

一丈六尺(約4.8m)の姿から「丈六の阿弥陀」ともいう。

「自信がない」と書いたが、この巨岩を「仏の姿」に見れる人にだけ「幸福が訪れる」と言うから、これが「弥陀洞」だった場合、どれがそうだか判らなかった私は、幸福を授からなかった事に(TOT)。。

←この「弥陀洞」(と思う)の横合いから、石段の上に、いよいよ「仁王門」が見えて来るっ!(^O^)
↑ズンズン石段を登るごとに、仁王門の頭上を覆う巨岩が次々とパノラマ状に角度を変えて現われ、すこぶる圧巻だった〜(≧▽≦)

↓そしていよいよ、「仁王門」に到着〜(^O^)!
←左に見える巨岩の壁面。こういう穴に、ご先祖の骨や、あと特徴的なのは「歯」を埋めるんだよね(^^ゞ。

この「仁王門」は建物の時期がハッキリしてて、江戸期の嘉永元年(1848)。
その前は、いつからの、どういう建物だったのかは判らないが、「仁王門」ではなく、「十王像堂」というのが在ったようだ(^^ゞ。場所も「十王像堂」辺りを拡張して、今の「仁王門」が建てられた(再建された)という。

この仁王門も、正面は仁王像だが、側面には十王尊を祀った。
十王の十体の内、五体までが出羽国の河辺郡豊岩村前郷で造られた物を、慈覚大師が立石寺に移した、と伝わっている。

これが信者による奉納という伝説もあり、奉納の際、船に乗せて川を渡った所、中野目あたりで像が川に落ちてしまったので、中野目の御堂を作って、川底の像を祀ったというものである(^^ゞ。

この十王像は、仁王門の側面に祀られた後、いつからかこれより行く「五大堂」と、賽の河原の岩窟に移された。

今も残る「仁王門」は欅材が用いられ、運慶の弟子たちの作といわれる仁王像を、左右に安置し、後方の閻魔王ともども、邪心をもつ者が登らぬよう睨み、さらに門を通る人達の過去のおこないを記録するという。



<立石寺(山寺)、仁王門〜三院〜三堂>

←また絵図の位置を変える(^^ゞ。

今度は「仁王門」を一番下にして、その上部に移る。

石段を中央に、これより右に「性相院」「金乗院」「中性院」の三院、左に「納経堂」「開山堂」「五大堂」の三堂が出て来る。

では「仁王門」をくぐると!
崖上の「開山堂」が見える!
仁王門もドンドン下に

この「開山堂」のあるのが、さっき「四寸道」や「せみ塚」あたりから見えた「百丈岩」のてっぺんなのね〜(#^.^#)。
また仁王門を挟んで反対側の左に、チラと赤い屋根が見えるのは、絵図的には「観明院」のような(^_^;)。。

「観明院」は、山上衆徒僧のよる寺として阿弥陀如来を本尊に、祭礼や盂蘭盆には本坊から出張され、参詣者の先祖供養の卒塔婆が書写された。
それがいつ頃からか、「観明院」には姿の見えない化け物が住むと言われ、化け物は参詣者の上げた賽銭を二つに割ってしまうのだとか……(・・;)。。それゆえ住職が据わる事はなく、現在も無住だという。

ここに座って、しばし休憩しながら、そそり立つ崖上の御堂を眺めると、なかなかに絶景かな〜っ!(^O^)Щ<パッ

←「観明院」の背後の洞窟。こういう岩穴にも故人の骨や歯を納める。

性相院」に到着!→
その背後にも小屋のような建物が岩に食い入っている。お経や歯骨を納めるのだろうか。

この地方では死者が出ると、縁者が遺骨の一部、特に歯骨を「奥の院」(頂上)の納骨堂に納め、供養をしてもらう風習がある。

また山寺は天台宗ではあるが、先ほどの「夜行念仏」でも触れた通り、宗派の区別にこだわりなく、死者の戒名を記した卒塔婆や、後生車を納めて霊を弔った。
こうした事から天台宗の名刹としてより、むしろ「死後の霊魂の帰る山」として、多くの庶民に信仰された。

これは前回の「慧日寺」でも書いた通り、先祖をはじめ、死者の霊場として山が信仰され、その信仰や風習が古くに仏教と接触・融合したために、開祖や寺の勢力が風化しても、長く形を変えずに継続された事と通じるかもしれない(^^)。

江戸時代までは12の塔中(たっちゅう)支院があり、多くの僧が修行に励んでいたが、今は以下の4寺院が明治初年に他の支院を吸収して、「山内支院」として当時の面影を残すのみである。

「性相院」=本尊「阿弥陀如来」(慈覚大師の作)。「善行院」「極楽院」を吸収。
「金乗院」=本尊「延命地蔵菩薩」
「中性院」=本尊「阿弥陀如来」。「不動院」を吸収。
「華厳院」=本尊「観世音菩薩」

これら今も残る4寺院には常時、住職が住まい、交互に頂上の「如法堂」(奥の院)に勤務して、慈覚大師の伝えた「一字三礼の行法」に沿って、毎日経文を書き写す。

最初の「性相院」に今いるわけだが、運慶の毘沙門天も安置され、明治に善行院・極楽院を吸収した。
ここからの眺めが素晴らしい!(^O^)

「性相院」からの眺め(パノラマ3枚・ほぼ180度)
↑この端のが「納経堂」と「開山堂」
絶景かな、絶景かな!(^O^)/~
このまるで中国の山景のような際どい構成も、山寺の岩々が織り成す独特の美なんだね!
あの「開山堂」までは、この「性相院」からも行けるが、もうちょっと登ってから行ってみよう。

山寺の全山を構成するのは、新第三紀中新世の角礫凝灰岩(かくれきぎょうかいがん)で、これが長い年月の水蝕を受けて奇岩怪石となり、樹木の間に見え隠れする姿となって、四季折々の素晴らしい景観を作っている。
それらの岩肌に板碑型の供養碑が刻まれ、洞窟や岩陰には五輪塔・こけら経・笹塔婆・千体仏・小型板碑などが、土に埋れながら納められ、景観と信仰が見事に溶け合っている。

さらに登り、「性相院」を見下ろす洞窟(パノラマ2枚)

「性相院」から「金乗院」にかけて、背後は「胎内くぐり」や「胎内堂」のある辺りと思われるが、残念ながら、この日も次に行く松山温泉がまた遠く、早めに引き上げたため、この辺りまでは足が伸ばせなかった(^^ゞ。

「胎内くぐり」は深い谷を渡り、狭い穴を抜けて、梯子や鎖を頼りに洞窟や岩場を渡り、「地獄谷(行者戻し)」の切り立つ岩壁を伝って、「釈迦堂」に到るもので、この絵図のさらに右には、「宝珠岩」「六観音」「釈迦ヶ峰」「多聖塔」などが書き込まれていた。

「足が伸ばせなかった」と書いたが、背後に向かう道筋は「立ち入り禁止」だった所もあった気が(^^ゞ。
「釈迦ヶ峰」については「修業の岩場」という案内版があり、「出世や欲望のための修行者が、岩場から転落死したことも多かったと伝えられており、今では修行者以外の登山を禁じている」と書いてあった(・・;)。。

斉藤茂吉の句として、
「みちのくの仏の山のこごしこごし岩秀に立ちて汗ふきにけり」ともあった。

さて次のお寺「金乗院」まで来てしまった(パノラマ縦横3枚)

金乗院」は江戸期の1840年に再建。「延命地蔵菩薩」を本尊とし、千体地蔵・不動明王を安置。

正面が開いて地蔵尊を拝し、お祈りできる上、頭上にはたくさんの絵馬が奉納されていた。
絵馬は、さらに頂上の「奥の院」の「如法堂」にも、亡くなった子供の写真や着飾った人形とともに多く納められ、入学や結婚など、生きていれば体験できた様子を描いて供養している。
山の西の極楽院(今は性相院に吸収)の東の岩洞にも地蔵が祀られ、子供は子供で、死んだために出来なくなった父母の供養に、あの世で小石を積み上げる「賽の河原」に当たるといい、鬼が来て、積み上げた石を崩してしまうので、夜にはガラガラと石の落ちる音の後に、崩された事を嘆く、子供の泣き声が聞えて来るという。

さて、この「金乗院」からの眺めは↓

「性相院」はズ〜ンと沈み、「開山堂」が並ぶ位置にっ(^O^)(パノラマ2枚)

では「開山堂」に行ってみよう!
左(赤)「納経堂」、右(黒)「開山堂」
折り返し下り階段↑がついていて

そこから段々と階段を交えて
さっきの「性相院」まで下りて行けるのね(^^)

←まず左の赤いお堂が「納経堂」で、山寺が紹介される時に真っ先に用いられる、もっとも有名なアングルだろう(^^ゞ。
創建は開山に遡り、慈覚大師の定めた法に従って、「奥の院」の「如法堂」で書写された法華経を安置した。

こうして、天に一番近い地に経典を捧げるという試みは、高所になるほど神に近付くという、やはり古くからの信仰心を思わせる。
現在の「納経堂」には棟札があり、慶長4年(1599)、最上義光が蓑和田讃岐守に命じて建設させた事が伺える。

「納経堂」が歴史学的に注目されるのは、これの建つ「百丈岩」裏の「入定窟」(ちょうどこの岩の裏がわ(^^ゞ)の存在で、慈覚大師の遺骸が納められていると伝承されるためだ。ゆえに長くこの地域の人が大病にかかると、その骨を削って服用する習慣があった程だ。

実際、昭和23年(1948)より「入定窟」を調査した結果、黒漆と金箔による金柩が現われ、内部からは五体の内、一体が形態的に貝塚人やアイヌ人とは違い、現代日本人に近いものの、千年以上は古い男性の人骨と判明した。(残りの四体は比較的新しいという)

その人骨は頭部が無く、代わりに木造の頭像があてがわれており、彩色は落ちてしまっていたが、作風は写実的で眉が他に類を見ないほど高く突出している。また仰向けに寝かせる事を想定したのか、後頭部を平たくそがれており、最初からこの人骨にあてがう目的で作られた事が想像できる。

この頭像自身かなり古い作品で、平安期の肖像彫刻としては、箱根神社の萬巻上人像(2004年11月<芦ノ湖>内、奈良東大寺の良辨上人像が有名だが、それらより古い可能性もあるそうだ。
この事は遠く鎌倉にまで伝わっていたようで、日蓮が「慈覚大師の御頭は山寺・立石寺にある」と記している。

柩は蓋の内側に、1250年、1257年と鎌倉時代の銘文があるので、柩については後で作られたのかもしれない。
が、発掘時も窟内は清浄に保たれており、真南より陽を浴びる位置だった。

昭和62年(1987)に解体修理がおこなわれた。県指定文化財。

一方、こちらは「納経堂」の右の「開山堂」(^^)。

こちらは慈覚大師の廟で、江戸期の1851年の再建。慈覚大師の坐像(木像)を安置し、山内の僧侶が朝夕、食飯と香を供えてお勤めをし、特に香を「常香」として、絶えず捧げられて来た。
法会は毎月14日、一山の衆徒が集まる。

「五大堂」に向かう、↓左に見えるのは
磐司祠」ではないかと(^^ゞ

この祠堂の左に、写真に入らなかったけど、どうも磐司の洞穴があったようだ(^_^;)。もうちょっと左を写せば入ってたかな〜。
ただ、ここは「磐司を祀ってる所」であって、どうも「磐司が住んでた場所」と伝えられてるのは、最初の方にいった「山王神社」の裏から奥まった場所にあるような……。

歴史的には不明としても、伝承としては、山寺ではやはり慈覚に関する物と磐司に関する物が抜群に多い(^^ゞ。
特に磐司に関しては狩人らしい物が多く、矢を研いだ湧き泉とか、弓をかけた松とか、化け物退治の話もあるが、磐司の飼っていた犬▼o・ェ・o▼に関する物が多い(笑)。

この「磐司祠」でも磐司の位牌と坐像の他に、傍らには犬の石像▼o・ェ・o▼があるそうで、犬は磐司に「マリ」と呼ばれていたそうだ(#^.^#)。
この犬の碑も、山王神社の奥まった所にあるようで、磐司の生活圏に葬られたんだね(笑)。

多賀城の博物館にも、古代人の人骨と一緒に犬が埋葬されてる例が紹介されていた。狩をするのにワンちゃんは、欠かせない存在だったんだね〜(#^.^#)。

この山頂の「磐司祠」は、前回も書いた通り、最初に「しし舞」が奉納される場所で、舞い終わると慈覚大師の大師堂で奉納されるんだね。

そしてさっきの階段の真上に「五大堂」!
建物は一部しか写せない。。

右の写真は「磐司祠」の方から写したんだけど、これ以上、全体を写せないので(^_^;)、ちょっと下のを見て貰えると……、

←前回、宿から写した写真ねっ!(爆) 左の飛び出してるのが「五大堂」、右の横に広いのが「開山堂」。

「五大堂」からは逆に、悠々と下界が見下ろせるワケ!↓

「五大堂」から見下ろせる下界(パノラマ5枚・180度以上・チョー魚眼)

五大堂」は五大(大聖不動・東降三世・大威徳・南軍茶利夜叉・北金剛夜叉)明王を安置し、祀って、天下泰平を祈る道場で、山寺随一の展望台でもある。河鹿の声も聞こえるという。
正徳4年(1714)の再建で、嘉永5年(1852)に屋根の葺き替えが行われている。

この「五大堂」や「磐司祠」より、さらに奥には「天華(天狗)岩」、その下……「せみ塚」辺りの高さまで下りると、「香の岩」なんて、それぞれ巨岩があるが、この磐司祠より奥地は、やはり「立ち入り禁止」になっていた。
今でも修験をされる方は、さらに奥でも健脚で踏み込んで修業にいそしんでいるのだろう。

「金乗院」まで戻って、さらに上に登ると……、
又々、「開山堂」の方向に行ける道が出ている↑。道の途中にあるのは「東宮記念殿」→

「東宮」とは後の大正天皇で、皇太子時代の明治41年(1908)に東北を巡啓、山寺にも行啓の折に休息のため作られた建物で、お手植えの松とともに記念として保存されている。

尊い東宮の行啓なので、特別に挙行されたのだろう、山寺一番の名物「しし舞」が舞われる様を、大正天皇は殊のほかお気に入りで、御簾を上げて見学の上、さらに写真撮影まで所望されたそうだ(^^)。

ここからの眺めが抜群なので(#^.^#)、パノラマを駆使して繋げてみたよっ♪↓

左「中性院」真ん中「金乗院」、向こうに奇岩の洞穴郡(パノラマ4枚・180度以上)

道をさらに進むと、右下に「性相院・観明院・仁王門」も見える(パノラマ縦横6枚・180度以上)

端まで行くと、赤い「納経堂」がもうあんな下に!(パノラマ2枚)

また中央まで戻って、これよりいよいよ頂上に向かう〜(^O^)。
三院の最後「中性院」を過ぎれば、頂上ちょっと手前に「三重小塔」、そして頂上の「奥の院」に到着だっ!

「金乗院」まで戻って続きを登る
洞窟の中に供養塔が建ってるのが見えるかな↓

写真だと殆ど写らないが、肉眼だと洞窟に卒塔婆や墓石がウジャジャ〜!と納まってるのが、ホンノリ見える(^^ゞ。

そして、これが三院最後の「中性院(パノラマ2枚)

中性院」の本尊は阿弥陀如来。
ここにも怪談があって、泊まると寝た時と正反対の方角、つまり東枕は西に、南枕は北に枕の位置が変わってるというもの(^_^;)。丸子氏一族の老婆の霊の仕業なんだとか。。

維新初期の動乱の折、日光東照宮の神像を保護するため、日光の僧や神人が会津藩兵に守られ、会津若松に運んだが、会津も戦禍が及ぶ事になったので、世情が安定して日光に戻せるまでの間、この立石寺に一時、仮安置された(^_^;)。

そういう時代だから勿論トップシークレットだったが、日光側の資料には、ご神体は初めは根本中堂に、途中から奥の院に移され、供奉者はこの中性院に移ったと書かれてるそうだ。
この中性院が最も高い位置にあって、奥の院に近いからだろう。

「中性院」の脇が見えて来る(パノラマ2枚)

明治初年に中性院は、不動院を吸収した。

この背後の岩窟には、新庄藩・戸沢家の歴代の石碑が建つそうだ。
そしてこの通りを挟んで隣(前と言うべきかな)には、「山形城主・最上義光公・霊屋」があると言うのだが……、

通り過ぎてから振り返る、これかな?↓
奥の院からも見下ろす。やっぱこれ?↓

最上氏は斯波氏の支流で、斯波氏に関する山寺がらみの逸話もあるにはあるが、山寺自体には伝わってない話のようなので、斯波氏については山形城に行ってから話そうか(^^ゞ。

最上氏に関しては、山寺自体に伝わる話があって、それは根本中堂の裏手にある「姫岩」という名巨岩にまつわるものだ。

「姫岩」は、最上義光の祖母が根本中堂の毘沙門天を篤く信仰したため、しばしば宿泊して登った岩、と言い伝えられ、山寺には「義光の母」と伝わってたそうだが、「義光の祖母」が立石寺の大檀那であったので「祖母」が正解だろう、と「山寺百話」にはあった(^^ゞ。

山寺に今も残る建物は、鎌倉期などのごく古い建築物以外は、殆どが最上義光の再興による所が多いのではないかな。
それもまた江戸期に焼失したりはしたのだが(^_^;)、その後の再建は、もう戦乱期ではないから、最上氏の行った再建後の堂宇の見取り図を元にするとか、関係者の記憶を元に復活できたのではないかな〜と。

そして、いよいよ頂上「奥之院」に到着(^O^)! 「奥之院」は通称で、正式には「如法堂」という。

ただ、こっから先、特に堂内だと思う(建物ぐらいは良かったのかもしれない)けど(^^ゞ、「撮影禁止」とあるので、画像はここまで(^∧^)。

正面左の建物は「大仏殿」(^^)。右側の「お堂」が「如法堂」で「奥之院」とも言う。
そのちょっと手前にチラと見えるのが「金灯篭」かな?
絵図にはこのさらに右に「多聖場」とも書かれている。

まず「如法堂」(右)は写経道場とされ、明治5年(1872)に再建。
松島・瑞巌寺の住職の書いた「霊鷲道場」の額を掲げていた。
慈覚大師が中国で修業中に持ち歩いた「釈迦如来」と「多宝如来」を本尊とする。

慈覚は下野国(栃木県下都賀郡岩舟町)の豪族・壬生氏の生まれで、延暦21年(802)に下野の大慈寺に入門し、大同3年(808)比叡山に登って伝教大師(最澄)に学び、弘仁7年(816)東大寺で具足戒を受ける。

その後、弘仁13年(822)に最澄の遷化に遭い、承和5年(838)円行、常曉らと遣唐使・藤原常嗣に従い、中国に渡り、承和7年(840)五台山(山西省五台県)で志遠に学び、天台37巻を写得。
ついで長安に入り、大興善寺・翻経院の元政阿闍梨に学び、五瓶灌頂をうけて伝法を許された。

さらに青龍寺の義信阿闍梨に師事して胎蔵灌頂道場に学び、玄法寺法全・天竺宝月・醴泉寺宗頴に学び、念踊の教法、経論の章疏など559巻、胎金両部の大曼荼羅・諸曼荼羅の壇様、高僧の真影、舎利ならびに道具など21種に及んだ。

845年に法難にあって帰国できず、2年留まって、847年に帰国した。唐で書いた日記、「円仁入唐求法巡礼行記」は「東洋三大旅行記」に数えられ、慈覚(円仁)の書いた著書は100余部に及ぶと言われるが、儀書もかなり多いらしい(^_^;)。。

でも、こうした大業を成し遂げ、かつ法難を受けるなど大変な道のりの間、慈覚大師を守ったご本尊だから、こうして大事に祀ってるんだねぇ(^^)。
慈覚は帰国後、東北地方に多くの寺を建立したと各地に伝わり、854年に天台宗座主となり、貞観8年(866)に慈覚大師と追諡された。

奥之院の境内には、光明皇后の歌を刻んだ碑があった。→
「千輻輪相轂網相 具足魚鱗相金剛 杵相足跟亦有梵 王碩相衆蠡相」とある。
光明皇后は聖武天皇の后で、藤原不比等の娘。率先して施しをし、仏教布教に寄与した事で有名。

←こちらは鐘楼のすぐ脇にある「仏足石」で、よくインドから中国を経て日本に伝えられている物として見るが、天平勝宝5年(753)の年号を刻む、奈良西ノ京の薬師寺のものが最も古く、山形県内には18例あるという。

ところで、この「如法堂」には、今も残る「法相院」など4寺院から僧侶が勤務に来て、「一字三礼の法」の写経をするわけだが、これは一文字書くたびに五体を地に投げて三度礼拝する物で、一日に7行半づつ、4年かけて勤める。
この折、「石墨草筆」と言って、石器時代の堅い石の墨を硯で磨る。少しも減らないそうで、たまに血のような色も出るという。

こうして行われた書経が、先ほどの「納経堂」に奉納されるのだ。

一方「大仏殿」(左)は高さ5mの金色・阿弥陀如来を安置し、毎日、卒塔婆の供養をおこなっている。
信者はこれを待ち焦がれ、祖先の名を卒塔婆に書いて貰ったり、先祖の歯骨を納めたりで、供養を頼む。秋の彼岸には施餓鬼法要が行われ、宗派を超えた数千人の参拝者で賑わう(^^)。
こちらは「奥之院」の手前右にある「華蔵院」→

これが「法相院」など十二支院、最後の寺で、最初に慈覚がこの山寺に来た時から住んだ場所と伝わっている(^^)。
本尊は慈覚大師作の観世音菩薩(観音サンだね(^^))。

位置は「中性院」の前にあって、ここから「東宮記念殿」にも行ける。
「中性院」で、幕末〜維新の動乱により、日光東照宮の神像を山寺に移した話をしたが、日光側の記録には供奉衆が「中性院」に宿泊した事が書かれていた。
これが山寺の古老の話では、どうもその前はこの「華厳院」に泊まってたようだ(^^ゞ。

どちらも神像が安置された「奥之院」に近いからだろうが、その折、供奉衆がこの「華厳院」で、敷布団を二つ折にして被った、という目撃情報が伝わっているという(笑)。

山寺の冷え込みに難儀したんだろうね(^_^;)。。
ウチらが泊まった宿の人も、「晴れてれば気にならないが、曇ったり夜になると、かなり冷え込みます」と教えてくれた。
私らが行ったのは9月で、東京では暑い日もあるぐらいだったけど、途中から小雨がパラついたりして、やや薄着ぎみだったのか、亭主が後でちょっと風邪気味になっていた(^_^;)。

これは「華蔵院」の敷地にある「三重小塔」(国重要文化財)。↓
名の通り小さかったが、永正16年(1519)の銘があり、彫刻には室町末期の特徴があるそうで、三手先の組物だと言う。

これの納まってる厨子の代わりの岩屋がスゴイ(笑)。上にボコボコ空いてる穴にもお経やら石塔やらが詰まっていた。

これで山頂までの拝観は終了(^^)。この後は、「山門」までの階段をドンドン降りて行く〜!



<立石寺(山寺)、山門〜本坊>

はい「山門」まで降りて来ました〜(^^)。今「山門」の傍の「寺務所」に居る。
行きは「山門」の左(図では右)側を参拝して来たので、帰りは右(図では左)側を通って帰ろう。

すると、この通り「本坊」があり、これを抜けると「対面石」に到る道路に降りて戻れる。

「山門」脇の「寺務所(パノラマ4枚・180度以上)

←こっちの方向に行く。

立石寺の「案内書」によると、これは「抜苦門」と言い、「参詣者の全ての苦悩を抜ける」との事(^^)。

この門は、お山を登らなくても、「山門」まで来れば通れるから、体の弱い人やお年寄りでも、その恩恵を受けられるんだね。

これを通ると、左に「本坊」、右には羅漢サマの像がある↓

背景の壁が「本坊」の壁で、中央が羅漢サマの像、その背景の大きな岩が「蛙岩」→

羅漢サマには、「十六羅漢那伽犀那尊者」と案内があり、羅漢は釈迦の弟子で、人々に甘露の法水を与える事が書かれ、実際に羅漢サマの持つ器から、ピューッと噴水が上って地に落ちていく(^^)。
この法水を頂くと、知恵と長寿を授かるという。ペットボトルを持ってくれば良かったぁ〜!

この像は、戦争のために国に供出して失ったが、昭和55年(1980)に山形市の鈴木伝六さんによって復元され、改めて奉納されたという。

後ろの「蛙岩」だが、明治初期に三島県令によって岩石が破壊された中に、同じ名の石があるが、これとは違うのだろうか。。

立石寺・本坊(パノラマ3枚・ほぼ180度)

前回、宿から見えた麓の建物は、方角から見ると多分コレではないかと(^^ゞ。
この「本坊」には、立石寺の代々の住職が住まい、35万坪の全境内における大小50余の堂伽藍の維持や管理を初め、各季節の宗教行事、観光行政までが、全てここで執り行われている。

建物は明治5年(1872)の火事で類焼したが、8年(1875)には屋根は萱葺きで再建され、今も大正天皇の玉座を守っている。

本坊の前庭と背後の山々(^^)
コスモス〜☆ミ

この前庭の他、裏庭も自然を背景にした見事な景観と言う(^^)。(行けば見れたのかもしれない〜)

ところで立石寺の住職と言うと、最上氏の改易の後に入って来た鳥居忠政が、山寺の山林を刈ったり、禁断を侵して殺生したり、祭りの取り止めをした上、立石寺側の申し入れたも聞き入れられなかったので、時の立石寺住職・円海が忠政を呪い殺した、という話があるそうだ(^_^;)。。

私はこれ、筑後川さんの「大坂の陣絵巻」の「鳥居忠政」で知ったの(^^ゞ。
実は鳥居忠政って、「風神の門」に出て来る(佐藤慶が演ってた)ので、ちょうどその頃、私も筑後川さんも見てたもんだから(笑)。

この話自体は紹介されてなかったが、「山寺百話」には「既にご存知の通り」って口調で出て来るの(笑)。
それによると、住職の円海が「鳥居侯」(忠政の事でしょうね(^_^;))を呪詛したのは、宮城県秋保の「滝の原・不動堂」で、その時に荻塔(おぎのと)の6人衆が道を補修して、円海を迎えに行ったそうだ。

その時に出来た(初めて人が通った)道を「山伏峠」と言い、江戸期には通りの盛んな道だったが、例の山形県令・三島通庸が関山新道を開発したため、この道を使う人は殆ど居なくなったそうだ。

ちなみに、この「山伏峠」すなわち「山寺口」の出来るより古くは、慈覚の時代も斯波氏の時代も、「清水峠」と呼ばれる「高野口」という道を通っていた。
二つの道が出来た事から、「二口越」と呼ぶようになり、この山寺の東、前回もちょっと触れたが、「磐司岩」よりさらに東に、今でも「二口峠」「二口渓谷」「二口温泉」という名が残ってるわけ(^^ゞ。地図B

「本坊」の出口にデ〜ン!と目前を塞ぐ「神楽岩」→
大っきいよっ(*o*)!

この階段から降りると、眼下に……↓

ド〜ンと風光明媚な景色が広がっている(^O^)。 (パノラマ3枚)

山寺を降りるや速攻で
芋煮を探して食った(≧▽≦)!
山寺ワインもゲット♪

山形と言えば、やっぱ芋煮よねっ!!(≧▽≦)
山寺の麓は、土産屋さんや食べ物屋さんが沢山あって、その内の「いずみや」さんで食べた(#^.^#)。揚羽蝶の紋が入ってたから、こちらも平家ゆかりのお店かな?

前回の東北旅行で、蔵王に向かう途中の駒草平ドライブインで食べて以来、「アレが本当に芋煮だったのか」を長く気にしてたんだが、間違いなく駒草平で食べたのと、ほぼ同じ味だった!(笑)

わりとアッサリめのすまし汁に、牛肉とネギとキノコ類とともに、山芋が入っている。
昼食が遅れたのもあって、定食で頼んでしまったが……ングング、蕎麦や煮物・酢の物とかついて、ん〜なかなか……ゴモゴモ( ^,_^)。 (食うか喋るか、どっちかにしろ!)

以上、関連事項は、
2004年11月<芦ノ湖>内
2005年2月<日光・東照宮>内
2006年2月<アジアゾーン>内
2007年4月<米沢「上杉神社・松岬神社」「上杉博物館(伝国の社)」など>内
2008年2月<志波彦(しはひこ)神社>内
2008年3月<蔵王エコーライン「蔵王寺」>内<蔵王エコーライン・駒草平><蔵王「御釜」>
2008年4月<上山城>内
2008年5月「更新終了」の「戦国武将一覧」内「最上義光
2008年6月<麻賀多神社、2>内
2008年10月<桜川市、筑波山「薬王院」、2>

2009年1月<磐梯山慧日寺資料館>内
   〃   <「山寺」の麓で一泊>以降




さてさて、山寺で随分ページを使っちゃったので、次回……「北畠神社」「山形城跡」、そして移動して「松山温泉」まではお約束通り(^_^;)。。
3日目に入って、「清河神社」「羽黒山(羽黒山神社)」までは行きたい〜!

<つづく>

2009年02月26日
 
     






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