「風と雲と虹と」8(47〜52)
キャスト
平将門=加藤剛(青年役)
良子=真野響子
豊田丸=
平三郎・将頼=高岡建治
平四郎・将平=岡村清太郎
伊和員経=福田豊土
将門爺や=日野道夫・その妻で元乳母=関京子
三宅清忠=近藤洋介
興世王=米倉斉加年
鹿島玄道=宍戸錠
鹿島玄明=草刈正雄
多治経明=金内吉男
文室好立=大宮悌二
栗麻=神田正夫
桔梗=森昌子
かや=遠藤真理子

平貞盛=山口崇
小督=多岐川裕美

平公雅=高野浩幸

田原藤太(藤原秀郷)=露口茂

源護=西村晃
詮子=星由里子

総社の巫女・小米=池波志乃

藤原純友=緒形拳
武蔵=太地喜和子
季重=沢竜二
美濃=木の実ナナ
大浦秀成=中丸忠雄
くらげ丸=清水紘治

藤原忠平=仲谷昇
藤原子高=入川保則
藤原恒利=今福将雄
千載=五十嵐淳子
紀淑人=細川俊之
大中臣全行=林昭夫
源経基=菅野忠彦
藤原惟幾=横森久
藤原為憲=中島久之



この回の関連レポートは、「城主のたわごと」2008年10月<石岡市「常陸国府跡」>からを(^^ゞ。

47話「国府占領」

  将門は常陸国府に三宅清忠を使者に遣わし、興世王が献策した「玄道・玄明の助命嘆願のために来た」と筋を通したが、藤原為憲は重税にあえぐ民を駆り立て陣を構えた。将門軍は国境に到着しても、再度、文室好立を軍使に助命嘆願を口上したが、為憲は矢を射掛けさせる。
  為憲に副将にされた貞盛は、為憲の持ち出す孫子の兵法に呆れ、予想通り、将門が為憲軍を三陣とも軽く突破すると、さっさと逃走し「武具を捨て素知らぬ顔で帰れ」と兵達にも命じた。
  常陸国府に入った将門は、兵達に国司・藤原惟幾への無礼を禁じ、為憲の身柄を返したが、勘違いした惟幾が高飛車に将門の非を言い出したため、将門は「もっと早く常陸の民を救うべきだった」と怒髪天を抜いて、惟幾はあっけなく降伏。天を裂いて季節外れの雷光が轟いた。
  石井の館で鹿島玄道が死去。豪雨の中を源護詮子小督は逃げた。興世王に「一国を盗るも全土を盗るも同罪」と迫られ、将門は「碓井と足柄の峠を固める」と坂東独立を決意した。
 


48話「坂東独立」

  将門が常陸の民に、今後は納税の義務は無いと説明すると、民達は「夢のよう」と面食らい、始終兵事に携わるわけにもいかないから、むしろ国境に要害の無い坂東八ヶ国の平定を希望し、興世王が坂東諸国に檄文を発した。将門が行軍すると、道々に兵力は1万5千に膨らんだ。
  諸勢力が将門に靡く中、返答を避ける田原藤太のみ北下野の鎮圧に出掛け、下野国府は慌てて降伏の使者を遣わしたが、かつて将門が下野国府で受けた扱いを聞いた興世王は、使者の直答を許さず、国司の大中臣全行が自ら出向かぬと叱咤したため、大中臣全行が土下座して詫び、国府の印鎰(印鑑と倉の鍵)を差し出した。将門は興世王のやり方に疑問を持った。
  同様に上野国に行軍し印鎰を受け取ると、将門は大軍で諸国を廻る物々しさを憚り、他の国々には、将門の配下の者を行かせる事に決定。興世王は各人の泊づけに官位を授けようと提案したが、権威を嫌う将門に却下された。その時、将門に好意を持つ上野の総社の巫女が、接待の宴で「八幡大菩薩」に乗り移られたとして、将門に「自分の子として帝になれ」と叫んだ。



49話「大進発」

  将門を援護するべく純友も挙兵に動き、「謀反が成功した後を任せたい」と紀淑人を誘ったが、淑人は中央の腐敗を認めつつ「乱に向かない自分は、公とともに滅びたい」と断った。
  民の間には「新皇即位」の噂が期待とともに広がり、興世王も凱旋の儀式と称して、豊田の民達にも土下座させたが、将門は巫女の神託を真に受けず、今まで通り気さくに民と交わった。
  京では将門が京に攻め上って来ると脅え、夥しい祈祷が行なわれ、藤原忠平は大納言らを招集したが、純友と示し合わせた武蔵の一党が、大納言の牛車を襲撃して邪魔した。
  日振島を出た純友は将門同様、帝になる気は無く、藤原恒利を不安にさせた。が、今は備前に介として任じられた藤原子高の残酷な処刑法が立ちはだかっている。美濃が傀儡女を集めて子高の館に潜入、暗殺を謀ったが失敗。美濃は惨たらしく殺され、鼻や耳を切り削がれた。



50話「藤太と将門」

  女にモテる貞盛は山野を逃げつつ宿泊の苦労はなかったが、妻の小督は貞盛を探しては将門討伐を迫る。田原藤太将門が新皇になったという噂を「上手い手だ」と、頼って来た貞盛の首を将門に渡そうとしたが、早速貞盛に靡いた女の密告で暗殺は失敗。
  ようやく豊田を尋ねた藤太を、興世王文室好立らと謀って、挨拶の遅滞を叱りつけたが、将門は逆に興世王らを叱り、藤太との再開を喜んだ。が、藤太は将門が新皇になる気がない事に落胆。子供の頃に藤太に太刀を献上したのは自分だと話す将門に、あの時、役人から助けてやった女は役人の妾になって幸せに暮らし、民は誰も連行された自分を助けなかったと話した。
  将門の新皇即位と除目を行なった噂に京が驚く頃、美濃の死に激怒した純友は、藤原子高の館に仲間を潜入させ、子高を捕えて「同じ目にあわせてやる」と殺害。行動を共にして来た藤原恒利が、娘の千載を正妻に迎えるよう頼んだ。しかし武蔵を愛する純友は断った。



51話「激闘」

  藤原恒利純友藤原忠平を両天秤にかけ、双方に情報リークしたあげく、娘・千載の恋敵である武蔵を、季重ともども騙し討ちにした。武蔵は純友と玄明に見守られて息絶えた。
  藤原忠平は将門の追討使に藤原忠文を決定。貞盛は、将門に国府を追われ、不始末を問われて常陸に戻った叔父・藤原惟幾と従兄弟・為憲を連れ、田原藤太を訪れた。貞盛も藤太も将門への友情は変わらなかったが、追討軍が来れば坂東の争乱は長引くと、痛恨の決意をした。
  民達は帰りたがらなかったが、将門が農事を優先して彼らを帰した後、純友が次々と不動倉を襲い、京に迫る知らせと、藤太挙兵の知らせが入る。将門達は寡兵で出陣し下野に達したが軍団に会わない。将門は藤太の伏兵が鍛錬されている事を見抜いたが、後詰で伏兵の影を見つけた多治経明文室好立は罠に落ち、藤太の精兵に分断され壊滅的な打撃を受けた。
  ただでさえ4倍の大軍を相手にする将門だったが、これまでの敵にない強さを持つ藤太に闘志を燃やし、藤太の待ち構える要所を寡兵で堂々と行軍。今度は藤太が将門に圧倒された。



52話「久遠の虹」

  秀郷(藤太)が恐れる民達を、貞盛将門を孤立させるべく分断。三宅清忠文室好立が戦死しながらも、将門は400の手勢で、4千の秀郷・貞盛・為憲の連合軍に圧勝。
  敗退した連合軍では兵が脱走し、300に激減。包囲の解けた栗麻たち民衆は将門軍と合流すべく戦場に急ぐ。これを予想した秀郷は、撤退を主張する為憲に、「戦わねば全滅」と再度100人の将門軍と対峙。風をまとう将門に連合軍は薙ぎ倒されたが、風の方向が変わった一瞬、一斉射撃の矢が将門のこめかみを貫き、将門を失った三郎将頼多治恒明は戦死。
  石井館は炎上。爺夫婦は自害。興世王も秀郷の前で舌を噛み切る。負傷して重傷兵の指揮を任され、戦場を離れていた伊和員経は、良子豊田丸四郎の恋人かやの故郷、陸奥に脱出させた。桔梗は良子親子を逃がそうとして殺され、その地は桔梗の咲かない里となった。
  東西呼応しての反逆構想は破綻した。将門の死を知った純友は都の攻撃を中止。純友に掴みかかるくらげ丸大浦秀成が止め、純友は翌年また蜂起したが、その行方はわからない。
  上総の公雅の元に良子が来たと報せに行く途中、源護詮子が落雷で死去。到着した追討使(藤原忠文と)源経基に秀郷と貞盛は、「将門は坂東の火雷天神」と良子親子の追捕を拒絶。



<コメント>

いよいよ「天慶の乱」に入り、ドラマはクライマックスを極め、そして閉じて行きます。

まず最初に(^^ゞ、「天慶の乱」は939〜941年。この内「平将門の乱」は、940年に将門の死をもって終わります。残りは「藤原純友の乱」です。

また「平将門の乱」と言うなら、「天慶の乱」の前の、前回までお送りして来た「承平の乱」が含まれますので、935〜940年を指す事になります。ちょっとややこしいですね(^^ゞ。

<承平の乱>
・野本の合戦
・川曲の合戦
・下野国府の合戦
・子飼い川の渡しの合戦
・堀越の渡しの合戦
・服織営所の合戦
・石井営所の合戦
・信州千曲川の合戦
天慶の乱
・常陸国府との合戦
・下野国府・上野国府の攻略
・下野国境の合戦
・北山の合戦


↑実は「下野国境の合戦」と「北山の合戦」の間には、「川口村の迎撃」というのが入ります(^^ゞ。
下野国境で将門軍の後詰隊が敗れ、本拠(石井あたりかと)に戻るまでに、追って来る秀郷・貞盛の連合軍に対し、将門自らが盾を立てて防戦するのです。

ドラマだと51話「激闘」の最後あたりの描写が、そこに当たるのではないかと思います。
ドラマでは、敗れたとは言え将門軍は威風堂々としていて、秀郷や貞盛も迂闊に手を出せない、という描写に留めています。

実はこの時、全体としては秀郷・貞盛軍の勝利として終わるんですが、初戦の勝利に追い討ちをかけて来た貞盛が、イザ将門が防戦に出て来ると、「将門軍は雷のように強いが、自分らは便所の虫けらみたいに弱い」と言うんですね(^_^;)。そういう雰囲気を端的に描いているのかもしれません(笑)。

ドラマの将門は無事に石井館に戻って来てますが、将門は敵を迎え撃ちにしようと、この時も山野に潜むのです(笑)。
その間に貞盛がせっせと「将門の館」を焼いてしまいます。ドラマでは石井館が焼かれるのは、将門の死後となっていました。

また前半部に20話、設定の基軸となる登場人物を配して来た「風と雲と虹と」ですが、後一つ入れる設定をどうしても探すとするなら、前回あたりからチラチラと出て来た、常陸国府の藤原惟幾・為憲の父子でしょうか(^^ゞ。

この藤原為憲は工藤氏の祖と言われてます。
つまり鎌倉期の仇討ちで有名な、あの曽我兄弟と、曽我兄弟の仇である工藤氏の両方にとっての祖になるわけですね(^^)。

ドラマでは為憲を、貞盛の母方の従兄弟としてましたが、どうも為憲の母(すなわち惟幾の妻)は、将門や貞盛の父と姉妹とも言われるようで、つまり為憲は、将門とも貞盛とも従兄弟の関係にあるようです(^^ゞ。

すると、最初の土地問題で叔父連とゴチャゴチャやってる頃に、「私にも相続の権利があるのよっヽ(`Д´)ノ」とか騒ぐオバサン(為憲の母)が、さらにもう一人出て来る、という事になりそうですね(笑)。
このドラマの味だと、そのオバサンは既に死んでるか何かで、夫たる藤原惟幾か子の為憲が「妻(母)の土地の権利」を言い出す、とかいう事になりますかね(^^ゞ。

ただ、この最終段階になってドラマに出て来る、藤原惟幾・為憲の父子ってのも、スゴイいい味出してますがねっ(≧▽≦)。。
この人々は親族同志の揉め事より、むしろ朝廷の威を借る「悪役」として登場し、父の惟幾に(勘違いしてるなりに)多少の分別があるのに対し、17歳の為憲の無分別な「猪武者&机上の空論」ぶりが、もぉホントに素晴らしいのです!(笑)

前回あたりから、藤原忠平が西海の海賊討伐のために、坂東の兵を集めるよう考え始める場面が出てました。
房総や常陸から蝦夷へ西国へ送り込まれるべく徴兵があったのは、長く常道でしたし、事実、将門の討伐後、貞盛・秀郷らは純友討伐に行かされてますので、その動員兵力を坂東に頼るという設定には矛盾はないわけですね。

ドラマでは、当初この線に沿って藤原忠平が、武蔵国には興世王、下総では将門を守に任じようとしたのですが、途中までは武蔵国で横暴を奮っていた興世王は気が変わってしまい(笑)、将門はムロンやる気はなく(^_^;)、将門討伐の命を受けて常陸に突っ返された貞盛も「そんなの無理ね〜」って具合なので、惟幾・為憲が強硬するのですね。

そして、こうした敵の面々が戦を経験するごとに成長して行く姿が、そこはかとなく描かれている点も、このドラマの秀逸な点ではないかと思います。
興世王の壮絶な最期と、そこに立ち会う若い為憲の表情に、将門の乱が人々に何をもたらしたのかが端的に現われている感じがします。

特に貞盛が、「戦というものは一度始まったら、想定通りには運ばぬものだ」と強く懸念する場面は注目です。

あのチャランポランで逃げ放題だった貞盛が、自ら先頭に立ち、誰よりも好きだった将門と必死に戦うようなった過程として、戦の悲惨さに心を痛める様子が、実によく描かれて来たと思います。(吉永小百合が有名女優だから出演が多かったワケではないと思います:笑)

またドラマが、「将門記」から受ける印象を脱し、将門の陣営にいた藤原(鹿島)玄明や興世王を、「人のいい将門をたぶらかした妖人」という描き方に終始していない事は、前回も書いた通りです。

さらに今回は、「彼らさえ居なければ将門は永らえたかも」という見方に留めず、必要な人材として描いた事に注目します。

特に興世王が坂東諸国に発した檄文ですが、これは海音寺サンの原作にあります(^^ゞ。「将門記」にはありません(笑)。しかし「将門記」に出て来ても少しも違和感が無いぐらい、飛びぬけてよく出来た文体だと思います(何か下地があるんでしょうか(^^ゞ)。

また常陸国衙が「自分達が悪かった」と認めてる点が、「将門記」の中の「将門書状」に出て来ます。ドラマではこの点を扱ってますが、原作では取り上げませんでした。
「将門記」が全体のトーンとして「将門の無謀」で括っているために、原作は印象としてそっちに若干引きずられたかな……という感じは否めません(^_^;)。。

将門の悪人要素はドラマにおいても、やはり半分ぐらい興世王が受け持った感じはしますが、その点を上手く引き出したのが、前もって下野国府の大中臣全行を、京から赴任して来たとは言え、根の素直な坂東人の一人のように描いて来た点だと思います。

身内との揉め事からスタートした将門は、実際には怪しい人物であれ、他人を味方にしていかなければならなかった面があると思いますが、それを「落ち目」や「あぶれ者集団」の末路と捉えてない所は、とても良いと思いました。

将門にとっては、大中臣全行も興世王も馴染みの相手で(^^ゞ、将門だけを頼りに坂東に来た興世王は、そうした将門から坂東を吸収しようと、一生懸命に頑張っている最中なんですね(笑)。
将門が死んでから「原因はどこにあったのか」を書こうとする「将門記」より、将門が生きていたらどうだったのかを追求しようとした点が、ドラマの秀逸な点だと思います。

一番興味深いのは、逆に興世王の言う通り新皇になっていたら、藤原秀郷が味方になっていたかもしれない、という描き方で、かなりリアルに迫る面を感じました。
今回はこの点について書いて行きたいと思います。

有名な「将門の祟り」が、主に秀郷の係累に向いたという話がありますが、ドラマでは、秀郷と貞盛が将門を討つ決意に、坂東の安定を願う心を描く事によって、彼らを将門の祟りを受ける対象から外してると思います。

純友にも応ぜず、藤原忠平とも決裂した将門の結論は、坂東のために生きる事にあったわけで、その将門が、坂東のために立った彼らを恨むはずがないからです。

しかし乱の直後、落雷で死亡する者の話は出てました(^^ゞ。これは取り上げたのに、秀郷については外した理由は何だったのでしょうか。
秀郷が伝説の英雄だから、あるいは秀郷の子孫が全国に多いので気を使ったのでしょうか。
上記の感動路線でドラマを締め括りたいから、敢えて外したという事なんでしょうか(^_^;)。。

そもそも秀郷が将門に祟られる原因って何でしょう(^^ゞ。

@将門を裏切ったから(推測)
A将門を討った事によって異例の出世を遂げたから(確定)
B将門の遺族に辛く当たったから(推測)

↑だいたいこの辺りでしょうか(^_^;)。まず@について。

時代的にはかなり後かなって気がするんですが(^^ゞ、秀郷が参戦する前のエピソードというのがあり、それは将門と対面するという物です。
秀郷がやって来た事を喜んだ将門が、衣髪の乱れも気にせず出迎え、会食の場でもご飯をこぼしながら食べたので、秀郷が「器じゃない」と呆れるという逸話ですね(笑)。

原作もドラマも、二人の対面シーンでは、この逸話が下地になってるのでしょう。
ただ、「人の上に立つべき人格がかくあるべき」といった論調は、将門の時代より後のような気もします(^_^;)。

それでもこの逸話は、秀郷の片鱗を伝えてはいるのかもしれません(^^ゞ。
彼を「ちょっともったいぶった人物」とする点はドラマも原作も共通しますが、ドラマに独特なのは、秀郷が人に多くを語らない人物としている事でしょうか。
その内面(過去)を語った相手が唯一将門だけ、という筋立てなのですね。

「将門記」には対面シーン自体が無いです。
なので、藤原秀郷の登場は他の登場人物に比べて非常に唐突でして(^_^;)、この辺りには何か削除があったのでは、という指摘もあるぐらいです。
また「将門記」においても、秀郷の挑戦は将門にとって「思いもかけない事」だったのは確かです。

想像するに、原作ではここにポイントを置いて、「実は秀郷は一度、将門に対して臣従していた」と描いたのかもしれませんし、これも一つの推測としては悪くないと思います(^^ゞ。

この推測を元に、つまり「主従」として見れば、秀郷は裏切り者にはなります(^_^;)。
確かに将門の時代にも、名簿を捧げて主従関係を築く事はあったでしょうから、そうなれば秀郷の「謀叛」に「非常に驚く」という文脈にも繋がりそうです。

が、どっちがどっちの家人だったからとか、だからお前の方が謀叛だとかでゴチャゴチャ言い合う様相(笑)というのは、やはり将門の時代より後かな〜という感じもします(^_^;)。。

それよりも、27〜33話において、「原作では、『8国司の任官』の遣り方が、将門の周囲に有能なブレーンが居なかった証拠と指摘されている」と書きましたが、海音寺サンのこの「指摘」は、藤原秀郷が「自分が将門のブレーンになれば(^。^)」と思う事によって、話が繋がっているんですね(^^ゞ。
だから小説の中では、半ば「藤原秀郷の考え」として受け取る必要があると思います(^_^;)。。

原作では、興世王の存在が秀郷を遠ざけたように受け取れるのですが、そこをドラマでは、むしろ興世王の掲げた新皇即位に沿っていれば、秀郷は将門に従った可能性もあるように描いてます。これについては後述しましょう。

次にAです。これは「確定要素」でいいでしょう(^_^;)。

死後の将門は怨霊として知られていますが、どうも私には特異な怨霊と思えます。
と言うのは、怨霊って、冤罪や不当な処遇に落とされた人じゃないかな、というイメージがあるのですが、将門にはそういう所が無いからです(^_^;)。

ただ当時の考え方を借りれば、怨霊とか祟り神を作り出すのは、当人よりも、むしろ怨霊を恐れる人……平たく言えば、生き残った人々の「後ろめたさ」という事にもなりそうです。

現に「将門記」は、地獄に堕ちた将門は永劫に続く苦しみに責められ、将門の縁者までがその類を受けて苦しみ続ける様子が伺えます。

その一方で、将門を討った人は異例の出世を遂げ、その子孫、すなわち貞盛流平氏・秀郷流藤原氏・経基流源氏だけが、その後の栄達と、関東以北における何らかの支配権を確立します。

同時に、将門という土地を共同草刈場に成り上がっていった人達は、将門一人を謀反人や朝敵に仕立て、ウマイ汁を吸ったわけですから、将門に対して後ろめたい、祟られるかもしれない、と考えたって事ですか(^^ゞ。

確かに、将門の乱に匹敵する大乱は無かったと見えるぐらい、将門の乱による功績のみが物をいう世の中になっていきます。
そして後の奥州藤原氏・伊勢平氏・鎌倉幕府を創設した頼朝流源氏は、将門を討った功績によってのみ、他とは違う「兵の家(世襲的に軍事を司る家)」として特別視される存在になっていきました。

ところが、これらに含まれない人や、含まれ方が微妙な立場の人は、「自分も将門の乱で功績があったのに何の沙汰もして貰えなかった」と主張している事が多く、さらには、功績を認められなかった事を恨んで「怨霊になった」と伝わる例すらあるのです(^_^;)。。

そこに「後ろめたさ」は全く感じません(^_^;)。むしろ「功績だ」と主張してるわけです。
もし藤原秀郷(田原藤太)が功績を認められなかったら、彼や彼の一族も同じように主張してたと思うのです。

最後にBです。将門の一族が悉く残党狩りにあったという話は、「将門記」からして、そのような空気を伝えていると感じますが、将門の菩提を弔う事すら許されなかった、という話については、貞盛や秀郷との明確な関係を私としては知りません(そういう伝承もあるのかもしれませんが(^_^;))。。

確かに後の文芸物などでは、秀郷の子孫に将門の子孫が仕返しをする、といった筋立てなどがあるのですが、どうも実際に確認できる限り、室町以降……遡った所で、せいぜい鎌倉時代あたりがお初ではないか、という気がするんですね(^_^;)。

もう一つ述べておくと、秀郷や貞盛が、将門の残党を狩る必要はあまり無いです(^_^;)。
彼ら、つまり「将門本人を討った者」に限って、将門の死の前から「五位以上の任官」が約束されてるからです。

まぁ「将門記」を見れば、当の将門本人が、捕虜に対して実に細やかな心遣いで労わるのに反し、将門の厳命にも叛いて、兵士が虐待や暴走をしてる様子が描かれてます。

だから同じように秀郷・貞盛本人が止めても、配下の者達が将門の遺族や郎党らをいたぶった等が「無かった」とまでは言い切れません。

それでも「将門×貞盛」という図にあっては、互いの陣中に報復の思いが想像できなくもないですが、「将門記」においても、「妻や妾に罪は無いから、送り返してあげましょう」と提案する配下もいたわけですね(^^ゞ。

ましてや秀郷の陣中となれば、報復感情には無縁ではないかと(^_^;)。
下野とは2度戦歴がありますが、どちらも国境付近でしたし、初めの敵はあくまで良兼で、将門軍も寡兵でした。
2度目は秀郷軍と大軍をもって対峙したものの、将門軍は初戦で敗れ、むしろ追撃を受けて防戦に徹した程です。

だから報復ではなく、例えば郎党などへの褒美が必要という事なら判らなくないですが、それだとむしろ、後から到着した正式な追討軍の方が該当する気が(^_^;)。

彼らは遠くからやって来たのに殆ど無駄足になったわけですから(^_^;)、略奪とかの欲求は強かったかもしれませんし、将門の死後も将門の与党はまだ残ってますから、それらの討伐に関しては、将門本人ほど大きな任官ではありませんが、それなりの栄達が予想される文面が出てます。

と言っても、将門の与党・将頼(弟)と藤原玄茂は相模で、興世王は上総、坂上遂高と藤原玄明は常陸で殺されてまして、これらは秀郷・貞盛らによるものかもしれません。

が、それ以外の残党の探索がさらに追加して行なわれるのは、追討軍が到着して後なんですね(^^ゞ。

こういう所が全て勝者に都合の良い記述がされた、と断じれば疑わしくはあるのですが、輝かしい戦歴を手中にした彼らと言えども、中央の意図を捻じ曲げてまで捏造を図れるものではなかったと思います。
となると、秀郷・貞盛のいじれる範囲というのは、自ずと一定の領域(時間)に留まるハズだと考えます。

つまりBは成り立ちにくい、という事です(^_^;)。。

だからもしかしたら、Bの論拠は、秀郷や貞盛、そしてその子孫の領した土地で将門を祀る例が多い事から出ているのかもしれません。
これについては私に論じる材料が揃ってませんが、最後までに「ウッスラ抵触する程度」に書いてみたいと思います(笑)。

また確かに東国には東北を含めて、将門信仰が多くあるようなんですが、それが「将門やその縁者に申し訳ないと思ったから」とまで言えるのか、ちょっと判らないです(^_^;)。東北については、これよりちょっと書いてみましょう。

ドラマでは、将門の家族や子孫が陸奥に逃れた話になってます。
陸奥に将門の縁類が落ち延びたと言われる根拠は、全部でどれぐらいあるのでしょう(^_^;)。私の知る限り、

@将門の敗死から2ヵ月後、陸奥で謀叛が発覚した。
A将門三女の如蔵尼が、いわき(福島県)に逃れたという伝承
B出羽三山の羽黒山(山形県)に「将門建立」と伝わる五重塔がある。

この辺りなんですが……。

まず@には、「将種」と称する人物が陸奥におり、伴氏と結んで挙兵した(企んだ)という物でして、この名乗りが「将門記」で坂東八ヶ国司の任官におもむろに名を出す「将為」と同一と見るかどうか、ですかね(^^ゞ。

この「将種」については、将門の父・良将が鎮守府将軍だった頃、土地の女性に生ませた子ではないかとか、将門が平定された直後、陸奥に「将門が攻め込む」という風評まじりの伝達があった、とかいう話があるにはあります。

ドラマでは出て来ません(笑)。その代わりと言ってはアレですが(^^ゞ、弟・将平が、陸奥出身の恋人の実家に、良子母子を導く役割として生き残ってます。
この将平は、秩父あたりに葬られたという伝承があるようです。

次にAです。この如蔵尼は「今昔物語集」あたりが初でしたか(^^ゞ。
美貌に恵まれ求婚者が多かったが、病を得て死に、地獄に落ちて地蔵に救われたという話です。

が、ドラマでは、将門には女子が居ませんので、彼女はサラッとカットされてます(笑)。

が、「豊田丸」という男子は出て来ます。
これが伝わる系譜の将門の息子「将国」なのであれば、この系譜がその後も長く続き、そして途絶えた所で、千葉氏から養子入りして後を継いだ「相馬」氏には繋がるわけですね(^^ゞ。

将平が秩父に、そして将国が「信田」を名乗る頃に常陸に、それぞれ戻って来られた、という見方をすれば、如蔵尼伝承も全く否定されてるとは言えないのかもしれません。

ただ如蔵尼伝承の内、福島県の磐梯やいわきにはこないだ行って来ましたが、磐梯の方は、もしかしたら城氏と関係あるのかな、と思いました。
城氏は貞盛の弟・繁盛の家系から出た一族で、後の源平の戦いの頃に出て来ます。いわゆる平家の落人伝説が、将門(も平氏なので)の伝承と混同してる例でしょうか。。

そしてB。
今もある五重塔じたいは、1300年代に再建されたという事より古くは全く判らないです(^_^;)。

ただ再建者と伝わるのは武藤氏(つまり大泉氏系)です。鎌倉期になってから入って来た一族だろうと思いますが、東北という点では、元は如蔵尼との関係もあるかもしれません。
が、何となく地理的に、私は「妙達」との関係かな、という気がしています。

これは「僧妙達蘇生注記」という物でして、出羽国の田河郡「竜花寺」の僧侶が、これも地獄に落ちて、蘇生してから死後の世界のことを物語る内容です。

この「妙達」が開祖と伝わるお寺が、羽黒山より西の日本海側にありまして、この辺りは、出羽三山の開祖「蜂子皇子」が到着した海岸とか、羽黒山に通じる地下壕の伝承などあって、出羽三山との密接な関係が古くからあったと見られるそうです。

この「僧妙達蘇生注記」が、将門に関する伝承としては、飛び切りスゴイ内容なんです(^_^;)。
「将門記」に描かれる、死後の将門が置かれる悲惨な状況とは、全く正反対になっておりまして(笑)、

「将門は先世に功徳を施したから、コッチの世界じゃ天王になってて、天台座主の尊意は将門を呪い殺したから、毎日百回も戦争(阿修羅道の事か)してるよ」

とか言うわけです(^_^;)。。見ようによっては、「将門が新皇になるのは天に約束された事で、新皇を呪い殺した奴の方が地獄に落ちるんだからね!」とかいう具合にも読めるわけです(笑)。

成立期が900年代との事ですから、「将門記」とどっちが先か悩ましい所ですが、いずれにせよ、双方互いに「言い合っている」関係が成り立つのですね(笑)。

妙達という僧侶が、出羽や陸奥全体の感情を代表してるとまで見るのは危険ですが、少なくても東北の一部には、すこぶる「将門贔屓」な一例があった、という傍証には入れていいかと思います(笑)。

秀郷流と言うと、そして東北と言うと、どうしてもその後の奥州藤原氏を連想するのですが、どうもこう見て来ると、「将門に対して申し訳ないから」という空気は、何となく薄く感じられます(^_^;)。。

もっとも、奥州藤原氏が入って来るまでの間に、既に将門贔屓が醸成されていたという見方も出来なくはないのですが……。

少し秀郷を離れてみます。
将門の祟りを恐れる話の中で、もっとも象徴的なのは「首」に関わる伝説だと言われます。
将門の遺体が首無しのまま彷徨ったとか、首が笑ったとか話した、首塚を動かすと祟るという物で、多くは後世の付会が多いようです(笑)。

が、それらに必ず「首」が出て来る根拠となると、その当初を遡れば、「晒し首」にされた最初の例が将門だったから、といった事じゃないかと思います。
これは当時の人にとって非常に鮮烈な印象をもたらしたでしょう。

なぜそこまでする事になったのかを考えるわけですが、将門が討たれたのは2月半ばなのに対し、首が到着したのが4月も終わり頃のようです。
昔の事ですから、今ほどスピーディさを求めるのは無理としても、ちょっと時間が経ってるとは思います(^^ゞ。

充分な慰霊を行なってから送ったとか、当時の常識に照らせば、日にちを選ぶ必要があったとか、届いたのは早かったのだが、晒すまでに少し時間があった、という見方も出来るでしょうか。

将門が攻め入る(という風評が立った)のは陸奥だから、京は安全かと言うと、将門は関東を瞬く間に平定した(私兵と化した)のだから、ちっとも安心じゃありませんね(^_^;)。。

4月には、将門の弟とも目される「将種」という人物が陸奥で謀叛を起こし、その前年(939年)には、出羽で俘囚の乱が起こっています。
これらが事実として将門と関連してなくても、京に与える動揺を考えれば無関係ではないかもしれません。

或は「実はまだ将門(やその縁類)は生きていて、奥州の(平定後に)蝦夷を率いて京に攻め上って来る」という不安が残っていれば、首領者=将門の首を出して「この通り、もう死んでいる」と示す必要があったのかもしれません。

さらに将門の特異さは、敗戦にまみれて館を焼き払われようと、山野に何十日も潜伏して、いきなり復活するという所にあったのでしょう(^_^;)。これは時間が経つほどに恐怖心が蘇る(叛乱を企てる者には勇気を起す)のには充分な経歴だったかもしれません。

実際、将門は2月に死んで、純友はその時期だけ鳴り止んだものの、純友の乱はその後も続いたわけです(^_^;)。

将門のいた豊田や石井あたりに行くと、「墓が暴かれる事を恐れて」という伝承によく出会います。
さすがに将門の本拠地に伝わる物だけに、何かここには生々しい物を感じなくもありません。

もしかしたら、一度は墓を作って遺体を収めたのに、後になって「証拠を見せろ」と言われ、本当に暴き出して持って行ったのかもしれませんね(^_^;)。。

となれば、首は大勢に見せるまでが目的であって、後は遺族にでも返してねんごろに弔ってやればいいわけですね(^_^;)。その後もしつこく祟る必要はないわけです。
出典関係は明らかじゃないですが、京でも将門の供養は行われたそうですし(笑)。

となると、付きまとう「祟り」の行き先はどうなっちゃうんでしょうか(^_^;)。

そこで、菅原道真や崇徳天皇といった人達と同じく「将門冤罪説」が出て来るのでしょうか。
確かに、妙達の言いようなんか見ると、個人的な相手より、むしろ中央を相手に言ってるような気配すら感じなくはありません(^_^;)。。

しかし私は将門が冤罪だったとは思いません。叛逆の事実は確かにあったのですから。
生前いかに苦しい事情があったにせよ、最終的にはやりたいようにやり、討たれて当然の理由をもって討たれたと思います。

また賊とされ、寄ってたかって討たれた者が皆、怨霊になり、後に土地の守護神になったかと言うと、ちょっとこれにも疑問が残ります(^_^;)。

いや、将門の武勇は格別のものがあったから、武神として讃えられたのだと言う人もいるかもしれません。
しかしそれなら、連続殺人や大量殺傷事件を起こした犯人も神でしょうか(^_^;)。。

現在に至る、いわゆる「将門信仰の隆盛」とすら言える形を整えるまで、どういう変化があったのか、ここが難しい所です。

新皇即位とか、怨霊とかにこだわる発想、どうもこの辺り、私には「地域的な意識の違い」があると思えます。だからドラマが端的に「都と坂東の意識の違い」で片付けたのは、なかなか優秀だと思います(笑)。

ならば、地元・関東における伝承に絞ればいいんでしょうが、これまた難しい所がありまして(^_^;)、ただ敢えて謀反人の霊から神となるまでの具体的な時期を上げてみますと、

@鎌倉幕府執権5代・北条時頼が赦免を得て慰霊を許可した、建長5年(1253)。
A鎌倉末、時宗遊行二代・真教が将門を供養した1303年。以後、芝崎道場(現・神田明神)。

この辺りでしょうか。勿論これらについても「後付け」の可能性は考える必要があるのですが、「なぜそのように後付けされたか」を考えても、納得が行く材料に思えてます。

@については、「初めて公的にも菩提を弔う事を許された」と言われる逸話でして、北条時頼(時宗の父)が「赦免」を受けて、遺族に慰霊許可を与えた(命じた)、と言われるものです。

鎌倉幕府は荒くれだった鎌倉武士に対し、土地(民)に対する慰撫政策を奨励し、時頼の時代にピークを迎えたと言われています。だから特に将門一人を拝む事を奨励したわけではないでしょうが、大っぴらに拝んで良くなった時期と見るには、だいたいこの辺りじゃないかという感じは受けます。

その前にも、身内の間でヒッソリと隠れてお祈りしていた事はあったのかもしれませんが、謀反人でなくても、普通は身内が内々に祀るものですよね(^^ゞ。

Aについては、既に将門が「祟る(かもしれない)」という伝えを見る初めての時期かな〜、という気がしてます。
僅かな期間における、この飛躍ぶりにちょっと驚きます(^_^;)。

これについては、先祖を祀る子孫が土地に絶えたために起こる祟りであって、後に都市伝説にまで発展した祟りとは違う、というような事が説明されてますが、太田道灌や徳川家康などは子孫でもない癖に、その後も懸命に将門の霊を祀るんですなぁ(^_^;)。。

話を秀郷に戻しますが、一度勝ち取った栄光ゆえに、将門を討った家の人々には数々の多難が襲い掛かったと思います。
私は原則的には、こうした人々と将門には大きな違いが無いのではないかと思います。

貞盛の家系からも、秀郷の家系からも、将門の地元・下総に後から出た良文流の家系からも、その後は反乱者が続出します(^_^;)。。あまり言われない事ですが、頼朝の鎌倉政権だって、よくよく見れば叛乱以外の何物でもありません(爆)。

つまりドラマで鹿島玄明の言う「賊が賊で無くなる時代」とは、遠く鎌倉幕府成立までお預けとなるのです(^_^;)。

ドラマにおける藤原秀郷(田原藤太)は、どこか将門に批判的な人物として描かれ、視聴者をハラハラさせて来ましたが、ここに来て「民の裏切り」に言及します。ここもドラマのオリジナルです。

それも若い藤太が勝手に夢想し、都合の良い望みを抱いた結果「裏切られた」と言うのですが、想像するに、この時代はまだ、これぐらい用心深くて当たり前という気もします。

天慶の乱について言えば、藤原秀郷(藤太)との合戦を控えて、将門が軍備を解いてしまう点がよく注目されると思います。

確かに結果的には藤原秀郷の突然の参戦によって、将門は敗死に至るのですが、この時点で用心すべきは、むしろ中央から進発される将門追討軍の存在だったハズです。
敵が中央から来る軍にせよ、秀郷にせよ、将門がここで軍備を解いてしまった事が敗因と見なされている事に変わりはありません。

原作では何気に兵を帰してしまうだけなんですが、ドラマではここで兵を返す事を特に強調してる作りを感じます。

「将門記」を見ても、将門は随分と敵の内情を「伝え聞く」場面が多く、細作を放つなどの情報収集力が強かった背景が伺えます。
ドラマでもそうした細作活動に、傀儡の一団や、情報収集の手段としても、鹿島玄明を忍者のような不思議の術の持ち主として起用していました。

だからこの段階を描くにあたって、「この時期に京から追討軍が発せられてる事を知らないハズはないのに、兵を返した理由は?」という所をよく描く必要があったのかもしれません。

一般的には、この疑問への回答として、この時期は農繁期を控えていたから、兵事より農事を優先せざるを得なかったのだろうと言われ、この辺りが、将門の時代における合戦の限界を示すと結論づけられている事をまず述べておきます。
ここは歴史学的に見れば、その後の流れとの重要な違いなのです(^_^;)。

だから兵を返す事情として「農繁期の出兵はタブー」を強調して来たのだと思いますし、「将門記」に言う「将門の了見の狭さ、浅はかさ」についても、「理想を貫きすぎて、現実を無視した」所を強調して描いてると思います。

食糧供給と軍隊維持の悩みは、その後もスッキリ解決してスンナリ行ったとも言いがたいのですが(^_^;)、それでも「一族・郎党を引き連れて」とされる動員数が徐々に増えて行ったり、各地の隅々に起こる現象となって、武士の時代に向かって行ったわけです。

将門以降も、忠義心は従う者から見て、また慈愛の精神は従わせる者にとって、ともに不合理な時代は続きました。
特に従う者にとっては、鎌倉幕府が成立するに至るまでにも、戦功の評価や、土地の問題に絡んで、水面下では相当な不平があったんだろうと想像できる点です。

貴族ばかりが自己都合のために計算づくで無益な現状維持を図っていたのではなく、同じように民人達の間にも「忠義なんて損」という意識が働いて当然だった、と見るべきでしょう。

そのように働かない者を、どうやって従わせる事に成功していったかを考えると、例えば八幡太郎義家は、後三年の戦いが中央に私闘と見なされ、私財を投げ打って兵に恩賞したという逸話がありますが、思えばこれも将門の乱の後でした。

つまり将門の乱が起きる前に居る秀郷にとっては、民のために犠牲になるなんて事は、非常に損な事に写って当然だったわけです。
だから秀郷には、無位無官の将門に従うためには、何かがどうしても必要だったという見方は出来るわけです。それが興世王の持ち出した「新皇」であれば、取り合えずは、多くの部下を従えて軍門に下る名目が立ったのかもしれません。

もっとも、新皇の位に就く事を「否」と言う将門だからこそ「神」になった、というのがドラマの解釈だと思います。つまり内容は何であれ、「心に残る偉大さ」こそが神の条件だからです。

そして、それをなした土壌が次の課題です。

私はドラマのラストは長く知らなかったんですが(^^ゞ、どういうわけか、フツーに「将門の家族が陸奥に行った? じゃ秀郷が匿ったんじゃね?」とか思ってて(笑)、それは敗戦した家や領地に真っ先に入れるのは、やっぱフツーに「武力的勝利者の特権じゃろ」と思ってるからなんですね(^_^;)。ルート的に下野を通れればラクそうですし(笑)。

如蔵尼が達した「いわき」も同様です。その南は貞盛の領域です(^_^;)。
その後、将門の子や孫が「信太」に居たという伝えも信じてみるなら、貞盛らの基盤・常陸に同じ地名があるわけですね(^_^;)。

これらを全て「将門の祟りを恐れて必死になって嘘話を作った」と見るなら、「将門の遺族は徹底して排撃された」というのも、造り話の可能性はあるわけですね(^_^;)。

と言うのも、もし秀郷が遺族を匿ったか、ドラマにあるように見逃したとしたら、それが許される事だったのか、という点も考えなきゃならんからです(^_^;)。

単なる謀反人に過ぎないんですから、普通なら「悪いのは将門であって妻子にまで類はない」と考えられると思いますし、「将門記」にも、将門に味方した者もそうでない者も、ゴチャ混ぜに混ざって生活してた様子が伝わっています。

が、その一方、将門が称した(事になってる)「新皇」はどうなっちゃうでしょう(^_^;)。
武士なんてものが片鱗すらまだ無く、貴族は愚か皇族ですら血筋による世襲化なんて無い時代だった点は、これまでも述べて来た通りですが、少なくても天皇位のみは世襲でしたよね(笑)。

すると男系なら「父の即位を根拠に皇太子を名乗って覇を唱えうる」と見られたのではないでしょうか。現に乱後ややあって、京では将門の子供が来るという風聞で大騒動になった事もあるそうです(笑)。

また将門の乱の当時から、将門と純友が結託してるという噂があったゲな話は前回書いた通りです。
手短に書くと、将門が天皇になり、純友は藤原氏として政権を担当、という計画ですね(笑)。

あくまで中央の指図に沿った行動を取る秀郷や貞盛に対して、既に謀叛を決した将門が孤立し、包囲されて行く中、ドラマでは遠くに温かく浮かび上がる純友が、最後に行くほど大きな存在となって、強く印象に残りました。

原作「海と風と虹と」を読むと、純友の最期は非常に悲惨です(^_^;)。読みようでは、将門の祟りを真っ先に被ったのは純友ではないか、という感じすらして来ます。。
この点、ドラマ解釈だったら、その後の純友をどう描いたのか……恐らく原作を、さらに大きく逸脱する結果になったのではないかと、興味の尽きない所です(笑)。

しかしドラマでは、西海の純友と坂東の将門を、ほぼ対等に露出させて展開しながらも、これについても否定したまま閉じています。これも個人的には納得してしまう所です(^^ゞ。ただし「将門記」に無い事だから、という単純な理由ではないのです。

確かに「将門記」における将門の発言は、一見すると「なるほど、中国でも皇帝とか王朝とか何回も変わってるんだから、日本でそれがあって可?」とか「将門ぐらいの時代だとアリ?」とも読めるんですが(笑)、彼のこの発言が本当にあったのか、無かったけど朝敵に仕立てるため後から付け足したのか、ワカランです(^_^;)。

しかしやるなら、新皇とかボヤケた事を言ってないで、「ナントカ朝」とハッキリやっちゃえばいい気もします(爆)。
いや、やる気だったのかもしれませんよね。京に攻め上って朱雀帝をゲットし、どっかに閉じ込めて禅譲を受けるみたいな感じでしょうか(笑)。

後の頼朝でさえ富士川合戦の後、西国に攻め上って清盛以降の平家を討とうとしたのです。「要は勢い」と見れば、将門も生きていたら都に攻め上ろうとしたのかもしれませんね(^^ゞ。

もっともドラマの将門が、そこをハッキリ否定しているのは、「将門は朝敵なんかじゃない」という主張のためではなく、もっと現実的な所を見た発想からじゃないかという気がします。

実際そこまでやって何か得る所があるかと言えば、その先が何となくボヤケて感じます(^_^;)。将門には、頼朝のように「親の仇を討つ」必要もないわけですし、京に攻め上って成功したとしても、将門が京にいるだけで、結局は第二の将門in坂東を作り出す道に他ならないです。

やはり将門の言う「碓井峠と足柄峠を中央から遮断」という構想、こっちがむしろ、その後の時代も避けて通れない現実問題となっていったのではないかな〜と(^^ゞ。
それでドラマにおけるこの発言シーンには、パパパー!と華々しい明るい音楽がついたのか、とすら思えて来ます。

頼朝の政権は、京に朝廷の都を残すという中途半端なものでした。これが将門の乱の呪縛によるものなのか、或いはやはり現実的ではないからかは判りません(^^ゞ。

しかしそうした時に、何度も出会ったのが「坂東八ヶ国」という仕切りだったのではないでしょうか。

武士政権が坂東で誕生した頼朝より後、「将門の発想は正しかったのでは」という見方が出たり、少し気が大きくなる風潮でもあったのでしょうか。独立国家として見れば、坂東の多くの平氏にとって、また彼らが吸収する流浪民にとっても、将門は「建国の祖」でして、普通なら神としての条件が整った事になり、当時の感覚としては「祀って拝まなければならない」のです。

その後、鎌倉やその周囲には、もしかして尊皇といった復古調の気配があって、一度は「坂東の神」になった将門が、再び「謀反人」と見られる傾向に陥ったとしたら、後に再び「坂東の神」に戻せるような状態で祀っておくのに、何か相応しい理由が必要だったのかもしれません。

そこで、一転して「祟り」が出て来る……何かこんな感じもしてきます。
怨霊は祟るし、祟る霊なら神になってもいいからですね(^_^;)。

将門の乱における処置や待遇が、その後の規範となったために、長く貴族の間に将門の名が刻まれた事は前にも書きましたが、それは坂東の武者の間でも同様だったのかもしれません。

将門のやった反逆にギリギリまで近付き、しかし将門を超えてはならない、こんな所で四苦八苦しながら、その後の武士は、将門がやった以上の自己犠牲を払って民を従え、土地を切り取ったり開墾を続けて整えていったのかもしれません。

そういう意味では将門は、今日に至るまで日本の最終的なガイドラインと言えるかもしれません。戦後アメリカに占領されながらも、このガイドラインは守られたわけです(笑)。

原作では将門+道真怨霊説が、落雷にやられた源護の死に様を目にした者たちから、坂東発信で広がって行きますが、ここをドラマで微妙〜に調節してる点が実は注目!です(笑)。

貞盛が「坂東では、将門が火雷天神として信仰されている」と言うに留めるわけです。
「最終回にアレもコレも詰め込むのは大変だから、テキトーに端折ったんだろう」とも思える一方、坂東に住みながら、京の機微に非常に聡い「貞盛ならでは」という感じもします。

これを聞いただけで、征討軍一同「ギョギョーッ( ̄□ ̄;)!」となるわけです(笑)。

雷なんて人間がバクテリアの頃からあったんですが、菅公(菅原道真)の雷てのは、自然の常識を乗り越えてピンポイント爆撃して来るから、すっごいヤだったんです(^^;)。。

実は「今昔物語集」にも貞盛の逸話が載ってまして、将門の乱後、鎮守府将軍への就任を前に、矢傷の治療に胎児の肝を求めるというスゴイ話でして(^_^;)、まだ母親の胎内にいる孫を所望したり、口封じのために医者を暗殺しようとする話だった覚えがあります。

これは、徹底して気の毒な被害者でしかない「将門記」の貞盛像とは全く違う側面と言えますが、このドラマの貞盛ならば、「その手の冗談で人を煙に巻きそう(^_^;)」とか思える所が、このドラマの持ち味と思います。

このように伝書によって、性格に矛盾を孕みまくる人物を、一本の太い輪郭で統一した人格に作り上げる手法、特に貞盛役の山口崇の演技は、卓抜してると思います。

と言うのも実は、征討大将軍に任じられた藤原忠文、京に戻った後、昇進に漏れて(^_^;)、それが自分の勲功を退けた奴の仕業だってんで、自分が怨霊になっちゃうんです。。

こういう所に、貞盛のこの時の「意地悪な策動」が影響してないとは言えない(笑)、そこまで匂わせるには、将門自身が怨霊である必要は無く、将門は全く別の「いつもの姿」でみんなの元に戻って来るのです!(つД`;)

これが全国的には、やがて怨霊とか祟り神になったのに、地元では「将門サマは生きておわす!」という主張に分かれていったと、こういう風にドラマは語っている(かもしれない(^_^;))んですね〜!!

山に、野に、大地に、空に……。
将門は実際に山野に潜伏して何度も復活してるから(^_^;)、それをじかに知ってる地元の人達と、晒された首を直接見た京の人々とは、当初から全く残り方が違って当然なのかもしれません。

こうした配慮を誰が出来るかと言えば、それは直接的な勝者であり、後の上位任官が既に約束されており、尚且つ現場を速攻で取り仕切る事が可能だった……つまり、秀郷であり貞盛と見るのです(^_^;)。

原作では「将門記」に沿って、興世王の専横ぶりを描く傍ら、後に弟・将平や伊和員経が新皇になった将門に諫言する場面を入れてますが、この諫言シーンもドラマでは却下してます。
ドラマの彼らは、一致団結して戦ったあげく、寄り集まって将門の妻子を助けているわけです。

もし秀郷や貞盛の関与があって、将門の妻子が命拾いしたのだとしたら、ドラマにあるような弟・将平や伊和員経の「真の姿」を史料(将門記)に求める事は絶対に出来ない、という事になるわけですね(^_^;)。
万が一見付かっても、「あ〜あれは将門に諫言をした連中だから、罪に問わない事にしました」とか言い繕うためでしょう(笑)。

以上、かなり無理やりドラマ擁護の側に立って、主張しまくって来ました(笑)。
このコーナーはこれにて終了しますが、今後「また書きたいな〜(^。^)」と思う事があったら、ここに追加するか、何か別の企画にするかまだ決めてないので、取り合えずは御礼申し上げます。

ご清聴、ありがとうございました(^∧^)。

尚、メニュー欄で、この下に続く「城主のたわごと」2008年8月〜10月の「将門ツアーレポ」は、出来るだけ「将門記」や、地元の伝承などに忠実に、将門の乱を書いたつもりです(^^ゞ。

ここに書いて来た、ドラマ「風と雲と虹と」に付帯する内容とはだいぶ違う味付ですが(^^ゞ、ここでは書き切れなかった補足面もありますので、併せて「これが将門の乱と、地元の風景か(゚.゚)」と感じ取って頂ければ幸いです(^^)。

以上、2009/01/18