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<金精峠〜日光へ>
120号線「日本ロマンチック街道」を金精峠まで前回来た。ここから日光までさらにひた走る。
前回は、スケジュール都合と渋滞に遭う危険性のため途中をすっ飛ばした、と書いたが、眺めが良かったので、それでも何枚か写真は撮った(^^)。ちょっと道中の風景をお届け♪
この湖、おそらく「菅沼」ではないかと思う。地図で見ると道路の左側には「丸沼」「菅沼」という大きな湖があり、丸沼を抜ける時はカメラは間に合わなかった覚えがあるんだが……。
見付けてからカメラの電源を入れるので……
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どうしても写す時には木々が入ってしまう(笑)
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時間的にも充分に間に合うと踏んだので、この菅沼付近でもう一度休息を取った。
わりと大きな土産屋があり、郷土の物産品が所狭しと並んでいたが、そうゆっくりも出来ないので、我々はコーヒーだけ飲んだ。
湖が綺麗だったので、亭主は「日光はやめて、ここで気晴らしして行こうか」とまで言ったのだが、夫婦は湖の入り口で「入場有料」と書かれてる看板を見た(笑)。
二人は慌てて引き返した(爆)。
また車に乗って出発。
そして、いよいよ戦場ヶ原にさしかかる辺りだっただろうか。→
ちなみに戦場ヶ原を抜けると、そこはもう日光である。 |
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道路の左側に「男体山」が見えて来る。↓
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その手前の湖を当時は「あれが中禅寺湖かな?」と思ってたのだが(有名なので:笑)、あとで地図で確認すると方角が違う(笑)。
仕方なく恥ずかしながら(^^ゞ、ネットで似た風景を探した。どうもこれは「湯の湖」という湖らしい(笑)。 |
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そろそろ日光が近付いて来る頃合で、私は地図を見るのに余念が無く写真は全く撮れなかったのだが、戦場ヶ原に入った時は亭主が「いい所だっ!」と歓声をあげた。
それまで山道にあって、それはそれでとても良い風景が続いたのだが、この戦場ヶ原に入って来ると、いっきに視界が拓けて、いかにも開放的な気分になるからである(^^)。
<日光・東照宮>
何年ぶりかなぁ?
姉が小学校の修学旅行で来た所だった覚えがある。私は小学校は兵庫にいて、修学旅行は伊勢神宮に行ったので、ここに来たのは家族旅行だった……それとも何かの学内旅行でも来たか、なんとも記憶が曖昧な場所である(笑)。
つまり箱根と違って、日光にはあまり来た覚えがない。多くて2回ぐらいじゃなかったかな、とか思う。
亭主は初めてである。
駐車場に行く前から、栃木ナンバーが周囲に増えてはいたが、駐車場には観光客だらけだろうと思ってたら、意外とそこでも栃木ナンバーだらけだった(笑)。
東照宮に入る前に昼飯を食った。
カステラの店だった覚えがある。湯葉料理と栗おこわが出た。量が上品で(笑)結構なお値段だったな(^_^A)。
さて、日光は「輪王寺」「東照宮」「二荒山神社」の三つがセットになっている。
中央に三社寺を繋ぐ杉木立の「表参道」があり、この表参道の右側に「輪王寺」が並び、表参道の正面奥に「東照宮」がある。
東照宮正面の「一ノ鳥居」
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後方を振り返ると「表参道」(左が輪王寺)
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この東照宮「一ノ鳥居」に入る手前左手「下新道」という参道を行くと、今度は「二荒山神社」の正面に到着する。
以上が三社の位置関係である。
では「東照宮」に入る。
「一ノ鳥居」を入って左に「五重塔」
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「一ノ鳥居」を進んで正面に「表門」
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この「表門」から先は拝観料を取られる。
一人1300円(^^;)。しかも見られるのは東照宮のみ(汗)。さらに「輪王寺」は1000円(笑)。東照宮の中には「宝物館」(500円)「美術館」(800円)がある。
「表門」を入ると、正面に「三神庫」(下神庫・中神庫・上神庫)。
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←「三神庫」の「上神庫」側面。
一部拡大。「想像の象」。↓
象を見た事のない狩野探幽が想像で下絵を書いたと言われる。 |
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「三神庫」から振り返った場所に「神厩舎」。
神馬を繋ぐ場所という事だが、そこになぜか猿の彫り物がしてある(笑)。彫り物は全八面あり、その内の一面が「見ざる言わざる聞かざる」で有名な「三猿」である。
八面を通して、人の生涯を描いた(風刺してる)とも言われるが、これは仏教的な説話として理解できるとして、神馬と猿はどういう関係があるのか……。
どうも申の方角に厩を建てた習慣かららしい。「猿が馬を守る」という言われから来てるとも言う。
さて、「表門」から入ると、行く手を「三神庫」に遮られる格好になる。
さらに奥に進むには、「三神庫」を手前左方面に横切り、「三神庫」の終わった所で右に曲がると、さらに奥に進める石段がある。石段をあがると「陽明門」という「本殿」の入り口に達するわけだが、この石段までの間に「水盤舎」「経蔵」「本地堂(薬師堂)」「鐘楼」「鼓楼」という建物、「飛越の獅子」「南蛮鉄燈籠」「廻燈籠」などがある。
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←「水盤舎」。何の事はない「お手水」なんだなぁ、これが(^^ゞ。
佐賀藩主、鍋島勝茂が奉納したんだと。幕府も搾り取ったもんだな(笑)。
かなり暗い部分があるので、そこだけ拡大&明度コントラストを変えてみた(笑)。↓ |
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他は写真がないので省略させて貰うが、「南蛮鉄燈籠」というのも、これまた伊達政宗がポルトガルから材料を輸入して作らせたという。
このツアーって真田ツアーじゃなかったの?
何でいきなり日光東照宮?
と思う人がいるかもしれない(笑)。前々回から述べている通り、2日に渡って所用場所が分かれたため、その移動ルート上にたまたまあった日光を通っているだけである。
が、全く真田に関係ないかというと、それはそうでもない。
日光普請には多くの大名の財力人力を借りたものだが、そこに真田家もかなりの負担を強いられた、と信州松代の長国寺(松代藩真田家菩提寺)で聞いた事があった。
それは確か、こんな話であったと記憶する。聞いた話であるから、その出典など詳しい話は不明であることを、予め断っておく。
江戸時代に入って上田から松代に転封となった真田信之の真田家は、前々回より説明の通り、江戸中期にいたるまで、沼田の真田家とあわせて、上州と信州に領地を持った。
しかし沼田平八郎の一件でもわかる通り、 沼田の領地を真田家は、いわば「乗っ取った」わけである。これに因縁をつける形であろうと想像するが、幕府は真田家に対し、沼田から「借用」した財宝を返還せよ、といった注文をつけたらしい。
しかし真田は返さなかった。そこで「では、返させてやろう」とばかりに、幕府は真田家に日光普請を命じた、という成り行きに話を聞いた。
元より「命令」であるのだから、そう大層なイチャモンをつけなくても、言われたらやらなきゃならないと思うんだが(笑)、これをまた真田信之は、日光東照宮の普請中に「左甚五郎」という職人と仲良くなり、自分の霊廟をこれに作らせたと言うんだなぁ(^_^;)。。
説明が遅れたが、日光東照宮とは「徳川家康を祀る神社」である。
家康が死んだ(1616年)直後は、静岡の久能山に遺体が葬られた。遺言によって翌年(1617)、早くも日光に墓所は移されたのだが、2代将軍秀忠の時代は、かなり質素な墓所であったという。
それが家康を崇拝していた家光が3代将軍になると、家康を神として祀るために、こんにちある東照宮の建造に財力を惜しまず造営する事となったわけだ。
つまり家康を神として祀るために、当代一流の名工匠が集められ、その技術の粋を尽くして作ったのが、この東照宮なのである。
それと同じような霊廟を自分の領地に自分のために作るというのは、かなり大胆不埒な事をやってる、と言ってもそう過言ではない(笑)。
そして……信之の霊廟というのは、これは松代長国寺で今でも見られるが、かなり東照宮に似てる……いや、「酷似してる」と言って構わないような気もするんだな(笑)。
そうした興亡(笑)のあげく、結局沼田を幕府に召し上げられる終焉を迎えた……といった話であったと記憶する。
なるほど、そう考えると長い戦いだったんだな〜と感心するような気分にもなる(笑)のだが、むろん真偽のほどはわからない(^^ゞ。
例えば、こうした名工匠を使って建てられた霊廟が他の大名家にもあるのか、そこが確かにちょっと気になる所ではあるよね(笑)。
他に無かったら……やっぱヤラレて当然なんだわ(爆)。
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「本地堂(薬師堂)」は「鳴龍」で有名。「鳴龍」とは堂内部の天井いっぱいに描かれた龍の絵で、現在のは復元だそうだ。
龍の絵の下で拍子木を打つと、キーンという鈴の音に似た音が返って来る。
←さて、やっと「陽明門」に到達。
ここから先が本殿となる。
どれもこれも華麗なのだが、この門は一際豪勢に思えた。 |
以下パノラマ(笑)。
また、この「陽明門」から隣に続く「塀」の彫りがそれぞれ見事で、こうした彫り物は各所に見られるのだが、その一端でもお届けできれば、と思う。
上部が孔雀(鳳凰?)と「松竹梅」の組み合わせ、下は水と水鳥の組み合わせで、門の左右を囲んでいる。 |
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陽明門をくぐると左右に「神輿舎」「神楽殿」を控えつつ、正面にもう一度、門がある。これが「唐門」。↓
これをくぐるとようやく「拝殿」「石の間」「本殿」という宮の心臓部に到達する。ここに入ると、言われや説話を軽く説明してくれるのだが、確か撮影禁止だったような気も……。。
そして出る時、何かお守りだったか……そういった物をすかさず売られた気がする。ボンヤリしてたので、実の所よく聞こえなかったのだが(^^ゞ、もしかしたら何かありがたい物だったのかもしれない(笑)。
これらの施設の右側に「祈祷殿」があり、さらに右に出ると「回廊」に突き当たる。これは本殿の周囲をぐるりと囲んで左右にあるのだが、この右部分の回廊に有名な「眠り猫」がある。
ジャジャーン!左甚五郎作「眠り猫」っ。
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こんな感じに収まっている。
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恐らくこの「眠り猫」が東照宮で一番有名な彫刻と言えるだろう。
「奥社にネズミを入れないため」にここで見張っているのだとか、色々な説があるそうだ。
ここでは一種の殺気だったムードがみなぎっていた(^_^;)。
皆、ここでいっせいにシャッターを切るのだが、ここは通り門に続くので、ノロノロしてると後ろの客の迷惑になるし、かと言って、かなり暗いし猫も小さいので、フラッシュをたいたりズームを拡大したりで、みんな大ワラワなのだ(笑)。
結局タイミングを逃して、この先に行っちゃってから、「あ〜ダメだったぁ」と叫んでる人がかなりいた(汗)。。
もちろん回廊の欄干には他の動物や……
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松竹梅など植物も色鮮やかに
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上の松竹梅は確か「祈祷殿」だったような気がするが、あるいは「神楽殿」だったか……。
↓ちょっと拡大。
こうした美術的な細工は宮内のいたる所アチコチに溢れまくって、全部を言及するのも見て廻るのも、ハッキリ言ってキリが無い(爆)。
そして書き遅れているが、日光で見かける観光客の3分の1は外国人である(^_^;)。
日本人と見間違える人種の方々まで入れたら、もしかして過半数を超えてるかもしれない(笑)。
そして日本人は……私も含めて、あまり真面目に見てなかった感じがする(汗)。
次はアメリカにでも建ててやれって(爆)。
さて、回廊の外に出る「坂下門」が「眠り猫」を通ってすぐである。この門をくぐれるのは、かつては将軍のみであったという。
坂下門を出ると本殿の敷地のさらに奥にある「奥社」に向かう。上の写真の通り時折石段を登るのだが、これが207段あってちょっとキツイ(^_^;)。また傾斜が登るにつれ急になっていくらしい。
途中をよく人が立ち止まってるので
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何だろうと思いきや……(笑)
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ここで思わず爆笑してしまったせいか、この先でひいた御籤が「凶」だった( ̄∇ ̄;)。。
ちなみに爆笑の理由と言えば……これが家康の言葉として有名だからであり、同時に彼の性格について色々取り沙汰される所以でもあるからである(笑)。
さて、いよいよ「奥社」に入る。まず「奥社拝殿」という建物が待ち構えている。この敷地の中にお守りや御籤を並べた一隅があり、確か拝殿の周囲を廻りながら、さらにその奥にある、もう一つの敷地の門に行き会うのだが、この拝殿周囲の敷地の玉砂利を歩いてると……
スイマセン(^_^;)、これって本当にこういう物なんでしょうか。。私の目には誰かのイタズラに見えたんですけど(笑)。何しろアチコチにある……これ何でしょうね。何しろそこにこうして周囲の玉砂利の石が置いてあって、全部「カメさん仕立て」になっていた♪ これも何らかの寓意ある芸術品なんでしょうか(笑)。
ちなみに検索で探した所、これと全く同じ写真を載せて「亀の石」と説明してるサイトが一件、「謎なのでこれが何なのか誰か教えて下さい」と言ってるサイトが一件、さらにこの足の部分が無い状態の写真を載せてるサイトが一件見付かったが、だいたい観光された方のサイトのみで、東照宮について説明してるようなサイトには写真も名前も載ってない(笑)。
だから私も聞きますね。……これって何ですか?(笑)
奥社の一番奥「鋳抜門」
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「宝塔」。家康の神柩が収められている
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この「鋳抜門」はご覧の通り閉まっていて中には入れない。だから上の「宝塔」は外側から見るだけ。
この家康の神柩は、ここに安置されてから一度も開かれた事は無いという。この宝塔を守るように「叶杉」という杉があり、願いを叶えてくれる杉、という意味であるらしい。
<日光・二荒山神社>
東照宮を見学しただけで、もうかなりの時間を押していた(^_^;)。
それでも二荒山神社はわりとマトモに見学できたが、急いで見たのであまり写真を撮らなかったのと、撮ってもやはり急いでたせいかかなりブレて(笑)、撮れたのだけでもご紹介。
まず由来。
日光二荒山神社というのは、この東照宮の隣にある。これは本社であり、あとの二社、「中宮祠」は中禅寺湖に、「奥宮」は男体山頂にある。
中禅寺湖や男体山については次の機会にまた訪れたので、後日のレポに廻すが、しかしその後日というのも、二荒山神社の「中宮祠」や「奥宮」に行けたわけでもない事を先に断っておく。
ただし二荒山神社の由来に関わる戦場ヶ原については、後日のレポでもちょっと出て来る。
まずご神体は、大己貴命・田心姫命(妃神)・味耜高彦根命(御子神)の両親一子を三神として、二荒山大神と称する。
「田心姫」はどうも宗像大社の祀る三女神の一神であるらしいのだが、3女神を一緒に祀ってる神社は別として、この「田心姫」だけ祀ってる所を試しに調べると、どこもかしこも元が日光二荒山神社に戻って来る感じがする(^_^;)。
敷地はそれなり広いが、東照宮に比べれば見所は多くない。
しかし東照宮が出来るまでは、実はこの二荒山神社こそが信仰の中心であった。
起源も古く、790年に勝道上人が二荒山(=男体山)に登り、この本社の前身となる本宮を建立。本宮神社・龍尾神社とともに日光三社権現であった。
ゆえに下野国一之宮として延喜式に定められ、国土経営・産業開発(農業・縁結び・醸造・学業・医薬・健康)の祖神として崇められていたが、明治の神仏分離令により、今はこの二社は別宮と定められている。
「二荒(ふたら)」は、勝道上人がこの地を訪れた時、観音浄土を意味する「補陀洛」から名付けたとも、クマザサが多い事から、クマザサを「フトラ」と呼んだアイヌ語が語源とも、春と秋に2回風が吹き荒れるから、とも言われる。
ちなみに「日光」の方は、820年に弘法大師が訪れ、「二荒」という名を良く思わなかったので、「ニコウ」と読み替えた事が始まりという。
鳥居をくぐると、すぐ右側に「縁結びの神木」という、杉と楢が一体化した巨木が立っている。
そこから石段をあがり、拝殿・本殿でお参りする。
この両殿の左側にまずあるのが「化け燈篭」である。→
この燈篭に夜灯りをともすと化け物の姿に見える(あるいは化ける)と言われ、また化け物と見た鎌倉時代の武士が、この社を守ってる最中、刀で七十数か所斬り付けたという。
この痕がこれは結構生々しく残っている(^_^;)。
化け燈篭の次が「大黒(国)殿」という建物で、何やら雅な掛け橋を渡っていく。↓ |
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この大黒殿の↑左横に「輪投げ場」があり、輪が見事に命中すると願いが適うと言われる。
大黒殿には大黒様の像や板絵が安置されていた。
またその奥の「二荒霊泉」は洞窟(背後が恒例山)から湧く薬師霊泉と滝尾神社の酒泉が流れ込む池で、眼病と若返りの効能をうたう。
この二荒霊泉の横に朋友神社という祠、縁結びの笹などが並び、日枝社もあった。
<輪王寺>
は残念ながら、マジでこの写真を撮っただけ(笑)。↓
二荒山神社から一度東照宮に戻り、表参道を輪王寺に出てから車に戻った。
この後は行け行けドンドン、車を走らせ次の所用場所までまっしぐら〜(笑)。
でも、ここでも渋滞を踏まえて早めに移動したせいか、行く先々、結構余裕はあった。
そこで車中、初めての日光がどうであったか、私は亭主に感想を求めてみた。
というのも、亭主は昔っから仏像とか日本の古い彫刻品などにちょっとした関心を持つ方で、私は自分が日光に行きたいと言うより、亭主を連れていったら何て言うか、の方が興味があった。
すると亭主はちょっと首を傾げたあげく、ポソッと言った。
「タージマハルってどんなトコかなぁ?」
「タ……タージマハル?!(・・;)」
……黙ること20〜30秒はあったか(笑)。
「だって日光って確か、世界遺産だったよねぇ?」
「う、うん(だからって、いきなりタージマハルかよっ!)」
「タージマハルも、あんなもんなのかなぁ?」
「あんなもんってのは……ど、ど、どんなもんよっ?」←意味不明
亭主が言うには、想像してたより東照宮は全体的に狭かったそうだ(笑)。
確かに今こうして写真を取り出し、しみじみ見てみるから、全てがそれなりスゴイ芸術品だと思えて来るが、それらは殆どがズームで大写しに撮った物ばかりで、当地で得た実感からは甚だ遠いと言わざるを得ない。
つまり多くの細工物はどれもこれも非常に小さいのだ。
それと、さらに亭主が言うには、
「まあ、あんな物をこんな山奥に突然作ってみたって事だよなぁ」
ふむふむ、なるほど。それも何となくわかる(笑)。
確かに、凄まじいほどの芸術品の大量陳列であるにも関わらず、あれらが日光にある意味ってのが、実の所よくわからない(爆)。
例えば鎌倉や信州などで見た庭園や禅寺の風景というのは、あくまでも周囲の自然と一体化して成り立っていた。
要するに亭主は、もっと周囲の山や自然などと相乗しあう建造物を想像していたのだろう。
というわけで、これで我々が日光に、そして世界遺産に見切りをつけてしまったかと言うと、実はそれがそうでもない(笑)。
「俺は日光を、そして世界遺産を、この目できちんと品定めしてみたい」
亭主はそう言った。私は即答した。
「タージマハルに行く金なんか無ぇって(汗)」
世界遺産はともかくとして(笑)、日光にはもう一度来て、周囲の自然を確認してみよう。
話はそう落ち着き、そして夜は更け、このツアーも取り合えず終わったのであったぁ。
<やや、つづく>←「やや」(^^;)?
2005年02月16日 |
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