<2009年・城主のたわごと4月>
2008年9月、「福島〜山形編」の第4弾(^^)。
3日目は羽黒山〜福島飯坂。4日目は阿津賀志山と霊山!
福島〜山形レポ第4弾(^^)。
今回も、まだ山形県からだが、前回から最北端・松山温泉から折り返し、南下している。
今回は、3日目の羽黒山の続きから、湯殿を経由して高速でさらに南下。福島県に入って、福島飯坂で一泊。
4日目は、福島県を西から東へ。まず阿津賀志山防塁、そして霊山を抜けて、今度は太平洋側の相馬に出て、次回に引き継ぐ。
<羽黒山・参道2「五重塔」>
さてさて3日め・羽黒山の続きから(^^ゞ。
前回はこの風景で終わった(振り返って撮影・
パノラマ2枚
)
←前回の最後に見た「須賀の滝」から……。
勇壮な杉木立の中、こんな石畳の一本道を歩いて行く(^^)。→
その途中、左側に見えるのが「
爺杉
」で、樹齢千年の天然記念物(昔は「
婆杉
」もあったが、台風で失われた)。↓
←「爺杉」。
そしてこの「爺杉」に向かって右、森の奥から杉の木々の合間に既に見えていたのが、↓この「
五重塔
」である。
爺杉から歩いてスグ。
やはり「五重塔」を目当てに来る人が多いと見えて、この爺杉の所から、森の奥を指差して、「あった、あった」と言う人が居た(^^ゞ。私らもつられて、「ホントだ、あった、あった」と同調(笑)。
これがこの羽黒山内で、もっとも古い建築物である。国宝。
特に東北では価値が高い。かつては附近に多くの寺院・宿坊がひしめいていたのに、それら全てを失った今、これほど物凄い山奥に、一つドン!と建つ姿は、返って驚愕・驚異に値する雰囲気を放っている。
国宝ゆえに残されていると思うと、砂漠にポチッと佇む白亜の宮殿や、密林を割って突然現われる巨大遺跡を思い出す。「文化遺産とはこういうものか」としみじみ思う。
「素木造、柿(こけら)葺、方三間、五層、高さ八丈(24m)」と案内版にあるが、同時にいう「四方の額は
小野道風
の書と伝えられる」というのが、前回の山頂「出羽三山歴史博物館」に保管されてるようで、額の字は、南に「応身」、東「法身」、西に「報身」、北に「化身」とある。
内部は見学できないが、 須彌壇があり、末社として大国主命を祀る。
それにしても、この現われ方、まるで急に恐竜に会った感じ(笑)。。
建物自体のせいか、周囲の杉木立のせいか、どことなく生き物めいて、急に羽ばたきそうな感じのする塔だった……。
問題の建築年代だが、1300年代……といった所か(^_^;)。
案内版には、「古記によれば承平年間(931〜937)、
平将門
の建立と伝えられる。長慶天皇の文中年間(1372〜1374)に再建。慶長13年(1608)、出羽守・
最上義光
の修造」とある。
最初の「平将門の建立」は、物によって書いてあったり無かったりするが、現地に書かれてる事に、取り合えず満足した(^^)v。
「出羽三山歴史博物館」で買った資料には、「古くは瀧水寺の五重塔と言われた」とのみ紹介されており、簡略化してるからかもしれないが、将門の生きた承平年間(931〜937)は無く、五重塔に関して最初に見えるのが、1313年の「
平貞時
」である。
同じ時代ごろの同じ名で「平氏」を名乗り得て、しかもこれだけ豪勢な建物を建立しうるとなると……鎌倉幕府の執権9代「
北条貞時
」だろうか(^^ゞ。
貞時のいた時代で、何かそれっぽい物を探す自信は全くないが(笑)、強いて言えば「
平禅門の乱
」というのがあるにはある。
今年の大河ドラマ「天地人」で上杉景勝を演じている北村一騎が、「北条時宗」の時に演じた、あの平頼綱が討たれる事件である。
或はこれが「
平将門の乱
」と混同したのか、四方の額にある「小野道風の書」という
小野道風
が、将門と同時代の人っぽいので、将門と関連づけられたのか、と思うものの、この「平貞時」からして「再建」とあるから、1300年代より前に、何か由緒が在ったという事か。
将門がらみとして考察してみた事もあるので、興味のある人は「作品の広場」→
「風と雲と虹と」8(47〜52)
を(^^ゞ。出羽の事も書いたが、前北条氏が、わりと将門崇拝に好意的とでもいうか……その辺の事にも触れてある(笑)。
その次の時代(1372年)の「再建者」として、「羽黒山の別当・
武藤政氏
」の名が上がっている。
これが、この案内版の文中年間(1372〜1374)と一致するのだとしたら、南北の合一がされるのが1392年であるから、モロ南北朝の動乱時代である。
武藤氏はやがて大宝寺氏となって、このあたりに勢力を伸ばす氏族で、最終的には北朝だろうが、この南北朝の頃は南北のどちらに着いていたのか、よく判らない(^_^;)。。
ただそこに、世俗の公武勢力とは一線を画す、修験道の羽黒勢力との関わりが感じ取れるのみである。
しかし博物館の資料には、この武藤氏の再建については「異説あり」と注意書きが入っている(^_^;)。
未だにもって、「
国宝・羽黒山五重塔の謎
」は継続中である(笑)。
でも北条貞時にせよ、武藤政氏にせよ、1300年代ごろの人ではあるから、この辺りはきっと建築様式からそう見るのだろうな〜とは思った(
最上義光カワイソー
:爆)。
さてさて、国宝・五重塔を後にすると、さらに先に修験道が続いている。
このエンエン続く修験道も、前回書いた天宥が宝鏡院の無妻の山伏(祓川を渡ると、妻帯山伏の住居はない)に命じて勧化させ、多くの寄進や浄財を集めて1648年に敷き詰められ、天宥の死後も続けられた。
最終的に2446段あり、途中に「一の坂」「ニの坂」「三の坂」と名のつく、急な坂があるという。我々は「日のある内に、タッチするだけでも湯殿を通りたいね」と言ってたので、残念ながら羽黒山道はここまで(^^ゞ。
この先、「三の坂」も終えた所に、今は「斎館」と言い、かつては「華蔵院」と呼んだ寺があるようだ。1697年の、これも「再建」とされている。
出羽三山に登るには、「先達」に頼んで、お参りした。
遠くから来る者は途中まで長旅をして来て、近くに来ると健脚の「先達」に連れられ、彼らの唱えるお経を聞きながら、羽黒を越えて湯殿まで行ったようだ。
この羽黒はまだこんな感じだが、月山や湯殿では落ちて死にそうな谷や崖、遭難しそうな雪中も次々と出て来るので、道を知り、まさに「先を行く人」の助けが必要だったのだろう。
そもそも女はこの羽黒までしか入れなかったんだが(笑)、私みたい軟弱者だと、「あ〜もう歩けない。風で飛ばされる〜。死ぬー。コワ〜イ。疲れたー」とか色々言いそうだから、「立ちなされ」とか、杖でピシッと背中を突付かれる事もあったかもしれないが(^_^;)。。
「華蔵院」は、こうした三先達寺院の一つとされていて、別当に次ぐ宿老が住した。
神仏分離の時、山内30坊が破壊された中、ここだけが存続し、今も残る貴重な山伏修行の足跡という事だった。
こうして三つの坂を超え、「華蔵院」を経て、ようやく前回、山頂の最後に出した「蜂子社」に出る道となっている。
<湯殿山(山形県)経由〜福島飯坂温泉(福島県)泊>
←羽黒の鳥居を出る。
こうして見ても何だかスゴイが(笑)、実際、参道を出ると、再びの濃霧に包まれて凄かった。
羽黒山の後、「出来れば日本海に出たい(^^)」とか、「せめて鶴岡まで行きたい(^^)」とか、夫婦ともに夢いっぱいだったが(笑)、「出来れば」「せめて」がだんだん現実的になって、「湯殿を通ろう」というのに落ち着いた(笑)。
地図A
←ご覧の通り、鶴岡に出て高速に乗った方が早そうな感じもするが、ナビだと、高速には途中から乗ればいいように表示するし、「出来るだけ月山にも近付きたい(≧▽≦)」と言いあって、山形道(高速)より出羽三山寄りを通り抜けた。
あの山並の奥に月山があるかしらっ!
(パノラマ2枚)
←途中に通る道もゆかしい雰囲気(#^.^#)。
そして山形道に乗る↑。「あれが湯殿山かなっ!」とか騒ぐ内に(笑)、湯殿インターで降りる。
地図B
←ちょっと南にズラす(^^ゞ。湯殿山は月山トンネルに入る前に、湯殿インターで降りて、道行く事になる。
地図C
←湯殿山の附近をちょっと拡大する。インターで降りてから、山道を通って、恐らく料金所のある辺りまで行ったと思うが、車両の通れる時間が5時だったかで、ちょーどたった今、終了したトコだった(^_^;)。。
亭主、物凄く残念がって、近くにたった一軒あった「湯殿山ホテル」に車を停めた。→
実は最初、ここに泊まろうかな〜と画策した事もあった。
と言うのも、ここは確かに一軒きりなのだが、温泉があるんだよね〜(#^.^#)。
ガッカリしてても仕方ないので、休息がてらトイレを貸して頂いたら、ロビーまでの通路に、湯殿山から引いた水が飲めるようになっていて、一口頂けた(^^)。
羽黒山でも山頂で、月山からひいた水がお手水にあって、ペットボトルに頂いた。
今回は月山・湯殿山には行けなかったが、月山は水を司る農業神と航海漁撈の神として、神饌池という大きな池で汲んだ水のみを宝前(神前)にお供えする事になっている。
湯殿山でも月山から流れる梵字川が重要で、再生に繋がる要素に関わるようだ。
又そのご神体の岩からは熱湯が流れ出ているという。
ここで頂いた案内書きにも、「
現世
の安らぎに願いを込める
羽黒山
、
死後
は極楽浄土へと祈る
月山
、来世への
蘇り
を託す
湯殿山
」とあった。
最近の話だと、湯殿山の上に竜の姿の雲が出て、何かの瑞兆と喜ばれた話を読んだ覚えがある。
たまたま悠仁親王のご誕生(ご懐妊)と重なったので、一部ではちょっと騒がれたようだが、新しい生命を生み出すという意味ではアタリだったのかもね(^^ゞ。
ただ「再生」と言っても、子宝や安産より、「穢れを拭う」事、土に根付いて、「祖霊となる事」を意味してるのだろう。
湯殿山では、川には人形(ひとがた)に我が身の穢れを書いて流す。
先祖の名を書いた紙を貼り付ける岩には、絶えず自然水が注いで、水で字が消えた時、死者の穢れが消えたと見なされる。つまり祖霊供養の場なのである。
そうして梵字川の落下に打たれる滝修行の後、最終的には即身成仏を目指すのだ。
即身成仏を「蘇り」に見立てていたんだな〜と、今の感覚だと驚くわけだが、湯殿山のご神体と、その湧き出る湯に見立てて、このホテルでは岩から湧き出る温泉に浸かるようになっていると言うから、これにも驚いた(笑)。
今では本宮に行くと、足湯も出来てるそうだ(^^ゞ。
さてさて、山形道に乗り直そう。→
さらば!山形! また来たい!(爆)
地図D
←高速なのでかなり縮小。「湯殿山」から南東に向かう。山寺の緯度・経度も越す。
地図E
←村田JCTで東北道に乗り換え、さらに南下。
地図F
←福島飯坂で降りる。3日目の宿は飯坂温泉(^^)。東北本線だと「伊達」駅が近い。
ってわけで、これより先は再び福島県入り(^O^)。
旅館の壁の武者絵
夕ご飯〜(^O^)。わ〜い、お腹ペコペコッ!
実は羽黒では昼抜きだった( ̄∇ ̄;)。。
あの荘厳な濃霧の中では、それにも違和感ナシに歩けたから驚く。
まさに修験者気分満載の一日が終わり、飯坂の温泉は疲れを癒してくれた(^_^A)。
<福島飯坂、鯖湖温泉>
さあ4日目だ! 飯坂温泉街の朝だ!
(パノラマ3枚・ほぼ180度)
おはよーおはよー朝ご飯だよー!(^O^)//<パンパン
前夜は腹ペコで、味も確かめず食った気がする(爆)。が、う〜んこれも久々、福島県の味って感じだ〜(^^)<満足・満足♪
さぁ、早速出発しよう。まずは近場の散策からっ♪
宿を出てすぐ、鯖湖神社に出会った(^^)。狭い路地をウロチョロしてる内に出たので、記憶がオボロだけど、地図で見ると、
地図G
(かなり拡大)←ここに「鯖湖湯」と出て来る。
温泉街の一隅に「
鯖湖神社
」
わ〜デカイ樽!(^O^)
鯖湖(さばこ)湯は、この飯坂温泉発祥の地だそうだ。ここに記された言い伝えに従って書いてみよう(^^)。
古代、鬱蒼とした原生林の山の端、小さな谷間に温泉が湧き、湯が沢を作って、湯煙をあげながら摺上川に注いだ。
日本武尊
が東征の折、病となり佐波子(さばこ)の湯に入ると、たちまち平癒したと伝わる。
「あかずして、別れし人の住む里は、
さばこ
のみいる山のあなたか」と古歌にも詠まれた。
平安末、
源義経
が挙兵した兄・
頼朝
の元に参じる時、
奥州藤原
氏・3代の
秀衡
が、
佐藤継信、忠信
を義経の従者に与えたが、この兄弟の父、
佐藤基治
は信夫の里を統治し、「
湯の庄司
」とよばれて、温泉との関わりを示す。
鎌倉末、
伊達政信
は湯山城を築き、
飯坂氏
を名乗って、この頃より湯治場の賑わいをみせた。
元禄2年(1689)、
松尾芭蕉
は
曾良
と共に「奥の細道」の旅の一夜を飯坂に過したと見られ、随行日記の里程の正確さから、この辺りと推測する事も可能で、行脚の途中で入ったとも伝えられている。
明治時代は科学的調査が行なわれ、東京帝大の
丹波敬三
による鯖湖湯の温室の定量的分析をはじめとした幾多の研究がされ、中でも
真鍋嘉一郎
によるラジウム含有の発見は、飯坂ラジウム温泉の名を全国に広めた。日本の総合病院の創始者・
松本良順
による温泉治療の評価もあり、昔からの「薬湯」の名声をさらに発揮した。
明治22年に建築された建物は、共同浴場としては、道後温泉の「坊っちゃんの湯」と並んで、現存する日本最古の木造建築で、長く飯坂温泉のシンボルとして内外の多くの人に親しまれ、同年、鯖湖湯と同じく様々な由来を持つ名湯「
透達湯
」が、鯖湖湯と姿を同じに、兄弟浴場として建築され、幾多の改修を経ながら地区の共同浴場として利用された。
近年、老朽化が進んだことから、平成4年、5年度の二ヵ年事業として新しい鯖湖湯の建築に着手、明治の共同浴場を後世に残すため、外観、内部とも、建築様式や建築材をできるだけ忠実に再現し、「透達湯」の跡地に建築された。
なので「透達湯」の方は、残念ながら共同浴場の役割を終え、長い歴史に終わりをつげたが、鯖湖湯は生かされた。
←
お湯かけ薬師
↓神社の向かい側の
足湯
(^O^)
新鯖湖場の復元オープンに際し、鯖湖神社(湯神様)のご本尊「薬師如来像」を「
泉仏 お湯かけ薬師如来
」として、生命力と天然の恵みの薬湯(鯖湖湯)の効能を授かり、多くの人に与えられる事を祈願して建立された。
如来(仏と同義語)は人々を導くためにやって来る。中でも薬師如来は、東方の浄瑠璃世界の仏(薬師瑠璃光王如来)とされ、左手に薬壷、右手に三界印を結び、日光菩薩・月光菩薩を脇士として種々の薬を生じ、過去・現在・未来の三世に法を説き、いかなるところでも常に衆生を救う。
薬湯(鯖湖湯)に入浴する時は、この「お湯かけ薬師如来」にお湯をかけ、体の不具合のところを「さする」または「なでる」と、効能はさらに上がると信じられている(^^)。
<阿津賀志山防塁>
これより行く「阿津賀志山防塁」は、長距離を数箇所に現存するが、その内の一箇所に行った。
防塁は、元は繋がってたと思われるが、今は開発などによって分断され、所々にしか残されてない。
しかし長距離に渡って築かれた防塁なので、全部で4ヵ所ほど現存されてる箇所があるようだ。→
これより行くのは、この右図の一番下、つまり南側ではないかと(^^ゞ。
今回はここにしか行かなかったが、少し北にも、
地図H
←「阿津賀志山防塁」とある。こちらの方が「厚樫山」には近く、読みも「あつかし」と一緒だ。
平安末期の、それも東北に残る防塁跡というのも充分にそそられたが、実は当初は、この音に惹かれた(^^ゞ。
北海道にも厚岸(アッケシ)とかあるし、何となくアイヌ語っぽい響きにそそられたのかな。
(ただし厚岸は、「牡蠣がいっぱい取れる所」が語源(^^ゞ)
それともう一つヽ(^^)、日光の「猿丸」伝承。
「猿丸」は、山寺(山形県)では、陸奥の狩人・磐司磐三郎の父「日光の猿麻呂」
(2009年1月
<対面石と対面堂>内
)
。
日光(栃木県)では、大蛇と赤城のムカデの戦争に加担した「小野猿丸太夫」で、日光に呼ばれる前にいた地が、「岩代国(福島県)と陸奥国(宮城県)の堺にある
熱借山
」なのだ
(2005年4月
<中禅寺湖>内
)
。
この阿津賀志山こそ、バッチリ「福島と宮城の県境」そのものだから、「熱借山」も「あつかし山」と読んでみるワケ〜♪(#^.^#)
さて、まずは
地図I
←南西に「飯坂温泉」があり、北東の外れ近くに「厚樫山」とある。これより行く防塁は、
厚樫山のちょっと南の「森山」と書かれた辺りにあった。
東北本線だと「伊達」駅から2駅(「桑折」の次の)「藤田」で降りて、東方向に歩いて行く事になる(^^ゞ。
東北道だと「国見IC」で降りるが、「福島飯坂IC」からだと一区間に過ぎないので、我々は飯坂温泉から、まず399号線→4号線を北上した。
4号線→
やがて「藤田」を右折する。
4号線がわりと街なかを通る大きな道なので、一転して長閑な田園風景に感じられる(^^)。
やがて、さらに右折するのだが、判りにくいと思うので……
地図J
←だいたいこの辺(^^ゞ。
果物畑の向こうにウッスラ防塁が見える
(パノラマ3枚・ほぼ180度)
道は自然と左に廻りこむような感じで、このまま↑真っ直ぐ行けば、左手に案内版が立っている(^^ゞ。
また、途中途中に「阿津賀志山防塁」と書いた標識もあって、わりと判りやすい。
→こうやって来た。案内版とベンチがある(パノラマ4枚・180度以上)
かなり魚眼なので突き出てるように見えるけど↑、だいたい道に沿って真っ直ぐ(^^ゞ。
道を挟んだ向かい側は黄金色に輝く田んぼ!
(パノラマ3枚・ほぼ180度)
向かいの田んぼのタワワに実るお米っ(^O^)↓。 じゃ入ろう〜♪→
平安時代末期、時代はとっても複雑かつ重層的かつ激動的に動いていた。
奥州征伐はそれらの最終段階なので、いっちゃん前段説明が必要なはずだが、それだけにイチイチ書いてるとキリが無いんで、
超テキトー
に前段階を走らせて貰う。
1180年、
頼朝
は関東の豪族に助けられ、あるいは帰服させ、あるいは討伐し降伏させて関東を制した。が、その後は
義仲
追討も
平家
追討も、どう頼まれても、
奥州藤原氏
の存在ゆえに鎌倉を動けなかった。
義仲も討たれ、もしかしたら頼朝なりに不満があったかもしれないが、1185年には何しろ平家も滅んだ(^_^A)。
あとは裸同然の弟・
義経
をチョロチョロ泳がせた挙句、「この俺を追討とは上等( ̄∇ ̄)」とか、「天狗に政治は無理だよなぁ( ̄∇ ̄)」とか言って、
守護・地頭
の設置を認めさせた頼朝に、もぉ怖い物は何も無かった(^_^;)。。
「えっ、兵糧を集めるだけじゃなくて? ……全国の? ナニ田畑を? だってそれもぉ……ちょっ何それー!\(>o<)/」と日記に書いた貴族もいた(笑)。←大学落ちるゾ(爆)
しかし効果はバツグンだった。
義経が法皇におねだりした「
頼朝
追討令」に従う人は殆ど無かった。。天狗と言われた法皇は、義経が都を去ったり、海で難破したりすると、スグ「
義経
追討令」に差し替えた。
すると、こういう時だけ、「じゃ奥州を攻めないとね〜(^。^)」と素直に従う頼朝サンだぁ。。。
が、敵もさるもの、直前になって、「あ、義経ね、よく探したら居たわ〜(^^ゞ」と、チャッカリ義経の首を届けて来たのが、奥州藤原氏・4代目の
泰衡
である。なかなかに侮れない奴だ。
奥州藤原氏は藤原秀郷の後裔である。嫡流とも言われる。
秀郷より五代下って、最初が「前九年の戦い」で謀反人として誅された「藤原経清」。
次が「後三年の戦い」で、最終的に勝利者として生き残った、初代「藤原(清原)清衡」。
2代「基衡」、3代「
秀衡
」。←この秀衡が義経を匿った所で死んじゃったのね〜(^_^;)。。
そして今は、4代「
泰衡
」に時代が移っているというわけ(^^ゞ。
何しろこれで世界は平和になった。「良かった良かった(^^)。みんなでカンパイ」
「終わった終わった(^_^A)。戦争にならなくて済んでよかったね〜(^O^)」
オメデトー♪> ( ^O^)/∀☆∀\(^O^ ) <ワ〜イ☆ミ 彡ヽ(;_; )ббб←義経
ところが頼朝。「追討令? んなモン要らないッスよ( ̄∇ ̄)」とイキナリ宗旨替え!(笑)
ああああああ、陸奥に乗り込んじゃったぁぁ〜。。ヽ(・・; )←法皇サマ
世界の平和のために、良かれと思って征討令も出さなかった。なのに、なのに……。
元々、法皇にはロックの世界が向いていた。大天狗ってのも、こんな時代だと、ちょっとしたステータスね、と気に入ってたかもしれない(爆)。だから昔なら熱く雄叫びも上げただろう。
が、度重なる戦乱に荒れ果てた京で、もうそんな気力も体力も。。。。
なのにアナタは〜陸奥路に行くの〜
勿来(なこそ)の先が〜それほどいいの〜こ〜の〜わ〜たしの〜宣旨より〜(TOT)。。 法皇ぉ〜(^o^)←コーラス
後で奥州追討令を出したけど、空気が白かったので、
後白河法皇
と呼ばれている(汗)。。
さて、敷地に入ると、初めは原っぱと小高い丘がちょっと続く。
防塁の断面に向かって、左に寄って行ってみよう。→
ちょっとコンモリとした丘。農業用水路を廻らしている
(パノラマ3枚)
左方向に出る。下の田畑は見えるが、まだ丘が続いてる
(パノラマ2枚)
やっと防塁遺構の段が確認できる
(パノラマ3枚・ほぼ180度)
左方向・クッキリと段差が確認できる
(パノラマ2枚)
一方、右側はこんな感じ
下に降りるともっとクリアに段差が見れる
段差はかなりの落差があり、ちょっと飛び降りる感じ(^^ゞ。用心すれば降りる方はそう大変じゃないが、下は農地だから、ダダッと突っ込まないように(笑)。
また一度降りると、登るのはちょっと大変(^_^;)。。
で、こっからが本番、阿津賀志山合戦となる。
1189年7月19日。恋しい陸奥(笑)に向かった鎌倉軍、起点は全軍とも鎌倉だが、進軍ルートは出発時から、東海道・東北道・北陸道の三手に分けている。
……東北道ってのは、現在も東北自動車道があるんでそう言ったが(笑)、これが本隊である。
東海道チームは、下総(千葉〜茨城)・常陸(茨城)を北東方面に抜けて、茨城と福島の県境、勿来(なこそ)関を抜けると、あとはエンエン太平洋岸を辿って北上、そのまま宮城県の多賀城まで行く。
千葉常胤・八田知家
といった、下総・常陸の豪族が辿ったルートで、この阿津賀志山は通らず、多賀城の押さえに向かったようなので、この合戦には出て来ない。
北陸道チームは、
比企能員
など、上野・下野の豪族が武蔵・上野・信濃・越後とまず横断し、越後から日本海側をエンエン辿って、出羽からコの字に折り返して来る。
こっちは奥州藤原氏の本拠・平泉を、先に北から圧迫すべく、厨川あたりを目指したようだから、やはりこの合戦では出て来ないと思われる。
又これを見る限り、出羽や陸奥の北側には、既に手引きの勢力があった感じもするね……。
下から全体を見上げてみる
(パノラマ4枚・180度以上)
さて肝心の頼朝もいる本隊だが、ここにいた
畠山重忠・梶原景時
らが奥州征伐では、よく知られる。
特に
畠山重忠
は、出発前からイソイソ準備をしていた(^^ゞ。
特記すべきは軍兵だけでなく、工夫を連れて行った事だ。鋤や鍬を持たせている。廻りは「アレ何すんのかな〜(゚.゚)」と思ったかもしれないが、鎌倉軍・本隊は8月8日に到着。
すると重忠は、せっせと土石を運ばせ、堀を埋めて道路を作ったのだ!(笑)
何でこんな事をするかと言うと、この戦いの大将は、4代泰衡の兄・
国衡
が担当したのだが、弟の泰衡も、予め堀を掘って、阿武隈川を注ぎ込んでいたからだ!
ここで、ようやく案内版の記述に入る。
「国指定史跡
阿津賀志山防塁
(指定 昭和56年3月14日)
この遺跡は、文治5年(1189)の奥州合戦に、平泉の
藤原泰衡
がその異母兄
国衡
を将とし、
源頼朝
の率いる鎌倉軍を迎え撃つために築いた防塁遺構で『吾妻鏡』には「口五丈堀」と記載されており、地元では「二重堀」と呼ばれている。
防塁跡は、土塁と空掘からなり、阿津賀志山中腹から南下し阿武隈川の旧河道にある滝川までの約3.2kにわたって所在する。防塁跡の一部は開発等によって失われているが、各地区に二重の堀跡と三重の土塁が現存している。
この防塁跡付近一帯の地は、文治5年8月8日から10日にかけて激戦が展開された古戦場であり、本遺跡は、鎌倉幕府の全国支配の帰趨を考える上で極めて重要なものである。
平成2年3月 国見町教育委員会」
←案内版記述、以上。
←亭主をタバコ箱代わりに、高低落差を比較確認してみる(笑)。
今見ると、濁流などどこにもない長閑な田園風景だが、こんな防塁を作られた上に、川がバンバン流れてたら、戦う前に溺れ死ぬか、矢に打たれるかなので、重忠は前もって備えを用意して来たと言う訳ね!
これが後にいう「道路族」の名を成すキッカケだったかどうかは定かではない(笑)。
合戦は8月10日。合戦が始まる前、先陣の重忠を出し抜く、いわゆる「抜け駆け」が出たりした(こういう話はよくある(^^ゞ)が、あまり気にしなかったという逸話もある。……土木作業に打ち込んでたのかな(笑)。
道は出来ても、こんな高い絶壁から、矢をビュンビュン射られたわけだ(汗)。鎌倉軍も苦戦しただろう。
両軍とも必死に戦って大激戦!
この時、
小山朝光
が会津方面にコッソリ向かい、山越えして背後から急襲。
と言っても、現地の利に疎いから、陸奥の住人が道案内したようだ。
小山朝光は下野出発かな(^^ゞ。この阿津賀志山合戦に出てるから、本隊と一緒だったか、北陸組から廻されたかかな。7月に出発してから先、連絡を取り合ったりする間に、入れ替えもあったのかもしれない。
奥州側は、この急襲劇で、防塁線の搦め手を出し抜かれたと、城中大騒ぎになって、どうにも収拾がつかず総崩れとなってしまったのね〜。。
どうにならず泰衡も、ひたすら北を目指して逃げ、兄・国衡は行方知れずとなり、追跡を受けて
和田義盛
の矢に打たれ、畠山重忠の兵に討ち取られた。
阿津賀志山合戦については、ここまで(^^ゞ。
泰衡は平泉を焼き払って、さらに北に逃げたため、「奥羽両国の省帳・田文巳下の文書」は炎上。こんなモンがあったという事は、事実上は平泉が国府だった、という事ね(^_^;)。
この後も戦が続くと見込んで、多賀城の千葉らと無事合体した後も、後から思えば滑稽なぐらい用心の上にも用心を重ねて、鎌倉軍は進んだんだけど、結果から見れば、これで終わりだった(^_^;)。。8月22日に、頼朝は焼け尽くされた後の平泉に到着した。。
今度は、もういっぺん上に登って、案内版に言う「二重堀」の構成を見てみよう!
上がって来た、ちょっとよじ登るの大変だった。。
(パノラマ5枚・180度以上)
↑まずは横合いから左右を写してみた。かなり魚眼で手前が割れてしまってるが、実際には真っ直ぐ(^^ゞ。
車道に近い側を写す
(パノラマ2枚)
反対側もクッキリと二重になっている
う〜ん立派な畝堀だぁ、と感心して見てたら、急にキュウキュウ何か鳴り始めたので、よく見たらヘビがのたうち廻ってて、きっと何か動物を捕獲してたんだと思う(^_^;)。
若干感動に水を差されなくもないが(笑)、この後の事も軽く書いておこう。
泰衡は青森県まで行っちゃうんだけど(汗)、その途中、頼朝の来る場所を想定して、置手紙をした。
咎なく攻められた事を抗議しつつも、「義経を討った功績で、自分も鎌倉の御家人になれたら嬉しいけど、ダメでもせめて流刑にして(^∧^)」と書いている。
頼朝の目にこれが「図々しい奴( ̄□ ̄;)」と写ったか、「鎌倉株、ここでも売れ行き好調( ̄∇ ̄)v」と自信を深めたかは、その直後に泰衡の首を、9月6日に泰衡の家人が持って来ちゃったから、判らない。
でも泰衡という人は、わりと頼朝や鎌倉の事をよく研究してたんじゃないかな、とは思う。功績の評価が頼朝の一任にかかってる事、華々しい戦巧者のみが評価対象じゃない事、全国を御家人として従える目的をも積極的に見極めてると思う。義経に聞いたにせよ(^^ゞ。
父・秀衡に「義経を主君に」と言われて鎌倉と対峙し、切羽詰ってから「敵を知ろう」としたのでは、どうしても偏った視点に陥りやすいものを、その限りではない、新しい世代に生きた人という感じがする。
奥州征伐は、この阿津賀志山の戦闘のみが合戦らしい合戦で、他は局地の小さな衝突のみで完了した。鎌倉軍が予想より早く来襲した事が原因ではないか、とも言われる。
追討令の有無も、それまでの頼朝の型としてはハズレじゃないが、これも時間の問題だった気がする(^^ゞ。
頼朝が軍を動かす場合、途中街道での「
鎌倉株の上場
」という、政治目的の遂行が必ずついていた(笑)。だから奥州征伐の前は、「急行」という動きを基本的には取らなかった。
戦は起こる時期を当てる事が、決定的な明暗の分かれ目で、兵糧調達や軍備を年中やってるわけには行かない(^_^;)。。能不能もあろうが、博打みたいなもんで運不運が大きい。
←これが「三重の土塁」だぁぁ〜!
↑先端まで行ってみる。
反対側も、もう一度見てみよう
何しろ、こうして奥州藤原氏は滅んだ。
10月、頼朝は多賀国府に張り紙し、庄号を盾にした不当な行動を禁じ、陸奥については「秀衡・泰衡の先例通りにせよ」と通告した。
これを起点に、それまで点か線しか伝わらなかった奥州は、隅々まで知られるようになっていくが、まず侍所的には
葛西氏
、政所的には
伊沢氏
(留守職)が置かれた後、実質的に御家人らの直接支配となるのは、氏族にもよろうが、だいたい鎌倉時代も半ば〜終わりごろかな(^^ゞ。
奥州藤原氏の側からは何もわかる物がないかと言うと、捕虜となった
由利八郎
の証言が残ってて、各要害に派遣された者もいたが支え切れず、老人達は自害したという。
それでも「数十日とは言え、鎌倉殿の軍勢を悩ませた」と自負する言葉に、武士の気概とともに、整いつつある武士政権の台頭を、充分に意識して戦っていた事が強く伺える。
それで、奥州藤原氏の史跡でありながら、「鎌倉幕府の全国支配の帰趨を考える上で」という表現になってるのかな〜と思った(^^ゞ。
<霊山寺>
これより太平洋側の相馬(福島県北東部)に向かうが、途中が長いので、バカ夫婦は又々「ちょっと寄り道して行こうよっ(^O^)」とかいう事にした。←懲りてない(笑)
地図k
←「阿津賀志山防塁(南端)」が左上の「国見町」の右「森山」の下の道路ちょっと下あたりにある。これより向かうのは、地図の右下にある「霊山神社」と書かれた一帯だが、この一帯には「霊山」と名のつく地名が多い(^^ゞ。「りょうぜん」と読む。
福島県の伊達市に入る。
ここも黄金色の実りが美しい(^^)。
これは霊山町役場・霊山町観光協会の案内図で、二番目に行った「霊山神社」にあったんだが、わかりやすいので(^^ゞ。
左上から「霊山寺」、途中に「霊山神社」を通って、「霊山閣跡」というコース。
最終的には相馬に向かう。
まず最初に行ったのが、今もお寺のある「霊山寺」である。
道路を行く内に、左手にスンナリ出会ったので、地図上に見付かるこの「霊山寺」と一緒と思われる。→
地図L
到着。最初に「
霊山寺
」
(パノラマ2枚)
道路を挟んで向かいには代皇山
周囲には二段造りの赤い屋根
「今もお寺のある霊山寺」という言い方になるのは、これより先の霊山には「
霊山寺跡
」というのがあるらしい(^^ゞ。今は「
霊山閣
」と呼ばれてる辺りがそうだろう。
古い霊山寺(跡)は、これも天台宗・3代座主の
慈覚大師・円仁
が、貞観元年(859)に開山したと伝えられる。
この辺りは「伊達市」とある通り、鎌倉以降は
伊達氏
の領地だった。
伊達氏は、藤原鎌足の3代後に魚名が出て、そのさらに13代目の
朝宗
を始祖とするが、この朝宗が先ほどの奥州征伐に4人の子を従軍させ、
阿津賀志山の戦い
で大功をなした事が認められ、この伊達郡を得たのである。
しかし朝宗の頃は、本領が常陸国(茨城県)にあったので、まだ「伊達」の名乗りはせず、常陸の地名「伊佐」「中村」のどちらかを名乗っていただろうし、嫡流もそれを引き継いだと思われる。
この伊達郡には、朝宗の次男・
宗村
が入って来て以降、奥州における長い「伊達氏」の始まりになった。
これは鎌倉御家人の入部としては、かなり早い時期の移動と見られ、普通(他の氏族)は代理に管理させるだけで、直接入って来たのは奥州征伐から何代も下ってからだったのに比べると、奥州における伊達氏の地固めの長さ、歴史の古さを感じさせる。
さっきの阿津賀志山防塁のちょっと北にも、「桑折西山城跡」というのが地図に見られ、これは14代・伊達
植宗
(政宗の曾祖父)の居城だったとも、本来その辺りが発祥の地とも言われている。
霊山(閣跡)は今は天然の山そのものとなっていて、「東北天台宗の中心」と言われた当時の面影は全くないが、こちらは南北朝の動乱の時に北朝側によって、全山ごと焼き払われてしまったそうだ。。
伊達氏も南朝側にあって、この霊山寺とともに北朝勢力と戦ったと見られる。
その後、霊山寺は、10代・
伊達氏宗
(1371〜1412)によって再建されたが、これも元は宮脇という所にあった。
こちら(倉波)に今あるのは、元は阿弥陀堂だったのだが、その後、宮脇の霊山寺も野火によって焼失してしまったため、こちらの阿弥陀堂を本堂として、今も継続されているのである。天台宗・比叡山延暦寺の直末寺。
では境内に進もう(^^)。
←参道にあった見取り図。
今いる駐車場(左下)から県道に一度出て入り直すと、参道の先に山門、そして正面が本堂である。
現在の本堂は、明治30年(1897)に、霊精僧正によって新築されており、奥に護摩堂が設けられているようだ。
駐車場の右に門柱(入口)
駐車場の右脇を通る参道
階段を登ると、立派な本堂に出会う(^^)。本堂の奥の護摩堂には、元の本堂の梁が用いられている。
↑又この山門の右に見えるのが、見取り図によると「千体仏堂」兼「経蔵」だろう。
ここには明治初年に、この本堂を新築させた霊精僧正が、霊山の山頂の寺跡より仏像を掘り出し、練り直して作った仏像(約10センチの丈)が、約200体も安置されている。
他に、江戸時代の和綴じの経本が約1000冊、大般若経の経典が600巻納まっている。
一方、本堂には、本尊として室町時代の作といわれる阿弥陀三尊、その左には慈覚大師の作と伝わる薬師如来が安置されているという。
本堂の奥の護摩堂には、鎌倉時代の作と伝わる聖観音をはじめ、不動三尊、千手観音が奉られており、護摩堂に用いられた元の本堂の梁には、十六弁の菊の紋章が残っている。
本堂の右(向かって左)に「山王堂」「地蔵堂」「句碑」
「地蔵堂」の延命地蔵
「山王堂」は正式には「山王本地堂」と言い、明治の神仏分離によって日枝神社より移した。慈覚大師の作といわれるご神体と、二の宮7体秘仏・前立21社・毘沙門天が安置されている。
右の「地蔵堂」は扉が開いて、このように延命地蔵サマを拝めた(^∧^)。これは「ふるさと108地蔵」の札所となっていて、天井に見えるのは、花鳥や梵字である。(右の写真)
地蔵堂をさらに奥に行くと、江戸〜明治の信者に寄付された庚申塔が約100体も残る「百庚申塚」がある。
「句碑」は最澄(伝教大師)の教えが書かれた「忘己の碑」とされ、その脇には「摩尼車(まにぐるま)」が置かれてあった。
「摩尼車」の「摩尼」は、「摩尼宝珠」「如意宝珠」などと書き、意のままに宝を生み出す「珠」の事で、よく豊かな大河に、次々と生れる幸を見る信仰があるが、無限に人を助ける事から「仏の徳」に喩え、「濁り水を清める」と見て、災難除ともされる。この宝珠を筒型にし、回転するように作り、ネパールでは手持ちサイズの「摩尼車」を廻して、お寺にお参りするならわしがあるそうだ。↓
←般若心経が書かれ、一回廻すとお経を一巻読むのと同じ功徳が得られると言う。 お参りを終えて坂を下る↓
坂から見える山と里の絶景〜!
駐車場のお釈迦様
釈迦如来像は、南北朝の戦いをはじめ、近代戦争や交通事故で亡くなった人の供養のため、1992年に建てられたそうだ。この良い景色を眺め、平和を見守っておられる(^^)。
<霊山神社>
さっきの案内図通りに行くと出会う(^^)。
地図M
←中心点のあるのが「霊山寺」、その右に「霊山神社」。
「
霊山神社
」に到着(^^)
(パノラマ2枚)
鳥居くぐって左には……
ジャーン!
北畠顕家
の像!
「霊山神社」は明治14年(1881)に創建された、比較的新しい神社で、「国家鎮護・五穀豊穣・家内安全・商売繁盛・交通安全・学徳向上・人生の大願成就」といった御神徳に加え、「
選挙当選
等」とあって、「受験合格はよく見るけど、選挙はあまり見た事ない!」と改めて思った(笑)。
しかし、その由来とする北畠一族は明治を遥かに古く、南北朝時代に遡る。
一族として「
親房・顕家・顕信・守親
」が御祭神とされ、ともに祀られていたが、町村全体の雰囲気としては、この像に示される通り、圧倒的に「
顕家
」で盛り上がっている(笑)。顕家は南朝の公卿兼武士である
何で「公卿兼武士」なんつー言い方になるかと言うと、「そういう時代だったから」としか答えようがない(^_^;)。。
本人も「何となく変じゃね?」と思ってた気もするが(笑)、この人はこの地に(元は多賀城に)鎮守府将軍として遣わされたのだが、そういう職業が不釣合いなほどご身分が高い。
と言っても、鎮守府将軍は低い任官とも言えず、古くは先ほどの奥州藤原氏も、3代秀衡になって、やっとゲットしてる程だし、それを制した頼朝の源氏だって、先祖の義家などは、この地位を得たいために「後三年の役」で無茶な戦をしぬいているんだけどね(^^ゞ。
つまり北畠顕家は、元は武士ではなく、つまりは貴族なのである。
ところでこの神社は、さらに奥が山になっていて、そこをエンエン登って行く林道がなかなか素晴らしい(^^)。車でも入れるから、そのまま進む。
わ〜! スゴイ丸きり山道だ〜(^O^)、とはしゃぎながら登る。ずいぶん高くまで休む事なく登り道である。
一方、神社なので当然、山の下から参道があるけど、これだけの山だから……、
こ〜んな急階段を登って来るのよ(*o*)!
顕家の生涯は20年と短い。が、その活躍は16歳から現われる。
1333年に鎌倉幕府が滅び、建武の新政(現地には「建武の中興」とある)が始まると、僅か16歳で陸奥守に任じられ、父親房とともに義良親王を奉じて、この奥州に下った。
ちなみに父親房は「神皇正統記」を記した人としても名が高い。
神社には建武の中興について、「疲弊した生活から国民を救済するため」と目標を掲げ、北畠一門を、「和漢の学問に励み、その業績をもって朝廷に仕えた村上源氏の名門公卿」と紹介し、功績を「皇室を戴く日本の麗しい国柄と歴史を明らかにした」とある。
つまりは鎮守府将軍とは言っても、ただ武力による平定に来たのではなく、東北武士の心を受け、或は上手に捕えて政務機構の整備・統治に励んだため、
結城氏
や
伊達氏
などは、この若い顕家に心服し、その後も南朝勢力として支える力となったのだ。
が、
後醍醐天皇
と
足利尊氏
の決裂により、尊氏は建武の新政から離反。顕家は鎮守府将軍として西上し、他勢力とともに尊氏を威圧。
追い立てられて京を落ちた尊氏は、九州から復活して京に戻り、宮方を撃破して北朝を打ち立て、建武の新政は崩壊。
それでも顕家は、奥州でも内乱に巻き込まれる中、西上して足利軍を破るなど、尊氏には手強い敵であり、その武威から奥州から京までを行き来する事となり、結局は武将として多忙の生涯であった(^_^;)。。
←こっちから登って、頂上の神社に到着(^O^)
(パノラマ3枚・ほぼ180度)
この位置から見下ろす霊山(たぶん)と急な石段
(パノラマ3枚・ほぼ180度)
ウネウネ道を来たから、方角的にちょっと自信ないが(^_^;)、恐らく霊山じゃないかと。この辺りには他に「古霊山」というのもあるが、神社名と発足の動機から言って、ここから霊山が見えないとイケナイと思う!(笑)
↑霊山を拡大してみよう(^^)。
では参道を進んで、さらに門を潜る→
さらに奥の拝殿に進む途中には、神楽殿らしき建物も
(パノラマ2枚)
この神社の所以は、足利軍が多賀城を攻略すると、顕家がこの霊山に国府を移した事から、ここに祀られたのだろうと思われる。国府を置いたのは、延元2年(1337)正月8日と記されている。
東北では伊達・結城を代表格として、だいたい南部・葛西・相馬・二階堂・安東・戸沢・小野寺といった所が南朝勢力かな(^^ゞ。
最終的に顕家は、1338年、足利軍の
高師直
との激戦で、和泉石津に命を散らした。従った兵は全員切腹して後を追ったと言う。
北畠顕家は、NHK大河ドラマ「太平記」では、頭脳・才覚より美少年ぶりが際立っていたが、死の7日前に
七か条の上奏文
を奉っており、神社には「政治と政治家の在るべき様態を説き明かされており、現在にあっても治国安民の要」と記されている。
私も読んだ事あるが、かなり痛烈な戒めながら、これが20歳かと、ぶっ飛ぶような見識の高さと、確かに地に足をつけて地方政治をした人の実感が伺え、あと何十年は使えただろうこの才智が、一個の弾薬として果てたのかと、重苦しい気分になった覚えがある。。
その中に確か、東北の地固めを要請する訴状もあって、神社では「東北地方の安寧確立と民の福利向上に、心身を焼き尽くされた御生涯であった」と追悼されていた。
明治維新を迎えると、「建武の中興」が理想の根本理念とされ、岩倉具視をはじめ、神社御創建の気運が官民双方に醸成され、明治天皇もそれを聞いて、陸奥国府の置かれていた霊山が選ばれ、神社創建の運びとなった。
←コレがいいよね!(笑) さらに奥の立派な本殿の裏には、かなりの崖が迫っている。↓
ちょっと近すぎて、パノラマでも入らない感じだったので画像は省略するが、この本殿と山の横を→こう抜ける通路があって、その先が何となく城跡のような構成にも思えた。
←こっち側に山が迫ってる。先にあるのは稲荷社かな
(パノラマ2枚)
↑この右下あたり、何となく曲輪跡みたいな広間に見えたんだが、あまりちゃんと確かめなかった(^^ゞ。
古代、寺があったとされる場所には、これよりちょっと近くだけ通ってみるが、神社があるこの山も、山城に使えそうな雰囲気に思えた。
あったとしても国府跡ではなく、南北朝より後の物かもしれないけどね……。
<霊山(城跡)〜相馬へ>
霊山そのものには、山の姿に惹かれて途中まで行ってはみたが、山全体がデカく、元々、途中ルートだったのもあって、どっちかと言うと「通り過ぎてみた」という方が正解(^^ゞ。
前方に山が見えて何しろ惹かれる
山は視界から消え、農村に入る
この日は前日の羽黒と大違いで、ピーカンに晴れ渡ったため、返って日差しの強さで影が濃くなり、これはこれで写真的には難しかったが(笑)、この霊山に向かう途中の山村が、鄙の風情が濃くて、また妙に良かった〜♪
そうした風景の各所にポスターが!
北畠顕家である!
清掃・美化運動の看板なのだが、この雅な絵が、不思議と風景にマッチしていて、「汚しちゃいけない(≧▽≦)」て気持ちにさせる効果バツグンだと思った!
向かっているのは
地図N
←全体としてはこんな感じ。地図では道路がないが、行ってみると車は通れるし、改めて道路に繋がっている。
さて、こっから先はちょっとミステリーワールドなので(笑)、この辺りで霊山(寺跡)について書いておこう。
霊山寺の由緒書きでは、ここも慈覚大師の開山とされており、貞観元年(859)以降、つまりは平安期から寺があった事になる。寺伝によれば、霊山山頂に18尺の千手観音を本尊として建立されたのが始まりという。
一山には三千の衆徒が有され、北の比叡山と呼ばれて、東北天台宗の中心であったと伝わるが、南北朝時代、北畠顕家が一山の衆徒の力を頼み、多賀城から霊山寺の山頂の建物を国府としたため、敵の攻撃対象となり、足利尊氏によって全山が焼かれ灰塵と化したという。
さっき行った霊山寺には、明治時代になって、この霊山山頂の寺跡から仏像を掘り出し、練り直して作った仏像が安置されている。
もう一つ。たまたま見付けたんだが(^^ゞ、
葛西
武治(=
清貞
・葛西氏6代)が「霊山城に居城した」という文献もあるらしい。
だんだん道が細くなり……
目前に霊山が聳えて出て来る
ちょっと恐かったのは、途中で何度か「熊に注意」という標識を見た事(^^;)。。
道は狭くなるし、本当に熊が出てもおかしくない風情だった。
しかし途中には駐車場があって、かなり古そうな大きい石碑も建っていたんだが、草がボウボウで殆ど近寄れず、車を停めて亭主が写真を撮りに行ってくれたりしたが、「熊が来るよ!」と車に乗らせた(笑)。
後から思えば、そこがどうも「霊山閣」だったような……?
車に乗ると、後ろから車が来たので慌てて発進。それまでも、通行止めのようなそうじゃないような(時間規制か?)、ビミョーな置き方の表示を他の車はドンドン過ぎて行っていた(^_^;)。。後続車に急かされ先を行く内に……あれっ、道路に出た(゚.゚)?
何だか新品の道路。その先に山は聳える
(パノラマ3枚・ほぼ180度)
↑「霊山閣へ」と書かれた案内板
「この標識の通りだと、やはりさっきの場所に戻るような気が(^_^;)?」と思いつつも、矢印を見ると、それでも何となく行き掛けてしまう(笑)。
しかしこの通り、奥は(道はあるが)鬱蒼とした森。何か周囲はヤケにシンとして、「熊が出そう(^_^;)」と思った我々は引き返した。
引き返して判ったんだが、どうもこの道路は工事中のような……と言うより、もしかして作ってる最中?(爆) これまで見た車も工事関係者?
一応、反対側も写しておこう(笑)
(パノラマ3枚・ほぼ180度)
「じゃ、これ行ってもどこにも繋がらないのかな(^_^;)」と元に戻って、おとなしく相馬を目指した。
最後に霊山の頂上近くから街をのぞむ
さてさて、相馬へのルートは
地図O
←今度はかなりの距離なので思い切り縮小。115号線をまっしぐらに東へ進む。
途中から相馬に入り、観光気分満載の絵地図に出会う! うぉ〜海岸だぁ〜!(笑)
しかし未だに道は山の中である!→
素晴らしく緑の色が濃く豊かで、又これまでと雰囲気の違うエリアに来た事を実感(^^)。
相馬というその地名からも察する通り、いかにも馬で駆け抜ける雰囲気が濃厚だぁ〜!
到着(^_^A)。相馬中村神社(中村城跡)
大手一ノ門
(パノラマ3枚・ほぼ180度)
さて次回は、この「相馬神社」からお届け(^^)。この相馬で4日目を終了し、5日目に入って、さらに南下し岩城の「いわき恵日寺」で、東北(山形〜福島)レポ終了(^_^A)。
その後は、年末あたりまで一気に行けたらー!と思っている( ̄^ ̄)。
以上、関連事項は、
2005年04月
<中禅寺湖>内
2007年04月
<米沢「上杉神社・松岬神社」「上杉博物館(伝国の社)」など>内
〃
<小野川温泉>
2007年12月
<白石城>内A
2008年02月
<「多賀城」政庁跡と城前地区>内
2009年01月
<磐梯山慧日寺資料館>内
〃
<対面石と対面堂>内
〃 「作品の広場」→「将門雑記(風と雲と虹と)」
47〜52話内
2009年02月
<立石寺(山寺)、対面石〜根本中堂〜山門>内
2009年03月
<羽黒山・山頂>以降
2009年04月23日
ホーム
<城主のたわごと>
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