↑第5弾突入〜! 今回は何とか最終回までっ(≧▽≦)!と思ってたが、僅かに及ばず、ちょっとだけ次回に廻す(笑)。 旅程は、この3日目が最終日。 前回の神指城の後、高速に乗って猪苗代北岸まで行き、まず「亀ヶ城」や「土津神社」。 お昼は近くで郷土料理を頂き( ^,_^)ф、去り際に猪苗代湖を眺めて、再び高速・磐越道に乗る。 ググーン!と郡山を経由して東北道を南下、白河まで出ちゃう! 白河は「白河小峰城」「南湖公園」に行ったんだが、この「南湖公園」の庭園あたりまでお届け!神社は次回に廻す〜(^。^)。 <亀ヶ城(猪苗代城)> 前回は「神指城」跡に行った(地図A)。今回はまず「亀ヶ城」跡に行く。
城は「猪苗代城」とも呼ばれている。 「亀ヶ城」とは、「会津若松城」が「鶴ヶ城」と呼ばれるのに相対してるんだろうね(^^ゞ。 前に会津若松に来た2006年9月(「城主のたわごと」では2007年2月<鶴ヶ城、1>3月<鶴ヶ城、2(続き)>)は、「鶴ヶ城」には行けたが、「亀ヶ城」は些か遠くて来れず、ちょっと心残りだったの(^^)。 その時は知らなかったが、何の関係があるのか、泉鏡花の戯曲「天守物語」に出て来るのを知った。 「天守物語」の「天守」は、舞台とする「姫路城」と思われるが、そこに棲む「富姫」を訪ねて遊びに来る「妹姫」というのが、「猪苗代城」に棲む「亀姫」なのだ。……どうも妖怪であるらしい(^^ゞ。 映画では、姉の富姫を坂東玉三郎が、妹の亀姫を宮沢りえが演じていた。 録画して持ってたハズだが、退屈なシーンが続くので、「そのうち(^^ゞ」と思ってる内に時間が経ってしまった。。 この磐梯高原で降りると、ホントに磐梯山が目の前(^^)↓ 山肌のスキー場までよく見える(笑)(パノラマ2枚)
一方「天守物語」と姉妹作品で、岩波文庫でも同じ本に収まる「夜叉ヶ池」の映画は、見甲斐のある優れた作品で、 wikiによると、残念な事に、権利問題でDVD化やテレビ放送はしないらしいが(>_<)、レンタルや購入は無理でも、上演の案内など見掛けた人には、超お薦め(^O^)! 一度だけテレビ放送されたのを偶然録画してたので、荒れた画面に苦労しながら、慌てて再録して見てみたが、今見ても、舞台演劇(歌舞伎)の織りなす世界と、藁葺民家の里、海外の大型ロケ、特撮、シンセサイザー音楽に彩られ、ホントよく出来た映画だ(^O^)。 (1979年/監督・篠田正浩/出演・坂東玉三郎・加藤剛・山崎努/音楽・冨田勲) 原作では、両作品とも「夜叉ヶ池」の白雪姫が出て来る。また、どちらも妖怪変化の美女が人間界との接触により、苦悩したり氾濫を起こす物語で、後付の解説によると、両方とも水をモチーフにした作品らしい。 なるほど、「夜叉ヶ池」は越前の国境にあって(実際に同名の池がある)龍神を、この猪苗代城は、猪苗代湖の近くにあって亀を扱った、という事かな(^^ゞ。 その「猪苗代城(亀ヶ城)跡」に到着(^^)(パノラマ3枚ほぼ180度)
どぉ? 妖怪出そう(^_^;)? 歴史的には、この猪苗代や会津は、長く芦名氏の一族が領し、自分的には三浦や芦名や佐原も興味シンシンだが、あまり詳しく触れた物を読んでないので、前々回の長沼氏のようには中世を詳しく掘り下げられない(^_^;)。 なので、現地にあった案内を、(ほぼ)そのまま提示するに留める。
この「猪苗代城主」、泉鏡花の「天守物語」では、「武田衛門之介」という名が出て来て、亀姫から富姫へのプレゼントに、生首にされてるんだが(^_^;)。。これは、その後の江戸時代の「城代」かな……?
↑案内図の中央、赤い文字が見える辺りに今いる(^^ゞ。 この案内図では「井深屋敷」など、保科(会津松平)氏にゆかり深い名はあるが、「武田」という名は見なかった。 元を辿れば、保科氏は武田遺臣であるから、「武田」もあっておかしくはないけどね(^^ゞ。 というわけで、江戸時代に入ると……
現在は、猪苗代町の指定重要文化財となっている。
さて、芦名や佐原・猪苗代・伊達の時代はここまでで、その後は秀吉の奥州仕置が行われ、蒲生・上杉・加藤などが城代を置いた。 上杉景勝は、前領国から連れて来た信濃の兵たちを、この東方2キロ地点に住まわせて、「信濃町」と名付け、亀ヶ城を守備させた。 が、後に来た保科正之の青少年時代の通り名が「信濃」だったので、呼び捨てとは恐れ多いと、「今和泉」と改称されたそうだ(^^ゞ。 以後は、戊辰戦争で退去するまで、エンエン会津松平氏の時代が続く。 特に藩祖・保科正之は詠われるべき事績も多く、しかも長寿で、四代将軍・家綱の唯一の叔父として幕政に重きをなした期間も長いので、本来は書くべき事が多いが、その辺りは前(2007年2月<会津藩主松平家墓所>内)に書いたので、今回はその前半、会津に来るまで……主に保科氏の事に集中したい(^^ゞ。
が、大まか信州の高遠で育ったので、徳川家の人や家臣たちとの土地的な繋がりは殆どない(^^ゞ。 その故郷・高遠との繋がりの方が、むしろ格別に強い。 正之は、高遠では3万石であったが、家光将軍の代になると、一大出世を遂げ、突如20万石で出羽国最上に領地替えとなったので、その体裁に合った家来を支度せねばならず、高遠からゴッソリ人を連れていったのだ。 だから、保科家ひいては会津松平氏には信州出身者が多く、信州高遠における歴史は、そのまま、この地に定着した主従はもちろん、領民の歴史でもあるのだ。 ↑左の階段を登った正面の石垣↓(縦パノラマ7枚・180度以上)
保科氏の出自は二説ある。 一つは清和源氏の河内流・初代・頼信を祖とする。頼信の末子・「乙葉(三郎)頼季」の末の井上頼秀が、信濃国高井郡の保科村(長野市若穂保科)に住んだので、「保科」と称したという説。 もう一つは、諏訪の神姓八党(神孫)の一人、「保科(紳助)貞重」が頼朝に奉公して、源姓を賜ったとする説で、保科正之の義父(養父)・正光を「神氏」と銘する宝珠が残り、また保科氏は諏訪神社と同じ「榎の葉」紋を使用していたともいう。 が、保科正之にいたる前は、正俊(曾祖父)・正直(祖父)・正光(父)のみ明確で、それより古くはハッキリしない。 史料に現われるのは、戦国期の武田信玄が信濃攻略した頃で、保科氏は、高遠氏の代官として登場する。
高遠氏の居城・高遠城は、古くは源平時代、平家方の笠原氏の築城と伝え、南北朝時代には南朝方の拠点とされ、諏訪一族の大祝信員が「高遠氏」と称して城主となった。 その七代後が戦国時代の高遠頼継である。 武田信玄が父・信虎を駿河に追放して代を継ぐと、1542年には隣国の諏訪氏を攻略した。この時、信玄(当時は晴信)と連合し、ともに諏訪氏を上原城に攻めたのが、この高遠頼継だ。 連合にあたり、諏訪氏の領地を二分し、東を武田氏が、西を高遠頼継が領する約束であったが、いざ諏訪頼重が滅ぶと、高遠頼継は諏訪の総領職を得ようと、武田方の上下社を攻めたため、怒った信玄に攻め寄せられ、敗れて高遠城を武田氏に取られた。
高遠氏の下にいた保科正俊は、信玄に臣従の証に、子の正直を人質として届け、やがて佐久攻めを開始した信玄のため、1546年には志賀城攻めの道案内をつとめ、志賀領内に潜んで志賀平六左衛門を討ち取り、手柄を上げている。 正俊−正直−正光−正之 一方主君であった高遠頼継も、しばらく武田氏の下にいたが、1552年、甲府で自殺に追い込まれ、高遠氏は滅亡した。 やがて信玄が卒し(1573)、武田も勝頼の代になると、長篠合戦(1575)で織田信長に敗れた後は苦しく、1582年、武田方だった木曽義政の内応を機に、四囲から一気に、織田・徳川・北条の進撃を受けた。 伊那の下条、松尾城の小笠原、春日城、福与城、宮所城、深志城(松本)で、殆ど戦わぬ内に降参・敗走・主従離散・内応・脱走が相次ぎ、大島城を守る武田信廉(信玄三男)も、遁走のあげく発見されて惨殺された。 飯田城にいた保科正直も、こうした動きの中では持ち堪えられず、夜陰を逃走したとも言い、保科正直の逃走はこの後とも言う。 階段終わって石垣の合間から、開けた平地に出る(パノラマ2枚)
勝頼も諏訪の上ノ原城を焼いて、新府城に逃げ、親類衆の穴山梅雪は徳川家康に降参。 穴山はこの時、新府城に人質に出していた妻子を、雨夜にまぎれて盗み出したと言う。 この穴山梅雪の夫人・見性院が後で出て来るので覚えてて(^^ゞ。この中に混ざってたのかな。 そんな中、勝頼の異母弟・仁科盛信の高遠城のみ、意気盛んな籠城で迎え撃ち、無人の荒野を来た織田信忠らを驚かせた。 この時、武田方から選ばれて織田方との交渉に当たったのが保科正直、という説もあり、交渉のため高遠城外に出ている時、決戦が始まって城に戻れず、やむなく逃げたともいう。 保科正直の妻(跡部氏)は、人質として高遠城に残され、仁科盛信の自刃・高遠落城とともに自殺した。 この「跡部氏」が生んだ嫡男・保科正光も、新府城に人質に出されていたが、落城の時、勝頼は人質を殺す、という噂が飛び交ったため、家臣の井深重吉が、牢を床下から破って正光を救出した。 正光の妻が真田昌幸の娘(春陽院)であったので、正光は真田を宛に上田に落ちた。 さらに進むと視界も開け、360度で撮った。まずは正面(パノラマ5枚180度以上)
↑の逆側↓ちょど登って来た所も見える↓(パノラマ5枚180度以上)
勝頼は新府城も焼いて、逃げ落ちる所を小山田信茂の裏切りにあい、天目山の麓・田野で織田勢と遭遇し、防戦の果て自刃。武田氏も滅亡した。 その僅か三ヶ月後、今度は織田信長が、家臣、明智光秀に謀反されて本能寺に歿した。 信長の安土城に挨拶に行き、畿内にいた徳川家康と穴山梅雪は、光秀の謀反を知って逃げ、伊賀越えをした家康は三河に帰れたが、一足遅れた梅雪は途中を一揆にあい、殺害されてしまった。。 織田の脅威が去るや息を吹き返したのは、信州の豪族らも同じで、領地回復に蠢動した。 さらにその周囲を、北条氏直・徳川家康・上杉景勝ら強豪が狙い、あるいは襲いかかって、信州は大混乱となった。 保科正直は、松本の娘聟・小日向源太左衛門の元に身を寄せていたが、真田昌幸によばれて上田に行き、息子・正光と再会した。 右に敷地があり、入ると左に……(パノラマ4枚180度以上)
この亀ヶ城は、野口英世の子供時代(「清作」という名だった)が通っていた、猪苗代尋常高等小学校のすぐ近くにあったので、子供たちの遊び場となっていた事から、ここにアメリカから寄贈された像が置かれた。 寄贈の趣旨は、「日米友好親善の象徴」で、「カリフォルニア大学教授故コフォード博士の有志」の希望により、1956年、「アラメダ海軍航空隊基地協会」から寄贈、翌1957年付で碑が建てられている。 ただ、これも又、「天守物語」にある「猪苗代城主・武田衛門之介」の、生首を思い出してしまう(爆) スイマセン(^_^;)。でも確か、美女二人が、舌なめずりしながら眺めるんだよね(^^;;)。。 でもこの頭像は、上記の通り戦後の寄贈だから、モチロン泉鏡花がコレにヒントを得て……なんて事はないよ?(笑) (ちなみに鏡花は野口の3歳年上で、死んだのはずっと後だから、時代が被ってはいるけどね(^^ゞ) 数段を上がって来た。本丸跡(パノラマ5枚180度以上)
野口英世像の郭跡から、数段の階段がさらにつけられ、本丸的な敷地に入る。 左右に分けられた階段で言うと、右階段で来られる位置にあり、我々は左階段から来たから、コの字に戻るような位置関係となるが、高さは一番高い所にあって、スグ間近に磐梯山を仰ぎ見れる。 本丸の敷地を囲む土塁跡に登って、磐梯山を撮影しようと場所を選んでいたら……でかいシマ蛇が急速度で登って行くのを見て、「この辺までにしとこうか(^_^;)」と撤退。 ああいう斜面が生息しやすいのか、城跡に限らず、平泉のような寺院跡でも土塁的な遺構で出会った事はあるが、どうもこの「亀ヶ城」は敷地もそう広くなく、山奥でもなく、廻りは車がバンバン走ってるから、ちょっと意外と言うか……いや、何だかますます妖気が増した感じがした(爆)。 本丸を囲む周囲の濠跡(パノラマ4枚180度以上)
このちょいと右上、中空に磐梯山が見えてたのよ(^^)。 さて、父子再会を果たした保科正直・正光だが、どうもこの当時は、北条氏に属していたようだ。 逆に徳川に帰属していた下条氏や小笠原氏が高遠城を占領しており、家康に進撃を命ぜられて、諏訪に向かう留守を、保科正直が、正直の弟で北条氏の家臣・内藤昌月に兵を借りて襲い、高遠城を占領。これを手土産に、徳川方の酒井忠次に通じ、徳川方についた。 家康はこれを喜び、自身の妹を、保科正直の後妻として与えた。 この妹とは、家康の母(於大)が再婚相手・久松俊勝との間に生んだ娘で、「多却の君」と呼ばれる。 続きは、「土津神社」で(^^)。↓ <土津神社(保科正之の墓所)> ↑は、猪苗代城(亀ヶ城)より北に……歩くと20分ぐらいかなぁ。地図C ここも、2006年9月に、「会津松平・歴代藩主の墓所」には行けたんだが(「城主のたわごと」では2007年2月<会津藩主松平家墓所>)、初代・保科正之の墓所だけが、ここ猪苗代北岸の「土津神社」にあるので、当初は……、 こたつ「行けたら行こうね(^^)」 亭主「ワンワンワン!▼o・O・o▼」 なんて言ってたものの、実際には「神指城跡」すら行けないまま、次のお宿の白布温泉に向かったのだ(^_^;)。「クゥ〜ン▼o;ェ;o▼」 坂の上、分岐点を塞ぐように立地(パノラマ4枚180度以上)
ここは、保科正之が墓所として自身で選んだ地であるらしい。 ただ予めお断りしておくと、実は残念ながら修理中で、保科正之の墓所に続く参道から先には入れなかった(^_^;)。 この神社あたりから磐梯山の領域に入る。 ちなみに324号線↓は左に折れ、神社の裏にも伸びて、猪苗代スキー場に達している。 さらに近付くと、樹の影から大鳥居が(^^)(パノラマ3枚ほぼ180度)
続き再開(^^)。 信長死後の信濃の動乱は、しばらく長引いた。 1585年、保科正直は家康から、上田の真田昌幸を攻撃する命を受け、高遠を出て小諸に向かった所を、一度は徳川についた小笠原貞慶が、今度は豊臣秀吉につくべく、上杉氏より援軍二千を借り、あわせて五千で高遠城を攻めて来た。 高遠の留守を守る保科勢は100名足らず。 70歳を超えた保科正俊が、百姓300に武装させ、一部を鉾持(ほこじ)桟道、残りを白山に配備した。 正俊−正直−正光−正之 小笠原軍が鉾持桟道を越える中頃、上から大石・大木を降らせ、百人ほどを三峰川に落下させ、分断された前隊には鉄砲射撃を浴びせて全滅させた。
一方、高遠城で命を絶った前妻・跡部氏の子、正光には、妻・真田昌幸の娘「春陽院」との間に跡継が無かったため、家康・秀忠・多却の君の立会で、異母弟・正貞を養子とする事を仰せつけられ、これを受け入れた。 が、後に正光と正貞の間は険悪となり、1603年に養子を解消。 正光の妹が小日向源太左衛門に嫁いで生んだ「真田左源太」を養子に貰い受けた。 そこに、さらに養子入りの話が来たのだ。これが保科正之である。 *やっと登場(^^ゞ* 真田昌幸−春陽院 跡部氏 ├======■■■■(養子) ├−−┬正光 ↑ ↑ ↑ 保科正直 └小日向夫人−左源太 | | ├−−−−−−−−−−正貞 | 於大┬ 多却の君 | └家康−秀忠−−−−−−−−正之 保科正之の母「お静」は、北条氏の遺臣(神尾栄嘉)の娘だとか(゚.゚)。 二代将軍・徳川秀忠とは、お静が秀忠の乳母(井上正就の母・通称「大乳母どの」)に奉公していて、そこに秀忠も出入りして出会ったそうだ。
お静が秀忠の子を妊娠したのは、ナント、正之で「二人目」という! 最初の子は……「折角の懐妊を水に流してしまった」とある(>_<)。。原因は秀忠正室(崇源院)の嫉妬である事が、お静の願文から窺い知れる。後に記そう(^_^;)。 (ちなみに、崇源院の呼び名は、小督・お江・江与・おいよ・達子・等と書かれ、秀忠と婚する前に夫だった男性は、二人とも三人とも言い、@佐治一成・A豊臣秀勝の後、B九条道房が入る説がある(^^ゞ。いずれも夫に先立たれた事となる) 二人目の子(正之)も同じ目にあう所を、お静の弟・神尾政景が「生むべき」と主張し、お静と政景の姉婿・竹村次俊と口論になった。が、政景はなおも「生むべき」と主張して、お静を竹村亭に連れ込み、姉に預け、自分は出奔した。 この事で、却って神尾一族は結束。お静に出産させ、生まれた子を守ろうと決意を固め、秀忠や大乳母はお静の身を案じて、土井利勝や井上正就に相談の結果、武田信玄の娘・見性院(穴山梅雪の未亡人)に預けた。
保科正之の養母となった見性院の事もちょっと書いておく(^^ゞ。 穴山梅雪との間に、一人息子「勝千代」がいたが、16歳で病没して、穴山家は断絶していた。。 見性院は信玄の娘、穴山梅雪の母は信玄の姉だったから、これにより武田家再興の道もグッと薄まってしまった(^_^;)。 (武田遺臣・秋山氏の娘が、穴山夫婦の養女扱いとして家康の子・信吉を生んだため、一時、武田姓は再興されたが、信吉も若くして死に、一代で途絶えた) 見性院はお静に同情してたそうで、異母妹の信松禅尼(仁科盛信の同母妹)とも協力しあって、秀忠正室(崇源院)の探索・追及の厳しい中を、アチコチに転々とさせながら、お静の方を匿った。
右写真、「碑石」は、「会津藩主松平家墓所(2007年2月号)」でも見た「亀趺(きふ)座」の、下を支える「亀石」だけが無くなってるスタイルだね(^^ゞ。 この頃、この「碑石」に似た、大きな屋根つき四角柱の看板を、よく和菓子屋のチェーン店などで見るようになった(笑)。 福島県は何か商標料みたいのを、こういうトコから取れないかな(爆)。 ところで「碑石」の脇で、さりげなく翻る紫色の旗には、「名君・保科正之公の大河ドラマをつくろう」と書いてある(爆)。 これ見て亭主が、「『賛成』とか『そう思う』とか『イイネ!』とクリックする場所はないの?」と言ってたら、この先の拝殿にも、さりげなくノートが置かれ、署名を求めていただよっ(笑)。 その拝殿に向かって登る!(パノラマ2枚)
さてさて、見性院を頼った後も、妊娠中のお静の方の、あちこち流転の日々(省略させて貰うけど)は続いたようだ(^_^;)。。 この流転の最中、お静の方が氷川神社に願をかけた文が残る。 この願文が本物であっても、お静の方のみの言い分であるから、ただちに史実と認めないまでも、この後々になるにつれ、確かに保科正之への認知が滞る事への異常感は増す一方なので、この原因は一応書いておくべきだろう。 「御たいしつとの御心ふかく」とあり、「御台(秀忠正室)」の「嫉妬」を原因として、「今しんしようぜんにのいたわりによつて」と、信松禅尼(見性院の異母妹)の保護を受ける経緯を書いている。 1611年に、保科正之は生れた。 お静の方の姉の夫、竹村亭で何とか産む事が出来たようだ(^_^A)。
この碑石は、大学者「山崎闇斎」が保科正之の事績を称えた長文を、巨石じゅうに刻んだ物で、こちらには亀石が下にあり、石は土町から、上に乗る碑石は河東村八田野から、それぞれ採石したという。 字数1943文字、碑石高5m45(一丈八尺)、幅1m83(六尺)、厚さ1m51(五尺)、重量30屯余(八千余貫)と、日本最大のもの。 「土津霊神」とは、保科正之の事で、これには勉強好きの正之が、中でも特に、当時殆ど絶える寸前だった、日本古来の卜部神道の大家、吉川惟足を師として、秘伝の奥義を受け継ぎ、体得した事が深く関係している。 正之は神道の他、暦の学問も盛んに行った。 神秘主義というのとはだいぶ違うが、正之の背負った複雑な前歴が導いた方向のようには思える。
この神社は、保科正之の墓所として、元は延宝三年(1675)に造営され、日光東照宮にも比された豪華絢爛な様式を持っていたという。 近くの「猪苗代城」に城代を置いて守らせていたが、戊辰戦争で燃えてしまった。 そのため現在の社殿は、明治13年(1880)に再建されたそうで、野口英世もよく拝んだといい、大正4年(1915)に帰郷した際には、小林教師と共に参拝し、持参カメラで写真を撮っている。 また、右の写真、末社の向こうに続く森林道から奥に、正之の墓所が続いていた。修理のため歩道入口から入場禁止となってたので、ここからパンパン(^∧^)。 *神式だからね* 末社に祀られるのは、ざっと……、(ちなみに、保科正之は1611〜1672)
さて正之の出産後、これを知った秀忠は、密かに「幸松」の名と紋入の小袖を与えた。 秀忠幕閣で隠密裏に全てを取り仕切っていたのは、土井利勝であったように思われる。 また、主に井上主計頭(秀忠の乳母の子)の一族などが養育の補助もしていたが、相変わらず秀忠正室の追及はやまず、秀忠・土井利勝・本多正信らは、再び見性院に助けを求めた。 見性院は大奥にも出入りして、秀忠正室とも親しかったが、この一件によって大奥への出入も秀忠正室との交際も断わって幸松を引き取り、自身の家来などをつけて守り育てた。 当然、秀忠正室の追及は及んだが、見性院は武田家に跡継がないのを、むしろ盾に取って、「武田の名を取らせ、自分の菩提を弔って貰うつもりで手許にある養子」と言い張り、「自分は武田信玄の娘だ」と突っぱねたので、さすがの崇源院にも、それ以上の追及は適わなかったという(笑)。 続きは、お昼ご飯を食べながら( ^,_^)ф↓ <会津郷土料理と猪苗代湖(^O^)> お昼は、わりと地元で有名っぽいお店に行ってみた(^^)。
ジャジャーン!左「朴葉味噌焼き」中央上が「会津わっぱ飯」(^^)
わ〜い、頂きま〜す!σ(^Q^ )<続きは頂きながら……パクパク 幸松がさらに成長すると、見性院も女ばかりの家で育てる事を案じた。 武田家の旧臣の中で、今は誰も振り向きもせぬ自分の元に、たびたび挨拶に来てくれた、保科正光の誠実な人柄を見込んで養育を頼み、土井を通して窺いを立て、密事ながら秀忠の内意も得た。 こうしてお静母子は再び見性院の元を離れ、高遠城での生活が始まった。 保科氏は途中16年ほど(1590〜1606)、下総多胡(千葉県香取)に移封していた事もあるが、この時には高遠に戻っていた。 高遠城は仁科盛信の戦死した亡骸を、密かに民人たちが葬り、たった一城のみ織田に立ち向かった武勇を語り伝えており、高遠城の合戦譚を、幼い幸松も熱心に聞き入ったようだ。 「槍弾正」と呼ばれた保科氏の武勇も聞かされていたであろう。 こうした事が、将軍の子としては遅すぎる立身にも関わらず、武功を立てずに大身を得る事に対する、謙虚な反省に繋がったのかなぁ……。
保科正光は、元々、保科氏を継ぐべき立場にいた「真田左源太」(正光の妹が小日向氏に嫁いで生んだ男子)との折り合いを考え、正之と左源太の両方が成り立つよう遺言を残したり、細々と気を配りながら正之を養育した。 その左源太、配慮の甲斐もなく、1627年に病没してしまう。正之が16歳の時だ。 こうして、保科氏はいよいよ正之が継ぐ他なくなり、とは言え、保科正光にしてみれば、将軍の子に保科の家を継いで欲しいとも言えず、後はひたすら、秀忠と正之の親子の対面を待ち望む切実な日々を送る事となったのだ。。 ん、美味しかった。ごっつぉーさま(^nn^)。 これより猪苗代湖に出る。これも前に会津に来た時から、亭主が行きたがってた場所♪
向かってる場所は、この辺→地図E 猪苗代湖の北岸を、やや会津(西)に向かって行くので、この通り磐梯山が右手に見える。 正光も高齢となり、焦りは募ったが、秀忠と正之の初対面も、親子としての名乗りは許されず、家臣として、「上様お目見え」のスタイルだったようだ(^_^;)。。 しかしその直後の1629年、次兄・忠長がいる駿府城に「せめて」と登城した正光の願いに応じて、初めて「兄弟としての対面」が適った。 正之は駿府城に赴き、初めて会う実兄から、大いに歓待を受けた。 対面前の忠長は、人知れず育った弟に恥を掻かせる事を恐れ、厳重な人払いをしたが、正之に会った後は、むしろ多くを招き入れて弟を自慢したと言う(笑)。 しかし、肝心の秀忠との親子の名乗りを果たさぬまま、1631年、ついに保科正光は没してしまった(>_<)。。 それも皮肉な事に、秀忠が病気になったので、正之が見舞いに江戸に上がってる最中であったという(;Д;)。。 猪苗代湖の北岸・越後街道(49号線)を西へ
跡継なく、養子の届け出もせずに当主が亡くなった場合、家は取り潰されるわけだが(^^;)、こうした事情で保科正光は、保科氏相続について、何も言えぬ内に死ぬしかなかった。 秀忠は他の場合とは違って、正之の相続をすぐに認めている。 また保科氏の家老五人が選ばれ、酒井・土井によって、「幸松」の相続と家老による補佐が命ぜられ、この時はじめて「幸松」改め、「保科正之」を名乗る事となった。 この異例の相続といい、正之21歳まで幼名のまま通した事といい、烏帽子・諱を与えるに相当の人を立てられなかった事情が窺い知れる。 勿論この「正之」は、養父「正光」の一字を当てている。 そして翌1632年、秀忠が死去。 正光の悲願もならず、結局「正之」のまま一生を終える事となった。
ただ直系ではないものの、保科氏には正直の弟・正勝から続く保科氏もある。 これを跡取りにする可能性がどうだったか調べてないが、これも正之が「松平」になっておれば、「アリ」だったのかな〜(^_^;)。 正式に保科家当主となった正之は、1633年、23歳で正室(菊子)を保科氏の身内・内藤家から娶った。 家光との兄弟対面の記録は特に無いようだが、1634年、家光の妹で、正之には姉にあたる東福門院和子が後水尾天皇に嫁いで生んだ興子内親王が、明正天皇として即位したため、家光は上洛し、正之は高遠藩主としてだが随行し、姉・東福院にも対面している。 この時に東福院を介して紹介されたか、知り合ったと思われるのが、正之の正室・菊子の死後、代わって後室に入った藤木万子で、東福院の女官であったという。 猪苗代湖の遊覧船乗り場に到着(^^)(パノラマ5枚180度以上)
再び、地図E(^^)。 この猪苗代湖は、9万年前と5万年前の、二度の磐梯山の噴火による火砕流の堆積物で、猪苗代盆地の川が堰き止められて出来たそうだ。 噴火はその後、大同元年(806)や(慧日寺が翌年に創建)、明治21年(1888)にも起こり、明治のは集落を埋没させ、500人近い死者を出す大災害で、各々をせき止めた土石流で、桧原湖・秋元湖・小野川湖・五色沼などが形成されたという。
1635年に生母・お静の方(浄光院)逝去。52歳。 1636年、25歳の時、出羽国最上に国替えとなる。ここで3万石から、イキナリ20万石へとビッグ昇進(^O^)! 最上は鳥居忠恒の領地だったが、後継の手続がまずく(^_^;)、取り潰しになる所を、関ヶ原の前哨戦(伏見城攻防)で犠牲となって果てた祖父・元忠に免じ、24万石から3万石の減封で済まされ、高遠に移された。 つまり鳥居と保科が最上と高遠を交換したわけで、保科氏は20万石に見合った人数を高遠で調達する事となり、さらに転地の最上でも、鳥居家の浪人など多く召し抱えたようだ。
……後に書こう(笑)。 同1637年、堀田正盛が家光の内命として、今一人、保科氏の後継、保科正貞(家康の妹・多却の君が保科正直との間に生んだ男子)が、正直が家康から拝領した品を欲しがっているので、保科氏の家宝とともに譲ってはどうかと申し入れ、正之はそれらを正貞に贈った。 父・正光の代には絶縁・疎遠であった正貞だが、こうして正之より後は、飯野藩(上総国・千葉県富津市)と会津藩は親しい関係を持ち続けた(^^)。 また、保科正之の一代は生涯「松平」姓を固辞し「保科」姓を名乗ったが、三代・正経からは「松平(会津松平)」を名乗り、「保科」姓は正貞の飯野藩に受け継がれた。 同年、島原の乱が勃発し、保科氏は今度こそ戦功を……と家中みな勇んだが、家光は正之を呼び出し、家康が秀忠に残した遺訓に、「奥州の変事には上方を守り、西国の変事には奥州を守れ」とある事を例に取り、急ぎ戻って奥州の固めをするように申し渡した。 1643年、正之は33歳で会津藩主となる。実質28万石。 1651年、四代・家綱の治世後見を頼みつつ、三代将軍・家光は世を去った。 <白河に向かう> 「猪苗代磐梯高原」から磐越道に乗って東進、「郡山」で東北道に乗り換え、「白河」まで南下する。地図F←スゲェ縮小 まずは磐越道に向かってGO!(^O^)/~
さて、藤木万子の話(^^ゞ。正之の死後と思われるが、「聖光院」と号しているので、この先はそう記す。 四男五女を生んでおり、二代藩主・正経の母でもある。 まず聖光院が起こした事件の一つに、「媛姫毒殺事件」がある。 側室の子を殺そうとして、自分の娘(媛姫)を誤って殺してしまった事件(^_^;)。 同時に、保科正之が隣国の上杉氏を断絶の危機から救った話でもあり、また戊辰戦争の列藩同盟にも繋がるので、ちょっと長くてスイマセンが、良かったらこちらを読んでネ(^^ゞ→(2007年4月<赤穂事件と上杉氏>) この時、保科正之は存続できた上杉氏に、殉死者や浪人を出さないよう申し渡している。
ただ、媛姫事件のあった1658年の後も、ちょくちょく問題を起こしてたみたい(^_^;)。。 なので、事件の14年後の1672年に、死の直前にある正之は、遺言で、女の政治への口出しを禁じる事を、家訓十五条の「第四条」に入れ、万子に誓わせて、この世を去った。 なのに聖光院は、翌1673年から早速、「狐が騒ぐので祈祷の結果、生霊や死霊の祟りとわかった」などと言い、毎年のように、藩主の母という立場から、家来などを動かして賞罰に口出ししたり、身内(藤木氏)の勢力を持ちこんだり、藩政を動かそうとして、いちいち家老らに、正之の家訓を盾に却下されている(^^;)。 磐越道に乗ったぁ〜! まず東進(^^)。 結局、1681年に二代・正経が病没すると、三代・正容は正之の六男で、その母が聖光院ではなかった(側室の沖富貴氏だった)ので、聖光院の意が通りにくくなる。 やがて聖光院が要職に押し込もうとした甥の小隼太弘隆はお役御免となって、京にもどる途中に箱根で病没。小隼太の妹婿・保科民部(保科一族)も流罪となった。 聖光院の晩年は、藩内に権勢も及ばず、実家のある京にも戻れず、文字通り江戸に幽閉同然だったようで、1690年に71歳で没した。 が、三代・正容がその遺骸に礼拝し、立ち上がると、正容の袴を掴んで棺の中に引き込もうとしたので、御用人が懐剣で袴の裾を切り落としたという(・・;)。。 保科正之の生きた時代は、戦国時代の爪跡が色濃く、島原の乱や由井(由比)正雪の乱など、大勢のキリシタンや不満浪人が渦巻いていた。 一方、白岩百姓一揆、明暦の大火など、その後の江戸時代にも多発した事件や事故への対処として、正之は剛柔あわせもつ、実に理想的な前例を示した。 そんな中、大勢の子を産んだ妻とは言え、女一人制御しきれなかった点は、不思議と言えば不思議かもしれない(笑)。 母の胎内にいる時から、女難の始まりだったと言えば言えようが……(笑)。 聖光院が東福院に紹介された(のかな)女性なので、拒否しにくかったとか、上賀茂神社の神官の娘だった事も一因するだろうか。 暦の研究とか、神道の普及に際し、知識や人脈など、万子の実家筋から得られる物も重要だったのかもしれない。 ただ、狐や祟りとか、生母の身分や長幼の順がどうこう言うのも、正之と一時はそうした話を語らい、意見が一致していた(と勘違いしていた)感じもするような……(^^ゞ? そもそも正之自身、暦や神道を学び、神霊を体得するなど、武将としてちょっと特異な経歴と言える。 ただ、こんな事も思うのだ。 正之が引き取られて何年も過ごした高遠城は、落城の時、多くの血に染まった。 自身は戦を体験していない少年は、城の中で、何度か亡霊の声を聞き、夢にうなされたかもしれない。 その城は、正之の養父・正光の母(跡部氏)が壮烈な自害を遂げた場所でもあった。 正之にとって、正光の母(跡部氏)は、義理とはいえ直系の祖母である。 正俊・正直・正光の三代は、それぞれ逃げ延び、正直が家康の妹を娶って家名を存続した。 後妻の子の正貞と、前妻の子・正光の間がギクシャクしたのも、家の犠牲となって死んだ母の影が、正光の中に重く残り続けたからではないだろうか。 正之の代より以降、正貞の一族とも親密になれ、保科の名跡を委ねる可能性も出たが、正貞には祖母跡部氏との繋がりはなく、菩提を弔う子孫は自分しかいない、という思いは、正之の中に積もっただろう。 正之は生涯を通して殉死制度を憎んだ。その廃止を望み続けた。最上でも会津でも殉死禁令を断行した。上杉氏にも望み、幕政へも訴え続けた。 そこには、城と運命をともにさせられた祖母……ひいては母の死を悼む養父・正光への二重に鎮魂の想いが、裏に秘められていたのかもしれない。 <白河小峰城>
そして白河ICで東北道を降り、後は日が暮れるまで、行ける所まで〜って感じで、まずは白河小峰城に立ち寄ってみた。地図G←詳しくは拡大してね(^^ゞ これが「小峰城」の入口(゚.゚)(パノラマ4枚180度以上)
この入口は、「太鼓門跡」と呼ばれ、「二ノ丸」の南側から入口にあたる門だった。 後ろ見てみると駐車場、さらに向こうは「白河駅」(パノラマ4枚180度以上)
駅と線路なんだけど、城壁っぽい漆喰の白壁になってて、駅の方がお城みたい☆ミ
写真の通り、今「現在地」と赤い字のある所にいる。 「太鼓門」は、「三之丸」(左の写真の右下、広大な敷地)からの土橋を渡り、左側に折れた所に設けられていた。 高さ約3.8メートルの石垣の上に櫓をわたした櫓門で、門の高さ約10メートル、間口が約10メートル。 文化5年(1808)の絵図では、柱には欅材が用いられ、瓦葺きの切妻屋根があった。 城の太鼓門と言うと、藩士の登城合図に鳴らす太鼓を置いた例があるので、そうした物だったかもしれない。 これより中に入ると、右の写真の通り、広い芝生の原が「二ノ丸」に相当し、水色の濠の内部に、「前御門」(1994年に復元)と「三重櫓」(1991年に復元)が建っている。……じゃ入ろう(^^)。 これが、その二ノ丸広場。広い〜!(パノラマ2枚)
この白河小峰城は、「白河城」とも「小峰城」とも言うそうだ(^^ゞ。 領主としては、平安末から戦国末(1189〜1590)まで401年間、結城氏だったが、その後は転々と交代。 遠くに見える天守閣っぽい建物は、江戸初期(1627年)に建てられた物を模範に、1991年と1994年に再建している。 白河の歴代領主・藩主@〜結城時代〜
城の立地は、那須山中を水源とする阿武隈川の南岸に面し、川の氾濫原、「小峰ヶ岡」と呼ばれる、東西に細長く延びた独立丘陵(標高370メートル)を利用して築城された。 様式は梯郭式平山城。 築城は、南北朝時代の興国年間(1340〜46)、結城親朝がはじめで、以後は白川結城氏の一族・小峰氏の居城だったが、永正年間(1504〜20)頃には、その本家・白川結城氏の本城となっていた。 (パノラマ3枚ほぼ180度)
結城氏の事は、前々回(2011年6月A)でも書いたよね(^^)。
朝光−朝広┬広綱………………………………………晴明=秀康(徳川家より) └ 祐広(白河)−宗広−親朝(小峰)……義親(秀吉により所領没収) 藤原氏系図 これが「前御門」(1994年再建・パノラマ3枚ほぼ180度)
時代劇気分でユッタリと石段を上がって来て、この「前御門」を潜ると、↓スグ今度は「三重櫓」(1991年再建)に向かうべく、登り階段が用意されてる。 かなり急斜面の上に三重櫓がそそり立つ(パノラマ4枚ほぼ180度)
が、登る前に、この「前御門」と「三重櫓」のセットを、ちょっとロングで眺めてみたい(^^)。 ズ〜〜ンと後ろに下がって見る(パノラマ4枚180度以上)
すると、この手すりから城下の景色が見られる↑(^^)
さっきの広い二ノ丸緑地の向こうに広がる街(パノラマ3枚ほぼ180度)
じゃ、戻って、改めて三重櫓に向かおう(^^ゞ。 天正18年(1590)、豊臣秀吉による奥州仕置あたりから、城主(とか城代)がチャカチャカ代わる(^_^;)。 まず白川(白河結城)氏は、小田原不参陣につき改易となる。 以後は蒲生氏・上杉氏、関ヶ原の戦い(1600)の後、再び蒲生氏が会津に入り、白河を支配下とし、会津藩の城代が置かれた。
が、丹羽=16年、榊原 (松平)=6年、本多= 32年、松平(奥平)=11年、 松平(結城)=49年、松平(久松)=82年、阿部= 44年と、歴代藩主の中では短い在歴で、築城も幕府の命によるものだった。 江戸初期の幕府は幕藩体制の確立期にあり、外様大名から江戸城を防備する一環として、奥州要衝の地・白河を固める方針を取ったからだ。 白河の歴代領主・藩主A〜以後、白河藩〜
階段を上がって来て、「三重櫓」を見上げる(パノラマ縦3枚)
丹羽は小峰ヶ丘の本丸を、南東に二ノ丸・三ノ丸を配置し、梯郭(ていかく)式平山城として大改修した。 その際、本丸の石垣作りにともない、「おとめ桜」の伝説が残っている。 ←敷地の端を見回すと……、
本丸の一角にある石垣が、幾度となく崩れ落ちてしまうので、人柱を立てる事になった。 ちょうどその折、藩士・和知平左衛門に、娘が会いにやって来ていた。 娘の名は「おとめ」といい、不運にも捕らえられ、人柱にされた事が伝えられている。 城が完成すると、人々は「おとめ」の悲運を哀れんで桜を植え、「おとめ桜」と呼ばれるようになったという。 ……何か今回は、『夜叉ヶ池』(も生贄の話)と言い、高遠落城と言い、聖光院(藤木万子)の怪談と言い、やたら女性の怨念話が多いと、今気づいた(^^;;)。。 お城の中にも入れる。もう戸締りしてたけど!(笑)(パノラマ2枚)
丹羽家の二本松転封後も、上に出した通り、松平(榊原)・本多・松平(奥平)・松平(結城)・松平(久松)・阿部の7家・21代にわたり、それら大名の居城として、また奥州の関門として役割をはたした。 東北三名城の一つとされるそうだが、その後に続いた藩主がどのように手入れしたかなどは判らなかった(^_^;)。 江戸時代の城郭は、基本的に幕府がやかましいから(笑)、自分らの意思で改修・改装できないのは勿論、伺い立ててもダメが出る事も多い(笑)。 だから最初に作った城を、後の藩主が受け継いだのだと思うが、上記の経緯で建てられた城だから、或いは命令が出て手を入れた、とかいう事もあったかも……?
本丸は丘の頂上部にあって、帯郭が設けられていた。 続いて、東南二ノ丸、三之丸、外曲輪が広がり、その周囲を石垣・土居・堀などで区分し、南に大手門、北に尾廻門(搦目門)、東に横町・田町門、西に道場・会津門があり、全体はちょっと不整形ながら、五角形を呈した城郭だった。
これは、在歴の中で最も長い松平(久松)氏の、松平定信が藩主であった文化5年(1808)、「白河城御櫓絵図」を作成しており、その中の「御本城御殿平面図」にある。 同図によると、奥に「御小書院」、中央部に「御月番(月交替の担当家老の部屋か)」や「御奉行」などが見え、藩主の居所と政庁を兼ねていた事が考えられる。 「御書院」では家臣を集めて、申し渡しなども行なわれたようだ。 建物の規模や外観などは不明だが、同じ頃に作られたと考えられる別の御殿絵図には、畳数は707畳とあり、かなりの大きさだったことがうかがえる。 慶応二年(1866・6月19日)阿部氏が棚倉に転封になると、白河城は幕領となった。
小峰城から南湖公園までの間、南北に無数の墓所や鎮魂・慰霊・供養碑などが点在しており、各所に「戊辰戦死」とされた「供養塔」「戦没碑」「死者墓」などあり、各々いずれも何体かをまとめて埋葬したのだろうが、あわせてざっと29箇所ある。 「戦没者」とだけ書かれてる地も多いし、藩ごとに整理されて書かれている地もある。 東軍では、仙台・福島・弘前・棚倉・二本松・会津・飯野・越後高田。 西軍では、薩摩・長州・土佐・大垣・館林・佐土原・芸・宇都宮などの名がある。 (軍の東西に分けた中には、藩としての参加部隊もあれば、藩とは別に脱藩者などの場合もある) ちなみに、この地図には、左下に「金売り吉次の墓」、右下には「白川城跡」や「白河の関・白河神社」も書かれていて、長い歴史を感じる(^^ゞ。 現在、「白河小峰城」は、本丸及び二ノ丸の一部約8万uが史跡として指定され、遺構は今も、本丸・二ノ丸などと濠、石垣の一部が残存し、当時の面影を偲ぶことができる。 また、見て来た通り、平成3年(1991)には「三重櫓」、同6年(1994)には「前御門」が、当時の史料によって忠実に木造復元されている。 が、当時の城郭の範囲は、先ほども見た線路と駅、「東北本線」と「白河駅」より南側まで含むもので、約60万uの広範な規模を持つものだった。 <南湖公園> 白河小峰城と同じぐらい名所の「南湖公園」は、駅の南にある。地図H 小峰城や白河駅から歩いたら……30分ぐらいはあるかな(^^ゞ。 公園じたいがデカくて、園内にも車道が通ってるし、緑地も多くて動植物も豊かだから、駅近くの繁華街から少し距離があるのは納得だわな(^_^;)。 南湖公園の南側は広い広〜〜い湖!
初めに車を寄せたのは湖の南岸からだったかな。でも湖の周囲を巡る園内道路をしばらく走り回ったので、アチコチの写真がある(笑)。 江戸時代の公園なのにどこかロマンチック(#^.^#)(パノラマ3枚ほぼ180度)
この南湖公園は、さっきの白河藩・松平久松氏の三代藩主・松平定信が作った、日本で一番最初の「公園」(^^)。 定信は、「寛政の改革」で有名な江戸中〜後期の人だよね(^^ゞ。 だいたい時代劇だと、まず田沼意次の時代があって、しかる後……、 「賄賂・汚職はダメ! 質素倹約\(>o<)/!」 と定信が出て来るんだけど……、 「白河の清きに魚の住みかねてぇ〜元の濁りの田沼恋しきぃ〜( ^。^)σ/」 ε==(/*o*)/ とか詠われちゃうのよっ(笑)。 でも、ほらほらっ、ちゃんと鳥サン達がいっぱい住んでるでしょ?! ちゃんと詠い直してあげなさいねっ>( ゚.゚)〃 (^^ゞ<ハイ そうだ、そうだ、と言いました、バッ!
ま、説明は後で(笑)。まず湖の廻り「十七景」だけ先に……↓ ↑なぜか北が左に廻ってるけど、北を上にするとこう→地図I(かなり拡大版だが) 北部:月見浦・共楽亭・錦の岡・鏡の山・真萩が浦 東部:下根の島・御影の島・月待山・千世の堤・八聲村 中部:関の湖 南部:小鹿山・千代松原・有明崎・松風の里 西部:松虫の原・常盤清水 以上を、「南湖十六勝十七景」と言って、松平定信の選定(^^)Ш<パッ いよっ天晴れ♪ 園内の公園(日本庭園)「翠楽苑」入口付近
こちらが「南湖公園」日本庭園に続く緑地(パノラマ3枚ほぼ180度)
この「南湖公園」は、享和元年(1801)に、松平定信が、水利開発と貧困者救済を兼ねて築造した回遊式自然庭園。「南湖」とは「(白河小峰)城の南の湖」という意味と、唐の詩人・李白(701〜761)が洞庭湖を詠んだ詩の「南湖秋水夜無煙」から命名したと伝えられている。
定信は、西の那須連邦、東の関山の眺望を取り入れ、湖畔には松や吉野桜、嵐山の楓などを移植し、湖を囲む十七の景勝地を選ぶなど、自然との調和を図って造り上げた。
昭和3年(1928)に、国の天然記念物に指定されたが、昭和45(1970)年に枯れ、専門家が増殖した後継樹が兼六園にあるらしい。 これを贈られた経緯が重要で、『兼六園』の名が、加賀藩の12代・前田斎広の依頼を受けて、松平定信が命名したからなんだって(゚.゚)! その縁により、『東京しらかわ会』設立20年記念で、その後継樹を石川県林業試験場の協力で、贈呈を受けた事が、平成17年(2005)付の碑に記されていた。 4月下旬〜5月上旬ごろ、緑葉と同時に花が咲き、散る時は柄をつけたまま落ちる。 八重の小菊のような菊桜の中でも、特に花弁の多い品種で、一つの花に300枚以上の花弁を備え、花弁は外側が淡い紅色、中心分は濃い紅色。
松平久松氏は辿ると、水戸黄門・徳川光國の弟(頼元)から出た家系なんだね(゚.゚)。 頼房┬光國 └頼元−頼貞−定賢−定邦=定信(養子) 定信自身は、宝暦8年(1758)、八代将軍・吉宗の次男・田安宗武の子として、江戸城内に生れた。 子供の頃から優秀で、将軍になる可能性もあったんだけど、さっきも言った田沼意次とスッタモンダあって(^_^;)、松平久松氏に養子となったので、この白河にもやって来るんだね。 天明3年(1783)家督相続。白河11万石の城主となった。
時間終了で中には入れなかったので、せめて見取り図を撮ったんだけど、光度不足でブレやすくて……(^_^;)。 茶室っぽい建物と池辺を供えた庭園だね。
今日は茶室には入れなかったけど、この「南湖公園」が、当時各地に存在した大名庭園と大きく異なる点は、囲いはもうけられず、庶民に開放された、日本最古の公園としても有名な点だろう。 士農工商の身分制度に縛られた封建時代、「四民共楽」、または「士民共楽」(武士も民衆も身分の隔てなく共に楽しむ)という理念が、大きく反映されたためと理解されている。 定信の貫いた理念と、南湖の自然美が評価され、大正13年(1924)「南湖公園」として国の史跡及び名勝に指定された。 「翠楽苑」も時間内に来れば、抹茶と和菓子を500円で頂けるようだよっ(^。^)。第二水曜が定休。 <南湖神社、1> ↑暗くなっちゃったから写真はあまり無いんだけど、ちょっとだけ続き。
定信はこの時、緊急に食糧を輸入し、領民に配ったので、領内からはナント一人の餓死者も出なかったのだとか(゚.゚)。 輸入先は、さっきまでいた会津若松の会津松平氏のようだ(^^)。 会津松平氏は保科正之があらゆる手段を尽くして食糧増産に励んで以来、日常は質素に貯蓄して、災害や飢饉の時には、惜しみなく放出する方針を取っていた。
増殖面では、養蚕の普及、植林、製紙、製陶、たたらの設置など自給自足の基盤を確立した。 文化面でも、この南湖の築庭を初めとして、「白河の関」の検証、「集古十種」「花月草紙」など多くの著述活動や、郷学校敷教舎、藩校「立教館」の設置など、特に教育には力を入れた。 将軍になれなかったのは……うん、まぁ悔しかっただろうね(^^ゞ。 こないだもCS時代劇専門chで、歴史上の人物を裁判するって企画をやってて、田沼の黒い風聞は、その後の松平定信時代の捏造の疑いがあるとかやってた(笑)。 でも、追いやられたからにせよ、ただ来て腐ってたわけじゃなく、奥州の多くの人達のために善政を行おうと、並々ならぬ努力をした点は認めてあげてもいいと思う(^^)。領民からは崇敬を集めていたようだ。 天明7年(1787)幕府老中首座となり、国政に参与、寛政の改革を断行。 文化9年(1812)家督を定永にゆずり「楽翁」(あるいは白河楽翁)と号した。 文化12年(1829)江戸に歿し、深川霊厳寺に葬された。享年72歳。 以上、関連事項は(だいたい(^^ゞ)、 2007年2月<東山温泉の朝>以降 2007年3月<鶴ヶ城、2(続き)> 2007年4月<赤穂事件と上杉氏> 2011年6月A<塔のへつり>内 (武田・真田関係は多いし、深く絡んでないんで外した(^_^;)。後で思いついたら貼るかも?:笑) というわけで、次回はこの「南湖公園」の続きと、殆ど写真はないが、「白河の関」にも行くには行ったので、その辺りを。 次回こそ、間違いなく最終回!(笑) ってか、次回は殆ど写真も話も無いから、事実上、今回が最終回みたいなもんだけど(^^ゞ。 その後は、今日(2011年8月末)に至るまで、殆ど旅行っぽい事してないんだけど(笑)、日常編の写真も溜まってるんで、そんな所をツラツラ(^^ゞ。 <つづく> 2011年08月29日 |
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