<2007年・城主のたわごと12月>




2007年9月、宮城〜山形ツアーの第二弾(^^)。

一日目・鎌先温泉〜2日目・白石城までをお届けっ♪





     
  前回(11月)からスタートの「宮城〜山形ツアー」、5回シリーズ(の予定)の2回目。
時は2007年9月。今回は4日間の内、1日目の夜〜2日目お昼ごろまで(^^)。



<鎌先温泉「最上屋旅館」>

前回(11月)は夕暮れ時の旅館到着の様子と、夕飯までをお届けしたっ☆ミ
今回は、その一泊目「最上屋旅館」からスタート(^^)。

「最上屋旅館」
正面・入口

細い通りをパノラマ4枚で繋げると(180度以上)

「最上屋」というのは、位置的に見て、最上義光の家と何か関係があるのでは……と聞いてみたのだが、「いやいや(^^ゞ、ただの百姓でしょう」とのお答えだった。

←これがこの旅館と温泉の発祥を示す伝承。

お百姓さんが農作業をしていて……という事だろうか、鎌の穂先で土を掘っていたら、温泉が湧き出た、という素朴な伝承である(^^)。

最上屋旅館」の二階部分・見取り図

建築は昭和初期ごろの設計図を元にされてるそうで、↑の通り、エンエンと細長い敷地を横いっぱいに展開されている、昔懐かしい情緒タップリの温泉宿(^^)。

ちょっと中に入って見てみよう(^^ゞ。↑の図だと真ん中あたり。左右の廊下が入れ違いに食い合わさる部分。他より比較的に間取りが広くて、写真が撮りやすい。

左から、洗面所・長廊下・階段(パノラマ4枚・180度以上)

←長廊下の部分を、ちょっと拡大。
この通り、本当に細長い廊下がエンエンと続いて、左右に泊まり部屋がある(^^)。

各部屋の扉。→
こんな風に、ちょっとした箇所ごとに、イチイチ飾り屋根や飾り仕切りが設けてあって、階段にも屋根や小窓などついてて、味わい深い。

今度は反対側を撮影。↓

左から、廊下・奥に階段・洗面所(パノラマ4枚・180度以上)

↑だいたいは朝、出掛ける前に撮影させて貰った物だが、この左側の廊下が、夜は↓

これまた情緒がある(^^)
こっちは朝、洗面所の飾り屋根や格子窓

温泉には夜も朝も入った(^^)が、夜の写真をお届け〜♪

ちょっと暗い階段をワクワク登り
温泉場に入ってからも
又々階段を登って……

振り返る。この左が
脱衣所。実はここ露天で貸切(^^)

露天と言っても室内(屋上なの(^^ゞ)
ド〜ン! 古風な湯出し口♪

お湯は、ナトリウム−塩化物・硫酸塩泉(低張性中性温泉)。
神経痛・筋肉痛・関節痛やこわばり・五十肩・運動麻痺・うちみ・くじき・慢性消化器病・痔・冷え・病後回復・疲労回復・きりきず・やけど・慢性皮膚病・虚弱・慢性婦人病などに(^^)。

温泉街だけど、ここの温泉は中でも特に人気らしく、朝入ってから近くに散歩に行ったら、歩いてる間じゅう凄い汗を掻いて驚いた(^^ゞ。

今のが屋上の温泉で、実はもう1個、大衆浴場があるんだけど、そこに行く前に、宿泊部屋から見た光景を(^^)。

渡り廊下を外から写す(パノラマ4枚タテヨコ組合せ)

←朝見るとこんな感じ(^^ゞ。

手前の建物が「最上屋」なんだけど、後ろにスグ山が迫ってて、他の旅館が所狭しと並んでて、すこぶる圧巻!

で、ちょっと中央の渡り廊下↑に注目して貰い……。

その渡り廊下に今いる(笑)
渡り廊下から向こう(パノラマ6枚タテヨコ組合せ)

スゴイ見づらいパノラマで申し訳ない(^^ゞ。
つまりこんな風に写真だと、ツギハギを多様しないと全体が見せられない。つまり狭いって事なんだけど、首を巡らせてこの圧巻な風景を味わう点をもって、「写真では伝えられない情緒」を言い表したいのであるっ!(笑)

この後、仙台に行き、知人にも会ったのだが、ここの話をしたら、「火事になった時、大丈夫なのかな〜といつも思う」と言ってて、確かにそれはあるな〜と思った。
でもそれだけに、この先こういう場所って、ドンドン無くなって行くんじゃないかという気もするから、今が泊まり得って事でもあるんだよねぇ(^。^)。

渡り廊下に差し掛かる
過ぎて階段を降り
一階、公衆浴場へ

一階浴場前の廊下
誰も居なかったので、こっちも撮影(^^)v


















毎度お馴染み、朝ごは〜ん(^O^)。頂きま〜す!

前回からお届けして来た通り、この辺りは鄙びた山奥で、温泉宿も数える程しかないが、蔵王あたりに比べて、まず白石に近いというメリットがある。
又、こうした古びた情緒と温泉の他に、もう一つ観光の目玉がある。それが……、

これ! 階下の通り見える灯篭は……
こけし!
夜は灯りが燈る

旅館の一階・会計所の左隣はズラーッと民芸品ショップ(^^)
(パノラマ4枚・180度以上)

中央に並んでいるのが、夥しい数の「こけし」サン達(^^)。
実は前日、白石からここに来るまでの間に「こけし神社」というのを見付け、この最上屋さんに到着するや「東北には多いんでしょうか」と聞いてみたら、「そう言えば聞いた事ないような(^^ゞ」と遠慮がちに仰るので、家に帰ってチョコチョコ検索してみたんだけど、やっぱりこの鎌先温泉のしか上がって来ないような?(笑)

この旅館の外部内部ともに民芸調の細工が多いのも、こけしを始めとする、こうした民芸文化が息づいてる証なのかもしれないね(^^)。

本当は鎌先には泊まるだけで、白石に直行の予定だったのだが、この辺りが気に入ってしまったので、この朝は、その「こけし神社」にまず詣でてみた(^^)。

旅館の駐車場から、既に周囲の山景色が(パノラマ3枚)

以上、鎌先温泉の旅館が集まってる場所は、地図を。
で、「こけし神社」の位置だが、地図ではハッキリ掴めない(^^ゞ。白石方面に向かう途中なので縮小版を。地図B(ヤフー版)
(白石から来る途中に見た「こけし神社」は、今も位置がわからないので、ヤフー版の地図をそのまま残しておくが、このあとにいく「弥次郎こけし集落」(地図)の近くにも発見したので、追記しておく→「こけし神社」(地図)、2017/05/03追記)



<弥治郎「こけし神社」>

快晴(^^)。心地よい山間ドライブコースを進む内に、途中「こけし神社」の標識(わりと一瞬(^^ゞ)に入る。

「こけし神社」正式名「小野宮惟喬親王神社」
内部に奉納された、こけしサン達(^^)

右壁には棚にズラリ!
屋根にもソロバン状にこけしの神様が(^∧^)

「小野宮惟喬親王神社」と言っても、「惟喬皇子ゆかりの史跡」というワケではない(^^ゞ。
神社名の由来は、1959年に滋賀県の総本社から惟喬親王の分身をいただき、弥治郎の南に神社を建立・安置した事にあり、その所以は、この「弥治郎集落」が、こけしの産地として知られている所にある。

「こけし」は日本を代表する民芸の一端で、伝統的にも人の手心が篭った崇拝すべき逸材だったと思う。充分に手をあわせて祈る価値が元々あるのであって、正直、自分的には、神様の名前はどっから持って来ても構わんという気がする(爆)。

が、一応、惟喬皇子についても記しておこう。
小野宮惟喬親王は、約1000年前(平安時代)に文徳天皇の第一皇子として生まれ(母は紀氏)、歌人として優れた作品を数多く残したが、弟の清和天皇(母は藤原氏)が立ち、皇位には就かずに京を離れて生活し、木地挽きをするためのろくろを考案したと言い伝えられ、木地業を司る神として深く信仰され、全国各地に小野宮惟喬神社が存在。(木地師には惟喬親王を祖とする伝承が全国に多い)

ここの神社は、2003年「弥治郎こけし村」が開村して10周年を記念し、地元から全国からこけし愛好家に浄財を募り、場所をここに移転して拝殿を改築。2004年1月2日、こけし初挽き行事に先立ち、落成式が挙行、毎年こけし初挽きが催され、ここの案内版にも「弥治郎こけし組合」の名が記されていた。

境内に隣接するのが、こけしの販売スペース(パノラマ4枚)

↑中央右寄り奥のがミュージアムの建物で、こけし展を常設している。無料。
当地の産業として、また全国に広がるこけしの種類など展示してあって、なかなか楽しかった(^^)。
工房&売店
車には(笑)
道路に面した看板

山奥の風情が捨てがたく、しばらく周囲を散策。
近くの杜の鎮守→

橋から見える渓流(パノラマ3枚)

左には「こけし」の橋(^^)
拡大
渓流も拡大

←橋の反対側の滝もなかなかいい眺めで、この辺りでしばし時を過ごした(^^)。

ところで、こけしについては、この旅行の3日目〜4日目に遠刈田に泊まり、蔵王の「こけし館」のパンフを貰った。

以下はそのパンフの内容なのだが、この「弥治郎こけし」についても書いてあったので、参考までに。

東北の北部を北から南へ、
●津軽系(青森県)
オカッパ頭にねぶた絵やアイヌ模様の胴。写真のこけしは胴がかなりくびれている。
●南部系(岩手県)
頭がクラクラ動く(キナキナ)。無彩色。
●木地山系(秋田県)
頭と胴が離れてない。着物模様をそのまま描いたり、前垂れスタイルが多い。

以下は東北南部。まず宮城県を北から南へ、
●鳴子系
菊など華やかな模様入り。頭を廻すとキイキイ鳴る。
●作並系
頭部に赤い輪。胴が細い(写真の物は、胴のくびれ部分がかなり下にある)
●遠刈田
頭が大きく、赤い放射状の飾りやオカッパ頭の物がある。
●弥治郎系
胴より大きい頭に、ベレー帽に似たろくろ模様が特徴。

以下は宮城県の西隣、山形県を北から南へ、
●肘折系
肩張った太く真っ直ぐな胴、重ね菊など草花を描く。
●山形系
頭部に赤い輪。胴が細い。
●蔵王高湯系
頭部は赤い放射状やオカッパが多く、胴は桜くずし。

さらに南の福島県
●土湯系
頭部に黒い蛇の目模様。胴はろくろ模様。

これだけ見ても東北文化とこけしは一体で、固有の文化展開をしているのであって、いちいち遠隔地から由緒を汲んで来るまでもなく、神社ぐらいあって当然だと思う(笑)。

とかいうような思いを乗せつつ、鎌先温泉を後にして、いよいよ白石に向かう!



<白石城>

さて鎌先温泉から白石に入って来ると、行きと同じようにパ〜ッと視界が拓ける一帯に出る。

周囲を覆っていた山が拓け、黄金色の田園光景が(^^)。

ここで白石と白石城について(^^ゞ。

まず白石城は最初、今の城がある位置から少しズレていたと思われるものの、その歴史は仙台の青葉山城(仙台城)より古く、また主筋の伊達家が青葉山城に天守閣を持たなかったのに対し、家来の片倉家が明治時代まで天守を持ち通した城だった。

私は1994年、片倉氏の小説を書いた事もあって((^_^;)アセアセ)、当時もいろいろ調べたが、今回も現地で買った本を読んだあげく、やはり前回同様わからなかった事があって、それは「なぜ白石城(あるいは片倉家)だけが特別なのか」という点だった。(ちなみに小説ってのは「作品の広場」の「嵐待つ」ってのがそう(^_^;)。)

13年前よりは、ちょっと近付いた部分があるものの、結局これの結論については、前回も今回も、結局は同じ所に落ち着いた気がする(笑)。
それは今も言った通り(^_^;)、「主君(伊達家)の仙台城にも無い天守を持ってたから」←コレである(笑)。

今回は「白石城物語」という本を手引きに、歴史の方から話を起こしてみよう。

と言ってる間にドンドン
白石は近付いて来るぅ〜!(笑)

伊達政宗の家来に白石宗実という人がいる。この人の白石氏家伝では、1051年、東北と中央政府を大いに揺るがせた「前九年の役」および、1083年の「後三年の役」を白石氏の発祥としているそうだ。

この両戦争は、1993〜94年のNHK大河ドラマ「炎立つ」で有名俳優がそれぞれ演じ、覚えてる方もおられるかと思うので、以下、俳優の名前も入れて書く(笑)。

「前九年の役」で反乱を起こしたのは、安倍頼時(里見浩太朗)と貞任(村田雄浩)の親子だが、最初は中央方についてたものの、途中から反乱側の味方をした人物に、亘理地方を治めていた藤原経清(渡辺謙)というのが出て来る。経清が阿部氏の娘(古手川祐子)を妻にしていたからだ。

この藤原経清が発祥だというのだ。

阿部氏は追討され、藤原経清は乱平定後、源頼義(佐藤慶)に鈍刀で打ち首にされ、経清の妻(安倍氏)は経清との間に生まれた子で、後の藤原三代の初代、清衡(村上弘明)を連れて清原氏と再婚。

月日が経って、「後三年の役」では、この清衡が母と清原氏の間に生まれた異父弟、家衡(豊川悦司)を打ち破って、藤原三代の基礎を東北に作り上げた。

この藤原清衡に弟がいたというのだ。つまり経清の次男である。母が安倍氏なのか別の女性なのかはわからない。
名を経元といい、「後三年の役」の時は兄・清衡とともに源義家(佐藤浩市)に従って、ともに勝利したので、刈田・伊具の二郡を得て、白石氏の前身「刈田氏」を称したという。

ちなみに前九年の役を記した「陸奥話記」にも、後三年の役を記した「奥州後三年記」にも、経元の名は無いそうだ。
しかし家伝では、この時に白石を本拠とした事になっている。

行く手右側に広がる豊かな田園風景〜♪

家伝はさらに、刈田氏が経元から5代目の秀信が、1189年、今度は源頼朝(長塚京三)が平泉の藤原氏を追討した時、藤原4代泰衡(渡辺謙・二役)に与し、阿津賀志山の合戦で戦死したが、この秀信秀長という弟がいて、こちらは頼朝に与したので白石城と所領を安堵され、刈田氏から「白石氏」に改めた、と続く。

しかしこれも当時の文献「吾妻鏡」には、やはり秀信秀長も出て来ない。
だから、ここまでに表れた白石氏の祖、経元秀信秀長は実在を断定しかねるという。

ちなみに、これまで家伝と言って来たのは、登米伊達氏の「藤原姓白石氏系図」だが、これについては後述する。

やがて同じく右手、山頂に姿をあらわす白石城!

南北朝の争乱期も、この地域に合戦があったが(1351年)、それらの記録にも白石川の旧名「倉本河」が現れるのみで、まだ白石の地名は出て来ないそうだ。
ようやく現れるのが、伊達家の内紛のあった、1542〜48年の「天文の乱」である。

これは伊達政宗の曾祖父・稙宗と、祖父・晴宗の血縁相克の争いで、白石実綱という具体的な人物名が出て来る。稙宗に仕えた後、晴宗に仕えたという。

1542年ごろ、白石実綱は高森城の留守景宗に書状を送り、「稙宗が家臣や最上・相馬とはかって、晴宗の本拠、西山城(稙宗が1532年ごろ築城)を攻めたが、晴宗が勝利して喜ばしい」と書いているそうだ。
また白石城についても、1546年、晴宗が西山城を出て白石城に入り、「白石大和宗綱の邑」とあるそうだ。

白石実綱は白石氏の家伝にも出て来る。13代とされ、家伝には1535年没とあるそうで、少しズレがあるものの、実在は確かだろう。

さらに「白石」が確実になって来るのは、1579年、税徴台帳(伊達稙宗の時)に「白いし」という地名が初登場する事による。

つまり少なくても1500年代後半ごろからは、白石はこの地域に「在った」と言えるそうだ。

アイヌ語で「石の多い所」を「シュラウシ」が当たる、という説もあるらしいが、それならこれよりもっと古くから記録があるはずで、「白石城物語」には、埼玉県に白石城という後北条氏の有力家臣の名と同一の中世の城山があるので、これとの関連はどうか、という話も書いてあった。

一方この頃から、後に長く維新まで白石城主であった片倉家の初代、片倉小十郎景綱の誕生から、その主、伊達政宗の幼少期までの期間が当たるが、これらは次回、墓所参りのレポの時に譲ろうと思う(^^ゞ。

いよいよ城!
案内版(^^)。ちょっと見えにくいか→地図

白石城の最初の場所は、上記地図の中では、現在の傑山寺の丘陵あたりだったみたい(^^ゞ。

白石氏がメジャーになって来るのは、政宗の家来、白石宗実からで、宗実はさっきから出ていた白石実綱(13代)の孫、宗利(14代)の子で、家伝からすると15代となる。

1553年に白石城で生まれ、諸国を遊歴・兵法修行し、織田信長・徳川家康に兵学を講じたとか(゚.゚)?
1575年、23歳で白石に戻って、政宗の父、輝宗に仕え、1581年から合戦に参加。1584年、家督相続した政宗に仕え、人取橋・二本松城・摺上原に参戦。片倉小十郎・伊達成実とともに「伊達の三傑」と呼ばれた。

この辺りには、伊達政宗と片倉景綱の活躍期も多いに該当するが、そこも次回に譲る(^^ゞ。

1586年、白石宗実は安達郡塩松に33郡を賜り、白石城は家臣の佐藤信友に預け、宮森城に移った(同年、片倉小十郎は福島県の大森城に)。
しかし佐藤信友は他の文献には見えず、かわりに「安永風土記」などに屋代景頼の名があって、これは政宗の直接支配を表すのだそうだ。

屋代景頼は14歳で政宗に仕え、1590年、先祖伝来の出羽・屋代庄を賜り、1591年、国家老になるが、政宗の怒りに触れ、録を没収され晩年は流浪。不遇に没した。
が、1600年の後に触れる東北の関ヶ原で、白石城を攻めた時は先陣(道案内)を勤めた。白石に置かれた際の地理感が買われたようだ。

上り坂途中で折り返し
城への坂を登って行く。

ここまでの道々「城来路(シロクロード)」と書かれた道標がよく見られた(^^ゞ。

ここは「東口門」があった所で、正式には「二の丸大手二の門」と言った。
白石城東側を迂回するように通った奥州街道沿いの大手口から城内に入り、外曲輪、三の丸内の屈折した通路を通り、二の丸へ入る関門であった。

伊達政宗は1589年の摺上原の戦いまで、概ね上り調子で、宮城全域・福島全域・岩手・山形南部・新潟(蒲原)・栃木(塩谷)などの一部を領有。一大勢力を築いたが、1590年、秀吉の小田原征伐の時に罪を問われ、後退を余儀なくされた。

これが秀吉による二度に渡る「奥州仕置」で、政宗は黒川(会津若松)を追われ、米沢城へ、さらにすぐ岩出山城へと追いやられる。不便な場所であったという。

1591年の伊達家は、大崎・葛西12郡。江刺・胆沢・気仙・磐井、本吉・登米・牡鹿・加美・玉造・栗原・遠田・志田・桃生・黒川・宮城・名取・亘理・伊具・柴田・宇多郡20郡で、58万石。
同年、片倉小十郎は亘理城主に。白石宗実は水沢城へ、1万5千石。

いよいよお城の脇の道に達する。そしてド〜ン!と白石城天守が登場(^^)。

代わりにこの地に入って来たのが、蒲生氏郷である。
蒲生氏郷は1556年に、近江国日野城、蒲生賢秀の長男として生まれ、父とともに信長、あと秀吉に仕え、伊勢亀山城を与えられ、小牧合戦で軍功。伊勢松ヶ島城12万石。1588年、近衛少将。羽柴姓を賜った。

1590年の小田原征伐で軍功により黒川城を与えられ、名を会津若松城(郷里の近江・日野の地名)に改めた。氏郷を会津に配置するには家康の推薦も取り入れられたという。

ちなみに地名を改めるのは、この頃の風潮で、氏郷は杉の目→福島、米沢→松崎など改めたが、同時期、秀吉も小坂→大坂、政宗も千代→仙台などと改めた。

この白石には、蒲生氏郷の腹心、蒲生郷成が配置された。
蒲生郷成については史料が少ないそうだが、尾張出身。元の名を坂源太郎と言い、柴田勝家に仕え、これが滅亡すると蒲生氏郷に仕え、各地を転戦。
1587年の島津攻めの功で、秀吉から褒美を貰い、蒲生氏郷からも、蒲生姓と郷成の名を与えられた。
会津以後、阿子島城→二本松城。葛西・大崎一揆平定戦、九戸の乱を経て、白石4万石城主。
また、郷成が作ったと伝承される物に「蒲生堀」がある。

それまでの白石城は伊達氏の支配下で山城だったが、平城に、そして伊達氏に対する押さえの城に変貌した。
この白石城に重要なのは、実はこの蒲生氏郷・郷成の主従がいた頃で、白石城はこの時に出来たと言って良さそうだ。

と言うのも、白石城は長い江戸期を通し、仙台に向けて防備を施された……言い換えれば「家来の片倉家が主君の伊達家に向けて牙を剥いた城」とも言える、ある種、異常な状態を持った城なのである(笑)。
(こういう部分が後世、片倉小十郎が幼い政宗の目の肉塊を切り取った、という伝承を生んだのかもしれないが、ここもまた次回に譲ろう)

それは、元々この城の築城を行った蒲生氏が、「伊達の脅威に備えた城」だったからで、それが江戸期に入ると、城に対する幕府の厳しい規制によって、築城し直しはご法度になる。これは何も伊達氏や片倉氏に対してのみならず、江戸時代とは全国的にそういう時代だったのだ(^_^;)。
だから、城をやめたくなければ、主君に逆らった状態のまま持ってるしかないのだ。

主君、伊達家のおわす仙台(北)に向かい、バリバリに防備を固めた白石城。再建時は最晩年の姿を再現したが、その時期までに顕著に構造が改められたという記録も特にない。戦国最後に出た伊達氏ならではの事情と言えようか(笑)。

蒲生氏郷は、会津・白河・安積12郡と、政宗旧領の四本松・伊達・信夫・刈田・出羽・上・下長井郡の7郡、全部で73万石。実高100万石。
彼は政宗に対するのみならず、関東の家康を同時に牽制する役目を担っていた。

この白石城は、同時期にやはり氏郷が築城した「会津若松城」に酷似し、特に、天守台いっぱいに天守の城を建てない所などは、蒲生氏(あるいは上杉氏?)独特の建築法であるらしい。

若松城は広島城をモデルに、1592年から着工した奥州初の近世城で、白石は若松のミニチュア版と言ってよく、水路も整備され、最古天守の丸岡城(1576・柴田勝家の甥、勝豊の建築)と同じ柱穴が発見されてる事から、基本は蒲生氏時代の築城と推定。近江の穴太衆(石工集団)に石垣を作らせたという話もある。

白石城は標高76mの最頂部には本丸・二ノ丸・中ノ丸・西曲輪・中段には沼ノ丸・南ノ丸・巽曲輪・帯曲輪・厩曲輪を置き、丘の上に館堀川を巡らし、南は空掘で丘陵を切断、館堀川を隔てた平地には三ノ丸・外曲輪を配置した平山城である。本丸は高さ9m余の石垣の上に土塁を囲み三階櫓そして巽櫓・坤櫓・大手門・裏三階門を構え、御成御殿・表・奥の諸建物があった。ニノ丸以下はすべて土塁で囲み、木柵をまわした崖を利用する等中世と近世城郭を併用した縄張であった。

これらは江戸期をかけて改修を行った片倉氏以降の記録であるが、これらの大よその基礎部分が、蒲生氏によって構築されたと見られる。

また「杉の城」とも呼称され、片倉家が入城するより前からあった、と伝承される古い杉木立があったという。
杉で外部から身を隠し、弓や鉄砲を除け、あるいは城の修理用、防風林(蔵王颪よけ)などの目的が考えられる。

一ノ門(吹き通し)を通って折れ
ニノ門(二階櫓)を改めて潜る

ニノ門から振り返る(パノラマ2枚)

この形式を枡形というそうだ。

1592年、白石宗実は朝鮮に出兵し、やがて帰国したが、1595年、秀吉の甥で関白を継いだ秀次に謀叛の嫌疑がかかり、これに連座であった政宗の疑いを晴らしに、京・大阪に派遣。家康の執り成しも取りつけ、無事を得た。

同年に、蒲生氏郷が死去。
秀吉が石田三成を使って毒殺をはかった、などの説があるが、蒲生氏には譜代家臣が不足で、特別に北条氏の旧家臣を召抱える事を許されており、13歳の氏郷嫡男・秀行が継ぐと、秀吉は秀行に、徳川家康、前田利家、浅野長政などを後見人に指名した。

その一方で、伊達や佐竹義宣など奥羽大名に対しては、「理非五分五分の時はもちろん、四分六分でも鶴千代(秀行の幼名)の理」とお墨付きを与え、家来達にも誓紙を出させるなど、二重三重の保証を与えた。
これはそれだけ、伊達と徳川の間に入って牽制する役割の大きさゆえと言えよう。

が、1598年、蒲生家は家臣に内紛が勃発。秀行は宇都宮18万石。郷成も笠間3万石と移された。
これも、秀吉が氏郷未亡人・冬姫に懸想し、冬姫が出家したため、秀吉の不興を買ったなどと言われるが、氏郷の死後は求心力を失い、寄り合い所帯で元々結束が弱かったためだろう。

門を潜ると矢狭間穴に登れたので、もちろん……
覗いて見たり(笑)

代わって蒲生領国をそっくり引き継ぎ、会津には上杉景勝が入る。秀吉も死去し、五大老の徳川家康、前田利家、毛利輝元、小早川隆景、宇喜多秀家の内、小早川隆景が亡くなり、後任に上杉景勝が就任していた。

上杉氏は、越後、佐渡、出羽庄内、信濃川中島あわせて90万石から引き移り、会津・置賜に加え、佐渡・庄内を入れて、120万石の転封をもって、徳川・毛利に続く全国三位の大大名になった。
これも伊達と徳川に対抗する狙いだったが、さらに秀吉には、佐渡金山を直接自分の物にする狙いがあったともいう。

また最上に対する米沢城には、直江兼続を起用。越後下野と連絡する南山城(鴫山城)に兼続の弟、大国実頼、政宗領と接する白石城に甘粕景継を配し、白石城はさらに防備を重ねた。

白石に入った甘粕景継は、上杉譜代で、登坂清高の嫡男。はじめ清長と言い、鎌倉時代からの名族・甘粕継義の戦死で、家系が絶えるので謙信が景継に継がせた。実家の登坂家は清長の弟、式部が継承し、後で登場する。
奥州には、酒田一万一千石から白石2万に昇進である。

大手二ノ門を潜って振り返る、奥の天守(三階櫓)。→
この三階櫓は、元は二階櫓で、手前の大手門の二層が元は一層だったかもしれない、という謎を秘めた場所である。

1599年、白石宗実が伏見で病死。特に家康が、その死を惜しんだと言われる。
宗実には女子しか居なかったので、政宗の大叔父、伊達宗清の子、宗直を養子入れた。(宗実の女子との婚姻だったのかは知らない)。
これが「一門」としての「登米伊達家」で、白石という氏は結局消えたわけだが、白石氏に相伝されて来た「藤原姓白石氏系図」は、この登米伊達家が引き継いでいるのである。

1600年、上杉景勝は若松城の北西、神指に築城開始。
この時期、白石城にも上杉氏が突貫工事で防備を固めた跡が石垣に残っており、片倉家ではこれを崩れた所だけ修復して、元のまま住んでたので、発掘した結果、今でも上杉時代の跡が残る。

こうした上杉氏の動きに家康が難癖つけて上洛を促し、断られたので上杉討伐となった。佐竹義宣、最上義光に命じ、自らも江戸を出発。

伏見の政宗も上杉討伐のため戻り、上杉領を避け、迂回して名取、北目城に入った。
伊達軍は、亘理定宗、屋代景頼を先鋒に立てて、北目城進発。名取郡岩沼城・柴田郡四保を経て、白石「陣場山」に本陣。
「東北の関ヶ原」その初番が、この白石城を舞台にこれより始まる。

じゃ、いよいよ中に入ってみよ〜う(^O^)。

天守(三階櫓)の一階(パノラマ3枚・ほぼ180度)

↑右の奥から入って来た。

伊達軍は、白石城の攻撃を開始するや、屋代景頼が町や外曲輪に火をかけ、三の丸の後、大手門に迫る。
亘理定宗は、北東の帯曲輪を攻め、片倉小十郎は西側、山岡重長は南、舟山伊賀親子は斧で門を開く。

上杉方では、甘粕景継が会津に出向いて留守だったため、弟(甥?)、登坂式部、大崎三次、葛西長三郎が守ってた。
甘粕景継は、家康を白河で迎え撃つため呼び出しがかかったとも、景継の妻が病死し、密かに会津に帰ったともいうが、伊達側は間者を入れていたと見えて、動きは異常に早く、的確だった。

が、二の丸の抵抗が強く、柳田掃部、舟野善右衛門など200人戦死。(米沢新史)。
片倉重長が本丸の壁に辿り着く。首700以上あげ、登坂らは伊達の石川昭光を通じ、内通に応じて門を開き、城兵700人戦死。政宗軍600人以上。

城内には片倉・石川連署にて血判起請文で約束。寝返った登坂式部は3000石で召抱えられる。
甘粕景継の妻と嫡子虎之助は逃れた。

甘粕景継は奪取を願ったが、おりしも家康着陣。景勝は白石に兵を割けず、甘粕には2万3千を石安堵したが、弟の裏切りの責めで蟄居する事になった。
双方の戦果に多少食い違いはあるようだが、この時の戦記報告から、正保時代(1640年代)の絵図の構造が既にほぼ出来てた事がうかがえる。

二階、↓この階段は登りやすいけど
←で背を向けてる階段は↓スッゴイ急!

この急勾配の階段、建築基準法で、かなりギリギリみたい(^_^;)。
ホント壁にでも這い蹲って登るような階段で、降りる時なんか、一足下ろしては背を階段につけて座り込むような感じ。

これでも勾配を緩やかにして許可を貰ったらしい。
この白石城は物凄く史実性に忠実に建設されたので、細かく言えば基準法はクリアしてない(爆)。

それゆえ会津若松・名古屋・小田原など全て鉄筋コンクリートで復元されたのだが、この頃の城郭や寺院などの復元機運が全国的な盛り上がりを見せ、現行法では実情にそぐわない、という事もあって、建設大臣の直接許可ってな、極めて高度な詰めの段階を経て建設されている。
つまり日本建築史上でも「快挙」と言える築城だったわけだ。

基準法がやかましかったのは、全館木造って発想に関してだと思う。
火事になった時、勾配の急すぎる階段では逃げられないって事かな〜と(^^ゞ。

だって、城で火をかけられたら自刃するものね普通は(爆)。

政宗の白石城攻撃と呼応するように、出羽の最上義光も挙兵の動きを見せ、景勝は前の家康軍、背後に伊達軍と最上軍に挟撃される形で身動きが取れずにいた。

こうして家康らを釘付してる上杉景勝に呼応するごとく、石田三成が挙兵。関ヶ原合戦の勃発である。

家康は政宗に旧領の刈田、伊達、信夫、二本松、塩松、田村、長井の各郡を与える約束をして、石田三成を討つべく関ヶ原へ。
これらはそれまでの所領とあわせて100万石以上。これが有名な「100万石のお墨付き」という空手形(笑)。
つまり後になって「上杉領内に勝手に軍を動かした」と難癖をつけられ反故にされた(^_^;)。
結局伊達家は、60万石に後で常陸・近江の領地を足して、62万石で幕末まで行った。

最上階(三階)に到達(^O^)。(パノラマ3枚)

白石は修理して石川昭光が任じられ、政宗が国分氏の千代城があった青葉城を作り、翌年に入城。地名も千代から仙台へ変えた。
青葉城は、家康に遠慮したとも、高台にあって見晴らしが良いから必要なかったとも言われるが、天守台のみあって天守閣は無く、伊達領内で天守閣がある城は、この白石城だけである。

一方、関ヶ原の敗戦を受けて、負け組の上杉氏は米沢30万石に格下げされた。
1600年の内に、再び蒲生秀行が会津に舞い戻り、60万石で赴任。前に白石城主だった蒲生郷成は、三春に三万石。
しかし蒲生氏には、また家臣に内紛が起き、郷成は一方の当事者として下野に遠のき、浪々の身に落ちた。

1602年、亘理城を伊達成実に譲り、白石城には片倉景綱(1557〜)が配置される。1万3千石。
以後明治維新まで260余年間片倉氏の居城となった。

倍ぐらい加増されての配置だが、城は自分達が攻めた爪跡で当初は廃墟同然(^_^;)。
いや、もちろん片倉小十郎自身も、ここをバンバン攻めたんだけどね?(笑)

で、さっきも言った「杉林」がここで物を言って来る。
片倉家の白石城には、一円知行によって、こういう場所の山林竹林(の伐採権)が特別に与えられた。

つまり普通はイチイチお伺いを立てなきゃいけない所を、己の裁量で好きに使って良い、という事を示し、これには「他の家と事情が違う」とハッキリ銘記されてるらしい(^^ゞ。
最南端の軍備に重要な場所だから、修理の必要が生じれば、いちいち伺いを立ててたら遅れるからかもしれない。

以下のパノラマ写真は、最上階から臨む各方角の風景(^^)。パノラマなので、右に見える風景が、下の写真で左に見えるよっ♪

(パノラマ4枚・180度以上)

(パノラマ4枚・180度以上)

(パノラマ4枚・180度以上)

(パノラマ4枚・180度以上)

↑最後の方、下に緑の広場が見えるのは下を見ると↓(パノラマ2枚)

ここは、今は庭園にしてるが、元はたくさんの建物が建ち並んでた。

復元図→
今ある建物は中央手前の門と右手前の三階櫓(天守)の再建部分だが、昔はこの本丸に屋敷が建ち並んでいて、主に仙台伊達藩主が白石城に宿泊する「御成御殿」、政庁的役割の「表御殿」、城主片倉氏の私的な居館「奥向御殿」に分かれた。

1604年、登米郡寺池城に、一門・登米伊達家が発祥。
ちなみに、伊達家の序列は「一門」「一家」「準一家」「一族」の順で、「一門」は角田・石川など11家があり、維新後、みな旧姓に戻したが、登米のみ伊達姓のまま残した。菩提寺は養雲寺。

1611年、米沢に移った、かつての白石城主・甘粕景継は62歳で没。6660石。切腹したという。甘粕家はこれで一時断絶した。林泉寺にある景継の墓石を削って呑むと歯痛が治ると言われた。(1923、関東大震災に乗じて、無政府主義者の大杉栄を斬殺した憲兵大尉、甘粕正彦は同出身)

1612年、会津の蒲生秀行は30歳で病死。忠郷(子)が継いだ。
かつて白石城主だった家臣・蒲生郷成は地位を回復し、忠郷に仕える旅中に病死。子孫が坂姓に戻し、その後(蒲生氏が断絶してからだろうと思う)上杉氏に仕えた。

1614〜15年の大坂冬の陣、夏の陣は片倉重綱が重病で出られず、子の重長が活躍。
陣後の1615年、一国一城令。
政宗の代から、代々、陸奥守就任と松平の名乗りを許された。

1616年、片倉小十郎景綱、死去。

白石城は、いま再建されてる「三階櫓」や「大手門」など主要な施設は全て北に向けて防備され、城の外の縄張りも、沢端川、白石川などを配して、何もかも「北の脅威」に備えている。

1644年、白石城の再建で史料とされた「正保城絵図」が完成。
これは全国の大名に提出させた絵図で、ここには館堀川は描かれておらず、大手口は北向きのままになっていて、未だ、蒲生・上杉時代の色が濃い。

しかし、その後だろう、主家・伊達家に弓引く姿を憚り、大手門を「厩門」に変え、大手門は東に移した。

1646年に大地震が襲い、1647年、修復の許可を貰ったが、1651年に三代将軍家光が死去したため、工事中断。

同年に片倉重長が「一家」に取り立てられる。
ちなみに片倉家の中の序列は、「一家」「家老職」「着座」(一番座・米沢衆、二番座・大森衆、三番座・亘理衆)。

1660年、4代伊達綱宗、幕府から行状にケチをつけられ蟄居(^_^;)。綱宗の子、亀千代(綱村)を立て、実権は政宗の末子、伊達宗勝が握り、伊達譜代家臣や一門と対立。後の寛文事件(伊達騒動)の伏線となる。

1663年の「刈田白石城絵図」には「蔵屋敷」が「二の丸」。「沼の丸」(新)が「侍屋敷」、北に「西曲輪」(新)追加。館堀川も書かれている。

1671年、運命の「寛文事件(伊達騒動)」勃発。
柴田外記、原田甲斐、古内志摩の三奉行が幕府の事情聴取に呼ばれ、原田甲斐が伊達安芸を殺害。

この時、片倉家は3代景長の時代になっていた。
景長は2代重長の孫にあたる。重長には妻に針生氏と真田氏がいたが、この針生氏との間に生まれた女子が松前氏に嫁いで生んだのが、3代景長である。

仙台はこの3代・片倉景長が一人これらの事件に無縁で藩制を仕切り、事件の二ヵ月後、幕府が景長を家老職に任じ、事件の後始末を命じた。
←1階に戻る。入口に展示してあった再建時の壁見本(^^)。何層にも重ねられた藁など仕込んだ壁材の上から、天守閣を作る時代より用いられた白塗りの塗装で、白亜に仕立てた工法の一端が窺える。

1678年、藩命により白石城を測量。
1683年、天和絵図を作成。伊達騒動を受けて、幕府に求められた可能性も考えられる。

この天和(1681〜83)絵図では三層。正保(1644〜47)絵図では二層。二層は一層に描かれている。
つまり元は二層だった天守が三層に、一層だった門が二層に増えた事になる(^_^;)。

だいたい城に関わる工事というと、フツー「修復」が殆どだと思う(^_^;)。
元通り修復するのさえ幕府に細かく伺いを立てた結果、「元通り」と言われるのが精一杯で、「白石城物語」にも、「小さな物を大きく作り替えるなんてありえない」と書かれている。

かと言って、先の絵図は幕府に提出したもので、正確さが忠誠・恭順を示すわけだから、適当に嘘を書くという事も「ありえない」わけで、そうなると建て増しの可能性しかない。ここが謎なのである(^_^;)。

上杉氏を牽制するのに、特別に政治的判断が働いて幕府が許可した、という見方も書いてあったが……。
ちなみにこの時の上杉氏は、3代綱勝(在位1645〜1664)の頃で、これまた何かとキナ臭い時代ではある(^_^;)。この辺りについては、2007年04月<赤穂事件と上杉氏>を。

そもそも「伊達48館」と言われ、実は「要害」「所」「在所」と言い換えた「城」だったという。
あ、もちろん「城」と言っても、中世の館ていどの物だと思う(^^ゞ。仙台藩に許された「城」は、あくまで青葉山(仙台)城と白石城に2城だけだ。

が、普通は城下に住まわせ米を支給するものを、仙台藩は米でなく土地で支給した。城下には上屋敷、在地と仙台の二重生活を強いられていた。これを「伊達騒動」あたりを契機に、1684〜1688年、幕府が制度として渋々認めたそうだ。

つまり……問題が起きるまで、幕府は伊達氏に関してはスルーだったという事かな?(爆)

城の外に出ると鐘撞堂があった
中には大きな鐘(゚.゚)

↑手前には「本丸井戸」もあった。が、井戸水は豊富ではなく、館堀川からくみ上げて使っていたと当時、城に奉公していた者が言っているそうだ。

鐘は……模造ではないかな(^^ゞ。ここにあったと思われる鐘について書く。

「鐘堂と鐘」
白石鐘堂は、その脇に物日(祝いの日)に片倉家の白地黒鐘の大馬じるし、三階黒鳥毛などが立てられたと伝えられるが、発掘調査の結果等により、三階櫓(天守)東側のこの突出平場に建っていたと考えられる。

もとの鐘は1466年に鋳造されて、伊達郡東昌寺にあった。
東昌寺は伊達家4世・政依が1278〜88(弘安年間)に建立した寺で、現在仙台市に移っている。

鐘は伊達家より拝領し、非常の際に撞き鳴らされていた。
毎年7月、城回りの土手と堀の清掃の時に鐘を鳴らした。朝8時に7つ撞いて仕事を始め、9時に5つ、10時に3つで終わる。侍と城下にいる足軽、その他扶持を受けている者が総出で堀払いをした。

長年使用したため、ヒビが入ったので、1661年、片倉三代景長が仙台の鋳物師、早山彌五郎に命じて再鋳。本丸の鐘堂に吊るし、やはり非常時に鳴らした。
この鐘については、戊辰戦争の後にも逸話が残されているので後述する。

白石城の威容は後々まで伝えられ、松尾芭蕉の「奥の細道」で唯一、名前を書かれた城であった。
1819年には火災が発生して焼失。既に幕末期の財政難にも関わらず、仙台藩は白石の修理を願い出て、これを直させた。

また1824年には、伊達11代、斉義の来訪に際し、御成御殿を造営している。
このおもてなしのメニューに中に、白石特産の「うーめん」が入ってる所が面白い(笑)。

←「登別・白石・姉妹都市・締結20周年記念」

こっちは売店の「ももちゃソフト」紅茶と桃の味で、スッゴイ美味しかった!(笑)→

幕末の仙台藩は、最初は薩摩・長州とともに開明派だったが、西国が安政の大獄のあと倒幕に向かうのに比べれば、佐幕・尊皇に去就を決めかねて動きに乏しく、消極的だったという。
伊達慶邦も、朝廷に盛んに上洛を望まれ、「大藩五国」として、薩摩・長州・土佐・加賀・仙台が五大老に任じられたが、幕府が握り潰し、結局は家茂に追従する形で上洛した。凶作が原因だったが、朝廷には「二面両舌」と受け取られた。

そんな中でも孝明天皇から石清水行幸の供奉を仰せつかる。片倉家には朝廷から名指しで京都警衛の命が下った。近衛兵として、火縄に点火したまま江戸市中を歩く権利を与えられていた。

会津討伐には仙台藩は錦の御旗とともに直接命が下され、米沢藩には仙台藩への応援をせよと指示が来る。つまり仙台藩に直接責任を持たせ……てか、ヤラセたわけだ(^_^;)。。

仙台藩は松平容保の降伏謝罪で解決を求めたが、長州藩の大山・世良は容保の斬首、容保の嫡子、容大の監禁、若松城明け渡しと「過激狂暴」な要求を出す。
世良は吉田松陰の松下村塾に押されて影の薄い時習館の出身で、高杉晋作の騎兵隊にいた人だった。

仙台藩と米沢藩は頻繁に連絡を取り合い、会津とは互いに戦意のない見せかけの戦端を開く傍ら、せっせと交渉して、開城・削封・鳥羽伏見の戦の首謀者処刑・降伏謝罪の嘆願書、と条件を整え、受け入れられなかったら朝廷に訴え、それでも受け入れられなければ、会津藩に味方する誓約を交わした。奥羽列藩同盟である。後に「越」も加え、31列藩となる。

世良から大山に当てた密書に、これだけ条件を整えても尚「奥羽皆敵」と書かれてる事が発覚。最初から東北を蹂躙する目的だった事が知れ、世良修蔵は殺され、彼の墓に刻まれた「為賊(賊の為に殺された)」の二文字が削り取られているという。

仙台・米沢・会津は示し合わせ、会津藩は仙台藩が管理・駐屯していた白河城を攻撃。駐屯部隊はすぐ撤退し、会津はここを占領。
白石城には公議府が置かれ、輪王寺(日光)宮が滞城。孝明天皇の弟、日光宮の令旨が欧文に翻訳されて各国公使に示され、奥州政府を用意。この政府には閣僚名簿まであったという。

<白石城・各時代の城主一覧(案内版より)>
01 刈田(左兵衛尉)経元 寛治年中(1087〜93)より5代101年間居城したと伝えられている。
02 白石秀長 1189年より15代397年間と数えられる。白石宗実の代の天正14年安達郡塩松宮森城に移る。
03 伊達家臣
屋代(勘解由兵衛)景頼
1586年より5年。
04 蒲生家臣
蒲生(源左衛門)郷成
1591年より7年。
05 上杉家臣
甘粕(備後守)清長
1598年より2年。
06 伊達家臣
石川(大和守)昭光
1600年より2年。
07 伊達家臣
片倉(小十郎)景綱
1602年より267年間。
08 南部(彦太郎)利恭 1868年〜1869年、07/21。
09 三陸磐城按察府 1869年08/10〜1870年、10/06。
10 兵部省兵隊屯所 1871年04月〜11月。
    1874年、白石民間に払い下げ解体。
1900年、白石町益岡公園設定。

奥羽越列藩同盟は三ヶ月の間に、白河・長岡・棚倉・平が陥落、秋田藩の寝返りを期に、本庄・弘前・三春が脱退。
9月に米沢藩、6日後に仙台藩、その10日後に会津藩も降伏。仙台は会津に次いで犠牲が多く、「士魂」で名を上げた会津に比べると、賊軍の汚名ばかりが残った。
(日光宮は謹慎の後ドイツ留学、日清戦争の頃は近衛師団長として台湾で戦病死)

片倉家は戦闘に参加する間もなく終戦を迎え、岡山・彦根・大村などの藩が城の接収に来た。
仙台藩は62万石から28万石に減封。同じく減封され国替えまで命じられた南部藩がやって来たため、家屋敷を明け渡した武士は路頭に迷って困窮した。

奥羽の統括のため、古代律令制の按察府というのがイキナリ復活し、大村・彦根・土佐・尾張などの藩の下級武士が重要ポストを占めた。白石城は官軍に接収。南部家が一時入った。

城から元来た道を戻る。→
遊歩道の脇には、こうした水路が巡らされ、城下町に相応しい情緒が流れている。このあと城は無くなるが、その後も水路は保持されていたのだろう。

郷成が作ったと伝承される「蒲生堀」も、白石を流れる館堀川や沢端川とも繋がる堰堤で、白石城の北側で外堀の役割を果たした沢端川の掘割(分岐点ごとに落差を設け、流れに勢いがつくよう工夫されたもの)は、防備用と言うよりは、炊事や洗濯など日常生活用水や農業用水に使われていた。

維新の頃、生活に困窮した片倉家臣たちは掘割に水車を設置し、名物「うーめん」の粉を引いて、生計を立てた。
戦国期、城のために施された機能の延長線上に、主家は違えど後に生きた人々は隅々まで救われたのだ。

翌年の1869年に、転戦の果て、幕府軍が辿り着いた函館で五稜郭戦争が終結。
この年、南部家は再び盛岡に帰った。
白石城の「厩口門」は、この頃に延命寺に「片倉家から拝領」と寺の財産帖にいう。

北海道の五稜郭が官軍の手に落ちると、蝦夷地が北海道と名称され、アイヌ民族は農業が不慣れな上、少数すぎて人手が足りず、開墾のため移民を募った。

まず亘理伊達家が移住を願い出て有珠郡へ、石川家、岩出山伊達家も出願。
土地帰農を余儀なくされた片倉家臣団は、残された僅かな山野を耕しても士族の資格(士籍)を失うが、これに応募すれば主従関係を維持したまま生活できるので、傑山寺に集結して血判、移住を決議。北海道の幌別が開拓地に与えられ、10月出発。11月に函館到着。

12月、景範、隣の白老郡との境に、「これより西、幌別(現在の登別市)領 片倉小十郎支配所」と標注を立て、満面に笑みを浮かべ、仙台に戻って移住者の本格的募集を開始。3600人が希望したが、当時の旅費、移住してから当面の生活費は自己負担で、移住資金が足りず辞退者が続いて700〜800人に激減。

1870年、第一陣67人(職人13人)。移住の費用は約1万6900円、米約650石。
按察府にも手持ちの資金が無く、明治にかけて生糸相場で巨万の富を得た山崎屋に命じて、金3千両の融資をさせ、7年返済計画で按察府の高官が保証人となったが、秋、返すため送った鮭、昆布など乗せた船が大シケにあい、積荷はことごとく流失。

この年、保証人だった按察府が廃止され、借金については「白石城を解体、部材を売って開拓の出費に充当せよ」と通達。
それまで片倉家の家臣が当番制で管理していた白石城は商人、鶴見屋に払い下げられ、金2万で転売を受けた角田県は岡山藩兵の屯所にあてた。
岡山藩兵について来た医師、佐々木東洋(杏雲堂・創始者)が城内を視察し、「大破憐れむべし」と日記に記した。

この時期に、先ほどの鐘をめぐる逸話がある。
白石城払い下げにより、白石城の鐘が売りに出される話が伝わり、伊達郡桑折町(福島県)の傅来寺がゆかりを知って、はるばる住職が白石城を訪れ、60円で買い取った。

予約金の5円を払ったものの、鐘にヒビがあるという噂を耳にして、いざ引き取る時に、城内の松の木に吊るし、試しに衝き鳴らしてみた。

非常用の鐘が鳴ったので、片倉家の家臣たちが慌てて駆けつけ、非常の時いがいは鳴らしてはならぬのに、と強く問い詰めたので、釈明したら、
「持ち出す事はならぬ、元に戻してただちに場を去られよ」と言われ、
「ならば予約金5円を返して頂きたい」と答えた。
家老格の武士が進み出て、住職に丁重に謝罪したという。

城を取り上げられた後も、なお非常時に備えて忠勤を心掛けていた所に、金で買われたと知らされた家来達の思いは、どんなだったか。。

しかしその県外の傅来寺では、由来を新たに記して使用し、太平洋戦争中も、古鐘であるといって保存させたので供出をまぬがれ、今も境内に現存されているという(^^)。

←ここは城下の「うーめん」屋さん「やまぶき亭」。こんな水車で粉をひいたんだね(^^ゞ。

うーめんは「温麺」と書く。380年前、白石に住む鈴木味右衛門が、通りかかった旅の僧侶から油をまったく使わない麺の作り方を教えられ、胃病の父親に食べさせると、父親の病気がみるみる治った。
孝行息子の話が町に広まって片倉公の耳に達し、その温かい思いやりを誉められ、以後、この麺を「温麺」と呼んだ。

胡桃ダレ・胡麻ダレ・そばつゆの三種でスゴイ美味しかった〜!(≧▽≦)

1871年、第二陣177人(職人15人)が同じく登別に渡った後、第三陣600人は、按察府にさんざん窮状を訴えた成果で、旅費・農機具・三年間の生活費の補助が出た。札幌郡で白石村を作り、大森林の中、言語に絶する開拓生活を送った。
この第三陣渡航の際、乗船者は身一つで漁船に救助されたが、幕末に勝海舟や福沢諭吉を乗せた咸臨丸は沈没、函館沖に今も沈んでいる。

四国などからも移住者がいて、そうした農家出身者のほうが遥かに成功したという。が、主従関係を軸にした武士の倫理や教養の影響が大きく、幌別のリーダー的役割を担った。北海道には片倉家臣団が祀った刈田神社と、登別市内に「片倉町」が今も残る。

現在、登別市内の子孫は十軒内外。白石刈田会を結成、親睦をはかっている。
札幌郡白石は1950年、札幌市に合併。白石区となっている。子孫は数えるほどしかいない。

1872年、白石城は陸軍省の管轄となり、一方、領地没収により録を失った時点で武士でないと、片倉家臣団はいきなり士籍剥奪。話が違うと、執拗な士籍回復運動を展開した。

1873年、明治の廃城令。185城のうち58城のみ残し、あとは白石城なども大蔵省に移管。白石城の評価額245円と判断。民間に払い下げされた。
南の丸跡には現在の白石高校、厩曲輪跡の一部は神明社、本丸・二の丸は民間に払い下げられて転売、畑となった時期もある。

1874年、三階櫓が解体撤去。「東口門」は現在の白石高校のある位置にあったが、この時期に専念寺に売却された。

1885年、士籍回復運動は開拓使をして、ようやく認可させるに到った。

11代、那憲氏、家臣団と北海道へ。
12代、景範氏、北海道。
13代、景光氏、1898年、男爵。片倉家の典医の家に身を寄せた。
14代、健吉氏が同家を改築。
15代、信光氏、住。
16代、重信氏、青葉神社宮司。

明治中頃、骨董屋に出された「時の太鼓」を常林寺(時宗)が買い求めて今でもある。
「厩門」か「大手門」か不明の門が、名取市の耕龍寺にある。延命寺や当信寺ほど手が加えられておらず、保存状態もよく、現存する城門としては有数。

1887年、東北本線が開通。駅前通りを整備した時、専念寺に売却されていた「東口門」は当信寺に転売(次回、ここにも行く(^^ゞ)。

1892年、亘理伊達家、岩出山伊達家が開拓の功で男爵。

1898年、男爵就任を祝して、城のそれぞれの所有者達が片倉家に献上。

1900年、13代、景光氏が大正天皇の成婚を記念して、旧白石町に無償貸与。益岡公園となる。本丸・二の丸・西曲輪が城跡公園となり、中の丸・沼の丸などに、テニスコート・野球場が出来た。

1914年、初代小十郎の没後300年を期に、家臣団を中心に顕彰碑を建立する機運から、計画が持たれたが、翌4年、明治天皇妃が崩御、翌5年に延期。

戦時中は天守台が軍事拠点となり、防空監視網の一端を担って、米軍の来襲を監視。

1987年、大河ドラマ「独眼竜政宗」放映で一躍脚光を浴びた白石市では、白石城復元および郷土資料館の構想が持ち上がったため、翌88年、調査を開始。写真が一枚も残らないため、複数ある絵図の内、最晩年の姿で復元する事に決まり、山形城の二の丸東大手門や小田原城の住吉橋の設計者に、全て木造で再建する計画を持った。

1995年、再建。



夥しい犠牲者とその後の苦難を思えば、有終の美にはとてもおぼつかないし、当時は賊と言われる以上の屈辱は無かったに違いないが、佐幕やら尊皇なんて仕分けだって、後世に見れば、極めて軽薄な一過性の流行に過ぎない(笑)。

逆に、土地はそんなに簡単には無くならない。これほど移動に速度や柔軟性が進んだ今日でも尚、土地には人が住み、故郷を意識して生きていると思う。

去年、福島の会津若松城や山形の米沢城に行った。今年は宮城の白石城に来た。
3ポイントとも長い間、互いに牽制しあい喧嘩するよう仕向けられながら、会津は上杉を断絶の危機から救い、その会津を上杉も伊達も見捨てなかった。
つまり、日本国内最後の統一戦争までに、東北南部は互いに手を携える契機に漕ぎ着けたわけだ。

よく古臭くて文弱で優柔不断で愚図とか言われるが、そんなに子々孫々に対して後悔するほど間違っていたとも、ましてや無駄な努力だったとも思えないんだけどね(^_^;)。

次回は、2日目・白石の続き、武家屋敷や寺や墓所。そして3日目、松島、塩竈にも行く〜(と思う(^_^;))。

以上、関連事項は、
2007年2月<東山温泉の朝>内以降
2007年3月<鶴ヶ城、2(続き)>内
2007年4月<米沢「上杉神社・松岬神社」「上杉博物館(伝国の社)」など>内<赤穂事件と上杉氏>


<つづく>

2007年12月19日(2017/05/03:地図(ヤフー →MapFan)張替)
 
     





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