<2012年・城主のたわごと5月>




2011年9月、東北第5弾。福島県は柳津・圓蔵寺から続き(^^)。

南下して田島「鴫山城」、栃木県に入って土砂崩れ遭遇だす(*o*)!




     
  2011年秋の東北レポ第5弾(^o^)。今回は最後に栃木県に入るから、「東北〜北関東」だね♪

前回に引き続き3日目、まずは福島県の柳津温泉「圓蔵寺」の境内から。
圓蔵寺の参拝後、さらに南下して南会津の田島にある、長沼氏の「鴫山城跡」に行くわけだが……ここからようやく暴風雨に対面(^_^;)、あまり城跡見学は出来ず……台風のせいもあるが、早めに移動した方が良さそう、というのもあって、さらに南下して栃木県に入った。

そして……今回いよいよ大災難の時を迎える!!!(笑)

何とか脱出を果たし(^_^A)、3日目の宿は日光市の野門。川俣温泉に行く途中にある。
そこで4日目の朝を迎え、続きは次回(^^)。
福島南部と、そろそろ栃木北部に跨って来たので、話は次回と連載で「日光山縁起」をやろうかなと(^^ゞ。



<「圓蔵寺」境内、「龍蔵大権現」、2(つづき)>

地図A←にいる。
前回も出した「菊光堂」の裏庭(^^ゞ(パノラマ4枚180度以上)

高台、緑の合間から見える
(拡大)「龍蔵大権現

↑ここまで、前回も出した写真ね(^^ゞ。
この龍蔵大権現に、今度こそ行くだべさっ!←なぜに方言

←菊光堂を横に見ながら、高台への階段を上がる。
↑緑の中に真っ赤なお堂がカッコイイ(^^)。由緒は前回も書いた通り「虚空蔵尊の霊水を拾い得た翁を祀る」そうだ

これで圓蔵寺の境内を全部参拝し終わったのだが、これも前回書いた通り、この境内とは道路を隔てた別の所に、辨天堂があるので、そこには車を廻して行ってみた(^^ゞ。ここからは、一度駐車場に出る。

←さらば「菊光堂」。↓裏門から出る。

葉影から覗く柳津橋(^^)
裏門も立派
さらに降りる

前回、先に来てしまった裏山門(^^ゞ。ここに停めた車で、少し戻って、辨天堂に行く。



<松澤山奥之院「辨天堂」>

地図B←かなり拡大しておく。

到着(^_^A)(パノラマ3枚ほぼ180度)

案内板には「松澤山奥之院」とある。……奥之院(゚.゚)?
開基は圓蔵寺と同じく徳一大師とされ、大同2年(807)を詠い、しかも臨済宗・妙心寺派である点まで圓蔵寺と同じであるが、「かつては圓蔵寺と一体」といった文言は見当たらなかった。

だから、さっきの「菊光堂(つーか圓蔵寺)の奥之院」というわけではないのかな?
それにしても弁天堂が奥之院……あまり聞いた事が無いような……。

建築は応永4年(1397)の物で、室町時代の面影を残す貴重な建物として、大正6年(1917)に国宝に指定されたそうだ!(その後、昭和25年(1950)に国重要文化財に指定された)

↓正面。格子戸から中を拝見(^^ゞ→

正面が5.4メートル、桁行3間、梁行3間、一重宝形造。
屋根は茅葺で出が深く、勾配は緩やかで、南面、四方ともに扉を配する。釣鐘窓、内部は仏壇が真中にある。
唐洋式という鎌倉時代に中国から様式をとり入れたスタイルで、室町時代の代表的な禅宗仏殿だが、昭和34年(1959)の解体報告書によると、形式的に禅宗様式がかなり崩れ、地方色を示しているとの事で、室町も末期に近い時代と推定されていた。

昭和33年(1958)に、総工費370万余で解体修理をはじめ、翌年に完工。

本尊の弁財天は、念ずれば危難から守護し、芸能上達、安産子育、福徳・子孫繁栄の利益で広く知られる他、五穀豊穣、心願成就、災難消滅、家内安産の祈誓を信仰される。

……内部には、その弁天サンの左右に、大黒・毘沙門が配されていたよ(^^ゞ↑
(格子戸なんで、光の当たり方が極端なので、写真は組み合わせ合成になったけど(^_^;))



<道の駅「会津柳津」の足湯!>

↑正面の写真とらなかったみたい(^_^;)。雨が降ってたからか……でも足湯はシッカリ撮影したわよ(爆)。地図C

←これね。道の駅に入って、食堂や土産売り場よりも先に行けるよう、入口から真っすぐ階段が地下に降りている。建物の1階からも見下ろせる広い公園の中にある。雨が降っても居られる屋根付の所が足湯(^。^)。

ちなみに、東北の道の駅「会津柳津」←こちらが建物の正面の写真。

屋根の右側、↑橋の下に屋根がくっついてるけど、この橋の下に地下・室内の足湯がある(^^)↓
これが室内の足湯(^^)
窓から屋外の足湯も見える

夜でも台風の時でも、スゴイ安心感があってイイよね〜(#^.^#)。
この時間は何故か全く雨が降ってなかったので、私らは外に出て入ったけど〜♪

←これが外ね(^^ゞ。
↑ゴツゴツ石で、ちょっと足裏を刺激しながら歩くようになってる(#^.^#)。足湯ってスグ上がる物だけど、何だか長湯しちゃって(笑)。

出て昼食を取ったり、土産を物色したり↓

お昼はお蕎麦( ^,3^)ф´。亭主はおろし(左)、こたつが山菜(右)

この道の駅でちょっとノンビリしたのが、良い思い出になっている(^^)。
3日目の午前中は雨ザーザーじゃなかったけど、湿気が多くて鬱陶しかったから、ここであったまって何だか根っこが生えた感じで長居した(笑)。

雨の続く旅も3日目、少し疲れが出たのもあったが、この日いよいよ台風が来るようだったので、「この先も行くだけ行くけど、長居せず先を急ごう(^^ゞ」と話していたからだ。

そうなると、亭主はずっと運転続きになるので、ちょっとインターバル取って行く事にしたんだが……。後で思うと、急いだ方が良かったのか……難しいね、こういう判断って(^_^;)。。運転疲れで事故って事件も多いしね最近。。

道の駅の入口の赤ベコ「もうくん」
店内で待ち構える「福太郎」

右の写真、「福太郎」の奥に見えるのが、足湯に行ける地下への階段↑(^^ゞ。店内に入ってスグ行ける(笑)。

↑の赤ベコ父子は、前回、圓蔵寺の鐘楼の下に居たのが「母・みつこ」だったけど、この道の駅では、「息子・もうくん」(左)と、「父・福太郎」なんだね(゚.゚)!
もうくんの横には「がんばろう東北」と書かれた、巨大サイズの起き上がりこぼし君がいた!

こちらは、ズラーッと並んだ商品→
赤ベコって、こんなにサイズに種類があるんだねー(゚.゚)!

ご飯の後は要り用の物を買ったついでに、柳津名物の「粟饅頭」を買った(^^)。この後はエンエンとドライブになりそうなので、車内で食べようと思って……。

以上、関連事項は、
2012年4月<柳津の門前町>内以降




<南会津方面に向かう>

さて、出発(^^)。地図D←現在=道の駅「会津柳津」。地図E←目的地=田島「鴫山城跡」。←比較できるよう、かなり縮小サイズ(「1/40万」)にしといた。(通常サイズは「1/5万」ぐらい(^^ゞ)

午後からは雨が降って来た
只見川の支流だったかと(^^ゞ。

ルートは、実はナビ任せで……(^_^;)。
そのナビの使い方も、まだスマホ買ったばかりで慣れておらず、途中を迷走したかもしれない。

それでも途中に西山温泉とか小野川など、予め地図で確認したコースをだいたい辿ったように思うので、まず只見川に沿って252号線を南下、途中から32号線で東南方面、途中から401号線で田島を目指したんじゃないかと……(^_^;)。


雨の中のドライブは、ただでさえワイパーの行き来で風景を遮られる事が多いが、それでも上手い具合にワイパーのどいた瞬間に撮れてる写真があったり、ワイパーの位置が、そう風景を邪魔しない写真もあったが、途中からは、あまりの雨の激しさに、ワイパーが入らないと窓ガラスが常に雨水でユラめいて、絵になってない風景も多くなった(^_^;)。。

そういう画面も、自分らにとっては懐かしい旅の思い出なんだが、デカイ雨粒の広げる輪っかの合間から見える画面は、元がどういう風景なのか、だいぶ脳内補完しないと結べない図なので、大まかカットする(笑)。

途中ツンと尖った山頂が
凄い眺めに見えて印象に残った

柳津(特に圓徳寺)についてはだいたい書いたので、今の道筋も含め先の展開をしたいが、これより南会津の田島を拠点とするエリア入る。中世は「長沼氏」の領域、江戸期は「南山御蔵入地」が相当する。

長沼氏については、1年前「城主のたわごと6月A」で、いっぱい話した(^_^;)ゞ。そのとき現地で購入した資料に詳しかったもんだから……。

なので今回は、長沼氏やその後の南山御蔵入地については、田島に着いたら「鴫山城跡」で語るとして、今日は栃木県にまで出る事だし、いっそ「日光山縁起」を語ろうと思う(^^)v。

と言うのも、このたび、「日光山縁起」の原文を読んでみた所、題名(日光)の割に、話の内容に、ずいぶん陸奥における展開が多いと思ったから(^_^;)ゞ。
特に、今通ってる南会津(福島南部と言うべきか)あたりは相当しそうなので、次回にかけて取り上げる。

←こんな風に、肝心の風景でガラス面がユラユラ(笑)
↑しばらく田園と高原の森林道を行く(^^)。只見川沿いより、だいぶ内陸に入って来ていると思う。

まず、いわゆる「神戦」の前段階、「有宇中将」の話は、結構長い(笑)。
そして、前半=有宇中将の話、後半=神戦←これをサンドする「前置き」と「後付け」に相当する所が、これまた意外と長い事に驚いた(゚.゚)。

@前置き(天地開闢と神降臨、仏教布教)=1
A前半、有宇中将の話=3
B後半、前世譚・蘇生譚・日光と赤城の神戦=2
C後付け(日光山の風水配置、季節ごとの祭礼)=1

↑こんな配分かな(^^ゞ。しかし、誰が書いても、@とCはわりと軽くカットする通り、正直それほど意味のある内容と思わない(笑)。
文量は多いが、修辞句を散りばめたり、重複で膨らんでるからで、それらも詳しく見ると「ほほぉ(^。^)」と思う点が無くも無いが(笑)、まぁ概略にとどめよう(^^ゞ。今回は@とAまで。

滝谷川かな……
凄くそそられる村落風景♪

まず@「前置」。今言った通り、わりとアッサリ目に(^^ゞ。

〜「日光山縁起)」〜
混沌と固まり漂う状態から、上昇物と下降物で天と地が分かれ、陰陽万物が出来て、陸海の隅々に八百万の神々が行き渡って守った。

三千もの神社が衆生を教化・利益するに巧みな中、特に東山道は下野国の日光山・満願大菩薩は、他に抜きんでて優れていた。
その本地は、西方無量寿仏と観世音菩薩だが、仏の位を辞して、女体男体権現と現われ(太郎を加えて)三山となし、煙と霞を天に、水と石を地に置き、奇木霊樹を並べる様は神仙の仕業か、巌や古石の高く切り立つ様は異人の化身かと間違うほど神秘的だ。


神の降臨後、仏教は弘仁11年(820)、空海が来て般若理趣教の勤行式を、嘉祥元年(848)には慈覚大師(円仁)が天台宗の円融三諦を広め、顕密ますます盛んとなり、山は二荒と号し、社は三所男体・女体・太郎三権現)に分かち、三才(天地人)を象った。

……仏教が800年代に来たばかりなのに、「ますます盛ん」とか言うのは、「元々居た神が実は仏の化身だった」という「本地垂迹」の考えからだと思う(^^ゞ。

ところで、神々のいた頃の由緒などについては、伝えを書き記した物もなく、故郷の景色をしのぶにも、僅かに里の老人たちが語り草としている「有宇中将の御後身なり」という、一巻の縁起があるだけだ。
この話は、聖武天皇の(奈良)時代、神亀5年(728)から始まる。



わが(日光の)神は、その後は朝廷に仕えず、どう官位についたかわからないが、弘仁7年(816)に勝道上人に対し、三所権現が「自分はこの山に2080余年歳いる」と答えている。神武天皇から弘仁7年(816)までは1700余年ある(計算すると1476年しか無いそうだが:笑)残りの300余歳は、地神・第五ウガ草葺不合尊の時代の終わりが相当する。

この辺りから脱字や意味不明の言葉、複数通りに読める漢字など相次いで、意味が不明朗ぎみ(^_^;)。
だいたい、弘法大師の碑文の話など出て、上古においても由来が既にわからなかった事、「国つ神」の末孫に「二荒の尊」がいたという説があるらしい事、後に中将が高い官位を得る事がわかっていたので、名を出したとか、あえて隠したとか、神となってから示したとかいう話があって、最後に、この縁起書物には絵がついていた事が記されているようだ(絵巻物だったんだろうね(^^ゞ)。

古風な山家の集落↓、雲海に沈む下界→

続けてA「有宇中将」の話に入る(^^)。ここからはわりと詳しく行こう。

都に有宇(ありう)中将という、才芸に優れた殿上人(公家)がいた。誰よりも忠勤で、帝(みかど)の重用ぶりにおいても、並ぶ人がいなかった。
ところが中将は鷹(鷹狩)が好きで、春は朝に弓をひくと、落ちた雉を探して終日を過ごし、秋も鷹狩の野遊びに行くため、花を詠う催しや月夜の管弦詩歌の宴などには、宮廷にも帝の前にも現われない。

律令は悪い事は懲らしめ、良い事を促すものなので、ついに帝の怒りに触れた。
中将は「毎夜のお勤めに出ないと罪となる。帝も社会も恨むわけにいかない。が、(昼の)野遊をやめては、鷹も犬も志が果たせず、不憫だ」と、野山にその姿を隠そうと、の「青鹿毛」、の「雲上」、の「阿久多丸」たちと共に涙を流しながら、一人の供も連れず、都を去った。



馬に任せる内に、七日で東山道、下野国の二荒山に着いた。あちこちに川があり、深い水だったが、川端に山菅の繁る所があったので、向こう岸に渡って一夜を過ごした。
(※次回、2012年6月<川治温泉〜鬼怒川温泉、121号線を南下>内にも示す通り、後半部に「(勝道)上人が教えに沿って蛇橋を渡ると、橋の上に山菅が生じたので、山菅橋と名付けた」とする史料もある。−2012/06/22・後追記)

明けて又馬で進むと、また川があり、山菅の橋を渡り、「しめぢが原」(下野国の都賀郡・原野)の朝露に袂を濡らし、那須の「しの原」(那須郡の広大な野原)、「白川の関」を越え(て陸奥の国に入り)、「安積の沼」の水草を過ぎ、「かつみぬかた(水草の彼方?)」に旅して3日目(「陸奥国の小野郷」とする資料もある)に、門構えや家の造りが立派な、由緒ありげな館に着いた。

館の門前の小さな農家に宿を借り、2〜3日滞在して、主婦にいかなる者の館か尋ねると、「あさ(朝)日長者という、陸奥では隠れも無い有名なお方です」と答えた。
宮仕えの事など尋ねると、「公達はおられませんが、十四歳になる姫君が一人おられます」という。


中将は姫君に恋文を届けさせた。長者夫婦は、中将を「ただ者ではない」と見立て、姫君にも伝えた。
文「をとにきくあさ日の影をいかにして、袖にうつさん雲の上人」

姫君は頬を染め、母上はその様子を長者に伝え、長者は中将を館に招き入れると、その立派な姿に感心し、山幸彦が兄に借りた釣り針を探しに海底を尋ね、海神の娘・豊玉姫を妻とした例のようだと喜び、西に部屋を造り、中将を迎えた。
若夫婦の仲は深まり、長者は自分の姫は高官の妻となったのかもしれないと、大望が最後まで成就する事を祈った。

六年が経った。都では有宇中将が姿を消したので、中将の両親の嘆きが深く、帝もご自分のたった一度の勘気が、ここまで長く尾を引く事に驚き、国々に勅使を出して探した。


中将の方でも昼寝の夢に、荻薄の生い茂る野原を、薄絹の裾を露に濡らす女が一人で立つ姿を見て、いたわろうとよく見ると、自分の母が自分を見て、袖をしぼりながら「都に捨て置かれた嘆きで、月日も忘れ、六年。子を思うあまり、私は死んでしまった」と恨めしげに言う。

目が覚めると中将は、「都へ帰らなくては」と思った。
(朝日長者の)姫君はお供を申し出たが断られ、道中の供をつけようとしても、中将は「出て来た時も、馬と犬と鷹のみだったから」と断る。

その代わり「はなだの帯」を互いに交換して、「別れる事があれば解けるだろう」と契りを交わした。
朝日の君(朝日長者の姫君)は、「途中、つまさか川の水を飲むと、二度と妻に会えないといわれているので、絶対に飲まないでください」と言った。


しかし中将が「つまさか川」に出会った時は、一日じゅう歩いた喉の渇きで、水を見るや飲みたくて溜まらなくなり、教えを思い出し辛抱して渡ったが、命も絶えそうに思え、力無く川の水を飲んでしまう。
するとその後は病となり、川に近い野辺に倒れ、五日も臥せてしまった。

中将は馬に向かって、「自分の命は長くないだろう。心静かになれる所に、急いで連れて行け」と言った。
馬ははじめ一夜を過ごした東山道の山中(たぶん二荒山)に連れて行く。

中将はそこで母に文で「夢でお会いして、急いで都に行く途中、朽ち果てようとしてます。来世必ずお会いしましょう」と心細い事を書いて、馬の鞍に結ぶと、馬は涙を流しながら都に急いだ。
朝日の姫君にも「契をきしつまさか川の水ゆへに、露のいのちとなりにけるかな」と書き、鷹に届けさせた。


←雨脚が強まり、フロントは一瞬で水だらけに。。
↑溜め池。ちょうど欄干で映りにくかったので、二枚撮って、合成してみた(^^ゞ。「つまさか川」も、こんな風に満々と水を湛えていたのかも?!

その頃、姫君は契りを交わした「はなだの帯」が解けてしまったのを見て、夜陰にまぎれて外に出、七日目に「妻離川」に着くと、鷹が飛んで来て御文を落とした。
姫君は読んで、返事を、「むすびをきしはなだの帯をしるべにて、わかれし君を尋てぞゆく」と詠い、「自分より先に早く届けて」と鷹に飛ばせた。

都では、中将の母は亡くなってしまい、七日間の仏事をしていると、中将の馬が内庭に駆け入る。
人々の見知っている馬だったので、大将殿(中将の父)が鞍の文を見付けて読んだ。
妻(中将の母)との別れに、さらに(息子の死という)嘆きが加わった。

有宇中将の弟、有成の少将は父の大将に暇乞いをし、馬(青鹿毛)に乗って行くに任せると、深い山道に入った先で、兄の中将は亡くなっていた。



「尋ねこん人にあふせを待かねて、むなしくならんことをこそおもへ」
かたわらに姫君の返事がある。

有成の少将は、自分と同じ嘆きを抱える人と、せめて思い出を語り慰め会おう、(朝日の君を)迎えに行こうと思い、慣れぬ旅に涙や露に濡れながら、青鹿毛の知る道を行き、「妻離川」で姫君に出会った。
少将は中将の弟だと名乗り、これまでの事情を話し、「今一度、中将に会わせよう」と姫を馬に乗せ、旅を重ねた。これにより妻離川を、「あふくま(阿武隈)川」と呼ぶようになった。

ここまでが「上巻」(^^ゞ。続きは次回。お疲れ( ^^) _旦~~
巻の上下(前半と後半)で切れるのは、何か意味があるのか、単に便宜上の理由なのかわからないが(^^ゞ、「日光山縁起・下」は次回に譲ろう。

長い道のりだったが、そろそろ田島に近付いて来た(^^)

「日光山縁起」に陸奥が出て来るのはここまでで、この後、下巻に行くと、有宇中将朝日の君日光権現となって、孫の猿丸大夫神戦で活躍するのだけど、猿丸や磐司の伝承は栃木や福島は勿論、宮城や山形など北方の広い範囲にも広がり、宮城や山形だと、慈覚大師(円仁)との絡みで、狩りや殺生を禁ずる話が出ては来る。

が、今見た話には、殺生がいけないと言うよりは、狩りをやってると宮中のお勤めが出来なくなり、その事に帝がご不興……という構成になっている。
しかも、犬・鷹・馬を飼う中将が、特に鷹に「活躍の場を与えないと……」といった心配をする辺りは、どことなく武士が家の子・郎党の武功を気遣う雰囲気を感じないでもない(笑)。
(※ちなみに、「日光山縁起」の成立は室町後期と見られるが、下巻の「赤城明神との神戦」は南北朝時代に成立した史料にも見えるそうだ)

それと主人公が都の貴族の割に、東国で出会った「朝日の君」の他には、正室とか貴族の姫君との恋仲といった、よくある付き物の設定がまるで無く、今際の際の歌まで「朝日の君」に捧げられてる点、中将の弟までもが、「朝日の君」を実質「姉」(兄の妻)と認めた行動を取っている点など、珍しく東国に重きを置いた話に思えた(゚.゚)。

以上、関連事項は(だいたい)
2005年4月<中禅寺湖>内
2007年3月<会津松平氏庭園「御薬園」>内
2009年1月<対面石と対面堂>内
2009年2月<立石寺(山寺)、仁王門〜三院〜三堂>内
2010年4月<厳美渓温泉で最終泊、3日目夜〜4日目朝♪>内
以降



<鴫山城跡(旧南会津郡役所)>

↑城跡と郡役所は、入口は離れているが敷地は隣接してて、郡役所の駐車場に城遺構の一部(土塁?)らしきが見れる(^^ゞ。まずは郡役所の方に向かう→地図F

いよいよ田島の町に入って来た(^^)
雨もそうだが、空が暗くなってた。。

↑左の建物には「鴫山」という看板があり、「鴫山城が近い(^^)」と思わせてくれる。
そうそう、この「鴫山城」の事を、去年(2011年)のレポ(旅行は2010年)に「鴨山城」と書いた(汗)。
今回「“鴫(しぎ)”じゃん(^_^;)」と知り、前回のを書き変えた事を、まずお断りしておきたい(笑)。

ただ、この辺りは「南山」とも呼ばれ、かつて城主だった長沼氏も、室町〜戦国期ごろに居城した一族については「南山長沼氏」と呼ぶのが一般的に思われる。

←「旧南会津郡役所地図F
雨風が酷い日で、唯一屋根のある見学所で宛にしてたのだが、中の展示場は休館だった(^_^;)。

でも売店で聞いた所、震災の被害が原因ではないようだった(^_^A)。

「旧南会津郡役所」は、明治18年(1885)に建てられた擬洋風建築。木造2階建ての内庭式、寄棟、金属板葺きで、外壁は下見板張り、縦長の上げ下げ窓の上部は緩い曲線を描いている。
玄関前はポーチとなって前に張り出し、上部が2階のベランダで構成され、当時の役所建築の特徴が見られる。

建物を特徴づける円柱は、ギリシャ建築を思わせ、柱の上下に柱飾りや玄関扉の上部には、ファンライト(半円形の欄間)が採用されるなど、洋風建築の要素が随所に見られる。
ベランダ上部の屋根には千鳥破風、玄関扉上部の半円欄間(ステンドグラス)など、和洋折衷の要素が随所に見られ、時代背景が見て取れる。

元は、現在の南会津合同庁舎(隣)に建ち、昭和45年(1970)まで現役で利用されていたが、南会津(旧田島)合同庁舎が完成すると、翌年(1971)には引家して現在地に移され、原形通り復元。同年、福島県指定重要文化財に指定され一般公開している。

この時は改修工事のため休館していたが、予告の予定通りに完了してれば、今年(2012年)1月3日から再開されてるハズ(^^)。
館内には、南会津の文明開化、郡役所の変遷、鴫山城遺跡出土品とジオラマ、史料、南山御蔵入騒動の歴史など展示され、パンフレットのみ貰ったので見た感じ、入れれば、たぶん中庭も見れたんだろう(^^ゞ。

「旧南会津郡役所」の駐車場→
鴫山城の遺構の一部(北西)「外郭遺構」が敷地に入り込んでいる。

鴫山城のある「愛宕山」から、東と西に伸びる尾根の他、北にも土塁・空堀が接続して城郭を包み、「惣構え」という「外郭」を形成。その正面の一部約70mがここのみ残存。北の土塁を崩して、南の空堀を埋めて畑地としており、東側の外堀も、外周土塁より低く掘られている。塁壁を作る斜面は複雑に屈折して横矢掛となり、鉄砲を意識したブランデ構成。

……と、ここから既に遺構があるものだから、イキナリ城の一部から説明となってしまったが(^_^;)、鴫山城には城跡の絵図が各所にある。私の見付けた限りでも4個はあった(笑)。

@「旧南会津郡役所」建物の脇
A次に入り込んだ八幡神社・入口

B城跡、大鳥居に至る前
C城跡、大門跡に至る前

順位をつけるなら、@3位、A4位、B1位、C2位、だと思う。

←なので、Bに大きい字を書き入れてみた(^^ゞ。

城跡に行く前に断わっておくと、田島に着いた辺りから、かなりの暴風雨となり、この図で「大門跡」あたりまで行って引き返す事となる(^_^;)。

あと現地の案内には一括して「長沼氏」と書かれているが、鴫山城に居城した長沼氏が一系統だったかは判然としていない。

長沼氏については、2010年9月に行った旅行レポを、2011年6月Aに書いた。
古代末〜中世〜近世初期までの福島南部〜北栃木の歴史には欠かせぬ勢力なので、お時間のある時にでもご一読頂ければ(^^ゞ。↓
2011年6月A<湯西川〜五十里湖〜県境〜南会津(糸沢)>内より以降、この色の文章←のみズ〜ッと下まで追って、<大内宿に向かう>(<大内宿>の前)まで。

↑にもある通り、本家(惣領家)も室町時代ごろまで奥州にいたはずだが、室町中期、「皆川」と名を変え、関東に行ってしまった(^_^;)。。
対して奥州に返り咲いた系譜(支流)を「南山長沼氏」と呼ぶ。
鴫山城がこの「南山長沼氏」の居城(本拠)であった事は明確だが、それ以前の本家(皆川氏)の関与(築城や在城)がハッキリしない(^_^;)。

┌小山朝政
├長沼宗政−時宗−宗泰−宗秀┬宗実……(南山)
└結城朝光             └秀行……(皆川)

(2011年6月A<大内宿に向かう>内←にも書いた通り、南山長沼氏は1376年の譲り状確認後、145年経った、1521年に復帰を見るまで、実質的な記録としては空白である。
ここ鴫山城跡でも、「築城年代は不明」とされている。

山城の中に行けそうな山道には
(拡大)森林の合間に鳥居が

絵図などで確認する限り、鴫山城には山頂に「愛宕神社」、東に「八幡神社」、西に「西宮神社」がある。

←正面。
前に出ている案内板(A)の「現在地」は、「八幡神社」に続く入口に書いてあった。
↑(拡大)鳥居と山への石段が続く参道

城跡は、愛宕山の頂上から北斜面と麓にかけて構築された根小屋式の山城で、最終的に、秀吉の奥州仕置後にこの地に入った、蒲生・上杉の両氏、とくに上杉氏により大規模な築営が行われて完成をみたと推定される。

それ以前は、南北朝から室町期にまず山城として築かれ、ついで戦国末期までに長沼氏の手で根小屋に一定の構築がなされた、と見られている。

城の構えを詳しく見ると、以下の三つの部分によって構成され、各時代ごとに造られた事がわかるという。

@山頂から山腹にかけて、籠城を目的として構えられた、「詰の城」にあたる山城区域は、南北朝争乱期から室町中期に造られたと見られている。

A麓にかけての「内城」あるいは「内郭」にあたる城主居館(本丸に相当)の区域
B麓の「根小屋」あるいは「外郭」にあたる「侍屋敷」の区域、
これら麓の城郭は、戦国時代桃山時代の築城技術が駆使されている。

惣領の長沼氏(皆川氏)は、「永享の乱」(1435〜38年)で滅びた関東公方・足利持氏にも、持氏の子・成氏(古河公方)にも従って関東に行ったので、或いはそれまで先に築城したのは、惣領家(皆川氏)であった可能性も無くは無いかな、と(^^ゞ。

城山の廻り、入れそうな所を探してウロウロ(笑)。
この細道に入ってからも↑、途中右手に杉木立に続く鳥居と石段が見えた→

一方、戦国終焉の頃に名の出る「南山長沼氏」と思わしき系譜は、長禄3年(1459年)に、イキナリ塩原を攻めた事を、塩原側の記録に見た。
この同年(1459年)について、ここ鴫山城の案内板にも、「山内越中と白川氏が「南山しき山の城」を攻め落とした記録が残る」と、この鴫山城じたい、この頃すでに存在していた事が確実視されていた。

何しろこの鴫山城の一帯(いわゆる「南山」)は長沼氏の領地であるので、どちらにせよ、築城者は「長沼氏」と見ていいようだ。

入り口を求めて、一度街中に出る↓
見付けて「大手口」から入って来た→
道の先に見えるのが「大鳥居」(さっきの城地図
つまりこの坂道の両脇が「根小屋」「侍屋敷」のあった領域ね(^^)。地図G

城地図では、大鳥居の手前に「根小屋」、鳥居を越えて奥を「侍屋敷」と、分けて書かれているが、「侍屋敷」と書かれた当地の案内板には、「別名『根小屋』とも言われる」と、「侍屋敷」と「根小屋」を、同じ場所と説明している(^^ゞ。

というわけで、この「大鳥居」の前後周辺に「侍屋敷」があった、という事でいいだろう(^^ゞ。
ここまで来るとようやく台風も本格化し、数歩行くのも大変なぐらい暴風雨に遮られた(^_^;)。車を降りる前からハッキリそう感じたから、「奥に入るのはとても無理なんで、あそこまで行って、写真だけ撮って来るわ」と亭主を残して自分だけ行った。

この「侍屋敷」一帯は、北側惣構えの中にある。
発掘調査によって、屋敷の遺構が発見され、中央谷間の削平、埋立による造成、三層の構造面がみられ、漸次拡大されたことが確認され、土中からは、礎石、中世陶器、鉄製品等の遺物が発見された。

内城(本丸)の前面に広がる削平地郡で、傾斜地が巧みな段丘状に設計され、内城を直接防御する形式である事から、領主の側近といった主要家臣団の屋敷だったと考えられる。
初期には、在郷の給人侍が交替で城の守備についた事から、「寝小屋」とも称したと言われる。
城を囲む集落にも、「殿町」「根小屋」(字名)などの地名が残るという。

←鳥居をくぐる
↑左脇の石塔、三体(^^)

古びた左の石塔は、左「馬頭尊」、中央「庚申塔」、右「愛宕山」とあった。

最初は「ここまで来て写真を撮ればいいや(^^ゞ」と思っていたが、来てみると奥が広く、今スグ土砂崩れが押し寄せる程山が迫ってるようにも見えないので、「ちょっと来てみない?」とか亭主を誘って一緒に行った。

後で他にもレポしてる人の話を読んで、「逆にこの先、むしろ一人で行かない方がいい所でもあったかも?」とも思った。

もっとも、こんな嵐の日じゃ、襲って来る動物も居ないだろうが(笑)。

写真の右上に黒い物が被ってるのはレンズ扉( ̄▽ ̄;)。。。
湿気で貼りついたままなんだけど、強風・大雨を押して進んでるので、だんだんレンズ扉の事まで構ってられなくなっている(苦笑)。写真を撮るのは風が収まった瞬間を狙ってなので、写真では草木が靡いたりはしてないけどね!

それでも侍屋敷跡(根小屋)を……
何とかズンズン進むのだぁ〜っ!

さて戦国期になると、南山長沼氏は、永正18年(1521年)に黒川城主・蘆名氏と戦い、鴫山城を落とされながら、その後も蘆名氏と戦い、一時は南山を取り返す勢力を巻き返したが、1500年代半ばには蘆名氏に臣従した。
天正17年(1589年)、摺上原の戦いで蘆名氏が滅亡すると、長沼盛秀は勝者の伊達政宗に臣従。伊達勢力として河原田盛次久川城を攻撃している。
(詳しくは→2011年6月A<大内宿に向かう>内

ふぅふぅ(*o*)、あ、「大門跡」が見えて来たわ!(パノラマ3枚ほぼ180度)

天正18年(1590年)の秀吉奥州仕置により、南山長沼氏は伊達氏に従って南山を去り、鴫山城には蒲生氏郷の家臣・小倉孫作が6300石で入城。
上杉時代は執政・直江兼続の弟・大国実頼が城代となり、関ヶ原戦い後に蒲生秀行が会津領主となると、再び小倉孫作が城代となった。

蒲生・上杉といった豊臣氏の時代は、会津若松城の有力支城として機能していたが、豊臣氏も滅び、寛永4年(1627年)に加藤嘉明が会津領主となった際に廃城となった。

右側の土塁とか、結構スゴイ構図に!
正面に戻って、いよいよ「大門跡」到着!

各時代の遺構、なかでも中世から戦国期、そして近世城郭完成期へ、過渡期の技術と山城形態が各所に残り、全国でもきわめて貴重な城跡で、全体的に遺構の保存は良好である。
昭和57年、福島県指定史跡に指定された。所有者は細井氏ほか。

江戸期のその後を語ると、会津には保科氏が入り、この城は廃城したが、この南山も「会津藩預かり」となった。
が、元禄元年(1688)に幕府直轄地となってからは、南会津下郷柳津の一部を併せて、「南山御蔵入領」と呼ばれるようになった。

統治支配のため、今の町役場庁舎(「旧南会津郡役所のあった辺り(^^ゞ)の西隣に、「代官陣屋」(田島陣屋)が置かれ、江戸期の「南山御蔵入騒動」という農民一揆(義民伝)として、その名を知られる土地となる。

大門跡」を越えると平地の末、山に向かう

さっきの城地図)←「大門跡」の所にいる。
この先の広野に入ると、早速「土石流危険渓流」とか書いてあって(^_^;)、これよりドップリと山に入る感じも濃厚だったので、この日は特に台風だったし、時間的にもそろそろ夕方だったから、引き返した。

しかし正直いうと、ここに来る前から「この山は入って大丈夫かな(^_^;)」と思ってはいた(笑)。
ただ、各所の写真など見た限り、入るとしてもここまでかと思ってたけど、先にも行ける(行って大丈夫かはともかく)事はわかった。

「大門」は城の正面「追手門」ともいう。かつては2階建の楼門が聳えていた事が古い絵図に見られるそうだ。
現在は築土されて、空堀を渡らせているが、木橋の時代もあったと考えられ、今見える巨石を組み合わせた石垣が、堅固な門のあった時代を偲ばせてくれる。

空堀・左

空堀の深さは4m程、長柄槍の戦闘にも耐える作り。
橋は大門の虎口で、南北に喰い違いを作り、敵の侵入を阻む。
東壁塁より西に伸びて横矢掛りを伴い、内城(本丸)を囲い込み、南の山根に至る(さっきの城地図)。

以上、関連事項は、
2011年6月A<湯西川〜五十里湖〜県境〜南会津(糸沢)>内以降




<田島〜県境〜川治>

↑田島から南に県境(山王トンネル)を越えて栃木県に入り、川治を右折するまで、ず〜っと121号線を行くが、途中で又また親から電話が入り「台風大丈夫?」とか聞かれた(^_^;)。

実は田島から県境に至る前、右を流れる阿賀川が、スゴイ勢いで増水していくので、見える側を運転する亭主はだいぶ焦ったようだった。
私は私で、城跡より先はもうすっかりカメラのレンズが曇り切ってしまい、殆ど写真も写せずにいた。

でもさっきの郡役所の隣の売店で、せっかく買ったから、鴫山城跡で最後に話した「南山御蔵入騒動」の話をしようと思う(^O^)。
写真はだいぶ曇ってるけど、時々は写せたので、道中の風景もお見せしながら(^^ゞ。

「旧南会津郡役所」にあった、「田島丸山歴史公園」の絵図(^^)

↑字は(例によって)小さくなって見づらいので書き入れたよ(^^ゞ。公園は郡役所の裏手にあるそうだ。
元は教林寺の墓地があったが、大正時代、用水堰の水を住民が洗いものに使うため、衛生に問題があると墓地を廃し、今は公園になっているという。

上段からざっと、「西宮神社」は恵比寿さんね(^^ゞ。「湘雨先生」は昭和の作詞家。「結び地蔵」は元々墓地にあった遺骨を埋納し、今は縁結び地蔵として慕われている。

中段、「大越信氏」は戦後復興期に養蚕業を発展させた。「傾城供養塔」は田島の花町の芸者屋・料理屋の芸者40人を供養している。
「道祖神」は疫神悪霊を塞ぎ、旅人守る神だが、明治の会津三方道路開削(これも悪名高い)どかされてここにある。
「湯田玉水君」は大正〜昭和の日本の代表的画家。

そして、その後に、「南山御蔵入騒動」の義民、および義民たちの伝記や戯曲、詩などを記して、後世に伝えた人々の碑が続く。

まず、「小栗山喜四郎」が斬首された六義民の一人。
杉原夷山」は明治31年、この「小栗山喜四郎」の義民伝を書いて、世に紹介した。古書画家としても有名。
翆園」は本名を馬場滋雄。檜枝岐村出身。地域の医療に貢献し、この「南山御蔵入騒動」を戯曲化した。
土井晩翠」は昭和16年に田島を訪れ、南山義民の話を聞いて感動し、「義民の詩」を書いて残した。
そして最後、「南山義民之碑」が、百姓一揆の指導者として死罪獄門となった義民六名を後世に伝え、讃えた碑文。

まだ田島の周辺を走ってる頃かな?

騒動は、元々ただでさえ収穫の多くない土地に、年貢の割合が年々厳しくなり、享保5年(1720)、翌6年(1721)から金納(米作が出来ない場合でも、米以外の作物を金に替えて納税できた)を減らし、米納とするよう強制され、困窮した農民が密かに集会した結果、800余の農民が夜通し焚火して田島陣屋を取り囲み、代官に訴状を掲げ出た事から始まる。

代官は、手続き不備(名主の奥印を入れ、郷頭を通して出す決まり)を理由に却下。群集を退去させる。
これにより、逆に手続次第では受理される事が村々に伝わり(基本的に直訴はご法度)、農民たちはさらに訴状を出した。
これも、代官の権限を越えた、幕府の決定事項という理由で却下された。

農民らは村々から15名の代表を出し(後から18名加わり、33名になった)、江戸での結束を取り決めて、血盟の上、代表らは漁師や樵・炭焼きに身をやつし、番所を避けるため雪山を越えて、江戸に直訴の旅に出た。残った者たちは代表あてに、江戸への送金をした。

121号線だね。まだ福島県だとは思うけど

苦労の果て、江戸に到着すると、各々相談を練り、13ヶ条にまとめた訴状を、勘定奉行の水野邸に出す。
直訴はご法度なので拒否されると思っていたのが、意外と受理され、事情聴取・審理・取り調べと段が進んだ。
その中で、農民らは郷頭の不正を訴えていたので、勘定所は郷頭・山内を江戸に呼び寄せた。

幕府勘定所は、山田代官に取り調べを命じたが、前に訴訟を封印された経験から、農民はこれを拒否して退席。
勘定所の役人・坂本は、農民らに希望を持たせるように柔和に接しつつ、幕府存立の根幹に関わる要求を訴状から削る一方、農民と郷頭の対立が原因であるかのように仕立てて行く。


県境あたりかな。「道の駅」とか、県越えると上三依とか辺り

地図H←県境を栃木側に越えた辺りにポイントを置いてあるが、かなり縮小版(1/20万。通常は1/5万ぐらい)。
上三依から左折(東進)すると、前の年に行った塩原温泉に行ける(^。^)。
今回は塩原方面には曲がらず、さらに南下して五十里湖も越え、川治まで行く。

郷頭側は自分らの有利を感じ取り、「一揆はわずか5名の名主が主導してるに過ぎず、他は表面的に同意しているだけだ」と、勘定所に告発した。

郷頭に帰国許可が出されたと知ると、農民代表らは動揺し、当時設けられたばかりの「目安箱」に、郷頭の帰国差し止めを求める追訴状を投函してしまう。
が、係争中の事件を目安箱に投函するのはご法度で、これは農民らに不利に働いた可能性がある。


(たぶん)栃木県に入って、上三依あたりじゃないかな(^^)

さらに、幕府の勘定所が国元の取り調べも始めると知り、代表らは、取り調べ内容に食い違いが起きないようにと、仲間の一人を密かに国元に帰し、これが田島の代官役人に知られ、田島の旅籠で逮捕されてしまう。
これが先ほど、丸山歴史公園に墓のあった「小栗山喜四郎」である。
幕府は、こうした口裏合わせを封じるため、江戸の代表らが逃亡せぬよう、彼らに手錠をかけて宿に留めた。

国元の田島でも、会津藩士200人が陣屋を警固する中、江戸の代表らが本当に領内すべての農民から委任を受けたのか、2ヶ月に渡り、全戸への取り調べが始められた。
領民らは威圧に恐怖を覚え、強制されて資金を出したとか、村八分が怖かったなど、積極的な参加でなかったという申し立てが続出。

江戸の代表者たちは、それまでにも江戸の生活に慣れず、病死者1名、病床者も続出していた上に、一揆扇動の罪を着せられ、牢に投獄。過酷な牢獄生活に倒れ、8人が牢死した。


ガラスに携帯の画面が映ってる(笑)
五十里湖を最後に写真終了

享保7年(1722)、判決により、一揆の扇動者として5名が、田畑家財没収の上、打ち首獄門を申し渡され、当日牢内で処刑された。
国元で逮捕された1名(小栗山喜四郎)も同罪により処刑。他に処罰者300余名に及んだ。

しかし要求した中の幾つかは受け入れられ、六義民として敬われ、土地に長く語り継がれ、讃えられている。


農民の要求
幕府役人の介入
事件後の幕府の決定
年貢の引き下げ ←減らさないよう手を廻す
(敗訴)
江戸廻米の中止 ←削除したが→ 農民の要求通り、廃止となった(勝訴)
米納の強制を撤廃、金納に戻す
農民の要求通り、金納を認める(勝訴)
新雑税の廃止
一部だが要求通り廃止(一部勝訴)
郷頭制の廃止
(敗訴)

以上が、「南山御蔵入騒動」である。

長沼氏は平安時代に起こり、鎌倉幕府の御家人時代を経て、戦国末期まで家・領土を存続しながら、江戸期を直前に相伝の領主としては土地から絶えた。
残された土地に寄せた過酷な負担を解決するため、直訴に及んで死刑される義民の話である。

……この物語は、同じく平安〜戦国の千葉氏の滅びた土地で、その遺臣とも言われる、同じく江戸期の義民・佐倉惣五郎(佐倉宗吾・木内惣五郎)と重なる所があり、少なからぬ思い入れを感じた。

以上、関連事項は、
2005年11月<うなぎロード(印旛沼〜宗吾街道)>内
2006年11月<宗吾霊堂、1>内
2006年12月<宗吾霊堂、2>内
2011年6(5)月<1日目・塩原温泉から川治温泉へ>内、および、<川治温泉〜五十里湖〜湯西川>
2011年6月A<湯西川〜五十里湖〜県境〜南会津(糸沢)>内




<川治〜野門、土砂崩れに遭遇(爆)>

五十里湖を越える直前、川治を右折、やっと121号線を離れて、今度は23号線をエンエン西に進む。

ちなみに前の年は、五十里湖を渡ってる途中、もう少し手前で右折し、湯西川の平家落人村へ直進した。
つまりは、前の年に行った湯西川より、やや南の、やはり同じように西に奥まった地域を目指している。

地図I←まずは121号線を川治で右折、23号線に入った地点。
この23号線が……去年の湯西川から想像がついたんだが、かなりの山道で(^_^;)、途中何度も「土砂崩れ注意」の標識を見て、ちょっとビビッたものの、途中までは前後に車がまだ居た。

居なくなったな〜と思った頃、前方の地面が……土砂で塞がれてる(・・;)。。。
暗がりながら行き先の風景が、積まれた土砂によって、やや視界が遮られるほどの高さがあり、しかもドバ〜ッと辺り一面に広がっている(汗)。

「ど、ど、ど、どうする……」
「い、い、い、行くっきゃない!\(>o<)/」
無理やり進むと、タイヤ下の土砂の一部が道路脇から谷底(か知らんが)に、ズズーと滑り落ちる音を感じながら、勢いで乗り越えるのである(滝汗)。(次回、翌日の写真を出そう(^_^;))

地図J←次は23号線から左折、 拡大して貰うと曲がり角が出て来るが(^^ゞ、「野門橋」と「野門トンネル」の間に左折路がある。

この左折路が……今度はプール状態である( ̄□ ̄;)。。。
これはいかにもヤバそうなので、無理して曲がらず、トンネルに避難して(そこもだいぶ水たまりだったが)、宿に電話すると……、
「ああ、あそこは大した水にはならないから、大丈夫(^^)v。曲がって来て下さい」との返事。

そ、そ〜か〜? 仕方ないから曲がって、水の中を行く。( ̄▽ ̄;)。。
行き切ると、車はモォモォと水煙を吹き上げながら進むが、やがて……大小のデカイ岩がゴロゴロ転がる一帯に出会う。 *ゲームですか(^_^A)*

進んだが……タイヤの裏に一個ハマッた気配で、ガリガリ凄い音が出るだけで、前に進めない。
亭主が豪雨の中に出て、ビショ濡れで周囲を片づけたり、はまった岩をどけようと頑張ったが、どうにも動かない\(^O^;;)/<オワタ

「車体に穴が空くかも(>_<)」と危惧し、また宿に連絡して聞くと、もうそう遠くない所まで来てるんじゃないか、という事だったので、この際、何とか来てくれるよう頼みに頼んだ。

「スマホに替えて良かったね。前の携帯だったら、絶対に圏外だよね」
せめて、こんな事を言い合って気慰めをする一方、実は待つ間、さりげなく恐怖の時間(笑)。
「こうやってる間にデカイ岩が落ちて来て……万事休す(^^;)」
暗いながらも、何やら落ちて来る音が聞こえたり……(汗)。。ヤバイですよ!!

やはりおみくじの験は当たった(笑)! 恐るべし平将門!(爆)→(2012年1月<御茶ノ水(神田明神まで)>内

20〜30分も待ったかな……やがて車一台来てくれ、
「もうちょっとバックすると、排水溝の凹みがあるんで、下がってみては」とアドバイスを頂く。

「おお(^^)! そうだったのか!」
何しろ真っ暗な上、豪雨で前も後ろも全く見えない(^_^;)。
ましてやホンノリ程度の凹みなど、遠近感も殆ど無いから、このアドバイスは凄く助かった!!!やっぱ地の利は強い!

この辺りは、前日に頂いた「八咫烏の御守」の効能だろうか!(爆)→(2012年3月<熊野神社・長床>内

問題は車が動かない事だったが、それでも待ってる間に、木の枝とか(土砂崩れし放題で、その辺にボンボコ落ちまくって、散らばってる状態ですよ(^^;))で車の下の土砂を取り除いたりしたせいか、ガーガーゴリゴリ物凄い音を立てながらも、それでも車がバックしてくれて、言われた通りの場で、ボコンとか音がして、岩が……ハズれた(≧▽≦)。。

「やったー☆ミ」
「良かった〜!( ^O^)人(^O^ )」
大喜びで、相変わらずモォモォ煙を吹き上げながら、宿の車の後をついて行くと、ナントそこからわずか数分の距離だった。なんだ〜(笑)。

以上、関連事項は、
2012年1月<御茶ノ水(神田明神まで)>内

2012年3月<熊野神社・長床>内




<3泊目・野門温泉「家康の里」、平家落人料理(^O^)>

↑なぜ「家康の……」なのかは、次回に廻させて貰う(笑)。

まずは、ようやく3日目の宿に到着(^_^A)。地図K←詳しくは拡大を。
宿では女将さん(車で来てくれた方の奥さん)が、わざわざ豪雨の中を出迎えてくれ、中に入った。

「車、大丈夫だったかな。故障してないかな」
「宿に着いたら見て見よう」
なんて言ってたんだが、さらに強まる暴風雨の中を宿に入ると……もう二度と外に出る気がしなかった(-_-;)。。

先にお風呂を使わせて頂き、夕食に指定された部屋に行くと……、

おおおっ!夢にまで見た超憧れの光景!
ばんだい餅」と「岩魚の塩焼き

↑そして、これを受け取った時は、ホントに思わず「おおおお!」と声が出た(笑)。
山椒魚だと聞いたけど、この姿! 今スグ忍者ごっこか、籠城ごっこをしたくなる雰囲気満点!(何を言いたいのか、よくワカラン:笑)

味は……( ^,_^)‡<カリカリ……うん、干し魚系の味&噛み心地。塩辛くて香ばしい。

囲炉裏端の定番、岩魚の串焼きは、モチロン美味しかったよ(≧▽≦)!
ばんだい餅は、前年の湯西川の平家の里でも、メニューにあるのを何度か見て「食べてみたい〜(^q^)」と思ってた食べ物!

ここは、他の宿泊客と一緒に囲炉裏を囲んで、料理を味わう旅館なんだけど、この日は台風で、他のお客が早めに引き上げて来たから、早めに夕飯にしてしまったそうだ。

ウチらも、途中でアノ事故が無ければ、チェックイン時間として届けた時刻より、一時間以上は早く着く感じに車を走らせて来たんだけどね(^^ゞ。

こういう料理だから、二度手間になってしまったのは申し訳なかったけど、「温め返し気味で、ちょっと味が落ちたかも?」と言われた割に、凄〜く美味しかったσ(^Q^)
やっぱり囲炉裏の前に、こう座って食べる味だから、格別なんだと思う。


宿のパンフレットには「みそべら」とあるけどμ(。。)m、素材はソーセージだと聞いた。
竹べらに詰めて、直火でコンガリ焦げ目をつけ、「アツアツ( ^,3^)〆」と食べるんだわ〜♪
でも熱くて美味しくて、あっという間に食べちゃって、味を今イチ覚えてない(爆)。お腹すいてたのかな(笑)。

食べ進む内、誰も来なくなって、「貸し切りジャン(^^)」とさらに美味しく食べてたら、「ごめんなさ〜い!」と女将さんが入って来て、少し慌てておられるご様子(゚.゚)。
何でもお子さんが帰って来れなくなっちゃった、と連絡が入ったんだとか( ̄□ ̄;)。。

何日も雨が降って、すっかり地盤が緩んで、上からはドンドン土砂が降り、翌日通ったら、道路にデカイ穴が空いてたから、道路の下の土も抜け落ちてしまってた(*o*)。。(次回、翌日の写真を出そう(^_^;))
もちろんお迎えの車を出して、そのうち無事に帰られたんだけど、車を途中に乗り捨てて、迎えの車で帰って来たというから、ウチらみたいに怖い思いしながら待ってたのかも。。

ようやく宿の方も「この台風、ただごとじゃない!」と改めてビックリされてた。。
確かに私らが電話した時、「何騒いでるのかな?」って感じだったから、この辺では珍しくない?と思ったんだけど、「こんなこと初めて!」と、この時に聞かされた(^_^;)。。

ただ、さっき車から電話した時から、「電話したんですよ〜。台風大丈夫?って」とは仰ってて(携帯じゃなく家の番号だったから繋がらなかったけど(^_^;))、ニュースとかは見てたようだけど、それは私らも車の中で、ネットから見てはいたもんね〜。。
この頃の自然災害は想定できない、コワイねーという話をしながら、お食事は進んだ(爆)。

←そしてこれが御膳(^^)。鍋は猪肉だった。あとは木の子山菜。写真にちょっと波が入っちゃったけど(^_^;)。
↑そして、一番楽しみにしてたかな!どぶろく(^O^)!塩気とコクと香りが濃厚で、すんごい美味!肴ナシでエンエン呑んでられた(笑)

↑波が入ってるのは、写真のモード切り替えしそびれてて、明暗が変に映ったまま気付かなかったから(^_^;)。どうも事故の後、まだちょっと気が動転してたんだなぁ(笑)。
災難がありながらも、食事は次々と運んで下さって、有難く美味しく食べた(^^)v。

実は震災の直後、GW前にキャンセルが相次いで、倒産など経営に大打撃を受けたと聞いたのは、主に日光と湯西川で、前の年に行ったばかりだったから尚さら気がかりで、旅行に行けるとしたら、ぜひ湯西川に泊まろう!と当初は思っていた。

ところが、イザ宿泊の予約を入れようとしたら……湯西川で狙ってた旅館が、予約満杯になってて(TOT)。。
或いは、その日たまたま休館か判らないけど(その前後は開いてた)、「何しろ儲かってるようで、良かったね(^^)」と諦められるかと言うと……自分はそういう人間じゃないの!!!(笑)

一度食べたいと思った料理は、絶対に諦められないの!

そこで見付けたのが、ここなわけ(^^)。湯西川と同じく平家落人料理をやるエリアのようだ。
来て良かったー>( ^O^)/∀☆∀\(^O^ )<カンパ〜イ

鹿肉の冷凍刺身、特別タレで(^^)
青竹酒。サンカ酒という奴だね(^^)→

こたつが鹿肉を初めて食べたのは、東京のアイヌ料理のお店で!
それはステーキだったんだけど、メッチャ美味いんで、以来なにかというと「鹿肉が食いたい」と言うようになった。

刺身肉は初めてだったけど……美味かった(≧▽≦)!
鹿肉は牛に匹敵する味&噛み心地で、しかも牛より脂ぎってないから、牛は好きだけど、あの脂っこいのがどうも……という人にも最適!

北海道だったか、鹿が農地を荒らして大変という話があった時、「そういう鹿はさぁ、食っちまえばイイのに( ̄▽ ̄)」と言った事が何度かある(爆)。

そして、青竹酒!これが又、こたつの長年の憧れで、これは味より雰囲気なんだろうけど(笑)、こういう酒の飲める所となると、電車で行ける場所にはなかなか無いし、となると車で行くのだから、宿泊するしかないので、毎年の宿泊の候補にあがりながら、なかなか味わえなかったのよね(TOT)。。
なので……嗚呼。今宵は感涙でございます(TOT)。。やはり若竹の笹のような風味がホンノリ混ざって、美味しかったよー!

最後にお蕎麦も出して貰った。
食った〜(^O^)!飲んだ〜(笑)ウィ〜!

温泉は家庭風呂の雰囲気(^_^A)→

この辺りは川俣温泉の領域で紹介されるけど、湯元は違うというような話だったね。イイお風呂だったよ(^_^A)

そうそう、この地域はさっき話した「日光山縁起」の領域の北側に当たる(^^)。さっきは陸奥の話だったけど、次回(下)からいよいよ舞台を日光に移す!

以上、関連事項は、
2011年4月<妙雲寺>内以降
2011年5月<「平家落人民俗資料館」「平家集落」>以降




<4日目の朝を(ナントカ)迎える(笑)>

風呂に入る前だったか、寝る前だったか……お風呂は交代で、前の人が出るのを待ってた時だった気がする。
いきなりピーピー「揺れ来る(^。^)」が部屋じゅう鳴り響いて、実はまだコレ導入したばかりで(^_^;)、あまり鳴った経験が多くないから、ちょっと慌てたんだけど、震度5弱だったな〜。今見ると茨城県のがそうかな μ(。。)m<検索

そうそう、この夜、食事から部屋に戻ってテレビつけた時も……2度ビックリ(・・;)。。
都内では台風のため、帰宅難民が続出したと……食事広間でもチラとは見たけど、夜深まってからの方が、深刻さが追い付いた報道になってた気が……。

そこに都心から遠くない茨城で、震度5が起きたので、テレビもかなり切迫したムードになっていた。
全体的に「こんなに?!」と思う事の多い1日で、報道も何も追い付かない感じもした。。

「この分だと明日、途中のどっか不通とかいう話になってないかな(^_^;)?」
「ここは大丈夫かな? 外が真っ暗で周囲よく見えないけど(^_^;)」
「でも囲炉裏端料理、美味しかったね」←おい
「温泉いい湯加減だったし」←お前ら。。

そもそも、車が故障してるかもしれないから、道路が不通でも車が故障でも、明日はここに車を置いて、タクシーと鉄道で帰り、車は後で配送というような話も出た。(その後そういう車輛保険に追加加入した:爆)

心配しながらも、夜も更けて眠り、翌朝となる。
おおお!晴れてる!宿泊宿→

出掛けられるのかどうか全く予測がつかないながら、この通り、大荒れ天気は鎮まった気配。
おはようございます(^。^)。



……さあ!次回は、いよいよ最終回!(まで行けるかな(^_^;))

4日目は野門の「栗山東照宮神社」、東進・南下して、鬼怒川あたりで昼食&インターバルの後、この日はド〜ンと宇都宮に出て、「栃木県立博物館」「宇都宮・二荒山神社」を見てる内に日暮れとなり、「宇都宮城址」も何とか見て、最後は埼玉の日帰り温泉(^^)。

以上、関連事項は(↑に上げて来たのまとめて(^^ゞ)、
2005年4月<中禅寺湖>内
2005年11月<うなぎロード(印旛沼〜宗吾街道)>内
2006年11月<宗吾霊堂、1>内
2006年12月<宗吾霊堂、2>内
2007年3月<会津松平氏庭園「御薬園」>内
2009年1月<対面石と対面堂>内
2009年2月<立石寺(山寺)、仁王門〜三院〜三堂>内
2010年4月<厳美渓温泉で最終泊、3日目夜〜4日目朝♪>内以降
2011年4月<妙雲寺>内以降
2011年5月<「平家落人民俗資料館」「平家集落」>以降
2011年6(5)月<1日目・塩原温泉から川治温泉へ>内、および、<川治温泉〜五十里湖〜湯西川>
2011年6月A<湯西川〜五十里湖〜県境〜南会津(糸沢)>内以降
2012年1月<御茶ノ水(神田明神まで)>内
2012年3月<熊野神社・長床>内
2012年4月<柳津の門前町>内以降


<つづく>

2012年05月25日
 
     






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