<2004年・城主のたわごと6月>




2002年8月の奥多摩・八王子方面のレポ。

まずは1日目、数馬、檜原(ひのはら)。2日目の武蔵五日市の旅行記から。



     
  2002年8月は、2日かけて奥多摩方面に旅行した。
東京の武蔵五日市からバスで1時間ほどで、山梨県境の数馬という場がある。この五日市から数馬までのルート上が範囲の一つ。ここには一泊した。
もう一つのエリアは八王子で、目的は八王子城巡り。これは2日目に廻した。

1日目のエリアは1985年から二年続けて何度か出掛け、夫婦とも渓流や緑の多さを気に入っていた。
2001年に車を買ってから、私達夫婦は前に行った事のあるあちこちに車で廻るのを楽しみにしていて、この旅行もその一つと言える。

発端は確か、東京の八王子の松姫にちなんだ史跡の話が出て、私が「前に行った所に武田の落人村があり、菊姫が祀られていた」という話を……これは当時あちこちの掲示板に書いた覚えがあるが(笑)、何しろそんな話から始まった。
他にも伊達政宗の弟がいたと伝わる寺があったり(むろん伝承の域だが:笑)、史跡としては北条氏の支城と思われる城山が点在してる地域でもあり、その内の二つか三つぐらい前も登った覚えがある。



<数馬、三頭山荘「山菜小皿料理」と「菊姫弁財天」>

↑別々の場所のようだが(笑)、正しくは「数馬>三頭山荘>菊姫弁財天」である。
武蔵五日市からバスだと1時間ほどで数馬に到着。
この数馬にある旅館が「三頭山荘」(下の写真)。そしてこの旅館の敷地内に「菊姫弁財天」が祀られている。
ここで、この日の同行、梵天丸さま、梵天丸亭主さま、じーや様、うーろん様と落ち合う。

この地域特有の兜造りの屋根
←左が本館。同じ敷地に土産屋→他に別館もある。
隣のお土産屋さん↓

ただ前はこうした鉄の造りではなく、全て藁葺き屋根だったような覚えが……(違うかな?)。

本館の玄関
入ると、タバコの箱紙や千代紙で作られた、涼しげな傘が。

内部は大広間風のお食事処(写真の手前左手に玄関)。

三頭山荘」:http://www.h2.dion.ne.jp/%7Emitou/index.html(2012/08/10リンク貼り替え)
別に宣伝ではなくて(笑)、トップページでオバサンが手に持っているのが、ここの名物「山菜小皿料理」でこの日これを昼食に食ったのだが、残念ながら撮った写真が残ってないので(^_^;)↓
名物山菜小皿料理」:http://www.h2.dion.ne.jp/~mitou/3.htm(2012/08/10リンク貼り替え)
こうしたもので、ズラッと並んだこの小皿は、実際に見るとなかなかに圧巻。私は12小皿、亭主は22小皿定食を各々頼んだ。
また、季節やその年によって、山菜の種類も変わるという豊富さだから、たまに季節をズラして昼食を取るのも楽しみだったり(笑)。

食後は屋根裏部屋の展示物を見学♪
ちなみにこたつ城主は和風建築の「屋根裏部屋」が大好き!
足元の隙間から階下が透けて見えて、キャアキャア恐がりながら陳列された民具を見る。

屋根裏部屋のこたつ亭主(笑)
屋根裏の窓から見える別館と「菊姫弁財天」。

展示には、「兜造り」と言われる屋根について、以下の説明があった。

「三頭山荘は兜造りであります。大破風、妻切り、せがい、をその特徴とします。大破風は兜の前立の威厳、妻切は兜の眉ひさし、セガイは内兜の固めに似るからです。
茅葦は釘金具を用いません。藤蔓縄を用います。
家の内部は田の字造り、大黒柱、小黒柱、根太の格天井、三階四階の用途、凡て養蚕の必要に応じたものです。
陳列民具は皆、当家過去の使用品であります。破れ、疲れた痕に生活の香を御酌取り下さい。
品物には手を触れないで、見るだけに願います」

階下に下り、外に出て「菊姫弁財天」にお参り〜☆ミ

菊姫弁財天
菊姫を偲ぶ水車、そして井戸

「菊姫弁財天由来
菊姫弁財天は、武田勝頼の弟、高遠城主、仁科五郎信盛の女、菊姫を祭る。
天正10年(1582)3月11日、勝頼が天目山の田野で亡びた時、菊姫は信玄六女松姫などと共に武州恩方を目指し、小金沢山から西原、笛吹、数馬と落ちて、風張峠に●った峠下の岩小屋で野宿した折、病を得て、従士、石黒金之丞に付添われて岡部家に来り養生したが、その年9月16日、病重って落命した。
父は高遠城で討死し、母には遠く別れ、旅の空に一人淋しく水車にめぐる水の音に涙しながら、姫を哀れと岡部家と金之丞とは残された手鏡を御神体として社を建て、生前弁財天の再来と云われた美しき姫を偲んで、菊姫弁財天と名付け、9月16日の命日にその祭をし来った。
其後、金之丞は望まれて岡部家を継ぎ、子孫今日に至るもので、岡部家の先祖も甲州の落人で早くからこの地に土着して居たものである」

えっと、松姫などと並び称され、上杉景勝の正室となって上杉家に余生を送った、いわゆる「菊姫」とは違いますね(笑)。
信玄の孫娘とか武田家にゆかりのある女性なのかとか、その辺りは一切不明(^_^;)。

上の写真にもあったお土産屋さんで買い物がてら、売り場のオバサンとちょっとお喋りした所、この地域は徳川時代は反骨を貫いた時期も長くあった、というお話だった。

あと、この翌日に秋篠宮ご夫妻がおいでになられる、との事でしたね(爆)。
言われてみれば、こちらで過ごされてるご夫妻の写真とか飾ってあった。



<檜原(ひのはら)城跡「十三仏巡り」と吉祥寺>

五日市から数馬のちょうど中間に、この檜原(ひのはら)城がある。バスで来ると五日市からも数馬からも、ちょうど30分ぐらい。バス停は「檜原(ひのはら)」。

先に説明版の記述から。↓

「檜原城跡(東京都指定史跡)
所在地:西多摩郡檜原村5576番地ほか
指定: 平成3年3月8日

檜原城の築城・城主などについては不明の所が多いが、少なくとも戦国期の後北条氏時代後半に戦略上の理由からこの地に築かれ、利用されてきたものと考えられる。
天正18年(1590)、豊臣・徳川両軍の関東侵攻の折には、後北条氏の支城として機能していたが、同年7月12日両軍に攻められ落城。以後、廃城となる。
城跡は主郭を中心に南北に伸びる尾根を階段状に削平した小規模な郭からなり、郭は細い土橋で接続され、南に延びる尾根には数本の堅堀が設けられ、敵からの攻撃を受けにくくするような工夫が施されている。
都内に現存する中世城郭のうち、戦国初期の構造をよく残しており、歴史的・学術的にみて価値は高い。

東京都教育委員会」

ここも1985年ごろに来た所で、当時はこの辺りの北条氏の城跡めぐりになぜか燃えてて(笑)、あちこちの山に登っては大はしゃぎしてたが、ハッキリと場所を覚えているのはココだけ(^^ゞ。

当時の説明版には詳細な氏族名(平山氏)や近くの支城(戸倉山)など記されていて、一生懸命メモを取ったりしたものだが、今そうした記述が無い所を見ると、冒頭の「不明」を調査する必要でも出て来たのだろうか。検索するとこれらについて触れているサイトもあるが、不明とする所もあるので、上記のみにとどめる。

ここが特に面白い理由は、以下のとおり「十三仏巡り」があるからで、下から1、2、3と仏像があり、頂上に上り詰めて13番。わりと面白い散策コースになってる。

1・不動明王
2・釈迦如来
3・文殊菩薩

ここまではわりとなだらかな坂で、あと虫除けスプレーを取って来たいとかいう話になって、かなりこの辺りで止まってたから余裕で喋ってたが、この後だんだん登り道がキツくなる。

4・普賢菩薩
5・地蔵菩薩
6・弥勒菩薩

ちなみに、私はこの「5・地蔵菩薩」サンの顔立ちが気に入っている。
この辺りまではわりとニコニコと登って来られるが、この先からはお地蔵さんの守備範囲を超えるせいか(笑)、そろそろ息が切れて来る。前来た時も、ここから先は少ししんどかったが、道は昔の方が遥かになだらかだった。

前は、斜面を三往復で登るように作られてた山道が、今は二往復ていどか、下手すると直線で縦に登らせる箇所もあった気がする(汗)。
「散策」というよりは、もはや「登山」(笑)。途中で休む分、かえって昔より歩行時間が延びる。
7・薬師如来
8・観世音菩薩
9・勢至菩薩

「8・観世音菩薩」の写真にある「吉祥観音」の「吉祥」は、下山後たちよったお寺の名。
この辺りからドンドン息が切れ、人からも遅れ、言葉も少なめになる(笑)。

10・阿弥陀如来
11・阿閃如来
12・大日如来

まだ若かりし頃(千年ぐらい前ですかね)、ここを訪れた私は、この11番「阿閃如来」サンを初めて見て「知らんぞ」と思った。

アルファベットを見るだけで卒倒する「大の英語嫌い」だったから、頼れるのは「菩薩の慈悲」だけだったのかもしれないが(笑)、何しろ高校も大学も仏教関係な上、母方も寺だったから、質問できる相手は周囲に事欠かなかった。

が、「菩薩の慈悲」には限りがあるのか、誰もこの質問に答えてくれず、仕方なく最後は母に聞いた。特に実家とは関係なく、単に個人の好みで寺巡りの好きな母は、何か持ってる本からいろいろ教えてくれたが、それも又、そんなに私を満足させる答ではなかった。

で、この頃は仕方ないからネットで検索して調べてみたんだが、さすがはネット(笑)。
満足できる答と言うよりは、「納得できる回答」を出してくれた。
どうも十三仏の「数合わせ」に必要だったようだ(爆)。
中には「薬師如来と同一」といった、そりゃあアータ、七福神の寿老人と福禄寿みたいなモンですかね(^^ゞ、といった答もあった。

しかしそれにしても「鏡に写る」といわれるからか、それともお金があれば仏像を作るはずだったのか、この「阿閃如来」だけ平面なのは気になる(^^;)。
特に、この後ゼェゼェ言いながら、さらに急峻な坂道を上り詰めてようやく出会う「12・大日如来」サンのキンピカな事っ(^^;;)。比較するとちょっと気の毒な気も〜〜〜(笑)。

さて、そうこうする内にやっと頂上の「13・虚空蔵菩薩」→。
全てお参りも城廻も完了して、下山(^^)。



この山の下には菩提寺「吉祥寺」がある(下)。
「8・観世音菩薩」に「吉祥観音」という字が入ってる通り、この寺の名を冠しているのだろう。

前は真っ赤な屋根のお寺で、気軽に入って十三仏巡りのチラシなど貰ったものだが、今は説明版にもあった通り、1991年に都の指定を受けたようで、それと関係あるのかすごく立派なお寺に建て変わっていた。
が、よく見ると昔と同じように「三鱗」の紋が……。

↑吉祥寺(側面)。

←山から下りきって撮影。

拡大「三鱗」の紋。→

これも鐘楼の隣にある蔵だが、ご覧の通りクッキリと「三鱗」が……。→

ここは北条氏の支城との事だが、菩提寺と言っていい位置に構えたこの寺が、北条氏の紋を立てているのを初めて見た時(1985年)は、あまり東京では見掛けないのもあって、何となく感動したのをよく覚えている。

お寺の縁起は知らないが、墓地には「天正元年4月29日歿、吉野對馬守橘(木ヘンではなく手ヘンだが、出せなかったので「橘」で代用)盛光」という墓があった。
同じお墓にはこの天正年間いがいに歴代の名は無く、続くのは昭和の方の名(最近のお墓)だったので、写真は出さない。
吉祥寺に入ってお墓の由来を訊ねてはみた。答は得られなかったが(あるいはすぐ答えられる内容ではないのかも?)、冷たく香ばしいお茶を出して下さって、みんな山登りで疲れていたからとても美味しく頂いた(^^)。

ちなみに、この十三仏にはそれぞれ干支が配されていて、前に五日市の土産屋で、「子年、丑年、寅年」と並んでいるお守りを買った覚えがある。裏返すとその干支に沿った十三仏のいずれかが描かれていた。
お喋りしていて気づかなかったが、このお寺でもこのお守りを置いていたかもしれない。



<夜〜♪>

宿に帰って一風呂浴び、夕食(^^)。
ちなみに先ほどの「三頭山荘」よりちょっと山を下りた民宿に宿をとった。これもむかし利用した古い農家風の宿で、まだ継続されてて嬉しかった。

山菜と川魚の山家料理っ♪

昔と違うのは、近くに公営風の温泉場が出来ていた点で、食後亭主と二人で行ってみたが、残念ながら終了時間が近いとの事で中には入れなかった。

が、 「三頭山荘」にも昔から温泉はあって、昔はこの辺りの湯を総称して「蛇の湯温泉」と言われてた覚えがある。
近くに「九頭龍神社」「九頭龍滝」などがある所から、龍や蛇にちなんだ名がついたのかもしれない。
地名も変わっていて、時々テレビでも紹介されるが、「人里」を「ヘンボリ」と読んだり、昔は他にも変わった地名を地図を出して教えて貰ったりしたものだ。

宿にはすぐ近くの渓流から、サワサワと水の音が聞こえて来て、とても涼やかな夜だった(^^)。



<朝〜♪>

いよいよ八王子城に行く日(^^)。

……ところがっ!
これは夜から心配していた事だったが、雨が降り止まない(汗)。。どうも台風が近付いてたようで……。
朝ご飯を食べながら「お昼までにやまないかな」と言ってたが、何かドンドン雨脚が強くなるだけという感じが……(^^;)。。

とりあえずこの日八王子で合流する人に電話連絡してみる。
前日まで上越の上杉謙信公祭りに行ってた人も居るし、こっちも寝不足ぎみだったりで、そして何より雨のおさまる頃合を見て、合流時間をやや遅めに設定。
合流時間まではあまり外を出歩くのは控えようか、という事になり、上杉播磨守さまに前に聞いた、卯の花入りドーナツを売ってる豆腐屋さんを訪れてみる。

が、残念ながらドーナツは午後にならないと出来ないらしく(TOT)、仕方なくおから入りクッキーなど一袋買って分けて食べる(笑)。



<武蔵五日市、大悲願寺、1>

午前中の時間がまだあるので、武蔵五日市に一度出て、伊達政宗の弟が住職をつとめたという伝承のある「大悲願寺」を訪れる。
この「政宗の弟説」の出所は、伊達政宗からの書状が寺内にある所に由来するのだろうな、と思う(^^ゞ。伊達家の系図にはもちろんその存在は書かれてない。

しかし最初にここを訪れた時、面白い事を言うと思ったのと、この手の話は時間が経つと自然消滅される恐れがあると(本能的に)思い、「作品の広場」→小説「嵐待つ」を書いた時(発案は1985年)に、丸々この設定をパクらせて貰っている。

←大悲願寺の山門。質実剛健な構えにして、すばらしく豪奢な建築。

城壁のような漆喰壁を右側に辿ると(長いので全ては写さなかった)季節柄、サルスベリの花に彩られて美しい裏門。↓

じゃ、寺内と政宗の書状については次回行こうか(笑)。

<つづく>

2004年06月23日
 
     




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