2002年8月は、2日かけて奥多摩方面に旅行した。 東京の武蔵五日市からバスで1時間ほどで、山梨県境の数馬という場がある。この五日市から数馬までのルート上が範囲の一つ。ここには一泊した。 もう一つのエリアは八王子で、目的は八王子城巡り。これは2日目に廻した。 1日目のエリアは1985年から二年続けて何度か出掛け、夫婦とも渓流や緑の多さを気に入っていた。 2001年に車を買ってから、私達夫婦は前に行った事のあるあちこちに車で廻るのを楽しみにしていて、この旅行もその一つと言える。 発端は確か、東京の八王子の松姫にちなんだ史跡の話が出て、私が「前に行った所に武田の落人村があり、菊姫が祀られていた」という話を……これは当時あちこちの掲示板に書いた覚えがあるが(笑)、何しろそんな話から始まった。 他にも伊達政宗の弟がいたと伝わる寺があったり(むろん伝承の域だが:笑)、史跡としては北条氏の支城と思われる城山が点在してる地域でもあり、その内の二つか三つぐらい前も登った覚えがある。 <数馬、三頭山荘「山菜小皿料理」と「菊姫弁財天」> ↑別々の場所のようだが(笑)、正しくは「数馬>三頭山荘>菊姫弁財天」である。 武蔵五日市からバスだと1時間ほどで数馬に到着。 この数馬にある旅館が「三頭山荘」(下の写真)。そしてこの旅館の敷地内に「菊姫弁財天」が祀られている。 ここで、この日の同行、梵天丸さま、梵天丸亭主さま、じーや様、うーろん様と落ち合う。
ただ前はこうした鉄の造りではなく、全て藁葺き屋根だったような覚えが……(違うかな?)。
内部は大広間風のお食事処(写真の手前左手に玄関)。
「三頭山荘」: 別に宣伝ではなくて(笑)、トップページでオバサンが手に持っているのが、ここの名物「山菜小皿料理」でこの日これを昼食に食ったのだが、残念ながら撮った写真が残ってないので(^_^;)↓ 「名物山菜小皿料理」: こうしたもので、ズラッと並んだこの小皿は、実際に見るとなかなかに圧巻。私は12小皿、亭主は22小皿定食を各々頼んだ。 また、季節やその年によって、山菜の種類も変わるという豊富さだから、たまに季節をズラして昼食を取るのも楽しみだったり(笑)。 食後は屋根裏部屋の展示物を見学♪ ちなみにこたつ城主は和風建築の「屋根裏部屋」が大好き! 足元の隙間から階下が透けて見えて、キャアキャア恐がりながら陳列された民具を見る。
展示には、「兜造り」と言われる屋根について、以下の説明があった。
階下に下り、外に出て「菊姫弁財天」にお参り〜☆ミ
えっと、松姫などと並び称され、上杉景勝の正室となって上杉家に余生を送った、いわゆる「菊姫」とは違いますね(笑)。 信玄の孫娘とか武田家にゆかりのある女性なのかとか、その辺りは一切不明(^_^;)。 上の写真にもあったお土産屋さんで買い物がてら、売り場のオバサンとちょっとお喋りした所、この地域は徳川時代は反骨を貫いた時期も長くあった、というお話だった。 あと、この翌日に秋篠宮ご夫妻がおいでになられる、との事でしたね(爆)。 言われてみれば、こちらで過ごされてるご夫妻の写真とか飾ってあった。 <檜原(ひのはら)城跡「十三仏巡り」と吉祥寺> 五日市から数馬のちょうど中間に、この檜原(ひのはら)城がある。バスで来ると五日市からも数馬からも、ちょうど30分ぐらい。バス停は「檜原(ひのはら)」。 先に説明版の記述から。↓
ここも1985年ごろに来た所で、当時はこの辺りの北条氏の城跡めぐりになぜか燃えてて(笑)、あちこちの山に登っては大はしゃぎしてたが、ハッキリと場所を覚えているのはココだけ(^^ゞ。 当時の説明版には詳細な氏族名(平山氏)や近くの支城(戸倉山)など記されていて、一生懸命メモを取ったりしたものだが、今そうした記述が無い所を見ると、冒頭の「不明」を調査する必要でも出て来たのだろうか。検索するとこれらについて触れているサイトもあるが、不明とする所もあるので、上記のみにとどめる。 ここが特に面白い理由は、以下のとおり「十三仏巡り」があるからで、下から1、2、3と仏像があり、頂上に上り詰めて13番。わりと面白い散策コースになってる。
ここまではわりとなだらかな坂で、あと虫除けスプレーを取って来たいとかいう話になって、かなりこの辺りで止まってたから余裕で喋ってたが、この後だんだん登り道がキツくなる。
ちなみに、私はこの「5・地蔵菩薩」サンの顔立ちが気に入っている。 この辺りまではわりとニコニコと登って来られるが、この先からはお地蔵さんの守備範囲を超えるせいか(笑)、そろそろ息が切れて来る。前来た時も、ここから先は少ししんどかったが、道は昔の方が遥かになだらかだった。 前は、斜面を三往復で登るように作られてた山道が、今は二往復ていどか、下手すると直線で縦に登らせる箇所もあった気がする(汗)。 「散策」というよりは、もはや「登山」(笑)。途中で休む分、かえって昔より歩行時間が延びる。
「8・観世音菩薩」の写真にある「吉祥観音」の「吉祥」は、下山後たちよったお寺の名。 この辺りからドンドン息が切れ、人からも遅れ、言葉も少なめになる(笑)。
まだ若かりし頃(千年ぐらい前ですかね)、ここを訪れた私は、この11番「阿閃如来」サンを初めて見て「知らんぞ」と思った。 アルファベットを見るだけで卒倒する「大の英語嫌い」だったから、頼れるのは「菩薩の慈悲」だけだったのかもしれないが(笑)、何しろ高校も大学も仏教関係な上、母方も寺だったから、質問できる相手は周囲に事欠かなかった。 が、「菩薩の慈悲」には限りがあるのか、誰もこの質問に答えてくれず、仕方なく最後は母に聞いた。特に実家とは関係なく、単に個人の好みで寺巡りの好きな母は、何か持ってる本からいろいろ教えてくれたが、それも又、そんなに私を満足させる答ではなかった。 で、この頃は仕方ないからネットで検索して調べてみたんだが、さすがはネット(笑)。
この山の下には菩提寺「吉祥寺」がある(下)。 「8・観世音菩薩」に「吉祥観音」という字が入ってる通り、この寺の名を冠しているのだろう。 前は真っ赤な屋根のお寺で、気軽に入って十三仏巡りのチラシなど貰ったものだが、今は説明版にもあった通り、1991年に都の指定を受けたようで、それと関係あるのかすごく立派なお寺に建て変わっていた。 が、よく見ると昔と同じように「三鱗」の紋が……。
吉祥寺に入ってお墓の由来を訊ねてはみた。答は得られなかったが(あるいはすぐ答えられる内容ではないのかも?)、冷たく香ばしいお茶を出して下さって、みんな山登りで疲れていたからとても美味しく頂いた(^^)。 ちなみに、この十三仏にはそれぞれ干支が配されていて、前に五日市の土産屋で、「子年、丑年、寅年」と並んでいるお守りを買った覚えがある。裏返すとその干支に沿った十三仏のいずれかが描かれていた。 お喋りしていて気づかなかったが、このお寺でもこのお守りを置いていたかもしれない。 <夜〜♪> 宿に帰って一風呂浴び、夕食(^^)。 ちなみに先ほどの「三頭山荘」よりちょっと山を下りた民宿に宿をとった。これもむかし利用した古い農家風の宿で、まだ継続されてて嬉しかった。 山菜と川魚の山家料理っ♪
昔と違うのは、近くに公営風の温泉場が出来ていた点で、食後亭主と二人で行ってみたが、残念ながら終了時間が近いとの事で中には入れなかった。 が、 「三頭山荘」にも昔から温泉はあって、昔はこの辺りの湯を総称して「蛇の湯温泉」と言われてた覚えがある。 近くに「九頭龍神社」「九頭龍滝」などがある所から、龍や蛇にちなんだ名がついたのかもしれない。 地名も変わっていて、時々テレビでも紹介されるが、「人里」を「ヘンボリ」と読んだり、昔は他にも変わった地名を地図を出して教えて貰ったりしたものだ。 宿にはすぐ近くの渓流から、サワサワと水の音が聞こえて来て、とても涼やかな夜だった(^^)。 <朝〜♪> いよいよ八王子城に行く日(^^)。 ……ところがっ! これは夜から心配していた事だったが、雨が降り止まない(汗)。。どうも台風が近付いてたようで……。 朝ご飯を食べながら「お昼までにやまないかな」と言ってたが、何かドンドン雨脚が強くなるだけという感じが……(^^;)。。 とりあえずこの日八王子で合流する人に電話連絡してみる。 前日まで上越の上杉謙信公祭りに行ってた人も居るし、こっちも寝不足ぎみだったりで、そして何より雨のおさまる頃合を見て、合流時間をやや遅めに設定。
<武蔵五日市、大悲願寺、1> 午前中の時間がまだあるので、武蔵五日市に一度出て、伊達政宗の弟が住職をつとめたという伝承のある「大悲願寺」を訪れる。 この「政宗の弟説」の出所は、伊達政宗からの書状が寺内にある所に由来するのだろうな、と思う(^^ゞ。伊達家の系図にはもちろんその存在は書かれてない。 しかし最初にここを訪れた時、面白い事を言うと思ったのと、この手の話は時間が経つと自然消滅される恐れがあると(本能的に)思い、「作品の広場」→小説「嵐待つ」を書いた時(発案は1985年)に、丸々この設定をパクらせて貰っている。
じゃ、寺内と政宗の書状については次回行こうか(笑)。 <つづく> 2004年06月23日 |
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